せんせいがたのおはなし。
孵らずの夢
霧は随分と冷え、凍てゆく手前で頑ななまでに暗がりに寝付いている。それでも月光は時を誤ることなく傅き、煌々と夜露の道を照らしていた。街中の喧騒とは裏腹に、宵に立ち上る林立した木々の暗影は、口を開くこともなくただそこで歩みを進める男女の姿を見つめている。
元より旅先で偶然に出会い一言二言言葉を交わしただけの間柄であった。行きの汽車で相席となったものの名すら名乗らぬまま一度は別れ、帰りの駅で再び見止めたのだが気安く声を掛けて良いものかと暫しの間逡巡した。申し訳程度の挨拶をしたのみの相手にさながら旧知の仲であるような振る舞いをされれば戸惑うであろう。そもそも顔を覚えられているかどうかも怪しい。しかし突如降り出した驟雨(しゅうう)の最中、傘らしきものを持ちながら一向に差す気配を見せずその場に佇む女性を見受け、訝しさを抱いてとうとう肩を叩いた。
『如何(どう)かなさいました?』
彼女は一瞬戸惑いを見せたが、すぐにこちらに気が付いたようで軽く笑む。
『まあ、あの時の……』
『ええ』
ただひと時の関係であっても、やはり記憶されているというのは嬉しいものである。決して他意はないが、それが美しい女性ならば尚のこと。
『覚えて下さっていて安心しましたよ。いえ、傘をお持ちなのになぜ帰られないのかと少しばかり気になりましてね。……ああ、もしかするとお迎えを待っていらっしゃるのですか?』
それならば出過ぎた真似を、とそこで口を噤むと、彼女はいいえとささやかに首を横に振った。
『これは雨傘では御座いません』
そう言ってこちらへ傘を差し出す腕は、面と同様白皙でか細くどこか頼りない。美しくはあるものの、総じてぞっと剣呑な印象を受ける見目である。
些か戦慄きながらも手に取ると、成る程それは現代には珍しく番傘と呼ばれるものであった。彼女があまりに自然と着物を着こなしており、相貌にしっくりと馴染んでいたため全く違和感を覚えなかったのだが、確かにこれで雨を凌ぐのは憚られるであろう。雨傘として使用されていた頃があるのは間違いないが、途方もない曩時のことである。
『まあ、少々可笑しいかも分かりませんね』
『そうでしょう。私もなかなか使う気になりませんで』
『では、なぜこのようなものを?』
彼女は答えなかった。ただ僅かに俯き、面映そうに口元を緩めるのを見て、男も尋ねるのは止めた。そうしておもむろに傍らの傘を開き、彼女を振り返ってにこりと微笑む。
『宜しければ、どうぞ』
妻でも恋人でもない女性と傘を共にすることには抵抗があったが、所持しているのは一本なのだから仕方がない。そう言い聞かせ、彼女の返答を待った。
『……けれど、ご迷惑では』
『まさか。構いませんよ』
にこりと愛想好く微笑むと、彼女も安著した風にしずしずと歩み寄って来る。華やぎに欠ける男の薄暗い傘に、仄かな行燈が灯されたようであった。
住まいも尋ねずつい勢いに任せて家までの屋根を買って出たは良いが、彼女の言うなりに進むにつれ、道は次第に険しくなった。このままでは男の自宅からも随分離れてしまうのだが、自ら申し出た手前、ではこの辺りで、とは切り出しにくい。この辺境と女性の風貌はどうしても結び付け難く、あのように繊妍(せんけん)な四肢でよくもまあ逞しく山林を歩めるものだ、と半ば感心してしまう。
「申し訳御座いません。このような時刻までお付き合い頂いて」
「いえ、私がお送りしましょうと申し上げたのですから」
柳眉を吊り下げ、こちらの心の内を汲んだかのように謝罪する彼女を目にすれば、何やら男の方が恐縮してしまった。
「あの、この辺りで宜しゅう御座います」
「いえ、しかし」
「これ以上貴方様をお連れする訳には参りません。それに……お戻りの道が翳ってしまいます」
最早宵も半ば、これより道が翳ることもなかろうと眉を寄せたが、彼女の口上には何か別の意味が含まれているような気がして更に疑念を抱く。
「さ、お帰りになって。近頃鵜(う)匠(じょう)が狩りにうろついておりますから、捕らえられては事です」
どうも有り難う御座いました、と背を押しつつ急かす彼女を留め、男は恐れを含んだ表情で振り返った。
「お待ち下さい。申し訳ないが、あなたの仰る意味がよく分かりませんで。せめて理由をお聞かせ願えませんか」
男の目的は、最早当初の使命ではなくただ好奇心を満たすことへと摩り替わっていた。己がどういった淵へ足を踏み入れようとしているのか、惑いもあったが何れは眼前の女性の躊躇うかの如き相好へと消える。
女性はうろうろと視線を迷わせながら暫く懊悩したかと思うと、漸く決意したようで密やかに口を開いた。
「――主人が、鶉を買い控えろと言うのです」
「……はあ」
「哀れだからお止めなさいと、そう。けれども私とて鶉を落とさねば堪りません。何しろ性分なものですから」
「鶉、とは」
男の問いに、女性は再び閉口し咽喉を鳴らした。
「ふらふらと不恰好な形で成りきらないので、私共は鶉と呼んでいるのですが……貴方様も、ほうらこちらに、飼ってらっしゃるじゃございませんか」
言ってから、こちらを鋭利に伸びた爪の先で指す。彼女の指し示した先には、丁度男の心の臓があった。一瞬ぞくりとして、男は思わず胸を掌で覆う。
「そういった風にはじめは鋭く尖っているのですが、これをこのような番傘の上でころころと暫く転がしますと、好い塩梅になるのです」
彼女は先程の唐紅の傘を開くと、頭上でくるくると戯れるように回してみせた。
「此度うちを出て参りましたのも、遠方の鵜匠から新しいものを幾らか購入するため……」
ですがあまり上等なものが見つからず、困ってしまいました。何とも悪びれぬ莞爾を浮かべる様を見受け、まさかと思い一層背筋が凍ったが、女性には指一本動かす気配がない。
「ご安心下さいまし。私は厭くまでも鵜匠を通して鶉を貰い受ける身。貴方様に危害を加えるつもりは毛ほどもございません」
そうですか、と返しはしたが、懸念は拭えない。これから彼女の言う危うい道を引き返すのだと考えると、どうも落ち着かなかった。
「それでは、もう――」
夜も更けましたので、とでも続けようとしたのであろうか、けれども言葉は遮られ、辺りは更に深く鬱蒼と滲んだ闇に包まれる。足元が入り組んだ線に絡め取られるような感覚を覚えたが、揺す振られることはなかった。
彼女の腕が、眼前で捕らわれる。
「――まあ、あなた」
戒めるかの如く彼女の細腕を引き、じいと一たび睨め付けると、影に相貌を阻まれた男性は徐にこちらを向いて腰を折った。男もそれに倣い、やや拙く礼を返す。すると暗影に翳らされた面が、仄白く姿を現した。
「――家内が粗相を致しました」
御主人らしい男性は、嫦娥(じょうが)をそのまま映したかのような色の薄い瞳を湛えた、恐ろしく造作の整った紳士である。彼は僅かばかり所在なげに佇んでおり、眉を吊り下げて男を窺っている。
「いえ、粗相など」
「こればかりはまるで聞き分けぬのです。このような暗がりにお付き合い頂いて、実に申し訳ない。本来なら何かお持て成しをせねばならぬのでしょうが、生憎貴方のような方が好まれるものは、何も」
「いえいえ、本当にお構いなく」
出来る限り謙虚に振舞うしかなく、男は己の不甲斐なさに辟易する。今日は相手が良かったのやもしれぬが、短慮な行いが身を滅ぼすということはこれ以上なく骨身に染みた。
「御身は必ず無事に送り届けますので、どうぞご容赦下さい」
頷くと、彼は人好きのする微笑を一つ零してから妻を促した。女性は本当に済みませんと儚げな面持ちで謝罪すると、御主人の腕に従って踵を返す。
「御機嫌好う、何れ……お逢い出来るものなれば」
楚々とした姿があまりに似つかわしく、男は知らず双眸を眇めた。夜半の空は色濃く、遠のく意識の先まで広く塗り込めてゆく。囂しい鳥の囀りが耳を劈く頃には、既に傘の唐紅も、鶉の白光も、鈴の鳴るような女の声も凡庸な朝露に呑まれて消えた。
花燈籠に冴え
緩やかに這う輪郭の、けれども酷く奢侈な風体がある見目は容易く目に付きそうなものであったが、その実発見には多大な時を要した。あの人はいつもそうだ。常人には極めて困難な行為をまるで些事の如く押し付けてみせる。それでもすっかり欺かれた振りをして度々引き受けてしまうのは、彼と僕が師弟と呼んで差し支えない間柄であるからに他ならない。
どうして夏も盛りきった今日に、わざわざこのようなものを引っ張り出して来させたのかとんと見当も付かぬが、どうせ下らん思い付きであろうと感じさせる辺り、日頃の行いが窺える。
半化粧の人形めいた白い葉を掻き分け、そこかしこの雑草を抜けると、蔵から縁側までは最短で辿り着けた。やや凭れた樹々の隙間から連翹(れんぎょう)色(いろ)の蛍光が漏れる。
「お召しのもので御座いますよ」
半ば投げ遣りに探り当てたものを掲げて見せる。彼はその態度を気に留める風もなく「嗚呼、どうも」と言ってこくりと頷いた。
函はがっちりと厚い桐の壁で形作られ、酷く仰々しい印象を持たせたが、中のものはそれ程の重量ではないらしく気安く手に提げられる程度に軽い。彼はやたらと恭しく受け取ると、そうっと鍵を開き蓋を上げた。僕は何やら罪深いことのような気持ちになって、ふいに目を逸らす。
「菊彦(きくひこ)君」
「はい」
「中を見ましたか」
「いいえ、見ません。見て良いと先生は仰いませんでした」
「ならば見せて差し上げましょう。こちらを覗いて御覧なさい」
「いいえ、見ません。……魍魎の類ならば、見ません」
何故だか僕には、函の内には宝飾や骨董ではなく、怨霊が潜んでいるように思えてならないのだった。そもそもこの人が突然に僕を急かして此度の仕事を頼んだことからして、尋常ならざるものがあると感じていたのだ。退屈を持て余したこの人の思い付きには、大抵碌なことがない。未だ一年も通わぬ身だが、それだけはこの数月で重々学んだ。否、学ばされた、と表すのが正しい。
頑なに瞼を閉じ、先生の伸ばす手に逆らうと、彼は突如可笑しなものでも見たようにけたけたと笑い出した。
「魍魎だと思いますか。このように美しいものを」
薄く反射する桐の艶かしさから湧け出づるかの如く輝くものがある。恐る恐る窺うと、そこには煌々と、けれども不思議と慎ましく思える美貌が顔を覗かせていた。
「何に見えますか」
「……風鈴、ですか」
「ええ」
肯定されたものの、その風鈴は僕の見知ったものとは大分風体が異なっている。江戸風鈴とも南部風鈴とも違う、丸く掌に丁度収まるような具合はただの江戸風鈴にも見えるが、硝子の表面に繊細な宝珠が隙間なく飾られており、通常短冊が揺れるべき場所には、名の通りに透明な鈴が青(あお)瑪瑙(めのう)と共に提げられていた。
「珍しい装飾ですね。何処(いずこ)かからの贈り物ですか」
「まあ、そうですね」
曖昧な返事を返し、先生はおざなりな方向へ視線を向ける。それを朧に受け止めながら、僕は再び函の中の令嬢を見下ろした。
僕が書を教わるという名目で“先生”の家を訪ねたのは、今からおよそ半年ほど前のことだ。古めかしいながらも貫禄のある立派な家屋に、時節柄雪化粧に彩られた山茶花やら寒椿やらが丹精された小奇麗な庭を見るに付け、恐らくは老獪ないかにも師範といった紳士が玄関へ降りて参られるのであろうとやや背を強張らせていたのだが、いざ御尊顔を拝見すると拍子抜けしてしまったのを覚えている。
『ええと――先生、随分とその、お若くていらっしゃるんですね?』
『……まさかそんな、私は君よりもうんと年寄りですよ』
『いえいえ、ご謙遜なさらずとも』
確かに歳の頃で言えば僕の方が大分下であろうが、彼はどう高く見積もっても三十路は越えていないように思えた。その時はただ、十代に比べれば、という意味で謙っているのだろうと受け取ったのだ。
『……失礼ですが、お幾つでいらっしゃるんですか?』
試しに問うてみると、彼はこちらの内心を全て見透かしているかのような調子で微笑した。
『……幾つに見えます?』
はぐらかされた、ということに気が付かぬ程幼くはない。そう返されてしまうと僕はもう何も言えず、すっかり黙り込んでしまった。しかし暫くして沈黙に耐え切れぬようになった頃、夢を見るかの如き口調で紡がれた言葉が未だ離れぬままだ。
『何(いず)れ、何れね、分かりますよ。屹度(きっと)』
今思えば、あれは警鐘だったのであろうか。
「先生、近頃老け込んできたんじゃありませんか」
歯に衣着せぬ憎まれ口を叩けるのも、馴染んだ証拠である。だが僕のその軽口には、真実も僅かばかり含まれていた。夏場近く、常の気分も憔悴するようになってくると、訪れる度彼の顔色は青白くくすんでゆく。何だかぞうっと恐ろしくなって、僕はやんわりと、冗談のような調子で指摘した。すると彼は何ともなしに書斎の辺りを指差し、「なら彼処にある書棚の、上から二段目を引き出してあれを持っていらっしゃい」と言う。あれ、というのが何を指しているのか、聞かずとも僕には何となく知れていた。
「嗚呼、あれですね。そしたらちょっとお待ち下さいよ」
ただそれだけ答えて書斎へ急ぐ。剣呑ではあったが、同時に高揚してもいた。何故だかは分からない。何らかの秘め事を誰かと共有することを許されたような、可笑しな心持である。
引き出しを開くと、先日の函だけがどこか妖艶な白光を放っているかのような錯覚を覚える。一目で見止め手に取ると、以前より不思議と重苦しく感じた。
「――先生、先生」
「どうも。そのように急かさなくとも、ちゃんと聞いていますよ」
「これを如何すれば宜しいんですか」
「如何もこうもありません。風鈴なんですから、それなりの使い方をすれば良いんです」
言ってから、彼はするりと器用に函から持ち上げると、縁側の障子に貫かれた一等高い鈎針にそれを提げる。何かしら特別な現象を期待していた僕は少しばかり不満に思ったが、彼が非常に満足げに眺めていたので口を噤んだ。
「夏中働いて頂ければ、一年は保ちますよ」
薄い口唇をにこりと吊り上げた彼に応えるように、風鈴が一たびちりんと頷いた。
その後の何に驚愕したかと言えば、風鈴を提げてからというもの、訪れるごとに彼の面に色が戻っていったというところである。この頃は目尻に微かに浮かびかけていた皺のようなものも綺麗に一掃され、出会った当初の面影のままに佇んでいた。
「……どういう絡繰りなんですか、一体」
「絡繰りなぞ人聞きの悪い。生命の神秘とでもお言いなさい」
「何が生命ですか。生きてもおらぬ異形でしょう」
「異形に生が存在し得ぬなどと言っては罰が当たりますよ」
実際、若輩でないことは分かっていた。出会い頭こそ有り得ぬと信じ込んでいたが、こちらへ通い幾度か共に生活した中で、趣味嗜好、性向を窺えば自ずと答えは導き出される。極め付けはといえば、僕の祖父でも経験し得ぬような過去の話を、さながら我が身で知ったかの如く、しかも昨日のことのように語られたことだ。
本来の年齢は未だ知れない。知りたくもなかった。
「丁度二十歳も半ばといった頃でしたかね、恐らくは人ならざるものであろう、と思われる美しい女性と、汽車で相席になったんです」
先生は、ぽつりぽつりと心当たる仔細を話し始めた。恐らくは、というより、終いまで聴き受けるに明らかに人ならざるものであったわけだが、翌日の朝目覚めてみると、枕もとに、床に就いた際には確かに存在しなかった函が「いた」そうだ。
「先ほどの縁あった御夫婦からは、私のようなものに捧げられる品がない、と謝罪されたはずだったんですが」
差出人もなく、ただ先生の名と「宜しければ」といった旨の書簡のみが添えられていたのだという。幾ら高価な函に込められたものであっても普通なら気味が悪いと放り出すところだが、彼は何の躊躇もなく、折角上等なものなのだから埃を被っては申し訳ないと、有難くその風鈴で涼をとった。その辺りがこの人がこの人たる所以である。
「老けぬ身を顧みて、少し可笑しいと感じ始めたのは壮年に差し掛かってからでした」
やたらと危機感がないのも、この人ならではである。せめて四十路になった辺りで気付くべきであろう。
「まあでも、特に害がある訳でもありませんし、頂いたものを毎年のように出しておいて今更仕舞うのもやはり申し訳ないので、こうして蔵から日の下へ連れ出しているのですが」
「……貴方が宜しいのならそれでいいんじゃありませんか」
「そうですか。そうでしょうね」
うんうんと頷きつつも、豪奢な藍の衣に目をやる。
「次、函に仕舞う時には、生花を施して差し上げようと思うのですが」
「生花ですか。枯れませんかね」
「枯れんでしょう。あれと共にならば」
成る程、それも道理のような気がした。柔和な花々の褥に横たわれば、さぞ雪洞(ぼんぼり)の如く瀟洒(しょうしゃ)に、けれども慎ましく咲むことであろう。
「……恐らく、着飾られて喜ばぬ娘も居らんでしょう」
「何故、娘と分かるんですか」
「貴方の見目が保たれることを望んだとしたら、それは娘に違いないと思ったんですよ」
確信を込めて呟くと、彼はふうんと息を吐き、「分かりませんよ、もしかしたら」とやたら含んだ物言いで返した。僕は別段追及することもなく、彼から視線を逸らしてゆらゆらと漂う秀麗な姿を見上げる。もしこれが男子だとすれば、どうして好き好んで花を捧げようとするのであろうと、ただそれだけを思って目を閉じた。
白鳥
このような日和には、早足で帰宅するに限る。
絵筆を彷徨わせていると、どうも我を忘れていけない。そのうちに雲行きが変わり、惨憺たる被害に遭うこともしばしばある。雨というものは鬼畜極まりないな、と知人に漏らせば、お前が出掛ける前に少しばかりの用意もしないのが可笑しい、と返されたので、何やら眉を顰めてしまった。
ともあれ、雨はいけない。己の絵具は水彩である。当然、水には一際惰弱だ。驟雨に見舞われた折には一溜まりもあるまい。だらりと見目が垂れ下ってしまっても、これはこれでなかなか宜しいじゃあないか、と思える程強靭な精神を携えていれば良かったのだが、そういうわけにもいかぬ。何しろ商売であるのだ。食い扶ちと考えるようになった辺りから大分絵仕事そのものへの展望は薄れているが、それも仕方がない。商売であるのだ。
「そう思うなら、先日ご友人の方に言われたように、きちんとご準備なされば宜しいのに」
怪訝な眼を向けてくるのは、近頃己なんぞに教授賜りたいと申し出て、手習いに入り浸っている青年である。気付けば細々と身の回りにまで世話を焼くようになったが、何分押し掛けられたのと同義であるので、こちらとしては少々煩わしい。下手をすれば妻の如く叱咤してくるのだ。煩わしい。
「そうは言うけれどもね、私も差し当たり用意をしなければと考えてみはするんだ。ただ、どうしても失念してしまうだけなんだよ」
「そこまでお世話しなきゃならないとは、仕様が御座んせんねえ。雨降りの朝には傘を玄関先に出して差し上げなけりゃあ」
別に君がやる必要はない。喉元まで出かけて、しかしながら用意してくれるのならば有難い、とそう思い直し、自宅を後にする。義理固い青年であるのだ。半ば強引にとはいえ教えを請うているのだから、何か返さねばと考えているのであろう。義理固い青年であるのだ。
本日は朝の間から晴天である。夜半にも雨の気配はなかった。降られることはないであろう。意気込んで白紙の画板を取り出す。このような気を揉まねばならぬのも、一重に己の得手が風景画であるからなのである。とりわけ水場を描くのに長けているらしい。重きを置かれるのは色彩の無混濁、つまりは透明感。滲んでしまっては価値がない。
(しんとしている)
常よりもうんと、しん、としている。人の手に依るところもあるのか、夥しい杉が植栽され、それを阻まぬよう葉の茂る木々が揺れていた。半ばから渓流が差し込み、眼前の湖沼に落ちている。細く、ささやかに紛れる陽光が、湖面にちらちらと星雲を齎(もたら)しており美しい。この線画に、早々と色を与えたい。目にしている光景が失われぬうちに、早々と。
もういっそ線書きは程々に、着色しつつ整えて参ろうか、などと逡巡しながら、ふと視線を上げると、見慣れぬものが湖面に佇んでいることに気付いた。
(女、だろうか)
ぼう、と浮かび上がる影は恐ろしく白い。そこだけ色を抜いたようである。裾の長い衣服、否、あれは帯であろうか。態々白色の装束を纏う際の事情は、己でも心得ている。禊か、入水か、もしくは既に死者であるかだ。死者であるか、だ。頼むから前者であってくれと願いつつ目を凝らすと、痩身が翻った。こちらを窺っている。
「……御機嫌好う」
古めかしい挨拶をされ、眦を瞬かせる。生者だ。生きておられる。思わず反射的に、「やあ、御機嫌好う」と返してしまった。
「いや、驚いた。この辺りの方ですかな」
「いいえ、元来異国が住まいですの。そちらは絵描き様?」
それで今日は偶々(たまたま)ここに、だの、親類がどうとか、だの、それ以上のことは一切語られなかった。けれども彼女がそのつもりなら、己もそれに従わねばならない。尋ねられたことにのみ答えれば良いのである。
「ええ、近頃は大体ここで。そろそろ場所を移そうか、とも思っておりましたが」
「まあ、それならもしかすると、本日が最後になるかもしれませんわね?折角お逢い出来ましたのに、残念だわ」
もう次があるつもりであったのだろうか。社交辞令と理解しつつも、やや首を傾げてしまう。高揚してはならぬ。それにしても美貌の女性であるのだ。高揚してはならぬ。
「宜しければ、お描きになったものを見せて頂けませんでしょうか」
「生憎ここには先程から始めたばかりの線画しかありませんでね、自宅に戻らねば完成品はお見せ出来ないんですよ」
「線画で構いません。お上手な方なら、それだけで分かります」
初対面の人間に対しては見栄を張るものである。どうせならば己が納得のいく作品でなければ気が進まなかったが、渋々提げていた画板を振り返して見せると、わあ、と愛らしい歓声が沸いた。
「無理に褒めて頂かなくとも、色のない状態では好いも悪いもないでしょう」
「いいえ、いいえ。もう形がございますもの。これだけで立派な絵画ですわ」
艶美な黒髪が、首を振るごとに水を弾いて揺れる。己になど表現出来ぬ透明度がそこにあるような思いに駆られ、咄嗟に口上を荒げた。
「あの、もしご迷惑でなければ、描かせて頂けませんか?」
「私に、贈って下さるのですか?」
「いいえ、そのう、貴女を是非、記念に収めたいのです。今日の、記念に」
回らぬ呂(ろ)律(れつ)で懸命に請う様は、いかに滑稽であったろう。それでも彼女は少しばかり狼狽した後、静かに頷いてくれた。
そうと決まれば、と新たに白紙を出し、背景に惑うていると、彼女の方から要望があった。
「私、湖で戯れていては駄目かしら」
「……しかし、描いている間中そうではお身体が冷えます」
「構いません。ちいとも構わないんです。冷めたら出てゆきますから」
「結構です。貴女から先に描きましょう。背後はただの飾りですから」
そうまでして、なぜ水場に拘るのであろう。疑問ではあった。そもそも初見の際には、何が目的で訪れていたのであろう。様々な憶測が溢れたが、どうせこの場限りになるであろうと腹を括り、筆に集中した。
彼女を模(かたど)り終え、さて背景、となったが、先程申した通り背景だけなら明日にでも叶うのである。だが彼女は恐らく、今この場にしか居るまい。現実の姿を出来る限り確かなものとして留めておきたい、と考え直し、彼女から着色することにした。
「早うございましたね」
「貴女から、先に完成させることにしたんです」
足元に踊る小魚の群れに手を差し伸べつつ、ふふ、と僅かに咲んだだけであった。黒々と照る髪と、ひらりと舞う白の薄衣、そうして黄金(おうごん)錦(にしき)の帯が緩く棚引く。静止しているものはない。己が静止させるのである。天女を現世に留めようとした伝承のなかの男も、このような気持ちになったのであろうか。
と、裾の灰白色まで塗り終えたところで、夢想は途絶えた。突如として晴天の陽光に割り入るかの如く、驟雨が注いだのである。予想もせぬ事態に意識が混迷し、とりもなおさず手元の画板を守ろうと宿り場を求めたが、周囲に陰はない。漸く大木を探し当て、その幹に身を隠した。紙を胸の方にして画板を抱き、一刻も早く止むことを願う。
そこではた、と、彼女を放って来たことに気付く。幾ら自らが芸術家の端くれとはいえ、驟雨のなか作品を優先し、女性を放置するとは如何なものか。身を乗り出して湖を方向を窺うと、既に彼女は何処かに逃れたように見えた。悪いことをした、と悪行を省みつつ、上空に眼をやる。小憎らしい程の晴天であるというのに、水滴が幾重にも連なって眼前まで降りてくる。狐の嫁入りというのだ、と、幼少の頃祖父から教わった記憶があった。狐も物好きな輩である。
暫くして、少しずつ雨脚が遠のいた。それと同時に、周囲の温度が上昇したような錯覚に陥る。否、錯覚ではない。明らかに風が止み、日差しが強まっていた。
(踏んだり蹴ったりとはこのこと)
やはりぐっしょりと重くなった画板を抱え、次第に蒸れてくる山道を歩いた。彼女を探したが、最早周囲には何の影もなく、ただ間抜けな絵描きが一人呆然としているだけであった。
帰り道、青年への土産に茶飴を買い、翌日からは雨天の用意を頼むと頭を下げねばならぬな、と思う。やや頭の重い話だが、背に腹は代えられないのである。
自宅に辿り着くと、すっかり夕餉の刻を迎えていた。玄関を引けば暖かい汁物の香りがする。味噌ではない、これは鰹か。青年は相変わらず細君の如く私の帰宅に駆け寄り、母親の如く眉を顰め、妙な和語を話した。
「貴方ねえ、この際申し上げておきますけれど、着物を乾かし、草履を乾かし、湯を入れてやるのは僕なんですからね」
「別に私が自分でやったって好いんだ。やってくれているのは君だ」
「ええ、ええ。分かりましたよ、先生。それにしたって、どうして今日はこんなに遅くなったんです。いつもなら雨に降られたら、宿る間もなく一目散に帰っておいでになるじゃありませんか」
仕方なしに一部始終を語ってやると、青年は箸を止めて一言「へえ」と言っただけであった。そうして吸物をすうっと喉に下した後、落ち着いた声音で続ける。
「不思議なこともあるもんですねえ。化かされたんじゃありませんか」
「私もはじめはそれを疑ったんだ。否、疑っている…・…化かされたんだろうか」
訝しげな己を、同じく怪訝な相好で見遣り、青年は持ち帰った画板を己の前に置いた。見てみろ、ということなのであろうか。「大体ね、お持ち帰りになった時点で、少しも紙が水を吸っていませんでしたよ。可笑しいと思ったんだ」
恐る恐る裏を返すと、思わずあっと声を上げてしまった。絵が完成している。すっかりあのままの背景の下部に、ゆらゆらと透明な色彩を放つ水場、その水上に、一羽の壮麗な白鳥が浮遊している。
「化かされた、んだろうか」
今一度投げかければ、青年は徐に首を横に振った。
「そんなもの、僕はその場にいないんだから図りようがありませんよ。けれど先生、悔やんでいらっしゃらないんなら好いでしょう」
貴方がそれを善しと思うなら、僕も化かされる程の画家を目指すまで。そう言う。好い弟子を持ったものだ。矛盾した人間だとは、よく称されるところである。
このような日和には、早足で帰宅するに限る。
澄ました顔でその場を後にする青年を見送りつつ、そう思う。明日も再びあの場所へ赴こう。端整な痩身を思い起こしてみる。そうか、あの美貌は白鳥であったのか。いつ赴いてもあの渓流は、厭にしんとしている。道理で上等だ。
完成を許された絵画を撫でる。抜きん出た白色の間際から、羽音が微かにざわめいた。微かに、ざわめいた。
「せんせい」
しと、しとりと、真綿を絞るかのように落ちる雨を見やる師に、菊彦は気遣わしげに呼び掛ける。彼は窓の桟に肘をかけ、ぼんやりと混濁した眼差しでこちらを向いた。
「如何なさいました。なにか感慨深いものでも?」
「いいえ、何、雨というとね、少し気がかりなことが御座いまして」
雨といえば、と、先日拝聴賜った驟雨のなかの奇譚を思い出す。曩時が蘇るのであろうか。人間、特異な体験をした後にその際と同様の、或いはなにかが共通する状況になれば、自ずと動揺するものであろう。
「またなにか、特別な予感でも御座いましょうか」
「いいえ」
恐る恐る尋ねたが、返答は予想と異なっていた。
「ただ、山に住まって絵描きをしているにも拘わらず、雨というものにまるで頓着しない友人がいましてね」
本当によい風景画を描くのですが、大変口惜しいことです、と続ける。せめて山中でなければと思うのだけれども、どうしても住まいはそこと譲らぬのだという。
「そういえば、彼にも御弟子さんが出来たようで。君と是非対面させてみたいものですね」
「次は御供して宜しいんですか?」
「ええ。何しろあちらから出向いてはいらっしゃらないでしょう」
同年代の若者と聞き受け、菊彦ははじめ頬を綻ばせたが、どうやら大層気の利く人であるとか、気難しい師宅に半ば強引に押し掛け、今では言い負かす程の覇気があるとか、更に情報を得るに付け、次第に相貌が曇った。けれども師はやんわりと莞爾(かんじ)する。
「まあ、まあ、可愛げでは君の方が勝っていますから」
適材適所、私は菊彦君で良かったなあ、と嘯きつつ、鶯(うぐいす)色の袂を翻らせる。すぐさま追おうとしたが、頬に差した紅が薄れるのを待とうと思い直した。適材適所、志したものが書で良かったな、と一たび嘆息する。
雨脚が衰える気配はない。もしかすると再び、何かしらの奇談が降りるかもしれない。願わくは僥倖(ぎょうこう)であれ、と誰にともなく呟いた。
せんせいがたのおはなし。