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五十九






 


 持参した煙草の二本目の煙が混ざらないここの廊下は,安易な宿泊客とともに人を寄せ付けない老舗の一部を成している。暖色系の電灯はクリーム色の壁にぶら下がっているように見えるが,それは等間隔に置かれている意図のためであって,昼間になればすべての壁は真っ白いものとして『マダム,何をしていらっしゃるので?』と問い続ける。所々に散見される意匠は紳士な教育の賜物なのだ。それは部屋の中もまったく一緒で,私は着いた昼下がりから室内灯を点けっぱなしにしている。おかげで内装はよく覚えているし,掛けられていたチェリーブロッサムの木の絵も目に残ってしまった。ここの椅子はどこにあるものも嫌味のない静かな作りだから,履いてきたハイヒールの片方を脱いで,彼女からの連絡を待ちながら観賞し続けるしかなかった時間は黙りを続ける室内電話と私の関係を深くした。それがこのホテルを訪れてやっと感じ入ったことで,事実と違って三階の電話がリーン,リーンと鳴らなくても私は素直にディナーに出掛け,そしてそこに帰って来てからそのまま眠ることも難しくなかったと想像している。想像しているからこそ,勿論電話は鳴った。気付き,椅子から立ち上がって受話器を取るまでに要した五回のコールの先に,彼女が待っていた。
 その彼女はここの廊下の真ん中の部屋,ドアを開けてそのまま窓側に歩み寄ればそこを通るぼんやりとした夜の人も伺わせる,程よい中庭に出会えるその部屋の玄関口に立っている。私がそのことを分かるということは彼女はドアを内開きにしている。その最後の最後までそうして,私が泊まる部屋と同じ色の灯りをあくまで部屋の外である廊下に漏らしている。半身なのは,彼女がドア側に付いている(と私はもう知っている),スイッチの前に右手をかけて立ち止まっているからでしかしおおよその人が認める程に綺麗なのは,スレンダーな身を包んでいるタイトなドレスがとてもマッチしているからだろう。真っ黒というには柔らかい印象が付いて回るのは切れ長の彼女のもので,片耳のイヤリングは揺らめく色合いを見せる誰かが贈ったものかもしれない。手に収まるポーチから,閉められたキャリーケースと同じブランドで揃えているのは確かに利便性を重視した結果だった。そのブランドはそこまでで,それ以外のものにはない。
 もう一度,二本目の煙草の最後の煙を吐いて,ここの廊下でも待っている私は彼女にさっさと聞いた。
「どうしたの,そこにあったの?」
 しかし彼女は室内の灯りとともに露わにしているその片目もこちらに向けなかった。だから私はもう一度聞いた。彼女はそれで嘆息をこぼして,片目も閉じて答えた。
「ええ,残念ながら。」
「そう。」
 と私は応じた。そこに続く言葉は,だけど「それで,」と切って二本目の煙草の終わりを待った。
「それで,も無いわね。」
 彼女は先にそう答え,切れ長の両目を恐らく同時に開けた。
「ただの真実よ,それだけ。」
 そうも言って,灯りを消してドアを閉めた。
「煙草は?」
 あるかないか,を彼女は最後まで聞かない。私は二本目を示したまま言う。
「もう無いの。」
「じゃあ,残念ね。」
 彼女はその髪をかきあげるのも早い。
 絨毯を下り,階下に続く階段に足を置きながら滞在日数の確認とその後の旅程,帰宅するのかしないのかも聞きながら,私は彼女に絵の話をした。といってもあっさりとした話だ。着いてからどうして,こういう絵だったという印象にとどまる程度のもの。けれど彼女は絵よりも椅子に興味をそそられたようで,着いてから準備するまでまだ一度も座っていないという彼女は階下に向かう足を止めて,「戻ったら必ず座るわ。」と決めたことを私に言った。「ええ,お好きにどうぞ?」と彼女の後ろ,階段として高い位置から恭しく私は答えたが,彼女は特に反応することなく「ええ,そうするわ。」と改めて言った。「ええ,是非とも。」と私も言った。
 チェックインを済ませる知らない人たちの足下にもさっきと同じ絨毯が続いて彼女,私という順番でそれの一部を踏んだとき,彼女は中庭に視線を留めて,側に立つ私に「オータム。」と言ったことは意味があったのか分からない。ただ彼女は先に歩かないで,私が歩いた。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-10

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