海月ノ見ル夢
「クラゲになる夢を見た」
高校二年生の弟の一樹が、何年か前に家族で旅行に行った沖縄の水族館で、父が撮影したクラゲの写真を眺めながら真面目な顔をして言う。
「何それ」
私は苦笑いしてしまった。
「クラゲになる夢を見たんだ」
一樹はもう一度繰り返した。
「海の中をぷかぷかゆらゆら漂って、すごく気持ち良かった。今俺頭が坊主だろ?だからちょうどクラゲに似合ってるかも」
そう言いながら一樹は笑った。私もまた苦笑い。沖縄の水族館で見たクラゲ達。私と一樹は飽きもせずにそのクラゲ達を眺めていたっけ。
「昔沖縄で見たこのクラゲ達…気持ち良さそうに泳いでたよな。俺、産まれ変わったらクラゲになりたい。よし、絶対そうしよう」
一樹は真剣にそう言った。自分に言い聞かせるように。私はなんて答えたらいいか分からなかった。
「クラゲに生まれ変わったらサッカーが出来ないよ」
以前、一樹はサッカーをしていた。サッカーが大好きな男の子だった。
「サッカーが出来なくてもいいんだ。クラゲになってのんびり暮らしたい」
一樹のプロのサッカー選手になるという夢が、クラゲになるという夢に変わった瞬間だった。
「姉ちゃん、クラゲも夢を見るのかな?」
一樹が聞いてきた。
「クラゲには脳が無いから、多分見ないんじゃない?」
「そっか…見ないのか」
一樹は残念そうだ。
「でも人間が知らないだけで、クラゲも夢を見てるかも」私は慰めるように答えた。
「そうだよな、見てるかもしれないよな。クラゲ…どんな夢を見てるんだろう」
一樹は嬉しそうに笑った。
「きっと人間になる夢を見てるんじゃないかな」
私はそう呟いた。
一樹には右足が無かった。
クラゲになる夢を見る一年位前に右の太腿の腫れを自覚して一樹は病院を受診した。
腫瘍が出来ている、と医者に聞かされた私も一樹も両親でさえも、最初は太腿にデキモノが出来ていて、そのデキモノを切除すれば治ると軽く考えていたのだけれど、病理診断の結果、その腫瘍は滑膜肉腫と呼ばれる、悪性の筋肉に出来るガンだった。
一樹の腫瘍は広範囲の為に、右足切断を余儀無くされた。サッカーが大好きだった一樹は泣き喚き、絶対にイヤだと拒否した。
「まだ左足が残っているから大丈夫」
主治医の先生や両親は諭すように一樹をそう慰めたけれど、一樹にとっては何の慰めにもならなかった。無理矢理切断された一樹の右足は、今どうしているのだろうか?
右足切断後、すぐに肺への転移が発覚し、化学療法が開始された。入退院を繰り返しながら治療は進められたけれど、化学療法の副作用の為に、髪は抜けて一樹の頭は丸坊主になった。イケメンが台無しだよ、と泣く一樹。吐き気もひどく、体重は減る一方で、化学療法は一樹にとって辛く長い治療になった。
そんな化学療法の事をけれど一樹は助っ人外国人と呼び、両親や主治医の先生や看護師さん達を笑わせていた。自分の身体を悪の親玉のガンから守ってくれる助っ人外国人。最後の切り札の助っ人外国人にみんなが一縷の望みを託した。
助っ人外国人は頑張った。頑張って頑張って、踏ん張ってくれたけれど、悪の親玉から一樹を守り抜く事は出来なかった。
今、煙突から出る煙を見ながら、私は一樹と話したクラゲの事をぼんやりと思い出していた。クラゲになる夢を見た約一カ月後に、一樹の身体と魂は煙になった。一樹の棺桶に両親は天国でサッカーが出来るようにとユニフォームを入れ、私はこっそりあの時に一樹が眺めていたクラゲ達の写真を入れた。一樹の夢はプロのサッカー選手になる事ではなく、クラゲになる事に変わったんだよと私は両親に言い出せなかった。
一樹の煙はまるでクラゲのように、空をぷかぷかゆらゆら気持ち良さそうに漂っていた。クラゲになれた一樹。今度は人間になる夢を見ているといいのだけれど…私はそう願わずにはいられなかった。
海月ノ見ル夢