翔太の青春(イスラエル編)

 一九八八年初夏、中東情勢は比較的安定していた。イラン・イラク戦争は停戦を迎えようとしていたし、ソ連もアフガニスタンから撤収を開始していた。三十代の主人公翔太は長らく勤めた進学予備校講師の仕事をやめ、九月からイギリスのカレッジに留学が決まった。かねてから、切望していたギリシャ、イスラエル、エジプトの古代文明を訪ねてみようと三ヶ月の旅に出ることにした。
 アテネの港から客船に乗る際、日本赤軍に間違えられ乗船拒否されそうになる。なんとか許され、イスラエルのハイファ港に到着。そこでキブツから来ていた人たちに勧誘され1ヶ月の労働体験をすることになった。二十人ほどの若者が各国からボランテイアとして来ていた。翔太は、アメリカ人のランデイと同室になった。離婚後妻子と離ればなれになり、聖地に救いを求めてやって来ていた。ゴム工場の仕事などをし、午後からはフットサル、プール、テニスなどをして楽しんだ。キブツの月に一度のバス旅行で、死海、マサダなどを訪れる。死海のほとりでキャンプ、キブツ担当者二人は機関銃を肩にさげ、若者たちはシュラフで一夜を過ごした。
ジュルサレム、ベツレヘム、テルアビブの旧跡を訪ねた後、カイロへと向かった。アスワンから大河ナイルを筏に乗り下る。
 出遭った各国の若者たちの生き生きとした姿や、経済急成長を遂げた日本の若者が、グローバルな交流を続けながら世界の一員として羽ばたいて行く姿を中東、アフリカの乾燥した大地を背景に、現在も一触即発とも言われている危険な地域の人々とその環境が描かれる。
その後湾岸戦争、2001年対米同時多発テロ勃発。米英軍のアフガン攻撃に始まり、イスラエルはパレスチナと戦争状態へと突入していくが、翔太の旅はこの地が有史以来抱えてきた宗教上の問題にも触れている。

第1章   人生論~冒険の企て

               
1988年3月、僕は東京のビルの雑踏をゆっくりと、これから起こることの興奮を必死に心の中に抑えながら歩いていた。飯田橋にあるブリテイッシュ・カウンスイルに入ると、資料室の書類の中で、むさぶる様に英文を追った。僕の名は門馬翔太、34歳独身。つい先月長らく勤めた予備校講師の職を辞し9月から、イギリスのカレッジで留学を計画していた。
 その晩、僕のアパートでは、六人の若者が酒を酌み交わし人生論を闘わせていた。
 「アダム・スミスは国富論で、産業革命後の国民の富について考え、資本家による労働階級の搾取を捉え、社会は国民一人一人に真の幸福を追求することを最も重要な目的とすべきだ、と言っていると思うんだ。」 相馬次郎は、手賀沼のうなぎの蒲焼を肴にコップをあおった。次郎は早稲田大学時代の演劇の仲間で政経学部を8年かけてやっと卒業し、出版社に勤めていたが挫折し退社、今は中高生対象の進学塾を柏市内で経営している。
 窓からは手賀沼と対岸の我孫子の街が一望でき、桜の花が夕陽にその荘厳な姿を映し出している。湖面にはボートを漕ぎ出したカップルや、湖畔で身体を密着させながら青春を謳歌する若者がちらほら照明に浮き上がって見えた。良く見ると、遠くに筑波山がシルエットを作って女体山と男体山が美しくとがっている。
 「好色一代男の生き様は、人生への諦めを悟り色恋に溺れ、次から次に女と関係し、家督や相続なんて全く興味なし、自分一代で食い潰れていく。一見恰好いいがその実、空しい。」 唐沢信は文学部卒後、婦人雑誌編集長になっていた。
 「好色一代女も、主人公の老女は、公卿の息女として生まれたけど、若くして不義密通で勘当され、ヨタカから、遊女の最高峰、大夫まで上り詰めた後、転落し女性が就くことのできるほとんどすべての職業にたずさわりながら,好色遍歴を続ける。井原西鶴の才能には感服しちゃう。でもやっぱり、厭世的な人生論だわ。」 泉薫子は、一升瓶を両手でぐるぐる回して泡立て、ラッパ飲みしてから、隣の信に手渡した。薫子も、文学部卒の元劇団員で今は大学の事務員。ちょうど三十路になったが、結婚の予定は今のところ無し。僕の元カノで、後に一緒にイスラエルでキブツ体験をすることになる。
 「フロイトは、人には無意識の意識があるってね。自我は無意識のエス(欲望)に突き上げられ、上から超自我(良心)の挟み撃ちにあってとか。おいらの欲望は正直だから、いつでも意識してるんよ。」 喜屋武温は、元劇団青い田んぼの座長で、解散後はバイトをしながら、パントマイムをイベント会場でやったりしている。
 「精神分析入門では、人は周囲の人々の賞讃を得るために、欲望を文化的活動に昇華させていると言ってるね。」 僕は、回ってきた一升瓶を隣に渡した。
 「私のゼミの浜教授は、幸福論の授業でこう言ってたわ。自分の幸せを考えても、なかなか幸福にはなれない。愛する人の幸せを願うことにこそ、本当の幸福があるって。私にはまだ解らないわ」 長塚照子は、薫子の同郷で幼なじみ、日本女子大で心理学を専攻し、今は東葛飾で高校教師をしている。
「翔太は留学先決まったの?」
 「今日、良さそうなカレッジ三校選んで、学校案内の送付依頼を郵送したところ。ロンドン郊外だよ。」
 「学費や生活費は高いの?」
 「公立の3学期生で、1学期三五〇ポンド位。8万4千円位かな。ホームステイ先も紹介していて、2食付で週1万円位。貯金は200万円あるから1年は大丈夫だよ。」
 「学校案内見てみたいわ。私も興味あるから。」
 「ケンブリッジ大学の英語検定コースで外国人向けのクラスでね。夏期休暇クラスもあるみたいだよ。」 
 「ところで翔太、9月まで半年近くあるけど、何かしないのか?」 次郎が尋ねた。
 「カレッジが決まってから、学生ビザの取得で英国大使館に2回行くし、いろいろ準備ができたら、3ヶ月ほどギリシャ、エジプトの古代文明を見てこようかな。8月後半には渡英するつもりだよ。」
 「凄い。でも費用は大丈夫?」 薫子がほろ酔い加減で尋ねた。
 「格安航空券でアテネ往復十二万円位、ゲストハウスのドミトリーで1泊平均500円位だよ。」 僕は、洋書店で購入した分厚いガイドブックを仲間に見せた。
 「タイのコサムイや、プーケット、バリ島など東南アジアを旅行したけど、西洋の若者は皆ロンリー・プラネットか、アメリカ大学出版のレッツゴーを持っていたよ。安宿や、人気のレストラン、それに、シュノーケリング、トレッキングなどの情報が詳しく載っていて日本のダイヤ社の地球の歩き方じゃ、とてもかなわないよ。」
 「本当だねえ。おいらもこないだフィリッピン、パナイ島からボラッカイ島行って来たさ。電気が無くて、ジェネレーターで発電してたけど、ロマンチックな砂浜に夕陽が沈み、椰子の葉に丸い実がついて空に映えているのを眺めていると、自然の偉大さと、人生の喜びを感じてしまったさ。沖縄と違うのは世界中から若者が集まっているとこさ。何て言うたって物価が全然違うしねえ。」 ほんのり照らす行灯風の明かりに温の生やしたての顎鬚が映っている。
 「インドは1日1米ドルで暮らせるとこだよ。ゴアのアンジュナビーチには欧米から来たヒーッピーの溜まり場があってね。日本人も何人かいたけど。今度、来月号の編集で取り上げることになったよ。」 信は、真直ぐ伸びたビートルズカットの中に、女性的な瞳を光らせていた。
 僕は、手賀沼の豊かな湖面にゆらりと光るビルの夜景を見ながら、酒をすすった。心は千年の悠久の時を遡った。つわもの達が、ここを志賀の京になぞって、大井津として多くの帆船が物資や人を乗せて浮かんでいた時。 利根川は今とは大きく流れを変え、印旛沼、手賀沼から、江戸湾へ繋がっていた。
僕の実家は木更津にあり、先祖は江戸時代には海運業をやっていたらしい。五大力船と言われる帆掛け舟で江戸に米や野菜、蒔き炭、菜種油、干鰯、麻、絹、タバコの葉などを運び、着物の反物、刃物、食器、和紙などの製品を持って帰った。門馬家は平将門の遠い縁者になるらしく、成田山新勝寺にはお参りしないことになっている。九三九年天慶二年、将門は関八州を制圧し、桓武天皇より下った王であるとして、ここ手賀沼周辺を京としたらしい。 気がつくと、もう仲間は皆帰ったようだ。僕は一人で布団の中にいた。

第2章   旅立ち~アテネへ

 留学先が決まった。ロンドンの南西約40キロ、サリー州立カレッジで、9月第3週から始まる。ホームステイ先も自転車で通える距離だった。1番町にある英国大使館に、カレッジからの証明書、パスポート、預金証明書等を提出し、1週間後、学生ビザ取得のスタンプが、パスポートに押された。
 アテネへは、エジプト航空で4月20日成田発、7月20日帰国の便を予約した。直行便は無く、バンコクで次の便に乗り換える。バックパックに着替えや洗面道具、カメラ、手帳などの必需品を詰め込み、心はもう未だ見たことの無い地中海の青い海の中にあった。
 出発当日は平日だったが、次郎と薫子が何とか都合をつけて見送りに着てくれた。母も木更津から駆けつけた。
「俺たちも5月下旬から1週間休みが取れそうだから、一緒に合流しようぜ。」 次郎と薫子も、もうその日が待ちきれないといった表情で興奮した声が震えていた。
銀行で、旅行小切手や、現地通貨ドラクマに少々換金し、旅行傷害保険にも一応加入した。
「じゃあ、行ってくるね。」 と言って、お互いハグハグして別れを惜しむと、セキューリテイ・チェック、イミグレーションを通過しボーイングに乗り込んだ。やがて飛行機は滑走路を全速力で走り、一気に浮き上がり離陸した。窓から下総台地を眺めていると、青い海と海岸線が見えてきた。九十九里海岸だ。まもなくして、雲の中に入ってしまった。機は東シナ海からベトナム、ラオス上空を経由するルートの予定だ。
気がつくと、バンコクに着いていた。時差は二時間、飛行六時間のフライトだった。空港近くの宿で一泊し、翌朝アテネ行きの便に乗り込んだ。機は、ベンガル湾、インドデカン高原、アラビア海、イラン、トルコ上空を経由の予定だ。
これからは未開拓の領域だ。わくわくしながら僕は、窓の外の景色に釘付けになっていた。不毛の山地が眼下に見えてきた。イラン高原だ。やがて、紺碧色の海の上に出た。これが地中海か。島がいくつか見えたが何かわからない。午前八時出発し、午前十時にアテネに到着した。時差は四時間、飛行時間は六時間だった。パルテノン神殿の近くに安宿を見つけた。シャワーを浴びてベッドで仮眠した。
 街には、美味しい臭いのする羊の肉ケバブが店頭に吊るされている。もともとトルコ料理で、ピタパンに挟んでトマト、キュウリと一緒に食べる。茄子とジャガイモを挽肉とチーズで焼き上げたムサカ、羊肉の炭火串焼きにしたスーブラキ、中東発祥のファラーフェルは、そら豆粉を丸く揚げ、ピタパンに野菜と一緒に挟んで食べる。ラザーニャはチーズ、挽肉、野菜をパスタで焼き上げたイタリア料理で今では誰でも知っている。ウーゾは、ギリシャのブドウ蒸留酒で40度ある。ギリシャ産テーブルワインは、ボトル百円位で売られている。ピスタチオは、ギリシャ、イラン、トルコで栽培されているらしい。
 ギリシャ人のように、ケバブを紙にくるんで食べ歩きしながら、土産物屋が集まっているところから、丸く回るようにアクロポリスの丘の坂道を登って行った。いよいよ憧れのパルテノン神殿が目の前に現れた。標高80メートル、ごつごつとした大きな岩山の頂上は広く平らだ。紀元前四四〇年頃に十年かけて建設された。一七世紀に、オスマントルコと、ベネチアの戦いの際に爆破され、かなりが破壊された。紺碧の空に浮かぶ遺跡は、悠久の時の流れを感じさせる。下を見おろすと北側に古代の街の中心アゴラがあり、緑の木々の中に、裁判所、市役所、市場、劇場などが残されている。南は海の方向で5キロ先まで、市街地になっている。東にはイミトス山、北にはパルニス山、更に遠く西にはペロポネソス半島の二千メートル級の山々が美しくそびえ立ち、私たちを覗いているかのようだった。僕は、岩の上に横になり、夕日が西に沈むまで神殿を見続けていた。
丘を降りるとライトアップされた神殿が夜空に浮かび上がっていて、再び感動。宿に戻ると、ドイツ人の若者とスエーデン人女性が同室で、やはり今日到着し神殿に行って来て、明日はエーゲ海に浮かぶ島巡りの日帰りクルーズに参加するらしい。ポスターが受付に貼ってあったので、僕も行くことにした。近くのタベルナ(レストラン)で、3人で食事をした。
テーブルは屋外に出ていて、神殿がすぐ上に見える。マックスは、ブレーメンの高校教師で、二ヶ月の休暇をとってきた。アネットはストックホルムの大学の職員で、イスラエルのキブツで3ヶ月間ボランテイア労働することになっていた。 
 「西ドイツでは、一八歳で二年間兵役か、社会奉仕に従事しなければならないんだ。僕は、主に市内の老人介護施設で奉仕したよ。戦争は皆もうこりごりだからね。ドイツには、歴史は無い。」マックスが、めがねと髭の顔にワイングラスをあてて、つぶやいた。神聖ロ
ーマ帝国、ドイツ帝国の後を継ぐ第三帝国だと、ヒットラーが誇ったゲルマン民族の華々しい歴史は、無残にも、残虐に、ユダヤ人や他民族の殺戮へと進み、連合国による反抗で完全に敗北し、街や建物はもちろん、人々の心も誇りも粉々に崩れ去ったのだ。
 「私は、親戚がイスラエルに住んでいて、キブツの中で、生活体験することになっているの。仕事は三ヶ月間休暇をとったわ。」
アネットは、ユダヤ人なのか? 髪は美しいブロンド、瞳はブルー、肌は白く典型的な北欧人だ。身体は大柄で、太ってはいないが、胸や腰は豊かだ。髪は、ポニーテールに縛っている。年はまだ二〇代中ごろか。
 「これがギリシャ名物ウーゾか。ちょっと飲めないな。」 水で薄めると白く濁った。小さなリキュールグラスをすすりながら、僕が言うと、二人も頷いた。
僕の身の上についても語る機会があったので、3人とも打ち解けて宿に帰り、ドミトリーのベッドで熟睡した。
 翌朝六時、地下鉄(メトロ)でピレウス港へ。エギナ島、ポロス島、イドラ島のサロニカ3島の日帰りクルーズ船が、定員500人の大きな体で我々を待っていた。僕は海に来ると身体が自然に反応して興奮してしまう。先祖が船乗りだったせいか。
エギナ島へは約2時間で到着した。古代ポリス、エギナはアテネよりも繁栄していた。ギリシャ最初の通貨が製造され、中央の丘にあるアフェア神殿はパルテノン神殿よりも50年先に建造された。僕たちは、レンタル・バイクで島内を1周した。
 ポロス島は、小さな島で400メートル先対岸はペロポネソス半島のガラタスという町だ。斜面に白壁とオレンジの家々が美しい。
 イドラ島は、東西に細長い島で大半が丘陵地帯、人が住んでいるのは港のある街だけのようだ。芸術家や、船舶大富豪の邸宅があるらしい。自動車は1台も無く、徒歩か、ロバが交通手段だ。 帰路の船内では、ギリシャの民族衣装を着た男女数人が、動きの激しい楽しそうな民族舞踊を披露していた。
 翌日僕は、イスラエルのハイファ行き定期船のチケットを購入した。毎週木曜日、ピレウス発、ロードス島、キプロス島経由でハイファ港まで3泊4日だ。シルバー・パロマ号は約一万トン、一四〇〇人と、車二四〇台収容のフェリーだ。2等客室で一万二千ドラクマ、約一万円。出発は明後日の夜7時だ。
 宿に帰ってロビーでガイドブックを読んでいると、マックスが市内観光から戻ってきた。
 「どこへ行って来たの。」
 「博物館と、プラカのマーケットを探索しただけだよ。君は。」
 「僕は、ハイファ行きの乗船券を買ってきたよ。君も行かないかい。」
 「遠慮するよ。明日、クレタ島に行って暫く観光したら、トルコへ渡る予定さ。」
 彼はドイツ人として、イスラエルに行くのはちょっと抵抗があるのか、と僕は思った。昨夜彼と話していて知ったのは、7年程前、彼はベルリンの壁を命がけで乗り越えて東側から逃げて来たことだ。彼は、東ベルリンで教師をしながら、反政府的な自由化運動組織の一員として、地下活動をしていた。しかし仲間の一人が当局に逮捕され、押収物のメモに一連の名簿が発見され、次々に仲間が事情聴取や、拷問にあっていくのを見て、越境を企てた。一緒に逃げようとした仲間の何人かは射殺され、数人だけがかろうじて逃げのびたらしい。彼は三六歳独身、両親兄弟は東側で生活している。ベルリンの壁崩壊まであと二年。この時は、世界中まだ誰一人、知る人はいなかった。

第3章  イスラエル乗船拒否

 午後三時から、乗船が開始された。フェリーの後部中央から自動車が何台か入っていった。右と左に2列に多くのバックパッカーが列を作った。イスラエルの警察官が、一人一人パスポートをチェックしている。30分ほどして、僕の番になった。アネットは先に船内に入って行った。
 まだ二十代後半に見えるスタイルのいい女性警官が、僕のパスポートと乗船券をチェックした。
 「渡航目的は何ですか?」
 「キブツでボランテイア労働しようと思っています。」
 「誰か、知合いはいるの?」
 「う~、います。」
 「それは、誰ですか。」
 「う~、名前は解りません。旅先で知合った人です。」
 「お金は、いくら持っているの?」
 「現金は、これだけです。旅行小切手はこれだけです。あとは、銀行でカードで引出すつもりです。」
 僕は、他の若者には聞かなかったことを、聞いてくるので焦った。『何故だ、何故こんなことを聞いてくるんだ???』
 女性警官は、迷っていた。何故なら、日本人が一人でこんな船に乗ってイスラエルに来るなんて、今まであり得ない。有るとしたら日本赤軍だけだ。
1972年5月8日、テルアビブ空港で、三人の日本の若者が銃と手榴弾で無差別乱射し、二六人が死亡、七三人が負傷した。僕は、政治とか社会問題にはあまり興味がなかったので、あさま山荘事件くらいしか知らなかった。あとで知ったが、岡本公三は、逮捕され十年服役した後、釈放されチュニスのパレスチナ解放戦線本部にいるとのこと。奥平と、安田は、銃撃戦でその場で射殺された。
 「ダメです。あなたは乗船できません。」
 女性警官が、赤い日本のパスポートと乗船券をつき返した。
 僕は、『何でだ?何でだ?何てことだ?こんなことが有っていいのか?』と自問した。
 「あなた達イスラエルの若者は、私たちの国、私の町に来て自由に旅行している。絵画や、アクセサリーを売ってお金を作って、旅行している。なのに何故、何故、僕があなたたちの国へ入ってはいけないと言うのか?」
僕は緊張していた心を吐き出すように、興奮して一気にしゃべった。
 女性警官は、僕のその顔を見て『真実が見えた。』と感じたのか、安心したように言った。
 「銀行のクレジットカードを、もう一度見せてください。」
 僕は、アテネの銀行で引き出した、レシートと一緒にカードを出した。
 「あ~、これは、あなたのカードですね。これが引出したレシートですね。解りました。乗船してください。」
 ずいぶん長く感じた。30分くらいか?20分か?焦った、焦った。あとになってわかったが、僕は日本出発以来、ムスタージ(口ひげ)を剃らずに伸ばしていた。中東では、男性はほとんどが口ひげをはやしている。無いのは、ゲイだとみなされるらしい。それで、口ひげのある日本人は日本赤軍ではないか、と連想されてしまい易いということだ。また僕が最初のキブツへの個人参加者だったらしい。
 船は、4階建てになっているようだ。2等客室は座席が百ほどあったが、外のデッキでシュラフに座り込んで、エーゲ海の潮風を吸い込み、遠くに島々を眺め、若者たちが語り合っていた。
 アネットは、僕の警官とのやり取りは知らなかったし、僕も語らなかった。彼女は、物静かな性格で、バックパックを背もたれにして推理小説を読んでいた。
まもなく汽笛が鳴り、シルバー・パロマ号はピレウスを出航した。ギリシャではサマータイムを採用しているため、4月でも夜九時くらいまで明るい。

 第4章  エーゲ海の船旅

  
 翌朝、船はエーゲ海のドデカネス諸島付近を航行していた。ロードス島到着は午後1時の予定だ。日が昇り青空とやさしい潮風に包まれて、若者たちは開放的になっていた。陽気な若者がギターで歌を歌っていた。サイモンとガーファンクル、ジョンデンバーなどアメリカ系がほとんどだ。彼は、オランダ人のテオという名で、やはりキブツに参加予定だった。
 ロードス島が見えてきた。白い家々は、太陽の光を反射し輝いている。大きな城が丘の上に要塞のように聳えている。2時間ほど街を探索した。紀元前からの町並みは、今では世界遺産になっている。砂浜には大勢の海水浴客が、サンベッドにもたれて日光浴をしていた。
 午後三時、船はキプロス島へ向かった。船内では、ギリシャ舞踊が、民族衣装と賑やかな音楽で盛り上がっていた。ギリシャ人は陽気で音楽と踊りが好きだ。
 アネットと紅茶をケーキで味わっていると隣の席の若者が話しかけてきた。
 「君も、キブツへ行くの?」
 「僕は、予約も何もしていないので、参加できるか解らないけど、体験したいなと思ってるよ。」
 「普通、キブツは3ヶ月以上からだけど、働き手が欲しいキブツは1ヶ月でもいい、というところもあるみたいだよ。僕はラマト・ハコベッシュというヨルダン川西岸の比較的新しいキブツに参加予定さ。」 
 彼の名はフィル・クレイン。イギリス中部のリバプールから船で百キロほど北東に浮かぶマン島の出身だった。
 「イスラエル国内に約二百五十ほどのキブツがあって、世界大戦後建国した母国に、世界中から集まって来たユダヤ人たちが共同で生活しているんだ。まず、水の確保のため、井戸を掘る。乾燥した土地だから、農業や飲料水のため絶対の必需品なんだ。一つのキブツには五百人から七百人がいるようだね。」
 フィルは、クリスチャンで英国国教会に日曜日に礼拝に行く。また、木曜日には、近所の仲間たちの家で、勉強会を開いて、ギターで賛美しているらしい。イギリスでは約3割の人が毎週礼拝に行くらしい。その他の人たちはクリスマスや、イースター、冠婚葬祭の時しか礼拝に参加しないそうだ。
 船はエーゲ海を抜け、地中海をキプロス島リマソルへ向かっていた。翌日の午後二時、島の南部の都市リマソルに到着した。やはり地中海の街は美しい。白壁が紺碧の海と太陽に輝いている。キプロスは、聖人パウロが布教に立ち寄ったり、十字軍の基地になったり、オスマントルコや、イギリスの支配下にあったが、大戦後独立した。しかし、1974年、トルコが北部住民の保護と称し侵攻し、現在南北2つの共和国に分かれている。日本の四国の半分くらいの大きさで、山が多い。
 午後八時、いよいよ船は最終目的地、イスラエル北部の港、ハイファへ向かった。

第5章 キブツの生活

 
 翌朝七時、いよいよイスラエル入国だ。僕は、また入国審査が厳しいのではと怯えていたが、案外簡単にパスした。ハイファは貿易港らしく、クレーンやコンテナがあちこちにあった。自動車も次々にフェリーから出て行った。
今日は日曜日だが、ユダヤ教の安息日は、土曜日らしい。イスラム教は金曜日と、唯一信の三教は、日をずらしている。もともとは同じ神エホバ(ヤーウェとも訳される)
または、アッラーをただ一人の神とする。また、アブラハムを始祖とするのは同じだ。ほぼ兄弟同然なのだ。これは、後で知ったことだが。
 イミグレーションを終え、建物から出ると人々が家族や友人、お客を迎えに来ていた。
アネットの叔母さんと従兄弟が迎えに来ていた。
 「機会があったらまた会おうね。」 と言って、ハグしながら別れを惜しんだ。
フィルが、がっちりした体格の男性と一緒にやって来た。
 「1ヶ月でもいいよ。うちに来ないか。週5日、8時から4時まで、宿泊施設と三食付で毎月観光のバス旅行があるよ。給料も月四十シェケル払うよ。」 一シェケル四十円として一万六千円ぐらいだ。
フィルと一緒に、ワゴン車に乗り込んだ。他に4人の若者が参加することになった。その中には、あのギターを持ったオランダ人テオもいた。
 「やあ皆、よく来たな。俺はモシェ、ラマト・ハコベッシュでキブツのボランテイア担当している。よろしくな。何かあったら遠慮無く言ってくれ。」
 南東へ約70キロ、一時間ほどでキブツへ到着した。敷地内には、約三百軒、七百人が生活している。中央に集会場と食堂がある。体育館、プール、テニスコート、住宅は皆、平屋で質素な生活をしている。老人から子供までほとんどの世代がいるが、二〇代~三十代は少ない。多分、独立して都市で生活していたり、海外に出ていたりしているのだろうか。10分ほど歩くとラマト・ハコベッシュの街があり、小学校や、中学校がある。高校は、テル・アビブまでバスで30分ほど通学するらしい。
 ボランテイアの宿泊所は2棟あり、十部屋で、二つずつベッドがあった。僕は、アメリカ人と相部屋になった。
 「やあ、俺はランデイ、ロス・アンジェルスから1ヶ月前にここに来た。よろしく。」  
 彼は、どうやらちょっと変わり者で、他の若者とうまくいっていなかったらしく、アジア人の僕がやってきて、彼も他の人も丁度よかったという風だった。
 彼は、ベッドに横になって必死に聖書を読んでいた。
 ランデイは、妻と子供とうまくいかずに、離婚し悲嘆と孤独の中、救いを求めて、聖地にやって来た。
「聖地に近づけば、きっと救いが現れると思っている。ヨブの話を知っているかい。かれはサタンに試されて、全ての財産や、大切な妻子を次々に失う、また皮膚病にかかり、絶望の淵に落とされる。しかし、神への信仰は捨てなかった。」
 「僕は、中学の頃から、聖書には興味があったけど、創世記や、マタイ伝くらいしか知らないんだ。」
 翌朝から、ゴム工場での労働が始まった。機械を操作して、小さなゴムを切取る。アメリカへ輸出して、婦人のムダ毛取りの機械の先に付けるらしい。鶏の羽むしりの機械に付ける物もあるらしい。この工場は経営がうまくいっているらしく、キブツ全体が潤っているようだ。午後は大概2時間で終了し、プールで泳いだり、フットサルを体育館でやったり、テニスをしたり楽しむことができた。
チェスもよくやった。だんだん僕も強くなって、時には勝てるようになった。ある時、集会場で村人とやっていると、初老の男性がニヤニヤして言った。
 「ジャパニーズは頭がいいから、気をつけたほうがいいぞ。」 彼はユーフダという名で日本人にイギリスで会ったことがあるらしい。
 僕は誉められたと思って悪い気はしなかった。何せ、村人は殆んど始めて日本人を見るらしい。
 「君の国の国歌を歌ってくれ。」
 「僕は、あまり好きじゃないから、普段は歌わないんだ。」 と言って断ったことが度々あった。毎年、日本のキリスト教団体が、若者をキブツに送っているらしい。十人づつ3箇所に分けて3ヶ月生活する。ところが、他の若者たちは十人も固まっている団体を嫌がっていつの間にか、他のキブツへ移って行ってしまうらしい。
キブツではその他、庭仕事や、鶏小屋で卵取りの仕事、キッチンで人参や、ジャガイモ剥きの仕事などもやった。
 3日間の特別休暇が与えられていた。僕はジェルサレムへ行くことにした。フィルも一緒だ。街のバスターミナルから約六十キロ、一時間半ほどで聖地に到着した。
 ゴルゴダの丘と呼ばれる場所に大きな教会が立っている。ここは、イエスが磔にあったところだ。ローマカトリック教会、ギリシャ正教、アルメニア正教が共同で運営しているらしい。香の薫りが大きな建物いっぱいに広がっている。
イエスが、十字架を背負わされ処刑場まで歩いたといわれる道をたどった。狭い石段が街の中を抜けている。
 フィルも初めてだったが、いろいろ詳しく知っていて、教えてくれた。
 オリーブ山から市内を一望した。金色の岩のドームは、アブラハムが、神の命に従い一人息子イサクを生贄にしようとした場所。ダビデの城跡、嘆きの壁には、いつも丸く黒い帽子をかぶったユダヤ人たちが泣くようにお祈りを捧げている。
 ジェルサレムの旧市街ダビデの街にある安宿に2泊した。店でポケットサイズの聖書を買った。
 翌週末は、キブツのバスで死海方面へのツアーがあった。皆、嬉しそうにはしゃいでいた。フィルは、誰に対しても親切で面倒見がよかった。イギリス領グアーンジーからやって来たサイモンは陽気で人気者だった。ジョークが好きで、女子に人気があった。スイスからアグネスと、グートラム、アメリカからリサとアブリルがいた。テオはギターをいつも離さなかったし、マンチェスター出身のジョンとマンデイはカップルだった。
 ジェリコの砦は、岩山の上にあり、イスラエルの民がエジプトを脱出した後、荒野を四十年彷徨い、モーセの後を継いでリーダーになったヨシュアのもと、約束の地カナンへ乗り込む際、偵察隊を送ったところだ。
 マサダ遺跡は、紀元後七十年ころ、ローマ軍によってイスラエルが滅亡した最後の場所で、地下には大きな水槽が作られていたり、出入り口がトンネルになっていたり、難攻不落の砦だったが篭城戦の末、食料が底をつき絶望して大勢が自刃し、全滅した。
以後、イスラエルの民は、1948年まで世界中を流浪することになった場所だ。ローマ軍が陣取っていたキャンプが下に見えて、二千年近く前の出来事が目に浮かんできた。
 死海の対岸はヨルダン領で、ほとんど何もない岩山だ。トラックが走っているのが見えた。塩が濃いため、浮かんで新聞を読むこともできる。30分以上は肌によくない。泥を肌に塗って入る。
 死海を眼前にする荒野でキャンプすることになった。木を集めてきて火をたいて暖を取りスープを食べた。ワインを飲んで、歌を歌ったりして、シュラフで寝た。モシェともう一人が、肩に機関銃を背負っていた。
 薫子と、次郎がテルアビブ空港へ到着するので迎えに行った。部屋が空いていたので、特別に5日間滞在許可された。薫子は、キッチン、次郎は庭仕事が与えられた。
その後二人は、ジュルサレム、ベツレヘムを観光して、帰国した。
一ヶ月のキブツでの体験を終え、エジプトに行くことにした。フィルの友達で、サリー州サービトンという町から来たリズも同行することになった。テルアビブのエジプト領事館でビザを取った。ターミナルからバスに乗り込み、カイロまで陸路国境を越える。途中スエズ運河を渡った。
 こうして、僕のイスラエルでの青春はエジプトへと続く。この後、アスワン、アブシンベル神殿、ナイル川筏の舟下り、ルクソールの王家の谷、シナイ半島の紅海に面したベドウィンの村などを訪れ、約四週間のエジプト観光を終え、カイロから空路アテネへ飛んだ。リズとは、9月に再会を約束し空港で別れ、予定通り七月二十日に帰国した。

翔太の青春(イスラエル編)

最近、ヨルダン川西岸地区にキリスト教団体の有志が、不法に占拠した住宅の退去を求めて、イスラエル側に抗議に来ているとの連絡メールがあった。イギリスにあるクリスチャン・エイドという団体に属する彼は、千葉県市原市の教会の日本人牧師と出会ったと伝えてくれた。私の家から遠くないところだったので、地球の狭さを皆あらためて実感した。一週間ほどの滞在だったらしいが、どんな人か近いうちに訪ねてみようと思っています。
エジプト編、イギリス編、インドネシア編、インド編、タイ・マレーシア編、オーストラリア編も制作中です。

翔太の青春(イスラエル編)

80年代後半、今では消えてしまったキブツでの生活体験などを通して世界に羽ばたく日本の若者の青春物語

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 冒険
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-03-07

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  1. 第1章   人生論~冒険の企て
  2. 第2章   旅立ち~アテネへ
  3. 第3章  イスラエル乗船拒否
  4.  第4章  エーゲ海の船旅
  5. 第5章 キブツの生活