卒業の前に

去りゆく青春

 青春なんてすぐに終わってしまうと誰かが言った。今の俺なら、その言葉の通りだと頷いてしまうことだろう。

 雲の厚い空は低く、止めどなく疼きつづける無意味な胸騒ぎを助長している。金属の窓枠から伝わる冷気が、シャツとブレザーを通して微かに肌に伝わっていた。
 高校卒業の前日、卒業式の最終練習と称して、全校生徒が呼び出された日。そんな退屈な時間は午前と共に終わり、ほとんどの生徒はそのまま帰路に着いているはずの時間。空っぽの教室で、俺は一人で空と見つめ合っていた。
「なに黄昏てるのさ」
 視界の端に女子の制服が映る。三年間見つづけ、飽きてしまった紺の制服。その服でさえ、心を締め上げているように感じてしまう。
「なんでまだいるんだよ……」
 呆れたような俺の声に彼女が、お互い様だよと呆れた声で返す。一息吐いた彼女は、後ろ手に隠していた缶コーヒーを差し出した。学校の昇降口に設置されている自販機で買ったお馴染みのものだった。
「だからブラックは好きじゃないって言ったよな?」
「奢ってあげてるんだから文句はなし。それに男なら黙って飲みなさいよ」
 何度したかわからないやり取りをけらけらと笑いながら、何度も俺の背中を叩いてくる友人。俺の青春の大半を一緒に過ごした腐れ縁。そんな少女、三木あやかが缶コーヒーを無理矢理握らせてくる。思ったよりも熱くて取り落としそうになるのを堪え、平気そうな顔を装いつつ、プルタブを引いた。小気味のいい音と、飲み口からほんの少しの湯気が昇っていく。途切れた湯気の続きを追うように、また空を仰ぐ。
「卒業だよ、明日でさ」
 隣の彼女の口元から白い息がぽかりと浮かぶ。そうだな、と俺の口からも息が漏れ、彼女のそれを追っていく。
 目線は少しずつ下がっていき、対面に建てられた北校舎の白壁をなぞる。視線が落ちていく度、そこに掛かっていた文化祭の垂れ幕、陸上部がインターハイへの出場を応援する横断幕、修学旅行の朝に集合した昇降口と青春の欠片を思い出させる。その全てが鮮明に、今さっき起こったことのようで、缶コーヒーだけで手一杯な自分には多すぎるようにすら感じた。
「高校は楽しかった?」
 彼女が俺に笑顔を見せる。それだけで彼女に問い返す術を失って、数秒、言葉に迷う。
「それなりに楽しめた三年間だったよ。新しい友達もできたしさ、放課後だって、皆で夜遅くまで遊んで、十分すぎるくらい満喫したと思う」
 よかったよかった、と他人事のように頷く彼女が酷く不自然に感じたが、そっと視線を空に戻す。相変わらず空は分厚い雲が蓋をして、太陽どころか、空の青すら見せない。
 少し冷めてしまったコーヒーに口をつける。苦さと一緒に、熱が口に広がり、喉を滑っていく。苦手なブラックコーヒーを俺に渡してきた同級生は、甘いココアをちびちびと飲んでいる。彼女の行動はいつも突然で、何の計画性もない。そして、今日もそれは始まった。
「思い出巡りしたくない? ていうか、しよう! 強制で!」
 不敵な笑みで俺を見つめた彼女は、いつものように大きく一歩を踏み出した。いつものように呆れる演技をしてから、机に置きっぱなしになっていた荷物を掴んだ。その弾みで机が大きく揺れる。その音が教室に響き、人気のない廊下に反響した彼女の足音が重なっている。
 扉を開けた向こう、廊下の先で彼女が手を振っている。それがいつもの光景だった。違うのは周囲に人がいるか、いないかというだけ。俺は彼女のように歩幅を大きく、これでもかと踏み出した。そんなひとつの動作だけで、とくん、と胸が高鳴る。勝手に笑い声が漏れた。
 地面を蹴った俺は腐れ縁の友人の元へ駆け出す。彼女へのわがままな気持ちをそっと押し込めて。

遠くにある始まり

 機嫌が良さそうな彼女が俺の半歩先を歩く。上機嫌のとき、跳ねるように揺れながら歩くのが彼女の癖だ。それは出会った当初から変わっていない。
 さっきまで空を覆っていた雲は、いつの間にやら切れ切れとなり、太陽光を少しずつ、賑わしい商店街に優しく当てはじめていた。俺の足元から伸びた影が彼女の爪先に触れる。その足が時々、こちらを向いては、小学生のころから一貫している俺のあだ名を呼ぶ。その声に押されるように足を速めても、彼女の方もどんどんスピードを上げ、ずっと半歩分の距離が空いているままだ。
 不意に彼女の動きが止まる。それに釣られた俺は、つんのめるように停止した。
「あれ食べようよ」
 無邪気に笑みをこぼした彼女が指差すのは、精肉店が店先で揚げているコロッケだった。その香りはすでに俺の鼻にまで届いて、空きっ腹を刺激している。そんな腹具合では断る理由もなく、彼女の背を追って、精肉店のカウンターに歩いていく。
 何度も来ていた俺達は店主のおばさんにすっかり顔を覚えられていて、彼女のコロッケに肉団子と冷やかしの言葉をひとつ、おまけで貰った。何度もお礼を言ってそこを後にする俺に、彼女が笑顔を向けてくる。
「彼女だってさ、そんなに仲良く見えちゃうかなぁ。腕組んじゃう?」
 調子に乗りはじめ、腕を突き出す彼女の言葉を軽く聞き流しながら、唐揚げを一つ頬張る。口の中が一気に熱を持ち、すぐ痛みに変わる。慌てて息を吐いてその熱を追い出そうとする俺。左目から涙が一筋、頬を伝う。彼女はずっと、面白そうに俺のことを眺めていた。
「そんなに熱い?」
 平気そうにコロッケの端を齧った彼女の口角がきゅっと上がり、意地が悪そうにその大きな目を細める。気付いたときにはもう、彼女の指先は黄金色の衣に触れていて、そのまま口の中に放り込んでしまった。
 口に入れてからすぐに、彼女の目尻に涙が溜まった。天を仰いで、ぽっぽ、ぽっぽと白煙を上げている。それをひとしきり楽しんだあと、熱かったろう? と尋ねると、彼女は不服そうに唇を尖らせる。俺を睨みつけて数秒、ぷっと彼女が噴き出す。それを合図に二人して大声で笑いはじめた。周りにいた通行人の視線も無視して、こんなことは高校生のときにしかできないだろうなと頭の隅で考えながら、なんでもない光景に大笑いしていた。
「ねえ、初めてわたし達が話したときって覚えてる?」
 口の端が吊り上ったままの表情で彼女が唐突に問い掛ける。丸い瞳がじっとこちらに向けられている。からかうような表情の中に、不安げな顔が覗く。
 息を吐いて、幼い思い出を順繰りになぞっていく。何気もなく扱っていた記憶をひとつひとつ、大切に覗き込んでいく。一番古い記憶、席に座った二人。その手には四つ折りになった紙切れ。
「席替え、だったよな?」
「当たり! わたしの特等席、窓の側を盗ったんだよね」
 二年の最初の席替え。クジ引きの結果、窓際になった俺にいちゃもんをつけてきた背の高い同級生。それが彼女だった。それからことあるごとに喧嘩を売ってくるようになって、次第に俺が譲歩することを覚えて、いつの間にか、今の関係が完成していた。最後の喧嘩も遥か遠く、思い出の果てにあるような曖昧な言い合いだけを覚えていた。
 数えきれない人で埋め尽くされた雑踏を進んでいく彼女の少し浮いた、輝くような雰囲気に吸い寄せられるように足が前に出る。咄嗟に彼女の名を呼んだ。くるりと振り返った彼女は、人の壁から華奢な腕を上げてこちらに応える。その手が右往左往しながら近付いてくる。
「ほら、ぼさっとしてんじゃないの」
 人と人の隙間からすっと伸びた手が、俺の手首を掴む。冷たい指先の感触に驚く間もなく、彼女の歩みに合わせて引っ張られていく。揺れる彼女の黒髪を視界の半分を占めてしまうほどの距離で、俺は彼女に合わせるように、大きく一歩を踏み込む。
 商店街の中心から離れれば、人の流れは緩やかになり、自然と彼女の指は俺の手首から剥がれていた。その代わり、俺と彼女は隣同士、並んで歩いている。
「どこに行く気なんだよ」
 からかうように微笑むだけでなにも話す気のなさそうな彼女は、ただひたすらに足を動かして前進しつづけている。
 やがて彼女が立ち止った。その目線の先には黒ずんだ白壁の切り取られた四角に、端々が朽ちた引き戸が二枚。古ぼけた置き看板からは“駄菓子”の単語だけが読み取れる。小学生のころに常連だった駄菓子屋だった。穏やかなお婆さんが店番をしていて、近所の子供達にとって憩いの場となっていた場所。中学に上がってからは足が遠のいていた場所。懐かしいと呟いて駆け出した彼女はすぐに引き戸を引いて、早く来るよう俺を催促し、俺はそれに従った。
 中はほのかに温かく、少し広くなっている所に置かれたストーブからはわずかな駆動音が聞こえている。
「いらっしゃいませー」
 間延びした声が聞こえる。奥の棚からひょいと顔が出た。小奇麗な格好をした若い男だ。着けている青いエプロンのポケットに持っていた駄菓子を放り込み、俺達の元へ寄ってくる。ここに来てから浮かびっぱなしの疑問を彼に投げかけてみることにした。
「あの、お婆さんっていますか?」
 その問いに彼は、あぁと唸って、けろりとした顔で答えた。
「祖母なら二年前に死にました、末期の癌だったんですよ」
 あまりにもあっさりとした受け応えに、彼女の表情が強張るのには数秒掛かった。 機嫌が良さそうな彼女が俺の半歩先を歩く。上機嫌のとき、跳ねるように揺れながら歩くのが彼女の癖だ。それは出会った当初から変わっていない。
 さっきまで空を覆っていた雲は、いつの間にやら切れ切れとなり、太陽光を少しずつ、賑わしい商店街に優しく当てはじめていた。俺の足元から伸びた影が彼女の爪先に触れる。その足が時々、こちらを向いては、小学生のころから一貫している俺のあだ名を呼ぶ。その声に押されるように足を速めても、彼女の方もどんどんスピードを上げ、ずっと半歩分の距離が空いているままだ。
 不意に彼女の動きが止まる。それに釣られた俺は、つんのめるように停止した。
「あれ食べようよ」
 無邪気に笑みをこぼした彼女が指差すのは、精肉店が店先で揚げているコロッケだった。その香りはすでに俺の鼻にまで届いて、空きっ腹を刺激している。そんな腹具合では断る理由もなく、彼女の背を追って、精肉店のカウンターに歩いていく。
 何度も来ていた俺達は店主のおばさんにすっかり顔を覚えられていて、彼女のコロッケに肉団子と冷やかしの言葉をひとつ、おまけで貰った。何度もお礼を言ってそこを後にする俺に、彼女が笑顔を向けてくる。
「彼女だってさ、そんなに仲良く見えちゃうかなぁ。腕組んじゃう?」
 調子に乗りはじめ、腕を突き出す彼女の言葉を軽く聞き流しながら、唐揚げを一つ頬張る。口の中が一気に熱を持ち、すぐ痛みに変わる。慌てて息を吐いてその熱を追い出そうとする俺。左目から涙が一筋、頬を伝う。彼女はずっと、面白そうに俺のことを眺めていた。
「そんなに熱い?」
 平気そうにコロッケの端を齧った彼女の口角がきゅっと上がり、意地が悪そうにその大きな目を細める。気付いたときにはもう、彼女の指先は黄金色の衣に触れていて、そのまま口の中に放り込んでしまった。
 口に入れてからすぐに、彼女の目尻に涙が溜まった。天を仰いで、ぽっぽ、ぽっぽと白煙を上げている。それをひとしきり楽しんだあと、熱かったろう? と尋ねると、彼女は不服そうに唇を尖らせる。俺を睨みつけて数秒、ぷっと彼女が噴き出す。それを合図に二人して大声で笑いはじめた。周りにいた通行人の視線も無視して、こんなことは高校生のときにしかできないだろうなと頭の隅で考えながら、なんでもない光景に大笑いしていた。
「ねえ、初めてわたし達が話したときって覚えてる?」
 口の端が吊り上ったままの表情で彼女が唐突に問い掛ける。丸い瞳がじっとこちらに向けられている。からかうような表情の中に、不安げな顔が覗く。
 息を吐いて、幼い思い出を順繰りになぞっていく。何気もなく扱っていた記憶をひとつひとつ、大切に覗き込んでいく。一番古い記憶、席に座った二人。その手には四つ折りになった紙切れ。
「席替え、だったよな?」
「当たり! わたしの特等席、窓の側を盗ったんだよね」
 二年の最初の席替え。クジ引きの結果、窓際になった俺にいちゃもんをつけてきた背の高い同級生。それが彼女だった。それからことあるごとに喧嘩を売ってくるようになって、次第に俺が譲歩することを覚えて、いつの間にか、今の関係が完成していた。最後の喧嘩も遥か遠く、思い出の果てにあるような曖昧な言い合いだけを覚えていた。
 数えきれない人で埋め尽くされた雑踏を進んでいく彼女の少し浮いた、輝くような雰囲気に吸い寄せられるように足が前に出る。咄嗟に彼女の名を呼んだ。くるりと振り返った彼女は、人の壁から華奢な腕を上げてこちらに応える。その手が右往左往しながら近付いてくる。
「ほら、ぼさっとしてんじゃないの」
 人と人の隙間からすっと伸びた手が、俺の手首を掴む。冷たい指先の感触に驚く間もなく、彼女の歩みに合わせて引っ張られていく。揺れる彼女の黒髪を視界の半分を占めてしまうほどの距離で、俺は彼女に合わせるように、大きく一歩を踏み込む。
 商店街の中心から離れれば、人の流れは緩やかになり、自然と彼女の指は俺の手首から剥がれていた。その代わり、俺と彼女は隣同士、並んで歩いている。
「どこに行く気なんだよ」
 からかうように微笑むだけでなにも話す気のなさそうな彼女は、ただひたすらに足を動かして前進しつづけている。
 やがて彼女が立ち止った。その目線の先には黒ずんだ白壁の切り取られた四角に、端々が朽ちた引き戸が二枚。古ぼけた置き看板からは“駄菓子”の単語だけが読み取れる。小学生のころに常連だった駄菓子屋だった。穏やかなお婆さんが店番をしていて、近所の子供達にとって憩いの場となっていた場所。中学に上がってからは足が遠のいていた場所。懐かしいと呟いて駆け出した彼女はすぐに引き戸を引いて、早く来るよう俺を催促し、俺はそれに従った。
 中はほのかに温かく、少し広くなっている所に置かれたストーブからはわずかな駆動音が聞こえている。
「いらっしゃいませー」
 間延びした声が聞こえる。奥の棚からひょいと顔が出た。小奇麗な格好をした若い男だ。着けている青いエプロンのポケットに持っていた駄菓子を放り込み、俺達の元へ寄ってくる。ここに来てから浮かびっぱなしの疑問を彼に投げかけてみることにした。
「あの、お婆さんっていますか?」
 その問いに彼は、あぁと唸って、けろりとした顔で答えた。
「祖母なら二年前に死にました、末期の癌だったんですよ」
 あまりにもあっさりとした受け応えに、彼女の表情が強張るのには数秒掛かった。

触れていたはずのもの

 俯いたままの彼女はやっと「そう、なんだ」と言葉を吐き出す。弱々しく、震えた声が静まった空間に溶けていく。
「祖母は子供達に心配されるからって夜にしか薬も飲まず、手術もしないで店に立ちつづけたんです」
 初耳だった。だがそれ以上に、あの笑顔の裏にそこまでの覚悟があったのだと言葉を失っていた。ちらりと彼女を見ると今にも泣いてしまいそうな笑顔で、彼女の知らないお婆ちゃんの話に耳を傾けていた。店に立ちつづけたいと言ったお婆ちゃん、青年がどれだけお婆ちゃんに影響を受けたか、一通り話し終えた青年が長話してごめんねと謝る。いえいえと頭を振った彼女が俺の手を取る。
「お婆ちゃんのお店を潰すわけにはいかないし、いっぱい買っていこうよ」
 お菓子の積まれた棚まで引っ張る彼女の手は温かく、柔らかかった。その手は陳列棚に着くと離れ、無数にあるお菓子の間を漂っている。そっと見た彼女の横顔は明るく、目尻には涙を溜めていた。
 結局俺達は、駄菓子屋で野口英世を一枚飛ばすほどの買い物をしていた。

 大量の駄菓子が詰め込まれた紙袋を抱え、俺達二人は川の土手に造られた歩道を歩く。袋の中で駄菓子同士が擦れ合う音、遠くで子供達の遊ぶ声、二つの足音、そんななんでもない音が茜色の土手に転がっている。
「もう夕方だね」
 夕日を見上げた彼女がぽつりと呟く。そうだな、と応えた俺の隣に並んだ彼女はぐっと腕を伸ばした。あれ見てと言った彼女の指先を辿る。空高くに舞った紙飛行機が斜陽を反射して黄金色に輝いていた。その下には必死にそれを追い掛ける子供達。
「俺達もああやって遊んでたな」
 自分の言葉に老いに似たものを感じて小さく噴き出す。彼女も同じことを考えたのか、こっそりと笑いを堪えていた。
「うん、小さい頃にね。実はその頃の傷、ちょっと残ってるんだよ」
 膝や肘を指差し、お嫁に行けないと騒ぐ彼女に変わってないなと返す。
「変わってないよ。ずっとわたしは変わらない。――それでも変わっちゃうんだよ。環境とか、考え方とか、経験してきたことが周りに集まってさ、変わらないわたしを隠しちゃったんだと思うの」
 遊ぶ子供達を視界の中心に捉えたまま、彼女に聞く。俺は変わったのかと。
「変わった。変わったけど、変わってない」
 哲学的だなと呟くと、哲学的だねと彼女も乗ってくる。そして、二人して仰け反るように笑う。そんな彼女の笑顔は今も昔も太陽より輝いて、何一つ変化していなかった。
 未だに続く笑いの余韻の中、彼女が俺の空いた手を握った。
「アキはわたしの変わってないところを見つけてくれるの。どんなに変わって見えても、埋まっちゃってたわたしを掘り出してくれる。……だから、ありがとうね」
 西日に染まった彼女の笑顔は少し寂しそうに、無理をしているように見えた。
「会ったばっかのときさ、ここに遊びに来たよね」
「水切りをしにな」
 初めて言葉を交わしてから数日後、挑戦状を叩きつけてきた彼女は俺をこの川に呼び出した。その挑戦の内容は水切りだった。石を水面で跳ねさせるというのは、小学生だった俺達には難しいことの筆頭だった。決闘場に着いた俺は嵌められたことを知った。誰かに教わったであろう構えをした彼女に、跳ねさせることすらできなかった俺が敵うはずもなく完敗を喫した。
「最後、泣きながらやってなかったっけ?」
 笑い声を上げながら、そう指摘する彼女。そうだったかと曖昧な返事を返したが、しっかりと覚えている。なんでそんなに泣いていたのか、それははっきりしないけれど。
「あの頃は、アキの方が背低かったよね」
 肩が触れ合うくらいに近付いてきた彼女がそう言った。あの頃は俺は背が低く、彼女の背は高かった。そのお陰か、彼女は女番長のようなポジションで、その毒牙のほとんどは俺に向けられていた。それが彼女のストッパーという定位置に俺がなっていった起源なのだろう。
 気付けば俺達は止まって、子供達をぼうっと見つめていた。紙飛行機を追い掛ける数人の小さな影。その影がいくつも重なり、集まり、散らばり、色々な形に変化していった。
「今はアキの方が高いんだもんね」
 肩に彼女の頭が乗った。自身の頭から水平に動いてきた手が俺の顎に当たる。その手が駄菓子の詰まった紙袋に突っ込まれ、小さな飴玉を拾い上げる。
「いいこと思いついた!」
 夕日に負けないくらいに赤い飴玉を口で転がした彼女が俺と手を繋いだまま、土手の斜面を駆け下りていく。彼女はあの頃となにも変わらない笑顔で、なにも変わらない自信を抱え、この場所を駆け抜けていく。子供達にお菓子を分けようと嬉々として語りながら。
「次さ、小学校行こうよ。屋上で空見てみたい」
 次の行き先も決めながら、彼女は子供達に駆け寄っていく。ふと、口元が自然と綻ぶのを感じた。それでも俺の中にある胸騒ぎだけは小さく疼きつづけていた。

離れてても、きっと

 赤錆びだらけの校門。勢いをつけ、それを乗り越えた。ざりという砂の感触が靴越しに伝わってくる。黒い緞帳が落ちたように周りには灯りがなかった。コンクリートに積もった砂の感触を感じながら、真新しい足跡を追って校舎へと足を向ける。
 子供達にお菓子を渡し終えると、軽くなった袋を持ったまま、俺達が通った小学校へ二人で向かっていた。だが、寂れた校舎が見えた途端、彼女は先に行くと言い残し、走っていってしまった。
 彼女の手の感触はもうなく、冷たい風が指先を冷やしているだけだ。こんなに不安になるのに何故、彼女を追わなかったのだろうか。湧き出した曖昧模糊な問いを振り払いながら、小さく開いていた扉から校舎に入る。
 天板の折れた下駄箱に積もる埃。廊下も砂だらけで風化の爪痕がそこかしこに存在していた。そこにあるのは一人の歩いた跡、小さい歩幅で、ところどころ引きずった、弱々しい足跡が一人分。胸がざわざわと騒ぎ、大きな歩幅の、焦った足跡を残していく。
 端が捲れ上がった階段に足跡は続き、机も黒板もなくなった教室の横を通り、さらに階段を上っていく。二階へ。三階へ。そして四階。埃まみれの張り紙には立ち入り禁止と大きく書かれている。その張り紙を無視した足跡をなぞって、階段をしっかりと踏み締めていく。
 上り終えた階段の先には半開きのドア。そのドアを押すと軋みながら殺風景な空間を露わにしていく。コンクリートの屋上、手すりの前。そこで彼女は遠くの光を見ていた。
「アキ、ありがとう。今日だけでさ、やりたいこといっぱいできたよ」
 上手く言葉が出てこなかった。吐息のような弱々しい「あぁ」が出ただけだ。
 彼女の隣に並び、彼女の目線の先を見つめる。彼女の視界には俺達の街があった。眼前の景色には俺達の青春のほとんどが揃っていた。
「わたしさ、この街を出るの。あっちの専門学校に受かったんだ」
 おめでとう、という言葉は彼女に遮られた。
「でも、怖いの」
 初めて彼女の口から出た弱音だった。震えた声が夜の帳に溶けていく。
「この街はずっとあるでしょ? それでも、わたしの住んで、わたしの過ごして、わたしの思い出の詰まった街はなくなっていくんだなってわかったの」
 彼女が弱々しく湿った息を吐く。彼女の握った手すりが小刻みに振動している。
「駄菓子屋のお婆ちゃんのこと、全然知らなかった。小学校の頃、あんなにお世話になったのにいつの間にかいなくなっちゃったの。この学校だってそう、わたし達がいたころから廃校が決まってたらしいよ。もうわたし達の思い出の場所がなくなっちゃうんだよ。信じられる?」
 喚くような、訴えかけるような声色で彼女は心を吐き出す。
「わたしの思い出が消えていくって思うとさ、足元が崩れたみたいになって怖いの。小学校の思い出、中学校の思い出、高校の思い出だっていつまで残ってるかもわからないんだよ?」
 上擦った声が静かな空に消えていき、二人の呼吸だけが俺達の中に残る。わざとらしく大きく息を吐いた彼女が、俺に痛々しい笑顔を向ける。いつもの笑顔と似た、全然違う、真逆の笑顔。彼女が俺に見せたことのない笑顔。それがちくちくと俺の胸を騒めかせる。
「ごめん、こんな話しちゃってさ」
 壊れそうな、ちぐはぐな表情をした彼女が俺に向き直る。彼女は弱々しく、自信なさげに俺を見つめている。俺は目を背けるように、俺と彼女が知っている世界のほとんどを眺める。輪郭を失ってぼやけた世界を映そうと、瞳が夜の闇を彷徨う。俺は今まで、何に焦点を合わせていたのだろう。
「アキに弱音吐いたの初めてだよね」
 消えてしまいそうな儚げな声に、俺の眼前の世界が鮮明になっていく。最も近くて、最も大事なそれに焦点が合った。声も自然と湧いてくる。
「お前が覚えてやればいい」
 胸を刺しつづけた痛みも消えて、なんの迷いもなく言葉が出てくる。
「俺と初めて話したことも、駄菓子屋のお婆ちゃんと話したこととか、この小学校であったことも全部。それでも不安なら誰かに話せばいい。俺でよかったらいつでも聞いてやるからさ」
 強い風が彼女の髪を撫でていく。丸くなった彼女の目がすうっと細められ、遂には噴き出した。
「なんなのさ、なんでそんな簡単に言ってくれてるのよ」
 彼女の握った拳が腹に刺さる。何度も何度も、無責任と不条理に罵られる。幾度と振り下ろされる拳が、次第に力を失ってずるずると俺の服の上を落ちていく。
「無責任だよ。……無責任なのに、悩みがなくなっちゃいそうなわたしもなんなのさ」
 彼女の頬を伝った雫が、渇いたコンクリートに二つの円を残す。俺の制服の裾を掴んだままの彼女の細い腕は、弱々しく小刻みに震えていた。彼女の弱々しい鳴き声は二人しかいない思い出の詰まった場所に柔らかく響いていた。

 嗚咽がおさまった彼女は少し腫れぼったい顔で、いつもの笑顔を浮かべていた。
「昔は逆だったのにね。泣くのがアキ、宥めるのがわたし」
 くすくすと笑う彼女。その顔にはさっきまでの違和感はなくて、俺がいつも見つづけていた顔に戻っていた。その腫れた顔が空を仰ぐ。月が欠け、星々が煌めく夜空は俺達には眩しすぎた。
「あーあ、泣くのは明日まで取っとくはずだったんだけどな」
 おかしいなあ、と首をかしげながら呟いた彼女は、思いついたように俺に目線を向ける。
「そうだ、君がいるからだ! アキが悪いんだよ!」
 なんだそれ。無意識にそう言い返して、空を仰ぐ。俺の背中に柔らかくて、温かい背中が重なる。その温度を惜しむように互いに体重を預け合う。
「まずは、合格おめでとう」
「……うん」
 ほんの少しの沈黙のあと、しっかりとした大きな頷きが背中越しに伝わる。互いに伝えることでもあるのか、不自然に息が止まっている。妙に胸が高鳴る。それでも、さっきの胸騒ぎより幾分もマシな鼓動だった。
「明日も一緒に帰るからね」
 彼女がぎこちなく呟く。
「有り得ないだろうけど、誰かに告白されて、そのまま浮かれて帰ったら怒るから」
 一拍置いたあとの言葉はすんなりと出たようで、ふんと鼻を鳴らした音も小気味よく跳ねている。
「そっちこそ、誰かに告白して、フラれたからって勝手にどっか行くなよ?」
 声を出した途端に高鳴りもどこかへ消え、普段と同じ雰囲気が流れはじめる。
「高校最後なんだから絶対にしません! ……それに伝えたいことあるし」
「俺だっていっぱい言っておきたいことがあるから待ってろよ?」
 互いの目が合う。彼女の瞳はさっきまで泣いていたからか潤んで、漆黒の夜空に星が浮いているかのようだった。そう考えた自分が可笑しくなって、これでもかと笑った。それに釣られて彼女も笑い出す。げらげらと大きな声が、冬の張り詰めた空気を溶かしていく。
 この冬で俺達は青春を卒業し、その先には春がある。そんな気がして、ひっそりと胸を躍らせる。
「帰ろっか」
 そう言って、俺の手を取った彼女の手の繋ぎ方はいつもと違っていて、いつもより温かくて、それが心地よかった。俺は彼女に引っ張られるまま、青春の最後の日に向かって夢中で歩き出す。振り向けば、美しい空に一筋の光が引かれたことを気に留めもせずに。

卒業の前に

卒業の前に

卒業式の前日、思い出巡りに行こうと言い出した彼女。彼女と綴る、最後の青春は少しだけぎこちない。 ※完結済み

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 去りゆく青春
  2. 遠くにある始まり
  3. 触れていたはずのもの
  4. 離れてても、きっと