変わり者の二人 第三稿
学校の文芸コンクールに入選した作品です。
ごとん。
秋の夕日に染まった廊下を急いでいた僕は、だれもいないはずの空き教室に人の気配を感じて立ち止まった。何か重いものを置く音が、かすかに聞こえた気がしたのだ。
僕は昔から人よりすこしだけ好奇心が強い。今日もこんな空き教室で一体だれが何をしているのかがどうしても気になってしまい、ちょっとだけ覗いてみることにしたのだった。
鍵の壊れたスライド式の扉を細く開き、そのすき間から中を伺う。埃の積もった机や椅子を通して、誰かがしゃがみ込みごそごそと動いているのがかろうじて見えた。目を凝らすと、机の隙間から安っぽい道具箱のようなものがあるのが分かった。
今度はことん、という小さな音が響いた。机の下から伸びてきた手が、赤い柄のごついドライバーをひとつ机の上に置いたのだ。その手は道具箱を探ると、透明なプラスチック容器を掴んで再び机の下に消えた。
僕は謎の人物が見えないのがもどかしくなり、ゆっくりと扉を開けてみた。立て付けが悪いせいか、扉はつっかえつっかえしながら少しづつ開いてゆく。思わず手に力が入り、扉が小さな音を立ててしまった。机の影の人物が手をとめ、立ち上がろうとする気配がする。僕は素早く扉から手を離し、扉の外側にしゃがみこんだ。
息を潜めて教室の中の様子を更に伺う。中の人物はしばらくこちらを伺っているようだったが、結局気のせいだと思ったのか、しばらくすると再び何らかの作業をしている音が聞こえてきた。僕は安堵の溜息をつくと同時に、今度こそ音を立てないように気をつけながら再び中をのぞき込んだ。
中の人物は立ち上がった時に体勢を変えていた。腰ほどもある長い黒髪と、丈の長い紺色のロングスカートが見える。誰も来ないような空き教室で作業をしていたのは女子生徒だった。彼女が先ほど机の上に置いたはずの赤い柄のドライバーは既にそこには無く、彼女はそのドライバーを手に机を覗きこんでいるようだった。
ここは壊れた机や椅子が集められている空き教室だ。ドライバーを持ってこの教室で机に向かっているということは、彼女はきっと壊れた机を修理しているのだろう。厚生委員の仕事だろうか? いや、そうだとしてもなにも一人でやることはないし、もうすぐ下校時刻になる。委員会の活動時間はとうに終わっていていいはずだ。それなのに、彼女はなぜそんなことをしているのだろう。僕は自分の鼓動が速くなるのを感じた。好奇心が鎌首をもたげ、思わず教室の中に一歩踏み出したくなる衝動に狩られる。声をかけようか、どうしようか……と悩んでいる間に、その少女は机の修理を終え、立ち上がって片付けを始めてしまった。道具箱を机の上に広げ、ネジなどを入れる透明なプラスチック箱や先ほどのドライバーを次々としまっていく。今を逃したら声をかける機会は来ない、そう思った僕はついに音を立てて扉を引き、空き教室に踏み込んだ。
少女が少し驚いた表情でこちらを振り返り、僕は初めて彼女を正面から見た。首の動きにわずかに遅れて宙に舞った黒髪が、色白な頬にかかる。軽く見開かれた目はまるで僕を射通そうとしているかのように鋭く、僕は無言で糾弾されているかような錯覚に陥った。それと同時に、僕は彼女をどこかで見たことがある気がした。それも幾度と無く、毎日のように。しかし、彼女が誰なのかは全く思い出せなかった。
僕が言葉を口にする前に、少女が口を開いた。
「私に、何か用なの?」
少し高めの声。僕はそのそっけない言葉にあわてて答えた。
「いや、用があるわけじゃないんだ。……ただ、こんなとこで何をしてるのかなって思って」
僕の間抜けな問いに対し、少女は道具箱の脇のドライバーをこちらに見せながら答える。
「見て分からない? 机の修理をしていただけ。あなたこそ、何をしているの? もうすぐ下校時刻じゃない。こんなところで油を売っている暇はないと思うよ」
僕は時計を見た。下校時刻まであと五分もない。下校時刻を過ぎると生活指導のおっかない先生に怒鳴られるはめになるだろう。それはぜひとも避けたいところだ。しかし、それでも僕の好奇心はどうしても収まってくれなかった。
「僕は日直で片付けが遅れて帰る途中だったんだけど、この教室に人がいるのが珍しかったものだからつい気になって。それ、厚生委員の仕事?」
「違う、厚生委員がするのは掃除だけ。補修とか、そういうのは含まれていないわ」
「それじゃ、なんで修理なんてしてるの? 先生に頼まれたの?」
「先生は私がやっていることは知らないはず。この教室の机は処分予定だ、ってこの前言ってたから。他の机が壊れる度にここの机で使えるものを探せって言ってるのにね」
「それじゃ、なんで……?」
僕の言葉に対し、彼女は鋭い目で僕を見据えた。僕は思わず身をすくめてしまった。
「どうだっていいでしょ? あなたには関係ないんだから」
僕が次の言葉を放つ前にチャイムが鳴り響いた。目の前の少女はしかめっ面でスピーカーをひと睨みすると、ため息をついて僕を非難がましい目で見た。
「どうしてくれるの? あなたが声をかけたから下校時刻過ぎちゃった」
「ご、ごめん。」
「まあいいわ。下校時刻過ぎるのなんていつものことだし。ほら、さっさと行きましょ、先生に怒られに」
少女はスカートの裾をひるがえすと、僕の横を通り抜けて昇降口へと向かって行ってしまった。僕は空き教室を一瞥してから早足で彼女の後を追いかけた。
結局、生活指導の先生に怒られたのは何故か僕だけだった。一体どうやって先生の目を盗んで帰宅したのかも含めて、結局彼女については何も分からなかった。
そんなことがあってから僕は彼女を校内の様々な場所でよく見かけるようになった。散乱したゴミを片付けているところや、朽ちかけのベンチの飛び出た釘の先を潰しているところ、靴箱の上に置きっぱなしの雑巾を撤去しているところ、なくなった石鹸を新しく換えているところ。誰もが一瞬不快に思い、そしてすぐに忘れていくごくごく小さな問題を、彼女は解決して回っているようだった。
彼女はまるでずっと同じ事を繰り返しているような慣れた手つきでそれらを行なっていた。実際慣れているのだろう。僕が彼女に感じた既視感は気のせいなどではなかったのだ。僕は、いや、僕たちほとんどの生徒は彼女を意識して見たことがなかっただけで、彼女はいつもそうやって皆が快適に生活できるようにあちこちを整備して回っているに違いなかった。
朝に詰まっていた流し台は昼休みには掃除されていたし、自販機の周囲に散らばった空き缶は放課後までにはなくなっていた。僕たちはそれが当然だと思っていたけれど、それはずっと彼女がやっていたことだったのだろうか?
好奇心を抑えきれず、僕はまた彼女に声をかける。
「ねえ」
「なに?」
前回と同じくそっけない表情で振り返る彼女の手に握られているのは雑巾だった。体育の授業の後なのか、あるいはわざわざ掃除のために着替えたのかは分からないが、彼女は紺色のジャージを着ていた。それだけではなく薄手で渋染の日本手拭いを頭に巻いている。
彼女は拭いていた窓から一旦離れ、床においてあったクレンザーを手に取った。僕の方を見たのは一瞬で、粉状のクレンザーを雑巾に吹きかけるとすぐに窓拭きに戻る。
「昨日詰まってた流し台を掃除したのって、君なの?」
僕の台詞が予想外だったらしく、彼女は一瞬焦り、言葉に詰まったように見えた。その証拠に、次に彼女の口から放たれた質問は少し早口になっていた。
「なんで私だって思ったの?」
「用務員のおじさんに訊いたらやってないって言ったから、君がやったのかなって思ったんだけど……」
彼女は一瞬こちらを見たけれど、すぐに目を逸らして雑巾をバケツに突っ込み、こちらを見ずに雑巾を洗いながら答えた。
「そう。あれは私がやった。最近、用務員さんは壊れたロッカーを直すのに忙しいから。なにか問題あった?」
「ううん。昨日使おうとして困ったから、掃除してくれたならお礼が言いたくて」
彼女は雑巾を固く絞ると、再びクレンザーを含ませてから僕に手渡した。
「礼なんていうくらいなら手伝ってよ。けっこう大変なんだから」
「わ、わかった」
僕は彼女から受け取った雑巾を手に取り、となりの窓にとりかかった。横目で彼女を見ると、彼女はバケツを持ってさっさと歩いて行ってしまった。
窓を拭きながら僕はいろいろなことを考えた。まず最初に考えたのは窓を拭くのが意外に重労働だということだ。疲れる。次に考えたのはなんでこの窓はこんなに汚れているのだろうかということだった。一体何ヶ月掃除をしていないのだろう。最後に考えたのは、なんで僕はこんなことをしているのだろうということだった。なぜ僕は名前も知らない少女の手伝いでこんな重労働をしているのか。それよりなにより、なぜ彼女はこんな面倒なことをずっと続けているのだろうか。
窓の向こうでたくさんの生徒が校門を通って下校していく。傾いてきた太陽が空を赤く染め始め、強烈な西日が窓に当たり汚れを際立たせる。眩しさに目を細めながら、僕はより鮮明になった汚れを躍起になって落とし続けた。
次の窓に取り掛かろうとして、僕はすでに全ての窓を掃除し終わっていたことに気づいた。雑巾を見ると真っ黒に汚れている。床におかれたクレンザーの容器も少し軽くなった気がする。一歩下がり、僕はちょっとした達成感に浸りながら自分の成果を見つめた。
「お疲れ様」
急に後ろから掛けられた声に驚き、驚いて振り返った。僕に声を掛けたのは、他でもないあの少女だった。
「ありがと。あなたが手伝ってくれたから流し台も掃除できたよ。……ねえ、なんで手伝ってくれたの? 確かに私は手伝ってって頼んだけど、当然断ると思っていたよ」
僕は意味もなく宙を仰いだ。彼女の質問に対する明確な答えを持っていなかったのだ。
「なんでかな。君がなんでこんなことをしているのか知りたかったからかもしれない」
少女なきょとんとした目で僕を見た。強い眼差しが不意に弱まり、厳しそうな印象が薄れる。
「そんな理由で? 窓拭きって大変でしょ? なんでそこまでしてそんなことが知りたいなんて思ったの?」
「好奇心だよ、ただの好奇心」
彼女は呆れたようにため息をついた。
「そう。で、分かったの? 私がこんなことをしている理由」
「いや、さっぱり。……ねえ、なんでこんなことしてるの?」
少女は僕の手から雑巾を奪い、バケツの中に放り込みながら答え始めた。
「この学校は他の学校よりかなり大きな規模だっていうのは分かってるよね」
僕は無言で頷く。彼女は僕をちらりと見てからクレンザーの容器もバケツに放り込み、続けた。
「それなのに清掃時間は一日にたった十分だから汚れはどんどん溜まっていく。それだけじゃない。用務員さんは一人しかいないし、備品にかける金も少ない。当然備品は質の低いものが集まるから壊れやすいのに、直す人が一人しかいないんだから手がまわらないのよ。それで、ずーっと壊れたままなわけ」
僕はあの空き教室のたくさんの備品を思い出した。左右二本づつのナットのひとつが外れてしまい、座るとがたがたするようになってしまった椅子や、机の脚の先を覆うゴムが外れて床を傷つけてしまいそうな机。穴が開いた黒板消しや、ネジが外れた実演用の大きなコンパスなどもあった。簡単に直せそうな壊れ方のものも多いのに、直す人もいないから積み上がったままなのだ。
「それで、しょうがないから私がやることにしたの。それだけ」
「え……でも、なにも君がやらなくてもいいんじゃ……?」
「いろんな所に言ったんだけど、みんな私の言うことなんて聞いちゃくれないのよ。清掃時間については委員会の意見箱に投書したけど、授業時間の関係でこれ以上の時間は割けないって。備品の方も同じ。新しいのを買うから放っておけっていう話だけど、新しいのだってどうせ安いのしか買わないんだからすぐ壊れるに決まってる。ゴミ処理にだってお金がかかるし、それに回す予算なんてないから、また空き教室に積み上げるだけ。結果的に空き教室がちょっと壊れただけの机とか椅子とかで埋まっていく、それじゃなんの解決にもならないなんて分かりきったことなのにね。『備品にもっと予算を回してください』って投書したこともあったけど、貼りだされた返答は『前向きに検討します』だけだった。いつまでたってもそれ以上の回答がないんだから、私がやるしかないのよ」
彼女はため息をつきながら、しばっていた髪と頭に巻いていた渋染の日本手ぬぐいを解いた。手ぬぐいで押さえつけられていた黒髪が宙に舞う。彼女はその手ぬぐいを畳むとヘアゴムと一緒に例の道具箱にしまった。たしかその道具箱には釘やネジなどの消耗品も入っていたはずで……
「道具代は?」
「自腹よ」
僕はさすがにおかしいと感じた。この少女はなぜそこまでしてこの学校を整備しようとするのだろう。抑えきれない好奇心が僕の口を再び開かせた。
「おかしいよ、そんなの。だって君ばっかりが損してるじゃん。そこまでしてこの学校のために頑張る理由ってなんなの?」
「なんだっていいでしょ、そんなの。あなたには関係ないんだから」
「そりゃそうかもしれないけどさ。気になるじゃん」
彼女は一瞬戸惑い、視線を僕に向けた。僕はその目をまっすぐに見つめた。彼女の鋭い視線が僕を射抜いたが、僕は以前のように怯んだりはしなかった。
先に目を逸らしたのは彼女の方だった。少し間があってから、彼女はゆっくりと話し始めた。
「まあ、大した理由でもないし、別に教えてもいいけど。……この学校、私の父さんの母校なの。ずっとここに憧れて育ってきた。それなのに、いざ入ってみたら、なんか違うの。違和感があるのよ。父さんが楽しそうに教えてくれた、父さんが学生だったころの学校と、ぜんぜん違うの」
先ほどの僕と同じように、彼女も言葉を探すように宙を仰いだ。
「一番おかしいのは生徒会かな。生徒主体の学校を、自治の精神をって言ってるけど、なんか薄っぺらいの。いままで三回くらい意見箱に疑問を入れたけど、まともな回答が帰ってきた試しがないし。私はずっと憧れていたこの学校がそんないやな場所だって信じたくないの。だから、いつか良くなることを目指して、せめて私ができることをこうやっていろいろやってるわけ」
道具箱とバケツを両手に持ち、彼女は立ち上がった。
「私がどんなに頑張ったところでこの学校を変える力なんてないから、こうやってできることを続けるしかないの。それじゃ、私はもう行くね」
去ろうとする彼女の後ろ姿に、僕は呼びかけた。
「ねえ、また手伝ってもいい?」
彼女は振り返ることもなく答えた。
「好きにすれば? 私に止める権利はないんだし」
それから僕は見かける度に彼女を手伝うようになった。詰まった流し台の掃除をしていればバケツを持ってきてあげたり、ゴミ拾いをしているのを見ればゴミ袋を持ってきてあげた。壊れた机を空き教室に運んだ時は『未修理』の紙を貼って分かりやすくしたし、調理実習の後片付けの手伝いもした。
そして、『手伝ってあげる』という意識がいつの間にか『手伝う』だけになっていった。僕はいつしか彼女の真似をするかのように、自分から様々な整備をするようになった。
ゴミが散らばっていれば片付ける。石鹸がなくなっていれば新しいのを持ってくる。ゴミ箱がいっぱいだったらゴミステーションに運ぶ。
そして、そのうち彼女のほうも僕を手伝うようになった。二束のダンボールの資源ごみを運んでいれば無言で一束奪ってゴミステーションに運んでくれたし、枯葉を掃き集めていればゴミ袋を持ってきてくれた。図書館で机に置きっぱなしの本の山を本棚に戻していた時は、いつの間にかやってきて山の半分を片付けてくれたこともあった。
しかし、それでもそれだけだった。僕と彼女の二人ではできることに限りがある。直すべき問題点は至る所にあり、僕たち二人だけでは太刀打ちができなかったのだ。なんとかしたい、でもなんともできない。このもどかしさを共有していた僕と彼女は、この状況を打破するために様々な手段を講じた。ゴミ箱の側に張り紙をしてゴミをきちんとゴミ箱に入れるように呼びかけたり、図書館の机に本を棚に戻すよう呼びかけるように書いて置いておいたり。
改善はされなかった。張り紙は剥がされ、代わりに生徒会の掲示板に新しく一枚の紙が張り出された。『張り紙を貼る際には生徒会本部への申請が必要です。申請のなかった張り紙は生徒会会則違反として撤去させていただきました』
僕はあまりの怒りに自分の足元が震えるのを感じた。この張り紙を剥がした人は校則違反を取り締まっただけなのだということは重々承知だったけれど、僕は理不尽さを感じずにはいられなかった。
もちろん僕はその足で生徒会本部に向かった。今度はきちんとした申請の上で張り紙をするために、そしてまた彼女が今まで訴えてきた内容は委員会でどう検討されているのかについて聞くために。しかし生徒会本部のトップである生徒会長は、僕の話を聞くと困り顔でこういったのだ。
――清掃の呼びかけを行う行為は厚生委員会の仕事であって、生徒会会則に従い、生徒は各生徒会に競合する活動を行なってはいけないことになっている。また今期厚生委員会では破られて逆にゴミが増えるとして張り紙を行わない方針であるため、この張り紙の許可はできない。備品の予算については今まで匿名で何度か同様の問い合わせを受けたが、厚生委員会は折衝会での予算申請の際にその内容を提出していない。意見箱に関して生徒会本部は各委員会に生徒の意見を伝えることしかしないため、それ以上のことは各委員会の判断に任せるしかない。
だから、僕は行動に出ることに決めたのだ。
「私が、生徒会長に?」
「そう。僕と君だけじゃこの学校はいつまでたってもこのままだ。各委員会の活動は基本的に学校の校風に従う形で方針や予算を提出する。多くの生徒がこの状況への不安感を持てば、それに従って厚生委員会の権限も強くなり、備品に回す予算を増やしたり清掃のための時間を長くしたり、いろんな対策ができるようになるはず。生徒会長は公約として生徒会全体の基本方針を提出して、生徒は基本的にその方針を元に生徒会長を選ぶことになるから、君が備品の問題提起をして生徒会長になればこの学校は確実に変わる」
僕はなんとしてでもこの学校を変えてみせるという強い決意を決め、彼女を探して例の空き教室を訪れていた。僕と彼女は修理したばかりの机を挟んで向かい合い、初めてこの学校について話し合った。思えば、僕と彼女は雑談すら交わしたことがなかった。互いの名前さえ知らないままなのだ。
「なんで、突然そんなことを……? それに、私にはそんなの……」
「張り紙が剥がされてた理由、厚生委員会の方針として張り紙をしないことになってることだって」
「張り紙?」
「そう、張り紙。自販機のゴミ箱とか図書館の机とかに貼っておいたやつ、みんな撤去されてた」
「じゃあ、ゴミステーションに貼ったのが剥がされちゃったのって、いたずらじゃなかったんだ」
少女は悲しげに俯いた。前髪が彼女の顔を覆い、その表情に更なる影を落とす。
「それだけじゃない。僕達の活動は厚生委員会の許可を得ていないから、厚生委員会と競合する活動とみなされるんだ。もし君の活動に対して誰かが辞めろと言った場合、君は辞めざるを得ないんだよ。君がこの学校のためにしていることが禁止されるのは間違ってるって僕は思う。君の提案――一人の生徒の意見が委員会で検討するまでもなく却下されてしまうのなら、その体制だって変える必要があるはずだよ。自治っていうのはそういうことの上に成り立つものだって僕は思うんだ。僕たちが変えるんだよ、この学校を」
僕の言葉を聞いた彼女は、しかし乗り気には見えなかった。
「無理だよ。私は生徒会長なんてできないよ」
「僕が君の推薦責任者になるよ。この学校を変えたいんでしょ? 良くしたいんだよね?」
「それは確かにそうだよ。でも、私は誰かに偉そうに指図するようなの嫌だし。こうやってこつこつ自分にできることをやってくほうが性に合ってるから」
「これまでもずっとそうやってきたんだよね。それでこの学校は変ったの? 君が独りで頑張っても難しいんじゃない? この学校を本当に変えたいなら、生徒会を変えないとどうしようもないんだ」
少女は不意に顔を上げて僕を見た。その目に以前のような鋭さはない。強さを失った瞳が、弱々しい彼女の気持ちを伝えてくる。不安や恐怖……あるいは恨み。様々な負の感情がこもった眼差しに、僕は捉えられていた。
……そんな目で、僕を見るな。
「私にはあなたみたいな行動力はないもん。あなたみたいに、気になったからって言って顔も知らない人に話しかけるような勇気すらない。私はただただ誰の迷惑にもならないように、自分がしたいことをこっそりと続けるだけ」
その小さな口から吐き出された言葉は、僕が信じていた彼女の強さとは程遠かった。
「私にできることは、この両の手がとどく範囲のことだけなんだよ。机を直したり、窓拭きをしたり、そんな程度。これくらいなら許されるかなって張り紙を作ったけど、それも駄目みたい。あなたは私に期待してるみたいだけど、私にはこの学校を変える力なんてないんだよ。だから」
彼女は耐えかねたように言葉を切り、立ち上がった。踵を返すと、一言だけ残し、鍵が壊れたままの扉から走り去る。
「ごめんね」
生徒会長選挙が始まった。僕は数少ない友達の一人に頼みこんで推薦責任者になってもらい、ろくな政策も考えないままに出馬を決めた。僕の友達はみんな、僕が本気で選挙戦に出馬したとは思わなかったようだ。
今回の生徒会長選挙は候補者が一人しかいなかったため、生徒たちは突然現れたもう一人の無名の候補者に驚いたようだった。僕は一気に注目の的となった。どこに居ても誰かの視線を感じたし、居心地が悪くてたまらなかった。
ただただ、がむしゃらだった。僕は一人の少女の、この学校に対する思いを叶えるために必死に働いた。
「この学校の生徒会の現状をおかしいと思いませんか。意見箱は形骸化し、生徒会からは生徒たち一人ひとりの声を聞き届けようとする意思が感じられません。いまこそ、この学校の古き良き『自治』の精神を呼び覚ます時ではないでしょうか!」
昇降口での公開演説で、僕は喉が枯れるまで叫んだ。
「ありがとうございます。ご静聴、感謝します! 私が生徒会長となった暁には、この学校をより暮らしやすくするために、そして、本当の意味での生徒の自治を実現するために、次のような公約を実践することを約束いたします。手元の資料を御覧ください……」
講堂での演説では、備品にかける生徒会予算額の増額と清掃時間の延長といった具体的な改善点も挙げながら、生徒の意見がより学校に反映されやすい体制づくりを目指すことを話した。
「そんな政策で、廃れてしまった『自治』の精神が私たちの手に戻ってくると思っているのですか? あなたの掲げる公約の『自治』では生徒一人ひとりの意見を学校全体に反映させることはできません!」
公開討論会で、僕は『自治』の観点から対立候補の演説の矛盾点を必死に言及した。
そして……選挙当日。
無効票含め、投票率82.9%。僕の得票率、30.4%。対立候補の得票率、49.6%。
結果は、惨敗だった。
僕は再び空き教室で彼女と机一つを挟んで向かい合っていた。
「無理、だったよ。あはは、あそこまで得票数に差がでるとは思わなかったな。なにがいけなかったんだろ」
自嘲気味に笑う僕を、彼女はいつかと同じ、鋭い目で見つめた。鋭い視線の中に、僕は優しさを感じた。
「あれじゃ無理よ。あなたの言うことは確かに正論だったけど、普通の生徒にとっては得するところなんてないもん。ただでさえ少ない部費を減らされるだけじゃなくて、苦痛でしかない清掃時間を増やされるんだよ?」
「苦痛、かなあ。僕は楽しかったけどね、君と一緒にいろいろするのって。言葉を交わしたことなんてほとんどなかったけどさ」
彼女は嬉しそうに笑った。初めて彼女の笑顔を見て、僕は思わずあっけに取られて彼女を見つめた。ひとしきり笑うと、彼女はすっくと立ち上がった。
「やっぱり、私には私ができることを続けるしかないんだよ。さあ、今日中に机を三つ、直しちゃおうよ。はい、ドライバー」
僕は彼女に手渡されたドライバーを見つめた。無骨な赤い柄のNo.1ドライバー。間違いなく、僕が初めて彼女と出会った日に彼女が握っていたものだった。
僕と彼女は、無言で机の修理に没頭した。傾いた日差しが汚れた窓を通して降り注ぐ。沈黙が心地よかった。この空間だけは、僕と彼女が卒業するまでずっと変わらないんじゃないかとすら思えた。でも、全ては変わりゆくのだ。彼女が僕を変えたように、彼女を中心にこの学校は変わり始めていた。ただ、僕がまだ気づいていなかっただけだったんだ。
扉を開く音が響いた。僕と彼女が驚いて振り返ると、そこには二人の少年と一人の少女が立っていた。
「私たちに、何か用?」
僕が言葉を口にする前に、彼女が口を開いた。
彼らは、僕の演説を聞いて今までの備品管理や清掃体制に疑問を持ったのだと話した。
二人は五人になった。活動範囲も広がったし、お金を持ち寄ることで少し高額な工具も揃い、直せる備品も増えた。
新生徒会長は理解のある人で、僕のことを生徒会選挙で共に戦ったライバルとして認めてくれた。彼は僕たち五人の活動のことを知ると、すぐさま部活動として申請することを提案した。なんの目標もない部活なのだから本来承認されるはずはないのだが、彼は生徒会長という立場を生かして部活動として認めさせてしまったのだ。
部活動として認められた以上、予算も割り当てられる。消耗品の補充も充実したし、なにより僕たちは学校公認の活動として堂々と学校の整備を進められるようになった。『整備部』というもっともらしい名前まで頂いた。驚いたことに、生徒会長自らも整備部に所属することになった。彼は生徒会の仕事に忙しくなかなか部活に顔を出せなかったが、それでも僕たちと並んで一緒に掃除をしたこともあった。
「なんで選挙に出よう、なんて思ったの? ううん、それ以前に、なんでこんな私の手伝いなんてしようと思ったの?」
ふたりきりの空き教室で、彼女は突然僕に尋ねた。僕は彼女を見たが、彼女はうつむいて作業を続けていたため、その表情は読めなかった。
「なんでかなあ。多分好奇心だよ」
彼女の口元にわずかに笑みが浮かんだ、そんな気がした。
「好奇心、好奇心ってあなたそればっかりじゃない。一体なにに対する好奇心なの」
「君に対する、さ。なんでこの子はこんなに一生懸命なんだろう、ってね」
彼女は手を止めて僕の方を見た。少し不思議そうな顔をしている。
「あなたって変わってるね」
「よく言われる」
ちょっと笑った後、僕は彼女に尋ね返すことにした。今更聞くことがどんなに間抜けなのか分かっていたためずっと言えないでいたけれど、いまここでなら聞いてもいい気がしたのだ。
「そういえば、いままでずっと聞きたくて聞きそびれてたことがあるんだけど」
なんとなくためらって言葉を切ったが、彼女は何も言わずに先を促した。僕は意を決して尋ねた。
「君の名前、なんて言うの?」
すると彼女は呆れたようにため息をついた。
「知らなかったの? 私は君の名前をとっくに知ってたのに」
「いや、聞く機会もなかったし」
彼女は再びため息をつくと、僕をわざとらしく睨んだ。
「今まで知らなくてなんとかなってたんだから、これからも知らなくても大丈夫でしょ」
そんな無茶な、と僕はこぼした。彼女は楽しそうに笑った。
相変わらず無愛想な彼女だが、最近は僕の前ではたまに笑顔を見せるようになっていた。僕は彼女が笑うのを見るたびに、まるで彼女の笑顔を独り占めしているような気がして、ちょっと誇らしいような妙な気分になるのだった。
がらっと音を立てて扉を開け、背の高い少年が教室に入ってきた。彼女は扉を一瞥するとすぐにうつむいて作業を再開してしまった。僕はなんだか残念な気持ちになりながら、最近多忙でなかなか整備部に顔を出せない彼を出迎えようと立ち上がった。整備部結成の書類を書いた彼なら彼女の名前を知っているはずだ。でも、僕はなんとなく彼に聞くのはやめておこうと思った。彼女の言うとおり知らなくてもなんとかなるだろうし、それは彼女の口から直接聞くのが自然な気がしたのだ。
汚れた窓を通して、やっと膨らみかけてきた桜の蕾が見える。僕は新しい季節の始まりを予感した。
変わり者の二人 第三稿