鏡鬼幻想伝 ~序章~
■作品紹介
現代が舞台の「鬼退治」のお話です。
”中二病”で”伝奇っぽいもの”がテーマ。
全五章構成(予定)。
本作はその第一章です。
■あらすじ
榊原 兆、戌伏 美琴、申丞 孝太郎、矢雅見 万智は、私立白凰大学付属高校に通う、幼馴染み四人組。
榊原家で兆の17歳を祝う誕生日会を行うはずだった四人。
しかし、その場に現れた兆の祖父、榊原 宗大から「鬼」の話を聞かされるのだった……。
-登場人物-
◆榊原 兆
17歳。白凰大学付属高校の二年生。
幼い頃両親が他界し、祖父の榊原宗大に引き取られる。
勉強は苦手だが、機転が利くタイプ。
根は義理堅い性格。
◆戌伏 美琴
17歳。白凰大学付属高校の二年生。
戌伏神社の宮司である戌伏家の一人娘。
性格は人懐っこく、誰とでもすぐに打ち解けられる。
可愛いものや流行りものが好き。
四人の中で一番今時の高校生らしい。
◆申丞 孝太郎
17歳。白凰大学付属高校の二年生。
いくつも分家が別れた申丞家のうちの、本家の一人息子。
性格は大人しく、控えめ。
勉強や運動は平均的にこなせるが、ずば抜けて優れているわけではない。
そのため、周囲からは「地味な人」だという印象を抱かれている。
◆矢雅見 万智
17歳。白凰大学付属高校の二年生。
矢雅見家の一人娘。
理知的でクールな眼鏡少女。
運動は苦手だが、勉強の成績は学年トップクラス。
父親が民俗学者であり、自分も学者になることが夢。
-零-
人気のない、寂れた山道を一人の老人が歩いている。
人間が登れるよう最低限、道の整備はされているが、おそらく最近では人の往来自体が少ないのだろう、今では雑草があちこちに生え、山道の両脇には道にはみ出るほどに鬱蒼と木々が茂っている。
そんな悪路にもかかわらず、白髪の老人は、矍鑠として歩み続ける。
皺の濃い顔を厳めしく引き締め、ただ黙々と。
老人にとって、これはもはや日課だった。
毎朝、必ず自宅の裏手側に聳える、この山――志津乃山――を登っているのだ。
ただし、単なる散歩というわけではない。
彼には目的がある。
標高一二〇〇メートルほどの、この志津乃山のうち、麓に近い位置に“それ”があるのだ。
山道はやがて、石造りの階段へと行き着く。
延々と続くその階段の先には、小ぶりな鳥居が見える。
老人は息があがるのも気にせず、階段を上り始めた。
自身の体力を気力で誤魔化すようにして、ひたすらに目的地を目指す。
一段上がる度に視界の先で揺れる鳥居の姿が、徐々に大きくなっていく。
一〇分ほど上り続け、ようやく老人はその朱色の塗装が剥げかけた、古ぼけた鳥居までたどり着いた。
と同時に、鳥居の先にあった風景が老人の視界に映りこむ。
階段を上りきった先には、石造りの階段から続くようにして、石畳が点々と、まっすぐに敷かれている。
また、石畳の通路の両脇には、等間隔で灯篭がずらりと奥へと並んでいる。
そしてその通路の先には、質素な石造りの祠があった。
注連縄にぐるりと巻かれた祠の表面には、魔除けの類だろうか、幾枚かの札が貼られている。
山奥にひっそりと祀られた祠、というだけでも不気味な雰囲気を多分に含んでいるが、それ以上に、どこか得体のしれない空気を、その祠は漂わせていた。
「……」
老人は祠の方をきっ、と睨みつけると、その険しい表情を崩さぬまま石畳を進んでいった。
そして祠の目の前まで近寄ると、老人は何かを供えるわけでも、祈るわけでもなく、注意深く祠を観察し始めた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……やはり、減っているか」
老人が見つめているのは、祠に貼られた札。
昨日は一〇枚あったはずの札が、今は九枚に減っている。
決して風や雨で剥がれたわけではない。
老人はそう確信していた。
なぜなら、五日前から毎日一枚ずつ札の数が減っているのだから。
――とうとうか……。
その表情を苦々しく歪め、老人は心中で毒吐く。
――だが、誰が「役目」を負うのだ?
その心中の問いの答えは、老人の中ですでに出ていた。
出ていたが、容易に受け入れたくはないものだった。
あと九日後。
札が全て剥がれるであろう日に何が起こるのか、老人は知っていた。
いや、正確には伝え聞いていた。
遥か昔から、老人の家に代々伝えられてきた伝説があるのだ。
――彼は……いや、彼らは信じてくれるだろうか……。
老人は、いつかこの日が来ることに備え、今まで手を回してきた。
本心ではそれは杞憂で終わってほしいと思っていた。
しかし、どうやらそうも言っていられなくなったらしい。
老人はそれまで以上に険しい表情をしてしばらく立ち尽くしていたが、やがてまた元来た道へと、立ち去っていった……。
-壱-
ホームルーム一〇分前を知らせる予鈴が響く中、榊原兆は慌てる素振りも見せずに、校内の廊下を教室へと歩いていた。
うっすらと茶に染めた髪。左耳にはリング状の小ぶりなピアス。左胸に校章がデザインされたワイシャツは第二ボタンまで開かれている。
「あちぃ……」
季節は初夏。
先日、梅雨明け宣言がなされ、これから本格的に夏を迎える。
都心から離れたこの山間の都市、白稷市では、朝でも汗ばむほどの気温となっていた。
本来ならば年相応の若さと精悍さを感じさせる兆の顔つきも、今は熱気に負け、だらけた表情となっている。
遅刻するかどうかも気にせずに歩くその姿は、どこにでもいそうな、ちょっとワルぶってみた高校生そのものである。
廊下を往来する他の生徒たちも皆、兆と同じような風貌の者が多い。
遅刻を気にして慌てて廊下を走っていく者。他のクラスに顔を出していたが、ホームルーム前に自分のクラスに戻ろうとする者。予鈴など気にせず、談笑しながら廊下に屯っている者。
極端に荒れることもなく、極端に規則に縛られることもない。よく言えば平和な、悪く言えば平凡な校風。
私立白凰大学付属高校の、いつも通りの朝の風景だ。
「ふぁあ……」
彼らを尻目に、欠伸をしながら、兆は自分のクラスへと向かう。
私立で、しかも大学の付属校というだけあって、その内装はそれなりにお金がかかっている。シンプルだが清潔感のあるデザインで、まるで民間企業のオフィスのような、なかなかに洒落た校内といえよう。だが、それに感動するのは入学から数か月の間までで、それからは特に感慨のない、単なる日常風景の一部となっている。
兆のクラスは二年一組だ。
校舎は四階建てで、二年生の教室は三階にまとまっている。
洒落たデザインといえども、階の移動は階段を利用しなければならない。その辺りはアナログのままだ。
正確に言えば、バリアフリーと称してエレベーターは設置されているが、一般の生徒は利用することが禁止されている。とはいえ、兆にエレベーターを無断で使おうなどという考えはないので、素直に階段を上っているわけである。
階段を上りきって廊下を左に曲がり、一番奥へと進む。
教室の前に辿り着き、兆はその扉を開けた。
クーラーの効いた室内から、涼風が流れ出る。
まとわりつくような熱気が引き剥がされ、生き返ったような気持ちになる。
クーラーがあるだけでも、設備の充実した私立高校に入学して良かった、と兆は思った。
教室内にはクラスメイトたちの雑多な会話が、ガヤガヤと響いている。
ホームルーム前特有の生徒たちの喧騒。
時計を見ると、八時三五分。
ホームルームまであと五分だ。
間に合ったことを確認した兆は、窓際の一番後ろにある自分の席を目指そうとしたところで、声をかけられた。
「おっはよー、兆!」
兆に声をかけたのは、廊下側の中ほどの席に座っていた少女、戌伏美琴だ。
セミロングの黒髪を、いつもシュシュで後ろに束ねている。性格の方は人懐っこく、流行りもの好きという、女子高生らしい少女だ。
「おう、おはよ」
兆は片手をあげて、その声の主に答えると、自分の席には行かず、そのまま美琴の席の方へと向かった。
美琴の席の周りには、あと二人の生徒の姿があった。
一人は黒縁のメガネをかけ、クールで理知的な顔立ちをした、ショートカットの少女。
もう一人は、男子にしては線の細い、中性的な顔立ちをした少年。
少女の方は矢雅見万智、少年の方は申丞孝太郎といった。
「おはよ」
「おはよう。兆」
兆が美琴の席の方までやってくると、万智と孝太郎がそれぞれ挨拶を口にした。
兆はそれにも「おう」と軽く答える。
兆、美琴、万智、孝太郎の四人は家が近所の、幼馴染み四人組だった。
兆は小学校五年生の頃、白稷市に引っ越してきた。もともと兆は両親と東京で暮らしていたのだが、両親を飛行機事故で亡くし、白稷市に住む祖父の家に引き取られたのだった。
美琴たち三人はもともとこの辺りに住んでいて、兆とは小学校で知り合って以来の付き合いとなる。
その後も腐れ縁が続いて高校まで同じになり、現在に至っては四人ともクラスまで一緒なのだった。
「なんか眠そうだねー」
美琴が彼女らしい気さくさで兆に話しかける。
「ああ、昨日ゲームやりすぎた。マジ眠い……」
言いながら、兆は肩にかけていたスクールバッグを、地べたへと落とした。
「あはは、ハマってるねー。でもやり過ぎはよくないよ」
「いや、寝る気はあったんだよ。だけど、暑苦しくて寝れなくてさ。んで、ゲームでもするかって思ってやったんだけど、やっぱやり始めると時間忘れるっていうか……」
調子に乗って話を続ける兆だったが、この後の万智の質問で、一気にそのテンションが真っ逆さまに急降下した。
「兆……、あんた数学の宿題やったの? あれ、今日までだよ?」
「……あ」
兆の表情がさっと曇る。
「やっぱりね」
予想通り、と言わんばかりの万智の態度。
「あたしのは写させてあげないからね。自分でなんとかしなよ?」
「いや! ちょっと待ってくれ! 俺、竹内サンに今度忘れたら容赦しない、って言われてんだよ。これはヤバいって! 頼むよ、万智! 写させてくれ!」
どこまでもクールな姿勢を崩さない万智に対し、土下座せんばかりに兆は頼み込んだ。
竹内とは数学担当の男性教師のことで、さらに言えば兆たち二年一組の担任だ。
竹内の指導はとにかく厳しい。熱血教師というわけではないが、冷徹に、淡々と生徒の至らないところを指摘するのである。たいてい、口うるさい教師は生徒から煙たがられるものだが、竹内に関してはそんなことはなかった。というのも彼の場合、叱る時は根拠のある、理屈の通った叱り方をするため、たいていの生徒は納得してしまって反論できずに終わるのだ。
加えて、彼が善意でそういった注意をしているのは生徒側にも伝わっており、その結果、嫌われるどころか、畏怖と尊敬の対象として見られている珍しい教師だった。
そのため、どんな不良ぶった生徒でも彼のことは呼び捨てにできず、「竹内サン」と呼んでいる。
「ダメ。自己責任ってヤツだよ。」
兆の渾身の頼みを、万智は容赦なく突っぱねる。
万智は学年でも指折りの秀才である。今までも宿題を忘れてしまった時などは、彼女のものを写させてもらったことが何度かあった(ただし、丸写しだと出来が良すぎてバレバレなので、適度にわざと間違ってみせる、という姑息な技を使ったのだが)。
それが今回は期待できないとなれば、竹内の説教は免れないだろう。
「はぁ……」と、見ている方が気の毒になるような溜息を吐きながら、兆は肩を落とした。
先ほどまでの気だるそうにしながらも楽しげだった雰囲気はまったく消え失せている。
「……わかった、それじゃあ、僕のを貸してあげるよ」
落ち込む兆に救いの手を差しのべたのは、それまで黙って様子を見ていた孝太郎だった。
「……え……マジで?!」
孝太郎の提案に、ワンテンポ遅れながらも兆は大きく反応した。
先ほどの憂鬱そうな雰囲気を一八〇度急転回させたような変わりようだ。
「孝太郎。甘やかすのはよくないよ?」
「いや、でも、ちょっと気の毒だしさ」
努めて厳しい万智の言い分に対して、どこかおっとりとした語り口で答える孝太郎。
この、人の良さそうな、というよりもむしろ押しに弱そうな少年は、万智ほど勉強ができるわけではないが、それなりに成績は良い方だ。
孝太郎は運動も人並みにこなせるし、その中性的な容姿もあって、自信満々な立ち振る舞いをしていれば女子にモテるだろう、と兆は思っている。しかし、実際は奥手で気弱な性格のため、周囲からは「地味な人」という評価しか得られていない、ちょっと残念な人物だった。
「それにほら、今日、罰として兆に宿題でも出されたら、明日、心置きなく遊べなくなっちゃうでしょ?」
「あー! それは困る!」
付け足すように言った孝太郎の言葉に、美琴が大きく賛同した。
「明日、誕生日会できなくなっちゃうじゃん!」
「え! あれマジでやんの?」
「え?! やるって言ったよね?」
驚く兆に対し、それよりもさらに驚いた様子で美琴は言い返した。
「いや、確かに聞いてたけど、まさか本気とは思ってなかった」
「ひどーい! わたしは本気でやるつもりだったんだからね!」
戸惑う兆に、美琴は憤然と言う。
どうやら、美琴は真面目に誕生日会をやろうと計画していたらしい。
ちなみに誕生日を迎えるのは、他ならぬ兆である。
ちょうどその日が土曜日で休日ということもあり、美琴は兆の家で誕生日会を開こうと声をかけてくれていたのだ。
ただ、兆からしてみたら、その時の美琴の話しぶりがいつもの雑談と大差ない感じだったため、本当に実現させるつもりがあるとは思っていなかったのだ。
さらに言えば、高校二年生にもなって自宅で誕生日会をするというのが、なんだか気恥ずかしいという思いもあった。
「兆のうちでパーティするんだから、家の人に了解をもらっといてって言ったよね? もしかしてやってない?」
「……あー、一応、そんなことやるかもしれない、とは言ったけど……」
「しっかりしてよー!」
「……わ、悪い、今日帰ったらちゃんと言うからさ……!」
「……せっかく兆の誕生日を祝ってあげようとしてるのに……」
「だから、悪かったって……」
すっかり美琴は機嫌を損ねている。
こんな時の美琴を宥めるのは、いつも苦労しているのだった。
「はいはい、そこまで。ところで美琴、明日、誕生日会をやるとして、あたしらはいつ、どこに集まればいいの?」
あくまで冷静な万智が、兆に対して詰る視線を向け続けていた美琴に質問した。
「え? あ、えーと、昼の一時くらいに兆んちの前でいいかなーと思ってたけど……?」
遠まわしに「万智たちの都合も配慮するよ」というニュアンスを含ませた言い方で美琴は答えた。
「そ。じゃ、それに合わせるよ」
「僕もそれで了解」
美琴の答えを聞いて、知ることは知った、という様子の万智。
また、万智に続いて、孝太郎も了解の旨を言う。
「うん。それじゃそんな感じで! 兆、そういうわけだから、よろしくね!」
万智と孝太郎の了解を得た美琴は、遠慮のない口ぶりで兆に念を押した。
「わかった……。うちのおじいちゃんに言っとくよ」
頭を掻きながら、兆はそう答えると、美琴は嬉しそうにこう言って締めくくった。
「おっけー! それじゃ、明日の一時、榊原家に集合! 各自お菓子やプレゼントを用意してくるように! いじょう!」
楽しげに宣言した美琴に合わせたように、ホームルームを告げるチャイムが教室に響いた。
「あ、チャイム鳴っちゃったね。兆、宿題のプリント渡すから、ちょっと待っててね」
「恩に着る!」
自分の席へと向かう孝太郎に、大仰なジェスチャーをしながら兆は言った。
「あはは、気にしなくていいって」
一方の孝太郎は相変わらずのんびりと、マイペースを崩さない。
「さて、明日のことも決まったわけだし、あたしも席、戻るね」
「あ、うん! じゃ、また!」
そんな二人のやりとりを見て、やはりこちらも相変わらず冷静な万智が美琴の席から去っていった。
「さてと、俺も席行かねえと……」
兆が鞄を拾い上げようとすると、教室の黒板側のドアがガラッと音を立てて勢いよく開いた。
それと同時に、フレームの細い眼鏡をかけた、細身の男性教師が姿を現した。
その教師、つまり竹内が現れた瞬間、直前まで兆たちのように友人同士で喋っていた生徒たちが、蜘蛛の子を散らすように、各々自分の席へと駆け出した。
竹内はその様子を黙ってじろりと見つめる。
兆は美琴に「じゃ!」と一言だけいうと、慌てて自分の席へと向かったのだった。
-弐-
放課後。
兆は一人、市営バスに乗って帰宅の途についていた。
美琴と孝太郎はそれぞれ弓道部と剣道部の練習。万智は勉強について先生に質問することがあるとかで、今日は兆一人で帰宅することになったのだ。
ちなみに孝太郎のおかげで、数学の宿題はなんとか誤魔化せた。
故に兆は何のお咎めもなく、悠々と帰りのバスに乗ることができたのだった。
白凰大付属高校の敷地内には、市内各方面を走る市営バスの停留所が設置されている。
そのため市内に住む生徒は(徒歩圏内の者を除いて)ほとんどがバスを利用して通学している。
兆もそれに漏れず、今日も授業が終わってから特に寄り道もせずに「稷伏・志津乃山方面」行きのバスに乗り込んだ。
「稷伏」とは市の北西部の地域の名だ。
正確に言えば、かつて市内北西部は「稷伏村」だった。
現在の白稷市は「白河町」と「稷伏村」が合併してできた「市」なのである。
白凰大学を中心とした学園都市化を視野に入れた都市計画が推進され、約二○年前に合併したのだ。
結果できあがった「白稷市」であるが、その土地環境は、北東部から南西部にかけてぐるりと山に囲まれた盆地である。
北西部にはその山々の中でも一番高い志津乃山が聳え立っている。
志津乃山に面した北西部一帯が旧稷伏村地区。
北東部から南部が旧白河町地区にあたる。
南東部は山々の稜線が途切れており、その様子は上空から俯瞰するとアルファベットの「C」の字を少し傾けたような形となっている。
都心とのアクセスについては、その南東部が玄関口だ。そこには白凰学園駅(旧白河駅)があり、外部からの鉄道路線はその駅に集中している。
都心側からの鉄道路線は白凰学園駅で途切れるため、そこからさらに街の奥に入り込むにはバスを利用することになる。
そのため、市内の交通機関のメインは市営バスといえよう。
また、合併に合わせて市庁舎も新たに駅前に建造され、市の公的機関は南東部に集中している。
新たな市の形が整っていくのに合わせて、商業施設等も駅を中心に建てられていった。
白凰大学は、駅から西の方角へバスで二○分ほどの場所に建設され、後にできた付属高校はそこからさらに北西に数キロメートル離れた位置に建てられた。
立地としては、白凰大付属高校は旧白河町地区と旧稷伏村地区の境に位置している。
これらの土地の構造上、街が発展するのは都心との往来が活発な旧白河町地区であり、それ以外の、特に北西奥部に位置する旧稷伏村地区は、未だ鄙びた田舎を体現したような街並みのままだった。
稷伏に住む兆にとって、北西寄りに建てられた付属高校は、家から近いという点ではありがたい立地といえた。
しかし帰り道は、発展している白凰学園駅方面とは反対方向へ帰ることになるわけで、都合の良い遊び場がないことが不満でもあった。
そのことを証明するかのように、窓の外を流れていく風景は、やがて田畑と空き地と住居がポツポツと並んだものとなっていく。
暇を持て余した兆は、ポケットに仕舞っていたスマートフォンを取り出した。
「ん?」
画面を見ると、「Ripple」というアプリのアイコンに通知一件の表示。
「Ripple」というのは最近流行っているメールアプリだ。無料通話が可能で気軽にメッセージのやりとりもできるということで、爆発的に利用ユーザ数が増加している人気アプリである。
メッセージの送り主は美琴だった。部活が始まる前に送っていたのだろうか。
その内容は、誕生会のことを念押ししたものだった。
――ちゃんとわかってるって……。
内心呟きながら兆は「了解」と一言、返信を送る。
ゲームアプリで遊んでいようかと思ったが、美琴のメッセージを確認したら、そんな気持ちではなくなってしまった。
結局、兆はスマホをポケットに仕舞った。
――おじいちゃんに言っとかないとな。
心の中で兆は呟く。
家では現在、祖父の榊原宗大と祖母の榊原つくも、そして家政婦であり従姉である榊原麻美が共に暮らしている。
家事全般はほぼ全て麻美が請け負っているが、家に関わる相談事は基本的に宗大が取り決めている。
自宅で誕生日会を開くというのも、念のため宗大に許可を得なければならない。
宗大は「厳格な男」を絵に描いたような人物だ。
平時は無駄口を叩かず、寡黙。
しかし、有事の際は果断に富んだ判断力と行動力で周囲の信頼を得ている。
また、旧稷伏村地区での宗大の影響力は絶大で、現在でも村の有力者として多くの人から一目置かれている。
兆はそんな祖父の性格は嫌いではなかった。
ただ、寡黙で考えの読めないところが少しばかり苦手だった。
――まぁ、うちに来るのがあいつらなら、おじいちゃんも何も言わないだろ。きっと。
そう思い直して、兆は再び窓の外を眺めた。
*
「戌伏神社前」というバス停で兆はバスを降りた。
バス停の名前の由来になっている戌伏神社は降りてすぐの場所にあり、下車した瞬間に大きな石の鳥居が目に入る。
この戌伏神社は美琴の家が代々宮司を務めており、今でも稷伏の祭事は美琴の父親が執り仕切っている。
鳥居の先には境内が広がり、そのすぐ奥には本殿が見える。
兆たちは子どもの頃、よくこの神社に集まって遊んでいたものだった。
しかし今は戌伏神社に用があるわけではないので、兆はバス通り沿いの歩道を自宅の方へと歩き始めた。
やがてバス通りから脇道へと入り、そこから少し歩いていくと、コンクリートに舗装された道が、石造りのものへと変わる。
その辺りを境に、周囲の景色は林に包まれていく。
そのままに道なりに進んでいくと、まるで寺社かと見紛うほどの立派な門が現れる。
表札には「榊原」の文字。
勝手知ったる様子で兆は門扉を開けて内に入る。
その先には古風な造りの一階建ての家屋が見える。
それが、兆の自宅である。
門から飛石が並び、玄関まで続く。
脇には松をはじめとした木々が植えられている他、鯉が優雅に泳ぐ池や石灯籠などもある。
自宅の土地は一二〇坪を超える、と宗大が言っていた覚えがある。
今は退職しているが、宗大はかつて稷伏村の議員を務めていたらしい。
そのせいか、資産はかなりのもののようだった。
悠々自適に隠居暮らしをしているのみならず、兆の養育費と学費を賄うことに関しても全く問題ないらしい。
兆は越してきた当初、あまりの家の広さに現実感を得られない日々を送っていた。
しかし時が経つにつれて、祖父母は所謂「お金持ち」であり、自分はそんな家の一員になったのだと、自覚していったのだった。
ただ、祖父母は決して金使いの荒い人間ではなく、自分たちが資産家であることを鼻にかけるような人柄でもなかったため、兆の感覚は庶民的だった。
「榊原」の家のことを知る者は、初対面だと「金持ちの家の子どもだ」という先入観をもって絡んでくることがある。
兆本人はなんら普通であると思っているのにもかかわらず、思い込みであれこれ口を出されることも多々あった。
そんな誤解のされ方は望むところではなかった。
正直、兆はそんなやりとりに辟易していた。
だが、その辺りの兆の心情について、幼馴染みたちはよく理解してくれていた。
彼らがいたから、兆も自分に自信が持てたのだった。
また、高校に入学してからはそんな誤解のされ方も、ある種の自分の個性なのだと思ってうまく受け入れてきた。
幸いにもこのことが原因でいじめに遭うなどといったこともなく、兆は自分という存在と、家のステータスとの折り合いをつけることができたのだった。
門を抜けてから三分ほど。
ようやく、玄関へとたどり着く。
「ただいまー」
そう言いながら兆は玄関の戸を開けた。
「おかえりなさぁい」
廊下の奥から声が返ってきたかと思うと、パタパタとスリッパの足音を鳴らしながらメイドの格好をした若い女性が姿を現した。
「ただいま、あさ姉……。」
「おかえりなさいませぇ! ご主人さ……」
「“ご主人様”はやめてくれ」
言い終わらないところで断りを入れた兆に「ええー!」とメイド姿の榊原麻美が口を尖らせた。
「“ええー!”じゃねぇ!」
麻美は確か今年で二三歳になるはずだが、小柄で童顔なので、実年齢よりずっと幼く見える。兆と同年代と言われても誰も疑わないに違いない。
ちなみにメイドの服装は麻美の趣味である。彼女は所謂、コスプレイヤーと呼ばれる人種なのだ。
曰く、趣味と実益を兼ねて仕事も「メイドコス」でやっている、とのことである。
彼女は三年前に短大を卒業して以来、兆の家に家政婦として働きにきてくれている。
既に年老いた祖父母に代わり、家事全般を請け負っているのだ。
ただ、家政婦としては非常に有能なのだが、このコスプレ趣味が彼女の個性を際立たせている。
その性格もなかなかに特殊な人物だ。
そんな麻美は、語尾を伸ばす独特の口調で兆に話を続ける。
「せっかくのメイドコスなんだからぁ、そのくらい遊ばせてよぉ」
「いや、普通そういうのいきなりやられたら引くから」
「ええー、残念だなぁ。兆ちゃんの専属メイドになってぇ、あれこれイチャイチャしたいと思ってたのになぁ」
「専属とか悪夢かよ! それに、イチャイチャすんのはおかしいだろ!」
「そうね、従姉弟同士じゃあ、ちょっとした禁断の関係だものね」
「無駄に意味深な感じにしてんじゃねぇよ!」
兆の反論に、麻美はハッとした表情を見せると、口を押えてわざとらしくこう言った。
「……ごめんねぇ。こんな話をしたら美琴ちゃんに怒られちゃうよねぇ」
「は? なんでそこで美琴の名前が出てくるんだよ!?」
「あら? それじゃ万智ちゃんのことが好きなの?」
「あいつらとは別に、そういう関係じゃねぇよ!」
「はっ! まさかまさか! 本命は孝太郎君?!」
「おい、やめろ! それこそ禁断の関係じゃねぇか!!」
「いやぁ、わたしとしてはぁ、大歓迎かな?」
「俺はノーサンキューだッ!!」
肩で息をしながら、兆は言う。
対して麻美はにこにこして兆のその様子を眺めている。
きっと次にどうやって兆をからかうか、色々と妄想を働かせているに違いない。
麻美は昔から「面倒見の良いお姉さん」だったが、こうやっていつも兆をからかうことを楽しんでいるのだ。
なぜ玄関先でこんな疲れなければならないのか。
溜め息を吐きつつ、兆は麻美に祖父のことを尋ねてみた。
「ところで、おじいちゃんはどこにいる?」
「大叔父様? 床の間にいると思うけど」
「わかった。サンキュ!」
麻美に礼を言いながら、兆は履いていた靴を脱いで玄関から上がる。
麻美がやってきた正面の廊下ではなく、左手側にのびる廊下へと歩を進めた。「あぁ、ちょっと兆ちゃん!」と麻美が呼び止める声が聞こえたが、これ以上不毛なやり取りに時間を費やしたくなかったので無視した。
榊原家は玄関から正面に続く廊下の先に台所と居間等があり、兆が歩いている、玄関から左方向にのびる廊下の先には、床の間や、それぞれ八畳ほどの広さの客間が三部屋あるのだ。
と、ちょうど向かう先から着物姿の白髪の女性がやってきた。
祖母の榊原つくもだった。
「おかえりなさい、兆」
「うん、ただいま」
慎ましさを感じさせる佇まい。
滲み出る品の良さ。
いやらしさのない清楚な立ち振る舞い。
兆は祖母以外に、これほど上品な女性を見たことがない。
口数が少ない宗大と、快活に兆に接する麻美、そのどちらとも違う、絶妙な距離感でいつも兆と接してくれる。
麻美が来る前までは、兆は何かあるとすぐつくもに泣きついていた。
つくもはそれに嫌な顔一つせず付き合ってくれた。
ここに引っ越してからの兆にとって、母親代わりの存在だった。
「兆。私は麻美さんとお夕食の買い物に行ってきますから、宗大さんとお留守番、頼みましたね」
嫌みのない笑顔で、つくもは言う。
「ああ、わかったよ」
兆が頷くと、背後から「あ!」という大きな声が響いた。
振り向くと麻美が玄関辺りで慌てた様子でこう言った。
「大叔母様! ちょっとお待ちくださいねぇ! すぐ支度してきますので!」
言うや否や、麻美は居間のある方面の廊下へと駆けて行った。
居間のさらに奥に、宗大とつくもの寝室や兆の部屋がある他、六畳部屋がある。麻美は空き室だったその六畳部屋を使用しているのだった。
麻美は外を出歩く際もメイド姿のままだ。
そして、つくもは古風な着物姿で街に出る。
ただし、買い物先は最近この辺りにできた、ごくごく普通のスーパーマーケットである。
そこへメイド姿の女の子と着物姿の女性がセットで買い物をするわけである。
初めて応対する店員は何事かと戸惑うに違いない。
正直なところ、和服のつくもはともかく、麻美の方はメイドのコスプレという点でよく目立つ。困った従姉である。
「あらあら、あんなに急がなくても……」
愉快そうにつくもは微笑む。
思えば、よく宗大やつくもが麻美のコスプレを了承したものだ。
しかも和装のコスプレならともかく、西洋のメイド服である。
――懐が深いというかなんというか……。
つくもは些細なことに口うるさいタイプではない。
そして宗大は、仕事や役割をきちんと果たすのであれば、それ以外はその人の自由にして構わない、という割り切った考えの持ち主だった。
麻美に関しては、家事の仕事はきっちりとこなしているために、服装についてまでは特に何も言っていないのだろう。
兆が髪を染めたり、ピアスを開けたりすることについても反対はされなかった。
ただ、宗大はこれだけ兆に言ったのだった。
「……学校にはきちんと通いなさい。お前は学生だ。その本分はしっかり果たせ。あとは自由にしてかまわん」
結果、兆はサボることなく素直に学校に通っている。
一方で、無責任な者や向上心を持たない者には、宗大は容赦しない。
以前、何の考えもなしに「金を貸してほしい」と言ってきた知人を、延々と叱っていたのを兆は見たことがある。
それを見て、「宗大は怒らせたら本当に怖いのだ」と、兆は実感したのだった。
「そういえば、宗大さんが兆を呼んでいましたよ?」
兆が考えに耽っていると、つくもが思い出したかのようにそう言った。
「え?」
「早めにお行きなさい。待っておられるから」
「あ、うん……」
急かされるようにして、兆は床の間の方へと向かった。
宗大から何か用があるなど、珍しいことだった。
やがて廊下と床の間を遮る障子の前で兆は立ち止まると、それまで肩にかけていたスクールバッグを床に置いた。
緊張した手で障子を開く。
「た、ただいま」
宗大は、部屋の中央に置かれた座卓の奥側で胡坐をかいていた。
兆の声に気付くと、薄くなった白髪頭を僅かに動かして「うむ」と一言。
宗大は兆よりも小柄だが、その身からは厳格なオーラが滲み出ている。
眼光鋭く皺の濃いその顔つきは、見る者を竦ませる。
「あの、なんか、おじいちゃんが俺のこと呼んでるって聞いたんだけど……」
兆はそう言いながら廊下から、床の間の畳へ足を踏み入れた。
「……」
無言。
兆の苦手な雰囲気だった。
何か悪いことをしたわけでもないのに、何故か怒られるのではないかと不安がってしまう、沈黙の空気。
兆は入り口付近で立ち尽くす。
宗大の話よりも先に、自分の用件を伝えてしまった方がいいだろうか。
そんな考えが頭に浮かぶ。
「……」
「……」
兆は恐る恐る座卓へ近づき、宗大の対面にあたる位置に正座すると、思い切って尋ねた。
「あの、明日さ、戌伏の……美琴たちがうちに来たいって言ってるんだけど、いいかな? なんか俺の誕生日祝ってくれるみたいでさ」
「……なに?」
それまで沈黙を保っていた宗大が、不意に反応した。
その表情はやけに鋭い。
――え……もしかしてダメなの? なんで……?!
宗大の反応に、兆はたじろく。
正直に言えば、すんなりと了承してくれるだろうと踏んでいたが、そうもいかないような気がしてきた。
「いや、あの、できたら、客間でパーティーできたらいいなー、とか思ってたんだけど……ダメかな?」
躊躇いがちに兆は尋ねる。
しかし、宗大は視線を下に落とすと、顎に手を当てて再び黙り込んだ。
――なんか知らないけど、やっぱダメなのか?
内心で兆が諦めかけたところで、ようやく宗大が口を開いた。
「……よかろう」
「……え?」
熟考からの急な肯定の答えに、兆は戸惑いの声をあげた。
「いいの?」
思わず聞き返してしまう。
しかし宗大はその質問には答えずにこう尋ねてきた。
「戌伏の娘以外に、申丞や矢雅見の子らも来るのか?」
「あ……ああ、そうだよ。美琴と、孝太郎と、万智。昔からよく遊んでる連中だよ」
兆が答えると、宗大は「ふむ」とまた顎に手を当てた後「……よかろう。客間を好きに使いなさい」と言った。
「マジで! ありがとう!」
とりあえず許可を得られたので兆は安堵する。
「それじゃあ、明日の昼頃、みんな来るはずだから」
立ち上がりながら、ふと兆は当初の疑問を思い出す。
「あ、そういえば、おじいちゃんの用事って……何?」
すると、宗大はおもむろに立ち上がって兆へと歩み寄った。
「え?」
戸惑う兆。
しかし、宗大は気にする素振りも見せず懐から何か取り出した。
そして兆の右手を取ると、取り出した物を兆の掌に載せた。
「えっと……お守り?」
紫色の布で作られた、小さな袋はお守りに間違いなかった。
「誕生日プレゼントだ。儂とばあさんからな」
それだけ言うと、宗大は再び元の位置に戻って腰を下ろした。
「あ……ありがとう」
呆気にとられながらも、兆は宗大に礼の言葉を告げた。
呼び出したのはこのためだったのか、と胸中で理解した。
ホッとしたとも、拍子抜けしたとも言える微妙な気持ちだった。
そして、今までのあの沈黙はなんだったんだ、と内心でツッコミを入れた。
渡された掌のお守りと宗大を交互に見やる。
自分は家族に愛されているのだな、と兆は柄にもないことを思った。
「それじゃ、俺、自分の部屋いくから……」
そう言って、床の間から出ようとしたところで、宗大が「明日……」と、口にした。
「え?」
「明日、皆が集まったら、儂からお前たちに話したいことがある。承知しておいてくれ……」
「え……あ、ああ……」
そう言う宗大は、先ほど以上に鋭い空気を纏っていた。
――え?
その様子を見て、兆の中で、得も知れない不安が胸の中に漂い始めた。
いったい、何の話だというのか。
先ほどの誕生日プレゼントのことのように、その不安はただの思いすごしなのだと、兆は思いたかった……。
鏡鬼幻想伝 ~序章~