体温。

  無事に仕事が終わった。日付が変わってから少し経ち、ぎりぎり間に合った最終電車を降りる。
 街中は思いの外寒く、薄いコートははためいて鬱陶しいばかりだ。
 まるで蛾を誘うような煌々と照明を焚くコンビニに、足を惹かれ俺はふらふらとついて行った。
 意外と最近は美味しくなった冷凍食品と発泡酒を買う。残業代のせいで収入は倍に増えているはずなのに、安物ばっかり買うから貯蓄ばかりが増えてゆく。なんて財布に優しいんだろうな。味にまったく拘りがないのは、良いことだ。健康は、まぁ良くわからない。
 人っ子一人いない夜道を一人で帰る。なんて淋しい毎日だろう。そう、毎日だ。今日はしかも土曜日で、休日出勤で、残業で。救いは手当が着くだけという、マシと言えないマシだけだ。
 溜息が思わず出る。
 熱い風呂に浸かりたい。
 酒をかっ喰らって、布団に倒れ込みたい。
 コートの襟を立てて足早に家路を進めた。


 目が覚めた。
 カーテン越しの朝日はすっかりと高い。
 俺は身支度もそこそこにして家を出た。
 家の冷蔵庫は空っぽだ、開けなくたって分かる。いつも通り近くの喫茶店にふらりと飛び込み、苦いばかりのコーヒーを頼む。豆は良く分からないが、煙草がとても合う味だ。俺はノートPCを開いて、仕事のメールチェックだけは済ましておく。あとはまぁ、ブラウジングをしながらモーニングを味わう。
 店内に流れるBGMは、名前は分からないが心に染み入る心地よい曲調だ。ジャズだろうか。客はまだ俺を入れても2、3人しかいないようで、店員がコーヒーを淹れる音や豆を煎る音しか聞こえない。話し声も喧騒も聞こえない。とても静かで穏やかな時間だ。何も難しいことは考えない。今はコーヒーと煙草とBGMを楽しむ、それ以外は無粋なものだ。
 ブラウジングを進めていると、懐かしい題名を目にした。少し前に見た映画だ。
 俺はわざとらしく、どんな内容だったかなと、とぼけて自分を誤魔化した。だけれど本当は憶えていて、見るのも思い出すのも怖いだけ。それでも懐かしくて、見たくなって、帰りがけに遠回りをして、レンタルショップに寄り道でもしようかなと思ってしまった。散歩がてらにね。たまには運動みたいことをしないと、身体が腐ってしまいそうだから。
 そんな言い訳ばかりを重ねた。
 煙草を吹かし、コーヒーを飲み干して、荷物を片付ける。皿にちょっと残ってたサンドイッチを飲み下して席を立つ。店員にお金を渡して外に出た。
 モーニングのつもりが、太陽はすっかりと真上に登っていた。
 ランチタイムなのに、この店は大丈夫なのだろうか。
 余計なお世話を勝手に思いながら、遠回りな帰路を歩むことにする。


 昼下がり。
 俺は少し火照った身体で家に着いた。
 結構な距離を歩いてしまった。
 コンビニ袋には缶ビールとポップコーン。
 借りてきたDVDをセットしてプルタブを開ける。煙草に火を点ければもう完璧だ。映画館は煙草が吸えないところが残念だ。
 うん、数年前も同じ事を言っていた気がする。
 オープニングが終わって、ストーリーがゆっくりと回り始める。
 ある男の半生を綴る物語、だったかな。
 恋をして、愛を育んで、挫折して、片割れて、失う。
 座礁した船のような人生録だ。輝かしい思い出が現在と未来を陰らせる皮肉な物語。
 まるで。
 まるで自分を見ているような気分だ。
 これを当時観ていた俺は、何を思っていたのだろう。
 男を捨てた女。志半ばにしてリタイアした男。新しい友人。救いとなる存在。孤独、感動、慟哭、憎悪、友愛、情愛、愛情、幸福、不幸、堕落。
 俺は目まぐるしく変化する短いその一生を、羨んだのか、憐れんだのか。思い出せない。
 煙草の本数が風に吹かれるように減ってゆく。少し奮発して買った缶ビールは、しかし発泡酒と味に大差がない。俺は味とかそういうものに、とことん無頓着なんだなと、改めて思った。呼吸をするように紫煙を吸い込む。水を飲み干すようにしてビールを煽る。そういえば開けていなかったポップコーンをとりだして、口の中に放り込んだ。
 ただ、おとなしく鑑賞することが出来なかった。何かをしながらでないと、まともに見ることが出来ない。
 それは何故か。
 かつての相方が、とても懐かしいから。
 無理して思い出さないようにして。
 だけれど意識をするから、脳裏にうっすらと浮かび上がる。
 きっかけは何だっていいんだ。何をしていたって思い出すし、何があっても結局思い出す。
 それが毎日毎晩で、とても辛かった。
 これは、彼女と観た最後の映画。
 まさか、再び観るだなんて思いもしなかった。
 狂気の沙汰、だなんて言わないけれど。
 それでも正気を疑うくらいはしてしまう。
 だって、わざわざ自分から思い出すだなんて、どうかしている。
 もうだめだ。
 もうだめだ。
 もうだめだ。
 さめざめと涙が零れて。
 ふつふつと感情が沸き立ちはじめて。
 俺はもうだめになりそうだ。


 軽やかなメロディがなった。
 ケータイだ。画面を見れば、職場の後輩からである。
 俺はどうにか感情の波を抑え込んで着信を出る。


 「あ、もしもし。お疲れ様です、先輩。お休みのところ、申し訳ありません」
 「ああ、いいよ。休日出勤かい?お疲れ様。どうした?」
 「ちょっと急ぎでお聞きしたいことがありまして」
 「何かな?」
 「先輩、もしかして具合悪いですか?」


 どきりとした。
 声に出てしまっていただろうか。


 「いや、そんなことないけれど。なんでだい?」
 「だって、声が少し変ですもの。調子悪いんですか?」
 「いや、そんなことはないよ?」
 「そうですか、良かった」


 可愛らしい声で、安堵される。


 「今、季節の変わり目ですし、体調崩されたのかなって。声に元気もないし」
 「気のせいだよ、ははは」
 「昨日も確か遅くまで出勤でしたものね。先輩、頑張り過ぎですよ。後輩をもっと頼ってください」


 無邪気な優しさが染み込んでくる。


 「こうして休日に電話してくるようじゃあなぁ。まだまだ頼れないかなぁ」
 「本当は先輩の声が聞きたかっただけかもしれませんよ?」
 「恋人いるんだろ?あんまり歳上からかうなよ」
 「いないですよー。私、頼りがいのある歳上にしか興味ないんです。先輩くらいなら、私がぶら下がっても大丈夫ですかね?」


 人恋しい時に、なんてことを言うんだろう。


 「本気にしたくなるじゃあないか」
 「ええ、勿論良いですよ。先輩が私を頼ってくれるなら、ですけれどね。先輩一人に頑張らせるのは、嫌ですから」
 「本当か?なら、今頼っても良いかな?」
 「え、先輩どうしたんですか?」


 声が震えてくる。


 「ちょっと今、辛くてさ。支えてくれる何かが無いんだ」
 「先輩、泣いてます?」
 「ああ。頼りがいのある可愛い後輩が心配してくれるからさ。ちょっと負けそうなんだよ」
 「え?え?先輩どうしちゃったんですか?大丈夫ですか?」


 もう限界だ。
 我慢出来なくて、嗚咽が漏れてしまう。


 「大丈夫じゃあ、ないんだよ」
 「先輩、今から先輩の家に行きますから、待っててください」


 電話が一方的に切られる。
 俺は止まらない涙を何度も払うが、視界はすぐに滲んでしまう。
 鼻はつまり、すぐに呼吸は苦しくなる。息は横隔膜の痙攣で吸ったり吐いたりが出来なくて、何度も嘔吐いた。しゃくる度に体力は奪われて、意識が曖昧になる。何かにしがみつきたい衝動に襲われて、とにかく淋しくて堪らない。心が寒くて自分を抱いて小さく蹲る。
 長い時間が経つ。
 時計の針は見えなくて、どのくらい経ったのかわからない。
 ふと、握り締めていたケータイが鳴り響いた。
 無意識に着信に出る。


 「先輩、着きましたよ」


 インターホンが鳴った。
 俺は固まっていた身体をのろのろと持ち上げて、玄関に向かう。
 鍵を開ける。
 ドアがゆっくりと、外から開かれた。
 暖かい、夕陽に温められた空気が入り込む。
 血のように真っ赤な夕陽で、視界は染められた。
 全身が、温かいものに包まれる。


 「先輩、泣かないで。どうしたの?」


 全部話して。
 耳元で囁かれた。
 俺は温かいそれを抱き締める。
 ただ、幸福感に包まれた。

体温。

体温。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-14

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