背伸び。
冷たい雨の中、僕は傘も開かずに歩く。
考え過ぎて熟れた頭を冷やしたいからだ。
この歳にもなってそんな子供じみたことをしなけりゃ、気持ちを一つ整理出来ない。
なんて無様だろう。
なんて、惨めだろう。
「そろそろ別れましょう。私達、お互いそろそろ新しい人生を歩むべきだわ」
「いきなり、何を言い出すんだ」
美香子は細い煙草に火を点けて、ゆっくりと燻らす。煌々と、薄暗い部屋の中で蝋燭の炎のように橙色に輝く。
「いきなりじゃないわ、あなただって本当はわかっているんじゃないの。あなた、私を幸せにする気、あるの?」
僕は、答えに詰まる。
美香子は、僕がいなくてもきっと一人で幸せを掴めるだろう。美香子は強くて美しくて、僕が見合うような安い女でも弱い女でもない。むしろ僕の存在が彼女にとってのマイナスなんじゃないかってくらいだ。
だから僕は。
いつしか彼女に対して負い目を感じ、距離を置くようになってしまった。
凛として胸を張り、真っ直ぐ前を見つめて歩く彼女はっても眩しい。
その隣を歩く僕は、足をもつらせて無様に転ばないよう地面と足を見据える為に、背中を丸めて歩く。
僕の方が本当は背が高いはずなんだけれど、丸めた背中のせいで彼女の方が背が高く見える。そういえば、最近はめっきり彼女の頭を見ることがなくなってしまった気がする。以前はむしろ撫でることが好きだったはずなのに。どうして触れることさえしなくなってしまったのだろう。
「最近はキスすらしてくれない。私の目線からすぐに逃げるように俯いて。そしてあなたの心の内すら話してくれない。私を好きと、いつから言ってくれなくなったのかしら。憶えてる?」
彼女の真っ直ぐすぎる言葉が、僕の中心に深く突き刺さる。
「何か言ってよ」
煙草の先端が眩く光る。熱く、強く燃焼する。
ブラインドから差し込む夕陽よりも強くそれは、陰った彼女の顔を映す。
逆光のせいで見えなかった彼女の目尻には、小さな滴が浮いていた。
僕は胸の奥がずくんと疼いた。
ああ、泣かせてしまっている。
彼女を泣かせてしまっている。
何か言おうにも、言葉はただの呻きになり、意味をなさない。
僕はあたふたと身体を動かすけれど、言葉以上に意味がなくて、結局どすんと腰を落ち着かせた。
僕に、彼女を慰める資格があるのだろうか。惨めで、役に立たなくて、劣等感に苛まれて、自分に何があるのか自分自身でもわからなくて。彼女と一緒にいても彼女の為に何をしてあげられるのか、もうわからない。
「ごめん。泣かせてごめんよ」
こんな言葉しか、絞っても出なかった。情けなくて、涙が滲む。
「私がどうして泣いているのかわかる?」
わからない。
「あなたのことが愛おしいのに、それがあなたに伝わらないから悲しいの」
彼女の涙のように熱い言葉が、目尻に染み込む。
子供みたいに涙が零れる。喉はひきつき、酸素を吸えなくて喉を詰まらせる。まるで獣みたいな鳴き声が聞こえてくるが、それが僕の泣き声だと気付いて驚いた。
止まらない。
感情が溢れ出るのを止められない。
「僕は君のことが大好きだ、愛おしい。でも、幸せに出来るかわからなくて不安で、どうすればいいかわからないんだ」
はじめて、自分の気持ちを口に出した。
背中から抱き締められる。
熱いくらいの体温に包まれる。
「一緒に頑張ればいいじゃない。一人で無理しなくたっていいの。私を頼ってよ」
じわりじわりと熱が伝わって、胸の奥に火が燈る。
僕は大き過ぎるそれを持て余して、ただただ涙を流すことしか出来なかった。
冷たい雨が熱を冷ます。
身体から立ち昇る湯気はすぐに消えてしまった。一緒に身体は冷えていって、小さな決意が冷めた胸の奥にコロンと産まれる。まだ炭火のように赤々と熱を持っているのか、疼くような熱さがある。
とりあえずどうしようか。
何から取り掛かればわからない。
この矮小な劣等感を埋めるには、何を詰め込めばいいのだろうか。今更なんだし、彼女に聞いてみようか。それはさすがに無様過ぎるのかな。ちっぽけなプライドが邪魔をしる。とりあえず、仕事を変えることから始めようか。今の仕事は向いていない気がする。むしろ、全部がそのせいかもしれない。最近、病んでいたし。すっぱりと今の生活を全て捨てて、やり直したい。
努力して、また一から始めて。そして今度こそは、彼女に見合う男になりたい。
背伸び。