黒い鳥

 〔黒い鳥〕101126


 繊細な星の煌きは、どこか夢の記憶を甦らせる。
昨夜、そうだ。夢を見た。
こういう今の場所ではなく、森林の中だったのだが、星座が同じだった。白鳥座が青白く光っては、少女が群青ビロードのワンピースに光らせる、上品なダイヤモンドのブローチかのようだったのだ。
だから、彼女はまた同じ様に夢想しようとした。
屋敷の情景は白い粒子の様に消えていき、キラキラと溶け込み、そして全てが夜になっていく。目を閉じると。白馬までもが三頭、右前から左向うへと優美に駆けて行く幻想。
充分イマジネーションで夜をクリスタルの流れのように遊び、そうして目を開くと、彼女の温かな黒髪のかかる肩に、そっと手を置かれた。
彼女は肩越しに手元を振り返り、そして再びドーム型の巨大な硝子天井を見上げた。
透明な空気は、二人の息遣いをどこまでも響かせる。静かにだが、時に崇高な鈴が鳴らされたかのように。
「聴いたわ。オーナーの事」
ここはコレクションハウスだった。陶器のコレクション会場になっている。
彼女はオーナーの決めた陶器コレクションのコンセプトに沿い、世界中から探し選出してくる人間だ。男はそのさいの陶器貸し出し許可や窯との契約を行なうパートナーだった。
「僕等の事が知られず捜査が済んだのは幸いだったな。オーナーも明日には解放されるらしいから。そう弁護士が言っていた。だが、監視がしばらくつくようで、大人しくしていないとな」
「そうね。これから三ヵ月後までのこのホールでのコレクションのために丁度出張に出るからいいけれど、二日間は気が抜けないわね」
「リラックスして行こう」
彼女は頷き、そして腹部を引き寄せられ彼の肩に後頭部を預けた。
白く光る瞼を閉ざし、そして艶の睫が開かれると、艶やかな夜色の瞳が現れ夜を見つめ、空間を見つめた。
奥は灰色の靄がこずんで思え、まだなんの装飾も無いがらんどうのホールは、静けさが占めていた。
時々、鈴の音が響く。
とても綺麗な音が……。

 男、ベルは屋敷にいた。
オーナーと夫人が留守の為に、秘書が預かるようにとオーナーから言われたとうのだ。
ベルは信頼されていて、屋敷内殆どの場所の詳細を知っている。確かに、入室出来ない完全プライベート空間もあるのだが。
陶器コレクションハウスのオーナーは、四十三歳の年齢で長身。品と高潔な風雅のある方だ。
だが奥方と来ると、三十五歳。白猫を女にしたような小悪魔で、いつでも自分をペットのように呼んで来た。
レースアイマスク。ルージュの下のほくろ。金の煙管。白ファーのトップスに、黒ロンググローブと黒革でヒップにも豊満な脚にもフィットして広がるスカート。網タイツとハイヒール。金髪はカールしていて、まるで二十代前半の甘い声だ。
あのオーナーとの馴れ初めさえ不明だった。
彼女は黒い巨大なブードルを二匹飼っていて、首に金を巻いている。しかも、カットを元の水泳用に首、頬、肘、膝、胴、尻尾付け根を刈り上げさせているのでは無い。一匹はまん丸だった。一匹はカールも引き伸ばさせてさらさらストレートだった。
なので、一匹は犬と気付かず巨大な黒のスツールと思って坐ったら大体は黒いボールにその細い臀部を蹴りつけられたオーナーを見て来たし、もう一匹は全く犬種が違って思えた。黒い絨毯かと思って艶やかな黒毛を踏まれた犬がオーナーに吠え、彼は目許を神経質にさせては背筋を伸ばし、新聞をとじ脚を解くと他のソファーセットへ歩いて行った。
今も、目の前にその二匹がいた。
完全に旦那様は夫人のいない時期は二匹を男に預けていた。男は犬を犬以外には間違えないからだ。
今も、黒いボールは水を飲んでいた。サラサラの方は石床の上に腹を上に転がっている。
女が来ると、一度辺りを見回し、誰も他に居ないと分かると進んだ。
「エレム」
彼女を抱き寄せ、女エレムも瞳を閉じた。
「さっき、恐ろしい部屋をみつけたの。戸締りのつもりだったんだけれど、奥様の趣味なのね……。旦那様かしら……。分からないわ」
「部屋?」
彼女の横顔はそちらをみている。
怪訝に思い、彼は進んだ。

 黒い甲冑がある。
石に囲まれた空間だ。中央に同じ石の角張った台。
壁には、馬用の甲冑頭部がこちらを向き掛けられ、背当てはタペストリーのように。クサビのチェーンは鉄格子に掛けられ鎖で吊るされている。
槍が古い布をつけかけられ、逆手の真鍮は鈍く光っていた。
「キャ!」
背後をザッと振り返り、女の肩を引き寄せた。
「これ、」
エレムの引き上げた冑のアイカバーを再び上げた。
一瞬ベルは驚き、言った。
「鳥の剥製だ」
「……そうみたい」
鴉の剥製のアイマスクが、冑下のマネキン目許にはつけられていたのだ。
どう見回しても、夫人の趣味では無い男性的なものがある。
シャンデリアは鉄で、左右に鉤がつき、鎖は壁にまとめかけられていた。二本。
遊びの空気も、血生臭さも無い。
マネキンを見た。男だ。蝋で固まり、黒髪は波打ち、髭を口上に蓄えている。リアルに思えた。アイマスクの艶のせいだろう。
「何をして……?」
咄嗟に、秘書の声がした間口を見た。
秘書が進み、掴んで来て後じさると、秘書の鋭い目を間近で見た。
「あなたをオーナーが信頼しているのは、余計な事はしないからだ。この女の過ちをかばう事は無い」
ベルは目を固く閉じ俯き首を振り、目を開いて言った。
「特別で大事な場所だったのなら、この場所の事は言わない。別に、何の異常性も見受けられないじゃないか。落ち着いた方が良い」
秘書は男と女をここから遠ざけさせ、彼等は出て行った。

 秘書リトは、まさか死体を見破られたんじゃないだろうなと、出て行った二人の足音が完全に聞こえなくなった所で扉を閉ざし鍵をかけた。
明りを松明だけにする。そうすると、石の表面がぼこぼことして更に浮き上がり、暖色の緋色に揺らされ、灰色の中に揺れ、そして大範囲を闇に落とさせる。
鈍い金属が妖しく光り、そして三脚の支える真鍮皿の上に炎を映した。
秘書リトは微笑し、奥様のいらっしゃらない中をベストの背に緋色が揺れる。
不在の彼女。それでも存在が揺れる。垂れ幕をタッセルで引き上げ、現れた。天井から手足をコンパクトに曲げ込まれた吊るされる陶器製のマリオネットが。陶器の顔は奥様であり、縄で吊るされている。
死体の収まる甲冑を、台の上に乗せさせ運ぶと、シャンデリア鉤から操り人形を吊るした。
甲冑を全て鉄台の上に置いていき、金縁で黒い長衣の死体が出て来る。
その死体の肩に止められる杭に、操り人形の縄を掛けた。そしてその死体も吊る下がった。不気味に、現実的に。操り人形に吊るされているかのように。
死体は、リトが元々仕えていた男だった。だがリトは強行的な覇者、この死体だった男を蝋で固めた。
そして、新しくこの屋敷オーナーの弁護士になると、蝋人形を地下へ持ち寄った。
そうする事は簡単だった。あのイカレた奥方がそれを容易にしたからだ。
滑稽に操り人形は仲間を吊る下げる。
それを眺め見上げ、青年は恍惚と笑んだ。

 陶器コレクションハウスオーナーの屋敷。
ベルとエレムは、秘書の青年が地下から上がって来た為に其々のプードルの毛を撫でながら、見ていた。
ソファーに座り、秘書は歩いてはリビングを出て行く。
彼等は顔を見合わせ、プードルを連れて歩いて行った。
秘書は意識が飛んででもいるのか、何も言う事も、こちらを見る事も一切無いどころか、目が怪しかった。
地下の方ヘは行かずに追う。
廊下の窓の外は夜で、この辺りの屋敷群はバッセス・バッサの郊外、海側の為にとても静かだ。元々、オーナーは逆側の郊外に屋敷を構えていた。だがあの夫人と結婚すると、彼女が海での遊びをすぐにしたいからと、こちらの郊外の屋敷を一棟用意した。
明るい夜は初夏特有の色味で、それなのに、この時期のためのまどろみか、秘書は鮮明な影を明るい月影の中を伸ばし進んで行く。
手には、何か持っている事に気付いた。黒のプードルをずっと横に見ていると、ある種の黒にはそうは敏感では無くなる。
鴉だ。
「あのアイマスクよ」
「そのようだな」
秘書は角で曲がり、立ち止まると追って来た二人の手首を掴んだ。
「!」
二人は息を飲み、睨んで来る秘書を睨み見た。冷静に。
しばらく沈黙が続き、二匹の巨大なブードルは月明かりと窓枠影の中をいた。光る星は遥か高みになり始めている。
星座は、黄道帯であって、そのままそれが太陽系銀河の渦になっている。その円盤銀河の中に、地球も、金星も、海王星も、冥王星も、白鳥座、毒蜘蛛星雲、薔薇星雲……それらが渦巻いている。
今も、秘書の光る瞳がそれら細かい星の一つに巡る銀河の星一欠けらかのように、妖しく、鋭く艶を発していた。
「オーナーと奥方の不在中は、大人しくしてもらう。屋敷の留守を預かるぐらいならば、私が残るのみで良いんですよ」
「………」
ベルは視線をそらし、鴉のアイマスクを見下ろした。
「地下で何を?」
「二人揃って言えない事を抱えておきながら、私には聞くと」
二人は驚き秘書を睨み、秘書は微笑みもせずに、瞳の中の光が硝子質の様に透明になっていく様を見ていた。
「私は邪魔されるわけにはいかない」
「何をしているの? あなた、異常な雰囲気だったわ」
「さあ。ただの美術鑑賞だ」
リン……
二人は秘書から夜の群青に染めあがる廊下を見て、再び鈴の様な音が響いた為に視線を合わせた。
だが、秘書には聞こえないものだ。
「………。分かりました」
次第に、徐々に鈴音は大きくなって行く。日に日に。
プードルはフワフワの先から突き出る細い鼻先で大きな欠伸をし、目が細くなってプルプル震え、口を閉ざし伏せ目になると、それを見ていた横のストレートの方も、顔を前に戻しキュアアと言いながら大きく欠伸をしてサラサラの尻尾までピンとさせた。それを伏せ目で見ていたボールプードルも欠伸を繰り返し、目が完全に毛の中で閉ざされた。二匹は目を閉じながら引き返して行った。
あの二匹を任されるために二人はいる。今はひとまず戻らなければ。
振り返ると、秘書は消えていた。
二人は顔を見合わせ、闇の奥を見た。

 「ねえ。あの秘書は始末しないと」
「そうだな。コレクションハウス地下までの掘り込みも徐々に近づいているんだ」
硬質の土を掘り進めて行くツルの当る音は、甲高い音を立てる。
夜闇に包まれるコレクションハウスには特に響いた。
まるでロマンティックな情景と合う様に思える音だが、あのハウス地下に隠される陶器の中に閉じ込められた母の遺体を盗むまで。
ハウスを離れても、あの地下に取り付けた機械からイヤホンに音が響く。母の遺体を取り戻せるまでの実現への音だ。クリスタルの鈴の様に、女には聞こえる。
かつての美声を震わせ歌っていた舞台での母を思い出す。富豪に見初められ、大事にされ、死後は陶器に収められ、そしてあのオーナーがオークションで購入し、そしてハウス地下に秘密裏で収めさせ、毎夜彼は美しい処理を施された遺体を見つめ微笑んだ。
その時だけ、オーナーは静かなあの整う顔立ちで、微笑む。
オークションハウスにいた十二歳時の娘は、ずっと垂れ幕の向うから睨むように見ていた。ビロードを小さな手で掴み、貴族の称号なんかで愛人だった母の遺体をその本妻は他の貴族に売り飛ばす怒り。母を愛した男さえ、その舞台の上、美しく完成したものを横に、誇らしげな顔で他貴族達を見ていたものだ。
素敵な若い紳士が、最後の札を上げた。
その瞬間、娘の中で何かが崩れた。あの静かな美しい目元。無情にスッと、上げられる手腕。閉ざされた唇。その彼が、後の他の個室で売約書にサインをし、そして貴族二人の眼に視線を上げては、反らし羽ペンを置いた。
そして、運ばれる手立てを言い、その場所を伝え、貴公子はその契約の個室を去って行った。
その頃、既に屋敷で使用人にされていた十二歳の娘は、悔しくて群青色のドレスの裾をみぎり締めた。その胸部には、いつでも冬生まれの母が愛した星座のブローチが煌き、まるでクリスタルの鈴が泣くかのような煌きを発した。
十年後、娘はこの国に来て、記憶の中にあり続けたコレクションハウスの住所と、そしてあの上品で優雅だった貴公子の顔を忘れる事も出来ずに、そして来た。
このコレクションハウスの受付として働き始め、そして徐々に感性や実力を買われ始めた。いつでも華麗なる絢爛な舞台美術や装置に囲まれ、美しい演じる者達に囲まれ、そして王族の崇高なる言葉をその耳に聞いて来ては、母の美声を聴きつづけ、そして彼等の愛情の紡がれる様を私的空間で見つめて来た彼女には、その場を演出するに相応しい美術観念が整っていた。徐々に、オーナーは彼女のふと提案し始める言葉の虜になり、そして八年で彼女は今のポストへと徐々に上がっていったのだ。
あの少女が既にもう三十歳。美しい大人の女性へと変わっていた。その中に、あの遺体の母の面影をオーナーが悟ることは無い。
オーナーは母の瞳の色を知らない。母の紡ぎ出す声を知らない。もしも、舞台で見ていたとしても、目の前の自分とは血のつながりなど思ってもいないだろう。
オークションハウスでは、二十五の年齢だったオーナーも今は、心苦しい事に素敵な風雅が増して行った。静かに後を追い、そしてついにはあの地下の場所を知り、そして彼の背を見た。
棺に手をかけ、陶器の蓋が横の精巧な細工の台に設置され、そして硝子の中の……。
美しい遺体を見ては、彼はあの微笑む事の無い冷静沈着な表情を、それは実に美しく微笑ませた。
硝子に添えられる美しい白いグローブの手指、続く長い手腕。バランス良く立つ長い脚。愛しそうに微笑む、あまりにも洗練された上品な微笑みに、あの時はただただ脚が震え、その場に崩れ座り、怒りというよりも、全く違う不可解な感情が駆け巡った。
あの静かな瞼。あの睫。薄い唇。頬。
あの瞳に、自分が危うく惹かれてしまう前に彼女は必死になって逃げた。
遺体の居場所を突き止めた彼女は付き合い始めた彼に、この事を話した。ベルははじめオーナーを裏切ることは出来ないと言った。そんなことをするなら警察に通報するとまで言われた。そこで始めてエレムは金切り声の様に泣き叫び、顔を真赤に怒らせ怒鳴った。怒りの全てや悲しみ、絶望やずっと耐えて来た物、悔しさが一気に血も滲むかのように吐き出された。
ベルは男達をつのり、そして地下を掘り進めはじめた。
「ここ一週間を目処と思っていたけれど、まさか夫人が問題を起こすなんてね」
「ああ。もう少しだというものを。この期間を過ぎれば海外に出なければならなくなる。今、あの秘書を押さえておかなければ掘り進めている地下通路を絶対に戻って来たオーナーに言うだろう。しかも、俺達が出た後に」
「どうすれば、ベル」
「エレム。今彼等に連絡を入れて、帰らせる」
「そうした方がいいわ」
ベルを強く抱きしめ、目を閉じた。

 外観は白いネオゴシック様式の陶器コレクションハウス。今現在は、朝陽を浴び白くキラキラと細やかに光っている。
オーナーを秘書、そしてベルとエレム二人も交えた社員が出迎えた。
刑事が横にはついていて、顔を見合わせる。
「しばらくつく事になった」
オーナーはそれだけを言うと、秘書は苦い顔を一瞬しては、笑顔で刑事を見た。苦い顔は白い陽射しの中にすぐに消えた。彼もあの地下をしられてはまずいのだ。二人は視線だけを合わせ、エントランスへ進んで行くオーナーの後を颯爽と進み、自動ドアが開かれ、黒石の段と進む。
リムジンは社員たちの背後で進んで行った。
長身のオーナーのスタイリッシュな影が、白い光が差す中を黒石に変え進んで行き、段にも伸びさしては、女はじっとその背を見ていた。やがて、黒の空間のエントランスへ進み、そしてその影と光の際の眩さに彼女は目を細め進み、影に入っては広いエントランス空間のオーナーを見た。
彼は一度振り返り、問題は無いかと空間をいつもの様に見回す。
黒いフロア。壁。そして機械的な三階構造の黒石の吹き抜けは、ワンフロアずつが硝子が嵌っている。その四角の空間を支える四隅の太く貫く白石の角柱はそれも艶掛かっている。フロア天井は銀の巨大なシャンデリアが掛かり、床には曼荼羅銀河のように映っていた。
嵐も吹けば回転して、形成される銀河になるように、受付だった時代の彼女にその時女二人に見せてくれた事があった。オーナーが。
轟々と風の吹く夜、その事でコレクションが中止され、灰色の硝子ドア向うは強風吹き荒れていた。
オーナーが自動ドアを開き、そして徐々にシャンデリアが揺れ傾ぎ始め、その時もう一人の受付は、「危ないですわ、オーナー」と肩を縮め口許を押さえ巨大な銀のシャンデリアを見上げた。
「おいで」とオーナーは二人の手を引き、そしてその真下中心につれて来た。
そうすると、二人の受付は目を輝かせあたりを見回し、そして、顔を満面に笑ませていた。
銀のシャンデリアが風により回転し、そして吹き抜けからの微かな白い光りを受けては闇の中を光ってそして、その一粒一粒の金属の白い煌きが黒石の空間に跳ね返って黒石に光り回転し、この場を大きな宇宙銀河の中心にした……。
その美しさが、それまではまるで黒い羽根を閉ざした巨大な幻の鳥が、今に暴挙の羽根を広げようと傾いでいた銀のシャンデリアを変え、女二人の心を虜にさせた。
エレムは目を閉じあの時見上げたオーナーの横顔にも、シャンデリアを見上げる銀の光が、そしてあの頬には銀の星が煌き流れて行く様を見上げ、再び心震えた事に罪悪を抱え、唇を噛み締め銀河に視線を落とした。
進んで行き、エレベータに乗り込む。
広いエレベータにオーナーと役員達以外に、今回は刑事も乗っていて、誰もが刑事を見た。
「くっしょん!!」
「………」
麻薬課の巡査で、年齢は三十も半ばぐらいだろうか。項をドンドン手の横で叩いている。
「ハンカチをどうぞ」
「ああ、どうも……」
抜けていそうな雰囲気は無いから気は抜けないが、伏せ気味の目はそれでも鋭く恐い。
秘書はオーナーに聞いた。
そこで扉が開き、進んで行く。これから会議で、二人がヨーロッパへ買いつけに向かう後のコレクションの会議だった。本来社の者以外は厳禁なのだが、今回は仕方が無い。
三ヵ月後のコレクションを控え、今は他のコレクションが違う階の会場で催されている。そして常時据え付けの一階会場は二年に一度毎にオーナー自身のコレクションを順々に並べていっている。今行なわれている会場は二階の会場だ。三ヵ月後は三階の会場を利用する。あのドーム天窓のある会場だ。
個人や窯のコレクションの貸し付けなどを行なう彼女が、どんなに毎回オーナーの意向を満足させるのかを分かっていた。母の遺体を見つめ続けて来たその水色の瞳。彼のコレクション空間であるこのハウスにいつづけ、その彼の仕草を見つづけてきた彼女には。
それでも、オーナーはいつでもコンセプトをあえて二つしか伝えない。
今回は、黒。金。それだけだ。そしてヨーロッパに二人は出張に向かう。
そこから、ヨーロッパの地に来て、何度か途方にくれて、そして全て自分で考える。それをベルも時々応援してくれる。そして契約を結んでくれるのだ。

 会議が終ると、エレムはサロンで息をつき、コーヒーを見つめていた。
華麗な陶器がキャビネットや、骨董台ショーウインドウの中、その上やボード上に飾られている。
彼女はその日もローテーブル上の陶器を手にとった。愛らしい兎だ。
「エレム」
驚き、クリスタルテーブルに兎を置きオーナーを見た。
彼は進むと、白に金刺繍で金透かし彫りが縁を囲うボリュームあるソファーから立ち上がろうとした彼女を「いいんだ」と座らせた。
あたりに忙しなく視線を巡らせたオーナーが、冷静なままの水色の瞳を彼女に落とした。腕に手をそっと当てたまま。だが、その手の熱さはブラウスを越えて分かっていた。
「刑事がいる内は、なにやらしているようだがやめておきなさい」
一気にエレムの手が引きつり、顔を強張らせて震えオーナーを見た。
「それを、何故、」
息が吸えなくなりはじめ、黒シルクブラウスの腕も、愛らしい顔下で揺れる大きな黒シルクのスカーフも震え、濡れ鴉色の釦が嵌る彼女の手首や、真っ白の手がカタカタと揺れた。
その手首を持ったオーナーは一度背後の扉を見ては、顔を向けた。彼女の黒髪に覆われる頬を包み、彼女は驚きその白いグローブの片手を見つめ、水色の瞳を見た。
「分かってはいたが、地下に置いておきたかった事は私の我侭なのかもしれない」
「………」
息が苦しくなり、赤いふっくらとした唇から溜息が漏れ、黒の睫を震わせた。
「秘書は屋敷で好きにさせているからその事を言えば、充分に秘密は護る男だ」
それだけを言い、オーナーが立ち上がった。
自分はその背に抱きついていた。腕を引き振り向かせ、見上げた。
「すぐ返して」
「………」
オーナーは顔を反らし絨毯を見つめ、エレムはまた言った。
「返して!!」
彼女の唇を指で覆い、エレムの声に刑事が即刻扉を開けた。
「問題無い」
そう言い、それでも刑事が入って来た為にエレムは俯き自己のハイヒールを睨んだ。
オーナーは歩いて行き、エレムは目許を押さえ座り、閉ざされた扉の音に、既に鈴の音は響かない。一次撤退したからだ。
知っていたのに、放っておいて、盗ませるつもりだったのだ。毎日あの地下で遺体を見つめながら、分かっていたのだ。彼は。エレムは息を継ぎ、目を開くと兎を見つめた。
涙が一粒流れ、そして今に帰って来ることを実感し、その涙が頬を優しく、滑り落ちた。

 彼女は考えつづけ、ベルは忙しなく動く彼女を目で追っていた。
「あと一日しか考える時間は無いわ」
「二十四時間も考えごとをしていたら、今にぶっ倒れてしまうぞ」
「これから一ヶ月間も考える事もできなくなるのよ。だって、何も仕様も無いのに考えたらどうにかなってしまうし、コレクションの事以外には考えられない期間ですもの」
一ヶ月間でコレクションをかき集め、そして帰って来たらコレクションに見合うコーディネートとセッティングが考慮され、会場に設置させ、そしてその為のデータと展示情報つくりを行い、そしてコレクションハウスの電子掲示板用の撮影、CM用撮影を残り一ヶ月で行い、そしてお客様が入る。
「何を考えあぐねて? 明日秘書に手を掛けようと?」
「違うわ。ベル、聞いてもらいたいの」
そう言い、坐るベルの手腕に手を掛けた。
「あの地下を廟として受け入れる事よ」
「………。そんな事を言ったら、ここまで彫り進めさせた彼等がどう言ってくるか分からないぞ。恐ろしい労力と時間を駆使して来て無かった事にしたいなんて」
「分かってるの。だから悩んでいるのよ。しかも、本当にあの秘書が黙るとも言えなくし、明後日はもう飛行機の中よ」
「話し合いが必要だ。そうだろう。出よう」
そう言い、彼等は部屋を出た。薄手のコートを来て、帽子を被り颯爽とベントレーに乗り込んだ。
革のシートに沈み、助手席の彼女は夜闇の心まで押し迫っている地下駐車場を進ませる風景を見ていた。銀の光が暗い中を差している。
思い出す、あの巨大な銀河の渦。
黒と銀明りの機能的な駐車場は、あの時の黒い羽を広げようとした鳥に思えた。
「大丈夫だ。事を荒立て無いように出来る筈だ」
「そうよね。そうよ」
「だが刑事の目がある」
「ええ……」
地下から上がり、走らせていく。
屋敷に到着し、あの秘書だった。促され進んで行く。
リビングに来ると、刑事が苺を食べていた。ミルクをゴホゴホ噴出し、二人はなんともつかずに見た。
進んでは、オーナーが坐るように促し、秘書に飲み物を持って来させる。
「お話に参りましたのは、以前申し上げました点で、大切に引き取って頂きたい事なんです」
彼女はそう言い、オーナーは静かに彼女の目を見たままだった。
「コレクションのお部屋にあたしも度々拝見の為に伺っても?」
刑事は首を傾げ、口を挟んだ。
「あんた、何か旦那にコレクション買われたのか」
「そのようなもので……数多くのコレクション所持があるでしょう?」
「まさか、その陶器だいれものだ器に麻薬でも仕込むんじゃないだろうな」
「とんでもない!」
女は怒り、刑事から顔を背けた。
「ああ、嫌われたなあ」
「刑事さん。妻の麻薬常用は、あくまでカジノオーナーの手からのみです」
「そのようだな」
冷たく刑事が鋭い横目でオーナーを見てから言った。
「またあんた等が下手こかないだけだ」
「ええ」
オーナーは落ち着き払った目許でエレムとベルを見た。
「出張に集中出来る様に、承諾したい。これからの事もあるので」
エレムは何度も頷き、視線を落とした。
「その事に関して、やはり受け渡しを快く思わない人たちもいたでしょう? その彼等にもしっかりした施しをしていただきたいの」
オーナーは相槌を打ち、口許から指を放すとアームに置き立ち上がった。
秘書が進んでコーヒーを出し、オーナーを見た。
「あの」
「君は部屋に戻っていなさい」
秘書は不服そうに口許を歪め、大人しく出て行った。その背を、女はずっと見ていた。
刑事は苺を食べている。
「そのコレクション拝見してもいいですか」
刑事がいきなりそう言い、立ち上がりオーナーの横に来た。
「………」

 秘書は驚き、顔を振り向かせて開かれたドアを見た。
「ここです」
咄嗟に秘書は甲冑を転がした。
激しい音を立てたものの、それでも扉は開かれた。
刑事が地下の扉を開け、秘書を見た。台の上の男の死体も。
それを見て秘書を見ると、続いた二人が悲鳴を上げ、オーナーは死体を見ると瞬きし、秘書を見た。
男の死体は目許にあの鴉が嵌められ、黒く長いウェーブ髪が台から垂れ、黒ビロードの長衣をぴったりと来て横たわっていた。そして、その上に陶器で出来た不気味なカラクリ人形がまるで四足の猫の様に死体を挟んでいる。
「誰だ。この男は……」
眉を潜め、オーナーは秘書を見た。
妻と秘書が戯れるいつもの部屋は放っておいていた場所だった。その時に、いつでも秘書はもう一人の陶器を出し、人に見立てていた異常性についても、妻が寝室でおかしそうに笑い言う話を聴く耳も持たずにレコード曲を聴いて来た。
「コレクションとはどれですか。あんた等、地下で何を」
「あの馬の甲冑セットです」
ベルがそう言った。女は驚きベルを見上げた。
妻陶器は、壁際角の赤ビロード垂れ幕が引きあがり、そこから、縄が弧を描いて鉄シャンデリアに掛けられ下がっていた。
「まさか、こんな人型陶器も、遺体の事も……」
秘書は歯を噛み締め睨み付け、ドンッと刑事を押して逃げて行った。
「待て!!」
即刻石の通路で捕らえられた。通信を渡し、このバッセス・バッサ警察が屋敷に来た。
秘書と男の遺体は連れて行かれ、そして屋敷中を調べられていった。
刑事と三人が残り、そして二匹の巨大な黒いプードルは大人数が去って行ったのでまたソファーに座って目を閉ざした。どちらにしろ、主人が帰ってこないのでプードルたちは暇だった。
「あの男の異常性に気付かなかったんですかあんたは」
地下に再び下り、見回した。
あの遺体の収まっていた甲冑は今は立てかけられ、馬用の甲冑は飾られ、ビロードの裏にもあの不気味な妻陶器はなくなり、どこか空気が正常化されていた。
「妻との不倫以外は」
石台に手をつきながらそう言い、刑事は呆れて目を回した。
「あんたは全く、妻の麻薬も、妻の不倫も、自分の部下との浮気も好きにやらせておいて」
単に興味が無いだけだった。
刑事はその女と男のコレクションだとかいう話の、確かにとても芸術的で趣向が凝らされ、美しくはあるものの、やはり馬用甲冑に他ならないものを観ると、眉を潜め二人を見た。
「これを?」
「意匠のあるものです。以前見た時から、オーナー様に譲っていただきたいと申し上げつづけていたんです。しかし、奥様が気に入って玩具にしている事も分かっていて、今回の事があって、奥様から玩具まで奪い取るのはどうかと」
「妙なものだな。一体全体、この馬の剥製と甲冑引き取ってどこに飾ろうとしてたやら」
「お分かりにならないんですねコレクションなさらない種類の方は! 室内に飾るんですよ。寒い地下でなく。幾らでも鑑賞方法はございます」
「はあはあ、それはどうもそんな金も無くて悪かったな」
刑事は口を歪め、手に溜めている苺を食べた。
屋敷中を調べ回っても麻薬も粉も出てこなかった。秘書の部屋のホルマリンの瓶が見つかったぐらいだ。
実際、夫人が甲冑に飛び乗ってはしゃぎ叫び笑っていたようで、首付け根部分の銀の部分が綺麗に磨り減りピカピカになっていた。
妻は甲冑の中の男の死体は知らなかった。秘書だけが、無人の中を、死体と妻陶器を出し観ては楽しんでいたのだ。
「これ、馬に着せていいですか」
刑事が興味が出て来て、今は解かれている鉄馬装を見回した。
「構わないが……」
オーナーがそう言い、頷いた。
馬の剥製に、壁に掛けられた馬用冑、背当てやクサビ。脚当てや胸部当て、帯や、首当てなど、鎧を装着させて行く。
「轡。手綱。差縄。頚総。胸懸。杏葉。腹帯。鐙。大なめ。八子。鈴。唐尾結。尾袋。しりがい。摂蝶。雲珠。鞍橋。鞍 力革。四緒手。角袋。面懸。銀面。そういった物は東洋の婚礼時にされる馬装で、立派でしょう?」
「綺麗ですねー。これは?」
「こっちはね、また別で、偉い人が乗る時のものです。胸部に厚総。お尻に辻総。それに尾を覆う尾狭。それらを繋げるしりがい。鞍背後の左右に鏡四緒手を下げて、鞍下に切付。その下に毛皮や絹織りで出来た厚手の障泥を装着させています」
「豪華だなー」
「ええ。今の装着したものは馬の頭部と首、背全体からクサビを懸けて、その上から馬用冑を被せて、背には胴を鉄札を繋ぎ合わせた物で覆い、首元には硬質の革札を当てます。脚には鉄の脛当も。全てに、これらは装飾用に職人が作ったものなので、精巧な銀細工や、胸に当てられた黒革も模様が捺されているでしょう? モデルは十五世紀スペインの戦時に借り出された馬達を描いた壮麗なる絵画から起したもので、資料館に収められている本物の馬鎧よりも絢爛に造られているの。溜息が出る程見事でしょう? これが草原を猛威を奮い駆けると思うと、その上の騎士はどんなに心情うっとりする事かしら。国や人と出なく、真情の美との戦いに向かうの。自己との闘いね」
興奮して話し出す女が言う事は、美術工芸を習い専門として仕事にしていれば誰でも得ている道具名称なので、やけに信憑性はあったが、十五世紀がどうの、スペインがどうの、絵画から起したがどうの、それら全てその場限りの思いついた事だった。実際、この馬鎧の過去など知らない。
なにやらどんどん全く聴いた事も無い様な内容まで出て来るので、オーナーは言わせておいていた。ベルは、咄嗟に振ったことでもやはり彼女が博識だったので、心中安心しておいた。
「凄いなー。この鞍」
「この鞍もとても精巧なものなの。坐る所に切付通穴があって、前の方に力革用の通穴。鞍橋の前輪に山形、側面が海。それを支える磯。鰐口を囲う洲浜。後輪は覆輪がついているの。どちらにも鞍爪と爪先がついて金属で覆われていて、ここの意匠も凝っているでしょう? 後輪、前輪の彫刻も」
自分の惚れ込んだ物を褒められ喜ぶ少女の様に説明し続けるエレムを、そろそろベルがコホンと咳をして止めさせた。
「他に気に入った輩が」
「彼等にはまた違う物を与える」
オーナーがそう言い、刑事は頷いた。興奮して頬が真赤のエレムは、息をついてベルの横に戻った。
「大切になさって下さい。その方が嬉しいので」
そう言いオーナーを見た。
実際、棺を返してもらいたいそれまでの十八年間の旨を言葉を変えて口が動いていたので、一種それはそれほどまでの馬鎧への熱い想いにさえ見えるほどだったのだが。
「ああ。もちろん」
オーナーが頷き、馬鎧の横に立ち鞍に手を当てた。
真赤に興奮する頬を熱く、オーナーの静かな瞼を見て、エレムはベルの背に手を当てた。
「今度はあの甲冑着て乗ってみたいなあ」
「あの。刑事さん。もう時間も時間ですので」
そう言い、刑事を連れて地下からあがっていった。
「いいじゃなーい。それで写真撮りたいなあ。剣とかリビングに飾ってあったよねー」
今日は警官も押し寄せてきたし、嫌になる様な死体事実も判明し、監視されつづけてほとほと疲れたので、どんどん刑事の背を押して歩いて行かせた。
「あたし達はそろそろ帰ります」
二人がそう言い、ホールを進んで行った。
刑事付きのオーナーが来ては、見送った。
最後に車に乗り込む前、夜と月明かりの中、顔を上げ女はオーナーに微笑んだ。
「………」
月光に美しい彼女が青白く照らされ、車両に乗り込み、星の煌く下を青年の運転で帰って行く。
「………」
刑事がオーナーの肘をこづいた。その下には黒いプードルがいた。
「まさか、あの綺麗で神秘的なお嬢に惚れて?」
目を伏せ気味にオーナーは刑事を見て、身を返し引き返して行った。扉をしめ、二匹の黒いスタンダード・プードルは石床を短く切られた爪を音も立てずにオーナーよりも早く押し退けて進んで行った。
オーナーはいつものことなので、長い脚でまたしっかりバランスを取り首を振って歩いて行った。
あの月光に照らされた美しい微笑み。
オペラ座で少年時代から憧れていた舞台女優が眼前に広がった一瞬だった。
地下の霊廟で微かに響き聞こえた硬質の土とツルの音はクリスタルの様で、そして、彼女が舞台上で歌い滑らせていた美声をも連想させ、木霊する中を、硝子の中の彼女を見つめている事が、至福だった。
そしてその先には時々、浮かんだ。鉄仮面の中の鳶色の熱い、生きた瞳が……。二度と、見詰め合うことも無いその高揚して行く瞳。

黒い鳥

黒い鳥

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-14

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