ポチ

作品は、番犬の物語です。番犬と言う立場を不満に思いながらも人間の為に懸命に働く犬の話を書いてみました。

「ポチ散歩に行くぞ」屋敷の雨戸をガラガラビシャーンと開け放ったじっちゃんが、ポチの小屋の前にドカドカと歩み来ると大声でそう言いました。
「冗談じゃねえぜ。こんな朝っぱらから。でいいち雨が降っているじゃねえか」ポチは、雨垂れに濡れた体をブルブルと振ると、再び小屋の奥に入り込みました。
ここは、東京の多摩地方の住宅街。数年前までは、畑や田んぼが、まだまだたくさんあったのですが、バブル崩壊の後遺症からようやく抜け出したここ数年で、急速に周囲の農地が開発され、マンションや建売住宅の立ち並ぶ住宅街へと変貌してしまったのです。ポチと呼ばれる白い秋田犬は、この場所に古くから屋敷を構えている家の番犬です。そのポチの直接のご主人様は、ポチがじっちゃんと呼んでいるこの家の主です。じっちゃんは、先祖代々の土地をたくさん所有しているようです。それに加えて、じっちゃんの代から不動産業も始め、バブル時代に儲けまくった金は、その後のバブル崩壊にもめげずにじっちゃんの家を豊かに潤しているようです。バブル崩壊以降は、不動産の取引は、縮小してひたすらバブルの後遺症が消えるのを息を潜めて待っていたようですが、ここ数年でようやく息を吹き返し、更に多くの金がじっちゃんの家に飛び込んで来ているようです。ですから、じっちゃんの家は、近在きっての金持ちらしいのです。でも、ポチは番犬。ポチにじっちゃんの家の潤いが回って来る事はありません。ご飯は、家族の食べた食事の残飯。いえ、残飯と言った方が、まだぜい沢なご飯のイメージになります。実際は、冷や飯に味噌汁をぶっかけた昔ながらの犬飯です。ですから、金持ちのじっちゃんの家の食事の残飯と言うイメージには、ほど遠い食事を毎日与えられていました。
何故、金持ちなのに味噌汁をぶっかけた飯しか与えられないかと言うと、どうやら、昔気質のコチコチな頭を持ったじっちゃんが、残飯は捨てさせ、わざわざポチ用に犬飯を作らせているらしいのです。「犬は、味噌汁をぶっかけた飯」それが、犬に対するじっちゃんのポリシーのようです。ですから、ポチは、じっちゃんに対して不満を抱いています。「こんな朝早くから、てめえのわがままに付き合う奴なんていねえよ。冗談じゃねえや。じじいの悪趣味に付き合っていられるかってんだ!」と小屋の奥深くで不貞寝を決め込むのでした。
「ポチ!何をしてる!早く起きて出てこんか。ニッポン男児たるもの、そんなだらけた生活をしていいと思っているのか!」裏庭の隅にあるお稲荷様の社に朝の挨拶をすませたじっちゃんが、ポチの小屋の前に仁王立ちするとそう一喝しました。
「うるせえや、じじい!このコンコンチキ!雨が降ると雨漏りして俺の体を濡らすような小屋しか用意してくれないくせに偉そうに言うなってんだよ!そんなに偉そうに言うなら、小屋と飯を改善しやがれってんだ!べらんめえ!」ポチは、小屋の隅にうずくまって「ウーウー」と唸り声を上げます。
「こりゃ!ニッポン男児!寝言言っとらんで早く起きんか!」なかなか外に出て来ないポチに業を煮やしたじっちゃんが、ぐいと腰を下ろし、ポチの小屋の屋根に両腕をガシッとかけました。そして、「フンヌ!」と言う気合もろともポチの小屋を引き上げました。すると悲しいかな、抵抗も空しくポチの体は、表に晒されてしまいました。ポチの小屋には、床が無かったのです。ポチは、地面に直接寝ていました。ですから、小屋は、簡単に持ち上がり、ポチの覆いは取り払われてしまったのです。
「な、何すんだよ。相変わらず強引なじじいだな」ポチは、面倒くさそうに起き上がりました。「ほほう、ようやくお目覚めかい?」じっちゃんは、口をゆがめて皮肉たっぷりに言いました。ポチには、もはや隠れる場所はありません。鎖につながれているので、逃げ出せる望みもありません。「杭、ゆるんでいないかなあ」鎖を止めている杭を横目で見ましたが、杭はがっちり地面に打ち込まれています。ポチは、この杭を何日もかかって少しずつゆるめ、時折逃げ出したりするのですが、先日脱走を決行したばかりなので、杭は再びがっちり地面に打ち込まれてしまっています。この時、じっちゃんからポチが逃げ出せる手立ては全くありませんでした。
「じっちゃん!待ってたんだよ。おせえじゃねえかよ。俺がじっちゃんが出て来るのを待ち焦がれているの知ってんだろ?俺、じっちゃんが大好きなんだからさあ」ポチは、太い尻尾をぶるんぶるん振り回すと、じっちゃんにとびかかり顔をペロペロと嘗め回しました。追い詰められたポチの最後の手段。じっちゃん好き好き攻撃です。「こりゃこりゃ。やめんかポチ。顔がペトベトになるだろう。それにお前の吐く息は臭いんじゃよ」と、言いながらも、じっちゃんは嬉しそうです。その大きな手で、ポチの濡れた頭をゴシゴシ撫で回しているのを見ても分かります。なんだかんだ言い合いながらも、ポチとじっちゃんの関係は良好のように見えます。
「ウ~!カイイ!カイイ!」小屋の中で、ポチが体をぼりぼり掻いています。ポチの小屋には、ドアはありません。出入り口は開きっぱなしです。そして、ポチのいる場所は、家の隅です。直ぐ横には、広い屋敷林があって、様々な種類の木が生い茂っています。家の裏手は、竹林です。ですから、その辺りはやぶ蚊の天国となっています。その蚊が、無防備なポチを、これ幸いと一斉攻撃するわけですから、ポチは、たまったものではありません。一晩中後ろ足を持ち上げ、体中をボリボリ掻かなければなりませんでした。
 「やいやい!涼しい家の中で涼しい顔しているじじい!及びその家族!この蚊をなんとかしろってんでい!」連日蚊の攻撃にさらされているポチは、ついに実力行使に出る事にしました。ガラス戸を締め切り、クーラーの風にあたって涼しい顔をしている家族に向かって、「ワンワンギャンギャンワオーン!」と吠え立てました。
「ポチうるさいわよ!ご近所様に迷惑でしょう!」ガラス戸が、ガラガラビシャーン!と開き、じっちゃんの息子のお嫁さんであるよし子さんが、仁王立ちしました。そして、華麗なる投球モーションで、右手に持った缶ビールの空き缶をポチ目がけて投げつけました。
「キャイ~ン!」庭にポチの悲鳴が走ります。「何しやがるんだ!バカよし子!」よし子さんが投げた空き缶は、「ヒューン」と風切り音を発して夜の闇を真っ直ぐに飛び「カーン!」と金属的な音を立てて見事にポチの額に命中しました。「ホ~ホ・ホ・ホ・ホ」その様子を見ていたじっちゃんが、甲高い笑い声を上げて立ちあがります。「相変わらずナイスコントロールじゃなよし子さん」と言いながら、ガッツポーズをしているよし子さんの肩に、ポンと右手を置きました。
「やいやいやいやい!くそ女にボケじじい!何がナイスコントロールでい!俺をこけにしやがると後でひどい目に合わせてやるぞ」腹の虫が収まらないポチは、鎖をガチャガチャさせて、指を差して笑い転げている二人に、出来る限りの雑言を浴びせました。しかし、家の中の二人には、ポチの怒りが伝わりません。「あら、ポチも喜んでいるわ。きっと遊んでもらいたかったのね。それじゃもう一度」よし子さんが、奥の居間のテーブルの上に置いてあるビールの空き缶を取りに引っ込みました。「こら!逃げるのか!よし子!正々堂々勝負しろ!」ポチの怒りに恐れをなしてよし子さんが逃げたと思ったポチは、更に勢いを増して追い討ちをかけるように騒ぎ立てました。
「よし子さん。私にも持って来てくれたかい?」じっちゃんが、首を後ろにひねり言いました。「もちろんですよ。お父様がそう言うだろうと思ってましたから」直ぐによし子さんの声が、返ってきます。どうやら、じっちゃんも缶投げゲームに参加するようです。普段は、決して仲のよい二人ではありませんが、こういう事になると妙に息が合うのです。
「あぶねえ!やいやいやいやい!じじいまで何しやがんでい!」じっちゃんの投げた缶が、風を切り、ポチの耳元を過ぎりました。「あ~らまあ、お父様コントロール悪いわねえ。見てなさいよ。私が、彼の頭に見事に当てて見せるから」じっちゃんが失敗したのを見届けたよし子さんが、空き缶を右手に持ち華麗なる投球モーションに入りました。「よ~し、来やがれってんだ。さっきは油断しちまったがな、今度は、そうやすやすとは当たってやんねえぜ」ポチは、よし子さんとじっちゃんの挑戦を正面から受けるようです。
「まあまあまあ、お二人さん。そんなにムキにならずに。ポチは、蚊を何とかしろと騒いでいるのですよ。蚊取り線香を焚いてやれば直ぐに静かになりますよ。毎年の事ですから」よし子さんが、投球モーションに入り、ポチに向けた空き缶が、もうちょっとでよし子さんの手を離れようとしている時、二人の後から、間延びした男の声が聞えました。じっちゃんの息子。そして、よし子さんの夫の秀雄さんです。「何よあんた!いい所で余計な口を挟まないでよ!」すんでの所で腰を折られた形のよし子さんが、目を吊り上げて後ろを睨みます。「そうだぞ秀雄。お前は、昔から間の悪い奴だ。場の雰囲気を読む力が無い」じっちゃんも、やんわりと息子を注意します。「やいやいやいやい!ひで坊!男の勝負に余計な口を出すんじゃねえよ!さあ、来い!ブス女に死にぞこないのじじい!」戦闘モードに入ってしまったポチにも、秀雄さんの優しい心遣いには届きませんでした。
「蚊に刺されても平気なはずよ。ちゃんとフィラリアの薬は飲ませているんだから。あの薬だって高いのよ。蚊取り線香なんてもったい無いじゃない」ポチの小屋の周りに蚊取り線香を焚き始めた秀雄さんに、よし子さんが抗議します。「フィラリアの薬は、病気を防ぐためだよ。ポチだって、蚊に刺されればかゆいのさ」秀雄さんは、優しい口調でそう言うと、ポチを見詰めました。「ひで坊よ。ありがとうよ。てめえが、まだ学生の頃からの付き合いだ。昔から、俺の気持を理解してくれるのは、ひで坊お前だけだったよ」戦闘モードからさめたポチが、小屋の中でしんみりと呟きました。
「こら!ひで坊!親切も行きすぎると立派な嫌がらせなんだよ!蚊取り線香を十個も小屋の周りに置きやがって!これじゃ煙たくて寝てられねえじゃねえか!」秀雄さんは、ポチのためを思ったのか?小屋の周囲に蚊取り線香を置きまくりました。そのおかげで蚊は小屋の周りから消えましたが、そこら中に隙間のあるポチの小屋には、至る所から煙が侵入してきます。ポチは、その煙でむせ返ります。とても、ゆっくりと寝ていられる状況では無くなってしまいました。仕方が無いのでポチは、小屋を出て煙の来ない所に移動しました。するとまた蚊の攻撃にさらされます。おかげでその晩ポチは、一睡もすることが出来ませんでした。
「おい、オヤジさん寝てるのかよ」次の日の昼間、木陰でポチが爆睡していると、誰かがポチの頭をこづきました。「誰だよ。今俺は眠てえんだよ」ポチは、寝返りを打ち、頭をトントンとこづく手を払いのけました。「しょうがねえじじいだな。おいオヤジさん俺だよ。腹空かせているだろうと思って分厚い肉を持って来てやったぜ」ポチの目の前に分厚いステーキがドサと置かれました。さめて冷たくなっているけれど、人間がナイフを入れて半分以下になっているけれど、ポチにとっては、大ごちそうの肉です。突いたくらいでは目覚めなかったポチの鼻先がひくひくと動きました。
「あれかい?この肉は、やっぱり、あすこのレストランってやつのゴミ箱から持って来てくれたのかい?」肉の匂いに飛び起きたポチが、ハグハグと肉にかぶりつきながら、ポチの食べるのを眺めている白い雑種犬に言いました。「ああ、あそこだよ。オヤジさんが、くすねに行って、みんなに追い掛け回されたあそこだ。へへへへへ」雑種犬は、口元をゆがめて言いました。「あいかわらず口が悪いね。てめえの仲間達は、俺とてめえがどこか似ているなんて言いやがったが、あれは嘘だね。俺は、そんな下品な言い方しねえよ。なんせ俺は、上品な性格だかんね」ポチは、そう言いながらこの雑種犬との出合いを思い浮かべました。
「やい!じじい!今度こそあいそがつきたぜ!」ちょうど一年位前の事です。ポチは、つながれている鎖を引きちぎり表に飛び出しました。食事の改善と住居の改善を求め続けていたポチは、まったく話を聞こうとしてくれないじっちゃんに怒り、力任せに鎖を引きちぎったのです。ポチは、屋敷を飛び出すとどこへ行くと言うあても無く歩きました。
「うん!何だ?このいい匂いは?」ポチは、いつの間にか繁華街に出ていました。さすがに大通りは歩きずらいので、薄暗い路地をトボトボと歩いていると、とてもいい匂いがしてきました。家を飛び出したのが食事前だったので、ポチのお腹が、「ギュー!ギュルギュル」と大きな声で鳴きます。「この匂いは、じっちゃん達が、家の中で時々させている匂いだ。肉の分厚いのを火で焼いている時の匂いと一緒だ」ポチは、じっちゃん達が、時々このおいしそうな匂いをさせて肉を食べているのを知っていました。「ほんのちょっと位は俺にも回ってくるだろう」と期待をして待っていますが、一度もポチの口に入った事がありません。いや、その汁さえもポチにあげようと言う気持が、じっちゃんの家族にはさらさら無いようでした。そんな日は、ポチは夢を見ます。何だか知らないけれど、おいしそうな物がポチの前にたくさん積まれています。形は、ぼんやりしていて輪郭がはっきりせず、とてもグロテスクにも見えるのですが、匂いはとてもおいしそうな匂いです。「え~い!ままよ!食っちまえばこちとらの勝だ。後悔すんなら食ってからすりゃあいいんだ」目の前に積まれた物を食べていいものやら悪いやら、ポチは大いに悩みます。口に入れたら転げまわるほどおいしい物かも知れません。口に入れたら七転八倒するほどお腹を痛くするかも知れません。でも、最後に決断する答えは決まっています。おいしい食べ物に餓えているポチは、必ず尻尾をパタパタ振ってそのおいしそうな山に飛び込みます。そして、いつも夢はそこで終りです。悲しい事に夢の中でさえもポチは、おいしい物を口にした事が無いのです。夢の後に残るのは、ポチの口があった辺りに溜まったヨダレだけでした。その夢にまで見た憧れの肉の匂いが、ポチの近くから漂って来ます。ポチは、その場所を突き止めようと鼻をクンクンさせました。
「ここだ!」匂いに釣られて路地を進んだポチは、とうとうその匂いの元を突き止めました。その匂いは、石で出来た白い大きな建物から漏れ出ていました。大きな換気扇が、ブンブン音を立てて回っていて、その換気扇から美味しそうな匂いが吐き出されているのです。そこは、人間達が食事するステーキレストランの勝手口でした。ポチは、何とかその匂いの元にたどり着こうと壁に手をかけ立ち上がり、背伸びまでしましたが、どうしてもその匂いの元に達する事は出来ませんでした。
あれからずいぶんと時間がたったのにポチは、その場所から離れる事が出来ませんでした。あきらめて匂いを振り切る事が出来なかったのです。それほどポチは、おいしい食べ物に餓えていました。なにしろ、じっちゃんの家では、三百六十五日冷や飯に味噌汁をぶっかけた物しか与えられていませんでしたから、当然と言えば当然の事です。ポチには、この場所にいる事こそが、長年の夢であったおいしい肉を口に出来る最大のチャンスと思えたのです。そして、この機会を逃すと二度とチャンスは来ないような不安もありました。
深夜になり、ようやく店の明りが消え初めました。路地の隅でうずくまっていたポチは、ビクリとして頭を持ち上げました。レストランの裏口の扉が開いたからです。そして、その裏口から、一人の白い服を着た男が現れると、路地の隅に置いてあった青い大きな入れ物の蓋を取り、まだおいしそうな湯気を立てている肉らしい塊をその中にドサドサと入れたのです。それから、男は再びドアの奥に姿を消しました。
「へへへ、こいつはゴミ箱って奴だよな。それぐらいのこたあ分かってんだよ。って事は、あの肉は捨てられたって事だ。誰が食っても文句を言われる筋合いじゃねって事よ」ポチは、ゆっくりと起き上がるとゴミ箱に近づき、ゴミ箱の周囲から鼻をクンクンさせて、中に捨てられたのが、ポチの憧れの肉かどうか慎重に確認しました。そして、そこから漏れてくる匂いが、ポチの憧れの肉であると確信すると、鼻先をゴミ箱の蓋に引っ掛けて思い切りはね上げました。「ガランガランガラン」飛ばされたゴミ箱の蓋は、路地を転がり、パタリと倒れました。ゴミ箱からは、他の匂いを圧倒するように素敵に匂いが溢れ出てきます。ポチの目が、ウルウルしました。ようやく、憧れの肉を口に出来るのです。それも、たっぷりと。「いっただきま~す」ポチは、立ち上がり、ゴミ箱に首を突っ込みました。
「そこの白いおじさん。ちょっと待ちなさいよ」ポチが、口を大きく開き、肉が鼻先に触れかかった時でした。ポチの頭上から突然、誰かが話しかけてきたのは。そして、その口調は、ポチに対して決して好意を抱いている感じでは無く、明らかに敵意を含んでいる声でした。
「誰だい?俺様の楽しみを邪魔しようって奴は」ふいを食らった感じですが、ポチは出来る限り平静を装って、ゴミ箱から首を抜きました。そして、ちらりと声が聞えた頭上を見上げました。
「あんたは、誰の許しを得て、そこで食べ物をあさっているんだい?」その声は、ブロック塀の上から聞えて来ました。「なんだ野良猫さんか。知らないようだから言っとくがなあ、これは人間のゴミ箱って言うやつよ。人間が、食べ物を捨てるためにあんのよ。まったく、贅沢な事だがよ、人間って奴等は、食える物もこうやってどかどかと捨てちまうのさ。捨てた物だから誰の物でもねえや。見つけた者のもんよ。でも、安心しな。俺は、独り占めしようなんて野暮天な考えは、これっぽっちも持ってやしねえからよ。食いたかったら、お前さんも遠慮無しで食ってかまわねえんだぜ」ポチは、出来る限り体が大きく見えるように尻尾をピンと立て、首をクイと持ち上げて、余裕たっぷりに言いました。
「何をぼけた事言ってやがんだい!飼い犬の甘ちゃんには分からないだろうけれどね、ここには縄張りってもんがあんだよ。その縄張りを荒らされて黙っているわけにはいかないんだよ!痛い目を見たくなかったら尻尾巻いてとっとと消えな!」塀の上で体を丸め、毛を逆立たせ、鋭い牙をむき出しにして、野良猫が戦闘体勢を取ります。
「はははは、バカを言っちゃあいけねえよ。さっきから言ってるようにこいつは、誰の物でもねえや。俺が立ち去る理由なんざねえんだよ。そっちこそ痛い目を見たくなかったら少し黙ってな」ポチも負けじと、長く鋭い牙を見せ付けてやりました。一対一で猫になんか負けるはずがありません。第一、体の大きさが違います。ポチは、余裕を持って塀の上の猫を睨みつけました。
「な・なんだ?なんだなんだ!てめえ等は!」ポチの声には、予期せぬ驚きが含まれています。ポチは、囲まれてしまいました。たくさんの猫や犬達に。ポチが、塀の上の猫に気を取られている隙に、路地の四方八方からたくさんの野良猫が現れポチを取り囲みました。その数にたじたじしていると路地を犬の集団が走って来て、何と仲間であるはずのポチの包囲に加わってしまったのです。「はん!驚いたようだねえ?この野良猫部隊を仕切る野良猫のお嬢を舐めるんじゃないよ!」塀の上から勝ち誇ったような野良猫のお嬢の声がポチに降りかかります。「なにを!やいやいやいやい!野良猫は分かった。でもなあ、その後にいるのは、どう見ても犬だよなあ?その犬が、同じ犬の包囲に加わろうって言うのかい?」ポチは、野良猫越しに犬達を睨み付けました。
「へん!世間知らずの飼い犬がごたく並べてんじゃ無いよ。ここにはねえ、犬も猫も鳥も区別なんてありゃしないんだよ。私達は、偉大なボスの元に集まっている同志なのさ。何か起こったら、犬猫関係なくこうやって集まって来る。さあ、悪い事は言わないから、とっとと消えな」塀の上の猫が、勝ち誇ったように宣言すると、路地を塞いでいた猫や犬が脇に寄り、ポチが歩いて脱出出来るだけの細い通路を作りました。「やいやいやいやい!このポチ様を舐めんなよ。いつてめえ等が怖いと言ったよ。てめえ等ごとき何匹いやがってもちっとも怖かねえや!」ポチには、猫達の行動が、侮辱と思えたのです。このまま引き下がっては、ポチのプライドが許しませんでした。ポチは、体を低く構え戦闘体制を取りました。
「こちらの好意も分からないほど、ぼけてしまっているのかねえ。本当に困った爺さんだよ。しょうがない。ちょっと痛い目を見せて分からしてやんな」塀の上の猫が、下の仲間達に合図をしました。ポチを逃すために開いていた通路は、あっと言う間に閉じ、ポチは再び取り囲まれてしまいました。
路地で、たくさんの猫と犬が激しい闘いを繰り広げています。はた目からは、どれが敵でどれが味方かなんて、区別が付かないほど入り乱れているように見えます。でも、実際は、ポチと言う秋田犬一頭とたくさんの猫や犬との闘いでした。ポチは、奮闘しました。飛びかかって来る猫や犬をタックルで蹴散らし、鋭い牙に引っ掛け投げ飛ばしました。ポチは、若い頃は度々鎖を引き千切って脱走を繰り返し、そこいら中の犬と喧嘩を繰り返しました。自分より大きな犬にも負けませんでした。その頃は、この辺りでポチは顔でした。ポチの顔を見ると、犬は尻尾を巻いて逃げ出したものです。「でも、近頃じゃとんとごぶさただったな。俺も年を取ってずいぶんと丸くなっちまったからな。でも、まだまだこんな奴等に負けやしねえぜ」とつぶやきながらも、ポチは、この大きな喧嘩を楽しんでいました。ポチには、絶対的な自信があったからです。でも、年による体力の低下は、ポチにもどうしようも出来ない事でした。投げ飛ばしても組み伏せても、次々と現れる敵の数の多さにポチは、次第に追い詰められ、その動きも敵を蹴散らせないほどに鈍ってしまいました。
「ふ~ん、じいさん思ったよりやるじゃ無い。見直したよ」塀の上で指揮をとっていたお嬢が、ポチが追い詰められたのを見ると、ポチの追い詰められた塀の真上に移動して言いました。「てやんでい!喧嘩はこっからよ。さあ、かみ殺されたい奴は、どっからでもかかってきな!」ポチのプライドは、それでも強気な言葉を吐き出させました。でも、その言葉には力は無く、息も荒い物でした。
「強気は言っているけれど、もうこれでお仕舞いだねえ。さあ、誰かとどめを刺してあげな!」ポチが、塀にもたれるようにして立っているのを見たお嬢が、囲んでいる犬達に号令をかけました。「じいさん、かんべんしろよ。てめえが素直に言う事を聞かねえから悪いんだぜ。今楽にしてやっからよ」グレーに近い茶色の毛をした大きな雑種犬が、囲みから前へ出てそう言いました。
「へへへへ、上等じゃねえかよ。俺とタイマンを張ろって奴がいるとはな。そのクソ度胸はほめてやるよ」ポチは、体を一歩その犬の方に踏み出しました。でも、その動きには、すでに切れが無く、どこかふらついているような感じでした。「おい、じいさん。強がり言うのは止めた方がいいよ。このゴンタさんはね、ボスの次に強いお方なんだよ。じいさんなんか、ゴンタさんのタックル一つであの世まで吹き飛ばされちゃうよ」ゴンタと呼ばれる大型犬の後から首を伸ばして、小さなテリアがちゃかすように言いました。「うるせえなあ。俺とタイマン張ろうって奴はこいつだろ?それともてめえが、露払いに俺とやろうってのかい?」ポチが、まだ少し残っている気力を振り絞って、鋭い眼光をテリアに送ります。ポチに睨まれたテリアは、ポチの視線を外すように、すごすごと群の囲みに姿を消しました。
犬と猫の囲みの中で、白と茶の二頭の大型犬が、死闘を繰り広げています。ポチとゴンタの二頭です。互いにぶつかり合い、組伏せ、弾き返し、かみつき、まさに命をかけた死闘です。当初は、若くて力の強いゴンタが、圧倒的に有利で、勝負はすぐにつくと思っていたゴンタの仲間達も、今ではこの闘いを固唾を呑んでみつめています。ゴンタが、ポチに追い詰められると、囲んだ犬の中から、ゴンタに加勢しようと数頭の犬が前に出ます。でも、ゴンタも男です。加勢しようとした仲間を唸り声を上げて静止します。男と男の闘いは、路地の片隅でエンドレスに続くかと思われました。
「くそ!俺も年には勝てねえか」ポチの目が霞みます。ゴンタと闘う前から体力を消耗していて、立っているのがやっとの状態のポチです。いくらゴンタとの男と男の勝負に気力を奮い立たせたとしても、長引けば、体力が悲鳴を上げるのは最初から目に見えていた事でした。踏ん張る足に力が入らず、ゴンタが何もしていないのに、自分からよろけて転んでしまう回数が多くなりました。「兄貴!今だ!やっちまえ!」「じじいは、もうふらふらだ。このまま一気に喉を噛み切ってやれ!」ポチの疲れを見て取った犬や猫達が、一斉にはやし立てます。ゴンタは、一瞬ポチへの攻撃をためらうような仕草を見せましたが、グループを取りまとめる地位にいるゴンタは、周囲の声援を無視する事は出来ませんでした。
とうとうポチは、ゴンタにねじふせられ、押さえ込まれてしまいました。「へへへ、年には勝てやしねえや。さあ、さっさと、とどめを刺せよ」ポチは、ゴンタが大きく口を開き、長い牙が自分の喉元に迫るのを他人事のようにぼんやりとした感覚で見ていました。
「待て待て待て!そのじいさんは、俺の知り合いだ。それ以上手を出すと、この俺が相手する事になるぜ」ゴンタの牙が、ポチの喉に触れようとした時、路地の奥から白い大型犬が、疾風のような勢いで走って来ました。ポチも首を上げ、声の聞えて来た方に視線を運びましたが、取り囲んでいる犬や猫の壁でその姿を見る事は出来ませんでした。
「ボ・ボス!」その白い大型犬の声が聞えると、ポチとゴンタの闘いを見ていた犬と猫の塊が割れ、路地を走って来る白い大型犬が、ポチの視界にも入りました。ただ、ひどい疲れのため、ポチの目に映った物は、白い塊が道を転がって来ると言う感じでした。「へへへへ、何だか分からねえが、新な敵が現れたらしいな。へ!今さら誰が現れようと、俺には関係ねえ事だがな」ポチは、まるで夢の中の物語のように、事の成り行きを見詰めていました。
「な・何だって!このじいさんが、ボスの知り合い?」ポチの体を押さえつけていたゴンタの力が、突然抜けました。「へへへ、どうしたい?一気にけりつけるんじゃねえのかい?」ポチはゴンタに言いましたが、ポチの気力が持ったのはそこまででした。ポチの意識は、急激に暗闇の世界に引きずり込まれてしまったのです。
「へへへへ、強気なじいさん目が覚めたかい?」ぼんやり開けたポチの目に、ポチの顔を覗き込む白い顔が映りました。「てめえ!このやろう!じょうとうじゃねえか!」一瞬のうちに、ポチの脳裏に昨夜の死闘がよみがえりました。ポチは、目の前の男と対決するために飛び起きました。
「いて!いてててて」ポチの体に激痛が走ります。「ほらほら、まだ無理すんじゃねえよ。じいさんは、本当に元気だな」ポチの顔を覗き込んでいた白い犬が、呆れたように言いました。「だ・誰だ?てめえは?」ポチは、闘争心を押し込んで、しかし警戒をおこたらずに聞きました。
「すまねえ。昨夜は本当にすまなかった。俺の身内が、じいさんにひどい事をしちまった」ポチの前で、白い犬がひたすら頭を下げています。ポチはようやく思い出しました。あの絶体絶命の崖っぷちで、この白い犬に救われた事を。「するってえと、あの猫や犬共を統括しているのが、てめえってわけかい?」ポチは、ようやく落ち着きを取り戻し、ポチの小屋の前に座りながら聞きました。「ああ、だから本当にすまねえ」白い犬は、ポチが自分を非難していると思ったのか再び頭を下げました。
「そうかい?お前さん達は、野良犬と野良猫の集まりだったのかい?」ポチの問いかけに、白い大きな犬がうなずきました。「だがよ、野良猫の奴等はどこにでもいるが、野良犬となると、近頃とんと聞かねえ話だよなあ。人間共の野良犬狩りがきびしいしいだろうが」ポチが、あれだけの数の野良犬がこの辺りにいる事が信じられないと言う口調で聞きました。白い犬は、深いため息をつき、遠くに視線を移して、「じいさん、知ってるかい?人間に捕まった野良犬がどうなるか」とポチに逆に質問を返しました。「いいや、こんな狭い世界に閉じ込められている俺だ。世間知らずもいいとこよ」ポチは、自嘲気味に首を振りました。「今まで、俺の仲間達は何匹も捕まったよ。そして、誰も帰って来なかったよ。俺は、一度、仲間を乗せた車をおっかけた事がある。山の裾にある建物に、俺の仲間の匂いをプンプンさせた車は止まっていた。俺は、その建物が建っている裏山で待ったよ。仲間が出てくるのをな。何日も何日も。でも、仲間は出て来なかった。ある日、俺は、その建物から出て来たゴミ車から、かすかに仲間の匂いがするのに気付いた。俺は、そのゴミ車を追いかけたよ。必死に走った。そいつに仲間が乗っているにちがいないと思ったからだ」白い犬は、ポチにそこまで言うと言葉を切り、庭の木の葉の間に見える青い空を見上げました。ポチも黙って空を見上げました。白い犬の悲しみが、彼の言葉の節々に隠されている事に気付いたからです。
「そいつが信号で止まった時、白い小さな塊を落としやがった。それが何か、じいさん分かるかい?」白い大型犬は、瞳の奥に絶望をくゆらせ、ポチを見つめました。ポチは、黙って首を振り、前に投げ出した足の間に頭を乗せ、上目使いで白い犬を見詰めました。「骨だったよ。真っ白い骨だった。仲間の匂いをプンプンとさせた、白い小さな骨だったよ」そこまで言うと白い犬は、ポチに背中を向けました。ポチは、彼を慰める言葉を捜しましたが、言うべき言葉を見つける事が出来ずに、「そうか」とだけ声を吐き出し、そして再び黙り込みました。
「悪かったな、じいさん」長い沈黙の後、白い犬が、ポチを振り向き言いました。「何が?」ポチは、以外なほどそっけない言葉を返しました。「昨夜の仲間達のした事。そして、見ず知らずのあんたにこんな話をしちまった事だよ。本当に悪いと思っている。この話は、仲間の誰にもしゃべった事は無かったんだが、あんたにならしゃべってもいいような気がしてな。何故だかは分からねえが」白い犬が、最後はつぶやくような口調で言いました。「いいってことよ。気にする事はねえやな。昨夜の事は、世間知らずの俺が悪かったのだし、あんたに助けられたのも事実だよ。あんたが、あそこで現れてくれなければ、俺の命は、確実におしめえだったんだからよ」ポチが、冗談まじりの口調で言いました。「ゴンタが、俺の背中にあんたを乗せてくれたんだよ。あんたにあやまりたいって言ってた。ゴンタも本気にならなければ、あんたに負けてたってよ。実際、一匹で散々暴れた後のタイマンだったわけだから、本当の勝者はあんたかも知れねえな。あんたの強さには、みんな驚いていたよ。さあて、強いじじいに俺が返り討ちになった。と、仲間に勘違いされてもいけねえから帰るとするか。すまなかったな」白い犬は、再び頭を下げるとくるりと後ろを向きました。「また来てくれるかい?あんたとは、気が合うみたいだ」ポチも立ち上がりました。「ああ、ありがてえよ。度々寄らせてもらうよ。土産持ってくるぜ。あんたとは、他人のような気がしねえや。以前からな」白い犬が、屋敷の外に向かって歩き出しました。「以前から?てめえ以前から俺を知っているのかよ」ポチが、去り行く若者に大きな声で言いました。「ああ、この前の道を通る度に覗いていた。一度話してみてえと思っていたんだよ」そう言うと白い犬は、垣根の向うに消えてしまいました。
「あれから、何度こんな分厚いご馳走を持って来てもらったかねえ。ありがとうよ、ボス。こんなにも気にかけてもらってよ」ステーキの匂いですっかり目が覚めたポチが、白い大型犬。つまり、ここいら一帯の野良犬と野良猫を束ねている若者に言いました。「じいさんよ。ボスは、やめてくれよ。あんたとは、対等な関係でいたいんだよ」ポチが、ステーキにかぶりつくのを見ながら、白い犬が言いました。「それじゃ、何て呼んだらいい?」ポチは、肉を一塊食いちぎり、ごくんと喉を鳴らして飲み込むと聞きました。「本当は、呼んで欲しい呼び方はあるんだが、照れくさいからよ、まだいいや。そうだなあ、俺達の仲間もあんたの力を認めているから、ほらこの前ちらりと言ったろ?「若えの」って奴、あれでいいや。俺等は、とっくにオヤジと呼んでるんだからよ。それで対等ってもんだ」白い犬が、前足で頭を掻きながら言いました。
「あ~あ、うまかったぜ。命が少し伸びた感じだよ」ステーキを食べ終わったポチが、伸びをしながら言いました。「そうか。また持って来るよ。オヤジさんには、長生きしてもらわねえとな。オヤジさんが、いなくなると俺の胸に大きな穴が開いちまうよ」若者は、そう言うと立ち上がりました。「け!なに心にもねえおべんちゃら言ってやがんでえ。ところでよ、今度またお前等の所に行ってもいいかい?こんな所にいると退屈で退屈で」ポチは、ゆっくりと腹ばいになり、前足の間に顔を埋めながらいいました。「いつでもいいぜ。みんな、あんたが来るのを首を長くして待っているからよ。それじゃあ、またな。ここの家の人間が出て来たらまずいからよ。あんまり長居は出来ねえや」若者は、尻尾を背中にくるりと巻き上げると、垣根をくぐり表に飛び出して行きました。
「やいやいやいやい!じじい!まったく、人間って奴等はよ!俺は、呆れて物も言えないね!何で野良犬がステーキなんてご馳走を持って来てくれるのに、てめえ等はよ」ポチが、月を一緒に見ようとポチの所に酒瓶をぶら下げてやって来たじっちゃんに、からみ付きます。「まあポチや、お前も一杯飲めや。こんなに月の美しい夜は、めったにねえからよ。お前の白い毛に月の精が踊ってやがら」ポチのからみをどう取ったのか?じっちゃんは、ポチの餌入れにお酒をトクトクトクと注ぎました。「ち!酔っ払いのじじいになんか付き合ってられっかよ!」ポチは、じっちゃんの注ぐ酒を前足で払い退けました。
「やっぱ、あれだやね。酒はいいやね。何でお酒がやめられましょうかってんだ。じっちゃんよ。もっと勢いよく、ググッと注いでくれよ。ほら、月だって二つになってニタニタと笑っていやがんだからよ。ググッと注いでぐっと飲み干し、あいつ等を笑い飛ばしてやりやしょうよ」ポチとじっちゃんが、庭で大騒ぎしています。ポチは立ち上がり、じっちゃんの髪の毛が後退した額をペシペシと叩き、うかれています。じっちゃんは、そんなポチの首に手を回し、鼻先にデコピンを打ち込みます。じっちゃんがコップを拾った枝でチンチンと鳴らせば、ポチは、餌入れを口にくわえてブンブンと振り回します。「ポチよ。不動産屋は、もうかるぞ。家には、金がドサドサと入って来る。お前は、大金持ちの番犬だぞ。どうだ?鼻が高いだろ?」じっちゃんが、ポチの頭をペシペシ叩きながら言いました。「てめえ等が金持ちでも関係無いね。ようは、俺様の生活が良くなるかだよ。なあ、じじい。そんなに儲かってんならよ、当然俺の生活も良くなるよな?飯は、これから毎日ステーキだ。分厚い肉を頼むぜ。焼き加減はよ、限りなく生に近いレアだ。焼き過ぎはいけねえよ。血の滴る肉にかぶりついてこそ通ってもんだ。この小屋も、もっとゴージャスにしてくれるんだろ?そうだなあ。最低二部屋は欲しいよな。バスやトイレなんていらねえよ。俺は、そこまで贅沢は言わねえ。第一、俺は、水浴びは嫌れえだし、糞や小便も外の風に吹かれてやった方が爽快ってもんだ。ま、床暖と冷房がありゃいいや。おい!じじい!聞いてんのかよ!」すっかり酔いが回ったポチが、じっちゃんの鼻先をカプリとかじります。「アハハハ、いててて。分かった分かった。お前の食事も良くしてやるぞ。いいか、聞いて驚くまなよ。明日から、お前の飯にぶっかける味噌汁の味噌は、ワンランク上の手造り味噌を使ってやるようにママさんに言っておいたんだぜ。嬉しいか?嬉しいだろ?」「け!何が手造り味噌だよ。俺は、ベジタリアンじゃねえや。肉だよ。肉を食わせろって言ってんだよ」じっちゃんとポチ。一見仲の良さそうなコンビですが、実際の中身は、ずれにずれています。ポチは、人間のパートナーとしての対等な立場を求めていますし、じっちゃんは、番犬としての仕事を求めています。その主従のずれは、縮まる事はありませんでした。
「よう!じっちゃんよ。こんな日は、散歩やめようぜ。ほら、雨がびしゃびしゃ降ってやがんだろ?」ポチは、小屋の中から外を眺めて言いました。昨夜からの豪雨が、辺り一面水浸しにしています。雨漏りが酷いポチの小屋にも、容赦無く雨は降り注ぎ、ポチの体もびしょ濡れです。おまけに地面に直接小屋が置かれているだけなので、小屋の中まで池のように水が溜まっています。おかげで、昨夜からポチは、一睡もしていません。プールに浸っているようなものでしたから、眠れるはずもありません。小屋の中も外も同じようなものですから、ポチが散歩を拒否する理由は無いと思いますが、それでも雨の中の散歩は気分が乗らないのです。おっくうなのです。それより何より、こんな天気でもポチを連れ出そうと言うじっちゃんに腹が立つのです。それでも、じっちゃんが、ポチの健康のために散歩に行くと言うなら、ポチも尻尾を振って着いて行くでしょう。でも、じっちゃんの目的は違います。大きな水溜りを見つけると、ポチに歩腹前進を求めてくるでしょう。「ニッポン男児は、いついかなる時でも敵と戦えるように、普段からきびしい環境で鍛えておかなければならん!」それが、じっちゃんの口癖です。この場合のニッポン男児とは、もちろんポチの事です。自分がじじいだから、ポチにニッポン男児を押し付けているのです。「こんなひでえ大雨の日に連れ出されたら、何をされるか分かったもんじゃねえや。渦巻く川に飛び込めと言われかねねえもんな。だから今日は、絶対散歩には行かねえぞ」ポチは上目遣いで、カッパと長靴で重装備したじっちゃんをにらみつけました。
「そりゃポチ飛べ!敵はあの水溜りの向うに潜んでいる。あの水溜りを一気に飛び越えて敵を叩きつぶせ!」前も見えないような大粒の雨の中、じっちゃんがポチに最初の命令を下しました。「冗談も休み休み言えってんだよ!あの水溜りの向うに誰がいるってんだよ!誰もいやしねえよ。このもうろくじじい!」とぶつぶつ言いながらもポチは、尻尾を振って走り出します。まるで、「はい、分かりましたご主人様。あれくらいの水溜りを飛び越えるのなんて朝飯前ですよ。まかして下さい」とでも言うように。コミュニケーション手段として成り立たない言葉では、色々な不満をぶつけるポチではありますが、ご主人様に対するその態度は、どこから見ても番犬そのものです。それは、長い間に培われて来た性と言うべき物のようです。
「なんだ!この川は?やつ等の隠れ処のトンネルが、水で埋まってしまっているじゃねえか!」市内を流れる川までやって来た時、ポチは毛が逆立つほどの衝撃を受けました。ポチが、何度かじっちゃんの屋敷を抜け出して訪れていたあの野良犬達の棲み処は、増水した水に塞がれている川のトンネルの中だったのです。トンネルと言うと直ぐに出口がありそうなのですが、そこは果てしなく続く真っ暗なトンネル。川を塞いだ暗渠なのです。上は、公園や遊歩道になっています。普段、ポチがじっちゃんとの散歩に使っている公園や歩道の下に、彼等は住んでいるのです。「俺達は、なるったけ目立たねえようにしなくちゃならねえからよ。この暗い穴はうってつけなのさ。この穴の中で息を潜めて暮らす。そうでもしねえとよ、人間共の野良犬狩りの餌食にされて、殺されっちまうからよ」ポチが、最初に訪問した時、若者が自嘲気味にそう言いました。彼等は、夜になると外に出て来ます。そして、なるべく集団では行動せずに、飼い犬のように静かにする事。それが、彼が仲間に課した掟です。それもこれも仲間達を守るため。ポチには、若者の気持がよく分かっていました。その川の入り口が、今は水に塞がれています。入口には、濁流が渦を巻いています。「ま・まさか奴等は、みんな流されっちまったんじゃ」ポチは、全身の毛が逆立つのを感じました。
「歩腹前進!あの草むらに敵の兵が隠れている!ポチ大和魂の見せ所だ!ふいうちを食らわせ敵を全滅させろ!」とうとう、じっちゃんの得意な歩腹前進の号令が発せられました。ポチはどしゃぶりの中、水溜りもなんのその、鼻から雨が流れ入るのもなんのその、前方の草むら目指して、ズリズリと腹で前進して行きました。
「よう」ポチが、敵兵が潜んでいると言う草むらに勇躍ジャンプして飛び込んだ時、前方の草の中から声が聞えました。ポチは、とっさに尻尾をブンブン振り回しました。その声は、若者の声でした。今さっき心の底から若者達の消息を心配していたポチは、飛び上がらんばかりの勢いで草を掻き分けました。
「なんだよ。無事だったのかよ。あの川の入り口が、この雨で塞がっちまってるだろ?こりゃいけねえや、奴等の墓が必要かって肝を冷やしちまったぜ」ポチが、若者の顔をペロペロ舐めています。「やめろよ。くすぐってえなあ。あのなあ、俺達の隠れ処は、あすこだけじゃねえんだよ。メーンは、あすこだがよ、こんな時には、さっさと別の場所に移動するんだよ。どうせオヤジさんの事だから、心配してると思ってよ。こうやって来てやったんだよ」若者が、軽くポチを押しのけます。「やったなこいつめ。それじゃ、他の連中も無事なんだな。ま、てめえなんか、どこでくたばろうが、どうでもいいってもんだがよ。てめえ等の中には、かわいこちゃんも結構いるからよ。惜しいってもんだぜ」ポチも若者に絡みつきます。「だれなんだよ?かわいこちゃんて。じじいのくせに生意気な」ポチと若者は、雨に濡れた草の中で、激しく楽しくじゃれ合いをしていました。
「ポチ!負けるな。ニッポン男児たる者、常に敵に後ろを見せてはいかん!そいつを殺す覚悟で戦え!負けたら今夜の飯は抜きだぞ!」道でじっちゃんが、興奮して叫んでいます。傘を振り回します。飛び跳ねます。口から泡を飛ばします。他の通行人が、怪訝な顔をして、じっちゃんから出来る限り離れて通り過ぎます。そんな事など全く意に関しないじっちゃんは、ポチと若者の戦いに興奮しまくっていました。
「ポチ。どうした?何故戦いを止めたんだ?相手をぶっ倒すまで戦うのが、ニッポン男児の心意気ってもんだ。それが、まだまだお前には分かっておらん!」若者とのじゃれ合いをやめて戻って来たポチに、じっちゃんは不満気です。双方が無事で分かれたのが、納得いかないようです。「ちぇ!はなっから戦いなんてしてねえよ。あれが、あいつと俺との挨拶なんだよ」ポチは、ぐちぐち不満を並べるじっちゃんを横目に歩き始めました。
「まったくよ。オヤジさんの飼い主は、うるさい奴だよな。これじゃ、興ざめだぜ。それじゃ、俺は仲間の所へ帰るよ。今晩あたり、俺達のもう一つの隠れ処へ来いよ」ポチは、別れ際に言った若者の言葉をとてもうれしく思いました。今までは、じっちゃんとじっちゃんの家族とほんの数人の人間と,そして、数匹の人間に飼われている犬達。それが、ポチの知っている世界でした。飼い犬達は、ポチを見るとみんな尻尾を巻いて擦り寄って来ました。若い頃のポチは、体も大きく力も強く、なんと言っても素早い動きが出来、一睨みで他の犬を威圧する事が出来ました。ポチは、飼い犬の世界では、この辺りのお山の大将でした。それが、ポチと互角に戦える野良犬の集団と知り合いになれました。そして、その彼等を束ねている若者と知り合いになれたのです。世界の見方が一変しました。ポチは、対等に話し合える仲間を得たのです。もっとも、ポチは対等と思っていますが、野良犬達は、ポチを尊敬してくれています。あの若者でさえ、言葉や態度に、その感情を隠す事無く出してくれています。だからポチは、うれしいのです。野良犬達の所に行くのが楽しいのです。夜の楽しみを思えばポチは、じっちゃんのわがままも許せるほどに、心のゆとりを持って散歩を続けてあげました。
「なあ、じっちゃん。人間は、何で犬を殺すんだよ!そもそも、野良犬を作っているのは、人間だろ?人間には、優しさなんてこれっぽっちもねえのかよ?やだね、ああ、やだやだ。慈悲の心もねえ下等生物と付き合わなくちゃなんねえなんてよ」ポチとじっちゃんが、散歩を終えて帰って来た時、あの大雨が嘘のようにやんでいました。ポチは、じっちゃんの足にからみつき、じっちゃんに抗議を繰り返しています。でも、「おおよしよし。そんなに散歩が楽しかったか。あんな大雨の中でも連れて行ってやるわしに感謝するんだぞ」とポチの頭を撫でるじっちゃんには、全くポチの抗議が通じていないようでした。
「まあ、あれだ。じっちゃんなんかほっといて今夜のために一眠りするか」ポチは、晴れ間が戻って来た空を見上げるとそう呟きました。まだ、周囲は湿っています。小屋の中もびしょ濡れです。ポチは、辺りを見回し、少しだけ周囲より高くなっていて、あまり水の溜まっていない、大木の根元に横になりました。太陽が出て来ると、蒸し暑さが戻って来るのは確実です。ですから、木陰となるその場所は、ポチが休息を取るには最高の場所でした。
「し!ポチが眠っているから声を出しちゃ駄目だよ」じっちゃんの家には、三人の子供がいます。秀雄さんとよし子さんの子供達です。つまりじっちゃんの孫です。上の二人は、いたずらざかりの男の子。一也君と哲也君です。そして、哲也君と二つ違いの晴香ちゃんがいます。この晴香ちゃんは、まだよちよち歩きの女の子のため問題はありませんが、上の二人の男の子は、ポチにっとては大問題の存在です。その二人の男の子が、抜き足差し足でポチの寝ている場所に近づいて来ます。小学一年生の一也君と三歳の哲也君です。この二人には、普段からポチは、とても手を焼いていました。いたずらざかりだからです。花火をやれば、ポチに火の粉を浴びせます。ポチの水飲み容器に泥を投げ込みますし、ポチの尻尾を持ち上げ、尻の穴を覗き込んだりもします。ポチの耳を引っ張ったり、唇をねじり上げたりするのなんて日常茶飯事です。ポチだって、こんな子供にやすやすといたずらをされたくは無いのですが、この二人は、よりによって家族のアイドルなのです。中でも、じっちゃんのかわいがりようと言ったら、見ているポチが恥ずかしくなるほどデレデレなのです。更に悪い事に、この二人は、いたずらをするくせに大変な泣き虫でもあります。ポチが、少しでも反撃しようものなら、直ぐに泣き出してしまいます。するとポチは、家族中から非難を浴びてしまいます。あのにっくきよし子なんて、ホウキでポチを容赦無く殴りつけます。その時ばかりは、よし子の暴力を止めてくれる者はいません。じっちゃんも、冷たい目でポチを見下ろします。ポチにとっては、この幼い男の子達は天敵。最も苦手とする者達でした。ですから、この二人を見かけるとポチは、小屋の中にこそこそと入り込み、何があっても外に出ないようにしています。でも、この日ポチは、油断していました。昨夜からの大雨で寝不足な上、散歩で、じっちゃんに無茶な事をやらされたおかげで、疲れていたのです。そして、今夜は、ポチが待ち望んでいる仲間達と会える日なのです。それやこれやで、ポチが油断してしまったとしても仕方が無い事でしょう。
二人の子供は、手に手に細い竹の棒を持っていました。そして、互いに目配せをして、ポチにそろりそろりと近づいて来ます。その目は、キラキラ輝き、これから起こる素敵な事に期待しているのが、はた目でもすぐに分かります。普段でしたら、風が起こすわずかな葉擦れ音でも、ポチは聞き逃さないのですが、この時ばかりは、先に上げた理由で熟睡していました。ですから、そろりそろりと近づいて来る二人のいたずら小僧に、全く気付いていませんでした。
「ギャイ~ン!」庭にポチの悲痛な叫び声が走りました。ポチは、余りの痛さにパニックに陥ってしまいました。弟の哲也が、竹の棒をポチの頭めがけて振り下ろしました。でも、チビ助の哲也の一撃など、ポチにとっては、どうって事ありませんでした。最悪なのは、兄の一也のした事でした。一也は、竹の棒を槍のように持つと腰をかがめ、ポチの尻の穴目がけて、一気に突き刺したのです。眠りをむさぼっていたポチの体に、激痛が走り抜けました。尻から頭にズッキ~ン!と言う感じで。
「てめえ等、何しやがんだ!」痛みのために冷静さを失ったポチが、歯をむき出してどなりました。その余りにも恐ろしい形相に、二人の子供は、ペタンと尻餅をつき、そして大声で泣き出してしまいました。いつもならポチは、ここで冷静さを取り戻すのですが、この時は、冷静になる事は出来ませんでした。なにしろ、尻尾を振ることもままならないほどの痛みなのです。ポチは、なおも歯をむき出し、後足をヒョコヒョコさせながら二人のいたずらっ子に近づきました。
「何するの?ポチ!おやめ!」家の中から、よし子さんの甲高い声が飛び出しました。それと同時に、ヒューンと何かが風を切る音が聞えました。それから、ゴン!と何かと何かがぶつかった音が聞こえ。そして、「ギャウン!」と言う悲鳴。カンカンカン・ポタ!と何かが木にぶつかり、跳ね返り、再びぶつかり、最後に地面に落ちる音がしました。文字で表現すると、どうしてもそれらの一連の声や音や悲鳴には、時間差があるように思えてしまいますが、実際は、ほとんど同時。多くても数秒以内。つまり瞬時に起こった事でした。
「いて~!」ポチが、頭に前足を当てうずくまっています。目の前数メートルの所を殺虫剤のスプレー缶が、まだ暴れ足り無いとでも言うようにコロと一回点しました。家の廊下では、よし子さんが腰に手を当て仁王立ちしています。二人のいたずら小僧が、何が起こったのか理解出来ずにポカンと口を開けています。推測するに、よし子さんは、部屋の中に入り込んだ蚊を退治するために、殺虫剤を散布していたようです。そこで、ポチの悲鳴とうなり声を聞き、子供達の泣き声を聞いたよし子さんは、生まれもっての反射神経のよさで、一瞬で状況を把握し、得意のオーバースローで、持っていたスプレー缶をポチめがけて投げつけ、それが見事にポチの頭を捕らえ、弾みで周囲の木々に跳ね返り、地面に落ちた。と言うのが、この音や悲鳴の真相のようです。ポチの頭に当たった時か、木に跳ね返った時か、地面に落ちた時のどこかでスプレー缶の頭が押されたようです。辺りに殺虫剤の匂いが立ち込め、それによりポチは、冷静さを取り戻しました。
「や・やべー」ポチは、ようやく今の状況を把握しました。ポカンとしていた二人のいたずらっ子達は、再び顔を歪め、泣き出そうと構えています。よし子さんが、廊下の下に置いてあったサンダルを引っかけ、戸袋の所に立てかけてあった竹箒を右手に鷲掴みすると、ガニマタ気味にドスドスと走り寄って来ます。その箒が何を意味するか?ポチには、直ぐに分かりました。ポチが「悪いのは、こいつ等二人だ」と言っても、よし子さんに通用するはずがありません。一方的にポチは、悪者にされ、罰を受けなければなりません。ポチは、まだヒリヒリと痛む尻に尻尾を巻き込み、すごすごと小屋の中に避難しました。
「ギャー!よし子やめろ!痛い!イタタタタ!死んじまうよ。この暴力女!」よし子さんは、ドスドスとポチの逃げ込んだ小屋までやって来ると、ぐっと腰を下ろし、両手でポチの小屋をガバっと持つと、そのまま小屋を後にうっちゃってしまいました。おかげで、小屋の中で小さく丸まっていたポチの体は、一気に表に出てしまいました。「ポチ!よくもよくも私のかわいい坊や達を!」よし子さんが、箒を大上段に構えます。「待て!よし子。話せば分かる。じっくり話せばどちらに非があるか、いくらてめえでも理解出来るはずだ。暴力は、いけねえよ。話し合おうぜ」ポチは、よし子さんを落ち着かせようと「クーンクーン」と小さな声で鳴き、無抵抗を分からせようとよし子さんに尻を向けました。
「やめろ!やめろってばよ!」ポチの体めがけて箒が、息つく間も与えずに振り下ろされます。「面胴小手!面胴小手!」学生時代に剣道をかじった事があるらしいよし子さんは、ポチにせっかんする時、リズミカルに面胴小手と言いながら、箒や棒切れを振り下ろします。この時もそうだったのですが、この日は、よほど虫の居所が悪かったのか?「ええい!面倒くせえ!」とばかりに、箒の乱れ打ちに変わってしまいました。「ば・バカよし子!そんな事すると冗談ではすまなくなっちまうぞ。このかわいい俺が死んじまうよ。死んでから後悔しても始まらねえよ!やめろ!やめろって!箒の先はチクチク痛えんだよ!」とうとうポチは、「キャイン!キャイン!」と悲鳴を上げましたが、よし子さんの興奮は、収まりそうにありませんでした。
「で・オヤジさんは、そのバカ女の暴力からどうやって逃げたんだい?」夜、ポチを迎えに来た若者が、ポチの体中に出来た傷を舐めながらたずねました。「ここの家のじじいが帰って来たから助かったのさ。でも、その前に嫌と言うほど殴られていたから、ちっとも嬉しくは無かったがね」ポチは、くやしそうに言いました。でも、実際は「よし子さん。もうじゅうぶんだろ?それくらいで許してやってくれないか?何があったかは知らないが、ポチもじゅうぶん反省しているようだから」と声をかけて、よし子さんの暴力を止めてくれたじっちゃんに、ポチは尻尾を振って飛びつき、顔をペロペロと舐めて感謝の気持を表していました。もちろん、よし子さんのこの仕打ちは納得していませんし、子供達を脅かした事に対して反省などしていません。でも気持とは裏腹に体が反応してしまうのです。心の中では逆らっても、体がじっちゃんに対して従順になってしまうのです。若者には、決して話せませんが、それが悲しいポチの現実でした。
「で、どうする?そのケガじゃ、今夜俺達の所に遊びに来るのは無理だろう?」若者が、ポチにいたわりの意味を込めて言いました。でも、ポチは、すくっと立ち上がり「どって事ねえよ。こんくらいの傷は、ケガの内に入りゃしねえぜ」と強気に振る舞います。若者の前では、弱気な所を見せたくは無かったし、仲間達に合う事を最大の楽しみにもしていたからです。「威勢がいいね。その言葉が聞きたかったんだよ。それじゃ、ここを脱出するとするか」若者も立ち上がり、ポチの鎖を止めてある杭の所に歩き始めました。
「それ!オヤジ!へたばってんじゃねえぜ。もっと力をいれなきゃ、こいつは抜けやしねえぜ」と若者が言えば「てやんでえ!てめえこそ若いくせに力がねえじゃねえか。力ってやつはよ、こうやって腰を落として、ぐっと踏ん張り、体全体でしぼり出すもんだぜ」とポチも負けていません。二匹で力を合わせて杭を引き抜く、これがこれまで何度も脱走に成功したやりかたでした。
「へへへ、ようやく抜けやがったぜ。やっぱり俺の力はすげえだろ」「け!ほとんどが俺の力だよ。オヤジさんの力なんか大した事ねえぜ」二匹は、杭が抜けた事を喜び、じゃれ合いました。それから、長い鎖をポチの体に巻きつけ、じっちゃんの屋敷から外に抜け出しました。
「オヤジさん、また殴られたのかい?ひでえ事をするよな、人間って奴等は」ポチが現れると、ゴンタがポチの所に走りより、ポチの体に刻み込まれた無数の傷を舐め回しながら言いました。「ああ、ひでえ事されちまったよ。でもよ、奴等は、物事の善悪がわからねえ無知な奴等だが、根はいい所もあんだよ。ま、ほんの少しだけだがな。でも、いい所は、ちゃんと認めてやらねえとな」ポチは、少しだけ口元をゆるめ言いました。ポチは、意識していませんが、番犬として、飼い主を他からけなされる事は、自分がけなされているように感じてしまうようです。「さすが、オヤジさんは、心がひれえや」輪の後ろの方で、ヨークシャーテリヤの血が少しだけ混ざった、雑種犬が言いました。「そうでもねえけどよ」ポチは、少し照れたような顔をしました。
「で、いつまであの倉庫に隠れているつもりなんだい?」仲間達との楽しいおしゃべりを堪能した帰り道、ポチは、並んで歩く若者に言いました。「あすこは、建築会社の古い倉庫だ。めったに人なんて来ねえが、人目にはつきやすい。昼間は、絶対に外に出るな。無駄な鳴き声は上げるな。人の気配を感じたら資材の陰に隠れてじっとしていろ。と言ってあるが、なんせ頭数が多いだろ?危険である事にはちがいない。水が引いたら直ぐに川の穴倉に戻るよ」若者は、ケガをしているポチを気遣ってゆっくりと歩きます。一也に刺された尻の穴がうずき、ポチの歩みは、どうしてもぎこちないものになってしまいます。「だよな。俺もそう思ったから聞いたんだ。てめえも大変だよな。あの頭数を抱えてよ。あの川の穴倉だって、完璧な場所じゃねえだろ?」ポチは、後足をひょこひょこさせながら、前から抱いていた思いを伝えます。「ああ、大分水が引いたな。あんな大雨でも水の引きは、はええや」若者は、ポチの質問には直接に答えず、通りかかった川のほとりに脚を進め、そこに腰を下ろしました。
「あのな、俺には、夢が一つあるんだ」ポチが横に腰を下ろしたのを見届けた若者が、じっと見詰めていた川の流れから視線を外し、つぶやくように言いました。「夢か。いい言葉だね。俺もずいぶん昔には見ていたような気がするよ」ポチも若者と同じように遠くに視線を移すと、こちらもまた独り言のように言いました。それから二匹は、しばらくの間遠くを見詰めるだけで、どちらも声を出しませんでした。お互いが、お互いにかけるべき言葉を捜しているようです。
「あのな」若者が、先に口を開きました。「ああ」ポチは、それだけしか言葉を発しませんでした。若者の話を進めさせるためには、よけいな事は言わない方がよいと思ったようです。「俺は、将来ここを出て行こうと思うんだ」若者は、ポチに話しかけるでも無く、ばくぜんとした対象に話しかけるように話し初めました。ポチは、内心「え!?」と思いましたが、両前足の間に顎を埋め、黙っている事に徹しました。
「ここは、余りにもあぶねえや。食い物には困らねえけど、俺達野良犬にとっては危険過ぎるよ。それに、いつまでも暗い闇の世界でばかり暮らせねえよ。みんな、俺に気兼ねして我慢してくれているが、内心は不安でいらいらしてやがんのよ。だから、俺は、この街を出ようと思う」この時初めて、若者が視線をポチに向けました。「ああ、奴等が内心不安を抱えているのは、俺も分かっていたよ。だから、バカっ話でもしてやろうかと考えていたよ」ポチは、その若者の視線に答える必要があると判断したようです。「ありがとうよ。オヤジさんの存在が、どれほど奴等の心をなごませてくれたか。もちろん俺の心もだ。感謝しているよ」若者は、首を上げたポチの鼻先をペロリと舐めながら言いました。
「で?」ポチは、くすぐったいように首を振り、むくりと体を起こすと若者に聞きました。「だからよ、まだ決めたわけじゃねえよ。オヤジさんだから話してんだよ。まだ、何も決まったわけじゃねえや。いつになるか分からねえけどよ、俺の夢さ。この国のどこかに、俺達の俺達だけの国を造りたいのさ」若者は、そこまで言うと照れくさそうに顔を遠くへ向けました。
「いい夢じゃねえかよ。恥ずかしがる事じゃねえさ。みんなの事を考えたいい夢だぜ。でも、まんざらの絵空事じゃねえだろ?てめえほどの男が、全くの絵空事に時間を費やしているとは思えねえがな」ポチは、ある種の確信を持っていました。若者は夢と言っているが、何か確信があるはずだと。「俺の仲間の中にな、この国の色々な場所をほっつき歩いていた奴がいてな。そいつの言う事には、この国は、歩いても歩いても終りが無いほど広いんだってよ。向うの公園の池なんか比べもんになんねえほど、でかい沼や湖があって、どこが果てだかわからねえ海なんてもんもあるらしいぜ。その海の水は塩辛いってさ。ずっと向うに見える山より更に高い山もあるって話だぜ、そいつが言うにはよ、山の中の所々に人間の作った家があって、今では人間が住んでいねえらしいんだ。そんな人間の住んでいねえ家が集まっていて、中には子供が通う学校なんて言う大きな建物さへ捨てられたような所もあるらしいぜ。そんな所なら、俺達が行っても暮らしていけるかな?なんて考えたりしてな。ただ、みんながついて来てくれるかどうか」若者は、自信無さげに言いましたが、その瞳の奥がキラキラと輝いているのを、ポチは見逃しませんでした。
「へ!『その時はオヤジさんも一緒に来てくれねえか?』か」小屋に戻って来たポチは、木の葉の間から見え隠れしている星を見上げながらつぶやきました。「冗談じゃねえやな。この年になってよ。そんな夢の話なんかに付き合えるかってんだよ」と言うポチの瞳の奥にも、若者と同じく、キラキラとした輝きがありました。犬だけで住む場所。人間に頼らない生活。それは、ポチにとっては、遥かに遠い夢の国の話ではありました。実際、そんな事、ポチは考えた事もありませんでした。でも、ポチの心の中には、確実に若者の夢が引き継がれました。
「ポチよ、昨夜もここを抜け出したのか?てめえは、このごろ何をしてやがんだ?夜遊びに行ってたんじゃあ、立派番犬とは言えねえな」朝、ポチの所にやって来たじっちゃんが、ポチの頭をペンペン叩きながら言いました。「け!何言ってやがんだよ。粗末な飯の数倍は働いてやってるぜ。夜は、いわば俺の自由時間よ。俺にそんな生意気な事を言うのはよ、俺の食生活と住居の改善をしてからにしろってんだ」ポチは、眠たげに大あくびをするとプイとじっちゃんに尻を向けてしまいました。
「ファ~ア!」ポチは、今日も大あくびをしています。よし子さんに箒で殴られたケガもようやく癒え、お尻の傷は、まだうずきはありますが、何とか通常の歩みが出来るようになりました。「へ!ガキのした事にいつまでも目くじら立ててもしょうがねえやな」わだかまりが完全に消えたわけではありませんが、ポチは、極力あの事件を忘れようとしています。箒で殴りつけたよし子さんにも尻尾を振って愛想を振りまきますし、二人の息子達が、ポチの所に遊びに来ても、特別におどすような事はしていません。頭や体を撫でるくらいなら尻尾をパタパタ振るサービスをしてあげますし、体に乗る位の行動は、寛容な心で許してあげてます。そして、何か危険を感じたら、いつものように小屋の奥深くに潜り込み、じっとうずくまります。ポチは、番犬です。決して番犬の立場を忘れたりはしないのです。「これが俺の仕事よ」ポチは、怒りを覚えた時は、ぐっとその怒りを腹に呑み込み、そしてそう呟きます。
「おお、ヨチヨチ歩きの娘が来たね。あのくらいならまだ可愛らしくていいやね」ポチが、首をもたげつぶやきました。多くは、家の中で遊んでいる晴香ちゃんが、庭に出て来たのです。どうやら、ポチのいる庭の隅に向かって来るようです。ポチは、歓迎するつもりです。ヨチヨチ歩きの赤ん坊から幼児になったばかりの、まだ一才の子です。それも、女の子です。まだ、よし子さんのようにすり切れていません。ポチの所にやってくれば、「ポチポチ」とポチを慕ってくれます。だから、ポチは、晴香ちゃんが嫌いではありません。ポチは、自分の方に向かって、おぼつかない足取りでやって来る晴香ちゃんを尻尾を最大限に振って迎えました。
「あれ?」ポチは、尻尾を振るのを止めて首を傾げました。晴香ちゃんが、晴香ちゃんを歓迎するために伸びきったポチの鎖の前を横切ってしまったからです。てっきりポチの所に遊びに来たと思っていたのに、ポチは拍子抜けしてしまいました。「なんだよ。もう女心となんとやらって、わがままが芽生えちまったのかよ。末恐ろしいやね」ポチは、晴香ちゃんが自分の所に来たのでは無い事を知ると、半分がっかりした素振りで、小屋に引き返しました。そして、小屋の前にうずくまりました。「おい、どこに行くのか知らねえが、そっちには藪蚊がたんといるからな、刺されると赤く膨れてカユイカユイになっちまうぞ」ポチは、不満な様子で「ウーウー」とうなるようにつぶやきました。
「こら!そっちに行っても何もねえぞ」ポチが、体を起こして晴香ちゃんに向かってワンワン吠え立てます。晴香ちゃんは、ポチのいる所を素通りして、家の横の垣根に近づいています。そちらには、幼児の興味を引くものなんて見あたりません。垣根の下から垣根の向うを行くダンプカーの排気ガスが入って来ているだけです。道の奥でビルの建築工事があるらしく、ここ数ヶ月、その道は、ひんぱんにダンプカーが行き来しています。それも、狭い道を一杯に使って、猛スピードで走り抜けています。でも、昼間だけの事ですので、ポチは何も気にしていませんでした。ポチがこの家を抜け出すとしたら夜の事です。だから、自分には全く関係無い事と思っていました。それに、じっちゃんの家は、不動産屋です。ここの家にも時々ダンプカーが入って来る事があります。下手にじゃま立てしたら、じっちゃんからポチは叱られてしまうでしょう。ここは、触らぬ神に祟り無しの精神で、入り込む排気と騒音を無視する事に決めていたのです。でも、今は黙っているわけにはいかないと思いました。何故だか分かりませんが、ポチの胸の奥に嫌な予感が走ったからです。
「おい、なに木の上見上げてんだよ!そんな所には何もねえよ。蚊に刺されっぞ!」ポチは、鎖を目一杯引っ張り、「ワンワン」と吠え立てます。でも、晴香ちゃんは、ちらっとポチの方を向き、「だめよ。そんなに騒いじゃあ」とたどたどしい言葉で言うと、またポチに背中を向け、垣根に向かいます。垣根の上では、雀達が、チュンチュンさえずって遊んでいます。ポチが、ワンワンと吠え、鎖をガシャガシャと鳴らすと一時的に飛び立ちますが、雀達は、すぐに戻って来ます。雀がポチの声に驚いて飛び立つと晴香ちゃんは、後を振り向き、ポチを「メッ!」と言う感じで睨みます。ポチには、初め何を怒られているのか分かりませんでしたが、何度目かでようやく理解しました。晴香ちゃんの目的は、生垣の上で遊ぶ雀だったのです。雀を近くで見ようと、もしかしたら捕まえようとして、ここにやって来たのです。「なんだい、それならそれと早く言やあいいじゃん。俺だってこんなに心配しなかったのによ」ポチは、晴香ちゃんが外に出ようとしているのでは無い事を理解して、ペタリと尻餅を突きました。ポチはポチなりに番犬として緊張していたのです。
晴香ちゃんは、垣根の脇で「チュンチュンチュンチュン。小鳥さん」と言いながら遊んでいました。ポチは、横目でそれを見ながら大あくびをしました。そして投げ出した前足の上に尖った顎を乗せます。再び平和な空気がポチの周囲をおおいます。「へ、かわいいじゃねえかよ。チュンチュンだってさ。あのちっちゃな手なんて食べちゃいたいくらいにかわいいやな。あれが、よし子みたいになるなんて信じられねえやね」ポチは、ウトウトしながらも、目の端に晴香ちゃんの姿を置いて置く事を忘れてはいません。プロの番犬として、そうする事は、当然の事でした。
突然、生垣がワサワサと音を立てて揺れ動きました。道行くダンプカーが、じっちゃんの家の敷地すれすれに通ったため、生垣が揺れ動いたのです。その振動に驚いた雀が、ワッと飛び立ちました。「だめ~。行っちゃだめ」晴香ちゃんが、両手を伸ばして引きとめようとしますが、雀の群は道路の反対側に消えてしまいました。
晴香ちゃんが、雀の去った方をじっと見上げています。今までのように、すぐに戻って来ると思っているのでしょう。ポチも立ち上がり、生垣の向うに視線を送ります。ポチもまた、雀はすぐに戻って来ると思っていました。でも、幼児一人と犬一匹の願いも空しく、いつまでたっても雀は戻って来ませんでした。
「あきらめなよ。もう戻ってはこねえよ。雀ってのは、気まぐれな奴等だ。こちらの願いなど聞いちゃくれねえよ」ポチは、生垣のそばであきらめきれない顔をしている晴香ちゃんに向かって、静かに言いました。でも、晴香ちゃんは、ポチの方に振り向いてくれません。生垣の密生している葉の間から外を覗こうとしています。ポチの胸の奥から再び不安が首をもたげて来ました。
「おい!もうあきらめて家に入りな。てめえの怖いおかあちゃんが心配するぞ」ポチは、再び鎖をぐいぐい引いて、いざと言う時の自由を確保しようと努力しています。雀をあきらめきれない晴香ちゃんが、生垣の下を覗き込み、とうとうポチが出入りしている小さな穴を見つけてしまったのです。よちよち歩きの彼女から、その場所は少し離れています。でも、彼女は、その穴に向かって歩き始めているのです。その穴から外に出ようとしているのは、ポチにも分かります。そうなってしまったら、いかに危険な事であるか、ポチには分かり過ぎるほど分かっているのです。ですから、その穴に晴香ちゃんがたどり着く前に、彼女を引きとめなくてはなりません。「だれか!だれかいねえのかよ!娘が大変な事になっちまうぞ!」と、同時に家の中にも叫びますが、家からの反応は全くありませんでした。
「くそ!じっちゃんの奴、深く杭を打ち過ぎだぜ」ポチは、何度も何度も鎖を引っ張ります。思いっきり助走をつけてグイっと引っ張りますので、その度に首輪が首をグイっと締め付けます。でも、そんな事で躊躇はしていられません。晴香ちゃんは、ポチのすさまじい騒ぎにもいっこうに動じる気配は無く、ヨチヨチとおぼつか無い足取りではありますが、確実にポチの抜け穴に近づいています。「あの穴から外に出られたらヤバイぜ」ポチは、あせりにあせります。首輪でこすれて首の毛は抜け、赤い血がにじみ出ています。でも、この前抜け出したばかりなので、まだ杭はしっかりと地面に突き刺さっています。若者がいない時ポチは、このしっかり打ち付けられた杭を、日にちをかけてゆるくして抜け出していたのですが、今日はまだ日にちがたっていないので、なかなか抜ける気配はありませんでした。
「くそじじい!なんでこんなに深く打ち込むんだよ。てめえの孫がどうなってもいいのかよ」ポチは、家の中に誰かいるかも知れないとギャンギャンワンワン吠え立てます。じっちゃんは、ふらふらと出歩くのが好きなので、いない可能性は高いのですが、よし子さんはいるはずです。晴香ちゃんを一人にして出かけるはずがありません。でも、一向に「うるさいわよ!このバカ犬!」と言う野太い声は聞えて来ません。きっと通用口で誰かとしゃべっているに違いありません。よし子さんは、普段からポチをうるさい犬と思っているので、お友達とのおしゃべりを止めてまでと思っているのかも知れません。「こら!チビ!それ以上そっちに行くんじゃねえよ」ポチは、晴香ちゃんにもワンワンワンと吠え立てます。でも、晴香ちゃんは、確実に穴に近づき、もう数歩の所まで来てしまっていました。
晴香ちゃんが、とうとう生垣の穴の前までやって来てしまいました。そして、しゃがみ込み、穴から道路を覗いています。「おいチビ助!そんな所覗いても、面白い物なんてねえだろ?さあ、いい子だからこっちに来るんだ」ポチは、鎖を引くのをゆるめず、そして神に祈るような気持で、晴香ちゃんに話しかけます。でも、ポチが、どんなに怒っても、どんなに優しく話しかけても、晴香ちゃんの興味を引く事は出来ませんでした。
晴香ちゃんが、下から覗き込んでいる生垣の横を、ダンプカーが排気ガスを撒き散らしながら走り抜けて行きました。生垣の穴からも排気ガスが流れ込み、覗き込んでいた晴香ちゃんの顔を直撃します。晴香ちゃんは、その排気ガスとダンプカーの起こした振動にたじろぎ、尻餅をついてしまいました。「ほうれ見ろ。外は怖いのがよく分かっただろ?」ポチは、安堵しました。これで、晴香ちゃんは、外に出る事は無いと思ったからです。ダンプカーに驚いた晴香ちゃんも、ヨロヨロと立ち上がると、もうこりたとでも言うように家の方に体の向きを変えました。
「やれやれだぜ」ポチは、首の擦り傷に首輪が強く当たらないように気をつけながら、再び小屋の前に戻りました。晴香ちゃんが、家の方角にヨチヨチと歩き始めたからです。再び垣根の横をダンプカーが轟音とともに走り抜けると、びっくりしたように振り返りますが、もう後ろに戻ろうと言う気は無いようです。「おおかた、かあちゃんのおっぱいでも欲しくなったんだろうぜ。あんなよし子でも母親だかんな」ポチは、緊張をほぐすように大あくびをすると、小屋の前に座り込もうとしました。今の事件でかなり動いたため、疲労感が強く、ゆっくりと体を休めたいと思ったのです。でも、ポチに安息は訪れませんでした。
「チュンチュンチュンチュン」晴香ちゃんは、突然足を止めると、後ろを振り向きました。そして、「チュンチュン」と言いながら、再び垣根の方に歩き始めました。「おいおい。どうしちまったんだよ?」ポチは、座り込もうとした動作を止めて、晴香ちゃんが進む垣根の方に首を向けました。
「てめえ!この!雀のバカヤロウ!」ポチが、垣根に向かって、再び激しく吠え立てます。なんと垣根の上には、いつの間にか雀が舞い戻っていました。晴香ちゃんは、その雀の鳴き声を聞いて、再び垣根に向かって歩き始めたのです。せっかくうまく行くはずだったのに、全てが台無しになってしまいました。ポチの怒りは、再び現れた雀に向かって、爆発しました。
晴香ちゃんは、再び雀に向かってニコニコ顔で歩いています。さきほど逃げられたのがよほど悔しかったのか?その歩みは、さっきまでより速いように感じられます。もう、彼女の目には、雀以外は入っていません。家の中からは、あいかわらず誰かが注意をする声は聞えてきません。と言うより、ポチが見える範囲に人の気配はないのです。ポチは、再び、無駄になるかもと思いつつ、鎖をつないでいる杭を引き抜く努力を始めました。一度やめてしまったこの作業は、はげしい苦痛をポチに与えます。さきほどつけた首の傷の痛みが数倍に感じられるのです。でも、ポチはやらねばなりません。それで得られる報酬なんてほとんど期待出来ないでしょう。あるとすれば「ポチよくやった!それでこそニッポン男児」と、じっちゃんが頭を撫でてくれるくらいでしょう。そんな事、割に合わない事は分かりきっています。でも、ポチは、この割に合わない仕事を放棄する事が出来ないのです。割に合わなくても、家族の利益を守る。それが、番犬と言う者の仕事だからです。
「てめえ!このバカ雀!なんて事しやがんだ」首の痛みを忘れるほどの怒りが、ポチの後ろ足に力を与え、鎖を引く力が倍になりました。踏ん張るポチの後ろ足が、かたい地面をえぐります。なんと、垣根の上にいた雀の中から二羽が、地面に飛び降りたのです。それを見た晴香ちゃんは、前につんのめりそうになるくらい上体を前に傾けて前進します。ポチには、その動きが、さっきまでの速度の倍に感じられます。ヨチヨチ歩きの晴香ちゃんですから、実際はそんな事は無いのですが、焦っているポチには、とても速く感じられるのです。そして、さらにポチの怒りを増す行動に雀が出ました。なんと、その二羽は、あの垣根の穴に向かってチョンチョンと跳びはねて行くのです。その行動は、ポチから見れば、どう見ても雀が晴香ちゃんを誘っているとしか見えません。雀の悪意が、ポチをこれほどまでに怒らせたのです。「てめえ等!雀の分際でいい度胸じゃねえかよ!待ってろよ。今この鎖を外して、てめえ等を頭からかじってやっからよ!」ポチは、首の痛みなどすっかり忘れて、鎖をガシャンガシャンと言わせて引っ張り続けました。
「こら!娘待て!その穴をくぐっちゃいけねえよ!」ポチは、拝む気持で、晴香ちゃんに話しかけます。晴香ちゃんは、生垣の穴を、今まさに潜り抜け、外に出ようとしているのです。ポチの頑張りで杭は、だいぶグラグラとしてきました。あと一歩と言う所です。でも、その一歩を待たずに、晴香ちゃんは、雀を追って生垣の穴を潜り抜けようとしています。生垣の向うは、狭い道路です。ダンプカーが、生垣をこするように通り抜ける危険な道路です。大人でも注意に注意を重ねなければ命を落としかねない道路です。そこに怖いものなど知らない幼児が、危険が迫ったら空に逃げられる雀を追って飛び出そうとしているのです。ポチは、鎖を引きながらも、耳を道路に集中させます。踏ん張る足にも、道路からの振動を逃さないようにと神経を集中させます。そして、さらに渾身の力を込めて鎖を引きます。でも杭は、グラグラと弱気な姿を見せながらも、最後の所で踏ん張り、なかなかズボッと抜けてくれません。「あ・あ・あ!待て待て待て!道路に飛び出すんじゃねえ!」ポチは、あせりにあせって晴香ちゃんに叫びますが、晴香ちゃんは、とうとう生垣の外に抜け出してしまいました。
晴香ちゃんが、道に出てしまってからどのくらい時間がたったのでしょう?ポチには、まだぜんぜん時間がたっていないようにも思えますし、ものすごく長い時間が過ぎ去ってしまったようにも思えます。冷静に考えれば、実際はまだ一分か二分くらいでしょう。ダンプカーのブレーキの音も聞えていませんし、悲鳴や衝突音も聞えていません。ですから、晴香ちゃんに何かが起こったと思うのは、心配しすぎでしょう。でも、ポチの頭の中は、パニック状態でした。客観的に考えて、ポチが悪い所は全くみつけられませんが、番犬としての責任感が、ポチを追い詰めるのです。ポチは、パニックになりながらも必死に鎖を引き続けました。
ズボッ!と言う音と共にとうとう杭が、地面から抜けました。その勢いでバランスを崩したポチの体が、ころころと転がり、生垣の前で止まりました。擦り傷・打撲・打ち身・色々な痛みが、ポチの体にはありますが、ポチはそんなものは全く感じませんでした。ポチは、勢いづいた体が生垣の前で止まると、素早く立ち上がり、生垣の穴を目指して走りました。
「やべえ!」道路に飛び出したポチの全身の毛が逆立ちました。何を思ったのか知りませんが、晴香ちゃんは、道路の真ん中をヨチヨチと歩いて行きます。もしかしたらその先の電線にでも雀が止まっているのかも知れません。でも、その雀の姿は、ポチの目からは見えません。何故なら大きなダンプカーが、晴香ちゃんの目の前まで近づいているからです。ポチは、もうぜんとダッシュしました。間に合うかどうかなんて分かりません。間に合わなかったら晴香ちゃんと一緒に自分もペチャンコにされてしまうでしょう。でも、ポチは、それを恐ろしいと思う前に本能的に走り出していました。「飼われている家の人間を守るのが番犬の勤め」とポチの体が覚え込んでいるようです。
ダンプの運転手は、まだ晴香ちゃんの存在に気付いていません。一生けんめいに携帯電話で話し込んでいます。ポチは、必死に走ります。晴香ちゃんは、ようやく事態に気付いたようで、歩みを止めて立ちすくんでいます。ポチは、息を止めてダッシュしています。ポチが、ダッシュしてからまだ数秒の事です。ポチは、「できる事なら時間よ止まれ!」と神様にお願いしたい心境でした。
「ギィー!ギャンギャン!ギィギィギィギィー!」ダンプカーが、鋭く重い悲鳴を上げました。ようやく切羽詰った事態に気付いた運転者が、急ブレーキを踏んだのです。でも、ダンプカーは、わずかに横滑りをしながら、晴香ちゃんに迫ります。あと数メートル。晴香ちゃんとダンプカーの距離は、ほんのわずかです。あと数秒で晴香ちゃんは、ペチャンコになってしまいます。普通に考えたらポチと晴香ちゃんの距離では、ポチが晴香ちゃんを救い出すのは不可能に見えるでしょう。でも、ポチはあきらめません。ポチの頭の中には、無理だとかあきらめるなんて言葉は、カケラも浮かんで来ませんでした。ただ、晴香ちゃんの姿だけを目に焼き付けて更なる加速を試みます。
「ナムサン!」ポチは、一か八かに賭けました。後ろ足に力を込め、ひらりと空中に飛び上がりました。トラックの大きく恐ろしい顔が目の前に迫ります。ポチは、空中で晴香ちゃんの服の襟元をくわえました。そして、着地と同時に自分の方に倒れかかってくる晴香ちゃんの体を、首に渾身の力を込めて振り回します。晴香ちゃんの体が、生垣に向かって放り投げられるように飛びます。それと同時に、ポチも後足で道路を蹴り、飛び上がります。ポチの尻尾が、ダンプカーのパンパーの左端に触れ、チリチリとした鋭い痛みが走りぬけます。あと一歩で危機から抜け出せるはずでした。ダンプカーをスレスレにかわし、ポチの救出劇は、大成功するはずでした。でも、今日のポチは、困難を自分の方に引き込む運命にあったようです。
ポチが、ダンプカーから抜け出せたと思った瞬間、ポチの体は、グイッとダンプカーの方に引き寄せられました。引きずって来た長い鎖が、ダンプカーのタイヤに巻き込まれたのです。「グェ!」ポチの首が、引っ張られた鎖でギュッと締め付けらます。このままでは、ダンプカーのボディにポチの体は叩き付けられ、グチャグチャにされてしまうかも知れません。ポチが、放り投げた晴香ちゃんは、垣根の下の柔らかい腐葉土に着地したようで、土の上に足を投げ出したような形で座り込んでいます。「へへへ、娘はなんとか助け出せたようだな」ポチの頭にいろいろな映像が浮かび、そして消えました。生まれて何も分からない間に、この家に連れて来られた事。この家での楽しかった事。そして多くの辛かった事。悔しかった事。生涯ただ一匹の恋人との事。そして、若者とその仲間達の事。それらの映像が、考えると言うわけでも無いのに、ポチの頭の中を素通りして行きます。「へへ、どうやら、俺の一生も、これで終りのようだな」ポチは、覚悟を決め目をつぶりました。
「ブチ!」ダンプカーに振り回された衝撃でしょうか?ポチの首輪が、悲鳴を上げて切れました。悪運か?幸いか?鎖の戒めをとかれたポチの体は、巻き込むダンプカーの後ろをスレスレにすり抜け、じっちゃんの家と道を隔てた隣の家の垣根にぶち当たりました。
「イテテテテ!ああ、何とか、命だけは助かったようだな」隣の家の生垣の下で、ポチは、よろよろと立ち上がりました。ダンプカーにものすごい勢いで振り回されたポチの体にも、生垣がクッションになってくれたおかげで、大きなケガも無いようです。「さて、娘は無事か?」ポチが、道を隔てたじっちゃんの家の生垣を見ると、晴香ちゃんは、まだ足を投げ出してポカンとしています。「へへ、娘も無事だったようだな」ポチは、安堵のため息を吐き出しました。ポチが、迫り来るダンプカーに立ち向かい、晴香ちゃんを救い出すまでは、ほんの一瞬の出来事でした。でも、ポチの記憶は、とても曖昧です。何でポチが隣の家の生垣の下にいるのかさえも、はっきりとはしていません。ただ、晴香ちゃんを救い出せた事だけは、はっきりしています。ポチの記憶は、晴香ちゃんを救い出す事。その一点に集中していたのです。
ポチは、ポカンと座り込んだ晴香ちゃんの襟元をくわえ、じっちゃんの家の敷地内に無理矢理引きずり込みます。通り抜けて来たような穴は、その場所には無いため、ポチは晴香ちゃんをくわえ後ずさりしながら、尻で垣根の枝を掻き分けます。細い枝が、ポチの尻に折られてポキポキ悲鳴を上げます。折れ曲がった枝が、通り抜けた拍子に元に戻り、ポチの顔をベシベシと打ちつけます。その枝が、晴香ちゃんに当たらないように、自分の体で晴香ちゃんをガードしながら、ポチは後ずさりを続けました。
「ウエーン!」ようやく、じっちゃんの家の敷地内に晴香ちゃんを引きずり込むと、われを取り戻した晴香ちゃんが、突然大きな声を上げて泣きだしました。晴香ちゃんの体に舞い戻った魂は、驚きと恐ろしさだけを晴香ちゃんの体に持ち込んだようです。「なんだよ。今さら泣くなよ。このポチ様のおかげで、てめえは助かったんだからよ。ポチありがとうの一言があってもいいんじゃねえか?」ポチは、そう言いながら、晴香ちゃんの顔をペロペロと舐めてあげました。
「ポチ!やめなさい!」晴香ちゃんの泣き声を聞きつけたよし子さんが、ドスドスと音を立ててポチと晴香ちゃんの所に走って来ます。白いレジ袋を抱えている所を見ると、どうやら近くのコンビニにでも買い物に出かけていたようです。「なんだよ、よし子。今さら遅えじゃねえかよ。あんたの大事な娘は、このポチ様が、命を張って助けてあげたよ」ポチは、誉められて当然といった感じで、迫り来るよし子さんに言いました。当然です。あと少しタイミングがずれていたら晴香ちゃんもポチも、すでにこの世にはいなかったでしょう。ほんのちょっとだけ、運が意地悪をして、首輪の切れるのを遅らせていたら、ポチの命は、魂もろともダンプカーに押しつぶされていたはずです。ですから、ポチの言う事は、誰が見ても当然の事なのです。ただ、不安があるとすれば、そのポチの勇敢な救助を誰も見ていなかった事。それだけなのですが。
「ギャイ~ン!」ポチの体は、悲鳴と共に、三メートルほど吹き飛ばされてしまいました。走り寄って来たよし子さんは、その助走の勢いと普通の女性よりも重ための全体重を丸太のような右足に込めて、ポチの顎を蹴り上げて来たのです。当然、ほめられる。涙を流してお礼を言われると考えていたポチは、まったく油断していました。いえ、それは言い訳かも知れません。油断していなくても、ポチの体はボロボロでした。杭を引き抜きにかかった労力と命をかけた救出劇で、ポチの体はボロボロに傷つき、精神もヘトヘトでした。そこに、よし子さんの常人とは思えない蹴りが飛んで来たわけですから、たとえ油断していなかったとしても、その蹴りから逃れる事は不可能だったと思います。「こら!このスットコドッコイ!オカチメンコのよし子!てめえは、顔だけじゃなく、根性もひんまがっていやがるな!どこの世界に、自分の娘の命の恩人を足蹴にする奴がいるってんでい!」地面を二度三度転げたあと、よろよろと立ち上がったポチは、体とは裏腹に、りんとした声で言いました。
「ポチ!今度と言う今度は許さないわよ!私の大事な晴香ちゃんをよくもよくも」ポチの怒りの抗議を吹き飛ばしてしまうほどの形相で、よし子さんは、ポチを睨みつけます。「なんでぃなんでぃ!何を勘違いしてやがるんでぃ!俺は、こいつの命の恩人様だぞ。なあ?」よし子さんの形相にたじろぎながらもポチは、自分の名誉のために抗議しつづけます。そして、その唯一の承認である晴香ちゃんの方に視線を送ります。でも、ポチが、視線を送った先に晴香ちゃんの姿はありませんでした。ポチが、慌ててよし子さんの方に目を向けると、よし子さんの大きなお尻の後に、小さな手がしがみついているのが見えました。
「だからよぉ、分かってくれよ。俺は、そいつをいじめてなんかいねえって言ってんだろ?俺は、まじで、そいつを助けたんだってば」よし子さんの怒りの蹴りを巧みによけながらポチは、よし子さんの勘違いを訂正しようと努力します。「こんな理不尽な事があってたまるか!」と心の中では、怒り心頭に発していますが、ポチは、何とか誤解を解こうと努めます。やはりここは、大人の対応をしなければならないと思うのです。「よし子なんてもんは、俺様が本気になったらどって事ねえよ。ガブリと一噛みで、悲鳴を上げて逃げ出そうってもんだぜ。こいつは、本当の俺の怖さを知らねえのさ」ポチは、晴香ちゃんを命がけで助けたのをちょっぴり後悔していました。でも、その事は、たとえよし子さんに理解してもらえなくても、自分の勲章に違いないと思い直して、感情の爆発を押さえ込みました。それが、大人の男ってものだし、番犬の勤めとは、そういうものだと思いました。
「まあ、今日は大変だったな。さぁさぁ、ニッポン男児、つまらない事は忘れて一杯のめよ」その夜、じっちゃんが、日本酒を一升抱えてやって来ました。珍しくつまみも持って来ています。サラミソーセージとチーカマとサキイカです。「なんだよ。じっちゃんらしくもねえ。へへ、俺がガキをいじめたんじゃねえ事を理解してくれたのかよ。じっちゃんとは、長い付き合いだからな」ポチは、よけながらも何発も食らってしまったよし子さんの蹴りとパンチ。そして晴香ちゃんの救出劇で負った首の擦り傷と体全体の打撲。それらで動くのもしんどい体を無理矢理起き上がらせて言いました。じっちゃんの言葉に何となく違和感はありましたが、もやもやした気持ちを理解してくれるじっちゃんの存在が嬉しかったのです。
「月がでたで~たつ~きが~で~た」庭の隅では、ポチとじっちゃんの宴会が続いています。「あれだね。やっぱ日本酒はいいやね。ニッポン男児として生まれたからには、やっぱ日本酒だやね」ポチは、昼間の悔しさをすっかり忘れて上機嫌です。歌いながら跳ねまわります。「これこれ、その酒臭い舌で顔を舐めるな。俺の顔がベタベタになるじゃねえか」時には、じっちゃんに抱きつき、そのテカテカの脂ぎった顔をペロペロと舐めてあげます。時々風が吹き、木々の葉をざわざわ言わせます。天辺の木の葉の間から、夏の月が、涼やかな顔を覗かせます。男ポチ。ニッポン男児ポチは、細かな事にこだわる性格ではありません。昼間のあんな出来事でさえも、さらりと水に流してあげます。ポチには、ご主人様であるじっちゃんが、こうして酒を下げてポチの所まで来てくれた事が嬉しいのです。ポチには、昼間のよし子さんの蛮行を、じっちゃんがわびてくれているように思えるのです。だから、普段にも増して酒がぐいぐい喉を通るし、何物にも変えられないほど旨いのです。何だかんだ言いながらも、これだからポチは、じっちゃんが好きなのです。じっちゃんのために働けるのです。だから、だから、ポチは、時々しんみりとした表情も浮かべて、宴会を楽しんでいました。
「ま、ポチあれだ。てめえが頑張ってる事は、俺は認めてるぜ。今日の事も男の仕事としては、スマートさにゃあ欠けているが、不器用限りねえもんだったが、てめえなりに頑張って晴香を救ってくれた。それは、俺は認めてるよ。物足りなさは、残るっちゃあ残るがよ」宴もたけなわ。ポチが、浮かれて踊りまくっている時に、じっちゃんが冷めた目でぼそっと言いました。「なにを!て言う事は、じじい!てめえは、俺の救出劇をどこかで見ていたって事かい?それなのに、よし子の勘違いを訂正してくれなかったつう事かい?てめえ!このクソじじい!とんでもねえじじいだ」ポチは、酔いが一変にさめてしまいました。じっちゃんは、どこかでポチの救出劇を見ていたらしいのです。そして、自分から晴香を助けようともしないで、ポチに任せていたらしいのです。ポチは、何も知らない内に、じっちゃんに命がけの仕事をさせられていたらしいのです。そして、よし子さんに蹴飛ばされている時に、そのひどい仕打ちをどこかから見ていたらしいのです。「このじじい!よし子よりずっとたちが悪い!」怒り心頭に発したポチは、その怒りに任せてじっちゃんの尻をパクリとかみました。もちろん、ケガなどさせないようにパクリと。
「ふ~ん。そんな事があったのか?そりゃあ悔しいな」あの日から二三日たってふらりと現れた若者が、ポチの横で同情的な言葉を吐きました。「別に同情してくれなくてもいいさ。俺にとっちゃあ日常茶飯事の事だからよ。ただ、今度の事はよ、まじで命がけだったからよ。悔しくて悔しくて」ポチは、ザワザワと騒ぎ立てる梢を見上げ、歯軋りしました。「オヤジさんに同情なんて失礼な事しねえよ。俺だったら、そこで暴れてここを飛び出しているさ。オヤジさんの我慢強さには、ほとほと感心するよ」若者も上を見上げ、口の端に笑みを浮かべて言葉を返します。「何が『感心するよ』だよ。それじゃ、俺はてめえに皮肉言われているみてえじゃねえかよ」ポチも口の端で「フフフ」と笑いながら言います。「ちょっとな」若者が、大きく口を開けて「ククク」と笑います。「なにょお!」ポチが、若者に飛びかかり、若者が応戦して、しばらくの間、庭の隅で、二匹のじゃれ合いが続きました。
「で、今日は何の用事だい?俺には、てめえが俺より深刻な問題を抱えているように思えるがな」あいさつ代わりのじゃれ合いが一段落した所で、ポチが話を切り出しました。若者は、ゆっくりと前足を折り込み、ポチの横にうずくまるように腰を下ろしました。でも、梢を見上げなかなか喋り出しませんでした。ポチは、そんな若者の横顔を見詰め、こちらも黙ったままです。「オヤジさんよ。俺は今困っちまっているんだよ。そこでオヤジさんの意見が聞きたくてよ」ちょっぴりと緊張を含んだ沈黙が続いた後、若者が口を開きました。「俺なんかの意見じゃあ、ていした力にゃあなれねえよ」ポチは、「フッ」と鼻先から息を吐き出し、気取ったように言いました。「ま、確かにいい意見なんて期待しねえけどよ」若者が、ポチの頭を前足でチョコンと突きます。「言ってくれるじゃねえかよ。俺は謙遜してんだよ。何でも聞いてやるから早く吐き出しちまえよ」ポチは、ひたすら余裕を持った態度で若者の頭を尻尾でパタパタ叩きました。
「あのなあ、これは、他の誰にも話せねえ事だから、その耳をさらに立てて聞いてくれよ。これは、オヤジさんにしか解決出来ねえ問題なんだからよ」若者は、立ち上がり、ポチに尻を向け、強い口調で言いました。「な・なんだよ。急に真面目くさった言い方すんじゃねえか。俺は、いつでも真剣だぜ」ポチは、座ったままで、言い放ちます。それを聞いた若者の肩が、笑っているように小刻みに震えます。「あ!てめえ今笑ってんだろ」それに気付いたポチが、立ち上がります。「笑ってなんかいねえよ。おもしれえ話だけど。笑うなんてことは」そう言いながら若者の体が、ククククと震えます。「あ!やっぱり笑ってやがる」ポチは、若者の尻を蹴りました。若者もポチの攻撃に反撃します。でも、その表情は、明らかに笑いを堪えている表情でした。
「あのな、柴犬ハナと雑種のテツが、色恋ざた起こしてんの知ってるよな」再び、じゃれ合いが続いた後、若者がポチに唐突に言いました。「ああ、うわさていどだがな。話ってそんな事かい?俺は、若え奴等の色恋ざたに関知する気はねえよ」ポチは、さもつまらなそうに横を向きました。「俺だって、色恋ざたに首を突っ込むほどおろかじゃねえや。でもなあ、近頃ハナの気持がぐらついているみてえなんだよ。どうやら、別の奴に興味を持ち始めたらしい」「それだって、よくある事じゃねえかよ。てめえも物好きな奴だぜ」ポチは、口の端を歪め、フンと鼻を鳴らしました。「かも知れねえが、今度ばかりは、黙っていられねえのよ。テツに頼まれちまったんだよ。ハナの惚れている新しい奴の気持を聞いてくれってよ」「そりゃあよ、てめえは奴等のボスなんだから、面倒を見る必要もあろうってもんだ。でも、俺はごめんだぜ。てめえが、その相手に聞けねえからって、俺に代わりに聞いて来てくれって魂胆だろ?でも、いくらてめえの頼みでも断るね。俺は、今さら色恋ざたに首なんて突っ込みたくねえからよ」「いや、オヤジさんに代理で聞いて来てくれなんて野暮天は出来やしねえよ。俺は、テツに頼まれたそいつに直接聞きに来たんだよ」若者が意味深にフフンと鼻を鳴らします。でも、ポチは、どうも納得がいかないようです。「なんだよ。俺の所には、そのついでに寄ったっつう事かよ。寂しい理由じゃねえかよ」当然、ポチは、若者が自分に会いたくて来てくれたと思っていました。でも、色恋ざたのついでとは、ちょっぴり臍を曲げたくなってしまいます。
「まだ分からねえのかよ。まったく、鈍い男だねえ。オヤジさんはよ」「なにょ!てめえ、俺と一戦交えようってか?俺は、いつでもいいぜ」「俺は、嫌だね。こんなじじいに勝ったからって自慢にもならねえや。あのなあ、俺は、そいつの所に来たんだよ、直接。どこにも道草しねえでよ」「ど・どう言う事だよ!てめえの言い方じゃ、まるで、俺がハナの相手みてえに聞えるじゃねえかよ」ポチの言葉に若者は答えず、フフンと鼻を鳴らします。「お・俺か?そのテツのライバルってやつは、俺って事か?パ・バ・バ・バカ言うな。俺は、愛だの恋だの語るガラじゃねえよ」ポチは、若者から視線を外し、前足で地面をガリガリ引っかきます。「あのなあ、オヤジさんは、にぶいから気付かねえかも知れねえが、俺のグループの女達の中じゃあ、オヤジさんは結構人気者なんだよ。みんながみんな恋心を抱いているとは言えねえが、オヤジさんに憧れてる子は多いや。もちろん、その気持は、ほとんどの奴等が押さえ込んでいるがな。でも、ハナは、違うよ。もともと積極的な女だ。自分の気持を隠して置く事なんて出来やしねえや。テツもな、相手がオヤジさんなら潔く身を引くつもりだぜ。だから、俺にオヤジさんの気持を聞いて来てくれって頭を下げて来たんだよ」若者が、少し困ったような顔をします。ポチは、前足をガリガリガリガリ動かし、とうとう深い穴を掘ってしまいました。
「あのな、俺はもう恋だの愛だのってには、興味がねえんだよ。ハナや他の連中が嫌いじゃねえぜ、大好きだよ。ただし、仲間としてな。俺は、その昔一世一代の恋をした。その恋は、まだこの胸の奥でくすぶってやがんのよ。俺の心の奥底をジリジリと焦がしてやがる。とてもとても他の女と恋するなんざ出来ねえそうだんだ。ハナの気持は嬉しいが、俺はテツとハナが恋を続けられる事を望んでいるし、応援もする。悩みの相談に乗ってもいいぜ」ポチは、空を見上げ、遠いところを見詰めながら言いました。
「一世一代の恋か。オヤジさんらしいぜ。分かったよ。テツには、オヤジさんの言葉をそのまま伝えるよ。ハナには、オヤジさんから話してくれよ。いいや、直接じゃなくていいさ。オヤジさんの一世一代の恋って奴を語ってやってくれ。それが、一番ハナや他の女達を傷つけない方法だと思う。俺もオヤジさんの恋とやらを聞いてみたいぜ」「やなこった。俺の心は、俺だけのもんよ。誰が昔の色恋ざたをみせびらすか」ポチは、フンと横を向きました。でも、ポチの尻尾は、パタパタと振れていました。
「恋か?もう大昔の事のようだぜ。ハナの気持は、正直嬉しいぜ。俺の中に一瞬熱い物がこみ上げちまったよ。でもよ、俺の中には、まだシンシィーがいるんだよ。こればっかは、消し去る事は出来ねえよ」ポチは、長くて美しい真っ白な毛を持ったシンシィーを思い浮かべました。目をつぶれば、彼女の育ちのいい匂い。優しくおっとりとした仕草。ポチの全てを包み込んでくれた温かい体。その全てが、リアルに思い出され、今でも目の前にシンシィーがいて、その優しい眼差しで見詰めていてくれているような錯覚に囚われてしまいます。「ちきしょうめ!」ポチは、立ち上がると木の葉の間から見えている星空に向かって「ワォーン!」と叫びました。もちろん、夜中ですから、家の者を起こさないように。とくに、空き缶や空き瓶を投げさせたら右に出る者がいないほどコントロールのいいよし子さんを起こさないように、気をつかいちょっぴりセーブして「ワォーン!」と三度声を上げました。
「ポチ!あの泥棒猫を追え!」じっちゃんとの日課となってる散歩の途中、商店街に差しかかるとじっちゃんが叫びました。見ると、一匹の猫が大きな鯵をくわえて走って行きます。その後を出刃包丁を持った魚屋さんが、大声を上げて走って行きます。「なんだよ。ありゃあ、お嬢じゃねえかよ。まったくよくやるぜ」ポチは、じっちゃんの命令にもかかわらず、のんびりとその光景を眺めています。「こりゃ!ポチ!どうした?ニッポン男児ここにありと言う所を見せるチャンスじゃねえか。直ぐにあの猫を引っ捕えてお白洲に引き立てんか」のんびりと構えているポチを見てじっちゃんが、頭から湯気を立ててがなり立てます。「まだ老け込むのは早いぞポチ!ニッポン男児の心意気を前面に押し出し走らんか!」「へいへい、それじゃあ、ちょっくらと行ってきましょうかねえ」立場上、余り無視し続けるのもまずいと思ったポチは、尻尾をピンと立て、全速力にはほど遠いスピードで走り始めました。
「おい、お嬢、そこにいるんだろ?出て来いよ」ポチは、商店街から少し離れた小さな神社の境内まで来ると、狛犬の前に座り声をかけました。すると、狛犬の後から、野良猫のリーダーであるお嬢が顔を出しました。「ちぇ!人間は簡単にまけるけど、あんた相手じゃあ分が悪いねえ」と鯵をポチの前に落として言いました。「まったく、よくやるぜ。てめえは、人間達の嫌われ者だからな」ポチが、目元をゆるめながら言いました。「嫌われて本望だよ。あんな生き物に好かれたくは無いね。で、どうすんだい?あたいをあいつ等の所に連れて行こうってかい?オヤジさんに捕まるんなら本望ってもんよ。あたいはどこでも出て行くよ」「ちぇ!よせやい。俺をみくびるなよ。仲間を売るなんて、俺には出来ねえそうだんだぜ」ポチは、ゆっくりと立ち上がりました。「あたいは、いいんだよ。オヤジさんに突き出されるなら本望ってもんだよ。あたいの最愛なるオヤジ様ならね」お嬢が、ポチにウインクを送ります。「よせやい。年寄りをからかうもんじゃねえよ。それより、その魚の尻尾と、お嬢が飲み込んでいる毛玉を吐き出してくれよ」「そんな物でいいならお安いご用だけれど、そんな物どうすんだい」お嬢が、狛犬の頭に乗って怪訝そうな表情をします。「細工は上々仕上げをごろうじろってやつよ。まあ、いいから俺に任せておけよ。その魚は、子供達にたべさせるんだろ?てめえの子供でもねえのに大変だな」「なんだい、知ってたのかい?ボスにしか話していないのにねえ。オヤジさんには、かなわないねえ。そこが女心をくすぐるんだよねえ」ポチは、地面を引っかき「へへへ」と照れ笑いをしました。
「いやー。あの猫はすばしっこくてよ。捕まえるのに苦労しちまったぜ。残念だが、魚は、俺がとっ捕まえた時は奴の腹の中に納まっちまってたよ。あきらめな。まあ、そのかわりと言っちゃあなんだが、奴には嫌ってえほど折檻をくわえてやったよ。ほれ、これがその証しってもんよ」ポチは、じっちゃんと魚屋の前に、鯵の尻尾とお嬢が吐き出した毛玉を放り投げました。
「キャー!引ったくりよ。誰かそいつを捕まえて!」また、ある日じっちゃんと散歩していると前方から悲鳴が聞えて来ました。「ポチ!引ったくりだ。これこの時こそが、ニッポン男児の美しき正義感の見せ所。さあ、あいつを捕まえて、てめえの素晴らしさを世間様に分からせてやんな」じっちゃんのいつもながらの無茶苦茶な指令にもめげずポチは、勇躍飛び出しました。「相手が、人間の泥棒なら遠慮する事はねえや。ギトギトにやっつけてやるぜ」日頃無茶苦茶されている人間に対して、今日は大手を振って反撃出来るのです。ポチが嫌がるはずがありません。人間の泥棒を捕まえるのなんて、ポチにとっては何の苦もありません。足は遅いし、塀の上にジャンプ出来る訳でも無いし、穴を掘って潜り込むなんて芸当も、人間には出来やしません。ましてや、鋭い牙も長くて硬い爪さえも持っていないのです。ポチは、あっと言う間に引ったくりを路地の突き当たりに追い詰めました。
「くそ!こいつ、刃物を持っていやがったか。まったくよ、往生際の悪い奴だぜ」路地に追い詰められた引ったくりは、懐から刃の長い小刀を取り出すと振り回し始めました。でも、その目には、牙をむき出してにじり寄る、ポチに対する恐怖がありありと浮かびあがっています。「し!し!あっち行け!」刃物を振り回しながら、ポチを威嚇する声も震え気味です。「へ!そんなナマクラ刃物なんて怖かねえよ。てめえがいくらそんな物振り回しても、俺の動きについてこれやしねえんだからよ」男の恐怖心を見切ったポチは、刃物におびえる事も無く、じりじりと引ったくりに詰め寄って行きました。
「うわー!何だ何だ?」塀の上に突然黒い影が現れ、刃物を振り回す引ったくりの顔目がけて飛びかかりました。そして、鋭い爪をむき出しにして、男の顔を引っかきます。「ちぇ!お嬢かよ。いい所を持っていかれちまったな」それは、塀の上にかかる木の枝で昼寝していた、野良猫のお嬢でした。木の上から下の騒ぎを覗き込み、ポチの危機と思ったお嬢が、木の枝から塀の上にポンポンと移動して、間髪を置かずに引ったくりに飛びかかったのです。それは、忍者のように音も無く、そして素早い見事な攻撃でした。そのお嬢の攻撃ひるんだ引ったくりは、刃物を手から放り投げてしまいました。
ポチが、引ったくりの足に鋭い牙を突き立てます。「ひゃ~!痛い痛い!誰か助けて」引ったくりは、ポチとお嬢の連携した攻撃にたまらず路地を転げまわります。ポチは、遠慮無しに引ったくりに攻撃をしかけます。長年積み重なったうっぷん晴らし。ポチは、目の前の人間に容赦しません。でも、やっぱり相手は、人間様ですから、大きなケガを負わせないように細心の注意を払いながら。
「ポチよくやった」パトカーに乗せられた引ったくり犯を見送りながら、じっちゃんが、珍しい事にポチの頭をぐしゃぐしゃと撫でています。「よせやい。俺としちゃあ、どって事ねえ事件だぜ。誉められる筋合いじゃねえやい」と言いつつもポチは、嬉しそうです。アスファルトをパタパタと尻尾がはたくのを見ても、塀の上のお嬢にウインクを送ったのを見ても、ポチの心の内は、言葉とは裏腹にまんざらでも無い事が分かります。
あれから、ポチとじっちゃんは、街で少しばかり有名になりました。じっちゃんが、ポチの活躍で引ったくり犯を捕まえたと言う事で、地方紙に載ったのです。それも写真付きで。じっちゃんの傍らにポチも載りました。それから、散歩の度に街の人から声をかけられるようになりました。でも、それは一週間もすると鎮まり、ポチは日常の平凡な生活に戻りました。ポチの周りに人間達が寄って来ていた時は近づかなかった若者達も、ポチの前に顔を出してくれるようになりました。「へへへ、やっと静かになったぜ。有名になっても得する事なんて何もねえや。俺には、この生活の方が満足ってもんよ」ポチは、煩かった日々を振り返り、平凡な日常のありがたさを知りました。でも、そんなポチの平凡な生活を破る事件が目の前に迫っていました。
「ちぇ!今年は雨がよく降る年だぜ」ポチが、道に出来た水溜りをひらりと飛び越し、つぶやきました。後ろで鎖を握っているじっちゃんは、ひらりとはいかないので、水溜りを大回りします。「グェ!」そのため、ポチの首は、ギュッと引っ張られ、せっかく飛び交えた水溜りに足を入れてしまいました。「てめえ!じじい!これじゃあ、飛び越えた意味がねえじゃねえかよ!こんな水溜りくれえ、スパッと飛び越えろってんだ!それでもニッポン男児か!」「ほほう。水溜りが、そちこちに出来ておるな。雨もまたよし。夕立やドジな番犬尻濡らし」でも、ポチの言葉など理解するはずも無く、じっちゃんは、風流を気取って、さらに俳句をひねるそぶりで怒るポチを横目でチラチラと眺めています。
「きゃあ!誰か誰か!そのベビーカーを止めて!赤ちゃんが!赤ちゃんが!」坂道の近くまで歩いて来た時、突然悲鳴がわき上がりました。ちらりと坂道の方を見ると、黒いベビーカーが勢いよく坂道を下りてきます。「こりゃ大変じゃ!ポチ発進!」そのベビーカーには、赤ん坊が眠っています。その後方をお母さんらしい女性が必死に走って来ます。尋常な状況で無い事は一目で分かります。「今この時こそが、ニッポン男児のニッポン男児たる所を見せ付ける時だ。ポチ!その命に代えても救い出すのじゃあ!」じっちゃんが、興奮して叫びます。でも、ポチは、とっくに走り出していました。ポチには、ニッポン男児だろうが、アメリカ男児だろうが、どうでもいい事でした。ポチが、躊躇していたら、ベビーカーの子の命はありません。ポチの体は、自然と救出に向かっていたのです。
ベビーカーは、ぐんぐん加速します。追いかけていた女性が、転びます。坂道の先は川です。あの若者達が隠れている暗渠に続く川です。そして、その川の水量は、以前ほどでは無いにしても、再び上昇し、流れは速くなっています。つまり、坂道は、ポチ達が歩いて来た道とぶつかると、その先はありません。丁字路になっているのです。ポチは、その丁字路の交差点に向けて全速力で走ります。ポチの体が、大きく伸び、そして縮みます。ポチの体が、しなやかに宙を舞います。着地した足が、力強くアスファルトを蹴り上げます。しかし、ポチの脚力を持ってしても、ベビーカーにたどり着くのは至難な業でした。
交差点のむこうの道から車が来るのが見えます。その運転手には、坂道は死角になっていて見る事は出来ません。そのまま交差点の中に車が進入するとベビーカーをはね飛ばしてしまう可能性があります。「止まれ!そこの車止まるんじゃ!」ポチの後方で、じっちゃんが走り初めました。じっちゃんが手を振ります。大声を上げます。ポチは、車をじっちゃんに任せて、赤ちゃん救出に全力を尽くす事にしました。
ポチが、交差点に到着しました。前から来る車は、じっちゃんの叫び声か仕草に気付き急ブレーキを踏みます。赤ちゃんを乗せたベビーカーは、ものすごいスピードで交差点に迫って来ます。ポチは、ベビーカーに向かって突進します。体当たりして止めようかとも考えましたが、それでは乗っている赤ちゃんが放り出されてしまう可能性があります。それに猛スピードのベビーカーにぶち当たれば、ポチの体もただではすまないかも知れません。とても、痛い思いをするでしょう。ですから、ポチは、ベビーカーの後に走り込み、ベビーカーの鉄の枠を噛んで止める事にしました。
「あれ?こりゃ考えていたより難しいぜ」ポチは、あせりました。猛スピードで坂を下って来たベビーカーを追いかけながら、その枠に噛み付く事は、想像以上に難しい事でした。ポチが、「今だ!」と思って大きく口を開け、座席の下の枠に噛み付こうとしても、ベビーカーは、ポチの口からするりとすり抜けてしまいます。道の傾きの微妙な差でスピードが急に速まったり凹凸で揺れたりして、ポチの口にうまく収まってくれないのです。ポチは、あせりにあせりました。丁字路の交差点は、目の前です。このまま真っ直ぐに進んだらガードレールにぶち当たってしまいます。ポチは、何度もチャレンジしました。でも、何度やってもポチの口は、ベビーカーをとらえる事は出来ませんでした。
とうとうベビーカーが、交差点に入り込んでしまいました。「こりゃポチ!それでもニッポン男児か!そんなちっけぇ乳母車なんぞ、体当たりしてでも止めんか!」じっちゃんが、真っ赤な顔して叫びます。ポチもベビーカーを止める手段は、体当たりしか無いと思い始めていたところでした。ここまで来ては、ケガが怖いとか痛いとか言っていられません。番犬として人間が目の前で危機を迎えているのを黙って見過ごすなんて出来ないのです。ポチは、ベビーカーの前に回るため更に加速をつけて走り始めました。でも、たとえベビーカーの前に回り込めたとしても、川と道の境ぎりぎりになるでしょう。ガードレールとベビーカーに挟まれるか?弾き飛ばされて川に落ちるか?どちらにしろポチにとっては、最悪の結果になる事は免れない事態です。それでも、やらなければいけないとポチの本能は言います。ポチの体にブレーキをかける事を許してくれません。ポチは、道と川の境のぎりぎりの所に向け走るスピードを上げました。
「しめた!あそこは、隙間じゃねえか」ポチの目が、ガードレールの切れ目をとらえました。ベビーカーは、ガードレールの切れ目に向かって突き進んでいるのです。ポチは、とりあえず、ガードレールとベビーカーの間に挟まれるのは回避出来そうなのです。ポチは、ケガをする確率が低い事を悟りさらにスピードを上げました。
「へへ・ようやく追いついたぜ」ポチは、川に落ちる直前で、ベビーカーの前に回り込む事に成功しました。ポチの後ろ足が、コンクリートで固められた川の縁にかかった状態です。「こうなりゃ一か八かよ。ナムサン!」ポチは、間髪を入れずに、ベビーカーに体当たりします。「ガシャーン!」辺りに衝撃音が走ります。同時にポチの肩にズシーンと強烈な加重がかかり、ポチの体が後ろに押し戻されます。相当な衝撃を体に食らったわけですから、激しい痛みを感じても不思議ではありませんが、ポチの体は痛みを全く感じませんでした。「アワアワワワ!」川の縁ぎりぎりでベビーカーに体当たりしたわけですから、そこで後ずさりした場合、結果は見えています。ポチの体は、腹を上に向けた状態で濁流が渦を作っている川に吸い込まれてゆきました。
ポチの目は、川に落ちる寸前、白い影が道を横切ったのをとらえていました。その白い影は、猛スピードで、ポチの救出現場に走り込むと、ポチとの衝突による衝撃で後ろの車輪を空中高く上げ、倒立する形で前のめりに転がりかけたベビーカーを、ジャンプしてくわえ、道に引き戻しました。ポチと一緒に川に転がり落ちる寸前の所で、ベビーカーは、道に引き戻されました。とても普通の者が出来る芸当ではありません。ポチが一瞬目に焼き付けた白い影は、若者でした。縄張りを見回るために川筋を歩いていた若者は、ぐうぜんポチの救出劇を目撃し、猛スピードで駆けつけてくれたのです。そして、寸前の所で、ベビーカーの中の赤ちゃんの命を救う事に成功したのです。赤ちゃんは、ベビーカーの中で大きな声で泣いています。どうやら大きなケガも無く元気なようです。
川に水しぶきが上がりました。ポチの体が落ちた衝撃で上がったものです。増水していたせいもありますが、その飛沫は、道にまで届きました。ポチは、何が何だか理解出来ないで、水底に沈み、濁流にキリキリ舞いしています。「く・苦しい!俺は、水が苦手なんだよ」ポチは、水にほんろうされ死を覚悟しました。何とか浮き上がろうとしてもがくのですが、なかなか浮き上がる事が出来ません。垂直に近い形で切り立った川のコンクリート壁に、何度も叩きつけられます。濁った水が容赦なく鼻から口から入り込んできます。さすがのポチも、この状態では死を覚悟せざるを得ませんでした。
「こりゃいけねえや!オヤジさん浮き上がってこねえ」若者が、ポチの異変に気付きました。上から覗くと、濁流にキリキリ舞いしながら流されるポチの白い体が、チラチラと見え隠れしています。若者は、ベビーカーが動いて川に落ちないようにガードレールのある所に移動させると、川岸を猛スピードで走り始めました。そして若者の白い体が、水面めがけ、ヒラリと宙を舞います。
「くそ!もう駄目!俺は、この汚ねえドブ川で一生を終えるんだ。俺は、一生けんめい生きてきたのによ。そりゃあ無いぜ」ポチは、大量の水を飲み込み、意識が薄れかかっていました。浮き上がろうとする気力も無くなり、濁流になされるままに浮き沈みしています。
ポチの目の前を白い影が過ぎりました。「シンシィー!なんだよ。久しぶりじゃねえかよ。俺を忘れねえでいてくれたのかい?これから、俺、お前と一緒に暮らせるかい?」ポチは、その白い影を、永遠の恋人シンシィーだと思いました。シンシィーが、自分の所に遊びに来てくれた。長年再開を夢見続けていたポチの願いが、ようやくかなったと思ったのです。ポチの意識は、花園にジャンプしました。シンシィーと二頭で花園を走りまわります。愛するシンシィーと一緒ですから、どんなに走っても疲れるはずもありません。ポチは嬉しくて嬉しくて、とうとう青い空に舞い上がってしまいました。真っ白い雲が浮かぶ空を、シンシィーと一緒にスィースィーと飛びます。下では、美しい花々が、柔らかい風のワルツに乗って踊っています。色々な辛いこともありましたが、ポチは、これでもう大満足でした。シンシィーと一緒なら何処に行ってもよいと思いました。
「おい!オヤジさんしっかりしろ!」ポチの首の皮を誰かが掴みました。いや、正確にはくわえました。ポチの体が、ぐいと水面に引き上げられます。「へへ、シンシィーは、強引だね」ポチは、薄目を開けて上を見ました。ぼんやりとした景色が開けてきます。濁流がジャブジャブと顔に打ち付けてきます。ポチの意識が、急速に戻りました。「な・なんだよ。てめえは誰だ?俺の可愛子ちゃんは、どこに行っちまったんだ?」「ははは、この後に及んでしゃれたじじいだぜ」ポチの寝言に近い声を聞いて若者は、ポチの首の皮をくわえたまま、笑い声を上げました。
「あ・あ・あ・ポチどこ行く?こりゃ!戦場離脱は重罪だぞ!」川の上では、流されて行くポチと若者を見て、じっちゃんが騒いでいます。「おい!そこの白いの。ポチと別な奴。お前は、見所がある。どうだ?我が家で働かんか?毎日汁かけ飯が食えるぞ」じっちゃんが、若者にも呼びかけます。どうやら、ベビーカーが川に飛び込むのを防ぎ、ポチを救い出した若者に興味を持ってしまったようです。「やなこった!人間の奴隷なんて真っ平だぜ」「奴隷で悪かったな」「な・何だよ。オヤジさん意識戻っていたのかよ。いや、今のは、オヤジさんの事を言ったんじゃねえよ。俺の考えを話したまでだ」「分かってるよ。てめえの心は俺にはよく分かる。俺だって、時たま自分が情けなくなる事があるからよ。てめえの言う事も一理あらぁ」ポチと若者は、濁流を流されて行きます。若者は、泳ぎになれているようで、うまく荒波をさばいて進みます。「どこまで行く気だい?岸があんな切り立ったコンクリじゃぁ、いくらてめえでも上る事なんか出来ねえぜ。俺を助けようなんてかっこつけっから、てめえまで窮地に陥っちまったじゃねえか」ポチが、チラリと上を見上げます。「心配ねえよ。あの穴倉まで流されればだいじょうぶだ。あの中には階段があるからな。それに俺の仲間達が大勢いる。みんなで助けてくれるさ」若者は、自信満々に言いました。「仲間を信じきってるんだな」ポチは、若者がうらやましいと思いました。
暗い暗渠の中に吸い込まれたポチと若者は、濁流に流されるまま階段にたどりつきました。仲間達が、へとへとに疲れているポチを引っ張り上げてくれました。「へへ、すまねえな。さすがの俺も水はどうもな。こいつに助けられちまったよ」ポチが、若者に頭を下げます。「よしてくれよオヤジさん。あんたは、あの坂道を暴走してくるベビーカーを、体を張って止めたんだぜ。あんな事した後にこの流れに落ちたら、俺だって同じだよ」ふがいない所をさらしてしまったポチが、しょげかえっています。それを若者や野良犬達がなぐさめます。ポチには、この暗くてじめじめした暗渠の中が、とても居心地のよい所に思えました。
「そう言えば、俺が上に引き上げた時、確か女の名前を呟いたような」いつまでもしょげかえっているポチの気持を変えようとしてか?若者が、冗談口調でそう言いました。「い・言ってねえよ。言ってねえってば」ポチは、顔を上げ、強い口調で否定します。そのギャップが、とてもこっけいに見えたので、暗い暗渠の中に爆笑が湧き上がりました。
「ま・言ったんだろうけど、言ってねえって事にしてやるか」若者が、さらに笑いを誘うような事を言います。「な・なんだよ。それじゃあ、言ったと言ってるみてえじゃねえかよ」ポチは、バツが悪そうに立ち上がります。「言った言わないは、もういいわよ。それより、私達は、オヤジちゃんの一世一代の大恋愛の話をいつしてくれるのか、心待ちにしているんだけど」メス犬達の中ではリーダー的存在であるリリーが、口元をゆるめながら言いました。年は、若者よりはずっと上。どちらかと言うと、ポチに近い年齢のメス犬です。「ちぇ!リリーには、かなわねえな。さけたい話をずばり切り込んできやがる」どちらかと言うとリリーは苦手なので、ポチは下を向いて地面をボリボリと引っ掻きます。苦手とは言っても、嫌いな女と言う意味では無く「リリーは、いい女だなあ」と時々見とれてしまう女。つまり、ポチが意識している女性です。でも、ポチの心の中には、意識すればするほど苦手意識も芽生えてしまいます。ですから、リリーに何か言われるとポチは言い返せないのです。若者もポチの気持に気付いているようで、ニヤニヤしながらも、二匹のバトルには口を挟まないように気遣っています。「なあ、リリーよ。お前も分かるだろ?俺達は、もう恋愛なんてとおの昔に捨てちまったのよ」それでもポチは、この時ばかりは、黙っている訳にはいかないので、リリーに苦しい同意を求めました。もしかしたら、同年代のよしみって奴で、逃がしてくれるかも知れないと薄い期待を持っていたのです。リリーに詰め寄られると、ポチには逃げとおせる自信はありません。結局、シンシィーとの恋物語を話さなければならなくなってしまうでしょう。「私は、まだ現役よ。こんないい女を誰がほっといてくれるもんかい。ねえみんな?」「あ~ら、オヤジさんだって、ほっとかないわよ」すぐさま、円陣を作った野良犬達の中から、黄色い声がポチに向かいます。もちろん、ポチをからかうつもりのヤジですが、まんざらからかいばかりではなさそうです。ポチは、円陣の真ん中で、益々小さくなってしまいました。
「まあなあ、てめえ等もいい女ぞろいだがよ、俺の中の女は、今でも彼女だけなのさ。他の奴が見たら笑われてしまう女なのかも知れねえが、彼女は、俺にとっては最高の女だったよ」ポチを囲んだ円陣が、しんみりとした雰囲気に包まれています。ポチは、そこまで話すと、何かを思い出しているかのように、投げ出した前足の中に顔を埋めました。ポチは、リリー達メス犬の気迫に押されて、とうとう自分の恋愛話を口に出しました。長い間、ポチの胸の中だけに育んできた大切な思い出です。それは、ポチにとっては、誰とも共有したくないほどに大切な思い出でしたが、この仲間達になら話してもいいと思ったのです。
ポチの生涯一度の恋愛は、要約すると以下の事のようです。今から五年ほど前、じっちゃんの家を抜け出したポチは、街中をうろうろしていて、大きな家の前にたどり着きました。じっちゃんの家屋敷も広いのですが、その大きな屋敷は、じっちゃんの家には無い、しゃれた感じの美しい家でした。じっちゃんの家は生垣に囲まれていますが、その家は、花の模様の金属のフェンスで囲まれていました。そのフェンスには、薔薇の蔓が絡みつき、赤や黄色や白の美しい薔薇の花が咲いていました。じっちゃんの庭は土がむき出しで、たくさんの大木が植えられていますが、その家の庭は、美しい芝生で覆われ、たくさんの花が咲いている庭でした。その美しい庭にシンシィーの姿を見かけた時のポチの胸の高鳴りは、口では表せないものでした。「その時の事を思い出すと、今でもドキドキするんだ」とポチが語った時、ポチの激しいときめきが仲間達に伝わりました。それからポチは、シンシィーのいる家に行くための涙ぐましい努力を話しました。ポチは、シンシィーに会いたくて、若さにまかせて何度も鎖を引き千切り、じっちゃんの家を脱出しました。でも、その多くは、ポチの空振りでした。それだからこそ、シンシィーの姿を見かけた時の天にも昇るほどの幸福感。その幸福感を求めてポチは、体が傷つく事もなんのその。じっちゃんが呆れるほど何度も脱出を試みました。また、じっちゃんとの散歩の時も、じっちゃんをぐいぐい引っ張って、無理矢理散歩のコースを変え、シンシィーの家の前を通り、シンシィーの姿を覗き込んだりしました。ポチは、若かったのです。そして、初めての恋だったのです。だから、心の底から燃え上がる情熱を抑え切れませんでした。
「君の名前は、シンシィーって言うのかい。ありがとうこんな僕と話してくれて」ある日ポチは、フェンス越しに、シンシィーと話す事に成功しました。と、言うより、家の人の目が無いのを見計らって、シンシィーの方から話しかけてくれたのです。その時の緊張と言ったら、口に出して表現する事は出来ません。「まるで、少年のようだったよ。言葉使いにも注意を払ってよ。使いなれねえ僕なんて言ったりしてよ」ポチは、ここで笑いを誘うつもりでした。でも、年代差によるギャップのためか?ポチの話が、真剣過ぎたのか?誰一人笑う者はいませんでした。
「それからよ、塀越しに何度も話したよ。そこの家の主人が、輸入会社を経営している事とか。女主人は、とても美人で優しくて、シンシィーを大切にしてくれる事とかよ。その頃の俺は、毎日が充実していたよ。シンシィーと別れると、直ぐに次に会う事を考えっちまう。そして、いつ彼女に俺の気持を打ち明けようかと、俺の頭の中は、その事で一杯だったぜ。今考えると恥ずかしい限りだが、そこが恋は盲目って奴だ」ポチは、そこまで言うと、身を乗り出して聞いているメス犬達にヘヘヘと笑いかけました。
「それは、星のきれいな夜の事よ。俺は、夜じっちゃんの家を抜け出すと、シンシィーの家の前まで行って、一晩中シンシィーの居る部屋を眺めていたよ。シンシィーの姿が窓にシルエットで映るだけで、俺は天にも昇るくらい嬉しかったぜ。だからよ、フェンスの外から、即興で作った歌なんか歌ったりしてよ。この俺が、そんなロマンチックな事してたんだぜ。遠慮しねえで笑ってくれよ。でねえと俺恥ずかしいじゃねえかよ」ポチは、照れ笑いを繰り返しますが、ポチの願いに応じてくれるのは、若者だけでした。それも、ぎこちない笑い声を上げるものですから、場の空気は、気まずいものとなり、さすがの大ボスである若者も、へへへと照れ笑いをして引っ込まざるを得ませんでした。
「その時は、ぐうぜん裏口の扉が開いていたらしく、俺が歌い始めると、シンシィーが俺の所に走って来たよ。俺は、チャンスだと思ったね。告白するには、この機会を逃すともうねえかも知れねえってな。だから、死んだつもりになって、俺のシンシィーに対する気持を打ち明けたよ」ポチは、そこまで言うと「もうこれで話は終わりだ」と言うような顔をしました。ポチにとっては、そこまでが他に話せる大恋愛で、その後の事は、死ぬまで胸に伏せておきたかったようです。
「それで?ねえ、それからどっなったのさ?もう、じれったいねえ。そこからが本番じゃ無いかい」いつまで待っても次を話そうとしないポチに、地団駄を踏んでリリーが言いました。「だから、俺の恋愛話は、そこで終りさ」ポチは、さらりと答えます。「何言ってんだい。オヤジちゃんが打ち明けて、その後どうなったのさ。シンシィーちゃんは、オヤジちゃんの気持に答えてくれたんだろ?」でも、仲間達は、それで話を閉めることを許してくれません。だって、その先こそが彼等の最も知りたい事だからです。
「ああ、彼女も以前から俺が気にかかってたって言ってくれた。俺が彼女の前に現れるのを心待ちにしていたってな。俺は、その言葉を聞いた時、嬉しくて嬉しくて、天にも昇れるほど体がふわふわしていたよ」ポチは、嬉しかったと言う言葉とは裏腹に、苦しげな表情でそこまで話すと言葉を飲み込みました。「よかったねえオヤジちゃん。私達は、もう感動しまくりだよ。ねえ?」リリーが、ポチの話しづらそうな表情を察したのかどうかは定かではありませんが、遠慮気味に言い、仲間達に同意を求めました。リリーの言葉に野良犬達全員がうなずきます。そこにオスメスの差はありません。「くやしいけれど、あたしの入る隙間なんてこれっぽっちもありゃしないって事はよく分かったよ。潔くあきらめて、テツで我慢してやるよ」ハナが、冗談交じりにテツの顔を覗き込みます。「オヤジさんなら俺も潔く引き下がろうって思っていたが、仕方がねえや。ハナは、俺が引取ってやるよ」テツが、負けじと言い返します。「何言ってんのよ。強がり言ってんじゃないよ。犬の世界じゃ女が男を拾ってやってんだよ」輪の後ろの方から誰かがちゃちゃを入れます。場の雰囲気が、急激に崩れて来ました。
「それでそれで?オヤジさんとシンシィー様は、男と女の関係になったの?」輪の中から、誰かが突然大きな声で聞きました。なごんだ場の雰囲気を利用して、真っ向から打ち下ろされた真剣の鋭さです。そのためポチは、ふいを突かれ、しばらくは声を出せませんでした。でも、仲間達は「よく言ってくれた。まさにそれこそが聞きたい事だったのよ」とでも言うように、目をきらきらと輝かせ「うんうん」とうなずきます。
「ああ、あったよ」ポチは、恥ずかしそうにして、とても小さな声で、とうとう告白しました。犬達が、とうぜんとうぜんと頷きます。中には、「イヤホー!」と奇声を上げるオス犬もいます。「それで?今でも続いているの?オヤジちゃんとその美しい彼女の仲は?」「とうぜん続いているわよ。きっと、浮気は駄目よ!って釘を刺されているのよ。そうでしょう?オヤジさん」「あら?男の中の男。オヤジちゃんが、尻に敷かれているの?それって、ちょっとかわいい」メス達が、かってに想像し、かってに話が飛躍してゆきます。でも、それとは反対に、ポチはうつむき今にも泣き出しそうな顔をしています。「どうしたのさ?そんな浮かない顔をして。まさか、シンシィーさんとの仲は、それ一回きり。と言う事じゃないよね」ポチの表情を見て、目ざといリリーが、たずねます。今まで浮かれていた野良犬達が、一斉にシーンと静まり返ってしまいました。
「ああ、一回きりだ」ポチが、暗闇で天井を見上げます。その言葉に野良犬達が、ざわつきます。彼等にとっては、まったく以外な事でした。ポチが、一世一代の恋と言うからには、当然その恋は、まだ続いていると思っていたのです。それほど睦まじい男女の仲が、たった一回で終ってしまったなんて、誰も考えもしなかった事でした。「なんだいなんだい。いい話だと情にほだされかけていたのにさ。がっかりだよ。シンシィーって女も冷たい女だねえ。こんな素敵なオヤジちゃんをいとも簡単に袖にしてしまうなんてさ」リリーが、ポチの心の傷を舐めてやろうとしてか?みんなに聞こえよがしに言いました。「そうだよ。今でもこんなに想っているオヤジちゃんが可哀相だよ」暗闇の中では、次々とシンシィーを避難する声が続きました。
「違うんだよ!みんな、なに勘違いしてんだよ。シンシィーは、そんなひどい女じゃねえよ。そんなひどい言い方されたら、シンシィーが気の毒だよ」ポチが、暗渠の中に響き渡る声をあげました。「どう言う事だい?今までの話を聞いたら、誰だってひどい話に思ってしまうじゃないかい。いったいぜんたい、オヤジちゃんと彼女の間に何があったと言うのさ。そこんとこ話してくれなきゃわかんないよ」リリーが、いら立ちを含めた言葉でポチに詰め寄りました。
「いなくなっちゃったんだよ」ポチが消え入りそうな声で言いました。「いなくなったって、シンシィーさんがいなくなったって事?」ハナが、輪の中から一歩前に出ました。「シンシィーだけじゃねえよ。シンシィーとシンシィーのご主人である人間の家族が、その家から忽然と消えちまったんだよ」その意外なポチの言葉に、暗渠の中の犬達は、一斉に唾を飲み込みました。
「俺は、ずっとシンシィーのそばにいたかった。でも、俺達は、どちらも人間に飼われていた身だ。俺達が望むほどちょくちょく会えるわけねえや。それは、俺達もよく理解していたよ。でも、俺は努力した。何とか抜け出す努力をな。でもなあ、シンシィーと結ばれてから、運の悪い事に、一月ほど俺は彼女の所へ行けなかった。じっちゃんが、出張とか言う旅に出ていてよ。散歩に行く事も出来なかったし、じっちゃんの奴、自分がいねえ時に俺が逃げ出して問題を起こされたらたまらねえとでも考えたのか、いつもより深く杭を打ち込み、いつもより太い鎖で俺をつないでいっちまったんだよ。俺が、いくら戒めを解こうとしても、ピクリともしやしねえや。じっちゃんが、帰って来て、勇躍シンシィーの家まで散歩に行ったんだ。でも、何故だかしらねえが、その家にシンシィーの気配は無かった。人間の気配さえもな。その夜、死に物狂いで暴れて、鎖をぶちきり、俺は、もう一度そこに行ってみた。でも、やっぱり誰もいなかった。フェンスを飛び越えて中に入ってみたんだけれど、誰の姿も見つけられなかったよ。じっちゃんと同じで、旅ってやつに出たと思って、それから何度も行ったんだけれど、とうとうシンシィーは、俺の前に姿を現してくれなかった。そのうちに、その家は取り壊され、建物さえも無くなっちまったのさ」ポチは、闇の遠くに見えている暗渠の入り口の光をみつめました。「これは、後で聞いた風の噂だがよ。シンシィーのご主人様が、事業に失敗しちまったって事だよ。それで、あの家を出るしかなかったらしい。だから、俺は信じてんのよ。シンシィーは、どこかで幸せに暮らしているって。だって、そうだろ?シンシィーは、引っ越しただけなんだからよ。それに、シンシィーに不幸なんて似合わねえよ。いつか、あの優雅で美しい姿を俺の前に現してくれるさ。だからよ、俺は、恋に封印したのよ。シンシィーを待つ事に決めたからよ」ポチは、今度こそ「恋愛話は、これで終りだ」と言う表情で、仲間達を見回しました。ポチの強い想いを聞いて、こんどこそメス達も納得したようです。みんな涙を薄っすらと浮べながら、ポチを見つめています。みんな、ポチに声をかけたいのだけれど、どんな言葉をかけたらいいのか分からないようです。
「さあ、もうこれでいいな?オヤジさんの話に満足したな?」若者が、輪の中から一歩進み出て、仲間達を見回し言いました。野良犬達は、オスもメスもみんな一斉にうなずきました。「ありがとうよ、オヤジさん。胸にしまっておきたい話を俺達のためにしてくれて。みんなもオヤジさんの気持ちは、しっかり受け止めたよ。もう愛だ恋だとオヤジさんにうっとうしい思いをさせる奴は出てこねえよ。少なくとも俺達の中からはな。な?そうだろ?」若者の言葉に、みんなは力強くうなづきました。
「へへへ、オヤジさんの話を聞いて、あやうく涙をこぼす所だったぜ」帰りの道で、若者が、ポチに向ってぼそっと言いました。「け!よせやい。らしくもねえ。俺は、お涙ちょうだいのために話たんじゃねえや」「わかってるよ。ただなあ、オヤジさんの一途な恋の話を聞いててよ。俺のかあちゃんの事を思い出しちまったんだよ」「てめえの母親のか?へへへ、してみなよ。その話。今度は、てめえが俺に話す番だぜ」ポチは、走るのをやめて川岸に腰を下ろしました。「ああ、俺もずっと胸にしまい込んできたんだが、オヤジさんには、聞いてもらいてえと思ってたよ。オヤジさんのさっきの話を聞いててよ。オヤジさんならかあちゃんの事を理解してくれそうな気がするよ。俺は、まだ理解できねえけどよ」若者もまた、ポチの隣に座り込みました。
「そうかい。てめえのおふくろさんも人間に飼われていたのかい」ポチが、静かに言いました。若者の話の腰を折らないように、さりげなく吐いた言葉です。「ああ、血統書付だと自慢していたよ。くだらねえ話だがよ。それが、かあちゃんの唯一のプライドだったんだろうよ。お前は雑種だけれど、私は血統書付よ。って、よく俺に言っていたよな。でもなあ、かあちゃんは、ある日家を覗き込んでいた男に惚れちまったんだと。とても、男らしくて、素敵な男だったっていつも言ってたよな。でもな、皮肉なもんだぜ、世の中って奴はよ。かあちゃんが、初めて恋をして身を任せたそいつのために、俺のかあちゃんは、人間に捨てられちまったんだ。いや、実際はどうかは分からねえけどよ。かあちゃんは、そう思い込んでいたよ。どこのどいつとも分からねえ犬の子を孕んだから人間に捨てられちまったってよ。よく、俺にぐち言ってたなあ」「そのどこの誰かも分からねえ奴の子供ってのは、てめえの事かい?」「ああ、俺の事だ。でも、勘違いしねえでくれよ。かあちゃんは、その事を後悔していなかった。俺のかあちゃんは、俺を身ごもったおかげで、ずいぶん遠くに捨てられちまったらしい。そこで、俺を産み落として、俺を連れて、かあちゃんは旅に出た。いや、実際には、兄弟が四匹いたんだが、その旅の途中で車に轢かれたり、飢えで死んじまって、最後に残ったのは、俺だけだったって事だけどな」若者は、そこまで言うと、母の面影でも追っているのか?遠くに視線を送り、口を閉じました。
「その旅ってのは、前に飼われていた主人のいる所に戻る旅だな。お嬢さん育ちで、はじめての出産で、子連れ旅か?その旅が、どんなにつれえものだったかは想像がつくよ」ポチは、若者に充分時間を与えた後、同情気味に言いました。「ああ、大変だったよ。命がけだった。縄張りも知らねえかあちゃんだったから、俺に食べさせる食べ物を得るのも命がけだったさ。その場所その場所の犬達にいじめられてよ。そりゃあ、みじめな旅だったよ」若者の記憶に母親の苦労がありありとよみがえったのか?若者の声が、一瞬詰まりました。ポチは、黙って耳を傾けています。「でも、勘違いするなよな。かあちゃんは、自分を捨てた人間の所に戻りたかったわけじゃねえよ。俺のとうちゃん。つまり、かあちゃんが一途に恋した男に俺を見せたくて、俺に、男の中の男のとうちゃんに合わせたい一心で、旅をはじめたんだよ」若者は、そこで何故だかポチの顔を覗き込んで、ニヤリと顔を緩めました。
「で?その旅は、ここが終点かい?」何だか知らない居心地の悪さを感じたポチは、話の先を急がせたいと思いました。「ああ、ここだ。ここが、かあちゃんと俺の目的地だったよ。この街にかあちゃんは、人間の友達として住んでいて、その人間に捨てられた。でも、かあちゃんには希望があった。俺のとうちゃんに会うって言うたった一つの希望を胸に、ようやくここまでたどり着いたんだよ。オヤジさんと同じで、まさに一世一代の恋ってやつさ。だから、オヤジさんの話を聞いていて、かあちゃんの姿がだぶってな」若者は、ポチの顔を見ているようで、実際は、ポチを通して遙か彼方を見ているような不思議な目をしました。「で、まだてめえのかあちゃんは、元気なのかい?その生涯をかけた男に会えたのかい?もしかして、今はその男と幸せに」ポチの言葉に若者は、強く首を振りました。
「死んじまった。この街に着いたら、すぐに具合が悪くなっちまってな。歩く事も出来なくなっちまってな。この先の公園だったよ。かあちゃんが息を引取ったのは。たぶん、その前から体が悪かったんだろうが、とうちゃんに会う事を一心に願って、歯を食いしばって、ここにたどり着いたんだろうな。ようやく、この街にたどり着けて、俺をここまでやっとの思いで連れて来て、きっと、それまでの力が抜けちまった・と・思う・・・」そこまで言うと若者は、はた目もはばからず、声を上げて泣きました。ポチは、その若者の姿を黙って見つめていました。
「あいつ、かあちゃんの名前は聞いていねえ。なんて言ってたが、本当かな」ポチは、その夜一晩中眠れませんでした。若者の母親の事が気にかかって仕方がなかったのです。苦労してたどり着いた彼の母親とシンシィーの姿が重なってしまいます。「ありえねえ。シンシィーは、お嬢様だったから、そんな苦労なんかするわけがねえ」ポチは、同じ思いが胸の奥から湧き上がるたびに、首を振って否定します。「シンシィーは、どこかで幸せに暮らしているさ」ポチは、よい方によい方に考えようとしますが、その直後には、シンシィーがいなくなった年と若者の年齢を逆算したりしてしまいます。「シンシィーとは、たったの一回ぽっきりだったがよ、もし、あの時子供が授かっていてよ。もしこの世に生まれ出ていたら、ちょうど奴と同い年くれえだよな。いや、きっと、幸せにしてるさ。シンシィーも息子もよ」ポチの思いは、時には暴走して、頭の中で若者にそっくりな息子を生み出したりしてしまいます。「へへへ、ありえねえ話だよな。俺に子供なんてよ。でもよ、もし本当に子供が現れたら、何て言ったらいいんだ?やあ、苦労かけたねえ。僕が君のパパだよ。ってか。照れるじゃねえかよ」その夜、一晩中、じっちゃんの家の庭からは、奇妙なポチのうめき声が聞えていました。
その後数日は、ポチにとって平凡な日々が続きました。「ポチ!よくやった。赤ちゃんの命は無事救われた。赤ちゃんのお母さんもお前に感謝しておったぞ。命がけで他人の力になってあげて感謝される。これこそニッポン男児の誉れと言うものだ。あの赤ちゃんの母親は、とても綺麗な人だった。『何かお礼をしたい』って言っておったぞ。食事に招待したいと言ってきたらどうしよう。なあ、ポチ。もし、ご主人のいない時だったら、俺は、どうしたらいいと思う?もし、『かっこいい殿方』などと言われて迫られたらどうしよう?据え膳食わぬはなんとやらと言うし、ニッポン男児の辛いところよなあ」あの朝、ポチが無事に戻っているのを見届けたじっちゃんは、ポチの頭を撫でながら、ポチと若者が川に流された後の事を話してくれました。ポチと若者の連携で、赤ちゃんは、ケガ一つせずに助かったと言う事です。ポチは、ほっと胸を撫でおろしました。命を助ける事は出来たと確信していましたが、ケガはしているかもと思っていたからです。何しろ、相手は、まだ赤ん坊です。大人の体になっていない、とても柔らかい体です。ちょっとの事でも大事になってしまう可能性があります。その赤ちゃんが、ケガ一つ無かったと言う事ですから、ポチにとってもとても嬉しい事です。ポチは、尻尾をブルンブルン振って、じっちゃんに愛想を振りまきました。
じっちゃんは、それから若者の事もべた誉めしました。ポチは、更に喜びました。若者を誉められる事は、ポチにとって、自分が誉められる事より嬉しかったのです。あれから、事件らしい事件は起こっていません。ポチにとっては、平凡な生活が戻った感じです。平凡とは言っても、赤ちゃんを命がけで救ったと言う事で、ポチは再び新聞にのりました。今度は、全国版に写真入でデカデカとのったのです。おかげで、ポチの周囲は、少々うるさくなりました。平凡とは言いながらも、少しばかり落ち着けない暮らしです。じっちゃんは、鼻高々で、ポチを一日に数回散歩に連れ出します。ポチは、どこに行っても人気者です。新聞に名犬としてのったおかげです。ポチの行く所に人垣が出来ます。携帯電話で写真をカシャカシャ撮られます。体をベタベタ触られます。でも、ポチは、番犬ですから、いつも通りにしています。じっちゃんが、得意気で嬉しそうなので、ポチも悪い気分ではありません。ポチが有名になったおかげで、街の犬全体の地位が上がった感じです。昼間めったに顔を合わせる事が無かった若者のグループの犬達の顔も、ちょくちょく見かけるようになりました。彼等もまた、人間達が犬に対して好意の目を向けている事を敏感に感じ取っているようです。
「ファ~ア。こうのんびりしていると体がなまっちまうぜ」ある日の午後、ポチは庭で何度も大きなあくびをしていました。ポチに対する街のフィバーもようやく収まり、じっちゃんもポチの散歩を元通り一日一回に戻したようです。救出劇や泥棒の逮捕など、ポチにとって刺激的な事件が続いたおかげで、ポチの体は自然にそんな刺激を求めています。ですから、こう平凡な毎日が続くと、退屈で退屈で、ついついあくびが出てしまいます。「あいつ何してんのかなあ。このごろちっとも顔を見せてくれねえじゃねえかよ。友達がいのねえヤロウだぜ」その退屈さを紛らわすてっとり早い方法は、若者と話す事だとポチは、分かっています。彼と話すだけで、ポチの退屈さの多くは解消される事でしょう。でも、今のところ、若者がポチの目の前に現れる気配はありません。
「よお、シンシィー久しぶりじゃねえか?もう俺の事なんか忘れちまったとばかり思っていたぜ」退屈さで、体がゴムのように伸びきったポチの前に、突然白いメス犬が現れました。「あれから、ずいぶん長い時間がたっちまったが、さすがにお嬢さん育ちは違うねえ。ちっとも年取っていねえじゃねえかよ。昔の若い姿そのまんまを保つなんて、並大抵の事じゃあ出来やしねえぜ。俺と違って、人間に大事にされている証拠だぜ。俺は、ずいぶん心配していたが、これで安心したぜ」ポチは、嬉しさの余り、尻尾をパタパタと振ります。ポチの目の前のシンシィーは、そんなポチを優雅な微笑みで見詰めています。「お前と違って、俺は年をとっちまったよ。お前の前に顔さらすのが恥ずかしいぜ。ここに来てもらったのは嬉しいが、年をとっちまった俺を、お前の前にさらしたく無かったぜ。二人の仲は、思い出の中だけに生かしておくのが一番だと思っていたよ」ポチが、若いままのシンシィーと比較して、自分を恥ずかしいと思っているのは本当の事のようです。ポチにとっては、シンシィーは、生涯一度の恋人。言ってみたら初恋の相手でもあるのです。その初恋の相手が、昔のまま年を取らないで現れたら、誰でもポチと同じような心境になるのかも知れません。でも、シンシィーは、やっぱり黙ったまま、優しい眼差しでポチを見つめているだけでした。
「あのな、シンシィー。そんなに黙っていられると俺は辛いんだけどな。嫌いになったなら嫌いでいいから、何か話してくれねえか?俺は、今さら嫌われても何ともねえよ。お前との恋は、俺の胸の中に大切にしまってあるからよ」ポチは「何でも覚悟が出来ているから遠慮しなくていいよ」と男らしい所を見せましたが、シンシィーは、やはり優しい眼差しをポチに注ぐだけでした。
「おい、シンシィー。どこに行こうってんだよ。俺に嫌気が差したってんならいいが、でもなあ、長い間お前に会える日を首を長くして待っていた俺の気持も、ちったあ考えてくれよ。俺は、内心嬉しいんだよ。天にも舞い上がりてえくれえに、お前に会えて嬉しいんだよ。でも、俺と一緒にそれなりの年を取っていると思っていたお前が、昔とちっとも変わらねえ姿を現したから、面食らっちまったんだよ。お前に比べて年を取っちまった俺の姿を恥ずかしく思ったんだよ。俺は、昔のようにお前に愛してくれなんて言えねえよ。でもな、お前がいなくなってから、ここまでの俺の空しい時間を少しは埋めてくれてもいいじゃねえかよ。なあ、シンシィー、お前、今まで幸せだったのか?他に好きな奴が出来たのか?いや、俺の事は気にしなくてもいいぜ。そんなにきれいなお前だ。他の奴がほっとくはずがねえ。ただ、ほんの少しでいいから話を聞かせてくれよ。ほんの少しでいいから俺の想いも聞いてくれよ。なあ、シンシィー」ポチは、遠ざかるシンシィーを必死に引きとめようとします。このままで別れたら、後悔してもしきれないと思ったのです。でも、シンシィーは、穏やかな表情をたたえたまま、ポチから遠ざかって行きました。
「おい、オヤジ!オヤジさんよ。起きてくれよ」「シンシィー!」「何だ、かあちゃんの夢見ていたのかよ」「シン・・なんだてめえかよ。ああ、気色悪いなあ。一瞬てめえが、シンシィーの顔に見えちまったぜ」「俺、似てるかなあ?かあちゃんに」「ああ、最初にてめえの顔見た時にそう・・。何だ?てめえ、今なんつった?かあちゃんつったよな?」「ああ、言った。この前は、言う勇気が持てなかったが、本当は、俺、一度だけ、かあちゃんの名前を聞いた事があるんだ」「じゃ、じゃあ!その名前って」ポチは、縮んだバネが伸びるように飛び起きました。若者は、ポチの瞳を覗き込み、そしてうなずきました。「ああ、確かに、シンシィーって言っていた」ポチは、その言葉に愕然とし、しばらく言葉を失ってしまいました。
「あの時、俺も、今のオヤジさんと同じくらいにびっくりしてた。オヤジさんが、生涯一度の恋人の名前を言った時よ。そして、嬉しかった。オヤジさんが、かあちゃんをこんなに思っている事を知ってよ。かあちゃんが命をかけてこの街に戻りたがった訳がようやく分かったよ」ポチは、若者の顔をまじまじと覗き込みます。以前から若者は、ポチに似ていると言われ、自分でも「世の中には、似ている奴がいるもんだぜ」と思っていたのですが、よくよく見ると、確かにシンシィーの面影がその体全体に漂っています。と、なれば、ついさっき、夢から醒めた時に一瞬ではありますが、若者をシンシィーと間違えた事も納得がゆきます。「て、事はだ。つまり、てめえは、俺とシンシィーの子供って事か?ああ、何て言ったらいいんだ?ようするに俺の息子って事だよな?」ポチの目頭が、ジーンと熱くなります。まさか、今日この日に、若者と親子の名乗りをあげあう事になろうとは、みじんも思っていませんでした。この結果を考えると、先ほどの夢は、シンシィーが、ポチに知らせに来てくれたと思えてきます。ポチにとっては、全てが衝撃的、そして感動的な事実でした。ただ、一つ、シンシィーが、もうすでにこの世にいないと言う事実を突きつけられた事を除いては。
「いや、俺の事はいいんだ。今まで通りでかまわねえよ。ことさら、騒ぎ立てる事でもねえからよ。それより、今日オヤジさんの所にやって来たのは、オヤジさんにお別れを言いに来たんだよ」「な・何だって!よく聞えなかったみてえだ。ありえねえ話に聞こえっちまったよ。すまねえが、もう一度言いなおしてくれ」ポチは、今度こそ聞き逃さないようにと、耳をピンと立て、若者の口の方に向けました。「オヤジさんに別れを言いに来たんだよ」若者は、ポチの耳が遠くなってしまったと勘違いしたのか?ポチの耳元に口を近づけて言いました。「別れって、どこかに旅にでも出ようってのかよ。ああ!いつか言ってた犬だけの国を作るって話を現実にしようってのか?水臭せえ奴だな。なんで俺に手伝ってくれって言わねえんだよ。微力ながら、この俺だって、てめえの力にゃなれるつもりだぜ。それとも俺じゃ役者不足だとでも言うのかよ」ポチは、ふてくされたように言います。一言も相談されずに、突然別れなんて言葉を言い出されるとは、考えてもいない事でした。「仲間なら、一言ぐれえ相談ってもんがあってもおかしかねえだろう」と言うのが、その時のポチの不満です。自分は、彼等に慕われている。仲間だと思われている。と言う自負があっただけに、若者の別れの言葉は、ポチにとっては、ショックな事でした。まして、親子の名乗りをあげたばかりなのに。
「油断しちまったんだよ」若者は、ポチの怒りには直ぐに答えず、しばらく、梢の隙間を流れる雲を目で追っていました。ポチも若者の口から訳を聞くまでは、意地でも喋るもんかと思っていましたので、黙ってそっぽを向いていました。そして、梢の枝が、突然吹いた強い風にザワと鳴いた時に、若者は、そう吐き捨てるように言いました。「なに?また訳の分からねえ事言いだしやがったな。やいやいやい、このコンコンチキ!意味不明な事言って俺様をごまかそうってしやがっても、そうは問屋が卸さねえってもんだ。ちゃんと筋道の通った訳を吐き出しやがれってんだ。て・てめえの父親としての、め、命令だ」若者は、正面から突っかかってくるポチから視線を外します。そして、地面をガリガリ引っかきます。それが、若者の心の奥の複雑な思いと気付いたポチは、それ以上突っかかるのは止め、そんな若者を静かに見守る態勢に変更しました。
「全て俺が悪いのさ。もっときびしく監視していれば、こんな事には」若者は、顔を歪め、ふたたび言葉を区切ります。でも、ポチは、そんな若者に言葉をかけて先をうながす事はしません。若者が話したいように話させる方がよいと考えたのです。普段の若者を知っているポチから見ると、今の若者の姿は、全く別の犬を見ているように思えるのです。ポチに似たきっぷのよさは影を潜め、心の中に大きな悔恨とあせりがあるのが見えるのです。「俺に何か助けを求めている」とポチは、直感しました。でも、それを直接問いただすと「なんにもねえよ」と答えて来るのは目に見えています。なんせ彼は、ポチの息子なのですから。
「仲間の大半が捕まっちまったよ」若者が、思いあぐねた末に、ようやく本題を口にしました。「何だって?捕まったって?いってえ誰に捕まっちまったと言うんでい?」仲間が捕まったと聞いては、さすがのポチも穏やかさを装ってはいられません。尻尾をピンと立て若者に迫ります。「人間だよ。一網打尽って奴だ」「何で人間が、てめえ等を捕まえるんだよ?いや、てめえ等は、人間に飼われていねえからだったな。それは、以前話した。俺には、信じられねえ事だったが、確かにそれは話した。で、あれほど注意して暮らしていたてめえ等が何故?」「ここの所、人間達が俺達に優しくてよ。公園に行った時なんか、今まで警戒心をあらわにして、俺達に近づこうってしなかった人間達が、俺達に近づき、頭を撫でてくれたり、菓子をくれたりしてたんだよ。俺達は、野良犬って言ってもよ、たいがいの奴等は、昔、人間に飼われていた連中だよ。だから、人間達の優しさが嬉しかったようで、毎日のように公園や街中に出て行くようになっていたんだ。俺や生まれつき野良犬だった奴等や、ここで生まれた子供等は、それを危うい事と思っていたが、人間と触れ合う事に内心餓えていた奴等の心の内を理解していたから、表立ってその事をとがめだてはしなかった。それが、油断だったんだよ。昨日の夕方、公園から人の姿が消えた頃、大勢の人間の乗ったでっけえ車がやって来ると、あっという間に公演を囲んじまった。そして、人間に対して警戒心を失ってしまった仲間達は、一網打尽にされて連れ去られちまったのよ」若者は、空を見上げると深い溜息を吐き出しました。
「そうか。そんな事があったのか?しかし人間共はなんで」「へへ、人間にとっては、やつ等に飼われていねえ俺達が目障りなんだよ。何も悪い事してなくても、許しちゃあくれねえってわけだ」若者の顔に一瞬強い怒りが湧き上がったのをポチは見逃しませんでした。ポチは、若者の怒りが静まるのを待ちます。「ま・そう言うわけで、今日は世話になったオヤジさんに別れを言いに来たって事よ。決して親子の仲を告白しに来たんじゃねえぜ。ただ、話しておきたかったのは確かだがよ」若者は、照れくさそうに、へへへと笑いました。「だから、何でそこで俺とてめえが別れなくちゃいけねえんだよ。そこん所がつながんねえじゃねえかよ」ポチが首を捻ります。ポチには、まだ若者の切羽詰まった気持が理解出来ていませんでした。
「俺は残った連中と、かすかに残った仲間達の匂いを頼りに、仲間達が連れ去られた場所を探しに行ったよ。そして、みつけた。そこは、以前行った事のある場所だったよ」若者は、伸びをするように北の方角に視線を送ります。「このずっと先に壁のような山が連なっているのを知っているか?」若者は、ポチに問いかけます。ポチは、散歩の時によく眺めているので無言でうなずきます。「その山の麓に高い塀で囲まれた灰色の建物があってよ。その中から仲間達の匂いがプンプンしていたよ」若者の毛が少し逆立ちます。「そこに閉じ込められているってわけか。で?それが何で俺との別れになるってんだい?」ポチは、若者の全身からほとばしる緊張、悲壮感、そして決断を嗅ぎ取り、若者がこれから何をしようとしているのか?大体の想像はつきました。でも、それは、ポチから見ると、とても水臭い事です。自分に別れを告げに来ると言う事は、その決心の中に自分は入れてもらっていないと言う事です。あの若者が、これだけの緊張感をほとばしらせていると言う事は、最悪の事態も想定しているはずです。それでも、彼は仲間のために決心したのです。ポチは、若者の口から、「オヤジ助けてくれよ。力を貸してくれよ」と言ってもらいたいのです。ポチとしては、当然です。若者にとっても大切な仲間なら、ポチにとっても大切な仲間だからです。それに、若者が自分の息子と分かってしまった今は、若者の壁となって、若者を守りたいとも思うのです。だからこそ、若者の態度は、ポチにとってはがゆいのです。
「なんだよ。ここまで言って分からねえのかよ。オヤジも、もうろくしちまったんじゃねえのか?俺は、行くぜ。やつ等を救い出すぜ。どんな事があってもやつ等を救い出す。俺、前にも言ったろ?人間に連れ去られた連中は二度と戻って来なかったって」「ああ、聞いたよ。俺は、今でもそいつ等は人間に飼われて幸せに暮らしていると思うけどよ」「甘いぜオヤジ。人間は、俺達に対してそんなに優しいやつ等じゃねえよ。あそこの建物の中に骨のカケラが落ちていてよ。犬の匂いがプンプンしてた。煙突から白い煙が立っててよ、嫌な臭いが辺りに立ち込めていた。朝方建物から出て行く車から、白い骨のカケラが落ちて来た。犬の匂いがプンプンする骨だ。それも焼かれたばかりのな」若者の目には、怒りの炎が燃え盛っています。「じゃ・じゃ・じゃ・やっぱり、人間に連れ去られた犬は、みんな殺されっちまうって事かい?信じられねえ」ポチが、首を振り、力なく座り込みました。
「ああ、オヤジさんの気持も分かるぜ。オヤジさんは、生まれた時から人間の元で暮らして来た。それを信じたいと思う気持は、当たり前の事だぜ。もし、俺がオヤジさんの立場で、人間と生活していたら、やっぱり人間を信じると思うよ」若者が、ポチの戸惑いと落胆を気遣います。「すまねえ。知らなかったとはいえ、息子を辛い目に合わせちまったこの俺は、大バカヤロウだぜ。それでもまだ、息子の言葉より人間を信じたい気持があるなんて、情けねえ話だ」ポチは、目の前の息子が、生まれてからどんなに苦労を重ねて来たかをおもんばかります。それに比べて、自分は、人間に庇護されながら、不平不満を言い続けて来た。そう考えると、とても情けなく、目の前にいる息子に対して申し訳なく思うのです。「よしてくれよ。俺は幸せだぜ。こうやって親子だと名乗りあえた。仲間達にも恵まれている。何の不満があるもんかい。オヤジさんと俺とは、同じ物を違った視点で見ているだけなんだよ。何もすまながる事なんかねえよ。俺の今の願いはよ、オヤジさんが、このまま人間の元で、平和に楽しく幸せに暮らして、長生きしてくれる事だぜ」若者は、ポチが思わず涙してしまいそうになる事を言います。「ふん!しゃれた事言いやがるじゃねえか。でも、俺も、奴等に対する気持は、てめえに負けねえくれえあるぜ。俺にも手伝わせろってんだ」ポチは、目の前の若者への気持を振り切り、若者に迫ります。
「なあオヤジさんよ。俺は、子供の時にかあちゃんを亡くしちまった。なんにもしてやる事が出来なかった。だから、俺は、オヤジさんには長生きしてもらいてえんだよ。俺は、今幸せだぜ。オヤジさんに会えたし、こうして腹を割って話し合う事も出来た。もう、思い残す事はねえよ。俺の分まで長生きしてくれよ」若者は、眩しい物を見る時のように目を細めて、ポチの顔を見つめると、ゆっくりと立ち上がりました。「ま・待て!何が腹を割って話しただ!何も話しちゃいねえよ。腹を割って話せるのは、これからじゃねえか。いいか!早まった事しやがると承知しねえぞ!俺は、てめえの親だ。親より早く逝かれてたまるか!そんな親不幸な事は、絶対にするな!てめえより俺の方が、ずっと人間の事は分かってるんだ!全て俺に任せろ!いいか、絶対に早まった事すんじゃねえぞ!おい、聞いてんのかよ!このすっとこどっこい!」若者は、ギャンギャンわめくポチを振り向かずに遠ざかって行きます。ポチは、死に物狂いで鎖を引っ張りますが、この戒めは、そう簡単にポチを自由にしてくれません。「ありがとう。とうちゃん」去り行く若者が、呟くように言いました。「なに?おい、今なんて言った。やいこら!もう一度言いやがれってんだ」でも、ポチの声に答える事無く、若者は、生垣の外に出て、道を小走りに走り去ってしまいました。
「これこれポチ、何をそんなに騒いでおる。よし子さんが空き缶を投げる前に静かにせんか」庭でギャンギャン騒いでいるポチの前にじっちゃんが、眠たそうに目をしょぼつかせてやって来ました。どうやら、お酒を飲んでいたようです。「やい!じじい!人間は、何でひどい事を俺達にしやがるんだよ!俺達が何をしたってんだよ。やい!とっとと答えやがれってんだ!」ポチは、怒りとあせりをじっちゃんに投げつけます。「わかったわかった。そんなに嬉しいか?でもよ、服が汚れるから、そんなにじゃれつくなよ」ポチの猛烈な抗議は、じっちゃんには、たんにじゃれついているように見えたようです。ポチの頭を撫で、それから体中を撫でます。そう取られても無理はありません。何故なら怒りをぶつけながらもポチの尻尾は、左右にブルンブルンと振れていたのですから。
「ところでポチよ。昨日公園で大捕り物があったらしいぜ。保健所の連中が、以前から目を付けていた野良犬共を一網打尽にしたらしいや。ここんところ、公園なんかで首輪のしていねえ犬を多く見かけていたんだが、捕まったのはそいつらだろうぜ」じっちゃんが、突然真顔になって、仲間達が捕まったもようを話し始めました。「そうだよ。それだよそれ。何で人間は、犬を捕まえてひでえ目に合わせんだよ。おうおうおう!筋の通った説明を聞かせてもらおうじゃねえか!事と次第によっちゃあ、いくらじっちゃんと言えども」「まあ、あれだ。それが無宿者の運命ってやつだ。奴等は、公園で見かけても悪い事なんてしなかったがな。いや、人間によくなれていたよな。公園に来ていた連中に頭を撫でられて嬉しそうにしてたもんな。でも、宿無しは宿無しだ。野良犬は、狩られる。それが運命ってやつだ」じっちゃんが、ポチの猛抗議も意に介さずに言います。ポチの怒りなんて、これっぽっちもこたえていないようです。「だからよ、そうじゃねえだろ?何で人間は、俺達犬をひどい目に合わせるんだっつうの。おう!じっちゃんよ。宿無し宿無しって言ってるけどなあ。犬なんて元から宿無しなんだよ。人間が、宿があるように見せかけているだけだっつうの。俺達は、我慢してんだよ。よく、その皺くちゃな目をひんむいて見ろっつうんだよ。俺のこの小屋が宿って言えるかってんだ。ドアも床もねえしよ。雨漏りも激しいしよ。これじゃあ、外と変わんねっつうのよ。いいか?俺達犬はな、人間に付き合ってやってんだよ。仕方無くな。だってよ、長い人間との付き合いっつうもんがあんだろ?しがらみっつうもんもあらあな。でもなあ、人間共のしてる事は、その付き合いを台無しにするもんだろ?いいか?宿無し宿無しっつうけどよ、やつ等から宿を奪ったのは、てめえ等人間自身だろうがよ。あいつら、心の奥底では、まだ人間を慕ってんだぜ。そこんとこを考えろっつうてんだよ」ポチは、猛烈な抗議が通ら無い事を理解すると、理詰めで話す作戦に変えました。前脚で地面を引っかきながら、たんたんと話します。でも、じっちゃんは、そのポチの話を聞いているのかいないのか?煙草に火をつけると、あらぬ方を見ています。
「宿無しには、宿無しの運命ってもんがある。それは、仕方が無い事だ」じっちゃんは、ポチが話し疲れて息があがり、言葉を切ったタイミングを見計らって、上から見下ろすように再びポチに声をかけます。「だからよ、そこんとこが違うっつう」ポチは、少々話し疲れぎみでしたが、仲間達のために、ここはもうひと踏ん張りと口を開きます。「だがなポチ!宿無しの運命は運命で仕方がねえとしても、義理と人情は、きっちりはたさなくちゃあなんねえぜ。義理と人情を秤にかけりゃあ、義理が重たい男の世界っつうてな、ニッポン男児は、義理を重んじてこそ、ニッポン男児と言えるんだぜ」「な・なんだよ!なに言ってんだよ。話そらすなよ。言ってる事が、今までと全然違うだろ?」「さっき、ここに白い犬が来てたよな?」「ああ、わけえ奴の事か。来てたよ。あのな、じっちゃん聞いて驚くなよ。あいつは、俺の」「あの白い犬は、見た目にも立派な犬だよ。大きさも、姿形も、その勇気も、非の打ち所がねえ。だが、奴もまた宿無しだ。つまり、野良犬ってわけだ」「だからよ、ほんとに分からねえじじいだな!いいか?その白髪のはみ出ている耳の穴かっぽじってよく聞きやがれってんだ。犬の価値は、宿がある無しじゃねえ。男は度胸女は愛嬌。俺達男の価値はよ、男気よ。あいつはよ、男気なら、誰にも負けやしねえよ。俺の次に、男気のある奴よ。なんて言ったって、あいつは俺の」「野良犬だが、あの犬は大したやつだ。おめえがドジ踏んで川に流された時、勇敢にも飛び込んで助けてくれたのは、あの犬だったよな?」「確かにそうだがよ。俺は、ドジなんぞ踏んじゃあいねえやい!そもそも、てめえが無理難題を言いやがるから」「ポチよ。ニッポン男児は、義理を欠いちゃあいけねえよ。捕まった野良犬共は、奴の仲間だろ?大方、てめえに助太刀を求めに来たんだろうぜ。ポチよ、ここが男気の見せ所ってもんだ。とうぜん助太刀すんだろうな?」「あたぼうよ。俺は、男だぜ。ニッポン男児よ。じっちゃんなんぞに言われなくても、助太刀すんに決まってんだろ?なあ、じっちゃんよ、それこそが大きなお世話っつうもんよ。でも、嬉しいやな。じっちゃんが、俺の気持分かってくれてよ」ポチは、尻尾をブルンブルン振って、じっちゃんに答えました。
「くそじじい!てめえは、どっか抜けてんだよ!」ポチが、庭でもがいています。「ポチ、首輪がずれてるぜ」と言って、じっちゃんは、首輪を直してくれました。ポチが、庭を脱出しやすいように首輪をゆるめてくれたのです。「首輪を外すのは簡単だがよ。てめえがここを出て無茶するのが分かっているのに、それは出来ねえそうだんだ。あくまでも、てめえはてめえの力で抜け出した事にしてもらわなくちゃなあ」と言いながらじっちゃんは、首輪が抜けやすくなるように、わざとゆるめてくれたのです。それは、ポチも望むところでした。「人間に捕まった仲間を救い出しに行くのに、人間の手を借りたんじゃあ男がすたるってもんよ。たとえじっちゃんでもな」と。でも、ぽちは、時間が無い事も知っていました。若者がポチに別れを言いに来たからには、既に仲間を救い出す作戦の準備は整っているはずです。あの隠れ処に帰ったら、直ぐにでも出撃して行く事でしょう。いや、もしかしたら、残った仲間を途中に待機させておいて、そのまま出撃してしまっているかも知れません。だから、ポチとしても、一刻の猶予も持てないのです。ポチにとって、じっちゃんの配慮は、とても嬉しい事でした。
「このボケじじい!どうせなら、頭がスポッと抜けるくれえにゆるめりゃいいじゃねえかよ!これじゃ、ゆるめた意味がねえっつうのよ」じっちゃんが、中途半端にゆるめた首輪は、ポチの大きな頭の所に引っかかって、なかなかスッポリとは抜けてくれません。だからポチは、のた打ち回って首輪を外さなければならないはめに陥ってしまいました。でも、頭に引っかかった首輪は、ポチがどんなに力強く引いても、前足で外そうともがいても、なかなか外れてはくれませんでした。
「くそ!じっちゃんの間抜けのおかげで、余計な時間を費やしちまったぜ」結局、ポチの体が自由になったのは、東に昇った月が、西の山に傾く真夜中に近い時刻でした。ポチは、必死に走りました。走って走って、野良犬達のすみ家である川の暗渠に飛び込みました。でも、そこは当然ながら空っぽでした。犬達がいた温もりも残っていません。「もしかしたらとわずかなな希望を持ってここに来てみたが、やっぱり無駄足を踏んじまったか。こうしちゃあいられねえ。ともかく、やつ等の匂いを追いかけなくちゃ」ポチは、ぐずぐずしていられないと暗渠を飛び出しました。そして、若者の言った山の麓にある建物と言う言葉と若者達の匂いを頼りに追跡を始めました。「くそ!俺が行くまで頑張れよ。絶対に無茶すんじゃねえぞ」ポチは、心の中で祈りました。彼等が無事と考えるには、余りに時間がたち過ぎています。人間の力と知恵の恐ろしさをポチは知っています。「もしや」と言う不安が、拭っても拭ってもポチの胸にわき上がってきます。だから、ポチは、生まれて初めて祈りました。神様とか仏様に祈るとか言うのでは無く、仲間達自身に祈ったのです。「どうか無事でいてくれ」と。そして、この世でたった一匹の息子に祈ったのです。「俺が行くまで何とか持ちこたえろ」と。今、ポチが出来る事は、急いで場所を特定する事と、彼等の無事を祈る事だけでした。
「くそ!どっちだ?」大きな交差点で、ポチは迷ってしまいました。五叉路の交差点です。前方にあるYの字で交叉する道が、どちらも山の方に向っているのです。そのどちらも幹線道路で、交通量が多いため、若者達の匂いをかぎ分ける事が出来ません。「ああ、やだやだ、年は取りたくねえもんだぜ。奴は、空気中に漂うわずかな匂いをかぎ分けて、仲間達が連れ去られた場所を突き止めたって言うのによ。この俺ときたら、自分の息子の匂いもかぎわけられねえのかよ」どんどん過ぎ去る時間に、ポチは苛立ちます。そして、自分が、ものすごく駄目な犬に思えてきてしまいます。ポチは、山と道を見比べ、どちらに行くべきか長い時間迷ってしまいました。
「え~い!ままよ!」ポチは、交差点に飛び出しました。「悩んでいる時間は無い。運任せ。進めば何か解決方法があるだろう」と考えたのです。「どうせこうするなら最初からこうすりゃよかったぜ。まったくよ、俺も年だぜ」この決断力の無さが、年を取ったせいだとポチは再び思いました。「自分には息子がいる。それもあんなに立派になった息子が」とポチは、心のどこかで意識しているのでしょうか?ポチは「若い頃なら、出たとこ勝負。運任せ天任せの行動も多かった。無茶な決断力がこの体から溢れていた」と思います。それが、決断力であり、年のせいでその決断力が無くなってしまったとポチは思うのです。落ち着きと慎重さを得て、無駄な行動が少なくなった。とは喜べないポチでした。
「バカやろう!」いつもの散歩で、信号機の意味を理解しているポチは、正常な状態なら絶対にしないのですが、その時のポチは、あせりにあせっていたため、周囲の状況が判断出来なくなっていました。ポチは、赤信号で交差点に飛び込みました。おかげで、交差点は無茶苦茶です。ポチを避けようとしたトラックが急ハンドルを切り、隣りの乗用車と接触します。その乗用車が、信号機の柱をへし折ります。パッと消えてしまった信号に交差点内の車は、右往左往して、急ブレーキをかける者。突進する者。そのために急ハンドルを切る者。と交差点とそれに続く道は、無法状態になり、あちらこちらで、「ガシャン!ガン!ベチャン!」と車と車の接触音が続き、たちまちの間に交差点と道路は、通行不能状態に陥ってしまいました。幸いにもたいしたケガ人は出ていないようですが、ポチは、交差点を渡り切ると呆然と後ろの状況を振り返りました。
「あ~らまあ、オヤジちゃんやるじゃない」ポチが、交差点の混乱に茫然自失していると、交差点の角にある屋敷の塀の上から、聞き覚えのある声が聞えました。「な・なんだよ。お嬢かよ。俺は、大変な事しちまったぜ。人間達にすまねえ事をしちまったようだ」ポチが、塀の上のお嬢にしゅんとして答えました。じっちゃんから「人間に決して迷惑をかけてはいけない」と常日頃言われているからです。子供の頃からきびしく躾けられたポチには、身に染み込んでいる言葉です。「オヤジちゃんのせいじゃ無いわよ。こいつ等は、いつも我が物顔でぶっとばしてさ。私達の仲間が、どれくらいひどい目にあったと思うの?これくらいどって事無いわよ」「そんな事言われてもなあ。これ俺が引き起こしたわけだから」ポチは、こと人間の事になると歯切れが悪くなります。
「どうするの?ここに留まって人間達に僕が悪いんです。ごめんなさいとでも言って頭下げ続けるつもり?ならいいわよ。あたいオヤジちゃんみそこなったわよ。息子の命より人間の方が大切なのね?」「お・お嬢!あいつが、俺の息子だって知っていたのか?」ポチは、慌てました。ポチでさえも、ついさきほど知った事です。それを野良猫のお嬢の口からあっさりと言われてしまいました。「ごめんねえ。べつに盗み聞きするつもりじゃ無かったんだけどさあ。お二人さんがしみじみ話している時、あたい、あんたのご主人様の家の縁の下で眠っていたのよ。だから、聞く気は無かったんだけど聞いちゃったのよ。で、どうするの?たった一匹の家族とその仲間を見捨てて人間様にお仕えするの?」お嬢が、顔を歪めます。ポチは、交差点の混乱を目の端に入れながら、アスファルトをガリガリ引っかきました。
「見損なったわよ!オヤジちゃんが、ここまで彼等を追いかけて来たのは、彼等を救うためじゃ無かったの?命をかけて人間達と戦い、犬の誇りを守るためじゃ無かったの?オヤジちゃんは、彼等の命より人間に仕える事の方が大切なのね?」ぐずぐずしているポチに、お嬢が歯をむき出します。お嬢もポチを密かに慕っていました。それだけに、今のポチの姿が歯がゆいのです。「人間と戦うって?俺は、人間と話し合いに行くつもりだけれど」「話し合い?何を寝惚けた事言ってんのよ!彼等は、今命をかけて戦っているのよ。あんたの言う人間様と!何故なら人間様には、私達の命を奪う事しか頭に無いから!わかったわよ!オヤジちゃんが、ここでぐずぐずしているのなら、私達で彼等を助けるわよ。あんたは、せいぜい人間に頭を下げ続ければいいわ」お嬢が、ひらりと道に飛び降りました。そのお嬢を追うように、そちらこちらから野良猫が顔を出し、お嬢の後を追いかけます。たぶん、お嬢が率いるグループの全猫なのでしょう。この街にこれほどの野良猫がいたのか?と驚くほどの数です。その猫達が、長い列を作って進みます。渋滞した道に止まっている車を縫うように行進します。車からドライバー達が、その猫の行進を恐怖に似た視線で見送っています。「そうだよな。俺は犬だ。人間じゃねえや。あぶねえあぶねえ。つまらねえ感傷に浸っちまって、もう少しで自分を見失う所だったぜ。家族か?お嬢ありがとうよ。大切な言葉を思い出させてくれてよ」ポチの瞳に強い光が戻りました。もう、迷いはありません。ポチは、力強くアスファルトを蹴るとお嬢を追いかけました。
「お嬢。ここかい?」ポチが、お嬢に話しかけます。「今さら聞くまでも無いだろ?中から連中の猛り狂った声が聞えるじゃないか」お嬢が、目をキラリとさせます。「わかってるよ。ただ、お嬢に花持たせようとしただけじゃねえかよ。あいかわらずきつい言葉だぜ。ところで、お嬢は、最初からこの場所を知っていたのかい?」先ほど情け無い姿を晒してしまったポチは、ひたすらお嬢にへりくだった物言いをします。たぶん、そういうところも、人間に仕え人間の顔色を伺う癖のついてしまったポチの弱点なのでしょう。「私達はね。どこでも入っていけるんだよ。現にここに住みついているやつもいるよ。そいつから、細かい情報を得ているのさ。今だって、彼等が苦戦しているって情報を得たから、こうやって仲間を集めて押しかけて来たんだよ。奴等は、私達にとっては、大切な仲間だからねえ」お嬢が、流し目でポチを見ます。「ちぇ!分かってるよ。さっきは気の迷いだったのさ。俺は、全力で人間を説得するつもりだぜ。もちろん命がけで」ポチが胸を張って言います。「説得?は?説得でも何でもやっとくれ!それで、人間は信用出来ない生き物だって事を身をもって知るがいいや」「ああ好きにやらせてもらうぜ。そして、人間と犬は分かり合えるって事を教えてやるよ」ポチとお嬢は、互いに目を逸らさずに言い合いました。
塀の中からは、人間の怒号と犬達の怒号が、壁を崩すのでは無いかと思えるほどの激しさで聞こえてきます。「こんな所でミョウチクリンな爺さんの相手していられないねえ。中の情勢はあまりよく無いようだ。さあ、みんな覚悟はいいかい?あたいが言ったように、爪はしっかり研いできたんだろうね?それじゃ、中の犬達を助けるために全力で闘うよ。みんな命を捨てる覚悟で闘うんだよ!」お嬢の号令に、猫達が一斉に「ニャー!」と叫びます。「待てよ。ただがむしゃらに闘っても勝ち目はねえぜ。相手は、人間なんだせ。状況はどうなっているのかをしっかり確認したうえで、作戦を立て、その作戦に添って、一糸乱れぬ闘いをしねえとよ」ポチは、いきり立つ猫達の前に躍り出て、勝気にはやる猫達を静止しました。
「どうやら、彼等は、人間共に建物の一角に追い詰められているようだね」中の様子を偵察に行った猫から報告を受けて、お嬢が言いました。「で、人間の数は?」ポチが、直ぐにたずねます。お嬢は、偵察に行った猫から、さらに詳しい塀の内の様子を聞きだします。
「この壁の反対側の建物と塀の間に奴等は追い込まれているって事だな?人間は、十人位で、網や棒切れを持っていると。俺達に噛み付かれてもケガしねえように、ぶ厚い服を着込んでいるって訳か」ポチは、考え込みました。「このまま正直に話し合いに行っても、双方興奮しているだろうから、らちがあかねえな」と思います。話し合うには、まず人間と犬が、対等の立場に立たなければいけないと思うのです。それには、追い詰められた若者達を開放する必要があります。「それにはどうするか?」ポチは、そこを考えます。ここにいるのは、自分と猫達です。出来る事なら、犬の事は犬内で解決したいとも思います。「おい、ここの建物に忍び込む場所はどこだい?」ポチは、考えたあげく、再びお嬢にたずねます。「彼等が追い詰められている山側の塀は、金網で、その下に穴が開いている所が数箇所あるよ。彼等の追い詰められている場所は、切り立った崖にくっ付いているから難しいが、建物を挟んだ反対側に数箇所あるよ」お嬢が、ポチを見下すように言います。どうやら、お嬢は、ポチの勇敢さに、少しだけ疑いの目を向け始めたようです。人間に飼われている身と野良の身とでは、おのずと物事に対する見解に相異が出てくるのは仕方の無い事ですが、ポチには、仲間であるお嬢の誤解を解かなければならないとあせりにも似た気持にさせる視線ではありました。
猫達が、ぐるりと塀の上に身を隠します。中にいる人間の目に触れないように、慎重に身を隠しています。ポチが、ことさら胸を張って説明した奇襲作戦を行うためです。「いいか?まず、俺が中に忍び込み、人間の後から奇襲をかける。人間の輪が乱れたら、一斉に人間達に飛びかかってくれ。それで、人間達がひるんでいる間に、仲間達を救い出すから」と言うのが、ポチの組み立てた作戦です。猫達もポチの本当の力量をつかもうとでも思ったのか?ポチのこの作戦に異論は出ませんでした。
「なんだなんだ!どこからか、また犬が出て来たぞ」ポチは、仲間達が追い込まれている一角に、建物の死角を突いて忍び寄りました。人間達は、目の前にいる犬達を追い込み、捕える事に神経を集中していました。誰も後ろを気にしていなかったのです。その人間達の背中からポチは「ワンワンワン!」と、体全体から絞り出した絶叫と共に、人間の輪に飛び込みました。ポチの突然の襲撃に、人間達は慌てふためきました。振り向いた拍子に、仲間の後頭部を棒切れで殴りつける者。網を放り出して逃げようとする者。そして、尻餅を突く者。と誰一人ポチに反撃しようとする者はいませんでした。ポチは、縦横無尽に暴れます。声を限りに叫びます。人間達には、それが新手の集団に襲いかかられたように思えたようです。
「オヤジさんだ!オヤジさんが来てくれたぞ!」ポチの姿を見て、壁際に追い詰められ進退窮まった犬達が、にわかに活気付きました。追い詰められた恐怖で垂れ下がっていた尻尾が、くるりと背中に持ち上がります。ポチの姿を目にして、中には、感極まって泣き出す者までいます。それほど彼等にとっては、今までがきびしい状態であり、その進退窮まった状況の中、彼等を救い出そうと単身乗り込んだポチが、とても頼もしく映ったのです。「それ!人間共がひるんだぞ。全員奴等に飛びかかれ!」状況が一変したのを悟った若者が、反撃の大号令をかけました。
仲間達が捕えられている建物の敷地内は、大混乱に陥っています。もちろん、ポチの登場で、にわかに活気付いた犬達が、人間達を混乱に陥れているのです。「ひるむな!相手は野良犬だぞ!保健所職員のプライドにかけても、奴等を引っ捕えろ!棒で打ちのめせ!奴等を全てガス室にぶち込め!」保健所の所長らしいヒゲ面の男が、所員にはっぱをかけます。でも、一旦総崩れしてしまった形勢は、そう簡単には、立て直す事は出来ませんでした。
人間達が混乱しているのを見定めたポチは、塀の上に伏せて隠れているお嬢に目で合図をしました。猫達の力を借りて一気に決着をつけようとしたのです。猫達が加われば、人間達を数の上で圧倒出来ます。そうなれば、人間達は、自分の不利を悟って白旗を揚げて来るでしょう。「そこからが、この俺の本当の出番だぜ。この俺の交渉術で、この事態を収めてやるよ」ポチのこの奇襲作戦は、もはや仕上げの段階と言ってもよい状況でした。最後の一押しにポチは、猫に出動を要請したのです。
「あ~!人間諸君。我々の目的は、君達と闘う事では無い。仲間達を救い出す事だ。君達の身は、このポチが保証する。ニッポン男児のこの私が保証するのだから、諸君は安心して欲しい。さあ、速やかに、君達が捕まえた我等の仲間達を解放したまえ!」突然現れた猫の集団に顔を引っかかれ、犬達に足をかまれて、人間達は、更に浮き足立ちました。「な・何だ?」「どうなっているんだ?」「何で猫が現れるんだ?」「まるで犬共に助太刀しているようだぜ」「猫が犬の助太刀?バカも休み休み言えよ」とうとう人間達は、総崩れになって、建物の中に逃げ込みました。犬達は、その建物を遠巻きに包囲します。その包囲の輪から、ポチが一歩前に出て、人間達に話しかけます。
「オヤジ!あぶねえ!」悠長に人間に向って話しかけているポチを、若者が突き飛ばしました。突き飛ばされたポチの耳元を、何かが風を切って飛び去りました。「バシ!」その何かが地面に当たり、地面にあった小石が弾かれ、ポチの鼻先をかすりました。「いてえ!」ポチの鼻が、火傷をしたようにヒリヒリ痛みます。「オヤジ!何ふざけてんだよ!人間共に殺されるぞ!」若者が、ポチの顔を覗きこみ、牙を見せてどなります。見ると、その若者の顔や体のあちこちから、赤い血が滲んでいます。若者は、もともと真っ白な毛なので、その赤さが、鮮明にポチの目に焼きつきます。ポチは、首を回して、仲間達を見ました。その仲間達もまた、傷つきボロボロな体となっています。そして、みんながみんな肩を上下させて荒い息をしています。彼等の体は、傷つき、そして疲れ果てているのです。でも、その中にはまだ、捕らえられた仲間達の姿は見えません。ポチは、悟りました。仲間たちは、命をかけて闘っていた事を。精根尽きるまで必死に闘ってもまだ、目的を達していない事を。「どうやら、俺が甘ちゃんだったみてえだな」ポチは、ゆっくりと立ち上がりました。
「ギャン!」再び何かが飛んできて、仲間の肩先をかすめました。ポチは、建物の中の人間を睨みつけます。「おい!あの飛び道具はやばいぜ。木や建物の陰に身を隠しな」ポチは、窓から手を出し、再びゴムを引き絞っている人間を見て、仲間達に言いました。それは、協力なパチンコでした。Y字型の台座に二本のゴムをかけ、石や鉄のボールを飛ばす武器です。ポチの言葉を聞いて、犬と猫達は一斉に物陰に身を隠しました。
「おい!応援はどうした?」建物の中であの髭面の男が叫んでいます。「まだです!どうやら、この先の交差点で、事故に巻き込まれたようです。犬が飛び出し、それを避けようとした車が、信号をへし折ってしまったと言っています。そのため道は大渋滞して、当分来られそうも無いと連絡が入っています」馬のように顔の長い所員が、電話の受話器を持ち上げて大声で答えます。「まったく!なってないよ。この大事な時に!一体全体何をやっているんだ奴等は!こうなったら、助っ人が来るまで篭城だ。犬共には、何故か分からないが、猫まで見方している。大体、何でここが奴等に襲撃されねばならないんだ?ここに、犬共が魅力を感じる食い物があるってのか?普通だよな。いや、普通以下の食い物しか無いはずだ。一体全体どうなっているんだ?ホラー映画じゃあるまいし!」机を叩いて所長が怒鳴ります。所員は、黙り込みます。「ここは、野良犬共に嫌われていい場所だろ?ここは、野良犬が好き好んで集まって来る場所では無いよな?」所長が血走った目を庭に向け、自問するように言います。「そりゃあそうですよ。ここは、奴等にとっては、墓場みたいな物ですからね。好き好んで来るなんて有り得ません。現に、今までこんな事は一度も無かったです」馬面の所員が、上目遣いで、所長の表情を伺いながら答えます。「だろ?これは、常識では有り得ない事なんだよ。誰か、この現象を説明してみろ。上手く説明出来たら所長賞物だぞ」所長が、髭を撫でながら所員を見回します。
「ようよう、聞いたか?助っ人がやって来るらしいぜ。あんまりぐずぐずしていられねえぞ」ポチが、若者の肩先を鼻で突きます。「事故で遅れるって言ってたわよね?これは、オヤジちゃんの手柄よ。オヤジちゃんが、勇敢にもトラックの前に飛び出して、奴等の動きを止めてくれたのよ」屋根の上からお嬢が、ポチに向かってウインクします。「そんなんじゃねえよ」お嬢は、実際の成り行きを知っています。あの事故がぐうぜん起こった物で、ポチがあの場所でオロオロしていた事を。だから、ポチは、蚊の鳴くような声で呟きます。「さすがオヤジさん!」でも、野良犬達は、お嬢の話しをまともにとりました。普段からポチを尊敬しているのですから、ポチがオロオロしていたなんて想像出来る者はいません。「だから、それは違うって」ポチは、恥ずかしそうに地面をガリガリ引っかきます。「オヤジ。実際はどうでも、ここは、お嬢の話し通りって事で胸を張ってくれよ」若者が、小さな声でポチに耳打ちします。「そうだよ。オヤジちゃんが来たら、みんな息吹き返して、人間を追い払ってしまったじゃないか。オヤジちゃんの力は、オヤジちゃんが思っている以上なんだよ」お嬢が、屋根からトンと飛び降りて、ポチに顔を上げる事をうながしました。「分かったでしょう?オヤジちゃんが、このグループの中では、無くてはならない存在になってしまっていることが。さあ、もうこの中の誰もがっかりさせてはならないわ。辛いかも知れないけれど、オヤジちゃんは、あたい達のシンボルなのよ」と言いながら。
「いいか!保健所が野良犬の攻撃に屈服したなんて事になると世間の笑い者だぞ!絶対にそんな事になってはいかん!全員が武器を取れ!矢でも鉄砲でも、何でも使ってかまわん!奴等をみな殺しにしろ!おい、ダイナマイトは無いか?爆弾は無いか?核爆弾は無いのか?」建物の中では、所長の興奮が更に高まっています。どこかから、所長にプレッシャーをかける連絡が入ったのでしょうか?目を血走らせ、所員に無理難題を言い始めています。「平和と優しさのシンボルである保健所に,そんな物あるわけがありませんよ」キツネ目をした女性の所員が、細い眼鏡をクイッと持ち上げて言います。「何でもいい!包丁でも挟みでも茄子でもキャベツでも、何でもいい!武器を持って奴等を殲滅するんだ。この状態が、外の住民に知れたらどうする?野良犬に負けた保健所。と言う不名誉なレッテルを貼られてしまうのだぞ。そんな事になったら、俺の未来は、未来は」所長が頭を抱えてうずくまります。「もうこうなったら、奴等をこの敷地から出さないようにして、応援を待ちましょう所長。だいじょうぶですよ。住民はまだ寝ています。それまでには、応援がやって来ますよ。麻酔銃や吹き矢を持ってきているはずですから、その時勝負がつきます。我々の勝ちです。それまで、お茶でも飲んでゆったりしていましょうよ。おたおたしていたらみっとも無いですよ」小さな体ながらお腹の肉の突き出した男が、お茶を所長の席にトンと置きます。「分かったような事言うな!あ・いやすまん。そうだ。相手は、たかが犬だ。落ち着けばどうって事の無い事だ。奴等を捕まえれば、ガス室に叩き込むのは、こちらなんだからね」所長は、ようやく落ち着きを取り戻したようです。「ねえ、坊やちゃん。君の自慢のパチンコの腕前はどうしたの?それで本当に雀を何羽も打ち落としたのかしら?雀より大きな犬を何で仕留められないのかしらねえ?」キツネ目の女が、窓から手を伸ばしてパチンコのゴムを引き絞っている若い男の顎を撫でながら言った時も、「まあまあ、そう言ってはかわいそうだ。それでも何度か当たってはいる。若い子は、誉めて育てないといかんぞ」と、かばってあげるほどの余裕が出来たようです。
「おい、わけえの。ここには、捕えられた連中の姿がまだねえようだが」ポチが、何かを決心したように胸を張り、辺りを見回しながら若者に言いました。「ああ、残念ながら、まだ奴等を救い出せてはいねえよ」「てめえにしちゃあ手際がわりいな。奴等をさっさと救い出して、ここからさっさと出て行くのが、得策ってもんだろ?人間をみくびっちゃあいけねえよ。てめえ等にとって、奴等とは、かかわりにならないでいいなら、かかわらない方がいいに決まってる。事故で足止めされていると言っても、その内に助っ人もやって来る。こちらが不利になるのは目に見えてるじゃねえか。さっさと救い出して、とんずらしようぜ」ポチは、奴等はどこだ?と若者に視線を送ります。若者は、保健所の所員達が篭城している建物と反対側、つまり、今、自分達が隠れている建物だと目で答えます。「なんだよ。この建物かよ。お~い。てめえ等元気か?」ポチは、建物の中に向かって呼びかけました。
建物の中は、大騒ぎになっています。ポチの声を聞いた犬達が「ポチさんが来てくれたんだ」「これで助かるぞ」と盛り上がってしまったのです。それもこれもポチが「おい!もう安心しな。このポチ様が、今直ぐに助け出してやっからよ。大船に乗ったつもりでいろよ」なんて大口をたたいてしまったからです。「ありがとうよ。オヤジには、感謝しっぱなしだ。もう来てくれないかとあきらめていたんだが、来てくれて嬉しいよ。だがよ、奴等ら助け出すのは簡単じゃねえぜ」若者が、ゆっくりと首をもたげ、建物の窓を見上げます。「なんだよ。てめえらしくもねえ。ずいぶん弱気じゃねえかよ。あの窓からしか入れねえってえのか?」ポチも高い位置にある窓を見上げます。確かに、あの窓からしか入れないのなら、簡単に中に入る事は出来ないでしょう。「いいや。入り口ならこの建物の裏側にあるよ。そこは開いているから簡単に中に入れるさ」若者が、首を振って、入り口のありかを示します。「だったら何故?てめえ等人間と闘う事を楽しんでいるんじゃねえだろうな」「ポチさん違いますよ。ボスも俺等も、仲間を助けるために必死に頑張ったっすよ。でも、中の扉が、どうしても開かねえっす」茶色の艶のいい毛並をした雑種が、前に進み出てポチに言います。どうやら、「ボスが言うと言い訳に聞えるのでは無いか?ボスの口からは、言いにくいのでは無いか?」と考えたようです。「扉が開かねえ?どれどれ俺がこの目で確かめてやるよ」ポチは、建物の裏側に向かい歩き出しました。「てめえ等!人間共の動きを監視していろよ。何か妙な動きがあったら、直ぐに知らせろ!」若者は、少なからず苛立ちを覚えているようです。それが、ポチの言葉や態度による物なのか、自分達のふがいなさを思っての事なのか分かりませんが、それをぐっと押し込むように唾を飲み込むと、ポチの後ろについて歩き出しました。
「すまねえなあ。てめえの立場も考えずにしゃしゃり出た真似しちまってよ」建物の中に入り、二頭だけになった通路で、ポチは振り向き、若者に言いました。どうやら、若者の苛立ちに気付いていたようです。「何もオヤジのせいじゃねえよ。こんな目の前にいる仲間も助け出せないのかと思うと情け無くてよ。仲間達を危険な目に合わせているのが申し訳無くてよ」若者は、泣き出しそうな顔をポチに向けます。「俺とお前が親と息子だと発表した方が、お前には動きやすくなるんじゃねえか?これじゃ、頭が二つあるようで、お前もやりにくいだろう?立場をはっきりさせた方がいいと思うがな。俺も今日ここに来て、あいつ等が俺の事を慕ってくれている事が身にしみて分かったよ。それだけに、一歩引かなくちゃなんねえと思うんだが、そう簡単にはいきそうな雰囲気じゃねえ。ここは、俺達の事を発表して、俺とお前の絆を分かってもらおうじゃねえか」ポチが、若者の顔をペロリと舐めます。若者が、子供の表情でポチを見上げます。「すまん。お前には苦労をかけちまった」ポチが、もう一度若者の額を舐めます。「奴等には、ここを抜け出せたら話すよ。あんたが、俺の父親だって。でも、今は駄目だ。奴等を動揺させたくねえ。だから、ここは、俺達が力を合わせて、この中にいる仲間を救い出す事に専念したいんだ」ポチに甘えるような素振りを見せつつも、若者が再び群のリーダーの顔に戻りました。
「そうか。なるほどな。これじゃ開かねえや。鍵がかかっているからよ」ポチの登場で檻の中は、ワンワンギャンギャン大騒ぎです。その誰もが「オヤジさんが来てくれた。もうこれで安心だ」と叫んでいます。ポチは、仲間達がこれほど自分を頼りにしてくれていたのか?と驚きを新にするのと同時に、わずかばかりのプレッシャーも感じました。そして、このグループで、自分がこれ以上目立つのは危険だと思い直しました。このまま行ったら、遅かれ早かれ群は分裂してしまいます。生まれつきの野良犬達と飼い犬から野良犬になった者達の分裂が始まってしまいます。「こりゃあ、ここ出たら直ぐに親子の名乗りを上げて、こいつとの絆の強さを見せつけねえとな。そして、俺は、一歩下がらなけりゃいけねえやな」とポチは、強く思いました。ですからポチは、檻の中の彼等の声を無視するように前に進み、檻の扉の状況を調べ始めました。
「ふん!人間って奴は、これだから扱いずれえんだよな」ポチは、オヤジどうだ?と声をかけて来た若者に言いました。「すまなかったなあ。てめえの言う事を信じねえでよ。確かにボスが言うように、こいつは厄介だ。押しても引いても開きゃしねえよ」ポチは、檻の中の仲間達の前で、若者をボスと呼びました。そして若者に素直に頭を下げました。蜂の巣を突いたような状態だった檻の中が、シーンと静まります。そして、「それじゃあ、オヤジさんでも駄目なのかい?」「俺達は、外に出られねえのかよ!」「俺達は、このまま人間に殺されちまうって事かい?」と泣き声に近い言葉が、彼等の口から飛び出しました。「バカヤロウ!おたおたすんじゃねえよ。てめえ等は、てめえ等の偉大なボスを信じねえのかい?だったあきらめな。勝手に泣き事を言って、勝手に殺されちまえばいい。そもそもこんな事態になったのは、てめえ等の責任だろ!普段から、人間には気をつけろとボスに言われていたのに、無視したからこうなっちまったんだろ!今さらおたおたすんのはみっともねえぜ。ま・案ずる事はねえやな。てめえ等には、立派なボスがいる。俺に出来なくても、てめえ等を心底思っているボスが必ず助けてくれるよ」ポチは、仲間達に、これまで見せた事の無かった非常な態度で臨みました。そして、若者に視線を送ります。「ああ、みんなもう少し待ってくれ。俺とオヤジで必ず助け出してやるからよ」若者は、ポチの気持が分かったようで、ポチの言葉を否定せずに上手く受けて、檻の中の仲間達に話しかけました。
「オヤジ、ありがとうよ。でもな、無理に嫌われ役を買って出る事はねえぜ。俺はオヤジだったら、ボスの座を喜んで渡すつもりだ」仲間達の囚われている檻から離れ、二匹は建物の出口に向かっています。「よせやい。俺は、この年になって、しちめんどうなボスなんてやるつもりなんざサラサラねえよ。そんな面倒なのは、若いてめえに任せるぜ。それに、今後の事は、その腹の中に出来上がっているんじゃねえのかい?」「ち・抜け目のねえ年寄りだぜ。まあ、ここから出ても、ここに住み続けるのは難しいだろうからよ。考えている事は考えているよ。その事は後で話すよ。それより、あいつらを助け出す算段はあんのかい?俺にはとんと分からねえよ」「あたぼうよ。算段はこの頭にあるよ。人間のやる事は、分かってっからよ。ただ、仲間達に手助けしてもらうぜ」ポチは、若者の後ろから、尾っぽをピンと立て、出入り口の扉を潜りました。仲間達が心配そうに覗き込む中、ポチは胸を張って彼等の間を通り抜けます。立場をわきまえた行動を取ると決めたポチは、若者の前で胸を張るつもりはありませんが、それでも心の内から出て来る気を隠せるはずも無く、何だか若者よりもポチの方が大きく見えてしまいます。ポチには、この事態から抜け出す自信があるようです。
「ほら見てみろよ。あすこの壁にぶら下がっているのがカギだ。あの束のどれかが、奴等が入れられている部屋を開けられるカギのはずだ」ポチが、保健所の職員が籠もっている建物を覗き込み言いました。「あんなちっちゃなもんで本当に開くのか?」若者が、信じられないと言ったように首を傾けます。生まれついての野良犬である若者は、人間が戸締りに使う錠前を見た事が無いのです。「ああ、あれなら見た事あるよ。人間が扉を閉めたり開けたりする時に使う奴よね?」ポチの背中に乗って中を覗いていたお嬢が、ポチの言葉に太鼓判を押してくれました。「ふ~ん、人間は、あんなちっちゃけえ物で押しても引いても開かねえ物にしちまうのか?おどろいたねこりゃ」若者は、ポチとお嬢が言うのだから信じる他は無いと思ったようです。「で?」若者は、隣にいるポチに視線を送りました。「で?」ポチは、若者の問いかけの意味が理解出来なかったのか?オウム返し答えます。「たく!とぼけたオヤジだぜ。だからよ、これからどうすんだっつうの!あのカギって奴をあそこからどうやって奪い取るかって事よ。もう、その頭の中には作戦が出来上がってんだろ?あ・お嬢だったら心配いらねえよ。俺とあんたの話に口を挟むような女じゃねえからよ。俺より度胸のすわっている女だから隠し立ては無用だぜ」若者が、お嬢に視線を送りうなずきます。お嬢は、その若者の視線を跳ね返し「ふふふ」と不敵な笑みを浮かべました。
「あのなあ、俺は、お嬢に気兼ねなんぞしてねえよ。だってな、お嬢は、俺達の仲を知っているからよ。なあ、お嬢?」ポチが、お嬢に視線を送ります。「ふふん」そのポチの問いかけにも、お嬢は鼻を鳴らしてそっぽを向きました。「ま・地獄耳のお嬢なら、知っていても不思議はねえやな。その情報の広さに、今までどれくらい助けられた事か」若者が、つぶやくようにお嬢の横顔を見ます。でも、お嬢は、そっぽを向いて、言葉を返そうとはしません。まるで「そんな話、あたいの知ったこっちゃあないねえ。身内の事は、身内でやりゃいい事だよ」と言っているようです。「ごらんの通り。お嬢なら何を知られても安心ってこった」若者が、少しばかり恐縮した感じで、ポチに言いました。
「あのカギを奪い取るのは、お嬢にやってもらいてえんだ」ポチは、そっぽを向いているお嬢に向かって言いました。その言葉を聞いて、お嬢は、ポチの方に顔を向け「任せときなよ」と言う感じでにやりと笑います。「お嬢に、あのカギを盗りに行かせるってのかよ?俺は、反対だぜ。それは、危険過ぎる。オヤジは、人間の怖さを知らねえから、そんな脳天気な事が言えるんだ。オヤジ!何遠慮してんだよ!俺に言えよ!俺に、カギを盗って来いって、何で言わねえんだよ。俺は、この俺が行くつもりで、作戦を聞いているんだぜ」「ぐだぐだ言ってんじゃないよ!それを甘えって言ってんだよ!いいかい?何でも自分一匹でやってやろうなんてするんじゃ無いよ。この際だからよく聞きな。あんたの下には、大勢の部下達が、あんたを頼りにしてんだよ。あたいも含めてね。あんたは、胸を張って、あたい等に指図すりゃあいいんだよ。ここにいる連中は、あんたのためなら、喜んで命を捨てるよ」お嬢の言葉に、若者は空を見上げました。「ありがてえなあ。なあ?今のお嬢の言葉よ。肝の内まで染み込むじゃねえか。それだけ、てめえが信頼されてるって事よ。なあ?この俺だって、てめえのために命を捨てる端くれだって事忘れてもらっちゃあ困るぜ。俺にゃあ、他の奴等とは違うわけっつうもんもあるけどよ」どさくさに紛れ、ポチもにやりとして言いました。
「なあ、お嬢。俺は、さっきからてめえの顔を見ていたんだよ」「やだよう。今さら、ほれたはれたの話しはよしにしておくれよ。いくらオヤジさんでも、犬と猫じゃあねえ」お嬢が、皮肉たっぷりの流し目をポチに送ります。「てやんでぃ!俺だって、生涯恋は一度きりと決めている身だ。お嬢にほれたとしても、表にゃあ出さねえぜ」「あんなあ、年寄りどうしの色恋ざたは、別の所でやってくれってんだ。今は、あのカギをどう奪うかだろ?」話が、妙な方向に脱線しそうなので、若者がポチとお嬢の会話に割って入ります。「何が年寄りだい。またっく、野暮なガキだよ。誰かさんにそっくり」「ちぇ!そこん所だけは、似てねえんだよ。なあ、お嬢、てめえは、妙に落ち着き払った顔してやがるぜ。てめえは、あの建物の中に入る自信があるんじゃねえのかい?」ポチが、お嬢の顔を覗き込みます。「あるんじゃねえのかい?みくびっちゃあいけないよ。あたいは猫だよ。どこでも入っていけるさ。あそこの中には、時々食い物をあさりに、あたいの仲間が忍び込んでいるんだよ。そいつが使う抜け道を、とっくに調べてあんのさ」お嬢が、自信満々に言います。「ただし、その抜け道を通れるのは、猫を除いてはネズミ共くらいだよ。そして、あの重そうなカギの束をくわえて来られるのは、あたいをおいて他にありゃしないよ。だから、この役は、あたいのもんだと思っていたんだよ。そいつを見抜くとは、やっぱり年の功だねえ」お嬢が、再びポチに流し目を送ります。ポチは、その流し目を軽くいなして「な?分かっただろ?あれを盗ってこれるのは、お嬢しかいねえって事がよ」と若者に向き直ります。「ああ、理屈は、分かった。でも、お嬢だけに危険な役をやらせるわけにゃあいかねえよ。もっと別な方法はねえのかい?あの開いてる窓から、みんなで一斉に飛び込んだらいいんじゃねえのかい?きっと、その方がカギを奪いやすいぜ」若者は、何とか危険の分散をはかりたいようです。その後ろには、いざとなったら自分が盾になってでもと言う思いが強いようです。「あんた、まだそんな事言ってんのかい?往生際の悪い若造だねえ。あたいを見くびっちゃぁいけないよ。この近在の野良猫共を束ねている女帝様だよ」「まあまあまあ、どちらさんも意見はおありだろうが、まだ話は途中なもんでねえ。俺様の話を最後まで聞いてから、つべこべ言ってもらいてえもんだぜ」元々話の脱線をしたのはポチ自身ですが、よほど作戦に自信があるのか?ポチは、胸を張ってお嬢と若者の間に割って入りました。
「いいか?ご両人。ここが大事な所だから耳かっぽじって聞いてくれよ。ともかく大切な事は、お嬢の安全もさる事ながら、カギを盗られた事を人間共に気付かせねえこった。何せ指の一本一本が使える人間共と違って、俺達は、器用に使えるのは口しかねえんだ。カギを開けるのは時間がかかる。その間に人間に邪魔なんぞされたくはねえや。それで無くとも時間がかかるのに、わをかけて無駄な時間をくっちまう。それに、あのカギの束から、あすこの部屋のカギを見つけなけりゃなんねえだろ?さらに時間が必要ってこった」ポチは、そこまで言うと言葉を区切りました。建物の中の人間が、くるりと後ろを振り向いたからです。三匹は、さっと窓の下に身を隠しました。
「あぶねえあぶねえ。ちょっくら無防備だったな。話しするのに窓から顔だしてやるこたあねえやな。いいか?そのためには、人間にカギを盗られた事を気付かれてはまずいってこった。そこで、てめえの仕事なんだがよ。いいか?ここが大事な所だぜ」ポチは、若者に顔を近づけます。お嬢は「あんたの言う通りにすりゃあいいんだろ」と言う感じで、ポチの話に特別な興味を示さず、空を見上げています。でも、ポチも若者も知っています。お嬢は、ちゃんと話を聞いてくれている事を。作戦を開始すれば、間違い無く作戦通りに行動してくれる事を。だから、二匹は、お嬢をとがめる事無く作戦会議を続けました。
「つまり、俺達がする事は、人間共の目を引きつける事だな?仲間同士で争いを起こして、人間の目を釘付けにすりゃあいいって事だろ?」ポチが話した作戦を、若者が復唱するように言いました。「そうだ。出来るだけ派手にやってくれた方がいい。人間共が窓から身を乗り出して眺めるくらい派手にやってくれ。てめえ等にそれが出来るか?」ポチは、試すように若者に問いかけます。「出来るか?あたぼうよ。そんなじゃれ合いは、毎日やってるよ。人間が見たらびびるほどのじゃれ合いは、俺達にとっちゃあ、日常茶飯事ってこったよ。俺が、奴等にこの作戦を伝えたら、奴等は大喜びをするよ」若者は、胸を張ります。ポチは、そんな若者を目を細めて眺めていました。
猫の軍団が、保健所の建物を囲む塀の上にぐるりと陣取ります。外の異変を監視するためです。お嬢は、建物の後ろに回ります。気配を消し、人間の視界から外れた場所を素早く移動します。「まったくよ、あの芸当は、犬にはとうてい真似の出来ねえ芸当だぜ」ポチが舌を巻くほどに見事な動きです。
庭のそちこちで犬同士の小競り合いが始まりました。その小競り合いが、徐々に大きくなり、収集が付かないほどの争いになる。と言うのが、ポチが与えた作戦です。ポチと若者は、争いを始めた小グループを、人間の目から見ると争いに加わっているように見せかけながら次々とまわり指揮をとります。その努力のかいあってか?争いの集団は、徐々に周囲に広がり、誰の目から見ても疑われる事は無い。と思われるほどに、自然な状況に映りました。
「しょ・所長!犬達が仲間割れを始めましたよ。ちょ・ちょっと来てください」窓から腕を突き出してパチンコで犬を狙っていた男が、部屋の中に向かって叫びました。「ふん!しょせん畜生共だ。あんなにまとまっているように見えたが、こうなる事は最初から見えていたさ」所長が、お茶をすすりながら窓際に寄って来ます。それに合わせ、建物の中にいた全所員が、窓際に集まり、窓から首を突き出しました。
「おい!準備は整ったとアネゴに伝えて来な」塀の上から人間の様子を眺めていたオス猫が、隣にいる体がほっそりとしたオス猫に命令口調で言いました。オス猫が、塀からストンと飛び降り、建物の後ろに走ります。「へへへへ。見てみろよ。人間共が、こっちに釘付けだぜ」ポチが、争いの広がる中を巧みに移動し、すれ違いざま若者に言いました。「ああ、これならうまくいくぜ」若者も争いに加わる仕草を見せながらうなずきます。ポチと若者は、争いの中を縦横無尽に走り、そのグループのリーダーに、的確な指令を与えます。そして、その争いは、庭一杯に広がり、最初はグループごとの小さな小競り合いに見えていたものが、今では、どれがどのグループで、どのグループとどのグループが争っているのかも分からないほどグチャグチャな状態になっています。
「しょ・所長。すごいですねえ。こんな犬のケンカ見た事ありませんよ」保健所の若い所員が、所長にすり寄ります。「ワハハハハハ!畜生共のあれが本性だよ。よく見ておきたまえ。あいつらに仲間意識などあるはずが無い。今までのは、ぐうぜんそう見えただけだって事だ。あの姿こそが、奴等下等生物の本当の姿だ。あいつ等を野放しにしておく事の危険性がよく分かるってもんだ。君は、ここに配属されたばかりだが、あいつ等の本性をよく見ておけ!あの姿を記録に収めろ。世間に奴等の危険性をアピール出来るいいチャンスだ。あれ見て可愛いなんて言う奴がおると思うか」所長は、頬を真っ赤に染めて、右のコブシを突き上げます。若い所員は、ビデオにこの状況を収めるために、機械をとりに走ります。保健所の建物からは、その若い所員を除いた全ての所員が、窓から首を伸ばして、犬達の争いを、ある者は楽しげに、ある者は恐ろしげに、またある者は忌々しげに見詰めています。「いいぞいいぞ!大いに共食いし合え!互いに傷つけ合え!その後で我々が一網打尽にしてやる。もっと暴れろ!もっと噛み付け!この下等生物めが!」所長は、ツバを庭に振りまきながら叫び続けました。
「アネさん。今ならだいじょうぶだ。人間共は、庭の騒ぎに釘付けだ」表の庭から走り込んで来た伝令の猫が,お嬢に伝えました。「ああ、時は熟したって奴だね。それじゃあ、始めるよ!」お嬢は、一緒に待機していた二匹に言いました。体の大きな灰色のオスと三毛のメスの猫です。お嬢を先頭に三匹の猫は、建物と建物から出ている下水管の間に出来た隙間に潜り込みました。長年放っておいたのか?地下に埋められたはずの下水管の上部が露出し、その間に僅かな隙間が出来ていたのです。猫達は、その隙間から壁の中に潜り込むと、これもまた壁に入れられた断熱材と床の基礎の間に出来た隙間を進みます。どうやら、建物の壁伝いに移動しているようです。
「よう、オヤジよう。やつら一人足りなくねえか?」若者が、ポチの後ろに来て耳打ちします。ポチは、窓から首を出している人間を数え始めました。「確かに、頭の毛がぐじゃぐじゃな奴がいねえな」「少し間の抜けた顔をした小僧だよな」若者が、もう一度建物を見ます。「おい、猫さんよ。そこから室内を覗けるかい?窓から顔出していない奴が一人いるが、そこから見えるかい?」ポチが、真後ろの壁の上に陣取っている黒いオス猫に聞きます。「ああ、よく見えるぜ」黒猫が、光る目をポチに向け答えます。「あの部屋の奥に誰か人間がいるかい?」どうやら、ポチの場所からは、建物の中全体が見渡せないので、高い場所にいる猫に覗いてもらうようです。「いいや、誰もいねえよ」黒猫が、首を振ります。「オヤジまずいぜ。もし、お嬢達とそいつがかち合っちまったら、この作戦は失敗だぜ」若者が、緊張した顔をポチに向けます。ポチは、若者の声を聞くより早く、走り始めていました。体全体を使い、脱兎の勢いで走ります。
「おい!誰かお嬢を止めてくれ!物影に待機するように言って来てくれ!」建物の後ろに回り込んだポチは、そこで見張りをしている猫達に向かって、叫ぶように言いました。そのポチの言葉を聞いて、一匹の小柄なメス猫が、お嬢達が潜って行った壁の隙間に飛び込みます。ポチの慌て振りを見て、何か事件が起こったと悟ったのでしょう。ポチから訳を聞くこうともせずに、建物の中に走り込んで行きました。
「何かあったのですかい?ポチさん」先ほどお嬢達に建物の中に進入する用意が整ったと伝えに来たオス猫が、ポチの前に進み出て聞きました。「ああ、あの部屋から人間の若い奴が一人消えた。もし、お嬢達とそいつが出くわしたら作戦は失敗する。そればかりか、お嬢達の身も危なくなる。だから、そいつが戻って来るまで隠れていなきゃあなんねえ」ポチが、鼻息荒く答えます。「分かりやした。アネゴのこったから、そんなドジは踏まねえと思いますが、ここは慎重にするにこした事はねえ。早速、誰かに事態を伝えさせますぜ」猫が、後にひかえている仲間達に首を回します。「おい、さっき走った彼女は?」ポチは、ポチの言葉を聞くやいなや建物の中に走り込んだ猫の事が気になるようです。「彼女の心配はいりやせんぜ。彼女は、ここの住人だ。この建物の事は、一番知ってる。彼女に任せておけば、アネゴ達を止める事はできやす。今、選んでいるのは、事態を説明しに行く奴です」オス猫が、自信たっぷりに答えました。ポチは、「ほ~!」と心の中で感心しながら「お嬢の奴やるじゃねえかよ」と思いました。ここに来てから何度も、猫達が見せる統率の取れた行動に内心感心していたのですが、お嬢がいない現場で見せる猫達の行動は、そこにいる誰かが判断し、最高の行動を素早く起こす。と言う高度なものでした。それもこれも、お嬢の指導力のなせる業なのでしょう。そして、そのお嬢の上に自分の息子がいる。「て、言う事は、奴も俺が考えているよりずっと大物かも知れねえな」ポチは、状況にあわせて的確な行動する猫達を眺めて、その頂上に自分の息子がいる事を誇りに思いました。
「オヤジどうだった?」ポチが戻った時、庭の騒ぎは最高潮に達していました。犬達は、楽しんで暴れているのですが、この状況を人間の目から見た場合、非常に恐ろしいものと映っているでしょう。「ああ、だいじょうぶだ。お嬢のグループは、何でも任せられる奴等がそろっているからな」と、若者の顔を見ながらにやりとしていいました。「な・何だよ?気色悪いなあ。ここは、ニヤニヤ笑う場面じゃねえだろ」「いや、何でもねえよ。年とるとな、時々分からねえ行動をとっちまうもんだ」と再びにやりとして答えました。
「オヤジ見ろよ。人間のぐしゃぐしゃ頭が戻って来たぜ。手になんか持ってるぞ、危険な物かも知れねえから、みんなに注意して来る」若者は、再び戦いの輪に飛び込もうとします。「まあ、待て待て。あれは、ビデオカメラって言う奴だ。俺達の姿を残しておこうって算段だろうよ。気にせず、もっともっと派手にやらせろ」ポチは、知っていました。所員が持ってこちらに向けて構えている物が、ビデオカメラであり、自分達の姿を収めて置く物で、危険な物では無い事を。時々じっちゃんが、隠れてこっそり撮ったポチの姿などを見せてくれます。ポチとしては、自分の姿が小さな得体の知れない物の中に閉じ込められているようで、どうしても好きにはなれませんが、危険な物では無い事は確かです。「そうか?俺には、人間が何かを構えると全てヤバイ奴に見えちまうが、オヤジが言うんだからだいじょうぶだろう」と言うと若者は、再び闘いの渦の中を縦横無尽に走り、仲間達に指令を出し始めました。
「あぶなかったねえ。もう少し伝令が遅れていたら、あいつの目の前に飛び出していたかも知れないよ」「そっすよ。廊下にゃあ、これと言って隠れる場所なんてありゃしませんでしたからねえ」お嬢の言葉に、灰色のオス猫が、長い髭をヒクヒクさせて答えます。その後ろで三毛猫のメスが、油断無く後を振り返ります。「どうだい?後ろはだいじょうぶかい?」お嬢も三毛猫の緊張を受け止めたらしく、後ろを振り返ります。「だいじょうぶ。全く人の気配は感じませんから」三毛猫が、力強くうなずきます。「そっちはどうだい?」お嬢は、引き戸の隙間から首を出して、部屋の様子を伺っている灰色のオス猫にも声をかけます。「ご安心を。人間共は、ボス達が闘っているのに見入っていやす」オス猫も自信たっぷりにうなずきました。
「ふふふふ、いいねえ。こうやって仲間達と協力して、困難な作戦を成功に導く。まさに男冥利に尽きるってやつだ」ポチは、闘う仲間達から少し離れた所で、全体を見回して満足気につぶやきました。ポチの目からは、完璧な作戦に映ります。その証拠に、建物の中の人間の目が、自分達に釘付けになっています。塀の上の猫達から、建物の中の様子が逐一ポチの耳に入れられます。その統率された動きに、ポチは何度も驚かされます。若者は、若さから溢れ出るエネルギーを気持よく発散させるかのように、休む事無く縦横無尽に走り、組織の統率をはかっています。そして、それら全ての情報が、ポチの耳に入ります。「おい、もうだいじょうぶだから、てめえはここにじっとしていな。これからは、入って来る情報に、素早く対処出来る陣構えでいかねえとな」と、目の前を走りぬけようとする若者をポチが呼びとめました。今のままでも問題は無いのですが、ポチとしては、自分がリーダーに見える今のポジションを嫌ったようです。「あとは、奴等に任せておけば問題ねえよ。見ろよ。いい動きじゃねえか。先頭を突っ走るのもいいが、あるていどの状況が見えたら、でんと構えている事も必要だぜ。てめえは、このでっけえ組織の大ボスなんだからよ」ポチは、若者をたしなめるように言います。その目は、わずかではありますが、父親の光を帯びています。「何言ってんだよ。ここにオヤジがいてくれるから、俺も一兵卒として気持ちよく動けるんじゃねえか。水くせえ事は、言いっこ無しだぜ」若者は、そう言うと再び走り出そうとします。「バカヤロウ!甘えた事言ってんじゃねえぞ。俺は、あくまでもよそ者だ。この組織は、てめえが育てた組織じゃねえか。てめえが、苦労して、そしてこの連中に限りねえ愛情をそそいで作り上げたんだろ?そんな安易な物言いはすんじゃねえよ」ポチは、静かな声で、しかしきびしく若者をたしなめます。「俺、夢語ってもいいか?」若者が、澄んだ瞳をポチに向けます。「何だよ、改まって。こんな状況で語るような事かい?」ポチか、怪訝な顔をします。「こんな蜂の巣を突いたような状況だから、話しやすいんだよ」若者は、物怖じせずに正面からポチを見据えます。「なるほどな。確かにこの状況なら、俺等の話に聞き耳を立てる奴なんぞいやしねえやな。なんでい?言ってみな」ポチは、若者に話を促します。目の前を興奮した犬達が、走り抜けました。
「ボスやってくんねえか?」若者が、しっかりとした口調で言いました。「何を!今なんて言った?」ポチが、顔よりも大きく口を開けて聞き返します。「いやさ、オヤジにボスをやってもらいてえと以前から考えていたんだよ。いや、無茶な事言ってんのは、よく分かっているよ。あんたが、俺の本当の父親と分かる前から考えていた事なんだよ。俺、オヤジを垣根の隙間から覗いていた時から、オヤジに憧れていた。最初は、人間に飼われている奴なんてと否定していたさ。でも、オヤジの男らしい姿見る度に、もし俺が誰かの下につくとしたら、あんたみたいな男の中の男がいいなって言う思いを止められなくなっちまったんだよ。だから、あんたの所に何度も通ったんだよ。そして、あんたが、俺の本当の父親と分かってからは、もう俺の中では、あんたがボスになっちまってるんだよ」若者は、真剣です。目が輝いています。「こりゃ、困ったぞ」とポチは、思いました。そう簡単には、若者の気持が変わりそうも無いと思えるからです。「オヤジが困るのは分かっているよ。だから、俺も悩んださ。でも、俺の気持も変わらねえよ」若者もまた強い意志でポチに迫ります。「ち!頑なな所まで似やがってよ」ポチは、この状況をいかに上手く突破するか?頭をフル回転させ始めました。
「てめえと俺は、確かに親子だ。俺は、それを否定しねえよ。いや、むしろてめえみたいな息子を持てて誇りに思っている。だがな、勘違いすんなよ。俺とてめえは親子でも、生きている環境が違う。立場が違い過ぎるんだよ」ポチは、暴れまわる仲間達に視線を送り深く息を吐き出します。「立場が違うって、俺達が駄目って事かい?」若者が、探るような目でポチに聞き返します。「そうじゃねえよ。そうじゃねえ。俺は、てめえ等が好きだし尊敬もしている。てめえ等といるのが一番落ち着くし楽しいよ」ポチは、仲間達から視線を外さずに答えます。「だったら」「でも、俺は、人間に飼われている身だ。生まれた時から、人間をご主人様とあがめ奉っている身だ。俺には、切りたくても切れねえボスがいるのよ。つまり、てめえ等には、俺には生涯持てねえ自由ってもんがある。俺は、人間にこき使われている身よ。その違いは、てめえ等が考えているよりずっと大きいのよ。いや、実際は、骨の髄まで染み込んでいやがるから、俺が考えているよかずっと大きいのかも知れねえ」ポチは、そこで大きく息を吸い、そして吐き出しました。
「そんな俺が、てめえ等のボスになれると思うのかい?てめえ等が、人間のボスに仕えている俺の下に入るって事はよ、てめえ等も人間の傘下に入るって事だぜ。俺と同じように束縛されるって事だぜ」ポチは、何か言いたげに口を開きかけた若者を制して言いました。正直言って、ポチもじっちゃんの元から飛び出して、若者のグループに入ろうと思った事は何度もありました。それが、自分の本当の姿だと考えた事もあります。でも、時が来れば、自然と足がじっちゃんの家に向いています。じっちゃんに鎖でつながれる事を体が求めています。それは、理屈では無く、体に染み込んだ性とでも言うべき物でしょう。その性を振り切って、全く違う世界に身を置く自信が、ポチにはありません。もちろん、息子をボスの座から落としたく無いと言う気持が強い事も確かです。たとえ息子がそれを望んでいても、ポチが「そうか、それでは」なんて言えるはずが無い事も事実です。しかし、それは今のまま息子を補佐する立場を貫こうと思えば出来る事です。ポチにとって大きな問題は、長年培って来た番犬と言う立場を捨てきれないと言う事でした。
「俺は、出来ると思うぜ。オヤジさえ一歩踏み出してくれたら仲間はたくさんいる。その多くが、オヤジと同じく、以前人間共に飼われていた経験のある奴等だ。俺の知らねえ世界を知っている奴等だ。俺には、そこの部分が欠けている。だから、奴等の気持の底を汲んでやる事が出来ねえんだ。オヤジならそれが出来る。オヤジがボスをやってくれたら、もっともっと奴等は落ち着くはずだ。それに俺には、次の大きな仕事がある。どうしてもやらなきゃいけねえ仕事だ」若者は、ポチの顔を覗き込み熱っぽく語ります。
「ま、いいって事よ。この件に関しては、また後でゆっくり語ろうぜ。ただ、俺はオヤジと別れたくねえ。そこの所は、オヤジもじっくりと考えてくれよ」そう言うと若者は、少しだらけて来た犬達に、大きな声で激を飛ばし、再び争いの渦の中に飛び込んで行きました。
「まったくよ。わけえって事はうらやましいね。ああやって、体を使って統率出来る。俺だって昔は。ああ、年は取りたくねえもんだな」ポチは、若者の姿を見て、声を出してつぶやきました。でも、口で呟いた言葉と頭で考えていた事は、全く違う事でした。「別れたくねえ?あたりめえじゃねえか。ようやく巡り合えた親子だぞ俺達は。別れたいなんぞ思うはずがねえやな」ポチは、その事を繰り返し頭の中ではつぶやいていました。ただし、若者がこれから何をしたいのかも、ポチには分かっていました。そのためには、ポチは大きな決断をしなければならない事もよく分かっていました。「じっちゃんと別れるか?息子と別れるか?それが問題だ」ポチは、土ぼこりが舞い上がり、所々禿げたように消えている星空を見上げました。
「どうだい?あの壁にかかっているカギを外せると思うかい?」部屋の中に忍び込んだお嬢が、壁を見上げて言いました。「このままじゃ無理ですぜ。俺等がいくらジャンプしても届きやしませんぜ」オス猫が上を見上げて頭を振ります。「そうねえ。ただ、やみくもにやっても無理よねえ。でも、絶対に無理と言う事でも無いと思うわ」三毛猫が、周囲を見回しながら言います。「なんか知恵がありそうだねえ」お嬢は、たぶんそれが癖なのでしょう。メスの三毛猫に流し目をしながら聞きました。「知恵ってほどのもんじゃないけれどね、その窓の枠の上に飛び乗って、反対のケースの引き出しに飛び乗るのさ。ほら、あの引き出し、少し開いているでしょう?あそこに足を引っ掛ければ、もう少し引き出しが出てくると思うのよ。あの引き出しに飛び移れたら、後は首を伸ばすだけで取れるんじゃ無いかしら」三毛猫は、胸を張って答えます。「なるほどねえ。ちょっとばかり危険だけれど、それしか方法は無さそうねえ」お嬢は、うなずきながら引き出しを見上げます。「よし!その役は、オイラが引き受けたぜ」灰色の毛の色のオス猫が、お嬢と三毛猫の前に出て言いました。「あたり前でしょう?あんたは、そのために選ばれたのですもの」三毛猫が、オス猫にツンとした口調で言います。「お前は、相変わらず冷たいねえ。その口がなけりゃあ器量よしなんだから、オス共がほって置かないのにえ。いいかい?あたいもお前に任せるつもりだよ。お前の能力なら、なんとか出来るだろう。でも、油断しちゃならないよ。そんなに簡単な事でも無いからねえ。それに、あすこにいる人間共にゃあ絶対に気付かれちゃあいけないよ」お嬢は、窓から身を乗り出して、犬達の騒動を見物している人間に視線を送りました。灰色のオス猫が、ゴックンとツバを飲み込み、それから人間とカギを交互に確認し、力強くうなづきました。
「所長!いい画が撮れてますよ」若いモジャモジャ頭の所員が、興奮気味に甲高い声を上げました。所長は、大きくうなずき「君の記録が後々大きな反響を呼ぶことだろう。犬を友達と呼びバカッ可愛がりする奴が増殖もしておる現代において、いかに犬が凶暴であるか!そして、そんな犬共と付き合うためには、人間が奴等の主人であると奴等に骨の髄まで染み込ませる必要がある。人間と犬共とは、友達とはなりえないのである。あくまでも主従関係を結ばなければならない間柄であ~る!その事は、以前から私が、将来厚生省の技官となるべき存在であるこの私が、主張して来た意見である!今君の撮っている映像は、その私の主張を証明する事に他ならない映像である。そこんとこを心して、記録を映し撮りたまえ!その映像が、素晴らしい物であり、世間一般の人々の心に衝撃を与え、ペットイコール友達と言う考えを変えるきっかけになれば、君の将来の立場も安定すると私が保証しよう。他のみんなも、ゆめゆめこの光景を忘れるべからず!君達は、一人一人がこの凶暴な光景の証言者であり、伝道者とならねばならないのだ!」所長は、右の拳を突き上げ、口の端から泡を飛ばして、演説口調で所員の気持を鼓舞します。その所長の気持が乗り移ったかのように、所員はさらに窓から身を乗り出します。中には「やれやれ!もっと激しく暴れろ!もっと血を流せ!相手をかみ殺せ!」と叫ぶ者や手帳に詳細にメモを書き込む者もいます。
「見なよ。あの人間共の興奮を。笑っちゃうね。あれが芝居なんて、誰一人気付いてはいないよ」と三毛猫がつぶやきます。「ああやって興奮してくれるのは、結構な事さ。ボス達がうまくやっている証拠だよ。さあ、始めるよ。廊下に待機させてある伝令に伝えて来な!」お嬢が、三毛猫に命令口調で指示しました。三毛猫は、何の躊躇も無く、廊下に飛び出して行きます。お嬢の指示を聞いた灰色の毛のオス猫に緊張が走りました。
「オヤジ!お嬢から連絡が入った。今から行動に移るってよ」猫からの伝言を聞いた若者が、ポチの所に走って来ました。「おう!了解だ。さあ、もっとみんなに騒がせろ。暴れさせろ!今のままでいいと思うな!少しでも人間の目が内側に向いたら負けだ!塀の上の猫達にも参加しろと伝えな!俺達のやり方次第で、お嬢の仕事の成否が決まるんだ!カギを奪って来るまで騒げ騒げ!祭のつもりで騒ぎやがれってんだ!」ポチも勇躍争いの輪の中に飛び込んで行きます。若者は、塀の上の猫達に騒ぎに参加するように指示を出し、再び輪の中に飛び込んで行きました。
「どうやら作戦の開始が外に伝わったようだねえ」お嬢が、ピンと立てた耳をわずかに動かしました。先ほどよりも、さらに外の喧騒が増しました。それは、自分達の作戦開始の情報が伝わり、人間共の視線をさらに外に釘付けにするために取られている行動に違いありません。「ちょっとここで待ってな」お嬢は、二匹にそう言うと、窓際に向けてトトトトと軽い足取りで移動し始めました。「アネゴ!なにすんです?やめてください!危険です」灰色のオス猫が、声を殺して叫びます。三毛猫も目をまん丸に見開いて、驚きの表情を見せています。彼等が驚き、そして慌てたのも当然です。だって、お嬢は、大胆にも、窓際にたむろして外で暴れる犬達を見ている人間の方に歩いて行くのですから。
「ふ~」お嬢が、部屋を一周し、二匹の元に戻って来ると、二匹の口から深い安堵のため息が漏れました。「ハハハハ!見たかい?人間共は、外の様子に夢中だよ。足元まで近づいても、誰一人気づきやしない。さあ、安心して作業にとりかかりな!ただし、さっきも言ったけど、決して気を抜いちゃいけないよ。何かの弾みで後ろを振り向くって事もあるんだから。気持を入れて、慎重に、でも素早い行動であのカギを取って来るんだよ」お嬢の言葉に灰色のオス猫は、再びごくりとツバを飲み込み、カギを見上げました。
オス猫が、ひらりと窓枠に飛び乗りました。さすがにお嬢が選んだだけあって、その跳躍力と身のこなしには目を見張る物があります。人間の男の腰の高さより少し高い窓枠に何の苦も無く、神業的身軽さで飛び上がったのです。それもわずかな出っ張りに足をストンと乗せて。その狭い窓枠に乗せた体に、何のブレも見えません。それから、わずかに引き出されているロッカーの引き出しを体勢を低くして見上げると、次の瞬間、体を思い切り伸ばして引き出しに向け跳躍しました。人間の胸の高さくらいにある引き出しです。でも、物事はそうはうまく運びません。その引き出しに飛び移り、出ている引き出しの端に前脚を引っかけた時に「カタ」とわずかな音が飛び出しました。後ろ足でロッカーの壁を蹴って引き出しを引き出す時「ガラガラ」と言う音が聞えました。スチール製のロッカーですから、音が出るのは仕方がありません。その度に下で作業を見守っていたお嬢と三毛猫は、尻尾の毛を逆立たせ、人間のいる方に視線を送ります。でも、外の犬達の騒々しさが勝っていたために、それらの音が人間の耳に入ったようすはありませんでした。
「おい!騒ぎはこのままにして、仲間の一部を捕まっている連中がいる建物の近くに移動させてくれ。急激にやるんじゃねえぞ。人間共に動きを察知されねえくれえに少しずつ動かしてくれ」ポチが、闘う振りをしながら、若者に近づき耳打ちをしました。若者は、強くうなずき、近くの犬数頭に耳打ちします。その数頭が、各小グループのリーダー達に伝令に走りました。
「いつまで続くんですかねえ?」窓から首を伸ばしていた所員の一人が言いました。どうやら所員の中には、そろそろ犬達の観察に飽きて来た者がいるようです。「夜が明けるまでだ!夜が明けるまで何としてでも続けさせろ!この騒ぎを近隣住民に見させて噂を流させろ!それまで、ここの所員は、誰一人気を抜く事は許さん!将来出世したい奴は、ここが人生の分かれ道と思い、この状況をつぶさに観察しろ!飽きた腫れた腹痛などは、この所長の私が許さん!」でも、所長は、まだまだ意気軒昂。ダレかかっている所員が出始めた事に気付き、強い調子で所員の気を引き締めます。
「いいよ。もう少しだよ。もうちょっと首を伸ばしな。そうそう、もうちょっとだ。ああ、やっぱり首を伸ばしても届きゃしないねえ。どうだい?お前の長い尻尾で掬え無いかい?」お嬢が、灰色のオス猫に下から指示を与えています。オス猫が、首を長く伸ばしてカギ束をくわえ取ろうとしましたが、もうちょっとの所でカギに届きません。「そっちは、だいじょうぶかい?」お嬢は、灰色のオス猫が体勢を入れ替えて、尻尾で再度チャレンジする間をぬって、三毛猫にも気を配ります。「だいじょうぶです。だれ一人後ろを振り向きませんから」三毛猫は、机の下から窓際を見回しながら言いました。
「よお、少し単調になってきちまってるぜ。仲間達をスムーズにあの建物の前に移動させるためによ、俺とてめえで一芝居打たねえか?」人間の中に緊張感が薄れている事に、ポチは気付きました。仲間達の争いの演技に文句は無いと思います。でも、あまりにも長い間、同じような事を繰り返しているために、間伸びしている事も事実です。このままの状態で移動したら、怪しまれるかもしれません。そこで、ポチは、若者との一騎打ちを提案しました。「最後の仕上げは、俺とオヤジの一騎打ちかい?俺は、かまわねえよ。でもオヤジは、年寄りなんだからだいじょうぶかな」若者が、ニヤニヤとしながら答えます。「て・てやんでい!まだまだてめえのようなガキに負けるポチさんじゃねえやい!いいか!演技と言っても、手を抜くんじゃねえぞ!俺とてめえは親子だけどよ、ここは生涯の敵同士と言うつもりでやんなくちゃあなんねえ」ポチが、尻尾をぐるんと回し、前脚を一歩踏み出し、口の横から牙をむき出し、大見得を切ります。「望む所だぜ。俺は、前から一度、オヤジと手合わせをしてみてえと思っていたのよ。さあ、力はどちらが上か?白黒付けようじゃねえか」若者が、尻尾をピンと上げ、体を低く構えて、攻撃の態勢をとります。「へへへへ、父親の強さをその体に刻み込んでやるよ」ポチは、若者の周囲をゆっくり回りながら、見下ろす態勢をとります。保健所の庭に、一気に緊張が走りました。
「よし!もうだいじょうぶだよ。うまく尻尾に引っかけた。後は、慎重にたぐり寄せるんだよ」灰色のオス猫が、その太い尻尾の先に、カギ束を束ねている金属のわっかを引っかけました。後は、尻尾の先をくるりと巻き込み、落ちないようにして、引き上げるだけです。お嬢が、安堵のため息を漏らしました。もう、ここまで来れば作戦は成功したと思えたからです。でも「アネゴ!外のようすがおかしいよ。シンとしちゃったよ」と三毛猫が、お嬢に緊張した声で言いました。「そう言えば」お嬢も灰色のオス猫から視線を離して、外の音を聞きとろうと、耳をヒクヒクさせます。あの喧騒が嘘のように静まり返っています。「外で何か突発的な事故でも起こったのだろうか?」お嬢にも緊張が走ります。お嬢は素早く人間達に視線を送ります。でも、人間が後ろを振り向く気配はありません。いや、むしろ先ほどより身を乗り出しているような感じです。「何があったのかねえ?」お嬢が、心配そうに外の方角に視線を送ります。もちろん、床にいるお嬢から見える窓の外の景色は、暗い夜空だけで、それがなお、外の様子に不安を増幅させます。
「あ!ボスとオヤジさんが!」上から灰色のオス猫が、声を殺して叫びました。「そこから見えるのかい?」お嬢が、オス猫にたずねます。三毛猫も、人間の監視を止め、お嬢の近くに小走りで走り寄ります。「うん、ボスとオヤジさんが、すげえ形相で睨み合っている」オス猫は、そこまで言うと、興奮したのか?尻尾をブルンと振ります。その拍子にカギ束が、尻尾からスルリと抜けて下に落下します。たくさんのカギが束ねられているカギ束が、床に落ちたら大きな音を出してしまうでしょう。そうなったら、この作戦は失敗してしまうでしょう。カギ束の出す音を聞いては、いくら人間でも振り向くはずです。ほとんど成功しかかっていた作戦が、オス猫の油断で木っ端微塵になってしまいます。
「このバカ!」尻尾からカギ束が抜けた瞬間、下で見上げていたお嬢は、横にジャンプしました。そして、カギ束が、床にぶつかる瞬間に、掬い上げる事に成功しました。「フ~びっくりした」三毛猫が、逆立てた毛のまま、安堵のため息を漏らしました。「ああ、よかったよかった」上からも、安堵を示す言葉が下りてきます。「まったく!あんたは、だからヌケ作って言われるんだよ!自分が今何をしているのかぐらいちゃんと意識していなさいよ!」その灰色のオス猫の声が、余りにも間延びしていたので、三毛猫は下りてくるオス猫をきつい目で睨みました。
「すげ~!」犬達の動きが止まっています。若者とポチの闘いの激しさに圧倒されてしまったのです。ポチと若者は、とても芝居とは思えない鋭い眼力で睨みあいます。腹の底から震えが来るような、恐ろしい声を上げて威嚇します。「ガツン!ガッ!ガン!」頭の骨と骨を、互いに力を抜く事無くぶつけ合います。鋭い牙で力任せに噛み付きます。埃を巻き上げ走り、組みかかります。目まぐるしく上下を入れ替えて組み伏せようとします。牙と牙がぶつかり、火花が散りそうな金属的な音を立てます。夜の闇を背景にして、おぞましい二頭の悪魔が、この世の事とは思われない闘いを繰り広げているように見えます。「どっちもすげえぜ!」「おい、誰か止めなくていいのか?このままやったら、どっちか死んじまうぜ」犬達の塊から、震え声と共に、闘う二頭を心配する声が沸きあがります。でも、それを行動に出せる者は、一頭も出てきませんでした。ここにゴンタがいたら止めに入るかもしれませんが、今はゴンタも檻に囚われの身です。今のメンバーでは、どうしても一齣不足しています。それを埋めて余りあるポチが、彼等のボスと闘いをはじめてしまったのですから、彼等は遠巻きにして見守るしか手立ては無いのです。「演技だよ、演技。俺達じゃ物足りないから、ボスとポチさんのお出ましってやつさ」と自分達に言い聞かせながら。
「へへへへ、てめえ、やるじゃねえかよ」組み付いたポチが、若者の耳にささやきました。「オヤジもな。手加減してたら大ケガしちまうぜ」そのポチをはねのけながら、若者もニヤリとします。お互いに力を出し切ってはいませんが、その迫力は、演技を超えるものです。ポチだって、若者の力は以前から認めています。今まで一度も闘った事はありませんが、その位は肌で感じる事が出来ます。でも、こうやってぶつかり合うと、その力は想像以上のものでした。少しでも気を抜くと吹き飛ばされてしまうかも知れません。だから、演技とは言っても、本気にならざるを得ません。それは、若者にとっても同じ事ですが「ちっとばかり俺の方が分がわりいな」とポチは、感じていました。もし、本気で闘っていたら、どこまで持ちこたえられるか?ポチには自信がありませんでした。
「ボス!作戦は大成功だよ。ほら、ここにカギ束を持って来たよ」建物の後ろから走り出て来たお嬢が、闘いの真っ最中の若者に言いました。「へへへ、オヤジ、ここまでにしようぜ」「ああ、そうだな。まったく、飽きれた奴だぜ。俺は、とてもてめえにゃあ勝てそうもねえやな」組しかれていたポチが、体の上から退いた若者に言いました。「よせやい。俺の方こそ、その言葉をそっくりお返しするよ」若者も、肩で息をしながら言いました。
「お~し、もういいぞ。争いの真似はやめだ!みんな、この建物の入り口を固めて人間が入れないようにしてくれ!」若者が、カギを受け取り、仲間達に号令しました。仲間達が檻の中に囚われている建物に、若者とポチとお嬢と数頭の犬と猫が入り、残った者達は、若者の命令に従って建物の入り口にかたまり、誰も侵入出来ないようにガードします。窓から外を眺めている人間達は、まだ何が起こっているのか理解出来ていないようです。さすがに犬達の変化には気付いたようで、さらに身を出して、犬達の行動を眺めています。「おい!みんな、もう安心だぜ。ボスとオヤジさんとお嬢が来てくれた」檻の中からゴンタの太い大きな声が聞えて来ました。
「あ!しょ・所長!カギが無くなっていますよ」部屋の中に目を向けた所員が、声を上げました。「なんだと!そんな事は無いだろう?その辺りに落ちていないか、誰かがかけ忘れていないか、よく確認しろ!」所長が叫びます。窓から顔を出していた数人の所員が、カギ束のかけてあった入り口に走り、ある者は背伸びして、ある者は中腰で、ある者は床に這いつくばって、カギ束が、ロッカーの天井や窓枠に置いていないか。ロッカーの引き出しの中に無いか。あるいは床に落ちていないか。と探しまわります。「しょ・所長!あれあれ?」双眼鏡を覗いていた定年間近と思われる白髪の所員が、外を指差します。所長が所員の所に飛んできて、所員の手から双眼鏡を引ったくり、彼が指差している方向を覗き込みます。「なんじゃこりゃ!」所長は、髭にヨダレを滴らせ、ひっくり返りそうになるほど驚きました。双眼鏡を覗くと、一匹のトラ猫がカギ束をくわえ、それを白い大型犬に渡す所でした。お嬢が若者にカギ束を渡す場面が、所長の覗く双眼鏡でとらえられたのです。「どういう事だ?何故奴等が、あそこのカギ束を持っているんだ?」所長が口をポカンと開け、気の抜けたような声を出します。「所長!私がそれで観察していましたら、この建物の横から猫が三匹胸を張って出てきたんですよ。その先頭のトラ猫が、あのカギ束をくわえていたのを、私のこの目が見逃さなかったと言うわけですよ所長!」白髪の所員が、胸を張って状況を説明します。カギ束を探し回っていた所員達も、二人の話す声を聞いて、ドカドカと窓際に戻って来ます。「それは、いったいどう言う事だ?」所長は、どういう状況で猫がカギ束を手に入れたのか?推理します。
「ね?私じゃ無いでしょう?私が、カギ束を戻し忘れたんじゃないのよ。私が、最後にカギ束を壁にかけたのよ。それは、間違いないわ。いつものように指呼確認までしたんだから。私、私のせいにされるんじゃないかとドキドキしたわ。ねえ、所長!これで私の責任じゃ無い事ははっきりしましたわ。減点は無しですよ」キツネ目の女性が、安堵したように言います。「だったら一体全体」所長は、さらに訳が分からなくなったとばかりに、髪を掻きむしります。「なんで犬共は、突然闘いをやめたんだ?まるで今までの闘いが、嘘だったかのようにシッポ振ってるぞ」馬面の男が、首をひねります。「わかりました!僕達は、犬達にいっぱいくわされたのです所長!犬の闘いは初めから芝居だったっすよ。僕達の目を闘いに引き付けておいて、その隙に、猫達がここに忍び込んで、カギ束を盗み出す。どっす?この僕の推理は?」ぼうやが、得意気に周囲を見回します。「君!それを言っちゃあいかんぞ!それだけは、口が裂けても言ってはいかん事だ!犬や猫が作戦を立てるだと!この霊長類ホモサピエンスをだますだと!そんな事は、だんじてあってはならん事だ!そんな事が世間に知られたら、我々は嘲笑の的になってしまう。いいですか?みなさん!今、このたわけがほざいた事は、無かった事にしてください!そんな事は、考えてもいけない事ですから」所長が、ぼうやの頭をコツンと殴ります。「ぐうぜん。しょ所長!ぐうぜんですよぐうぜん。たまたまぐうぜんに束が猫の口に入ってしまった。これですよ」白髪の所員が、陽気をつくろって叫びます。「さすがに君は年を食っているだけあって老獪だな。そう、彼の言う事が、我々の求めている答です。何事もぐうぜんのなせるわざです。分かりましたね?みなさん」所長が、満足気にうなずきました。
「わけえの。これは、そう簡単にはいかねえぜ」檻の前に投げ出されたカギ束を見詰めてポチが言いました。「部屋は、三つある。カギは十以上ある。この中から一つのカギを見つけ出すのは、確かに困難だな」若者も首をひねります。檻の中から期待の眼差しが、檻の外にいるポチや若者達にそそがれています。「いや、その事じゃねえよ。カギは、大きい奴が三つあんだろ?その三つの内のどれかが、この三部屋の扉に合うはずだ。俺が言ってんのは、そのカギを使ってどう開けるかって事だよ」ポチが、カギ束を前足でたぐり寄せ言いました。「時間がねえからな。適当に一つずつ選んで、どれかの部屋に合わせてみて、合ったらその部屋のカギって奴で、合わなかったら、次の部屋に行くって方法しかねえように思えるがな」若者も頭をひねりながら話します。時間の克服。それが、檻の外にいる者のテーマのようです。
「確かに、その方法が一番だとは俺も思うぜ。だがよ、俺が言っている問題は、その前の段階だ」ポチの言葉に、その場にいた全員が首をひねります。「つまり、このカギを、どうやってカギ束から引き離すかって事だよ。カギを一つ一つにしねえと、別々に仕事出来ねえだろ?それに俺達は、人間と違って、器用に前脚を使えねえ。あのカギ穴にカギを差し込み、回すのだって一仕事だぜ。その仕事をこの重いカギ束をぶら下げてやるのは、どう考えても効率的とは言えねえや。どうやって、この輪っかからカギを外すかって事だがよ、これが難問だぜ。この細かいボッチを外さなけりゃなんねえ。こりゃあ、俺の首輪を外すのより、ずっと難しい作業だぜ」ポチの言葉に、犬や猫達が首を伸ばしてカギ束を見ます。確かにカギは、大きな金属の輪でまとめられています。誰かが脚を伸ばし、引っ掻いてみました。カギ束は「ジャラ」と音を発しますが、輪から外れる事はありませんでした。
犬や猫達が、代わる代わるカギ束をまとめている金属の輪っかを引っ掻いたり、くわえて投げ飛ばしたりしますが、カギ束からカギはちっとも外れてくれません。「こんな事をしてても無駄な時間を過ごしてしまうだけだ。奴等を少しでも早く助け出し、ここをおさらばしねえとよ、不利になるのはこっちだぜ」若者が、ポチを正面から見据えて言いました。「確かによ、てめえの言う通りだぜ。仕方がねえ、みんなで支え合って、一つ一つ確かめる方法でやるか」ポチも、若者の意見に賛成しました。このままらちのあかない作業を繰り返しても、無駄になるのは貴重な時間のみです。だったら、非効率に見える作業の方が、効率的な作業となります。ポチと若者は、その非効率な作業を選択せざるを得ませんでした。
「ちょっと待って。あたいにもう一度だけ、そのカギ束を外す試みをやらせてくれないかい?」若者がカギ束をくわえ、ポチがそれをサポートする態勢を整えた時、それまでカギ束を見詰めてじっと考え込んでいたお嬢が、一歩前に出て言いました。若者は、お嬢の前にカギ束を置きます。「悪いね。これも無駄な時間を取らせる事になるかもしれないけれどね。ちょっとやってみたいんだよ」そう言うとお嬢は、カギ束をひっくり返し、輪っかと輪っかを止めている小さな金属のポッチを下に向けました。そして、下になっている方の輪っかに脚を乗せ、コンクリートの床に押し付けます。爪と肉球の間に輪っかを挟み、ぐいぐいと押し付けます。でも、なかなか輪っかは、外れませんでした。
「そうか!さすがだぜ、お嬢。輪っかを止めている出っ張りを、硬い床に押し付けて外そうってんだな?分かった。もしかしたらうまく行くかもしれねえよ。ちっと代わってくれ」なかなか外れない輪っかですが、ポチにはお嬢が考えている事が分かりました。そして、それを成功させるには、お嬢の体重が足りない事も理解しました。そこでポチは、その作業を自分が代わると名乗り出たのです。ポチは、お嬢の数倍ある前脚で、金属の輪っかを押さえつけます。二度三度ぐいぐい押し付けると「パチン!」と音を発して、輪っかが弾けました。その場にいた犬や猫達の口から歓声が飛び出します。「お嬢!俺は、あんたの頭のよさにほとほと感心したぜ。見なよ、あんたが気付いてくれなかったら絶対に外れなかったカギ束が見事に外れたぜ」ポチは、お嬢の顔を、親愛の情を込めてペロリと舐めました。
「さあ、時間が無いよ!ここから先は、力のあるあんた達の仕事だよ」ポチと若者とメンバーから選ばれた体が大きくて器用そうなブチ犬が、カギをくわえて、三つの部屋のカギ穴に取り付いています。でも、カギ穴にカギを差し込むのは、考えていたよりずっとむずかしい作業でした。長い鼻先がじゃまして、なかなかカギ穴が見えません。入ったと思ったら穴では無く、カチャンと音を立ててカギを落としてしまう事を何度も繰り返しています。さすがのポチも、この作業はうまくゆきません。見当をつけて入れたカギを、何度も外して下に落としてしまいました。中にいる仲間の事を考えるとあきらめてやめる訳にもいかないので、何度でもチャレンジしますが、何度やっても上手にカギ穴にカギを差し込む事が出来ませんでした。
「おのおの武器を持て!犬猫にここまでこけにされたら、人間様としてのプライドが立ち行きません!まして、ぐうぜんであるにせよ、犬猫に檻のカギが奪われたのは事実である。そんな事は無いであろうが、もし万が一、大ぐうぜんの末、あのカギで檻が開けられてしまったら、私の立場はどうなる?世間様の笑いものだ。都の人事担当が、こんな犬猫にバカにされた所長を所長のままにしておいてくれると思うか?君達だってそうだ。犬猫にバカにされた保健所の職員と言うレッテルを、背中にベ~タ~!と貼られてしまうのだぞ。表を歩いていても、はがれないレッテルだ。風呂でごしごし洗っても、洗い落とせないレッテルだ。私は、ここに断言する!そんなレッテルを貼られた君達に未来など無い!だから、全力を上げて、犬共からカギを取り戻さなければならない!犬猫共をぶちのめし、ぶち殺さねばならないのであ~る!今夜は、犬鍋だ!猫鍋だ!勝って勝利の美酒を味わおうでは無いか!」保健所の所員達が立てこもっていたあの建物では、人間達が反撃のノロシを上げようとしています。今度こそ容赦なく、ポチ達をぶちのめそうといきり立っています。その意味でも、ポチ達には時間は残されていませんでした。
「みんな、力をボスに貸しておあげ。何をしたらいいか分かっているね?」それまで下から犬達の作業を見上げていたお嬢が、そばにいる猫達に言いました。猫達はうなずくと、カギ穴目がけて奮闘しているポチや若者やブチの背中に飛び乗ります。そして、トントントンと背中を駆け上り、三匹の犬の頭にちょこんと乗りました。「お・お嬢!これは何の真似だい?」それじゃ無くても、頭を少しでも安定させてカギ穴にカギをねじ込みたいと思っていたポチは、頭に猫が乗って来たおかげで、さらに頭の安定感を無くしてしまいました。「オヤジ、お嬢のやる事に間違いはねえよ。黙ってまかせようぜ」若者が、少々苛立ち気味のポチをなだめます。ブチ犬は、頭の上の猫とウインクを交わし「へへへ」と笑っています。「そうだったな。大きな声を出して悪かったよ、お嬢。カギにうまく入らねえもんでいらいらしてたんだ」今までもお嬢の手際のよさに舌を巻いていたポチは、素直に若者の言葉を聞き入れお嬢に頭を下げました。
「さあ、あの扉の所に固まっている犬共を蹴散らし、中の犬共を引きずり出せ!」建物の中から、棒切れや捕獲網やパチンコを手にした保健所の所員達が、ドアを蹴り開けるとものすごい形相で出てきました。自分達の名誉がかかっているので、みんな必死です。その姿を見た犬達も、素早く戦闘態勢を整え、人間達に走り寄って行きます。外では、再び人間と犬達の闘いが始まりました。
建物の中では、カギ穴に差し込む作業が、さきほどよりは格段とスムーズに進んでいます。犬達の頭の上に乗った猫が、作業する犬の目となり、カギ穴の位置を教えてくれるからです。犬のくわえるカギとカギ穴の位置が左右にずれていたら、犬の右左の耳を引っ張ったり、上下にずれていたら、頭を押したり引っ張ったりして、カギ穴の位置にカギを合わせます。最後は、犬のくわえているカギを一緒にくわえて、カギ穴にカギを差し込みます。そのため、カギの合う合わないも短い時間で判断出来、お互いの受け持ちをスムーズに交代出来るようになっていました。そして「やった!とうとうカギが開いたぞ!」と言う歓声が建物の中に響き渡りました。
外の闘いでは、犬達が人間達に押されていました。人間が必死になっているのに犬達には統率するリーダーがいなかったからです。大ボスである若者はもちろん、心の支えであるポチも、優れた統率力を示すお嬢も全て建物の中に入り、仲間の救出に全力で当たっていましたので、敵の攻撃を集団で迎え撃つ作戦が取れなかったのです。一匹一匹がバラバラで行動した結果、人間の思う壺にはまってしまいました。
「しょ・所長!どうです?この僕のパチンコの腕前は。雀をこれで打ち落としていたと言う子供の頃の話、信じてくれますね?」ゴムで玉を飛ばすパチンコを正確に扱って、犬達をたじたじにさせている、もじゃもじゃ頭の若い所員が得意気に話します。「こっちだって、見て見てよ。この網さばき。すでに五匹も生け捕りにしたわよ」きつね目の女も負けじに叫びます。問いかけられた所長も、腕力にまかせて棒切れを振り回し、襲いかかる犬達を蹴散らし、高笑いを上げています。犬達は、建物の中に退却寸前まで追い詰められてしまいました。
「それ!扉が開いたぞ!みんな、ぐずぐずするな!すぐに闘いモードに入れ!敵は、扉の外に迫っているぞ!」若者が、檻の中の仲間に叫び、自身も外に向けて戦闘の構えをとりました。建物の中にいても、外で何が起こっているのか分かります。ポチもお嬢も他の犬猫達も体を低く構え、外に飛び出す準備を整えます。そこには、再開した喜びに浸る間など、ほんのちょっとも存在しませんでした。
「へへへへ、牙が人間に仕返しをしたいとガチガチ言ってるぜ」勇躍ゴンタが檻から飛び出し、ポチ達の中に加わりました。「ありゃりゃ、総崩れ状態だねえ。人間共に押されまくっているよ。こりゃあ、一気に攻め込んで、人間を一度蹴散らし、それから態勢を整えた方がいいねえ」扉の隙間から外のようすを覗いたお嬢が言いました。「ああそうだな、俺もそう思うぜ。おい!ゴンタ!てめえが先頭で切り込んで行け!」若者が、人間に仕返しをしたくてうずうずしているゴンタに最大のチャンスを与えます。「ガッテンだ!」ゴンタは、長くて真っ赤な下で鼻先を舐めながらニヤリと笑います。「オヤジと俺は、ゴンタの後から左右に開いて切り込むぜ」ポチは、黙ってうなずきます。「ゴンタ!まずは、あの玉をビシビシ打って来る小生意気なガキを黙らせろ。俺は、棒切れを振り回している髭面を黙らせる。オヤジは、カギの付いた長い棒を振り回している馬面の奴だ。長い棒だから、少してこずるかも知れねえがだいじょうぶか?」若者が、少し心配そうにポチの顔を見ます。もし、ポチが無理と言うなら、自分と役割を交代するつもりのようです。「だいじょうぶか?け!ずいぶん見くびった言い方じゃねえかよ。このポチ様を舐めるなよ!あんな物いくら長くても動きは鈍いや。もう見切ってるよ」ポチは、心配は余計なお世話だ。とでも言いたげに胸を張ります。「すまなかった。それじゃあ、頼むぜ。あとの連中は、俺達の後ろから突撃しろ!思い切り暴れていいぜ。てめえら一気に奴等を蹴散らせるな?」若者の言葉に、犬達は身を低く構えうなずきます。「それじゃあ、あたい達はかく乱に回るよ。いいかい?みんな!ボス達と一緒に飛び出して、人間の足を掬ってやりな。すきがあったら顔を引っ掻いてやりな!」お嬢も猫達に号令をかけます。建物の中では、またたく間に反撃態勢が整いました。
建物の扉が、バン!と音を立てて開きます。と同時に、黒い塊が土煙を上げて飛び出します。先頭を走るのは、人間に捕えられた汚名を晴らそうと意気に燃えるゴンタです。その後ろに若者とポチが続きます。その後ろに、多くの犬達が続き楔形の陣形で走ります。犬達の後ろから飛び出した猫達は、お嬢を中心にした扇形の陣形を取り走ります。「うわ!何だ何だ!」燃える炎のようなゴンタが、一足飛びに、パチンコを引き絞っていた若い所員に飛びかりました。ふいを突かれた若い所員は、慌てふためきます。パチンコを打つ余裕すらありません。あっと言う間に手からパチンコを叩き落とされてしまいました。
若者は、牙をむき出し所長に襲いかかりました。「やめろ!やめろ!私を誰だと思っているんだ!所長様だぞ!」所長は、恐怖のためか、口元に泡を溜めながら、棒切れを無茶苦茶に振り回します。でも、若者のスピードは、それを上回っています。体を右に左に振って間合いを詰め、一気に所長の腕目がけて牙を立てました。「うわ!イタイイタイ!私をケガさせたら傷害罪で訴えるぞ」所長も何の抵抗も見せずに、棒切れを落としてしまいました。
「オラオラオラオラ!もっと腰を入れて突いてこんかい!そんなんじゃカスリもしねえや。ほらほら、いいのかい?俺様の牙が、てめえの喉元に突き刺さっちゃうよ。なんでぃなんでぃなんでぃ!振り回しているてめえがふらつくんじゃねえよ!いいか?闘いってのはよ、こうやるんだよ!」ポチは一気に飛び上がり、馬面の喉元目がけ口を大きく開けました。「ひゃ!ひゃあ!助けて」ポチが、口を開けて脅かしただけで、馬面男は尻餅を突いてしまいました。ポチ達の素早く鋭い攻撃で、闘いの形勢は一気に逆転しました。先制攻撃を仕かけたポチ達の後ろから、他の犬達が怒涛のように押し寄せ、他の人間達を蹴散らします。今まで押されていた犬達も態勢を整え直し、ポチ達の闘いに参加します。慌てふためく人間達の間を扇方の陣形で網を被せるように侵攻して来た猫達が、縦横に走り回り、人間達の足元を掬います。そして足を掬われ倒れた人間の顔を鋭い爪で引っ掻きます。このあらたな猛攻を受けた人間達は、先ほどまでの勢いはどこへやら、ほうほうの体で再び建物の中に逃げ込みました。
「ヒャホーやったぜ!」庭に集まった犬や猫達の口から,勝利の雄叫びが飛び出しました。喜びに包まれた犬達によって、ポチも若者ももみくちゃにされます。今まで人間を恐れて暗い穴の中に潜んでいた犬達が、今日大勝利を収めたのです。それは、若者とポチとお嬢の連携によるものである事は一目瞭然です。その喜びが、一挙にポチと若者を包み込んだのです。「うひゃあ!こりゃたまらん。分かった。分かったから、もうそれくらいでかんべんしてくれよ」ポチは、犬達の輪の中で嬉しい悲鳴を上げました。
ギー!ギィギィギー!塀の外から大型の車がブレーキを軋ませて止まる音が聞えました。「下で悪ふざけをしているみんな!新な敵のおでましだよ!」塀の上で犬達のバカッ騒ぎを冷めた目で眺めていたお嬢が、大声で叫びました。「新な敵!」その声に犬達の動きが止まります。「忘れてた!人間共の助っ人が来ているんだった」ポチが、後悔の念を詰め込んだ言葉をつぶやきます。ポチが引き起こした事故で足止めされていた人間達の助っ人が到着してしまったのです。「みんな!まだ浮かれるのははええぞ!人間共の助っ人がやって来たようだ。ただちに戦闘態勢にはいるぞ」若者が、素早く犬達の気を引き締めました。
「しょ・しょ・所長!本所から助っ人が到着しましたよ」受話器を耳に当てたまま、馬面が叫びました。「お~し!これでこのくだらない闘いをお終いに出来るぞ」所長が、右手を高く突き上げ、ガッツポーズを作ります。「バス三台でやって来ていますよ。麻酔銃も吹矢も持って来ていますから、まさに一網打尽って所よね。オーホホホホホ」キツネ目の女が、高らかに勝利宣言をしました。「ふ、できうれば我々の手で解決したかったのだが、奴等の獰猛さをアピールするには、もってこいの展開だ」所長も黒い髭を右手でしごいてニヤリと笑いました。
「まずいな、出入り口を塞がれちまったぞ。見なよ、この人数を。建物をぐるり囲んでやがる。これじゃ、塀の切れ目から抜け出すって手も使えやしねえ。まさに蟻の這い出る隙間もありゃしねえってこった」ポチが、静かな口調でいいました。「ああ、どうするかな。この状況から抜け出すのは、絶望的だな」若者もつぶやくように言います。その二頭の言葉を漏れ聞いた犬達に動揺が走ります。「静かにしろい!確かに絶望的だがな、何か方法があるはずだぜ。ちっとくれえ困難に陥ったからって、すぐにおたおたすんじゃねえ!」ここで、仲間達に動揺されたらお終いです。ポチとしても有効な手立てなどありませんが、ここは若者とポチだけでも動揺しないようにしないといけないと若者と目で話し合いました。
「やっべー。奴等、銃なんぞ持ってやがるじゃねえかよ」入り口から隊列を組んで進入して来た人間を見て、ポチの毛が逆立ちました。おのおのが、犬にかまれてもケガをしないように、犬の訓練用の服を着ています。そして、その手には、銃や吹き矢を持っています。保健所の職員とは比べ物にならないほどの重装備です。「オヤジ、どうしたらいい」若者が、ポチにすり寄りたずねます。さすがの若者も少しばかり浮き足立っているようです。「う~ん」ポチも若者に返す言葉がありません。う~んとうなったまま黙り込んでしまいました。
「ボス!どうします?」「オヤジさんだいじょうぶですよね」犬達が、若者とポチの周りに固まってきます。「ああ、あんな物どって事ねえよ。今までだってそうだったろ?」ポチは、出来る限り胸を張りますが、その言葉には今までのような力がありません。犬達の中に不安の波がざわざわと広がって行きます。そうこうしている間にも、重装備した人間達は、ぞろぞろと敷地内に入って来ます。自然と犬達は、庭の隅へ隅へと追い詰められて行きます。若者とポチに妙案が浮かばないまま、犬達は切羽詰った状況に陥ってしまいました。
麻酔銃や吹き矢を構えた人間達が、ポチ達から十メートルほど離れた場所に陣取りました。ポチ達は、塀を背にして身動きが取れません。「ボスどうします?」「オヤジさん何とか言ってくださいよ」犬達の口から、懇願にも似た言葉が飛び出します。誰もが、もうどうしようも無い状況に追い込まれてしまったと気付いています。でも、そんな状況だからこそ誰かに頼りたいのです。そして彼等が頼れるのは、若者とポチだけなのです。ですから、若者とポチにだいじょうぶと言って欲しいのです。若者とポチのその言葉だけで、彼等は安心できるのです。でも、この時ばかりは、若者もポチも喉の奥がカラカラになり、彼等が安心できるような言葉を直ぐにかけてあげる事はできませんでした。
ポチと若者が、犬達の塊の前面に出ました。今となっては万事休す。自分達が体を張って彼等を守るしか、自分達を慕って着いて来てくれた彼等にしてあげられる事は無いと思ったのです。それは、若者がポチに声をかけたとか、ポチが若者に指示したとかでは無く、二頭が同時に示した行動でした。
「オヤジ、ダメモトで突っ込むか?」若者が、ポチに提案しました。「俺も今そう思っていたよ。あの銃って奴には、気をつけろよ。前に、じっちゃんの仲間って奴に見せてもらったが、撃たれたら一発であの世行きだぜ。あいつの口が向けられたら、左右に動き回りながら間を詰めて行けよ」ポチは、若者にアドバイスしました。ポチは、狩猟を趣味としているじっちゃんの仲間に連れられて、じっちゃんと猟に同行した事があります。山を走り回る仲間達と同行しましたが、彼等は猟に同行する苦労話をポチにしてくれました。そして、銃って奴の恐ろしさをポチに教えてくれました。じっちゃんは、最初狩猟に乗り気で、ポチを猟犬にする腹づもりのようでしたが、山を歩き回る事の大変さを知ってあきらめたのです。あの狩猟のために訓練された犬達でさえ恐れおののいた銃をポチ達は相手にしなくてはなりません。ですから、さすがのポチも、この闘いに勝てるなんて気持ちは持てませんでした。ただ、いざとなったら息子の盾になる覚悟は決めていました。
「そろそろ夜明けだねえ。ねえ、早まるのはやめなよ。夜が明けたら、強烈な助っ人が来てくれるからさあ。ここは、闘う事より、逃げ回る作戦にしなよ。そんなに固まっていたら、人間共の思うつぼだよ。ばらばらになって、人間共の間を走り回りなよ。あんな物は、遠くにいるから威力があるんじゃないのかい?走り回って間合いを詰める作戦にしなよ。夜明けまですぐなんだからさあ」ポチと若者が覚悟を決め、人間に突撃するために低く身構えた時、塀の上からお嬢が言いました。
「あらたな助っ人ってどいつだい?」ポチが、若者に小声でたずねます。お嬢に直接聞けばいいと思いますが、そこはそれ。お嬢だって、猫ではありますが、メスです。どちらかと言うとメスが苦手なポチは、お嬢を尊敬していながらも、どこかで遠慮もしているのです。「さあ?俺達を助けてくれる奴なんて、ここにいる連中以外では思い浮かばねえなあ」若者も首をひねります。若者もポチの息子ですから、ボスとは言っても、メスは苦手な方です。グループの中には、メスもたくさんいて、それなりに人気はあるのですが、なるべく愛だの恋だのと言う話題は避けていますので、なかなか浮いた話も出て来ないのです。ですから、ボスとしてお嬢に聞こうと言う考えは無く「分からねえがよ。お嬢が言ってんだから間違いねえよ」とボスらしく無い言葉でその場を濁してしまいます。ま、裏を返せば、それだけ犬達の間でお嬢の信頼は高いと言う事になります。犬のメス達を束ねるリリーも「その助っ人って誰なんだい?」と口を開きかけましたが、ポチと若者が、お嬢の言葉を信じようと言う感じになっているので、お嬢にあらたな助っ人が誰なのかをたずねる者は、誰もいなくなってしまいました。
犬達が、若者の命令で、縦横無尽に走り始めました。それは、闘いとかでは無くて、人間の周りをじゃれ回るような感じです。これには、さすがの人間達も手を焼いています。麻酔銃や吹き矢を使おうにも、ターゲットがしぼれません。かみつかれる気配は無いので浮き足立つ者はいませんが、どうにもやりづらい状況に陥ってしまいました。
ようやく東の空が白み始めて来ました。夜が明け、辺りが明るくなるのも後わずかの事です。「もうちょっとだよ。もう少し立てば助っ人が来て、この闘いも終わるよ」塀の上から空を見上げていたお嬢が、疲れが見え始めて来た犬達に激を飛ばします。「オラオラオラオラ!こんな事ぐれえどって事ねえだろう?てめえ等、わけえくせにこんぐらいでへたってんじゃねえぞ!」お嬢の声を聞いて、自身がへとへとのポチが、無理矢理力を振り絞って叫びます。一晩中闘った疲れと緊張で、仲間達の誰もが限界に来ている事は分かっています。でも、お嬢が、助っ人を用意してくれていて、その助っ人がもうじき現れると言っているのに、ここで降参するわけにはいきません。無理にでも犬達を奮い立たせる必要があるのです。
太陽が、東の空にちょっぴり頭を出したようです。あたりが一挙に明るくなりました。「くそ!人間共もいろんな事を考えて来やがるぜ」縦横無尽に走り回り、人間達の動きを抑制する事に成功していた犬達は、再び人間達に追い詰められています。ポチ達の動きに手を焼いた人間達が、大胆にも作戦を変えて来たのです。人間達は、庭一杯に広がるほどに長くて大きな網を広げ、犬達を庭の隅に追い込んでいます。十人以上の人間が一つの大きな網を広げ、扇型に広がり、犬達を囲むように行進して来ます。犬達は、その網から逃れようとして、じょじょに一箇所に集まり始めました。いや、集まったのでは無く、人間の作戦により追い立てられ、集められてしまったのです。そして、今は、壁を背に固まりひしめき、退路を絶たれてしまいました。後、人間が網を犬達の上に被せれば、犬達は一網打尽にされてしまいます。今まで様々な危機を乗り越えて来たポチ達ですが、今度ばかりは絶対絶命、前にも後にも右にも左にも、どこにも逃げ場は見つかりませんでした。
「へへへへ、どうやらここまでのようだな」ポチが、若者にささやきかけます。さすがのポチも、この状況を打開できる手立ては無く、万事休すと思ったようです。「まったくだ。まあ、ここまで闘えて、本望って言えば本望だけどよ。どうせ捕まえるなら、俺一匹にしてくんねえかな?」若者が、冗談混じりの口調でポチの問いかけに答えます。若者もまた、ポチと同じで手立ては無いようです。「へへへ、俺達は、後悔してませんよ。ボスとポチさんと一緒なら、三途の川への旅も楽しいってもんだ」「そうそう。犬と生まれて来て、人間共と対等に渡り合えたんだから、俺は悔いは全然ねえよ」「あ~ら、私なんかさあ。これからもオヤジちゃんやボスと一緒にいられる。と思っただけでワクワクしちゃうわよ」若者とポチに負担をかけたくないと思ったのか?そこら中から、自分達の運命を素直に受け入れると言う言葉が上がりました。「お前達」返す言葉を失ったポチは、仲間達全ての顔を見渡します。「だから、お前等が、優しい奴等だから。俺は、どうしてもお前等だけでも助けてえんだよ」若者が、叫ぶように言います。「すまねえ!俺がもっと慎重にしていればこんな事には」ゴンタが、涙声で頭を下げます。自分達が、人間に隙を見せてしまったばかりに、仲間達全員を窮地に追い込んでしまったと言う思いが強いのでしょう。ゴンタの涙につられて、あちらこちらですすり泣きの声が漏れ始めました。
「さあ、夜が明けたよ。お天道様が顔を出した。これくらい明るくなれば、奴等も動き出すよ」下の様子など全く気にしていないような声で、塀の上からお嬢が言いました。見上げると空一面赤く染まっています。その赤い空の最も赤い東の空に一条の光が走りました。日の出です。その光は、まだ塀際に追い詰められているポチ達の所に届きませんが、塀の上にいるお嬢の影が、庭に長く伸びています。赤い空を青い空が急速に追い払いはじめています。
「へへへへ、空はピーカンだね」ポチが、空を見上げたまま言います。人間に追い詰められている事なんて、どうでもいいような口ぶりです。「今日は、とびきりの暑い日になりそうだな」若者もポチの口調に合わせます。ポチと若者は、空に向かって大きく深呼吸をします。その姿を見ていた仲間達から、笑い声が漏れ出します。「見ろよ。ボスとオヤジさんの余裕を。俺達には、ボスがいる。オヤジさんがいる。お嬢や他の仲間達もいる。天辺には広い空がある。何も怖い事ねえぜ」薄暗い中で追い詰められていた犬達に、朝の太陽の光が余裕を与えたようです。絶望の光を宿していた彼等の瞳に、生への執着のような強い光がよみがえって来ました。
「さあ、助っ人の登場だよ。彼等の登場で、人間共は大混乱におちいるだろうよ。その隙を突いて一挙にここから脱出するんだよ。これが最後のチャンスだ。誰も遅れを取るんじゃ無いよ。ゆめゆめ、人間共をやっつけてやろうなんて了見を起こすんじゃないよ。ここから脱出する事に命をかけな」塀の上にお嬢が立ち上がり、犬達に号令をかけました。「なんだか知らねえが、お嬢の言う事だ、俺は信じるぜ。さあ、野郎共、戦闘態勢を取りな!人間共が混乱したら一気に駆け抜けるぜ」若者が、お嬢の号令を受けて、仲間達に叫びます。「オヤジもいいな?一気に走り抜けるぜ。年だからへたばったなんて言いやがったら踏み潰して行くぜ」若者の鋭い瞳が、隣のポチに向けられます。「へへへへ、舐めてもらっちゃあ困るぜ。俺の足腰は、ピンピンだよ。てめえこそ俺に助けを求めるんじゃねえぞ。息子でも蹴飛ばしてやる」ポチも力強く前脚で地面を引っ掻き、戦闘態勢を作ります。他の犬達も牙をむき出し、目の前の人間達を睨みます。それまで追い詰められて生気を失っていた犬達に、突然生気がよみがえったのを知った人間達が、一歩二歩後ずさりします。「それ!犬共を一網打尽だ!その網を奴等の頭からかぶせろ」追いつめはしたものの、なかなか網を被せて捕えようとしない前線に檄を飛ばすため、後方で指令している人間が、ハンドマイクを使って高らかに叫びました。
犬達の迫力に押されて後ずさりした人間達が、ハンドマイクの指令に目覚めたように、再び前進しました。犬達もうなり声を上げて威嚇します。犬達に先ほどまでの怯えた表情は全く見受けられません。しかし、網による圧迫は事実であり、わずかずつではありますが、先ほど前に出た分の後ずさりをよぎ無くされてしまいました。
「なんだ?どうした?」人間と犬双方が、同時に空を見上げました。突然、真っ黒な雲が空一面を覆い、朝日がさえぎられてしまったのです。「ガァーガァー」空から太いだみ声が降りかかって来ます。「お・お嬢!助っ人ってあれかい?カラスかい?」ポチが、塀の上のお嬢に、上ずった声で聞きます。助っ人と言うからポチは、他の街の野良犬か野良猫を想像していました。その助っ人が、空からやって来るなんて想像もしていませんでした。「よう?てめえ等は、カラスに知り合いがいるのかよ?」ポチが、続けて若者にたずねます。少なくともポチにはカラスの知り合いはいません。となると、顔の広い若者の知り合いと考えるのが普通でしょう。でも、若者も驚きの表情を隠さずに、あんぐりと口を開けて空を見ています。「そう、あれが助っ人さ。さあ、彼等が攻撃に移るから、あの門を走り抜ける用意をしなよ」下の犬達の驚きを無視して、お嬢が涼しい顔で言いました。
ポチと若者がお互いに目を合わせ首をかしげました。この展開が、どうにも理解が出来ないのです。助っ人が鳥などとは考えてもみませんでした。それも真っ黒のカラスです。彼等は、ずるがしこくて、ポチと若者にとっては、余り好ましい相手ではありませんでした。ポチが、鎖につながれているのを見ると近くまで寄って来て「ガーガー」とポチをからかいます。若者だってゴミ箱の食料を取り合った経験があります。若者が、美味しい肉をゲットして「やった~」と思った瞬間、空から舞い下りて来たカラスに奪い取られてしまった事もあります。空を飛ぶだけで無く、頭のいいカラスは、どうにも仲良しになれないタイプでした。犬達がそう思っているのですから、カラスも犬達に友好的ではありません。いがみ合うほどでは無いにしろ、お互いがお互いに係わりを持たないようにしてきました。お互い無視するように努めて来たのです。そのカラスが、今、犬達の窮地を救いに来てくれたのです。それも空を覆いつくすほどの数です。助っ人と聞かされているポチ達でさえも、思わず身震いする光景です。カラスの黒い羽が日の光をさえぎり、まるで黒雲に覆われてしまったみたいです。犬達が、驚いて空を見上げているのと同じく、人間達もこの大量のカラスの襲来に度肝を抜かれてしまったようです。犬達と並んで空を見上げています。犬達と同じようにあんぐりと口を開けて。
「ほらほらほら、何をぼんやりしてるんだい!せっかくのチャンスが逃げてしまうよ」塀の上からお嬢が叫びました。と、同時に、空を覆った黒い塊が一斉に人間に攻撃をしかけます。急降下して人間の顔を覆います。頭をツツキます。鼻先をツツキます。中には、拾って来た小石を空の高みから人間めがけて落とす器用なカラスもいます。人間達は、黒い塊に覆いつくされ逃げる事も出来ず、その場にうずくまります。「おい!せっかくお嬢がお膳立てしてくれたんだ。考えるのは後にしようぜ」ポチが、まだあんぐりと口を開けている若者の頭を前脚で小突きました。
「てめえ等!ぐずぐずすんなよ!人間共の間を一気に駆け抜けるぜ。遅れた奴は置いていかれると覚悟しやがれ!」ポチに小突かれた若者が、我に返り、まだぼんやりしている仲間達に大号令をかけました。その声を聞いて、犬達の顔が変わります。ぐっと前を見据え、逃げる道を探ります。「よ~し、逃げ道は決まった!野郎共俺の後に着いて来な!」若者が、カラスの襲撃で大混乱に陥っている人間達に向かって走り始めました。「オラオラオラオラ!死ぬ気で走りやがれってんだ」ポチは、走り始めた犬達を、少し脇に離れて叱咤激励します。ポチも若者も、一晩中人間達と闘ったおかげでヘトヘトです。それは、他の仲間達も同じ事。いえ、もともと体力のあるポチと若者以上に彼等が疲れている事は、誰よりもよく分かっています。でも、人間から逃げ出す最後のチャンスと言う事も分かっていましたから、彼等に甘い声をかけるなんて考えられない事でした。
「へへへへ、これで最後だな」ポチは、白い中型の雑種犬が走り始めたのを確認して、自身も走り始めました。一斉退却のしんがりをポチはつとめたのです。それを見届けた猫達も、塀の上から姿を消しました。犬達は、保健所の敷地から外に向かって、一本の矢が飛び去るように走り抜けました。門の外に待機していた人間達も、カラスに襲われて大混乱に陥っています。犬達は、大した困難にぶつかる事無く脱出に成功しました。
「へへへへ、やっと逃げ出せたな」ポチが、山の中に集まった犬達に言いました。でも、その言葉に答える犬はいません。危機的状況から逃げ出せた安心感と、一晩中闘った疲れとで、仲間達は木の根元でうずくまってしまっているからです。「オヤジは元気だなあ」若者が、重たげに首を上げ、ようやく声を発しました。「俺は、てめえ等と違って、半分しか闘っていねえからな。いや、すまなかった。ゆっくり休んでくれ」ポチも若者の隣にうずくまります。強気な事を言ってはいますが、ポチもヘトヘトでした。なにしろ、生まれて初めて、集団を率いて闘ったのです。それも人間と。ポチの疲れきった頭の中では、今までの事が夢の中の出来事のような感覚です。「それにしてもいい判断だったな。保健所の裏手の山に逃げ込んだのはよ」ポチは、若者に答えを求めないように気配りして、独り言のようにつぶやきました。「街の中に戻る事はできねえよ。人間から見たら、俺達はおたずね者だからよ」若者が、両前脚に顔を埋めたまま、ちらりとポチを見やって言いました。「ああ、その通りだ。今この集団が街をカッポするのは危険過ぎるぜ。疲れが癒えるまで、しばらくはここに身を隠していた方がいい」ポチも大きなあくびをしながら両前脚に顔を埋めます。
山の樹の上すれすれを、バサバサと音を立てて鳥の集団が飛んで行きます。ポチは、顔を持ち上げて樹上を見上げます。「ああ、カラス達が帰っていきやがるぜ」ポチが、つぶやきます。その言葉には、まだ若干の疑問の響きが混じりこんでいます。「ああ、奴等のおかげで、俺達は今ここにいるんだよな。まったく、こればっかりは、どんなカラクリなのか俺にも理解できねえよ」若者も首を上げます。「お嬢が、カラスとも知り合いだったとはなあ、まったく俺達の理解を外れた女だぜ」「理解を外れた女で悪かったね」ポチがつぶやくと、それを待っていたかのように、樹の上から声が降って来ました。「何だよ、お嬢、来ていたのかよ」ポチが、お嬢に敬意を示すように立ち上がりました。
「カラス達?残念ながら以前からの友達ってわけじゃないよ。あんた達がさ、人間と闘うって知って、力を貸したいって言って来てくれたんだよ。彼等も人間にはいじめられているからねえ。体が黒いってだけで嫌われているだろ?縁起の悪い鳥だとか言われてさあ。ゴミ場を荒らすってんで捕獲作戦なんぞやられて、仲間を何羽も失ったってさ。彼等も人間を恨んでいたんだよ。だから、ぜひとも手助けしたいってさ」お嬢が、樹の上からトントントンと身軽に下りて来るとポチの質問に答えました。でも、ポチは、今一つ納得出来ないと言うように軽く首を捻りました。「まったく、オヤジちゃんには隠し立て出来ないねえ。そこが、あんたがこの連中に信頼されている理由なんだろうけどさあ」ポチが首をかしげたのを見たお嬢が、やれやれと言うように、そこら中でグターと伸び切っている犬達に視線を向けました。「彼等のボスとは、以前から知り合いだよ。以前、カラスの子供が巣から落ちてもがいているのを見つけてねえ。本来ならごちそうにありつけたと思って、ガブリとやる所だったんだけど、その時ばかりは、妙な仏心が芽生えてねえ。その子供をくわえて、樹の天辺にある巣まで連れて行ってやったんだよ。その子が、この辺りのカラスの大ボスの子でねえ。それからあたいは、そのボスと親しくなったってわけさあ。だから、今度の事を相談すると、あたいに恩義を感じてくれていたから二つ返事で答えてくれたんだよ」お嬢が、分かったかい?と言う感じでポチにウインクをしました。ポチは、これ以上聞いても同じ事だと思い納得したような顔をしました。
「まったく食えねえ女だぜ」犬達がぐったりしているのを見届けたお嬢は「それじゃあ、彼等の元気が回復したらまた来るよ。あたいらも疲れているから一休みしなくちゃあねえ」と言いながら山を下りていくのを見とどけた若者が、むくりと顔を上げて言いました。「何だよ。起きてたのかよ」ポチが、息子の疲れきった顔を見詰めます。「ああ、疲れちゃいるんだが頭が冴えちまってよ。いろいろと考えを巡らせていたんだよ」若者が、むくりと起き上がります。「起き上がらなくてもいいぜ。そのままで話せよ。ま、あれだ、お嬢のカラスの件は、あれで納得するしかねえだろう?確かに食えねえ女だよ。あのお嬢はよ。俺達の事何でも知ってやがる。俺の知らねえ俺を知っているかもな。案外俺達の本当のボスは、お嬢かも知れねえな」ポチは、お嬢が降りて行った山の麓を見下ろし「へへへへ」と笑いました。「ちげえねえ。俺が、ボスと仰ぐ奴を上げるとしたら、オヤジとお嬢だよ」若者が、ポチの顔を覗き込みます。「あんだと?て・事は何かい?この俺様も食えねえ奴って事かい?」ポチが、口の端を歪めます。「オヤジなんて硬そうで、臭そうで、とても食えた代物じゃねえや」若者も目元をゆるめながら答えます。本来ならここで、楽しいじゃれ合いが始まるのですけれど、今日は、お互いが疲れきっているために、じゃれ合いには至りませんでした。
「そうかい。てめえの腹は決まったのかい」ポチが、若者の顔を眩しそうに眺めて言います。「ああ、もちろん奴等に強制するつもりはねえよ。でもなあ、俺達は、もうこの街にゃあ住めねえ身だ。遅かれ早かれ決断しなきゃあなんねえ事だ」若者は、木々の間からわずかに見える空の低い所を見詰めています。「渡世犬ってか。てめえの考えは正しいぜ。このまま下に下りたら、人間共が手ぐすね引いて待ってんだろうからよ。奴等にだって意地ってもんがあらあ。で、どこに行こうってんだい?まさか、こんだけの頭数引き連れて、本物の渡世犬になるわけにもいかねえだろ?引き連れる者には、引き連れるだけの責任ってもんがあらあ」ポチは、ちょっとばかりきびしいしい顔をします。ポチには分かるのです。人間から離れた犬がどんな苦労をするか。人間と犬には、感情では割り切れない強いきずながあると思うのです。現に彼等だって、人間を毛嫌いしながらも、実際の所は、人間に頼って生きて来たのです。「分かってるよ。飯だって、ここのようにはいかねえや。でもなあ、この頭数が一度に入れる人間の街なんてありゃしねえだろ?」若者は、人間から離れて暮らす犬だけの国に夢を持っていました。でも、それはあくまでも夢であり希望でした。このように追い立てられて、夢に命を託さなければならないなんて考えてはいなかったでしょう。その苦しさが、若者の言葉の端々に漂っていました。
「なあ、オヤジ。一緒に行っちゃくれねえか?」若者が、長い間考えたあげく、しぼり出すように言いました。ポチもその事を考えていました。親として、息子の苦難に付き合ってあげたいと思います。「こんだけの頭数の移動が困難なのに、俺まで加わったら、なおさらに大変な事になっちまうだろ?」でも、ポチは、決断出来ないでいました。息子にほだされて情で動くのは簡単です。でも、ポチには捨てきれない物もあります。生まれてからずっと人間の番犬として生きてきました。そりゃあ、不満な点はいくつもあります。「こんな生活捨てちまったら、どんだけすっきりするか」と思った事は何度もあります。実際に飛び出した事もあります。でも、結局ポチは、番犬生活に舞い戻っているのです。ポチの身に染み込んだ番犬生活は、そんな簡単には吹っ切れる問題では無いのです。「第一、移動のてはずは出来ているのかよ。まさか、こんだけの頭数そろえて人間の街を渡り歩くわけにもいかねえだろ?」若者の事だから、それくらいの絵は描いているだろうとポチは思います。でも、直ぐには「いいぜ。息子の手助けをすんのは父としての務めだ」と言えないこだわりが、ポチを遠まわしにしているのです。「オヤジ一匹が増えた所で、どって事ねえよ。いや、むしろいてくれる事が、どんだけこいつ等の支えになるか。そんなこたぁ、オヤジだって分かってんだろ?移動方法は、駅に止まっている貨物列車って奴に乗っかって行くんだよ。そいつに乗っかってここに来た奴の話を聞いた。って以前言ったよな?それから俺も調べたよ。確かに駅には、その貨車って奴が、時々止まっていてよ、夜中に動き出すんだよ。そいつに乗れば、ここは脱出出来るよ。どこまで行くかは、俺にも分からねえが、そいつの言う事にゃあ、山の中まで行くらしいぜ。そこからさらに山に分け入ると、人間に捨てられた家が固まっているって言うんだ。俺は、そこに、こいつらと俺等の居場所を作ろうって思ってんだよ。冒険にゃあちげえねえけどよ、ここに居るより希望が持てるってもんだ」ポチが、直ぐに色よい返事を出さなかった事に苛立ったのか?若者が不満そうに言いました。ポチは、黙って若者の不満を受け止めました。と、言うより直ぐには返事が出来なかったのです。
ポチは、その日の夜、じっちゃんの家に戻って来ました。「なんだよ、オヤジ!俺がこんなに頼んでいるのに、俺達と一緒に行ってくれねえのかよ?」と言う息子の非難を含んだ鋭い言葉を浴びながら。あれからポチは、長い時間若者と話しました。出来る事なら行ってやりたい。この場で「おう!まかしときな。俺が行くからには、大船に乗った気分でいてくれていいぜ」と言いたかったのです。でも、やはり、このままじっちゃんの前から消えるのは、ポチには出来ない事でした。「義理と人情をはかりにかけりゃあ義理が重てえ男の世界ってな。俺にも俺が決断しなくちゃなんねえ事があるんだよ。それまで待っていてくれよ。てめえは、俺にとって大事な息子だ。わりいようにゃあしねえよ」ポチは、前を向いたまま、後ろの若者に言いました。若者は、何も言いませんでした。ポチは、そのまま振り向かずに山を降りました。理由を知らない何匹かの犬達が、首をむくりと上げて、ポチと若者を見ていました。その視線も、ポチはしっかりと感じていました。ポチは、それらを振りきって、じっちゃんの家に戻って来たのです。「俺の息子だ。わりいようにぁあしねえよ」ポチは、若者に言った言葉を頭の中で繰り返していました。「わりいように?本当にそうか?」ポチは、どうしても自分の吐いた言葉に疑いを持ってしまいます。「ここに帰って来たのは、じっちゃんとケジメをつけるためか?」ポチは、小屋の前にうずくまって考えます。鎖は、つながれていません。出て行くつもりなら簡単に出て行けます。若者の所に行くのなら、今すぐにだって行く事はできます。でも、今のポチは、そうするつもりは、まったくありませんでした。「へへへへ、俺は、じっちゃんに大きな義理を感じてんだよ。義理が重たい男の世界っつうだろ?」ポチは、何とか自分をなだめようとします。でも、「本当にそうか?」と言う言葉が、すぐに浮んで来ます。「義理とか何とか言ってっけどよ。本当は、逃げて来たんじゃねえか?あの仲間達を引っ張る重圧に耐えられなかったっつう事だろうがよ」と言う思いを抑え切れません。ポチには、どんなひどい目に合わされても、心底人間を嫌う事が出来無いのです。ポチは、まだまだ疲れは取れませんでしたが、その夜は一睡も出来ずに朝を迎えました。
「オヤジさん行っちゃったんですか?」ぐったりしていた仲間達が、次々と起き始めるとポチのいないのに気付き、若者にそう声をかけます。「ああ、ちょいとやぼ用があってな。すぐに帰るから、みんなによろしくって言ってたぜ」若者は平静を装って答えます。でも、そのたびに「本当にそうか?」と言う疑問が湧き上がって来るのを抑えられませんでした。「オヤジは、本当に戻って来ると思っているのかよ?甘いね。てめえは、捨てられっちまったんだよ。実の親に、ていよく捨てられちまったって事さ」と言う思いも抑え切れません。「帰って来て欲しい。父親と行動を共にしたい」と言う思いが強ければ強いほど、その反対の思いが、若者の心を支配してゆきます。「てめえより人間様の方が大事だってよ。息子なんかより、ご主人様の方が大切なんだよ。てめえの父親は、根っからの番犬なのさ」と心の奥深くから意地の悪い考えが浮んで来てしまいます。「ま、来るにしろ来ねえにしろ、待つのは明日一杯って事にしよう」若者は、自分の中の二つの思いに決別するように期限をもうけました。ポチが、戻って来てくれたのなら一緒に旅立とう。戻って来なかったのなら、きっぱりあきらめて、自分だけで仲間達を引っ張って行こうと決めたのです。それが、可愛い仲間達を引っ張って行かなければならない若者の決断でした。
「なんだよ、ポチ帰って来たのかよ」ポチが、一睡も出来ないで迎えた朝、いつものように雨戸をガラガラピシーンと開けたじっちゃが顔を出しました。「じっちゃん!じっちゃんよ。何だよ、おせえじゃねえかよ。俺待ちくたびれちゃったぜ」と、じっちゃんの姿を見たポチは、尻尾をブルンブルン振って駆け寄りました。だって、一晩中あれこれと考えていたポチには、じっちゃんの顔がとても懐かしく見えたのです。「じっちゃん!俺よ。俺、やっぱり、じっちゃんの家の番犬だぜ。俺、それに誇りをもっているんだよ。俺、その事が今分かったよ。じっちゃんの顔を見て気づいたんだよ」いつものように幅広のサンダルをつっかけて庭に降りて来たじっちゃんに、ポチは飛びかかりました。そこで、いつものようにじっちゃんが、ポチの口元に顔を近づけ、ポチはじっちゃんの顔をベロベロ嘗め回すのです。それが、じっゃんとポチの儀式なのです。でも、じっちゃんは、なかなかポチの口元に顔を近づけてくれません。そればかりか、冷めた目でポチを見下ろすと「なあ、ポチよ。俺は、もうてめえを家の犬と認めるわけにぁあいかねえぜ」と言ったのです。ポチは、あんぐり口を開けてじっちゃんを見上げます。じっちゃんの言った意味がよく理解出来なかったのです。「ポチ!てめえ、人間に逆らった真似しやがったな?保健所を襲っただろ?俺は、以前から口が酸っぱくなるほど言ってたよな?番犬は、人間に忠実であれ。まっとうな人間に逆らうんじゃねえって。てめえ等が襲ったのは、まっとうな人間様達だ。まっとうもまっとう、お役人様だぞ。人間様には逆らわねえ。それが人間様と犬の契約ってもんだ。てめえは、それを破りやがった。もう家にはおいとけねえよ」じっちゃんは、口をへの字に曲げてポチを見下ろしています。「何言ってんだよ。義理をかいちゃあいけねえよ。って首輪緩めてくれたのは、じっちゃんじゃねえかよ。それに、人間が、罪もねえ俺の仲間を殺そうとしたんだぜ。俺は、間違った事なんかしてねえよ。じっちゃんの言う事の方が、間違えだっつうのよ」ポチもじっちゃんに負けてはいません。じっちゃんの足元で、ワンワンギャンギャンがなり立てます。
「本来ならば、てめえの首に縄つけて、お役人様に差し出すところだが、てめえとは長い付き合いだ。いくら俺でも、それはできねえや。なあポチ、今すぐにこの家から出て行きな」じっちゃんは、ポチが耳を疑うような事を言いました。「け!このすっとこどっこい!分かったよ。出て行ってやるよ。後で後悔しても知らねえぞ」ポチは、そう啖呵を切るとじっちゃんの家を飛び出しました。「ポチ!ここは、もうてめえの家じゃねえからな。二度と戻って来るんじゃねえぞ。てめえが一緒に闘った仲間の所でもどこでも行っちまいやがれ」「け!誰がてめえみてえな人情無しの所に戻るかよ!俺は、もうてめえの顔を見なくていいってんで、喜びまくってんだよ」じっちゃんの言葉にポチは、走りながら切りかえします。
「よ!俺、やっぱりてめえ等と一緒に行く事にしたぜ。人間なんぞポイと捨てて来てやったぜ」川の近くまでやって来たポチは、これからどうしようかと迷っていました。仲間達が待っているのは、ポチもよく分かっています。でも、だからと言って、そのまま仲間達の元に合流するのは、少しだけ抵抗がありました。「あ~あ、俺もとうとう野良か」ポチは、首を伸ばして、川面を覗き込みました。「いったい全体、てめえは誰なんだい?」ポチは、水面に映った自分に話しかけました。水の中からしょぼくれた年寄りが、やはりポチの顔を覗き込んでいたからです。水面を覗き込むのは、これが始めてでは無かったので、もちろんポチだって、それが自分の姿と理解しています。でも、そう言ってやりたいほど、水面の犬はしょぼくれた顔をしていました。
ポチは、人目につかないように茂みに隠れたり、橋の下に隠れたり、ビクビクと時間をやり過ごしていました。そして、時々、じっちゃんの家の近くまで行きました。ひょっとするとさっきのじっちゃんの言葉は、何かの間違いだったかも知れないと思ったのです。「じっちゃんは、もうろくしてっからよ。さっきは、何か言い間違いをしてしまったのかも知れねえじゃねえか。ひょっとして今頃、自分の間違いに気づいて、俺を必死に探しているかも」と思い、家の近くまでこっそり行ってみますが、じっちゃんがポチを探してくれている様子などカケラもありませんでした。
ポチは、後足で、自分の首の辺りを何べんも掻いてみました。いつもなら引っかかるはずの首輪に足が引っかかりません。頼りなげに足は、首から頭まで抜けてしまいます。「俺、本当に野良になっちまったのかよ」ポチは、すっかり惨めな気持ちになってしまいました。じっちゃんの家に向う時は、野良犬に見えないように胸を張って行きます。でも、尻尾を巻き上げる方に意識が行かず、尻尾は、だらりと垂れ下がってしまっています。橋の下に身を隠している時は、誰からも姿を見られたく無くてうずくまっています。そんな情けない気持ちのまま、その日は暮れて行きました。
月が出ました。まん丸なお月様です。東の空に、赤くて、大きくて、ブヨブヨした感じで昇り始めています。ポチは、再びじっちゃんの家に向かいました。こっそり生垣の穴から潜り込んで、小屋の中で一晩明かそうと考えたのです。「今日は、駄目だったけれど、明日になれば、じっちゃんの気持が変わっているかも知れない」と思ったのです。「なんだよ。どうしちまったんだよ。穴がふさがれているじゃねえかよ」ポチは、穴があった場所に行って愕然としました。あの穴の向こうにコンクリートの板が置かれているのです。それでも、生垣ですから、犬にとっては、忍び込むのに問題はありません。多少窮屈な思いはしますが、生垣を通り抜けるなんて事は、ぞうさも無い事です。ポチも当然、別の場所から忍び込みました。でも、じっちゃんの敷地の中には、さらにポチを打ちのめす事実が待っていました。
「何だよ、何でねえんだよ」ポチは、泣き出したい気分でした。庭にあるはずのポチの小屋が無くなっているのです。ポチの小屋のあった場所は、きれいに整地されています。家の敷地内をぐるぐると回りましたが、どこにもポチの小屋はありませんでした。じっちゃんは、完全にポチの存在を消し去ってしまったのです。ポチは、薄暗い庭から家の中を覗き込みました。白い障子に人影が揺れています。ポチは、その人影に引かれるように家の縁側に近づいて行きました。
「ワハハハハハ!秀雄!てめえは、立派な父親持てて幸せ者だぜ。なんせ俺は、一代で、この家を近隣で一番の不動産屋に育て上げたんだからな。金なんて物は、余るくれえに入ってきやがる。貸ビルもマンションも何棟も手に入った。来週からは、この家の建て直しだ。ここには、十階建てのビルをド~ン!と建てるんだぜ。それもこれも俺様の力よ。よし子さんや、十階建ての五階から十階までが、俺達の住居だ。広いぜ。一人ワンフロアー使えるぜ。もちろん、俺は、十階に住まわせてもらうよ。いいだろ?それくれえ。なんせ、この俺が、この俺の力で、そいつを建てるんだからよ。毎朝起きたら、白いカーテンをザッと開け、この街の住民共を見下ろしてやるのよ。ミンクの毛皮で作った分厚いガウンを着てよ。葉巻くわえてよ。朝っぱらから、ブランデーグラスでも持って見下ろしてやるかな。いいか?想像してみなよ。俺は、遠くにそびえる富士山と肩を並べるんだぜ。どうだい?秀雄。親父のでかさに惚れ惚れするだろ?」じっちゃんの声が、縁側まで漏れて来ます。ポチは、縁側の下でうつむき、その声を聞いています。秀雄さんやよし子さんが、何か言っている声も聞こえますが、ポチの耳に入るのは、じっちゃんの声だけです。「そうだ!犬を飼おう!かっこいい洋犬だぜ。ダックスフンド?ありゃあ、俺にゃあ、ちとみすぼらしいな。コリー犬?毛の長い奴は、くしゃみが出ていけねえや。セント・バーナード?ありゃあいいねえ。体の大きさが世界一だ。何でも一等賞はいいやね。だが、奴にも大きな欠点がある。あの気合の入ってねえ顔だ。ニッポン男児は、気合が入ってねえ奴を飼うわけにゃあいかねえのよ。シェパード?そう、それよそれ。俺の求めているのは、シェパードよ。奴は、姿形もいいねえ。頭もいいぜ。なんせ警察犬にも抜擢されてんだぜ。そいつが、十階から下界を見下ろす俺の足元に這いつくばっていんのよ。く~!シビレルねえ。男冥利に尽きるってもんだぜ。何?ドーベルマン?よし子さん。それだよそれ。俺にぴったんこの犬は、そいつだよ。あの細身の精悍な顔。生まれは、軍用犬だっつうじゃねえかよ。戦う男だよ。よし子さんよく言ってくれた。今の意見は、ダイヤ一個分の価値があるね。よし、俺は、ドーベルマンを飼う事に決めたぜ」じっちゃんは、だいぶ酔いが回っているようです。普段でもだみ声なのに、それがさらに酷くなって、ビンビンとポチの耳に入ります。「なんでだよ。なんでじっちゃんは、俺と言うものがありながら他の犬を飼う話しすんだよ」ポチは、悲しくて悲しくて、庭の土をガリガリと引っ掻きました。
「何?ポチだあ?秀雄、てめえ酔ってんじゃねえのかい?今の俺様にあの犬が似合うと思って言ってんのかい?冗談もよし子さんにしてくれってんだよ。いや、よし子さんの事じゃあねえよ。別の使えねえよし子さんの例えだ。いいか?秀雄。人には、格っつうもんがあんのよ。その格によって、持つ物が違ってくんのよ。昔の俺にゃあ、あの犬でよかったが、今の俺にゃあ規格外れよ。今の俺にピッタンコなのは、ドーベルマンよ。それくらい見分けられねえんじゃあ、てめえを俺の跡取りだと認められねえぜ。跡取りは、このよし子って事にしちまうぜ。このよし子さんは、女にしておくのはもったいねえほど、一本筋の通った女よ。家の嫁には、ピッタンコな女よ。俺は、よし子さんに跡取りになってもらってもいいんだぜ」ポチは、うなだれたまま立ち上がりました。じっちゃんの言葉が、ポチの胸にグサリと突き刺さりました。
「もう、この家には、俺の居場所なんて無かったんだ。俺は、じっちゃんに番犬として認めてもらえてなかったんだ。へへへへ、家が立派になったから、俺はいらねえってよ。じょうとうだよ!俺からこんな家出てってやるよ。もう二度と戻るもんか!」ポチは、夜の闇に向けて走り出しました。必要無くなったら、ポイと捨てられてしまう。それが雇われる身の定めである事をポチは知りました。そこに義理も人情もありません。ポチは、悔し紛れに啖呵を切って走り出しましたが、その首は、うなだれたままです。これから自分が、どうなってしまうのか?どこに行けばいいのか?それすら、その時のポチには、考える事が出来ませんでした。
「どうやら、オヤジは、来ねえみてえだな?それじゃあ、出発するか」山の中で若者が立ち上がりました。「ちょっと待ちなよ。オヤジさんは、あんたの本当の父親だろ?来る来ないはともかく、最後のあいさつくらいして行ったらどうなんだい?」木の上で、木の葉の間から、チラチラと見える街の灯りを見ていたお嬢が言いました。「え!オヤジさんが、ボスの父親だって!」犬達の口からざわめきが涌きあがります。若者は、すぐに彼等の驚きに答える事はせずに、斜面の下にある街の灯りを見詰めました。
「みんな、黙っていてすまねえ。お嬢が言った通り、オヤジは俺の父親だ。俺とかあちゃんは、あのオヤジに会うために、この街まで長い旅をして来た。あいにくかあちゃんは、オヤジに会う前に死んじまったが、俺はようやく会えたよ」若者のこの言葉で、再び犬達の口からどよめきが起こります。でも、そのどよめきには、驚きと共に喜びの声も含まれていました。
「ボス!おめでとうございます。でも、みずくせえよ。なあ、みんな」ゴン太が、一歩前に進み出て、お祝いの言葉と共に、そこにいた全ての犬達の気持を代表して若者に伝えます。「すまねえ、別に隠すつもりじゃなかったんだが、いろいろあったから、話す機会を逃がしちまったんだよ。すまねえ。それに、俺がオヤジを本当の父親だと分かったのは、そんなに昔じゃねえよ。ついこの間だ。てめえ等がよ、オヤジの恋話を聞き出した時があったろ?あんとき、オヤジの口から出た生涯の恋人の名前がシンシィーと聞いた時だよ。俺が、オヤジが父親だって気付いたのは。だってよ、俺の母親の名前もシンシィーだったからよ。あの帰りに俺は、オヤジに名乗りをあげたんだよ」若者は、仲間達に、ポチと親子を名乗り合った経緯を話しました。お嬢は、その間、木の枝に腹ばいになって街の灯りを見詰めています。ポチが、本当に野良犬となってしまった事を悟り、うな垂れてとぼとぼと街を歩いている時の事でした。
「じっちゃんに頭下げれば、番犬としてまたあの家に」公園の植え込みの下で、さっきからポチは同じ事を考えては「いや、そんな甘い話じゃねえよ。俺は、あの家にふさわしくねえって言われたんだぜ」と自ら否定する事を繰り返していました。「じっちゃんの言った事は、外で自分が聞いている事を知っていて、わざと意地悪をしてみたのさ」とか「じょうとうだよ!男一匹どうにでもならあ!このポチ様を舐めんなよ!」とか「いいか?よく考えて見ろよ。俺様は、あの家でずっと番犬して来たんだぜ。あのむずかしい仕事を立派にこなしてきたよ。人助けして近所で有名にもなった。名犬とも言われた。じっちゃんだって、鼻高々だったぜ。そんな俺を捨てるか?なんかの間違いだよ。行き違いに決まっているよ」とか「なにあめえ事言ってんだよ。俺よか外国の犬の方がじっちゃんに合っているって、しっかりこの耳で聞いただろ?それが現実だよ。商売がうまくいき、豊になるとよ、それまで支えて来た奴が、みすぼらしい奴に見えてしまうんだよ。それが世の常って奴だよ。もっとしっかり現実を見詰めて、これからの身の振り方っつうもんを考えようぜ」とか、考えは堂々巡り、口から出るのは、傍目で聞けば「ク~ンク~ン」と言う情けない声だけでした。
「それじゃあボス。なおさらオヤジさんを待ちやしょうよ。いやさ、こちらから行って、オヤジさんに一緒に行ってくれって頼みましょうや。それが情って奴じゃねえんですかい?俺は、そう思いやすぜ」若者の打ち明け話しを聞いたゴン太が、胸を張って言いました。若者は、困ったような顔をして、木の枝に寝そべっているお嬢を見上げます。でも、お嬢は、若者の顔を一瞥しただけで、また知らん振りを決め込んでしまいました。
「なあ、みんな。みんなもそう思うだろ?」若者の態度が煮え切らないと映ったのか?ゴン太は、後に控えている仲間達に応援を頼みます。「ボス!ゴン太さんの言う通りだ。俺達の誰もが、ボスとオヤジさんが本当の親子だと知った時、喜びに打ち震えましたぜ。俺達からもお願い致しやす。オヤジさんが来るのを待ってやっておくんなせい。なんなら、誰かを迎えにやりますぜ」ゴン太の後ろに控えていたテツが、後ろの仲間達に同意を求めながら言います。若者は、静かな目で仲間達を見詰めた後、大きく息を吸い込みました。
「みんな、ありがとうよ。俺もオヤジも、みんなの気持ちを、ありがたくもらっておくよ。でもよ、その気持ちは、胸の奥にしまわせてもらうぜ。みんなの気持ちは嬉しいが、俺は行くぜ。その方が、オヤジのためだと思うからよ」若者は、木の間から見える街の灯りを見詰めます。「オヤジさんのためって、いったいそれは」ゴン太が、首をかしげて聞き返しました。
「あのな、みんなには悪いが、俺の親父は根っからの番犬だよ。人間との生活が骨の髄まで染み込んじまってる。オヤジの幸せは、俺等と行く事じゃねえと思うんだ。そりゃあ、俺だって、みんなと同じで、親父がいてくれたら心強いぜ。せっかく会えたんだ。別れたくねえよ。でもな、俺、人間と闘って分かったんだよ。親父が求めているのは、俺等じゃねえんじゃねえかってな。親父の幸せは、人間と暮らす事なんじゃねえかってな。根っからの番犬は、一生人間と暮らすのが幸せなんだよ。ここにいる多くは、人間と暮らした経験のある奴等だ。親父の気持ちは、俺よっか分かっているんじゃねえのかい?」若者は、そこまで言うと再び街の灯りを見詰めます。その灯りの下にいるポチの姿を見ているように。「そうかも知れねえな。人間と犬か?そう簡単には、断ち切れねえ関係だ。俺達は、もうこの街には暮らせねえけどよ、オヤジさんは、正真正銘の番犬なんだから、この街で今まで通り暮らしていける。その方が、幸せって言えば幸せなのかもな」ゴン太が、神妙な口調で言います。その話を聞いて、仲間の中からすすり泣きが聞こえてきました。飼い犬の経験がある者達が、人間と暮らしていた当時を思い出しているのでしょう。
「あ~あ、とうとう行ってしまったよ。寂しいねえ」犬達が、ぞろぞろと山を降りて行くのを見送ったお嬢が立ち上がりました。そして、トンと軽い身のこなしで下に飛び降ります。「まだ、あの子のいた辺りが、暖かいじゃないか。あらあら、大勢いたから、草が踏み潰されて地面がむき出しだよ」お嬢は、若者のいた場所に立ち、犬達が寝そべっていた辺りを見回しました。猫と犬と言う大きな隔たりはあるにせよ、やはりお互いの情は深いようで、今にも泣き出したいような悲しみが、その言葉には含まれていました。
「アネさん、とうとう行ってしまいましたねえ」ガサゴソと草を掻き分け、体の大きな白い猫が、瞳を青白く光らせて現れました。「ああ、行っちまったよ。寂しくなるねえ」お嬢は、素直に今の気持ちを伝えます。「アネさんも本当は一緒に行きたいんじゃありませんか?アネさんが行くのなら、あたし等も着いて行きますよ」白い猫の後ろから、ぞろぞろと猫達が姿を現します。「あたいが行ってしまったら、この街はどうするんだい?この街には、これからもたくさんの野良猫や野良犬が生まれるんだよ。飽きたらすぐにポイの人間相手のあたい達だよ。誰かが、その受け皿になってあげないとねえ。そう簡単には、この街を捨てられやしないよ」お嬢が、ため息まじりで言いました。
「アネさん、オヤジさんは、どうやら人間に捨てられてしまったみたいですぜ」細い体の黒猫が、お嬢の前に進み出ると、耳打ちするように言いました。「なんだって!お前それは本当の事かい?」お嬢もこの事実は予想していなかったようで、目をキラリと光らせて黒いオス猫を見詰めます。「間違いありませんぜ。たまたま、オヤジさんの飼い主の家の隣の屋根で寝ていた時、オヤジさんの飼い主の話を聞きましたから」その後、黒猫は、じっちゃんが、ポチを捨てた経緯を事細かく話し出しました。
「みんな!オヤジさんを探しな。探し出したら直ぐに駅に連れて行くんだよ。ボス達が乗った貨物列車が動き出す前にだよ」お嬢は、仲間の猫達に大号令を発すると共に、自分自身も先頭をきって走り始めました。ポチが若者達に合流するチャンスは今しか無いと思ったのです。「神様は、親子が一緒に暮らす事を願っているのかも知れないねえ。いいえ、きっとシンシィーさんだね。彼女がそう願っているんだよ。じゃ無かったら、こんなにタイミングよく、あのオヤジちゃんを野良になどさせるもんかい。オヤジちゃんが、この街からいなくなるなんて、あたいとしちゃあ、ちょっと寂しいけれどねえ」お嬢は、走りながら空を見上げつぶやきます。冷静なお嬢が、こんなセンチメンタルな言葉をつぶやくなんてとても珍しい事ですが、ずっと付き合って来た犬達がこの街を離れる事になり、さらに心のどこかで慕っていたポチも街を出る事になるかも知れないと思うと、さすがのお嬢もセンチメンタルな気持ちになってしまうのです。
「さあ、ぐずぐずしてらんないよ。何としてでもオヤジちゃんを探し出さなくちゃあ。あの堅物の事だからさあ、きっとぐずぐず言うだろうけど、首に縄をかけてでも、彼等の所に連れて行ってやるよ」お嬢は走ります。仲間達にもポチの捜索を頼みましたが、何としても自分が探し出したいと思っているようです。犬ならば自慢の鼻ですぐに探し出してしまうのかも知れませんが、猫はそうは行きません。大体の勘を頼りに、足で探し回ります。「シンシィーさんが、それを望んでいるのなら、きっとあたいをオヤジちゃんの所に連れて行ってくれるよ」お嬢は、ポチを探すために走ります。あまり得意では無いのに、足を一生けんめい動かします。他の猫達も、きっと同じ思いで必死にポチを探し求めているに違いありません。
「おい、あれか?」若者が、灰色の毛のオス犬にたずねます。灰色の犬が、黙ってうなずきます。そこは、大きな駅です。その駅に長々と車体を休めている黒い塊が、若者達が目指す貨物列車です。「でけえ!」若者の後ろで誰かがごくりとツバを飲み込みます。若者も、その黒い巨体を首を曲げて見上げます。夜の暗さをさらに黒くして、貨車が壁のようにそびえています。「さて、ここまで来たのはいいが、こいつにどうやって乗り込むかだ」若者は、この貨車に乗り込む方法を思案し始めました。
「オヤジちゃん、一体どこに行ってしまったんだい?」お嬢達の捜索は、思ったよりスムーズに進んでいませんでした。ポチがいそうな所を次々と探しましたが、なかなか見つける事が出来ません。公園も探しましたが、ポチの姿を見つけられません。犬達が、隠れていた暗渠の中にも入ってみましたが、そこにもポチの姿はありません。当然の事として、じっちゃんの家にも行ってみましたが、そこにもポチの気配は感じられません。「オヤジちゃんは番犬だったから、そんなに隠れる場所を知っているわけないんだけれどねえ」次々と公園に集まって来る猫達の口からも、ポチの行方が分かったと言う報告は皆無でした。お嬢は、ポチの行きそうな所を次々と思い浮かべます。そのほとんどが、犬達が隠れ処としていた場所や遊び場です。でも、そこにポチの姿を見つける事は出来ませんでした。
「おい、あすこの橋から、この駅の屋根に飛び移って、こいつに飛び移れねえか?」若者が、駅をまたぐようにかかっている陸橋に目を付けます。「ああ、確かに方法は、それしかねえと思いますぜ」脇に控えるゴン太が、若者の意見に同意します。「あすこから、女子供が屋根に飛び移れるかな?」若者は、なおも心配そうにつぶやきます。「女子供!子供はともかく、女をみくびってもらっちゃあ困るよ。あたし達は、あんたら男より身は軽いよ。ねえ?」リリーが、ツンと顔を空に向けて言った後、他のメス犬に同意を求めました。当然、若者の言葉にメス達の口から一斉にブーイングが吐き出されます。「悪かった悪かった。確かにそうだ。うちの女は、男より男まさりだった」若者が、前脚で頭を掻きながら、メス犬達に頭を下げます。「ま、子供もたいがいの奴等は、俺達大人より身軽だ。あそこから飛び移れねえのは、赤ん坊くれえだろう?赤ん坊は、大人がくわえて飛べばいい」ゴン太が、素早く若者のフォローにまわりました。
「やっぱり俺は、息子と行動を共にした方がいいかな?奴等だって、俺を必要としてくれているしよ。なあ、シンシィー教えてくれよ」ポチは、どこかの生垣の下から、空を見上げてつぶやきました。まるで、空の上に最愛のシンシィーがいて、ポチの話を聞いてくれているかのように。ポチの心は、そのころには、若者達と行動を共にすると言う方向に傾いていました。でも、まだ若干のこだわりが、ポチに立ち上がる事を躊躇させています。それは、この場所にあるようです。ポチは、どうしても、この街から離れたく無いのです。だから、心は大方定まっているのにポチは、立ち上がって行動に移る事が出来ないでいるのでした。
「ようし!全員屋根に乗り移ったな?誰も取り残されている奴はいねえな?」若者が、長い屋根に飛び移った仲間達に声をかけました。犬達は、お互いにお互いを呼び合い、点呼を取ります。長い屋根の上にずらりと犬が並び、その姿を月の光がシルエットに浮かび上がらせます。「ボス、取り残されている奴はいませんや」とゴン太が、若者に報告します。「それじゃあ、みんな乗り込むぞ。その前に、この街の見納めだ。みんな街の灯りをよく見ておけよ」と若者は、回れ右しました。駅は、繁華街より高台にあるようで、屋根の上からは街の灯りがよく見えました。「この街でいろいろとあったが、いざお別れとなると寂しいもんだな」と誰かがつぶやきました。犬達は、この街の思い出をさらに鮮明にしようとしてか、食い入るように街の灯りを見詰めています。そして、誰が言ったわけでも無いのに、次々と街の灯りに向って一礼し、クルリと背中を向けます。「さあ、もういいみてえだな?それじゃ、おのおの適当に散らばって、こいつに乗り込みな。いよいよ俺等の世界へ旅立ちだ!」若者のその声を聞いて、犬達は、屋根から一斉に貨車に飛び乗ります。貨車には、楕円形のタンクの貨車や荷物を積んでいる貨車もあって、全てに乗り込めるわけではありませんが、所々に、砂利を運搬して空になった貨車がありましたので、どうにか全ての犬が乗り込む事が出来ました。犬達は、貨車の床に這いつくばるようにして、貨物が発車するのを待ちました。
「まったくもう!オヤジちゃんは、どこに隠れてしまったのかねえ。もうじきボス達が、この街から出てしまうっていうのにねえ。本当に困ったオヤジちゃんだよ!」公園に集まった仲間達からもポチのいどころが掴めなかったお嬢が、やきもきしてつぶやきます。「アネさん、こりゃあ、オヤジさんは、もうこの街にはいないかも知れませんぜ」尻尾の長いオスのトラ猫が言います。「そうだねえ。ここまで探していないんじゃあねえ。人間にあいそを尽かして出て行ってしまったって事も考えられるねえ。あの性格だからさあ。でも、あたいは、まだ肝心な所を探していないような気がしてならないんだよねえ」お嬢は、喉まで出かかった物が出てこないもどかしさをあらわにして、空を見上げます。「あねさん、そりゃあ、いったい何処のことですえ?」ちょっとばかり気の抜けたような茶色のメス猫が、お嬢の顔を覗き込みながら聞きます。「うるさいねえ!それが分かったら苦労しないんだよ。何か忘れているんだよ。それがここまで出て来ているのに、口から出て来てくれないのさ」お嬢は、茶色の猫の無神経さに、さらに苛立ちをつのらせます。「こらこら、お前は、後ろに下がっていな。ねえ、アネさん。私達がこれだけ探してみつからないんだから、やっぱりこの街を出てしまったんだよ。でも、薄情じゃないかい。私、オヤジさんを見損なったわ。だってそうでしょう?行くなら行くで、あいさつくらいあってもいいじゃないか。それに、ボスは、本当の息子だろ?その息子にも黙って行ってしまうなんて、薄情者のコンコンチキだよ!ボスを愛していないのかねえ。ああ!見損なった見損なった!」白い大型の猫が、激しく首を振ります。「おい!今なんて言った?」お嬢は、白い猫の言葉に敏感に反応しました。
「そう!愛だよ愛!あたいとした事が、大切な場所を探していなかったよ」お嬢は、すくと立ち上がりました。そして、仲間達に「ここで待っているように」と言うと、公園から走り出ました。「アネゴどうしたのかねえ?」公園に置いてけ堀された猫達は、みんな首をひねっています。「いいかい?オヤジちゃんは、そこにいるに違い無いよ。でもねえ、そこには、あたい一匹で行くよ。みんなでぞろぞろ行ったら、オヤジちゃんは、かたくなになっちまうからねえ」とだけ言って、サアッと行ってしまったのです。みんなが、首をひねるのも無理は無いでしょう。
「しょ・所長!犬共が、大移動しているとの情報が入りました」保健所の建物の中で、きつね目の女が、受話器をガシャリと置き、叫びました。「なに!どっちに向っていると言ってた!」所長が、飲んでいたコーヒーを四方八方に噴き出しながら叫びました。「駅!駅の方向に移動していると言う情報です。犬共は、集団で徒党を組んで、駅の方向に向っているとの事です!」きつね目の女が、細い目を目一杯広げて敬礼します。「なんで駅なんだ?」所長が、きつね目の女の興奮をさらりと受け流して首をひねりました。
「おやおや、やっぱりここにいたよ」お嬢が、路地に面した屋敷の生垣の下を覗き込んで言いました。生垣の下に塊が見えます。その塊は、かすかに上下しているのが見て取れますので、どうやら生き物のようです。「オヤジちゃん。ここでシンシィーちゃんの思い出に浸っているのかい?」お嬢が、生垣の外から声をかけました。「なんでぃ。誰かと思ったらお嬢かよ」ポチが、首を上げ、面倒くさそうに言います。「なんだとは失礼な言葉だねえ。むこうに同じような家がたくさん建っているけど、その全部が、シンシィーちゃんが暮らしていたお屋敷跡なんだろ?」お嬢が、構わずに生垣を潜り、ポチの隣に座ります。「ああ。でも、よくここだと分かったな。俺、場所がここだとは言ってなかったはずだぜ」ポチは、何もかもが憂鬱だとでも言いたげな口調です。「あたいをみくびってもらっちゃあ困るよ。オヤジちゃんの自慢話で、この場所くらい分かってしまうんだよ。で?シンシィーちゃんは、何て言ってんだい?」ポチは、お嬢の言葉に、ゆっくり首を振りました。「死犬に口無しかい?」お嬢が、きつい言葉をさらりと言います。「お嬢よ、あのな・あのな・俺」「野良犬になっちまったって言いたいんだろ?」「な・なんだ。知ってたのかよ。そうだよな。お嬢をみくびっちゃあいけねえよな」ポチは、自嘲気味に言います。「で、どうすんだい?ボス達は、もう貨物に乗り込んでいるよ。時間が無いんだよ。オヤジちゃんが行く気があるなら、さあ、こんな所でうだうだしている暇は無いよ。今から全速で走っても間に合うかどうか分からないよ」「俺は、行けねえよ。俺は、この街から出るわけにゃあいかねえんだよ」ポチが、お嬢の言葉に首をふります。「この街じゃあ無くて、ここから離れられないだろ?シンシィーちゃんの思い出は、ここだけだからねえ」お嬢も生垣から、路地の向こうに続く、建売住宅の群れを見上げました。
「理由なんてどうでもいい。さあ、奴等との最後の闘いに行くぞ!みなの者!おのおの武器を手に取れ!今度こそ、奴等を一網打尽だ!」犬達が、駅に向っていると言う理由をしばらく考えていた所長は、強く頭を振ると、所員に大号令をかけました。所員達の顔に緊張が走ります。所長の最後の闘いと言う言葉が、所員達に緊張をもたらしたようです。所員達は、表に飛び出すと、小屋に仕舞い込んでいた犬捕獲用の武器を手に手に持って出て来ました。
「お嬢!ありがとうよ。俺は、息子と一緒に行くぜ」生垣の下からポチが、勇躍飛び出しました。そして、駅に向ってものすごい勢いで走り去って行きます。
ポチは、最初、お嬢の説得を聞かずにぐずっていました。それでも、お嬢は、粘り強く説得しました。「オヤジちゃんが、この街から離れたく無いってのは、分からないでも無いよ。一生涯ただ一度の大恋愛をした街だ。一緒に連れて行きたくても、その相手はもうこの世にいない。だから、離れたく無いってんだろ?でもねえ、それを聞いたらシンシィーちゃんは怒るだろうねえ。私は、この場所にいるんじゃ無い!あんたの心にいるのよ!ってねえ。女だから、あたいは分かるんだよね。シンシィーちゃんが望んでいるのは、愛するオヤジちゃんに可愛い息子の力になって欲しいんだよ。オヤジちゃんは、息子の姿の中にシンシィーちゃんの姿が見えないのかい?」ポチは、そのお嬢の言葉にビクリと首を上げました。「お嬢!そうだよな。そうだよ。シンシィーは、ここにはいねえ。俺の心と息子の中にいるんだよ。ああ、俺は何て間抜けなんだ。そんな事にも気付かなかったなんて。野良犬になった事で動揺しちまってよ。なんて間抜けヤロウなんだ!お嬢!来てくれてありがとうよ。俺の目を覚まさせてくれてありがとうよ。間に合うかどうか分からねえが、俺行くぜ。いや、間に合わなくても俺は、息子を再び探し出してみせる」ようやく、ポチの目に光が戻りました。
「アネゴ、オヤジさん行ってしまいましたねえ」生垣の後ろから、白い大型のメス猫が、ぬそっと顔を出しました。「なんだい、着いて来るなと言ったのに着いてきちまったのかい?しょうがない子だねえ」お嬢が、流し目で白い猫を見ます。「いいんですか?オヤジさんをこのまま行かせて」白い猫が、お嬢の隣に並び、ポチが走り去った方を眺めて言います。「いいに決まっているじゃないか。嫌な子だよ。妙な言い方をして」お嬢はプイと横を見ます。「だって、アネゴは、オヤジさんを」白い猫が、意外だと言う顔をします。「なんだい、気付かれていたのかい?でも、いいんだよ。しょせんは、猫と犬だもん。仕方がないさねえ。それに、オヤジちゃんとボスがいなくなったら、この街はどうなるんだい?あたいが、一緒に出て行くわけにはいかないだろ?」白猫は、空を仰ぎ見ました。お嬢の気持ちに、返してあげる言葉を見つけられなかったからです。だって、お嬢は、今まで見た事も無いような、悲しい表情をしていましたから。
「息子よ!待ってろよ!シンシィー!俺が行くまで、奴等を引き止めておいてくれ」ポチは、足も折れよと走りました。どうしても若者達と行動を共にしたいと言う思いが、ポチを信じられないスピードで走らせています。でも、貨物の出発の時間は、目の前に迫っていました。
「しょ・所長!いませんねえ。駅まで来ましたが、犬なんて一匹も見当たりませんぜ。電話は、何かの見間違えじゃなかったですかねえ」長い棒を抱えた馬面の男が、声をひそめて言いました。「あんなに数の多い犬共を見間違うはずねえじゃねえか!駅の向こうに向っているのかも知れないぞ。あの陸橋渡って、駅の向こう側に行くぞ。さあ、ぐずぐずすんな!」所長の号令で再び保健所の所員達は、武器を小脇に抱え、陸橋めがけて走り出します。その時、ホームの方で「ガシャガシャガシャ」と貨物が動き出す音が聞こえました。
「オヤジさん、とうとう来ませんでしたね」動き始めた貨物の最後尾の貨車の中でゴン太が、若者にボソと言いました。「ああ、分かってる。覚悟はしていた事だ。もう、とっくにあきらめているさ」若者は、悲しげな声で答えると貨車の床に顔を押し付けました。
「しょ・所長!あちらから白い犬が、ものすごい勢いで走ってきますよ」きつね目の女が、息を切らして言います。所員が、女の指差す方向に目をこらします。「確かに、あれは犬だ。きっと奴等の片割れに違い無い。よ~し、奴だけでもとっつかまえて、犬共の見せしめにしてやるぞ。みんな、暗闇に身を隠せ!」陸橋への階段を上り切る一歩手前で所員達は、階段にしゃがみ込み、陸橋めざして走ってくるポチから見えないように身を隠しました。
階段の前をポチが走りぬけます。きつね目の女が、階段から躍り出て網を被せましたが、ポチは一瞬早く網を潜り抜けました。「くそ!貨物は、動き始めてるじゃねえか」ポチは、途中で貨車の動き始めた音を聞き、間に合わないと悟って陸橋を目指していました。「陸橋から飛び移ってでも」と考えたのです。「ひゃあ!あぶねえあぶねえ。あんな所に人間共が隠れていやがるとはよ」ポチは、寸前で網をかわすと、さらにスピードを上げました。
「お~い!どこだ!」陸橋の欄干から下を覗いたポチが「ワォーン!」と叫びました。「オヤジだ!」若者が、飛び起きます。他の貨車にいる犬達も、ポチの声を聞いたようで、「ワンワンギャンギャン!」騒ぎ立てます。「へへへへ、そこかい」ポチの目は、陸橋に近づく貨車の中でうごめく犬の姿をとらえました。しかし、先頭の機関車は、陸橋の遥か前方をぐんぐんスピードをあげて前進しています。犬達の乗った後方の貨車も真下まで近づいています。「くそ!今から飛んでも間にあわねえ。一歩遅れちまったようだぜ」ポチは、下を覗き込み、何か手立ては無いかと思案します。
「オヤジ!俺達と行ってくれるのか?」陸橋の下から若者の期待に膨らみきった言葉が聞こえてきます。「あたぼうよ!俺が行かなきゃ始まらねえだろ?」ポチも大声で返します。「オヤジ!俺、その言葉が聞きたかったんだ!」「オヤジさん!俺達も、その言葉が聞きたかったんだ!」陸橋の下から、唸るような歓声が涌きあがります。「でもよ!俺がぐずぐずしていたおかげで一歩遅れちまったぜ!今からじゃ間に合わねえよ」ポチは、体を下に投げ出すようにして声を絞り出しました。貨物は、ぐんぐんスピードを上げ、下からの声が陸橋の下へと入り始めていたからです。
「オヤジ!反対側だ。反対側に飛べ!」ポチがどうするか考えていると下から若者の声が聞こえました。「反対側って言ってもよ、間に合うか間に合わねえかと言ったら、間に合わねえ方が強いぜ」ポチはそうつぶやきながらも体は、反対側の欄干めがけてダッシュしていました。反対の欄干には、保健所の人間達が近づいています。飛んで貨車に飛び移れるか?線路に叩きつけられるか?はたまた、人間の手に捕えられるか?その三通りの結末で一番確立の低いのは、貨車に飛び移る事だとポチは理解していました。でも、息子の言葉に従う事をポチは選択しました。ポチの走るスピードは、おとろえません。そのスピードに人間達は躊躇して一瞬足を止めました。ポチは、その人間の鼻先すれすれを思い切ってジャンプしました。ポチの体が、欄干を飛び越え、暗闇に向けて落下して行きます。
ポチは、どうなったのか?下が暗すぎて分かりませんでした。でも、次の朝、線路の上に横たわる白い犬の屍骸があったとか、ケガをした犬が保護されたとか、そう言う話は、街の誰の耳にも入ってきませんでした。ですから、ポチが飛んだ直後に貨車から起こった犬達の何とも表現しえないざわめきは、ポチが貨車に飛び移る事に成功した歓声だと思っています。いや、そう思いたいのです。ポチは、とうとう街から脱出しました。自分を束縛していた多くの事からも脱出する事に成功したのです。私は、彼等がどこで何をしているのか知りませんが、今でもそう信じています。

ポチ

初めて自分の作品を公開しました。原稿用紙形式で書いた物を貼り付けただけなので読み辛いかなとも思いますが、どのように掲載してらよいか分らないので、貼り付けただけで掲載しました。

ポチ

ポチは、番犬です。腹の底に不満を持ちながらも人間の為に日々働いています。でも、自分によく似た野良犬との出会いで、自由な犬のいる事を知ります。ポチの目には、野良犬が自分より美味しい物を食べ、自由に暮しているように映り、自分の立場に疑問を感じてゆきます。それでも番犬と言う立場を捨てられずに更に不満を溜め込んでゆきます。

  • 小説
  • 長編
  • 冒険
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-11-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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