応都物語

プロローグ

暗闇…

あの音はなんだろう。
ザザーーン…… ドドドォーーン…
目を、開ける。
真っ青な空。真っ白な雲。目の前一面に広がる大きな波、小さな波、波、波、波…
ザザァーン…耳に心地よく、ドドォーン…身体の奥に響いてくる。
ツンと鼻につく匂いが懐かしい。
誰かに手を引かれて歩いている。サク、サク、サク、砂が裸足に心地いい。
アォウ!アォウ!アォウ!声に驚いて上を見上げる。
遠くに何かとても大きな存在を感じる。
誰かに教えてあげなくちゃ…誰に?
ゆらりと身体が揺れる。

瞬きと共に、景色が変わる。

薄暗い森の中に立っている。
暗闇の中に大きな樹が見える。
幹は途方もなく高く、天まで届きそうなほどの大樹。
太い根は地面に張り出し盛り上がっている。
大樹の太い幹にもたれて座り、心地よい安心感に浸る。
ただこうすれば良かったのだ。
なにも心配することはない。

誰かが座っている。
そうだ、私はここを知っている。
この樹を知っている。
あのひとの事も知っている。

そしていつも、
駆け出すと夢が醒めることも知っている。

第一章 オノカとザティ

むかしむかし、ではないかもしれない。
はるか先の未来、でもないかもしれない。

そんなところに「応都」の世界は存在していた。


応都は広大なひとつの国家であり、大小さまざまな無数の浮遊島から成り立っている。
国の境は未だはっきりせず、船を操る勇敢な人々が数えきれないほどの冒険を繰り広げて来た。

応都の西のはずれにロイテ島という小さな島があった。
ロイテ島は美しい島だった。小さな島ながら緑豊かな草原が広がり、深い森に覆われた山々から伝う豊富な流れが織りなす大小の滝で潤っている。
島民は1000人足らずだが航海中の船の修理や補給所として賑わっている。人々は修理工や農業、酪農を生業としていた。
この小さな島のはずれの小さな家に、オノカとザティという姉妹が祖母と暮らしていた。

正確には一体のアンドロイドと一匹の犬も一緒だった。

オノカとザティには祖母に育てられてきた記憶しかなかった。
ロイテ島は小さな島であり家々とはみな親しい知り合いだった。島に幼い子供はオノカとザティの他にはいなかったため、二人に村人たちは深い愛情を寄せて共に育ててきたのだった。

二人が成長するとともに祖母は病気がちになった。
今ではほとんど言葉が口からでてこなくなり、ベッドで過ごすことが多かった。

姉のオノカは物を作り出すことが得意だった。
母屋の隣にある「工房」と呼んでいる小屋にいつも籠ってなにかしら作っていたり、家の修理をしたり、島中を探索したりしていた。
妹のザティは家事を取り仕切ることが好きだった。
家を整え、日々の料理をし、家畜の世話をし、畑で野菜や果物を作ることに喜びを覚えた。
それで日々の暮らしはうまい具合に回っていた。


今日もザティはいつものように日の出前から起きて畑へ出ていた。
野菜や果物がたわわに実っている畑はザティの誇りだった。
ふと目を上げると島を囲む雲がオレンジ色に染まっている。夜明けだ。
ロイテ島の朝は美しかった。太陽が昇り始めると光に照らされて雲が輝き出す。島中が銀色の光に包まれる瞬間がザティは好きだった。

朝日がザティのすらりとした姿を照らした。茶色い長い髪は編み込んでひとつにまとめていた。髪と同じ色の瞳は長い睫毛に囲まれ輝いている。薔薇色の唇はいつも大胆な笑いに溢れていた。ザティはごく美しい10代の少女だった。

ワウ!ワウ!
白い大きな犬が畑にやってきた。
「ビエリ!いいところにきてくれたのね。」
ビエリという名の大きな犬は物心ついたときから側にいる。オノカとザティに忠実につかえる頼もしい存在だった。今日はいつもより収穫した野菜と果物が多いのでどうしようかと思っていたところだった。ビエリはいつもザティが困っている事を察したかのように来てくれる。
ザティはビエリの大きな背中を借りて荷物を支えながら家に向かった。

家の前に来るとアンドロイドが庭を掃いていた。
「カミュ、その調子よ。庭を掃くのは上手じゃない。」
カミュという名のアンドロイドは姉のオノカがガラクタから作り出した傑作だった。
寄せ集めの材料から作ったので見た目はいわゆる旧型のアンドロイドだ。
ロイテ島にやってくる大型船には最新のアンドロイドも乗せられてくることがあったがカミュの見た目はそれとは全く違っていた。
もともとは家事が苦手なオノカが自分の代わりにさせようと作ったのだが、なぜか家事をさせると何かしら惨事をひきおこしてしまう。何度プログラミングしなおしてもうまくいかなかった。アンドロイドってそんなものなのかしら?とザティは思った。もっと万能で便利なものかと思っていたのに。
家事をこなすのが好きなザティはカミュに頼む事はなかった。カミュは家事より調べ物に役に立った。今日の天気や島に向かっている船のことなど、聞くとすぐに答えが返ってくるのは便利だった。

朝食ができてもオノカは起きてこなかった。今日はオノカも港に行くと言っていたのに。
「カミュ、オノカを起こして来てよ。」ザティは祖母を食卓につかせながら言った。
「今起こしてもオノカは95%起きません。」
カミュの情報はいつもなかなか正確だったのでザティはあきらめた。
ザティは港で働いていた。港ではザイショウという男が直し屋と謳って小さな物から船のエンジンまでの修理を稼業としていたがその妻のトゥクタンが営んでいる雑貨店と食堂をザティは手伝っており、いまではなくてはならない存在となっていた。今日は大型船が港に着くことをカミュから聞いていた。忙しくなりそうだと思うと自然と笑みが浮かぶ。
しっかり者のザティは稼ぐのが好きだった。船員の荒くれ男達の扱いには慣れていた。彼らはザティが笑いかけると気前よくお金を使う。

食事が終わるとザティは体調の良さそうな祖母をビエリに任せ、いつも通り子馬に荷物を乗せて出かける事にした。
「おばあちゃん、行ってくるね。」
ザティが声をかけると祖母は首の所を指差した。
「大丈夫、お守りはちゃんと持ってるわ。」
ザティは首にかけてあるペンダントを握りしめてみせた。
「じゃあ、行くわ。オノカを起こしてね!」
カミュに声をかけ、荷物を乗せた子馬の手綱を引くと軽やかな足取りでザティは出かけて行った。

やがて日もだいぶ高くなった。
母屋のすぐ隣に古ぼけた「工房」が建っている。姉のオノカはたいていここにいてなにかしらの作業に夢中になっていた。夜通し作業することもよくあることで、そんなときは工房の片隅にしつらえた小さな寝床で眠るのだった。
今朝もオノカは工房の寝床でまだぐっすり眠っていた。
「オノカ!いい加減起きたらどうですか!」
とうとうカミュがオノカを起こしにやってきた。
「アダマ船長の船はもう港に入ってますよ。気流の関係からみると今日の午後には出発するでしょうね。」
アダマ船長の船と聞くとオノカは飛び起きた。肩まで届くか届かないかの髪の毛はあちこちに飛び跳ねていた。
慌てて出かける支度をするオノカの後ろをカミュが一緒に連れて行けとつきまとう。
「あんたにはおばあちゃんの世話をしてもらいたいのに」
「私のプログラミングは家事に向いてないといつも言ってるじゃないですか。それに、アダマ船長の船が来てるならいい部品が手に入るかもしれません。」
うーん、とオノカは唸った。部品、と聞いて考え直す。正直、カミュの部品は欲しい。
家畜の番と祖母の世話はビエリに頼んだ方がよっぽど確実だった。
オノカは工房の真ん中に置いてある小さな舟に目をやった。寝過ごしたのは遅くまでこの舟にとりかかっていたからだった。ガラクタの山から発掘した浮遊材に小型のエンジンをつけ、帆で舵をとる小さな舟。試作品なので一人乗りなのだがカミュがうるさいので無理矢理乗せて行くしかない。港までならなんとかもつだろう。

「おばあちゃん、行ってくるね。」
オノカは家の中をのぞきこみビエリの頭を撫でながら祖母に声をかけた。
祖母は首の所を指差した。
「大丈夫、お守りはちゃんと持ってるよ。」
オノカは首にかけているペンダントを握りしめてみせた。
「ビエリ、あとはお願いね!」
ワウ!ワウ!ビエリが頼もしく返事をし尻尾を振ってオノカを見送った。

オノカは青い空に目を細めた。
「うん、絶好の試運転日和!」
カミュに手伝わせ工房から舟を引っ張り出す。
地面から浮いている舟にカミュを乗せ、オノカは押して駆ける。そのままエンジンをかけ飛び乗って帆をつかんだと同時に舟は丘の上から飛び立ち風に乗った。
オノカたちが暮らす小さな母屋と工房がゆっくり下へ遠ざかって行く。
舟は危なげに空中を上がったり、下がったりを繰り返していたが、そのうち突然回転しながら急降下した。
「まずい!」
オノカの目の先には一軒の農家があった。ぶつかるまいと必死で舵をとる。間一髪で家の横をすりぬけ、はためく洗濯物の中をつっきり、そのまま畑へ向かい藁をちりじりに散らしてしまった。
しかしそのあとは舵をうまく操作できるようになった。オノカは試しにゆっくり農家の周りを飛んでみた。驚いた住民が窓から顔を出す。畑にいた農夫もあっけにとられた顔でこっちをみている。
「サンドゥおじさーん、おばさーん、ごめんなさーい!」
「おや、オノカかい、あとでジャムを取りにおいでー」
二人に大きく手をふるとオノカはどんどん舟を上昇させた。
「やれやれ、オノカはいくつ命があっても足りんなぁ。」あきれたようにつぶやきながらも農夫は愛情を込めた目でオノカの姿を追った。

オノカは島を離れ雲の海へ舟を向けた。だいぶ扱いにも慣れてきた。このまま島の外周を回ってから港に向かうことにした。
「浮遊材ってやっぱり難しいのね」
オノカは舟の床を踏み鳴らしながら言った。
「もとが何の部品だったかわからないですからね。」
「ガラクタの中からでてきたんだもの、しょうがないわよ。それでもあんたを乗せている割にはよく飛んでるわ…」
ひゅうっ!とオノカは口笛を鳴らした。雲間からいきなり見馴れた古い大型船が視界に入ってきた。
「あいかわらずデカくてボロいね!」
船の周りを一周して港に入ろうとするとなにやら喧騒が聞こえてきた。
「ぷっ、ザイショウとアダマ船長、またやりあってる。」
オノカとカミュは船の陰に隠れて港の様子を覗き込んだ。
二人の大男が睨みあっている周りを男達がかこみ面白がってはやし立てていた。
「けっ!てめえの船がオンボロすぎるんだよ!これ以上治せるところなんざぁねえや!この直し屋ザイショウが保証するぜ!」
ザイショウは背の高いがっしりとした中年の男だった。直し屋ザイショウの名は船乗り達の間では知れ渡っていた。エンジンに関してはひろく応都をさがしてもザイショウの工房の右に出る者はいないと言われていた。そのためロイテ島を取り囲む危険な気流を乗り越えてまでもやって来る船は少なくなかった。つまりはいいエンジンを持った大型船しかロイテ島には辿り着けないということになるのだが。
「へっ、負け惜しみかよ!直し屋ザイショウも腕が落ちたな!あのオノカとかいう小娘の方がまだマシじゃねえか!」
負けじとザイショウに怒鳴り返す男は港に停泊中の大型船の船長でアダマ船長と呼ばれていた。大型船の船長の中でも悪名高い男でオノカは好きではなかったがザイショウはいつも俺はあの船とエンジンに惚れてるんだと言うのだった。

二人のやりとりを耳にしてオノカはくすりと笑った。
「行くよ、カミュ!」
オノカは再び舟を操ると風の流れに乗って一気に大型船の後方ハッチから乗り入れた。船内には人の気配がしない。みんなトゥクタンの店で飲んだくれているのだ。慣れた足取りで船の下方へ続く階段を降りて行くオノカにカミュが続く。下まで降りるとあたりは蒸気やら煤混じりの黒煙やらで視界が悪い。オノカはむせ込みながらエンジンルームへ進んだ。
入り口の工具の山の辺りに一人の少年が座って居眠りをしている。オノカはこつんと少年の頭を小突いて声をかけた。「ドゥビ!」
呼ばれた少年ははっと目を見開いた。「オノカ!カミュ!」
「コウ爺は?」
「あっち。手こずってるよ。今回はかなり悪いな…。境界の乱気流越えられないかと思ったよ。ここについてからコウ爺はずっとかかりっきりでさ…。
気流の流れが変わるから午後には出港できないとまずいんだ。」

ドゥビはこの船のエンジン工見習いで、悪名高いアダマ船長と気性の荒い船員達に囲まれて暮らしているにもかかわらず純朴な少年だった。
「相変わらず元気そうだね、オノカ。そうだ、またカミュにつかえそうな部品持ってきたよ。」
「果ての捨て場に行ったの?いつかあたしも行ってみたいなあ。」
「あっはは!あんなところ、行くもんじゃないよ。俺はコウ爺とじゃなければ絶対に行きたくないね。」そう言いながらドゥビは工具の山をかきわけて箱を探し出した。中にはなにやらごちゃごちゃとした機械類が入っている。一見ガラクタだがカミュはさっそく身を乗り出して吟味しはじめた。
「あんた自分で探しててよ。」
グローブをつけながらカミュに告げるとオノカは小さな台車に仰向けになりエンジンの下へ潜っていった。

エンジンの奥で作業している老人の横にピタリとオノカがついた。
「おう、来たか。」煤だらけの気難しい表情がたちまちゆるんだ。
「コウ爺!久しぶり!」嬉しそうにオノカは声をかけた。二人は古い友人なのだった。
コウ爺と呼ばれている老人はこの船のエンジン工だった。船のエンジンに関してはザイショウでさえまだまだかなわなかった。コウ爺はこの船とエンジンにすべてを捧げていた。悪名高いアダマ船長もコウ爺には頭が上がらなかった。
コウ爺は幼いオノカがザイショウにくっついてこの船に乗った頃から可愛がり、エンジン室にオノカを入れて色々なことを教えてくれたのだった。
「工房のガラクタの中から出てきた浮遊材で舟を作ったの。昨日完成したばかりなのよ、今ここに乗ってきたわ。後で見て欲しいの。」オノカは息急ききって言った。いつもコウ爺には話したいことが山ほどあった。
「ほう、舟を作ったか、たいしたもんだ。ぜひ後で見たいもんだな。だが今はこいつを何とかしないとな。今回は果ての捨て場から脱出するときにかなり無理をしてな。」
「また果ての捨て場に行ったのね。この船はどうして行って帰って来れるの?他の船乗りたちはみんな言ってるわ。「磁気の嵐には近づくな、果ての捨て場に引き込まれたら二度と戻ってはこれない」って。」
「ははは、「全ての物が辿り着く墓場」ってな。なあに、オノカ、すべての場所には道はあるんだ。怖がる方がどうかしてるさ。ただなあ、このエンジンじゃあ次に行ったらまさに墓場になっちまうな。」
「今度はどこが悪いの?ザイショウは無理だって言って船長とやりあってる。」
「カッ!ハハハハ!!」コウ爺はところどころ歯が抜けている口を大きく開けて笑った。
「そうとも、今回はなかなかだぞ、ザイショウも匙を投げたんだ。やってみるか。」
「もちろん!」
コウ爺とオノカはかなりの時間をかけてあちこち開けては閉めたり、部品の交換を繰り返した。やがてオノカがある箇所を閉めたとたん、足下の機械からシューと白い煙が上がった。オノカとコウ爺は顔を見合わせるとニヤリと笑った。

一方、ガラクタからなにやら戦利品を見つけたカミュは興奮していた。
「へえー、こんなもん、何になるんだ?」ドゥビは首をかしげた。
「これは…!本物だとすると大変なものです。はるか昔に製造中止になったはずなんですが…。」
そこへ突然コウ爺の声が飛んできた。
「ドゥビ!バルブだ!エンジン始動!」
「えぇ!?」
ドゥビは飛び上がると慌ててヘルメットとグローブをつけ大きなバルブの元へ行った。
慎重にバルブを開けるとメーターの針の揺れを見ながらゆっくりバルブを回す。
やがてコウ爺と戻って来たオノカがエンジンレバーを引きスイッチを押すといきなり爆発音のような音が辺りに響き渡った。
「よーし、いいぞ、オノカ、そのままゆっくりレベルを上げて行け。」
「はい!」
「俺まだ休憩してないのに‥」ドゥビが情けない声を出した。

港では未だザイショウと船長が睨みあっていた。
突然辺りに大音量が響き渡り、船から汽笛が鳴り響いた。
ザイショウと船長は驚いて船を見た。トゥクタンの店で飲んだくれていた男達の動きが一瞬止まった。
「出航だ!」
誰かの言葉を合図に店にいた男達は慌てて船に向かいだした。
「おっと!お会計!」
ザティは慌てふためく男達から容赦なく代金を取り立てていった。
レジは品物を買い込む男達でごった返し、ザイショウの妻トゥクタンが手際よく対応していた。

続々と船員達が船に乗り込んで行くのを呆気にとられた顔で見ていた船長だったがはっと我に返りギロリとザイショウを睨み付けた。
そこへ再び大音量で汽笛がなった。
「おーい!俺を置いていくんじゃねえ!」
ついにあきらめてアダマ船長も船へと走り出した。

船を降りたオノカは急いでトゥクタンの店へと向かった。
「ザティ!コウ爺達の分もらうね!」
「代金は?」
飲み物と食料を袋に詰め込むオノカを厳しい目で見ながらザティが言った。
「あたしのおごりよ。」
肩をすくめて笑うとザティはさらに飲み物の瓶と大きな包みを袋に入れてやった。
「ザティ、いいの?ありがとう!」
オノカは袋をかかえると再び港に戻った。
船は今にも出航しようとしているところだった。乗組員たちでごった返している入り口から再び船内に入り込むとオノカはまっしぐらにコウ爺達のいるエンジンルームに向かった。
「コウ爺、ドゥビ、これ!」オノカは差し入れの袋をドゥビの脇に置いてやった。
「やった!オノカ、恩にきるよ!」
コウ爺はエンジンの調整に忙しそうだった。
「なんだ、オノカ、もう出航するぞ。乱気流を越えるなら今なんだ。」
オノカの足が止まった。
いつも、このままコウ爺達と飛び立ちたい、という衝動に駆られるのだった。
そんなオノカを見透かしたようにコウ爺は言った。
「さあさあ、行った行った!なあに、ひでえ船だ、じきにまた世話になるさ。」
「船は素晴らしいわ。あいつが、アダマ船長が最悪なだけよ。コウ爺、また絶対に来てね。」
船がさらに轟音をたてた。
ついにオノカは飛び出し、階段をかけあがり後方ハッチに置いたままになっていた自分の舟を押しながら駆け、エンジンをかけると飛び乗った。ハッチからオノカの舟が飛び出すと同時に船のエンジンが火を吹き、ゆっくりと遠ざかっていった。

港ではカミュがオノカを待っていた。
「カミュ、今度の戦利品は何なのよ?」
「今度はすごいですよ!今ではもう開発されてないんです。かなり古いですがメンテナンスすれば問題なく使えます。前から欲しいと思っていたんです…」
「わかったわかった、帰ったらメインにつないであげるから。」
トゥクタンの店に着くと、入り口に人だかりができていた。オノカはザティを見つけ出すと声をかけた。
「ザティ、何かあったの?」
「中に知らない子たちがいるの。ぐっすり寝ちゃってて。」ザティは声を潜めた。「あの船に乗ってたのよね、きっと。置いていかれちゃったの?」
オノカは人混みをかき分けて店の中に入っていった。慌ててザティも後を追った。

薄暗い店の一番奥の席で、二人の少女が肩を寄せ合ってぐっすり眠り込んでいた。

第二章 ルニノとナキトゥ

「今日は忙しくて、あたしちっとも気付かなかったのよ。ほら、一番奥の席でしょう、隣にずっとデカい船員がいたから見えなかったんだわ。」
少女達を前にしてザティが言った。

1000人足らずのロイテ島の住人は全員顔見知りだったから、見知らぬ少女達が船に乗って島にやって来たことは明らかだった。
でもどうして?オノカは不思議に思った。これまでこんな事はなかった。島に来る船は貨物船だけで、乗っているのは荒くれた船員の男達ばかりだった。
二人の少女は自分とザティとたいして年は違わないかに見えた。テーブルの上には何ものっていなかった。出航前のあの騒ぎにも気づかず、何も食べずに眠っているなんて、どれほど疲れていたのだろう。寄り添って眠っている二人を見てオノカは胸が締め付けられた。
ふと、少女の一人が目を開けた。オノカの顔をじっと見つめる。肩の辺りで切り揃えたまっすぐな黒い髪がさらりと揺れ、そっと周りを見渡すとやがてはっと我にかえりまだ寝ているもう一人の少女を揺さぶった。
「ルニノ、起きて、ルニノ!」
ルニノと呼ばれた少女の方が年上のように見えた。眠そうに目をこすっている。妹と同じ黒髪は腰の辺りまであった。
「あのう、あなたたち、あの船に乗ってきたの?」オノカはゆっくり声をかけた。
二人は顔を見合わせると再びオノカを見て小さく頷いた。
「船はもう出航してしまったわ。あなたたちは…どうしてあの船に乗っていたの?」
少しの沈黙の後、年上の少女が口を開いた。
「船が…出航したの?」
「ええ、ついさっきよ。」
オノカの言葉を聞くと少女はぐったりと椅子にもたれかかったまま目を閉じてしまった。二人はお互いの手をぐっと握りしめている。
オノカとザティは顔を見合わせた。
コウ爺はきっと知らなかったに違いない、とオノカは思った。もし知っていたらきっと二人のことを話してくれていたはずだから。

いつの間にか店内を覗いていた人々はいなくなっていた。トゥクタンが人々を追い払ったのだった。カミュとビエリは心配そうに入り口から覗いていた。ザイショウも店に戻ってきていた。
トゥクタンが優しく二人に声をかけた。
「船はもう戻ってはこないよ。よかったらあんた達のことを聞かせてくれないかい?それからどうするかみんなで考えようじゃないか。」
少女たちは顔を見合わせ、やがて年上の少女が口を開いた。
「私はルニノと言います。この子は妹のナキトゥ。そう、私たちはあの船に乗っていました。カピタリに行く途中だったんです。」
「カピタリ?」思わずオノカは繰り返した。「首都カピタリのこと?」
「ええ。」ルニノは小さく頷いた。「私たちが住んでいた島はとても小さくて、貧しいのです。だから船賃の代わりに船で働かせてもらっていました。
船に乗るのは初めてで、仕事にはなかなか慣れなくて…今日は島を出発してから初めて港に寄った日だったんです。船乗り達についてきたらこの店について…そして…私たち…いつの間にか眠っちゃって…。」
ルニノの声が震えた。「どうしてこんなことになっちゃったのかしら…。私たち、どうしてもカピタリに行きたいんです。」

広大な応都の国といっても首都カピタリの名はオノカとザティも知っていた。ロイテ島の港に寄る船の中にはカピタリを目指す航路もあったがここからあまりに遥か遠くの地であったためオノカはこれまでそれほど認識していなかった。
「ふむ…ここんところカピタリ行きの船が増えたなと思っていたんだが、首都で何か動きがあるのかい?なんでまたあんたたちみたいな子供がカピタリを目指しているんだい?」それまで黙って聞いていたザイショウが口を開いた。
「あたしたち…あたしたち、どうしてもカピタリに行きたいんです!」ナキトゥが思いきったように言った。「お願いします!あたしたちを助けて…」「ナキトゥ!」ルニノが遮った。
そこへトゥクタンが割って入った。「まあまあ、あんたたち、お腹がすいてるんじゃないのかい?かわいそうに、アダマ船長の船じゃろくな食べ物にはありつけなかっただろうよ。もう話は十分だよ。まずはたっぷりお食べ。そしてその後はゆっくり休みなさい。ザティ、頼むよ。」

ザティが手際よく暖かいスープとパンを運んできた。「特製スープよ。おかわりしてね。」
二人は顔を見合せ、それから同時にゆっくりスプーンを口に運んだ。ひとくち食べると二人の顔がパッと明るくなった。もうひとくち、もうひとくちとスプーンを口に運ぶ。
本当にろくな食事をさせてもらえなかったのに違いない、とオノカは思った。アダマ船長め、次に来たら思い知らせてやる。
「パンも焼きたてよ。それからこれは今朝私の畑で採れた果物。」ザティはみずみずしい果物もテーブルに並べた。
ふっくら焼けたパンを頬張るルニノの口の動きが止まる。ルニノは泣いていた。泣いて、食べ続けることができなかった。その横で、ナキトゥが黙ってルニノの手を握りしめていた。
オノカとザティは顔を見合せた。二人きりにしてあげようと思った。
「あの…ゆっくり食べてね。あたしたち、あなたたちが休む場所を用意してくるわ。何かあったらこのカミュとビエリに言ってね。」ザティが二人に告げるとカミュは礼儀正しく頭を下げ、ビエリは尻尾をパタパタと振った。

店の二階はザイショウとトゥクタンの自宅になっている。すでに一部屋をトゥクタンが用意してくれていた。ベッドを作りながらオノカはザティに聞いた。「ねえ、カピタリのこと、どう思う?」
「最近船乗りたちがカピタリのことをよく話しているからあたしいろいろ聞いてるのよ、面白いわよ。みんな、カピタリに行けばやりたいことは何でもできるらしいって言ってるわ。」
「首都ってそんなところなの?」オノカは知らなかった。「やりたいことが何でもできるってどういうこと?」
「それが、まだほんとうにカピタリに行ったことがある船乗りに会ったことがないからよくわからないんだけど…カピタリは閉鎖都市になるらしいわ。なんでも……理想の都市を目指しているとかで……今は住民になりたい希望者を受け入れているけど、そのうち新たに住民になることはできなくなるみたいよ。カピタリの住民になれれば安定した生活が保障されるんだって。だから船乗り達の中でももっぱらの噂になってるわ。船乗りは貧しい街の出身が多いからね。」ザティは詳しかった。
「それじゃあ、あのルニノとナキトゥの二人もカピタリの住民になるのを目指してるってこと?」
「う〜ん、わからないけど……。でも船に置いていかれてあんなにがっかりしているじゃないの。」
オノカはまだよくわからなかった。応都には大きな都市がいくつも点在していてそれぞれの都市の周辺地域ごとに繁栄していた。ロイテ島は応都の外れに位置しているためかこれまで首都カピタリと関わることはほとんどなかった。閉鎖都市なんて聞いたことがない、いったいどういう都市を目指しているというのだろう、どうして人々はそこに行きたいと思うのかしら。オノカの頭の中はぐるぐる回った。

再び下へ降りていくと、少女たちはにこやかにカミュとビエリにもてなされていた。
「さあ、二階へ行ってお休みなさいな、あたしたち、明日また来るわ。」オノカはビエリを撫でてやった。
「ありがとう。なんてお礼を言ったらいいのかしら……。それと、素晴らしいお友達ね。」ルニノがカミュとビエリの方を見ていった。その瞳を見て、オノカはこの二人とは親しくなれそうだと思った。特に、ルニノと。

「あたしたち、あの子たちと仲良くなれる気がしない?」帰り道は舟を引いて歩いていたオノカが言った。
「あたしもそう思ってた。かわいそうだけど…いい子たちみたいね。」
「カミュを褒めてくれたわ。」オノカにとっては大事なことだった。

翌朝ザティはいつものように朝早く起き、家事を済ませてからトゥクタンの店へ向かった。オノカはザイショウから仕事を頼まれていたので今日は寝坊はしなかった。ビエリとカミュには留守番を頼むことにした。カミュは大いに不満を訴えたが、帰ったら昨日の戦利品をメインにつないでやるからとようやくなだめたのだった。
オノカは舟を出し港まで遠回りしながらエンジンと舵の具合を確かめた。今日は一人乗りだったので昨日より調整がしやすかった。
港にあるザイショウの工房の前へゆっくり着陸するオノカをザイショウが外へ出て興味深そうに眺めている。
「ほう、それが浮遊材使ったっていう新作か。」ザイショウは舟に近寄るとあちこち眺め始めた。
「そう、扱いが難しいんだけど…今日のでだいぶ慣れてきたわ。エンジンとのバランスがまだうまく調整できなくて。」
「浮遊材がこの島にもあったとはな。どれ、ちょっと見せてみろ。」
「昨日の子たちは?」
「なあに、元気なもんさ、朝から女房と一緒になにやら愉快そうに働いていたよ。」
そう言うとザイショウは舟を工房に引き入れ、その後は舟にかかりっきりになった。

小さい時からザイショウについて過ごしてきたオノカは今ではザイショウの片腕となって仕事をこなすようになっていた。ザイショウとの直し屋の仕事は面白くて仕方がなかった。オノカはすべての物のしくみに興味があった。そして物を造り出すことが好きだった。
仕事の依頼は小さな棚の修理から船のエンジンまでと範囲が広かったが今ではオノカはエンジンに関しては時々ザイショウをもうならせる腕前にまでなっていた。
今日は工房に壊れた荷車が持ち込まれていた。昔から使われてきた道具を修理するのは面白かった。

いつの間にか昼時になり、ザティがルニノとナキトゥを連れて昼食の差し入れにやってきた。
「二人がね、ザイショウの工房を見たいっていうから。見て、この素敵なお弁当。ナキトゥはとっても料理が上手なのよ。それをルニノがこんなに素敵に詰めてくれたの。」
妹の方が料理が上手いというのは私たちと似ているわとオノカは面白がった。素敵に盛りつけるセンスはオノカにはなかったが。姉より妹の方が背が高いところも一緒だった。
「夕べは眠れた?」弁当に手を伸ばしながらオノカは二人に聞いた。
「ええ、とっても。」ルニノが朗らかに言った。昨日の沈んだ様子とは大違いだった。
「あたしたち、旅に出てから初めてあんなにぐっすり眠ったわ。」
「まあ、アダマ船長の船じゃね。」顔をしかめながらオノカはサンドイッチを頬張った。
「美味しい!」
「よかった!材料がとにかく素敵で。久しぶりに料理が楽しいと思ったわ。」ナキトゥはほっとした顔で自分もサンドイッチを手にとった。
暫く皆で食事を楽しむとザティとルニノは店に戻っていった。
ナキトゥは工房にとても興味を示し、オノカが午後は舟の試運転をするというと残りたがった。
ナキトゥは何にでも興味をもち、面白がり、そしてとても手先が器用だった。機械をいじることにとても興味を示し飲み込みも早かった。
オノカの舟も運転したがり、たちまち乗りこなしたのにはオノカもザイショウも大いに驚いたのだった。

夕方店に戻るとザティたちも一段落したところだった。祖母の世話があるためオノカとザティはいつもこの時間には帰るのだったが名残惜しくしているとルニノが言った。「あなたたちの家にも行ってみたいわ。」
それで決まりだった。四人は楽しく家路を急ぎ、やがて居心地のいい我が家に到着した。
カミュはヘマをしなかったようで家には明かりが灯っていた。ビエリが大喜びで駆け回り子供たちを出迎えた。
ルニノは自然と祖母の世話をしてくれた。ザティとナキトゥは楽しげに畑へと出かけていった。
夕食までの間、オノカは工房に引っ込みご機嫌ななめのカミュをメインコンピュータにつないでやることにした。

オノカの工房は古ぼけた建物を修繕しながら使ってきた場所だった。
物心ついた頃からすでにその建物はあり、長らく人の手が入っていなかったような有り様だった。
いつの間にかオノカはその建物の中で多くの時間を過ごすようになっていった。
ごちゃごちゃした何かの部品が集まったような箇所もあり、幼い頃から親しんできた場所ではあったが未だに混沌としている所も多かった。そんな場所から時に戦利品が見つかったりするのだった。
主に工房として使っている場所の壁面には大画面のコンピューターがあった。オノカはメインと呼んでいた。
これも壁に埋もれていたものをオノカが気付き面白半分にいじりながら使えることに気付いた代物だった。
メインは様々な機能が画面には現れるのだがどれも実行はできず、オノカはいつも静止してしまう画面をみてはため息をつきながらその機能がどんなものか想像するのだった。
それでもわずかに使える機能をオノカは大いに楽しんでいた。
さまざまなエンジンやコンピューター機能についてのデータもあり、カミュはこのメインにつなぎながら整備、メンテナンスを繰り返し、プログラミングをしてきたのだった。

アダマ船長の船からもちかえった部品はごく小さな黒い箱で、場所を工夫すればカミュ本体に接続できそうだった。
カミュはとにかくこの機能を喜び興奮していた。
「本物ならすべてのコンピューターの暗号を解読できるはずなんです。つまりはすべてのコンピューターの情報にアクセスできるというわけです。もちろんそんなものははるか昔に製造中止になっていたのですが。さすが果ての捨て場、こんなものまで流れ着いているなんて。これに気づいたコウ爺もさすがですが。」

オノカはカミュの言ってることにはあまり耳を貸さずに機械の調整に集中していた。手に入れた部品がまったく使い物にならなかったことはよくあることだったから話半分に聞いておいたほうがいいのだ。
メインにつないでしばらくすると大画面が動きはじめた。

操作していたオノカは思わず息をのんだ。
これまで静止してその先に進めなかった項目にアクセスできそうだったからだ。長年、これは一体どんな機能なんだろうと夢見ていたというのに!
そのうちのひとつにアクセスしたオノカは画面に釘付けになった。
これは…ここに映っている映像は…何?
「これは応都全体図ですね。」カミュが言った。「応都全土の地図が見られるなんて。」カミュも興奮していた。
オノカは驚きのあまり言葉が出なかった。
これまで応都全土の地図を見たことはなかった。船乗りたちが持ち込んだ地図は目的地であるそれぞれの地方都市周辺が描かれたものだけだった。首都まで行き来するような船は全土の地図を手にしていると聞いたことはあったがオノカは見たことはなかった。
「ロイテ島はどこなの?」
カミュに問うと大画面の映像が動きだし、やがて三角形のしるしがひとつの島を指した。
「ふーん、なるほどね、で、カピタリは?」
ロイテ島から飛び立った矢印はどんどん移動し、ロイテ島はすぐに画面から外れていった。矢印はやがて無数の島々が集まっている地域の中央を差して止まった。

「オノカ、食事よ。」
振り向くとそこにはザティと一緒にルニノとナキトゥもいた。
「工房を見たいっていうから…どうかしたの?」
「ザティ、これ見てよ。」オノカは興奮を隠さず言った。
「コウ爺からもらってきた部品をつないだら…これ、応都全体の地図よ。」
「応都全体の地図なんて見た事ないわ。これがそうなの?ロイテ島はどこ?」
ザティが言うと同時に画面が動き、三角形の印は再びひとつの島の上で止まった。
「へぇー!」ザティも興奮していた。「そうだ、じゃあカピタリは?」
やがて止まった三角形の印をみるとザティはルニノとナキトゥに声をかけた。
「ずいぶん遠くを目指しているのね!そうだ、あなたたちの島はどこなの?」

暫しの沈黙があった。オノカはルニノの顔を見た。ルニノの表情は静かで、オノカとザティのような興奮はなかった。
「あたしたちの島は…」かすれるようなルニノの声だった。
「あたしたちの島はきっと地図には載らないくらいの小さな島なの。」
その口調から、ふと、オノカはルニノは故郷を知られたくないのではと感じた。
「私たちの島は地図にも載らないほど小さくて、そして貧しいの。首都カピタリに行けば今なら誰でもカピタリの住民になれる。そして子供達は皆学びたいことは何でも学べる学校へ行けるというわ。私たちが学び、カピタリの住民の資格を持つ事は私たちの故郷を救うことになるかもしれない。島の人たちの期待がかかっているのよ。」
ルニノとナキトゥの顔は真剣だった。

オノカの中になんとかして二人をカピタリに連れて行ってやりたいという衝動が涌き起こって来た。
でもどうやって?アダマ船長の船は当分戻ってはこない。いやいや、あんな船長のもとに二人を帰してはいけない。それともコウ爺とドゥビに頼めばいいかしら?
考えは頭の中をただ廻るばかりだった。
「オノカ、メインを見て。」
カミュの声に我にかえりメインの画面を見るとロイテ島の近くに黒く小さな影があり、点滅しながら島に近づいていた。
「この影は何なの?島に近づいているわ。」
影の近くにはたくさんの文字と数値が次々と映し出されていたがオノカにはさっぱり理解できなかった。
「オノカ、端末を私にも繋いでください。」
オノカが端末を繋ぐと同時にカミュの目が赤く点滅し始めた。
やがてカミュが言った。
「解読できました。影は大型船です。所有者はダイ•スカイ船長。乱気流の道が開くのを待たずに突入してくる模様。」

ダイ•スカイ船長!
オノカとザティは顔を見合わせた。
「ザティ!ダイ•スカイ船長よ!そうよ、ダイ•スカイ船長にカピタリに連れていってもらえばいいんだわ!」

第三章 ダイ•スカイ船長

ロイテ島の周囲は乱気流に囲まれている。
島の地形と気流の関係が乱気流を生み出しているとも言われていたが未だ原因は解明されていなかった。
乱気流の中では雷が轟き激しい磁気の嵐が吹き荒れている。時折一定の間隔で乱気流の中に隙間が開くことがあった。船乗りたちはそれを「道」と呼び、道が開くわずかな時間を利用してロイテ島へ行き来していた。道は狭く、油断すると磁気に引かれたちまち乱気流に巻き込まれてしまうため、抵抗できる力強いエンジンを持つ大型船でなければ乱気流を超えてくる事はできなかった。それでも燃料の補給とザイショウの工房でのメンテナンスを求め危険をおかしてまでもロイテ島にやってくる船は少なくはなかった。
だがただ一艘、道が開くのを待たずに常に乱気流のまっただ中を平然と超えてくる船があった。
ダイ•スカイ船長の船だった。

ダイ•スカイ船長は荒々しい気性の、がっしりとした男だった。所々に銀髪が混じる頭髪を短く刈り込み、日に焼けた顔は赤黒く光り無数の傷があった。鋭く光る眼を閉じて暫し考えこむ時は無精に生やした顎髭をいじるのが癖だった。
応都界隈の大型船の船長の中でも1、2を争う手腕と言われ、遥か応都の境を超えて航海した経験もあるという噂は船乗り達の間ではもはや伝説となっていた。
船と航海に関する事には一切妥協せず、非常に厳しい態度で臨んだ。その指示はいつも大胆で的確だった。満足いく結果が出ないときは容赦なく船員達を叱り飛ばした。
しかし仕事から離れると朗らかでユーモアに溢れ、船員たち一人一人をとても大事にしていた。そのため船員たちからは絶大な信頼と忠誠を得ていた。

オノカとザティは幼い頃からダイ•スカイ船長のことが大好きだった。船長は島に来る度に二人を可愛がってくれた。船員たちもみな親切であり、まるで大きな家族のような船だとオノカは感じていた。
エンジン室長はいつでもエンジン室へ招き入れ知りたいことは何でも教えてくれた。最近ではザイショウと共にオノカの意見も一目置かれるようになっていた。
一方、応都一の腕前という噂の料理長は世界中のレシピを持ち帰っては惜しげもなくオノカとザティに振る舞ってくれた。ザティはその料理を見事にトゥクタンの店で再現し、応都の西のはずれという辺鄙な場所にあるにも関わらず世界中の料理が食べられると店の評判は上がっていた。

オノカが港へ行くとすでにダイ•スカイ船長の船が入港していた。
港に停泊したダイ•スカイ船長の船は堂々たる姿でありその貫禄は優雅な雰囲気さえ醸し出していた。
船の周りにはたくさんの人が集まり、乗組員と島民とが混じって忙しく働いていた。
ダイ•スカイ船長の船はロイテ島に来ると徹底的に船のメンテナンスをしていくため、滞在はいつも半月からひと月ほどという長いものだった。その間じゅう島には活気が溢れ、ザイショウの工房とトゥクタンの店は目が回るような忙しさとなるのだった。
オノカはザイショウの工房へと急いだ。
ザイショウの工房でメンテナンスの指示を出しているときの船長の厳しい姿が目に浮かび、昨日の思いつきで興奮している自分を抑える。
オノカは気を引き締めて工房に入っていった。

トゥクタンの店ではザティとナキトゥが忙しく働いていた。乗組員たちはトゥクタンの店の料理と酒と会話を楽しみに集った。ナキトゥは仕事にも慣れ、荒くれ男達を相手に軽快な会話を楽しんでいる。そこにザティとトゥクタンも加わり店はいつにもまして大盛況だった。
ルニノは店を居心地よく整えながら船員達の珍しい話に耳を傾け、合間にはダイ・スカイ船長が滞在する部屋を整えた。ロイテ島に滞在中、ダイ・スカイ船長はいつもザイショウの家に泊まるのだった。

忙しい1日が終わり、トゥクタンの店で夕食の席についたときオノカはくたびれ果てていた。
工房では妥協を許さないダイ•スカイ船長と、負けじと持論を戦わせるザイショウの怒号が響き渡り終時緊迫した空気が流れていた。他の職人達もピリピリしていた。オノカはミスをしないようにいつにもまして作業に集中したのだった。
しかし夕食の席は工房とはうってかわって和やかな空気に囲まれていた。豪快に笑うトゥクタン、朗らかに答えるザティとナキトゥはすっかり息が合って料理に精を出していた。船の料理長からまた新しいレシピをもらったためザティは上機嫌だった。ルニノが美しく食卓をしつらえている。ルニノが手をかけるとなんでも美しくなるとオノカは思った。
会話に会わせるように尻尾をパタパタと振るビエリ。慎重に料理をテーブルに運ぶカミュの姿は滑稽だった。
ダイ•スカイ船長とザイショウは工房での激しいやりとりなどまるでなかったかのように今は実に楽しげにあれこれつもる話に夢中になっている。
料理はとても美味しかったがオノカは味わうどころではなかった。ルニノとナキトゥをカピタリに連れて行ってもらえるよう話をしなくてはいけないという想いで頭がいっぱいだった。
夕食が終わって皆で暖炉の前でくつろいでいるときもオノカは何と切り出そうかと考え込んでいた。
「…ノカ、オノカ。」
オノカははっと顔を上げた。ダイ•スカイ船長が心配そうにオノカを見ている。
「疲れたかい?今日はだいぶ働かせてしまったようだ。だがまだまだしばらく頑張ってもらわないとな。また腕をあげたんで驚いたよ。頼もしいね。船のエンジン工にスカウトしたいくらいだ。」
「ほんとう!?ほんとうに船に乗せて一緒に連れて行ってくれる?」オノカは思わず大きな声を出した。
「わっははは。もちろんさ。あと11センチ背が伸びたらな。」ダイ・スカイ船長は豪快に笑った。
オノカはむっとして引き下がった。いつも船長はオノカの気にしていることを言ってからかうのだった。
オノカの隣にいたザティがぐっとひじで小突いてくる。オノカは気を取り直した。
「ダイ船長、ルニノとナキトゥのことなんだけど…」
ルニノとナキトゥのことは夕食の席で船長には紹介していたが詳しい話はまだしていなかった。
「二人はアダマ船長の船に乗ってこの島へ来たの。あいつにひどく働かせられてすっかり疲れてしまって、トゥクタンの店でぐっすり寝てしまった間に船が出航してしまったのよ。」
「アダマ船長の船に乗って来ただって?この子達が?」
ダイ•スカイ船長は驚きを隠さなかった。
ルニノがしっかりした声で続けた。
「わたしたち、カピタリまで乗せてもらうつもりだったんです。」
ダイ•スカイ船長はルニノとナキトゥの顔を黙ってじっとみつめ、それから顎に手を当てて暫し考え込んだ。
オノカは言葉を続けた。
「ダイ船長、お願いがあるの。ルニノとナキトゥをカピタリまで連れていって欲しいの。」
ダイ・スカイ船長は片方の眉を上げてオノカを見た。そして顎に手をあてたまま少し黙っていたがやがて呟くように言った。
「カピタリか…。この娘達を首都カピタリに連れていけというのか。」
さらなる沈黙が続いた後やがて船長が口を開いた。
「最近、カピタリの噂をよく耳にするようになってな。カピタリを目指す航路の船が増えているようなんだ。気になって俺たちは今カピタリで何が起こっているのか色々と調べている途中なんだが…なかなかいい情報が入ってこない。いずれカピタリには行ってみるつもりだったのだが。
いいだろう。この子達をカピタリまで連れて行ってやろう。ただし、」
オノカたちは思わず身を乗り出した。
「次の航海が終わってからだ。俺たちが今手がけている仕事はカピタリとは正反対の方角なんだ。それが終わったら必ず迎えに来る。それまでにはもう少しカピタリについての情報が集められるだろう。」
「ダイ船長、あたしたちも連れていって!」
オノカは驚いてザティを見た。
「なんだって?ザティ。お前も一緒に行きたいっていうのか?」
ダイ・スカイ船長はさっきより驚いた様子だった。
「ええ。あたし、カピタリに行ってみたいわ。オノカも行きたいと思わない?」
オノカは言葉に詰まった。自分たちも一緒にカピタリに行くという発想はなかった。
ダイ•スカイ船長の船で航海をすると思うと一瞬オノカの胸は高鳴った。確かにいつかは船に乗ってロイテ島の向こう側の世界を見てみたいと思ってきた。あのアダマ船長のオンボロ船でさえ、一緒に航海しているコウ爺とドゥビが羨ましかった。だけどザティがカピタリに行きたいと思っていたなんて。あたしには何も言わなかったじゃないの。オノカの頭の中はぐるぐる回った。
ダイ・スカイ船長は黙って暫くオノカとザティの顔を代わる代わる見た。そして、
「駄目だ。」
と低い声で言った。
「どうして?ルニノとナキトゥは連れて行ってくれるのに、あたしとオノカは駄目なの?」
ザティは椅子から立ち上がっていた。
「よく聞くんだ、ザティ。」
ダイ•スカイ船長は静かな声で続けた。
「俺は、今はお前達のような子供は島を出るべきではないと思っている。島の外の世界はとても危険なんだ。しかも最近、それがさらにひどくなっている。荒くれた男達が秩序も持たずに無許可の船に乗るようになり、密輸取引に手を出し、人さらいなんて当たり前のようになっている。女子供、ましてやお前達の年頃の娘は高く売れるからすぐに目を付けられるのさ。
ルニノとナキトゥは事情があるのだから仕方がないだろう。まぁ、カピタリに行くのもどうかとは思うがね。いずれにしろ、俺はルニノとナキトゥしか連れて行くつもりはない。さあ、この話は終わりだ。」
ダイ•スカイ船長が終わりと言えばそれまでだった。
ザティは大いに憤慨していたが、人さらいの話には恐怖を覚えたのかそれ以上は何も言わず引き下がった。

翌朝早くオノカは一人舟を飛ばせた。ロイテ島の美しい朝の景色を眺めながら、この島を出るという選択肢について考えを廻らせたのだった。
島を離れるなんてこれまで考えたことはなかった。
アダマ船長の船が来たときにはいつもコウ爺たちと一緒に行ってみたいと感じていたがそれがロイテ島を出るということに結びついていなかった。
島を離れる…。オノカはロイテ島を心から愛していた。すべての丘や小道、森と小川。そして島民の一人一人が大好きだった。島を離れるなんてとても出来ないと思った。外の世界に行ってみたい気もするがダイ船長は危険な世の中になっていると言った。再び帰ってこれないかもしれないのだ。もしそうなったら祖母はどうなるのだ。
自分たちには世話をしてあげなくてはいけない祖母がいるのだという理由に自分を納得させ、オノカは島を出ることについて考えるのをやめた。

しばらく忙しい日々が続いた。
オノカはザイショウと船のエンジン整備に追われ、ザティは店で船員達をもてなすのに大忙しだったが合間を縫って船の料理長とレシピを交換しては楽しんでいた。ルニノはダイ•スカイ船長が持ち帰っためずらしい土産物の数々をトゥクタンの店に美しく飾り店の雰囲気は見違えるようになった。さらに船に乗り込み船内を整えるのを手伝ったためたいそう居心地がよくなり船員達はルニノに絶大な信頼を寄せた。
ナキトゥは料理が得意で手先も器用だったのでザティとトゥクタンは大いに助けられた。また暇さえあればダイ•スカイ船長の船で何か自分にできる作業はないかと聞いてまわるので船員達はたちまちナキトゥを気に入り、船の仕組みについて教えたり簡単な作業を頼むようになった。
やがて船はメンテナンスを終えた。この航海が済んだら必ずルニノとナキトゥを迎えにくるという約束を残しダイ•スカイ船長の船は出航していった。あいかわらずロイテ島を取り囲む乱気流の道が開こうが開くまいがお構い無しだった。島には以前の穏やかな日常が戻りオノカ達は一抹の寂しさを覚えた。

日々は何事もなく穏やかに過ぎて行った。
ルニノとナキトゥはすっかりオノカとザティの家の住人となった。島民たちはみなルニノとナキトゥのことを気にかけ可愛がり、姿をみかけるといつも声をかけるのだった。
ダイ•スカイ船長がいつ迎えにきてもいいようにルニノとナキトゥの旅支度を整えるのは楽しかった。だがそれは二人と別れることになるのだと思うとオノカは複雑な思いだった。
オノカはルニノといると楽しかった。物静かなルニノはオノカとはまるでなにもかも正反対の性格のように見えたが、二人は話せば話すほどお互いの共通点を見つけ出したのだった。ルニノが「実はね、私、料理は全くできないの。ちっとも好きじゃないのよ。」と言ったとき、二人は心から大笑いした。うっかり寝過ごすところも一緒だった。何よりオノカが嬉しかったのは、同じことに笑いを感じ、美しいと思い、大切だと思える事だった。
姉妹同士全く似ていないというところも一緒だった。
ルニノは長い黒髪に静かな瞳をしていた。瞳の中には星があるようにみえた。その瞳で覗かれると人々は悩みをすべて話したくなるような不思議な気持ちになった。薔薇色の唇から出る言葉はいつも優しく思いやりに溢れていた。肌の色は白く、手足はいつもゆっくりと丁寧に動いた。
ナキトゥの黒髪は生き生きと躍動しているようだった。髪と同じ色の黒い瞳はいつも大きく開かれ、キラキラ光り見たいものがたくさんあった。時折瞳の奥に鋭い光が宿り物事すべてを見透かしてしまうのだった。日に焼けた健康的な肌をし、すらりとのびた手足を器用に働かせいつも楽しげに何かしら仕事をしていた。時間があればいつまでも座って考え事をするルニノとは違い黙ってじっと座っている姿を見た事がなかった。
ザティはナキトゥととても気が合った。二人ともはっきりとした性格で、てきぱきと物事を決め、姉達に提案し実行した。いつも楽しげに笑いながら畑で作業をし、料理に腕前をふるい、家事をこなした。

毎朝、家を出るときにオノカとザティが祖母に声をかけると祖母は二人の首を指差した。
オノカとザティがお守りは持っていると答えるのをいつもルニノとナキトゥは不思議そうにみていた。
「それは何のお守りなの?」ある日ルニノが聞いた。
オノカは首に下げているペンダントを見た。
幼い頃から祖母はいつも二人がペンダントを肌身放さず身につけるよう言い聞かせていた。
「これはあなたたちをいつも守ってくれるお守りなのよ。決して首から外すことのないようにね。」と。
言葉が出なくなった今では首を指差して確認する。
ペンダントは手のひらの中にすっぽり入るほどのごく小さなものだった。
オノカのは小さな細長い円柱の透明な容器で中に小さな木が入っていた。
不思議な形をした木で根本のところから反対方向にもうひとつの木となって伸びている。
まるで二本の木が根本でくっついているかのように見えたがそうではなく一本の木なのだった。葉はいつも青々として本物の木のように見えた。
ザティのは容器はオノカと同じ大きさだったが中身は小さな青銅色をした石のようなものだった。
表面が荒くでこぼこしていて、光に当たると所々キラキラと光るのだった。
「誰からもらったの?」ナキトゥが覗き込んだ。
オノカにはわからなかった。祖母から渡されたはっきりとした記憶はなかった。
お守りを首にかけてくれたひとのことを覚えているような気もした。思い出そうとすると何ともいえない懐かしいような悲しいような感覚が湧いてきた。時々、その感覚にいつまでも浸っていたいような気がすることがあるのだった。

ある日工房でオノカとザイショウが作業をしていると突然ナキトゥが飛び込んで来た。
「港に見慣れない船が向かっているってみんなが騒いでる。」
港に行ってみると確かに見たことのない船がいまにも港に入ってくるところだった。見た目は大型船だが船体はかなり痛んでいる。
「知らねえ船だ」ザイショウは怪しんだ。
「エンジンの音はいいが相当な年代物のようだな。」
「あんなボロい船で旅をしてきたのかしら?」
「それでも気流を超えて来たんだ、いいエンジン工がいるんだろうよ」とザイショウは言う。
人々が見守る中、やがて船のハッチが降り、中から二人の男が出て来た。一人は図体の大きな男でもじゃもじゃの長髪が帽子からはみ出ている。顔はひげで覆われよく見えなかったが片目に黒い眼帯をつけていた。もう一人は髪の毛がほとんどないずんぐりした小男だった。
小男が人々に向かって口を開いた。
「諸君。こちらはアサウモ船長だ。我々は旅の途中である。燃料と食料の補給をお願いしたい。それと酒もだ、早急にな。」
船長だと紹介されたもじゃもじゃ頭の大男は頷くのみで何も言わなかった。
「船の整備は必要ないのかい?また出航できるようには見えないがね。」
ザイショウがからかうように言った。
小男はギロリとザイショウを睨みつける。船長が小男に耳打ちする。
「船の整備は必要ない。燃料と食料の補給が出来次第出発する。」
整備の必要がないだって?ザイショウは片方の眉を上げた。
乱気流を超える危険をおかしてまではるばるロイテ島に多くの船がやってくるのは燃料や食料の補給だけではなくザイショウの工房での整備が主な目的だというのに。
怪しい、とザイショウとオノカは目を会わせた。
しかし、尻尾をつかまえることはできなかった。
トゥクタンの店では船員たちは行儀よくなごやかに食事をし、酒もほどほどにたしなんだ。むしろこんなおとなしい船員達の姿は初めて見るとザティはナキトゥに囁いた。
「食べ終わった食器まで持ってくる船員なんて初めてだわ。」
彼らは船に持ち込む食料と酒を大量に注文した。船はひどいオンボロだが金はあるようだった。

一方、トゥクタンの店には行かず船に残っていた男達がいた。
その中には船長と小男の姿もあった。
男達は何やら話し合っていたがそのうちおもむろに船長は帽子をとり、そしてもじゃもじゃの髪の毛も取った。かつらだった。
「ふう、こんな格好させやがって。暑くてかなわないや。だから俺は船長役なんて嫌だって言ったんだ。何がアサウモ船長だ。俺たちの名前から一文字ずつとってつけただけじゃねえか。」
船長と呼ばれていた男はかつらを放り投げると気弱そうな表情で言った。図体に似合わず声はか細かった。
「まあまあ、アリト、あと少しの辛抱だ。俺はいいことを思いついたんだ。」小男が言った。
「あの娘たちのうち誰かをさらっていこう。船で働かせるんだよ。」
「なんだって?」小男以外の男達は驚いて声を上げた。
「なあそれはやめようぜ、俺はそんなの嫌だ!」アリトと呼ばれた船長役の男が言った。
「何を言う!人さらいをしてこそ本当の悪党への一歩を踏み出せるってもんだ!密輸の世界で生きていくにはなあ、悪党でなければやっていけないんだよ…」
小男はアリトの胸ぐらをつかみにらみつけた。

「ご注文の品を運んできました!」
突然の声に男達は飛び上がった。
ルニノとナキトゥが階段の上から船室を覗き込んでいた。
二人はビエリに手伝わせて大量の食料と酒の配達にやってきたのだった。
「これは差し入れです、お昼にどうぞ」にこやかな笑顔でルニノがサンドイッチの入った籠を持ち階段を降りてこようとした。
「ダメだ、オレ、とてもさらうなんてこと、できねえ、あんないい娘を騙すなんて、」とアリトは小男に胸ぐらを掴まれたまま涙目になった。
「ふん、なにきれいごといってるんだ、もう十分騙してるさ。」
小男はにやりと金貨の入った袋を取り出した。
「なんだ、それは?」「燃料と食料で金はぜんぶ使い果たしちまうはずじゃなかったのか?」
男達は小男の周りに群がった。
「お前ら、そこを馬鹿正直になってどうするんだよ。」
小男は得意げに笑い、男達は顔を見合わせた。
その時突然轟音が鳴り響き、船体が大きく揺れた。

「やっぱり、怪しいと思わない?航海するには船がオンボロすぎるのよ。アダマ船長の船よりボロい船なんてはじめて見たわ。」
オノカとカミュはザイショウの工房の裏手から船を見張っていた。
オノカは双眼鏡を覗いていたがそれは取り外したカミュの目のパーツだった。オノカが覗いた映像はカミュにも共有される。目を取り外されたカミュの隣でその目を覗いているオノカの姿は端から見ると滑稽な光景だったが二人は真剣そのものだった。
「この船は登録されていませんね。いわば正規の船ではないってことです。もちろんモグリで密輸をしている船なんてごまんといますが、そういう船はそもそもこの島には来ませんからね。」
そこへザティが店で支払われた金貨の入った袋を持ってやってきた。
「ばれないようにうまく紛れてるんだけど…ニセ貨幣が混じってるの。ほらこれ、よく見ないとわからないけど、これはニセモノ。これはほんもので、またニセ、と。うまい具合に混ぜてるけどほぼニセ貨幣よ、これ。」
やっぱり怪しかった!オノカとカミュは顔を見合わせた。
さて、どうする、まずはザイショウに伝えるか…と望遠鏡を降ろそうとしたその時、ビエリが駆け込んで来た。ワン!ワン!と激しく吠えながらザティの服をくわえ、ひっぱっていこうとする。
「ビエリが来いって言ってるわ。行こう、オノカ。」
ザティについてそのまま駆け出そうとするオノカに「わーっ、目を入れて下さい、オノカ!」とカミュが叫ぶ。
ビエリは船に向かった。港中に船からの轟音が鳴り響き船体は大きく揺れていた。
「出航するなんて聞いてないわ!」
オノカとザティはビエリに続いて船に乗り込んだ。ビエリは船室へ降りる階段の前で大きく吠えた。
階下を覗き込むと下にルニノが倒れている光景が目に飛び込んできた。その横で暴れるナキトゥが「ルニノ!」と叫び男達に取り押さえられている。
オノカはとっさに怒りを覚え階下に飛び降りた。
ザティとビエリも後に続く。
「あんたたち!ルニノに何をしたのよ!ナキトゥを離して!」
「まあまあ、お嬢さん、落ち着いて…」男達のうちの一人がオノカに近づく。
「ビエリ、お願い!」ザティが言うとビエリは唸りながらルニノの前を守った。一同がにらみ合ったそのとき再び爆音がし、船が急激に動き出した。皆が床に倒れ込む。
「出航するつもりなんだわ、止めなくちゃ。ビエリ、ザティ、ここをお願い。」
オノカは部屋を飛び出し廊下に出て耳をすませるとカミュをひきつれて廊下の隅の階段を降りていった。
階段の下は非常に狭い空間になっていた。
「これがエンジンルームなの?」
階段を降りたところに扉があり、扉の下から白い煙が漏れている。
「大変!」オノカが扉を勢い良くあけると中は煙が充満していた。
「エンジン工はいるの!?」オノカは叫びながらも素早くグローブをはめ、あちこちからシューと蒸気がもれている箇所のボルトを締めながら叫んだ。数カ所ボルトを閉めると蒸気が落ち着き少し視界が開けて来た。制御装置のようなものがみえる。装置に向かい、カミュを接続する。それからカミュの片方の耳を取り外すと自分の耳に付けた。カミュの耳は通信機になるのだった。
「解析できたら教えてね、あたしはエンジン工を探すわ。」
オノカはこの型のエンジンはよく知っていた。かなり古いがオノカとザイショウが好きな型だった。蒸気がでている箇所のボルトを閉め直し、飛び出ている配線を手際よく繋ぎ合わせながら奥へ進んで行く。レバーを下げようとすると錆び付いていた。「錆びてるなんて…!」目をまるくしながらハンマーを取り出しカン!カン!と叩いてレバーを下げる。
轟音が少しずつ収まってきた。
「誰かいるのか!?こっちへきて手を貸してくれ!」奥から声が聞こえてくる。
オノカが声のする方へと進むと必死にバルブを抑えている男が見えた。蒸気でゴーグルが曇っている。
「すまない、手が放せないんだ。その配線を頼む。」
オノカは無言で配線をつないだ。まったく、配線もできてないなんて、こんな整備じゃエンジンがかわいそう!オノカは怒りを覚えていた。
手際よく配線をし終えるとオノカはレバーを下げながらレベル調整をした。慎重にレバーを下げていくとエンジンの爆音が少しやわらぐ。
圧力が変わったおかげで男はバルブを締め、空いた手で曇ったゴーグルを外した。まだ幼さの残る顔立ちの少年だった。
「ありがとう、君は…」
蒸気がなくなり視界がよくなってお互いの姿がよく見えた。二人同時に声が出る。「子供…?」
「子供」と言われオノカはカッとなった。はじめて港にやってきた船のエンジン工に背が低いため子供に見られ相手にされなかった悔しい思い出がよみがえる。
「子供じゃないわ!」「子供じゃない!」二人同時に叫ぶ。
むーっとにらみ合うそのときにカミュから通信が入った。
「オノカ、故障箇所がわかりました。C−2、Dー3です。Dー4はおそらく修理不能ですがここは今は仕方ないでしょう。問題は、舵が操縦不能になっていることです。舵は上に行って見て来なければ。速度は限界域です。エンジンの出力調整で速度を落とさないとじきに乱気流に突入するでしょう。」
オノカは少年を見た。
「あんた、上に行って舵を直せる?ここはあたしがやるわ。」
「えっ?君がエンジンを?」
「このエンジンの型はよく知ってるの。それより舵をなんとかしないと、乱気流に突入するわ。制御装置のところにアンドロイドがいるから通信機をもらって行って。」
「ア、アンドロイドだって?」
「いいから、早く!」
叫びながらもオノカは手際よくカミュが指摘した箇所に向かい装置を開け始めた。その姿を見て少年は口をぐっと結び制御装置へ向かったがカミュの姿を見て目を丸くした。
「…やあ」
「こんにちは。さあ、どうぞこれを。耳につけると使えます。」カミュはもう片方の耳を取り外して渡した。
「君の耳が…」少年は両耳がなくなったカミュを見て言った。
「心配ご無用、不自由なく聞こえます。」カミュは礼儀正しく答えた。
少年は一瞬カミュをまじまじと見たが、すぐにドアの外へ向かって走り出した。階段を駆け上り、船員達がいる部屋に向かう。
「舵だ!みんな、舵を修理しに一緒に来てくれ!」
「エンジンはどうなってるんだ!」男達は少年に詰め寄った。
「いいから早く!」
男達は一斉に工具を持ち操縦室と舵のある場所へとそれぞれ別れて向かった。

オノカの整備でエンジンはなんとか落ち着いてきたが船の速度を調整することはできなかった。
カミュが絶望的な診断をくだした。
「もはや乱気流の流れに巻き込まれ始めています。突入するしか方法がありません。」
「そんな…ダイ•スカイ船長じゃあるまいし、こんなオンボロ船で突入したら船がバラバラになっちゃうわ。カミュ、近くに「道」は開いてないの?」
「非常に細い道ならあるのです。しかしそこにうまく舵をあわせられるか…。そんな腕前の操縦士がこの船に乗っているとは思えませんね。」
「カミュ、進路を計算して指示出せる?」
「もちろんです。」カミュは最近頼もしくなってきた。
オノカは通信機を使った。
「聞こえる!?もう乱気流は避けられないわ、突入するしかないの!指示を送るからそれを操縦士に伝えて。」
「わ、わかった!」少年の返事が聞こえた。すぐにカミュが指示を出し始めた。指示に従いオノカはエンジンの出力を調整し、少年と船員達は舵のコントロールに全力で取りかかった。
やがて激しい衝撃と共に船は乱気流に突入した。
オノカは衝撃に耐えた。船の外側から何かがベリベリ剥がれていく音がする。
道をうまく通れているのかどうかオノカにはわからなかった。
時折薄れそうになる意識のなかで、ダイ•スカイ船長がいつも乱気流の道のことを話す声を聞いたような気がした。
「わっはっは、なあに、オノカ、道はあるんだよ。行こうと思えばどの道だって進めるもんなのさ…」

どれ程の時間が経ったかわからなかった。
突然辺りが静かになり、衝撃が消えた。オノカはハンドルを抑えていた手を放し窓の外を見た。明るい光が見える。
「カミュ!乱気流を越えたの?」
オノカはカミュのもとに駆け寄った。
明るい空の下に穏やかな雲の海がどこまでも広がっている。空からの眩しいほどの光の加減で雲は所々に色を変えていた。
「これが乱気流を越えた外の世界なの…。」
オノカはカミュと共に窓の景色に見とれた。
突然、上の階から歓声が聞こえてきた。
オノカは倒れていたルニノのことを思い出した。
「カミュ、行こう!」
階段を駆けあがると船室では男たちが歓声をあげ肩を叩きあい、ルニノの回りには数人の男たちとザティ、ナキトゥがいる。ビエリは上機嫌で尻尾を振りザティに寄り添っていた。
オノカはルニノの側に駆け寄った。
「ルニノ、よかった、無事で。一体これはどういうことなの?」オノカは一同を見回して言った。
「あたしたち、注文の品を届けにきたの。そしたら急に船が揺れて、階段から転げ落ちちゃったの。あたしは大丈夫だったんだけど、ルニノは気を失ってしまって。」ナキトゥが答えた。
「そうだったの…あたしはてっきりルニノとナキトゥが捕まったのかと思ったのよ。」
オノカはへたへたと座り込んだ。男たちはこっそり顔を見合わせた。
エンジン室にいた少年がオノカの前に立ち手を差し出した。
「やあ、君のおかげで助かったよ。僕はゼノ。みんな、この子とアンドロイドのおかげで船は助かったんだ。さっきは子供なんて言ってすまなかった。君は立派なエンジン工なんだね。」
「あたしは…オノカ。」オノカはゼノの手を握った。
「いいエンジンなんだけど整備が追いつかなくて。港で調整中に勝手に暴走して止められなくなってしまったんだ。君たちを乗せてきてしまったね。島に戻らなくては。」少年はすまなそうに言った。
「なんだって、ゼノ。またあの乱気流に戻るってのか!今度こそ船がバラバラになっちまうぞ。」男達の中から声が上がった。
「だからってこのままこの娘達を乗せていくわけにはいかないよ。僕らの仲間だって置いてきてしまったじゃないか。」
言い合いを始めた男達の横でザティがオノカに言った。
「ねえ、オノカ、このままこの船でカピタリまで乗せていってもらおうよ。」
「ええ!?何言ってるのよ、こんなオンボロ船で?」
オノカは驚いた。考えてもいなかったことだった。
「あたし、またあの乱気流を越えるのはこりごりだわ。それに、ダイ•スカイ船長を待ってたらいつカピタリに行けるかわからないじゃないの。ルニノ、ナキトゥ、いい考えだと思わない?」
大胆なザティの提案にオノカはうんざりした。ザティにはエンジンがどんなひどい状態かわかっていないのだ。かといって再び乱気流を越えてロイテ島に戻れるとも思えなかった。
オノカの答えを待たずにザティが男達に声をかけた。
「あたしたちをカピタリまで乗せて行ってくれない?」
男達は言い合いをやめ一斉にザティを見た。
「カピタリ?カピタリってなんだ?」
「首都カピタリのことか?」「どこにあるんだ?」「そんなことも知らねぇのか」
「うるさい!お前らは黙ってろ!」堪り兼ねて小男が皆を制した。
小男は静まるのを待って話を続けた。
「お嬢さん方、船に乗るのは構わないが…その…船賃はあるのかね?」
オノカ達は顔を見合わせた。船賃だって?
ザティがゆっくり立ち上がった。
「船長と相談したいんだけど…あら、船長はどこなの?」ザティの言い方はわざとらしかった。
男達は言い合いをやめ、気まずそうにお互いの顔を見やった。
「あなたが船長さん?」ナキトゥが部屋のすみに転がっているもじゃもじゃ頭のかつらとアリトを交互に顎で指しながら言った。アリトは飛び上がって小男を指差しながら言った。
「あれはグギの考えなんだ、俺は嫌だって言ったのに。」
グギと呼ばれた小男はザティとナキトゥを睨み付けた。
ザティは続けた。
「ここにあなた達が支払った代金があるんだけど。ほとんどニセ貨幣っていうのはどういうことなの?」
グギの表情が変わった。
皆がグギの顔を見た時、オノカが口を開いた。
「船が…船の動きがおかしいわ。」
突然、船は大きな衝撃に揺れた。オノカは壁に激しく叩き付けられ、やがて意識が遠のいていった。

第四章 ヘイズ

カコォーン… カコォーン…
遠くから響いてくる音は何だろう…。

「オノカ!オノカ!」
呼び掛けに目を開けるとのぞきこんでいる4つの顔があった。ぼんやりとした顔が次第にはっきりと見えてくる。ザティ、ルニノ、ナキトゥ、カミュがオノカの回りにいた。
「よかった!気がついた!」一同は安堵の声をあげた。ビエリが嬉しそうに吠え、オノカの顔を舐めた。
カミュが手を貸しオノカはゆっくりと身体を起こした。頭と肩の辺りに痛みを感じ顔をしかめる。
「いたた…」
「ひどく痛むの?…でも目が覚めてよかった…」ザティは涙ぐんでいた。
オノカはぐるぐる回る頭を押さえながら一生懸命思い出そうとした。乱気流を乗り越えて皆で喜びあったところまでしか思い出せなかった。
「あたしたち…どうしちゃたの?」
「船はどうやら不時着したようなのです。磁場の乱れがひどくて現在地が割り出せません。」カミュが答えた。
「船が…不時着?」
やがて目が慣れてくると辺りの様子が見えてきた。薄暗くじめじめとした霧が立ち込める中にぼんやりと大きな影があった。船の残骸だった。
オノカ達が乗っていた船は真ん中から大きく二つに壊れ木材が無惨にあちこちに散らばっていた。
少し離れた所に男達がいた。頭を抱えて座り込んでいる者もいれば歩き回っている者もいる。ひとりがこちらへ近づいてくる。ゼノだった。
「よかった、気がついたんだね。これで全員無事だったってことだ。」
「ゼノ…何があったの?」
「僕もよくわからない。乱気流は確かに越えられたんだ。でもそのあと突然船が大きく揺れて…つかまっているのが精一杯だった。船はまるで大きな渦に巻き込まれて行くような感じがして…そのうち急に揺れがなくなり静かになったと思ったらひどい衝撃がきて…止まった。船はこの有り様だよ。」
「また乱気流に巻き込まれてしまったの?」
「どうかな…だとすると僕らは君たちの島へ戻ってきたってことになるんだが…」ゼノは辺りを見回しながら言った。
「ここはロイテ島じゃないわ。島にはこんなところはないもの。それに…乱気流を出たのだとしても、ロイテ島の近くには島はないはずよ。カミュ、ここがどこなのかわかる?」オノカはカミュを見た。
カミュの目が赤く点滅しだした。「現在地は出せませんがロイテ島周辺の地図は出ます。乱気流を出たあと、あの短時間で到着できるような島はありません。」
子供達は顔を見合わせた。
「じゃあ…ここは…どこなの?」ザティがビエリにしがみつきながら言った。
オノカは再び辺りを見渡した。霧は深く、船の残骸から向こうはよく見えなかった。
何とも言えない不気味な光景とじっとりとした霧に寒さを覚えオノカは身震いした。喉がカラカラだった。
「オノカ、水よ。」
ナキトゥが水の入った瓶をオノカに手渡してくれた。
「水と食糧は無事だったみたい。少し駄目になったのもあるけど。木材の破片で火を起こせないかしら、ここは寒いし…何か身体が暖まるような食事を作るわ。」
ナキトゥの言葉でゼノが壊れた木材を集めに行き、ザティとナキトゥは食糧を吟味し始めた。

オノカはまだ少しぐらぐらする頭を抱えながらカミュを連れて船の残骸を調べてみた。
エンジン室だった部屋は船底にあったため不時着の際に真っ先にダメージを受けたのだろう、痕跡をとどめないほど滅茶苦茶に壊れ、部品はあちこちに散り、エンジン本体も押し潰されてしまっていた。
あのままエンジン室にとどまっていたらと思うとオノカはゾッとした。
オノカは力なく座っている男たちの側に行った。
「みんな、怪我はないの?」オノカは船長役をしていた大男アリトに声をかけた。
「やあ、お嬢さん、無事だったんだね。」アリトは力なく顔を上げた。
「俺たちは…怪我はないが、この有り様だ。お嬢さん方を危ない目に合わせてしまうなんてな…。そんなつもりはなかったんだ。」
近くには小男グギが頭を抱えて座ったままだった。その他に3人の男が壊れた船の壁にもたれてうなだれて座っていた。
「ここは寒いわ。よかったら向こうに行かない?火を起こすつもりなの。」
アリトは頭を上げ、子供達が何やら動き回っている様子を目を細くして見た。
「そうか…。お嬢さん方はたいしたもんだな…。よし、俺達も手伝おう。おい、みんな、向こうへ行くぞ!ここで座っていたって何もならないんだ。子供達に働かせてる場合じゃないぞ。」アリトは立ち上がって男達に声をかけ歩きだした。
うずくまっていた男達は顔を上げ、やがてアリトの後に続いた。
男達はゼノの元へ行きそのうち手分けをして木材を拾いに行った。たちまち木材は集められ、手際よく火が起こされた。
暗闇の中に焚き火の灯りと暖かさが広がると一同は安堵し肩を叩きあった。
ザティとナキトゥは料理にとりかかり、オノカとルニノはその間男達と共に船の残骸から使えそうな物を探しだして焚き火の回りに集めた。
間もなく料理が出来上がり、温かいたっぷりのスープとパンが皆に配られた。
「今はしっかり食べてもらうわ。元気を出さないとね。それにこのあとは切り詰めないといけないかもしれないから。」ザティはオノカに目配せした。
スープは美味しかった。身体が温まり、皆から自然と笑みが出るようになった。
「ところであなた達はどこから来たの?」アリトにスープのお代わりをよそってやりながらザティが尋ねた。
「俺達は…」アリトはチラリとグギを見、そしてゼノを見た。
「僕達はキノン島から来たんだ。ロイテ島からはかなり離れた東の方角にある。」ゼノがゆっくりと話し出した。
「僕らの島は先祖代々航海で商売をして成り立ってきたんだ。島ではあまり作物が育たなくてね。自分達が食べる分がなんとか育つ程度なんだ。島には大型船が一艘あって、僕らはそれを何世代も大事に乗ってきた。僕の祖父と父は船のエンジン工で、僕も小さい頃からエンジン工になるために見習いをしてきた。次の航海からは祖父が引退して僕が父と船に乗ることになっていたんだ。」
ゼノは食べ終わった皿を置くと両手をぐっと握りしめた。
「もう1年以上も前だ。船は消息を断って航海から戻ってこなかった。僕達の島は他の船が寄るような島ではないから、何の情報も得られなかった。僕達は待った。でも島の食料も底をつきそうになり、もうただ待っているだけではだめだったんだ。島にあったのは使われなくなったあの古い船だけだった。船乗り達はみんな船に乗って行ってしまっていたから農夫や鍛冶屋をやっている男達でなんとかするしかなかった。グギは昔船に乗っていたことがあったんだが怪我をして以来船には乗っていなかった。僕達は古い船を修理しグギに操縦を教わってなんとか出航した。エンジンは古すぎてひどい状態だったけどね。最初はすぐ近くの島へ食料を仕入れに行ったり、ちょっとした荷運びをして稼ぐことはできた。でも正規の許可を持っていないからなかなか仕事の依頼がなくて。」
黙ってゼノの話を聞いていたグギが続けた。
「正式な貨物船の許可証ってのはなかなか下りねえんだ。船の審査も乗組員の審査も厳しいが許可証さえ下りれば後はいくらでも仕事はある。稼ぎ放題さ。だがあの船じゃ古すぎて許可証の申請すらできねえ。だから許可証なしに稼げる道しかあとはないんだ。密輸さ。」
オノカとカミュは顔を見合わせた。密輸船が多く存在することはロイテ島にやってくる船乗り達から聞いていた。その噂はダイ•スカイ船長も言っていたように決して良いものでなかった。グギは続けた。
「ゼノは反対したが、綺麗事を言っている場合じゃなかった。俺達に残された道は密輸で稼いで新しい船を手に入れることだった。そうすりゃ許可証の申請ができるからな。」
「僕は父さん達船乗りから密輸船の話を聞いていたよ。」ゼノが続けた。
「無秩序な世界のひどい仕事さ。それにあのエンジンで長い航海ができるとは思わなかった。まともな地図さえなかったんだ。ロイテ島の乱気流に出会ったときはもうダメかと思ったよ。でも、ちょうど通れるくらいの道があいていたんだ…幸運だったよ。君達の島が見えたときには本当にありがたかった。エンジンの調子が悪くて僕は結局島には降りられなかったけどね。」ゼノはオノカ達を見て笑った。
「あのエンジンをザイショウに見せたかったわ。ザイショウって、島で修理の工房をやってる親方なんだけどね、私とザイショウが大好きな型のエンジンだった…すっかり壊れちゃって、残念だわ。」
オノカがザイショウの名を口にするとゼノはオノカの顔をじっと見た。
「ザイショウだって?まさか、あの『直し屋ザイショウ』のことじゃないだろうね…?」ゼノの声は少し震えていた。
「ええ、船乗りの間ではそう呼ばれているわね。」
オノカが答えると、ゼノは下を向いて頭を抱えた。やがてがばと顔を上げた。
「まさか僕はあの直し屋ザイショウの島に行ったというのに島に一歩も降りなかったっていうのか…?」
「まあ、そういうことになるわね。でもザイショウは聞いたのよ、『船の整備は必要ないのか?』って。そしたらグギと船長さんが『整備は必要ない』って…。ロイテ島の港に来た船から整備が必要ないなんて言われたのは初めてだったわ。」
オノカが愉快そうに話すのを聞いてゼノの口はぽかんと開いた。
「なんだって?グギ、なぜそんなことを言ったんだ。船長って…一体誰のことだ?エンジンがひどい状態だったのはみんなだって知ってただろう!?」ゼノは男達にくってかかった。男達は顔を見合わせ、グギは肩をすくめて下を向いてしまった。暫く誰も何も言わなかった。
「ねえ、ここがどこかはわからないの?」沈黙を破ってザティが言った。
オノカはカミュを見た。「カミュ、やっぱり現在位置は出ない?」
カミュの目が赤く点滅しだした。
「ここはひどい磁気の嵐の中にあるようです。外の世界との通信ができないため現在位置は割り出せませんが…環境条件を入力したところ…ここは移動性磁気地帯である確率が98%以上と出ています。」
「移動性磁気地帯って?」オノカには初めて聞く言葉だった。
「周囲を激しい磁気の嵐に囲まれた、気流の中を移動している土地のことです。強い磁気で探知機に反応しないため存在を認識するのはほぼ不可能です。磁気の嵐は吸引力が強く、一度巻き込まれたら磁場の外に出るのは非常に困難だとされています。一般的には『果ての捨て場』と呼ばれています。」
「果ての捨て場!」オノカと男達の声が同時に出た。
「カミュ!ここは果ての捨て場なの!?」オノカの声は上ずっていた。
コウ爺がいつもオノカとカミュに持って来てくれていた部品は果ての捨て場から持ち帰ったものだった。その部品のめずらしさから、オノカはいつか果ての捨て場に自分も行ってみたいと思っていた。コウ爺がエンジン工を務めるアダマ船長の船は貨物船という仕事の他に、危険をおかしてあえて果ての捨て場に入り込み、機械類を持ち出してきては高く売りさばくという商売でも稼いでいた。コウ爺の腕があってこそできることであり、他にそんなことができる船はいないとアダマ船長はいつも自慢していた。オノカは興奮していた。すぐにでもカミュと共に探索に出かけたいと思うほどだった。
「果ての捨て場だって…?」小声でカミュに聞くゼノの声には力がなかった。オノカははっとしてゼノを見た。
「僕らは果ての捨て場にいるっていうのか?そんな…それじゃあ、もう何もかもおしまいじゃないか。ここから出られる方法なんてないんだ。船だって壊れてしまった…いや、壊れていなくてもここが果ての捨て場ならもうすべてが終わりだ…」ゼノはそういうと顔を覆ったまま地面に横たわってしまった。
「ゼノ、どういうこと?みんな、どうしちゃったの?」オノカは男達の方を向いた。男達は皆ため息をつき、うなだれ、頭を抱えていた。
「磁気の嵐には近づくな、果ての捨て場に引き込まれたら二度と戻っては来れない、すべての物が最後にたどり着く墓場…。船乗りの間ではそう言われているのさ…。俺達はもうおしまいだ。食料と水がつきたら終わりだ。」グギは苦虫を噛み潰したような顔で力なく言った。
「その言葉は私だって船乗り達から何度も聞いたことがあるわ。でも果ての捨て場から戻ってきた船はいるのよ、アダマ船長の船は何度も果ての捨て場から戻ってきたわ。このアンドロイドにはそこから持って来た部品も使ってるのよ。」オノカは男達にカミュを向けた。
オノカの言葉を聞いてゼノが身体を起こしたがグギは続けた。
「悪名高いアダマ船長とお知り合いだとは驚きだな、お嬢さん。だがあいつは船乗りの風上にもおけねえような奴だ。アダマ船長が果ての捨て場から持ってきたと大ボラをふいちゃあ適当にかっさらったガラクタを高く売りつけているのは有名な話だぜ。あんな奴の話を信じるなんてばかばかしいこった。」
「アダマ船長が最悪なのは知ってるわ。あの船はエンジン工が素晴らしいのよ。カミュの部品はそのエンジン工からもらったのよ、コウ爺は決して嘘なんかつかないわ。果ての捨て場は『失われた技術の宝庫』だっていつも言っていたわ。」
「へえ、たいした入れ込みようだな。だがな、知らないようだから教えてやるが、アダマ船長の船にはいかれたエンジン工がいるってのも船乗りの間では有名な話なんだ。」
「なんですって!このク…」怒りで思わずグギにつかみかかりそうになったオノカをとっさにザティとカミュが押しとどめた。ザティが小声でオノカに言った。
「オノカ、もうこれ以上話すのはやめようよ。あの人達がっかりしすぎて何を話しても通じないわよ。それにみんな疲れてるわ。今日はもう休みましょう。」
オノカはグギを一睨みするとぷいとそっぽを向き、わざと大きな音をたてて食器を片付け始めた。コウ爺のことをあんな風にいうなんて!オノカは怒りに震え、涙が出そうになるのをぐっとこらえた。
「さあ、食器を運んできて。後はあたし達が洗うから。あなた達には寝床を作ってもらいたいわ。」ザティが声をかけると男達はのろのろと食器を運び、ルニノの指示のもと寝床を作る作業を始めた。
「悪いね、お嬢さん…その…悪気はなかったんだが…ついあんなことを言ってしまった。」すまなそうに食器を運んで来たグギにザティは厳しい眼差しを向けた。
「まったく、船からあんたが降りて来たときからいけすかない奴だと思っていたのよ。悪いと思っているなら洗い物を手伝って。」ザティは容赦なくエプロンをグギにかけた。
片付けが終わるとやがて皆は寝床に入り、辺りは静かになった。

しばらくしてあちこちから寝息やいびきが聞こえてくる頃になってもオノカの目は冴え眠ることができなかった。ため息をつき寝返りをうつと隣にいるザティもため息をつきながら寝返りをうってオノカの方を向いた。
オノカはそうっと足先でザティをつついてみた。
ザティはぱっと目をあけた。
「ザティ、眠れないの?」
「ええ、ぜんぜん。今は夜じゃないと思うわ。眠くないんだもの。あたしの時間の感覚ってけっこう合ってるのよ。」
ザティの隣にいたナキトゥももぞもぞ動きだし毛布から顔を出した。
「うーん、やっぱり眠れない。」
オノカが隣のルニノを見るとルニノもぱっちりと目を開けた。オノカは思わず笑い出し、つられて少女達はみんなくすくすと笑い出した。
「なんだ、みんな眠れないのか。」ゼノが寝床から起き上がって座った。
オノカは寝床を出てカミュとビエリが番をしているたき火の側にいった。ザティとナキトゥ、そしてルニノとゼノも起き出して火の周りに座った。ザティが抱きつくとビエリはうれしそうに尻尾をパタパタ振った。
「ねえ、あの音ってなんだろう?ずっと気になってるんだけど。」オノカが耳をすませながら言った。
少女達は耳を済ませた。遠くから、カコォーン、カコォーン、という音が聞こえてきた。
「オノカは耳がいいのよ。あたし、全然気にしてなかったわ。」ザティが言った。
「あの音が何か調べに行かない?ここがどんなところかも見てみたいな。」オノカが言うと少女達は顔を見合わせた。
「今から行くのか?」ゼノが驚いた声を出した。
「あたしも行ってみたい。音がするなんて、もしかして他に人がいるかもしれないじゃない。」ナキトゥが目をキラキラさせながら言った。
ルニノとザティは顔を見合わせていたが、やがてザティが言った。
「どうせ眠れないんだし、ここで待っているよりは一緒に行ったほうがましね。カミュとビエリも連れて行きましょうよ。」
少女達は黙っているゼノを見た。
「君達が行くなら…も、もちろん僕も行くよ。」ゼノは少しこわばった表情で言った。
それで決まりだった。
男達は皆大いびきをかいていて起きる気配はまったくなさそうだった。

カミュは現在地を登録し、音の聞こえてくる方向を探知した。
オノカは自分の工具ポケットからヘッドライトを取り出した。カミュもライトを点灯させ一同は歩き進むのに不便はなかった。
「カミュは君が作ったのかい?」ゼノはカミュの動きをいつも珍しそうに見ていた。
「ええ、そうよ。」オノカは可笑しそうに言った。
「驚いたな、アンドロイドを自分で作ってしまうなんて。製造会社に注文して買うものだとばかり思っていたからね。カミュはその…タイプがちょっと違うのかな…?」ゼノは遠慮がちに言った。
「ふふ、普通のアンドロイドとは見た目が違うって言いたいのね。カミュはコウ爺が手に入れた部品を寄せ集めて作ったからね。見た目はおそろしく旧式だけど、性能は応都一のはずよ。」オノカは得意そうに言った。
「コウ爺って、何者なんだい?」
「あたしにエンジンのすべてをたたきこんでくれた古くからの友人よ。アダマ船長のエンジン工なんだけど…あの最悪のアダマ船長の船に乗っているのはエンジンのせいなの。コウ爺はあの船のエンジンにひどく惚れ込んでいてね…もう手に入らないエンジンなんだって。俺が死ぬときはこのエンジンが壊れるときだ、なんて言うのよ。コウ爺たちが果ての捨て場に行ってたのは本当よ。アダマ船長はともかくコウ爺は嘘をつくような人じゃないわ。コウ爺が持ち帰った部品をあたしとザイショウも手に入れて整備してたけど、すばらしい性能でこれまでみたこともないような物ばかりだったわ。中にはまったく使い物にならないのもあったけどね。ロイテ島に整備にくる船のほとんどはそんな性能のいい部品を手に入れることが目的だったのよ。」
「不思議だな…。僕は小さい頃から祖父や父さんから果ての捨て場の恐ろしい言い伝えを聞いて育ったからね。まさか実際に果ての捨て場を行き来している船があるなんて思いもしなかったよ。」

「オノカ!ちょっと来て!何かある!」いつの間にかカミュと先頭を歩いていたナキトゥが大声を上げた。
子供達がナキトゥに追いつくと、そこには背丈ほどの大きさの四角い機械のようなものがあった。
「見た目は…エンジンのようにみえるわね…」ライトで照らしながらオノカは詳しくあちこち見て回った。
「カミュ、解析できる?」すでにカミュの目は赤く点滅し解析を始めていた。
「見ろよ、この辺は機械だらけだ!」ゼノが周りを見渡しながら言った。
いつのまにか皆は機械類がそこかしこに点在している場所に入り込んでいたのだった。
「製造番号を解析しましたが…このタイプの機械の情報はありません。あとで調べられる事があるかもしれないので記録しておきましょう。」カミュは機械全体をスキャナしながら言った。
「うーん、見た目はエンジンそのものだけどな…さすがにこんな大きな機械はコウ爺は持ってきたことがなかったからよくわからないわ。」
「この辺は部品のようだね、エンジン周辺のかな…」
「とにかくすごい数ね、とても全部は調べられないわ。」
「オノカ、見てごらん、大抵製造番号の上には作られた工場名や会社名が書いてあるものだけど、この…AMA-ISHI…て何だろう。聞いたことがないなあ。」
「うーん、コウ爺たちが持ってきた部品には書かれていなかったわ…応都でエンジンを製造している所は何ヵ所かあってどこも知っているけど…このマークは初めて見るわ。」

「痛い!何かにぶつかっちゃった!」向こうからザティの声がした。機械に夢中になっていたオノカとゼノはザティの声の方へ急いだ。
「大丈夫?頭をぶつけたの?」頭を抱えているザティをルニノが心配そうに見てやっている。
「これ、何…?木みたいだわ…」ナキトゥが薄暗い中何かに触れている。
「うわ…こっちもある…たくさんあるぞ」ゼノが用心深く辺りを見渡した。
オノカとカミュのライトで照らすと子供達の前方に現れたのは無数の木々だった。
「確かにこれは木だわ。こんな立派な木があるなんて…。」オノカは一本の木を撫でながら見上げた。ふとこの木立の奥には何があるのだろうと気になった。
「どう思う?先へ進んでも平気かしら?」オノカは皆の方を見た。
「この先には生命体の反応はありませんが…音の聞こえてくる方角ではありませんよ。」カミュが赤く光る目を点滅させながら言った。
「そう…。でも、なんだかとても気になるのよ。ここはまるで森のようだわ。こんな立派な森、ロイテ島にだってないんだもの。」
「行ってみようよ。あたしたち、ここがどんなところか探検に来たんだし。」ザティはこういうときはいつも大胆だった。ルニノとナキトゥは頷き、少女達は一斉にゼノを見た。
「わ…わかったよ。みんなが行くなら僕も行くよ。」ゼノはまたもや及び腰だった。
子供達がゆっくり進んで行くうちにいつのまにか霧がなくなり一本一本の木々が薄暗い中にもはっきりと見えるようになった。
進むにつれて木々はだんだん太くなり上に大きくそびえたっていた。そのうち木々の向こうにわずかに明るく見える場所が見えて来た。明るい場所はだんだん近づいて来た。
突然、広く開けた空間に出た子供達は息を飲んだ。
そこは周りをぐるりと木々で囲まれた広場のようになっていた。その中心に途方も無く大きな樹がそびえたっていた。
大樹の上の方はもはや空に霞んで見えなかった。幹は太く、大人が何人手をつないだら一周できるのかと思う程だった。太い根が地面のあちこちから張り出していた。大樹全体からぼんやりとした光が出ているように見えた。子供達は知らず知らずゆっくり大樹に向かって歩いていた。
突然オノカははっとして歩みを止めた。大樹の根元に腰掛けている人物がいる。
「カミュ、人がいるわ!生命反応はないって言ったじゃないの!」オノカの言葉を聞き子供達は思わずお互いにしがみついた。
「…今も生命反応はでていません。」カミュの声は冷静だった。
「じゃああれは何なの?…アンドロイド?」
「機械反応もでていません。」
「カミュったら!あんた壊れちゃったの?」
「失礼な!整備したのはオノカですよ。」
「どうしよう…引き返したほうがいいかしら。でもあの人が何なのか気になるわ。ここまで来たのに逃げ出すのも嫌だし。」
「場の危険度予測値は低く警告信号は出ていません。」
「そう、じゃああんたが壊れていないと信じて、行くわ。」
オノカは口をぐっと結びルニノとしっかり手をつないで前に進んだ。
「おい、オノカ、待てよ。」ゼノは完全に怖がって足が前に出なかった。
「ちょっと、何やってんのよ、行くならみんなで行こうよ。」ザティとナキトゥがゼノの手をひいてオノカに続いた。

大樹の根元に腰掛けている人物は灰色のマントを頭からすっぽりまとっていた。近づいていく子供達の顔を一人一人ゆっくり見つめている。
とうとう顔がはっきりとみえる距離まで近づくと皆は立ち止まった。
灰色のマントの人物は端正な顔立ちでマントからは長い黒髪がのぞいていた。色白の顔と薄い緑色の瞳は笑っているように見えた。
「ここで人間と出会うとはな。」低く柔らかな男性の声が静かに辺りに響いた。
「やあ、君たちは優秀な用心棒のようだね。」男性はカミュとビエリを見て愉快そうに言った。
「あなたは…誰なの?」うわずった声でオノカが尋ねた。
「私が何者かと問うのか?」男性はそのまま黙ってオノカをじっと見つめた。
やがてゆっくりと立ち上がるとオノカがこれまで出会ってきたどの人物よりも遥かに背が高かった。灰色のマントが風もないのにはためいている。オノカは何気にマントの動きに見とれた。見とれているうちに、マントが半透明になり向こう側の景色がうっすら見えていることに気がついた。オノカは思わずルニノの腕を強くつかんだ。
「ルニノ、この人…。」
「向こう側が透き通って見えるわ。」ルニノも気がついていた。後ろでザティとナキトゥが息を飲む気配がした。
男性は自分を見つめている子供達を優しく眺めた。
「君の問いに答えるのは難しい。私を知る人々は私を『ヘイズ』と呼ぶ。」
「ヘ…ヘイズだって!?」ゼノが絞り出すような声で言った。子供達は一斉にゼノを見た。
「なんだって…ここはヘイズの棲家だったのか!果ての捨て場にヘイズなんて…もうおしまいだ…。」ゼノはへなへなとその場に座り込んでしまった。
「ゼノ、ヘイズって何なの?」ザティが聞いた。
「君たちの島の地方にはヘイズの話は伝わっていないのか。僕は小さい頃からヘイズの言い伝えを聞いて育ったよ。不吉なものとしてね。『ヘイズが現れるところには災い現る』って。死んだ船乗りたちの魂が集まって作られた存在とも言われているし、別の地方では人々が死ぬ前に現れるとも言われている。船が遭難する前にヘイズがその船に現れたって話もある。とにかくヘイズの姿を見た者にいい事は起こらないんだ。よりによってここでヘイズを見るなんて…。」ゼノの顔は恐怖にこわばっていた。
「はっはっは…」突然灰色のマントの男性が笑い出した。子供達はぎょっとしておそるおそる男性の方を見た。
「なるほど、私はそう言われているのか。覚えておくよ。」男性は愉快そうに言った。その姿からはちっとも怖さを感じないとオノカは思った。
「あなたの身体が…透き通ってみえるわ。」オノカは思い切って聞いてみた。
「私には実体が無いのでね。」
「実体が無いって…どういうこと?」
「見ての通りだ。君は私に触れる事はできない。私も君に触れることはできない。」
「どうして…どうしてそうなっちゃったの?」
ヘイズはやさしくオノカに微笑んだ。
「私もその答えを求めているのだよ。」
謎解きの答えのような会話にオノカは頭がぐらぐらしてきた。
「あなたは…人間ではないの?」ザティが尋ねた。
ヘイズは子供達に背を向け大樹を見上げた。
「私は自分が何者なのか『忘れてしまった存在』なのだ。おおもとを、その訳を忘れてしまった存在なのだという。答えを求めてすでに永遠とも思われる歳月を彷徨っている。」
オノカはヘイズの言っていることがよくわからなかった。そっと横を見るとルニノとナキトゥがヘイズと同じように大樹を見上げていた。
「大人達は困っているようだが君達はそうではないようだな。いいことだ。ここは資源の宝庫だ。音に誘われて出かけて来た君達の感性は素晴らしい。」
「どうしてあたし達のことを知っているの?自分が誰かもわからないのに。」オノカは不思議に思った。
「はっはっは。確かにそうだな。本当に、なぜだろうね。私は自分の事以外はすべて知っている。過去に起こったことも、今起こっている事も、そして知ろうと思えばこの先起こるであろうことも。」ヘイズの話し方は自分自身にも言い聞かせているようにも聞こえた。
「音が聞こえてくるところには何があるの?」ザティはナキトゥの腕につかまりながら言った。
「そこに行けばわかるだろう。ここは失われた技術の宝庫なのだ。」
「あなたはここに住んでいるの?ここから出て行ける方法はあるの?私達、不時着しちゃって船が壊れてしまったの。私達を助けてもらえないかしら?」オノカは急に何でも聞いてみたい衝動に駆られて言った。
「私は自分の意思で様々な現象に関わることはできるが、なにせ実体がないのでね…。私ができることは君達に語ることぐらいだ。」
ヘイズはゆっくりと子供達を見た。
「君達の深い結びつきが私の心に響いてくる。何かを…思い出したくなるようだ…。」
ヘイズはルニノの顔をしばらくじっと見つめた。やがて静かに言った。
「君は…そうか…。」
オノカはルニノがわずかに頷いたような気がした。
いつの間にかヘイズの姿はどんどん薄くなっていき、やがて何も見えなくなってしまった。

子供達はしばらく呆然と何も言わずに立っていたが、オノカはやがてはっと我に返った。
「カミュ…今のなんだったの?」
「わかりません。ヘイズという存在の情報はありませんね…。」
「ゼノが言うほど恐ろしい感じはそんなにしなかったけど…。ビエリだって静かにしていたわ。悪い奴だったらとびかかっていたわよ。」ザティはビエリをぎゅっと抱きしめながら言った。ビエリはご機嫌に尻尾を振っていた。
「ここは資源の宝庫だって言ってたわ。コウ爺の言う事はやっぱり正しかったのよ。」オノカはゼノを見た。ゼノはまだ呆然とした顔で力なく座っていた。
「とにかくここを出て、音のする方へ行ってみましょうよ!」オノカは大きな声を出して自分を奮い立たせた。
子供達は気を取り直してカミュの探知機を頼りに歩きだした。やがて森から出ると子供達は再び霧に包まれた。歩き続けるうちにカコォーン…カコォーン…という音がだんだん大きくなっていった。目指す方角がぼうっと光っているように見えた。いつのまにか子供達の周りは薄明るくなっていた。
やがて霧の中にかすかに空中を横切る無数の影が見えてきた。
子供達が影の見える方角へ進んでいくと様々な大きさの物体がほのかな光を放ちながら空中を飛び交っている場所へと出た。物体は時にお互いぶつかり、カコォーン…カコォーン…と音をたてていた。
オノカはつと手を延ばし、宙を進んで来た小さな物体を捉えた。
見た目は木材のようだった。四角く加工されている。
「カミュ、これは…浮遊材だわ。」
カミュの目が赤く点滅し物体を分析し出した。
「確かにこれは浮遊材です。しかし、浮遊材がこんなにたくさん一カ所に存在しているなんて…」
オノカは手にとった浮遊材と、宙を飛び交うおびただしい数の浮遊材を交互にゆっくり眺めた。
「ここはほんとうに失われた技術の宝庫なんだわ…」オノカはつぶやいた。
「浮遊材だって?まさか!こんなところに…。浮遊材はもう新たに発見されることはないと言われているはずだ。」ゼノも物体を一つ手に取りまじまじと眺めていた。
「浮遊材って何なの?」ザティは機械類のことはよく知らなかった。
「あたしの工房からひとつ見つけたじゃないの。あの舟はその浮遊材で作ったのよ。」
浮遊材とは自ら宙に浮き、またはある方向に進む性質を持つように設計された物体だった。浮遊材を作る技術はすでに失われたものとなっている。応都界隈で発見された浮遊材のほとんどは権力者や財力のある者の間で売買されていたため非常に貴重なものとなっていた。オノカは船に使われている浮遊材しか見た事はなかった。浮遊材が使われている船は高価で性能が良い物ばかりだったがそんな船に出会う事は稀だった。オノカの工房からも浮遊材がみつかったがコウ爺やザイショウからいわせればそんなことはありえないことだと言うのだった。
子供達はしばらく黙って浮遊材が飛び交う光景を眺めていたがやがてザティが口を開いた。
「ねえ、オノカ、これからどうするの?あたしもう疲れちゃった。そろそろ戻らない?」
浮游材に見とれていたオノカははっと我に返った。子供達はみな座り込んでいた。
「そうね、そろそろ戻ろうか…。カミュ、この場所を登録しておいてね。」
オノカは浮遊材をひとつ持ったまま歩き出したが道中ずっと物思いに耽っていた。
元の場所に戻ると男達はまだぐっすり眠っていた。疲れた子供達はすぐに寝床に潜り込んだ。オノカも浮遊材を抱えたままたちまち深い眠りに落ちていった。

オノカが目を開けると辺りにはいい匂いが漂っていた。隣にいたザティがすでに起きだしナキトゥと共に食事を作っていたのだった。男達も皆起きているようだった。反対側を見るとルニノはまだぐっすり眠っていた。オノカは可笑しくなった。
「オノカ!ルニノ!いい加減起きてよ!食事よ。」ザティの声とともにビエリがやってきてオノカとルニノの顔を舐めた。笑いながら二人は起き出し皆のいる火の周りへと行った。
「よう、よく眠れたかい?」ゼノは火の番をしながら二人に声をかけた。
ザティはアリトと今は朝だという意見で一致して盛り上がっていた。「俺ぁ時間の感覚には自信があるんだ。」アリトは愉快そうに言ってザティに目配せをした。
食事が済み誰からともなくこれからどうするかという話題になったとき、オノカが口を開いた。
「みんな、これを見て。」
オノカは浮遊材を取りだし、持っていた手を放した。浮遊材はそのまま宙に浮き、オノカがそっと指で押すとゆっくりグギの前まで動いていった。
「これは…?」グギが浮遊材とオノカの顔を交互に見た
「浮遊材よ。」オノカは男達に向かって言った。
「あなた達が寝ている間に、あたし達あの音のする所へ行ってみたの。そしたらそこにはものすごい数の浮遊材が飛んでいたわ。あの音は浮遊材がぶつかり合う音なのよ。」皆は一瞬耳をすませた。カコォーン…という音が遠くでかすかに響いている。
「浮遊材が…?ここにはたくさんあるっていうのか?まさか…」グギはオノカの話が信じられないようだった。男達も顔を見合わせていた。
「あの浮遊材をうまく集めて船をつくれないかしら。」唐突にオノカが言った。
「なんだって、オノカ、本気で言ってるのか?船を作るだって!?」ゼノが目を丸くしてオノカを見た。
「本気よ。ここを出るためには船が必要だわ。エンジンはこの辺りにごろごろ転がっているし部品もありそうよ。整備すればまだ使えるものがあるかもしれない。」
「たしかに浮遊材はたくさんあったけど…使える浮遊材がどれだけあるか…船をつくるだけの浮遊材をいちから集めるなんて…。君は知っているのか?浮遊材ってのはもとが何に使われていたかで動き方が入力されているチャンネルがそれぞれ違うんだ。チャンネルを調べ、同調率を合わせないと使い物にはならない。それだけでも気が遠くなるような作業だ。そもそも僕らででそんなことができるはずもないよ。」
「同調率ならカミュのコンピューターで調べられると思うわ。船底部分に使える分だけでも集められれば十分よ。あとは壊れた船から使える木材を選べばいいわ。とにかくあのたくさんの浮遊材を利用しない手はないわ。他にここを脱出できるいい方法があるというのなら話は別だけど。」
オノカはきっぱりとした口調で皆を見ながら言った。
男達は顔を見合わせた。
「しかし、船を作るなんて…一体どれだけかかるんだ?食糧が持つのか…。」アリトが呟くように言った。
「何言ってんのよ、何もしなくたってどっちみち食糧も水も無くなってしまうのよ。」煮え切らない男達の態度にオノカは苛ついてきた。

「食糧と水なら切り詰めれば半月近く持つかもしれないわ」ザティが言った。ザティとナキトゥはすでに残りの食糧が何日持つか数えていたのだった。
「まったく、ニセ貨幣でよくもこんなにたくさん買い込んだわね。」あきれたようにザティが言って男達をちらと見た。男達は一斉にグギを見た。グギは小さくなっていた。
「半月か…カミュ、どう思う?」オノカはカミュに向かった。
「浮遊材のチャンネルの解析と同調率の整合はパターンが掴めればそう時間はかからないでしょう。最低限の大きさの船にすれば浮遊材が揃うのにそれほど時間はかからないかもしれません。」
オノカはゼノを見た。
「ゼノ、船の設計をお願い。私達を乗せて磁気の嵐を乗り越えられる大きさがあれば充分よ。あたしはカミュと一緒に浮遊材のチャンネル解析にとりかかるわ。」
オノカは早く作業を始めたくてうずうずしていた。
「よし、わかったよ、オノカ。君の言うとおり、何もしなければ何も変わらないんだ。僕はやるよ。」ゼノはそういいながら男達を見た。
アリトが立ち上がった。
「グギ、みんな、俺達もやろうぜ。もともとは俺達のせいでお嬢さん達をこんなところまで連れて来てしまったんだ。俺達が呑気に寝ている間にお嬢さん達はここから脱出する方法まで考え付いたんだぜ。せめて俺達が出来ることはやろうじゃねえか。」アリトの言葉に男達はみな決心したように力強く頷いた。

その後は皆で話し合い必要な作業を分担した。オノカは早速カミュと浮遊材の所へ向かった。
ルニノは必要な空間を提案し、ゼノが設計図にしていった。
ザティとナキトゥは食糧を出来るだけ持たせるようなメニューを考え、男達は船の残骸から使えそうな木材を選り分けた。
浮遊材を集める作業はカミュのコンピューターだけが頼りだった。
オノカは大きめの浮遊材を集めるようにし、カミュが次々と解析し同一のチャンネルに合わせていった。
解析のパターンが掴めると浮遊材を集める作業はザティとナキトゥの役目になった。
男達はその辺に転がっている部品を集めて簡単な荷車を作り出し、ビエリが手伝って浮遊材を運べるようにした。
設計図が完成すると、男たちは手際よく船の製作に取りかかり、その腕前にオノカは目を見張った。
「俺達は島では農夫や鍛冶屋なんだ。農夫ってもんは家から荷車から何でも自分達でつくるんだぜ。船の修理だって島の男達総出でやっていたんだ。任せてくれ。」アリトは朗らかに言うのだった。
船の製作は男達にまかせ、オノカとゼノはエンジンの探索にとりかかった。使えそうなエンジンらしきものは山程転がっていたがどれを選んだらいいのかわからなかった。
オノカとゼノは船の大きさに合わせてエンジンを絞っていった。探していくうちにオノカはあることが気になっていた。使えるエンジンが見つかったとしても問題は燃料だった。だが中にはもしかしたら燃料が残っているエンジンもあるだろうからそれらを集めれば取りあえずここから脱出できる分の燃料は足りるだろうとオノカは思っていた。
ところが見つかるエンジンにはどれもすべて燃料は残っていなかった。というより燃料を使うようなシステムが見当たらなかったのだった。
「燃料を使うシステムになっていないだって?たしかにそう考えると辻褄の合う作りだけど…。じゃあ一体どうやって動くというんだ?」オノカの話を聞いたゼノは不思議そうに言った。
その後もゼノと二人でうんざりするほどたくさんのエンジンを調べたがどれも皆基本的なシステムは一緒だった。二人は途方にくれてしまった。
オノカはカミュにエンジンの解析を任せた。解析しながらカミュがおもむろにスイッチの一つを押すとエンジン本体が静かに振動し始め様々なスイッチが点滅し出した。
「電源が入ったわ。でも電源はどこから来てるの?」オノカは驚いてエンジン全体を訝しげに眺めた。
「このエンジンは動きながら同時にエネルギーを生み出す設計のようです。」カミュは目を赤く点滅させ解析しながら言った。
「どういうこと?必要なエネルギーを生み出すって?」
「これはエネルギー自己産成型タイプです。つまり、稼働している間に必要なエネルギーを自ら生み出す仕組みになっているのです。他に燃料を必要とはしません。」
「必要なエネルギーを作りながら稼働するっていうの?そんなすごい仕組みの機械なんて見たことがないわ…。」オノカは目を丸くしてエンジンを眺めた。
「なるほど…ほら、このメモリはエネルギーチャージ量を示しているんじゃないかな。さっき電源が入ったときにはメモリがついてなかったけど、今メモリがひとつついたよ。」ゼノも興味深そうに言った。
オノカは不思議に思った。
「ここは失われた技術の宝庫だって言うけど…浮遊材といい、このエンジンといい、どうしてこんな素晴らしい技術が伝えられなかったのかしら?燃料が必要ないなんて素晴らしいことじゃないの。」
「信じられないな…。これで本当に問題なく稼働するんだろうか…。」ゼノは怪しみながらまだエンジンのあちこちを眺めていた。
浮遊材を集めるのは思ったより順調に行き、当所予定していた船底分よりかなり多く集まったため、ゼノは思いきって側面の半分まで浮遊材を使う設計にした。
「こんなにふんだんに浮遊材を使っている船なんてきっと応都中探してもないぞ。」ゼノは興奮を隠さず言った。
浮游材を惜しみなく使った船の本体は自然と宙に浮くようになったため、そのうち楔で地面に繋ぎ止めて作業をしなくてはならなかった。
船の大きさに必要なエンジンの出力をカミュのコンピューターを使って割り出し、オノカとゼノが幾つか選んだ物のなかからさらにカミュが最適な条件のエンジンを選び出した。それに合わせて制御装置と通信機も使えそうな物を選び出した

忙しい日々が続く中オノカはヘイズのことが気になっていた。あれから森へ足を向けることはなかったが、もういちどヘイズに会いたい気がしていた。聞いてみたいことがたくさんあった。
ある夜、大人達が疲れきって寝てしまった後も子供達はなかなか眠りにつけず火を囲んでしゃべっていた。食料も残り少なくなり夕食分では物足りなかったせいかお腹が空いて眠れなかったのだった。
「ああ、お腹が空いたわ。でもみんな我慢してるんだからしょうがないわね。」ザティはため息をつきながらビエリを抱きしめた。ビエリは辛抱強く、少ない食べ物にも不満な様子を一度も見せないのだった。
「あたし、あの森にまた行ってみたいんだけど…。またヘイズに会いたい気がするのよ。」そう言うとオノカはゼノを見た。
「そうか…実は僕も気になっていたんだ。もしかしたらあのヘイズはここからうまく脱出できる方法を知っているかもしれないって。」意外にもゼノは怖がっていなかった。
「あたしはあの大きな樹がまた見たいな。あの樹を見た時、なんだか不思議な感じがしたのよ。」ザティが火を見つめながら言った。
「じゃあ今から行こうよ。大人たちはみんないびきをかいて寝ているからきっと気づかないわ。」オノカは男達の寝ている方を見ながら言った。これまで男達にはヘイズの事は何も話していなかった。ゼノが、話さない方がいいと思うと言ったからだった。オノカもそう思っていた。もしヘイズの事を知ったら男達は恐怖と絶望で落胆し作業どころではなくなってしまうに違いなかった。
子供達とカミュとビエリは共に森を目指して歩き出した。森の中を歩きながらオノカは気持ちが落ち着いていくのを感じた。やがて再び大樹が現れた。子供達が大樹に近づいていくと、ヘイズが以前会った時と同じように大きく地面に張り出している根のひとつに腰掛けているのが見えた。
ヘイズは今度も子供達が近づいてくるのを愉快そうに眺めていた。
「これはこれは。また会いに来てくれるとはね。」
「よかった、また会えて。聞きたいことがあったの。」オノカはほっとしながら言った。
「まあ、急ぐ事はないさ。さあ、この樹を見上げてごらん。」ヘイズはそう言うと立ち上がり、オノカの肩に手を置いて大樹を見上げた。実体のないはずのヘイズの手を通して暖かな感覚が伝わってきた。
「こんなに大きな樹は見たことがないわ。上の方は霞んで見えないのね。」オノカは見上げながら言った。
「あたし、またこの樹が見たかったの。どうしてか、この樹を見てると安心するのよ…。」ザティは樹を見上げながら両手を広げて大きく息を吸った。
「この樹はずっと君達を守ってきたのだ。」ヘイズはオノカとザティの顔を見つめた。
「どういうこと?これまでこの樹を見たことはなかったわ。」オノカはヘイズの言うことがよくわからなかった。
「君はいつも見てきたのだよ。」ヘイズはオノカの胸元を見た。オノカは無意識にいつものくせで胸に下げているお守りを握りしめていたが、ヘイズの言葉にはっとした。手を開いてお守りを見つめる。透明なカプセルの中にある小さな木はよく見ると目の前の大樹と似ていた。
「これは…このお守りの中の木は…この樹なの?」
ヘイズはオノカの問いには答えず、ゆっくり大樹に近づいていった。大きな根のひとつに登り手を伸ばして大樹の幹から何かを掴み取るとオノカ達の前に戻った。
「君達にはこれから必要となるだろう。」ヘイズは手に取ったものをひとつずつザティ、ナキトゥに渡した。ルニノの前に来るとヘイズはルニノの顔をじっと見た。
「君にももちろん必要なのだ。力を借りることを迷うことはない。」ヘイズはルニノにもひとつ渡した。
「使うべき時に使うのだよ。その時が来たらわかる。」ヘイズはゼノにも同じものを与えた。
オノカはザティの手の中を覗きこんだ。ヘイズが渡したのは手のひらに収まる程の小さな木で、オノカのお守りとそっくりだった。オノカの木は根元のところから反対側にも幹が伸び枝葉が繁っていたが、ザティの木は大樹と同じように一方向に伸びていた。
オノカは大樹のすぐ近くまで行ってみた。幹をよくみてみると、ところどころにちいさな木のようなものが生えている。それはこの大樹とそっくりだった。ヘイズはこれを取って子供達に渡したのだった。
「わたしのお守りの木もこの木から取ったものなの?誰がわたしにくれたの?」
ヘイズは優しくオノカに微笑むと再びオノカの肩に手を置いて隣に立った。伝わってくる不思議な暖かさが心地よかった。
「お守りを君と君の妹にに渡した人のことはよく知っている。だが今は話す時ではないようだ。」ヘイズの言葉と共にあの何ともいえない懐かしいような悲しいような感覚が身体の中に押し寄せてきた。オノカは胸がいっぱいになった。
「そろそろここを立たなくてはいけないようだね。もう船は完成したのではないかな?」
「ええ、もう明日にでも完成させたいの…。食べ物も水ももうほとんどないのよ。船が出来たらすぐに出発したいわ、でも…」オノカはゼノを見た。
「ここを取り巻く磁気の嵐を越えられるかが問題なんだ。」ゼノは手にした小さな木をぐっと握りしめて言った。
「君たちは実に素晴らしい船を作ったじゃないか。何がそんなに心配なのかね?」ヘイズは微笑みながら言った。
「ほんとうに、私たち、あの船でここを出られると思う?脱出しやすい進路があるなら知りたいの。」オノカはまたお守りを握りしめながら言った。
「果ての捨て場のエンジンを搭載した船だということを忘れてはいけない。そしてなにより、」ヘイズはオノカとカミュを見た。「君と君の相棒の結びつきが道を開くだろう。」
それからゆっくりゼノの方を向いた。「船を守っていくのはどうやら君の役目のようだな。」話しているヘイズの灰色のマントが風に揺れ、そしてだんだん向こう側が透けて見えてきた。
「まって、行かないで!」オノカはマントを掴もうとしたがその手は空しく宙を掴んだだけだった。
ルニノは黙ってナキトゥと手をつなぎヘイズが消えて行くのを見ていた。やがてヘイズの姿はすっかり見えなくなった。
子供達はしばらく大樹の根元に腰掛けていた。
ヘイズは静けさの中に希望を残していったかのようだった。
子供達はやがて立ち上がりゆっくりと歩き出したがその足取りはしっかりとしていた。

船のもとへ帰り、ほかの子供達がみな寝てしまったあともオノカは眠らなかった。
船が完成したらすぐにでもここを立ちたかった。もはや食料と水に猶予はなかった。大人達が自分たちの分を我慢して子供達の食べる分を増やそうとしてくれているのは大分前からわかっていた。しかし大人達は子供達より何倍も大変な作業を担ってくれていたのだった。
出発前にオノカはやっておきたいことがあった。今のうちにカミュに少し改造を加えたかったのだ。
コウ爺から最後にもらった小さな黒い箱のようなコンピューターは今までカミュの腰のうしろに取り付けていた。オノカはこれをカミュの体内に取り付けようと考えていた。船が無事に磁気の嵐を脱出できるかどうかはわからなかったから、できるだけカミュへの衝撃を少なくしたかった。
このコンピューターを接続してからカミュの性能が格段に上がったことにオノカはひそかに驚いていた。中にオノカの工房のメインコンピューターの情報はすべて読み込んできていたが、以前の性能ではとても浮遊材選別など出来なかったはずだった。
オノカは部品の山の中から小さなモニター画面を見つけ出していた。この画面をカミュにとりつけるつもりだった。
オノカは工具を手にしてカミュの前で考え込んだ。
「うーん、やっぱり胸の辺りかな…。このコンピューターは胸の中に取り付けて、全面にモニター画面をつけていい?」
「わたしもその方法しかないと思います。モニター画面がつくのは嬉しいですね。しかもかなり機能が高いモニターですよ、これは。」改造してもらうのが好きなカミュは嬉しそうだった。
オノカは慎重にカミュの胸の部分の金属板をはずした。そのとき、カミュの胸の中から何かが転がり落ちた。それは不格好な丸い形をした金属の塊だった。
「何かしら…?」訝しげに金属を手にとったオノカはしげしげと眺めた。
やがてオノカはくすくすと笑い出した。
「カミュ、これ、覚えてる?私がまだ小さくてカミュを作って間もない頃に入れたのよ。『心臓よ』ってね!」
「もちろん、私は忘れたことはありませんよ。」
オノカは大まじめに心臓のつもりで作った幼かった頃を思い出して涙が出る程笑った。
「どうする?」オノカは愛おしそうに金属の心臓を眺めながら言った。
「入れておきたいですね、もちろん。」カミュは静かに答えた。
「ありがとう。カミュのそういうところが好きよ。」
「私もオノカのそういうところが好きですよ。」
オノカはカミュの胸の中に黒い箱の機械をとりつけ、残った僅かな隙間に金属の心臓をはめこむとモニター画面をその上から取り付けた。
「モニターに映すかどうかはあんたの好きなように決めていいわよ。映したくないときもあるかもしれないからね。」
「それはありがたいですね。」
「ねえ、ヘイズが言ったこと覚えてる?」
「どのことでしょう?」
「あたしたちの結びつきが道を開くだろうって言ってたじゃないの。カミュ、なにかいいアイデアはあるの?悪いけどあたしは何も思いつかないのよ。」
「やれやれ…ヘイズの話し方はまるで謎々のようで理解するのが難しいですね。適した進路が見つけられるかどうかはわかりませんが、ここへついた日からすべての上空の磁気の嵐の記録はしています。磁気が弱まる場所が出現するパターンがある程度解析出来るかもしれません。」
「さすがカミュ!すごいわ!船が出来上がるまでに間に合うといいのだけど…。」
「いまから作業に集中してみます。」

翌日とうとう船は完成した。エンジンの仕上がりはオノカとゼノが納得いくものだった。カミュのコンピューターでの飛行シュミレーションは上々だった。
「エンジンの調整でこの辺を飛んだ感じだといけると思うわ。このまま出発しましょう。」
最後のエンジン調整を終えゴーグルを外しながらオノカが皆に提案した。誰も異を唱える者はいなかった。男たちはもはやオノカに絶大な信頼を寄せていた。
「この薄暗い場所からおさらばできるなんてうれしいわ!」ザティが最後に船に乗り込みながら言った。
こじんまりとした船内はすでにルニノによって居心地よく整えられていた。
エンジン室にはオノカとカミュとゼノが、船頭の操縦室ではグギが指揮をとり、アリトと他の男たちに指示を出した。
グギの指示で錨が引き上げられると、船はゆっくりと上昇していった。
エンジンの動力なしでどこまで浮游するものなのかオノカは知りたかったが、船はいつまでも上昇を止めなかった。
「オノカ、そろそろエンジンを発動すべきです。上空の磁気嵐の影響が出てきました。」制御装置の前のカミュが言った。
オノカはゼノと目で合図を交わすとエンジンを発動させた。船は滑るように空中を進んでいった。
「カミュ、どう?磁気嵐のパターンは出た?」オノカは機器から目を離さずに言った。
「磁気嵐が弱まる箇所は所々に出現するようです。この位置で待機していてもじきに上空に嵐が弱まる空間が出現する予測が出ています。」
「カミュ、嵐が弱まる方位がわかったら教えて。ゼノ、このまま待機、エンジンレベルは落とさずにいましょう。磁気嵐が弱くなったら即、突っ込むわ。」
オノカはエンジンレバーを握りしめたまま心を静かに保とうと集中した。チャンスは一度きりだと思った。失敗したらまた地面に叩き付けられてしまうかもしれないのだ。
「オノカ、前方東5、南4の方位に磁気嵐が弱まる場所が出ます。予測時間はあと5分後。突入角度をこれから計算します。」
じっとりと汗ばんできたオノカは再びコウ爺の言葉を思い出していた。
「なあに、オノカ、すべての場所には道はあるんだ、怖がる方がどうかしてるさ…」
カミュが突入角度を報告してきた声にオノカははっと我に帰った。
「進路、了解!」伝声管からグギの声が聞こえて来た。
カミュがカウントダウンを始めた。
「…1分…30秒…10秒…発進!!」
オノカがエンジンレバーを引くと同時に船は発進した。目指す方角に向けてぐんぐんスピードを上げて行く。
「磁気嵐に突入します。舵そのまま!」
やがて船は大きな衝撃に見舞われた。磁気嵐が弱くなっている地帯に突入したのだった。
「これで嵐が弱まっているっていうのかしら?」強い衝撃に耐えながらオノカはつぶやいた。時折ゼノと目で合図を交わしながらエンジンレベルを保つのが精一杯だった。
「カミュ、あとどれくらいで抜けられそうなの?」息を切らしながらオノカはカミュを見た。
「磁気嵐の中では距離は測定不可能です。このまま進むしかありません。」
移動性磁気地帯を覆っている磁気嵐の層がどれくらいの距離なのかはわからなかった。
このまま磁気嵐の層を抜ける前に嵐が強くなったら…?ふとそんな思いがオノカの頭をよぎった時、警報ランプが赤く光り部屋中を照らした。

「辺りの様子がおかしいぞ!嵐が強くなっている。舵がまったくきかねえ!」伝声管からグギの叫ぶ声が聞こえて来た。
船はたちまち操縦不能となり、嵐の中を舞う木の葉のようだった。オノカは激しい衝撃のためエンジンレバーを握りしめたまま動けなかった。
このまま再び果ての捨て場へと逆戻りしてしまうのか…地面に叩き付けられたらこの船は一体どうなってしまうのか…
オノカははっとした。また墜落してなるものかと思った。なんとしてもここから脱出するのだ。この船を壊したくない!
「グギ!しっかりして!嵐の渦に巻き込まれているわ。舵を持ち直して!」
オノカは伝声管に向かって叫ぶとゼノを見た。
「ゼノ!エンジンを逆噴射するわ!」
「なんだって!こんな衝撃の中で船を止めようってのか!何のために!?無茶だよ!」必死でエンジンバルブにしがみついているゼノが叫んでいる。
オノカは歯を食いしばって腕を伸ばしエンジン機器のスイッチを押しながら、レバーを引き上げた。にぶい音と振動が船底から伝わってきたと同時に船の回転がゆっくりとなりやがて止まった。
「ぎゃ…逆噴射できたのか…オノカ、どうするつもりなんだ?このままだと船はばらばらになるぞ。」
オノカは息を整えた。いちかばちかの賭けだった。
「磁気嵐の中で流されずに留まっている間に船の後方には磁気のエネルギーが貯まるはずよ。船頭方位に磁気嵐の弱まる空間が出来たらエンジンの逆噴射を解除すれば船尾に集まっている磁気嵐のエネルギーに一気に押し出されるわ。その衝動を利用して加速すればこの磁気嵐の層を突破できるかもしれない。」オノカはゼノとカミュ、そして伝声管にむかって呼びかけた。
「みんな、頑張って持ちこたえて!次に船頭に嵐が弱まる方位が出たら一気に突入する!」
必死に船を保っている時間が永遠にも思われたとき、カミュの声が聞こえてきた。
「前方に嵐が弱まる地帯が出ます。出現予測は5分後、舵そのままで待機してください。」
オノカはエンジンレバーを強く握りしめ続けたため指先の感覚がなくなってきた。
「1分…30秒前…10秒…エンジン逆噴射停止、すぐに再始動!」
船は轟音と激しい衝撃と共に発進した。最初の突入とは進んでいくスピードが格段に違った。
行ける、必ず脱出する、コウ爺だって、ダイ・スカイ船長だっていつも嵐の中を進んできたわ。この船にだってきっと出来る!ヘイズだってそう言ってたじゃないの!
歯を食い縛ったオノカが目を上げたその時、ふいに激しい衝撃が止み、船は眩いばかりの光に包まれた。
オノカがゼノの顔を見た瞬間、伝声菅から男達の歓声が聞こえてきた。
「カミュ、嵐を抜けたの?」
「はい、抜けたようです。もう磁気の影響がありません。今現在地を確認中です。」
「オノカ、みんなのところに行こう!」ゼノがオノカの手を引き、二人はエンジン室を飛び出して操縦室へと走った。
操縦室へ入ると広々とした窓から光溢れる景色が目に飛び込んできた。
「やったわ!とうとう脱出できたわ!」オノカとゼノは抱き合って喜びあう皆の中になだれ込んだ。
船は光に溢れどこまでも続く雲海を進んでいた。
オノカとザティは手をしっかり繋いで外の景色に見とれた。
「今度こそ、外の世界に出られたのね…」
ロイテ島から出たことのなかった二人には感慨深い景色だった。

「オノカ、現在地が出ました。」
操縦室へやってきたカミュがオノカに言った。
「我々は果ての捨て場に滞在している間にかなり移動していたようなのです。ここからカピタリまではもはや1~2日の距離です。」
子供達は顔を見合わせた。
「そんな…カピタリまでそんなに近いところまで移動してきたなんて…」
オノカは複雑な心境だった。果ての捨て場から脱出することに精一杯で、カピタリに行く心の準備が全くできていなかった。
「すごいわ!ラッキーじゃないの!果ての捨て場から脱出できた上に、もうカピタリのすぐ近くまで来てるなんて!ルニノ、ナキトゥ、よかったわね!」
ザティは手放しで喜び、ルニノとナキトゥに抱きついた。
オノカはダイ・スカイ船長の事を思い出していた。無線が使えるようになったらすぐにでも連絡をとるつもりでいたのだった。
「カミュ、ダイ・スカイ船長と無線を繋げて。ダイ船長の船のコードは入力してあるわ。」オノカはカミュの前に座った。
「了解です。」カミュの目が赤く点滅しだした。
「ダイ・スカイ船長の船が無線に反応しました。…こちら、船番号248、コードネームはオノカ、ダイ・スカイ船長、応答願います。」
ガガーという雑音が聞こえ、やがて聞きなれた声が流れてきた。
「オノカ!オノカだって?一体どういうことなんだ?」ダイ・スカイ船長の声だった。
「ダイ船長!あたし達、今カピタリの近くまで来ているの。あと1~2日でつくわ。」オノカはダイ船長の声を聞いて心からほっとした。
「なんだって!?誰の船に乗ってるんだ?カピタリの近くまで来てるだって?」
「あたしも一緒よ!ルニノとナキトゥもいるわ。」嬉しくなったザティが呼び掛けた。
「あたし達、キノン島の船乗り達と一緒なの。ロイテ島を出てすぐに果ての捨て場に引き寄せられてしまったのよ。ついさっき脱出できた所なの…」オノカが話す途中から無線に雑音が入るようになり、ダイ・スカイ船長の声が途切れ途切れになった。
「…ノカ、…くな…。カピタリに……必ず……マツミ・ツァンの店へ行け…オノ…聞こえるか?……マツミ・ツァンの店へ行け!」
ダイ・スカイ船長の声はザー…と雑音にかき消され、無線は途切れてしまった。
皆は顔を見合わせた。
「カミュ、無線が通じないの?」
「ダイ・スカイ船長の船は現在ここからかなり離れた東の方角にいます。遠すぎて無線が通じづらいようです。」
「『マツミ・ツァンの店』へ行けって聞こえたわ。そんな店があるの?」
「カピタリのすぐ手前の島に「バル•リガーリ」という合法酒場があります。その店の店主の名前が『マツミ・ツァン』というようです。」即座に通信し検索しながらカミュが言った。
「ダイ・スカイ船長はカピタリに行く前にマツミ・ツァンの店へ行けって言ったのかしら…」
オノカにはダイ・スカイ船長が言った意味がよくわからなかった。
「ダイ船長が言うんだもの、行った方がいいと思うわ。それにどっちみち水も食べ物もないのよ、どこかには寄らなくちゃ。」ザティがきっぱりと言った。
「お、おい…」それまで沈黙を守っていた男達だったがグギが恐る恐る口を開いた。
「ダイ・スカイ船長って、まさか、あの、ダイ・スカイ船長のことじゃないだろうな…?」
「あら、そうよ。ダイ・スカイ船長って他にもいるの?」
ザティが不思議そうにグギを見た。
「君達はあのダイ・スカイ船長を知ってるのか、あの人は船乗りの中では伝説となっているんだぞ!」ゼノが目を丸くしている。
「ダイ・スカイ船長はよくロイテ島に来るのよ。あたしたち、小さい頃からよく知ってるわ。あんた達がロイテ島に来る少し前にもひと月くらいいて船のメンテナンスをしていったわ。」ザティがあっさりと言ってのけた。
「まったく、お嬢さん達には何度も驚かされるなあ。だが、ダイ・スカイ船長の知り合いなら、オノカの腕前も納得出来るってもんだ。」アリトが頭を掻きながら言った。
「よくわからないけど、ダイ・スカイ船長の忠告は聞いたほうがいいと思うわ。あたし達がカピタリに行くことを反対していたんだし。そのマツミ・ツァンの店で何かわかることがあるかもしれないわ。」オノカとザティの意見に男達は反対しなかった。合法酒場と聞いては悪い気はしないのだった。
やがてカミュが方角を指示し、船は静かに光に溢れる雲海を進んでいった。

第五章 バル•リガーリ

船は雲の海を穏やかに進んでいた。
カミュの計算によると目的地まではあと僅かだった。エンジンの調子は落ち着いていたため、アリトとグギに操縦はまかせ、子供達は甲板で気持ちの良い風に吹かれていた。
「ああ、果ての捨て場から脱出できて本当に嬉しいわ。もう二度と行きたくないわね。カミュ、果ての捨て場に引き込まれない方法はあるの?」気持ち良さそうに髪をなびかせながらザティが言った。
「果ての捨て場…移動性磁気地帯は応都中にいくつか存在するようですが数ははっきりしていません。磁気嵐はレーダーで拾えないため正確な位置を予測するのは難しいですが、船の機器の動作が乱れることがあったら磁気嵐が近づいていると考えてできるだけ離れるしか避ける方法はありませんね。」
今では不自由なく通信できるようになったカミュの声は生き生きしているように聞こえた。
「果ての捨て場っていくつもあるの?あたしてっきりひとつしか存在しないと思ってたわ。どこにあるかもわからないんじゃ、またいつか引き込まれてしまうかもしれないってことか…怖いわね。」ザティはぶるっと身体を震わせた。
「移動性磁気地帯に遭遇する確率は非常に低いので、今回は稀な事態だったと言えるでしょう。」カミュは淡々としたものだった。
「あたしはいつかまた行ってみたいな。あんなにたくさんの素晴らしい機械が眠っているんだもの。浮遊材だってまだ数えきれない程あったわ。」オノカが夢見るようにつぶやいた。
「やれやれ、オノカにはついていけないわね。危機一髪で脱出できたと思ったらまた行きたいなんて。果ての捨て場に引き込まれないうちにあたしは何か食べる物が残ってないか見てくる事にするわ。」肩をすくめるとザティは船内へと消えていった。
ルニノとナキトゥは果ての捨て場を出たあとからずっと二人手をつないで広がる景色を黙ってみつめていた。時折二人で静かに話していることもあり、オノカはそっとしておいた。

「ロイテ島を出るのも初めてだったのに、こんなに遠くまで来てしまったなんて、何だか不思議な感じがするわ。」
オノカはゼノに向かって言った。
ゼノはカミュの目を双眼鏡にして遠くを眺めていた。
「あんなにたくさんの船が出入りしている島なのに、今まで外に出たことがないなんて驚きだな。君なら自分専用の小型船でロイテ島近辺を飛び回っていてもおかしくないのに。」
「ザイショウが絶対に島の外には出してくれなかったの。コウ爺やダイ•スカイ船長が来たときにも頼んだことはあったけど駄目だったわ。おばあちゃんはいつもあたしたちが家を出かけるのでさえ心配していたわ。お守りを持っているかいつも必ず心配するの。」オノカは首のお守りに触れながら言った。たぶんザイショウとトゥクタン、そして島の人々がみんなで祖母の面倒を見ていてくれているだろう。ただ、オノカとザティがいなくなって祖母はとても悲しんでいるに違いないと思った。
「いつかキノン島にも行ってみたいわ。」オノカは遠くを眺めながら言った。
「絶対連れていくよ。母さんに君を会わせたいな。」ゼノは望遠鏡を覗きながらつぶやいた。
「オノカ、そろそろライ島が見えてくるはずです。」カミュの声にはっとしたオノカは目をこらした。
カミュが指差す方向の雲間からやがて島らしき影が見えてきた。
「初めての着陸ね、ゼノ、行こう!」
オノカとゼノは着陸に向けてエンジンルームへ向かった。
「わーっ、ゼノ、目を入れて下さい!」慌ててカミュが後に続いた。


応都は広大な領土を持つ国であり、地方に点在する大きな都市ごとに繁栄しそれぞれ地方都市特有の政治と文化が発達していた。
カピタリは応都の首都と定められてはいたがこれまでその政治の範囲の及ぶ所は他の地方都市とさほど変わらずカピタリ周辺の地域のみであった。
数年前にカピタリの総裁が交代してから政策が変わりつつあり、最近ではカピタリは首都としての存在を強く強調する政策を打ち出していた。

カピタリから高速艇で数時間ほどの距離に、合法酒場が集まっている島、「ライ島」があった。
新条例でカピタリでの飲酒が禁止されて以来、カピタリを訪れる貨物船の船乗り達はライ島の酒場で酒にありついていた。
「バル•リガーリ」は禁酒条例が出る前から営業している古い酒場で、数ある酒場の中でも抜きん出て評判の高い店だった。酒の質がよく種類も多いことからいつも客で溢れていた。数多い客同士での交流も盛んでそれがさらに酒場を訪れる客を増やしていた。
目の前が港だというのに店の中はいつも薄暗かった。素状を知られたくない客はこの薄暗さを好み、店の奥でお互いに極秘の情報交換をするのだった。
店主のマツミ•ツァンは豊かな栗色の髪を持つ美しい女だった。豊満な身体を赤い革のスーツで包み、黒革のエプロンが姿を引き締めていた。
客の好みが激しく、気にいらない客はカウンターにつくことも許されずとっとと店から追い出された。そんなときには肩にいつも鎮座している真っ黒な小猿が活躍するのだった。
カウンターにはモニター画面があり、港に出入りする船の様子がわかるようになっていた。マツミ・ツァンは大抵モニター前の席に座り、客の相手をしながらも港に入ってくる船のすべてにさりげなく目を光らせていた。

昼下がりにもかかわらずバル・リガーリの客の入りは上々だった。船乗り達はライ島では昼夜構わず酒を飲んだ。
馴染みの客と愉快そうに言葉をかわしていたマツミ・ツァンだったが、一瞬モニター画面に目を止めると訝しげに眉をひそめた。やがて肩に乗っている黒い小猿に囁いた。
「ベンテツ、悪いがちょいと盛り上げてもらえないかね。」
ベンテツと呼ばれた小猿は辺りを見回し目星をつけるとマツミ•ツァンの肩から大きく跳び跳ねた。真っ黒な毛並みは光の具合によっては金粉が散りばめられたようにも見えた。ベンテツは店の奥のテーブルで酒を楽しんでいる数人の男達の所へすばしっこく駆けていき、一人の帽子をかっさらい頭に乗せるとテーブルの真ん中にすまして座った。店の人気者のベンテツの仕業に気をよくした男達は上機嫌で大声で笑い、ベンテツから帽子を取り返そうとする男を手を叩いて囃し立てた。その騒ぎに店じゅうの客が気を取られているのを見るとマツミ・ツァンは満足げに再びモニター画面に視線を戻した。
画面には見慣れない中型船が港に入ってくる姿が映し出されていた。雲海に浮かぶ船の下方が輝いているのに気が付くとマツミ・ツァンは小さく舌打ちをした。

ライ島は小さな島で、港周辺から所狭しと酒場がひしめきあい、僅かに残された緑の草木は島の端に追いやられた味気無い島だった。
緑豊かなロイテ島しか知らないオノカには船の上から見える光景が珍しかった。建物がこんなにお互いにくっついて建てられている所をこれまで見たことはなかった。
小さな港にはすでに中型船や小型船が停まっていたが人気はなかった。船乗り達は皆酒場へ繰り出していたのだった。
グギの指示で港のはずれ、だが目は届く場所を目指してゆっくりと船を進め、岸につくと男達は船を降り手際よく船を港につけた。
ゼノの手を借りて少女達はおそるおそる初めての地に降り立った。
「あれがバル•リガーリです」カミュが港広場に面して建っている店を指して言った。古びてはいるが趣のあるがっしりとした石造りの建物だった。トゥクタンの店のようだとオノカは思った。
「さあ、酒場には大人について入るもんだぜ、お嬢さん方。」グギが胸を張って皆の先頭に立ち、店のドアに手をかけると躊躇なくぐっと開けた。
店の中は薄暗く、さらに煙草の煙が充満し、入ったはいいもののオノカは最初は何も見えなかった。
店内は賑わっていたが、見慣れない船乗りと子供達が入ってきたのに気づくと瞬時に静まり返り、扉につけられた鈴の音が空しく鳴り響いた。
オノカは店中の目が自分たちに注がれているのを感じた。沈黙を破るようにグギが咳払いをした。
「悪いが、席はあるかね?」店員を探して辺りを見回しながらグギが言った。
「席はあるかね?だとよ。」しゃがれた声がグギの言い方を真似て繰り返すと、どっと笑いが溢れた。
子供達は居心地の悪さを感じてお互いぴったりと寄り添った。歓迎されていないのは明らかだった。
「子連れの船乗りたぁ、近頃珍しいもんがいるもんだ。」しゃがれた声が言うと、再び店内が沸いた。誰かが汗と煙草の匂いと共に近づいてきた。
「見ねえ顔だな。子供に飲ませる酒はないぜ。とっとと失せな。酒が不味くならぁ…」
言い終わる前に鈍い音がしたと同時に男はいきなり前につんのめり床に崩れ落ちた。暗闇に慣れてきたオノカの目に、男を後ろから蹴り上げた足を降ろす女性の姿が見えた。
「悪いが、うちは上品さが売りの店でね。」静まり返った店内にマツミ•ツァンの声が響いた。
「何しやがる、この女!ちょいと評判がいいからってつけあがりやがって!俺を誰だと思ってるんだ!」
「知らないね。見たとこ成り上がりの下衆な野郎だがね。」マツミは容赦なく嘲った。
「ベンテツ、お会計だとさ。」マツミの肩から飛び跳ねたベンテツは倒れたままの男のポケットからあっという間に金貨を探りだすと鋭い歯を見せて凄んだ。
「生憎だが釣りを切らしていてね。消えな。」マツミの声は氷のようだった。男は怖じ気づいたかのように青い顔をして慌てて店を飛び出していった。
マツミは静まり返った店を見渡した。
「しらけちまって悪いね。最後の酒はあたしのおごりだよ。今日はもうしまいだ。」
客達は気まずそうに酒を飲み干すと一人、二人と店を出て行き、やがて最後の客が出て行くと店員らしい年配の男が扉を閉め鍵をかけた。
客を見送っていたマツミ•ツァンは肩をすくめると勢い良くくるりと振り返り、黒いロングブーツで床を大きな音で踏み鳴らしながら近づいて来た。栗色の髪はいまや怒りで赤みを帯びて輝いていた。

「まったく、あんな目立つ船でやってくるなんて、いったいどういうつもりなんだい。」マツミ•ツァンはオノカ達の前に立つと皆を睨みつけた。
「あの…あたしたち、ダイ•スカイ船長に言われてここに来たんです。マツミ•ツァンの店へ行けって…。」オノカは思い切って言った。
「ふん、いかにもあたしがマツミ•ツァンだがね。」マツミは鼻を鳴らしながら不機嫌に言った。
「酒場の店主って…。」ザティがオノカを肘でこづきながら囁いたのがマツミにも聞こえたようだった。
「なんだい、酒場の店主は皆男だとでも思ったかい。悪いがこの島であたしよりマシな男の店主がいたらお目にかかりたいもんだね。」腕組みをして立ったマツミはザティをじろじろ見た。ザティはすくみあがった。
怖そうだけど綺麗な人だとオノカは思った。ビエリのうなり声が聞こえないところをみるとどうやら悪い人ではないらしい。

「ダイ船長からは聞いてるが、あいつの頼みでなきゃあんた達みたいな面倒な客はお断りだね。あれほどの浮遊材を使った船を一体どこで手にいれたんだい。しかも光るがまま乗り回してるなんて、カピタリ政府に目をつけられるのも時間の問題だよ。」
子供達は顔を見合わせた。船がそんな問題を起こすとは考えてもいなかった。オノカは浮游材が光を帯びる性質の事をすっかり忘れていた。
マツミはため息をついた。
「まあ座んな。イバン、酒と、この子らにも何か持ってきておくれ。」マツミはカウンターに控えていた年配の男に声をかけると煙草に火をつけ吸い込み、船乗りたちにも勧めた。
「ダイ船長からの通信が聞き取りづらくてね、で、カピタリに行きたいやつは誰なんだい。」
どんどん進むマツミの話についていけなくなりオノカは頭がぐらぐらしてきた。この人はダイ船長からどこまで話をきいているのかしらと思った。ルニノとザティの顔をそっと見ると二人はまっすぐにマツミを見ていた。
「私はルニノと言います。この子は妹のナキトゥ。私達がカピタリに行けるようにここにいるみんなが助けてくれたんです。」ルニノははっきりとした声で話した。
マツミ•ツァンは煙草の煙をゆっくり吐いた。
「ふうん…。お前さん達はどこの島の出なんだい。」
ルニノは暫し黙った後ゆっくり口を開いた。
「セクレタ島。地図にも乗らない小さな島です。」
オノカとザティは顔を見合わせた。初めて聞く名の島だった。
マツミはルニノの顔をじっと見つめた。それからナキトゥの顔も見た。マツミの顔が一瞬苦痛で歪んだように見えたオノカは目をぱちぱち瞬いた。
マツミはまた煙草の煙をゆっくり吐き出した。
「なんでまたカピタリに行きたいんだい。」
「カピタリに行けば子供は知りたいことは何でも学ぶことができると聞いています。私達は島の将来のために送り出されたんです。」ルニノが言った。
マツミは腕をくんで眉をしかめた。
「そうかい…。島のためにね…。」少し和らいだ声で言うと今度はオノカとザティの方をじろりと見た。
「あたしはオノカ。こっちは妹のザティよ。」慌ててオノカがマツミに言った。
「ふうん…辺境の地ロイテ島から来たってのがあんたらかい…。ダイ船長からは、オノカとザティをこの店で預かってくれと言われている。必ず迎えに行くからそれまで絶対にこの店にいるようにだとさ。まったく、人の店をなんだと思ってるんだろうね。」
マツミがぼやくと同時にイバンと呼ばれた男が盆いっぱいの酒とグラスをテーブルに運んできた。続いて子供達のための飲み物と、たっぷりの料理も運ばれてきた。
「さあ、遠慮なくやってくれ。」
一同はマツミの顔を伺い、そしてお互いの顔を見ると、一斉にグラスを取り飲み干した。ザティとナキトゥが皆に料理を取り分けてやる側から皆は一斉に勢いよく食べては飲んだ。
飲み物は良く冷え、甘く心地よく喉を通り身体に染み込んでいった。大人達はこれほどうまい酒は飲んだことが無いと思った。出来立てで湯気の上がった料理はこれまで食べたことのない味付けで皆夢中になって舌鼓を打った。こんな時でさえザティはこのレシピを教えてもらえないかしらと思った。

皆が食べる様子を煙草をふかすのも忘れてみとれていたマツミはやがてあきれたように言った。
「いったいどうしたっていうんだい、まるで豚のような食べっぷりじゃないか。何日も食事をしてなかったわけでもあるまいし…。」
「あたしたち、果ての捨て場で食べ物も水もほとんど無くなってしまったんです。」
口の中いっぱいの食べ物をなんとか飲み込むと急いでオノカは説明した。
マツミの口から煙草がぽろりと落ちた。
「なんだって?あたしの耳がイカレちまったんじゃないだろうね、今、「果ての捨て場」って言わなかったかい?」
「ええ、あたしたち、果ての捨て場に巻き込まれてしまって、不時着したんです。乗っていた船は壊れてしまったの…でも、浮遊材がたくさんあって…エンジンやいろんな機械もあったわ…それで、船を作って脱出してきたんです。」
「ずいぶんと簡単に言っちまったが…ちょいと待ちな、果ての捨て場から脱出してきただって?あんた達がかい?とてもそんな風にはみえないが……あの船を作ったっていうのかい?あんた達だけでかい?」マツミは心底驚いているようだった。
「エンジン工は誰なんだい。」マツミは男達の顔を眺めながら言った。男達は一瞬食べるのをやめ、ゼノを見、そしてオノカを見た。
「エンジンの整備はあたしとゼノがやったわ。」
「驚いたね。大人達は何をやってたんだい。」アリトとグギはむせこんだ。
マツミは暫く黙って煙草をふかし何やら考え事に耽り、その間皆は食事を思う存分堪能した。
酒がまわり男達が陽気になって来た頃、唐突にザティが切り出した。
「あのう、カピタリってどんな所なの?あたし達の島に寄った船の中にはカピタリを目指す船もいたけど、みんな口を揃えて『カピタリに行けばやりたいことは何でもできるらしい』って言ってたわ。それはほんとうなの?」
一同は静かになりマツミの返事を待った。皆が気になっていたことだった。
「へえ、カピタリの噂がそんな遠くにまで行っているとはね。」マツミは煙草の煙を細く長く吐いて遠くを見ていたが突然高らかに笑い出した。
「やりたいことは何でもできる、か、こりゃいいや、ものは言いようだね。あっははは…」マツミがあんまり笑うので、一同は皆思わず顔を見合わせた。やがて笑い過ぎて出た涙を拭くとマツミは真剣な顔を一同に向けた。
「あたしはもう何十年もここで酒場をやってるが、数年前にカピタリの総裁が交代してからだね、そんな噂を聞くようになったのは。昔からカピタリは応都の首都といっても名ばかりでね、応都は地方の都市がそれぞれ独自に栄えるがまま成り立ってきた国なんだ。今の総裁は首都としての威厳を取り戻すとかなんとか言っててね。やたらと理想の都市像を語っているよ。新しくカピタリの住民にならないかとも大々的に宣伝してるね。理想の住民数に達したら閉鎖都市にしてその後は自由にカピタリに出入りはできなくなるって噂だ。理想的な都市カピタリにふさわしい理想的な住民が未来永劫素晴らしい暮らしをするんだとさ。理想、理想って聞き過ぎて反吐がでる寸前だよ。」
マツミの痛快な言葉使いにオノカとザティはこっそり顔を見合わせた。
「だが応都は豊かな都市ばかりじゃないからね。船乗り達に噂が流れると貧しい島出身の奴らがカピタリの住民になりたいとやってくるようになった。皆、お前さん達が言ったように、カピタリに行けばやりたいことはなんでもできるらしいと聞いてやってくるのさ。馬鹿馬鹿しい。カピタリに行かなくともやりたいことなんて何でもできるものじゃないか。あたしは生まれてこの方やりたいことしかやってきてないがね。」
オノカはマツミの最後の言葉になんとなく共感を覚え、ますます何故大勢の人々がカピタリを目指すのかがわからなくなってきた。
マツミは新しい煙草を取り出し火を付けながらルニノとナキトゥを見た。
「まあ、来ちまったもんは仕方ないね。自分の目で確かめてみるがいいさ。どうしてもカピタリに行きたいらしいからね。」
ルニノとナキトゥはじっとマツミを見たままだった。

「さて、」マツミはじろりと一同を見ると片方の眉を上げた。
「あんな目立つ船はとっととこの島から出て行ってもらいたいね。」
皆は驚いて顔を見合わせた。
「そんな…やっと着いたばかりなのに。」ザティは恐れもせず愚痴を言った。
「どうやらあんた達にはあの船の価値がわかっていないようだね。カピタリ政府の船が噂を聞きつけてここにやってくるのも時間の問題さ。みつかったら船は没収されるだろうし、今や新たに手に入らないはずの浮遊材をどこで手にいれたのか詰問されるだろうね。面倒な事になる前にここを発つんだ。まったく、光を隠さずに飛ぶなんてどうかしてるよ。あたしの知り合いの整備工場が近くの島にあるからそこで塗装してもらうといい。そして故郷に帰るがいいさ。カピタリの支配の及ばない遥か遠くの地ならその船を乗り回しても問題ないだろう。くれぐれも目立たないことだよ。ところであんたらはどこの船乗りなんだい?」マツミは男達を見た。
「キノン島です。」ゼノが答えた。
「キノン島だって?」マツミの顔つきが変わった。
「キノン島の船は行方がわからなくなって久しいと聞いているが。」
「もう一年以上前になります。船には僕の祖父と父も乗っていました。」
「父親の名は?」
「イアニス」
マツミはゼノの顔をじっと見つめた。
「そうか…お前さんはイアニスの息子なのか。」
「父さんを知っているんですか?」ゼノの声は震えていた。
「あたしは昔からキノン島の船乗り達が気に入っていてね。気だてのいいやつらさ。彼らには借りがあってね。昔、世話になったことがあるんだ。そうかい、イアニスの息子に会えるとはね。あんたらの船には食料と水をたっぷり積ませてもらうよ、酒もね。それでも借りを返せないくらいの恩があるんだ。キノン島の船の情報が入ったらすぐに知らせるよ。悪いことは言わない、夜のうちにこの島を出るんだ。」
ゼノと船乗り達は何も言えなかった。
マツミはルニノとナキトゥの方を見た。
「カピタリにはここから高速艇が出ているからそれに乗るといい。昼前には出発するよ。住民を増やそうと躍起になっているからね、船賃はただなんだ。見え透いた魂胆じゃないか。」
マツミは今度はカミュとビエリをじろりと見た。
「ダイ船長からはオノカとザティの事しか頼まれてないんだがね、その犬と、おっそろしく旧式のアンドロイドは何なんだい。」
「あたしたちと一緒にロイテ島から来たのよ。」オノカはそう答えたがマツミの言い方が気になった。
「犬は役にたちそうだね、番犬としてね。だがあたしはアンドロイドが大嫌いでね。昔からアンドロイドとは関わらないようにしてきたのさ。そいつもごめんだね。ゼノ達と一緒にいっちまったらどうだい。」マツミの声は容赦なく冷たかった。
オノカは怒りでかっとなり立ち上がった。
「カミュはあたしが作ったのよ。一緒にいられないならたとえダイ•スカイ船長が言ったことだろうと、あなたの世話にはなりたくないわ。ゼノ達と一緒に行くかルニノ達と一緒にカピタリに行くわ。」
マツミは一瞬鋭い目でオノカを見たが、すぐに高らかに笑い出した。
「威勢のいいお嬢さんだね。まあいいさ、あんたの好きなようにするがいい。」

マツミはイバンに船に積む荷の手配を言いつけ、その間にザティとナキトゥは皿洗いをして綺麗に片付けた。
オノカはルニノとゼノの側に力なく座ったままだった。
こんなに早くゼノ達と別れる時がくるとは思っていなかったのだった。寂しさが強くこみ上げ、なんとも言えない喪失感にオノカは押しつぶされそうだった。
「ゼノ、ロイテ島に寄ってくれる?」
「もちろんだよ。僕らの仲間を置いて来てしまったからね。」
「ザイショウとトゥクタンに私たちの無事を伝えてね。船の無線を使って連絡してね、カミュとつながるから話せるわ。それから、私達のおばあちゃんにも会ってきてくれない?お守りはいつもちゃんと持っているって言ってね。」
「もちろんだとも。」ゼノは厳かに誓った。

辺りが暗くなるまで船乗り達は旅に備えて店で暫し休息をとった。
周辺の酒場が賑やかになって来た頃、マツミが言った。
「さあ、いい頃合いだよ。」
一同は闇にまぎれて船を目指した。マツミの言う通り酒場が繁盛している時間帯は通りには人気は殆どなかったため、注目を浴びる事もなく船に荷を積み込んだ。
少女達は一人一人と固く抱き合い別れを惜しんだ。今では皆深い友情で結ばれていたのだった。
オノカは別れがつらくて涙がとまらなかった。オノカがあんまり泣くので男達もつられて涙ぐんだ。
「オノカ、お前さんは俺が知っているエンジン工の中でも最上の腕前だよ。」グギは鼻をすすりながらオノカを抱きしめた。
「俺たちはすぐにあんたの料理が恋しくなるだろうよ。」アリトは涙ながらにザティとの別れを惜しんだ。
そして船乗り達は皆、どうしてもカピタリに行くというルニノとザキトゥの事を心から心配するのだった。

「これ…時間がなくてあまり綺麗に仕上がらなかったんだけど…果ての捨て場にあった部品で作ったんだ。」
ゼノが、ザティ、ルニノ、ナキトゥに何かを差し出した。
「ヘイズからもらったあの小さな木を入れるのにいいと思ってね。」
ゼノは小さなカプセルに鎖をつけたのを皆に渡したのだった。子供達は言葉も出ず胸がいっぱいだった。皆自分のカプセルを首にかけぐっと握りしめ、お互いしっかりと見つめ合った。
マツミが沈黙を破った。
「さあ、そろそろ出発したほうがいいね。船乗りのしきたりにのっとって、無事を祝って乾杯といこうじゃないか。船の名はなんていうんだい。」
名は決めていなかった。オノカはゼノを見た。
「フィリアス号はどうだろう。僕たちの故郷の言葉で『友情』という意味だ。」ゼノはオノカをじっと見つめながら言った。
「いい名前だわ。」オノカは心から満足して言った。
皆がグラスを掲げるとマツミが言葉を贈った。
「フィリアス号に、勇気の旗を!」
「クラージョ!」ゼノと船乗り達が一斉に言い、乾杯となった。
グラスを空にするとオノカ達は船を降りた。

港から船を眺めながらたまらずオノカはザティにしがみついた。ビエリとカミュが優しく寄り添った。
「いい船じゃないか。」マツミが言った。
船は音もなく動きだし、やがて方向を変え、港を後にした。
ほんとうに素晴らしい船だとオノカは思った。初めて自分が作った船との別れは辛く悲しいものだった。

その夜は店の2階の一部屋を借り、オノカとザティ、ルニノとナキトゥは寝床に入った。だが翌日にはルニノとナキトゥとも別れることになると思うとオノカはたまらず、長旅で疲れているにもかかわらず眠りにつくことができなかった。
オノカはルニノに聞いた。
「どうしてもカピタリに行くの?マツミ•ツァンの言い方だとカピタリの印象があまり良くない気がして…。」
「それでも、行くわ。」ルニノの決心は固かった。オノカはため息をついた。
「カピタリまで送っていけると思ったのに。ここまで来てカピタリに行けないなんて。」ザティが口を尖らせた。
オノカも、ルニノと別れるのが寂しいこともあって、カピタリまで送っていけたらいいのにと思った。

翌日オノカとザティはマツミと共にルニノとナキトゥを高速艇乗り場まで見送りに行った。カミュとビエリも後に続いた。
店の目の前の港広場は大勢の人でごった返していた。港には銀色に光る大型船が停まっていた。木製の船しか見た事のなかったオノカは、一体何の素材で出来ているのだろうと不思議に思った。
「高速艇は一日に一便だからいつも満員だよ。船着き場まではぐれないように気をつけな。」一緒に来ていたマツミが周りに目を光らせながら少女達を率いて歩いた。
船に乗る人が多いといったってこれは多すぎるとオノカは思った。
カピタリに出入りする貨物船の乗組員達は自分たちの船はカピタリに停泊させたままで皆この高速艇でライ島にやってくるのだった。船賃が無料だということもあって一日一便の船はいつも人で溢れていた。
船に近づくにつれ人の数は多くなり、やがていつのまにかオノカとザティ、ルニノとナキトゥの4人は人の波に囲まれ身動きがとれなくなってしまった。
突然マツミは後ろから肩を強く捕まれた。振り向くと昨日酒場から追い出した男が目に嫌な光を湛えて立っていた。
「おい、昨日は世話になったな。」
マツミは舌打ちをした。今はこんな男を相手にしている場合ではなかった。
「誰だい、記憶にないね。」マツミは軽蔑を込めて吐き捨てると子供達の後を追おうとした。
「おっと、待ちな」
マツミの前に図体の大きい男達が数人立ちはだかった。
「俺を誰だと思ってやがるって、昨日言ったはずた。」
マツミは顔をしかめて人混みを見た。辺りはますます人でごった返し、子供達の姿はすでに見失っていた。

「マツミ・ツァンがいないわ!」ザティがオノカに向かってどなった。気がつくとカミュとビエリの姿も見えなかった。焦ったオノカは動ける限りの範囲で辺りを見回しながら「カミュ!ビエリ!」と叫んだ。するとすぐ隣にみっちりとくっついて進んでいる男が「うるせえな、耳元で大声だすんじゃねえ。」と凄んできた。オノカは驚いて声を飲み込んでしまった。少女達はいまや人の波に押されて船の乗車口へと近づいていた。やがてそのまま4人は船の中へ押し出されてしまった。人込みからやっと頭を出し息も切れ切れにザティが言った。
「オノカ!あたし達まで船に乗ってしまったわ!降りなくちゃ!」
しかし船内に押し寄せてくる人混みの中を逆走することなど到底不可能だった。4人ははぐれないようにお互いの手をしっかりと握りあった。いつのまにか押され押されて窓の側に頭が出たオノカは息を飲んだ。
外の景色が動いていた。
すでに船は出発し雲の海の上を滑るように進んでいたのだった。
「ザティ…もう、降りられないわ…船はもう出発してしまったわ。」オノカは力なくつぶやいた。
少女達は呆然と窓の外の景色を眺めるしかなかった。

第六章 シュコーラ

少女達は暫くは身動きがとれなかった。やがて乗り込んだ人々は広い船内へと散って行き、やっと自由に動けるようになるとオノカは大きく息を吐いた。
「カミュとビエリは?マツミ•ツァンも船に乗っているのかしら?」

いつもならどんなところにいてもビエリはすぐにオノカとザティの側に駆けつけてくるはずだった。
少女達はおそるおそる辺りを見渡した。
船内にいるのは見たところひげ面の荒くれた船乗りばかりだった。出航ぎりぎりまで酒を飲んでいたのかかなり酔っている様子の者も少なくなかった。
オノカ達がいるフロアは、壁の片側一面が窓になっていて外の様子がよく見渡せた。窓の外には一面雲海の景色が広がっていた。
フロアにはテーブルや長椅子もあり、船内に散った人々はいまやそれぞれ好きな場所を陣取りくつろいでいた。
壁には大きなモニター画面がいくつもかかり、映像が映し出されていた。
「船の中を探してみましょうよ。」オノカの言葉に少女達は船室を出た。
船室を出ると広い通路があり船の前方と後方にそれぞれ上の階へ続く階段があった。通路を挟んだ向こう側に扉があり、隣のフロアへと通じていた。広い船内は3階建てになっていて、それぞれのフロアの造りは大体同じだった。
少女たちは懸命に探したが船内のどこにもカミュとビエリ、マツミ•ツァンの姿を見つけることはできなかった。
3階はフロアが少し狭くなっていたが甲板に出られるようになっていた。
少女達はついに探すのをあきらめると、言葉少なに甲板へ出て風に当たった。
「船に乗ったのはあたし達だけだったのね。」オノカがため息をつきながら言った。
「しかたないわ。あの人込みじゃどうしようもなかったもの。いいじゃない、カピタリの街がどんなか見られるわ。あたしたち、この高速艇がライ島に引き返すときに乗って帰ればいいのよ。」ザティはこんなときいつも楽観的になるのだったが、オノカは不安で胸がいっぱいだった。
オノカは手にかいた汗をぬぐうと甲板の手すりを握った。船はすべてが薄い銀色の素材でできていて触れるとひんやりと冷たかった。オノカはこんな素材で出来ている船を見た事がなかった。船のエンジンの音はほとんどわからない位だった。振動も少なく、外の景色を見なければ船が動いていることにも気づかないほどだった。

「ようこそ!願いがなんでも叶う都市、カピタリへ!」
少女達が驚いて声の方を見ると、一人の船乗りが仲間に話しかけていた。船乗りはかなり酔っている様子だった。
「なんだよ、お前、映画の見すぎじゃねえのか。」話しかけられた男は吐き捨てるように言うと横になり背中を丸めて目をつむった。
「ははは、俺ぁ、あんなとこの住民になりたかないね。仕事が終わったらとっとと国へ帰らぁ。」酔っぱらった船乗りは長椅子に寝転がった。
少女達は顔を見合わせた。ナキトゥはルニノの顔を見たが、ルニノはゆっくり瞬きをしただけで何も言わなかった。
「ねえ、中に戻ってみない?あたし、あの映画が見たいわ。」ザティが皆に声をかけた。
フロアに戻ると中央の壁には大きなモニターが3台、間隔をあけて設置され同時に同じ映像が流れていた。映像を見ている乗客はおらずはっきりとした音声が静まり返ったフロアに響いていた。
「……人が幸せに人生を送ることのできる方法は科学的に証明されています。カピタリでは人生を楽しみたいと考える住民を募集しています。カピタリの住民になれば、あなたのやりたいことは何でもできることが約束されます。今や人は魂のレベルを上げ、さらに上層の世界を目指すべきなのです。そのためには人生を楽しむこと、常に幸せを感じていることが大切なのです。カピタリの住民になれば……。」
映像には、人々が明るい光の中で楽しげに笑い、様々なことを楽しんでいる様子が延々と映し出されていた。
オノカは映像から流れてくる言葉の意味がよくわからなかった。
「ほらね、船乗り達の噂通りじゃないの。カピタリに行けばやりたいことが何でもできるのよ。」ザティは興味深そうに映像を見つめながら言った。
「あたしは何を言ってるのかよくわからないわ… ルニノ、あなたはわかるの?」オノカは心配そうにルニノを見た。
「あたし達は…カピタリに行けば学びたい事はなんでも学べると聞いたから来たのよ。故郷の島のために、たくさん勉強したいだけ…」
ルニノはナキトゥの手をぐっと握りしめながら言った。
「それより…あなた達をここまで連れて来てしまって…ごめんなさい。すぐにライ島に戻れるといいのだけど。カミュと連絡は取れないの?」
ルニノは心配そうにオノカを見つめながら言った。
「できないわ…何も通信手段を持って来てないのよ。でも、きっと大丈夫よ。すぐに戻れるわ。」
オノカはルニノとナキトゥに笑いかけると映像から目をそらし窓の景色を眺めた。ザティは愉快そうに画面に見いっていた。
やがて少女達は窓際の長椅子に座り休むことにした。船内には飲み物や食べ物が自由に食べられるように置いてあり、ザティとナキトゥは面白がっていろいろ持ってきたがオノカは何も食べる気がしなかった。
「カピタリで好きなだけ勉強できるといいわね。やっとたどり着いたんだもの。」オノカはルニノに声をかけた。
「ありがとう。オノカとザティのおかげでここまで来れたわ。お別れが…淋しいわね。」
「あたし、ロイテ島に帰ったら自分の船を造るわ。そしてきっとカピタリへあなたを尋ねて行くわよ。そうだわ、あなた達が勉強を終えて故郷に帰るときにはあたしが送っていくわよ、覚えていてね。」
二人は朗らかに笑いあった。

高速艇は順調に進み、やがて船前方に雲の海に浮かぶ島々が見えてきた。少女達は近づいてきた景色に目を見張った。
眼下には小さな島や大きな島、緑に溢れた島や建物がたくさん建っている島があった。首都カピタリは数えきれない程の浮遊島から成り立っている大都市だった。
船はゆっくりと高度を下げていき、やがて数ある浮遊島の中でも最も大きい島に向かっていることが少女達にもわかった。
港のあまりの大きさにオノカは目を見張った。港にはこれまで見た事もないような巨大な船が無数に停泊していた。
そのほとんどがオノカ達が乗ってきた高速艇と同じような銀色の素材だった。
オノカは港と大型船の間を行き来している乗り物に注目した。宙を浮いて移動する銀色の小型艇が荷物や人を運んでいた。
銀色の小型艇は港だけではなく街のあちこちを移動しているのが見えた。
出発したときと同様に高速艇は音もなく港に到着した。船を降りる男達について少女達も出口に向かう人込みに混ざった。
高速艇を降りた男達は一斉にそれぞれの船や仕事場へと散っていき、やがて少女達だけがその場に取り残されてしまった。
「さて…。どこへ行くつもりだったの?」辺りを見渡しながらオノカがルニノに聞いた。
「それが…よくわからないの。カピタリへついてから聞こうと思ってたわ。」ルニノも辺りを見渡していた。
「誰かに聞いてみましょうよ。ライ島へ戻る便がいつ出るかも聞かなくちゃ…。」オノカが言い終わらないうちに、銀色の小型艇が少女達の近くへ飛んできた。小型艇は少女達の前で止まり、アンドロイドが降りてきた。オノカは緊張して身構えた。カミュとは全く違う姿の最新型のアンドロイドは好きではなかった。
「おやおや、子供がここで一体何をしているんです?港には荒くれた船乗り達が出入りしています。彼らは人さらいだって平気でやるんです。ここにいては危ないですよ。」アンドロイドの優しい口調に少女達はほっとした。
「あの、ここで学びたい子供が行くところはどこですか?」ルニノが尋ねた。
「ふむ…。カピタリで子供達が学んでいる所はシュコーラと呼ばれています。」アンドロイドはルニノをじろじろ眺めながら言った。オノカは身構えた。
「シュコーラに行くのはこの二人だけなの。私とこの子は帰るのよ。ライ島に戻る船はいつ出るのかしら?」オノカはザティと腕を組むと急いで言った。アンドロイドは視線をオノカとザティへ移した。
「それはそれは。残念ながらライ島行きの船は今日はもうありません。今日はあなたたちは皆シュコーラへ行って泊めてもらうといいですよ、その方が安全です。私が乗せて行ってあげましょう。」
少女達は顔を見合わせた。
「どう思う?」ザティがオノカの顔を見た。
「あたしは…港で待っていたいわ。」オノカは一刻も早くなんとかして戻りたいと思った。他にライ島方面に飛ぶ船はないのか調べたかった。
「何言ってんのよ、ここは危ないって言われたじゃないの。高速艇は今日はもう出航しないのよ、あたしは人さらいに会うのはいやよ。」
ザティの言う事はもっともだった。
「わかったわ。ひとまず、ルニノとナキトゥと一緒に行ったほうがよさそうね。」オノカはため息をついた。

アンドロイドは丁寧に小型艇のドアを開け少女達を乗せた。小型艇は音も無く滑らかに出発した。
小型艇は港から街へと飛んだ。街中には人の姿が見えないのをオノカは不思議に思った。住民はどこにいるのかしら…。
街を抜けると不意に島が終わり、小型挺はそのまま雲の海の上を飛び、向こう側の島を目指した。やがて小型挺は緑溢れる島へ上陸するとそのまま走り続けた。
オノカが周りを見渡すと島々の間を無数の小型艇が飛び交っているのが見えた。
小型艇は高台を目指した。やがて緑溢れる景色の中、蔦に覆われた大きな門の前で小型艇は静かに停まった。
アンドロイドは小型艇から降りると少女達側のドアを開けた。
「着きました。どうぞ、お降りください。」
アンドロイドがそのまま動かずに待っているので、少女達はとまどいながらも小型艇から降りた。
アンドロイドは門の横の呼び鈴を押した。
数分後、門の横の小さな小窓が開き、アンドロイドが顔を出したがすぐに小窓はバタンと音をたてて閉まった。少女達は顔を見合わせた。入れてもらえないのかしら…?
やがてギギ…と鈍い音がすると大きな門がゆっくり開いた。門を開けたのは茶色のマントに身を包んだアンドロイドだった。正面には大きな灰色の建物が建っているのが見えた。
「あの…あたし達…。」オノカが話し出そうとすると、アンドロイドは片手を挙げて遮った。
「お入りなさい。」そう言うとアンドロイドは少女達へ背を向け中へ向かって歩き出した。
「どうする?」ついていくべきか迷ってオノカは皆に聞いた。
「行きましょうよ。ルニノとナキトゥが目指しているのがこのシュコーラだとしたら、今日はここに泊めてもらうしかないんだもの。」ザティがきっぱりと言った。
アンドロイドは中庭の途中で振り返って立ち止まっていたが、少女達が歩き出したのを見ると再び中へと向かった。
中庭は緑溢れる庭園となっていた。小道を辿るとやがて大きな灰色の石造りの建物の入り口に着いた。
広い入り口は開放されていた。人の姿は見当たらず、少女達はアンドロイドについてそのまま建物の中へと進んでいった。
天井が高く静まり返った長い廊下を歩くと、つきあたりに扉があった。
アンドロイドは扉を開け少女達を部屋の中へと通すと扉を閉めた。

中へ入ると正面に3人の年配の女性が立っていた。
女性達の後ろは大きな窓になっており高台からの景色が広がっていた。
3人の女性達はにこにこしながら少女達の事を眺めていた。3人とも同じ質素な黒いワンピースを着ていた。襟とボタン、袖の折り返しは白く、黒いショートブーツを履いていた。
真ん中の背の高く痩せた女性が口を開いた。灰色の髪を額から後ろへぐっとひとつにまとめていた。
「シュコーラへ、ようこそ。たった今、あなた達を乗せて来たアンドロイドから連絡が入ったところなのですよ。ライ島からの高速艇に乗ってきたとはまあ、さぞ大変な思いをしたことでしょうね。あの船には飲んだくれた荒くれ男達しか乗っていませんからね。
シュコーラはあなた達を歓迎しますよ。私は校長のオリガです。」
「私は教頭のライサです。」オリガ校長の右側に立っている女性が言った。校長より背が高く年齢はやや下のように見え、白髪混じりの黒髪を校長と同じように一つにまとめていた。
「私は教務主任のターニャと言います。本当に、よく来ましたね。あなたたちのお名前を教えてくださいな。」
オリガ校長の左側に立っている女性がにこにこして言った。背は一番低く、ふっくらした体型で頬にはえくぼが浮かんでいた。髪の毛は薄い茶色で耳の横でふくらませて後ろでひとつにまとめていた。
「私はルニノ。そして妹のナキトゥです。歓迎していただけて光栄です。」ルニノがはっきりとした口調で答えた。
3人の教師は問いかけるようにオノカとザティを見た。オノカは何か話そうとしたが言葉にならず、思わずザティの腕を強く掴んだ。
「あの…」ザティが口を開いた。
「こちらは姉のオノカ。私は妹のザティです。」
「私達はこの二人を送ってきただけなんです。」オノカは急いで続けた。
「ですから、明日、ライ島行きの高速艇で帰ります。今夜はここへ泊めてもらった方がいいと港で言われて来たんです。」
教師達は顔を見合わせた。
オリガ校長が再び口を開いた。
「それは残念ですね。しかし…あなたたちはあの合法酒場の集まりの島、ライ島へ帰るというのですか?」
「ええ、どうしても戻らなくてはいけないんです。」オノカの声は震えていた。

オリガ校長はゆっくりと話し出した。
「カピタリでは子供がライ島行きの高速艇に乗ることは禁じられているのですよ。ライ島は酒場の集まりで物騒な島ですからね、子供が行くような場所ではありません。これは子供を守るための法律なのです。あなたたちは…誰か大人と一緒ですか?」
「いいえ。私達だけです。」オノカがやっと答えた。
「それでは、カピタリを出るには誰か大人に迎えにきてもらわなくてはなりません。」
「そんな!」オノカとザティは同時に言った。オノカは頭がぐらぐらしてきた。この人は一体何を言っているのかしら…?
「カピタリ政府は応都全土の数少ない子供達を守る法律を全面的に打ち出しています。ここ数年密輸船が増え、違法な取引や子供をさらって売買されることが横行しているためです。子供は応都の大切な宝ですからね、子供だけでこの島を出るのを見過ごす訳にはいきません。」オリガ校長は優しくもきっぱりとした口調で言った。
「あの…あたし、あなたの言っていることがよくわかりません。とにかく、私達は明日ライ島へ戻ります。ライ島で迎えを待たなくてはいけないんです。私達の故郷の島に帰るためです。」オノカはだんだんいらいらしてきた。。
ライサ教頭とターニャ教務主任は心配そうに胸の前で両手を組みオノカとザティを見ていた。
「あなた達を迎えにきてくれる大人はいないのですか?」オリガ校長が尋ねた。
ザティがオノカに囁いた。
「マツミ•ツァンは来てくれるかしら?ダイ船長は来てくれると思う?」
「わからないわ…。ダイ船長はここから通信も届かない程遠い所にいるって言ってたじゃないの。」オノカは途方に暮れた。

「あの…」オノカはふと思いついてオリガ校長に向かって言った。
「ここに通信できる機械はありませんか。連絡を取りたいんです。」オノカはカミュと通信したかった。
オリガ校長はめがね越しにオノカをゆっくり見た。
「あなたが?通信できると言うのですか?」
「ええ。」
三人の教師は困ったように顔を顔を見合わせると、オリガ校長が再び口を開いた。
「カピタリでは子供が通信することは禁じられています。犯罪に巻き込まれるのを防ぐためなのです。」
オノカはいらいらしてきた。
「あたし達はカピタリの子供じゃありません。とにかくすぐに連絡を取りたいんです。」
「カピタリにいる間は規則に従っていただきます。あなた方を守るためなのですよ、オノカさん。」
オノカさん、と言ったオリガ校長の声は穏やかだがきっぱりとしていた。
ザティがオノカの袖を引いて囁いた。
「この人達、これ以上何を言っても話が通じない気がするわ。とりあえずマツミ•ツァンとダイ船長に連絡をとってもらいましょうよ。」
オノカは諦めてオリガ校長に言った。
「わかりました。では、キャプテン•ダイ•スカイと、ライ島の「バル•リガーリ」の店主、マツミ•ツァンという人に連絡を取ってもらえますか。」
オノカが言ったことをライサ教頭が書き留めた。
「さっそく連絡をとらせましょう。ただ…あなた達のようなしっかりした子がシュコーラで学ばないとは非常に残念に思いますよ。ターニャ、あとは任せましたよ。」
オリガ校長はメモを持ったライサ教頭と共に部屋から出ていった。
一人残ったターニャ教務主任がにこにこしながら少女達の近くに来た。
「さあ、さぞ疲れたことでしょうね、今日はあなた達には離れに泊まってもらいます。ゆっくり休むとよいでしょう。」
少女達はシュコーラの裏庭にある石造りの小さな建物に案内された。
ターニャは離れにアンドロイド達に夕食を運ばせると、明日の朝呼びに来るまでここで過ごすようにと言い残すと去って行った。

「帰りの便ですぐに戻れると思ったのに。」オノカは椅子に座り込むと頭を抱えた。
「カミュと通信できれば話は早いのに。あの人達の言っていることがよくわからないわ。」
「とりあえず料理は美味しそうだしたっぷりあるわ。食べて、今日はもう休みましょうよ。あたし、お腹が空いたし、疲れちゃったわ。今日はいろいろあり過ぎたわ。」
ザティがテーブルを見ながら言った。
少女達はザティの言う通りだと思い、ひとまず夕食を食べることにした。
料理はたっぷりあり、美味しかった。ザティとナキトゥは料理について興味深くあれこれ話していたが、オノカはあまり食べたい気持ちがなく、数口つつき、飲み物を少し飲んだだけだった。
ベッドは清潔で寝心地は良かった。夕食がすむとオノカはベッドに潜り込み、たちまち眠ってしまった。

翌朝になるとアンドロイドが朝食を運んで来た。昨夜の夕食同様、量はたっぷりあり美味しかった。
朝食が済んだ頃に再びアンドロイドがやってきて、少女達は昨日の校長室へと案内された。
校長室には3人の教師達がいた。3人共穏やかな表情でこちらを見ている。もしかして連絡がついたのかしらとオノカは期待した。
オリガ校長が一歩前にでて話し出した。
「バル•リガーリ店主のマツミ•ツァンという方は、カピタリ政府機関からの通信に反応しませんでした。政府機関からの通信を拒否しているようです。それから、キャプテン•ダイ•スカイという人物はカピタリにおいては犯罪者に認定されています。」
「は…犯罪者?」少女達は呆然と顔を見合わせた。
「犯罪者と連絡をとることは認められていませんし、ましてや犯罪者にあなたたち子供を預けることなどはできません。」
オノカは何も話すことができなかった。ダイ船長が犯罪者だなんて、一体どういうことなのかよく飲み込めなかった。

言葉が出ない少女達に向かって、オリガ校長はゆっくりと語りかけた。
「つい先日、カピタリ政府の新たな政策が応都全土に発令されました。それは応都全土の子供達対象の法令であり、子供達への教育に関するものです。
応都の子供達はすべて、ここカピタリのシュコーラにおいて教育を受けることが義務づけられます。
応都全土の子供達の数は大変少なく、さらに年々減少傾向にあります。カピタリ政府は、応都の未来のために子供達を守り理想の教育を受けさせることを決定したのです。これを妨げるものは誰であろうと処分が下されることになります。応都の各都市にカピタリからの迎えの船が行き、子供達は誰でも船に乗ってシュコーラに来ることができるようになります。オノカさんとザティさんはたとえ今ロイテ島に帰ったとしても、じきにカピタリへと呼び寄せられることになるでしょう。現在のあなた達の状況からして、今すぐにロイテ島に戻ることは難しいようですね。誰かが迎えに来るとしてもどのみちある程度の期間は待たなくてはならないでしょう。それならば、せっかく今シュコーラにいるのです。このままここで学んでいってはどうですか。」
オノカとザティは顔を見合わせた。オリガ校長は続けた。
「シュコーラでは自分が学びたい事は何でも学ぶことができます。興味があることや自分の将来に役立つ事を学び、学びが終わればいつでも自分の故郷に帰ることができます。そしてその学びを故郷のために生かすことができるのです。これは応都全土が栄えることにもつながるのですよ。シュコーラで学んだ子供は無条件にカピタリの住民の資格が得られます。カピタリの叡智、最先端の科学をいくらでも利用することができるのです。そのままカピタリで暮らすことを選択することもできるし、自分の故郷へ帰ることも自由に選べます。故郷の繁栄のために必要な学びと、自分の人生を有意義に生きるための学びが、ここシュコーラでは出来るのですよ。」
オリガ校長は話終えるとオノカとザティを見た。

やがて沈黙に耐えられなくなってオノカはザティに囁いた。
「ど…どう思う?」オノカの声は震えていた。
マツミ・ツァンとダイ・スカイ船長と連絡がとれないとなるとオノカはどうしていいかわからなかった。あとはロイテ島のザイショウと連絡をとるしかなかったが、ザイショウがロイテ島を離れてカピタリまで来れるとは到底思えなかった。
少し考えていたザティが小声でオノカに言った。
「そうね…。よくわからないけど、なんだか、今すぐにロイテ島に帰ることは無理みたいね。あたしはあの校長の言うように、ここで学んでいってもいいんじゃないかって思うわ。仮に今すぐに帰れたとしても、また、シュコーラで学びなさいって迎えがくるんでしょう?だったら、今せっかくここにいるんだから、学んでいってもいいんじゃないかしら。ロイテ島じゃ学べないことも学べるかもしれないのよ、面白そうじゃない。それに、ルニノとナキトゥと別れなくてもいいなんて素敵だわ。」ルニノとザティを見て微笑んだザティはオノカほど心配していないようだった。
オノカは迷っていた。
どのみちすぐにはカピタリを発つことはできないということはオノカにもわかっていた。
ザティの言うようにこのままシュコーラで学んだほうがいいのかもしれなかった。
けれどオノカの心の奥深いところで、何かがざわざわするのを感じるのだった。
それでもオノカはあきらめたようにため息をついた。
「そうね。ザティの言うとおりだわ。今は、私達もルニノとナキトゥと一緒に残るしかないのかもしれないわね」
オノカは空いているほうの手でルニノの手をぐっと握った。ルニノは優しく握り返すとオノカの顔を見つめた。
オノカはルニノに微笑むと顔を上げてオリガ校長に言った。
「あなた達の言うことはわかりました。このままここに残ることにします。でも、あの…手紙を書かせてもらえますか。」マツミ・ツァンはオノカからの手紙なら受け取ってくれるかもしれない。ロイテ島のザイショウにも手紙で知らせなくてはとオノカは思った。
教師達はオノカの言葉を聞くとぱっと表情が明るくなり3人で顔を見合わせた。
「もちろんですとも、手紙は書けますよ。ここで学ぶと決めたことはとても賢い選択だと思いますね。あなた達を歓迎しますよ。ターニャ、あとはあなたに任せますよ。」オリガ校長は満面の笑みで言った。

「さあ、それではさっそくシュコーラ入学の手続きをしましょう。私に着いて来て下さいね。」ターニャ教務主任はにこやかに告げると少女達の先頭に立って部屋を出た。
ルニノとナキトゥの後ろにザティが続いた。興味深そうに辺りを見渡している。オノカは一番最後からゆっくりと皆について歩いた。
天井が高い廊下をしばらく歩くと少女達がシュコーラへ着いたときに入ってきた入り口があった。一同は入り口を左手に見ながらそのまままっすぐ進んだ。左手には中庭が広がり明るい光が降り注いでいた。
ターニャ教務主任が一つの扉をノックすると、中から「どうぞ」と男性の声がした。
少女達が入ると部屋の中には壁側に天井まで本棚があり、中央の机に白衣を着た男性が座りにこにこしながらこちらを見ていた。
「校医のシェルゲ先生です。シュコーラに入学する子供達はみなここで先生に診てもらうのですよ。」ターニャはそういうと少女達をシェルゲ校医の近くまで連れて行った。
「やあ、これはこれは可愛らしいお嬢さん達だね!それにとても健康そうだ。」
それからシェルゲ校医は少女達をひとりずつ自分の前に立たせ、脈を測り舌を診るとこれまで病気をしたことはないかと聞いた。
「よろしい、君達は皆健康には問題ないようだね。さて、シュコーラにいる間だけ、この小さなチップを腕に貼らせてもらうよ。規則でね、健康管理のために必要なんだ。」
シェルゲ校医は快活に言うと少女達の左腕にごく小さな銀色のチップを貼付けた。離れると小さな銀色の粒にしか見えないほどの大きさだった。
オノカはチップが腕に貼られた瞬間、チクリと小さな痛みを感じて驚いた。痛みと供に胸の奥底の不安が身体中に広がって行くような不思議な感覚に襲われたのだった。

校医の部屋を出ると少女達は今度は別の部屋へと連れていかれた。中では数人の女性達が静かに動き回って仕事をしていた。
「ここは制服の部屋です。シュコーラでは生徒達はみな制服を着ています。あなたたちはここで着替えてもらいます。そのあと朝礼に行きますからね。今着ている服はあとであなた達の部屋へ届けさせますよ。」
ターニャは女性を2人呼び寄せると何やら言いつけた。やがて少女達のもとに制服が届けられた。それは教師達が着ているものと同じだった。
黒いワンピースに白い襟とカフス。黒いブーツもお揃いだった。これまで作業用の洋服しか着た事がなかったオノカはとまどってしまった。
「オノカのそんな格好初めて見るわ。」ザティがオノカをじろじろ見ながら言った。
「こんな服初めて着たわ。重いし、暑いし、動きづらいわね。まさかずっとこの服を着なくちゃいけないのかしら?」オノカはしかめ顔で真剣に考え込んだ。
「あら、結構似合ってるわよ。大丈夫よ。」ルニノが快活に言いながらオノカの襟元を直してくれたおかげでオノカは息をするのが楽になった。ルニノは難なく制服を着こなしていた。

少女達の身支度が済むと、一同は長い廊下を突き当たりまで進んだ。
大きな重々しい扉の前でターニャが言った。
「ちょうど朝礼が終わるところなのです。シュコーラの子供達にあなた達を紹介しましょう。」
大きな扉が開くと少女達は目を見張った。
広々としたホールの中にたくさんの子供達の後ろ姿がみえた。背の高い子や低い子が混ざって並び、黒色や茶色や金色の髪の毛は短かったり長かったりひとつにまとめていたり様々だった。全員が同じ制服のようだったが男の子はズボンを履いていた。子供達はきちんと整列し壇上に立っているオリガ校長の方を向いていた。
扉が開く音がしても誰一人こちらを振り返ることがなく静かに前を向いて整列したままだった。
オノカとザティはこんなにたくさんの子供達が集まっているところを見るのは初めてだったのですっかり圧倒されてしまった。
ターニャは少女達を連れてゆっくりオリガ校長の近くまでいくと、ルニノに「オリガ校長の隣に立ちなさい。」と伝えた。少女達はルニノについて壇上にあがり、オリガ校長の隣に立った。数えきれない程の瞳が一斉に少女達に注がれた。
「みなさんにお知らせがあります。」しんとしたホールにオリガ校長の声が響いた。
「新しい友の入学です。ルニノ、ナキトゥ、そしてオノカ、ザティの4人です。私達は新しい友を歓迎します。ようこそ、シュコーラへ!」
「ようこそ、シュコーラへ!」オリガ校長の後に続いて子供達全員が大きな声で言った。
「これで朝礼は終わりです。今日も、よい学びを!」
オリガ校長の言葉と共に子供達は一斉にホールから出て行った。皆ざわざわと何やら話しながら壇上の4人をちらちらと見て行った。

「では、あなた達を寮へ案内しましょう。」
ターニャは4人を連れてホールを出た。正面玄関への廊下を戻り、建物の左手の奥へと続く廊下を歩きながらターニャは言った。
「ここから先の棟が寮です。ここはピアトナ寮と呼ばれていて、14歳から15歳の子達が暮らしています。」
いくつか階段を登り、両側に扉が並ぶ廊下を歩くとそのうちの一つの扉の前でターニャは止まった。
「さあ、ここがルニノとオノカの部屋ですよ。」
オノカとルニノは顔を見合わせた。
「ザティとナキトゥとは一緒じゃないのですか?」オノカは不安になって言った。
「シュコーラでは年齢で寮を分けているのです。ザティとナキトゥは7歳から13歳の子達が暮らすセム・リェット寮になります。」
「そんな!きょうだいなのに、知らない土地で別々になるなんて…!」オノカは食い下がったが、ターニャは黙ってオノカをじっと見ただけだった。
「オノカさん、これは規則なのですよ。」穏やかに聞こえるが何の感情も込もっていない声にオノカははっとしてターニャの顔を見た。
ターニャはドアをノックした。
「ターニャです、入りますよ。」
扉が開くと、部屋の中には3人の少女が立っていた。
「ヴェラ、ルニノとオノカはこの部屋になります。では、あとは頼みましたよ。優秀なあなたたちにこの役目をお願いできることを誇りに思いますよ。」ターニャは満面の笑みで言った。
「はい、ターニャ先生。」
ヴェラと呼ばれた背の高い少女はややつり上がった青い瞳でルニノとオノカを見た。透き通るような白い肌で、薄い色の金髪を肩までまっすぐに下ろしていた。
ターニャはドアを閉めるとザティとナキトゥを連れて行ってしまった。

「聞いたこともない島から来たっていうのはあなた方なのね。最近、ひどい田舎から来る子が増えたわね、エレーナ。」
ヴェラは隣にくっついて立っている少女に言った。エレーナは薄い茶色の髪をヴェラと同じように肩まで下げていた。髪と同じ色の瞳をパチパチしながら黙ってヴェラにくっついて立っていた。
オノカはひるんだ。つり上がった眼の印象と同じようにヴェラの態度は冷たく、明らかにオノカとルニノを見下している態度だった。
「ひどい田舎ってどういう意味?」オノカはヴェラに尋ねた。
ヴェラは腕を組んだままふんと鼻を鳴らした。
「その意味もわからないような人達が暮らしているところって意味よ。トゥーシャ、あんたが面倒見てよ。あんたも田舎出身だから話が会うんじゃないの?」
ヴェラとエレーナはくすくす笑いながら部屋から出て行った。
部屋にはあっけに取られた顔でつったっているオノカと、困惑した表情のルニノとトゥーシャが残った。
トゥーシャと呼ばれた少女はドアが閉まると足音が遠ざかるのを耳をすませて聞いていたが、やがてふーっとため息をつくとはにかんだ笑顔を二人に向けた。
「あなた達が来てくれてとっても嬉しいわ…あたしはトゥーシャよ、よろしくね。」
トゥーシャは静かにゆっくりと言った。
トゥーシャはオノカと同じ位の背丈で華奢な身体つきをしていた。暗い茶色の癖毛は短くあちこちに飛び跳ねていた。目は細くいつも笑っているように見え、透き通った色白の肌に点々と散る茶色いそばかすが可愛らしかった。
オノカはトゥーシャとは気が合いそうな気がした。
「ヴェラとエレーナのことは気にしなくていいわ。あの人たちはカピタリ出身だからってだけでお高くとまってるの。地方都市出身の子達を見下しているのよ。あたしなんて滅多に口をきいてもらえないわ。あなた達のベッドはここよ。自分のスペースは自由にしていいのよ。」
部屋は広く、壁際に沿ってベッドと小さな洋服ダンスと机が一人分ずつ並んでいた。窓際の明るい場所はヴェラとエレーナに占領されていたのでオノカとルニノは廊下側のスペースをそれぞれもらった。トゥーシャの机の上は小さな箱や色々な道具類でいっぱいで、ベッドの上には開いたままの本が何冊も置いてあった。
オノカはそのままベッドに突っ伏したかったがトゥーシャが言った。
「さあ、これからクラスが始まるわ。シュコーラに来て最初は初等クラスからになるから、あたしとはクラスが違うんだけど、教室までは一緒に行きましょう。」
トゥーシャはオノカとルニノを教室へ案内すると別の教室へ行ってしまった。
オノカが恐る恐る教室を覗くと中にはザティとナキトゥの二人が座っていた。オノカはほっとして中に入って行った。教室には少女達4人だけだった。
ザティとナキトゥはひどく憤慨していた。
「あたしとナキトゥは部屋が違うのよ。隣の部屋だけど…。シュコーラには知り合いがいないんだし、せめて部屋くらい一緒にしてくれてもいいのに。なんだか容赦ないわね。それに、部屋には誰もいなくて、どんな子と一緒なのかまったくわからないのよ。なんだかあのターニャって先生にうまく丸め込まれてるような気がするわ。言い方は優しいんだけどわざとらしくて気にいらないわ。」ザティは肩をすくめた。
オノカもそう思うと言おうとしたところにターニャ教務主任が教室に入ってきた。
「さあ、皆さん、席についてくださいね。シュコーラでは教師が入ってくる前に席についていなくてはなりません、覚えておいてくださいね。」ターニャはにこやかに皆に話しかけた。
ザティのイライラした様子のため息が聞こえた。ターニャは一瞬ザティを見たが笑顔のまま続けた。
「シュコーラに来て最初は初等クラスでの授業になります。初等クラスではみなさんの現在の学力のレベルを見ます。それから、シュコーラでの学びの基礎を受けてもらいます。そして、シュコーラの規則も学んでもらいます。」
その後少女達は午前中はシュコーラでの生活についてと規則、クラスの進み方などの話を聞いた。
2時間にも満たない授業だったが説明が多すぎて、昼休みになった時にはオノカはぐったり疲れてしまった。

ターニャから食事はホールで食べることになっていると聞き少女達はホールへと向かった。
朝礼が行われていたホールが食堂にも使われていて、子供達は皆そこで思い思いに集って座り昼食をとっていた。
昼食はホール前方に並べられている料理から好きなものを取っていいのだった。
「パンと飲み物だけで足りるの?」
その声にオノカが振り向くと、トレイいっぱいに料理を乗せたトゥーシャが心配そうな顔をして立っていた。「ご一緒していいかしら?」トゥーシャは少し遠慮がちに言った。
「もちろんよ。」オノカはトゥーシャの顔を見てほっとした。食堂ではまるでよそ者の気分がして落ち着かなかったので、4人はトゥーシャを喜んで受け入れた。オノカはザティとナキトゥを紹介し、少女達はたちまち打ち解けた。
「そうか、あなた達はセム・リェット寮なのね。あそこもなかなか大変よね、大きい子が小さい子の面倒を見なくちゃならないものね。」
トゥーシャが言うのを聞いてザティとナキトゥは顔を見合わせた。
「あなた達は部屋が一緒でうらやましいわ。あたしとザティは部屋が違うのよ。嫌になっちゃうわ。」ザティは不満げに料理をつつきながら言った。
「セム・リェット寮はきょうだいでも一緒の部屋にはしてくれないのよ。自立を促すためだとかいってね。その割には小さい子の世話をさせるんだけど。あたしもセム・リェット寮の頃は姉と一緒の部屋にはしてもらえなかったわ。でも部屋が隣同士で、ベッドが壁を挟んで隣だったのよ。だからよく夜中に壁を叩いて合図してはこっそり廊下で会ってたわ。」それを聞いたザティとルニノの顔がぱっと明るくなった。
「お姉さんがいるの?」オノカは驚いて尋ねた。
トゥーシャの表情が一瞬歪み、少し間を置いて「ええ。」と答えがあった。
「今も一緒の部屋ではないのね。お昼は一緒に食べないの?」ルニノが辺りを見ながら言った。どこかにトゥーシャの姉がいるのかと思ったのだった。
「ええ、姉は一緒じゃないのよ。」トゥーシャは下を向いて小さな声で言うと料理を頬張った。オノカ達4人は戸惑ってしまった。トゥーシャが何も言わずに黙々と料理を頬張っているので皆も仕方なく食べ始めた。
料理は昨夜と今朝食べたほど美味しくはなかった。オノカがとったパンはパサパサしていたし飲み物はぬるくて甘いだけだった。
ザティとナキトゥは一口食べると顔をしかめた。

「あら、落ちこぼれザイド島の人が田舎の人たちに取り入っているわ。田舎者同士ってやっぱり気が会うのね。」
オノカのちょうど真上で声がした。すぐ後ろにヴェラがトレイを持って立ったのだった。ヴェラの周りにはエレーナと数人の少女達がくすくすと笑いながら馬鹿にした表情でこちらを見ていた。
「あら、ヴェラ、でもこの子達ってあなたとエレーナと同じ部屋になったんでしょう?」取り巻きの少女の一人がヴェラに言った。
「そうなのよ、ベッドが二つ空いてたから仕方がないのよ。そのベッドにいた二人のうち一人は我がカピタリ出身で、アヴェクトから帰ってきて立派にナド・16になっているのはみなさんご存知だと思うけど。」
オノカの頭の上で自慢げなヴェラの声がした。トゥーシャがかちゃん、と音を立ててフォークを置いた。オノカはトゥーシャの顔を見た。トゥーシャの顔は真っ青で唇が震えていた。
「もう一人のザイド島出身の方は戻ってこないけれど、どうしちゃったのかしらね。アヴェクトで不具合宣告を出された者はシュコーラには戻れずにそのまま故郷に帰されるっていう話だけど。」ヴェラはそう言うと可笑しそうに笑った。つられて取り巻きの少女達もくすくすと笑い始めた。
オノカはヴェラの言っていることの半分も意味がわからなかったが、トゥーシャの青ざめた表情をみて胸が痛くなった。きっとトゥーシャにとっては辛い話に違いない。そもそもヴェラのこちらを馬鹿にしたような物言いがもはやオノカには我慢できなかった。オノカは勢い良く立ち上がった。
がんっと頭に衝撃が走ると同時に「きゃあっ!!」と言う悲鳴が上がった。
オノカの頭でヴェラの持っていたトレイが跳ね上がり、ヴェラは料理を頭からかぶる羽目になったのだった。
頭からポタポタと雫を垂らして茫然と立ちすくむヴェラの姿が滑稽に見えて、気の利いた一言でも言ってやろうと思っていたオノカは思わず吹き出してしまった。
シュコーラに着いてから不安と緊張にとらわれていたオノカの感情は抑えられなかった。オノカは涙が出るほど笑った。ザティが目を丸くしてオノカを見ている。もう何もかもどうでもよかった。
「ちょっと、あんた、なんて事するのよ!」エレーナがオノカに詰め寄ったがオノカは笑うのを止められなかった。
「一体、なんの騒ぎですか。」いつのまにかオノカ達を取り囲んでいた子供達をかき分けてターニャ教務主任が現れた。ターニャはヴェラの惨状に目を丸くし、笑い続けているオノカを見て眉をひそめた。
「エレーナ、ヴェラを連れて行って着替えさせてあげなさい。午後のクラスは遅れてもいいですよ。」ターニャの声は優しかったが震えていた。ターニャはエレーナに言いつけるとオノカを見た。オノカはやっと笑いがおさまり涙を拭いていた。
「オノカさん、一体何があったかは後でゆっくり聞かせてもらいますが、友人があのような目にあっているのを見て笑い転げると言うのは良い行いとは言えませんね。
ホールでこのような騒ぎを起こすことは許されないことです。あなたはホールでの行いについて学ばなければいけないようですね。」
「先生!オノカさんは悪くないんです、あの人達が私のことを…」トゥーシャがターニャの腕を掴んで言った。
「トゥーシャ、私は今あなたとは話してはいませんよ。」ターニャの声は穏やかだが冷たかった。
「オノカさん、あなたがここを片付けるのです。午後のクラスには遅れないように。みなさん、何を見ているのですか、お行儀が悪いと思わなくてはいけませんよ。」
ターニャの言葉に周りにいた子供達は慌てて自分の席へと戻って言った。ターニャはオノカを見るとくるりと背を向けそのまま立ち去った。

オノカはどっかと椅子に腰を下ろすと深く息を吐いた。感情を爆発させた後には気が抜けてしまったのだった。
「ごめんなさい、私のせいで…。」トゥーシャの目には涙が浮かんでいた。
「あなたのせいじゃないわよ。あたし、ヴェラの話を聞いていたくなかったのよ。人の頭の上でペチャクチャ話すなんて失礼だわ。いい気味よ。」オノカは愉快そうに言った。ヴェラの姿を思い出すとまた笑い出しそうになった。
「まったく、オノカって時々そうやって大胆な事するのよね、普段は小心者のくせに。でも、ヴェラのあの顔!笑いをこらえるのが大変だったわよ。」ザティが立ち上がって腕まくりをしながら言うとくすくす笑った。
「さあ、片付けるわ。トゥーシャ、気にしちゃダメよ、あなたのせいなんかじゃないわ。あたし、平気よ。」
オノカは快活に言って立ち上がると掃除道具を探しに行った。5人は手際よく掃除を終わらせると再び午後のクラスへと戻った。

少女達は午後から初等クラスに編入した。
初等クラスはシュコーラに来たばかりの子供や年齢が低い子供達のためのクラスで、ここで基礎を学び、学びを終えた子供から上のクラスに進めることになっていた。
午後のクラスはライサ教頭が担当だった。オノカ達4人の他にも生徒がいたが年齢が低い子がほとんどで、その中にオノカ達と同じくらいの子達が数人混じっていた。
初等クラスの午後の授業は、簡単な言葉での応都の歴史と地理だった。
オノカとザティにとって応都の成り立ちについては島の老人達が昔話と共に語り聞かせてくれたのでそらで言えるほどだったし、地方都市については船乗り達からいつも話を聞いていたので授業の内容はすでに知っていることばかりだった。
そのあとは計算の授業だった。オノカは計算には困らなかった。機械の設計やエンジンのメンテナンスに必要な数値の計算は日常でしていたものだった。ザティも商売に必要だったため計算や数字は得意だった。
ルニノとナキトゥも難なく授業についていっている様子だった。
午後の授業が終わるとライサ教頭が言った。
「これで今日の授業は終わりです。オノカさん、あなたは残ってくださいね。」
4人は顔を見合わせた。ザティ、ルニノ、ナキトゥはオノカの周りに集まった。ザティが何かを言おうと口を開いたのをオノカが止めた。
「いいのよ、あたしは大丈夫よ。先に戻ってちょうだい。」
ザティは心配そうにオノカの手をぎゅっと握ると、皆と一緒に教室を出て行った。

オノカはライサ教頭の前に立った。
「さて、オノカさん、お昼のホールでの出来事は聞いていますよ。私達があなたにホールでの行いについて説明をしなかったばかりにあのような事になってしまったことは大変申し訳なく思っています。」ライサ教頭は悲しそうにオノカを見つめ、口調は穏やかだった。
てっきり怒られるとばかり思っていたオノカは驚いてライサ教頭を見た。
「ホールではあのような騒ぎを起こすべきではないのです。あなたはお手本にならなくてはいけない年齢なのだと言うことをこれから学んでいただきたいと思っています。」ライサ教頭はオノカの顔をじっと見ながらゆっくりと話した。
「ヴェラがあんな風に私達を馬鹿にすることはお手本になることなのかしら。」
オノカが言うとライサ教頭は一瞬眉をひそめたがすぐに笑顔になった。
「感情に捉われて行動する事は軽率です。感情を抑えることを学ぶことはとても大切なことですよ、オノカさん。最新の研究では、食物の取りすぎが感情をコントロールできなくなる原因の一つと言われているのです。あなたには夕食を食べないようにすることを勧めさせてもらいますよ。これはあなたの為なのですよ、オノカさん。」
オノカはライサ教頭の優しすぎる口調が何となく気に入らなかった。
どのみち夕食など食べたくはなかった。早くベッドに潜り込みたかったが、同じ部屋にはヴェラとエレーナがいるかと思うと面倒になり顔をしかめた。
寮の部屋までの道のりを迷いそうになりながらなんとかオノカが部屋に戻ると誰もいなかった。皆夕食を取っている最中なのだろうとオノカはほっとしてベッドに潜り込んだ。
今日一日があまりにも目まぐるしく過ぎて行ったためオノカの頭の中は混乱していた。
今朝はシュコーラに残って学ぶことを決めたが、今ではその決意などどこかへ行ってしまった。
オノカはロイテ島に帰りたくて仕方がなかった。カミュとビエリが恋しかった。
マツミ・ツァンがカピタリ政府からの通信を拒否していることやダイ・スカイ船長がカピタリでは犯罪者扱いになっている事がさらにオノカを心細くさせた。

いつの間にかぐっすり眠り込んでしまったオノカは、ふと誰かに揺り動かされて目が覚めた。暗闇の中目をこらすと、目の前にルニノの顔があった。ルニノは黙って部屋のドアを指差し、オノカを手招きした。
オノカは音を出さないようにベッドを抜け出すとルニノの後に続いて部屋から出た。そっとドアを閉め部屋の前から離れると歩きながらルニノが囁いた。
「こっちよ、ザティとナキトゥもいるはずよ。」
「どこへ行くの?」
「あたし達、夕食の後寮に戻る時に迷ってしまったの。その時に、ちょっとしたいい場所を見つけたのよ。そこで夜に会おうってことになったの。オノカ、あなた夕食食べられなかったでしょう?あたし達、こっそり持ってきたのよ。」
暗闇の中で聞こえるルニノの声には思いやりが込められていたのでオノカは思わずルニノの手をぎゅっと握った。
ルニノについて少し歩き広い廊下に出る手前を左に入ると細い廊下になり、その先に階段があったがルニノは階段は登らず通り過ぎ、さらに細いスキマを通り階段の後ろ側へと出た。そこには小さな扉があり、ルニノは扉をそっとコツコツ叩いた。
きいっと扉が開き中から明かりがもれた。オノカがかがんで中を覗くとザティとナキトゥがニコニコ笑いながら手招きをしていた。
「しいっ、早く入るのよ。」ザティに促されてオノカは慌ててルニノの後について中へ入った。オノカが中へ入るとザティが扉を閉め布で覆った。
入口の扉は小さく背をかがめないと入れなかったが中は思ったより広かった。奥の天井は階段のように段々になっていた。
「階段の下が部屋になっているの?」オノカは辺りを見渡しながら囁いた。
「そうなの。あたし達、迷い込んでしまって戻るときに偶然ナキトゥがこの扉を見つけたのよ。結構いい所でしょう?物置のようなんだけどかなり奥まったところにあるし、ひどいホコリだから多分使われていないんじゃないかと思うのよ。」ルニノが説明した。
「見て、ランタンもあるのよ。」ナキトゥが得意げに灯が灯っているランタンを掲げた。
「オノカ、お腹空いてるんじゃない?夕食を食べさせてもらえないなんてちょっと厳しすぎるわよね。パンと果物ならそんなに不味くないと思って持ってきたのよ。水もあるわ。全く、寮の食事のひどさったらないわね…。一口食べるごとにナキトゥと顔を見合わせては吐き出しそうになるのを堪えたわよ。」ザティは容赦なかった。
「ここへ来た最初の日に食べた料理は美味しかったのに、なぜかしらね。」ナキトゥも肩をすくめながら言った。
「ありがとう…。何も食べたくなかったけど、みんなの顔を見たらなんだかお腹がすいて来たわ。」オノカは大きく息を吐くと壁に背をもたせかけた。
「全く、オノカってあまり食べることに興味がないんだから。ロイテ島では作業に夢中になると食べるのも忘れちゃってたわね。」ザティはオノカにパンと水を渡し、オレンジの皮を剝いてやった。
「ロイテ島が恋しいわ。」オノカはパサパサのパンに顔をしかめると溜息をつき、ザティが手渡してくれたオレンジを口に運んだ。
「まだ一日目が始まったばかりじゃないの。あたしはせっかくだからここで学べることは全部学んでいってやることに決めたわ。あたし達大きいんだもの、じきに上のクラスに進めるんじゃないかしら。」ザティは楽観的だった。
「学びは面白そうだけど、ヴェラとエレーナと同じ部屋なのが気が重いのよ。」
「ルニノと一緒なんだからいいじゃない。それにトゥーシャもいい子だし。あたしとナキトゥなんて違う部屋なんだから。」ザティはナキトゥを見ながら言った。
「あんな小さい子達と一緒なんて驚いたわ。着替えの手伝いから面倒見てあげなくちゃいけないんだもの。」ナキトゥは肩をすくめた。
「ああ、ここは何だかのんびりできていいわね。あたし、この部屋でもいいわ。」オレンジを食べ終えたオノカが伸びをしながら言った。
「時々ここで過ごしましょうよ。毎日だと怪しまれるかもしれないから、最初は慎重にした方がいいかもしれないわね。」ルニノがオノカを見て笑いながら言った。
「そうね、この部屋があると思えばあの嫌な二人のことも我慢できるかもしれないわ。それから、ダイ・スカイ船長とマツミ・ツァン、ザイショウにも手紙を書かなくちゃ。」
やがて少女達は部屋を後にし、再び別れてそれぞれの部屋に戻った。

翌日からの一週間はあっという間だった。
ホールでの出来事のせいかヴェラとエレーナはますます意地悪な態度だったがオノカとルニノはトゥーシャが助けてくれたので困らなかった。
ザティとナキトゥは授業以外は寮で同じ部屋の小さい子たちの世話をしなくてはならず忙しかった。
4人は時々例の階段下の小部屋に集まって愚痴をこぼしては元気を取り戻した。
初等クラスでは小さい子たちに混ざっての学びが続いた。
応都の各地方都市の政治・経済・文化について、地方の言語など、そして首都カピタリについての歴史と政治・文化、その他は生活技術と呼ばれる簡単な計算や物作りなどの授業の内容だった。
オノカとザティは幼い頃からロイテ島に様々な地方からやってくる船乗り達と話す事が多かったので各地方都市の言葉にもなじみがあった。
生活技術の授業もオノカとザティにとっては既に日常的に行ってきた内容だった。
オノカとザティはシュコーラのような所で教師の授業を受ける、ということはこれまでしたことがなかったが、初等クラスの内容には充分ついていけると思った。
ルニノは飛び抜けて成績がよかった。オノカはルニノと交わす言葉の端々からルニノの利発さを感じてはいたが、これほど優秀だとは思っていなかったので密かに驚いていた。
一週間が過ぎた頃、授業の終わりにライサ教頭が言った。
「オノカ、ルニノ、ザティ、ナキトゥ。あなた達の初等クラスでの学びは今日で終わりです。あなた達の成績は大変優秀でした。来週から上のクラスで学ぶことになります。」ライサ教頭はルニノの方を見た。
「ルニノ、あなたは来週から高等クラスで学ぶことを許可します。あなたのような優秀な生徒は初めてです。通常は初等クラスの次は中等クラスに進むところを一気に高等クラスへ進学するのはあなたが初めてですよ。期待していますよ、ルニノ。」
ルニノはにこりともせずに頭を下げただけだったが、席につくときにこっそりオノカの顔を見て微笑んだ。オノカは誇らしさで胸がいっぱいになった。

オノカとザティとナキトゥは翌週から中等クラスへ上がることになった。
トゥーシャはルニノが高等クラスへ上がることを聞くと驚き、喜んだ。
夜中に少女達は例の階段下の小部屋に集まっていたが今ではトゥーシャも仲間に入っていたのだった。
「ルニノが高等クラスに上がってくるなんて嬉しいわ。初等クラスからいきなり高等クラスに上がるなんて、よっぽど優秀なのね。オノカ、あなたも年齢的には高等クラスなんだから、じきに上がれるわよ。」トゥーシャはすっかりこの小部屋が気に入り、皆と同じようにくつろいでいた。少女達は埃だらけだった小部屋の中を綺麗に掃除し少しずつ居心地のいい空間にしていた。
「ザティとナキトゥと一緒ならあたしはとりあえず中等クラスでいいわ。」オノカは紙とペンを持ってしかめ面で言った。オノカはザイショウとマツミ・ツァン、ダイ・スカイ船長に2通目の手紙を書いているところだった。手紙が無事に届くかわからないし、返事が来るまでは何度も書こうと決めたのだった。
「中等クラスは寮の仕事を分担しなくちゃいけないって聞いたわ。どんな仕事なの?」ザティがトゥーシャに聞いた。
「結構大変よ。たくさん係があって、順番に回って来るの。その仕事が得意な場合はそのうち固定で任命されることもあるわ。掃除はそれぞれ場所が決められて順番に回って来るし、洗濯当番、ゴミ置き場、厨房補助なんかもあるわ。高等クラスに上がって一番嬉しかったのはこの当番から解放されたことよね。」トゥーシャが肩をすくめながら言った。
「厨房補助!」ザティとナキトゥが顔を見合わせて言った。
「一番やりたくない仕事だったわ。山のような皿洗いと、材料の下ごしらえと…それより何より嫌だったのは厨房担当のおじいさんが嫌だったわ。あたし達に意地悪で、厳しいのよ。」
「寮のまずい食事はそのおじいさんが作っているの?」ザティが聞いた。
「他にも何人か職員はいるけど、美味しい食事を作ろうという気持ちはなさそうだったわよ。」トゥーシャは苦々しく言った。
「高等クラスに上がると寮の仕事はしなくていいの?」ナキトゥが聞いた。
「そうよ。高等クラスに上がると学びが特殊になるの。学びに専念するために寮の仕事は免除されるのよ。その代わり学びについていけないとペナルティがあったり居残りがあったり結構大変なのよ。」トゥーシャは溜息をついた。
「高等クラスが終わると卒業なの?」ザティが聞いた。
トゥーシャは膝を抱えると床を見つめた。
「それは…そうなんだけど、あたしには詳しく説明できないわ。高等クラスにきたらわかると思うわ。」
ザティとナキトゥ、ルニノは顔を見合わせた。オノカは手紙を書くのに集中していた。

中等クラスでの学びはオノカにとってついていくのは苦ではなかった。生徒は初等クラスより多く、広い教室はいっぱいだった。オノカはザティとナキトゥといつも一緒にいた。何人かの生徒と親しく口を聞くようにはなったがトゥーシャのように友達になれそうな子はいなかった。
子供達は皆広く応都の各地から集まってきていた。地方都市から来ている子供達は口々にここで何でも学べることを楽しみにしていると言った。そして故郷に帰ったらやりたいことをお互いにあれこれと話していた。だがオノカとザティほど遠く離れた地から来ていた子供はいなかった。皆ロイテ島の名など知らなかった。
教師達の指導は時に厳しいこともあったが口調は優しかった。むしろ優しすぎるとオノカは感じた。
何か問題があると教師達は悲しげに言うのだった。
「それは大変残念なことです。あなたのためにも、やるべきです。あなた自身をもっと大切にしなくてはいけません。」

クラスや寮の部屋は別々でも、4人は教室やホール、寮のラウンジで会うことができた。トゥーシャもいつも一緒だった。
中等クラスでの学びが始まると寮の仕事もしなくてはならなかった。分担は掃除担当から始まり、週ごとに場所が変わったが辛くはなかった。むしろオノカにとっては寮の部屋で過ごすより仕事で体を動かしている方が気が紛れた。
それよりもオノカは手紙の返事が来ないことが気になっていた。毎週オノカは手紙を書き、校長室へ頼みに行った。オリガ校長はいつも快く手紙を引き受けてくれたが、オノカ宛ての返事は来ていなかった。
瞬く間に数週間が過ぎて行った。

この日も夜遅くに少女達は階段下の小部屋に集まっていた。オノカが来週から高等クラスに上がることになり、皆でささやかな進級祝いを開いていたのだった。
オノカは壁にもたれて溜息をついた。
「ここへ来てひと月以上過ぎたのに、ダイ船長とマツミ・ツァンから返事が来ないわ。ザイショウからもよ。ダイ船長とザイショウはともかく、ライ島はカピタリからすぐ近くの島なのに、おかしいと思わない?本当に手紙を出してくれているのかしら?」
「マツミ・ツァンはカピタリ政府からの通信を拒否してるって校長先生が言ってたじゃない?もしかしたら手紙を受け取るのも拒否しているのかもしれないわね。もしそうならあとはダイ船長とザイショウからの返事を待つしかないんじゃないかしら。」そう言いながらザティはナキトゥと一緒に持って来た袋からなにやら取り出した。
「見て!あたしとナキトゥは今日から厨房の掃除担当になったのよ。皿洗いが早いって褒められて、内緒でお菓子をもらったのよ。これでオノカの進級祝いを盛大にやりましょうよ。」ザティーはキャンディーやらクッキーやらを皆に分けながら言った。
「オノカもとうとう高等クラスに来るのね、嬉しいわ。」トゥーシャが機嫌よく言った。
「まだ中等クラスでもよかったわ。高等クラスなんて、ついていけるかしら。」オノカはクッキーをかじった。
「そうね…中等クラスとは学びがかなり変わるから、最初は戸惑うかもしれないけど、すぐに慣れるわ。面白い授業が色々あるわよ。」トゥーシャはルニノの方を見ながら言った。
「例えばどんな授業があるの?」ザティが興味深そうに聞いた。
「そうね…やっぱり、イデア・ディーベかしら。ねえ、ルニノ?」トゥーシャが言うとルニノも考え込んだ。
「そうね…確かにイデア・ディーベはかなり不思議な授業だと思うわ。」
「なあに、それ、どんな授業なの?」ザティがさらに興味を示した。
少女達は話に花を咲かせていたが、オノカは高等クラスの授業の内容にはあまり興味が湧かなかった。
イデア・ディーベという言葉の響きだけがオノカの耳に残った。

第七章 ナド・16、アヴェクト

ザザーーン… ドドドォーーン…

あの音は何だろうと思い、オノカは目を開けた。
眩い光に目を細めたオノカの頭上高くには真っ青な空と真っ白な雲があった。
目の前一面には大きな波、小さな波がうねっていたがそれが何かはわからなかった。
大きな波がうねる度に、ザザーーン、ドドドォーーン、という音が身体中に響いた。
心地よい風に大きく息を吸うと懐かしい匂いがした。

気がつくとオノカはいつの間にか誰かに手を引かれて歩いていた。
暖かい手をぎゅっと握ると優しく握り返してくれる。
たちまちオノカの胸にあの何とも言えない懐かしいような悲しいような感覚が湧いてきた。
サク、サク、サク、踏みしめる砂の感触が素足に心地よかった。
アォウ!アォウ!アォウ!
頭上に響く声に驚いて上を見上げた。遠くに何かとても大きな存在を感じる。
誰かに教えてあげなくちゃと思った。でも、誰に?何を教えるというの?
突然ゆらりと身体が揺れた。

瞬きをすると共に周りの景色が変わった。

オノカは薄暗い森の中に立っていた。
暗闇の中に大きな樹が見える。幹は途方もなく高く、天まで届きそうなほどの大樹だった。
オノカは太い根が地面に張り出しているところまで近付いて行った。
大樹の太い幹にもたれて座るとたちまち湧いてくる心地よい安心感に浸った。
ただこうすればよかったのだ。何も心配することはない。

オノカはすぐ近くに誰かが座っているのに気がついた。
そうだ、私はここを知っている、とオノカは思った。この樹を知っている。
そこに座っている人のことも知っている。

そしていつもこの後すぐに夢が醒めてしまうことも知っていた。


「…さん…、オノカさん。」
呼びかけにはっとしてオノカは目を開けた。
目の前に困惑した表情のターニャ教務主任の顔があった。隣には心配そうに覗き込むルニノとトゥーシャの顔が見えた。
薄暗い部屋でオノカは長椅子に横になっていた。オノカは咄嗟に自分がどこにいるのか思い出せなかったが不意に記憶が戻って来た。
オノカはイデア・ディーベの授業を受けていたのだった。
思わず飛び起きたオノカは眩暈を覚え頭を抱えた。
「急に飛び起きてはいけません。本来なら私の導きと共にゆっくり目覚めるはずなのですが…」ターニャは一瞬眉をひそめたがすぐに優しい顔つきになり他の生徒達に声をかけた。
「さあ、皆さん、席に着いてください。今日のイデア・ディーベで体験したことを話してもらいましょう。」

「オノカ、大丈夫?顔色が真っ青よ。」ルニノが心配そうにオノカに手を貸して立ち上がらせるのをトゥーシャも手伝った。
「最悪の気分だわ。沼の底から這い上がってきた感じ。」
オノカはどうにか席に着くと溜息を着いた。
教室を見渡していたターニャの目がオノカのところで止まった。
「では、オノカさん、今日の体験を話してください。」
オノカは渋々立ち上がった。教室中の目が一斉に自分を見ているのを感じ、深く深呼吸をする。
「真っ青な空と真っ白な雲が見えました…。水がとてもたくさんあるところで…」
「水?」ターニャが聞き返した。
「はい…それから…あれは、鳥かしら、鳴き声が聞こえました。そのあとは…大きな木があって…」
「もう結構です、オノカさん。」ターニャが手をあげて制した。
「それでは、ヴェラ、答えてください。」ターニャは困惑した表情で続けた。
うなだれて座ったオノカを尻目にヴェラが自信を持った声で話し始めた。
「はい。先生の声と共にカピタリの街へ降りて行きました。カピタリの街には綺麗なお店がたくさんあって、私たちは欲しいものを何でも買うことができました。素敵なレストランでとても美味しい食事をしました。それから小型艇に乗ってたくさんの島巡りをしました。とても壮大な眺めでした…」
「ヴェラ、その通りです。私は今日、皆さんをカピタリの街へ導きました。今日の目的の一つはみなさんにイデア・ディーベの中で味覚を味わってもらうことでした…。」
ターニャの声はそれ以上オノカの耳には入らなかった。

高等クラスに上がって新たに加わった授業である「イデア・ディーベ」にオノカはついていくことが出来なかった。
心地良い寝椅子に横になり、目をつむりリラックスするとやがて教師の言葉と共に自然と深い瞑想状態に入っていく。生徒たちは教師の導きで瞑想の中で様々な体験をする筈だった。
だが瞑想が始まるとオノカが見るのは決まっていつも同じ光景だった。
一面に広がる波打つ水。砂の上を歩く感触。そして、果ての捨て場で見たあの大きな木がある光景。座っている誰かはあの時のヘイズだろうか。オノカには果ての捨て場での出来事がもう遥か昔の出来事のように思えた。
生徒たちが次々と質問に答えるのを上の空で聞きながら今日もまた補習授業かと思いオノカは溜息をついた。イデア・ディーベの授業の後は、どんな世界を体験したか確認とレポートの提出があった。オノカのように体験できなかった生徒は補習授業を受けなくてはならず、延々とカピタリの世界観とイデア・ディーべについての映像を見せられ、本を読み、暗唱させられるのだった。
授業が終わるとルニノとトゥーシャは寮に帰ったがオノカは残り、いつものように教室のスクリーンの前に座った。イデア・ディーベの授業が始まってから毎回オノカは補習授業を受けていたのでもはや内容は全て頭の中に入っていた。これから始まる長い補習授業を考えると気が重かった。
集中力を増すためとして「善意で」夕食は抜かれることになっていた。オノカは空腹に慣れてしまったので平気だったが何となく体に力が入らない気がして、頭もぼうっとすると思った。これが集中力が増している状態なのかどうかオノカにはよくわからなかった。
やがて映像が始まり、耳慣れたナレーションが聞こえてきた。
「…イデア・ディーベとは、理想的な都市カピタリに住む理想的な市民のために考案された最新の意識操作の手段です。イデア・ディーベを習得した人々はもはや実体験を必要とせず瞑想次元で無限の体験ができるのです…」
オノカはうんざりした顔で眉をひそめた。

「オノカ、痩せたんじゃない?」
ある夜、皆で階段下の小部屋で過ごしている時にザティが言った。オノカは壁にもたれてうとうとしていた。毎日補習授業が続いていたのを見かねたルニノとトゥーシャがこっそりイデア・ディーベの内容をオノカに教えてやり、今日は皆と一緒に寮に帰って来れたのだった。夕食の席でもオノカは元気がなくほとんど食事を取らなかったので心配したザティは厨房の掃除当番の時にこっそり食料をくすねてきた。しかしそれに手をつけることもなくオノカは眠ってしまっていた。
「明日からはイデア・ディーベの授業では、先生に見つからないように内容をオノカに教えてあげようと思うの。このままじゃオノカの体がもたないわ。」ルニノが心配そうにオノカを見ながらトゥーシャに言った。
「そうね…もっと早くにしてあげてもよかったわね。でも、そんなことして先生達に知れたらもっとオノカが大変になってしまうんじゃないかしら?」トゥーシャはオノカの毛布を直してやりながら言った。
「イデア・ディーベってそんなに難しい授業なの?」ザティが聞いた。
「うーん、どうかしら…。私は最初から出来たから難しいと感じたことはないのよ。それに大抵イデア・ディーベの授業についていけないのは最初の数回だけで、あとは皆できるようになっていくのだけど…。」トゥーシャは困惑した表情で言った。
「とにかく明日からはオノカが補習授業を受けなくて済むように何とかうまくやるつもりよ。私は先生達から信頼されているから大丈夫だと思うわ。」ルニノはいつになくきっぱりと言った。
「わかったわ、ルニノ。でも、あなたは私より年上だから、そろそろアヴェクトに行く事になるはずよ。アヴェクトに行く前は減点されるような行動は避けた方がいいんじゃないかしら…。もし、あの、あなたが…ナド・16を目指しているのなら。」トゥーシャは心配そうに言った。
「トゥーシャ、その話はここではやめましょう。」ルニノはザティとナキトゥの方を見るとトゥーシャの話を遮った。
ザティとナキトゥは訝しげに顔を見合わせた。



「お待たせいたしました。ハムとゼリーのあり合わせです。」
「なんだって?この店じゃあり合わせなんかを客に出すのか!」
派手な音を立ててトレイがひっくり返り、カミュは皿に乗っていた料理を頭から被る羽目になった。
「全く、料理を注文したかと思ったらひっくり返すなんて、酒飲みのすることは理解できませんね。」頭を振りながらカウンターに戻ったカミュの喉元にナイフが突きつけられた。
「あたしの料理のどこが『あり合わせ』だって言うんだい!アンドロイドのくせにいい加減料理の名前くらい覚えとくれ。置いてやってるんだからそれくらいの働きはしてもらいたいんだがね。まったく使い物にならないじゃないか。」
ライ島の「バル・リガーリ」の店主マツミ・ツァンはぶつくさ言いながら手際よくナイフを動かし料理を仕上げると客に謝りに行った。
オノカ達とはぐれてしまった後、カミュとビエリはマツミ・ツァンの店に滞在していたのだった。マツミ・ツァンはカミュの面倒を見るのは御免だと言っていたのだが、数日後にカミュが子供達の位置情報を受信したため渋々滞在を認めたのだった。
カミュは今や日々子供達の情報を得ることに集中していた。見た目はひどく旧式のカミュがカピタリのコンピューターに自在にアクセスできることにマツミは一目置くようになった。
「しかしおかしなもんだね。オノカはまったく通信手段を持っていなかったんだろう?どうして位置情報が手に入るんだい。」
最後の客が帰り店じまいが終わるとマツミは煙草をふかしながらカミュのモニターを覗き込んだ。
「それはよくわからないのです。ただ、シュコーラのコンピューターからは全ての子供達の情報が読み取れます。何か特殊なやり方で常に子供達の情報を入手しているようなのです。あまり深入りしすぎると違法アクセスが察知されてしまいそうなのでやめていますが、それでもオノカとザティ、ルニノ、ナキトゥの生存情報は入手できています。」カミュはマツミの方に向き直った。
「最近気になるのが…オノカの体力と精神状態のデータが他の子供達と比べて著しく低下していることなのです。オノカの身に何か重大な事が起きているのかもしれません。」
「一体何が起きているって言うんだい。」マツミは眉をひそめた。
少しの間カミュは何も言わなかった。目は赤く点滅し、何か考え込んでいる様子だった。静まり返った店内に、ビエリが尻尾をぱたん、ぱたんと床に打ち付ける音が柔らかに響いた。
「マツミさん、カピタリに行きましょう。一刻も早くオノカとザティを連れ戻すべきです。」カミュが唐突に言った。
「な、なんだって!」マツミは煙草の煙にむせた。
「あたし達だけでカピタリに乗り込むってのかい。冗談じゃないよ、あたしは反対だね。ダイ・スカイ船長の到着を待つべきだ。あのグズ野郎、なかなか到着しないが、それでもあいつの力を借りないと無理な相談だよ。」
「オノカの生命危険度予測値が上昇しているのです。ダイ・スカイ船長の到着を待ってはいられません。マツミさん、あなたの力を借りたいのです。作戦はいくつかあり、成功率は決して低くありません。」
「呆れたね。一体なんだってあんたはそんなにオノカに尽くすんだい。まあ、所詮アンドロイドだ、どうせ主人に忠誠を尽くすようにプログラミングされてはいるんだろうがね。」
「マツミさん、私とオノカの間にはそのような主従関係など存在しません。」カミュは淡々と言った。
「へえ、それなら何があるってんだ。アンドロイドのあんたに、オノカに対してどんな感情があるって言うのさ。」マツミはふんと鼻を鳴らした。
「私はオノカに命を与えてもらったと思っています。」
「命だって?思うだって?アンドロイドのあんたがかい?」
「私は電源が入って、最初にオノカの姿を見たのを覚えています。オノカはまだ幼い子供でした。私は最初は頭部だけしか存在しませんでした。オノカは一生懸命ガラクタの中から部品を集め、またはコウ爺が手に入れた部品に手を加えて私の体を作ってくれました。そして気が遠くなるほどの時間をかけて私のプログラミングを繰り返しました。
応都中探してもこれほど時間をかけてプログラミングされたアンドロイドは存在しないでしょう。私は見た目は恐ろしく旧式ですが、性能は応都中で私の右に出るものは存在しないと自負しています。
オノカの根気強い整備とコウ爺がくれた部品のおかげで今や私は応都中全てのコンピューターにアクセスでき、自由に操作できるようにさえなりました。その私が言うのです。オノカほどの腕をもつエンジニアはそうはいません。
私は自分で決めたのです。私にこれほどの力を与えてくれたオノカに忠誠を尽くすことを。私はただただオノカと一緒にいたいのです。オノカが辛い思いをしているのを私は黙って見過ごしていたくないのです。マツミさん、どうかお願いです。私を信じて、力を貸してください。」
切々と訴えるカミュの姿を見るマツミの眼が和らいだ。
「まったく、人間みたいな物言いをするじゃないか。このあたしがアンドロイドの言いなりになるなんてね。だがあんたの言い分も一理あるね。オノカの身に危険が迫っているなら猶予はないね。それに…」マツミは言葉を続けた。
「あのルニノとナキトゥの姉妹のことも気になっているんだ。あの子達は自分たちの出身は『セクレタ島』だと言っていたね。『セクレタ島』ってのは古い船乗り達の間の暗号で、『関わらないでくれ』って意味なのさ。今じゃわかるやつなんていないだろうがね。重大な役目をもつ輩が昔は使っていたもんだが、あの子はなんだってそんな暗号を使ったんだろうね。セクレタ島を故郷と名乗る民がいるってこともどこかで聞いたことがあるがね…。」
カミュは何も言わず、赤く目を点滅させて情報収集を続けていた。


ルニノが目を開けるとそこには見慣れた光景があった。
薄暗い部屋の前方には2本の大きな柱がありその上には篝火が焚かれていた。
いつのまに故郷に帰ってきたのだろうとルニノは思った。自分達が去った後は二度と存在しなくなる筈の故郷へ。
伝統的に受け継がれてきた織り模様の敷物の上にルニノは跪いていた。ルニノの横にはナキトゥがいた。前には2人の大人が立っている。両親だった。

両親を見上げたルニノの胸は懐かしい気持ちで一杯になった。
「ルニノ、ナキトゥ。」父の声は暖かく思いやりに溢れていた。
「カピタリに旅立つのだ。それがお前達の役割だ。そしてこれが我々一族の最後の使命となるだろう。私達はお前達がどこへ行っても使命を果たすことができるように必要なことは全て伝えてきた。ナキトゥはまだ幼いが、占いではお前と共に行くようにと出た。ナキトゥを頼むよ。」ルニノを見つめる 父の眼差しは優しかった。
「カピタリに芽を出した野望を広めてはいけないのだ。この応都全土の為に。我々一族は古代から悪しき野望が謀られたときに使命を果たしてきた。内部に入り込み、悪しき存在を滅亡へと導いてきたのだ。カピタリの芽はまだ若い。ルニノ、お前にならやれるだろう。私たちはもっと大きな大木を刈り取りに行かねばならない。悪さをしないだろうと考えていた芽が思いもよらず悪しき存在へと姿を変えつつあるのだ。それが私たちの最後の使命となるだろう。」
「父さん!母さん!」ルニノは思わず両親の元へ駆け寄った。感情を露わにすることは抑えなくてはいけないと教え込まれていたが、両親とはもう二度と会えないと思うと沸き起こる衝動を抑え込むことは難しかった。
「ルニノ、ナキトゥ、可愛い私の娘達。どこへいても私達はあなた達を愛していますよ。」ルニノの母は二人を固く抱きしめた。母の甘い香りがする。ルニノは大好きな香りを忘れまいと大きく息を吸い込んだ。

頰を伝う冷たい感触にルニノは目を覚ました。夢だったのだと気づくのに時間はかからなかった。ルニノはしばし茫然と横たわっていた。窓の外がうっすらと明るくなっている。ルニノは涙を拭うと起き上がった。もう起きなくてはいけない時刻だった。
数日前からルニノは特別授業を受けていた。授業は早朝から深夜まで続くため、ルニノは他の少女達とほとんど顔を合わせることができなくなっていた。だがそれこそ本望だった。ルニノは順調な手応えを感じていた。
身支度を整えるとルニノはベッドで眠っているオノカを見つめた。
オノカの青白い頰はここへ来る以前と比べて明らかに痩せて見えた。ルニノは跪くとそっとオノカの頰に手を当てた。
この旅にオノカとザティを巻き込んでしまったことだけがルニノを苦しめていた。できることならオノカ達ともう一度ロイテ島に戻りたかった。優しい人々と暮らした懐かしい日々にルニノは思いを馳せた。たちまち、故郷と父と母への想いが込み上げて来た。

ルニノとナキトゥは滅びつつある民族の末裔の最後の子供だった。
自分達の一族は古代から世界の均衡を守る為に存在するのだと幼い頃から言い聞かされて育った。
一族は存在を隠す為、名もなき小さな島から島を渡り歩いて暮らす風習があった。使命ある者を送り出した後は散り散りになり姿を消すのだった。
父からは新たな野望を抱く首都カピタリについて教わった。その理念は成就してはならないものだということも。
ルニノの両親は一族の一縷の望みを託して二人を送り出した。
組織の中に入り込み、迅速に全ての物事を覚え、信頼され、頂上まで上り詰めた後に全てを打ち砕く秘儀をルニノは教え込まれて来た。ナキトゥも共に学んでは来たがまだ幼いためどこまで自分達の使命を理解しているかは危ぶまれた。
ごく稀にルニノは一族に課せられた使命に疑問を抱くことがあった。自分とナキトゥが旅立った後は両親と二度と会うことはない、そして一族はばらばらとなり各地へ散っていく、そのことに言い様のない寂しさを覚えた。いつからかルニノは、辛い使命は自分ひとりで果たそう、と考えるようになった。幼いナキトゥには同じ思いをさせたくなかった。
使命を果たしたら両親を探しに行こう。そして本当の自分達の故郷を作るのだ、とルニノは思った。
使命を果たす為には懸命に勉強を続け、まずはシュコーラでの信頼を勝ち取らなくてはならなかった。
やがてルニノは思いを封じ込め、オノカの頰から手を離すと立ち上がり部屋を出て行った。



ザティとナキトゥはシュコーラの厨房で忙しく働いていた。
中等部の寮での仕事分担ではじめは厨房の掃除当番になった二人だったが、その手際良さが認められ今では厨房専門で仕事をするようにと命じられていたのだった。
料理長は気さくな初老の男で、ふとしたことからザティがロイテ島で食堂を手伝っていたことを知るとたいそう興味を示し、ザティが応都中の料理のレシピに詳しいことに驚いた。試しに作らせた賄い料理の出来栄えがあまりに素晴らしかったため自分の補助として働かせることにした。
厨房に入るようになってわかったことは、寮生向けの食事と教師、その他職員向けの食事は別々に作られていることだった。教師や職員向けの食事は明らかに生徒向けの食事と違って美味しかった。シュコーラに着いた当日に出された食事は美味しく作られた方だった。
「どうして寮生の食事は美味しくないんですか?」ある日ザティは思い切って料理長に尋ねてみた。料理長は苦笑いをした。
「ふむ…私もまずい食事を作るなんて心外なんだがね…仕方がないんだ、シュコーラの規則だと校長から言われてね。なんでも…教育上、現実の食事に興味を持たせないようにするんだとさ。おっと、これは内緒だよ。」料理長は二人に目配せするとこっそり二人に残ったケーキを袋に入れて渡してくれた。

寮では自由にお菓子が手に入ることはなかった。せいぜい食事の時に美味しくもない名ばかりの「デザート」が出るくらいだった。
厨房補助の仕事についた生徒がたまに内緒でお菓子をもらうと、それは寮の中で様々な取引の際に非常に有利なものとなった。
ザティとナキトゥは最近はこのお菓子を交換条件に使ってシュコーラ内に飛び交う噂の真相を調べることに夢中になっていた。

「どうして中等部以下の生徒には詳しいことは何も教えてくれないのかしら。今朝の朝礼でもまたアヴェクト行きの生徒が送り出されてたけど、肝心のアヴェクトって一体何なのかは教えてくれないんだものね。」料理長からもらったケーキを大事そうに抱えながらザティがナキトゥに小声で言った。二人は仕事を終え寮の部屋へ帰るところだった。
「アヴェクトに行く人達をみると全員15歳の誕生日を迎えてすぐってことはわかるわね。でも、アヴェクトに行ったあと、その人達がどうなったかは全然わからないのね。帰って来るのは『ナド・16』になった人だけね。それだってごく稀だわ。」ナキトゥは不満気に肩をすくめた。
更に何か言おうとして口を開いたナキトゥの顔がこわばった。不意に二人の前に白いマントを着た人物が現れたからだった。
シュコーラには教師の他にも内部を統率する存在がいた。白いマントを来て徘徊する者達は「ナド・16」と呼ばれ教師達からでさえ一目置かれる存在だった。
「ナド・16」が夜間に見回りをしているのに出くわすことはよくあった。彼らはいつも何も言わずに辺りを見渡しながら通り過ぎていくのだった。
「ナド・16のことだってよくわからないわ。」ナド・16が向こうに行ったのを確認するとザティが小声で呟いた。
「ルニノとトゥーシャは何も教えてくれないし、オノカとは全然話すことができないから、あたし達で調べるしかないってことね。」ザティはそう言うと辺りの様子を伺った。
「リリィって本当に信頼できるの?あの人のお姉さんがアヴェクトに行く前に色々教えてくれたって言うのは本当かしら?」ナキトゥは心配そうにザティの後に続いた。
「まあとにかく聞いてみましょうよ。嘘か本当かは後で考えればいいわ。」
二人は寮のラウンジに入って行った。ラウンジは消灯後でも自習になら使っていいことになっていた。
ラウンジには誰もいなかったが、隅のソファーに人影があった。
「リリィ、来てくれたのね。」ザティが声をかけると金髪の少女が振り向いた。
「お姉さんがアヴェクトに行ってから元気がないからあたしたち心配してたのよ。見て、厨房からもらって来たの。これを食べて少しでも元気を出してもらえればと思って。」ザティがいかにも心配そうに言うのを聞いてナキトゥの顔が可笑しそうにゆがんだ。
「ありがとう。」リリィと呼ばれた少女は鼻をすすった。泣いていたようだった。
「お姉さんはいつ帰ってくるの?」ナキトゥがザティの方をちらりと見ながら言った。
リリィは顔を覆ってシクシク泣き出した。
「姉さんは…姉さんはもうシュコーラには戻ってこないと思うわ。ナド・16になってシュコーラに戻ってこれる生徒はとても優秀な生徒だけなんですって。」
「じゃあ、その他の生徒はアヴェクトを出た後どこへ行くの?」ザティが聞いた。
「誰にも言わないって約束してくれる?私…姉さんの話を聞いたら怖くなっちゃって…。私は、『不具合宣告』を出されたくないわ。」リリィの声は震えていた。
「不具合宣告?」ザティは眉をひそめた。
「リリィ、お願い。誰にも言わないわ。何ならこれから厨房でお菓子をもらった時にはいつもあなたに分けてあげるわ。だから教えてちょうだい、ナド・16とアヴェクトの事を。」
ザティはきっぱりとした声で言った。


イデア・ディーベの授業ではルニノとトゥーシャがオノカを助けていたので最近はオノカの補習授業はなくなっていた。それでもこの日階段下の小部屋に集まった5人の少女達の表情は暗かった。
今朝の朝礼で発表されたアヴェクト行きの生徒の中にルニノも含まれていたからだった。
「高等部の生徒はみんなアヴェクトに行かなくてはいけないけれど、とうとうルニノが行く番になったのね。」トゥーシャが溜息をつきながら言った。
誰も何も言わなかったが、不意に沈黙を破ってザティが口を開いた。
「アヴェクトって一体何なの?」ザティの表情は硬かった。
ルニノとトーシャ、オノカは顔を見合わせた。
「アヴェクト行きの生徒が決まるたびに先生からの説明はあるけど…必ず、『これは中等部以下の生徒には話してはいけません』って言われるわ。小さい子供達にはまだ理解できないためおかしな噂だけがたつだろうからって先生は言うけど、もう十分噂は出回っているわね。」オノカが言った。補習授業がなくなったせいかオノカは前より顔色が良くなったように見えた。
「ねえ、お願い。本当のことを教えて。あたしとナキトゥはここのところ噂を調べて回っているの。この前はリリィに話を聞いたわ。アヴェクトに行く前にお姉さんが色々教えてくれたって言ってたわ。」ザティはそう言うとナキトゥを見た。
「リリィは、アヴェクトはカピタリ市民にふさわしいかどうかを判断されるところだって言ってたわ。色々なテストがあって、合格すればカピタリ市民として暮らすことができるらしいわ。でもテストの成績が悪かったりシュコーラでの評価が悪かった生徒は『不具合宣告』を出されるんだって。『不具合宣告』を出された生徒はカピタリ市民としては認められずにすぐに故郷へ帰されるそうよ。ナド・16になってシュコーラに戻ってくるのは成績が優秀なごく一部の生徒だけで、彼らはナド・16の役目を終えた後はカピタリ政府の幹部候補になるらしいわ。」ナキトゥは静かに語った。
「そういう噂が出回っているのは知っているけど、あたし達がいつも先生から聞いている話とは違うわ。でも…。」トゥーシャは困惑したようにルニノとオノカを見た。
「あたしは本当のことを伝えるべきだと思うわ。ルニノとナキトゥが離れ離れになってしまうんだもの。」オノカが言った。
「アヴェクトはシュコーラでの学びを復習するところだって聞いているわ。そうしてシュコーラでの学びを振り返ったところで改めて今後自分がどうしたいか決めるそうよ。カピタリ市民として残るか、早く故郷に帰りたいのか。成績が優秀な生徒はナド・16に推薦されるそうよ。シュコーラでの役割を終えたらカピタリ政府の仕事につくことができるって。」ルニノが言った。
「トゥーシャ、あなたのお姉さんもアヴェクトに行ったんでしょう?お姉さんからは何か聞かなかったの?」ザティはトゥーシャの方に向き直った。
トゥーシャは膝の上で拳をぐっと握りしめた。唇は震え、目にはみるみる涙が溜まった。
「そうよ。私の姉さんもアヴェクトに行ったわ。もう一年以上も前よ。姉さんは行く前に私に話してくれたわ。噂を信じちゃいけないって。姉さんは優秀じゃないからきっとナド・16にはなれないだろうけど、きっとカピタリ市民になって私がアヴェクトを出るまで待ってるからって。そして、あたし達は一緒に故郷に帰るのよ。みんな姉さんの事を色々言ってるけど…あたしは噂なんて何ひとつ信じちゃいないわ。」
「トゥーシャ、ごめんなさい、そんなつもりはなかったのよ。」ザティはトゥーシャの肩を抱いた。
「ルニノ、あなたはどうするの?あなたは優秀だから間違いなくナド・16に推薦されると思うわ。でも…ルニノが…あんな冷たいナド・16になってしまうなんて考えられないわ。」オノカは心配そうにルニノを見た。
「私は…まだよくわからないわ。でも、もし推薦されたらナド・16になってみたいわ。」ルニノはきっぱりと言った。
「ルニノ…!」オノカが呟いた。
「将来カピタリ政府の仕事につけることは私たちの故郷にとってとても大切なことだと思うの。でも心配しないで。」ルニノはオノカを見ながら明るい声で続けた。
「私はあんな、何の感情もないナド・16になるつもりはないわ。ナド・16になってここに戻ってこれたら、シュコーラの色々なことを改善したいと思ってるの。」
「それを聞いて安心したわ。アヴェクトの噂があんまり色々ありすぎてナキトゥとそろそろうんざりしてきていたところだったのよ。」ザティは大きく息を吐きながら言った。
ルニノはまだ不安そうな顔をしているナキトゥを見て言った。
「約束するわ。」

翌週ルニノはアヴェクトへと送り出された。
ルニノがいなくなってオノカは心細かった。これまでルニノの存在がどんなに自分を支えていたかが身に沁みた。
イデア・ディーベの授業ではトゥーシャがオノカを助けてくれていたが、ある時教師に知れてしまった。トゥーシャは厳しく注意され、オノカは再び夜遅くまでの補習授業が続く日々が始まった。



夕闇の中、カピタリの港は相変わらず賑わっていた。到着した一艘の高速艇から降りてきた大勢の乗客の中に、マントに身を包んだ二人組が古ぼけた布を被せた台車を押して歩いていた。応都中から荷が届くカピタリ港ではよくある光景だった。
荷物を運ぶ者は皆港の一角にある施設へと向かっていたが、この二人組はいつしか人の流れから外れ、港の端にある建物の陰に身を隠した。
「ふう、もう顔を出してもいいだろうね。ビエリ、よく我慢したね。」
マツミ・ツァンはマントを頭から外すと深く息を吐き、荷台に乗っていた古布をとった。中にはビエリが隠れていた。ビエリは吠えずに静かに尻尾を振った。
「本当にここで小型艇なんて手に入るのかい?」マツミは煙草に火をつけながらカミュに聞いた。
「人混みがはけてから広場に出て行きましょう。その時がチャンスです。」カミュはマントの中から目を赤く点滅させながら言った。
「ふうん、そんなうまくいくものかね。まあ、お前さんの成功予測値とやらは低くないそうだからね。」
日が沈み辺りが暗くなってしばらく経つ頃には広場にごった返していた人々はそれぞれの目的地へと散って行き、辺りには人気がなくなった。
「行きましょう。」カミュの声を合図に一同は広場の中央を目指して歩き出した。
するとたちまち一台の銀色の小型艇が近づいてきた。
「こんな時間に何をしているのです?犬はカピタリでは入港禁止のはずですが…」アンドロイドが小型艇から降りてきて言いかけたが急に動きが止まった。
「では、乗りましょう。」カミュは小型艇のドアを開けた。
「な、何だって?一体何が起こったんだい?」マツミは動かなくなったアンドロイドをあっけにとられて見た。
「アンドロイドの制御装置に侵入し停止させたのです。小型艇のプログラミングも今変更しました。このままオノカ達のいるシュコーラまで気づかれずに行けます。」
「やるじゃないか。」マツミがビエリと共に乗り込むとカミュは小型艇を発進させた。
やがて島から島へ渡り高台を目指すと暗闇の中にシュコーラの建物が見えてきた。
「裏口から入りましょう。」灯りのない小さな門の前で一同は高速艇を降りた。
カミュの目が赤く点滅するとすぐにカチッと音がした。カミュは門を開けた。
「行きましょう。オノカのいる場所はわかっています。マツミさん、ビエリと離れないように。」
「わかってるさ。万が一あんたとはぐれたらビエリが頼りだからね。」
夜遅い時間のためシュコーラの中には人気がなかった。暗い廊下を何度か曲がるとカミュは灯りが付いている教室の前で止まった。窓からは大きなスクリーンが見え、その前に机に突っ伏している少女の姿があった。
「中にはオノカしかいません。入りましょう。」カミュは躊躇なくドアを開けた。
不意にドアの開く音で体を起こしたオノカは目を丸くした。
「カミュ!」驚きのあまりオノカは動けなかった。
「何だい、すっかり瘦せこけちまったじゃないか。カミュが心配した通りだね。」マツミはオノカに近寄ると肩に手をかけた。
「夢を見ているのかしら…。」オノカは恐る恐る立ち上がるとカミュに触れた。次の瞬間オノカはカミュに抱きついた。
ひんやりとした感触が懐かしく、オノカの目には涙が溢れた。全身が大きな安堵感に包まれていた。
「泣くだろうと99%予測していましたよ。」カミュはハンカチを差し出した。今はそんなお節介ですらオノカには嬉しかった。
「さて、グズグズしてられないよ。あんたの妹はどこなんだい。」マツミの声にオノカは我に返った。
「あたしが連れてくるわ。みんなで行ったらたちまち大騒ぎになるわ。カミュ、どこで待ち合わせるの?」
「裏門で待っています。くれぐれも急いでください。」

一同は教室を出ると二手に別れ、オノカは寮へと向かった。この時間だったらみんな階段下の小部屋にいるに違いないとのオノカの予想は当たった。
「オノカ!まだ補習授業の時間じゃないの!一体どうしたの?」ノックに恐る恐るドアを開けたザティは心底驚いた。
オノカは中へ転がり込むと息急き切って言った。
「ザティ、ここを出るのよ。カミュとマツミ・ツァンが迎えに来てくれたわ。急いで!」
「何ですって!一体どうやって…。」
「話は後よ、とにかく行きましょう。」オノカはザティの手を掴んだが、ふと、ナキトゥとトゥーシャを見た。
「あなた達は…」オノカは言葉にならなかった。
「あたしは…ルニノがいるから、残るわ。」ナキトゥがオノカの気持ちを察して答えた。
「あたしも…残るわ。姉がもしかしたらカピタリにいるかもしれないもの。」トゥーシャも続けて答えた。
二人と別れるかと思うとオノカは胸が痛んだが、躊躇している暇はなかった。
少女達は静かに小部屋を出ると裏門へ向かった。この時間は誰かに会う心配はなかった。ナド・16と鉢合わせしないように辺りに気を配りながら少女達は進んだ。
裏門の手前でカミュ達の姿を見つけるとオノカはほっとした。オノカとザティはナキトゥとトゥーシャと固く抱き合った。
「こんなお別れでごめんなさい。元気でね。いつかみんなと会える日が来るって信じてるわ。」オノカは目に涙を溜めながら言った。
「オノカ、急いでください。」カミュが門に向かいながら言った。
オノカとザティが名残惜しそうに歩き出すと共に、不意にナキトゥとトゥーシャの後ろで無数の灯りが光った。
「誰か来たわ!」オノカの声と共に一同は門へ向かって走り出したがたちまち灯りに追いつかれた。
「ここで何をしている!」
カミュは行く手を阻まれて立ち止まった。辺りには白いマントを来たナド・16が数人とアンドロイドが数体、そして後から教師達が駆けつけて来た。
ビエリの低いうなり声が響いた。
マツミはオノカとザティを引き寄せると小声で囁いた。
「カミュがアンドロイド達を使い物にならなくしちまったら、一気に小型艇まで走るよ。」
オノカは固唾を飲んだ。
カミュの目が赤く点滅した。だが不意にその光は消え、カミュは力なくその場に崩れ落ちた。
「カミュ!」オノカの叫び声が虚しく辺りに響いた。たちまちマツミ・ツァンとビエリはアンドロイド達に捕らえられた。
「何の騒ぎかと思ったらこれはこれはまあ…。オノカさん、一体どういうことですか。」オリガ校長が驚いた顔で立っていた。
オノカとザティは茫然と立ち尽くし、言葉が出なかった。
「その女と犬はカピタリ政府へ引き渡しなさい。この壊れたアンドロイドはここで処分しましょう。あなた達は寮へ戻るのです。追って処分を伝えます。」オリガ校長が伝えると、ナド・16が少女達の手をとって寮へと連れて行こうとした。
「ビエリ!」ザティの叫び声にオノカは我に帰った。
「処分って、どういうことですか、あれは私のアンドロイドです。カミュ!!」
オノカはナド・16の手を振りほどこうとしたがだめだった。
「オノカさんのアンドロイドとは…?」校長は眉を潜めたが冷たく言い放った。
「これ以上騒ぐのを止めるのです。さあ、連れて行きなさい。」

その後マツミ・ツァンとビエリがどうなったかわからなかった。
オノカとトゥーシャ、ザティとナキトゥは1週間の謹慎が命じられ、寮の部屋から出ることができなかった。
謹慎後にオノカには懲罰としてゴミ捨て場の掃除が命じられた。ゴミ捨て場の掃除の懲罰は大変不名誉なこととされていた。
ゴミ捨て場のスクラップ置き場でオノカは見覚えのある黒い小さな箱を見つけた。箱を手にとった時、横から小さな不恰好な銀色の塊が転がり出て来た。
オノカは思わず辺りのゴミをかき分けたが他には何も見つけることができなかった。
カミュは処分されてしまったのだ。
オノカは懐かしい黒い小箱と銀色の塊を胸に抱きしめるとその場にうずくまりいつまでも泣き続けた。

その日以来、オノカはろくに食事も取らずに塞ぎ込み、ザティと時折言葉を交わすだけになった。
自分の中で何かが糸のように切れてしまったとオノカは感じていた。
もはや立ち直ろうという気力も湧かなかった。
何にも興味を持てない灰色の日々が過ぎていった。
唯一気になったのは、ルニノがアヴェクトから戻ってこなかったことだった。
ルニノと一緒にアヴェクトへ行った生徒がナド・16となって戻って来たことが朝礼で告げられた時、オノカとザティ、ナキトゥとトゥーシャは顔を見合わせた。
では、ルニノはどこへ行ってしまったのか、カピタリで暮らしているのか、故郷へ帰ったのか、知るすべはなかった。

やがてアヴェクト行きが告げられた時、オノカには安堵感しかなかった。
オノカは、自分はカピタリに戻らないことを選択しようと決めていた。ロイテ島に帰るのだ。そしてザイショウやダイ・スカイ船長の助けを借りてザティを迎えに来よう。
オノカは腰につけたポーチの中の黒い小箱と銀色の塊にそっと触れた。

翌日、オノカは他の数人の生徒と共にアヴェクトへ向かった。早朝に迎えの小型艇が何台かシュコーラの前に到着していた。
辺りは霧に覆われていて、どこへ向かっているのか検討がつかなかった。緑が増え、カピタリの市街でないことは確かだった。
いくつもの島を渡り、しばらく走ると小型艇は緑の中に建つ灰色の建物の前で止まった。
灰色の制服を来た大人たちに連れられてオノカは中へ入った。生徒たちは一人ずつ小さな部屋に通され、着替えるように言われた。オノカが小部屋に入ると窓はなく、椅子の上に灰色の洋服が置いてあった。自分の気分にぴったりな色だとオノカは思った。
着替えて椅子に座って待っていると、やがてドアが開き一人の女性がオノカを迎えに来た。
長い廊下を歩いて、両開きの扉の前で中に入るように言われ、オノカは恐る恐る中へ入った。さっそく試験が始まるのだろうかとオノカは身構えた。
中はとても狭く、まるで小箱だった。椅子もなかった。
壁の上方のモニターから声が聞こえた。
「オノカさん、あなたはシュコーラでD判定でした。従ってあなたはカピタリ市民となることはできません。」
画面には灰色の制服を来た女性が映っていた。
唐突に言われオノカは困惑した。これからシュコーラでの学びの復習やテストがあるのではなかっただろうか。
それでもオノカはこれで故郷に帰れるのだと思い、安堵のため息をついた。
「D判定の方にはこれから新しい仕事が待っています。」
オノカはモニター画面を見つめた。聞き間違えだろうか?
「あの、故郷へ帰れるのではないのですか?」
一瞬の間の後に女性は答えた。
「誰がそんなことを言ったのですか?あなたは本当にシュコーラで何も学ばなかったようですね。」
「どういう意味ですか?新しい仕事って何のことですか?」たちまちオノカの胸に不安が広がっていった。
「面接はこれで終了です。」
モニター画面の電源が消えると、部屋の中にブザーが鳴り響いた。
突然オノカの足元がガクンと揺れた。同時に体ごと下へ、下へと降りていく感覚が襲って来た。
あまりの衝撃の強さにやがてオノカの意識は遠のいていった。

第八章 ニージェの街

「新入り、しかも女の子か。最初からここによこされるとは相当な落ちこぼれのようだな。」
「この様子じゃあ長くは持たねえな。骨と皮ばかりじゃねえか。じき死んじまうさ。」
男達の声でオノカは目が覚めた。なかなか開かない目をやっとこじ開けると天井がぐるぐる回っていた。むっとする匂いが鼻をつく。オノカは思わず鼻と口を手で覆った。ひどく気持ちが悪かった。
「動いたぞ!ジーンを呼んでこい!」
やがてオノカは額にひんやりと心地良さを感じて再び気がついた。誰かが冷たい布で顔を拭いてくれている。
目の前には中年の女の顔があった。肌は浅黒く、渦巻く金髪が額で巻いた布からこぼれ落ちている。オノカを見つめる瞳は深い緑色だった。
「やっと目が覚めたね。水飲むかい。」
恰幅のいい女は慣れた手つきでオノカの背を起こしてやり、水の入ったコップを口元に持っていった。オノカはゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。
「水が飲めるならひと安心だ。なかなか目を覚まさないからもう死んじまうんじゃないかと思ったよ。」女はオノカの額にかかった髪を撫で付けてやりながら言った。ひんやりした手が心地よかった。
マツミの話し方に似ている…そう思った途端、オノカは咄嗟に身を起こそうとしたが力が入らず手が空を掴んだだけだった。
「急に動いちゃいけないよ。まだ起き上がらない方がいい。」女が優しくオノカに手を貸しベッドに寝かせた。
「ここは…どこ?あたしは…一体どうしちゃったのかしら?」
女は憐れみを込めた目でオノカを見つめた。
「あたしはジーンだよ。あんた、名前は?」
「オノカ…。ここはどこなの?」
「オノカ、いい名だね。あんたが今いるところは、カピタリの地下さ。」ジーンの声は優しかった。
「地下?地下って…どういうこと?」オノカはジーンの言ったことが飲み込めず、自分がいる部屋を見渡した。
部屋は狭く、入り口は布で仕切られていた。どこからか金属がぶつかるような音が聞こえていた。
不意に布が開き背の高い男が部屋に入って来た。
「ジーン、どうだい、様子は。」
「まだダメだね、ロランド。」ジーンは男を見て言った。
ロランドと呼ばれた中年の男はベッドに近づきオノカの顔を覗き込んだ。赤ら顔で髭を生やし、薄茶色の髪の毛は長く後ろで一つに束ねていた。
「ようこそ、ニージェの街へ、新入りさんよ。」
「ニージェの街?」オノカは呟くと、ふと窓の外に目をやった。小さな丸窓からは薄暗く灰色の雲の景色が見えた。上空は暗紫色の雲に覆われ、時折雲の中に稲光が見えた。
「ここは雲海の下さ。カピタリの地下はニージェの街って呼ばれているんだ。ここはムサラ島だ。」ロランドはベッドに腰をかけた。
ジーンがオノカの髪を撫でながら言った。
「あんたはカピタリから、地下へ送られたんだよ。最初からムサラ島に送られてくる奴なんて初めてだったし、しかもあんたみたいな女の子なんて、あたしたちも驚いたよ。あんた、一体上で何をしでかしたんだい。そんなに痩せこけてさ、もう助からないかと思ったよ。」
あたしは一体何をしたんだろう。
周りを見渡すとベッドの脇の机の上にオノカのポーチが置いてあり中から黒い小箱が覗いていた。
不意にカピタリでの様々な出来事が思い出され、オノカの目には涙が溢れてきた。
「あたし…わからないわ…なぜこんなことになってしまったのかしら…。」
しゃくりあげるオノカをジーンが優しく抱きしめた。
オノカはジーンに抱きつき激しく泣き続けた。
「さあさあ、今はゆっくりお休み。あたしたちがついてるからね。何も心配することはないよ。もう少し水を飲むんだ。そしてまた眠るんだよ。次に目を覚したらスープを飲んでみようね。」やがてオノカが泣き止むとジーンが優しく言った。
オノカは重い頭を枕に沈めると再び深い眠りに落ちていった。
オノカはゆっくり回復していった。ジーンは甲斐甲斐しくオノカの世話を焼いた。ジーンの作るスープは美味しく、そのうちオノカは少しずつスープ以外の食べ物も食べられるようになった。
オノカがいる部屋はとても狭かったが、入り口は布で仕切られているだけで、ジーンと一緒に誰かしらがオノカの様子を見にきた。男性のこともあったし、女性のこともあった。皆思いやりを込めた眼差しでオノカを見ていくのだった。
ベッドに体を起こしている時間が長くなると、ジーンはオノカの身の上を聞くようになった。
「あんたはどこの島からきたんだい?」
「ロイテ島よ。」
ジーンと、一緒にいた数人の男女は顔を見合わせた。
「あんた、ロイテ島って聞いたことあるかい?」
「いや、ないね。」
ここにはロイテ島を知るものはいなかった。
「応都の西のはずれなの。シュコーラでも誰も知っている人はいなかったわ。」シュコーラの事を話すとオノカは少し震えた。
「最近、シュコーラとやらからニージェの街に降ろされる若者が増えているようだね。」
オノカははっとした。
「そうなの?みんな、アヴェクトからここに降ろされているのね?わたしの友達もいるかもしれないわ。ルニノって言うのよ、知らない?」
ジーンは首を振った。
「オノカ、あたしはアヴェクトって所はよく知らないが、ここにはいくつも島があるんだ。それぞれの島の地下でたくさんの人々が働いているんだよ。どこに誰がいるか探せるかどうかなんて見当もつかないね。」
オノカは小さくため息をつくと窓の外に目をやった。
薄暗く、灰色の靄がかかった景色の中にところどころ上空の暗い雲から下に伸びている大きな物体が点在していた。まるで雲の下から大きな山が逆さに下がっているかのようにみえた。
雲海の下の世界がこのようになっているとはオノカはこれまで全く知らなかった。浮遊島は雲海の下の部分の方が遥かに面積が大きいのだということも初めて知ったことだった。
雲海から下へ伸びている浮遊島には塔のような建物がところどころに見え灯が点っていた。
島から島へと小型艇のような乗り物が行き来しているのをオノカは興味深く眺めた。
「ジーンはどこから来たの?」オノカはスープを持って来てくれたジーンに尋ねた。
「アイル群島だよ。」ジーンはベットに腰を下ろした。
「アイル群島?大都市じゃないの。アイル群島からの船はよくロイテ島に来てたわ。いい船ばかりだったわ。」オノカは目を丸くした。
「あっはっは。」ジーンは笑った。「あたしの島はアイル群島のはずれのちっぽけな貧しい島でね。大きな島にちょっと働きに出ようと思ったんだが、そこでカピタリに行けば稼げるって聞いたんだよ。カピタリに荷を運ぶ船に乗り込んで、わりかし稼げたんだが、ある日カピタリ政府に捕まっちまってね。あたしが乗ってた船は違法取引をしてるって言われたんだよ。船乗り全員捕まっちまったのさ。あたしは知らなかったって言ったんだが取りつく島もなくてね。カピタリ政府は寛大だから罪人を牢に入れるような野蛮なことはしないんだとさ。代わりにここでの仕事を命じられたってわけさ。まあ、もう何年も前の話だがね。」
「何年も?」思わずオノカは繰り返した。
「ちょっと働きにでるつもりで故郷を後にしたんだがね…。置いて来た家族はてっきりあたしが死んじまったとでも思っているだろうよ。さあ、ゆっくり食べな。」
ジーンはオノカの肩を優しく叩くと仕事に戻っていった。
ジーンが何年もここにいると聞いてオノカの食欲は消えてしまった。オノカは呆然と稲光が飛び交う窓の外を見つめた。

やがてオノカの体調はすっかり良くなり、少しずつジーン達の仕事を手伝うようになった。
オノカのベッドがある小さな部屋を出ると広い部屋が2つ続いていて一つは大きな台所になっていた。もう一つの部屋は真ん中に大きなテーブルがあり皆が食事をしたりくつろいだりする場所だった。その部屋から左右に細い廊下が伸びていて、いくつも部屋が並んでいた。部屋がある側と反対側の壁の扉を開けると巨大な空間に出た。
広い空間の四方を囲む壁の一面は天井から繋がったパイプから降ろされてくるゴミで中程まで埋まっていた。
壁面を縫うように続く階段を降りて下に降りると巨大なゴミ処理機が何台もあった。
人々は一台のゴミ処理機ごとに集団を作って働き生活を共にしていた。
主にゴミ処理の仕事を担っているのは男達だった。
男達は壁際にうず高く積もっているゴミを仕分け、荷車に積み込み自分達が担当するゴミ処理機まで運んだ。
女達は食料や生活用品を調達し、料理や洗濯をし日々の暮らしが楽に送れるように精を出していた。
時々男達が仕分けしたごみをゴミ処理機械に投げ入れる作業を手伝うこともあった。
ここでは食料や水、生活するのに必要な物には不自由しなかった。
オノカは毎日女達とゴミ処理場の上の階に登って行った。そこは運搬船の発着所になっていた。
運搬船は大量の食料や洋服や生活雑貨などを積んで来た。
貨幣は必要なく、皆必要な物を好きなだけ取ることができた。
食材は良質なものばかりで、女達は毎日必要な分だけ調達し、腕によりをかけ美味しい食事を作った。シュコーラで美味しくない料理にうんざりしていたオノカは久しぶりに食べることを楽しんだ。
「その忌々しい灰色の服なんて脱いじまいな。」
ジーンは運搬船からオノカに似合いそうな服をいくつか持って来ては縫い直してサイズを合わせてくれた。
「あんたはあんまり料理や洗濯が好きじゃないようだね」ジーンに見抜かれたオノカは肩をすくめた。
「そうなの。本当はロランド達とゴミ処理の仕事がしたいわ。」
「それは残念だね。ロランドは女にゴミ処理の仕事をやらせるのが好きじゃないんだ。時間がかかるってね。ここでは効率よくゴミ処理をしなくちゃいけないからね。じゃないとゴミがどんどん溜まっちまうんだ。」
オノカはため息をついた。女達が担う仕事でオノカが役に立ちそうなことはあまりなかった。
仕方なくオノカは料理以外でジーンを手伝えることを探し、テーブルのグラグラする足を直したり、ドアの取手が緩んでいるのを直したりするようになった。
「あんたは器用なんだね。でもこの蛇口は直せないだろうね。」ある日流しに立っていたジーンがオノカに声をかけた。
台所ではジーンはいつも蛇口から出る水の温度調節と量に悩まされていたのだった。
「制限なくじゃんじゃん使えるだけでもありがたいんだろうがね、水が欲しい時には水が出て欲しいもんだよ。熱湯が出続けたらあたしは何もできやしないよ。」
オノカは喜んで引き受けた。オノカにとっては簡単な作業だった。
やがて水量と温度が自在に調節できるようになった蛇口にジーンは大喜びだった。
「男どもに言っても誰も相手にしてくれなかったんだよ。」
「もう少し工具があったら換気扇も直したいのだけど。」オノカは台所の天井に近い一角を眺めた。換気扇はスイッチを入れても時々気まぐれに動く程度で全く役に立っていなかった。
ゴミ処理場に充満するやり切れない悪臭はオノカ達が暮らす部屋にも満ちていたのだった。
「工具ならゴミ処理機がある壁面の棚にあるよ。たまにくる整備班が使うんだ。元に戻しとけば構わないだろうよ。」ジーンが教えてくれた。
ジーンに頼まれたロランドは壁面の棚を開けてやったが訝しげな顔をした。
「お前がこの工具を使うのかい?」
「ええ、そうよ。」オノカは大喜びで工具を手に取った。
オノカはロイテ島でザイショウと直し屋をしていた頃を懐かしく思いながら換気扇の修理に夢中になった。時々ゴミ処理機のところへ行きロランドに頼んでスクラップにされる機械の中から使えそうな物を探すのも楽しかった。
1日かけてオノカは換気扇を直してしまった。部屋に充満していた匂いは換気扇のダクトから吸い込まれていき、オノカの工夫で外の綺麗な空気が部屋に取り込まれるようになった。
ジーンは目を丸くして驚いた。
「今まで誰も換気扇を直そうなんて思いついた者はいなかったんだよ。たいしたもんだね、あの嫌な匂いがもうしないなんて信じられないよ。」
「料理がますます美味く感じるな。オノカ、今度は俺の頭の中も見てくれないか。少しは利口になりたいもんだ。」ロランドは上機嫌に言った。
「あの嫌な匂いがなくなったら調子が悪くなる者が少し減るといいんだがね。」ジーンは食卓にところどころ空いている席を見ながらため息をついた。

毎日誰かしらが体調を崩し仕事を休んでいた。時々ジーンは島にやってくる運搬船に乗ってどこかへ出かけることがあった。ジーンは白い紙袋を手にして帰ってくると調子を崩して休んでいる者達に配ってやった。すると間もなく休んでいた者達は体調が戻るのだった。オノカはジーンは何か薬を取りに行っているのだと思っていた。
オノカが換気扇を直した後も体調を崩す者は減らなかった。
ある朝ジーンとロランドが真剣に話し合っていた。数日前から男性の体調不良者が増え、今朝はどうしても作業にあたる人数が少ないのだった。
「お願い、あたしに手伝わせてよ。」オノカはロランドに頼み込んだ。
ジーンは子供に男の仕事をさせるなんてと心配したが、人手が欲しいロランドはオノカを男達の作業に入れることにした。
オノカが手際よく働く姿を見たロランドの提案でそれ以来オノカは男達に混ざってゴミ処理場での仕事をするようになった。
匂いはひどかったがオノカは仕事を楽しんだ。

スクラップ行きの金属ゴミの中に、時々オノカはまだ使えそうな工具を見つけた。ゴミにしてしまうのは惜しく、ロランドにどやされてもついオノカはとっておいてしまうのだった。時間の空いた時に工具の手入れをしてまた使えるようにするのが唯一のオノカの楽しみとなった。そんなオノカをジーンは興味深く眺めた。
「あたし、島ではいろんなものの修理をしていたのよ。船のエンジンだって整備してたわ。」
「へえ!あんたみたいな女の子がエンジンをかい?そりゃ驚いたね!」ジーンの言い方はまるでオノカのいう事を信用していないかのようだった。ジーンはからかうように言った。
「じゃあ今度はあたしの頭の中も見てくれないかね。」みんな大笑いした。ここではこの冗談が皆のお気に入りのようだった。
オノカは肩をすくめると諦めた。誰も信じてくれなくても別に気にならなかった。
ロイテ島にいた頃のように腰に工具がぶら下がっているだけでオノカの心は落ち着くのだった。

ある朝オノカは大きな音で目が覚めた。音は下のゴミ処理場から聞こえてくるようだった。
オノカが身支度をして出ていくとロランドが困り果てた顔でジーンと相談していた。
「こうなったらもう終わりだ。機械は使えねえ。参ったな、これじゃあ処理が追いつかねえ。上の奴らは容赦無くゴミを下ろしてくるし、整備班の奴らなんていつ来るかわかったもんじゃねえ。」
「どうしたの?」オノカはジーンとロランドを見た。
「ゴミ処理機がぶっ壊れちまったんだよ。こうなると整備班が来るまで何もできないんだ。ゴミはどんどんたまる一方だし。最悪だよ。」ジーンは力なく椅子に腰を下ろした。
「あたしに機械を見せてくれない?」オノカは思い切って言ってみた。
「蛇口や換気扇とはわけが違うんだよ、オノカ。あんたにどうにかできるもんじゃないよ。」ジーンは相手にしなかった。
「いいさ、どうせ壊れてるんだ、好きにしたらいいさ。俺は寝るぜ。みんな、しばらく作業はなしだ!」ロランドはふて寝を決め込むと部屋に引っ込んでしまった。
誰も何も言わないのでオノカは胸を踊らせながら下へ降りていき騒がしい音を立てている巨大なゴミ処理機械と向き合った。
ロイテ島にいた頃は大きな機械の故障箇所はカミュの解析に任せていたが今は自分の勘だけが頼りだ。カミュの事を思い出すと気が沈んだが、オノカはポーチの中の黒い箱に手を触れると気持ちを切り替えた。

部屋で眠りこけていたロランドはふと目を覚ました。騒音が止んでいた。
ついに機械が完全に止まってしまったか。こうなると修理に時間がかかり厄介だった。仕分けの作業を全員で行い他のゴミ処理機械での処理を頼みに手配しなくてはいけない。ロランドは気も重く起き出して行った。
部屋には人の気配がしなかった。しまった、すでに皆総出で働いているのだ。くそっ、寝すぎたか。ロランドは部屋を飛び出し処理場への階段を駆け下りた。
ゴミ処理機械を見下ろしたロランドの足が止まった。

煤と生ゴミがこびりつき異臭を放っていたゴミ処理機械は今やピカピカに磨き上げられていた。女たちが総出で機械を磨いていた。男達は手際よくゴミを機械に投げ込んでいた。ジーンが満足げに腕を組みゴミ処理機械の上の方を眺めている。頂上にはオノカが立っていた。ロランドは慌てて下へ駆け下りた。

「ロランド!これはすごい機械なのね!仕分けとスクラップと同時にできるなんて、素敵だわ!見て、価値のある金属片を仕分ける事もできるのよ!生ゴミの圧縮率も上げられたわ!」
オノカが機械の頂上のはしごからロランドを見下ろしながら言った。
ロランドはあっけに取られた。
「本当はこんなに高性能だったのよ。ずっと調子は悪かったのね…あの状態を保てるようコントロールしていたなんてすごいわ、ロランド。」上から降りて来たオノカはロランドと向き合った。
「オノカ…お前は一体…」ロランドは言葉が出なかった。
「言ったじゃないの、あたしはロイテ島で直し屋だったって。久しぶりにワクワクしたわ。ありがとう、ロランド。」
礼を言われてロランドは面食らった。目の前にいる少女が信じられなかった。

オノカがゴミ処理機械を修理したあとは機械の性能が格段と上がり、男達の仕事ははかどるようになった。
磨き上げられたゴミ処理機械を物珍しげに眺めに来る他の集団の者達もいた。ゴミ処理機械の調子が悪くなることはよくあるようで、依頼してもなかなかこない整備班に皆困っていたのだった。オノカがゴミ処理機械を修理したという噂はすぐに広がり、やがて他の集団からオノカに機械をみてもらえないかという依頼が来るようになった。オノカはロランドの許しを得て他の集団のゴミ処理機械もみてやった。オノカの修理を訝しげに見にくる者の中には昔修理工をやっていたという者もいて、オノカは機械の修理と手入れについて丁寧に教えてやった。
そのうち全てのゴミ処理機械がピカピカに磨き上げられ、処理性能は格段に上がった。上から送られて来るゴミは素早く処理されるようになり、壁に積み上げられるゴミの量は減っていた。
オノカは空いた時間に他の集団の男達と相談し、壁面に換気扇を作ることを企てた。男達の中には機械に詳しい者も少なくなく、やがて皆で協力して換気扇が完成した。
ゴミ処理場にはもはや悪臭はしなくなった。
ある時やっと整備に来た整備班の者の驚きの表情を皆は面白がって眺めたのだった。
「よう、お前さんがたの仕事はここにはないぜ。おっと、こいつを持っていってもらおうか。価値のある金属だぜ。」
男達はあっけに取られている整備班の連中をからかって陽気に笑った。

数日後、オノカがゴミ処理機械の整備をしているとジーンが呼びに来た。
「オノカ、あんたに移動命令が出たよ。」ジーンは茶色い紙に書かれた文字を読みながら言った。
「移動命令?」オノカは訝しげに眉をひそめた。
「ニージェの街に降りて来てまもない頃は色々な仕事をやらされるんだ。いくつか仕事をやらせて、最終的に向いていそうな仕事場に配属されるのさ。あたしらだって上からの命令じゃなきゃこんな所にはいないよ。」ジーンは肩をすくめた。
「ジズ島って書いてあるわ。」オノカはジーンから手紙を受け取ると読んだ。
「ここのすぐ隣の島だよ。通称『生活の島』って呼ばれてる。ちなみにここムサラ島は『ゴミの島』だがね。」ジーンはそう言うと豪快に笑った。
「移動命令が出た者は住む所を移すのは自由なんだよ。」
「ここにいちゃいけないの?」オノカは心配そうにジーンを見た。
「もちろん構わないよ。だけど気が変わったらいつでも出ていっていいんだよ。その…ここは少しばかり臭うじゃないか。」
「あら、みんなで換気扇を作ったじゃないの。もうちっとも臭くないわよ。」オノカは得意げに言った。
「まったく、あんたって子は本当に変わってるね。こんな所にいたいなんて。」ジーンは優しい眼差しをオノカに向けた。

翌朝オノカはジズ島へ向かった。ジズ島へは島々を巡回する小型船が行き来しているためオノカは移動には困らなかった。
ジズ島につくとオノカは洗濯場へ行くようにと言われた。洗濯場はジズ島の最下層にあった。
蒸気が立ち込める洗濯場ではたくさんの男女が働いていた。オノカは仕上がった洗濯物をカゴに詰めていく部署に行かされた。洗濯物は下着からシーツまでありとあらゆる種類があった。仕事に慣れて余裕ができるとオノカは隣で働く女性に聞いてみた。
「ねえ、この洗濯物はどこから来るの?」
「上からだよ。」隣の女性は鼻歌をやめてオノカを見た。ここでは陽気に歌を歌いなが働く者が多かった。
「上って、カピタリの街のこと?」
「そうさ。カピタリ市民は仕事なんてしないからね。洗濯なんてもちろんしやしないのさ。」女性は再び鼻歌を歌いながら手を動かした。
そのうちオノカは見慣れた服があるのに気がついた。シュコーラの制服だった。
カピタリの人々は洗濯などしないのだ。女性の言葉がオノカの頭の中でぐるぐる回った。
カゴに詰めた洗濯物はそれぞれ行き先の書かれた札をつけると運搬船に積み込まれ、代わりに新たな洗濯物が降ろされた。

仕事が終わりムサラ島に戻ると夕食の席でオノカはジーンに聞いてみた。
「ニージェの街って、カピタリの人たちがやらない仕事をする所なの?洗濯場で洗っているのは全部カピタリから来た洗濯物だったわ。」
ジーンはロランドと顔を見合わせると、豪快に笑った。
「そうともさ、オノカ。カピタリ市民になると理想的な暮らしをする為に面倒な仕事はしなくていいんだよ。その仕事の一切をニージェの街でやってるのさ。このムサラ島にはカピタリ中のゴミが降ろされているんだ。」
「カピタリ市民は部屋にこもって瞑想するのに忙しいのさ。」ロランドはからかうように言った。
「夢の中でなんでもできるってんで、そのうち何も食べなくてもよくなるんだそうだ。俺はそんなのはごめんだがね。」ロランドは美味しそうに料理を口に頬張るとオノカに目配せした。
オノカは黙って、食事をしている皆を眺めた。皆愉快そうに笑い、話に夢中になっている。シュコーラではこのような光景を見ることはなかった。大人達は皆静かに威厳を保ち、子供達は私語は禁じられ感情を表に出すことは良くないとされていた。ロランドの言う瞑想とはイデア・ディーベのことだろうかとオノカは思った。たちまちシュコーラの補習授業で何度も見せられた映像が蘇った。
「理想の生活を送る為には実体験は不要なのです。理想的な瞑想の中でこそ本当の理想の人生が送れるのです…。」
その理想的な人生とはこのニージェの街で暮らす人々の仕事で成り立っているのだろうか。
シュコーラでの味気ない生活よりここでの大人達の愉快な生き方の方がよっぽど魅力的だとオノカは思った。
それでも…ニージェの街で暮らしている人々は…ここから出ていくことはできないのだろうか…一抹の不安がオノカの頭をよぎったが口には出せなかった。

数週間洗濯場で働いた後オノカは上の階の調理場へと移動になった。
料理は苦手だったが皿洗いは嫌ではなかった。調理場では調理器具の不具合が多く、そのうちオノカは食器洗い機を直したり配管を直したりするのに重宝されるようになった。
調理場の人々は皆気さくで優しかった。素晴らしい料理を生み出す料理長が数名いた。
出来上がった料理は手際よく箱に詰められ運搬船で運ばれて行った。代わりに汚れた食器が降ろされた。
料理だけではなく下ごしらえをした状態で上に運ばれる食材もあった。
オノカはふとザティとナキトゥならこの仕事に向いているのにと思った。二人は無事に暮らしているのだろうかと心配になった。ルニノの消息も未だにわからなかった。
調理場の人々はオノカがゴミの島で暮らしていることを不思議がった。美味しい料理が食べ放題のこの島で暮らすようにと何度も勧められたがオノカは断った。皆ゴミの島での暮らしを心配し、オノカが帰るときにはいつもたくさんの美味しい料理や食材を持たせてくれた。ジーンは喜んで皆に振る舞った。

調理場での仕事にも慣れた頃、オノカはさらにジズ島の上の階への移動を命じられた。
「メディチ工場って書いてあるわ。」オノカは送られてきた移動命令書をジーンに読んで聞かせた。
「メディチって何?」オノカはジーンに聞いた。
「これだよ。」ジーンは白い紙袋を出してオノカに見せた。それは時々ジーンが皆に配っている袋だった。中には透明な小袋に入った丸い小さな粒がいくつか入っていた。
「これがメディチなのね。何に使うの?」
「そういえばあんたはまだ一度もメディチの世話になってないね。欲しくならないのかい?」
「どんな時に欲しくなるの?」
「嫌なことを思い出したり、辛い思いをしたり、人間ってのは一度気持ちが沈み始めるともう元には戻らないんだ。何もできなくなり、あまりの辛さに部屋で震えているだけさ。メディチを飲むとたちまち元の明るい気分になって体も元気になるんだ。」
「そうなの…?」オノカは無意識に首にかけたお守りを握りしめながら言った。
シュコーラにいる時がそうだったかもしれないとオノカは思った。
ニージェの街に来てからはそんな事態に陥ったことはなかった。嫌な思いをしたり気分が沈むことはよくあることだったし、いつのまにかまた元気になるため格段気にもとめていなかった。
「あんたはまだ来たばかりだからまだ欲しくならないのかもしれないね。ニージェの街で暮らすあたしたちはメディチなしにはやっていけないんだ。あんたも辛い時には我慢しないでメディチを飲んでみるといいよ。」
メディチ工場でのオノカの仕事はトレイに乗せられてきた丸い小さな白い粒を数え、小さな袋に小分けして入れることだった。
ここでは皆マスクと手袋をして作業する為誰も話をするものはいなかった。
工場の手前はメディチを配る場所になっていて、いつも人々が行列を作っていた。時々並んでいてももらえない者もいるようだった。もらえなかった者はがっかりして足元も弱々しく戻って行った。もらえるまで何日も通う者もいた。
オノカにはなぜ人々がこんなにもメディチを欲しがるのか理解できなかった。自分もこの白い粒が欲しくなる時が来るとは想像できなかった。
メディチ工場での仕事は息がつまりそうで、移動命令が出た時にはオノカはほっとした。
次は違う島での仕事だった。
「ピタニー島?」移動命令書を読んだオノカは呟いた。
「あそこは食料管理の島だよ。上での作業になるんだ。」ジーンが教えてくれた。
「上での作業って?カピタリに行けるの?」オノカは驚いた。ここから地上に出られるとは思っていなかった。
「まあね。上とは言ってもカピタリの外れにある畑での仕事だよ。それでもたまには上の景色を見られるのは羨ましいね。」

ピタニー島に行くとまずは灰色の服に着替えるように言われた。オノカがアヴェクトで渡された服と同じだった。アヴェクトでの出来事を思い出すといい気持ちはしなかった。
オノカは他の人々についてピタニー島の発着所から船に乗った。船は上昇し、島の上部ギリギリの所で船を降り再び島の中へ戻ると島の中を通っている階段を延々と登った。
息を切らしてたどり着くと不意に扉が開き、眩しい光にオノカは目が眩んだ。
カピタリの地上に出たのだった。
辺りは一面広々とした畑になっていて、周りは小高い丘に囲まれていた。
灰色の作業着を着た大勢の人々があちこちの畑で作業をしていた。
久しぶりの地上での作業をオノカは楽しんだ。外の空気は清々しく気持ちが良かった。畑には作物がたわわに実り、収穫物はたくさんあった。
地上での作業に特に監視はなかった。時折銀色の小型艇が通り過ぎることはあったが、乗っている者は誰もこちらのことなど見ていないようだった。
オノカはふと、このままうまく逃げ出して港へ行き高速艇に乗っても気づかれないのではないかと思った。
数日するとオノカはピタニー島の住民から食事に呼ばれた。誰もがオノカにピタニー島で暮らすよう勧め、ゴミの島で暮らし続けるオノカを不思議がった。
ピタニー島ではどの島よりも食料が豊富だった。人々は日々広い食堂でたっぷりの食事と酒を楽しんでいた。
「どうだ、この島はいいだろう。」隣に座っていた中年の男がオノカに話しかけてきた。
「好きなだけカピタリに出られるし、食い物も酒もたっぷりとある。こんな自由な島は他にはないぜ。そうさ、俺たちは自由なんだ。」男は上機嫌にグラスを飲み干した。
「自由なのに、どうしてここから出ていかないの?」オノカは素朴な疑問をぶつけてみた。
オノカの周りが急に静かになった。皆食べるのをやめ黙り込んでしまった。
何かが飛んできてオノカの肩に当たって潰れた。生卵だった。
「誰だそんな寝言言ってる奴は。」「飯が不味くならぁ。」「これだから新入りは嫌になっちまうよ。」次々と飛んでくる言葉にオノカは気まずくなり早々に席を立った。

しょんぼりと戻ってきたオノカの肩についた卵を拭き取ってやりながらジーンが慰めた。
「ここから出ていくことは誰にもできないんだよ。」
「どうして?いつでも出て行けそうだったわ。誰も監視していないんだもの。」オノカにはわからなかった。
「俺たちはチップで管理されているんだ。」ロランドが腕を捲り上げて見せた。肩の下に米粒大の銀色のチップが見えた。
オノカは思わず自分の肩を抑えた。シュコーラについた時に健康管理だと言われてつけられたチップと同じだった。
「あたしたちは…管理されているの?」オノカの声は震えた。
「そうさ。俺たちの行動は全てカピタリ政府に筒抜けなんだ。」ロランドは吐き捨てるように言った。
「ニージェの街から出て行くことはできないの?」オノカはロランドとジーンを見た。
ロランドとジーンは顔を見合わせた。
やがてロランドは椅子に深く腰を下ろすと煙草に火をつけた。
「オノカ。」ロランドはオノカをじっと見た。
「俺は、ここに降ろされる前は密輸船で働いていたんだ。そこそこ稼げる暮らしで満足していればよかったんだが、カピタリに荷を運ぶ仕事が景気がいいって聞いてつい手を出しちまったのさ。俺の船には、応都のあちこちからやってきた奴らもたくさん乗せていた。みんなカピタリの噂を聞いて、カピタリ市民になりたくてやってきたのさ。ところが違法船に乗ってきたってんで、全員捕まっちまった。それで俺たちが言われたのは、罪人はカピタリ市民にはなれない。カピタリは罪人を牢屋に入れるのではなく、仕事をすることで償わせるんだってことさ。何年働いたら罪は許されるかは聞かされなかった。それは働きを見てカピタリ政府が決めるっていうんだ。
地下に降ろされた俺たちはそれぞれ違う場所に分けられたが、仕事さえすればあとは条件は悪くねえ。住む所も食べ物も酒も、何もかも必要なものは好きなだけ手に入る。金以外はな。カピタリにくる前は生きていくのがやっとというような貧しい暮らしをしていた奴らばかりだから、みんなここでの暮らしに満足しているのさ。」
ロランドは煙草の煙を吐き出しながらゆっくり話した。
「ここにいるのは罪人だけじゃないんだよ。」ジーンが続けた。
「カピタリ市民になりたくてやってきたが審査が通らなくて、ニージェの街なら仕事をすることと引き換えに住むところも食べ物も、必要なものは充分にあると言われてここで暮らすことを選んだ者もたくさんいるんだ。ニージェの街で暮らす間はここから自由に出ることはできないって契約なんだそうだ。何年ここにいるのかはカピタリ政府が決めるんだとさ。それでも貧しい島出身の奴らはここで暮らすことを選ぶのさ。ここニージェの街での暮らしの方がよっぽどましだからね。」
「あたしはここから出たいわ。なんとかしてロイテ島に帰りたい。出られる方法があったら教えて、ロランド。」
ロランドは首を降った。
「オノカ。上を見てごらん。」
オノカは小さな丸窓から外を見た。上空は暗紫色の雲で覆われていた。雲の中ではところどころに稲妻が光っていた。
「あの暗い雲の中は強力な磁場が乱れ飛んでいるんだ。雷が激しく、中に入った船はたちまち雷に打たれ破壊されてしまう。船では行き来できないんだ。
カピタリヘは島の内部を通らないと上がって行けないがその道は厳しく監視されている。
ピタニー島は例外だが許可された者しかピタニー島では働けないし、仮にピタニー島からカピタリ市街に行ったらたちまち捕まってしまうだろうさ。俺たちはチップで管理されているからね。」
「出て行こうとした人はいないの?」
「いるさ。」
「その人はどうなったの?」
「さあな。うまく出ていけたのかどうかはわからねえ。戻ってこないやつもいるからな。捕まっちまってこのムサラ島によこされた奴はいるが、すっかり怯えちまって、何も言わねえ。そいつはメディチのお世話になりっぱなしで仕事になりゃしねえよ。まあ、所詮みんなこのニージェの街でそれなりに満足して働いている奴らばかりってことさ。」
「ジーンとロランドは帰りたくないの?」
「あたしは…。もちろん帰れるもんなら帰りたいよ。だがね、何年かしたらきっと許されて帰れるようになるんじゃないかと思うんだよ。無理に逃げ出そうとしてひどい目に会うよりは、大人しく働いてその日を待っていた方がいいんだよ。慣れりゃここの暮らしもそうは悪くないからね。あたしの島の貧しい暮らしよりよっぽどましなんだ。」
「俺はもうそんなことを考えることも忘れちまったね。」ロランドはタバコの煙を燻らせながら窓の外を眺めた。

ある日オノカが仕事から戻ると移動命令書が届いていた。地上での仕事は終わりかとオノカはため息をつきながら封を開けた。手紙と一緒に何か硬い包みが入っていた。
オノカが包みを開けるのを覗き込んだジーンは目を丸くした。
「驚いたね、これは『スヴァ』のバッジじゃないかね!オノカ、あんたがスヴァになるなんて、まあ!」
包みの中には丸い銀色のバッジが入っていた。
「スヴァって何かしら?」オノカは手紙に目を走らせながら言った。
「仕事の成績のいい者はスヴァの認定を受けることがあるんだ。あんたはなんでもできるからね。スヴァになると自分の好きな仕事を選べるのさ。毎日違った仕事場に行ってもいいんだ。だけどこのムサラ島からスヴァになる者が出るなんてねぇ。」ジーンは銀色のバッジをしげしげと眺めた。
どこでも自由に働いていいとなるとオノカはジーンやロランドと仕事をすることを選んだ。オノカはゴミ処理場の人々が好きだったし、ゴミ置き場は宝の山だった。
時々地上に出たくなるとピタニー島へ行ったが、そんな日々を送っていてもオノカが他の人々のように体調を崩すことはなかった。

ある朝ジーンが起きてこなかった。
ここ数日体調が悪そうだったのだが、今朝はとうとうベッドから出られなくなってしまったのだった。
ロランドは困り果てたように言った。
「ジーンが寝込むなんて相当ひどいんだ。いつもはジーンが皆の分もメディチを取ってきてくれるんだが、この様子じゃあ無理だな。参ったな。」
「あたしが代わりに行けないかしら?」
「うーん、誰でも本人の代わりにメディチをもらいに行けるわけじゃないんだが…。もしかしたらお前ならスヴァのバッジを持っているから大丈夫かもしれないな。」
オノカはジーンの代わりにメディチ工場へ向かった。
配給所にはたくさんの人が並んでいた。オノカはロランドが書いてくれた申請書を受付に出すと列に並んだ。
窓口の女性はオノカの顔を見ると訝しげな顔をしたが、オノカがスヴァのバッジを見せると申請書にサインをした。薬を受け取るための申請はすぐに通り、オノカはホッとして窓口で袋を受け取ると人混みをかき分けて外へ出ようとした。
ふと、列に見覚えのある顔を見つけたような気がしてオノカは戻った。
気のせいではなかった。
列の中に真っ青な顔をして並んでいる茶色い髪の毛の少女がいた。背丈はオノカと同じくらいだった。
「トゥーシャ!」オノカは駆け寄った。
「オノカ…」トゥーシャは弱々しい声で呟くとオノカの両腕にしがみついた。
「トゥーシャ、あなたもニージェの街にきていたなんて…!」
オノカの腕を掴んだトゥーシャの目にはみるみる涙が溢れ、言葉は出てこなかった。顔はひどく青ざめていた。
「真っ青じゃないの。トゥーシャ、あなたもメディチをもらうために並んでいたの?」
トゥーシャは頷くと息も絶え絶えにオノカの腕に倒れ込んでしまった。
「おい!何やってんだ、並ぶのか、並ばねえのかどっちかにしてくれ。」
後ろからイライラした男の声がした。
オノカはトゥーシャを抱きかかえるようにして歩かせながら列を離れた。
「私…メディチをもらわないと…姉さんの分も…。」トゥーシャは列に戻ろうとしたが足がもつれ座り込んでしまった。
「お姉さん?トゥーシャ、お姉さんもここにいるの?」オノカの問いかけにトゥーシャは力なく頷いた。
「トゥーシャ、お姉さんに会えたのね。お姉さんもニージェの街にいたなんて…。」
声をかけるオノカの胸元をトゥーシャがじっと見つめた。オノカがいつも首から下げているお守りが穏やかな光を放っている。お守りが時々光ることがあるのは前からあったからオノカはこれまで気に留めたことはなかった。
トゥーシャは引き寄せられるようにオノカのお守りに手を伸ばし、そっと触れた。
しばらくしてトゥーシャは我に返ったような顔をした。
「オノカ…!オノカなのね!まさか、こんなところで会えるなんて…!」トゥーシャの頬に赤みが戻ってきたように見えた。トゥーシャはまじまじとオノカを見つめた。
「トゥーシャ、気分が悪いの?メディチを飲まないといけないくらいなの?」
トゥーシャはオノカのお守りに触れたまま胸に手を当てると深く息を吐いた。
「オノカに会えたからかしら、なんだかだいぶ気分がいいわ。今日はもうメディチはもらえないと諦めてはいたのだけど…仕方がないわ。姉さんはがっかりするだろうけど。」
「トゥーシャ、あなたはどこで暮らしているの?」
「あたしはミハニ島よ。『機械の島』って呼ばれてるわ。そこの一番下の階で機械の洗浄の仕事をしているの。」
「よかったら送って行くわ。まだ足に力が入らないんじゃない?」
「だいぶいいわ。不思議ね、オノカに会ったら本当に元気になったみたい。」
オノカはトゥーシャについて船に乗りミハニ島へ向かった。ミハニ島へ行くのは初めてだった。
ミハニ島へは運搬船が何艘も行き来していた。発着所に降り立つとあちこちから金属音が聞こえ、蒸気が充満していた。
蒸気の立ち込める中、通路を進むと広い空間では大小の機械が並び大勢の人々が作業をする賑やかな音が響いていた。オノカはトゥーシャについて狭い階段を降りて行った。階段を降りきって出た薄暗い空間にもたくさんの機材があり、床には泡だらけの水があちこちに流れていた。
「ここがあたしの仕事場よ。機械の洗浄場なの。」トゥーシャは壁際にところどころ開いている通路の一つに入って行った。いくつもの扉が並んでいたがそのうちの一つの扉の前でトゥーシャは止まった。
「あたしの部屋よ。」
中は薄暗く狭かった。
「姉さん、戻ったわ。」
部屋の隅にはベッドが二つあり、一つに誰かが寝ていた。
「遅かったのね、トゥーシャ。メディチはもらえたの?」ベッドからか細い声がした。トゥーシャはベッドに駆け寄った。
「姉さん、今日はもらえなかったの。前回からまだ日にちが経っていないからって。
特別申請の窓口にも並んで見たんだけど、他にもたくさん並んでいて…。」
「そう…。その子は誰?」
「姉さん、オノカよ。ほら、シュコーラで仲良しだったオノカの事、話したじゃない。オノカもニージェの街にいたのよ。」
オノカはベッドに近寄った。
トゥーシャと同じ茶色の髪の少女が青白い顔で横たわっていた。薄青い瞳がオノカを見つめた。
「そう…。あなたがオノカなの…。」
「初めまして。オノカです。トゥーシャのお姉さんに会えるなんて…。」
「私はイリーナよ。トゥーシャはいつもあなたのことを聞かせてくれたわ。とても素敵な友達だったって。」
イリーナは弱々しく微笑むとオノカの手を握った。
「姉さんは隣の島の洋服作りの工房で働いているのよ。オノカ、あなたはどこにいるの?」
「あたしはムサラ島で暮らしているわ。」
「ムサラ島ですって?あそこはゴミの島って言われてるじゃないの!」トゥーシャは目を丸くした。
「みんなに言われるけど、そんなに酷いところじゃないわ。あたしは気にいってるし快適よ。」オノカは肩をすくめた。
「まさかトゥーシャに会えるなんて思ってもいなかったわ。あなたもアヴェクトへ行ったのね。そうだわ、ルニノは戻ってきた?ザティとナキトゥは元気にしてるのかしら?」
オノカは矢継ぎ早にトゥーシャに尋ねた。
トゥーシャは両腕を抱えると小さくブルっと震えた。
「あたしがシュコーラにいる間にはルニノは戻ってこなかったわ。オノカがアヴェクトへ行って暫くしてからあたしもアヴェクト行きを命じられたの。
アヴェクトって、シュコーラで聞かされていた話と全然違ったわ。シュコーラの学びを復習して、カピタリで暮らすか故郷へ帰るか選べるところだって聞いていたのに。
あなたはD判定のため、カピタリ市民にはなれませんって言われてそのままここへよこされたのよ。」トゥーシャは吐き捨てるように言った。
「あたしもそうだったわ。トゥーシャ、おかしいと思わない?どうしてシュコーラではニージェの街のことは何も聞かされなかったのかしら。それに…。」
ニージェの街からは二度と出られないのかもしれない、と言いかけてオノカは言葉を飲み込んだ。
「とにかく、何もかもわからないことばかりだわ。でも、お姉さんと会えてよかったわね。」
「ええ、本当に偶然だったの。あたしは最初は今姉さんが働いている島に降ろされたのよ。そこで姉さんに会えたの。それから色々なところで働いた後に、この島で働くことに決まったのよ。」そう言うとトゥーシャは寝入った様子のイリーナの布団を直してやった。
オノカとトゥーシャは部屋のすみの椅子に座った。
「最近姉さんの調子が良くないの…。仕事にもあまり行けなくなってしまって。それでこの島で一緒に暮らすことにしたのよ。メディチを飲むと良くなるんだけど、もらえない時もあって。」トゥーシャは小さくため息を着いた。
「トゥーシャ、あなたは平気なの?さっきはとても具合が悪そうだったわ。」オノカはトゥーシャの顔を見つめた。少し痩せたように見える顔はメディチの配給所でみた時よりは血の気が戻って来たようだった。
「今朝は本当に具合が悪くて、メディチを飲まないと治らないと思ってたんだけど、オノカに会ったら調子が良くなった気がするの。不思議ね。」トゥーシャは笑いながらオノカを見た。
「ザティは元気にしていたわよ。ザティとナキトゥはすごく真面目に勉強をしていたから教師達にかなり信頼されるようになってね、教師はナド・16に頼みづらい事はあの二人に頼んでたわ。ナド・16は教師達にも厳しい時があるのよ。厨房では内緒で料理を任されているって言っていたし、寮生はみんなあの二人の意見を聞くようになってたわ。
でも、ナキトゥはあんまり元気じゃなかったの。ルニノの様子がぜんぜんわからないんだもの。教師に聞いても何も教えてもらえなかったから、ザティは一生懸命ナキトゥを慰めていたわ。ザティは、あなたが故郷へ帰ったと信じていたの。だから、そのうちオノカが迎えに来てくれるって笑いながらいつも言っていたわ。」
オノカは両手をぐっと握りしめた。ザティがあの明るい笑顔で頑張っている姿が目に浮かび、喉のあたりに何か大きな塊がつかえているような感じがした。

オノカが黙り込んだのを見てトゥーシャが言った。
「ねえ、食堂に行って何か食べない?ここの料理は結構美味しいのよ。誰でも自由に食べていいのよ。」
二人は部屋を出て細長い廊下を歩き、再び広い機械の洗浄場へ戻った。賑やかに人々が作業をする中をトゥーシャはオノカを案内して進み、やがて二人は喧騒を離れた場所にある一室に着いた。暖かく静かな居心地の良い空間にオノカはほっとした。
トゥーシャが持って来てくれたお茶とお菓子を食べながら二人はこれまでのことを詳しく語り合った。
トゥーシャはオノカのバッジを見て目を丸くした。
「すごいじゃないの、オノカ!どこでも自由に働けるスヴァのことなんて噂にしか聞いたことがなかったわ。この洗浄場にはスヴァはいないからみんなびっくりするわよ。それなのにオノカはどうしてゴミの島になんか住んでいるの?」
「あたしはムサラ島のみんなが好きなのよ。」オノカは笑いながら言った。
「トゥーシャも一度来てみたらいいわ。ゴミの島といっても最新のゴミ処理機があるのよ。でもこの島も機械がたくさんあって面白そうね。洗浄の他に整備もしているの?」
「ここでは大抵の機械は洗浄するだけよ。洗浄後はまた運搬船に積んで他へ運ばれて行くわ。
時々使い物になるかどうかの点検をすることもあるわ。あたしはコンピューターを使って確認をすることもあるのよ。ここへ来てから初めてやったんだけど面白いわよ。シュコーラにいる時から機械には興味があったのよ。」
トゥーシャが話すのを聞いてオノカはシュコーラの寮のトゥーシャの机やベッドにはいつもたくさんの本や何やら作りかけの小箱などが山になっていた光景を思い出した。
「オノカ、あたしそろそろ仕事に戻らないといけないわ。トゥーシャの言葉にオノカははっとした。
「そうだわ、あたしももう帰らなくちゃ!」オノカはメディチを取りにきていたことを思い出した。
運搬船の発着所までオノカを送るとトゥーシャは名残惜しそうに言った。
「また来てくれる?お休みの日にはあなたの島へ遊びに行くわ。」
「もちろんよ!あたしここに働きに来るわ。」
二人は固く抱き合い再会を約束した。

ジーンの体調がよくなると、オノカはトゥーシャの島へ働きに行くことにした。
「ミハニ島か、あそこは機械だらけの島だな。仕事はきついと聞くぞ。」ロランドが眉根を寄せながら言った。
「まああんたにとっては楽しいだろうね。あんたの好きそうなものがたんとありそうだからね。」ジーンがからかうように言った。

トゥーシャは大喜びでオノカを迎え、仕事場のボスにオノカを紹介した。スヴァのバッジを見たボスは驚きながらも最初は簡単な機械の洗浄の仕事にオノカを就かせた。
どこから運ばれて来たのか、洗浄前の機械類は泥やら機械油やら錆でひどく汚れていた。大小様々な機械類を特殊な洗剤で洗いながら、オノカは興味深く機械を眺めた。
そのうちオノカはふと手を止めて洗っていた機械をまじまじと見つめた。
機械の側面には「AMA-ISHI」と刻まれていた。
たちまちオノカは果ての捨て場で見つけたたくさんの機械類のことを思い出した。あそこにあった機械にはどれも同じ「AMA-ISHI」の刻印があった。
果ての捨て場には様々なところから色々なものが流れ着いているのだとコウ爺から聞かされていたが、この「AMA-ISHI」と刻印されている機械は一体どこで作られているのだろうかとオノカは気になった。果ての捨て場で船を作った時に使ったエンジンの性能はこれまでオノカが整備してきたどのエンジンよりも素晴らしかった。
休憩時間にオノカはボスのところへ行った。
「AMA-ISHIと刻印されている機械はどこで製造されているんですか?」
ボスは訝しげにオノカを見た。
「AMA…なんだって?ここには山ほど機械が持ち込まれるが、俺たちの仕事は洗浄までなんだ。製造場所なんていちいち調べないな。」

無造作に運ばれてきた機械類の中には部品が外れていたり壊れていたりするものも少なくなかったし洗浄中に部品がバラバラになってしまう物もあった。そういう物は洗浄場のすみのスクラップ行きの箱に無造作に投げ込まれてあった。
「どうせスクラップ行きなんだったら好きに見てもいいかしら。」
ボスが構わないと答えたので、オノカはさっそく仕事が終わったあとトゥーシャと一緒にスクラップ箱を覗き込んだ。ザイショウと直し屋をしていた頃の記憶が蘇りオノカはワクワクしていた。
オノカはめぼしい部品を取り出すと綺麗に洗った。組み立てれば小型のエンジンができそうだった。オノカはこのエンジンを使って小さな一人乗りバギーを作ろうと思いついた。ムサラ島の広いゴミ処理施設の中を移動するのに役立ちそうだった。
オノカの思いつきにトゥーシャは面白がり、それからしばらく二人は仕事が終った後バギー作りの作業に夢中になった。
ミハニ島の発着所はたくさんの機械類の運搬ができるよう広くなっていたので、ある日オノカとトゥーシャはそこでバギーの試運転をすることにした。
バギーの調子は良く、オノカとトゥーシャは大喜びで代わる代わるバギーに乗り、運搬船の間を小気味好く走り回った。作業員たちは物珍しそうに二人が乗り回すバギーを眺めた。
直線距離の走りの調整をしようとバギーに乗ったオノカが体をひねってエンジンを覗き込んだ時、「オノカ、前!」とトゥーシャの悲鳴が聞こえた。
慌てて姿勢を戻したオノカの目の前に運搬船の影から出て来た老人の姿が飛び込んで来た。咄嗟に急ブレーキをかけたバギーはバランスを崩し横転したがかろうじて老人の横にそれて停止した。
「いたた…」顔をしかめながら起き上がったオノカのところへトゥーシャが飛んで来た。「オノカ!大丈夫?」
「おい、なんだその乗り物は」
低い不機嫌な声にオノカとトゥーシャははっとして顔をあげた。
ぶつかりそうになった老人と数人の男たちが二人を見ていた。
「その乗り物はなんだと聞いているんだ。ニージェの街にはそんな乗り物はないはずだが。一体どこで手に入れたんだ。」
老人の厳しい声にオノカは怯んだ。
白髪の老人は浅黒い顔をオノカに向けていた。顔に刻まれたしわは深く背は高くがっしりとした体つきをしていた。周りにいた数人の男達は何やらそわそわと老人の顔を伺っていた。灰色の作業着はアヴェクトで着せられた服を思い出させオノカは小さく身震いした。
「あの…これはあたし達が作ったんです。スクラップ行きの捨てられる部品を拾って組み立てたんです。」
「お前達が、作った、だと?これをか?スクラップ行きの部品から作ったというのか?」
老人はバギーを起こすと軽々と持ち上げたのでオノカは唖然とした。その手は皺だらけでがっしりとした大きな手だった。ところどころに小さな傷跡が見えた。コウ爺の手に似ているとオノカはぼんやりと思った。
老人はバギーのエンジンをジロジロと眺めるとやがて乱暴に置いた。
「ふん、お前はスヴァか。あまり勝手なことをせんほうがいいぞ。」
吐き捨てるように言うと老人は男達と一緒に行ってしまった。

「なんだったのかしら、今の。それよりオノカ、怪我はないの?」
落ち着いて口が聞けるようになるとトゥーシャが心配そうに言った。
「あたしは大丈夫よ。それよりあのおじいさん、なんだか嫌な感じだったわね。トゥーシャ、あなたまで巻き込んでしまって悪かったわ。あたし、しばらくここに来ないほうが良さそうね。ムサラ島で大人しくしてるわ。」
それからしばらくオノカは他の島へは出ずにムサラ島で仕事をして過ごした。バギーは広いゴミ処理場での移動に好評だった。オノカはまたミハニ島で色々な機械を見たかったが老人のことを思い出すと行く気にはなれなかった。あの老人は誰なんだろう。ミハニ島のボスなのだろうか。

数日後、ジーンが困惑した表情でオノカのところにやって来た。
「オノカ、あんたに移動命令書が届いたんだよ。おかしいね、スヴァになった物はどこでも自由に働いていいはずなのに、わざわざ移動命令が出るなんて。もしや、スヴァを取り消されるんじゃないだろうね…。」
青ざめたジーンから封書を受け取るとオノカは恐る恐る開けて見た。
「スヴァのことは何も書いてないわ…。ウプラ島での勤務を命ずるって書いてあるわ。ジーン、ウプラ島って知ってる?」
「なんだって?ウプラ島だって?何かの間違いじゃないかね?」
震える手でオノカから手紙をとるとジーンは目を通した。
「本当だ。ウプラ島って書いてあるね。まさか、あんたみたいな子供が行かされることがあるのかね。」
「ジーン、どういうことなの?」オノカはジーンがなぜそんなに心配するのかわからなかった。
「ウプラ島か…。あの島に移動命令が出ることもあるとは驚きだな。」
ジーンから話を聞いたロランドも驚きを隠さなかった。
「あの島はここからかなり離れたところにあって何をしている島なのかはっきりしていないんだが、カピタリ政府の重要な仕事を担っているって噂がある。ミハニ島で洗浄された機械は確かウプラ島へ運ばれるんだ。あそこはボスが厄介だって聞く。ニワクチってんだが、相当厳しく、氷のような男だって有名なんだ。なんでオノカみたいな子供に移動命令が出るのかわからないな。何かの間違いじゃないのかね。」
ロランドはオノカの移動命令書を手にとってよく読んだ。
「うーん、間違いなくウプラ島へ移動を命ずるって書いてあるな。しかもウプラ島で生活しなくてはいけないと書いてある。確かにあの島はこの辺りからはかなり離れているんだ。ここから通うのは無理だろうな。」
「可哀想に、ニワクチがボスだなんて…。」ジーンはオノカの肩を抱いた。

オノカは移動命令に従うしかなかった。
ウプラ島へ立つ前にオノカはトゥーシャに会いに行った。せっかくトゥーシャに会えたというのにまた離れ離れになってしまうなんて、オノカは寂しさでいっぱいだった。
ミハニ島へ着くとトゥーシャが硬い表情でオノカを迎えた。
「オノカ!来てくれて嬉しいわ。あなたが来なかったらあたしから会いに行こうと思っていたの。あなたに知らせなくてはいけないことがあるのよ。」
「トゥーシャ、あたしもあなたに伝えたいことがあって来たのよ。あたし、ウプラ島への移動命令が出たの。ウプラ島で暮らさなくてはいけなくなるから、次はあなたにいつ会えるかわからないわ。せっかく会えたのに…。トゥーシャったら、一体どうしたの?」
オノカはトゥーシャの様子をまじまじと眺めた。トゥーシャは目を丸くして口をぽかんと開けあっけに取られていた。
「オノカ、今、ウプラ島って言った?なんてことなの…。あたしもウプラ島への移動命令が出たのよ。それをあなたに話そうと思っていたの。」
「なんですって?トゥーシャ、それ、本当なの?」
二人はお互いの移動命令書を見せ合った。そして顔を見合わせると思わず吹き出した。気が緩んだ二人は抱き合って笑った。
「一体どういうことかしら?ウプラ島への移動命令が出ることは滅多にないって聞いたし、子供が行くなんてと不思議がられたのに、よりによってトゥーシャとあたしが一緒に移動になるなんて!」
「ボスの噂、聞いた?みんながあたしを憐れんでるわ。ニワクチがボスだなんて可哀想にって。」
「あたしも聞いたわ。でも行くしかないのだし仕方ないわ。トゥーシャ、あたし、アヴェクトからニージェの街に降ろされて以来、なんだかあまり物事に驚かなくなったかもしれないって思うの。ここではよくわからない事ばかりなんだもの。でも、トゥーシャと一緒に行けるなんて、なんて素敵なのかしら。今までとは全然違うわ!」

応都物語

応都物語

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 第一章 オノカとザティ
  3. 第二章 ルニノとナキトゥ
  4. 第三章 ダイ•スカイ船長
  5. 第四章 ヘイズ
  6. 第五章 バル•リガーリ
  7. 第六章 シュコーラ
  8. 第七章 ナド・16、アヴェクト
  9. 第八章 ニージェの街