レッドアイ
めずらしい夢をみた。
僕の体は五歳児くらいで、母親が買って着させたprettyと刺繍(ししゅう)がしてあるぶかぶかのシャツを頭から被っている。
六畳間の湿った和室に一人ぼっちで立っている僕の目には、窓の外の濃紺の空に浮かぶ刀のような薄っぺらい月が写っている。
僕は台所に行って冷蔵庫の冷えたビールでうがいをし、寝る準備をはじめた。足元に置いてある糠味噌(ぬかみそ)の入った壺には、LPレコードが何枚か漬けてある。
台所の小さな窓から外を見ると、猪が一頭飛んでいた。
当然、僕は馬鹿馬鹿しい夢だなと思った。言う事も無いが、夢だから猪が空を飛んでいたって別段驚きはしなかった。
しかし、猪が空を飛んでいた事に驚きはしなかったものの、何故だか気分はとてもざわついた。
僕は窓ぎわに寄って、猪を目で追った。猪は人のように胡座をかいて、月と並行な位置を飛んでいる。腹を正面に向け、向かいの平家の屋根すれすれのところを、ほとんど歩くくらいの速さでゆったりと。僕はさらにそれを覗き込もうと窓に手をかけた時、足で糠味噌の入った壺を思い切り蹴ってしまった。
糠味噌はあたりに飛び散り、漬けてあったレコードが一枚、真っ二つに割れてしまった。
「勿体無い。これじゃあ食べれないじゃないの。」
と怒る母親の顔が頭を掠める。
その音を聞いた猪が、体をびくつかせ、向かいの平家の屋根に四つん這いで着地すると、さぐるようにこちらを振り向いた。
油断していた。五歳児の体を相手の視線にさらして、僕は呆然と立ち尽くす。
空は次第に青くなっていく。夜明けの空の変化は、想像以上に早い。
膠着(こうちゃく)する僅かな時間のあいだに、猪が羽織っているギンガムチェックのチョッキの色が確認できるほど明るくなっていった。
猪は
「見られちまったか、やれやれ。」
と言って体をひるがえし、屋根の向こう側に飛び降りて消えてしまった。
しまった。見てはいけないものを見てしまったようなその言い草に、僕はどうしよう?と考える。
しかしそう深く考えたところでこれは夢だ。夢でなければひどい幻覚だ。どちらにせよ、現実とはかけ離れたものである。何かされたって、所詮は幻だ。
馬鹿馬鹿しい。と口に出して呟き、今度はトマトジュースでうがいをすると、僕は和室に戻り、湿った布団を敷いて寝た。
軋(きし)んだノックの音で目を覚ます。こんな時間に誰だろう。多分さっきの猪じゃないかなと半開きにしたドアの向こうに、やはりさっき空を飛んでいた猪が散弾銃を持って遠慮がちに立っている。チョッキのポケットは銃弾ではち切れそうだ。
「お前が想像している以上に、これはなんともないことなんだ。」
猪は申し訳なさそうに銃口を向けてそう言った。
「なんともないことはないじゃないか。だって君、空を飛んでいたんだぜ。」
僕が語気を強めてそう言うと
「今にわかるよ。」
と言って僕を撃った。
銃声が響くその少しあと、僕は目を覚ますと、そこはまたいつもと似た朝だった。
レッドアイ