超人旋風記 (2)

超人旋風記 (2)

異世界の物語は嫌いではない。
しかし何一つ鍛錬もしていない主人公が、突然異能の力を持ち、大活躍するなんてあり得ないと思っている。
その力が誰かに与えられたものだとしても、使いこなすために血の滲むような訓練が要る筈だ。僕も大して丈夫でもなかった身体を、徹底的にいじめ抜くことで強くしてきた。
だから僕の描く主人公にも、そうさせたい。そうあらせたい。

結構な長編になります。気長にお付き合い願えれば幸いです。

物語は第2部に突入。舞台をパリに移します。3人の超人兵士との遭遇。合衆国とフランス対テロ部隊と組んでの、ブラックペガサス軍団との直接対決。そして、ヒロイン、マリアとの邂逅。

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第二章 炎獄での邂逅

第二章 炎獄での邂逅

   (1)

 …『諸聖人の祝日』から2日。今年残っている祝祭日は第一次世界大戦休戦記念日とノエル――クリスマスだけ。日照時間もすっかり短くなり、気温が10度を上回る日も少なくなった。道行く人はお洒落に厚着し、ある者は芸術に、ある者は美食に明け暮れながら、花と緑の戻ってくる復活祭までの5箇月をひたすら耐えるのである。
 …夜11時を過ぎると、盛り場とは言え、ランシエンヌ・コメディ通りの店先の灯りも消え始め、道の隅々に現れる闇が、街を荒涼とした図に変える。何が潜むかわからない闇、表の顔が華やかな街ほど濃い闇だ。その闇を嫌うかのように、人々の影もまばらになる。表通りでそれだから、裏通りは尚更だ。人通りは皆無と言ってよく、申し訳程度に点在するだけの街灯は、路上の寒々しさを却って際立たせるばかりだ。
 老舗カフェ『ル・プロコープ』の真裏に面したデュカキス・ビルに、〈ジラールモ〉というパン屋があった。
 ミラノ風サンドウィッチを売り物にしている。もっともオーナーはパリっ子だ。市内を侵食するハンバーガーチェーン店に対抗しようと、ビルの持ち主でもあるオーナーが、本場イタリアでもなかなかにヒットしているサンドウィッチ店の名前とレシピを借り受けたものだ。昼休みには近隣のオフィス街からの客、夕方には学校帰りの若者客で賑わう店は、同じビルのレド・シャッセ――日本語で言えば1階――に入っている花屋や薬屋の売上を遂に抜き、オーナーを喜ばせている。
 その〈ジラールモ〉の店先の灯りが消えた。今日の営業は終了だ。少女にも見える娘が1人、軒先の立て看板を仕舞い、ゴミの入ったブリキバケツを抱えて出て来た。白いワンピースと青のカーディガンを着た少女は、バケツを抱えたまま濡れた石畳の道を横切り、角の街灯の近くにあるゴミ集積所に運んでいく。重そうだが決してバケツを引きずる真似はしない。
 食べ物の滓や煙草の吸殻が散乱し、小便の臭いまで立ち上る集積所にバケツを置き、小柄な娘はつい1時間まえまで氷雨の降っていた空を見上げた。両手で自分の肩を掴み、ついた息はたちまち白く凍りつく。寒い。後ろで束ねた髪を解くと、癖のない長いプラチナブロンドが背中に流れた。
 街灯の淡い光を浴びて立ち尽くす少女は、この世の存在ではないようにも見えた。背後から声を掛けられ、振り向いたその美しさは、どんな絵画にも描き切れず、どんな写真にも収め切れまいと思えた…。
「終わりかいマリア? 遅くまで頑張るねえ」
 隣の花屋の女主人が、従業員の若い男を連れて、店から出て来たところだった。男に鍵を任せた女主人は、夜の寒さに、黒い毛皮のコートに包まるように身を縮めた。
「おお、寒。また風邪引かないようにするんだよ。明日またお茶でも飲みにおいで」
 マリアと呼ばれた少女はにっこりと微笑んだ。しかしその笑みは、背中を向けて歩き出した女主人たちを見送る時には消えていた。マリア同様家族がいないという女主人は、いつもマリアに親切にしてくれた。いい人だとはマリアも思う。しかし彼女の“趣味”には感心できない。ニヒルを気取った笑みをマリアに送ってきた従業員は、先週までいた男とは別の人間ではないか。前の従業員が言っていた。女主人のところに寝泊まりさせて貰っているのだ、と。今の人も同じなのだろうか。
 汚らわしい…。ゴミ集積所の臭いさえ厭わなかった少女が、人形以上に整ったその顔を、一瞬嫌悪に歪ませた。
 マリア、どうかしたのか…? 店の方から店長の呼ぶ声がした。マリアはブリキバケツを丁寧に他のバケツと並べ、白い息を残して〈ジラールモ〉に駆け戻った…。


     (2)

 30分前に遡る。
 最早歴史的建造物、知らない人が見れば由緒ある役所か博物館にしか見えないだろうクリヨンホテルの前にまばらに立つ街灯が、大理石の台座に密やかに座るルーアンの女神像を、背後からぼんやりと浮かび上がらせていた。この街ではどんな夜間照明も決して出しゃばらない。眼差しの悲しげな女神の顔が濡れていた。雨は上がったばかりだった。そのせいか、珍しく人通りが少ない。路上に停めてある車の数も少なかった。
 女神像を見上げる辺りには、デートで賑わう9月なら二重、ひどい時には三重の路上駐車の列が出来るものだが、この時期は大半のカップルも自宅に引き籠るのだろう。
 女神の真下に停まるシトロエンXMの、後部座席のドアウィンドウが音もなく下りた。顔を出した男の息が、白い尾を曳いて流れていく。雨上がりだったが霧にもならず。空気は澄んでいた。派手ではない街灯に囲まれた凱旋門、そのまた遥か彼方のエッフェル塔までもが烟ることなく見通せた。
「流石に寒いな、この時期は」
 白いヴェルサーチの細身のスーツに身を包んだ男は、広く突き出た額の下に鋭く光る目を、広場の周囲に走らせた。薄い鼻髭の下の唇だけで笑う。シトロエン車内を、身を切るような寒気が満たしていく。しかし屈強な体つきの運転手も、助手席に座る厳つい顔の男も、文句一つ言わない。
 言ったのは、後部座席に並んで座る剣吾だけだった。
「じゃあさっさと閉めたらどうです? 僕はともかくスコット少佐が風邪を引く」
 運転手がぎょっとした顔でミラーを覗いた。剣吾は構わず続けた。
「それに変な女たちを呼び寄せることにもなりかねない。あなたは平気だろうが僕は御免だ」
「大丈夫だろう。今日は天気も天気だ。街娼たちも少ない」白いスーツの男は、シャンゼリゼ通りに点々と立つ、着飾った女たちを見た。「それに、スコットと君を見れば、近寄ってなど来ないさ。あの手の女たちは危険の察し方は心得ているものだ」
 この数年のAIDS騒ぎで、街娼の数も減った。素人の数も少なくなった。街に立つ女たちの大半は外国人だ。飾りや色合いこそ豪華だが、薄い夏用ドレスを厚い毛皮のドレスに包む彼女たちの誰もが痩せ細っていた。
「流石ですね。よく御存知だ。僕じゃそうは行かない」剣吾の口調はあくまで冷たく、眼差しは暗かった。「ついでに彼女たちを温めて上げたらどうですか?」
 白スーツの男は意外そうな顔を剣吾に向けた。微笑む。「今日は随分御機嫌じゃないか」
 彼の視線と、剣吾のこの上なく暗い眼差しが、しばし交錯する時間があった。
 先に目を背けたのは剣吾の方だった。
 この男の笑顔はいつもそうだ。広い額の下の目は、絶対に笑っていない。何もわからなかった時の自分を世話してくれた恩人。そして今は自分に命令を下す有能な指揮官。しかしサウジでの一件が、その関係を変えた。剣吾は恩人であるこの男を信用できなくなっていた。自分の解決してきた事件が、全て何かの実験であったらしいとも気づいていた。事件そのものが偽装だったのではという疑いさえも。
 だとすれば、自分をいつも事件現場にまで運び、監視を続けていたこの男が、裏で糸を引く者の1人であるのは間違いない。
 この僕をこんな身体に、そう、化物にしたのは、一体何のためだ?
 ブラック何とかというテロ集団と戦わせるための兵士として?
 それだけか? 本当にそれだけなのか?
 追及したいのは山々なれど、どうしてもその先が口に出せなかった。男を恩人と思ってしまう引け目のようなものが邪魔をした。そして、怖くもあった。何が怖いのかは漠然としていた。正直、わからなかった。だが、折り入ってだが…、と男の話が始まる際、剣吾はいつも背筋がゾクゾクした。
 彼が口を開く時、途方もない事実が飛び出して来はしないかという恐怖。途方もない何かが口を開けて待っていそうな戦慄。それがいつも胸にあった。奇妙な確信を持ってくすぶっていた。
 …またしても、一見穏やかな波間を、木の葉のように流されていく自分の姿、巨大な何者かの手によって翻弄される自分の姿が見えた気がした。
 今度も、また、遠くまで、流されていくんだな…。
 剣吾は目を閉じ、濃紺の作務衣の襟を合わせた。吸い込んだ湿った外気は、ガソリン臭いだけだった。金属臭もした。古い都だか何だか知らないが、人に安らぎの一つも与えない臭いだ。自然の香りもしなくはない。遠くの森の、プラタナスの落葉の香り。しかしそれすらどこか余所余所しい。何が文化と歴史の都だ。こんな場所によく好んで住むものだ。
 松林の香りに満たされていた自分の故郷と、何という違いだろう。
 気配に薄目を開けると、目前に運転手のゴツい顔があった。ゴリラ並に太い腕を背もたれに乗せ、こちらを睨んでいる。「貴様、上官たるデービッド少佐に、随分な口の利き方だな」
「それだけ生意気になったせいじゃないかな。自分でも自覚してるよ」剣吾は穏やかに、そして冷ややかに言った。「気に入らなかったら、僕をここから放り出せばいい」
「何だと…」
「遠慮は一切要らないよ」
 剣吾の目が、すっと細められた。
 白スーツの男――サイモン・デービッドにはどうしてもぶつけられずにいる苛立ちを、目の前の運転手にはぶちまけてもいいかなという気分になったのは確かである。
 デービッドのボディガードも兼ねる運転手は、軍歴も長い、CIA海外駐在局員だ。大抵のことは己の腕力で解決してきた。ゴツい風貌と太すぎる腕で恫喝めいた言葉を口にすれば、大抵の相手は怯むものだった。しかし今、怯んでいるのは運転手自身の方だった。剣吾の眼の奥に、ちらちらと浮かび始めた剣呑な光を察したからだ。
 過去何度か行動を共にした剣吾の、普段見せる礼儀正しい、育ちの良さを思わせる態度をかなぐり捨てた、好戦的な態度を、初めて見たのだ。
 そして何より、剣吾の能力を知っていたからだ。
 デービッドが目でたしなめてくれたお陰で、運転手は面目を失わずに、剣吾から目を逸らすことが出来た。内心、安堵しているのは明白だった。助手席に座る、厳つい顔のスコットが、小さく鼻で笑った。モスグリーンのコンバットスーツの上に黒のノースフェイス製パーカーを着込む彼は、合衆国陸軍少佐にして第一特殊作戦分遣隊(デルタフォース)の指揮官の1人だ。デービッドの属する機関とは直接関係のない彼が、剣吾の存在など知る筈もなく、デービッドたちがなぜこの奇妙な格好をした日本人を警戒し、特別扱いするのかなど、まるでわからないという顔をしていた。
 もっと重要なことが念頭にあったからだ。「また奴ら、待たせる気ですかね」
「いや、来たよ」ドアウィンドウを上げながら、デービッドが言った。広場に近づくスモールライトに顎をしゃくる。「今度ばかりは彼らも真面目にやるだろう」
「だといいんですが」
 スコットはパーカーの下で、筋肉に盛り上がる肩を竦め、短く刈り上げた頭髪を掻いた。階級は同じなのだが、スコットはデービッドに対し、明らかに敬意を払っていた。年齢差というだけではない、彼らの間には厳然とした、階級では測れない壁が存在するようだとは、2人の会話を聞いてきただけの剣吾にもわかった。
 シャンゼリゼ大通りから入ってきたプジョー405クーペが、女神像の視線の斜め前に停まった。
 2人の男が降り立った。運転席からは象牙色のオムのコートを折り目正しく着こなす大柄な男が、助手席からは黒いジャンプスーツの小柄な男が。
 顔を確認したスコットが頷いた。デービッドが頷き返す。運転手が背広下に収まるS&W-M640リボルバーをちらと確認後、シトロエンを降りた。スコットとデービッドも続く。
 剣吾は無関心を装い、刀を脇に抱えたまま微動だにしなかった。目で促したデービッドだったが、すぐに諦め、プジョーに向かって歩き出す。
 女神の足元、フランス式の挨拶など行われなかった。余裕ある状況でも友好的な雰囲気でもなかった。30代半ばと思しきコートの男が、夜の暗さの中でも、面長の顔を蒼白にしているのがわかった。
 デービッドが声を掛けた。「冷戦が終わってこの方、不祥事の数も随分減ったそうじゃないか、DGSEも」
「70年代のCIAには負けるがね」コートの男――フランス国防軍少佐、シャルル・トゥービエも甲高い声で、負けじと言い返す。2人とも声を潜めての会話だったが、剣吾の耳には明瞭に届いた。もちろんフランス語の早口には、理解が半分も及ばなかったが。「ニュースネタになった我々の不祥事なんて、たった一桁だ」
「しかしどんなに落ちぶれても、CIAにはNATOの機密をソ連に流す売国奴はいなかったがな」
「あんたの国には共産党がないから、そんな気楽なことが言えるんだ。共産党が政権を握った国で、KGBの浸透を食い止めることがどれだけ難しかったか、想像できまい」
「確かにその通りだ。幸いにも我が国には共産党どころか共産主義者もいないからな」
 DGSE――フランス国家対外治安局は、85年の環境保護団体所有船の爆破事件でその名を知られた。正しくはそのみっともない活動ぶりを、だ。それ以来、間抜けな情報機関の代名詞的な扱いを世界中の同輩から一身に受けている。かつてその名がSDECEだった時代には、フランス内外のテロリストへの執拗な追跡と検挙率の高さを誇った組織だったのだが。
 トゥービエはそのDGSEの、パリ副局長代理を務める男であった。「それより早く本題に入ってくれ。ここは寒くていかん」
「そんな格好をしているからだ」トゥービエのコートの下に見えるカルダンのスーツを見遣って、デービッドはせせら笑った。そのデービッドが白のスーツだけという格好なのに改めて気づいたトゥービエは、信じられないと言いたげな顔をした。構わずデービッドはスコットを手で示し、「紹介しよう。デルタのランディ・スコット少佐」
 トゥービエは隣の小柄な男を、GIGNのフランソワ・バダン大尉だと紹介した。剣吾も車内からバダンを見た。街灯の淡い光の中、黒髪と黒い瞳が見て取れた。ジャンプスーツの下には筋金の入った肉体が収まっているのだろう。齢は30過ぎくらいだろうか。確乎とした軍人の面構えを見ていると、隣のトゥービエとどちらが上官なのかわからないくらいだ。目にも態度にも並々ならぬ決意がみなぎっていた。陸軍所属の国家憲兵隊GIGNは昨年初頭、〈ブラックペガサス軍団〉追跡の際に、精鋭16名から成る一個班を全滅させられ、その他20名を超える死傷者を出していた。軍団がらみでの出動となれば気負いもするだろう。
 それはスコットも同じだった。一昨年、シカゴで受けた屈辱的な敗北を、デルタフォースは未だに深く根に持っている。機会さえあれば必ず逆襲する…、全隊員がそう誓っていた。だから今回、裏切り者を保護するというだけの任務ながら、軍団に襲われた事態も想定し得ると強硬に主張し、管轄外のパリにまで乗り込んできたのだ。
 2人の軍人の無言の意気込みはデービッドにも伝わっていた。含み笑う。「そういきり立つな。前にも言ったが、今回は派手な騒ぎにはならない」
 バダン以上に小柄で痩せこけ、一見貧相にも見えるデービッドだが、2人の歴戦の軍人に挟まれても平気な顔をしていた。CIA局員にして陸軍少佐の肩書を持つ彼だが、階級は飾りだと普段から言っていた。現在彼はCIAからの出向という形で、何とか機関という組織に属しているそうだ。私は根っからの文民なんでね…、というのが彼の口癖でもあった。
 だが、デービッドの態度と振る舞いは生粋の軍人に位負けしていなかった。バダンにもそれがわかったのだろう。きつく結ばれていた唇が、ふと緩む瞬間があった。
「派手な騒ぎにならない? そう願いたいものだ」トゥービエが肩を竦めた。「きちんとした対テロ部隊を持つ我が国が、他所の助けを借りたとあっちゃ、それこそ笑いものだ」
「その必要があるから我々もやって来たんだ」
「いいか。あんたはともかく、デルタを入国させたのは異例中の異例の措置なんだ。あくまで主導権は我々が握る。この国にいる限り、CIAと言えど勝手な真似はさせないからな」
「誰が主導権を握るかなど問題ではない」
「いいや。大いに問題だ。アメリカにはアメリカのやり方があるだろうが、ここは…」
「我々への協力命令は、フランス大統領から出ている筈だがね。DGSEというのは、自国の大統領命令も聞けない組織なわけか?」
 命令を確かに目にしていたトゥービエは押し黙った。デービッドは冷ややかに続けた。異例であることは百も承知だ。しかし例の3人は、〈四鬼〉に次ぐブラックペガサス軍団生え抜きの戦士たちなんだ。交渉が決裂し、連中が暴れるようなことになれば、犠牲はGIGN一個班どころの話では済まないだろう。しかもここは街中だ。
 しかし我々はこの交渉を決裂させるわけには行かないんだ。ブラックペガサスを追い詰めるためには、何としてでも3人を我々の側に引き込まねばならん。そのためには奴らが下手な気を起こさないだけの人数と装備で取り囲む必要があるんだ。それも速やかに。
「縄張り意識はこの任務が終わった後で振りかざせ。手柄も君の独り占めで構わん。だが、全てが終わるまでは私の指示に従って貰うぞ」
 デービッドの広い額の下の目が、トゥービエを射竦めた。
 その迫力に気圧されながらも、トゥービエの顔に様々なものが錯綜するのが、傍目からも明らかにわかった。どうしてこいつは我が国の国防長官からの直々の密命を知っているのだ? しかもそれが大統領命令ということまで…。現在のCIAというのは、そこまで優秀な組織なのか…?
「…わかった。あんたに任せることにしよう」
 大統領命令というのが大きかったのだろう。次のDGSE局長を目指すトゥービエは、家出中の妻をリヨンの有力者である義父の下から連れ戻す必要があった。ここでポカをやるわけには行かなかったのだ。
 そんなトゥービエの胸算用など、彼の様々な事情も含めすっかり調べ尽くしているデービッドにはお見通しだった。トゥービエへの冷たい一瞥の後、バダンに向き直る。「他のデルタメンバーには会ったか?」
「会いました」バダンの声には敬意があった。属する国家も組織も違いこそすれ、部下には威張るが上層部にはただのイエスマンに過ぎないトゥービエより、デービッドの方が遥かに信頼できる指揮官だとわかったためだ。「メゾン・アルフォールにて待機して貰っています。連絡が行き次第、AS532が即座に飛び立てる手筈です」
 AS532ユーロコプター・クーガーは、兵員25名を時速300キロで搬送できるのだ。
「GIGNのメンバーは?」
「チュルイリーにて車で待機しています。10分以内に合流できます」
 スコットがバダンを見た。「頭数は?」
「三個班48名に、機動警察の選抜が10名」
 国境警備隊(ジャンダルム)までお出ましか、フランスの対テロ部隊総動員だな…、スコットは笑った。「これでしくじったら、あんたらそれこそ世間に顔向け出来んぞ」
「そっちこそ出遅れるなよ。せっかく百人揃えても、足並みが揃わなくちゃ威圧どころの話じゃない」バダンも硬質な笑みを浮かべ、応じた。
 居場所を失ったトゥービエは所在なさげに視線を彷徨わせていたが、シトロエンに残る剣吾に気づいた。「あの、妙な格好をしたのは何者だ?」
 シトロエンに近づき、無遠慮にドアを開け、中を覗き込んだトゥービエと、剣吾の目が合った。
「彼が我々の切り札だ」背後からデービッドが言った。「恐らくどこの国の対テロ部隊の精鋭より腕は立つぞ。但し今日は刺激しない方がいい。虫の居所が悪いらしいからな」
 こいつが、か…、トゥービエは思わず後退った。彼の香水の匂いが剣吾にも届いた。のっぺりとした細面に、権威主義者特有の無能が感じ取れた。その両方に、剣吾は胸が悪くなりそうになる。
 バダンも初めて、暗がりを通して剣吾を見た。シトロエン車内の気配は気になってはいたのだろう。しかし、妙なキモノを着たあいつが、切り札? バダンは半信半疑と言いたげな顔でデービッドを窺った。スコットは背後に控える運転手に何か囁きかけ、改めて剣吾を見遣った。
「信用していないな諸君」デービッドは唇だけで笑った。「いずれ証明して見せられるとは思うがね。しかし改めて言うが、今日は荒事はなしだからな」
 その時白いスーツの胸ポケットで、携帯電話が呼出音を発した。通話ボタンを押さず、数字の出たディスプレイだけを見て、デービッドは言った。
「奴らの集合場所が判明した。先回りだ」


     (3)

 …焼栗屋の屋台も店仕舞いし、街灯の少ない庭園を闇が覆い尽くそうとしていた。
 雨上がりだったが、片付けられたベンチをわざわざ引っ張りだして、愛を語り合うアヴェックも数組いた。しかしどのカップルもコートの前を合わせ、頬を上気させるより寒さに青褪めさせていた。カップルのどの女たちも、暖かい場所に入るカネを惜しむしみったれた男を呪っていることだろう。
 青銅のライオン像を正面に据えた池のほとりを、3人の若者が歩いていた。30年前のヒッピーと違い、3人とも小洒落た服装をしていた。長髪と無精髭だけが昔と同じだった。風通しの良すぎる池の周りは他に人気もなく、若者の1人は手に安ブランデーの壜を提げていた。質の悪い連中ではないのだ。3人ともソルボンヌの学生で、専攻は哲学だった。安下宿では議論の花も咲かせられないという理由で、週に3日はこの庭園に出てきて、誰にも苦情を言われない中、青臭い論戦を繰り広げるのだ。庭園の入り口にいた夜間警邏の巡査は彼らを見て嫌な顔をし、いつの間にかいなくなってしまった。以前彼らを職務質問した際、散々言い込められたことがあったからだ。フランスの若者には今も官憲に負けないという自負みたいなものがある。
 今日の議論は哲学ではなかった。今年に入ってフランス・フランの大暴落が始まり、大量の失業者が出たにも関わらず、株価だけが異様な高騰を続けている現在の国内経済について、様々な憶測を出し合っていた。もちろん経済については素人の域を出ない3人だったし、適度に酔っ払ってもいる。憶測の大半は愚にもつかない世迷言だったが、しかし今の経済状況だけはどう考えても不自然なものであり、そこに何者かの意図が隠されているという疑いだけは一致した。そしてそこだけは当を得たものでもあったのだ。
 議論はそこで小休止し、2人が片付けられたベンチを探した。話題はそこからぐっと砕け、最近気に鳴っている女の子について、となった。普通の若者の素が現れた。「最近、ナタリーとはどうなんだよ」
「とっくに別れた。あの尻軽、サッカーチームの黒ん坊とくっつきやがった。ぶっといペニスがお好みだとさ。そう言うお前はどうなんだ? あのパン屋の娘はどうした?」
「マリアか? 駄目。脈なし。オレ、あれ以来避けられてるし」
「もう、他にいるんじゃねえか、男が。あれだけの美人だし」
「そんな風でもなかったけどなあ。ああ、愛しのマリア。オレ、死にたいよ」
「出たぞ。ルネの死にたい宣言だ」
 笑いながらブランデーをあおり、歩きまわる1人が、庭園を縦横に走る道の、隅の隅に停めてある1台のバンを見つけた。木の陰に隠れる形だった。ここには車は入れない筈だが。アヴェックが表通りの鎖を外して乗り入れたのだろうか…。酔った頭でそう考えつつ、近寄ってみる。
「どうした、ジル?」
「こんな場所に車を停めてる馬鹿がいる」
 車種はルノー。窓ガラスまでも黒かった。車体は随分大きいものの、何のマークも入っていないところを見ると、業務用でもないらしい。カーセックスでもしているのか、或いは地下ポルノの撮影隊か。仲間2人を呼ぼうとした、ジルと呼ばれた青年は、ふとバンの足元に目を遣った。車高がある。極度に大きい衝撃も吸収できるフローティング・サスペンション。たかだか6気筒の市販車には必要のない足回り…。
 バンの側にしゃがみ、ピレリの強化タイヤを覗きこむジルに、友人2人も近づいてきた。彼らに声を掛けようとしたジルの耳に、小さな咳払いが聞こえた。車内からだ。
 中の見えない窓ガラスに耳を近づけようとした時だった。いきなりリアのドアが開いた。指先だけが出たタクティカルグラブが眼前に伸びてきたと思いきや、ジルは二人掛かりで組み伏せられていた。抵抗するどころか声を上げる間もなかった。酒壜が割れた音が、妙に遠くで聞こえた。友人2人もあっさりと地面に這うことになったのが、視界の隅に見えた。
 見上げると、7人の男が立っていた。どれも目出し帽の上からシールド付きのヘルメットを被り、ここでは黒く見えるだけのジャンプスーツの上に、5、6種のポーチの付いたベストを着込んでいた。腰のホルスターに収まった銃把も見える。自分を抑える1人の手が、リボルバーの銃把を握っているのを見たジルは悲鳴を上げかけた。膀胱が緩む。尻ポケットから札入れを抜かれた。別の1人が素早く中身を確認し、ソルボンヌの学生証を見つけていた。バンの中に声を掛ける。
「ただの学生のようです」
 車内から声が応えた。頷いた男はジルの耳に、ヘルメットの顔を近づけた。「家に帰れ。下らん好奇心が命を縮めることになるぞ」
 濡れた枯れ葉の臭いを胸一杯に嗅がされたジルは、ガクガクと頷いた。口を塞がれているわけでもないのに、声も出なかった。酔いなどとっくに醒めていた。
 それとだな…、男は言った。「今見たことはすぐに忘れろ。いいな?」
 Gパンのポケットに札入れが戻された。ジルはもう一度頷いた。恐怖は薄らぎ始めていた。しかしそれに取って代わったのは、どういうわけか、安堵ではなかったのである。
 彼はその瞬間、ある悟りを得ていた。それはまだ、彼の頭の中では混沌としていたが、落ち着いた後、言葉にすれば、こんな風になっただろう。
 世界は未だ、暴力に満ちている。俺たちの青臭い議論とは全く別な場所で。いずれ俺たちも大学を卒え、そんな世の中に出て行くことになる。そこでは俺たちが今日まで繰り広げてきた議論、養ってきた積もりの高遠な理想など、糞の役にも立たない。俺たちは本当の世界とは別の場所で、遠吠えをしていたに過ぎないのだから。
 この男たちは俺をすっ転がすのに、力を込めているようにさえ見えなかった。その気になれば俺たち3人を、この場であっさり殺すことも出来ただろう。ベルトに差したナイフで首を掻き切り、ちょっと失禁した俺のズボンを血に浸すのも簡単だったろう。俺たちが殺されなかったのはただの幸運だ。紙一重の幸運に過ぎない。男たちがただの強盗だったとしたら――強盗にしては、装備も腕前も並外れていたわけだが――、ここで殺されても何の不思議もなかったのだ。事実、銃把に掛かった手を見た時は、間違いなくこれで終わりだと思った。
 俺たちが今味わったものばかりではない。事故、自然災害、戦争…、全ては暴力なのだ。哲学だろうが経済学だろうが、その前には一切太刀打ち出来はしない。威勢のいいことをがなり立てても、事件のない場所で警官1人を言い負かしてみても、何にもなりはしない。俺たちを暴力から生かして逃すのは、紙一重の幸運でしかないのだ。まさにそれを思い知った。
 思い知らされた気分だった…。
 バンの中から再度声が掛かった。7人は一斉に車に戻った。消音装置をつけているらしいエンジンを始動させ、バンはそろそろと発進し、闇の中にテールランプの赤い光だけ残して、静かに走り去った。
「…ひでえ目に遭った」ルネが立ち上がった。押さえ込まれた際に痛めた右肩をさすりつつ、「何なんだ、あいつら」
「多分、国家憲兵隊だ。あの格好はニュースで見たことがある」尻餅をついたままのもう1人が唸った。「待ちぶせか、張り込みか」
「畜生、訴えてやろうか」
「無理だ。勝てない。あいつらには拷問だって認められてんだ。何年か前、OASの残党狩り様子をテレビでやってたの、見なかったか? 何かある時のあいつらは…」
 そう、何かあるのだ。ジルは思った。俺たちとは関係のない世界で、これから何かが始まるのだ。それは世界の、そして人間の本質を成す何かだ。そして大抵の人間は、それに一生関われないまま終わる。
 なぜなら彼らは、気づいているかいないかは別として、そんな世界の本質から目を背けることしかしていないからだ。
 その本質の片鱗を垣間見てしまったジルに、これから先の人生が希望にみちたものになるとは、とても思えなかった。
 口に入った枯葉を吐き出し、ジルも立ち上がった。泥に汚れた顔や、僅かに染みの出来たGパンを気にするでもなく歩き出す。
「お、おい、待てよジル」「どこ行くんだよ」
 友人2人の声は届かなかった。今はただ、早く安下宿に帰りたかった。とにかく一眠りした後、このまま大学に残るかどうか考えよう、ジルはそう思っていた…。


 同じ頃。
 ほとんどが裸になった樹々で、鳥たちが眠りについていた。地面に降り積もったマロニエやコナラの葉が踏みしだかれる音だけが聞こえる。歩道を大きく外れた林の中を、4人の若者が歩いていた。
 チュルイリー庭園と同様、ここブーローニュの森も主要な道を外れると、灯りを見つけることの方が難しくなる。月の出る晩なら少しはマシなのだが、冬のこの時期には月夜など滅多にない。だが、灯りがなくても、4人が全員大柄であることはわかる。しかし灯りがあれば、全員の顔立ちにどこか幼さが残っていることもわかっただろう。
 実際に若い。ジタンを咥え、先頭に立つミシェルは17歳になったばかり。後の3人は16歳だ。比較的恵まれた家庭に育つ4人であることは、衣服やアクセサリーの数々からも察しがつく。だが彼らの眼差しは夜の森より暗く、虚ろだった。
「いねえよなあ、誰も」すぐ後ろを歩くアンリが言った。
 緑に染めた髪を天に立たせたミシェルが振り返った。コキュの三重のイヤリングが音を立てる。「仕方ねえよ。水曜日だ。おまけに天気も悪かった」
「出直すかい?」4人の中で最も大柄なジョルジュが、飲み終えたコーヒーの紙コップを投げ捨てた。「週末の方が獲物も多いしな」
「その代わり最近はポリ公も増えた。後1時間して誰にも会わなかったら帰るぞ」
 ジョルジュは頷き、アンリとその後ろのルイは、ウズウズしてるぜと言いたげに、手にしたブラックジャックを一振りした。
 4人はノックアウト強盗なのだ。
 近年はこの辺りの治安も悪化していた。昔ながらの掏摸や引ったくりが減る一方、至るところでこういった手合が現れるようになった。それも大多数が未成年だ。対応に追われるばかりの警察も、何ら根本的な打開策を打ち出せずにいる。地下鉄構内に現れるノックアウト強盗は多いが、この4人の活動域は主に公園や森だ。夜10時過ぎにうろつき始め、旅行者やアヴェックを襲い、金を奪って逃げる。奪うのは現金ばかり。カードや宝石を奪っても、彼らには換金の手段がないからだ。現金を持たぬものは半殺しにするだけだ。先々週は日本人の若い女観光客2人を輪姦した。若いミシェルは2人に、それぞれ一発ずつ濃い精液を注ぎ込んだ。コンドームなどつけてやる義理などない。ロマンチックな幻想を勝手に抱き、こんな時間にこんな場所を歩き回っているこいつらが悪いのだ。
 ノックアウト強盗をやっているのだって、自分たちに満足な小遣いを寄越さない親が悪い。不況の打破を叫ぶばかりで、親の収入を一向に増やさない政府も悪い。
 そう、悪いのは俺じゃない。みんな俺以外の誰かが悪いのだ…。
 アンリの呼び声に、ミシェルは顔を上げた。アンリの指差す方向に、1人の男の姿が見えた。
 街灯があるサン・クロード通りだった。通行人は他にいない。その彼方に高速道路オートルートのA13トンネルが見える。そいつは上の池方面から歩いて来たらしい。4人同様、大柄な男だった。街灯の灯りではよく見えないが、短く刈り上げた頭髪は金髪というより白髪に近かった。
「ちょっとおかしいんじゃねえか?」
 ジョルジュが呟いたのも無理はない。この寒空の下、そいつは黒の半袖の上に何も着ていなかったのだ。白い息だけは規則的に吐きながら、妙にゆっくりした、千鳥足に見えなくもないあやふやな足取りで歩いていた。
「酔ってやがるのか」「カネは持ってそうにねえな」
「構うもんか。退屈しのぎだ」
 ミシェルは3人に短く指示を与え、フィルター近くまで吸ったジタンを、濡れた枯葉の上に投げ捨てた。足を速め、男と並行する形で林の中を進む。舗装された通りに出た時には、男の前に出ていた。男が近づくのを待つ。こちらに気が付き、立ち止まった時がチャンスだ。ミシェルに気を取られている隙に、他の3人が背後から飛び掛かる手筈になっている。後は4人掛かりで袋叩きにするだけだ。
 だがそいつは、ミシェルに気を取られもしなければ、背後から振り下ろされたブラックジャックに打ちのめされることもなかった。つい今し方までの千鳥足はどこへやら、アンリの渾身の一撃を、軽やかなステップで躱してみせたのである。
 続け様にジョルジュとルイのブラックジャックも振り下ろされ、2本とも空を切った。2人の体は無様に宙を泳いだ。髪を短く刈り上げているため夜空に剥き出しになったそいつの両耳が醜く潰れていることに、ミシェルはようやく気づいた。こいつ、ボクサーだ。
 マズい相手を襲ったかも知れない…、その考えが頭をかすめた。
 逃げるぞ、と声を掛ける暇もなかった。3本目のブラックジャックを避けた瞬間、男は右手指を鳴らした。バチン、というスナップの小気味良い音がした。手慣れた筈の攻撃をいとも簡単に躱されたアンリが、怒りに顔を歪ませ振り返った。ブラックジャックを左手に持ち替え、右手はナイフを抜く。バリソンのバタフライナイフだ。暇さえあればナイフを弄っているアンリは、素人にしては扱いも鮮やかなものだった。
 しかし白髪の男は、ナイフを見てもうろたえもしなかった。無機質にアンリを見返し、肩など竦めてみせる。それがまたアンリの怒りを煽る。獰猛に歯を剥いたアンリが再度飛びかかろうとした時…。
 前のめりに倒れそうになっていたルイが、のろのろと振り向いた。顔を顰め、首筋に手を持っていく。手が届く寸前、首筋から破裂音とともに、何かが噴き出した。淡い街灯の照明の中、それは紅い霧となって、ミシェルやアンリ、ジョルジュにも掛かった。マロニエの枯れ葉の上にも降り注ぎ、雨に似た音を立てる。頬についたそれを反射的に手の甲で拭ったミシェルは、街灯にかざし、それがルイの血であることを知る。
 信じられないと言いたげな顔のルイが、白目を剥いた。崩れ落ちる。アンリがその方に顔を向けた。男の指が再度鳴る。バチン、と心地よい音で。
 スナップの瞬間、男の指から弾かれた何かが、アンリの首筋に向かってまっしぐらに吸い込まれたのを、ミシェルは見た。
 ブツン、という音がした。その何かがアンリの首筋にめり込み、頸動脈を断ち切った音だ。ナイフを取り落とした手で首を押さえる前に、アンリもまた、鮮血を噴き上げた。噴射の勢いにきりきり舞いし、悲鳴も上げずに舗装路に転がる。雨が乾いていないアスファルトに、血溜まりが広がっていった。
 ジョルジュがひい、と悲鳴を上げた。ミシェルはジャンパーの内側を探った。ガムテープで留めていた銃を抜く。射撃が趣味の父親のロッカーから持ち出した、異様にでかいグリップが特徴的なユニークDES32だ。スポーツピストルだが、弾頭を切り詰めた32口径ワッドカッター弾は、至近距離では充分な殺傷能力を持つ。しかし…、
 銃口を向けられても、男は尚も怯む様子を見せなかった。右手をだらりと下げ、左手はポケットに突っ込んだまま、相も変わらぬ無表情で。
 震える両手で銃を固定しようとしながら、ミシェルは思っていた。やはり相手が悪かった。こいつは俺たちを殺すことなど何とも思っていないのだ。それが証拠に、見ろ、こいつの落ち着き払った顔を。こいつを殺さない限り、殺されるのは俺たちの方だ。
 俺が悪いんじゃない。ルイやアンリが死んだのも、俺のせいじゃない。こいつが悪いんだ。悪いのは俺たちに抵抗したこいつなんだ。
 悲鳴の止まらないジョルジュがブラックジャックを放り出し、マロニエの林に向かって駆け出した。同時に男が、ポケットに仕舞っていた左手を出した。DESの引き金を絞ろうとしていたミシェルは、頬や首筋、両手首を微風が撫でるのを感じた。
 そして極細の弦を弾いたような、ビイン、という高音を聞いた。
 両手首を切断されたというのに、全く痛みを感じなかった。驚愕の声を漏らしたミシェルは、自分の声が口からではなく、頭上から聞こえたのに気づいた。そしてどういうわけか、自分の頭が落下していることにも。目の前をスローモーションで通過していく、見慣れたチェック柄は、自分が身につけていたシャツではないか。
 ミシェルの頭部は鈍い音を立てて2回バウンドし、DESを握ったまま先に転がっていた自分の両手首の側まで転がった。コキュのイヤリングが涼しい音で鳴った。意識がたちまち、森より暗い闇の底に遠ざかっていく。その目が最後に捉えたのは、見えない何かに手足、胴、首を輪切りにされたジョルジュの姿だった…。
 超小型の電動リールが、糸を巻き上げる音がした。風を切る音が止み、男の左手首に巻かれた偽オメガの竜頭がカチリと音を立て、元に戻った。左手をポケットに戻し、一面を浸した鮮血が汚していない路面を選び、器用にそこだけを歩きながら、男は呟いた。フランス語ではなく、母国語のスウェーデン語で。
「ウォーミングアップにもなりゃしねえ」
 濃いグレーのズボンの尻ポケットが、軽快な呼出音を発した。男はジッポーサイズの通信機を取り出した。
 明瞭な音声で、訛りのある英語が流れ出した。“何をしているヨハンソン。”
「散歩だ。身体をほぐしてた」
“すぐに戻れ。奴らの集合場所が割れた。”
「ほう、どこだ?」
“サン・ジェルマン。今、ドラグニーとマドセンが尾行(つけ)てる。”
「了解だ」
 通信機を尻に戻し、ヨハンソンと呼ばれた男は、競馬場方面に向かって歩き出した。流れる血を決して踏まなかった英国DSS社製ブーツは足音一つ残さず、ヨハンソンは気配と姿を夜の闇に消した。残された4人の死体は、まだ体温を残しており、灯りの下、ぶち撒けられた血の海からはうっすらと湯気が立ち上っている。転がったミシェルの頭が、顔を宙に向けていた。見開かれた目は既に乾き始め、今や街灯の光を映すことも反射することもない…。


     (4)

 …セーヌ左岸に向けコンコルド橋を渡るとすぐに、フランスの国会議事堂ブルボン宮が見えてくる。振り返ると、コンコルド広場を挟む形で建つ、マドレーヌ聖堂の平らな屋根が、路上からの多くの照明に黒く浮かび上がっているのも見える。
 シトロエンXMの助手席には、スコットの代わりにトゥービエが乗っていた。スコットはバダン大尉とともに、トゥービエのプジョーでGIGNとの合流地点に向かっている筈だ。
 シトロエンはブルボン宮の横を通り過ぎると、サン・ジェルマン大通りに入った。水曜日の夜11時を過ぎた今、車の往来もさほど多くない。左手彼方にサン・ジェルマン・デ・プレ大聖堂の高い三角屋根の塔が見え隠れする。
 大聖堂の一区画手前で、シトロエンは左折した。パリ大学を回りこむ形で街灯が急に減った旧道を走り、マザリーヌ通りへと出る。1968年の5月革命以来、フランス政府とパリ市当局は、道路の舗石をアスファルトに変えようと必死になっている。革命の際、学生たちが舗石を砕いて投石に利用したのがその理由だ。だがこの辺りは未だ、道路の半分、歩道の大半が石畳のままだ。アスファルトで街を覆い尽くすことに、古くからのパリジャンが難色を示しているからだと言う。
 サン・タンドレ・デ・ザール広場に向かう道に入ったシトロエンは、ビュッシの四辻の手前で一旦停止した。
 四辻の北東の角、ホテル・レジャン前の画廊が、タイミングよく店を閉めたところだった。年老いたオーナーと息子が数点の絵を抱え、談笑しながらサン・ジェルマン大通りの方に消えていった。デービッドが短い指示を出し、運転手が画廊の前にシトロエンを進めた。その鼻先を、パリ名物縦列駐車の最後尾につける。
 少しばかり傾斜のある画廊の前の道からは、ランシエンヌ・コメディ通りを一望できた。パリ最古のカフェとして名高い『ル・プロコープ』の看板、店先の十数台の違法縦列駐車、その前を行き来する人々。
「こんな目立つ場所で集合?」トゥービエが疑わしげにデービッドを振り返った。「間違いはないんだろうな?」
「ない」運転手にエンジンを切り、ヘッドライトを消すように命じたデービッドは、トゥービエには目もくれず、プロコープ店先を凝視する。「NSAが奴らの連絡法を探り出した」
「アメリカの国家安全保障局か…」
 ブラックペガサスが世界中の電話を盗聴できるというのは知っているな? それなのに奴らはこの7箇月の間、軍団の追跡を振り切り、世界各地で度々落ち合ってきた。未確認では6回、確かなところでは3回、それが確認されている。
 つまり奴らは電話以外の連絡方法を取っているということだ。だから我々はまず郵便局に当たりをつけ、人海戦術で臨んだ。世界各国の郵便局、それこそ辺境の郵便局にも人を送り、テロ事件の証拠捜査という名目で、怪しい郵便物やら持ち主不明の私書箱やらを徹底的に洗わせた…。
「成果は?」
 デービッドは首を振った。「第三世界からは郵便物は期日通りに送れないことが多いということだけはわかったよ」
「まあ、郵便物は盗まれる可能性も高いだろうしな。しかし郵便局以外だとすると?」
「電報だ」デービッドは曇り始めた窓を気にして、運転手にドアウィンドウを開けるよう命じた。電動式のリアウィンドウが数センチ下がった。夜の冷気が車内に忍び込んできた。
 寒さに身震いしたトゥービエは、白いコートの襟を合わせた。大きくついた鼻息まで白い。「電報? どこに打つんだ?」
「奴らは世界あちこちの主要都市に隠れ家を持っているらしい。そして月2回程度の割合で、そのあちこちに電報を打つ。そうやって連絡を絶やさないようにしているわけだ」
「成程な。それでお互いの無事や居場所も確認できる、と…」
「その通り。しかも巧妙なのは、電報が決して隠れ家に届かないという点だ」
「他に仲間がいるわけか」
「単にカネで雇われただけかも知れないがね。とにかくその電報を受け取った者が、隠れ家にそれを運ぶ手筈らしい」
「らしい、というのは何だ?」
「電報を届ける連中も、一筋縄では行かない奴らばかりでね。尾行を振り切ることなど朝飯前という連中ばかりなんだ。それも一都市に複数いるという念の入れ様だ」
 奴らはブラックペガサス軍団の追跡を避け、世界中を逃げ回りながらも、各地の隠れ家のどれかに月に一度は顔を出すようだ。そこで電報を読み、自分も出し、会うか会わないか、会うならいつどこで会うかを決める…。
「よくそれを掴んだものだ。流石、NSAだな。地上にいる限り、どこの誰であろうと行方を突き止める、か」
「いや、いくら何でもそれはまだ無理だ。世の中にコンピューターがもっと蔓延して、誰もが電脳におけるIDでも持つようになれば、短時間での身元照合も、位置の特定も可能になるだろうがね」
「まだそこまでのネットワークは、ない、か」
「今、我が国が主体となって、全世界にそのネットワークを敷く作業に入っている。しかしきちんとした形になるには、後10年掛かるだろう」デービッドは言った。「今回は全くの偶然だった」
「あっさりと認めるものだな」
「見栄など張っても仕方がない。事実は事実だからな」
 マドラスの郵便局員の1人が、閉局間際に飛び込んできて、世界のあちこちに同文の電報を打たせた変わった客のことを思い出してくれなければ、我々も袋小路から抜け出せなかっただろう。局員は電文の一部も覚えていた。当然だな。その客は依頼書のメモ書きも面倒臭がって、局員に口頭で文を伝えながら打たせていたんだからな。
 それがわかってから3箇月、NSAが世界中から出される電報のうち、コンピューター経由のものを全てチェックした。さっき言った条件---同文の電報を同じ場所から数十通出す---で電報が打たれたら、即座にCIAの調査員を派遣し、電文の文面を可能な限り収集させた。再現した電文はすぐさまNSAが分析に取り掛かり…、
「で、どの都市に集まるかだけは特定するに至った」
「集合場所まではわからず仕舞いか」
「奴らも考えているよ。電報のほとんどが隠語でやり取りされていた。しかしこの3箇月張り続けた網のお陰で、ニューヨークとパリという言葉だけは割り出せたんだ」
「で、今回はパリということか」トゥービエはカルティエの煙草をポケットから抜いた。火は点けるなとデービッドに命じられ、渋い顔をする。「しかしそんな手がブラックペガサスに悟られなかったというのも意外だな」
「これまではな。あまりにアナログ過ぎて、逆に注意を惹かなかったんだろう。しかしいずれはバレる。その気になれば、敵には電報の追跡など電話の盗聴より容易い筈だ」
「で、あの店を特定できたのは?」
「次の集合場所がパリだとわかった段階で、ここの警察の手も借りて、空港や道路、あらゆるところに網を張った。で、待ちに待ってようやく、奴ら3人のうち1人を、パリに入った時点で特定できた。その、たった1人に撒かれないために、17人のヴェテラン追跡要員でも足りないくらいだった。A-WACSまで動員する始末さ」
「おいおい、パリの上空にA-WACSまで飛ばしたのか?」
 トゥービエのフランス語の早口について行けなず、暗い後部座席で黙って目を閉じていた剣吾が、不意に目を開けた。
「来た」
 そのほんの5秒後。
 サン・ジェルマン大通りからランシエンヌ・コメディ通りに、1台の車が入ってきた。ジェット機かとも思わせる物凄いエンジン音だ。パリでは大抵の車が夜でもスモールライトしか灯さないのに、この車はヘッドライトを煌々と輝かせていた。ライトはまだ湿ったままの舗石や、通りに停まる全ての車を撫で、運転手とトゥービエは思わず頭を下げていた。
 一瞬の眩しさに目を細めたデービッドが、薄い唇に笑みを浮かべた。
「そのようだな」
 燃えるような赤のランボルギーニ・カウンタックは、速度を落とさないまま、道行く通行人を器用に避け、プロコープ店先に列を成す車の僅かな隙間に、その平らな車体を滑り込ませた。後輪だけで車体を滑らせ、隙間にきちんと押し込んだ手際は芸術的ですらあった。ちょうど店内から一望できるその位置には、先に黒のハーレーダビッドソン・ナイトトレインが停めてあった。赤いカウンタックはバイクを倒すことも触れることもなく、その数センチ脇でエンジンを止めた。
 ガルウィングのドアが開き、デービッド以上に痩せた1人の男が降り立った。
 背丈は175、6と言ったところか。寒空なのに、これまたデービッド同様、軽装だった。ベージュのジャケットの材質はセーム革と思われた。もちろんオーダーメイドだろう。その下に、翼を広げた鳥の模様の入ったトレーナー。ズボンは淡青のデニムだ。
 だが何と言っても目立つのは頭だ。無毛らしい頭にちょこんと載せられたのは、車と同じ赤のベレー帽。それも画家や漫画家が好んで冠る、通称アップルベレーと呼ばれる代物だった。
 剣吾とデービッドからはその横顔しか見えなかった。それでも男の毛の薄い眉がほとんど3本の筋にしか見えず、その下に輝く目は猛禽類のように鋭く、唇は皮肉っぽい笑みに歪んでいるのは見て取れた。
 高らかな口笛――ラ・マルセイエーズだ――を吹き鳴らし、男は軽快な足取りでプロコープ店内に消えた。それを確かめ、トゥービエと運転手とが顔を上げた。「あいつがそうか。一番乗りか?」
「いや、もう1人、先に来ている。あのバイクの持ち主だ」剣吾のことも考えたデービッドが、会話を英語に切り替えた。「我々が尾行をつけた相手だ」
「それにしても目立つ格好だな」トゥービエは首を振り振り、同じく英語に切り替えた。「とても追われている人間のする格好とは思えん。服と言い、車と言い」
「あのランボルギーニ、目立つ上に、恐らくチューンナップしてますよ」運転手が言った。「足回り、マフラー、音からすると多分、エンジンも…」
「本当にあいつなんだろうな? 間違いないんだろうな?」
「ああ、あれが瓜生鷹。マドラスの郵便局で顔を覚えられていた男だ」
 …3人目の男は、それから15分遅れて現れた。
 サン・ジェルマン大通り方面からではなく、シトロエンの後方、街の暗がりからの登場だった。飛び上がりそうになったトゥービエは、リアウィンドウがミラー仕立てになっていることを思い出し、辛うじて平静を保つ。そいつは気配をほとんど消しており、剣吾のレーダーの感覚を以ってしても、すぐには接近を感じさせなかった。
 さっきの瓜生より少々小柄だったが、横幅はあった。今の灯りでは濃いグレーにしか見えないバーバリーのコートを着込んだそいつは、濡れた舗石の上を足音も立てず、シトロエンの並ぶ駐車の列と反対側の歩道を歩いて行った。左手はコートのポケットの中だったが、指先を出した革手袋を嵌めた右手は自由に遊ばせていた。
 男がプロコープの店先、ランボルギーニの横に立った時、トゥービエと運転手は、シトロエンの中で再度頭を下げた。
 ランボルギーニを見下ろした男は、小さく鼻で笑ったようだった。煙草を咥え、同じく左ポケットから抜いたマッチをランボルギーニに、ボディが傷つくのも構わず、いや、むしろ傷つける気満々で擦りつけた。マッチの火に照らされ、ようやく男の顔がはっきり見えた。不機嫌を通り越して険しかった。丸顔だが人の善さは全く感じさせない。ボサボサの髪の下に光る、刺すような眼差しのためだろう。
 火を吹き消し、大きく煙を吐いたそいつは、何気なく周囲を見渡した。デービッドと並んで男を見張る剣吾の眼差しが、鋭くなる一瞬があった。
 男は咥え煙草のまま、プロコープの中に入っていった。
「あれが相馬圭一郎」デービッドが呟いた。「あいつだけは地下鉄で来たらしいな。街中での単独行動の鉄則だ」
「これで3人揃ったわけだな」トゥービエが体を起こした。「次は突入か」
「スコットからの連絡がまだだ」デービッドは横目で剣吾を見た。「気づかれたと思うか」
 剣吾は頷いた。トゥービエたちがぎょっとした顔になる。
 だろうな…、デービッドも大きく頷いた。「あの相馬はブラックペガサス軍団にいながら、傭兵となって各国の戦場を渡り歩いたことがあるという記録が我々にも届いている。傭兵時代1年の間で、敵兵士だけでも一千人を殺した、謂わば戦闘のプロだ」
「一千人殺しの傭兵だと? 化物か…」
「我々の張り込みなど児戯にも見えたことだろうよ」
 道理で…、剣吾は思った。普通の人間が見れば気だるそうにしか見えないだろう相馬の動きの中に、鍛え上げた剛直を見た気がしたのだ。周囲に向けた視線にも、毛筋程の油断もなかった。自己流ではあろうが、相当の鍛錬を積んできたのだろう。そこに剣吾は自分と近い匂いを感じ取っていた。さっきの瓜生と相馬、どちらが凄腕かと聞かれれば、それは間違いなく相馬だ。
 しかし…、「さっきの瓜生、あいつも多分、僕たちのことに気づいてます」
 トゥービエがまたしても表情を凍りつかせ、デービッドがほう、と感嘆の声を漏らした。
 間違いない。気づかない風を装っていただけだ。いざ命の遣り取りを始めた際、手強いのは相馬だろう。しかし得体の知れないのは瓜生の方だ…、剣吾にはそう確信できた。
「瓜生鷹か」デービッドはもう一度頷いた。「確かに奴は正体不明だ」
 正体不明の日本人…、トゥービエが肩を竦めた。「ニンジャの末裔だな」
「そんな説もある。相馬ともう1人、若林茂と言うんだが、その2人に関しては過去もある程度調べが付いているし、行動パターンもある程度は読める。しかし瓜生は駄目だ。正体が掴めない。ブラックペガサスに拉致される前の奴が、どこで何をしていたか、我々の調査網では拾い集められなかった。
 奴が現れるのを待ち、立ち寄った先々を全部洗って、名前を突き止めるのがやっとだったよ」
「冗談の積もりだったんだが、冗談抜きでホンモノのニンジャか」
「軍団での活動の記録も少ない。例の国連ビルでの事件には参加していたようだが。それと、裏切った後の3箇月の行動もほぼ不明だ。奴らの裏切りを我々に教えることになった事件以外はな」
「あのロサンゼルスでの一件だな。あんな目立つ格好の奴が監視不可能とはね。間違いなくニンジャだな」
 …50分後、デービッドの携帯電話が小さく鳴った。デービッドはディスプレイに出た文字だけを読んで、ポケットに仕舞う。「スコットたちの準備が完了した」
「いよいよか」
「まだだ。慌てるな。こんな盛り場で大規模な突入作戦が行えるわけもない。包囲網を作るとは言っても、あくまでこれは交渉なんだ。それを忘れて貰っては困る」
「それじゃあ…」剣吾が口を挟んだ。「包囲網自体が逆効果なのでは?」
 トゥービエが目を剥き、デービッドが剣吾を見た。「と言うと?」
「話をする前に包囲網なんか敷いたら、交渉に入る前に銃弾が返ってきますよ」
 何か言いかける運転手をデービッドが制した。「その可能性もあるな」
 今度は剣吾が肩を竦めた。様になっているとはとても言えなかったが。
「何か策はあるか」
「まずは僕たちの目的をちゃんと告げる。包囲はそれからでも遅くはないと思います」
「悪くない。だが、誰がそれを奴らに告げる?」
「僕が行きます」
 言うが早いか、刀の収まる錦織りの袋を掴み、剣吾はシトロエンから降り立っていた。濃紺の作務衣の上に、灰色のマントをひらりと羽織った剣吾は、トゥービエたちが止める間もなく歩き出した。足首を紐でしっかり固定するブーツは、石畳の上を、相馬同様音もなく、剣吾の体を運ぶ。
「…あの野郎、本当に生意気になりましたね」
 剣吾がマントを鮮やかにはためかせ、プロコープに入っていったのを見送った運転手が言った。
「あの程度のスタンドプレーは、まだ予想の範囲だ」
「あいつが全部ぶち壊しにするなんてことはないだろうな?」煙草を吸うのをようやく許可されたトゥービエが上ずった声を出した。デュポンのライターも上手く点けられない。
「奴は馬鹿ではない。むしろ頭は切れる。だから連れ歩いているんだ。単に殺すだけの機械だったら、普段は繋いでおく」デービッドは言った。プロコープを見つめる目が僅かに細められた。「奴の切れる頭が邪魔になってきたら、そこで准将に指示を仰げばよい」
 運転手が顔を強ばらせた。貪るように煙草を吸っていたトゥービエがそれに気づく。「准将? 誰なんだ?」
 また一台、プロコープの前に車が停まった。スモールライトが弱いながらにデービッドの広い額に、深い陰影をつけた。
「我々の神さ」

    (5)

 …裸電球が照らす中、カーディガンを脱いで薄手のワンピース1枚になった少女が、パン焼きの鉄板を流しで洗っていた。水は手を切るほど冷たかったが、少女は手を休めない。窯にまだ火が入っているお陰で、20畳はある厨房は暖かいからだ。慣れた手つきで鉄板を布巾で拭き、次々と煉瓦造りの壁に立て掛けていく。
 ランニングシャツにエプロンという格好の職人が、イーストを仕込んだパン種を壁一面を占める冷蔵庫に仕舞いながら、少女の背中に声を掛けた。大柄で、腹回りはビヤ樽よりも太い。日焼けした顔には深い皺が刻まれているが、齢はまだ40を過ぎたばかりだ。
「無理するなよマリア。また風邪をぶり返しちまうぞ」
 マリアと呼ばれた少女は振り向いた。完璧とも言える配置で並ぶ二つの青いつぶらな目を笑みに細め、口だけで、大丈夫、と答える。
「その、大丈夫、が曲者なんだ。ここはもういいから、部屋に戻りな。お前さんに休まれると、あの学生連中がまたうるさいんだよ」
 マリアは声を出さずに笑い、やはり声には出さず、口の動きだけで言った。床を、流したら、終わります。ジロンドーさんこそ、もう、休んで下さい。私より、朝、早いんですから。
「俺は別にいいんだよ。朝にはナイジェルも来るし」
 それより、来週、ですよ。あの、約束。
「約束? ああ、パンの捏ね方だったよな。わかってるよ」
〈ジラールモ〉の店長兼パン職人、モーリス・ジロンドーはやれやれと首を振ったが、顔は笑っていた。窯の温度を確かめに、厨房の裏手に消える。袖を捲り、三角巾を頭に巻いたマリアは、古くなったゴキブリ駆除薬を集めて回り、絞ったモップで広い厨房の床を楽しげに拭き始めた。白人女性には珍しい、肌理の細かい象牙のような膚を微かに上気させ、うっすらと汗まで滲ませながら。
 少女のようなその外見にも関わらず、マリア・クリストフは今年で19歳になった。
 歌でも口ずさんでいるような様子だったが、声は出ていない。と言うより、出せないのだ。聾唖ではなかった。耳はしっかりと聞こえる。不自由なのは声だけだ。
 12歳の時に交通事故に遭い、目の前で両親と姉のむごたらしい死を目の当たりにした彼女は、あまりのショックに声が出なくなってしまった。失語症という奴だ。
 ローマカトリックの修道院で身につけた手話を使えもするのだが、ジロンドーがそれを理解しない。だからマリアは口を大きく開け、一単語一単語をはっきり形にして見せるしかない。ジロンドーたちがそれを理解してくれるお陰で、今のところは不自由しないで済んでいる。細かいニュアンスを伝えるのはもちろん無理だが。
 態度で見せるだけではない。マリアにとってこの店での仕事は楽しかった。親切な店長、馴染みの客たち、身体を動かして得る心地よい疲れ、マリアはそれら全てが好きだった。
 働いている間は、嫌なことも忘れられるし…。
 しかし嫌なことを忘れようにも、それを災難のように呼び寄せてしまう人種もいる。マリアはまさにそん1人だった。背後に気配を感じ、振り返ると、厨房の入り口に立っていたのはジロンドーではなかった。マリアは反射的に顔に出そうになった嫌悪を圧し殺した。立っていたのは…、
 マルセル・シニョン。ジラールモを1階に擁するデュカキス・ビルのオーナーだ。この店の出資者でもある。だらしなく弛んだ腹をベルトでたくし上げてはいるが、無駄な努力に近い。薄くなった髪を横に撫で付け、誤魔化しているのも同じ。細いネクタイが突き出た腹の上で軽薄に揺れる。シャネルの香水と整髪料の混じったひどい臭いが漂ってくる。
 この男がここに来る度、せっかくの焼き立てのパンがひどい臭いを移されそうな気がする。マリアはお座なりに頭を下げ、掃除に戻った。
 そんな思いなどお構いなしに、シニョンは厨房に入り込んできた。覚束ない足取りで、洗ったばかりの鉄板を次々と蹴倒してしまう。けたたましい音に、マリアは思わず振り返るしかない。
「遅くまでよく働くじゃないか、え?」
 歪んだ愛想笑いを浮かべたシニョンの顔が、思いの外近くにあった。マリアは後退る。震えが全身を駆け抜ける。嫌悪ではない。
 嫌悪に取って代わったのは、明らかに怯えだった。
「そう怖がらなくても大丈夫だ。な? 俺はお前の親代わりなんだからな」
 言いながらもシニョンはマリアにじりじりと迫ってくる。顔同様、脂ぎった視線が、白いワンピースに包まれた、ほっそりとした肢体を上下する。
 悲鳴を上げたくても声が出ないのだ。酒臭さの混じった口臭を顔に感じたマリアは座り込みそうになった。その肩にシニョンの手が掛かった。
「何してるんです、シニョンさん?」
 裏手口から声が掛かった。慌てふためきそうになったシニョンだったが、声の主がジロンドーだと知って、安堵に腹の肉を上下させる。
「ん、ああ、経理だ経理。そう、経理の残りを片づけに戻ったんだ」
 その場を繕いながらも、シニョンはマリアの肩から手を離さない。
「お前こそ随分遅いじゃないか。早く女房のところに帰ってやれ」
 横柄に命じる。雇われ店主であるジロンドーが自分に強く出られないのを知り尽くしての態度だ。
 ジロンド-は露骨に嫌な顔をした。彼も普段からシニョンを嫌っていることを、マリアもよく知っていた。デュカキス・ビルがランシエンヌ・コメディ通りの裏手という好位置にあったことも、この店が繁盛した要因の一つであるのは確かだ。しかし繁盛の大半は、マリアたち従業員の努力の賜物だ。それを如何にも自分だけの手柄のように吹聴して歩くこの男が、店子から好かれるわけがなかった。
 資産家だった親からこのビルを受け継いだだけのシニョンが、この店の繁盛以前にやったことと言えば、怪しげな東洋医学の店を出したり高価な商品ばかりを売りつける悪評ばかりの健康機器メーカーを店子にしたりと、経営者としての無能を地で行くものばかりだった。こんなオーナーに偉そうな態度を取られること自体、ジロンドーには屈辱だったろう。
 しかし…、
「仕事は終わったんだろう、え? だったら早く帰れ。戸締まりは俺とマリアとでやっておくから」
 気の優しいジロンド-は逆らえなかった。助けを求めるマリアの視線にも気づかぬふりをして、エプロンを外し、厨房を出て行ってしまう。
 店の正面に通じるドアが閉まるや否や、シニョンはマリアの手首を掴んだ。「な、いいだろマリア。悪いようにはしないから、な?」
 酒の臭いの交じる生臭い息を吐きかけ、抱き竦める。マリアはもちろん必死で抵抗する。しかしその細腕が出せる力は僅かなもので、あっさりと両腕を押さえ込まれてしまう。
「お前の腰をな、その細い腰つきを見る度に、頭が変になりそうだったんだ。な、いいだろ? お前を世話してるのは俺なんだ」
 マリアは出ない声で叫んだ。奥さんに言いつけますよ、と。が、シニョンの若い妻が、半年前に家を出たきりだという噂を思い出す。
「俺の愛人にしてやる。嫌なら女房でもいい。贅沢させてやるぞ。こんな服よりもっといいものを着せてやる。マルカーノさんにも修道院長にも、ちゃんと挨拶に行くから…」
 懸命に口説きながら、シニョンはマリアを、パン捏ねのテーブルに押さえつけた。マリアは必死で抵抗する。脚をばたつかせ、手はテーブルの上を探す。何か振り回せるもの、或いは刃物でもいい。こんな薄汚い豚に思いを遂げさせるくらいなら、喉を突いて死のうかとすら思った。カトリックがどれだけ自殺を厳しく戒めているか、身を持って知っているのに、である。
 マリアは既に処女ではない。その彼女が男の欲望を毛嫌いした。自分に向けられていようがいまいが、男の欲望を感じる度に、その整い過ぎた美しい顔を嫌悪に歪めた。今でこそ大丈夫だが、最初の頃は厨房でジロンド-と手が触れただけでも身を強ばらせる始末だったのだ。
 それだけの理由があった。
 12歳で家族を失ったマリアは、トゥールーズに住む母の妹の下に身を寄せた。
 最初は優しい人だと思っていた叔父が、脂ぎった欲望の眼差しを向けてき始めたのは、マリアが14歳を迎えた時だった。濁った欲望が実行に移されたのは、彼女が15歳の時。叔母が買い物に出かけ、従兄も留守だったある日、声の出せないマリアを居間にて捻じ伏せた叔父は、今のシニョンと同じようなことを言った。
 ――な、いいだろマリア? 俺はお前の親代わりなんだから。別に悪いことをするわけじゃない。いいことを教えてやろうって言うんだから…。
 快感などあろう筈もなかった。叔父の獣欲はマリアに、自分は穢されたという思いと、欲望を嫌悪するしかない後遺症を残しただけだった。その後も誰かに迫られる度に、鼻の曲がりそうな叔父の口臭を思い出す。もちろん、今もだ。
 それだけではない。それ以降マリアは、従兄ベルナールにも度々犯されることになった。もちろん叔父も、マリアの若くしなやかな肢体を諦めなどしなかった。叔父の密やかな楽しみを知ったベルナールは、父親を糾弾するどころか、一枚加わる道を選んだのだ。叔母にばらしたら殺すぞとナイフで脅されたマリアは、夜な夜なベッドに忍び込んでくるベルナールを拒絶できなかった。
 それでも地獄のような日々は半年で終わった。マリアの異様なまでの痩せ方に気づいた叔母が、叔父とベルナールの乱行の現場を自ら押さえたのだ。
 離婚された叔父を待っていたのは、未成年者への強制猥褻罪での逮捕だった。ベルナールも少年院に送られた。
 マリアも追われるように叔母の家を出た。彼女を救ったのは、何度となく礼拝に訪れたことのあったローマカトリック修道院の院長、マリー・アンジュ・クロイエだった。
 警察や役所と申し合わせ、身元引受人となったクロイエ院長は、傷ついたマリアを優しく迎え入れてくれたのだ。
 優しくも厳しい修道尼たちが先生となって、並の学校へ通うよりは遥かに高い躾と教育をマリアに施してくれた。手話もそこで習い覚えた。やがて1年経ち、2年経ち、痛手も薄れていった。
 出来れば修道尼になって一生をここで送りたい、そう考えていたマリアだったが、それは叶わぬまま終わった。修道院に毎年莫大な寄付をするというイタリア人の実業家、ダン・マルカーノが養女を探しており、候補者探しを頼まれていたクロイエ院長の薦めで、17歳も終わりに近づいた夏、修道院を出されることになってしまったのだ。
 マリアはマルセイユに別邸を構えるダン・マルカーノに預けられた。
 ダン・マルカーノはその時41歳。しかし外見は30歳を超えているようには見えなかった。大層な洒落者で、服装、髪型、どれにも隙がなかった。親しい面々から“ダンディ”・マルカーノと呼ばれているのも頷けた。独身のマルカーノがどうして養女など欲しがるのかはわからなかったが、そんな人の養女になれるのか…、マリアは小学生時分に読んだ『あしながおじさん』を思い出し、胸をときめかせたものだった。
 マルカーノは親切だった。マリアを怯えさせる男の獣欲の一欠片も感じさせなかった。ところが養女の話はどこへやら、5箇月後にはマリアをパリのシニョンのことろへ送り込んでしまったのである。
 シニョンはマルカーノの代理人兼、パリでの後見人として、住居から働き口の面倒まで見てはくれた。だが、マリアはシニョンの中に、叔父と同じものを感じ取っていた。マルカーノはと言うと、時たま連絡はくれるものの、その後顔を合わせることはほとんどなくなった。ジラールモのパテントも、マルカーノ所有の会社のものらしいとは後で聞いた。以来、7箇月が過ぎる…。
 …とうとうパン捏ねテーブルの上に組み敷かれた。シニョンの右掌がマリアの細い両手首を掴み、彼女の頭上に押し付けた。マリアは涙をこぼし、声にならない絶叫を上げ続けた。暴れる足がテーブルのあちこちに当たり、積んでおいたトレイが床に散乱した。しかし誰も助けてはくれない。
「大丈夫だマリア、俺は優しい男だからな」
 荒い息の下、シニョンの左手がワンピースの裾をたくし上げた。足首は細いものの、ふくら脛と腿には程よく肉がつき、形の良い脚があらわになった。 その脚をばたつかせようにも、シニョンの腹が彼女の膝を台に押さえつけていた。指が下着に掛かったのを感じた時、もう駄目かも知れないと思った。彼女には舌を噛むという知識も知恵もない。刃物がここにないのが恨めしかった。
 死にたい…。
 下着が膝にまで下げられ、淡い恥毛が灯りの中にさらけ出された。シニョンは引きつったように呻き、左手でベルトを外した。ズボンが自動的に膝にまで落ちる。
 その肩に、太い指先が食い込んだ…。


     (6)

 …プロコープの入り口で煙草を捨てた相馬圭一郎は、バーバリーを脱いだ。下のスーツは薄いグレーのディオールだ。ドア前で出迎えたギャルソンの1人に、10フラン札とともにコートを手渡す。別のギャルソンが彼を、ホールの奥にまで案内した。
 不必要に広いホールは暖かく、そして随分と明るかった。流れる音楽は『愛の讃歌』のカバーだ。かつてヴォルテールやモーパッサン、バルザックたちが愛したという素朴な薄暗さと、創造のエネルギーに満ちた活気はもうどこにもない。立ち上る紫煙を通して見えるのは、妙に小綺麗な調度と意味もなく効果なシャンデリアだけ。どこが18世紀の革命調の復刻だ、と思う。それに料理の味も大してわからないくせに、雰囲気にだけは酔える愚かな観光客たち。
 横を通り過ぎたテーブルで、周囲の迷惑など一切考えていないだろう大音声で話し込み、嬌声もけたたましい一団は、日本人らしい女3人組だ。相馬は丸顔に軽蔑の色を浮かべ、嘲るように鼻を鳴らした。服装やアクセサリーにはふんだんにカネを遣っているようだが、いい加減な育てられ方をしたその中身は幼稚園児以下だ。日本にはこんな連中ばかりが増えた。いずれこの手の連中に埋め尽くされ、滅びてしまうことだろう。
 案内された奥の予約席、ここだけは薄暗い。唯一、昔ながらの面影を残す場所だと思われた。
 プール・オムの黒いレザージャケットの背中が、近づく相馬に気づいて振り返った。軽く手を上げる。薄暗い照明の下、柔らかく渦巻く髪と、端正な顔立ちとがよく映えた。背丈は170センチに僅かに足りないが、手の指は太く、ゴツい。厚手のレザージャケットに隠れたその肉体も、整った顔に似合わず、途轍もなく頑健なのだ。
 20歳から6年間、イタリアの各地の港で工員として、船舶免許を取ってからは船員として、力仕事だけに従事してきた代償に得た肉体だ。しかしその日本人離れした顔立ちに、肉体労働者特有の荒々しさ、がさつさは微塵も感じられない。柔らかい癖っ毛と自然に焼けた褐色の肌、そして寂しげな眼差しは、多くの女たちの誘惑も受けてきた。現に今も、幾つかの近くの席から、彼の存在に気づいた女たちの期待を込めた視線が、その横顔に注がれている。
 だが、若林茂はそんなことなど意にも介さず、モテない男を常に自称し続けてきた。
 彼の謙遜を厭味以外の何物でもないと思っている相馬は、いつか必ずその化けの皮を剥ぎ、色男ぶりを暴露してやろうと決意している。
「外はまだ、雨かい?」
「とっくに止んでる。瓜生の馬鹿は?」
 ギャルソンに椅子を勧められ、チップと引き換えに腰を下ろした相馬が訊いた。若林は店の表側に近い、ザンクと呼ばれる亜鉛板のカウンターがある一角を指さした。フランス式エスプレッソを飲んでいる地元っ子らしい若い娘の一団が手を振っていた。それを背に、瓜生が歩いてくるのが見えた。
「男3人じゃ寂しいから、花を調達してくるとか言ってたけどな」
「馬鹿が」
 2人は笑った。水曜深夜とは言え店は空いているとは言い難く、ギャルソンやウェイトレスたちが忙しく立ち働いている。その彼らを1人とて立ち止まらせることなく、自分も足を止めることなく軽々と避けながら、瓜生が奥の席に戻ってきた。
「煙草あるか」
 席に着くなり瓜生は言った。相馬はディオールのスーツの内ポケットから、ここに来る前に買っておいたソフトパックのゴロワーズを一本抜き、残りを箱ごと瓜生に投げた。煙草が両切りと知った瓜生は嫌な顔をしたが、それでも一本咥える。
 左ポケットからオハイオ・ブルーチップの青いマッチ箱を出した相馬は、長いとは言えない脚を組み、ロブスの靴のビブラム底で着火させた。炎で厳しい丸顔を薄闇に浮かび上がらせ、ゴロワーズに火を点け、古漬けの菜っ葉のような匂いの煙を深々と吸い込んだ。マッチの火を瓜生の煙草にも移す。若林はキャメルのフィルター付きを抜き、愛用のジッポーで点火した。
 瓜生がゴロワーズの箱を落とした。わざとだ。拾い上げながら彫刻の施されたテーブルの下に素早く、且つ抜け目なく目を走らせ、盗聴器の有無を確かめる。
「OK、何もない」右手を上げ指を鳴らし、ギャルソンを呼んだ瓜生は、相馬に言った。「いつもながら遅すぎだ。俺たちはもう1時間も待ってたんだぜ。まーた寝台列車と地下鉄か? 相変わらずしみったれたヤツだなあ、おい」
「馬鹿みたいに派手なクルマを乗り回して、人目を引くよりは余っ程マシだ。何だ表のあれは。お前もう半月ここにいたんだよな。あんなクルマで動き回ってやがったのか」
「誰に向かって言ってやがる。俺が尾行されるヘマやるとでも思ってんのかよ」
 この自負は確かなものだった。瓜生には自分を監視する視線がわかるらしいのだ。相馬も幾度かそれらしい場面に実際に出くわしたこともあった。「じゃあ、表のシトロエンは?」
「ああ、あれは多分、俺が連れてきた」若林が申し訳なさそうに言った。「パリに入った時からずっと尾けられてた。撒いても撒いても、入れ替わり立ち代りで来たもんでな」
「店の中にもいるぜ」瓜生はヘラヘラと笑った。抜け目のない顔が笑顔の時だけは邪気を失くす。寄ってきたギャルソンに、黒ビールとサンドウィッチ・ジャンボン――ハムサンドを、妙なアクセントで注文する。「それも二組だ。一組は顔が見えなかったが、間違いなく俺たちを見てる」
 3人の中で一番フランス語の堪能な若林が、慣れた口調でチーズ入りオムレツとバケット、それとアリゴテの白を一壜頼んだ。ビーフカツレツとカフェオレを頼んだ相馬は、左手指に挟んだ煙草の灰を落とし、唇をへの字に曲げた。「奴らか?」
「片方はその可能性もあるな。顔が確認できなかったから、何とも言えんが。もう一方は…」瓜生は肩を竦めた。「わからん」
 注文表を片手に持つギャルソンは、相馬を除いて正装していない日本人らしき客に、明らかな苛立ちと軽蔑の色を浮かべていた。店内でもアップルベレーを取らない瓜生には特にだ。立ち去ったギャルソンを見送った瓜生が、床に吸殻を棄て、「ほーんといけ好かない店だよな。お高く止まりやがって」
「そういう店ばっか選んでるのはお前だろうが。だから俺は〈ムニッシュ〉の方がいいって言ったんだ。ここよりは余っ程マシな食い物を出す」
「俺はお前と違って上品なんでな。ブラッスリーだか何だか知らねえが、豚の血の腸詰めなんてゲテモノを美味そうに食う気にゃなれねえの」
 2人の遣り取りを笑って聞いていた若林が訊いた。
「鷹はどこに泊まってるんだ?」
「俺か? カルティエ・ラタンにあるクリスチーヌのアパルトマン」
「またカルティエ・ラタンか。それもクリスチーヌ? 誰だよそれは」
「工科大の大学院生だよ。話さなかったっけか?」
 相馬が灰皿に煙草を押しつけた。「瓜生が前に言ってた、趣味で偽造パスポートを造ってるとかいう女だ。とうとう手まで出したらしいな、この馬鹿は」
「クリスチーヌ・ロジェ。いいオンナなのよ、これが。眼鏡がよく似合うインテリ美人でな。偽造の腕は超一流よ」と、ポケットから6通のパスポートを出して並べる。2通は自分の、もう4通は相馬と若林のものだ。2人は手に取って、感嘆の声を漏らした。写真処理や透かし、割印の仕上げも完璧で、それぞれ1通にはID認証用の磁気テープまでついていた。もちろん偽造したデータが収まっている。大抵の国ならこの2通で出入りできるだろう。「クリスチーヌに言わせれば、この先、個人IDを認証するテープなり何なりは、どんどん小さくなっていくってことだ。数年毎にパスポートを作りなおさなくちゃいけねえってのは、この先永遠にカネも手間も掛かるってことだけどな」
「それでも素人仕事にしちゃ、大したもんだ」
「腕も確か、しかも美人だぜ」瓜生はケケケと笑った。「そんな美人ちゃんがだな、夜になると淫獣に豹変するわけよ。偽造の腕にも負けぬ超一流フェラが、夜な夜な炸裂ってわけだ」
 聞きたくもないと言いたげに顔を顰めた若林は、相馬にも同じ質問を飛ばした。新しい煙草の封を切った相馬は、瓜生程器用にではないが、肩を竦めた。「今日着いたばかりだからな。まずはアジトで一泊かな」
 3人で金を出し、世界各都市に設けている隠れ家のことだ。非常用の食料や薬、銃や弾薬を保管してある。バレるのを怖れ、頻繁にという程ではないが、場所を変えたりもしている。「荷物を置いてきた。それと非常食の補給も」
「ずっとアジトに籠もる気か?」
「いや、ルノワとカミさんに謝礼を払ったら、すぐにデラヴィーニュに移る。もう少し滞在したいしな」
「確かに、監視付きのままでのアジト出入りも嫌だな」
「ああ。それに確か、第二日曜に美術館の無料開放があったろう。だからカルト・オランジュも月間パスにしたんだ」
「ああ、それ、俺も行く」瓜生が言った。
 じゃあ、アジトは空くな。尾行を撒いて、俺が使うか…、まだ滞在先を決めていないらしい若林が呟いた。「しかし鷹はホント、この街が好きだねえ」
「当然だ。パリこそ俺の心の故郷だからな」
「馬鹿め。この街がいい顔して見せるのは、旅行者にだけだ」
 飲み物と食べ物が運ばれてくるまで20分も掛かった。チップを含めた勘定はその場で済ませるのだが、憂き目にあったのは相馬の財布だ。
「あんなクルマ買うカネあんなら、メシ代くらい自分で払え」相馬が忌々しげに言う。
 瓜生はジョッキの黒ビールを半分飲み干し、悪びれもせず言った。「最近は不景気なの」
「お前の懐具合にも影響とはね。最近の不景気も質が悪いな」
「正しくは俺じゃねえ。金持ち連中の懐に、な」
 軍団を裏切り、逃亡生活に入って以来、瓜生鷹は金持ち相手専門の泥棒となった。本人に言わせれば念願の泥棒生活なのだそうだ。昔から大好きだった漫画とアニメの影響なのだと言う。超人となった肉体を存分に駆使しての大仕事を次々と成功させた瓜生は、軍団だけでなく、世界中の警察からも追われる身となってしまった。「シケたもんよ、最近は。こないだなんて仕込みに2万ドル掛けて、実入りが2万5千ドルよ。アジトの管理費も出やしねえ」
「じゃあ、止めろよ。そもそもお前がアジトの管理費を期日通りに払ったことがあるか」
 若林がワインを吹き出しそうになる。
「人殺しを生業にしてるヤツが、俺の商売をとやかく言えねえってえの。お前も〈四鬼〉と大して変わりゃしねえ」
「俺はな、殺す相手はちゃんと選んでる」
 相馬圭一郎は軍団にいる頃から傭兵を志願し、狙撃兵として戦場を渡り歩いてきた。作戦中に命を救ったり親しくなったりした傭兵仲間とは未だに親交がある。除隊後、各地の暗黒街に散った仲間も多い。そんな仲間から声を掛けられ、仕事にしている内に、最初の約束では用心棒だけだった筈なのに、殺し屋としての腕と名を徐々に知られるようになった。
 若林茂はそんな2人に頼まれては、仕事を手伝わされてばかりいた…。
 最後に運ばれてきた仔牛のカツレツを5口で片づけた相馬は、カフェオレのお代わりとコントレックスを注文し直した。サンドウィッチを片手にビールを飲み終えた瓜生はグラスをもう一つ運ばせ、若林のブルゴーニュの壜に勝手に手を伸ばす。
 …軍団を裏切って9箇月が過ぎる。3人は軍団の超人兵士たちの追跡を何とか逃れてきた。別に手に手をとって逃げたわけでも、共闘しているわけでもない。むしろ特定の目的がない時など、瓜生と相馬はお互いを、世界で一番鬱陶しい奴だと言い合っている。しかしやはり、何らかの形で連絡を取り合い、こうやって月に一度は顔を合わさずにはいられない。会ったからと言って建設的な話をするでもない。貶し合って、うだうだと無駄な時間を潰す方が圧倒的に多い。
 わかっていながら、それを続ける理由。心細い? 多分、違う。安心したいだけなのだ。同じように追われる3人が、生きていることを確かめ合うことで、自分の今後に光明を見出した気になりたいだけなのだ…。
 3人は取り留めのない話を続け、その間一度ずつトイレに立った。その際瓜生が、顔を確認できなかった方の監視者一組を確認しに行った。流れる音楽が濁声のブルースから、少女の切ない喘ぎ声に似た歌声に変わった。嗄れた中年男の声が被る。
 席に戻ってきた瓜生が顔を上げた。「何だこの歌?」
「ゲーンズブールだ」相馬が十数本目のゴロワーズに火を点けた。「パリが故郷だとか言いながら、それも知らんのか。それより顔は見たのか?」
「だーめ。もう出て行っちまったみたいだ。しかし変な歌。未成年を誘惑しようとしてる中年の囁きだ」
「デュエット相手は実の娘だ。バーキンとの間のな」
「有名なのか?」
「2人ともな。この近くに、親父とバーキンとが住んでたって家があるぜ。ジャコブ通りの向こうだ」ミネラルウォーターで口を濯いだ相馬は、思いついたように若林を見た。「ここを出たら、ジャズでも聴きに行くか。ヴィラでいいメンバーが弾いてる」
「それなら俺はシャンソンの方がいいな」
「シャンソンか。それならラバン・アジルだな。まだ店も開いてるかな」
「遅いんじゃねえの? 後12分で真夜中だ」瓜生が舌についたゴロワーズの葉を摘んだ。妙な顔で腕時計を見直す相馬に、「お前、また冬時間のこと、忘れてるな?」
 若林が、ああ、と頷いた。「それで遅れたのか」
「ま、そもそも遅刻はこいつの趣味だ。勿体ぶって現れるのが好きなんだ」
「うるさい」時間前に来た積もりであり、瓜生の台詞――1時間も待ってた――も冗談だと思っていた相馬は、左手首のボーム&メルシェ・ケープランドを見て舌打ちした。瓜生のロレックスGMTマスターで時刻を合わせる。
 細かいようでいて、意外に抜けてるんだよな、こいつは…、腕時計をかざして見せながら、瓜生がせせら笑った。「今日は何をするにも遅すぎらあ。それより若林、明日、競馬はどうだ?」
「ギャンブルはいいよ」観戦といえばサッカーにしか興味のない若林は笑って受け流した。「日本でもプロサッカーリーグが出来たって話だな」
「聞いたな、俺も」相馬が言った。「まあ、熱しやすく冷めやすい我が同胞のことだ。保って数年のお祭り騒ぎで終わるさ」
「ひどい言い草だなあ。野球好きでもないくせに」
「どうしてお前は物事に関して、そう悲観的なんだろうね」
 グラスのワインを干した瓜生は、やっぱ男だけの席ってのは会話がシケるな…、などと呟き、店内を物色した。「だーめだ。ろくな女は残ってねえ。やっぱさっきのムスメたちにもうちょい粘るんだった」
「クリスチーヌちゃんが待ってるだろうが」
「濃厚な味ばっかり食ってたら、飽きも早いだろうが」抜け抜けとほざいた瓜生は、酒壜のお代わりを注文しようと上げかけた手を止めた。
 いい女でも見つけたか…、瓜生の視線を追った相馬の目も止まった。若林もだ。
 3人の席に近づいてくる男が見えた。薄汚れたマントを羽織ってはいたが、その下に着ているのは、ブーツを除いては和服に見えた。左手には美しい模様の絹の袋に入った長いものを提げている。背は3人の誰よりも高い。切れ長だが形の良い目が、日焼けした顔に白く映える。その目は真っ直ぐこちらを見つめている。
 瓜生が呟いた。「フランスで『破れ傘刀舟』が流行ってるたあ知らなかったぜ」
「確かに珍しい格好だ」相馬が吸殻のうず高く積もった灰皿に煙草を突っ込んだ。「第三勢力らしいな。見ない顔だ」
「あの糞コンピューターが新しいメンバーを加えていなけりゃ、な」瓜生の顔に不敵な笑みが浮かんだ。「どっちにせよ、ありゃあ只者じゃねえ」
 運良く注文を出そうとしている時だから良かった。そうでなければ接近に気づかなかったかも知れない。彼は気配を感じさせなかった。歴戦の3人にさえも。だから気づいた。只者ではないと。
 相馬が右手をテーブルの下に遊ばせた。背広の下、サファリランド社製の特注ホルスターに吊った銃を、すぐさま引き抜ける態勢だ。瓜生も若林も、思い思いの身構え方で男を待った。
 今頃になって、男の入店に気づいたギャルソンが駆け寄ってきた。
「困りますねムッシュー、この店には正装か、それに準ずる服装で…」
 無遠慮に男の肩に手を掛けたギャルソンは、彼が肩を軽く揺すっただけで無様に引っ繰り返った。男の視線は3人から離れない。もっとも敵意のこもったものではなかったが。
 不敵な笑みを浮かべたまま、瓜生がフランス語で訊いた。「俺たちに用かい?」
「話がある」男は、いや、青年は、明瞭な日本語で言った。「僕の名は那智剣吾」


     (7)

 …金色の毛に覆われたジロンド-の太い腕が、ぶよぶよしたシニョンの上半身をマリアから引き剥がした。
 怯えに歪んだシニョンの顔だったが、相手がジロンド-と知って安堵の表情に変わる。しかしその安堵もすぐに消えた。
 シニョンの両襟を掴んだジロンド-が、彼を軽々と抱え、煉瓦の壁にまで突き飛ばしたからだ。
 並べてあった鉄板が次々と倒れ、けたたましい音が鳴る。無様に尻餅をついたシニョンは、ひい、と悲鳴を上げた。天井の裸電球が揺れ、仁王のように立つジロンド-の影を揺らす。立ち上がったマリアが下穿きを直し、ジロンド-に駆け寄り背中に隠れた。
「な、何をする。俺を誰だと思ってる。こんなことをしてタダで済むと…」
「このケダモノめ…」ジロンド-は食いしばった歯から押し出すように言った。頬が赤い。勢いを得るために強い酒でも引っ掛けてきたのだろう。「あんたがここまでケダモノだとは思わなかった。恥を知れ」
 シニョンは立ち上がろうとして、また転んだ。膝まで下げていたズボンに躓いたのだ。それでも威厳を保とうと、必死になって叫ぶ。「お、お前は馘だ!」
「馘?」
「オーナーに暴力を振るうようなヤツなど、馘に決まってるだろう! 出て行け! 今すぐ出て行くんだ!」
「いいだろう。今日限りで辞めてやるよ」ジロンド-は言った。「だが、辞めるのは俺だけじゃない。このマリアも、他のみんなもそうさ」
「な、何…?」
「あんたみたいな糞オーナーの下で、これ以上働けるか。ここはあんた1人でやればいい。俺たちは別の場所で別の店を作る。なあ、マリア」
「ゆ、許さんぞ。絶対に許さん。マルカーノさんに頼んで、お前たちがパリにいる以上、商売なんぞ出来なくしてやる」
「やれよ。困るのはあんただ」開き直ったらしいジロンド-は、シニョンの恫喝になどまるで臆さなかった。これまでの鬱憤を晴らす気にでもなったのだろう。「そのマルカーノさんから預かったマリアに、あんた今、何をしようとした?」
 これにはシニョンの方が怯んだ。助けを求めるようにマリアを見る。しかしジロンド-の背中に隠れたマリアは、嫌悪と軽蔑の眼差しでシニョンを刺すだけだ。ジロンド-かマリアによって、このザマがマルカーノに知らされるのは時間の問題だ。イタリアだけではない。南欧の闇世界の若き顔役とまで呼ばれるあの“ダンディ”・マルカーノに、こんな醜態を知られたら…。
 シニョンは床に目を走らせた。散らばった鉄板やトレイの中に、パンの焼き具合を見るための鉄串が落ちていた。
 それを掴み取り、シニョンはジロンド-に襲い掛かろうとした。殺す積もりだった。まずジロンド-を。それからマリアを。マリアに懸想したジロンド-が彼女を襲い、抵抗された挙句殺したことにする。それを発見した自分が、争った末にジロンド-を死なせてしまう…。咄嗟に浮かんだのはそんな筋書きでしかなかった。とにかく今のシニョンには、マルカーノに並べる言い訳しか頭になかった。
 そのシニョンが三度転んだ。ズボンが膝に掛かったままなのだから当然だ。ジロンド-がそのシニョンを引き摺るように立たせ、鉄串を持つ手首を掴んだ。悲鳴に近い叫びを上げ、シニョンは鉄串を振り回そうとした。無理だった。腕力が違い過ぎた。
 全てが儘ならぬと知ったシニョンは泣き出した。40をとうに超えた男が、鼻水が垂れるに任せ、顔を歪め声を上げて泣き出したのだ。
 それでもジロンド-の指はシニョンの手首を離さない。血の気を失ったシニョンの指から鉄串がこぼれ、床に落ち、涼しい音を鳴らした。ジロンド-はそのまま、じり、じりと、シニョンを壁際に追い詰めていく。
「マリア、警察に通報するんだ」


 …プロコープを出たその男の腰は曲がり、脚も不自由らしかった。首には傷痍軍人の身分証をぶら下げていた。しかし皺だらけの顔に光る鋭い目は、表の車の列の最後尾のシトロエンにちゃんと気づいていた。染みだらけのコートの襟を立て、そちらに顔を向けないように、足を引き摺りながらサン・ジェルマン大通りに向かう。
 大通りに出て、シトロエンが視界から消えると、男は曲げていた腰をしゃんと伸ばした。皺に埋められた顔も、昼間の日差しの中で見れば実は下手なメイクに過ぎず、実は素顔は若々しいと気づかれたことだろう。年寄りへの変装は楽ではない。あまりに惨めな格好をすると却って人目を引く。しかしあのシトロエンは何だ? 俺たち以外に奴らを追っている連中がいる? 聞いてないぞ。そもそも奴らの行動をよく掴めたもんだ。
 邪魔をする暇などやらないけどな。
 セーヌ通りを右に曲がった男は人気のないことを確かめ、走り出した。全速力で迂回し、ビュッシの四辻に戻る。二輪のダッシュにも匹敵する、物凄い加速だった。
 2階建のカフェ〈レ・セタージュ〉の角から、シトロエンを窺った。ミラー仕上げの窓から車内は見えないが、監視者は1人だけではなさそうだ。注意はプロコープに向けられていた。男はセタージュと隣のビルの隙間に入り、置き去りにしておいたリュックを担いだ。剥き出しの下水管を掴み、ビルの壁をよじ登り始める。
 気づいた者がいたらさぞ仰天したことだろう。コートを着た猿が、カフェ&バーの壁をよじ登っていると見えたに違いない。実際男は猿のように身軽だった。20キロもある荷物を抱えながら、息も切らさずビル天辺まで登り切る。
 屋上の貯水タンク陰に隠れ、左腕のハミルトン軍用仕様時計の文字盤を見た男は、ようやく一息ついた。
 ポケットの通信機が呼出音を発した。「はい。こちらマドセン」
“準備は出来たか?”
「今、着いたところです」
“後3分で状況開始だ。間に合わせろ。”
「了解です」
 時計のストップウォッチを3分にセットした男は、ふと顔を上げた。月の出ていない闇の中なのに、四辻を囲むビル群の、屋上や屋根を動く数人の影が確認できる。仲間の行動が目立ち過ぎる。浄化運動だか何だか知らないが、ここ数年でパリの街並は随分白く磨き上げられてしまった。
 夜の闇に紛れて行動する輩の増加に手を焼いた当局が、街の美化を口実に、闇と輩を駆逐に掛かったのかも知れない。だとすれば、俺たちのせいでもあるな。マドセンと名乗った男は自分の想像に失笑し、コートを脱いだ。開いたリュックから出て来たのは分解されたロケットランチャー。全長150センチのFM92A、通称スティンガーだ。
 使い捨ての発射筒にグリップストック型の追跡装置(トラッカー)を取り付けると、表示灯が点滅し、赤、次に青に変わった。ランチャー本体を肩に担ぐと、レーザーが自動的に距離を測定、ナイトスコープが夜のプロコープ店先をはっきりと映し出した。
 アクティベート・コントロールをオンにすると、ミサイルが発射筒内でジャイロを回転させ始めた。その間にもスコープは、プロコープ店内にまでその照準を延ばしていく。マドセンの目が細められ、唇に笑みが浮かんだ。スコープに瓜生の姿を捉えたのだ。しかしヤツの手前に立つ、妙な格好をした奴は、誰だ?
 まあ、いい。マドセンはIFF識別装置に、瓜生の姿を記憶させた。ブザーが発射準備完了を知らせた。ハミルトンの文字盤を見ると、ストップウォッチは後40秒でカウントダウンを終えようとしていた…。


 …警察を呼ぶと騒ぎ立てるギャルソンを黙らせ、下がらせるのに一苦労だった。相馬の財布がまた被害に遭った。
「ナチ、ってのは本名かい?」日本語に切り替えた瓜生が、楽しげに剣吾を眺めた。「ヨーロッパじゃ名乗らねえ方がいいな」
「忠告有り難う。でもそんなことはどうでもいい」剣吾も言い返してきた。「大事な話なんだ」
 剣吾から見て右手にいた相馬が音もなく椅子を引いた。剣吾は瓜生から目を逸らすことなく、僅かに身体を右に開いた。錦織りの袋の口は既に開いており、F・カーターの鍛えた業物の柄をすぐにでも掴める姿勢だった。
 成程、居合か。それにこの格好。今の御時世に、ホントに破れ傘刀舟が出現したみたいだな…。しかしその構えの隙の無さにも、相馬は気づいていた。構えと言い、接近と言い、尋常な相手じゃないのは確かだ。刀で銃に立ち向かっても、お釣りが来るような腕らしい。侮ると俺でも危ないかもな。
 だが同時に、こちらの誘いに反応しながらも、剣吾の目に殺気が宿らなかったのにも、相馬は気づいていた。それが興味を引いた。丸顔が微かに和む。「おい瓜生」
「何だよ」
「話ぐらいは聞いてやろうぜ」
 瓜生は若林を窺った。若林も頷いたのを見て、剣吾を見返す。その眼差しに、瓜生はちょっとばかりたじろぎそうになった。
 何て目をしてるんだろうね、こいつ…。
 行動半径の広い瓜生は、知己だけは多かった。親しき疎きを問わず、本当に色んな人間と出会ってきた。しかし、暗く沈んではいるものの、こんな濁りのない目と出会うのは初めてと言ってもよかった。11歳の少年より澄んでいた。
 お前さんみたいなのは苦手なんだよなあ…、そう言おうとした時だった。
 瓜生の三本眉が吊り上がった。相馬が、そして若林が、椅子から体を浮かせかけた。
 剣吾が背後を振り返り、窓の外を睨んだ。


 …スコープを覗いていたマドセンは、半ば愕然としていた。
 やはり気づかれた。建物の外、おまけに夜だというのに、あいつらは俺に勘づきやがったのだ。流石だ、と思わずにはいられない。しかも…、
 瓜生や相馬、若林ならまだわかる。奴らは俺たちの追跡を半年以上逃れ得た手練だ。しかし手前のあいつは何だ? その鋭い目は確かに、闇を通して真っ直ぐに、カフェ屋上の自分に向けられていた。どうしてあいつまでが俺に気づく? あの3人に匹敵する奴が存在するとでも言うのか? それも俺たちの軍団以外に…。
 想像の中で、〈四鬼〉と対峙する、3人と1人の姿を見たような気がした…。
 ストップウォッチが電子音を発した。3分経過だ。マドセンは躊躇なくスティンガーのトリガーを引いた。
 0,5秒後、ミサイルのブースターが点火された。
 猛烈な火花を上げ、ミサイルが発射筒から飛び出した。すぐに2段目のブースターに火が点き、ミサイルは青白い煙を曳きながら、プロコープに向かってまっしぐらに飛んだ…。


 …駆け出したマリアは厨房入り口で一旦立ち止まり、振り返った。
「何してるマリア。早く警察を呼ぶんだ」
 呼ぶって、どうやって…?
「電話の横にファックスがあるだろう。あれを使え。ドゥファン巡査にはいつもお前のことは話してあるから大丈夫だ」
 言いながらジロンド-の太い腕は、シニョンの体を半ば吊り上げ、弱々しく暴れる彼を煉瓦の壁に押し付けた。シニョンはまだ泣いていた。ジロンド-の髪の薄い頭が裸電球にぶつかり、床に落ちる2人の影を大きく揺らした。
 同時に、壁が破裂した。
 粉々と化し、厨房に吹き飛んできた煉瓦の破片が、シニョンとジロンド-を直撃した。壁のパン焼き窯が崩れ、斃れたジロンド-を下敷きにした。凄まじい爆風にマリアの体は煽られ、細い廊下にまで転がっていく…。


     (8)

 …脚の3本が折れ、倒れかけたテーブルが再度傾き、上に積もっていた天井の漆喰を床にこぼした。下敷きになっていた瓜生が這い出してきた。アップルベレーの埃を払い、形の良いつるつる頭に冠り直した瓜生は、口の中に入った砂をペッと吐いて、目を凝らす。
 全照明が消えていた。非常灯までもだ。漆黒の闇に包まれた店内だったが、瓜生の常人離れした目は、数回の瞬きで即座に瞳孔を調整し、視界を確保する。
 見下ろした目の前に、黒いスカートが落ちていた。視線をずらすと、脚がついていた。黒いと見えたスカートは、実は白だった。吹き飛ばされた下半身だけが瓜生の前に転がったのだ。これも真っ黒な、血の海と化した床に、とぐろを巻いた腸がのたくりながらはみ出てくるのが見えた。腸の内容物と血の混じった凄まじい臭いが立ち上る。床に広がる血は、瓜生のセーム革のジャケットにも付着した。胸の悪くなった瓜生は、床に転がる数本のワインの中から無事なのを拾い、顔を顰めてラッパ飲みした。
 酒壜を置いたほんのすぐ先に、文句ばかり並べていたあのギャルソンが、目を見開いたまま死んでいた。頭が割れ、脳漿がはみ出していた。
 軽く黙祷の真似事をし、視線を横に動かすと、隣のテーブルを倒し、盾とした相馬と若林がいた。同じようにした積もりの瓜生だったが、どうやらテーブルが古かったようだ。
 相馬は腋のホルスターから、S&W-M29リボルバーを抜いていた。その6.25インチの銃身は、市販の製品のものよりかなり太かった。かつてのお仲間との戦闘を想定した相馬が、特別にローディングさせた44マグナム弾を撃っても破裂しないように、これも特注した特殊鋼の銃身だ。
 4インチ銃身のコルト・キングコブラ357マグナムを構えていた若林が、テーブルの陰から顔を出した。さっきまで目の前にいた剣吾の姿を探す。立っていた場所には、焼け焦げたマントが落ちているだけだ。
 いた。それも表通りに面した窓際の、亜鉛カウンターの横だ。暗い店内の、そのまた更に暗がりに身を潜めており、超人兵士若林でも余程目を凝らさないと見つけられなかった。
 いつの間にあそこまで…、強ばっていた若林の顔が、僅かに緩んだ。「あいつ、なかなかやるな」
「感心してる場合じゃない」相馬が銃で、滅茶滅茶になったプロコープ店内を指した。高価な調度のほとんどが原型を留めておらず、カーペットや敷石を黒く染めているのは血だ。ミサイルの破片を喰らい、落ちてきたシャンデリアの下敷きとなった死体は、十や二十ではきかないだろう。流れていた音楽の代わりに木霊するのは、瀕死の客たちの、あちこちで上がる弱々しい呻き声だけだ。「多分、スティンガーを撃ったな」
「こんな場所でか。無茶苦茶をする」
「あいつらにとっちゃ常套手段だ。本気で俺たちを狩る気になったってことだろ」
 斜め後ろから瓜生が忌々しげに言う。「あのサムライ野郎が引き連れて来やがったのか?」
「そうじゃないとは思うが…」
 その言葉が合図にでもなったかのように、割れた窓が窓枠毎蹴破られた。黒ずくめの一団が店に入ってきた。窓枠が床に落ち、砕け散った以外は音もなく、そして信じ難い素早さだった。崩れかけた壁の大穴、または窓から入ってくる街灯の光を背にした黒い影は、2人、4人と、瞬き毎にその数を増していった。
 瓜生が声を潜めた。「来やがった。昔馴染みのむさい連中が」
 総勢20名と言ったところか。全員が好みの銃を手にし、どの銃にもレーザーポインターが装備され、まだ煙の残る店内を、幾本もの赤い光線が上下左右に動いた。防弾繊維にしては実に軽そうなジャンプスーツを着込み、中にはTシャツやタンクトップ姿の者までいた。ヘルメットを被るものなど1人もおらず、顔に迷彩塗装も施さず、この暗い中、暗視装置を装着している者もいない。それだけ己の耐久力や回復力、視力に対し、絶対の自身を抱いているのだ。
 ブラックペガサス軍団の、ほぼ全員が。
 大小の呻きを耳聡く聴きつけた数名が店内に散った。手にした自動小銃やサブマシンガンが短く吠える度に、肉が裂け、骨が砕け散った。転がる客たちは痙攣するまもなく、動かなくなった。まさに熟練の手際による皆殺し。影たちが出現して1分後には、店内にて生き残った客たちはいなくなった。
 沸々と滾っていた怒りが限界に来たらしい。若林がキングコブラを手に立ち上がろうとした。相馬が制していなければ、連中の眼前に飛び出していたところだ。目撃者は全員消す。それが無関係の一般人だろうと。軍団のいつもながらのやり口とは言え、若林にはそれが我慢ならない。軍団を裏切った理由は3人様々だが、若林にとっての一番は、このやり方について行けなかったためだと言ってよい。
 だが、声は、相馬に宥められ怒りを噛み殺していた若林の斜め後ろから上がった。
「いつもながらのやり口だねえ。美学もなければ品もねえ」
 若林が目を見開いて肩越しに振り返った。相馬が、またか、という顔をする。
 英語での声はもちろん、周囲に散らばる軍団に届いた。奥の席の近くにいた3人が銃を構え直した。
 相馬の無言の制止など完全に無視して、瓜生が立ち上がった。左手をポケットに突っ込み、奥の間から歩み出る。前に立つ3人、店内に散っていた面々が、一斉に銃口を瓜生に向けた。幾人かは定石通り、壊れた調度の陰に身を伏せる。別の幾人かは伏射の構えを取る。レーザーポインターの赤い線が、血に濡れたベージュのジャケットに集中する。
 だが、引き金を引けるものはいなかった。
 20丁余りの銃に狙われながら、瓜生がたじろぎもせず、全員を睨み返していたからだ。
「お前ら、本当に人殺しが好きなんだな。それも、見境のない奴が」唇を歪め、吐き捨てるように言う。「さあ、撃てよ。お前らの好きな、生きた標的だぜ。撃ってみろ」
 それでもまだ、誰も引き金を引けない。彼らの性能の良すぎる目が、瓜生の眼差しを捉えていたからだ。細められた猛禽類の目の凄みが、連中の引き金に掛かった指を躊躇わせているのだ。へらへらと笑っていただけの軽薄な瓜生は、もはやそこにはいない。20余名の超人兵士と渡り合う、堂々たるエネルギーを放っていた。
「言われなくても撃つさ。俺たちは人殺しが大好きなんだ」
 野太い声が応えた。発したのは、それぞれの姿勢で銃を構える20余名の真ん中に立つ、周りより頭一つ高い巨漢だった。その声を聞いた相馬と若林が、ぎょっとしたように顔を上げた。瓜生も三本眉を吊り上げた。
「へえ、とうとう〈四鬼〉ナンバー2のあんた自らが御出馬か、コルサコフ」
「そうとも。目障りになり過ぎた貴様らを片づけにな」頬を覆う褐色の髭の中に走る1本の傷痕を歪ませ、コルサコフと呼ばれた巨漢は笑った。「そのためには手段など選ばないし、どれだけ死のうが知ったことじゃない」
「御大葬に24人も引き連れてか」
「これまで通りじゃ、絶対に逃げられるからな」コルサコフの声が低まった。「つまり、今日こそは絶対に逃さないということだ」
 そして、怒鳴る。「たった1人に何てザマだ! 貴様らそれでも世界最強の軍団か!」
 その声に力を与えられたのか、瓜生の目の前にいた3人が引き金を引いた。
 銃弾がジャケットを引き裂く寸前、瓜生は伏せていた。ポケットの中で握っていたものを床に投げ、日本語で叫ぶ。
「目を閉じな!」
 3丁の銃声に掻き消され、破裂音こそ聞こえなかったが、床で弾けたそれは物凄い閃光を発した。G60マグネシウム閃光弾だ。僅か3秒だが、百万カンデラの光は、闇に慣れた目を瓜生に向けていた連中を、全員眩ました。特に先頭の3人は、視神経を焼き切られたのだろう。ゴーグルを引き毟って苦悶する。
 銃口が逸れた瞬間、瓜生は左手に旧式の自動拳銃を抜いて立ち上がっていた。
 昔、中国の馬賊も使った、無骨なモーゼル・ミリタリーC96(M712)だ。弾倉がグリップではなしに、引き金の前についている。乾いた音とともに発射された7.63ミリ口径高速弾が2発、一番前にいた男の両目を撃ち抜いた。脳にまで損傷を受けたそいつは仰向けにぶっ倒れた。しかしそれでも死なない。床でもがきながら、取り落としたHK-G53ライフルを探す。
 瓜生の前に立つ、残り2人に、相馬のマグナムが火を噴いた。S&W-M29のシリンダー弾倉には44マグナム口径の、グレイザー・セーフティ・スラッグ弾が6発詰められている。キャノン機関(Z機関)の長だったジャック・キャノンが1974年に開発したこの弾丸は、145グレインの軽量弾頭ながら、命中と同時に爆発にも似た拡散を起こす。その威力はケブラー繊維20枚を重ねた防弾ベストなど軽々とぶち抜く程だ。凄まじすぎる破壊力に、ダムダム弾の疑いまで受け、現在市販では入手不可能なこの弾を、相馬はもちろん闇ルートで手に入れている。そして弾頭に最大の初速を与えるために、各薬莢に1.2倍の炸薬を詰め、実戦での不利を承知でM29に6.25インチの銃身を捩じ込んでいるのだ。銃身を特殊鋼にしてあるのは、市販のM29でこの弾を撃つと、銃身が破裂するからだ。
 果たして、セーフティ・スラッグ弾の1発は、1人の首の付根に命中、鮮血とともに頭部を引き千切った。2発はもう1人の腹に当たり、黒いスーツとそいつの腹筋とを滅茶滅茶に引き裂き、内臓を床にぶち撒けた。それでも尚、死なずにFNCライフルを構えようとするそいつの額に、若林のキングコブラが357マグナム3発を撃ち込んだ。そいつの前頭部は砕け散る。
 貫通する銃弾だとすぐにその傷を回復させる超人兵士たちも、首を千切られ、脳味噌全部を床一面にこぼしてしまっては、これ以上生きてはいられなかった。
 だがその反撃は、相馬と若林の居場所を軍団に報せることにもなった。銃口が瓜生だけから三方に狙いを分散させ、一斉に火を吐く。サブマシンガンの9ミリパラベラム弾はともかく、自動小銃のNATO弾は盾にしたテーブルなど簡単に貫通してしまう。口径223は5.56ミリの直径しか持たず、弾頭のサイズは市販で最小の22口径拳銃弾と変わらないのに、本来ライフル弾である薬莢に入る火薬量はマグナム拳銃弾以上なのだ。
 瓜生、相馬、若林は遮蔽物に隠れている愚を犯さなかった。床を転げまわりながらばらばらに散る。レーザーポインターの赤い線が縦横に走り、銃弾が壁や床を穿っていく。しかし3人には追いつかない。最初に両眼を射抜かれた男が、よろめきながら歩き出した。仲間からの銃弾を相当数浴びるが、衝撃にぐらつきこそすれ、痛がるでもなく、入ってきた窓の方角に向かう。
 20余名の注意がほぼ完全に瓜生たちに向いたのを確かめ、剣吾が亜鉛カウンターの陰から音もなく飛び出した。右手は既に刀の柄に掛かっている。
“これからお前が対峙する敵は、これまでの連中とは全く違う。いや、並の人間とは違う。”
 サイモン・デービッドは言った。
“お前同様の超人兵士だ。性能だけから言えばお前以上かも知れん。簡単には死なんぞ。だから殺す時には卑怯も姑息もないと思え。躊躇するな。一撃で殺すんだ。”
 だから剣吾は躊躇も容赦もしなかった。
 カウンターの横で、瓜生を狙う連中の最後尾にいた1人の前に割り込み、すっと腰を落とす。閃光とともに鞘走った刀は、そいつの首をあっさり切断した。
 その首が床に転がる前に、斜め横の1人が剣吾に気づいた。コルトM16A2の銃口を剣吾に向けてくる。剣吾は刀の峰でその銃身を跳ね上げ、返す刀で銃把を握る右手首を斬り落とす。流れる水のように自然に振られた刀だが、音速を超えていた。斬り落とした手首からは一滴の血も流れない。しかし軍団には珍しくヘルメットを被るそいつの動きにも遅滞はなかった。首を狙っての二撃目は躱してみせる。
 超人兵士になって以来、剣吾が攻撃を躱されるのは初めてだった。
 ――まだ、遅いな。
 はい、先生。
 男の無事な左手が、腰のガバメント拳銃を抜いていた。が、剣吾にも攻撃を躱された動揺はなかった。デービッドの警告だけではない。連中の出現から今までをずっと見ていた剣吾には、彼らがどのような敵なのかが、感覚的に掴めていたのだ。45口径が火を噴く前に、刀を肩から上段に振りかぶった剣吾は、男の頭にそれを振り下ろした。
 鍛え上げられた鋼の刃はイスラエル製防弾・耐衝撃ヘルメットを真一文字に断ち割り、男の胸元まで斬り下げていた。同時に拳銃が目の前で吠え、熱い銃弾が剣吾の頭をかすめて飛び去った。
 体内を駆け巡るアドレナリンで気力・体力ともに爆発しそうな剣吾には、周囲の全ての動きが緩慢に見えた。これまでもそうだったが。今日はいつに増して己の全機能・全感覚がフル回転しているのがわかった。ドングリのような45口径ACP弾が、頭の横を通過していくのが、スローモーションに見えた程だった。
 カウンターの陰から飛び出し、2人を片づけるのに要した時間は3秒だった。
 この調子だと…、剣吾は思った。銃弾を打ち払うことだって出来そな気がする。試したことはまだないが。
 不思議なことに、『殺戮せよ』の文字は見えなかった…。
 飛び交う銃弾を避け、馬賊の曲撃ちさながらにモーゼルを撃ちまくっていた瓜生が、相馬の射殺した1人が抱えていた自動小銃を拾い上げた。モーゼルの弾丸では元お仲間にダメージを与えられないことは、瓜生自身わかっていたからだ。M16を短く切り詰めたXM177カービンだ。床をスライディングしながらセレクターレバーを切り替え、フルオート掃射を開始する。細身を通り越し、ひょろ長いだけの瓜生だが、やはり彼も超人兵士だ。常人なら跳ね回る銃口を固定することも難しい、自動小銃のフルオート射撃を、寝転がった格好でいとも簡単にコントロールしてみせる。
 一連射で、瓜生を遠巻きに囲んでいた軍団の10名が被弾した。5.56ミリNATO弾は彼らの膝に食い込み、脛を削った。彼らにとって即死には程遠い傷ながら、手持ちの銃を撃ちながら脚をやられた面々は、倒れ込む際派手に同士討ちしてしまった。
 包囲網に穴が空いた。
 瓜生、相馬、若林がそれを見逃す筈もなかった。各々の銃を撃ちながら、それでも決して無駄撃ちすることなく、店の奥へと駆け出した。その際瓜生は元お仲間の腰から、XMにも転用できるM16用の弾倉帯を引っぺがしていく。
「逃がすな!」
 コルサコフの野太い声が命じた。倒れ込んだ連中はすぐさま体勢を立て直した。3人を追ってレーザーポインターの赤い線が動く。ストロボのように銃火が閃き、3人の逃げ込んだ暗がりに銃弾が集中する。しかし上がるのは火花と跳弾の音ばかりだ。
 奥は厨房か…、コルサコフは歯軋りした。「追え! 3人分隊だ!」
 剣吾に首を刎ねられたまま立っていた1人が、今になって鮮血を噴水のように迸らせ、ようやく倒れた。他の全員の注意と銃口がホールの奥に向く中、窓辺にいた1人だけが剣吾に気づいた。新手か? しかもいつの間にか、仲間2人が、殺られている…? そいつは剣吾に銃を向けつつ、警告の叫びを上げようとした。同時に他の面々が、奥に向かって乱射を開始した。その間を縫うように、数名が厨房に走り出す。
 遥か上空から、ヘリコプターのローター音が聞こえてきた。
 流石に三方への注意の分散は無理があった。剣吾に銃を向けるそいつの気が逸れたと同時に、刀の一閃がその胴を薙ぎ払っていた。そいつの上半身が宙を跳び、一閃の起こした旋風が積もった埃やコンクリの粉を天井に向けて舞い上げ、漆喰や壁の破片までをも吹き飛ばす。
 男の上半身が床に落ちた時には、剣吾は再びカウンターの陰に飛び込んでいた。急速に接近してきたヘリコプターから銃声がした。自動小銃十数丁からの銃弾がプロコープ店内に、雨のように降り注いだ…。


 …その僅か数分前。
 プロコープ店内を木っ端微塵に吹っ飛ばしたスティンガーの爆発は、表のランシエンヌ・コメディ通りに列を成していた駐車中の車の群れをも揺るがした。店の鼻先にあったアウディのワゴンは引っ繰り返った。店内から飛んできた灼熱の破片が、フィアットやルノーの車体を紙のように貫いた。辺り一帯を駆け抜けた爆風が、街灯の鉄柱2本をへし折った。瓜生のランボルギーニもフロントガラスを砕かれ、若林のハーレーも横倒しになる。
 ランシエンヌ・コメディ通りに面する他の店、階上のアパルトマンの窓という窓はことごとく叩き割られた。あちこちで悲鳴が上がり、少なくなったとは言え1人や2人ではない通行人の上に、割れたガラスが降ってきた。爆風に倒れた数名は、逃れる術もなくガラスに貫かれる。
 シトロエンの車体にも、何かの破片が突き刺さっていた。
 割れたフロントガラスから上半身を出した運転手が呻いていた。ワイシャツの胸の部分に血の染みが広がっていく。
 歪んだ後部座席のドアを蹴破り、デービッドが車外に転がり出た。白のスーツのあちこちが煤け、胸元に血が散っていた。彼のものではなかったが。シトロエンの横で膝をつき、一階二階問わず、飾り窓という飾り窓が砕け散り、壁の半壊したプロコープを見つめる。さしもの彼も茫然としていた。
 ビル屋上、或いはビル同士の隙間から、黒い影の集団が、湧いて出たように見えた。次々と店内に消えていく。ビデオテープの早回しでもこれ程速くはならないだろうというよう、とんでもない動きで。
 ブラックペガサス軍団…、デービッドは呟いた。「なぜ、やつらがここに…」
 トゥービエが助手席の窓から、悲鳴に近い声を漏らして這い出てきた。デービッドの横に無様に転がる。助かった…、そう言いかけた時だった。
 デービッドの両手が彼のコートの襟を掴み、体を持ち上げていた。
「貴様、電話を使ったな?」
 ショック冷めやらず、何のことかもわからないトゥービエは、抵抗も出来ず目を瞬かせた。「な、何…?」
「我々からの連絡を受けた後に、電話を使っだだろう!」
「そ、そりゃあ、各機関との、連絡には…」
 馬鹿が…、穏やかに見えた態度を豹変させ、物凄い顔でトゥービエを睨むデービッドは、吐き捨てるように言った。「電話連絡の危険性は何度も説明した筈だ。だから貴様への連絡も、直にここに来て口頭で行ったんだ!」
「わ、私だって、忙しいんだ。それに、携帯電話は盗聴されにくいと、ウチの防諜部が…」
「それが出来るから奴は恐ろしいんだ!」合衆国大統領から仏大統領への協力依頼も、他から一切の侵入を許さないために、電話回線も人工衛星も使わない通信機を用いて行われた。これまでブラックペガサスに、ホットラインを何度も傍受された苦い経験が作らせた設備だった。
 それでも…、トゥービエは必死で抗弁する。「それが、私のミスだとは…」
「他に電話を使った奴がいるかどうか、調べれば済む話だ」デービッドの表情は険しいままだ。「軍団はつい3日前までリオで網を張っていた。CIAが確認している。奴らはあの3人の動きも把握できていなかったんだ。それが今日はここにいる。我々の作戦に携わる誰かから情報が漏れた以外、考えられるか!」
「違う、私じゃない。私のせいじゃない…」
「貴様のことだ。愛人のアパートから出るのが面倒臭くて、部下への連絡も電話で済ませようとか考えたんだろう。これが終わったら全部はっきりさせてやる!」
 デービッドが襟を離すと、トゥービエはへたり込んだ。どうして俺の愛人のことを知っているんだ? 昨日の朝の愛人宅での俺の行動まで、どうしてわかるんだ? こいつは多分、俺の失態を本当に調べ上げ、大統領にも報告するんだろうな。女房を連れ戻すのは無理らしい。有力者の義父のバックアップを失ったら、俺はもう…。
 プロコープ店内から、乾いた銃声がした。最初は単発で、やがて立て続けに。
 デービッドは内ポケットから携帯電話を取り出した。壊れていなかった。既にメゾン・アルフォールを出発している筈のスコットに、文字だけの通信を送る。通話以外に、分析の難しいデジタル信号を用いての文字通信機能を備えたその機種が一般市場に普及するには、それから数年待たなければならなかった…。
 スコットに送った文字による指令はこうだった。
“敵が来た。直ちに現場に突入、04を援護せよ。”


 …ユーロコプターAS532クーガーが、ランシエンヌ・コメディ通り上空でホバリングを始めた。消音装置のついたローター音は、通常のヘリの立てる騒音の半分にもならない。操縦者の他に25人の乗れる機体後部より、2本のロープが下がる。
 濃紺のスーツに各種機材を取り付けられるベストを着込み、利き手に銃を掴んだGIGN隊員たちが、次々とロープ降下(ラペリング)に入った。30メートル下の路上に降りるのに僅か7秒。しかも彼らは降下に片手しか使わず、FA・MASコマンドカービンを店内に向け掃射を開始していた。銃身が跳ねないように三点射機能を使い、それでも1人がロープを降り切る時点で25発弾倉を1本空にする。弾倉が銃把の後ろにある、通称プルバック方式のこのFA・MASは、全長が短い分長距離射撃の照準は長く取れないが、片手で撃っても銃身の跳ね上がりをコントロールし易い。おまけに使用弾はM16と共用だ。それにラペリング射撃はGIGNの最も得意とする技術の一つなのだ。
 最初に瓜生に目を潰された男が、崩れた壁の前に立っていた。既に脳の損傷の回復は進み、数時間もすれば眼球も復元されていただろう。しかし脳幹が損傷しているせいか、そいつは痛みに反応できずにいた。数発の曳光弾を含む5.56ミリNATO弾は、棒立ちのそいつに面白いように吸い込まれていった。
 立ち尽くしたまま、降下する6人から銃弾を浴びるだけ浴び、7人目の撃ったSPASショットガンの12ゲージ口径スラッグ弾で心臓を破裂させたそいつは、遂に絶命した。GIGN隊員たちの意気は揚がった。今回は諦めていた遭遇があった上に、1人とは言え憎むべきブラックペガサス軍団の超人兵士を仕留めたのだ。この1年と10箇月の恨みを一気に晴らせた気分になり、ラペリング掃射にも一層の勢いがこもる。
“調子に乗って撃ち過ぎるな。”バダンの声が各隊員のイヤホンに走った。“今回の任務は例の3人の保護だ。奴らまで撃つな。但しアメリカ野郎(アメリゴ)どもに遅れは取るんじゃないぞ。”
 しかしその後店内に飛び込む小銃弾は、客たちの死体には当たるものの、他の超人兵士を仕留めるどころか、戦闘に差し支える損傷さえ与えられなかった。瓜生にはあっさり撃たれた軍団だが、それは瓜生が彼らを凌ぐ超人だったからの話。一定のリズムで一定方向から撃ち込まれる銃弾など、軍団には造作なく避けられるのだ。
 その間にもう1機のユーロコプターが、プロコープの屋上に接近していた。“0155、状況、展開。”の声とともに中から飛び出してきたのは、スコットに率いられるデルタフォースだ。SAS仕込みのやり方で階上の窓を割り、続々と建物への侵入を果たす。ブラックペガサス軍団の人間離れした素早さはない代わりに、彼らの動きには無駄がない。
 …目を潰された男が絶命した後、外からの銃弾を浴びたのは僅か5人。どれも致命傷には程遠い。しかしコルサコフは傷痕の走る顔を紅潮させ、激怒した。背中に抱えていた武器を手にする。ブローニングM2重機関銃だ。全長は1.6メートル。重量は40キロにも及ぶ。車両搭載用のこの武器を持ち歩く兵士など、他には存在しない。軍団の中にもだ。身長196センチ、体重百キロの巨漢にして、軍団最強兵士〈四鬼〉の1人、ドミトリー・コルサコフだから出来る芸当だ。
 横にいたドラグニーが、コルサコフの肩に提げたバッグから二百連ベルト弾倉を引きずりだした。装弾手となって、ブローニング機関部に弾倉を嵌めこむ。レバー式の遊底を目一杯弾いたコルサコフは両足を踏み締め、銃床にわざわざ取り付けた肩当てを、右胸の厚い筋肉に押し当てた。撃つ。
 重低音ストンピングにも似た銃声とともに放たれた12.7ミリ、50口径の弾丸は、対面のビルの煉瓦を砕き、コンクリの壁をいとも簡単に貫通、ラペリング途中のGIGN隊員3人を空中で捉え、その胴体を引き千切った。装弾手となったドラグニーが、弾倉が詰まらないように巧みに装填をアシストする。
 次いでコルサコフは、路上に降り立ったGIGN隊員にも50口径弾を浴びせかけた。地上のGIGN隊員たちは、ラペリングのロープを固定していた2人を除き、既に遮蔽物を見つけて隠れており、撃たれたのは空中の3人だけで済んだ。しかし50口径弾が降ってくる中、顔も出せない彼らは手とMASだけを出して反撃するしかない。
 それでもMASの5.56ミリ弾は、コルサコフの肩や胸、脇腹に次々と食い込んだ。溢れる出血がコルサコフのスーツをますます黒く染めていく。しかし高速のNATO弾が、コルサコフの体を1発も貫通できない。はだけた胸元に直撃した数発もだ。マウンテンゴリラ並に厚い、そして防弾ベストより硬い筋肉が、弾丸の貫通を許さないのだ。その傷もたちどころに塞がっていく。それを見たGIGN隊員たちは、攻撃を続けながらも遮蔽物後方に下がる以外にない。
 コルサコフの怒りは収まらない。ブローニングを撃ちながら、GIGNの銃弾を浴びてしまった5人の尻や背を蹴り上げる。
「愚図愚図してるからだ!」
 叫びながら天井を見上げる。コルサコフの鋭い耳は、階上に通じる非常口の向こうからの、ドアを蹴破る音、駆け込んできた者たちの靴音とを聞き取っていた。上からの急襲か。やり口からして恐らくSASかデルタだろう。
「非常口前を固めろ!」
 その声に軍団は二手に分かれた。一方は崩れた壁の手前に散り、もう一方は非常口手前に3人を配し、階段を下りてくる敵に備えた。その配置換えに、3秒も掛かっていない。
 しかしコルサコフはそれすらも遅いと感じていた。こいつらの愚図さ加減にはどうにも腹が立つ。何が世界最強の軍団だ。兵士としては半人前もいいところだと思う。瓜生たち3人を囲む際も、あまりに簡単に近づきすぎたし、瓜生が姿を見せた瞬間、手足を撃つなりして戦闘力を奪っておこうなどと考えた奴もいなかった。まだ成長中の組織なのだから、鷹揚に構えるようにと常に藤堂から言われているのだが、旧ソ連の特殊部隊の末席にいたコルサコフには、失敗がどんな瑣末なものでも許せない。兵士1人1人の能力はともかく、統率は外のGIGNに完全に負けていると思えて仕方がない。こいつらの半数は藤堂がいなければ、己の肉体を過信するだけの木偶(でく)の集団に過ぎない。
 それに比べて、一見ばらばらながら、瓜生たちの逃げっぷりの鮮やかだったこと。全く厄介な奴らが造反してくれたものだ…。
 コルサコフは木偶ではない配下に声を掛けた。「ヨハンソン!」
 崩れかけの壁の前でAKを構えながらも、退屈を隠し切れずにいた男が顔を上げた。黒の半袖、白金色の短髪に潰れた耳。ブーローニュの森でノックアウト強盗を切り刻んだあの男だ。
 イングマル・ヨハンソン。彼もまた〈四鬼〉の1人だった。
 コルサコフが命じた。「お前は奥に行った連中の指揮を執れ。お前がいないと、多分すぐに撒かれる。外の蝿どもはこっちで片づける」
 ヨハンソンはニヤリと笑って、AK小銃を床に置いた。奥に向かった3人分隊6人の後を追う。独りで、手ぶらで。
 外からはまだGIGNがMASを撃ち込んでくる。天井や床に当たった数発が跳ね、コルサコフにも当たる。既に上半身は血塗れだ。それをものともせず、コルサコフはブローニングの乱射を再開した。
 旋回中のAS532ヘリが、プロコープ上空に姿を見せた。攻撃に加わってくる積もりだろう。部下たちにGIGNへの応戦を命じ、コルサコフはブローニングを上空に向けた。ブラックペガサス軍団も応射を開始した。配置換えした先頭から、特に俊敏な2名が、崩れた壁の外に飛び出していく。
 コルサコフには満足行かなくても、一旦本来の動きを取り戻した世界最強の超人軍団は、動き非情さともに、まさに無類であった。飛び出した2名は、店内からの援護を受けながら、遮蔽物の間を駆け抜けた。2名が背後に回ったことで、遮蔽物は遮蔽物ではなくなった。GIGN隊員たちは無防備の背中にフルオート掃射を浴びることになった。慌てて立ち上がった隊員たちも、店内からの銃弾に次々と倒されていく。
 …ブローニングを撃つコルサコフが、部下の死体の焼却を命じていた。それを亜鉛カウンターの陰で聞きながら、闇の中に溶けていた剣吾がそっと顔を上げた。非常口向こうの階段から投げ込まれたものが、白煙を上げながら、フロアに転がってきた。2個、3個。ホールに催涙ガスが充満し始める。しかしガスなどに音を上げる超人兵士はいない。瞬きもせずに、階上から下りてくる敵を待つ。
 その隙に剣吾はカウンターから這い出て、白煙に満ちたフロアに出た。非常口前で待ち受ける3人のほんの後ろを音もなく擦り抜け、ヨハンソンと呼ばれた男がつい今し方去ったホールを横切って行く。気配は最初からなく、催涙ガスがその姿を隠してくれた。或いはヨハンソンを援護に向かった同志だとでも思われたのかも知れない。剣吾を振り返った者は誰もいなかった。
 ホールを抜ける間際、コルサコフのがなるような笑い声がロシア語で何か言った。壁の彼方で閃光が走り、次の瞬間轟音と震動がプロコープビルを揺るがした。数十に及ぶ数の灼熱の鉄塊が壁を貫き、床に大穴を穿つ。右手前のレ・セタージュ真上にて大爆発が起こっていた。攻撃に加わっていたヘリを重機関銃の銃弾が縫い、遂に撃墜したのだ。
 非常口前を固めていた3名も自動小銃の乱射を始めていた。悲鳴とともに階段を転げ落ちてくる音が数名分。デルタの隊員たちだろう。猛烈な銃撃戦が始まった。
 しかし剣吾は振り向かない。特殊部隊GIGNとデルタとは言え、この場を常人だけに任せて大丈夫かという心配はあるが、自分の目的はあくまで厨房方面に逃げ込みヨハンソンに追われる瓜生たち3人だ。


 …プロコープビル全体の電気系統が駄目になってしまったようだ。非常灯も避難誘導灯も消えていた。逃げ込んだ厨房もまた、闇だった。
 流しの横に座り込んだ瓜生が、スパイダルコのポケットナイフでハンカチを裂いた。2本を撚り合わせてロープを作る。腿に食い込んだ9ミリパラベラム弾が盛り上がる筋肉に押し出され、床に転がったのを確かめ、傷の上をロープで縛り上げる。
 弾丸は大腿部の動脈を傷つけていたようだった。縛ってもすぐには止血できなかった。完全に止まるまでには数分を要するだろう。もちろんその間じっとしているわけにはいかないが。
 しかし瓜生はそんなことより、デニムに穴を空けられたことの方が腹立たしかったようだ。
 しきりに舌打ちする瓜生に、冷蔵庫の陰からホール方向を窺う相馬が鬱陶しげな顔を向けた。穴を空けられたのは彼のディオールのスーツも同様なのだ。「安物だろうが。どこが惜しいんだ」
「この血じゃ、クリスチーヌのところに帰れねえの。脅かしちまうだろうが」
「せいぜいビックリさせてやれよ。新手のプレイになるかも知れん」
 ガスコンロだけが点いたままだった。その明かりだけで、闇に慣れてきた3人には厨房の全体が見渡せた。ホールへの廊下に血塗れの数人が倒れていたが、ここは無人だ。コックたちは爆発とともに逃げ出したと見える。厨房は随分と広かった。テニスコート5面分はある。
 いきなり立ち上がった瓜生が、XM177を腰だめに構えた。
 厨房入り口にて黒い影3人が、音もなく左右に分かれたところだった。瓜生の顔が突然和んだ。闇目の利く瓜生には、その影が誰だかわかったのだ。
「いよう、パクじゃねえか」
 声を掛けられた先頭の小柄な影が、ビクッと動きを止めた。その背後から叱声がした。それを聞いた瓜生はますます嬉しそうな顔になり、「何だよ、そっちはスカラッチか? お前が斬り込み隊かよ。オンナの扱いしか知らなくて、訓練のアト、必ずメソメソ泣いてた奴が、偉くなったもんだなあ」
 揶揄の口調が影を怒らせた。レーザーポインターの赤い線が走ったと思いきや、AKSの乾いた銃声が厨房を揺るがした。若林に足を掬われた瓜生が倒れ込むほんの頭上を、5.45ミリ弾がかすめ、アップルベレーにも穴を空けた。壁に掛けられた鍋やフライパンを、鐘にも似た音を立て貫通する。
 他の2人も攻撃に加わった。その背後からもう3人が追い付いてきた。瓜生たちの姿を求め、6本の赤い線が乱舞する。
「お前、ホンモノの馬鹿だろ」
 瓜生に言い捨てた相馬が、レーザーポインターの根本目がけて、M29カスタムを連射した。
 セーフティ・スラッグ弾はパクと呼ばれた男の胸板をぶち抜いた。背後の、まだ熱いオーブンに鮮血が散り、ついでパクの体も飛び込んだ。髪が燃え、皮膚が爛れ、物凄い蒸気と臭気が立ち上った。悲鳴を上げようとしたパクだったが、肋骨を粉砕され肺を破壊された口からは、吐息すらも出てこない。
 残り3発も撃ち尽くし、頭を下げた相馬はM29のシリンダー型弾倉を振り下ろし、排莢の後、ポケットにバラで突っ込んでいた弾丸を詰め直す。その間、若林がキングコブラ357マグナムを撃ちまくった。瓜生のXMも加わる。影5人も撃ち返してくるが、数多い障害物にことごとく弾かれた。3人は攻撃を交互に繰り出しながらも身を低め、出し得る限りの速さで動き回った。影5人の弾丸は当たらないが、跳ね回る弾丸が運悪く脳天に命中しないとも限らなかったからだ。動きながら目指すは背後の厨房裏勝手口だ。
 その時、その勝手口のスチールドアが、ドラムの連打音とともに数箇所、内側に凹んだ。外側からの銃撃だ。瓜生、相馬、若林とも一瞬表情を凍りつかせたものの、さっと散り、床に伏せる。
 スチールドアを蹴り、丸いヘルメットにカーキ色の軍服の一団が飛び込んできた。GIGNではない。屋上からラペリングしてきたデルタフォースの面々だ。夜間照準器付きのM16改造銃CAR15か、HK・MP5SDを構え、突入と同時に厨房の対角線上にいたブラックペガサス軍団の影たちと撃ち合いになる。
 瓜生たちは勝手口側の闇に身を潜め、厨房の壁を銃火の閃光が何度も照らし上げるのを見守っていた。影たち5人はデルタの出現になど怯みもしない。しかし散開したデルタも軍団からの応射を絞り込ませない。ここでも軍団は己の肉体への過信に足を引っ張られた。常人でしかないデルタを舐めていたのだ。夜間照準器を装備したデルタ隊員たちは決して影たちの視界に立つ愚を犯さなかった。辛酸を舐めさせられて以来の、デルタの研究と訓練とが偲ばれた。
 四方から12人の、丸1弾倉分の銃弾の集中砲火を浴び、軍団3人が行動不能に陥った。デルタは残る2人も追い詰めに掛かる。
 軍団不利の状況を、影たちの後方から現れた1人が一変させた。
 銃弾飛び交う厨房に堂々と入ってきたそいつは、火器を身につけていなかった。唇に薄ら笑いを浮かべ、派手な音で指を鳴らす。防弾ベストに護られていない首筋を、小粒の鉄塊が貫いた。切断された頸動脈から血を噴き出し、2人が床に沈んだ。
 同時に男はその長身を翻す。バレエにも似た優雅で流麗なフットワーク。3人目、4人目の隊員の、腕や首が床に落ちる。オメガもどきの竜頭に仕込んだ、細さ0.05ミリのタングステン合金製のワイヤー3メートルが、次の犠牲者を求め風を切る。銃声一つしない中、次々と血の海に沈む同僚たちを目にして、デルタ隊員たちは恐慌に陥った。銃を撃ち返すのも忘れ、男の近くから逃げ出す。テーブルが蹴られ、倒れた鍋から煮立ったコンソメがこぼれ、コーヒーサーバーが割れる。隊員同士がヘルメットをぶつけ合う。その背を狙ってタングステンワイヤーが唸り、男の指が鳴る。
 僅か20秒足らずだった。12名のデルタ隊員は全滅した。
 剥き出しの腕や顔を鮮血に汚した男が、のんびりと背筋を伸ばした。合金の極細ワイヤーを時計内部のウィンチに巻き取らせながら、転がったデルタ隊員の生首を蹴り飛ばす。ヘルメット付きの頭は流し台のシンクに落下した。男は口笛を吹き、「ゴール」と呟いた。
 男が何者か知る相馬、若林は、低めていた身をますます硬くした。だが瓜生だけはまたしても、半ば楽しげな顔で立ち上がった。
「相変わらず悪趣味な殺しが好きだな、ヨハンソン」
 3人には振り返ったヨハンソンの顔がはっきりと見えた。闇の中、頬や額の返り血を拭いもしないその顔は、まさに悪鬼のそれだった。「芸術ってのはな、見る目のない奴にはただの悪趣味に見えるもんさ」
「お前のは誰がどう見ても、悪趣味にしか見えねえと思うぜ」
 XM177を腰だめに構えた瓜生は唇を歪めた。その左右で相馬と若林が、隠れた姿勢のまま、ヨハンソンの隙を窺っていた。既にヨハンソンの右手指は左手首の腕時計竜頭を再び摘まみ、極細ワイヤーを引っ張りだしていた。空いた左手は例の鉄の小粒を弄んでおり、いつでも射出できる構えだ。隠れた相馬や若林になど既に気づいており、そのフットワークを以ってすれば3人からの銃撃など即座に避けられるとの自負のあるヨハンソンの顔は余裕の笑みに満ちていた。瓜生を見つめながらも、姿の見えない筈の相馬や若林をも充分牽制できていた。
 つまり全く隙がないということだ。
 元軍人コルサコフは頭に血の上りやすい、どちらかと言えば単純漢だ。旧ソ連の特殊部隊を追い出されたのも、何かあれば力任せに暴れるだけの性向が原因だろうと陰口を叩いたものだった。しかし元ボクサーのこいつは、冷静さ、残忍さを併せ持つ始末に負えない怪物だ。面倒臭がってコルサコフの上に立とうとしないだけで、実はその力は、〈四鬼〉の中でも藤堂に次ぐものだろう…、それが3人の一致した意見だった。
 コルサコフに加え、こいつまでが追撃に出てこようとは…。
 今はとにかく、ヨハンソンの隙を作らなくては…、瓜生は戦術を変えることにした。「ところでお前の“女房”はどうした?」
「何…?」
「ユンだよユン。あいつ来てねえの? 離れ離れじゃお互い寂しいだろ」
 ヨハンソンの顔から笑みが消えた。「何を言ってるんだ、貴様は」
「とーぼけるなって。お前とユンとが熱いおホモだちだってこたあ、軍団の中でも暗黙の了解事項だぜ」
 事実である。ヨハンソンと〈四鬼〉の最後の1人、ユン・ジュヨンは、男色(ホモセクシャル)の関係にあった。もっとも周知の事実というのは嘘だ。2人ともそれをひた隠しに隠している。どういう手段を使ってか、瓜生がそれを突き止めた。話したのは相馬と若林にだけだ。「お前、ユンのどこに惚れてるの? やっぱあの締まったケツか?」
 ヨハンソンの顔が拭ったような無表情になった。スチールの食器棚の陰にてそれを見た若林が、やばい、と言いたげな顔をする。何度か行動を共にした若林は知っていた。彼は本当に怒った際には感情を面から圧し隠す。
 代わりにその残虐癖に拍車が掛かるのだ。
 瓜生は作戦の失敗を悟った。ヨハンソンは頭に血を上らせるどころか、全身に纏う殺意を増しただけだった。瓜生とヨハンソンとの間で、極細ワイヤーが風を切る音を立て始めた。瓜生がどう動こうが、切り刻むことが出来るという意思表示でもあった。左手に握る鉄塊の小粒も、相馬と若林が顔を出すのを今か今かと待っていた。日本の古い手裏剣の亜種である鉄塊は、自動小銃弾に迫る速度を出す。相馬も若林も迂闊に動けない。
 瓜生の頬に僅かに触れたワイヤーが、頬肉を削いだ。一筋の血が流れる。もちろん瓜生も動けない。三本眉の間に珍しく皺が寄った。こりゃあひょっとすると、マズいかもな…。
 ヨハンソンの隙のない構えを崩したのは、背後で上がった銃声だった。
 銃弾はヨハンソンや3人には飛んでこなかった。倒れた床や厨房の入り口で対峙を見守っていた超人兵士の背後を、ホールから追い付いてきた者が襲ったのだ。行動不能に陥っていた3人はともかく、残った2人は光速の反射神経をフル回転させ、急襲者が厨房に飛び込んできた時には銃を構え終えていた。しかし急襲者の速度が勝った。小銃が火を噴く前にその銃口前に身を沈め、2名の両膝を刀の一閃で切断する。返す刀で4本の腕も斬り飛ばし、倒れ込む2名の額から顎先までを一呼吸で斬り下ろす。
 瓜生が目を剥いた。急襲者が剣吾だとはわかっていた。驚いたのはその凄まじい速度だ。瓜生の飛び抜けた目を以ってしても、剣吾の振った刀の残像しか捉えられなかった。瓜生でそれだから、相馬、若林は尚更だ。しかしヨハンソンは慌てない。振り向く前に左手指がスナップの音を発していた。
 指先から、ギザギザの鉄塊が放たれた。剣吾の目と首筋目がけてまっしぐらに飛んでくる。しかし今の剣吾の目には、自動小銃弾とてキャッチボールの球にしか感じられない。鉄塊の速度もそれに毛が生えた程度だ。
 空気の抵抗を受ける腕だけが重かった。腕だけではない。音速を凌駕する動きを続ける剣吾の筋肉は、通常受ける負荷の数倍が掛かっていた。謂わば時間の抵抗とでも呼ぶべき負荷。しかし今はその抵抗を、勢いで押し切ることが出来た。2個の鉄塊は刀の峰に弾かれ、火花を上げてすっ飛んだ。
 驚愕の表情を浮かべたヨハンソンだったが、既に次の攻撃に入っていた。瓜生の周囲で風を切っていた極細ワイヤーが剣吾に向きを変えた。ヒュン、と音を立てる細すぎる凶器が、高速で動く剣吾には見て取れない。
 しかし研ぎ澄まされた五感は、身体のすぐ側にまで迫った何かの存在を剣吾に報せた。つい今し方誰かの血を吸った、危険極まりない何かだ。今度ばかりは頭の中で警報が鳴り、脳裏に赤い光が明滅した。
 しかしこれもまた、『殺戮せよ』の文字にはならなかった。
 ヨハンソンは巧みにワイヤーを操った。左手首のスナップだけでワイヤーの環を作る。その環の中に剣吾の方から飛び込んできた。右手が竜頭を思い切り引けば、剣吾の胴体は輪切りになる筈だった。しかしヨハンソンに竜頭を引くチャンスは、いや、手は、残っていなかった。
 刀の二閃目が、ヨハンソンの右肘から先を斬り落としていたからだ。
 続く第三閃目、逆袈裟斬りにて、剣吾は自分の銅を狙うワイヤーを断ち切った。ピイイン…、と細い弦を弾くような音がした。流れる動きで刀を振りかぶった刀が、ヨハンソンの顔に振り下ろされた。電光の一閃だった。
 しかし、
 ――ほれ、まだ遅い。自分でもわかったろう。
 ヨハンソンも黙って待ってはいなかった。長身が驚くべき反応速度で後ろに下がり、厨房の天井に伸びた。空振りに終わった刀の切っ先が、壁際の食器台を真っ二つにする。
 食器群が床に落ち、けたたましい音を立てる前に、剣吾は振り返っていた。彼の頭上を跳び越え、脱兎の速度でホールに逃げ去るヨハンソンの背中が見えた。
 足元に、一滴の血も流さない、ヨハンソンの右腕が転がっていた。
 はい、先生。まだ遅いです。
 ――そうだ。まだ刀が弧を描いておるからだ。
 後を追おうとした剣吾だったが、銃声に足を止められた。腿と膝の裏側に何発か食らった。撃ったのは、デルタに撃ちまくられ行動不能にまで陥った3人だった。3人とも回復を終えようとしていた。胸をぶち抜かれ、顔を焼かれた筈のパクなど、呼吸が既に戻りつつあった。
 瓜生のXMと相馬のM29が立て続けに吠えた。3人のうち2人――パクもだ――の頭が粉々に吹っ飛び、回復は永久に停止させられた。敵の頭数を減らすためだ。卑怯もクソもあったものではない。
 若林だけはキングコブラを撃たなかった。回復中の最後の1人に斬り掛かる剣吾を、惚けたように見つめている。その彼を相馬が一喝、瓜生とともに勝手口からプロコープ裏手に出る。
 3人も剣吾も、ヨハンソンの鉄塊を食らって倒れながらも、一命を取り留めたデルタ隊員の1人が、小型通信機でその模様を中継していることには気づかない…。
 …一度厨房を振り返った若林は、心底呆れたような顔をして、首を振った。「凄いな、全く」
「あいつか?」並んで走っていた相馬が言った。「確かにとんでもない腕だな」
「格好もとんでもなかったけどな」先頭を走っていた瓜生が周囲を窺った。削がれた頬は既に血も乾き、剥がれる寸前のカサブタになっている。「ホントに刀を抜きやがった。どの時代からタイムスリップして来やがったんだか」
「抜いただけじゃない。あのヨハンソンと渡り合って、勝ったんだぞ」
「つまり、あの野郎は俺たちとおんなじ力を持つか…」
「俺たち以上って可能性もあるわな」
 瓜生と相馬は顔を見合わせ、身震いした。若林だけは感に堪えぬと言いたげな顔のままだった。「もしかしたら、あいつなら、勝てるかもな」
「誰にだよ」
 若林は答えない。相馬が代わりに言った。「もちろん、藤堂に、ってことだろうよ」


     (9)

 …銃火閃くランシエンヌ・コメディ通りに、ルノーの大型バン3台が走り込んできた。放置された車や通行人の死体を跳ね飛ばし、停止する。
 プロコープからの銃弾が、バンの防弾ボディに食い込み、防弾ガラスに白い弾痕を残した。乗っていたGIGN隊員たちが反対側のドアから飛び出した。2個班46名、第二陣の到着だった。チュルイリー庭園にいた連中も混じっている。
 押されていたGIGNが、加勢を得て息を吹き返したのを知り、店外に出ていた超人兵士2人はさあっと引き返した。半壊した壁を遠巻きに囲んだGIGNの攻撃が再開された。店内からの応射も一向に止まない。路上の死体ばかりが増えていく。半数は一般通行人だ。加勢の到着は事態を収拾するどころか混乱に拍車を掛けた。明日のニュースにて、パリ市街で起きた史上最悪の銃撃テロとして報じられることだろう。
 銃撃戦の中心から外れているとは言え、たかだか200メートル。シトロエンにも銃弾は飛んでくる。デービッドはトゥービエとともに、防弾仕様の車体の陰に隠れているしかない。
 間断ない銃撃の合間を縫って、パリ市警のパトカーの、あの間の抜けたサイレン音が聞こえ始めた。指揮権の主張は一人前にやる癖に、トゥービエはもしもの際の市警への出動規制も怠っていたのだ。叱られた子供のように頭を竦めるトゥービエに、救いようのないと言いたげな一瞥をくれたデービッドだったが、己の下した判断と、携帯電話にもたらされる情報には満足できていた。
 連絡は突入したスコットと、彼の部下からの報告を集約したものだった。ブラックペガサス軍団の犠牲者数と、それを誰が片づけたか。戦闘の可能性は少ないと踏んでいたデービッドだったが、いざ予想が外れても彼は慌てなかった。真に優秀な指揮官とは、不慮の事態に最善の選択肢を選べる者だ…、直属の上司ラッセル大佐のお馴染みの台詞だ。デービッドはそれを実行できた自分が誇らしかった。
 すぐさま作戦を本物のブラックペガサス軍団相手の実験に切り替えたのである。
 剣吾が深手を負った場合には作戦を直ちに中止、デルタに体を張らせて救出する積もりでいた。ところが救出など考える必要もなかった。
 正確な掌握はまだ無理だが、敵の総数は24人かそこら。内、戦死者は既に半数に上るようだ。手傷を負わせただけなら数も多いが、デルタ・GIGN連合軍が止めを刺せた数は僅かに3。それも1名は例の造反超人が目を潰してくれていたから倒せたようなものらしい。
 対して、残り全てはその造反超人と、剣吾とが片づけたのだ。しかも、そのまた半数を、剣吾独りが仕留めたものらしい。ブラックペガサス軍団の超人兵士を、独りで少なくとも5、6名。デービッドはこみ上げる笑みを抑えられない。会心の笑みだ。有能だが臆病と言える程慎重なラッセル大佐は、剣吾の実戦への投入に反対したものだった。しかし准将は常に正しかった。
「確かに…」デービッドは呟いた。「思った以上の拾い物だ」
 そんなデービッドの頭上にて、2機目のユーロコプターAS532が旋回を始めていた。
 スコットたちデルタを運んできたヘリだ。隊員の大半を下ろした後、デルタとGIGNの各1名が残った。側面ハッチが開き、狙撃用自動小銃を構えたその2名が顔を出す。
 HK-MSG90と、FR-F2狙撃銃が射ち出した7.62ミリ旧NATOライフル弾は、崩れた壁からプロコープ店内に正確に飛び込み、壁際にてGIGNと撃ち合う超人兵士たちを次々と貫いた。堂々と立つコルサコフは格好の標的となった。胸を撃たれ、腹を撃たれ、頭蓋骨を削られた。横でベルト弾倉を給弾するドラグニーにもぶすぶすと音を立てて食い込む。
 その一弾はドラグニーの背中に当たり、脊椎を破壊した。下半身の自由を失ったドラグニーは倒れ込む。超人兵士にとっては回復可能な傷だが、倒れた場所が崩れた壁の中央だった。ヘリの狙撃手と外のGIGNの絶好の標的となったドラグニーに、およそ2弾倉分の銃弾が撃ち込まれた。
 装弾手を失ったブローニングM2の挿弾口に、ベルト弾倉が引っ掛かった。重機関銃は作動不良を起こし、またもコルサコフを激怒させる。
 店内からの応射が途切れた隙を衝き、GIGN隊員4人が崩れた壁に飛び込んだ。MASをコルサコフに向ける。しかし巨体に似合わぬ敏捷さで反応したコルサコフは、MASが火を噴く前に、腰に差したデザート・イーグルを抜いていた。イスラエルが生んだ、マグナムの撃てる自動拳銃だ。4人の隊員に2発ずつ、50口径アクション・エクスプレス・オートマグナム弾を撃ち込む。防弾ベストに当たっても、肋骨をへし折る威力の弾丸だ。
 手早くデザート・イーグルの弾倉を替えたコルサコフは、2丁のMASを拾い上げ、あちこちを撃たれながら両腰に構える。セレクターレバーをフルオートに切り替え、ユーロコプターに向けて撃ちまくる。ブローニングの威力はないが、5.56ミリ弾は次々とヘリに命中した。合間に狙撃手どちらかの悲鳴も混じる。装甲の厚い燃料タンクは撃ち抜けなかったが、ローターに向かう給油パイプには食い込んだ。ヘリは薄煙を上げながら退却していった。
 コルサコフは被弾した配下を叱咤し、外のGIGNへの応射を強めた。もちろん自らが先頭に立つ。動けずに呻き蠢くだけのドラグニーを蹴りどけ、MASの弾倉を替え、2丁をリズミカルに撃ちまくる。
 増援とヘリからの援護に一時は優位に立ったGIGNだったが、その優位はあっさりと崩れた。20名以上が銃弾に倒され、最早包囲網は包囲網の体を成していなかった。増援を運んできたバンは炎上寸前だし、サン・ジェルマン大通りに達した流れ弾は遠巻きに眺める野次馬、近づいてきたパトカーまでも貫いた。制服警官1人が顔面を吹っ飛ばされ、即死。被弾した野次馬も5人や10人では収まらなかった。阿鼻叫喚が大通りにまで広がりつつあった。階上から侵入する筈のデルタも階下で足止めを食らったままだ。
 しかしコルサコフも慌て始めていた。遠くから聞こえるサイレンは増える一方だ。パリ全域に警戒態勢が敷かれるのは時間の問題だ。戒厳令まで行くかも知れない。警察など何百人出てこようが気にならないが、脱出の際、軍に出張られたら面倒だ。あの3人を片付けるのに、ここまで手間と時間を食うとは…。「ヨハンソンはまだか!」
「ここだコルサコフ」
 声は以外な近さから返ってきた。コルサコフは振り返った。ホールの入り口にヨハンソンが立っていた。よろめきながらコルサコフの後ろに座り込む。片づけ終わったのか…、そう訊こうとしたコルサコフが瞠目した。ヨハンソンの右肘から先が失くなっていた。
「まさかヨハンソン、お前がしくじったのか…」
 床から拾い上げたテーブルクロスを噛んで裂き、血の溢れ始めた右肘を縛り上げながら、ヨハンソンは頷いた。それがまたコルサコフを驚かせる。多人数の指揮は嫌がるものの、単体での殺しにかけては軍団ナンバー2のこの男が、しくじっただと…?
「あの3人じゃねえ。もっと凄えのが出て来た」
「何だと…?」
「サムライに似た格好をした野郎だ。多分、俺たちと同じ能力を持ってやがる」
 同じ能力だと…? コルサコフは首を振った。「俺たちのゴッド以外に、超人を造り出せる組織があると思うか!」
「俺が知るか! 現れたんだから仕方ねえ!」
「そもそもそんな奴が、一体どこから…」
「多分、ここだ。最初からここにいたんだ」
 瓦礫と死体の山に目を遣ったコルサコフは、その時初めて気づいた。客やデルタ隊員に混じって、7人の部下が転がっていることに。7人…? 3人は瓜生たちに殺られた。コルサコフ自身がそれを見ている。1人は目を潰され、GIGNに集中砲火を食らった。しかしもう3人は、誰の仕業だ…? 1人は首を切り落とされていた。もう1人はヘルメット毎頭を断ち割られている。別の1人は下半身しか残っていない。
 コルサコフの視線を追ったヨハンソンが頷いた。「奴の仕業だな。カタナで切り刻んだんだ」
「いつの間に…」
「多分、俺たちがあの3人を追うのに夢中になってる最中だろうよ」
 ヨハンソンは微かに身震いした。剣吾を相手にした時の驚愕なり戦慄なりが蘇ったのだろう。その目には苛立ちもあった。今まで恐怖というものを知らずに生きてきた彼には、今彼を蝕みつつある感情が掴み切れないからだ。それを振り払うように語気を強める。「フランスだかアメリカだかはわからねえが、どこかが俺たちと同じ超人兵士を完成させたんだよ。それもとびっきり腕が立つ奴をな」
「………」
「退却しようぜ」
 コルサコフは何を言い出すんだと言いたげに、ヨハンソンを見た。ヨハンソンは繰り返した。「退却だよ。騒ぎが大きくなり過ぎた」
「軍が出て来るかもと言いたいんだろう。それくらいは…」
「それだけじゃねえ。俺たちも犠牲を出し過ぎた。見ろ、何人残ってる」
 コルサコフは外と階上に向かって応射を続ける配下の頭数を確認した。崩れた壁際でGIGNと撃ち合っているのが3名、階上に撃ちまくるのが3名、双方の援護に動き回るのが3名、そして床に転がるドラグニー…。コルサコフは愕然とした。彼とヨハンソンとを合わせ、12人しかいない。どの国の軍や特殊部隊を相手にしても、5人以上の犠牲を出したことのないブラックペガサス軍団が、一度の戦闘で13人の兵士を失ってしまうとは…。
 ヨハンソンが痛みに顔を顰めつつ、立ち上がった。「行こうぜ。潮時だコルサコフ」
 数秒の沈黙の後…。
「駄目だ」コルサコフは首を振った。「これだけの犠牲を出しながら、あの3人を始末出来なかったんだ。おめおめ帰れると思うか?」
「チャンスはまた来る」
「いいや、駄目だ!」コルサコフは頑迷に首を振った。こんなままで戻ったら、藤堂に合わせる顔がない。不死身になる前なら自分の方が優れた兵士だという自負があった。しかし今は違う。不死身になった今、藤堂はまさに最高の兵士、そして指揮官となった。自ら数百人に及ぶ各国の特殊部隊兵士を血祭りに上げ、一方でその半数が木偶に過ぎなかったブラックペガサス軍団を無敵と呼ばれるまでにしてのけた。〈四鬼〉ナンバー2の自分にもその力量があることを示したくて、今回の指揮を買って出たのはコルサコフ自身なのだ。それがこの体たらくでは…。
 それに…、「お前をそんな目に遭わせた凄腕の正体も確かめねば…」
 MASの弾倉を替え、コルサコフは熱に浮かされたように厨房の方角を見た。残った部下を一睨し、「ついて来い! 裏切り者と新たな敵を始末する!」
 外と撃ち合う3人とヨハンソンを除く6人は逆らえなかった。走り出したコルサコフに続いて厨房方面に消える。残されたヨハンソンは溜息をついた。馬鹿な奴だ…、呟いた彼に、階段前から声を掛けた者がいた。無事な左手で鉄の礫を放とうとしたヨハンソンだったが、声の主がマドセンだと気づき肩の力を抜く。
「脅かしっこなしですぜ」
「デルタはもういないのか?」
「さあね、階段の上にいた10人かそこらは全員死んでますよ」
 ヨハンソンは頷き、立ち上がった。「退却だマドセン。ドラグニーも連れて行ってやれ」
「いいんですかい? コルサコフは…」ヨハンソンの不気味な笑顔しか知らないマドセンは、彼のかつてない疲れた顔に驚きを隠せなかった。
「死にたい奴は放っとけ。行くぞ」
 ヨハンソンは右肘の怪我を気にしながら大股で歩き出した。ドラグニーを背負ったマドセンが続く。外のGIGNと撃ち合っていた1人が、バン目がけてM14手榴弾を投げた。穴だらけになっていたルノーの大型バン2台は爆発と同時に炎上し、完全なスクラップと化した。混乱の隙を衝き、残った3人もヨハンソンたちの後を追った。作戦前に予め決めておいた複数の脱出経路の一つに向かって。
 ヨハンソンの背後を小走りに走るマドセンは、彼がブツブツ何かを呟いているのを聞いた。スウェーデン語はもちろんわからない。しかしそれでも、その言葉が呪詛に満ちたものだとはわかった。迂闊に話し掛けようものなら殺されかねない。
 ヨハンソンはこう呟いていた。
 今回は悔しいが認めてやる。俺の負けだ。生まれて初めて認めてやる。
 しかし次は俺が勝つ。
 貴様を切り刻んでやる。そして貴様を使ってジグソーパズルをやってやるよ…。


     (10)

 …瓜生を先頭にプロコープの裏手に出た3人は、表通りには向かわず、広い路地裏の反対側にあるビルとの狭い隙間に入った。その際、瓜生が表に向かう路地の方に、数枚のサンチーム硬貨をばら撒いておく。
 爆発はプロコープビルの裏手の壁をも吹き飛ばし、隣のビルにまで穴を開けていた。プロコープ程ではないが、デュカキス・ビルというらしい、相当に古い建物の壁は半分以上が壊れ、レド・シャッセに入る店々は滅茶滅茶だ。面のシャッターまで吹き飛んでおり、外からの灯りに店内の惨状がよく見えた。貸事務所やアパルトマンになっているプルミエ・エタージュ――日本式の2階――より上から、住民たちの恐怖の悲鳴が続いていた。3人はそれを聞きながら、身を低め、ヒビ割れた煉瓦に肩を擦られながら、山となった瓦礫を踏み越えていく。
 デュカキス・ビルの面、クール・ド・ロアン方面は市警に封鎖されているようだ。パトカーや救急車の回転灯、走り回る警官たちの姿が、吹き飛んだシャッターの向こうに見えた。封鎖の向こうから惨状を眺める野次馬もかなりいるようだ。表通りで御同輩たちが流れ弾を浴びていることなど知らないのだろう。「こっちも弾が飛んできたら、連中、どうするんだろうね」
「さあな。アメリカじゃ訴訟合戦になるだろうが、こっちじゃどうなるやら」
「どっちにせよ、このまま表通りに出るのはマズいか…」呟いた瓜生がふと前を見ると、壁の崩れた店の一つに、表通りからは見えない箇所を見つけた。
 覗き込むと、暗いが広いことはわかった。煉瓦造りの、結構広い厨房だった。微かに残る匂いからすると、パン屋のようだ。瓜生は相馬と若林を手招きしながら、中に入った。騒ぎの静まるまで、隠れるにはいい場所かも知れない。
 目はすぐに慣れた。壊れたのはパン焼きの窯だけらしい。丈夫な煉瓦に囲まれていたお陰で、この店は全壊を免れたのだ。漂う血の臭いがあった。窯の下敷きになった、ランニングシャツ姿の男がいた。残っていたパン職人が巻き添えを食ったものだろう。息はまだあったが、弱い。
 男の首筋に触れ、若林が言った。「後1時間このままにしておけば、間違いなく手遅れになる」
 他の2人は怪我人を跨ぎ越え、隠れ場所を探した。瓜生が呟く。「助ける義務はねえだろ」
「それ以上に、余裕もない」相馬が言った。「表に運ぶわけにもいかんしな」
「この怪我人までもが、オレたちのお仲間と思われるのがオチだ」
 表の店に通じる廊下の手前に出来た窪みに腰を下ろし、瓜生がXM177を傍らに置いた。相馬がその斜め前、やはり外からは陰になる瓦礫の上に座り込む。M29カスタムのシリンダー弾倉から一度排莢し、まだ撃っていない2発に加え4発のセーフティ・スラッグ弾を補弾する。カチリ、と優しくシリンダーを嵌め込む。アクション映画で目にする、シリンダーを振って嵌めるやり方は、銃を傷める最低のやり方とされる。FBIやSFPDでそれをやると教官に殴られる。
 M29を膝の上に乗せた相馬は、懐を探り、ゴロワーズのソフトパックから1本抜いた。相馬を見て、思い出したようにXMの弾倉を替えた瓜生が言った。「俺にもくれ」
 若林が顔を顰めた。「止めろよな、こんな場所で」
「仕方ないだろうが。随分我慢もさせられたんだ」
「だからってこんな場所で吸ってみろ。たちまち臭いが漏れるぞ」
「上の住人だと思ってくれるだろ」
 若林は呆れたように首を振る。瓜生をバカ呼ばわりすること甚だしい相馬だが、実は彼もいい勝負だ。特に煙草やら、嗜好品への堪え性の無さは病気レベルだ。しかしそのくせ、この男は肉体の鍛錬に関してだけは、信じ難い克己心で取り組むのだ。
 きっとこいつは隠れマゾに違いない。過去幾度も目撃した物凄いトレーニングも、こいつにとっては密かな快感なのだ…、若林は笑いを噛み殺し、言った。「気づかないか? ガスの臭いもする」
 顔を上げた相馬は、それが冗談ではないとわかったのだろう。やっとマッチを捨てた。それでも咥えた煙草は捨てようとしない。
 …ランシエンヌ・コメディ通りから聞こえてきた2度の爆発音を最後に、銃撃戦が止んだ。暗い中、割れた裸電球が揺れた。「外から来たのは、GIGNだよな」
「ああ、それとデルタ」
「あの、生まれた時代を間違えたサムライ君と関係あると思うか?」
「奴がGIGNやらデルタやらを引き連れてきたとは考えにくいな。逆ならあり得る」
「ははーん、つまりサムライ君は俺たちを追うために雇われた、と」
「雇われたか、それとも俺たち同様、合衆国辺りに生み出されたか…」相馬は呟いた。「それに、追ってきたと言うより、何か持ち掛けてきたって感じだったな」
 奴は、いや、奴らは、俺たちに何かの取引を申し出る積もりだったんじゃないかな。特殊部隊は俺たちがそれを蹴った時の保険だったんだ。さもなきゃ、あれだけタイミングよく登場できるわけがない。
「最初から待機してたってことか」瓜生がうんざりした顔になった。「俺たちが軍団を逃げ出したニュースが、あちこちに広まってるってことじゃねえか」
 若林が訊く。「取引って、何だと思う?」
「俺たちに〈賢者の城〉の在り処でも聞きに来たか。場合によっちゃ、俺たちに総攻撃に一枚加われとでも言いに来たか…」相馬は肩を竦める。「どっちも推測だが」
「ふざけやがって。他人のフンドシで相撲取ろうって奴らばっかだな」
「いい考えかも知れないぜ」
「何だ若林、いきなり…」
「俺たちとあの那智って奴が組んだら、〈賢者の城〉に乗り込めそうだ」
「まーたその話か?」瓜生が唸り、横目で若林を見た。「お前、余っ程あのクソ忌々しい島に戻りたいんだな。一体誰が待ってるんだい?」
 そう言うわけじゃ、ないんだが…、若林は口ごもった。
「可能性としちゃ、悪くはない」相馬が言った。それならクルーガーの(じじい)との約束も守れるし…、「しかし俺は藤堂の相手だけはしたくないからな」
「前に同じ」瓜生が手を挙げた。「あのナチとか言うサムライ君が、藤堂とやり合えるかもってお前の説には、一理ありそうだけっども、な」
「藤堂が出て来たら、あいつに頼むってのはどうだ?」
「ばーか、俺たちが先に藤堂に襲われないって保証があるか」
 若林は黙り込むしかない。やり込めた瓜生が首を回し、筋を伸ばすと、ポキポキと音がした。血のついたジャケットを摘み、「それよりここからどうやって逃げるよ。これじゃあ表にも出られねえ。当分、封鎖も解かれないぜ」
「地下に逃げ込めればな」相馬が言った。「この近くに下水道の入り口がなかったか?」
 パリの下水道は、そのとんでもない広さを持つトンネルでも知られている。場所によってはタンクローリーですら通り抜けられる代物だ。あるぜ…、瓜生が言った。「しかしよ、どうせコルサコフたちが逃げるのに使ってるさ。俺はあの中を走って逃げるなんざ御免だぜ。臭いが1週間は抜けねえ」
「やっぱり車が要るか」相馬が腕を組む。「盗むか、それとも瓜生の派手なアレを使うか」
「あの銃撃戦だ。俺のは多分パーだよ。くそーっ、折角の新車が…」
 瞬間、相馬が手を翳し、瓜生を黙らせた。3人の耳が、プロコープ・ビル裏口のスチールドアが開く微かな軋みを捉えていた。
 聞こえるか聞こえないか程の靴音。そして迫る殺気。6人か、7人。瓜生が聞こえない音で舌打ちする。やっぱりばら撒いた硬貨程度じゃ騙されねえか…。
 煉瓦や倒れたパン捏ねテーブルに隠れ、各々の武器を確認しながらも気配を殺した3人の努力を、瓦礫の中から上がった声が台無しにした。
「だ、誰かいるのか? 誰か、そこに、いるのか?」
 窯の下敷きになっていた職人の、そのまた下にそいつはいたらしい。気づかなかったのはそいつが完全に気を失っていたからだ。瓜生たちにとってはとんでもない、けたたましい音を立てて、そいつは立ち上がった。よろめきながら瓦礫を払いのける。小柄な中年男だった。禿げ上がった頭からも血を流しており、どういうわけかズボンを穿いていない。
「消防なんだろ? それとも警察か? 頼む、助けてくれ」周りが見えないのだ。暗いだけではない。粉塵のせいで血が固まり、目を塞いでいるのだ。男はあちこちに向かって声を掛ける。「救急車を連れてきてくれ。俺は怪我人だ。このビルのオーナー…」
 その台詞が終わらない内に、325グレインの50口径弾頭を食らった男の禿頭は破裂していた。壁の穴の彼方から轟いたオートマグナムの銃声は、辺りの空気まで震わせた。クール・ド・ロアン方面で野次馬の悲鳴が上がった。近くにいるぞ、の声とともに警官たちの足音が遠ざかっていく。
 デザート・イーグルを右手に構えたコルサコフが、穴から顔を覗かせた。目を凝らし、倒れた死体が目当ての3人の誰でもないことに気づき、舌打ちする。他に気配がないか、耳を澄まして瓦礫を一睨する。隠れる3人は、これまで培ってきた戦闘技術を総動員して己の気配を殺した。コルサコフだけなら撃ち返したかも知れないが、その背後にまだ6人がいた。
 それに小銃弾を食らわしたところで、コルサコフは平気な顔をしているだろう。相馬の44マグナム、セーフティ・スラッグ弾を使って、何発で仕留められるものやら…。
 頼むからとっとと行ってくれ…、XMの銃把を握る手が汗で滑りそうになる中、そう願う瓜生の横で、またしても瓦礫が音を立てた。
 奥に通じる廊下の奥で、1人の少女が身を起こしたのである。
 立ち上がった少女は辺りを見渡した。あまりに茫然とし過ぎて、目前に蹲る瓜生に気づかないまま、ゆっくりと歩き出す。白いワンピースは煤けていたが、幸い大きな怪我はしていないようだ。
 頬も粉塵に煤けていたが、信じられないような微妙なバランスで配置されたその目鼻立ちを見た瓜生は、反射的に口笛を吹きそうになっていた。相馬も目を見開いていた。幻でも現れたかと言いたげな顔だった。それ程、少女は美しかった。このままルーブルに持って行って飾った方がよさそうだった。彼女を前にすれば、巨匠の彫刻どれも、色褪せて見えたかも知れなかった。
 コルサコフが身を屈め、瓦礫の厨房内に入ってきた。瓜生も相馬も震え上がった。しかしコルサコフは3人に気づかない。彼も少女に気を取られていた。その整い過ぎた容貌を、物珍しげに見下ろす。少女はまだ混乱していた。見上げはしたものの、目の前の男が誰なのかがわからない。どうしてジロンド-の代わりにこんな男がここにいるのかがわからない。なぜその手に銃など提げているのかも。
 サファイアより青い瞳が、コルサコフを見つめ、その口が開いた。
 あなたは、一体、誰…?
 コルサコフは哀れむように、少女の白い額にデザート・イーグルを向けた。飛び散る脳漿を避けるため、左手を銃口の横に翳す。50口径AE弾は少女の頭部を間違いなく粉々にするだろう。それを見越した瓜生、相馬、若林は、この時ばかりは顔を顰め、目を背けた。
 銃声は厨房外で上がった。それも自動小銃の軽快な銃声だ。同時に怒号と悲鳴。コルサコフが何事だと言いたげに振り返った。
 外で待機していた配下3名が厨房に飛び込んできた。いや、正しくは逃げ込んできた。残り3人は外で、襲撃者相手に銃を撃ちまくっていた。それもすぐに止む。銃声がしてから僅か2秒だった。若林の顔がパッと輝く。
 あいつだ…!
 …コルサコフは騙されなかったが、剣吾は騙された。プロコープ・ビルを出た後、ばら撒かれた小銭を見つけ、裏手から表に向かってしまったのだ。高架橋の下で3人の気配を探している最中、デザート・イーグルの銃声を聞かなければ、もっと遠くまで行かされていたことだろう。
 戻ってくると、6人の超人兵士が、隣ビルの壁に空いた大穴の中を窺っているところだった。剣吾は迷わず連中の中に斬り込んだ。狭いビルの隙間で、6人は自動小銃を剣吾に向けようとし、壁に、或いは互いに銃身をぶつけ合う。その点、剣吾はお構いなしだ。彼の刀は彼の腕前に掛かれば、壁だろうが煉瓦だろうが平気で斬り裂く。
 目の前の兵士毎。
 不利を悟った3人が穴の中に逃げ込んだ。残った3人の頭を断ち割り、胴体を輪切りにし終えた剣吾が、その大穴の前に立った。その彼と初めて対峙したコルサコフが呻いた。こいつか。
 こいつがヨハンソンの腕を斬り落とし、配下と、そして俺の作戦までを斬り刻みやがったのか!
 その瞬間、コルサコフは少女のことを忘れた。配下3人に声を掛け、手にしたデザート・イーグルを剣吾に向ける。3人の超人兵士もだ。
 同時に瓜生がXMを腰だめに構え、立ち上がっていた。若林もキングコブラを構える。相馬は既にM29カスタムの銃口を、コルサコフの背中に向けていた。
 気配にコルサコフが気づいた時には遅かった。銃声は狭いパン屋の厨房を、文字通り揺るがした。崩れかけていた壁の煉瓦が本当に落ちてくる。闇のそのまた闇で上がった銃火はストロボの閃光となり、3人の顔や姿を間歇的に浮かび上がらせる。XMの20連弾倉はたちまち空になり、至近距離で後頭部に全弾を受けた兵士2人の頭は破裂した。キングコブラの357マグナム弾5発は別の1人の後頭部と延髄を、完膚なきまでに破壊した。
 そしてS&W-M29カスタムの放ったセーフティ・スラッグ弾5発は、少女の体をかすめ、全弾コルサコフの背中に食い込んだ。背骨が砕け、2発を食らった心臓は破裂した。4発目にして弾丸はコルサコフの胸板を貫通、5発目にしてその主要な臓器を鮮血とともに、煉瓦の上にぶち撒けていた。
 だが、それでもコルサコフは生きていた。
 鮮血は口からも溢れた。それが彼の心臓から送り出された最後の血液であった。しかしそれでもコルサコフは立ったまま、振り向いた。憤怒の形相で3人を睨み、倒れ込む寸前ながらデザート・イーグルの銃口を向ける。
 3人は背筋を凍りつかせながら、崩れた煉瓦の上に伏せた。これでまだ死なない。千切れた足を〈賢者の城〉に帰ることもなしに戦場でくっつけたことがあるコルサコフだ。放っておけば心臓でさえ再生させるに違いない。3人は真面目にそう信じた。これだからこいつらの相手をするのはイヤなんだ…。
 震えるデザート・イーグルの銃口は行き場をなくし、その視界に唯一残る影を、その照準に捉えた。 
 茫然と立ち尽くす、あの少女に。
 壁の大穴の外で轟音に身を低めた剣吾が立ち上がった瞬間だった。
 目が厨房内部に吸い寄せられた。コルサコフにではない。彼が巨大な自動拳銃を向ける相手、暗い厨房に立ち尽くす、1人の少女にだ。銃口を向けられながら少女は剣吾を見ていた。厨房がどんなに暗くても、剣吾には彼女の目が、澄んだ湖のように青い色をしていることがわかった。
 そして段々と我に返り始めた少女の、蕾のように可憐な唇が発した言葉も。
 助けて…。
 その時剣吾の内側で爆発のように弾け、光より速く駆け巡ったのは、布由美の姿であり、ヤースミーンの姿ではなかったか。2人の姿が遠ざかったと同時に、視界のド真ん中で赤いものが明滅した。
 しかしそれは最後まで、『殺戮せよ』の文字にはならなかった。
 次の剣吾の動きは、瓜生、相馬、若林の目にも留まらずに終わった。同じ能力、或いはプロトタイプより高められた能力を持つ3人でありながら、そして視力に関しては地上の如何なる生物をも上回る瓜生の目ですら、剣吾の動きは追いつかせなかったのである。
 3人が外からコルサコフに目を向けた時には既に、剣吾はコルサコフと少女との間に割り込んでいた。刀はデザート・イーグルを握るコルサコフの右手首を宙に向かって斬り飛ばし、返すき切っ先にてその喉を貫き、延髄までを刺し貫いていた。
 飛ばされた右手が床に落ちるとともに、デザート・イーグルを撃った。弾は相馬の脚をかすめ、煉瓦の壁に突き刺さる。コルサコフは信じ難いと言いたげに、カッと目を見開いていた。
 命は既に尽きていた。
 その巨体が遂に床に沈んだのを確かめるようなタイミングで、少女が完全に我に返った。同じく床にへたり込み、両手を顔に近くに持ってきて、身を震わせ始める。悲鳴を上げている顔なのだが、どういうわけか声が出ていない。口からはかすれた息が吐き出されるだけだ。それに気づいたのは少女の斜め前にいる若林だけだった。
 瓜生と相馬は、背中を向ける剣吾を見つめるだけだった。見つめるしかなかった。
 コルサコフの喉から刀を引き抜いた剣吾が、ゆっくりと振り返った。
 自分の中の何かが変わったことを、完全に変わってしまったことを実感しながら。
 サウジでの事件、いや、実験以来、身に危険が迫る度に浮かんでいた指令が浮かばなくなっていた。ヤースミーンを助けられずに終わった自分、化物呼ばわりされた自分に絶望し、投げやりになっていたせいもあるだろう。それは意識していた。それで構わなかった。警告でも指令でも、浮かばなければ浮かばないで、敵の銃弾に当たって死ぬだけだ、そう思っていた。剣吾は自分の生き死ににすら、関心が持てなくなりつつあった。
 しかしそれでも身体は動いた。警告も指令も浮かびもしないのに、浮かんだ時同様に動けた。あの白金色の髪の男――ヨハンソンと戦った時など特にそうだった。この戦いの中、無意識に、半ば勝手に敵を倒し、死体を量産し続ける自分が、ただの殺戮機械と化していくような気がしていた。ヤースミーンの言った、本物の化物に。
 だが、少女の目を、助けてと呟いた唇を見た瞬間に、身体が勝手に動いたのには、我ながら驚いていた。僕は自分を護るためではなく、他人を救うために力を発揮した…。
 少女の姿に、剣吾は見たのだ。冷たい海の中に消えていく布由美と、神経ガスに身悶えながら死んでいったヤースミーンの姿とを。そしてその2人を助けられず、途方に暮れるだけの自分の姿を。
 剣吾には少女が、2人の代わりに彼に遣わされた何かに思えた。2人を救えなかった自分に誰かが与えてくれた、最後のチャンスだと。決意を固めるまでもなかった。その時間もなかった。見られても構わない。化物呼ばわりされてもいい。僕が本物の化物であることは事実なのだ。今度こそ、そう…、
 今度こそ死なせない。
 文字にならない指令は、その瞬間、剣吾の全身を駆け巡っていた。
 自分ではなく、他人を護るための指令。少女を僕に引き会わせた誰かが、僕にこの子を護らせた。そうだとしか思えなかった。この少女を護ろうとした僕は化物ではない。
 彼女を護ろうとしている間は、少なくとも殺戮機械などではない…、今この瞬間だけはそう思えた。
 そう思うことが出来た…。
 …最後の銃撃戦となったが、デュカキス・ビルの表でもクール・ド・ロアンでもパニックは起こらなかった。GIGNが市警とともに、野次馬を遠ざけたためだ。
 だが、瓜生も相馬も、外の変化になど気づきもしなかった。瓜生が呟いた。「若林の言う通りだぜ。こいつなら藤堂ともやり合えそうだ」
 だろうな…、M29を構える相馬も頷いた。「コルサコフまで片づけやがった」
「それも一瞬に、な…」
 3人に向き合った剣吾は、瓜生に刀の切っ先を向けた。思わずXMを構え直した瓜生だったが、全弾を撃ち尽くした弾倉を交換していなかった。それでも虚勢だけは張っていようと決めたのか、銃口は剣吾に向け続ける。
 外を整理し終えたGIGNが、デルタ連合部隊と一緒に装甲車を引っ張ってきたらしい。デュカキス・ビルの周り中から、大光量のサーチライトが一斉に点灯された。ビルの隙間にも明かりは入り、皆が入ってきた大穴も白く照らしだされる。しかし窓のない厨房の中は暗いままだ。外からの明かりに白く浮かび上がった剣吾のシルエットが瓜生に刀を向けたまま、座り込む少女を背後に庇った。重なった2人の影は、寄り添い合っているかのように見えた。
「…もう、邪魔は入らないだろうな」
 剣吾は明瞭な日本語で、穏やかに言った。
「あんたたちに大事な話がある。今度は聞いて貰えるだろうな」
 息も荒らげず、淡々とした剣吾の話しぶりに、瓜生も相馬も困惑を隠せない。あの戦いっぷりと、品性を感じさせる今の剣吾との間に、どうしようもないギャップを感じていたのだ。若林だけが頬を笑みにほころばせていた。間違いない。
 こいつとなら。
 少女は1人、声にならない悲鳴を上げ続けていた…。

超人旋風記 (2)

超人旋風記 (2)

合衆国の秘密組織《エスメラルダ機関》の研究が、不死の超人をアメコミの世界から現実に引きずりだした。 那智剣吾――彼はアメリカにその肉体を不死身の超人兵士に、その運命を戦う者に変えられてしまった。 最初はテロ事件の解決者として、次は主要国に牙を剥く、『自我を持ったコンピューター』の破壊の使命を負う者として、彼は世界中を飛び回る。 不幸な少女マリアと出会い、彼女の庇護者とならんと決意した時、彼はエスメラルダ機関と訣別する。そして自我を持つコンピューターに作られた超人兵士若林がかけがえの無い友として、彼とともに立つ。 この物型は、生きる運命を誰かに弄ばれることに抗う剣吾の、愛と、血と、暴力と冒険の黙示録である。

  • 小説
  • 中編
  • 冒険
  • アクション
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-03-08

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著作権法内での利用のみを許可します。

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