僕の体を生かしたまま、僕は自然に返って行く
僕は案外すぐに成仏するかもしれない。
僕の人生には加害者が沢山いて、僕の人生のほとんどは被害者だった。
子どもの頃は加害者になるほど元気だった事もあるけれど、内省を繰り返し、とうとう完全なる被害者になってしまった。
選ばなければ、いつでもだれでも加害者にはなれるが、僕はもう加害者になるには臆病になりすぎた。
僕には加害者になる素質は無いのかもしれない。被害者肌、被害者気質という奴だ。
加害者になれる土壌が整ったとしても、加害者のなかに僕のスターがいない限り目指す事はないだろう。
僕は死んだら、悪霊になると思っていた。若い頃は、加害者を恨む力だけで物を動かす勢いだったが、最近、少しずつ自我と体が離れつつある。とても心地いい。
成仏したら楽なんだと思う。
恨み続ければ、自我を保った悪霊にもなれる精神力くらいはあるはずだが、楽というものはかなりいいものだ。
頑張り続けた人は成仏できない。
誰もが楽を知っている訳じゃない。が、誰もが逃避を知っている。その逃避能力で成仏もできるかもしれない。
ただ、次も全く同じ道を歩く代償がいる。
耳の音を聞く時、僕は僕も1人の誰かであることを認知する。
ひたすら聴覚に注意を注ぎ、その音を聞く。
生まれて初めての成長を繰り返して、その重複が生きることであり、〈体の成長と心の成長〉というフレーズが当たり前だと思っていた時期から、ジワジワとではなく、突如老いる方向に変わった。
老いる、これから最後まで。
昨日より今日、今日より明日の方が老いる。
ここから先はザックリと老人まで一括り、老い始めてからはまだ若いとも言える。そういう意味では、年上の方々から言われる「若い」という言葉は過去最多かもしれない。
今ならわかるけど、本当に若い人は若いとは言われないし、若い時には本人にも若さがわからない。老いを知らないのにどうして比較による概念を知ることができようか。
若い体をして、若い内にという人の本来所属している魂はもっと先にあるのかもしれない。
同じ体を持っていても、若者と老人は既に違う人間になる。
皮膚の垂れを憂うように、すでにその若者は目に見えて失われて、生きながらにして存在しない。
人の一生は写真1枚あれば充分治まる。
その姿が10代の者もいれば70代の者もいる、職種と、インパクトを持った人間との関係性による。
反復練習の数もかなり多くなってきた。妥協の数は山の如し。
今日も竹のようにしなやかに妥協を繰り返す。そしてそんな自分を責めても変わらないことも知った。
眠りにつくことも怖くなくなってきた。14歳頃から、眠りとうい不可思議な状態に安堵できなくなっていた。
プチ死。
恐怖を感じてから自然に眠たくなることが珍しくなり、今ではそれがどんな感覚か思い出すことすらできない。
入睡の時、ポルターガイストで部屋が鳴る事が多かった思春期の頃に、外的理由と内的理由で睡眠は難しいものになった。
それが、今はある程度おだやかに眠りにつけるようになった。もちろん布団の中で本を読むなどの、自分から意識を離す行為の延長線上に眠気がある訳で、眠くなったから布団に付く訳ではない。
本を読み進められなくなったら電気を消す。3年前くらいであれば、電気を消すということはある程度恐怖に打ち勝つことだった。暗闇と死が似ているのだろう。
今も已然とその感覚はある。その感覚のまま、何かを諦めたように眠る。これが僕が死に向かって歩んでいる具体的な証拠の一つ。
僕の体を生かしたまま、僕は自然に返って行く