友人

「お待たせいたしました。グラタンコロッケバーガーと、サラダ10個でございます」
 制服姿の女性店員がトレイをテーブルの上に置き、訝しげな顔で僕たちをちらっと見たあと、厨房に帰っていった。僕はバーガーを手に取り、包み紙を開いた。僕と向き合って座っている桜庭は、早くも動物的な勢いでサラダをかき込み始めている。
「ねぇ、前にも聞いたかもしれないけど」
 僕が話しかけると、桜庭は極度に離れた目をこちらに向けた。
「最近ほんとに野菜ばっかりになったね。体調崩れないの?」
「全然平気。すこぶる健康だね。むしろ、ちょっと前まで肉を食っていたことが信じられないくらいだよ。今じゃあんなもの、口に入れるのを想像するだけで気分が悪くなる。やっぱり、生きものの死がいを食べるなんて、人として野蛮なんだよ」
 桜庭は、その馬面によく似合う鼻息の荒さで、肉食を否定し始めた。きっと、ベジタリアンが書いているブログでも読んで感化されたのだろう。彼はとても影響を受けやすい性格なのだ。口の端から大ざっぱに咀嚼された野菜がボロボロとこぼれ、学ランの上が花火のように賑やかになっていく。
 桜庭のにわか仕込みなベジタリアン哲学を聞き流しながら、僕は、彼が今日、本当に話したいことは何なのか、想像を巡らせていた。

 桜庭と僕は中学一年の頃に知り合った。初めての席替えで席が前後になったのがきっかけだ。彼はとても無邪気で、自分の話をするのが大好きで、球技はできないのに脚だけは誰よりも速いという、とても変なやつだった。だが僕たちはなんとなく馬が合い、仲良くなった。二年になってクラスが別れてからも何かと行動を共にし、気付けば同じ高校へ入学していた。そして現在高校二年の僕たちは、また同じクラスに所属している。これが腐れ縁というやつなのかもしれない。

 先ほど授業が終わったあと、桜庭は僕の席に来て、
「帰りにトムトムバーガー寄っていかない? ……ちょっと、話したいことがあるんだ」
などと言ってきた。いつになく真剣な調子に、僕は何も聞き返さずそれを承諾した。普段から僕たちは、帰りにファーストフード店でよく道草を食って他愛もない話をする。しかし、今日のように、「話したいことがある」などとあえて切り出されたのは初めてのことだった。
「人間は、動物愛護だとか言っていても、本音では自分達の都合しか考えていないんだよ。生きるためにはしかたないとか言うけど、肉なんて食べなくてもちゃんと生きていけるんだ。結局はおいしいものを食べたいというだけの理由で生き物を殺しているんだよ。それも認めずに、生きるためだなんて言っちゃって、片方では動物愛護とか言っているのが腹立たしいね」
 受け売りの言葉を熱く語るのはいつものことだったが、今日の桜庭の様子には、やはり違和感があった。極度に離れている彼の両目は、いつにも増して焦点が合っていない。普段は、外国のコメディアンみたいに大袈裟な身振りを交えて話す彼が、今日はずっと、トレイに敷いてある紙の端を指でいじくっている。言いたいことを抱えながら、なかなか切り出せずにいる様子だ。
 僕は思いきって、彼の熱弁の隙間をついてみた。
「ねぇ桜庭」
「え? あ、はい」
「僕に相談したいことがあるんじゃないの?」
 その瞬間、桜庭は不意打ちをくらったような表情になり、トリッキーに動いた彼の左肘が、水の入っているプラスチックのコップを床にぶちまけた。先ほどの女性店員がすぐにタオルを持ってかけつけ、僕が「すみません」と謝っている間に、処置はマニュアル通り速やかに完了した。
 女性店員が去った後、桜庭は深呼吸を一つしてから言った。
「せんちゃん、ちょっと店出よっか。やっぱり人がいると話しづらいや」
 言うやいなや、彼はチャップリンの映画みたいにドタドタと席を立ち始めた。
「サラダ、まだ4つも残ってるけどいいの?」
「もういい。あまり食欲がないし、それより早く話したいんだ」
 彼は、僕のトレイの上に自分のトレイを重ねて持つと、近くのゴミ箱まで歩き、トレイの上のゴミを乱暴に捨てた。もちろん、彼が食べ残したサラダの入っているカップも、ためらいなく捨てていた。ベジタリアンは、野菜の命を粗末にすることには何も感じないのだろうか。僕は椅子の横にかけていた手提げ鞄を手に取り、店を出る支度を始めた。
 出口へ向かう僕たちの方へ、いや、「僕たち」というよりは完全に桜庭の方へ、店内にいる客達からの、めずらしいものを見るような視線が集まった。というよりは実際にめずらしいのだろう。桜庭のような立派な馬面には、滅多に出会えるものではないのだから。
 このあたりでそろそろ、はっきり明言しておこう。先ほどから僕は、桜庭の顔のことを「馬面」というふうに表現しているが、厳密に言うとこれは正しくない。彼の顔は、「馬のような顔」ではなく、「馬の顔」そのものなのだから。彼は世にも珍しい、「首から上が馬」の人間なのだ。

 桜庭がこの世に生まれたとき、彼の姿はごく普通の人間だった。一度彼の家へ遊びにいったとき、彼の幼少期の写真を見せてもらったが、そこには、どこにでもいるようなかわいい男の子が、無邪気な笑顔で戦隊物の変身ポーズをしている姿が写っていた。僕が中学に入って桜庭と初めて出会ったときも、彼の頭部はれっきとした人間だった。ただ、その頃にはもう、彼は西洋人顔負けの面長で、学年を代表する馬面男子であった。
 多くの男子中学生の体に大きな変化が生まれる二次性徴の時期、桜庭の体に表れた変化は、他の生徒たちと一線を画するものだった。彼の身長は皆と同じようにぐんぐん伸びたが、一番伸びた部位は「顔」だった。それと並行して、頬はこけ、目は離れ、日が経つごとに彼の顔は見る見る人間離れしていった。一時は、この顔の変化に伴って、彼の理性もオオカミ男のように動物化していくのではないかと教職員やPTAの間で話題になり、彼をクラスから隔離すべきかという議論も起こった。しかし幸い、彼の内面はずっと人間のままだったため、結局今までどおりのクラスで授業を受け続けることになった。
「昨日病院に行ったら、俺を担当していた医者が夜逃げしていたんだ。いい加減怖くなってしまったんだろうな」
 当時、桜庭のそのような愚痴を、僕は毎日のように聞いた。思い悩む彼の心とは裏腹に、頭部の変化はどんどん進み、二年生の終わりには、彼の首から上は茶色い毛に覆われ、完全な馬の頭になっていた。
「母ちゃんは俺を産んですぐに死んだって、親父は言っていたけど、あれは絶対嘘だよ。俺の母ちゃんはきっと、親父が乗っていた馬なんだ。一度、親父に連れられて、馬のトレーニング・センターという所に行ったんだけど、親父は馬に頬ずりしたり、チュウしたり、スキンシップが尋常じゃなかった。あの変態親父は、最後には馬とヤっちゃって、それで生まれたのが俺なんだよ。そんなこと息子にはとても言えないから、死んだことになってるんだ。母ちゃんの写真だって一度も見せてくれたことがないんだぜ。おかしいじゃないか」
 桜庭はよく、僕にこんな推論を聞かせてくれた。彼の父親は、日本を代表する騎手だったらしい。競馬に詳しくない僕はよく知らないが、ジョッキーの「桜庭」と言えば、競馬界では伝説と呼ばれるほどの戦績を残した人物だそうだ。そんな父・桜庭は、息子がまだ小学生のとき(息子の顔がまだ人間だったとき)に、現役のまま若くして病気で亡くなっている。母親は、桜庭が生まれてすぐに亡くなった(と、父・桜庭が言っていた)ので、桜庭には母親に関する記憶はいっさい無いそうだ。父親が亡くなって以来、桜庭は父方の祖父母の家で暮らしている。

 トムトムバーガーを出て、駅までの道を二人で歩いた。季節の変わり目で暑い日と寒い日が入り混じるこの時期は、街ゆく人々の服装も、薄手のコートを着ている若い女性がいるかと思えば、頑なに半袖を着ているおじさんもいたりして、あまり統一感が見られない。
 桜庭は、学ランの第一ボタンを何度も外したり止めたりしながら歩き、なかなか口を開こうとしなかったが、最初の信号に引っかかったところで、ようやく口を開いた。
「せんちゃん、俺、好きな子ができたんだ」
 その言葉を聞き、僕は一瞬にして緊張から解き放たれた。
 馬の頭で生きるという過酷な運命を背負った男が、深刻な表情で「話したいことがある」などと言ってきたものだから、僕はてっきり、彼の胸に積もった深い苦悩を吐きだされるのか、もっと悪ければ、人生に絶望してそれに終止符を打とうとしていることを告白されるのか、などと様々に想像を膨らませていたのだ。桜庭の言葉を聞いて安心すると同時に、緊張して身構えていた自分を馬鹿らしく思った。
「おめでとう」
「いやいや、おめでとうじゃないよ。まだ何も始まっちゃいないんだから」
 僕が拍子抜けしているのも知らず、ようやく本題を打ち明けられたことへの達成感からか、桜庭は声が大きくなっていた。
 桜庭から恋の打ち明け話をされるのは、これが二度目だった。一度目は中学一年の夏。桜庭の頭がまだ人間だった頃、彼はクラスの小畠さんという女の子に恋をした。小柄でおとなしい美術部の女の子だった。勉強ができて、普段はあまり男子とおしゃべりをしないが、挨拶をすれば笑顔で「おはよう」を返してくれる、たんぽぽのようなかわいい女の子だった。ある日、掃除の時間に桜庭と小便器をブラシでこすっているときに、彼は突然、小畠さんへの恋心を僕に打ち明けた。それからしばらく僕は、毎日彼のたわごとを聞かされるはめになり、最終的には、二人で一緒に告白の段取りまで考えた。いよいよという段になって二の足を踏む彼の尻を叩き、ようやく決行の日が来たとき、小畠さんは学校を休んだ。「明日こそ言おう」と励まし合った僕たちの意気込みも虚しく、彼女は、次の日も、その次の日も、休み続けた。何か大変な病気にかかったのだと思った僕たちが、お見舞いに行く計画を立て始めているとき、「小畠さんが妊娠した」という情報が、誰からともなくクラスに舞い込んできた。「俺は信じない」と桜庭は言った。放課後もずっと、「俺は信じない。俺は信じない」とうわごとのように繰り返して涙を流す彼に、僕はスイカバーをおごった。結局小畠さんは学校に戻って来ず、真相は藪の中となり、桜庭はそれ以来、誰にも恋をしなくなっていた。
 信号が青になり、僕たちは再び歩き始める。
「で、誰を好きになったの?」
「……三田村さん」
 桜庭が挙げたのは、三田村江実の名前だった。僕たちと同じクラスで、バドミントン部に入っている。釣り目ぎみで少しきつめな印象の顔だが、十分美人の部類に入る女の子だ。しかし、数年のあいだ恋愛恐怖症になっていた桜庭の心に、再びときめきを取り戻させた彼女の魅力とは、一体何なのだろうか。
「三田村さんかわいいもんね。三田村さんのどこが好きなの?」
「えぇとね……、ふくらはぎ……」
 あまりに想定外な回答に、僕は言葉を失ってしまった。僕の困惑した表情に気付いたのか、桜庭が慌てて捕捉説明を加え始める。
「バ、バドミントンをやってる人って、みんなふくらはぎが発達してるじゃん。瀬尾さんとか、となりのクラスの松川さんとか。でも、三田村さんのふくらはぎはやっぱり、断トツだよね。足首からの流線形が綺麗で、細い中に筋肉がきゅっと詰まってる感じがして、なんて言うか、見てるとさ、こう、脇腹をおもいきり蹴ってもらいたいような、そんな気持ちになるんだよ。……そ、それで、三田村さんのことを愛しく思えば思うほど、なんかこう、体がむずむずしてきてさ、今すぐにでも彼女と教室を抜け出して、大空を飛びたくなるような、そんな衝動を感じるんだ」
 僕が納得しない表情を続けているせいで、桜庭の補足説明が際限なく続いていったが、捕捉が付けたされれば付けたされるほど、彼の話はインチキ宗教家の話みたいに支離滅裂になっていった。これでよく自分の父親のことを変態などと呼べたものだ、と思った。それにしても、恋のトラウマを背負っていた男が、まさかこのような調子で再び恋に目覚めるなんて、実に不思議なものだが、まぁ案外、そういうものなのかもしれない。
「わかるよ桜庭。好きな人ができてよかったね」
「ありがとうせんちゃん。それで早くもお願いなんだけどさ、明日の放課後、三田村さんを体育館の裏に呼び出してもらえないかな」
 またもや僕は言葉を失いかけた。
「意味が分からない。突然なにを言い出すんだよ」
「突然だなんてとんでもない。俺の中ではずっと前から決まっていたことなんだ。この気持ちはもう、早く三田村さんに伝えないと、今にも心が爆発しそうなところまで来ている」
「それなら自分で呼び出せばいいじゃないか」
「せんちゃん、分かるだろ。俺の顔がどれくらい目立つかということを。女の子の席に近付いて話しかけたりしたら、すぐ誰かに見つかって、それだけでクラス中の噂になっちゃうよ。だからセッティングだけでもお願いしたい。この通りだ」
 言いながら、桜庭が急に頭を下げた。僕の頭の二倍はある彼の頭がダイナミックに動き、たてがみが僕の鼻先をかすめる。獣のにおいがぶわっと舞い、思わず身じろいだ。どうしたものか思案したが、数年ぶりに芽生えた友人の恋心をないがしろにするのも悪いような気がした。
「あまり気が進まないんだけどなぁ」
「頼むよ。俺が頼める相手なんて、せんちゃんか高橋くらいしかいないんだ」
「確かに、高橋よりは僕に任せる方がましだろうな」
 渋々ながら、僕は桜庭のお願いを聞き入れることにした。桜庭は先ほどとはうってかわってすっきりした表情になり、コンビニでスティックサラダを買って、ぼりぼりと音を立てて食べながら僕の横を歩いた。

 家に着いて、夕ご飯を食べ、リビングのソファでくつろいでいると、中学二年になる妹の実夏がやってきて、僕の隣に座った。彼女は、バレー部の練習を終えたあとそのまま着替えずにいるようで、長袖のジャージにハーフパンツというアンバランスな格好をしている。
「ねぇ、お兄ちゃんと仲良しの馬の人って、今も馬のままなの?」
「馬のままだよ」
「友達がさ、一度その馬の人を生で見たいって言ってるの。私もまだお兄ちゃんの写メでしか見たことないし、会ってみたい」
 実夏の目は好奇心の光で輝いていた。目の周りに、垢ぬけない化粧のあとがうっすらと見える。
「桜庭は見世物じゃないぞ」
「だって、人類の奇跡じゃん。せめてサインだけでももらってくれない?」
 今日は、色々な人がよってたかって気の進まないことを頼んでくる日だ、と思った。
「機会があればな」
「機会って、同じクラスなんでしょ? いつでも書いてもらえるじゃん」
「そんなことより実夏、ひとつ聞いてもいいか?」
 僕は話題を逸らした。
「たとえば、首から上が馬の人がいるとして」
「いるとして、って、実際いるんでしょ。今さら何を言ってるの」
「いいから聞け。実夏のクラスに、首から上が馬の人がいるとして」
「いるとして?」
「その人に告白されたらどうする?」
 実夏は一瞬、狐につままれたような表情をしたあとで、その顔をふくわらいみたいに一気に綻ばせた。
「ちょっと何言ってんの? そんなの絶対無理に決まってんじゃん」
「ひどいな。まだそいつがどんなやつかという情報を何も与えていないのに。もっと色々質問してくれてもいいだろ」
「どんなやつって、首から上が馬の人、それがすべてよ。そんな人と街をデートしたりとかできるわけないじゃん。友達にも紹介できないし」
「紹介できなくてもいいじゃないか。自分が愛しているのなら」
「だからそれができないって言ってるの。何なのよお兄ちゃん。まさかその馬の人に告白でもされたの? ねぇそうなの? 恋は自由だから、私は別に止めはしないけど、色々大変だと思うよ。結婚とかどうするの? 結婚相手が男で、しかも馬だなんて、お母さんたちも親戚の人たちもきっと納得してくれないし――」
 これ以上会話を続けるのが面倒になってきたので、そろそろ切り上げることにした。
「わかった。もういい。なんだか気分を害したから、サインはもらってやらない」
 そう言い残して、僕はそそくさと部屋を後にした。

 リビングから聞こえる実夏の罵声を背中に浴びながらスニーカーを履き、玄関の扉を開け、僕は外の世界に繰り出した。夜の散歩は、僕の数少ない楽しみの一つだ。しんと静まった優しい空気の感触に皮膚感覚を研ぎ澄ませながら、こつこつと足音を響かせて歩くのが気持ちいい。数日前からキンモクセイの香りが急に増えてきて、散歩の充実感も増している。すれ違う人たちは、誰も僕に関心など寄せていない。彼らはみんな街の景色の一部になって、僕はこの街を自分だけのものにできたような、尊大な気持ちになれる。そこまで言うと少し大げさかもしれないけれど、とにかく、この解放感の中で色々なことに思いを馳せるのが好きだった。将来一人暮らしをすることになったら、僕は確実に深夜徘徊というものに夢中になってしまうだろう。母が口うるさいので、今はまだできないけれど。
 見晴らしのいい道路に出た所で、空を見上げ、星の数をかぞえてみる。天体マニアではないので、どこにあるのが何座、とかいうことはよく知らないけれど、散歩しながら毎日のように見ていると、あの明るい星はいつもあの辺にあるな、とか、あそこの星の集まりは動物の形みたいだな、とか、色々気付くようになってくる。壮大な星空の世界に心を委ねていると、日頃の小さな悩みなんてどうでもよく感じられるのだ。とはいえ、次の日にはまた、目の前のつまらないことに悩むのだけれど、このひとときの解放感が僕にとっての幸せであり、救いだった。
 途中で折り返しつつ、道路沿いを合計一時間ほど歩いた頃には、体はかなり冷えていた。ポケットに手を入れ、猫背がちに首を縮こめる。まだ秋口とはいえ、夜に長時間外にいるとさすがに寒い。家に着いたら、ゆっくり湯船に浸かってから、温かい布団に潜り込みたい。そんな想像を膨らませて、僕は足取りを速めた。今日は、布団の中で携帯を触って夜更かししたりせず、たっぷり寝て明日に備えよう。明日は、とても面倒な任務をこなさなければならないのだから。

「いやだ」
 はっきりとした口調で、三田村江実は言った。彼女はさっきまで部活の朝練だったようで、額が少し汗ばんでおり、下敷きで顔をパタパタ仰いでいる。その風に乗って、汗とシャンプーが混じったようなにおいが僕の鼻にも届き、僕は少しどきっとした。
「……どうしても駄目?」
 迷った挙句、僕の口からはそんな情けない返答しか出てこなかった。
「ごめん、ちょっと無理。私は桜庭くんと話したいことなんてないし」
 彼女の視線は窓の外を向いたままで、僕の方を見てもくれなかった。あまり良い反応をされないことは想定内だったが、ここまで露骨に嫌がられるとは思わなかった。
「そこをなんとか……。話だけでも聞いてやってくれないかな。あいつ、ずっと前から、なんていうか、覚悟を決めていたみたいなんだ」
 二の句が継げずに、僕はつい余計なことを口走ってしまった。僕の言葉を聞いた彼女は視線を急にこちらに向け、キッと僕をにらんだ。目がいつもよりも数段釣り上がっていて、まるでべっぴんさんの般若みたいだった。
「ずっと前から決めてたって? それなら私だって、ずっと前から決めてたわよ、無理だってこと。あいつが私に気があるの、知ってたんだからね」
 三田村江実の口から出てきたのは、予想外の言葉だった。彼女はすでに、桜庭の恋心に気付いていたらしい。桜庭はとても奥手なやつだと思っていたが、陰でアプローチでもしていたのだろうか。言葉を返せない僕に、三田村江実は尚もまくしたてる。
「いつかの席替えで、あいつが私の後ろの席になったとき、授業中ずっと首のうしろに激しい鼻息がかかってきてたの。もう気持ち悪いし怖いしほんとに嫌で、一回とうとう我慢できなくなって後ろを振り向いたら、まっすぐ私の方を見てるあいつと完全に目が合ったの。ほんとにぞっとして、すぐ前を向き直ったわ」
 彼女はもはや、桜庭の名前を口にするのさえ嫌なようだった。まるで自分に付きまとうストーカーについて述べているような話し方で、手に持っている下敷きは今にも割れそうなほど折り曲げられていた。それにしても、いかにも桜庭らしい失態だ。
「やっと席が離れてせいせいしたのに、今度は体育館裏で二人きり……? なんかあったらどうするのよ」
「なんかって?」
「……襲われでもしたらどうすんのって言ってんの!」
 さすがに少しためらう様子を見せてから、彼女はそう言った。
「襲うだなんて……。桜庭はそんなことしないよ。僕はあいつのことをよく知っているけど、ほんとに奥手で、優しいやつなんだ。なんていうか……草食系だし」
「ふざけないで」
 ぴしゃりと言ったきり、三田村江実はとうとう何も話してくれなくなった。しかたなく僕は彼女の席から離れた。自分の席に座ったあと、昨日の桜庭の話を思い出し、斜め前方にある三田村江実のふくらはぎを眺めてみる。細い骨格に身の引き締まった健康的な肉付きで、日焼けし過ぎず白過ぎず、確かに美しいことを認めざるを得なかった。そんなに桜庭のことが嫌いなら、桜庭が希望していた脇腹キックだけでもお願いすればよかっただろうか、などと僕は思った。
 桜庭はまだ学校に来ていない。彼はいつも、ホームルームが始まるギリギリの時間に登校してくる。彼のいない朝の時間をねらって三田村江実に声をかけたのだが、結果は散々なものとなった。桜庭から受けた任務を、僕は失敗したことになる。失敗の責任が僕にあるのかはともかく、彼にこの結果をどう伝えたものだろうかと、僕は頭を抱えた。

「ナナナナマケモノは一日に8グラムしか食事を取らないんだ。同じように木の上で生活しているココココアラがごごご500グラム食べるのと比較するといかにすすす少ないかが分かるよね」
 小太りの体をこんにゃくゼリーのように震わせながら、高橋が熱く語る。「チビデブハゲメガネ」という言葉をどこかで聞いたことがあるが、高橋はあとハゲの要素さえそろえば、一人でそれらすべてを網羅しそうなルックスだった。
 昼休みは、桜庭、高橋、僕のメンバーで中庭に出て弁当を食べながら、高橋の動物に関する雑学を聞くのがいつものパターンだ。彼は生粋の動物おたくで、部活動は科学部生物班に所属している。ちなみに、僕と桜庭は部活に入っていない。桜庭は高校に入ってすぐ陸上部に入部し、短距離に挑戦していたが、規格外に脚が速過ぎたため一般人と同じ大会に出ることを認められず、数か月で退部した。
「じゅじゅじゅ十キロもあるんだよ、キリンのししし心臓は。それくらいでっかい心臓じゃないと頭までけけけ血液がめぐらないんだ」
「かっこいいなぁ」
 普段なら、僕はともかく桜庭は、興味深そうに、ときには鼻息を荒げて、高橋の話に相槌を打つのだが、今日の彼の反応は半分心ここにあらずな感じだった。きっと、僕がすでに任務を実行したのかどうなのか、気になっているに違いない。
「だからキリンは動物の中でいちばんけけけ血圧が高いと言われているんだ」
「いいなぁ。俺は低血圧で早起きが苦手だからうらやましい」
「あれあれあれおかしいな、馬もけけけ血圧が高いはずなのに」
「うるさいな、きっと心臓は人間のままなんだよ。でも確かに、遅刻寸前でダッシュしたときとか、昔よりすごいドクドク鳴るよ、最近」
「おぉぉぉそれはまさに馬特有のこここ高性能エンジン!!!」
 僕は会話にまったく参加せず、桜庭への報告のことで頭をいっぱいにしていた。午前中の休み時間は毎回、高橋が僕か桜庭のどちらかに話しかけてきたため、僕は桜庭と二人になれず、昼休みになった今も結果を言いそびれていた。
「座礁したくくくくじらがね、すぐししし死んでしまうのはね、呼吸ができなくなるからじゃないんだよ。そもそも肺呼吸だしね。くじらは体の構造が海仕様になっていて、りりり陸上だと自分のたたた体重を支えきれなくて潰れちゃうの」
「間抜けだなぁ」
 そのとき、向こうの廊下から、4、5人の男子達が中庭に入ってくるのが見えた。学ランのボタンを全開にしたり、パンツが見えるくらいズボンをずらして履いたり、各々が制服を自分好みに着崩している。下卑た笑い声をやかましく響かせ、必要以上に広がりながらふらふらと歩く彼らの姿は、ビリヤードの盤上をぶつかりながら転がる球のイメージを連想させた。彼らは、僕や桜庭がクラスで最も苦手に感じているグループだ。その中でも一人は、何がそんなにおかしいのか、猿のおもちゃみたいに両手を叩いてゲラゲラ叫びながらガニ股で歩いていて、ひときわ目立っている。
 僕たちの前を横切るとき、彼らはこちらの方をじろじろと見て、卑しい笑みを浮かべた。
「お、あれは今日も仲良し、お馬さんと愉快な仲間たちだ」
 猿のおもちゃの男が、僕たちまで露骨に聞こえる声で言った。しぐさだけではなく顔も猿に似ている。彼はクラス一の金魚の糞、元木だ。いつもグループにくっついて粋がっているが、僕は彼の体力測定の結果が僕より一段階低いD判定だったことを知っている。目を合わせるとまたねちねち絡まれることを知っているので、僕たちは明後日の方向に視線をそらせた。
「お馬さんはチンコも馬らしいぜ。毎晩クラスの女をヒィヒィ言わせてるんだ」
 元木が言うと、周りの男達はまた勢いだけの笑い声をあげ、反対側の廊下の方へ歩いていった。
「・・・・・・あいつら、くだらないな」
 しばしの沈黙のあと、僕が一番に口を開いた。
「いいんだ。いつものことだから。それより、俺のせいで二人まで馬鹿にされてごめんな」
「何言ってるんだよ。あんなやつらにどう思われようが知ったことじゃないよ」
「で、でででで、実際のところはどうなの? その、ちち、ち、ちちち、ちんちんち」
「こら高橋、やめろ」
 チャイムの音が響いた。

 午後の授業が始まって数分が経った。白髪の数学教師が、不等式の証明問題を黒板に書いている。そのとき、ポケットの中で携帯のバイブが鳴った。机の下で開くと、桜庭からのメールだった。
『ダメだったんでしょ?』
 僕は、最前列の席にいる桜庭を見た。こちらに何か合図をくれるわけでもなく、じっとうつむいている。
 どうやら、もう、桜庭に見抜かれていたらしい。少しだけ逡巡してから、僕はメールを打った。
『ごめん』
 送信した。桜庭の方を見ることができずに、僕も下を向いた。ほどなく、桜庭から返信が来た。
『ありがとう』

 放課後、僕と桜庭は二人で帰路を歩いていた。校門を出た辺りで、僕は彼に任務の失敗を謝罪した。桜庭は
「せんちゃんが悪いんじゃないよ。ありがとう」
と言った。それきり、僕たちはその話題に触れないまま歩いた。英語教師の分かりにくい授業への不満や、今日返ってきた全国模試の結果など、当たり障りのないことを話したが、何とも言えない気まずさが二人の間に漂い続け、会話は途切れがちになった。とうとう僕が
「最近、寒くなったね」
という白々しい話題を口にし、桜庭が
「そうだね」
と言ったのを最後に、会話は弾切れとなった。
 電車に乗って吊り革をつかんでいる時間も、僕たちの間にはセメントのような重たい空気が居座り続けた。トンネルに入った瞬間、暗い窓に映った桜庭の表情には、複雑な心中が表れていた。今度こそ彼は、自分の人生から、恋愛という要素を切り捨ててしまうかもしれない。
 地元が同じ僕たちは、同じ駅でホームに降り、改札をくぐった。僕の家は、駅を挟んで桜庭の家とは反対方向にある。気まずいままの別れとなるが、今日はもうどうしようもない。桜庭に挨拶をしようとしたそのとき、すぐ後ろから彼の声が聞こえた。
「情けないな、俺は」
 僕は振り向いた。桜庭はうつむいたまま立ち尽くしていた。その顔は悔しげで、しかしそれにも関わらず笑いを浮かべているような、馬の顔とは思えないほど繊細な表情をしていた。
「本当は分かってたんだ、最初から。好きな女の子も自分で呼び出せないような男なんて、クズだ。嫌われて当然だ」
 足下を見つめながら、自分自身を納得させるような口調で、彼は言った。僕は返すべき言葉が分からず、ただ桜庭の顔を見ることしかできなかった。少し間を開けてから、彼は足下に落としていた視線を僕の方に向けて言った。
「俺、明日、三田村さんを呼び出して告白する」
「桜庭、でも……」
「いや、分かってるよ。俺はふられる。結果は自分でも見えてるんだ。そもそも、呼び出したって来てもらえないかもしれない。でもやっぱり、自分の気持ちには、ちゃんと自分で片を付けたいんだ。やるべきことをやった上で終わらせたい。そもそも、こんな顔になってしまった時点で、俺には最初から無くすものなんてないんだし」
 一語一語、大切に噛みしめるように、桜庭は言葉を紡いでいった。彼の両手は強く握られ、ぷるぷると震えている。必死の思いで、覚悟を決めているのだろう。
「かっこいいよ」
 僕は言った。桜庭の目から涙がこぼれ、目の周りの毛が湿って茶色が濃くなっている。
「せんちゃん、いつもこんな俺と一緒にいてくれてありがとう。俺もいつか、せんちゃんに恩返しをしたいと思ってる」
「なに言ってるんだよ。僕だって桜庭がいなきゃ独りぼっちだよ」
「高橋がいるじゃないか」
「あいつが興味を持ってるのは、桜庭のことだけだよ。動物的な意味でね」
 僕たちは久しぶりに、二人して大声で笑った。

 その夜、僕はまた外を歩きながら、一日を振り返っていた。三田村江実の釣り上がった目。元木の下品な笑い方。そして、桜庭の決意の表情。ひとつひとつの光景が、今日の記憶として心に焼き付いている。そして今、僕が歩みを進めると共に目の前を流れていくこの街並みの光景は、今日という小さな物語を締めくくるエンドロールに見えた。
 一瞬、夜空に、一筋の光の矢が走った。流れ星だ。久しぶりに流れ星を見られた感激と同時に、「流れ星といえば願いごと」という現金な考えがすぐさま浮かんだ。しかし、実際のところ、とりたてて流れ星に祈るほどの願いが今の自分にはないことに気付き、それならばということで僕は、友人の覚悟が報われるのを祈ることにした。
「桜庭の願いが、叶いますように」

 翌日、学校に着くと、教室内の様子が明らかにおかしかった。
 まず目に付いたのは、桜庭の姿だ。クラスを代表する遅刻魔の彼が、僕より先に教室に着いているなどということは、記憶の限り初めてだった。珍しくまともな時間に登校して何をしているのかと思えば、ただ自分の席に座って、じっと下を向いている。
 そして彼の周りを、人のいない空間がドーナツ状に囲っていて、他の生徒たちが少し離れた場所から、桜庭の方をちらちら見たり、近くの人と小声で話をしたりしている。
「おい無視してんじゃねぇよ。さっさと答えろよ。ぎぃあははははは」
 聞き覚えのある下品な笑い声が聞こえた。元木の声だ。他の生徒たちが皆、付近の人とひそひそ話をしている中、元木だけが桜庭に向かって、大きな声で何か挑発的な言葉を浴びせているようだった。そして元木は、時折その左手で後ろの黒板を指差す仕草をしていた。黒板には、何やらメルヘンなイラストがデザインされた小さな紙切れが貼ってあった。近付いてよく見ると、文字が書かれている。
『お話したいことがあります。今日の放課後、体育館の裏に来てもらえませんか。桜庭より』
 拙いが、せいいっぱい丁寧に力を込めて書いたような字だった。間違いなく、これは桜庭の字だ。
 一体どうなっているのだろうか。事態を把握できない僕は、教室の隅に高橋がいるのを見つけ、声をかけた。
「高橋、これは一体……」
「おおおぉ、おはよう。僕もさっき来たところなんだけど、どうやら、ももも元木くんの下駄箱にててて手紙が入っていたらしい」
 それを聞いた僕は、必死で頭に血液を送り込んで脳をフル稼働し、ある推理を巡らせた。昨日桜庭は、三田村江実を呼び出すと意気込んでいたが、おそらく、家に帰って頭を冷やしてみると、やはり直接声をかけるのが怖くなったのだろう。そこで代替案として、朝早く登校し、彼女の下駄箱に手紙を入れて呼び出すことにした。そして今朝、元木が学校に来ると、下駄箱に手紙が入っていた。下駄箱の配置は出席番号順になっており、元木の出席番号は、三田村江実の一つ後だ。
「……桜庭が、女の子を呼び出そうとしたけど、手紙を入れる下駄箱を間違えたということかい?」
「きっと、そそそそうだろうね」
「でもさすがに、上靴の色の違いで、間違いに気付きそうなものだけどな」
 この学校では、上靴のゴム部分の色は、男子は青、女子は赤という風に分かれていた。
「ししし色盲なんだろうね、馬だから」
 明らかに好奇心を隠しきれない様子で、高橋が言った。
 まったく、桜庭という男は、どこまで報われないのだろうか。よりによって、元木の下駄箱に手紙を入れてしまうなんて、本当に最悪の展開だ。昨夜の流れ星は、僕の願い事を、一体どう聞き違えたのだろうか。
「なぁ誰なんだよ。お前が思いを伝えたくてたまらない女の子は」
 壁側にある机の上であぐらをかいている元木が、げへげへと汚らしい笑いを断続的に挟みながら、桜庭に言葉をぶつけている。元木が座っているのは、高橋の机のようだ。どうせ「弱い者」の机を選んだ上で座っているのだろうが、今それはどうでもいいことだった。元木の横には、彼が所属しているグループの男子が二人ほど、壁にもたれかかって立っており、うつむいている桜庭の姿を携帯のカメラで撮影している。桜庭は、挑発に対して何も答えず、ただ失意の表情を浮かべていた。
「おいこら、いつまで黙ってんだ。人の下駄箱にこんな気持ちわりぃもん入れといて、シカトはねぇだろ。まぁ、俺の所に入ってた時点で、予想は何人かに絞られるけどな」
 元木のこの言葉を受けて、桜庭の体が微かにぴくっと動いたのが分かった。明らかに動揺している様子だ。僕はふと、三田村江実のことが気になり、目の端でその姿を探した。彼女は、元木と反対の壁際に固まっている女子集団の中にいた。ひそひそと話をしている周囲の女子たちの中で、彼女はただひとり、いたたまれない表情で視線を落とし、口を結んでいた。
 気付けばクラスの大半の生徒が登校していたが、皆教室のただならぬ空気に飲まれ、おとなしく自分の席に座っている者は誰もいなかった。桜庭は、肩を震わせながら、それでも何も言葉を発しなかった。しびれを切らした元木が、机から降りて、桜庭の方につかつかと歩き始める。
「おいおいそんなに恥ずかしいのか。だったら俺にだけこっそり言ってみろよ」
 細い目をいやらしくニタつかせて、元木が桜庭の顔を覗きこんだ。
「ほら教えてくれよ。そしたら俺が、あの手紙をそいつに届けてやるからさ。嘘じゃないから安心しろって。そんで今日の放課後、体育館裏に皆を連れて応援に行ってやるよ。なぁ、ハッシーもユウジも行くよな? ほら来てくれるってよ。嬉しいだろ。おいこら、いつまで黙ってんだよ。いい加減白状し――」
「やめろ」
 その瞬間、水を打ったように、クラスが静まりかえった。元木の台詞に覆いかぶさって低く響いた短い言葉が、桜庭の口から出たものではないことは、彼の表情を見れば分かった。桜庭は、突然の出来事に驚いた様子で、何やらこっちを見ている。いや、桜庭だけではなかった。見渡すと、教室にいる全員がこちらを見ているのだ。そして僕はようやく、先程の声が、自分の口から発せられたものだということを理解した。
「…あ? な、なんだよ。いま何つった?」
「やめろって、言ったんだ。もう黙れ」
 気付けばまた、口から言葉がこぼれていた。頭と体の波長が合っていないような、不思議な感覚だ。ただ、胸の奥から、血が沸騰するような熱い気持ちが込み上げてきて、それが僕の行動を支配していることが、なんとなくわかる。
 一体どうして、桜庭は、こんなふうに虐げられなければならないのだろう。そもそも、彼がこの姿になったことは、彼の罪じゃない。そしてそれと同じように、元木や、僕たちが、普通の人間の姿でいられることも、僕たちの手柄じゃない。どちらも、受け入れるしかないただの偶然だ。そんなことで自分と相手の間に優劣を付けるなんて、すごく、卑怯じゃないか。
 元木は、顔を真っ赤にしながら、僕の方へ向かってきた。怒りよりも、動揺で顔を赤らめている様子だ。改めて見ると、かなりニキビの多い顔だった。元木は、しんと凍りついた教室の空気を必死で砕こうとするかのように、早口でまくしたてる。
「おいこら、ふざけんなよ。誰に口聞いてんだ。気持ちわりいんだよ。お前、あのお馬さんのこと好きなのか? おいお馬さん、お前が手紙渡そうとしてた相手って、ひょっとしてこいつか? ぎゃははは、良かったじゃねぇか両思いだぜ、末永くお幸せに、変態カップル――」
 言い終わるより、僕の右手が出る方が早かった。確かな手ごたえと共に、元木の体は時計回りに回転して、近くにあった机をやかましくなぎ倒しながら床に倒れた。周囲のクラスメイトたちは皆、呆気に取られているのか誰ひとり声をあげず、またしても教室に静寂が訪れた。
 あぁ、自分は、人を殴ってしまった。生まれて初めての経験だったが、こんなにも綺麗に決まるものなのだな、と妙に感心して嬉しくなった。もっとも、標的が元木というボンクラだったからかもしれないが。
 元木は、「訳が分からない」といったような間抜けな表情で仰向けに横たわっていたが、やがて、ひっくり返ったカナブンみたいにぎこちなく、起き上がろうとする動作を始めた。このとき、僕はどうかしていたかもしれない。立ち上がろうとする元木の姿を見た僕の脳裏に、「まだ足りない」という言葉がよぎった。僕はすぐさま元木に近付き、彼の腹を、右足で二回、三回、四回、五回と、思い切り踏んづけてみた。その都度「んおっ!」という間抜けな声を発しながら、元木の体が「く」の字に曲がり、そのまま横向きになってげほげほとむせこみ始めた。彼の腹に筋肉がまったく付いていないからか、僕の右脚に伝わった感覚は「ぐにゃっ」という生々しいもので、顔を殴ったときに比べるとあまりいい気持ちはしなかった。
「きゃーーーー!」
「ちょ、ちょっとこれやばいって」
「俺、先生呼びにいってくる」
 数人の女子の叫び声を皮きりに、教室内が、崩壊したダムのように一気に騒がしくなった。喧騒が僕を現実に引き戻す。ふいに、元木の仲間たちに殴られるんじゃないかと思い、慌てて振り返った。しかし、意外なことに、彼らは壁にもたれたまま、事の成り行きを傍観しているだけだった。仮にも普段行動を共にしている仲間が酷い目にあっているというのに、彼らはむしろこの事態を、退屈な日常に刺激を与えてくれる事件として、楽しんでいるように見える。きっと彼らにとって、元木はしょせんその程度の存在なのだろう。あるいはそもそも、このグループのつながり自体がそういうものなのかもしれない。
 そのとき、後方から、荒い息遣いが聞こえた。見ると、元木がようやく立ち上がっていた。唇の端が切れて血が出ている。頬の上の筋肉ががぴくぴくと引き攣っていて、目の焦点が合っていない。ぶつぶつと、聞き取れないほどの小声で何かつぶやいている。どうやら、完全に「キレている」ようだ。誰よりも粋がり屋で、見栄っ張りで、プライドの高い男が、クラス皆の前でさえない男子にぼこぼこにされたのだから、発狂したくなるのも無理はないだろう。彼の脳は、自己防衛の手段として、理性をショートさせることを選んだようだ。
 元木は、学ランの内ポケットに右手を入れ、ごそごそとまさぐった。ハンカチでも出すのかと、僕が呑気なことを考えていると、彼は、何か細いものを取り出し、それを手首のスナップでシュシュッと回転させた。
「きゃああああああああああああ」
「うわああああああああああああ」
 思い思いの叫び声が、男女分入り混じって、教室中に響き渡った。何人もの生徒が、教室から走り去っていく。元木のグループの連中も、我先にと窓から飛び出して、廊下に逃げた。元木の右手に握られているのは、小さなバタフライナイフだった。小振りとは言え、それはまぎれもない凶器であり、十分人を殺傷し得る代物だろう。
 自分の身に危機が迫っているという実感が、血管を通って全身をめぐるように、じわじわと僕の体へ染みわたってくる。先ほどまでの熱い気持ちが、嘘のように消えてしまっていた。僕はどうすればいいのだろう。走って逃げるか? それとも、今更ながら謝って許してもらうか? あるいは、いちかばちかナイフを振り落としにかかるか……? どうすべきか分からず、僕は立ち尽くすのみであった。恐怖というものは、ここまで強く人を支配するものなのか。
 元木の視線がしばし虚空をさまよったあと、僕の所で固定された。それが、照準を定めたしるしだったのだろう。ナイフの矛先が僕に向いた。
「きぃええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
 何かに取り憑かれたような声を上げながら、元木がまっすぐ向かってくる。僕は恐怖のあまり体を動かすことができず、その場にへたりこんだ。唯一できたのは、顎が砕けそうなほど精一杯、歯を食いしばることだけだった。
(やられる――)
 ばこんっ、という大きな音が響いた。さきほど僕が元木を殴ったときより、はるかに爽快な音だった。
 僕のすぐ目の前で、元木の体が吹っ飛び、彼の手を離れたナイフは宙を舞って、がちゃがちゃと金属音を立てながら床に転がり落ちた。
 突然のできごとに僕は、食いしばっていた口をぽかんと開けていた。教室の外から見ている生徒たちも、呆然とした顔をしている。この光景は、僕だけが見ている幻ではないようだ。たったいま、僕めがけて突進してきた元木の顔面を、突然横から跳んできた真っ白の「馬」が、勢いよく蹴り飛ばした。
 元木は大の字になって倒れており。今度こそ気を失っているようだ。「馬」は、元木の姿を見降ろし、安堵したような表情で凛々しくたたずんでいる。その姿を改めてよく観察した僕は、どうやらそれが「馬」ではないということに気付いた。背中に、優美な羽根が生えている。これは、まぎれもなく「ペガサス」だ。そしてその「ペガサス」の顔には、見覚えのある面影が浮かんでいた。周囲の床には、破けた衣類が散らばっている。
「桜庭なのか――」
 僕の呼びかけを聞いたペガサスは、蹄を鳴らしながら近付いてきた。背中の羽根をしなやかに揺らして歩く姿は、桜庭らしからぬ威風堂々たるものだった。それでも、僕に向かって照れたような表情を浮かべたその顔の面影は、疑いようもなく桜庭のものだった。
 桜庭は、親しみのこもった仕草で僕に頭を寄せてきた。銀色混じりの美しい白に変わったたてがみを、僕は撫でてみる。
「ありがとう、桜庭。立派になったな」
 桜庭の歯が、にぃっと剥き出しになった。彼が心から喜んでいるときの表情だ。
「おおおおおおおおおおおおおおおお」
 興奮の声をあげながら、高橋が走ってきた。桜庭に抱きつき、背中の羽根を夢中でべたべた触っている。
「高橋、あまり乱暴に触るなよ。こいつは桜庭なんだぞ」
「ペペペペペペガサス! ペガサスじゃないですか! まさかこの目で見られる日が来るなんて……僕は、僕はもう!」
 ペガサスの正体が桜庭だろうがそうじゃなかろうが、高橋にはどちらでもいいようだった。桜庭は、少し戸惑ったように身をくねらせつつも、なんとなく嬉しそうだ。
 教室の真ん中で頬笑み合う僕たち3人、いや、2人と1頭を、クラスの誰もが唖然とした様子で見つめていた。そして桜庭は、思い出したかのように、廊下にいる元木のグループの連中を、鋭い眼光でキッと睨みつけた。それは、僕の知っている桜庭からは想像できないほど精悍な目つきで、睨まれた彼らの顔から血の気が引くのが分かった。
「お、おい、あれ……」
 一人の男子が、グランド側の窓を指さして言った。見ると驚いたことに、窓から見える空に、また別のペガサスのシルエットが動いている。ここからそう遠くない所を飛んでいるようだ。そのもう一頭のペガサスは、いま桜庭の背中にあるのと同じような、いや、それより一回り大きく見える大人びた羽根で、風のように優雅に空を舞っている。
 桜庭は、空にいるペガサスの姿を確認すると、まるで名前を呼ばれたかのように、窓の方に向かってゆっくり歩き始めた。高橋は桜庭の体へコアラのようにしがみついていたが、桜庭が少し歩みを進めると、振動で力なく落馬した。
 そのとき、僕の頭の中に、一つの想像が浮かんだ。あの空のペガサスは、立派な姿に成長した桜庭のことを迎えに来たのではないだろうか。そして、あのペガサスの正体こそ、まさに――
「桜庭、行っちゃうのか?」
 僕は桜庭に呼びかけた。桜庭はぴくっと立ち止まり、こちらを振り返った。微かに、その瞳が潤んでいるのが分かる。彼は、言葉で返事をするかわりに、ゆっくりと首から上でおじぎをして、最後にまた、にぃっと笑ってみせた。僕も必死で、笑顔を返す。そして桜庭は、名残惜しげに前を向き直ると、また窓に向かって歩き出した。
 そのとき、近くにいた生徒たちの中から一人の女の子が出てきて、桜庭が向かう先の窓を開けた。それは、三田村江実だった。桜庭は驚いたように立ち止まって、彼女を見る。三田村江実は、気まずそうに下を向いていたが、意を決したような表情で一瞬前を向いて、こくりと桜庭に軽く一礼した。その口元が、微かに「ごめんなさい」の形に動いた気がした。桜庭も、三田村江実に向かって、深くおじぎをした。
「ヒイィィィィィィィィィン!!!!!」
 耳の中を馬が鳴きながら駆け抜けたようなけたたましい声が窓の外から響き、窓際にいた男子生徒が尻もちをつく。空のペガサスが、桜庭を呼んでいるようだった。桜庭は、その声に答えるように、背中の羽根をその場で2、3度ばたつかせたあと、三田村江実が開けた窓から空に向かって勢いよく飛んでいった。
 クラスの誰もが、一斉に窓の方へ駆け寄っていった。僕も走っていき、僕らしくもなく他の生徒たちを強引にかきわけて、外を見渡せる位置に動いた。よく晴れた空に、大小二頭の真っ白なペガサスが羽ばたき、その姿は徐々に小さくなっていく。
「……あのペペペペガサスは、桜庭のおかおかお母さんなのかもしれないね」
 いつの間にか僕の隣のポジションを確保していた高橋が言った。彼は、いつも持ち歩いている双眼鏡を覗いて、執念深く空を眺めていた。
「僕も同じことを思っていたよ、高橋」
「ペペペぺガサスというのは、乗りこなすのが非常にむむむ難しい馬で、本当に選ばれた人間にしかののの乗りこなせないらしいんだよ」
「と、いうことは――」
「桜庭のおととと父さんは、ペペペぺガサスに見初められるほどの、すばらしいききき騎手だったということになるね。まぁ、最終的にはペガサスとこここ子どもをつくったわけだから、やっぱりへへへ変態なことには変わりないけどね、僕みたいなままままともな人間からすれば」
 やがて、空を飛ぶ鳥と見分けがつかないほどに小さくなった二頭のペガサスの影は、風に揺れる薄い雲の中に吸い込まれていき、それっきり、見えなくなった。

 頬を撫でる風がひんやりと冷たく、いよいよ本格的な秋が始まったのだと感じた。僕は今日も、夜の散歩を欠かさない。
 僕と元木は、二人とも一週間の停学処分となった。クラスメイトに殴る蹴るの暴行を加えた生徒と、同じくクラスメイトをナイフで襲おうとした生徒が、一週間の停学で済むのは、当事者ながら処置として軽すぎるとは思う。しかしそんなことよりも、「一人の生徒がペガサスとなり空に飛んでいってしまった」という圧倒的な事態によって、僕たちの悶着のことはうやむやになってしまった、というのが実態だ。
 事件の後で、桜庭が僕を助けたときの状況を、高橋から詳しく聞いた。僕が元木を殴ったり蹴ったりしているあいだ、桜庭はどうしていいか分からない様子でおろおろしているだけだったが、元木がナイフを持って僕に突っ込んでくるのを見ると、急に走り出したそうだ。そして、走りながら一瞬のうちに、彼の体はペガサスに変貌し、そのまま勢いよく元木を蹴り飛ばしたらしい。
 高橋の話を思い出しながら、僕は足下に転がっている石を蹴った。不規則に跳ねながら転がった石は路肩の用水路に落ち、ぽちゃんというものたりない音が鳴った。どうにもやるせない気持ちになって、僕は空を見上げる。今宵の空は雲がなく、比較的星がよく見えた。そして僕は、昨日の流れ星のことを思い出す。
『桜庭の願いが、叶いますように』
 僕が祈ったこの願いごとは、結局、叶ったのだろうか。そもそも、桜庭にとっての一番の願いとは、実際何だったのだろう。三田村江実と結ばれること? いや、好きという思いだけでも、自分の口から伝えられることだろうか。はたまた、彼が昨日言った、僕に恩返しをすること? ひょっとすると、心の奥では、母親と出会えることを願っていたとか……? 考えても答えは出ないが、もしかすると、桜庭自身にもはっきり分かっていなかったのかもしれない。たとえば、いま僕は、自分自身が何者かということがまったく分からない。多分、それが「若い」ということなのだろう。ただでさえ自分自身の形をつかめない時期に、彼は、馬の顔を背負って生きるという宿命を背負わされた。そこからは、日々、その日の自分を守っていくだけで精いっぱいだったのかもしれない。
 しかし、ただ一つ思うのは、今日、僕を助け、三田村江実と挨拶を交わし、大空に飛び立っていった桜庭の姿は、とても幸せそうだった、ということだ。
 僕はふと、あることに気付いて立ち止まった。空に、昨日まで見たことのない明るい星が、一つだけ増えている気がする。今まで偶然見落としていただけだろうか。しかし、毎日のように空を見ている人間が見落とすには、その星はあまりに明るかった。南の空高くから地球を見守るように力強く光るその星は、近くにある三つの明るい星と四辺形をつくっている。そして、さらに西側にある星をいくつか結んだその形は、昼間僕を救った桜庭の、あの勇敢な姿に見えなくもなかった。
「ペガサス座」
 そんな言葉が、僕の頭に浮かんだ。ペガサス座。あの星座を、ペガサス座と名付け、僕だけの星座にしよう。勝手にそう心に決めた僕は、少し救われた気持ちなって、再び歩き始めた。

友人

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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