マジック
我々に、驚きという娯楽を与えてくれる、マジックの世界。 しかし、その裏側に秘められた人間の野心と苦悩とは… 敏腕ジャーナリストが暴き出す、手品師たちの素顔。 タネもシカケもございません。
序章
佐々木宏が、有名プロデューサーとして、某大手テレビ局にいたことを知る者は、もう、いないだろう。
佐々木氏の人生は順風満帆であり、学業に秀でた頭脳と、温厚な人柄から、周囲に高く評価されてきた。
高校、大学と、メディア関係に進み、その才覚を学生時代から発揮して独自の映像ドラマの作品を脚本から編集まで手がけて完成に導き、その出来栄えは自分をプロの世界に売り込むのに申し分のないものであった。
彼にはまるで、無限の創造力とそれを実行に移すエネルギーとが兼ね備えられているかのようだった。そこに、更に人との恵まれた出会いが重なり、かれは26歳の時に結婚、一男一女を得た。
また、仕事の上でも、彼自身が自分を宣伝する必要がないほど、周囲から高い評価を得て、彼は一躍、その業界で新星のように輝いていた。
彼が得意としたのは、主にドキュメンタリーであった。
原作の人気に裏付けされた、いわば、保障のついた作品の映像化には目もくれなかった。自称芸能人という者を彼は信用せず、無名でも実力の伴った者を起用し、淡々とリアリティを追求していった。
彼の名を世に知らしめた「忘れらるる人々」のシリーズは、まさに、ドキュメンタリー部門において、空前絶後のヒットを打ち出した。
人気の若いタレントや、一過性のお笑い芸人の出演するドラマやバラエティに対抗して、最高視聴率をもぎ取ったのは、まさに、快挙であった。
彼の名前を知る者はいない、と言ったが、このシリーズを聞いたことがない者は、今でもいないであろう。
「忘れらるる人々」は、一時時代の寵児ともてはやされた者が、その後にいかなる運命を辿って消えて行ったか。それを追う番組である。「上り詰めたら、あとは落ちるだけ」というキャッチフレーズのもと、彼は時に残酷なまでに真実を切り開き、内部を庶民の目に晒した。
完璧に思われた彼の人格は、実はこの一点において、突出して周囲に嫌悪を抱かせることもあった。
「落ちるだけ」と、言うように、彼の番組で取り上げられる者たちは、芸能界やニュースの世界、スポーツ界から退いた後、悲惨な日々を送っていた。それは決して、本人が望んで世間に見せたい姿ではなかっただろう。けれど、佐々木はそれを敢えて、えぐり出した。
彼が目をつけた者には、一つの共通点があった。それは「身の破滅」である。
経済的にも追い詰められていたターゲットは、出演料という金銭の前に、かつてのプライドを捨てて、カメラの前に立った。
美人モデルが見るも無残な体型に崩れ果てた姿、ドラッグとの戦いの末に廃人と貸した野球選手、借金に喘ぐドル箱と呼ばれた芸人……
そう、佐々木は確かに、人が羨むような人生を歩んできたが、だからこそ、人が何を見たがるかを、知っていたのである。
「他人の不幸ほど、観衆を喜ばせるものはない。人をあざ笑って、自分がどれだけ下衆なのかを知り得ない、無知で醜い生き物だ」
あるレポーターが、シリーズの立役者である佐々木に「人間とは何だと思いますか?」と問いかけた時に、彼が無表情に答えた言葉である。
それはさすがに、番組監督の手によってカットされてしまったが、レポーターを始め、その場の者たちは凍りついたという。
人間として、その本質がどうあれ、売れる番組を放送の範囲内で作成してくれる限り、テレビ局は佐々木を重宝した。そして、彼の望む企画は次々とヒットを飛ばす名物番組へと成長し、気づけば若年にしてプロデューサーの地位を不動のものとしていたのである。
が、皮肉にも「上り詰め、あとは落ちるだけ」という彼の理念は、まさに、彼自身にも当てはまった。
佐々木の人生を変えたのは、海外ロケまで許された、資金潤沢な一本のドキュメンタリーであった。
ある時、テレビ局に対して、アメリカに住む日本人から、奇妙な内容の手紙が届けられた。それは、ある意味、佐々木に助けを求める嘆願書であったのかもしれない。
誤解のないように、その文面を要約すれば、次のようになる。
自分は、主婦で、夫の仕事で3年前から、アメリカのニューヨークで暮らしている。自分たちには、5歳になる娘がひとりいる。だが、どうも、娘の言動がおかしい。もしかしたら、何かに取り憑かれているのかもしれない。そちら様の番組は日本にいた時に何度も見せてもらったが、嘘偽りなく、真実を明らかにしている姿勢に感服している。どうか、この娘に何が起きているのか、真相を突き止めて欲しい。
そんなことは、警察か病院にでも相談すればいいだろう、と、佐々木は一報を聞いて思った。だが、すでに、四方に手を尽くしているが、まともに取り合ってくれないのだという。
それだけ、馬鹿げた話なのだ、と。
佐々木は直接この取材を上司から受けた時、瞬時に頭の中で図式を描いた。
そして、一分ほど、考えを巡らせてから、何かを確信したように、頷いた。
「お引き受けいたしましょう。すべて、真実を明らかにして、取り合わなかった警察や医者たちより先に、ご報告しますよ」
佐々木は手紙のコピーを受け取ると、チームを編成して番組制作の狼煙をあげた。
一 鹿島兄妹(1)
2年に一度行われる、マジシャン達の祭典、『マジシャン オブ ザ ファミリア』の予選大会は、恒例のラスベガスの一大イベントであった。
各国の地区予選を勝ち抜いてきた選りすぐりのマジシャン50組による、夢の祭典である。いや、正確に表現するのならば、この大会は、実の所、二次予選なのである。ここに於いて上位十組が選出され、本大会が行われるのであるが、本大会の鑑賞券はごく一部の限られた者たちにのみ、与えられ、実際に民衆が目にすることはない。
その一部、というのも、大会主催組織であるマジシャンズギルド20によって極秘裏に招待され、開催日時も場所も秘密の中で行われていた。
世間には、予選大会が、本大会であるように宣伝されているだけで、真実が明かされることはなかった。
そこまで隠蔽されていた事実を、彼が知り得たのは、彼の取材への執念と、偶然が招いた幸運であった。
ラスベガスでも有数のサントマエラ劇場には、大会を見物しようと、高価な入場券を買い求めた富裕層たちが押し寄せていた。
サントマエラのエントランスには、明らかに人生を娯楽に費やす余裕に溢れた身なりの人々がひしめき、開場の時までの間を、振舞われたシャンパンや立食を手に過ごしていた。
そんな中、佐々木はくたびれたスーツとすり減った靴で、隅に陣取り、行きかい談笑する人々を監視するかのように、見守っていた。
裏のオークションで、多額の現金と引き換えに手に入れたこのチャンスを逃しては、彼の人生の破滅であった。
すでに、彼に帰るべき職場はなく、妻とは三年前に離婚し、子供の養育費を払うだけの稼ぎもないまま、借金を繰り返して取り立てに追われ、それでも、最後の希望につなげるために、ここまでたどり着いたのである。
その面影には、かつて敏腕プロデューサーとして称えられ、不自由ない暮らしをしていた彼の威厳は微塵もなかった。
今はただ、人生で最後の賭けになるであろう、この大会に、全力で向かうだけだ。
とは言え、佐々木はマジックへの興味で冥土の土産に物見遊山でこんな所へ来た訳ではない。
彼の視線は、人々の間を縫いながら、一人の人物を探そうとこらされていた。
人物の名は、メアリー・ステファン。今は22歳になっているはずの、アメリカ人女性である。まさに、彼の人生を転落させた元凶であり、彼女の秘密を暴かずして、この世を去るなど、佐々木には考えられないことであった。
先日、メアリーから彼に当てた、短い手紙が送られてきた。その中に、この大会の全容と、もし、まだ、調べるつもりがあるのなら、何を犠牲にしてでも、乗り込むしかない旨が記されていた。
メアリーが現在この場所に来ているか、それはわからない。だが、もし、接触できるのだとしたら、少しでも話をしたい。手紙以上の情報が得られるのなら、それを聞かずにいられようか。
だが、彼の見張り時間は、開場のベルが遮ってしまった。
佐々木は小さく舌打ちして、手に握りしめたしわくちゃのチケットが示す座席へと向かった。
手品になど、興味はない。
彼が探しているものは、それ以上のものであった。
会場内は三千名を収容し、三階席までが満杯の賑わいを見せている。
最後まで待たされた彼を含む客、つまり、チケットの中でも特に優遇されなかった客たちが三階席の隅に座ると、間も無く、開演のベルが響いた。
絹張の座席は座り心地はよかったが、ステージまでは遠く、さらに照明効果を狙って、場内は薄暗かった。
佐々木は使い古した肩掛けカバンからオペラグラスを取り出すと、ステージに向け、ピントを合わせた。そして、そのまま動かなかった。
壁や天井の豪華なガラス細工の照明が落とされ、ステージ上にスポットライトが二筋、差し込んだ。
その中央に白いタキシード姿の初老の男がしずしずと歩み行った。
どうやら、司会役らしい。彼の背後には緞帳が降りたままで、その向こうには一組目のマジシャンが控えているのであろう。
司会者は一通り月並みな挨拶をしてから、こう、述べた。
「さぁ、これから皆さんにご覧いただく妙技には、タネもシカケもございません」
それが、この大会の謳い文句であったためか、観客たちは深々と礼をする男に、拍手喝采を浴びせた。
「あって、たまるか」
小さく、佐々木は呟いた。
スポットが消え、静かに緞帳が上がると、青白い光がステージを照らし、黒いラフな服装の男が現れた。観客から歓声が上がる。彼は世界的に名の知れたマジシャンで、日本でも話題になったことがある。
佐々木はフッとオペラグラスを下げた。そして、事前に渡されていたパンフレットを辿った。
「あいつは、インチキだ」
佐々木の悪態は日本語で、しかも小声であったから、側に座る他の観客の耳には届きはしなかった。
佐々木は赤色のペンを取り出すと、プログラムの一番上、まさに今、ステージ上にいる男の名前を横線で消した。
それからまた、オペラグラスを目に当て、念のために、という程度の興味のない表情でパフォーマンスを見守った。
参加者50組の情報は、佐々木の頭の中に事前に叩き込まれていた。いや、この大会の参加者だけではない。世界各地の有名なマジシャンについての詳細な知識を、彼はすっかり飲み込んでいたのである。もともと、ずば抜けた記憶力を持った彼は、わずか数年のうちに、マジシャンというマジシャン、トリックというトリックを、知識として蓄えていたのである。
残念ながら、彼はそれを披露できるほど、手先が器用ではなかったが、ほとんどのマジックを見破るだけの情報と、それを見抜く洞察力は兼ね備えていた。
次々と、マジシャンたちが、プログラムにそって技を披露し、その度に観客は沸いた。
空中浮遊、物質移動、カード当て、コインマジック、時には舞台上に炎を上げて盛り上げる者もいた。あらゆる脱出、消えては現れる物質、飛び出してくるハト……
そして、それに従って、佐々木のプログラムの名前は徐々に横線で埋まっていく。線を引く度に、舌打ちする回数が増えていく。
佐々木の目には、マジシャンたちのトリックが全て、見通せたのである。
彼は、自分が見抜けるマジックを行った者たちを消していたのだ。
ふと、彼の手が止まった。
次の出演者は、唯一の日本人である。しかし、彼らは日本では無名で、佐々木もまた、彼らについては多くの情報を得られなかった。
「ネクスト! エリ・カシマ!」
初老の司会者がステージの袖で叫んだ。
と、和楽器による音楽が会場中に響いた。
観客は期待を込めて大きな拍手を贈った。
「さて」
佐々木は初めて、興味を浮かべた顔で、ステージを覗いた。
「見せてもらおうか」
ステージ上の中幕が左右に開き、そこから十二単を着た、まだ、少女とも呼べるような小柄な日本人女性が滑るように中央へ歩み出た。
その後ろから、もう一人、袴姿の若者が颯爽とつき従い、彼女の横に片膝をついてかしこまる。
艶やかな日本の衣装だけでも、観客たちは歓喜して満面の笑顔だ。
が、佐々木だけは、背筋が凍りついた。
あの、十二単がどれだけの重量で、身動きを封じているか、日本人の彼にならば、想像にた安かった。
「あんな物を着て、何ができるんだ?」
佐々木は素早く彼女の装束を確認した。襟元はきつく締められ、袂も観客に向けているために、何かを隠しておけるようには思われない。さらに、帯や帯上げ、帯締めに至るまで、細工をすればすぐに崩れてばれてしまうだろう。
唯一何かを隠し持てるとすれば、髪の中だが、彼女はその長髪を高く結い上げ、スッキリと耳を露わにしている。
また、男の方も同様の髪で、彼女の手の届くところには何一つ、渡せる物はないようであった。
彼女、その名を鹿島絵里といったが、彼女は佐々木にとって、この大会のまさに目的であった。
彼女の技を見るために、彼はその私財の全てを投げ打ったと言って良い。
瞬きを忘れて、佐々木はその娘を凝視した。
一 鹿島兄妹(2)
絵里は可憐な微笑を浮かべ、観衆を見回した。それから、両腕を前に伸ばして広げ、小さく礼をした。
「Welcome! Our show! I'm Eri, and this is my big brother, Yuuki. My assistant for evening」
ガラスの風鈴のような、か細く柔らかな声だった。
佐々木は必死に、二人についての限られた予習内容を思い出していた。
鹿島兄妹は自動車事故で両親を亡くし、親戚の家で育てられた。兄は理数学に長け、大学院まで卒業したにもかかわらず、就職もせずに世間に惜しまれつつ、マジシャンの絵里のアシスタントになった。絵里の方は体が弱かったため、中学卒業後に高校進学を諦め、自宅療養を経て、兄の卒業に合わせてマジックの世界に入った。
奇妙なのは、絵里のマジシャンとしての経験が一年にも満たないということだ。よほどの才能の持ち主でなければ、こんな大舞台に登りつめることもなく、また、知名度という点ではあまりに貧弱である。
「何かある」
佐々木は祈る思いで舞台の二人を見つめ続けた。
絵里は差し出した手首をくるりと回した。何も持っていないことを明らかにしたのだ。着物のたもとから、彼女の指先まで、怪しいところは何も見当たらなかった。
と、観客がそれを確認したことを確かめて、彼女はもう一度、同じように手首を回した。すると今度は、その両手に舞踏用の大きな扇が一本ずつ、握られていた。長さは30センチを下らないだろう。どこから取り出したのか、舞台間近の客にも見当がつかない素早さだった。
彼女は拍手の中、両手を軽く振って、扇を開いた。パッと、艶やかな文様の描かれた扇が客の目を引きつけた。濃紺の地に銀色で美しく牡丹が描かれ、さらに閉じられていた時には気づかなかった、色とりどりの文紐が両端に床に届かんばかりに垂れている。
「ほう」
我知らず、佐々木はため息を漏らした。その口元には自然と笑みが浮かんでいる。
和楽器の音が更に大きくなり、それに合わせて、絵里は右手の扇を回転させながら真上へ放り投げた。と、頂点まで確かに扇であったはずなのだが、まるで、絡んでいた紐がほどけるように、するすると空中を滑って、幅のある、たすき紐へと変わり、それを絵里は〈右手の扇の面で〉受け止めた。
一瞬、会場が凍りついた。絵里の手には、三本目となるはずの扇が、しっかりと握られていたのである。先ほどと同様の色合いの、見た目にも派手な扇が。
間を置いて、拍手が起きた。
いかにして扇が紐へと変わったのか、そして、観客の目が空中に放られた扇に向いていたとはいえ、いかにして絵里の右手に新たな扇が開かれ、その面を水平に構えたのか。
多くの観客が空中の扇を見ている時、佐々木は絵里の手元から目を離さなかった。
マジックの種を見破る基本はこれである。決して、マジシャンの手元から、視線を動かさないこと。しかし、佐々木には、わからなかった。
なぜなら、空中に扇を放り投げた後、確かに絵里は再び手首をくるりと返して、先刻同様、三本目を出現させ、素早く振って開き、その面で紐を受け止めたのである。
「うむ……」
佐々木は唸った。
扇を隠すとしたらたもとだが、伸ばされた絵里の手はそのくるぶしから10センチは着物から離れているし、兄である結城はジッと動かないままである。
観客の拍手が鳴り止まない中、絵里は結城に紐を差し出した。太鼓の音が勇壮に鳴り響き、そのテンポに合わせて、結城は立ち上がると、扇の上からたすき紐を受け取り、まるで舞うような足取りで素早く着物の上衣を縛り上げた。たすきによって、結城の腕はその肘から先があらわになり、何も隠し持てないことを見せつけたのである。
結城は音楽に合わせて絵里から距離を取るように動き、今度は観客に向かって片膝をついた。
ステージの上手、下手に、離れた二人は、その間の距離、5メートルあまりであろうか。
兄がそのような演舞をしている時、絵里の方は、さも暑い、というように、鷹揚に扇で自分を仰いでいる。
さて、次は何だ、という観客の期待と呼吸を合わせるように、絵里はにっこりと微笑み、右手の扇を兄の方へ放り投げた。
結城の方は、真正面を向いたままで、素早く左手を伸ばし、空中で扇を受け止める。視界の隅で見ていたのか、と思いきや、何と、彼は目を閉じているではないか。
まるで、歴戦の剣豪がその技を見せつけるように、鮮やかに。
それから、二人は顔を合わせた。
「扇とくれば、アレ、だよな」
佐々木はすでに観客の顔になって、舞台に釘付けである。
絵里はちらり、と一瞬、観客席を見た。その視線が、佐々木のオペラグラスに差し込んできた。と、彼の背中に冷や汗が浮かぶ。
まるで、絵里は彼を知っているかのような、そんな視線だった。
が、しかし、それはほんの一瞬で、すぐに演技に戻る。
佐々木の方は、高鳴る心臓を抑えながら、冷静さを失うまい、と必死だった。
絵里は左手の扇を右手に持ち替え、兄に差し出した。
また、左手は頭上高くに掲げて白く華奢な腕をあらわにして見せた。
と、絵里が扇で一仰ぎ、空中を大きく降ると、その骨の先から細い水が幾筋も勢い良く飛び出し、兄に向かって降り注ぐ。
素早く、結城が動いた。
先ほど受け取った扇子で飛んできた水を弾き返していく。
くるくると回り、音楽に合わせて踊るようなステップで、見事に水を打ち返していく。
ステージ上を横切るアーチ状の水に、ライトの光が反射して、まさに、虹がかかった。
観客は惜しみない拍手を送ったが、間も無く、ざわざわと落ち着きを失ったどよめきに変わる。
何かがおかしい。
それにまず、気づいたのは最前列付近の客だった。
「gone...?」
「lost... 」
「It's amazing!」
観客のざわめきに、佐々木はオペラグラスを傾けた。
彼が見たかったのは、二人のマジシャンではなく、彼らが立つ、床である。
畳や絨毯などであれば、こぼれた水を吸うであろうが、そこは継ぎ目のない、石の舞台であった。
しかも、結城は美しく舞いはしたが、絵里からかけられる水をはじき返すだけで、吸い取っている様子はない。
なのに〈床が濡れていない〉のである。
当然、こぼれた水で、ステージ上は水浸しのはずだった。
だが、床の水を、佐々木も見つけることができなかった。
ステージから離れていたこともあったが、最前列の客のどよめきからも、それが錯覚ではないことが確かめられた。
一時の動揺のあと、客たちは今までにない拍手を送り、口笛の音まで響いた。
会場中が、この不可思議な、まさにマジックに気づいたのである。
絵里はその客たちには目もくれず、今度は扇を投げた。
同じタイミングで結城もまた、扇を放り、二つの扇は美しく弧を描いて空中の一番高い点でぶつかるやいないや、鮮やかな真紅の炎をまとって燃え上がり、火の粉を散らして宙へと消えた。
スタンディングオーベーションが観客たちの間に起きた。
このショーが始まって以来のことであった。
と、何としたことか、二人の称えられるべき出演者は、後ろを向いて、うずくまる。
寺社の鐘の音が、三度鳴った。
と、素早く立ち上がりざまに、二人は観客に向き直った。
一瞬、会場が深海のごとく静まり、全員がその姿勢と表情のまま、何が起きたのかわからない、というように硬直した。
「マジかよ……」
佐々木も、オペラグラスで目の前で起きた出来事を確認し、まさに、信じがたい思いに身を固めた。
異変に気付いた最前列の方から、津波のような拍手が伝わってきた。
今、ステージの上にいるのは、袴姿の絵里と、十二単をまとった結城であった。
佐々木はクラクラする頭を抑えて、オペラグラスを下ろした。
そして、意識朦朧としたまま、席を立つと、割れんばかりの喝采を背に、会場を出た。
一 鹿島兄妹(3)
今、自分が目撃したもの。
それは、かつての佐々木の記憶を鮮やかに蘇らせた。
会場とはうってかわって静まり返ったロビーのベンチに腰掛け、彼はがっくりと肩を落とした。
何ということだろう。自分の人生を狂わせた、あの出来事と同じ衝撃が、再び、彼に襲いかかってきたのである。
敏腕プロデューサー、佐々木は自ら、現場に赴き、その生の声をさらうことで、番組の完成度を上げてきた、現場主義の男だった。
ニューヨークの郊外にある、小さな住宅地を訪れた彼は、クルーたちを先に滞在先のホテルへ向かわせ、自分は一人で依頼人に会いに行った。
依頼人の名前は、春菜・ステファン。夫のジョン・ステファンとは日本で出会い、今は彼の仕事の都合でアメリカ在住である。
佐々木は深い緑色の屋根の、こじんまりとした一軒家の前で、レンタカーを停めた。
いかにも静かな住宅地は、世間の喧噪の対岸にあり、家の敷地の2倍以上はあろうかという庭は、芝生や立木で個性豊かな風景を作っている。
初夏の風が心地よく吹く、午後であった。カラリと晴れた空には、あまりにも白い雲が浮かび、まるで絵本を開いたような光景が印象的に記憶に残っている。
街路樹に縁取られた広い道は、蛇行して遥かまで続いていた。その脇に点々と並ぶ色とりどりの家と、その庭の美しさは、日本の狭苦しい都会とは別世界である。
「あの!」
女の声が佐々木を振り返らせた。
春菜は、佐々木の車の音を聞きつけたのだろう。呼び鈴を鳴らすより先に、戸口から出てきて彼を迎えた。
三十代半ばの、こ綺麗な婦人である。
「佐々木さん、ですね」
春菜は丁寧に頭を下げた。
「この度は、私たち夫婦の戯言を信じて下さって、ありがとうございます」
「いや」
佐々木は首を振って、
「戯言かどうか、それを見極めるのは私たちですよ。それに、こちらとしては、全くもって、興味深い事例です」
「どうか、真実を確かめて下さい」
春菜は佐々木に対し、まるで医者に病気の治療を頼む母親のように、神妙な面持ちで嘆願した。
「詳しいことを、聞かせていただけますかな?」
「はい。けれど、まずは直接、ご覧になっていただいた方が、よろしいかと思います」
そう言って、春菜はそのまま、佐々木を中庭に案内した。中庭といっても、敢えて人の目に触れないように隠しているような、家の裏手の庭の隅である。
「娘のメアリーです」
春菜は控えめな声で、耳打ちした。
彼女の視線の先には、愛らしい10歳になったばかりの少女がいた。
若草色のワンピースに、白いリボン飾りのついた服をまとい、庭の隅に置かれた白木のベンチに座っている。栗色の巻き毛と黒い大きな眼をした容姿からは、決して彼女の身に起きている不可解な事件を思い起こさせる要素はなかった。
「あの子?」
「はい」
春菜は頷いた。佐々木に、見ているようにと伝えると、彼女は愛娘の前にかがんで顔を見上げた。
「いい子ね、メアリー。今日は誰とお話ししていたのかしら?」
少女はベンチの片側に、もう一人誰かいるかのように、人形を真ん中に起き、何やら独り言を呟いていたが、母親をまっすぐに見て、
「ユーリーンよ。昨日からお腹が痛くて寝ていたの。でも、もう、元気になったわ」
佐々木は耳を済ませた。
「そう。ユーリーン、よかったわね」
春菜は、空席のベンチに、相手がいるかのように顔を向け、微笑んだ。
「もうすぐ寝なくてはいけないの」
メアリーは人形を膝に抱き上げた。
「ユーリーンのおうちは、もうすぐ夜になるから」
「そうなの。それは残念ね。また明日、遊びましょうね」
「うん」
春菜とメアリーは、その場にはいない少女の友達に向かって手を振った。
一部始終を見届け、佐々木は内心、落胆のため息をついた。
小さな子供の世迷言だ。
それを信じる母親も子煩悩だし、更にその話に乗せられてここまで来た自分はもっと馬鹿げている。
だが、たとえ、そうだとしても、このネタでドキュメンタリーを、それも、観衆が喜ぶようなシナリオを用意しなければならないのだ。
それが佐々木に与えられた使命であった……
「……Mr. Sasaki?」
遠くから、自分を呼ぶ声がして、佐々木は遠い回想から引き戻された。
重たい首を上げると、目の前に劇場の係員が立っていた。
「All right?」
「あ、ああ」
佐々木は頷いて顔を手でこすった。
途端に、自分が今、どこにいて、何が起きていたのかを思い出す。係員は彼に紙切れを差し出した。
「This is from Ms. Kashima.She is waiting her room」
佐々木は紙を受け取ると、そこに書きつけられていた、線の細い縦書きの文字を読んだ。
『佐々木様。私たちの舞台をご覧になり、尚、私たちへの興味が尽きぬと思われるのでしたら、是非、お会いしとうございます。鹿島絵里』
望む所だ。
そのために、俺はここへ来た。
「Can you show me the way?」
佐々木は係員に案内され、重たい鉄扉の向こうの、関係者フロアへと入って行った。
豪華なロビーとは一転して、舞台裏は、以前に彼が勤めていたテレビ局を思わせるような、簡素で機能性だけを重んじたつくりである。冷たい蛍光灯がぽつんぽつんと灯った細い廊下の奥へ行き着く頃には、佐々木の手はすっかり汗ばみ、えもいわれぬ緊張がその身を支配していた。
しっかりしろ! と、佐々木は自分を叱咤した。
会えるのだ。あの二人に!
そして確かめる。今度こそ、確かめるのだ。
世間が正しかったのか、自分が正しかったのか。
その真実を。
絵里の名札のかかった部屋の前で、係員は佐々木を置いて戻って行った。
彼は大きく息を吸い込んだ。
それから、ゆっくりと吐き出して、気持ちを整えると、拳を固め、白いペンキの塗られた鉄扉をノックした。
「はい」
中から返ってきたのは、よく通る、男の声だった。
「佐々木です」
彼は、精一杯に大きな声を出したつもりだったが、それはかすれて、情けないものになっていた。
妙な沈黙が、部屋の中からにじみ出てくるようだった。
やがて、静かに、扉は内側から開かれた。
「初めまして」
扉を開けた青年は、先ほど舞台上で見た、あの、鹿島結城である。
「楽屋までお呼びだてして申し訳ない」
「いえ、こちらこそ、私を知っているとは驚きました」
佐々木は、持ち前の洞察力で瞬時に結城を分析した。
すらりとした長身で、佐々木よりやや背が高い。その目は理知的な光をたたえ、その面は二枚目俳優と言っても通用するほど、整っていた。舞台映えする容姿に加え、良い響きの声も備えている。
彼の、鹿島結城の学業に秀でた才能は、佐々木の知る所ではあったが、単に頭でっかちな知識馬鹿というより、結城には真の賢さが見て取れた。
彼本人がマジシャンとして活躍してもおかしくない、そんなミステリアスな雰囲気をまとい、それでいて、人を安心させる天性の資質をも感じさせた。
「鹿島結城です」
結城は丁寧に頭を下げると、佐々木を楽屋に通した。
楽屋とは言っても、手狭な控え室で、中央にテーブルがひとつと、パイプ椅子ふたつ。
壁には全身を写せる鏡が埋め込まれているだけの、簡素なものだ。
「本当に、何もないでしょう」
結城は苦笑いして、
「お茶くらい出したい所ですが」
「いや、おかまいなく」
佐々木は室内を見回してから、
「これを、受け取ったのですが」
と、先ほど係員から渡されたメモ書きを結城に見せた。
「ええ、妹があなたに、と」
言いながら、椅子を勧める。佐々木は黙って腰を下ろした。
「どうしても、あなたとお話しがしたかったものですから」
「それはどうも。ところで、結城さん」
「結城、でいいです。あなたの方が年長です」
「しかし……」
「海外にいると、そう、呼ばれることの方が自然なので、慣れてしまいました」
佐々木と向かい合って椅子にかけ、結城はにっこりと笑った。
「じゃ、遠慮なく」
佐々木は近年忘れていた、仕事に対する厳しいまでの目で、青年を見つめた。
「結城、私と話をしたい、ということだったが、妹さんはどちらです?」
「ここには、いません」
「いない?」
「はい。先に帰りました」
「帰った……」
「疲れているので、俺が帰しました。あなたと話すのは、俺ひとりで良いと思ったので」
と、結城は不意に目を細めた。
「あなたと妹を会わせるべきかどうかは、俺が判断します」
「ほう……」
佐々木もまた、結城の挑戦とも取れる眼差しの前に、臨戦態勢で構えた。久々に味わう、この空気が、懐かしく、そして彼の眠っていたジャーナリストとしての情熱を呼び覚ましていく。
「まるで、テストですね」
「ええ、そうです」
結城は若干26歳だったが、40歳を超える歴戦の佐々木に引けを取らない迫力を見せた。
「妹を守るのが、俺の勤めなのでね」
「私が妹さんにとって、敵か味方か、見極めたい、と」
「正確には」
結城の口元に、冷たい色が浮かんだ。すでにそこには、先ほどまでの温厚そうな好青年の面影はなかった。
「薬か、毒か、を、です」
一 鹿島兄妹(4)
「ふ……言ってくれるな」
「ええ。言います。俺たちは命がけなんでね」
「ほう」
「メアリーから、おおよその話は聞いています」
「彼女と知り合いだったのか?」
「知っていますとも。あなたのことは、彼女から聞いたのです。日本に、自分たちに興味を持つ、優秀なジャーナリストがいる、と」
「随分、古い情報のようだ。私が一線を退いてから、もう、随分たつ」
「あなたを陥れた張本人が、メアリーでしたね」
歯に衣着せぬ結城の物言いに、佐々木は苦笑した。
まさに、彼の言う通りだった。
「あの番組、俺もネットで見ましたよ」
「あんなガセネタが、アップされているとは驚きだな」
「そうですか? 一部ではあなたを支持する声もある。大部分は嘲笑ですがね」
「結城、君は随分と、若い頃の私に似ているようだ」
「光栄です」
結城は、にこりともせずに、
「真実を追求するあなたの姿勢には、お世辞ではなく、本心から感服しています」
「君が世辞を言うような人間ではないことくらい、私も見抜ける。取り敢えず、礼を言っておこう」
佐々木は長年にぶっていた自分の勘が、みるみる研ぎ澄まされていくのを心地よく感じた。結城という砥石は、佐々木を以前の鋭い男へと蘇らせていく。
「あの番組が放映された頃、俺はまだ、中学生でした」
結城は肘をついて手を組み、そこに顎を乗せてじっと佐々木を見据えたまま、口調だけは幾分か和らげて話した。
「リアルタイムで見られなかったのは残念でしたが、お許し下さい。当時はちょうど両親を亡くしたばかりで、親戚をたらい回しにされてましてね。何かと、身辺が騒がしく、絵里の体調も悪かったせいで、テレビ鑑賞どころではなかった」
「君たちの生い立ちについては、多少、調べさせてもらった」
佐々木はカバンから手帳を取り出した。もう、ほとんど空白ページの残っていない、使い古しのものだ。
「家族四人が乗った乗用車が、居眠り運転のトラックと正面衝突。運転していた母親と助手席の父親は即死。君と、絵里は重傷を負って病院に担ぎ込まれた、と」
結城は表情を動かすことなく、その話を聞いていた。
「確か、絵里の方が命が危なかった、ということだったが…… 私が言うのもなんだが、マスコミは薄情だからな。事故の当時は騒いだものの、その後の君たちについてはほとんど情報を集めていない」
「ええ。まぁ、よくある交通遺児って扱いでしたね」
冷静に結城は頷いた。
「俺の方が先に意識を取り戻して、絵里を看病したんです。看病と言っても、あいつはICUから出られない状態でしたから、ただ、見守るしかなかった。絵里は本当に、生きるか死ぬか、その境目だった。あいつの延命処置には、俺が決断を下したんです。どんな治療を許可するか、手術を行うか、若干14歳の俺がね」
「親戚が保護者にはならなかったのか?」
「祖父母はみんな他界していましたし、親戚と言っても、両親の従兄弟やその先くらいで、実の所、事故があった後に初めて会った人たちです。そんな人たちが、妹の生死に責任を持つような決断を下せるはずがありませんから」
「なるほど。生前は付き合いがなかったのか」
「ええ」
そこで、結城は姿勢を正した。
「本題に戻りましょう、佐々木さん」
その目は冷たい光で、わずかに潤んでいるようでもある。
「あなたは、幼い頃のメアリーを知っている」
「ああ」
「あの番組で、あなたは、彼女の真実を暴いた」
「真実だったと、俺は信じている」
「今でも?」
「ああ」
「世間はあなたの〈真実〉を八百長だと避難し、あなたはその座から引きずりおろされた訳だけれど、それでもなお、信じているのですか?」
「ああ」
「ですよね。信じていなければ、あなたは生きていけない」
結城の言葉に、佐々木の顔から血の気が引いた。
「もし、あれが真実ではないのだとしたら、あなたは一体何の為に、人生を失ったのか、わからなくなる。いや、あまりにもわかりすぎる。自分の過ちを、突きつけられることになる。だから、あなたは信じるしかない」
佐々木は冷たい手で全身を撫で回されるような錯覚を覚え、思わず顔を背けた。
長い沈黙が続いた。
いや、その部屋は沈黙に包まれたが、佐々木の思考の中は狂わんばかりの罵声とあざ笑う声で満たされていく。当時の、同僚や他者の記者たち、友人、家族の目。彼を見る、その目! 嘲り、愚弄、悲しみ、疑念、憐憫、そして、喜悦。
「あなたが、春菜・ステファンを殺した」
身を乗り出した結城が、佐々木の耳元でナイフの言葉をささやいた。
堪えきれず、佐々木は両手で頭を抱えると、取り乱して机に数度額をぶつけ、やがて嗚咽で全身を震わせながら、荒れた呼吸を繰り返した。
その憐れな様子を、結城は無表情で見下ろしていた。
「苦しかったろうな」
結城は静かに立ち上がると、佐々木の横に立ち、その肩に手を置いた。
「だが、もう、終わる。あんたは、正しかった」
胸を詰まらせ、佐々木は一瞬、呼吸を止めた。
「あんたが、真実だ」
その言葉に、佐々木は少しずつ浅く息を整え、冷や汗でびっしょりと濡れた顔を上げた。
結城が、初めて出会った時と同じ、優しい顔で彼を見つめていた。
「正しいのは、あなただったんだ」
目を見開き、佐々木は結城を見続けたが、不意に、視界の隅に何かが現れて、反射的にそちらへ体を向けた。
結城の向こう、空中にきらきらと色々が舞う。
結城は背後で何が起きているのかを知りながら、佐々木の様子を見守っていた。
「ば……馬鹿な……」
かすれた佐々木の呟きを、絵里の物腰柔らかな笑みが受け止める。
佐々木は腰が抜けて椅子から立ち上がれないまま、慌てて部屋中を見回した。
ドアは、自分が入ってきた一箇所だけ。人間が隠れられそうな所はどこにもない。
そして何より、今、目の前で確かに目撃したではないか。
宙に舞う色の結晶が凝結し、その空間に生身の人間が、絵里が現れる、その瞬間を。
「佐々木さま」
絵里は白いワンピースに、七色のロングスカーフと黒いローファー姿で、優雅に礼をした。
「メアリーは、あなたを恨んではいませんでした」
ステージで聞いた、ガラスが触れ合うような可憐な声だ。
「まだ、幼かった当時の彼女には、何故母親が自殺したのか、わからなかったそうです。けれど成長し、あなたと、あなたの番組のことを知り、全てを納得しました」
「絵里……なのか」
佐々木は、幽霊でも見るように、少女のような幼げな彼女を凝視しつづけた。
「はい。鹿島絵里でございます。兄のぶしつけな申しようは、全て、私が頼んだ所です。ご気分を害されましたなら、お詫び申し上げます」
そう言って、再度、絵里は頭を下げた。
「い、いや」
佐々木はかぶりを振りながら、震える唇を必死に動かした。
「あ、あんたも、メアリーと同じ、なのか」
絵里はにこり、と微笑んだ。
「はい。テレパスも心得ております」
結城は佐々木から離れると、絵里の側に立った。
「兄の思考を読んでおりました。あなたを、救います」
「おお!」
佐々木は立ち上がろうとして、足が震え、床にへたり込んでしまった。だが、顔だけは精一杯に二人に向け、何度も、大きく頷いた。
「わかる。そうか、そういうことか」
「はい」
絵里は立っているのが辛いのか、結城の腕に寄り添い、深く、息をついた。
「佐々木さま。あなたは間違ってはいませんでした。けれど、それは、決して世間が認めるものではなかったのです。たとえ、あなた以外の誰が真実を暴こうとも、目を背ける民意にはかないませぬ。あなたに非はない。誰にも、ないのです。ただ、真実はいつも人を幸福に導く訳ではないだけ……」
「絵里」
結城は、苦しげな妹を気遣って遮った。それから、佐々木に向かって、
「すみません。舞台の後に、二度も力を使わせてしまった。今は休ませてやって下さい」
結城は絵里を抱きかかえて、部屋の隅に腰を下ろした。
「一度、家へ、帰したというのは本当です」
自分にもたれて目を閉じた絵里の代わりに、結城が言った。
「その証拠に、この部屋には、俺の荷物以外、舞台で使用した備品は何もないのです。全て、絵里が片付けてしまいましたから」
「か、片付けたというのは……その……」
「俺たちが家に使っている場所へ、移したのです。通俗的な言い方をすれば、テレポートさせた、ということになります」
「で、では、絵里自身も?」
「はい。一緒に帰しました。休ませる必要があったので。けれど、思ったより早くあなたはここへ来た。てっきり、他の出演者たちを全て見るものと思っていたのですがね」
「他は、どうでもよかった」
佐々木は、ようやく普通に話せる程度に、動悸を戻して、
「少なくとも、お前たちのマジックがマジックではないということがわかっただけで、十分な収穫だったからだ」
「俺たちのは、マジックですよ。ただのマジック。タネもシカケもない、マジック」
「……そうだな」
佐々木は、ようやく、深呼吸をひとつして、気持ちを落ち着けた。
「何故、俺をここへ呼んだ?」
「メアリーに頼まれたのです。彼女は、あなたがこれ以上苦しむのを、見ていられない、と言っていました。けれど、彼女にはすでに、あなたが言った力は存在しない」
「なに?」
「消えるのです」
結城は少し悲しげな顔で、
「思春期になると、力が消える人が多い。特に女性は。もともと、女性の方が圧倒的に力に目覚めやすいのですが、消えるのがほとんどです」
「メアリーの力も?」
「ええ。あなたの番組公開から程なくして……」
「……それで、取材には応じてくれなかったのか」
「応じられなかったのですよ。あなたを、本当に嘘つきにはできない、と」
佐々木はニューヨークで出会った、あの少女を今でも鮮明に思い出すことが出来る。
少女の言葉を頼りに、彼女の言う〈友達〉を訪ねた番組スタッフたちは、皆、忘れることが出来ない出来事だっただろう。言語も違う。面識もない。地球の裏側にも、メアリーの〈友達〉はいた。そして彼女たちも、メアリーを知っていた……
散々思いを重ね、考え抜いた結果、佐々木が出した結論は、まさに、世間の嘲笑の的になるものだった。
真実を報道し続けた敏腕プロデューサーが発狂した、と、他のメディア関係者は面白おかしく書きたて、それに反論する佐々木を、さも滑稽な男として晒したのである。更には、自分の娘を話題にさせ、それで利益を得ようとしたという疑いの目まで向けられた春菜・ステファンは、自ら入水自殺をはかった。
日米を舞台にした、佐々木の転落劇は、彼女の死によって更にインパクトを強め、佐々木は業界を、世間を追われて家族も失った。
それ以来、彼はメディアを一切信じず、己の見たもの、感じたものだけを頼りに、細々と持論を裏打ちする道を模索してきたのである。
「木を隠すなら山の中、とはよく言ったものだ」
佐々木は、疲れてきっている絵里を眺め、
「まさか、マジシャンの中に、本物がいるとはな」
「それを嗅ぎ当てたあなたも、さすがはプロですよ」
なぐさめるつもりなのか、結城は笑って、
「もっとも、絵里たちは、特別というわけではありません。人と少し違うことが出来る、というだけの、心を持った人間であることに変わりはない」
「君は? 結城、君にも、その力が?」
「いいえ」
結城は首を振った。
「俺は……そう、〈普通の〉人間です」
「では、舞台でのことは……」
「全て絵里がしたことに、俺が合わせているに過ぎません」
「しかし、あれだけ見事にやり遂げれば、疑われるのでは……」
と、言いかけて、佐々木は、あっ、と小さく叫んだ。にやり、と結城が笑う。
「疑いません。誰もね。だって、マジックですから。必ず、タネもシカケもある前提です」
「疑えば、俺のように狂人扱いされる、というわけか」
「まぁ、そんな所です」
結城は優しく絵里の肩を撫でながら、
「それに、俺たちは派手には活動しない。ご覧の通り、絵里はあの短い舞台と二度の原子分解蘇生で力尽きています。マラソン選手がフルマラソンを走り終わって疲れてしまうのと、変わりありません。それだけ、負担が大きいのです」
「世間一般の架空の物語の主人公とは、随分かけ離れた超能力者だな」
「超能力、ね……フフ」
結城は小さく笑って、
「佐々木さん、あなたの視力はいくつです?」
佐々木は、突然の意外な質問に面食らいつつも、
「しばらく測ってはいないが……1.5程度だった」
「俺もそれくらいです。アフリカに住む狩猟民族たちの視力は、5.0ある者もいるとか」
「聞いたことがあるな」
「彼らは、俺たちには見ることのできない、遠方の動物まで見分けることができる。これもある意味、超能力ではありませんか?」
「言えなくもないが……しかし」
「その程度です」
結城はぴしゃりと言い切った。
「絵里たちの力も、その程度に押さえておいて下さい。彼らは超人でも化け物でもない。人と少し違った脳の部位を活性化させているだけなのです」
「結城、確か君は理数系の大学に進んだそうだが」
「一応、理学博士号は取得しました」
結城はさらりと答えた。
「けれど、所詮、未発達の部門です。今の人類の研究はそれ以上には進んでいない」
「絵里たちの存在は、まさに……」
「ええ」
結城の顔が、初めて曇った。
「まさに、モルモットなんです。だから、俺たちは隠れている」
自分に身を委ねて眠る絵里を、結城は何者の手からも守る覚悟でいる。
そのために、あらゆる道を閉ざし、絵里と共に生きることを選んだのだ。
「佐々木さん」
結城は妹から顔を上げた。
「あなたは正しかった。絵里の存在が、それを証明します。けれど、それ以上のことは、今の俺たちには出来ない。絵里をメディアに出した所で、二の舞になるだけです」
「ああ、わかっている。わかっているとも!」
佐々木は声を強めた。
「じゅうぶんだ。俺が信じたことが真実だったと証明されたのなら、俺は満足だ。これ以上、世間に知らしめてやろうとは思わない。いや、それほど、世間に期待もしない。だが……」
佐々木はまっすぐに結城を見据えた。
「俺がしたことで、メアリーや春菜、彼女たちの家族や多くの人たちを苦しめた償いはしたい。結城、俺に、何か出来ることがあるんだろう? だから、俺をここへ呼び、絵里もまた、姿を見せたのだろう?」
結城は、佐々木の心を見通すように、その瞳を見つめ返した。
「やはり、あなたは、頭がいい。話が早くて助かりますよ」
二 うごめく者たち(1)
思い切りカーテンを開けて、結城はその朝日の眩しさに、目を細めた。透明感のある家具が並ぶ居間は、その新しい太陽の光にきらきらと輝き、全てが新鮮に感じられた。そのままベランダに出ると、結城は手すりに持たれて、見慣れた町並みを眺めた。
どことも知れぬ、いや、知らせぬ場所。
親類からは完全に縁を切り、学生時代の友人とも絆を絶った。そうして、自分たちを知る者が誰一人いないこの国のこの街で、絵里とふたりきり、静かに時を送っている。戸籍もどこかで途絶えただろう。彼らがこのマンションの最上階を借りた時にも、保証人は他人であった。孤立無援のふたりの後見をしてくれているのが〈組織〉である。
〈絵里のようなマジシャン〉を集め、その加護を目的として作られた組織、『Eine(アイン)』。表向きは優秀なマジシャンを多数有するプロダクション、という形になっており、仕事の依頼もアインが一手に引き受けて、それぞれの会員に適したステージと報酬を約束している。だが、同時に、鹿島兄妹のように、世間から孤立した者たちの後見役という役割も果たしている。
先日ラスベガスで行われた『マジシャン オブ ザ ファミリア』も、アインが主催した企画である。このイベントは予選段階から参加者を観察し、〈本物〉を見抜いてラスベガスの舞台に上げている。いまだ、野に放たれたままの者たちを拾い上げ、その救済と援助を行うための企画だったのである。勿論、出演者の中には〈本物のマジシャン〉も含まれており、専門家の目を欺くよう、裏工作が行われていた。
結城は、幼い頃から、絵里の能力には気がついていた。
メアリーのように、遠隔地の誰かと一緒にままごとなどをするのは日常であったし、自分の考えをすぐに見抜いて、質問するより先に答えることもままあった。
結城はそんな絵里を恐れた上で、それでも、彼女を守ることを選んだ。
運命を決定づけたのは、あの、家族を襲った事故の時だ。
結城は全身打撲と数箇所の骨折で済んだが、絵里は運悪く車内の荷物が腹部を圧迫しており、内臓の損傷が激しかった。そのため、複数の臓器の切除を迫られた。生きていくには支障はない範囲内で、しかし、人生を大きく変える手術であった。
絵里が取り除いたのは、再生機能を持つ肝臓の一部と、左の腎臓、小腸の一部、それに、卵巣と子宮。
この延命手術を行うかどうか、その決断は、兄である結城に託された。
医者から告げられた時を、結城は今でもはっきりと覚えている。自分の中に生まれた、ふたつの感情と共に。
親を亡くし、たった一人の肉親である絵里を助けたいという思い。そして同時に、この恐ろしい能力を封じ込めてしまいたいという恐怖心。
葛藤の末の決断を下した時、結城の中には絵里を守るという確固とした決意と信念が生まれた。
たとえ、この先に何があろうと、彼の正義感が、妹を遠ざけることを許さなかった。幸い、両親もいなくなった今、絵里の力を知るのは自分だけだ。
結城は深呼吸して、まぶしげに空を見上げた。
よく晴れた、良い天気である。
風も暖かく、過ごしやすい一日を思わせた。
身体の弱い絵里を気遣って、一年を通して気候の穏やかなこの土地を選んだ。
結城は絵里の回復に合わせて、必死になって、彼女の生きていける場所を探した。それは住居のことではなく、環境、彼女を受け入れてくれる組織だ。
そして二年前、偶然テレビで放映された前大会の特集を見た時、結城の労力はようやく実を結んだのである。すぐに主催者であるアインを訪ね、絵里の能力を使って、そこが信用に足る組織であること、自分たちに必要な組織であることを突き止めた。
やがて、奨学金で進学した結城は、脳科学を専門に学び博士号まで取得。そのまま大学に雇用される予定だったが、絵里のこともあり、また、彼自身が望んだため、研究者としての道は閉ざされた。
いや、ある意味においては、結城は最高の研究対象と共に暮らすという、この上ない好条件を与えられたことになるやもしれない。
事実、絵里は結城の研究に協力した。兄が自分のために敢えて遁世の道を選んだこと、そして、脳科学という分野に入ったのは自分を理解し救うためだと、絵里なりに、その気持ちを汲み取っていた。
それは、アインも同じであった。
アインの会員は、皆、絵里と同じ人種である。その中で、特に能力はないが、結城のような研究者も一部含まれていた。彼らは厳正な審査のもと、人道的に許される範囲内において、絵里たちを科学的に理解する助力となるべく、研究を許された。
研究者ばかりではない。アインには、絵里たちをサポートするために、専門の私立病院があったし、世界中に情報ネットワークも持っていた。
結城が佐々木を呼び出したのは、まさに、日本のネットワークに精通した人材、しかも、自分たちを理解し、その存在を信用し、力を貸してくれる存在を発掘せんがためであった。
アインは早くから、佐々木に目をつけていた。
十数年前、あの、センセーショナルを巻き起こした番組の頃から、佐々木の動向を密かに伺っていたのである。彼が自分の信念を曲げず、最後まで真実を追い求めたことで、アインはついに、メアリーや鹿島兄妹を使って接触を試みた。その結果、十分に信用できる人間かを鹿島兄妹に試させ、登用を決断したのである。
「兄さま?」
ぼんやりとしていた結城を、後ろから絵里の声が呼んだ。
「おはようございます」
「絵里」
結城はにっこりと笑った。
「おはよう」
それは、妹を思う、優しい兄に他ならなかった。他者に対して、とりわけ、絵里を理解していない者たちに対して、厳しい顔を見せる結城だったが、妹と二人きりの時は、柔らかな、大人しそうな好青年の素顔が見える。絵里という妹がいなければ、彼の人生はまったく違ったものになっていただろう。
「眠れた?」
「はい」
絵里は結城と並んで、町並みを眺めた。
長い黒髪が艶やかに整えられて、背中に垂れ、対象的に真っ白な肌には悲しいかな、うっすらと幾つもの傷跡が見て取れた。事故の時のものだ。
「お前は俺の思考を読むが、俺に嘘をつくのは下手だよ」
結城は妹の肩を抱き寄せて、そっと耳元に口付けた。
「いつもの、夢か?」
「はい……」
絵里は沈んだ声で答えた。
「誰かが見せているのか、それとも、自分で自己暗示をかけてしまったのかわかりません。兄さま、せめて、それだけでも確かめられませんか?」
「今、ジャンと共同研究をしている。思念の流動については、ジャンの方が詳しいからな。もう少しだけ、待ってくれ」
「はい」
絵里は目を閉じた。
触れ合う結城から感じ取る、暖かな感情の波が心地よかった。兄が、自分に対して恐怖心を抱いていることは知っている。だが、それは、彼女の能力を知る者ならば、誰でも抱く当然の感情である。自分の意思を読み取られているのだから、恐れない方がおかしい。だが、兄の恐怖心は他の者たちより、はるかにささやかなものだった。雨上がり、最後まで残った水たまりのような、時間とともに、消えていくような、かすかなもの。
絵里のテレパスは、能力者同士であればお互いに会話も成り立つが、結城のように〈普通の人間〉が相手では、一方通行になってしまう。自分を想う結城の優しさを身にしみて感じながらも、逆に自分の気持ちををそのまま、兄に伝えることは、絵里にはできない。それは、他の多くの者たちと同じように、言葉を介してしか、伝えられない。だが、昔から周囲の感情をそっくり受け取ることに慣れている絵里は、人よりも言葉を多く知らなかった。
もし、テレパス同士であれば、無言で済むのである。
実際、アインに来てから、絵里は多くのテレパス所持者と出会い、彼らのチャンネルを記憶した。ボタン一つで電話をかけるように、彼らと伝え合うことができる。だが、それは、言語による伝達能力の退化でもあった。
「絵里、次の仕事だがな」
結城は、言わずとも絵里に伝わることを知りながら、敢えて言葉を用いる。それは、彼女の言語表現力を落とさないための配慮でもあった。
「日本に、行こうと思う」
「何故です? 今まで、避けてきたでしょう?」
絵里も、結城の意図を心得ているから、出来る限り、言語化するよう、自分に課していた。
「嫌な思い出もある。佐々木の番組のこともある。だが、アインは日本での、ツヴァイの動きを知りたがっているんだ」
「ツヴァイ……」
絵里はわずかに目を開けた。
「どうして、静かに過ごせないのでしょう」
「色んな人間がいる。それだけだよ」
「ええ。けれど……重たい?……」
「不安、か?」
「そうです。それですね」
結城は絵里の気持ちを察して、言葉に置き換えた。
不安感を、絵里は重さで感じるらしい。
「日本人は、理解が足りないからな。容易にだませるし、いい思いもできる。ツヴァイにとっては、格好の市場だろう」
「何だ、その『ツヴァイ』ってのは?」
突然、兄妹の穏やかな時間を遮って、眠そうな顔の佐々木がベランダを覗き込んでいた。
借金取りに追われる彼は、自分の置かれた状況を把握するまで、また、アインに馴染むまでの間、鹿島兄妹の元にいる。
寝起きの頭をかいて、佐々木は眉間にしわを寄せた。
「おはようございます」
絵里が静かに挨拶する。
「ああ。おはよう。で、『ツヴァイ』ってのは?」
せっかちに、佐々木は繰り返した。結城は思わず苦笑した。アインのことを聞かされ、自分の役割を知らされてから、佐々木は出会った日とは別人のように生き生きとしている。かつてのジャーナリストとしての血が、どん底にいた彼を再び、現実社会を切り裂く者として、目覚めさせたのだろう。
「朝食の支度をしますね」
絵里は、居間の奥にあるキッチンに向かった。
「先に……」
「ホットコーヒーですね」
佐々木の言葉を遮って、絵里が答えた。ハッとして、彼女は口を押さえる。たとえわかっていても、思考を読んでの会話はしてはならない、と、アインからも言われていることだ。相手に気味悪く感じさせる恐れがある。
「いや、今のは俺でもわかるよ」
結城はソファに戻って、笑いながら言った。
「毎朝のことだからな」
「そ、そうですか。よかった」
兄と二人暮らしの長い絵里にとって、佐々木という未知の他人と暮らすことは、よくも悪くも刺激になることだった。
「参ったな」
佐々木は結城と向かい合って腰を下ろすと、ガラスのテーブルに写る自分の無精髭を撫でた。
親子ほども年が違うが、結城と佐々木の間には、確かに友情のようなものが芽生えている。それを感じ取って、絵里も自然とリラックスすることができた。
「で、さっきの話だが」
佐々木は小さな封筒を結城に差し出した。
「昨日、アインの支部で、おまえに渡すように言われた。中は見てないぞ。封を切らずに読めるような能力はないからな」
佐々木がいい終わらないうちに、先読みした絵里がクスリと笑う。
最初こそ、訳のわからない奇妙な存在だった絵里だが、今では佐々木にとって、娘のような錯覚がある。元々、一男一女の父であった彼は、二人の兄妹に子供たちの姿を重ね合わせているのかもしれない。佐々木が正気を取り戻した要因のひとつには、鹿島兄妹との暮らしがあったことは、確かだろう。
結城は封筒の中の短い文書に目を通すと、頷いた。
「ここには、あなたに説明すべきことが書かれてます。まぁ、読んでもわからないと思いますよ」
結城は書面を佐々木に差し出した。
連絡事項
次回の業務に先んじて、佐々木宏に申し伝えるべき事項
・『アイン』の構成と主点。
・『ツヴァイ』の発足、構成、主点。
・連絡方法の明示(※通例による)
「確かに、わからないな」
佐々木も苦笑いを返した。
二 うごめく者たち(2)
「『Eine』がドイツ語で『1』を表すのはご存知ですね」
結城は、一つ一つを確認するように話し始めた。彼の説明の仕方は、まさに理系の人間らしく、理路整然と順を追っており、摩訶不思議な業界の情報を、佐々木にもストレートにわかるよう、配慮されていた。
「ああ、それくらいは」
佐々木は頷いた。
「この『Eine』すなわち、『1』という数字には、別の意味が込められているんです。おわかりでしょうか?」
「『1』か。希少な存在……または、物事の出発点。もしくは、頂点……」
「もっと〈マジック〉な意味です」
「〈マジック〉な?」
佐々木は更に首を傾げた。
「トランプのエース?」
「近くなりました」
「……降参だ」
佐々木は苦笑して手を挙げた。
「答えはタロットです」
言いながら、結城は机の下からトランクケースーー結城が普段から持ち歩いているものだーーを引っ張り出し、鍵を開けて中から木箱を取り出した。何やら文様の彫り込まれたものだ。
「おいおい、魔術っぽくなってきたぞ」
「今更、大差ないでしょう?」
今度は、結城が笑う。
「これです」
言いながら、結城は木箱のふたを開き、一枚のカードを佐々木の前に置いた。
そこには、赤い衣をまとい、右手を高く掲げた一人の男性が描かれていた。
「これは、タロットカードの中でも、特に強い意味をもつ、22枚のうちのひとつ、魔術師のカードです。そして、カードの番号が、1」
ギリシャ数字で枠の隅に書かれた文字を、結城は指差した。
「なるほど。魔術師の集まりだから『Eine』、なのか」
「はい。同時にこのカードは、未知なる力、絶対的な力の発生を示しています。人類が秘めた、隠された力。その意味もあるようです」
「なんとも、オカルトめいた話だな」
「ええ」
結城は絵里が持ってきたマグカップを受け取った。中身はホットミルクである。佐々木もコーヒーを手にして、しげしげとカードを眺めた。
「結城、悪いが俺は正直、占いのようなものを信じない。この目で見たものしかな」
「それで、良いと思います。そうしないと、簡単にあなたも欺かれてしまう」
結城はキッチンに戻る絵里の背中を眺めた。
「絵里はタロットからはインスピレーションを受けないそうです。けれど、中には、このカードを使って、全てを見通せる者もいます。正確には、カードの補助を受けて、ですが」
「アインにも?」
「ええ、います。俺にはさっぱりですけどね。一応、そういう相手に会った時のために、持ち歩いているだけです。もっとも、そういう力を持つ人は、他人のカードには触れませんが」
「ほう」
「邪念だとか、何だとか言ってますね。恐らく、物質に移る人間の思考電気が原因で、他者の電位を受け取ったカードでは混乱が生じるためだと思いますが」
「俺の思考が今、混乱してるぞ」
「ああ、済みません。今、ちょうどその辺りの研究をしているものですから……」
結城は素直に首を振った。
「話を戻します。アインの命名は、このカードからきています。その発足は、今からおよそ一世紀ほど前になります」
「百年の歴史があるのか」
「ええ。ただ、発足者がはっきりしていないんですよ。自然発生的に集団化してきたようです」
「必要に迫られて、絵里と同種の者たちが惹かれ会い、組織という形式は後からついてきたもの、ということか」
「そのようです。これは俺の推測ですが、恐らく、初期メンバーの中心人物が、タロットを使っていたために、この名前がつけられたのではないかと」
「なるほど」
「アインは、ご存知の通り、俺たちのような世間から切れて生きたいと望む者の後見人であり、同時に、保護者です。現在はしっかりとした組織として、本部もありますし、役職も置かれています」
「ふむ」
「アインには、大別して三つのグループがあります。俺たちのように、能力を使って金を稼ぎ、必要以上に求めず、ひっそりと生きる集団。俺たちの稼ぎの一部が、アインの運営資金として使われています」
「芸能プロダクションと同じ扱いだな」
「そうですね。表向きは変わりません」
結城は頷いた。
「それから、俺も半分入ってますが、研究部門があります。絵里たちの力の原因を科学的に解明するための集団です」
「確かに、超能力の研究とは魅力的だ」
佐々木はにこりともせずに、真面目な顔で、
「研究対象に困ることはないし、世間から不審の目を向けられずに思う存分、調べることが出来るわけだな」
「もっとも、非人道的なこと、本人の了解を得ないことは出来ませんよ」
「解剖とか?」
冗談のつもりで口にした佐々木の言葉に、結城は息を飲んだ。その様子が今までになかったせいか、佐々木は、しまった、というように顔を歪めた。だが、結城の回答はさらに佐々木を驚かせるものだった。
「解剖はします」
「!」
「まぁ、検死のようなもので、生前からの承諾があれば、です。まれには、生きている相手でも……」
「お、おい……」
「必要なんです。死んでからでは、脳の電位は消えてしまいます」
「マジかよ……」
「特例ですよ。術者の中には、それを希望する者もいるのです。研究者として、拒む理由はありません。人として、はまた、別問題です」
佐々木はちらり、と絵里を見た。が、朝食作りに熱心な彼女は、少しもこちらの会話を気にしている様子はなかった。
「絵里に手出しはさせません」
低い声で、結城は言った。その目は、妹を守る鋭いものだ。
「彼女は、そんな実験には耐えられない。ご存知の通り、絵里は昔の事故の傷のせいで、体力的にも人並み以下です。たとえ絵里が望んでも、俺は許可しませんよ」
「あ、ああ、わかった、わかった」
佐々木は慌ててなだめるように、結城を覗き込んだ。
「それで、もう一つ、部門があるんだろう?」
「え? あ、はい」
結城は、現実に引き戻されたように、きょとんとしながら、
「ええと、最後は、あなたに正式に所属していただいた、諜報です」
「ああ。各地の能力者の情報を集めたり、能力者が関係していると思われる事例を調査報告しろ、と。能力に苦しんでいる者や、路頭に迷っている者を見つけ出して、組織に加えるために」
「はい」
結城はミルクをすすって、
「もっとも、それは一般業務です。今回は、あなたに、特殊任務をお願いしたいのです」
「特殊任務?」
「はい。それが『ツヴァイ』です」
「ようやく、本題、というわけだ」
「ええ」
佐々木も、コーヒーを一口、味わった。そして、昨日より自分好みの味に仕上がっていることに、絵里の能力の一端を思い出す。日を追うごとに、絵里は確実に自分の思考を感じ取り、いれ方を変えている。
「先ほどの命名からいくと」
佐々木は机上のカードをもう一度見て、
「『ツヴァイ』はドイツ語で『2』を示す。タロットカードの2番目、という意味もか」
「はい」
結城は用意していたらしいカードを、先のそれと並べて置いた。
そこには、穏やかな笑みの女性が腰掛けた図柄があった。女性の左右には、白い柱と黒い柱があり、その欄外にはギリシャ数字の2。
「これは、女教皇カードです。俗に、テンペレシオンスと言われます」
「見慣れないな。悪魔だの死神だのならわかるが……」
「確かに、それらのカードに比べれば、地味ですからね。けれど、これが、タロットの中でも重要な22枚、大アルカナの2番目のカードです」
「ほう」
「術者には女性が多い、と言ったのを、覚えておいでですか?」
「ああ」
「タロットはそれを如実に表している。カードの数字は小さいほど力が強い。二番目はこの女教皇ですが、三枚目も『女帝』です。しかも『女帝』には母親として妊婦を描いたという説もある」
「ふむ」
「太古から、女性と魔術とは縁が深かったのでしょう。脳科学的には……」
と、言いかけて、結城は脱線をやめた。
「『Zwei』は、このカードと特に関係はありません。では、なぜ、この名がついたかといえば、それは、ツヴァイが、アインから分化した組織だからです」
「一の次だから、二、か」
「はい」
結城は頷いた。
「正しくは、彼らは自分たちでそう名乗ったことはありません。アイン側が、そう名付けているだけのことです」
「なるほど」
「ツヴァイとアインの大きな違いは、世界への介入度です」
佐々木の目が、生き生きと光りはじめる。ようやく、彼の出番に直結する話になってきたようだ。
「アインは基本理念として、可能な限り、術者の存在を伏せ、世間を混乱させないよう、配慮することを第一に活動しています。マジシャンという仮面で欺き、私利私欲を求めず、ただ静かに暮らすことを選んだ、言うなれば、防御に徹した日陰の組織です」
「と、いうことは、ツヴァイはその反対、という訳か」
「その通りです」
結城は、佐々木の飲み込みの速さに感謝している。絵里のような力ではなく、真に賢い思考で結城の話の先を読んでくれる。
「能力を使い、私腹を肥やす。権力を握り、国を動かす。それが、ツヴァイです」
「己にあたわった能力を使って何が悪い、という考えだな」
「ふふ……」
結城は嬉しそうに笑った。
「その通り」
「世間一般で説明するのなら、マラソン選手がその卓越した身体能力を使って数々の大会で優勝し、名声を勝ち取り、その後も功績や経験から多額の報酬を約束された契約を結んで豊かな暮らしをする、それと、何ら、変わりない、と」
「素敵ですね」
朝食を運んできた絵里が、にっこりした。
「佐々木さま、兄さまの気持ちが読めるみたいです」
「絵里にはかなわないさ」
色鮮やかなサラダにトースト、卵料理をテーブルに並べながら、絵里は終始微笑みを浮かべていた。
自分のために、他の人々との縁を切った結城が、心通じる相手と出会えたことが、絵里には素直に嬉しかった。
「そのツヴァイが、日本で動いている情報を掴んだ、と」
結城は隣に絵里を呼んで座らせながら、
「俺たちは日本へ行く。もちろん、マジシャンとしてショーに出る仕事がメインです。それに、あなたにも同行してもらいたい。俺たちのマネージャーという肩書きでね」
「で、実際にはどんな仕事をすればいい?」
「基本的には、探偵のようなものだと思って下さい。けれど、相手は術者です。一番重要なのは、相手の能力を見極めること。それが出来なければ、命も落とします」
「おいおい」
佐々木は面食らって、
「そう、簡単に言ってくれるな。一月前ならともかく、今の俺は生きることに執着してるぞ。みすみす殺されるようなことはごめんだ」
「勿論です。佐々木さん。一番危険な能力は何か、わかりますか?」
「敵にしたくないのは……」
佐々木は遠慮なく、絵里を顎で指した。
「テレパスだな。考えが読まれるんだろ?」
「ええ。けれど、盲点があります」
「盲点?」
「テレパスに、自分の存在を気づかれない方法があるんです」
佐々木は、答えを当ててやろう、と必死に思考を巡らせた。
「絵里のように、思考を読む……俺が考えていることを……」
「私には」
と、絵里が助け舟を出すように言った。
「佐々木さまの考えていることがわかります。けれど、もっと、正確に言うと、その……」
言葉を探しながら、絵里はゆっくりと続けた。
「思考だけが伝わってくるんです。頭の中に、自分じゃない誰かの思考だけが……」
「……そうか!」
佐々木は膝を打った。
「つまり、それが〈誰の思考〉であるかは、判断出来ないんだな!」
「はい!」
絵里が嬉しそうに、声を上げる。その間、結城はさっさと朝食を頬張っていた。佐々木は食事に手を付けることも忘れて、さらに考え続ける。
「こうして、面と向かっていれば、絵里は俺が考えていることだと、わかる。結城の思考と、区別ができる。チャンネル、とやらが違うから、別人だとわかるんだろう?」
「はい」
「だが、もし、大勢の人間の中に俺がいて、そのテレパス所持者を観察していたとして…… 相手が自分を監視している人間がいることに気づいたとしても…… それが、大勢の中の誰であるかは、わからない!」
「はい」
絵里はにっこりした。が、佐々木は何かに気づいたように顔をしかめる。
「だが、俺がもし、自分の名前や鏡に映った自分の顔を連想したらどうなる? 相手はそれを手掛かりに俺を見つけ出すだろう?」
「それに対する防御策があります」
絵里は安心させるように、穏やかに言った。
「佐々木さま自身が、自分の外見や名前の記憶を別のものにすり替えることです」
「そんなの、思い込みでできるものか?」
「ご自身では無理かもしれませんが」
絵里は目を細めた。
「アインには、催眠術師もいますから」
不意に、結城がちらり、と絵里を見て、
「こいつも出来る」
「…………」
佐々木は思わず唸った。
我ながら、恐ろしい者たちと関わってしまったものだ、と改めて思う。
「話はわかった」
佐々木は覚悟を決めた。もう、ここまできたら、地獄の底まで行くしかない。
「最後にひとつ、一番気がかりな問題がある」
真顔で、佐々木は口元を歪め、言いにくそうに、
「日本に戻れば、俺はコンクリート詰めで東京湾の底なんだが?」
喉を詰まらせて、結城が咳き込んだ。絵里がその背を撫でる。
「は、はぁ?」
「……いや、借金が、な」
情けないことを呟く佐々木を見て、鹿島兄妹は苦笑した。
二 うごめく者たち(3)
テレポートすれば早いのに、と佐々木は思う。だが、鹿島兄弟と自分は、一部偽造されたパスポートで、出国手続きを済ませた。
結城の話では、可能な限り、能力を使わないのがアイン流、なのだそうだ。それに、国外への移動となれば、パスポートにチェックがない状態で出入りを繰り返すことは、世間にあやしまれるため、特に一般と変わらないように配慮しているらしい。
国際線の飛行機の機内は、すでに長旅に備えた乗客たちの、くつろぎの空間となっていた。
佐々木もまた、鹿島兄妹と共に、その一群の客に加わっている。
日本まで、14時間のフライトである。佐々木は窓側のシートに座り、ぼんやりと外の雲海を眺めていた。
三列シートの通路側が結城、そして、真ん中が絵里である。こういう席配置にも、結城の妹煩悩が伺えた。絵里を人通りのある通路側にはせず、かといって、有事の際に危険な窓側にもしない。いざとなれば、佐々木を見捨てて、絵里だけ連れて逃げられる態勢、それが結城という男の性格だった。
そこまで用心深いかと思いきや、いざ、飛行機が安定すると、結城は通路側に首を倒して、さっさと眠ってしまった。もっとも、何かあればすぐに飛び起きるだろうが、その無防備さに、佐々木は思わず笑みを浮かべる。子供時代に十分に親に甘えられなかった結城の過去を思えば、そんな彼の仕草も純粋に可愛らしく思われた。
「昨夜、寝ていないのです」
絵里は、佐々木を振り返った。
「結城が?」
「ええ。私の脳波のデータをとっていて…… 後から分析すればいいのに、どうせ、飛行機の中で寝られるから、と」
「そうだったのか」
佐々木は淡いピンク色のカーディガンに、会った日に着ていたワンピース姿の絵里を眺めた。こうしておとなしく座っていると、普通の少女のように思われる。
「佐々木さま」
絵里はゆっくりと切り出した。
「何だか、大変なことに巻き込んでしまって、すみません」
「いや、俺としては助かっている」
軽く笑って、佐々木は首を振った。
「まさか、借金までアインが肩代わりしてくれるとはな」
「無利子借金、なだけですよ。お給料から天引きされてしまいます。お支払い出来なくて申し訳ないです」
「それでも、ありがたいさ。少なくとも、金が原因で殺されなくて済む」
「ふふふ」
絵里は上品に口元を緩めた。
「原因が違うだけで、お仕事の危険度は同じ気がします」
「可愛い顔をして、さすがは結城の妹だな。鋭いよ」
「鋭い? 悪いことを言いましたか?」
「いや、そうじゃなくて、的確過ぎる、ってところだ」
「けれど……」
絵里は言い淀んだ。恐らく、佐々木が絵里の言葉で、これから臨む仕事に不安感を抱いたことを察したのだろう。だが、それに自分が気付いたことを、言葉にして良いのかどうか、迷っているようだった。感情が読み取れるというのは、難儀なものだ、と佐々木は溜息をついた。当然、そのことも感じ取る絵里は、更に困惑を深めたようだ。
「絵里」
話題を変えるように、佐々木は声色を明るくした。
「俺が昔、どんな番組を作っていたか、聞いているか?」
「メアリーのことしか……」
「そうか。それはある意味で、幸いだな」
佐々木は頭をかいて、
「もっとも、すでにお見通しなのだろうが」
「佐々木さま。どうか、私をテレパスだと思わずに、〈普通に〉お話し下さいませ。その方が、私にもよい勉強になるのです。会話の練習に。そして、おかしなことがありましたら、必ずお諌め願います」
佐々木は深く溜息をついた。
「わかった。しかし、大変だな、お前も。俺はな、てっきりお前のような力があったら、どれだけ有利で楽だろう、と思ったものだ。メアリーを見ていたからな。だが、今のお前はその力のせいで、随分不自由なようだ」
「ええ」
絵里はうなだれた。
「正直、わからないんです。どう、人と接していいのかが」
「ふむ」
「だから、怖くて、アインを選びました。ツヴァイからのお誘いもあるけれど、私には、無理です。私はそんなに器用ではありません」
「ツヴァイでは、相手に自分の力を気づかれずに、立ち回らねばならない、か」
「はい。まさか、テレパスだとは思わないでしょうが、薄気味悪い印象を与えてしまえば、それで関係は壊れます」
「確かに、こちらの意図を先読みされすぎている、というのは、普通に考えれば厄介だな。最初は勘のいい、洞察力や推察力のある賢い人間と思われるだろうが、一線を越えれば、盗聴や探偵を雇っている可能性まで疑われる」
「はい。ですから、よほど要領が良くないと、やっていけないのです。私には無理です。それに……」
絵里はちらり、と結城を見た。
「兄さまは、そんな生き方を認めません。ツヴァイがやっているのは、詐欺と同じです。力の悪用です。私も兄さまと同じ。そんな生き方は望みません」
「ふむ……」
「アメリカでは、私たちの力を警察組織の一部が犯罪捜査に利用する場合があります。けれど、日本には、そんな組織はありません。それどころか、信じること自体が否定されているのが現状です。だから、ツヴァイにとって日本はいい獲物なのです」
「遅れている、というわけか」
「日本くらいですよ。未だに、私たちを認めていないのは」
「仕方ない。日本人は特に大衆心理で動く民族だ。それは俺が、十五年前、嫌になるほど思い知らされた」
「佐々木さまの生い立ちは、簡単には聞き及んでいます。人気のある番組を多く作ってこられた、とか」
「俺が作ったのは『人間が好む番組』で、同時にそれを作る人間が憎まれるという、まぁ、奇妙なねじれた作品ばかりさ」
佐々木は新調した手帳を取り出した。もう、長い間、カレンダーに合った手帳など、持ったことがなかった。新しい自分がここにいるのを、佐々木は嬉しく、そして同時にこの年齢で未知なる世界に挑むことへの一抹の不安を覚えていた。
絵里は何も言わなかった。ただ、佐々木の言葉を待っていた。
「絵里、結婚報道と離婚報道、メディアが飛びつくのはどちらだと思う?」
「おめでたいのは、結婚でしょうけれど」
「ああ、だが、視聴者は破局の方が見たがるものだ。芸能人の結婚にまつわる惚気話を聞かされるより、いかにして不幸になっていったか、離婚にいたったか、そっちの方が興味をそそるんだ」
「人の不幸は蜜の味、といいますね」
「ああ、まったく、その言葉通りだよ。俺は、そこに目をつけた。他人が落ちぶれて行く姿を見ると、人は自分が勝ち誇ったような錯覚を覚える。それは、生き物としての本能かもしれない。集団の中で優位に立とうという本能だ」
「本能……」
「ある精神学者の言葉に、こんなものがある。『理性は明るいが、過ちを犯す。本能は暗いが、決して過たない』。理性は様々なことを可能にし、広くその腕を広げることができるけれど、失敗することもある。本能は、決まったことしかできないけれど、それは間違いをおかさない、と」
「はい」
「俺は、その本能とやらが、人間の根幹にあり、穢いものを好む性質に関わっていると思っている」
佐々木は今日の日付のページに、何やら書きつけながら、
「絵里、お前には、人の本質が、どう、見えるんだ?」
「本質、ですか?」
「そうだ、人間が本来持っている性質。中国の思想家たちは、性善説だの性悪説だのと、人間の資質を考え続けたものだが、答えなど出ないままだ。おまえは、どちらだと思う?」
絵里は、しばらく首をかしげて考えこんでいるようだった。それに合わせて、佐々木の手も止まっている。絵里の言葉を書き留めようというのだろう。
「この前、定期健診で病院に行きました」
絵里は静かに話し始めた。
「その時、出産を終えて退院してくるお母さんとすれ違ったんです。そのお母さんは、生まれたての赤ちゃんを抱いていました。すれ違う瞬間、私は……その……おそらく、赤ちゃんの思考に触れたんです」
「ほう」
「お母さんの感情とは区別できましたから、おそらく、あれは赤ちゃんだったと思うんです」
「生まれたての赤ん坊、か」
「はい」
「何よりも、人間の本質に近いな。それで、その赤ん坊は、何を考えていたんだ?」
「それが……その……」
絵里は随分と言葉に苦労しながら、
「あれは……何と言ったらいいのか、言葉につまってしまうのですが。あえて、言うならば、〈神〉でしょうか」
「神?」
「はい、全知全能の……いえ、全能ではないですね、けれど、この世の真理を全て知り、誰よりも聡明な思考でした」
「赤ん坊が?」
「はい。その子は、私のことも見抜いていました。思うんですが、生まれた時、全ての人はテレパスを持っているのではないでしょうか。言葉、はわからないですが、それ以上に全てを見て知っているような気がするのです」
「ふむ」
「そこには、善も悪もなく、ただ〈現実〉だけが見えている……」
絵里は遠くを見つめる目で、
「人間社会の中で生きていくうちに、赤ちゃんは成長していきます。人間、として作られて行く。それは、人間としての成長であると同時に、生命としての退化のような…」
と、言いかけて、絵里は口をつぐんだ。
佐々木は長すぎる沈黙に、顔を上げた。彼女の顔色は真っ青で、すでにかすかに震えてさえいる。白い両手で口元を抑え、吐き気を堪えているかのようだ。見開かれた目から、一雫、涙が落ちた。
「絵里?」
何かを感じたのか、結城が
マジック
序章・第一章終了です。
鹿島兄妹を取り巻く状況は、いかなるものなのか。
佐々木に対して、結城が突きつけた償いとは?
第二章にご期待下さい。
なぁんて、かっこ良く書いてみたw
河野は子供の頃からマジックが大好きで、よくテレビで見ていたものです。
けれど、タネがわかるほど、賢くはありませんでした。
今もですがw
それでも「え? 今どうやったの?」って、答えがわからないままにしておくのは、嫌だったんです。
気になるじゃないですか。
クイズ番組の回答を見られない気分です。
なので、いつしか、こう、納得するようになりました。
「マジックには、タネもシカケもないのだ。彼らは超能力者だから、できて当然なのだ」と。
それ以来、マジックを見てもイライラすることはなくなりましたね。
この作品は、そんな私自身の日常の感覚に着想したものです。
さて、ほとんどぶっ倒れていてしゃべってくれない絵里ちゃん。
頑張れ〜