曠野の苑

曠野の苑

 ぎいい、と鉄が擦れたような音が響くと、見るからに履き古された、けれども質の良さが窺える赤銅色の革靴が覗いた。
 工房の床は常に何らかの液体によって艶めかしい。それは家主の口唇を外れた葡萄酒であったり、窓から差し込んだ雨痕であったりと様々だ。お陰で室内に立ち込める芳香は日によりけりで、訪ねてくる客人は度々辟易するのであった。

「偶には普通のことをすればいいのに。晴れた日に窓を開けるとか、葡萄酒を杯に注ぐとか」

 どこもかしこも積雲に染め上げられたような白色の少女は讒言するが、眼前の青年は微かに首を横に振った。それが勘に障ったのか、眉を顰め、顔全体で気分を害した旨を表現されたものの、掌に収まり切ってしまう程の体躯ではいま一つ迫力に欠ける。異国の地で独りは心細かろうと、叔父から譲り受けた文鳥は、どうやら妖精の類であったらしい。元よりふらりとどこぞへ出掛けては、可笑しな拾い物をしてくる嫌いのある叔父だ。今更何が起ころうと、別段驚愕する程のことでもない。

「未だ慣れないんだ。西欧の生活には」
「そういう問題じゃないでしょう。生まれ以前にあなた、人としての生活を諭しているつもりなのだけど」
「鳥類に人間の常識を説かれるとは随分心外だ。それからその物言い、うちの家内を思い出すよ、ああ全く」

 揶揄する風でも、まして惚気る風でもなく、心底手を焼いているような素振りである。彼の細君の徹底した偏屈ぶりは、飼われる身の彼女とて与り知るところであった。

「書簡にでも認められたら宜しいわ。如何に己が奇怪な生活をしているのか、仔細まで説いて差し上げたら?」
「冗談じゃあない。態々小言を受けろと言うのかい」
「ご都合に適ってらっしゃるでしょ。すっかり堕落しきっておしまいならいっそお帰り下さいますな、とでも便りが届くかもしれなくてよ」

 青年は東洋人にしては薄い色彩の双眸をすう、と眇め、一たび嘆息した。それとは逆に黒々と艶を帯びた頭髪は、何ともなしに惑うてみせる。さながら交錯した感情をそのまま表しているかのようでもあった。

「……君、思い違いをしているようだがね、僕は彼女のところへ帰りたくないというわけじゃあないんだよ」
「ええ、そうでしょうとも!当然でしょうとも!ご自分から望んだ祝言ですもの。合わせる顔がないって、それきりのお話でございますもの」

 皮肉を隠そうともせず露にするのを嗜めようとしたが、やめた。数年前、妻と初めて対面したのは、幾晩か雪の降り続いた冬の瀬の、花の芽吹きも間際かといった頃であった。取り決められた逢瀬の日の、少々異質な邂逅。それというのも、己が庭先でのうのうと兎など拵えていたからなのであるが。己の姿を発見した際の彼女の形相といったら、とても口に出せるものではない。そもそも生涯独り身で享楽に耽るつもりであったというのに、なぜ彼女に求婚してしまったのか、未だに不可思議でならなかった。

「仮にも一家の主ともあろうものが、職を建前にこのようなところまで逃亡して、そうして逼塞しているだなんて」
「義務は果たしているとも。職が建前、結構なことじゃあないかね。本音なんてものは、いつまでも明かされない方が幸せに決まっている」

 諦念した調子で零し、ふと部屋の隅にぽつりと寂しげに置かれた卓上を見やる。封をされたままの書簡が十数通、幾重にも重なって放られていた。品の良い和紙に、今や珍しいものになった縦読みの名が連なる。達筆ではあったが、微かに手を震わせたような跡があった。

「……建前であろうと、こうして律儀に加減を窺ってくるんだから大したものだ」
「開けてご覧なさいよ。それが真実建前なら、貞淑な妻を気取って余計なことは一切書いていないはずでしょう。懸念されるようなことは、何にも」
「言っただろう。本音なんてものはね、いつまでも明かされない方が幸せに決まっている」
「譬い僅かでも本音が見え隠れしているのが恐ろしいの」
「そうだね、そういうことだね」
「呆れた」

 少女は口をへの字に歪めたかと思うと、書簡を全て壊れ物の如くそうっと両腕全体で掻き集め、ずるずると引き摺りながらやっとの思いで備え付けられた引出しの、一番狭いところにすとんと差し入れた。

「せめて雨風に吹かれない場所に保管なさい。よくも今まで傷付かなかったものだわ」
「どうせ読まない」
「読まなくとも」

 大事なものではないの、と柳眉を下げ、顔色を窺ってきた。どうにも遣り切れず、青年は咄嗟に視線を背ける。するとその先に、余り布ではあるが充分に上等な海老茶の革を見つけた。帯に短し襷に長し、といった具合で持て余していたものの、在りし日の何かを思い起こさせる。ああ、あの彼女の、寒々しい白皙が。
 突如として思い付いた風にそれを手に取り、工房に持ち込もうとする青年に慄き、少女は後に続いた。

「どうしたの、一体」
「……いいや、全く。侭ならないね。人の記憶というものは」

 あの日、彼女の繊研な指先は、悴んで余計に冴え冴えとしていた。凍えそうだ、と、朧げに感じたことを覚えている。思えば寒気を防ぐことに関しては、どういうわけか昔から鈍感であった。

「作って差し上げるの、手袋」
「これで罪が軽減されると考えているわけじゃあないが」
「ええ、そうね。それ以前に文ね」

 耳に痛いことを囁かれつつ、淡々と作業を進める。大して触れた記憶もないのに、掌の広さも、指先までの長さも、全て正確に意識することが出来た。それが何故か、驚くほど虚しい。

「……侭ならないね、本当に」

 積雪の庭園、深く、地の奥底まで寝付いたような深淵の苑は、己の内で意外にも、美しいものとして刻まれていたらしい。一面の白銀よりも更に、恥じらいすら見られなかった淡白な面差しの方がより鮮明に映し出され、それがまた哀しくもあり、密やかに笑みを浮かべた。

曠野の苑

曠野の苑

昔書いた連作のうちの一作でしたが、ひとまずこれだけでも読めはするかと。残りのファイルが行方不明のため、見つかり次第上げるつもりでおります。西欧を舞台とした、似非ファンタジーのような何なような。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted