死せる錦

死せる錦

いつの時代のことか、どこの地域のことかも定かではない、ただ暑い夏の盛りに、未だ来ぬ時節を素知らぬふりで睦まじく惑う女学生がふたり。

 秋になればいい。一歩踏み出した途端に思う。首筋から額にかけてがじっとりと濡れ、脚の間にさえ汗が滲んだ。それでいてからりと快晴ならば未だ心持ちも変わってくるものを、曇天の隙から今にもか細い雨が滴り落ちそうな気配がしている。どういうわけか、湿気に紛れて気温ばかりは下がらない。徐に広げた日傘は、登校時にしか役目を果たさせてやれなかった。この先は雨傘として、本意ではなかろう雨垂れを渋々受け止めるのだ。
 秋になればいい。再び内心で毒づく。だからといって、時が早まれば好いという話ではない。あくまでも昨今の酷暑を忌避しているのである。この数カ月を経て秋が訪れてしまえば、早々に冬を迎え、更に時節が移る。そうして、望まぬ別れが訪れるのだから。





 何が莫迦らしいかというと、己の知らざること総てが総て莫迦らしいのである。大体誰が三年区切りなんぞにしたのか、この学生生活が終了した後のあれこれも、何れは出逢う誰それのことも、そのうち独りになることも、そのうち死ぬことも、どうだって宜しい。何故かって、知る必要がないからだ。何もかも瑣末であるからだ。追求したい人間のみが、勝手にやっていれば宜しいのだ。
 以上の如き自論から、彼女はどうも浮ついた存在であった。ぼうっと遊び呆けているという意味ではなく、字面通りの意味で「浮ついて」いた。つまるところ彼女にとって将来の想像やら馴れ合いやら己の幸福やらといったことは、哲学にも等しいのである。一先ず義務を果たし、淡々と生を全うし、果てることが出来ればいい。いっそどなたも自らを記憶してくれるなと云わんばかりに、常に堂々と坐していた。
「まだ出していなかったの、それ」
抑揚の激しい声に、ふと顔を挙げる。けれども何事にも例外はあるもので、というより、そのような志向をしていても、つけ入る隙がまるで存在せぬわけではなかったらしい。針の穴ほどに開かれた隙を見逃さず、するりと貫いてきた剣を、撥ね退けるまでの気力が足りなかったのである。それとも、口ほどの意志はなかったのであろうか。
「出してない。出してないけど、最後まで出さないでいたらどうなると思う」
「おうちにご連絡がいくと思うわ。小柴さんがまだ進路希望調査書を提出してくれません。どうするおつもりなんでしょうって」
 冗談めいた口調ではあるが、それが真実なのであろう。元より己のそれより色の薄い髪を二つに縛り、小さなこうべをきゃっきゃと揺らしながら笑う。またこれも才であるな、と嘆息した。どうしてこういう風になれぬのか、侘しくて考えたことすらもない。
「ねえ、ちょっと出ない」
「どこへ。昼休憩は終わりかけだよ」
「休憩なんてそんな束の間のこと。私達、今日はもう下校時刻だわ。そうでしょう」
 あたかもそれが紛れないことであるように、爛々とした双眸が訴えた。制服のスカーフが淡く翻る。同時にスカートも揺らいだが、膝より下に揃えられたそれは、先ほどの彼女の発言をより悪びれぬものとしていた。






 どこへ連れ出されるのかと構えていたら、辿り着いた先はどこかの御宅の裏庭であった。不法侵入、と口に出しかけて、思わず目を見張る。紫陽花、向日葵、桔梗に浜木綿、鳳仙花と、隅々まで行き渡る造りで大輪が咲んでいた。何れも夏の花だが、微妙に時期が異なるはずであるのに、満開である。
「すごいでしょう。これ、私のお祖母様のおうち」
 にこりと莞爾を浮かべ、背を向けていた身を返された。愛らしい容貌にその色彩が似合いである。
「すごい。佳代のお祖母様、素晴らしい御趣味だね」
「うん。でも亡くなったわ。家自体は管理している人がいるけれど、庭は少しも弄ってない。それなのに毎年、こうして花を咲かせてくれるの」
 驚愕すべきところであろうに、不思議と疑問は抱かなかった。この場所には何か特殊な魅力がある。それを感じていたからだ。微かに頷いてみせると、佳代は更に笑みを深めて手招いた。
「座って、お話をしましょうよ。こんなにゆっくり出来たことないじゃない」
 裏庭の端に、花々を一望出来るささやかな椅子が二脚用意されていた。華奢なものであったので僅かに躊躇したが、佳代が先に難なく腰を下ろしたのでそれに倣う。
「昔はよくお邪魔してここでお茶を飲んだりしたわ。今も用意出来たらいいんだけど、残念ながら住む人はいないから、道具がなくて」
「別に気にしないよ。お構いなく。それで、何の話をすればいい」
「こうしなきゃならない、なんてことは一つもないと思うの。梓が好きなお話をして」
 久々に名を呼ばれた気がして、少しばかり白皙の頬を見つめてしまった。けれども話題は浮かばない。入学してから三年近く、随分友人をやってきたと自負出来るのに、梓から佳代に何かしら自発的な話をしたことは、幾らあったであろう。
「私に訊きたいことはない」
「……どうして、そんな風にいられるの」
 終ぞ佳代から誘導されると、返答はすぐに思い当たった。
「そんな風って、どんな風」
「なりたい自分があって、誰かを尊敬出来て、容易く信頼出来て、生きることに意義を見出せて、死ぬことを、」
 恐れているだろう。最後には確信がもてなかったので、同意を求める形で尋ねた。佳代は案の定総てに肯定し、最後の問いにも躊躇いなく首を縦に傾けた。
「梓、そういう考えって、思春期によくあるものらしいわよ。まだお若いつもりでいらしたの」
「煩いな。質問に応えてよ」
「そうね。大人だからとか子供だからとか、人間らしいとからしくないとか、それは関係なくて。人それぞれだと思うわ。でも、私に限っては……単に臆病で、快楽主義なだけ」
「快楽主義」
「そう。愉しく生きたいし、出来る限り懊悩はしたくない。悩みたくないから同調するし、気に入られたいから笑顔を作る。でも本当に強いのは、あなたみたいな人なんでしょうね」
「私は、自分が弱いから意志を曲げられないんだと思っていたよ。他人の色に染まるのが恐ろしいから、自分だけで世界を完結させたがる」
「それも間違いじゃあないわよ。でも、強いか弱いかで言ったら、あなたの方が多分、ずっと強い」
 突如真顔になって、佳代はすいと視線を逸らした。逃げて、いるのだと思っていた。他人から逃げ、責から逃げ、世界から逃げ、そうして己は存在しているものと思っていた。人生を肯定されたのは初めてのことである。けれども当然であった。深く誰かと関わりをもつことすらも、初めてのことであるのだから。
「ほかには」
 話題を焦らすように佳代が促す。
「ねえ」
 けぶる睫毛を伏せ、梓が口を開いた。日差しは陰り、木々の瞬きばかりがその場を支配する。奇怪な空間であった。これから何やら呪いでも唱えるのではないか、と思われるような気持ちになった。
「もう、会えなくなるの」
 ちらりともしなかった。佳代は肩を並べたまま、己よりも幾らか嵩のある梓の旋毛の辺りをそうっと撫で、すると漸くこちらを向いた。
「――卒業したらね」
 ああ、やはりそういうつもりなのだ、と軽く絶望する。しかしその答えに意義を申し立てる気にはなれなかった。彼女の心算を心得ていたからである。
「けれどもう、大丈夫。あなたはあなたの大事な人を見つけられるし、他に幾らでも友人を作ることが出来るわ。箱庭を去っても、もう、大丈夫」
「だけどそれは、佳代じゃない」
 努めて悲痛を装わず返したつもりであったが、演じ切れていなかったらしい。ならばいっそのこと、と飾るのを辞めると、今度は止め処なく流れ出してくるものがあった。痛みでも、哀しみでもない。ただただまっさらな、寂寞だ。
「佳代じゃない……」
 最早嗚咽混じりであったろう。眼前で滂沱する親友を、佳代は何でもないように静かに見据えていた。暫くして、慟哭が若干薄くなると、ぽつりと微かに呟く。
「夏が、終わらなければいいのに」
 梓はまた泣いた。夏が終わり、秋が訪れてしまえば、早々に冬を迎え、更に時節が移る。そうして、望まぬ別れがやって来る。互いがそれぞれに学び、働き、またそれぞれに誰ぞと出逢い、子を為し、育て、死んでゆく。





 夏が終わらなければいい。白んだ空模様も驟雨も、末枯れることなく佇むこの花々の如く、種を落とすこともなく永遠の生を保ち続ければ宜しい。茹だる夜露も、淡さのない陽光も、冷えぬ流水も、今ばかりは享受してやろう。
 二人の間を繋いでいるものが、錦の如く太く、けれども脆弱に美しいものであるということは知れていた。そうしてそれが近しくも断たれようとしていることも。鋏の役目を果たすものが形を留めているなら、どれ程救われたことか。



 

 地に伏した孤独を、陰りを深めた木々が収める。次いで華筵が頭を垂れた。息を潜める華筵の主の、嗚咽を押し殺すかのように。

死せる錦

死せる錦

思春期によくありがちな友人への憧憬と、いつ終わるとも知れぬ日常への執着を、ひっそりとした空間の中で描きました。ガールズラブのつもりはありませんが、似通った印象を抱かせてしまうかもしれません。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-08

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