神様の歯車 1章
「あっつ……。」
強い日差しを遮るように着こなされた全身真っ黒なジャージ姿をしている少女がいる。
黒のニットキャップまでしているにも関わらず今にも倒れそうなのだが、
それが逆効果になっていることを彼女は知らない。
そんな彼女は佐久城刹那(さくじょう せつな)。
つい最近十七歳になったばかりの普通の高校生とも言えるのだが、
今は夏休みということもあって高校生気分など微塵もない。
部活か何か知らないが街にいると近所の高校の制服を良く見かける。
せっかくの休みだというのにご苦労なことだ。
刹那も刹那で特に用事があるわけでもないというのに、
街の中にある公園でぼんやりしている。
何か目的があるわけではない。
ただこうしていることで時間を潰している。
家にいるよりはマシ。
それが理由。
何が嫌いかと聞かれると具体的にこれと言うことはないのだが、
塵も積もればなんとやらと言うもの。
あの場所には自分の居場所が存在しない。
休みの日にはこうして外へ出てあてもなくさまよう。
中でも街中にあるこの公園はお気に入り。
人が誰もいなくなることもないが大勢いるわけでもないが、
別に自分が注目されることもなく孤独を感じることもない。
暑さ対策をしているつもりの刹那だが、
実際には黒は光を集めてしまうから逆効果であることを知らない。
わざわざ暑い中を暑い恰好で直射日光を浴びるのだから、
フラフラになることも多々ある。
「よう、何してんの?」
チラッと声のした方へ目線だけ向けてみるとどことなく見覚えのある顔があるが、
どうも思い出せない。
知り合いだろうか。
などと考えているふりをしていると続けて話し出す。
「同じクラスなのにまだ顔も名前も憶えてないのかよ!」
覚えられるような顔でもないだろうと突っ込む気力もないが、
名前は思い出していた。
水鳥奏(みずどり かなで)。
確かそんな名前のクラスメートがいた。
背は刹那より十センチくらい高いだろうか。
百七十五はありそう。
髪はボサボサで真っ黒。
サッカー部にでもいそうな感じもする。
服装は白いシャツにジーンズ。
至って普通の恰好だろう。
普通だからこそ記憶にない。
いくら周囲に興味のない刹那でもクラスメートを誰も記憶していないことはない。
あくまでも四十人近くいるうちの一人。
その一人を覚えていないだけ。
そういうことにしておこう。
だがそれとは無関係に今とてつもなく目の前にいる男に興味がない。
脱力感と疲労感でいっぱいいっぱい。
背景と同化しているからこそ気分良くその場にいられた。
その後も何か話していたようだったがほとんど覚えていない。
別に一人が好きなわけでもないけれど、
いざ話しかけられるとどう答えて良いのかもわからなくなってしまう。
相手が何を期待しているとかどう答えると無難かなんて考えても分からない。
しばらく黙っていると水鳥奏も不機嫌な顔をして去って行った。
自分から声をかけてきたと言うのにそれなりの反応をしなければ、
刹那の方が悪者になってしまう。
だからそんな付き合いは面倒だ。
その後も刹那はそこから動くことはないが、
いくら背景になろうと試みても喉の渇きは耐え難い。
もはや限界。
まるでサウナにでも入っていたかのように立ち上がり真っ直ぐ自販へ向かうと、
水を購入して一気に飲み干した。
「ぷはぁー。」
思わず声が出るほど汗をかいていたらしい。
いつの間にかジャージが随分と重たく感じる。
とは言え帰宅するにはまだまだ早い。
どこか休める場所へ移動するしかない。
公園を抜け飲食店のある方へと進んでいく。
一番気楽なのはファミレスだろう。
一応ハンカチで適当に汗を拭くとファミレスへと入る。
すると一気に涼しく心地の良い風が刹那を包み込んできた。
まさにサウナの後の水風呂。
そんな気分。
さっき飲み物を飲んだというにも関わらず再び渇きが襲ってくる。
一番奥の席に座るとすぐにアイスコーヒーを頼み食事はのんびり考えることにした。
ファミレスの雰囲気はいつもと変わらない。
うるさいおばさんや学生。
優雅にお昼を食べながら仕事をしているおじさん。
何もいつもと変わりない。
居心地の良い場所とは決して言えない。
そんな場所。
ここからは大半の席が見せる。
先ほど見ていた場所から他へ目を向けると人形のような子を発見した。
一瞬本当にそうなのかと思わせるほど整った顔立ち。
服装だってまるで中世ヨーロッパから来たかのようで全身ピンク。
小さいハットにぴちっとした上下にブーツを履いている。
年齢は14歳くらいだろうか。
周囲の人はまるで気にしていないようだが、
日本のこんなファミレスにいるのは場違いだろう。
なんて刹那は思ってしまった。
そしてその子はもう会計に行くらしく真っ直ぐレジへ向かっている。
刹那は慌ててアイスコーヒーを飲みほし会計を済ませ後を追った。
追ってどうするかなんて考えていない。
ただもう少し見ていたい。
それだけ。
何も考えず後をつけているといつの間にか知らないところへ来ていた。
確か街中にいたはずだと言うのに人が誰もいない。
それどころか建物すらない。
そんなに歩けるはずもないというのにどういうことだろうか。
刹那は前を歩いている女の子に近づこうと駆け寄ろうとするが、
歩いているだけの女の子になかなか追いつけない。
声をかけようとしても届かない。
空を見上げると暑いはずの太陽の日差しが全く感じられない。
不可解なことだらけ。
「気になる?」
「!?」
それまで走っても追いつけなかった女の子が突然目の前にいた。
「ここってなんか変って思ってるんでしょう?」
「別にそんなことないし。」
図星だったが強がって否定してみると見透かしたようにクスッと笑われる。
「ほんと素直じゃないなーお姉さんは。
チョコレート食べる?」
どこから取り出したのか手には美味しそうなチョコレートがある。
なんの警戒もすることなく手を差し出すと、
再び女の子がクスッと笑っている。
「それで貴女はどこへ行くの?
ここはどこ?」
「どこだろう……私にもわからないよ。
わかることったら私の名前くらい。
私の名前はアリス・フローレ。
今はそれくらいしか思い出せない。」
それだけ一方的に言うとアリスは次第に遠くへと消えて行ってしまった。
夢。
全て夢だったかのように起きると部屋にいた。
よくあること。
しかし全てが夢ということもない気がする。
たまに自分でも気が付かないうちに帰宅して部屋で寝ていることがある。
多少気にしつつも考えたところで答えが出ることはない。
夕方になって日中の暑さも和らぐ。
寝ていたはずなのに体がだるい。
廊下の向こうからノックの音が聞こえる。
「お姉ちゃん?
帰ったの?
お父さんもお母さんもいないみたいだけど夕飯どうしよう?」
どうやら妹の声らしい。
佐久城円加(さくじょう まどか)十五歳で中三。
返事のないドアを開けて中へと入ってきた円加。
今日もいつもと同じ恰好をしている。
長い金髪をツインテにしてロンTに見えないくらいのショーパン。
そしてニーソを履いている。
刹那とは対照的に開放感のある明るい感じの恰好。
学校でもバスケ部に所属している活発的な女の子。
ごろごろしている刹那を見てもひるむことはない。
「ねーってば!
冷蔵庫にもなんもないんだよ。
飢え死にだよ!」
「……。」
言われるとお腹が空いている。
やはりあの夢は本当かもしれない。
ファミレスでアイスコーヒーを飲んだだけ。
「……。」
それとほんのり甘いチョコレートの香りが刹那の目を覚させた。
急な知らせに唖然とした。
聞き間違いかと思うほどの衝撃。
いつもなら自宅にかかってくる電話なんて取ることはない刹那だが、
その時に限って不意に目の前に鳴った電話の受話器を取ってしまった。
その内容は父の事故死を伝えるものだった。
半分以上が右耳から左耳へと抜けていった。
いくら日常の中でそれほど会話もなかったとは言っても親。
受話器を置いてからも未だに信じられずにいた。
何もできずに立ち尽くしていると階段を下りてくる円加の足音が聞こえてくる。
「どうしたの!?
そんな人生終わったみたいな顔して。」
それがいったいどれほどの顔だったのか刹那にはわからないが、
それほどショックだったことはこれで理解できた。
同時に円加が心配そうに見てくれたことで冷静さを少しずつ取り戻した。
刹那は円加に今かかってきた電話の内容を話すとテキパキと行動を始める。
まずは父の携帯へと連絡を取ってみて本当なのか確認を取ろうとするとやはり繋がらない。
車同士の事故だったということで携帯が壊れていても不思議はない。
普段であれば会社にいる時間帯ではあっても携帯に繋がらないなんてことはない。
次に円加は母に連絡を取り事情を話しているようだ。
「お姉ちゃん。
お母さんもすぐ来るって言うから先にお父さんのとこ行こう。」
なぜこんなにしっかりしているのかと普段から驚かされるが、
こんな事態に陥っていても冷静な円加を見ると刹那は自分がますます嫌になった。
すぐに用意を済ませ自宅を出ると大通りへと出てタクシーを捕まえ、
遺体の収容された病院へと向かった。
それほど遠くはない病院なはずなのにとても長い時間。
なんとも言えない不安と緊張で体が冷たくなるのを感じた。
自然と円加の手を握り震えるのを必死に抑えようとしていた。
「大丈夫だよ。」
きっと嘘だからなんて、
そんな気休めにしかなりそうにない冗談を言うこともない円加も、
手は握られているものの、
不安を隠せないのかずっと窓の外を見ていてちっとも刹那の方を向こうとはしない。
この沈黙は永遠にも感じられるほど長い時間だった。
病院に着くと円加が看護師に事情を話しているが、
刹那には恐ろしくてできやしない。
不安で周囲をキョロキョロしているとせわしなく行き交う看護師が見える。
こんな必死に動き回っている。
それでも人はあっさり死ぬ。
それが現実。
「場所まで連れて行ってくれるって。」
「……。」
「お姉ちゃんってば。」
袖をぐいぐいと引っ張られようやく我に返った。
「あ、うん。」
無気力。
いつだってそう。
やる気なんてありはしない。
喜怒哀楽なんて表に出すだけで疲れる。
何もしないで毎日が過ぎれば省エネな人生が送れる。
欲しいものがなんでも買えるわけでもないけれど、
それなりに自由に不自由なく暮らしていた。
それは父や母が働いて稼いでいるから。
何も生み出せない自分が恥ずかしい。
そんな父との最後の会話を思い返していた。
思い返そうとしていた。
なのに全く覚えていない。
それほどまでにどうでも良い会話しかしてこなかった。
霊安室へと到着すると安っぽいベッドの上に眠っている遺体がある。
顔には白い布がかけられまさにドラマなんかで見た光景。
さすがに円加もそれをめくることには躊躇している。
見ていた刹那は何か吹っ切れた気持ちで一気に布をめくった。
酷い喪失感。
なんとも言えない気持ちに襲われた。
悲しみや痛みとも違う喪失感。
埋めようのない気持ちがちっぽけな心を支配していった。
1時間ほどで母も駆け付けたが気丈に振る舞っていた日常と、
それほど変わりない態度。
まるで悲しんでいる様子はない。
「後のことは二人に任せても良いかしら?
仕事途中で抜けて来たから戻らないといけないのよ。
確認も済んだし葬儀とかは任せるわ。」
信じられない言葉を聞いた。
こんな時まで仕事仕事仕事。
刹那が堪え切れずに口を開こうとした時だった。
「お母さん。
それはあんまりだよ。
お父さん亡くなったんだよ。
こんな時くらい家族らしくしてよ。」
珍しく冷静な円加が怒鳴った。
一瞬怯んだようにも見えた母だがすぐに態度を示す。
それはいつもと同じ。
感情もない空っぽな言葉。
何を言っても聞こえない。
一度決めたら変えることがない鉄の心。
1分にも満たない親子喧嘩は円加の撃沈に終わり母は病院から去った。
刹那が心配そうに円加を見ると何かを決断したかのような顔をしている。
「お姉ちゃんさっきお母さん葬儀は任せるって言ってたよね。」
この時から何か嫌な予感はしていた。
円加がそんな表情をすると大抵は悪意のある悪戯になる。
こういう時は見て見ぬふりをする。
それが小さな頃からの刹那だった。
帰宅するや否やすぐに葬儀屋へと連絡をしている円加。
どうなっても刹那は知らない。
我関せず。
今までそうやってきた。
これからもそう。
変わることなんてないのだろう。
それでもそういう円加を見ていること自体は好きなのかもしれない。
自分がしたいことをしてくれている。
行動力がない刹那の分まで円加が二人分行動している。
何を話しているかまでは聞き取れなくても、
きっと母を困らせることをするに違いない。
それがどんなことでも刹那が円加を怒ることなんてない。
ようやく電話が終わると円加が駆け寄ってくる。
「お姉ちゃん準備して。
お父さんの実家に行こう。
お葬式はあっちでするよ。」
「え!?」
してやったりと言った顔の円加。
父の実家というのは今いる場所から遥か遠く。
飛行機と電車。
それからバスへと乗り継いで最後は徒歩が必要となる場所にある。
いくら仕事優先の母でも休みを取らざるおえない。
「お爺ちゃんにも電話しておくから!」
さっきまでの表情が嘘のような笑顔で電話をかけている。
少し呆れてしまった刹那は言われた通り父の実家へ行く準備に入る。
当然母が帰宅してそのことを知ると激怒した。
部屋にいた刹那にまでその声は聞こえていた。
確かに屁理屈と言えばそうなる。
いくら任せると言ったからと言ってわざわざ父の実家で葬儀を行うなんて、
馬鹿げた距離だし常識でもありえない。
とは言っても遺体は既に病院で送る手続きを済ませ実家へと向かっている最中。
今更なかったことにはできない。
すると母は更にありえない行動に出るのだった。
「葬儀に出ないってなんで!?
そんなの非常識すぎるよ。」
「円加がわがままなことするからでしょう。
葬儀なんてその辺で適当に済ませておけば良いのに。
とにかくお母さんは行かないから二人でなんとかして頂戴。
向こうに行けばお爺ちゃんとお婆ちゃんもいるし平気でしょう。」
こうなってしまえばもう引くことはない。
円加の思惑は無念に終わった。
次の日朝起きると既に母の姿は無く円加が不機嫌な顔で朝食の準備をしていた。
焦げた食パンと暑すぎる紅茶に冷たすぎる牛乳とぬるいサラダ。
それに崩れた目玉焼きと元の色が不明なウインナーがテーブルに並んでいる。
「……。」
「どうしたの?
早く食べてね。」
不気味に引きつった笑顔をされると返す言葉もなく刹那は気まずい朝食を済ませた。
準備も整うと早速父の実家へと向かう。
空港まではタクシーを使い搭乗の手続きを済ますと、
しばらく空いた時間を利用して飛行機を降りた後の汽車の時刻を調べたりする。
だいたい八時間程度かかる距離にある実家。
そこを普通の旅行のように二人は楽しみながら向かうことにした。
飛行機から見える景色は普段見ることのできないものだらけ。
大陸の形がはっきりと見え暇つぶしにはもってこい。
七四億人もいる世界の人口でこうして巡り会えた奇跡があるというのに、
なぜ母はそこまで無関心でいられるのかを考えていた。
もしも誰でも良かったというのであれば父にする必要なんてなかった。
もっと身近にいただろう。
不思議でならない。
「どうしたの?
珍しく考え事?」
「別にそんなことないし。」
そっぽ向いてそんなことしてないアピールをしてみるが、
誰が見てもわざとらしいし嘘を付いていることが明らかにわかる。
「気にしない、気にしない。
お母さんだって嫌いな人と結婚なんてしないし。」
刹那は驚いた。
まさか自分の思考が外に漏れている!?
なんて思ったがそこまで歳を取ったつもりはない。
まだまだ考えたことをぶつぶつ独り言のように呟くような年齢ではない。
見透かされてるなーと諦める。
飛行機を降りると汽車に乗りバスに乗り終点。
朝から始まった旅行もようやく目的地が近づいてきたところで、
一台の見覚えのあるおんぼろな車を発見した。
「あれお爺ちゃんの……迎えに来てくれたんだ。」
円加が元気良く手を振って挨拶をするとクラクションを鳴らして答えてくれた。
母が来ない事情を適当に話しては見たが、
祖父母も薄々感づいている様子でそれ以上触れずにいてくれた。
家に到着すると既にど田舎。
辺りには畑や田んぼばかりでコンビニなんかあるはずもない。
民家だってぽつんぽつんとあるだけで以前に来た時から、
時間が止まったかのように孤立した世界があった。
家にはお爺ちゃんとお婆ちゃんの他に伯父と伯母がいた。
父は三人兄弟の末っ子で実家を継いだ伯父。
地元の人と結婚した伯母。
末っ子だった父はわがままし放題に育ってしまったこともあって、
高校を出るとすぐに都会へと引っ越していったという。
それからというもの戻ってきたことは数回。
結婚したという報告と刹那や円加が生まれた時、そして今回。
たったの四度しか戻っては来なかった。
やはりここで葬儀をすることは妥当だろう。
みんな刹那と円加を家族のように扱ってくれた。
あっという間に葬儀も終了しすぐに帰ることになる。
残念そうに見送る祖父母たちに手を振りながらバスに乗り元来た道を進んでいく。
これでまたいつもの日常へと戻される。
あの家に戻れば父がいなくなったというだけで何も変わらない。
そんな日常が永遠と待っている。
バスから見える景色と同じでどこまでも緑そして青。
来る時はあれほど物珍しかった景色だと言うのにたった一日ばかりで、
これほどまでに見飽きるものなのかと思う。
疲れ切っている円加が寄りかかってくる。
よほど疲れたのだろう。
普段は大人っぽくしていて実際テキパキしているが、
まだ一五歳になったばかりの中学生。
こんな性格にしてしまったのが自分のせいでもあると思うと本当に申し訳ない。
ふとバスに乗っている乗客に目がいった。
「!?」
いつの間に乗っていたのだろう。
いやいやそれもそうだけどあの姿を見間違えるはずがない。
確か……アリス・フローレ。
そう名乗っていた。
全身ピンクの姿をしている場違いな感じの女の子。
とても気になる。
しかし立ち上がろうにも横で眠っている円加が邪魔で立ち上がれない。
起こすわけにもいかず悪戦苦闘しているうちに降りてしまうかもしれない。
再び視線をアリスに向けるとアリスはその席にいなかった。
どこに行った!?
一瞬降りたのかと思ったが停留所はあれからひとつも超えていないし、
バスが止まった気配もなかった。
「どうしたのお姉さん?」
ビクッとなって横に視線を移してみると刹那の隣にアリスが座っている。
一番後ろの席に座っていて良かったなんて状況判断ができていれば、
多少はパニックになることもなかったはずなのだが、
現状では刹那の脳内はパニックで今起きていることを把握しきれていない。
「また会ったね、お姉さん。
今日はどうしたの?」
なぜかアリスにはありのままを話せた。
父を亡くしたこと。
母が葬儀に出ないこと。
円加のこと。
親戚のこと。
これからのこと。
「なるようになるよ。
お姉さんはもっとやりたいことやったら良いんだよ。
間違えてるかもしれないとか、これをしたら誰かが傷つくとか。
そんなこと気にしすぎ。
自分がうれしいことは人にもしてみたら良いんじゃないの。
チョコレート食べる?」
「……美味しい。」
「お姉ちゃん、起きてよ。
もう終点だよ。」
「……終点?」
寝ぼけている。
眠たい。
「ちょっと寝ないでー!」
そんなこんなでようやく自宅へと戻ると日常がやってくる。
暑苦しい日中と息苦しい自宅。
何を変えられるっていうのか。
刹那はベッドで仰向けになって考えている。
父はなぜ田舎が嫌いだったのか。
確かにすぐ見飽きてしまう風景。
淡々と続く山々や青空は見ていてそんな気持ちになるのかもしれない。
都会なら毎日が違って見える空もある。
ただそれだけで自分の親にほとんど会うこともなく生活。
そんな人生はどうなんだろう。
刹那はふと自分もそうじゃないかと思った。
できるだけ帰りたくはない自宅。
帰っても顔を合わせたくない両親。
それが現実で父がどうだったかなんてことは、
今の自分を考えてみればすぐにわかった。
きっと田舎が嫌いで、そんな田舎っぽい両親や兄姉たちも苦手だった。
それだけのこと。
一週間が過ぎると日常も日常。
何事もなかったかのように朝が来て夜になる。
刹那も引きこもって一週間だるさもマックスで、
そろそろ外の空気が吸いたくなってくる。
誰にも気が付かれずに外に出ると暑い太陽に向かって歩く。
今日だって公園はいつもと変わらず人を集めている。
違うことと言えば刹那の服装。
以前なら真っ黒な恰好をしていたのだが今日は、
青のボーダーのニットにモスグリーン系のパンツ。
それにいつもとは違うキャップをかぶっている。
一種の気分転換というやつかもしれない。
意識をしてそういう恰好をしたわけではない。
自然とそんな気分だった。
「あれ佐久城刹那じゃん。」
声の主は再び水鳥奏。
恰好があれだけ違うというのにどういう観察眼を、
しているのかと突っ込みをいれたくなるところだったが刹那も冷静である。
特に挨拶をするわけでもなく声にだけ反応した。
「全く不愛想な奴だな。
クラスメートじゃん!」
「別にそんなことないし。」
「いやいや!
クラスメートだからな!?
別にナンパとかじゃなって。」
分かっていてわざと言ってることがわかっていないらしい。
全く暑苦しいことこの上ない。
こういうのを雑魚キャラと言うのかもしれない。
何度も出てくる割には目立つこともないし、
いなくても話には全く関係のない人間なのだ。
適当にスルーしているといつの間にかどっかへ行ってしまった。
それでも今日はいつもより気分がよかったせいもあって会話をしてしまった。
気分良く帰宅しようと立ち上がったところで急に雲行きが怪しくなってきた。
ものの数分もしないうちに晴天から大雨と変わりやむなく、
近所にあったコンビニへと非難した。
コンビニ内は通り雨を避けるために入ってきた人で混んでいる。
刹那も同様であるがなんとなく居づらい。
コンビニや単独である店に入るとなんとなく何か買わないと出にくい心境。
雨が止むのを待って適当なアイスを一つ買ってコンビニを後にする。
帰宅した家では珍しく母がリビングでのんびりしているがブツブツ言っている。
手元には珍しくビールの缶がいくつも転がっている。
お酒なんてほとんど飲めないはずだと言うのにどう言った心境だろう。
刹那はこっそりと気づかれないように二階へ上がろうとした。
「ごめんね。
もう少しだから……。」
手にしていたそれを見て刹那は絶句した。
見てはいけないものがあるとしたらきっとその瞬間。
緊張の中自室へと戻ったがドキドキが止まらない。
母が手にしていたものは確かにエコー写真。
まだ40になったばかりの母だから子供ができても不思議はないが、
そんな素振りは全く見せていなかったし頭が混乱している。
少し落ち着いた後に円加の部屋でさっき見たことを話した。
「それはめでたいことだよ!
お祝いしないとだね。」
「ちょっと待って!
確かに子供できてるならそうだけどあの時言ってたんだよね。
ごめんねって。
それにお酒までいっぱい飲んでたし。」
「それは珍しいね。
というかお酒全然飲めない人なのになんでかな。」
二人で考え込んでみても答えが出ることはなかったから部屋を出て刹那は下へ降りた。
そこにはまだ一人酔いつぶれている母がいた。
今度は逃げない。
そう誓って刹那は母の横に座った。
「ねえお母さん。」
「ん……なに刹那。
どうかしたの?」
やはり酔っている。
手元にはまだあのエコー写真。
聞くなら今が最大のチャンス。
「その写真ってさ……もしかして子供できたとか?」
「……あぁこれね。
まずったな。
見られちゃったら隠せないか。」
観念した母がとんでもないことを言った。
あんなことがあってまだそんなに日が経ってないと言うのに、
それと同レベル程度の衝撃だったかもしれない。
うちにはもう一人子供がいた。
そんなことをさらっと言われてしまった。
刹那が生まれる二年ほど前その子はお腹の中に確かに存在していた。
性別もわからないうちに死んでしまったらしいが、
その時両親は決めたという。
どんなことがあっても子供たちに不自由はさせない。
立派に育て上げる。
両親は優しさを押し殺して仕事に専念することで、
生まれてこれなかった子への気持ちをいつまでも忘れないでいられた。
そんな過去があったなんて知ってしまっては刹那もなにも言えない。
酔いが回り今にも眠りそうな母に毛布を掛け刹那は二階へ戻った。
しばらくは全てを受け入れるのに時間がかかる。
もちろん円加にも話さないといけない。
円加ならすぐ行動にでるかもしれないがそれじゃダメかもしれない。
刹那は自分で決断してなにかしたかった。
一日必死に考えて出した答えはお祝いをすることだった。
亡くなった日なんかではない。
悲しい日になんてしてしまったからいけないんだ。
勝手に刹那はこの日だと決めて円加とパーティーを計画した。
そんなパーティーなんて自宅でした試しがない。
自分たちの誕生日ですら自らケーキを買ってくる程度だったにも関わらず、
部屋には飾りつけをして料理も手の込んだものばかりを用意する。
そしてプレゼントまで買ってきた。
このことはまだ母には秘密。
帰ってきたら驚くだろうと刹那が円加に口止めをした。
幾度となく言いそうになる円加を必死に止めるなんてことをしたのも初めてだった。
「よしこれで準備完了!
あとはお母さん待ちだね。
今日は何時くらいに帰ってくるかな。」
「タイミング良く帰ってきたら良いけどね。
やばいと三時間待ちとか!?」
「いやーそれはお腹がぺったんこだよ。
こんなおいしそうなものお預けくらうなんて無理無理。」
円加は今にも料理に手を出しそうになるのを必死に堪えている。
なんだか犬みたいで可愛らしい。
刹那も当然お腹は減っているがそれよりも母の喜ぶ顔や驚く顔が見たくて、
待ち遠しかった。
一時間ほどするとようやく母が帰宅してきた。
部屋に入ってきた瞬間の顔を二人は見逃さない。
しっかりデジカメでも撮影をしてやった。
「これは何!?
今日はなにかの日?」
母の慌てようと言ったらとても笑えた。
今までにそんな表情見た記憶もない。
これが素顔なんだろう。
いつも後悔と向き合っていたからどこにいても誰に対しても、
本心から笑っちゃいけないなんだって頑なになっていた。
「今日はこの子の誕生日。
私が勝手に決めたんだけど良いよね。
だからお祝いしようよ。」
「ウンウン。
お祝いは楽しいよお母さん。
早く着替えてきて。
もう円加お腹空いたー。」
「そ、そうね。
ちょっと待ってて。」
久々に一家団欒のひと時を迎える。
あれほど会話に苦しむことが多かったというのにも関わらず、
今はとても自然体に会話が進んでいた。
別に話題を考えて話す必要なんてどこにもなかった。
自然に思ったこと感じたことを話していれば良い。
気を遣ったり遣われたりするような関係じゃない。
もう少し早くこんな状態になれていれば父とも自然に会話ができたかもしれない。
それが後悔かもしれないけどこのことがなかったら、
母とも一生こんな会話はできなかったのかもしれないと思うと、
感謝することしかできなかった。
それと生まれてこれなかった子に感謝。
そんなこんなで楽しいひと時は終わった。
これから始まる毎日が少しずつ変化していくことは目に見えてわかる。
これまで毎日同じ日だと感じるくらいどうでも良かったことが、
明日からは一日が違って見えるかもしれない。
そう思うととても嬉しかった。
部屋に戻るといつもの部屋がある。
当然だが何か変わるわけではない。
見た目はいつもと一緒の部屋。
静かで殺風景で真新しいものなんて何一つない部屋。
なんだか普段しないことをしたせいもあって睡魔が襲ってきた。
ふと目を開けると既に朝を迎えている。
何時間眠ってしまったのだろう。
しかしそんなことはどうでも良い。
今目の前にいる現実を受け止めるのが先。
目を覚ましたすぐ目の前にアリスが立っている。
これは明らかにおかしい。
一度目二度目だっておかしいというのに三度目は更に不可解。
どうやって上がってきたのかもわからないし勝手に入れるだろうか。
「おはようお姉ちゃん。
よく眠れた?」
いつものピンク色の恰好が良く似合うアリス。
しかしいつもと雰囲気がちょっと違う。
「昨日は楽しかった?
みんなで美味しいもの食べて笑って……。」
「!?」
どこから見ていたのか。
そんなことわかるはずがない。
なのになんだか理解していた。
昔からずっといた。
アリス・フローレという存在。
見て見ぬふりをしていた子。
生まれてこれなかった子。
その子は今でも刹那の中に生きている。
刹那が生きている限り。
いつまでだって。
どこへでも行ける。
明日は自分で決められるものだから。
神様の歯車 1章