熱。

 雨が降っている。
 三月の雨だ。
 年が変わり、風が吹き、季節が移ろい、そして花が咲き乱れる。
 空気はそのうち暖まるだろう。
 ここ数日で日差しは柔く、昼時が心地よい。窓辺で寝こけるには悪くない。
 膝の上に愛猫を乗せて、欠伸を噛み殺し、ぬるい茶を流し込む。煎餅を齧り、指を舐め、文庫本を流し読む。
 そんな気の抜けた余生を過ごせたら、それはどんなに素晴らしいことか。
 その隣に愛する伴侶がいたら、どれだけ満足のゆく人生だろうか。
 私には、過ぎた幸福だ。
 贅沢すぎるというものだ。


 煙草を咥え、ゆらゆらと揺らす。
 火は点けない。禁煙だから当然だ。
 「煙草臭いよ、禁煙しなさい」
 酸素マスク越しの曇った音。
 「本当に臭い、わかんのかよ」
 煙草を口から離し箱に仕舞う。
 「当然よ、あなたの匂いを忘れたことなんてないわ。鼻に染みついているもの」
 帰ったら風呂に入って洗濯しよう。
 「あなたの匂い、よく嗅がせて」
 酸素マスクを外して、俺の手を引く。
 赤くなった小さな鼻。痛々しい酸素マスクの痕に優しく触れる。
 「うん、煙草の匂い。吸い過ぎは身体に障るわ。少し数を減らしなさい」
 頬を撫でる。皮肉なことに、透き通るような白さになった。硝子細工のような美しさ。生命を操って芸術を表現したら、彼女になるんじゃないだろうか。
 「温かいね」
 「暖房強めるか?」
 「いらない。ずっと温めてて」
 両手で頬を挟む。顔が小さいから殆んど覆えてしまった。それでも手の中に収まろうと手を動かしてくる。
 「小顔で良かった」
 「はみ出てるよ」
 「出てないし」
 手の平がこそばゆい。湿った温もりで満たされる。
 「そろそろマスクをつけないと」
 手を離そうとすると、強く握られる。痛くはない。むしろ弱々しいくらいだ。
 だけれど、振りほどけない。
 彼女の手から伝播する。淡い熱だ。皮を僅かに溶かし、肉に隙間に溶けてゆき、骨を通して、胸の中心が生命を感じた。
 彼女の生命だ。
 弱いけど強い。
 俺なんかより、よっぽど強い。
 「手放したくない」
 手の平が濡れる。
 「わかったわかった。まだこうしてるから。でも、少しでも苦しくなったらすぐにマスクな」
 俺は、思わず的外れな答えを返す。
 「違う」
 力強い否定。
 「もっと一緒にいたい」
 手から力が抜けた。
 剥き出しの感情。俺がいつもたじろいでしまう感情だ。
 「俺もだ」
 一度弛緩した指先に力を込める。
 「俺も一緒にいたい」
 だけれど、たどたどしくなってしまう。
 「もっと一緒にいたい」
 壊れものに触れるように。
 薄く透き通った硝子細工に触れるように。
 「また一緒に夏祭りに行こう。今度は俺も浴衣を着るから。二人で浴衣を着て、花火を見よう」
 指先から手の平。隙間なくぴったりと彼女に触れる。
 目蓋、鼻、唇。まつ毛、目尻、口角、頬、顎。首筋、額、眉間、耳。
 彼女の顔を感触で憶える。
 薄くなった頬は頼りなく、いつの間にか濃くなった目の下の隈が、俺の中の彼女の記憶が、曖昧に揺れている。だから、少しでも多く彼女を感じて、自分の中に刻みつける。
 手の平の中で彼女が喘ぎ始める。
 俺は慌てて手を離し、マスクを当てた。
 「無理するな、休むんだ」
 「うん、ごめんね」
 さっきよりも弱々しい。
 儚く、風に吹かれては消えてしまいそうなくらいだ。
 俺はマスクに手をかけて、少しだけずらす。
 啄ばむような、少しだけのキスをする。
 一秒にも満たない。
 「もう一回」
 マスクをつけ直す前に呟く。
 今度は熱を移すように、もう少しだけ長くキスをする。
 唇の感触は、記憶の中のままだった。


 雨が降っている。
 六月の雨だ。
 段々と空気は湿り気を帯びて、熱が篭りやすくなった。
 柔らかだった暖かな空気は肌に纏わり付き、鬱陶しいことこの上ない。
 紫陽花の紫色が目に付くようになって、桜色の花びらが少しばかり恋しい。
 傘を傾ける。
 空は灰色の雲に覆われて、空色の青さは映らない。
 視界を巡らせて欠片でもないか探す。
 見当たらない。
 今日の花火大会は、延期だろうか。
 折角虫干しした浴衣は、さていつ袖を通すことになるだろうか。
 唇に触れる。
 いつの間にか癖になってしまった。
 物思いに耽ったり、気落ちしたりすると、唇をなぞってしまう。
 それは、記憶の中の感触を思い起こすきっかけになるからだろうか。
 柔くて、温かい。熱を分けてくれる心地良い記憶。
 手の平に残るこそばゆい記憶。
 自分の顔を覆うと、つい涙が零れそうになる。熱がかっと身体を走り、発作的に目尻が緩む。
 雨が降っているから丁度いい。傘を畳んで熱を冷ます。目を閉じて、雨粒を全身で感じる。
 「風邪ひくよ」
 目を開けると、視界が陽だまりのような温かい色に覆われた。
 「さぁ帰ろう」
 浴衣姿の彼女が手を引く。
 弱々しいけれど力強く、熱いくらいの熱が冷えた身体に染み込む。
 春の日差しのような心地良い熱が、ゆっくりと俺の胸の奥の中心に。
 
 
 

熱。

熱。

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更新日
登録日
2014-03-02

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