その扉の向こうへ
暗闇の中で
津波に飲み込まれてから、ずいぶん時間が経っているような気がした。
正確には何時間彷徨っているのかわからない。ただ歩いていただけだ。あてもなく、方角もわからず、時計もない。これはまさに闇雲だ。真っ暗闇に飲み込まれた道を一人とぼとぼ歩いていると遠くに屋台の明かりが見えた。ただ一軒だけが明るく輝いている。広大な闇の真ん中を、少し切り破いたような明かりに見えた。なんだか不思議な気持ちを抱いたまま、その明かりに向かって近づいていった。漂ってくる美味しい香りが鼻をくすぐる。そういえば、お腹が空いていた。何時間も何も口にしてない。無性に空腹感だけが襲ってくる。食欲が足を動かしていた。
調理をしているのは小太りで中背の女性で、胸に文字がプリントされた白いTシャツを着ていた。スープの湯気で背中がにじんでいる。頭の後ろでまとめた茶髪がぐちゃぐちゃだ。おでんか麺のスープの灰汁を取っている。調味料、香辛料の瓶詰めが、脇に並んで置かれている。お椀やグラスが所狭しに並んでいる。頭上には数種類の一升瓶が反対向きにセットされている。その中を、せかせかと動き回っている。しかも動きに無駄がない。合理的だ。
近づいてゆくと、傍まできても見向きもしない。何か注文しようとしたが、ポケットに財布がないことに気付いた。そういえばデイ・バッグに入れてロッカーの中に置いてきた。
ただじっと見ていると、少しして一瞬だけ目が合った。
「なに食べる?」
手の甲で額の汗をぬぐいながら言った。その声は以外にもハスキーな枯れた風な声だった。微笑を向けてから彼女は前掛けで手を拭いた。
「ねぇ、そこに立って見てるだけ?」
何か言わなきゃ。
「あっ、いや、その……」
「私の言ってることはわかる?」
「……も、もちろん」
「名前は?」
「えっ、突然?」
「名前は、覚えてる?」
「なんで?」
驚きながら両手を上げて。
「”なんで”、それ苗字? それとも住所?」
目をあけると白い天井が見えた。ここはどこだ。病室?
その扉の向こうへ