SS02 新調の功罪

長年愛用した眼鏡はレンズが欠けて使えなくなった。

 いい加減くたびれ果てた眼鏡を新調するのは何年振りだろう?
 ある程度歳を重ねると視力は下げ止まり、安定するものだと知ったのは単なる経験則だけど、生活に不便はないし、大事に使ったお蔭でこれまで修理に出したこともない。
 しかしその命運もいよいよ尽きる時がきた。
 不注意で落とした眼鏡を踏ん付けたのは誰でもない自分の足。慌てて拾い上げればフレームはグニャリと曲がり、レンズまで欠けていた。
 思わず悲鳴を上げたのは決して大袈裟なことじゃなかった。
 悲しいかな予備もなく、これでは何をするにも不便で仕方がない。というか、ドの付く近眼である私から眼鏡を取ったら日常生活は成り立たない。
 ぼんやりと霞んだ風景を眺めていても家事を代わってくれる人はいない。それどころかトイレで用を足すだけでも困難が付き纏う。
 それでも夫と子供を送り出し、化粧も済んでいたのは不幸中の幸いだった。”おばさん”と呼ばれる年齢になればすっぴんでの外出は勇気がいる。
 私は支度の間中目を細め、外を歩く時も目を細め、機嫌が悪そうだと知り合いが避けたことすら気付かなかった。

 さて、コトは緊急を要する。
 無事に眼鏡屋まで辿り着けば、視力検査からフレーム選び、多少時間が無駄になるのを覚悟してでも店内で仕上がるのをじっと待つ。
 このままじゃ何も出来ないんだから仕方がない。
 しかも誰も責められない悔しさに突然の出費が重なって、心もお財布もかなりの痛手。
 けど新しくなるのはちょっぴり嬉しい。
 私は溜息をつきながら、明るい気持ちを前面に押し出すことにした。

 ***

 検査の段階で予想外に視力が落ちているのは分かっていた。
 要するに少しずつ悪くなったので、気付きもせずにそれが普通だと思って生活していたわけだ。
 今回新調するに当たっては、それに合わせてレンズを選んだわけだから、何もかもくっきりバッチリ見えるようになったのは当然だけど、ひと皮剥けた私の世界は思った以上にシャープになった。
 なんと売り場の野菜が眩く見える。服の色も鮮やかに。空の青さも際立つようだ。
 いつもの何気ない光景の中に見付けた驚きと喜び。それは買い物を終えて家に帰り付くまで続くことになる。

 ……だが、しかし。
 玄関扉を開けて我が家に入ると、確かにそこもシャープに生まれ変わってはいたものの、それ以上に床の埃や壁の汚れが目に付いた。
 ちゃんと掃除をしたはずななのにこれは一体どうしたことだ?
 買ったものを冷蔵庫に詰め込んで急いで鏡台に向かったのは、イヤな予感がしたからだ。
 果たして予感は的中する。
 自分の顔をよくよく見れば、思った以上に肌が荒れ、皺が増えているのに愕然となった。
「嘘でしょ?」思わず出たこの言葉こそ心の叫び。私は両手で頬を撫で回す。
 それなりにしか、お肌に気を遣わなかったせいかしら?
 私は丁寧に化粧をやり直す。それでも、どうしても”昔の顔”に戻りはしなかった。
 大きなショックを受けたまま私は再び買い物へ。
 今度は本当に機嫌が悪かった。

 何もかもありのままに見えるのがいいわけじゃないなぁ。
 ……という考えは、すぐに自分で否定した。
 そんなことはないか。他の人は”ありのまま”の方を見ていたわけで、それを知らなかったのは私だけ。
 真実を知った私にはワンランク上の掃除やら化粧が求められるというわけだ。

 それに気付けたのはよかったが、再び見上げた空はもう、さっき見た澄み切った青ではなくなっていた。

SS02 新調の功罪

SS02 新調の功罪

長年愛用した眼鏡はレンズが欠けて使えなくなった。

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-26

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