雪ンクル
「雪ンクル」
もう3月だというのに今年の雪国の春はまだ遠い。雪というのは人のファンタジー気をそそるもののようで、雪女がその代表と言える。まだ歴史の浅い北海道にも雪にまつわるファンタジーがあり、雪ンクルもその一つである。
ぼくが、初めて雪ンクルを見たのは、3月、冬の終わりの季節だった。
本州では弥生の空だというのに、今年の北海道では気温が一向に上がってこない。特に寒気が強いからで、雪もよく降った。
昨夜から今朝にかけて天気が荒れ、けっこう吹雪いた。
――また、雪カキか、面倒っちいな。
吹雪くと、たいして雪が多くなくても、吹き溜まりができ、車が埋まることもある。
僕は仕方なしに雪カキに出ることにした。今日は土曜で休みなのだが、車の上に積もった雪を払い、道を確保して置かないと出かけることもできない。このところ土日になると雪が降った。「休みの日には雪かき」それが最近の定番になった。
家は玄関と駐車場が別なので、その分他の家より雪カキの距離が長い。親父も、家を建ててしまってから、一冬目に苦笑いをした。
「これは計算外だったな。ま、排気ガス臭くなりっこないから、良しとしよう」
親父は変な納得をして、僕を雪カキに借りだしていた。僕には迷惑なだけだったが……。
あれから10年、親父もなくなり家には僕とお袋の二人だけになったが、雪カキの労力はかわからなかった。というより、親父のいない分僕の働きが増えた。
だが、そのおかげで、隣のジイさんと親しくなった。僕が気まぐれに雪カキをちょっと手伝ったのが縁で、言葉を交わすようになった。二人とも趣味が釣りだということもお互いの距離を縮めていた。
その日も、ジイさんと何気ない挨拶を交わしながら雪カキをしていたわけだが、今日はどういうわけか、跳ね上げた雪が何度も僕の方に飛んでくる割合が多いことに気づいた。風が吹いている日に、風上に向かって雪を投げるとよくこういう目に合うのだが、今日の風はほとんど無いに等しい。なのに、よく自分の方へ雪が舞ってくる。
「おじいさん、今日はなんだか雪の舞い方が変だね」
「なした?」
ジイさんも雪カキの手を休めて、僕の方を見ながら手袋を外した。ポケットに手を入れて煙草を取り出すつもりのようだ。
「妙に、僕の方に雪がかかるんだ。風もないのにさ」
「そりゃ、雪ンクルだ」
「雪ンクル? なにそれ?」
ふきの葉の下の神様でコロボックルというのがいるのは僕も知っていた。佐藤さとるがこの神様をテーマに童話を書いから、その名が伝わるようになり、倉本聰がいくつかの小説に『ニングル』という名前で登場させている。北海道に住む人ならお馴染みに神様だ。
だが、ジイさんのいう雪ンクルはそれとは違うらしい。
「冬の晴れた日に人里に現れることがあるそうだ。コロボックルより小さな神様で、雪色をしているから人の目にはほとんど見えん」
ジイさんの吐く煙草の煙が、青い空にゆっくり昇っていく。
「ジイさん、見たことあるのかい?」
「昔な、たった一度、ほんの一瞬だけな。今日みたいに吹雪いた翌朝だ。やっぱり空が青く澄んだ日だったな。物置の屋根の雪を下ろしてたら、ちょっとバランスを崩して雪の中に転げ落ちたんだ。雪に埋まった顔をふっと上げるとな、そこにいたんだ」
「どんなやつだった?」
「そうさな、これくらいで」とジイさんは小指を立てた。
「全身は真っ白というか、透明というか、雪のようにきれいだったな」
「それでどうしたのさ、捕まえた?」
ぼくはもう別な想像を巡らせていた。ジイさんが手を出すとそいつががぶりと噛みついて、小指の先を食べたとか……、そう、ジイさんの左手の小指の半分が欠けているのをぼくは知っている。
「いや、そいつはさっとわしに雪をかけてな、ワシが顔をそむけた隙に雪に溶けていったさ」
「雪に溶けた??」
「ああ、すーっとな、溶けるように消えたんじゃ」
その時、ジイさんの肩越しに、屋根の雪のひとかたまりががはらりとおちた。そしてもひとつふたつ、はらはらと落ちた。その落ちたていく雪の上に何かが乗っているような気がした。その時ぼくは首の伸ばしすぎたスッポンのような格好をしていたかもしれない。
「あんまり、そっちを見るな」
その声に押されてぼくは慌てて目をそらした。
「人に見られるのを嫌がるからな。あの雪の落ち方は雪ンクルじゃ。ああやって雪を落として自分がその上に乗って遊ぶんじゃ」
じゃ、今うっすら見えたのがそうなのか? いやしかし、見えたというのかどうか……。よくわからない。
だけど、屋根の雪に背を向けているのに、このジイさんには見えるのか? いや、ジイさんはきっと感じてるんだと思った。
そんな僕の心を察してかどうか、ジイさんは得意そうに煙草をふかした。時折口から煙の輪を吐く。風がないので、ふんわりと浮かんだ輪は徐々に大きくなりながら青空を昇っていく。きれいだなと思いながらそれを目で追った。
その輪にたわむれるように、透明な何かがちょこんと乗って昇っていったのがぼんやりと見えた。それは、はっきりとは見えないが、どこか可愛らしく、でも見てはいけないもののような気がした。
ぼくが、本当に雪ンクルに出会ったのはもう少しあとのことだった。
雪ンクル