廻る木馬と踊る姉妹
日常はありきたりを飛び出すことで、物語へ昇華する。
しかしこれはめまぐるしい物語。
執筆時期は学生時代なので今の僕からすると読むのはちょっと恥ずかしい。いつか書き直せたらなぁ……
000
僕たちの姿かたちは、いわゆる世間一般にとって、イレギュラーな存在と言っていい。ちなみに、何をもって世間一般に線引きを行なうのかとか、そういった価値観共有は省略して、一方的に世間一般の価値観を掲示するなら、この際、少々馬鹿げてはいるのだが『楽園を忘れた人間』を世間一般としよう。
楽園とは子供の思い描くユートピアと、大人になるに連れ現れるディストピアへの逃避の先にあるもの。現実を疑うこと。とする。
なぜなら、その条件を満たす人間が、大多数に及ぶからだ。
現実はこんなものだ。と疑うことを放棄した人が、世間一般。
この際、数こそが世間と言って差し支えないだろう。
僕たちがまた、なぜ楽園を忘れていないのか。
そんなものはわからない。言うなれば奇跡だ。言うなれば物語だからだ。
例えば、多くの人間の中で競い、一位に輝いた人間をマスコミなどで取り上げたりするが、稀に、その一位の人間を『一位なる前』からリポートするドキュメンタリーがある。
タイムマシンで過去に飛んで一位になった本人にリポートしてる訳でも、未来予知の千里眼を使ってる訳でもないのに、リポートした対象が一位になる。これは現実的な言い方をするなら、一位になれなかったら、テレビ局側がボツにするからだ。となると必然的に振るいにかけられ、残ったものは変わり種ばかり。そんな感じだ。
逆説的に僕らはユートピアを手にしているんだ。
ユートピアを持っているから、入るための鍵を探していたんじゃない。それは大きな誤解だ。鍵を手に入れたからユートピアの門をくぐれたのだ。シンデレラだって、舞踏会だからガラスの靴を履いたんじゃない。ガラスの靴(とドレス一式)を手に入れたから舞踏会に行くことができたのであって……。
この先で何か感じたものがあるならそれでいいし、何も感じないでもそれで僕は概ね満足。うん。
回りくどい言い回しだ。自分の口下手にうんざりしてしまう。
そんなことより、これから話す物語について、説明しよう。
もしかしたらわかりやすいかも知れない。
≪なるべくしてなったのではなく、なるように仕向けられた僕たちの運命≫
001
昼下がり。
僕は丸くなった左腕をいいことに、ベッドで横になるときは左側を下にしてぼんやりしてみる。すると、これまで邪魔だった左腕という出っ張りが無いため、ぴったりベッドに落ち着くのだ。しかしさすがに寝るときはそのままではいられない。血が溜まっていく気がして、気持ち悪い。
あくまで暇を持て余すときに、こうやって神経を慣らすのだ。
「何してるの?」と夕が話しかけてきた。
僕の寝ているベッドの近くにお見舞い客用のパイプ椅子を置いて向かい合って座る。
夕の昼下がりの射し込む陽光にあたって少し茶色く見える髪の毛はショートカット(?)だったのが、最近はまた少し伸びて軽いボブになっている。薄い眉に長い睫。眠そうな目の下のクマはチャームポイントだそうだ。
もっと他にないのか、チャームポイント……。
特に今日は一段とクマがひどい。健康そのものを体験させてくれる入院生活で何をこじらせたらクマが出来るんだろう。いや、本当は知っている。
「いや、何も、ご覧の通りだ」と、僕はぶっきらぼうに答える。
シエスタってやつだ。
≪シエスタ≫【siesta スペイン】スペインなどで、昼食後にとる昼寝。
「左腕がベッドに埋め込まれて抜けないの?」
「違う、そう見えるのは左腕がないからだ」
まず、左腕はそれこそ夕が持ってるだろ……。早朝からリハビリに精を出して、辛酸を浴びるような苦しい努力を重ねているのは知ってる。だから。
だから、なんとなくだらけている自分が酷く矮小に思えてしまう。こんな僕が夕のことを好きになっている。いいのか?
「あぁ、そうだそうだ。無いんだった。忘れちゃうよね」先入観ってやつだね。と夕は冗談を言う。
僕は思考を止めてその先を考えない。
「っていうか、それに関連して、クレーム一つ」ぴっ。と人差し指を立てる。
クレーム一つ。
「なんだ?クレームって」
なんかやったっけ?
僕は夕の顔色を伺う。
「この左腕、長すぎるよ。ほら見てよ」と、夕は気張って腕を前に並べる。
前ならえのポーズ。斜め横からキョンシーを見るようなアングルで。
確かに掌一つ分長さに違いがあり、左腕が予想以上に長い。
うわぁ、蟹みたい。
「うん。個人的にはかなりツボだぞ。かっこいい」と右手でサムズアップしてみる。
「本当に?格好いい……」ニヘーッ。照れる夕の顔に内心どきりとする。格好いいということに喜ぶというのも女の子らしく思えないが、案外可愛いより綺麗に憧れたりするタイプなら、格好いいというのも女の子は嬉しいのだろうか?
「僕なんてほら…腕一本分だぞ。見る人が見たらホラーだ」
「ショベルカーの真似得意そう。新しいね?」
「心外だ!?」
フォロー下手か!
「なんよ!格好いいって言って欲しいの?」
「いや、流れ的に傷の舐め合いでなぁなぁになるとばかり…」
というか格好の話じゃなく。……あれ?でもこのことをファッションセンスだとか自分でいってたな……。
とにかく、そうじゃなくて、長さの話しだ!
「僕はどうでもいいんだよ、夕の腕の話しだろ」
「いやいや、それもどうでもいいんだよ。とにかく暇なんだよ」
それは同感である。だから昼寝と洒落込んでいたのだ。
「だったら光美ちゃんと遊べばいい……ってあれ?光美ちゃんは?」
車椅子美少女こと最終兵器光美ちゃんがいない。
午前中はいたのにな。
「病院に入ったばっかだから探険するってさ」
「あ、そ」
っていうか夕も探険一緒にいけよ…。
まだこの季節は布団が気持ちいいのだ。いまさら外に出るのは僕は勘弁願いたい。
「二人きりだぁ」ニマーッ。
何時にもまして眠そうな目元の性でニヒルっぽく、あるいは不適な笑みを魅せる。
僕はその発言の真意を知りたい。いや、知ったらいけない気もする。嫌ってないと分かれば十分だ。これ以上を欲すまい。夕は僕のベットの端に移動して座る。
「……暇には変わらないけどな」
「つまんな」
「傷付いた」
「ごめんね」
「大丈夫」
「じゃあ堪えてね」
「……」
…………。
なんだろう、僕の扱い方が投げやりだ。百か零かの二元論で僕の領域を侵して行く。ほんの先日にはあんな時間を一緒に過ごしたのに。
一喜一憂。
ため息を静かに吐き出した僕の視線の先、扉が開く。
入ってきたのは車椅子。光美ちゃんだ。
002
光美ちゃんが探険から帰ってきたようだ。
「あ、ただいま戻りました。光美です」
「知ってるよ」
おかえりと夕は微笑む。気づくとパイプ椅子に席を戻していた。
「さっきは大変でしたよ!車椅子でドリフトしてしまいました!」
意気揚々と語る光美ちゃん。
いきなりテンションを上げるのが得意なんだな。
大体ドリフトするような事ってなんだ?もはや病院じゃないぞ?全く子どもは話しを盛って話すからなぁ。
「病院の庭に階段と坂があって、車椅子で昇ろうにも急でですね、力尽きてバック走行からのドリフトを決めてしまいました!」
「なにその優しくないバリアフリー」
「いやぁ、車の通りが疎らだから助かりました」
「病院の駐車場じゃねぇか!庭じゃねぇよ!」
なんかおかしいと思ったら、この病院、庭無いんだった。
「偶然通りかかった看護師さんに、ここまで運んで貰いました」
「勝手に外に出たから、追い掛けてきたんだろ……」
と、そうそう。
こちらが車椅子美少女、兼、最終兵器光美ちゃんだ。
髪はしっとり艶やかでそれをツーサイドアップにしている。
性格は今の通りで、頭が足りない(ちょっと天然?馬鹿?)のは脳の手術をしたせいかな?(不謹慎だ)というのはもちろん冗談で、くわしい事はまだわからない。まだ相部屋となって日が浅く、光美ちゃんを測りきれずにいる。
言葉使いは丁寧だ。いわゆる敬語使い。
人が増えると騒がしい。
それでも、楽しい。と思う。
あっという間に過ぎていくいろいろ。夕と光美ちゃんを交えて暇を潰し、時刻は午後8時。もう寝る時間だ。
しん。と静まり始めた病室で、僕はそっと、目を閉じた。
003
なんだろう。
全然疲れが取れてない感じだ。
まるで数行飛ばしたら朝になっていたかのようだ。日付が替わってしまったかのようだ。成る程。
夕はこんな感じで疲れが取れず、クマが出来た訳か、もともとクマが出来やすい体質らしいし。うん。
さて、今日も寝坊だろう。
いつも通り夕はリハビリに行っているのだろう。この時間帯は大体いないもんな。
そんなに早く起きてリハビリなんて、良くできるな。
これもまたクマの原因だろ…まったく……。
夕のことを考えて、一人、微笑して。
「片腕さん、起きたんですか?」と、カーテンの向こう側、夕の隣のベッドで、また、僕の向かい側のベッドから声が。
むむ?
その声は車椅子美少女光美ちゃんだな。
「ん?あぁ、今起きた。おはやう」
「おはようございます……あの、夕お姉さんは居ないんですか?」
声がしないんですけど。と光美ちゃん。
自分で確認すればいいのに……あぁ。
ベッドに乗るのも車椅子に乗るのも一人じゃ出来ないんだったな。昨日の夜も僕と夕が感覚の無い脚を持ち上げてベッドに置いたんだった。
片腕だから難儀したなぁ。看護師に頼めよ。とも思うが。
「夕はリハビリに行ってると思うぞ」
「そうですか、ところで片岡さん」
「片腕さんだ。いや、黄葉だけどな」
危うくスルーするところだった。
「車椅子に乗りたいです」
「え?……いやいやいやいや」
無理だろ。
「ナースコール使えばいいだろ」
「嫌です。こんなどうでもいいことで借りを作りたくありません」
「ナースに借りとかそういうのはないだろ」
んな事言われても腕一本だぞ。うーん。
「よし、腕一本だがやれるだけやってみよう」
「流石です片腕さん!」純真無垢な目の輝き。可愛いなぁおい。
ナースコールを利用しないのは、つまるところ光美ちゃんの可愛い可愛い体に触れたいからだ。
夕も。
「改めて確認しておくが、僕の腕は一本だ。抱っこするにもかなり身体を密着する」
「片腕さん顔が笑ってますよ?」
「違う、あくび我慢しながら喋ってた」ふぁーあ。と僕は欠伸をしたふりをして釣り上がる頬の筋肉を解す。
「よし!抱っこするからこい」
「はい」
しばらく光美ちゃんを堪能しながら、割と本気で持ち上げたものの、脚がだらんとしていて、予想以上に苦戦し、ついには腕の力が無くなった。
大方の予想どうり僕は光美を車椅子に乗せること叶わず。
「もう無理だ。看護師呼ぼ」
「次は出来ます!ナースコールするときっと迷惑します!頑張ってください!」
「ナースコールってそういうのじゃないだろ!いいからもう、…僕が押す」
カチ。
「あ~っ!あ~っ!」
僕は光美ちゃんの抗議を受け付けず、僕のベッドにつけられているナースコールのボタンを押した。
ふっふっふ。
歩けまい!悔しいだろう。
「うぅ……非道です。これから神経質な人が来てしまうのです……」
うぅ……。と光美ちゃん。
「それナーバス。看護師ちがう」
004
結局すぐに駆けつけてくれた看護婦に光美ちゃんは車椅子に乗せてもらった。
ニコイチだもんな、これで最終兵器としての本領発揮だ。
光美ちゃんはナースコールを嫌がったわりには、車椅子に乗るやいなや元気に乗り回している。
「自由ですー」ぐるんぐるん。
ラジコンの戦車みたいな旋回行動。そうか、今じゃ車椅子が、車椅子こそが光美ちゃんの脚なのか。
「車椅子がないと動けないもんな……」
「む!?」
と、勘に障ってしまったらしい。
光美ちゃんは僕を睨んだ。確かに失言かもしれない。
「今になって……」
そんなこと、言われたくないです。
いつになく素直に傷付いた様子の光美ちゃん。
「あ、ごめん……」
「悪気がないのもわかってます。車椅子がないと動けないのも」
光美ちゃんは自分の脚を掴む。
その瞳は何か想いがこもっていたが、僕にはそれがわからない。今日日ピクリともしない脚への想いとは、どんなものだろう。
「……歩きます」
「え!?」
無理だよ!っと言いかけて、飲み込んだ。
ここで更に傷付けるのは悪い。しかしそれは無理だ。
「そこで動かないで下さい」
光美ちゃんは車椅子で、ただ立っている僕に近づいた。
なんだ?車椅子使ってるじゃないか…と思った矢先、光美ちゃんは車椅子をロックして手すりを掴み、体を持ち上げた。
「~~~っ!」
声ならない踏ん張り声をあげ、ロックして動かない車椅子から、今度は近くの壁の手すりを利用して立ち上がる。
腕の力で持ち上げ、だらしない両足で地面に立っている。勿論、種明かしをすれば腕の力のおかげだが、それでも自分の体重を持ち上げること自体、光美ちゃんからしたらかなりの冒険である。
光美ちゃんは手すりを両手でしっかりと掴んでいたが、左腕を離して僕に伸ばした。
「うぁっ!?」
やはり歩くなんて無理だった。
光美ちゃんはすぐにバランスを失い、一歩踏み込んだところで糸が切れた操り人形のように前のめりに倒れる。僕はすかさず光美ちゃんの身体を受け止めて支える。
「頑張ったね」
「……私は、歩けたですか?」
「歩けたさ」
やはり歩くなんて無理だった…なんて考えを振り払った。生まれてからいままで、脚が動けた試しがないのだ。それを、自立し、前進した。自分の意思と自分の力で、確かに光美ちゃんは前進した。これを歩行と言って何がおかしい。
「えへへ……最後に歩けてよかったです…お姉さんも喜んでます」
「?……あぁ、夕お姉さんも褒めてくれるさ」
言葉足らずなのは光美ちゃんの光美ちゃんたる部分だからいいとしても、引っかかる。
最後?
「ナニ……抱き合ってるのかなぁ……?」
夕姉はリハビリから帰ってすぐ、抱き合う僕らを目撃するのだった。
そして僕はまた思考を止めてしまう。この先のことを、光美ちゃんのことを。もっと真摯に思えたなら、少しは違う未来だったのかもしれない。
《以下回想》
認識、知識あるいはそれら全体に関わる言語的表現を有するシンボルの共有。
それは違う感性ないし環境などによって、誤解なく分かり合うことの難しいこと。
食い違う認識や知識を前にして、対話は成立したとは言い難い。人間は、より深く共有する能力を育むべきだ。
認識、知識あるいはそれら全体に関わる言語的表現を有するシンボル。
それらの共有を、より円滑にするのに必要なのは、とても身近な物である。
今こうして僕は認識、知識あるいはそれら全体に関わる言語的表現を有するシンボルを文章として共有を試みる。
まだ未熟者だが、深く相手に共有する、あるいはさせることができれば、僕は…。
《以下略》
ここでいきなり何を言っているのか、分からなくなるようなことを、僕は言うだろう。
車椅子の女の子。
そう光美ちゃんは。
僕にも夕お姉さんにも内緒で。
もう歩けなくなった両足を切り離した。
理由は、壊死の危険性。
いくら動かないといえど。腐ってしまうといえど。
光美ちゃんはまだ、僕や夕と比べてずっと子供だ。強いられたからとは言え、理解が追い付かないことだってある。強いられて、耐えられないことも、ある。
しかし。
光美ちゃんは一人で悩んだ。それはもちろん、僕らに話して解決なんてことはない。
前持って僕らに話したところで、脚を切り離すことの理解と苦しみを僕らは教えることしかできない。
でも、それでも一人で思い悩んで欲しくなかった。
強いられた脚との別れを、せめてもっと深く理解させてあげたかったし。
僕みたいにならないように。深く苦しませてあげたかった。
僕と夕で、光美ちゃんの理解も苦しみも、分け合いたかった。
共有したかった。あの時に感じた喪失感。
三日間。手術と、安静のために設けられた僕らのいない病室で、光美ちゃんは眠り続けた。
小さい身体だ、脚を切り離せば出血するし、肉体的疲労とか、きっといろいろあるだろう。
僕と夕もまた、心はどこか虚ろで、不安で。三日間の記憶は酷く薄いものだった。
命に別状はないとして、別の病室から僕らの病室に帰ってきた光美ちゃん。
あまりいい表現ではないが、死んだように眠っている。
両足は感覚のある太ももの付け根から先は綺麗になくなっていた。
シーツの膨らみは、いっそ残酷に、明白に、如実に語っていた。
もうないよ。と。
僕は欠損した身体に、どちらかというと理解のあるほうだと自分で思う。
しかし、そんな僕でも、不自然に途絶えたシーツの膨らみに背筋が粟立つ思いだった。
夕だって、交通事故の一件以降、理解を深めていただろうけど、まるでお通夜のように静かに泣き崩れている。
だからこそ、僕は務めて冷静でいた。
冷酷なリアリストを演じていられた。
主治医曰く、『峰島さんは自ら決意したとはいえ、きっといざ目が覚めたとき(脚を見たとき)精神的苦痛を受けるだろう…どうか、支えてあげてほしい』とのこと。
親御さんもだいぶ決断を渋っていたと言う。
確かに。
僕も、左腕がないのを実感したときは、あーぁ。と、消沈してしまったものだ。
えも云われぬ喪失感。
僕と夕は、片腕さんとお姉さんとして、先輩として、光美ちゃんを支えてあげなければならない。
005
「……」
リハビリの成果をあげ続けている夕は、珍しく、あるいは予想どうりの落ち込み具合だ。今日は僕なりに早い目覚めとなったが、しかし夕はそれでも僕より先に起きていた。
ずっと、眠っている光美ちゃんを見つめている。この静けさは、懐かしく思う。僕が意識不明で眠っていた時もこうだったのだろうか?
「あのさ」
見るに耐えない痛々しさ。僕は夕に声をかける。
「……なぁに?」
「大丈夫か?」
「どうだろう……ちょっとわかんない」
「そうか」と言い、気分を変えようと外へ出ようとする僕を夕は引き止める。
「待って……」
「!」
服を掴んでいる。
「待って。今貝木くんがいなくなったら、きっと大丈夫じゃなくなると思う」
「……なら、ここにいるよ」僕の心臓はこんな時でも早鐘を打つのかと、自分を叱咤し、諌める。
夕は僕の胸に頭を埋めて、静かに泣いていた。
僕から見ても、姉妹のような二人だったから。
ニコイチみたいな二人だったから。
そのうちに夕は僕の胸で眠ったようだ。
006
まだ朝は早い。
僕も寝よう。
と、思うのだが、しかしどうしようか。
夕は僕に凭れて寝ているし、ベッドに運ぼうにもいつかのように、いつものように腕が足りない。パイプ椅子に座ったまま寝るのは嫌だし、夕を起こすのも気が引ける。
……無理だ。
ナースコールを利用するというのも流石に、光美ちゃんにああ言ったが、借りを作るようで気後れしてしまう。
八方塞がりだ。
『******』
『******』
廊下から声がする。言葉までは聞き取れないが、一方は女性でもう一方は男性、どうやら夫婦で見舞いに来たのか。
朝早いこの時分。確かに仕事前に来るならばこの位の時間に見舞いに来るだろう。
別段おかしくはない。
『****が***』
『**は***だから』
足跡が近付いてくる。僕はもう気付いた。
それこそ、なんらおかしくはない。当たり前の見舞い客だろう。
僕らの病室の前で足跡が止んだ。
『あら、ここみたいね』
『あぁ、起きてくれるといいが』
スムーズに開く病室の扉。
「あ、どうも……」
「あら、この病室の方?おはようございます。すみません、娘は知りませんか?」あなたより3歳くらい年下の。と、やはりどうやら光美ちゃんの母らしい。
光美ちゃんの母というと、もっと若い親を想像していたが、そう若くはない。和服を纏っていて、御家柄がよさそうだ。
光美ちゃんの敬語を使う意味合いもこれで納得いくというものだ。その目は僕と交わらず、すこし左下に反れていた。
「たぶん……こちらです」僕は左腕から視線を移動させるために、早々に本題へ注意を向けさせる。カーテンを静かに開く。
眠っている光美ちゃんが露になる。
「あぁ、ありがとね」
光美ちゃんのお母さんの、疲れて憔悴した顔が、すこし笑みを浮かべた。
「すみませんな、こんな時間に」
扉の前で光美ちゃんのお父さん(こちらもまた厳格そうな)が頭を軽く下げる。
「いえいえ……そんな、」
……こういうの対応出来ないんだよなぁ。
「んっ…」
「あ、起きた?」
少し声のボリュームを下げるべきだった。夕が起きた。
身体が離れる。
これで寝れる。ベッドに行こう。って、訳にはいかないが。
「ごめんなさいね、起こしちゃって」
「……?……えぇと……?」
「私達は娘の見舞いに来たんだ」
「あぁ、光美ちゃんの御家族ですか?」
寝起きに知らない人と話すなんて、夕は大変そうだなぁ。すごい慌ててるし、眠気も吹っ飛んだようだ。
助けるか。
「じゃあ、僕らはちょっと下に行きますね。」
「いや、そんな、すぐに帰るんでお気になさらず……」
「いえいえこちらこそ大丈夫です。ゆっくりして行ってください」
「いやはや、すいません」
…………。
夕を連れて病室から脱出。
かといって、どこにいこう。
ラウンジかな。
007
「びっくりしたよ」
「だろうな」
ラウンジで時間を潰す。夕は寝起きの姿を他人に見られて恥ずかしがっていた。
「あの人達が光美ちゃんの親?……大部大人って感じだったけど」
「いい人そうな家族じゃないか?見た感じ」
こういっていいのかわかんないけど、お金持ちそうな家族だ。
成功者。という雰囲気がすぐにわかった。
「なんかもう眠くない」
「二度寝するからだ」
「だって眠くなった」
「動物みたいな言い訳だな」
「動物だとしたら私は何?」
「人間とか言ったら?」
「そういうひねくれたユーモアは白けるよ」
「そうだな…」
その眠そうな目、のぺ~っとした物腰。
……ぬっぺっぽうかな?
……妖怪。でもな、首とか腰とか細いからな。大体、妖怪は動物じゃないし…。
「長いよ」
「ごめん、考えてたら悩んだ」というかこっちはまだ眠い。
「そのくせ、思い浮かんだのは動物ですらないでしょ?」
「うん。ぬっぺっぽう」
「それはまた、黄葉のユーモアセンスって酷いよね」
「知ってるんだ、ぬっぺっぽう」
「見た目くらいなら」
ニマーッ。と、夕ははにかんだ。ちなみにぬっぺっぽうは一頭身ののっぺらぼうのような見た目である。
008
相変わらずラウンジで時間を潰す。
おそらく、光美ちゃんの親はもう帰っただろう。
なかなかの時分が経過したが、なんとなく戻る気にならないというか、このまま時間を浪費してしまいたくなる。
「何時帰るかな、光美ちゃんの家族」
「さぁ?もう帰ったかもと思ってた」
「私、ああいう家族を想像できないなぁ」
いきなり。藪から棒に。重い話題になってしまう。確かに、それは使用がないことだろう。
夕は親に捨てられたんだからな。
光美ちゃんの親にたいして慌てていたのも、親という存在に慣れていないからだろう。それでもいずれは光美ちゃんとの仲が深まるに連れ光美ちゃんの親とも慣れていくだろう。
「まぁ……いつかは夕も親に慣れるかもな」と僕はそのまま思ったことを口にした。
「いつかって、軽く言うね。ああいう家族にいつなれるの?」
「そんなことを言われても…慣れるか慣れないかは、努力次第だし、早く慣れたいと思うなら、僕も積極的に手伝うよ」
「……今噛んだ?」
?
……藪から棒になんだ?
「いや、自分でも饒舌だったと」
「でも、早くなれたいって、なりたいでしょ?」
「?」
「??」
待てよ。もしかして勘違いをしている……?『親に慣れる』を『親になれる』。最後の『慣れたい』は『なりたい』……。
「あ」
「あ」と、はにかんだ。テレテレ。
もしかして、遠回しに家族になりませんかって言ってるのか!?
「まったくもう、察しが悪いなぁ…」
「ゑ!?じょ、冗談だろ?」
みるみるうちに顔が熱くなる。やばい、頭が沸騰しそうだ。
「うん。冗談」
「っ!……夕のユーモアセンスだって結構なもんだぞ!?」なんで僕がこうも後手後手なのか、夕には敵わない。まだ顔が熱い。
「私が子供を産んでしまったら、捨ててしまうんじゃないかってさ、不安なんだよ。ほら、私って捨てられたから、親は子供を捨てるものなんだって、経験があるとね」夕は朝から重い話題を始める。「勿論、それが間違った知識だってこともわかってる。でも、間違いを犯さないなんて言い切れないよ?だから私は子供を好きにならない。そうなるように自分を育てたの。育ったつもりでいるよ、今も」
なんか、洗脳みたいだな。
自分を自分で洗脳するのって、どうなんだろう。
「私はさ」と夕は机に伏していた顔を横に向けてラウンジの壁ともつかない空中を見る。
「貝木くんを好きにならないように、頑張ってるよ」
009
「……」
僕に、どうしろと?夕のとこが好きな僕に、どうしろと?『好きにならないように頑張っている』と言われた場合、その心は何だ?
足掻いてみせろとでもいうのだろうか?
「……じゃあさ、好きになってもいいように」僕は夕を見る「僕が夕のことを好きになるよ。」
……もとからだけどね。
「苦しませるんだね」と、夕ははにかむことはしなかった。
ラウンジから病室へ戻る。
病室には、変わらずに眠り続ける光美ちゃんだけだった。
親はもう帰ったのだろう。
それはそうだ、三十分近く、僕たちはラウンジにいた。
思考・姉妹・脳内(別れ)
――妹ちゃん。起きて?――
「……」
――妹ちゃん。本当は起きてるんでしょ?――
「……はい」
――姉妹に隠し事は出来ないよ?特に、姉に対しては。――
「でも、なんだかいつもと違うです。何ででしょうか?とても悲しい気持ちになります」
――……あー。うん……隠し事は出来なかったか。妹に対しても。――
「なんだか、もう会えないような気がするんです。お姉さん」
――そう。そっか。そうだよね。そうなの。お別れなの。――
「え?……どういうことです?ずっと二人で一つでしたよ?姉妹はお別れできないって私知ってるんですから」
――兄弟、姉妹、お父さんにお母さん。確かにそう簡単にはお別れできません。けど、お別れです。――
「なんでですか!?いつも一緒!車椅子でお庭を散歩しましたし、一緒に友達を作りました!夕お姉さんも片腕さんも!あと深雪さんも一緒!一緒に!」
――うん…みんなきっといい人達。だからこそなの。――
「わかんないですっ!……わかんない……です……。…………」
――私は、妹ちゃんにとって大切な人達が出来たら、妹ちゃんを支えるのを辞めようって決めてたの――
「なんで教えて……くれなかったですか……?」
――お姉さんの秘密。です。だから、夕お姉さんに黄葉お兄さんに深雪さん。三人もいる。動かない脚の代わりに精神的脚として支える私より、ずっと、ずっとずっと力になってくれる。あの人たちが居るから、私はさよならなの。――
「なら!……っ!……なら、あの人たちと仲よくしないから…」
――だめよ。――
「なんで…………?」
――大切にしなさい。お姉さんとの最後の約束。――
「……本当に、お別れなんですか?」
――うん。ごめんね、急にこんな事になって。お医者さんには、妹ちゃんと二人で決めたよね、脚を切ること。最後に歩けたのは、お姉さんびっくりした。…あの脚を切らないでいたのは、やっぱりお父さんお母さんのためにはなるけど、妹ちゃんのためにはならないの。同じ体にいたから分かる。あの脚はそう長くなかったし、妹ちゃんも、本当はちょっと痛かったでしょ?お姉さんが持ってくから。――
「お姉さん」
――ん?――
「ありがとう……だいすきです」
――うん。皆と仲良くね。じゃあ、私いくね。…だいすき。妹ちゃん……。――
010
午後。
宣言をしたからといって、だからといって、何かしら変化があるわけではないのだ。
夢だったかもしれない。
だとしたら、嫌だなぁ。
夕はもういない。告白紛いのことをやってのけた数時間後にはリハビリをしている。
光美ちゃんは四日間も昏睡状態だ。
しかし、医者の話ではもうそろっと起きるだろう。術後の容態は安定していて、いつ起きてもおかしくないのだから。
さて、相変わらずこの暇な時間をどう過ごすか、僕の心は光美ちゃんへの心配と夕への感情がぐるぐると駆け抜け、絡まり、その度に手持ち無沙汰となる。
ずっと光美が起きるのを黙って見ているのも、悪くはないが。
うーむ……どうしようか、この眠り姫。
案外、キスしたら目覚めるとか。
そう、接吻だ。眠り姫と言えばキスで目覚める。冗談で思いついた考えが、ことの他頭に残り続け、また手持ち無沙汰になる前に、考えを確立させる。そのうちに、本当にキスをしようかと思案する。
誰も見てない病室で、部屋の内圧が高まり、目は不思議と光美ちゃんの小さな薄い唇に向けられたまま離れない。光美ちゃんは静かに呼吸を繰り返していて、それを確認するのは容易であった。光美ちゃんの簡易酸素マスクのプラスチック部分が吐息によって繰り返し曇るのだ。
細く繊細な睫毛は柔らかく閉じられていて、瞳はそのわずかな隙間から静かに世界を見回していた。人形のように整った顔は精緻に作られたもののようで、しかし実際は生きているという事実に改めて感動する。吐息の数を数えるでもなく眺めて、透明なマスクを取り外してキスをして見たくなる。
硝子細工にふれるようなキス。
どうでもいいけど、接吻って言葉の響き、なんかはまらない。唇と唇が、口内の粘膜同士が絡み合っている状況なんだから、もっと熱をもった言葉で表現したい。キスとか接吻はなんかさっぱりし過ぎている。
この話しを続けると、まるで僕が光美ちゃんの口内に舌を挿し入れてしまうようなキスをする宣言をしているみたいだ。
ディープ・キスなんて流石の僕でもしない。変態とかじゃなくて鬼畜だ。
鬼畜生だ。
……でもまぁ、相手がその事実を知らなければ、鬼なんていないわけだし、光美ちゃんは『感覚がなければ気持ちいいも気持ち悪いもない』と言っていた。つまり、秘密にしておけばいい。
……誰にたいしてこんな面倒臭い言い訳を言っているんだ?
キス。
自分で言い訳を取り繕ってまでしたいならディープ・キスしてしまえばいい。
心の中で誰かが囁く。誰よりも僕の本能だ。欲求の確信をついているのがありありと伝わる。内側に隠された理性が、夕への感情と光美ちゃんへの心配が歪んだ方向に進んでいることを告げるが、どこかにすり抜け、意識から遠くなる。
その瞬間、急激に世界は静まり、僕の心音は早鐘を打って囃し立てる。
眠っている光美ちゃんの唇は、マスクによって湿ってしているようだ。
顔を見ていると、光美ちゃんは無防備すぎて、罪悪感が湧き出る。それは背中を伝い、冷える。
鬼の僕にこんな心があったなんて!
「……、……」
微かな呼吸の音、……うわ……睫毛長いなぁ……。
僕と光美ちゃんの間隔、約6cm。慌てることはない。理性はまだある。酸素マスクはまだ光美ちゃんを守っている。
光美ちゃんは静かに意識を浮上させて、微かに体に電気信号が広がる。
「……ん……」
「……お……」
起きた。
僕と光美ちゃんの間隔、約30cm。
「?……あれ?お姉さん……脚……」
「!!」
まずい。
それどころではない。
光美ちゃんが脚がないのに気付いた。
「お、落ち着いて、光美ちゃん」
「お姉さん……」
光美ちゃんは太ももの半ばから先、切り離された両足の跡地を物憂げに撫でていた。お姉さんという言葉から察するに僕よりも夕の方がいてくれたら心強いのだろう。
「そっかぁ……ホントに居ないですね……」
嗚咽。
「だ、大丈夫か?光美ちゃん、幻肢痛とかあるか?」
錯乱こそしなかったが、凄く落ち込んでいるようだ。
「黄葉お兄さん……ほら……無いですね」
涙声で何度も、感慨深そうに、無いですねほらと呟いていた。
それよりも悲しさが込み上げたのは、僕の事を黄葉お兄さんと呼んでいたことだった。
こんな風に呼ばれたことはなかった。
「な……に、言ってるんだよ。ほら、片腕さんだろ?」
「……ごめんなさ……っ……悲しくて」
脚がなくて。
動かなくても。
それでも。
脚は、光美ちゃんにとって、脚だったのです。
011
「黄葉お兄ちゃん……は左腕がなくなったとき、どうだったですか?」光美ちゃんはベッドの上で訪ねる。
光美ちゃんは僕を片腕さんなどと言う元気がないとのこと。お兄ちゃんか……そういえば夕もお姉さんだし、特別な意味合いはないだろう。
歌のお姉さんとか、体操のお兄ちゃんみたいに使っているらしい。でも、片腕さんと呼ばれた方が、今は落ち着く。
「左腕は、そうだな、案外僕には贅沢品だったんじゃないか?そこへ幸か不幸か、夕も左腕を無くした、だからあげた」
「気持ち悪いですね」
「言葉選べよ!?」
「私も同じ、同じ穴の『クジラ』です」
「デカすぎるよ……いやいや、僕も光美ちゃんも気持ち悪くないよ」
光美ちゃんは、術後の光美ちゃんは前より少し落ち着いていて、大人びている。というより、精神が身体に追いついて来ている。こう、なんというか、自分が確立したような。精神が一つになったような印象。いや、脚が無くなったことで強く印象が変わったのが影響かもしれない。
「でも、やっぱり正直、理解できないですね。アブノーマルです」
「それは、理解しているさ」
「私から見たら、左腕をあげるのは献上ではないと言いたいです」
「夕に献上したのは、間違いと?」
「いえ、黄葉お兄さんは眠っていましたし、夕お姉さんの意思もありました」
「じゃあなんでさ?」
「いえ、ただ夕お姉さんに取られただけですね。と思いまして」
「毒舌だね」
「すみません。脚が無いのが精神的に来ているみたいです」
「傷付いた」
「私もまだ傷が変な感じです夕お姉さんに甘えたいです」
「あぁ、僕もだ」
「はい?」
「え?」
012
「……あ、私が起きたとき」
光美ちゃんは呟く。
「……」
あれか。
何事もなかったかのようにシリアスな表情で、無いことにしてたあのこと。キスをしてしまおうか悩んでたとき。
「すごい近くなかったです?」
「そうか?」
「もうキスされるくらい近かったです」
「いあいあ、光美ちゃんの目が望遠鏡みたいに視力がいいからだろ、僕はけっこう離れてたぞ」
「そうです?」
「そうです。」
沈黙。
「……あー、あれだ、車椅子には乗らないのか?」
「乗せてください」
「じゃあ看護婦呼ぶから、待ってんさい」
「止めてください死んでしまいます」
「それくらいで死なないさ、というか。何日も寝てたんだ、医者に目覚めたことも言わないと」
「私を車椅子に乗せてからにしてください」
「検診のついでに乗せてもらうようにする」
「片腕さんじゃなきゃ嫌です」
「そんなキャラじゃないだろ」
「別にいいじゃないですか!なんでそんなに嫌がるんですか?」
「嫌ってないから、だからさ、僕は片腕さんじゃん?抱っこできないから」
「私が片腕さんの首にぶら下がりますから、車椅子まで運んでください」
「う~ん……」
首に光美ちゃんがぶら下がった場合。確かに抱っこは出来るな。今回は脚が無くなった訳だし。
まぁ、車椅子こそが脚の光美ちゃんだ、看護婦なんて待っている時間も惜しいのだろうし、意志も尊重してあげたいしな。
「ほれ。掴まれ」あれだ、奉仕の精神だ。
「やったっ!」
短い脚で歩く事ができない光美ちゃんはベッドの上で匍匐前進で寄ってきた。
可愛い!
光美ちゃんは僕の首に腕を回し、僕も光美ちゃんがふらつかないように右手を背中に回して支えた。
分かってはいたが、顔が近い。
「持ち上げるからな?」
木に掴まるコアラみたいな光美ちゃん。
「あ、はい」
ふにっ。
「!!」
うぉお!
患者服越しに伝わるこの感触は。
僕の胸板を包み込むこの感触は何だ?
「……本当は怒りたいですけど、特別です」
「予想外だった……」
ノーブラかよ……ちっちゃいけど、柔らかい!
「う……持ち上げたんですから、車椅子に乗せてくださいよ」
「はい……っと」
「久し振り……な感じがしませんねあまり」と、車椅子に乗るなり回り始める。
ぐるんぐるん。
「僕も起きたばかりはそんなだったな」
「ところで、なんで私ブラがなかったんでしょうか?」
目線が、改めて侮蔑の三半眼で僕を睨む。
「いや!違うから!」
「眠っている間に何かしたとしか……」
「事実無根だ!」
「うぅん夕姉さんは……」
と、光美ちゃんは車椅子で夕のベッドに近付く。
カーテンを開く。
「うぉ……」
光美ちゃんは絶句した。『うぉ……』ってなんだ?敬語もなにも、めちゃくちゃ素の反応じゃないか
「夕姉さんのベッドに……ありました」
ブラを摘まんでこちらに見せる。
なるほど、白で無地の小さなブラジャーだ。
「なんで……だ?」
夕の所にあるってことは、光美ちゃんのブラジャーを取ったってことか?
意図は?
まさか……!?
「もしかして……」僕は呟く。
あれ?耳が朱く染まっているぞ光美ちゃん……。
夕がリハビリから戻ってきたら問い詰めることにしよう。
013
ということでリハビリから戻ってきた夕を問い詰めたところ、『気付かないうちに私のと混ざってた』と言い、そもそも取ったのかについては『別にいいでしょ』というものだった。
ことの流れを整理しよう。
≪数時間前≫
「ただいま……って、何?」
夕がリハビリから戻って来る。そしてすぐに僕と光美ちゃんの眼光に早速気付いたようだ。
「あれ!?光美ちゃん目が覚めてる!お医者さん読んでく……」
「まぁ、待ちたまえ」言い切る前に僕は夕の右手を掴んで放さない。
確かにそういえば、医者に報告してないや。
まぁいい。
勝手に来るまで呼ばないのも面白そうだし、大体三時前にはには容態を診にくるだろうし。
「何?何なの?」軽くパニックになっている夕。
「お医者さんなんてどうでもいいです、それより夕お姉さん。こっちに来てくださいです」
「はいっ」がしっ。と、夕は光美ちゃんの車椅子の前に飛びつく。脚がない分、夕は好きなだけ間合いを詰める。
「……あのっ……近いです」
来てくださいと言われた次の刹那には光美ちゃんの跡地を頬擦りしていた。
光美ちゃんの声も上擦っていた。
……この近さますます怪しい。
「いつ起きた?」
「え?……っと」
「あれ?髪伸びた?」
「いや、あの」
「五日間寝ててもうお風呂入りたいでしょ?」
「あ、……はい」
「光美ちゃんの首からいい匂いがする…すぅはぁすぅはぁ」
「やっ……やめ」
「そういえばブラジャー寝てる間にとっちゃった!えへへ」
「それ!それです!」
「え?何が?」
圧倒的な夕の責めから光美ちゃんがなんとか聞き出したその言葉『そういえばブラジャー寝てる間にとっちゃった!えへへ』の真意を探らなければ。
「なんで取ったんですか?」
「え?なんかダメだった?」取って問題が無いわけないだろ。
「ダメではないですけど……理由がないです」
「理由?」と、少し思案して。
「ないない。可愛かったから何となく」
「可愛いって……白の無地だぞ?」
「うん、色白で小さかったよ」と、はにかんだ。ニマーッ。
っていうか、おい待て。
色白で小さかった?
僕と光美ちゃんは誤解をしていたようだ。
「ブラを取っただけじゃないのか!?」
「?……なに言ってんの?ブラ取ったのはあくまで味わうための手段だよ?」
「ひゃ、なっ!……えっと」驚きを隠せない光美ちゃん。
「いや~、早起きした朝って、暇じゃん?だから光美ちゃんのをマッサージしてやろうかと」すりすり。
驚いたまま固まっている光美ちゃんの頬っぺたに自分の頬っぺたを擦り合わせている夕。
「変態だー!?」口をひし形にして叫ぶ僕。
「いいじゃん♪マッサージのお陰で光美ちゃん起きたし」
「直接の要因じゃないだろ…多分」
いや、刺激にはなったかも。
「ど、どどどっどこまでやったんです!?マッサージ!」
「揉んで……舐めた!」
「はぅぅ…」
変態だ。冗談交じりな夕の話は、光美ちゃんは間に受けているし、実際どこまで本当なのか。
014
ということがあり、時間軸は今に戻る。
「は、恥ずかしいです。もうお嫁が出来ません……!」
「お嫁に行けませんだろ……」
なんだよ、お嫁が出来ませんって、前までは出来てたのか。
「大丈夫だよ光美ちゃん。私が貰うから」と、親指をたてる。
いやいや。貰うとか言う前に元凶お前だろ。
「……じゃあ、そうします……」
「いいのかよ!?」
「えっへっへ~、政略結婚ってヤツだ」
「夕のそれは侵略結婚だ」魔王か、お前は。
015
「よいせっ……と! うわー軽い」
「うわわっ怖いです!」
夕は光美ちゃんをおんぶして遊んでいる。
光美ちゃんは普段とは違う慣れない高さと揺れる夕に若干恐怖している。
「無理させるなよ~」
「分かってるよ。ふぅ、上に乗って」
「こうです?」
今度は車椅子の上に夕が座り、さらにその上に光美ちゃんが向かい合って乗る。
夕……いや、なんでもない。
女の子同士だから許される座りかただな
「光美ちゃんは可愛いなぁ…男だったら今頃犯し「ああああああああああ!」るかも」ニマーッ。
「どうしたんです?片腕さん」
「いや、言葉狩りをしてみただけだよ」あは、あはは……。
あ……危ねぇ!
光美ちゃんが起きてくれてテンションが上がるのは分かるけど、夕のそれはちょっと歪んでる気が……。
「んふふ」夕は僕を見て笑う。
僕の反応を楽しんでる……!?
「光美ちゃん、ほら!地震!」そういって夕は上に乗る光美ちゃんを揺らす。
「え? あっ! 揺らっ さっ ないっ でっ っ あうっ う あ ぁ 」
ユサユサ。
グラグラ。
無垢で純粋な光美ちゃんを上に乗せて上下に跳ねる。
振り落とされないように夕の首に腕を回して掴まる光美ちゃん。脚が無いんじゃ逃げられないし、光美ちゃんは改めて箱入り娘であると感じる。親のせいではなく、光美ちゃん自身、脳の手術を受ける前は寝たきりだったというし、今も病院の中で生活している。
というか地震ごっこやめろ!
ツインテールが艶かしく踊る。ダメだ!もう嫌だ!いやらしく見えてしまうのは、僕の頭がいやらしいからか!?
だってエロ過ぎるだろ!
大体夕はこんなだったっけ!?
「ふぅ…あ~楽しかった」
「は、はひ」
目が回っている光美ちゃんを車椅子に残して自分のベッドに戻る。
016
定時で診察に来た医者(若くて気さくな男の医者だ)、がビックリしていた。
それはそうだ。
朝から起きているのに連絡もなかったのだから。車椅子に堂々と鎮座している光美ちゃんに笑いながらデコピンしていた。
間接より上の位置から切除したため義足は付けても歩けないことを説明して、縫合面の確認、その他メンタル面のチェックなどを手際よくこなして、『元気なのは何よりだけど、ここは病院だ。ちゃんと僕に報告してくれよ』と、白衣を翻し、颯爽と病室を後にした。
なんという好青年。
「あ、そうだ。跡地触らせてよ」と夕が光美ちゃんに言う。
「跡地?なんです?」
「これのこと」僕は患者服をはだけさせ左腕の跡地を見せた。
「きゃう!」
いきなり服をはだけさせた僕に対して恥ずかしがっているのか、光美ちゃんは両手で目を隠した(中指と薬指の隙間から覗いているけど)。
「もう縫合も多少定着してるんでしょ?包帯の上からならいい?」
「うぅ……でも、すごいくすぐったいですよ」
「まぁまぁ、撫でるだけだからさ」わきわき。
「でたぁー……」僕は夕の傷痕フェチに散々やられたので、この先はもう理解した。
細い指が触手のように蠢く。僕も被害者なだけにちょっと恐い。
わきわき。わきわき。
「う……あのっ……」その動きに本能的に恐怖を感じたのか光美ちゃんの表情は強張る。
わきわきわきわき。わきわきわきわき。
「や、やさしく……!」
逃げられないなんて可哀想に。無垢な光美ちゃん。
わきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわきわき
「……ひぅっ……!」
「******!!?」
光美ちゃんは自力で逃げることのできない。
密を溜め込んだ花みたいなものだ。
017
生まれもった環境。生い立ちから、光美ちゃんはかなり過保護に育てられてきたとみえる。
過保護。
遅生まれで、年の離れた親。後日、その親はまた自分の愛娘を見舞いにきた。対面中は僕は病室を出るので、どんな会話をしたとかは分からない。だが。
光美ちゃんはそこまで親を拒絶したりはしないが、
少し、煙たく思っているらしい。
まぁ、反抗期と言うやつなのかもしれないし、過保護な親に対して、もっと離れて自由にしたいことだってあるだろう。
思春期と言うやつかな?
あるいは親離れ。
過保護の反動で、光美ちゃんはたまに一人でふらっと車椅子だけで病院を抜け出すことがある。これについては、過保護に対する甘え。と、言っていいだろう。
誰かが守っている。
という前提で、光美ちゃんは一人になる。
そんな折。
光美ちゃんが帰ってこなかった。
「あれ?……」
いつもは小一時間で帰ってくるのに。
「……まぁ、」
たまには遅くなったって、すぐにひょっこり帰ってくるだろう。程度の誤差だろう。と、僕は、服屋の姉から届けられたマネキンみたいな木製の左腕を玩びながら思っていたが、光美ちゃんの親が『娘はどこですか!?』と、昼間、受付のカウンターでやや取り乱しているのを発見した。
片手に携帯電話を持ち、画面をカウンター席にいる女性に、指で差し示しながら、訴えている。
僕はその木製の左手を冗談半分で服の袖に通して、手首からしたはずり落ちないようにズボンのポケットに突っ込む。なんとなく受付で光美ちゃんの帰りを待とうとしていたところなので、その夫婦、光美ちゃんの親に事情を話してもらった。
「あの娘の携帯GPSが、ほら、こんなところに……」不安そうな顔の光美ちゃんの母。
見るとその携帯電話の画面は地図が映っていた。
カーナビのような、GPSの地図。
光美ちゃんはなんと、他でもない、僕が住んでいる街、栞守市に向かっていた。
018
栞守市とは、僕が住民登録されている市で、入院していなけれは僕はそこで生活を続けていた筈の街だ。
その市名から、読書文化を守る街づくりを展開していて、そこにある学校などを中心に朝読書なるものをやっている。
閑静な住宅街が並ぶ比較的綺麗な街であるが、本が嫌いな人にはうんざりするような、賛否両論がある街でもあり。本が嫌いなのに街を出るこもしない、学の無い学生や若者の一部が好き放題に治安を悪くしているというのもまた、地元民には有名な話だ。
あぁあ、嫌になる。
そして、光美ちゃんがなぜ栞守市に向かっているのか。
「GPSを見ると、車に乗っているみたいで……」
気が動転した光美ちゃんの母は項垂れるばかりだった。
車に乗っている。というのは、車椅子ではない。移動速度を見るに、自動車に乗っているらしい。
今も光美ちゃんが移動しているのがGPSから見てとれる。
「電話は繋がりますか?」
「い、いいえ……繋がっても出ないんです」
GPSで探知は出来る……繋がっても出ない。
逃げることのできない少女。
ざわざわする。
万が一の可能性が、頭を揺する。
止まない警鐘。僕はGPSの地図と頭の中の地図を照らし合わせて詳しい位置を探る。進行方向を先読みする…
栞守第二高校がその先にはあり、そこは体育館が広く、また、校舎とは別棟となっている。僕はそれを予測で結びつける。車の通る道順。左折右折のパターンは通学路に使用する道路に近い。やはり栞守第二高校。有名だが、不良が出るという噂を持つ高校だと、僕の通う高校でも噂されている。
もう十分だ。警戒や予感は確信になる。
卒業生だか中退生だかが車で拐ったとしたら?
確かあの高校には不良の溜まり場がある。
恐い。恐ろしいことになったかもしれない。
僕は病室に戻る。このままなにも知らなかった振りをして、眠ってしまいたい。左腕として、遊び半分で付けていた木製の腕。ほら、これは腕じゃない。
夕はなにも知らないんだろうか?知ったとして、被害が増えるか。
「くそっ……恐いな……!」
逃げたい。関わりたくないと、直感でそう思う。が、なぜか僕はそこに向かう前提で行動をしている。なんで上着を掴んでいるんだろう。
019
「はは……はぁ、やだなぁ」薄ら笑いながら私服に着替えている僕は、頭がおかしくなっているのではないか?おかしくなっている。そう思ってないとやってられない。
殴られにいくのだ、僕は。暴力などと言う下らないものの餌食になりにいくのだ。場所は栞守第二高校でもう間違いない。
もう間に合わないかもしれない。それなのに、光美ちゃんを助けに行こうとしている。強制でもないのに、進んで暴力を受けに行くんだ。
頭がおかしいんだろうか?通報は光美ちゃんの母がしたらしい。警察もGPSを頼りに駆けつける。……ならなんで僕が行くのか?
決まっている。
光美ちゃんは逃げられないんだぞ?
光美ちゃんは逃げられないのだ!
警察が間に合わなかったらどうする!光美ちゃんを襲うということは、つまり金と強姦だ。時間が惜しい急げ!ムダを省け!
栞守市への最短距離と交通機関はなんだ!そして何が起きてもいいように携帯電話に110を打ち込んで準備しておく。
栞守市は二駅向こうだったか?
いや、電車を使わないなら国道に沿って行けば、早い。警察もどうせ事件の確証がない分対応はおそいのだろう。
走れ!
今はまだ走れ!
病院の玄関をくぐると同時に、かさ張っている『左腕』が自動ドアの左端にぶつかり、鈍い音がなる。
それさえも気にせずに走る。気になるものか!気にしてたまるか!
夕が慌てて追いかけてくる声も聞こえたが、僕は振り切った。脳裏にちらつく、光美ちゃんの憐れな姿。それを思うと、まるで馬にでもなったかのように、走り続けた。しかし、最初からペースもへったくれもない全力疾走。入院生活が祟っている。走れない。
一キロ程を走り抜ける頃には、肺が空気を受け付けない。喉が焼けるような痛み。どうしようもなく非力だ。
「……ハァ、ハァ……」
どこか、自転車が落ちていたら。
熱気が服のなかで籠り、いやな汗が噴き出る。
「貝木ー!」
暮れ始めた空、背中から光りを感じる。振り返ると、夕が車の後部座席から僕を呼んでいた。
「乗って!栞守市まで運ぶって!」
僕はすぐに乗り込み、車はなかなかのスピードで栞守市へ向かう。
「娘のGPSが橋の上で止まっている。携帯を落としたのかもしれん」バレて捨てられた。なんて考えたくないが、個人的にはそれが一番予想通りだった。携帯は捨てられた。助手席には光美ちゃんの父。
僕の隣に夕。
運転手はスーツを纏った若い女だった。
「私の家で雇っている使用人だ。妻は病院に置いてきた。その方がいい」と、光美父は短く説明した。光美母はたしかに、力にはならないだろう。
「はじめまして。私、峰島家に仕えさせていただいています、頼木深雪です」
ポニーテールでスレンダーなスーツの女性はヨリキミユキというらしい、酸素が頭に回っていない。
「……なんて……?」なにやら短い時間に新事実やら人物が出てきた。僕は呼吸を整える。
「光美ちゃんの世話係だよ」と横から補足説明を受ける。「代々続く大地主だって。その娘が光美ちゃん」夕は少し呆れている。「走って間に合うわけないのに」確かに。
「それは、まぁ分かった。それより、これからどうすればいい?」
「とりあえずはGPSが示す栞守市の橋まで行きます。光美様が発見出来なかった場合、付近を捜索します」と、瀬木深雪さんは淡々と述べた。
「完璧に事件とは言えないから、警察には通報してもなぁ、なにより、なんにもないことを祈るしか……」光美父は項垂れているが語気は怒りをはらんでいる。夕はよく見ると、震えていた。かなり急いでいたのだろう。夕も上着を羽織っているだけであとは全部患者服だ。僕も体が痙攣している。恐さが、無意識に時間稼ぎをしていた。沈黙の中、こうしている間に別の誰かが解決してくれたという報告を待っていたのだ。
「娘に何かあったら、私は……」
光美父は白髪混じりの髪をかきあげ頭を抱える。
「……」
夕は羽織っていた上着に腕を通し、ボタンを留める。
ぎゅっと掌の皮膚が白むほどの強さで握りしめ、さっきまでの震えを殺して見せた。
020
僕らを乗せた車はGPSで示される地点、つまり橋の上で止められた。可能性は薄いが、光美ちゃんをここで見つけることが出来たら、一番いい。笑い話に出来るだろう。
名前の無い、川を越えるためだけの橋。
下には小川と石と雑草だけがただあるだけだった。
橋の歩道と車道の境目、小さな段差の角に傷付いた携帯電話が捨てられていた。
携帯電話だけが、置かれていた。
やはり光美ちゃんはいない。そんなことは知っている。やはり、栞守第二高校だと思うが、もし違う場所だとしたら対処出来ない。
ここから先の道を行けばすぐ、高校の敷地になる。
車に再び乗り込み、高校前まで移動する。本当は全員で向かいたいが、保険として、手分けして捜索することになる。この栞守第二高校は物置小屋と体育倉庫があり、また、校舎の門扉は閉じている。
四人。
地域周辺を効率的に回るならやはり二人ずつ、物置小屋と体育倉庫と校舎裏方向を分断することになる。夕や頼木さんを一人にしたら、被害が増える可能性がある。
「全員バラけて捜索します。私はこのまま体育倉庫を捜します」
頼木深雪は至って冷静に言う。
「私は物置小屋へ行こう」光美父。パワーバランス的に夕は光美父と同行。僕は頼木さんに付く。
やはりこうなる運命。残るは第二高校方面。僕は腹をくくるつもりで、あるいは観念して、やけくそになって。
「頼みます。ここにまた集合で」と、一言告げて走り出した。僕は自分がなにを話しているかも認識できていないままに、取り繕って話しを続けて切り上げた。走り出したときには何時に戻ればいいのかも忘れて、何処に集合かも覚えておらず。引っ張られるように、第二高校へ向かって走っていた。
興奮というより、もう吹っ切れて、意識混濁として。頼木さんが後ろから追いかけてくることも気づいてない。
結局はどうにでもなれというところだ。
僕はどうなってもいい。
光美ちゃんが助かるためには、犠牲が必要だとしたら、僕でいい。
考えれば嫌になる。ので考えない。振り払うように首を振り、走るペースを少し上げた。
もしかしたらヒーローになれる気がして。前にそんなこと考えたっけ?僕は笑いを堪えずにはいられなかった。
021
自分でもビックリするくらい走れた。いっそ清々しく、これから殴られようと、何をされても、光美ちゃんを救い出せる気がした。
第二高校の校門を越えて、グラウンドに向かう先、開けたグラウンドを見渡すと、黒いボックスカーがプールの入口前に駐車されていた。
プール?体育倉庫ではない、物置小屋でもない。とにかく発見した。頼木さんは気付けば後ろにいて、物置小屋へ向かった光美父と夕に電話をしている。
下を見ると、僕の足元からタイヤの跡が延びている。
そのタイヤの跡が新しいかとか、そんな事は正直分からないが、事件発覚から、僕がここに到着するまでの時間は、校舎の壁の時計を見る限り約47分。小走りにプールの入口に近付く(ボックスカーも確認したが光美ちゃんは居なかった。車椅子が畳まれていて、ゾッとした)。
最善を尽くしたと思う。
怖じ気づきながらも、迅速だったと思う。
静かにプールに近づく。男子更衣室も、女子更衣室も静かだ。厚いコンクリートに囲われて、多少の防音なら可能なのだろう。心臓が早鐘を打つ。男子更衣室から、不意に、男の声がする。
暴力的で若者臭く、のっぺりした声が、僕の神経を逆撫でして、イライラした。相手は扉の向こう、何人居るかも分からない。
でも、そんなことは関係なかった。
『******』
光美ちゃんの声がしたから。
どうやら猿轡をされているらしい。声は言葉ではなく、呻き声みたいだった。
僕は携帯電話の発信ボタンを一回だけ押して、それが警察に繋がったことを確認し、扉をこじ開けた。
勢いよく扉は開かれ、コンクリートの壁に叩きつけられる。不用心にも、幸いにも、カギが掛かっておらず、……どうやら不良がいつでも出入りできるためにカギは壊れていた。
睨み付けた扉の向こうの光景は、うんざりするほど腹立たしいもので、嫌悪どころか殺意が込み上げるものだった。
『は?誰*コイツ』『意味わ**ね』
二人組。性欲が発酵したような臭いが不快な熱気となり、男子更衣室に籠っている。
フード着用。ガーゼマスク装備。顔はわからないが同年代か、年下か。
そしてなにより。
『******……!』
涙を流しながらこちらを見る光美ちゃん。
その姿は痛々しく、ガムテープの猿轡。両手をビニールテープで滅茶苦茶に縛られ鬱血して、下衆な男の一人に体を預けている。いや、男に捕まっているといった方が正しい。
光美ちゃんを捕まえている男はと言うと、高校が指定していないであろう学生服にフードという服装、未成年の学生だ。光美ちゃんの胸を服の上から撫で回していた。僕が扉を開けてからとっさに胸から手を離したのを僕は見逃さなかった。
「……ッ! ……警察には通報してある。すぐにその子を離せ」声が震えている。しかし怯えを隠し、怒りを強く押し出した声は、自分の声とは感じなかった。
もう一方の男はよく見ると成人しているらしい容姿で、それに気付くと恐怖感がまたも僕を侵す。
そいつは光美のスボンと下着を脱がせ、光美ちゃんの跡地を鷲掴みにして広げ、自分のズボンのファスナーから飛び出している、勃起した汚ならしいそれを、たった今からいれようといていた所だった。
「……!!」
直ぐにその男に差し迫り胸ぐらを掴み、床に倒す。
怒り心頭そのまま馬乗りになり、男にのし掛かり首をギリギリと掴む。男は不意打ちにより頭を床に打ったらしく、苦痛の色を滲ませるが反抗しようと牙を剥く。
『**テェ*ぁ!』
男は直ぐに何かを言ったが喉輪を無理矢理に締め上げてそのまま頭突きをする。
野蛮な害虫だ。
ただ発情する畜生だ。
屋根裏で交尾するネズミとなにが違うというのだろう?
馬乗りの僕のズボンの向こうから、汚ならしいそれが未だ勃起していたのが、どうしても憎くて。あと少し遅ければ光美ちゃんは最悪な状態になっていたんだと思うと……。
コンクリートの床と僕の頭突きに挟まれ、幾度も鈍い音が響く。
ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。
体を揺すり僕を振り払おうとする男。両手は僕の脚と全体重にのし掛かられている。喉輪をする右手の握力を強め頭突きで捩じ伏せる。
『**!***!!』声を出そうとしているのが憎い。
がごん。
「……」
ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。ごん。
ここで学生の男が僕を後ろから羽交い締めにしてきた。
「……!」
馬乗りにしていた男から無理矢理引き剥がされる。その男は軽い脳震盪を起こしたらしく、呻くだけだった。
「……ざまぁみろ」
そのまま引き摺られプールサイドに出る。
『******!!』
学生は叫ぶが、どうでもよかった。学生はそのまま僕を水の張られたプールに投げ飛ばそうとする。僕はあの男に報復できた達成感で、あとはどうなっても満足だった。
しかし、ずるりと、自分でも予期しないことに、服の中で左手が外れた。
学生は盛大に空振りして、木製の左腕を残して僕は奇跡的に羽交い締めから抜け出せた。
僕はそのまま、後ろへ下がる。
学生は僕の左腕が千切れるのを見て、怯んでいたため隙ができる。
携帯をちらと確認して見ると上着の上からイルミネーションが光る。未だ通話中なのが分かった。恐らく電話口から事の顛末が録音されたであろう。向こうから呼び掛ける声が聞こえるが、残念ながら応答する時ではなかった。察してくれるだろう。
僕はただ一言「栞守第二高校に来てください」と叫んで携帯に声が届くことを祈った。どれだけの効果があるかは分からないが、警察の返事を聞く暇がない。もしかしたら、パトカーがもうこっちに向かっているかもしれない。
そう願って。
汚い雨水が溜まっているプール。木製の左腕を武器として持ち替える不良学生。更衣室からよろめきながら起き上がる男。この状況を乗り切るしかない。
僕は二人を睨んだ。鼻からぴすぴすと音がする。光美ちゃんは更衣室の中で無事でいるだろうか。今二人が僕に向かっているということはそうゆうことだ。
想いが通じたのか、その後ろに見える男子更衣室の中の光美ちゃんは這いずって現れた。
しかし、泣きながら何かを訴えていたが、ガムテープの猿轡の性でなにをいっているかわからない。
「ーーー!!ーーー!!」
なにを、伝えようとしているんだ?
『********!?』
べぎん。鈍い音と痺れ。視界のぶれ。痛みが広がる。
「……っ!?」
注意が反れていた。僕の木製の左腕を持った男は僕の後頭部を殴り、僕の頭突きで鼻から血を流してる男はタックルして、鳩尾に入る。
「ぐぇ……」
空気を吐き出された肺からへんな声が漏れる。そのまま僕は藻が生えた汚い雨水が溜まっているプールに落ちる。
逃げる間際、その男の目がこちらを見る。それは、狂気の色を持っていた気がした。
車の扉が開く音。閉じる音。エンジンの音。走り去る音。
あっけなく、逃げていった。
殴って、突き落として、逃げていった。
なんとかプールサイドに上がり、光美ちゃんに向かってよたよたと歩く。
鈍痛を和らげようとお腹を撫でると、ナイフが刺さっている事を知る。目眩を堪えて髪を後ろに撫で付けると、右手には血がべっとりついていた。
遠くにサイレンの音が聞こえた。
022
目が覚める。夜だ。まるで長い夢を見ていたかのようだ。
いつ眠りについたっけ?
場所は病室、カーテンがベッドの形を上からすっぽりと被うようにかかっている。ぼんやりとそのカーテンの皺一つ一つを眺めている。
なんだか色の抜けたオーロラみたいだ。
ところで眠る前の記憶も無い。いつ眠ったのか、こんな夜中に起きたと言うことは、おそらく昼から眠っていたことになる。しかし、昼寝はしない主義の僕が、昼寝?記憶が無いぞ?あるはずだが、靄がかかっているようで。あぁ、ダメだ。くらくらする。また眠りそうだ。誰も起きてこないし、そうだな、また眠ってしまおう。瞼を下ろし、息を一つ吐くと、睡眠前特有の多幸感に包まれ、ゾクゾクと身体を震わせると僕は、再び眠りに落ちた。
それは月面歩行のような、ふわふわとした意識だった。
023
今思えばよく意識を取り戻したと思う。
あの三日前の夜中、つまりは僕の腹部にナイフが刺さって、意識を失ってから数えて27時間後(およその時間感覚だ、実際には縫合手術もあったらしいので、まぁ、それくらい)に、一度僕は起きたわけだ。そこはもう絶対安静の個室で、光美ちゃんも夕も居ない部屋だ。
そしてその次の日が峠だったらしい。峠。とは言っても、ナイフの刃渡りは短く、臓器も大事な部分は無事だった。酷いのはプールの水からの二次被害で、様々な消毒と解毒の処置と抗生物質の投与。そして輸血が足りれば命に別状はない。といった感じ。
だから峠なんて事は少々突飛しているというか、盛られた話しだ。と思う。
兎に角、僕はどうなってもよかったんだ。
そして、どうにでもなってしまっているし。
光美ちゃん。
そう、峰島光美ちゃん。
ただのか弱い光美ちゃん。
僕は平気でも。あんなことがあった……。光美ちゃんはとても大丈夫そうではなかった。らしい。僕はまたも意識を失ってたからそのあとはわからない。
男性不信になってもいいと思う。
なってしまえ。それに足るだけの理由はあるのだ、強くはない光美ちゃんはもっと身を守るべきだ。男性不信になった方がいい。それで僕を嫌ってしまうとしても、何も言うまい。連帯責任だ、あんな男どもと同じ扱いとは、腑に落ちないが、責任とはそういうものも飲み込まねばならないと思う。
先程僕は、絶対安静の個室部屋に居たと言った。
理由は二つ。
光美ちゃんの男性に対しての恐怖と、僕がこうなった責任が光美ちゃんにあると思い込まないよう保護すること。
もう一つが僕の安静と治療のため。
『……君は、傷たらけだねぇ……』術後の経過を診るために僕は二階の外科の先生にお腹を見せると、その男の先生は困り笑いをしながら呟いた。ナイフの傷は浅く広くと言った具合で、僕が倒れたとき、ナイフをプールサイドの床に押し付けてしまい、ナイフは体の右側上部からやや斜め下方へと切り裂いたのだ。その話を聞いて体の力が抜けた。
傷の跡がすごい目立つ。
正直、純粋に凹んだ。身体を傷つけることなく生きてきたのに、まるでお気に入りの服が汚れてしまったようだ。
大体、左腕の跡と、この傷の跡はなんか違う。
なんというか、ナンセンスだ。
凹む。
024
結局僕は、無自覚のうちに多大な迷惑と心配をかけた挙げ句、ケロリと復活(記憶がないのだから仕方ない、四日間点滴と輸血で生きていたらしい。例の夜中もそうだったとのこと)して、いつもの生活に戻る。術後の経過を見せた帰りである。
日常に戻るための、入院生活という、いつもの生活。
はぁ……。
ため息。
病室に戻る道が憂鬱だ。
今日からまた様子を見て夕や光美ちゃんと同じ部屋に戻る予定だと、医師から伝えられた。
憂鬱だ。
ニヒルを気取れる被害者の顔は魅力的だ。
ヒーローの演技は楽だ。
しかし、それらを僕がやるのは気乗りしない。被害者は、それでもきっと光美ちゃんだ。
ヒーローは、ハリボテの演技でやるものでもない。
きっとまだ血が足りない。貧血なんだと、笑って、僕は結局僕らしくあろう。なんて、今のうちにニヒルを演じてみた。
そんなこんなでふらふらと歩きながら、どこまでも白い廊下の、小児科と受け付けへと別れる分岐する廊下の柱。時計を確認する。時計はシンプルで、ⅠⅡⅢとギリシャ数字で表記される銀と白と黒だけのアナログ時計だった。短い針はⅨ、長い針はⅢを指していた。
9時15分。
ということは、夕のリハビリが終わる、というか飽きて止める頃だ、三階に昇る際には、ちょっとリハビリルーム?…相変わらず正式名がわからないに寄ってみるか……。
階段を使うのが、相も変わらず僕のルールだが、やはり貧血で、すでにここまでの道すがら、もうくらくらしている。ちょっと無理かな。エレベーターを使うことにしよう。……なんか、なにかに格好つけて、結局はエレベーターを使っている僕のイメージが作られている気がしないでもない。
僕は本来はエレベーターやエスカレーターを、例えば団体行動中、階段を全員で昇る、あるいは降りることになる場合、よく現れるエスカレータを使いだす奴とかが嫌いだ。
馬鹿じゃなかろうかと思う。
逆に、皆がエスカレーターを使うときも馬鹿じゃなかろうかと思う。
そんなときは一人階段を行く僕である。馬鹿じゃなかろうかと言われる僕である。
大体、階段もエスカレーターもエレベーターも、団体で使うなよな、一般の人の邪魔じゃないか。と、そこまで考えて、今来たエレベーターに乗り込む。
一人だ。
そわそわする。
逆に知らない人がいるとそれはそれでいろいろある。綺麗な女性ならドキドキするし、団体ならイライラする。光美ちゃんなら……。10日ほど前、エレベーターで出会ったのが始まり。
3階のボタンをカチリと押す。ぼんやりと光る3階のボタン。上昇。
瞬間的に重力が強くなったような現象にくすぐったさを感じ、そのあと襲いかかる貧血症状に視界が白くフェードアウトする。
3階についたらしいエレベーター。その上昇からの急停止の流れでそのまま体が無重力のようになる。頭に血がのぼり、貧血が治る代わりに頭が熱くなる。
余計ふらふらになりながらエレベーターを出る。リハ室(リハビリ用の病室。略すと楽だ)までの道はもう知っているし、形勢を立て直してスタスタと歩く。
煙硝子で出来た扉を開けるとやはり夕がいた。
夕は女性の看護士と腕相撲をやっていた。
エキサイティングなリハビリだことで。夕は眠そうな顔なのに、割と行動派であったりなかったり。その腕相撲はどうやら長期戦に発展しているらしく、お互いに悲鳴を上げながらビクともしていない。否、ちょうど真ん中の地点で組み合った手がプルプルしている。
「はぁぁぁ……っ!」
『ふぅぅぅ……ん!』
看護士のお姉さんも割と勝ちにいっているらしく腕捲りした左腕に渾身の力を注いでいる。看護士が左腕を使っているということ、それは夕も左腕を使っていることを意味している。が、夕は両手を使っていた。左腕はまだ力が入らなくて勝負にならない。
『くひひひ……ふん!』
「おわわわ!……っ!」
夕が本気になりすぎて笑顔になっている。あるよね、力みすぎて笑うの。それにより看護士のお姉さんはやや押されている。ここにきて押されている。
『あっ!あっ、あ……あぁ~』
ぺたん。と、看護士のお姉さんの腕が机に触れた。夕が勝った。
『負けた~』夕の左腕が戦力になっているかはともかく、両手を相手に大健闘と思う。
「初勝利!」ニマーッ。
おぉ、はにかんだ、何か懐かしい。落ち着くなぁ。……っていうか、僕の安否をもっと心配しろ。
「あ、黄葉、居たんだ」
「激戦だったな」
「リハビリを続けての初勝利だよ!」
「それもあるけどホラ、この傷みてよ」僕はナイフで刺されたピンク色の縫合跡を見せる。まだ包帯で隠されているが、夕の傷跡フェチはどう反応するのか。
「うわ、いきなり服脱がないでよ」
「えぇー……」冷たいなぁ。
「ほら、ツンデレってやつ」
「あぁ、なんだシンラツか」
夕は少し間を置いて。
「え?……シン……何て?」
「いいよもう」二度言うのも恥ずかしい。「『元気になったの?』とかないの?」
「…………」夕は黙って髪を指先でクルクルして、僕の言葉を無視した。
「……ほんとに辛辣だぁ!」
居たんだっていうより傷んだ!心が!!
辛辣。
「嘘だよ」
「そか」
悲しいぜ。
『夕ちゃんさっきまで貝木君のこと心配してたんだよ』と、看護士のお姉さんが微笑みながら言う。
「ちょっ!ちょっとそんな訳!……っ、違っ!違うから!心配なんてしてないんだからね!」と、狼狽えた後にそんなことを言い始めた。
『ツンデレ!可愛いなぁもう!』囃し立てる看護士。
腕相撲に負けた代わりにささやかな報復をしているらしい。
「違っ!違うって!」耳が真っ赤に茹でられたタコのようになったツンデレの夕は足早にリハ室を逃げたした。
総じてツンデレだった。
一回本人を叩いてから第三者に『裏でデレてました』と報告させる策士!!
夕……末恐ろしい娘!!
025
……なんて台詞を吐いてはみたものの、あんまり足が進まない。
先に聞いた話……いや、まず僕が寝ていた病室は安静室で、前にも、光美ちゃんが脚を切除した際に使っていたんじゃないっけな?そんな場所で寝ていた。
理由は2つ。先程言ったとおり、まず一つめ、もちろん術後であり、意識も在るが、安静にしていた方がいいから。そして2つめ、光美ちゃんが男性に不信感を覚えているから。
一応離していた方がいい。
光美ちゃんが僕を見て『助けてくれてありがとう』と言うのか怖がって叫んだりして、僕の安静の邪魔をするのか。どちらなのかは知らないし、知るよしもないけど。リスクは避けたい。なら隔離しよう。という話の流れを、先程の男の先生に聞いた。
まぁ、安静にしなくてもいいと言う診断(騒げと言う訳ではないが)を受けたので、実践的にいつもの病室に戻ってもいいということになったのだ。
光美ちゃんも安定していると聞いて。
夕には先に戻られたが、まぁ、病室の前で看護士たちが万が一にそなえて集められている予定なので、夕もそこで待っているだろう。ついでに看護士は全員女性で、緊張する!
そういう過激な対応だから、光美ちゃんは安定したんじゃないのか?
悪く言えば、男性を排他したから、安定しているだけで、その反動で、男性を過度に拒絶するかもしれないだろうに。
光美ちゃんが男性不信になってもいいという覚悟はしたが、僕を嫌うとしても受け入れると腹を決めたが、かと言って、傷付かないわけではない。
はぁ……。
026
エレベーターに乗り込んで、4階に向かう。
体はもうすっかり順応して、目眩や立ちくらみは軽いものとなっていた。
扉がスライドしてその向こうに僕を待っている夕がいた。
「病室まではついていくよ」と、努めてクールに、さっきまでの狼狽もツンもデレもなかった。廊下を歩くと、僕らの病室には看護婦が一人待っていた。それとスーツ姿の女性も、ポニーテール。
頼木深雪さんだ。
近付く僕と夕に、深雪さんはすぐに気がついて、迎えてくれた。
「今日は君が光美様と久しぶりに対面すると聞いてね。大事を取って監視……いや、サポートに来ました」
大事を取って監視……うむむ……。やはを光美ちゃんは僕を含めた男性恐怖症という意味か。
「それは……親切にどうも」僕は言う。
「違います、ミユキです」頼木深雪さんは言う。
「それは……深雪さんにどうも……?」
「……うん??」
「……あぁ、そういう意味か、名前を間違えられたかと」つい癖で。と、深雪さん。
シンセツじゃなくてミユキさん。ふーん。へー。
ポーカーフェイスなのに天然なのかな?威圧的な物腰だから、その話題を掘り下げづらいなぁ。
「取り敢えず私は先に入るね」夕はそう言って、病室の中に入っていった。
看護婦は囁き声で「そんなに緊張する必要はないと思うから、頑張ってね」と、激励をしてくれた。
う~ん、緊張……してるか?
まぁいいや。
「実は光美様も、貝木君が助けてくれたこともしっかり分かってるって、言ってたから、心配ない」
「へぇ」
それには普通に喜んだ。護れたんだ。と、あんな形でも光美ちゃんを護ったことになっている。自分では、護れなかったというか、力不足というか、役不足だと感じていた。なにより、あの忌々しい、嫌悪感を隠す努力もしたくない。あの忌々しい男。あの男を頭突き続けていたとき、見ていたのだ。
僕の姿に戸惑い、怯えている光美ちゃんを。
僕は見ていた。
いっそ殺そうとまで、思い至る僕の、純粋な暴力の一部始終を見ていた光美ちゃんは、僕の、おそらく僕自身でも今まで知らなかった爆発的な程の感情の起伏、つまり暴力的な側面を恐がっているのでは?と、思っていた。そういう、どこか自己嫌悪じみた意味も引っ括めての、『男性不信になってしまえ』なのかもしれない。
027
扉が開き、夕が顔を出す。
「入っていいって」短く告げる。
うわぁ、
……うわぁぁぁ!
ここにきて緊張してきた!俄然緊張してきた!
何なんだよ。更年期障害か?
違うか。
「貝木君。ほら、進め」右隣、やや後ろにいた頼木深雪さんが、僕を軽く押す。スーツ姿を見て、監守を連想した。
僕が囚人で深雪さんが監守。これから牢屋に収容される。……っていうか、敬語じゃなくなってる?いや、年上だから当然何も言わないし、不満でもないけど。
「どうした?光美様を待たせてどうする。ほら、進め」ずいずい。
「ぁあ、歩きますから、押さないで下さい」
「ここに来て緊張?」僕の所に寄ってきた夕が笑っている。続けてダサいねとか、笑顔で言うんだろうなぁ。ニマーッ。って。
よし!腹を決めた。
久しぶりの病室。その向こうの光美ちゃん。
緊張っていうか、普通に恥ずかしい。味方(男性)が居ないから緊張しているだけだと思う。そうだ。僕以外に男性が居ないからだ。
光美ちゃんがあの時怯えた顔をしていたのが、また、脳裏を霞める。いや、リアルで体験しているかのように脳内で男子更衣室の出来事を再生している。昨日の今日みたいに。
眠っていた五日間の記憶はないもんな。本当に昨日の今日だよ。こんこんこん。
ノック3回。ん?2回がマナーだっけ?トイレが2回で部屋の扉が3回ノックだよね。
なんて律儀に。
このまま面接でもしてやろうか。やらないけど。
「……光美ちゃん?入るよ」
「……は、はひっ!」扉の向こう、奥から声がする。裏返った声が。光美ちゃんの異様な緊張を察して、僕はすごく和なざるを得なかった。
可愛いやつめ!
028
最初の頃は僕が病室に入ると光美ちゃんが居て、こっちを見ながら、いかにも偉そうに足を組んでいたな。挙げ句には『遅いです』と吐き捨てていたのに。今ではこんな、『は、はひっ!』なんて、想像できない。
人は変わるもんだ。
何かを手に入れたり、何かを無くしたり。なんてよく聞く話だが、まぁ、かいつまんでしまえば、その通りだ。
果たして僕は、光美ちゃんに再び受け入れられるのか?
光美ちゃんは僕を手に入れるか、僕を無くすのか。選択権は僕ではなく光美ちゃんにある。
だから僕はどうなろうと、辛かろうが、痛かろうが受け入れる。
さぁ、さすがに覚悟も決まった。
時間を取ったなぁ。
「やぁ、久しぶり」クールに、それでいて心音を隠すように、脈から溢れだす血流の音を隠すように、息を押し留めていた。その性で声が裏返ったかも、と、しかし幸いにもそれはなかった。
「ひ、久しぶりです……」顔が赤い。目線はちらりちらりと反れては掠めるばかり。
ふむ。
男性不信、予備軍。みたいなところかな?
「あのっ」
「ん?なに?」男性的な言葉を避けて会話をする。『なんだ』とか、『~ぞ・~だ』は使わない。なんか恐がりそうだから。
「……あの、ですね……」その……えと……ですね。
かなり歯切れが悪い。光美ちゃんじゃなかったら見捨てるレベルだ。酷いヤツだ!とか言われても関係ない。光美ちゃんが可愛いから。という理由が僕にはしっかりと成り立つのだ。
「落ち着いて……さ、ちゃんと聞くから、待ってるから」そんな僕の言葉を聞いて、ゆっくりと光美ちゃんの口が言葉を生産する。
「あの時はありがとうございました。私、黄葉お兄さんが来てくれなかったら、あと1分……いや、10秒遅れてたら……きっと壊れてたと思います」
そんなに危機迫っていたのか。うん。あの忌々しい男は危機として光美ちゃんに迫っていたな。
「だから、お礼が言いたくて、でも、恐かったんです。今も、私は」
ちょっとだけ怖いです。
助けてくれたのは嬉しかったです。身を呈して私を護り、ナイフで刺されたときも、嬉しかったです。私を助けてくれた。
私は助かった。
黄葉お兄さんは身代わりになって倒れた。
私は、黄葉お兄さんに恨まれているんじゃないかって、私は助かったけど、黄葉お兄さんは怪我をしたんですから。『助けなきゃよかった』なんて思っているんじゃないかって……。
どんどん、黄葉お兄さんでさえ、信じられなくなってきて……なんて言えばいいんでしょうか?
あの……ですね、その……えっと……。
「信じて、いいですか?」
029
拙くても切実であるがゆえに、分かりにくい言葉の中で鮮明に伝わるメッセージ。光美ちゃんは自信の葛藤を赤裸々に、剥き出しに、裸になり。唱っていた。僕が黄葉お兄さんとして、その他の男性とは別の、特別の、待遇を受けているのは。
それでも僕は他の男性と違うと信じたいのだろう。
……信じて、いいですか?
信用される。嬉しい。
嬉しいからと言って、信じさせるのは安直だ。
僕は、せめてより安全に信じていて貰いたい。
ようは、過信して欲しくないのだ。裏切られる準備をされたくないのだ。
僕は「期待はするなよ。いつも通りの僕だけを信じてくれ」と、男らしい口調で言ってみせた。伝わるかな。
別に光美ちゃんが教養のない人間だと馬鹿にしているつもりはない。ただ伝わりづらいと、思っただけだ。
信じるけど期待はしないという生き方。相手に高いハードルを飛ばせない生き方。信じていると、いつの間にか信頼は信用に変わり、期待される。期待に応えることが出来たら、高い信用に変わり、取引や会社のように利益を得る。そして、更に強い期待をされ、応えることを強いられ始める。
いつかは応えられなくなる時がくる。それは、相手を裏切るということになる。一方的に。
僕はきっとそんなに頑張れない。だから、期待しないでいてほしい。
いっそ、裏切りの瞬間を待っているくらいが、一番だ。傷付かないから。
「今までの僕を信じて。僕は光美ちゃんを裏切ろうなんてつもりはないけど」
「……歯切れが悪いですね……」えへへ。
光美ちゃんは控えめに笑う。
確かに、僕の方がよっぽど歯切れが悪かった。
「保健をかけて、予防線を張って、男じゃないなぁ」
光美ちゃんの隣に座る夕がはぐらかす。僕は気取ってこう答える。
「それはいいな、光美ちゃんも気が楽だろう」男じゃないんだから。さ。
「片腕さんは私に乱暴したことはありませんし、信じてます」と光美ちゃんは笑う。
あの時キスしていたら、もしかして未来は違っていたのかもと、僕は苦笑する。
030
産まれながらに美しい。アヒルの子がいたとしよう。醜くないという理由で、アヒルはアヒルのままに、アヒルのうちに襲われるリスクを持ってしまう。護られるに足る理由をもつ、まるでお姫様のような、アヒルの子は、飛べない。
保護を受ける。飛べないアヒルの美しさといったら、それだけで護られる理由になり、然して、それだけで襲われる理由にもなりえる。
光美ちゃんの平和でありふれない日常は、ここで一度、締め括ろうと思う。
彼女もまた、数多くの鍵を手にして、楽園を垣間見ることの出来るイレギュラーであることを最後に報告させてもらうとする。
僕らの楽園はまだ終わらないけど、光美ちゃんの後日談は文末、つまり話の終わりをもって、物語としての終わりを向かえようと思う。
廻る木馬と踊る姉妹
いかがでしたでしょうか。『落ちる黄葉の楽園』の続編『廻る木馬と踊る姉妹』。
冒頭で書かれたとおり、何か感じたものがあればうれしいし、何も感じないでも僕は概ね満足。
次は落ちるところまで落ちる物語。