払拭。

 僕は小さい頃、走ることが苦手だった。
 周りのみんなは軽やかに駆け抜け、横から追い抜く時は、まるで風のような気さえしたものだ。
 
 僕が少し大きくなる頃、走ることに嫌気を感じた。
 周囲は段々と身体がしっかりとしてきて、一回り小さい僕はからかわれた。遅い駆け足を見せる度に、陰でひそひそ笑に種にされているんじゃないかって、勝手に考えてた。
 
 僕がもう少し大きくなって、走ることから遠ざかった。
 別に無理して走らなくたっていいじゃないか。他にも何か良いものがきっと見つかるさ。そう考えるようになって、少し楽になった。

 僕がもう小さいと言えない頃、すっかりと走ることから逃げ出した。
 言い訳に言い訳を重ね、走ることからはっきりと逃避していると自覚して、僕は僕に落胆した。逃げたって良いことは何もない
。そう実感して、僕は辛くなった。

 僕が今よりもまだ幼い頃、僕は走れなくなった。
 走れない。走ろうとしても足は動かない。走ることを身体が拒否し、心が拒絶する。僕はすっかりと走ることが怖くなってしまった。

 僕が今よりも少しだけ幼い頃、走らなければならなくなった。
 僕は走らなければならない。僕は走らなくちゃいけない。僕が走らないと駄目なんだ。僕以外に走れる人間はいない。代わりはいないんだ。

 僕が昔よりもほんのちょっとだけ成長した頃、僕は足を動かし始めた。
 ゆっくりと足を踏み出す。今はまだ立っていられるだけ。爪先一つ分。踵一つ分。少しづつ、ちょっとづつ歩き出す。今はまだ慣らし運転。忘れた走るという感覚を思い出す、ただそれだけ。今は我慢。今は我慢。今は我慢。

 そして今。
 僕は腿を大きく持ち上げる。腕を続け様に振り上げて、勢い良く地を蹴った。身体は地面に向かって倒れ込み、倒れ切らない様に手脚を入れ替える。
 交互に。
 交互に。
 交互に。
 身体が千切れるくらいに捻り切る。酸素は肺から絞り出されて息苦しい。心臓は周りの筋肉に圧迫されて、僅かばかりしか血液を押し出せない。だからきっと、頭が酩酊しているんだ。
 全身から汗が噴き出る。耳は風音で何も聞こえない。空気の壁が僕を押し返す。切り裂くように、手を大きく振り抜く。彼らは、この中を駆け抜けたのか。
 ああ。
 走るのって楽しい。
 僕は走ることが好きなんだ。
 今まで嫌っていたことが馬鹿馬鹿しく思う。
 どくんどくんと、捩れる身体を無理矢理戻すように、力強い鼓動が胸の奥から沸き立つ。血がどんどん血管の中を駆け巡り、酸素を運び、筋肉に力を与える。まだ走れる。足は止まらない。腕だってもっと高く振れる。今まで走らなかった分を今ここで。
 僕は一歩。また一歩。地面を蹴り上げる。汗が額を伝って眼窩に垂れる。目が沁みて、涙が汗を外に流した。空が眩しい。青空が澄み渡っている。流れる風景が愛おしい。
 ゴールは近い。
 僕は走り切るよ。
 まだ終わらない。
 こんなところじゃ終わらない。
 終わることが勿体無いくらいだ。
 喉を震わせ、肺を震わせ、身体を震わせ、声を震わせる。
 僕は今走っている。走っているんだ。
 それを今、伝えたい。
 みんなに伝えたい。
 君に伝えたい。

払拭。

払拭。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-03

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