落ちる黄葉の楽園

落ちる黄葉の楽園

 どこかへ向かうのが人生で、結末に向かうのが物語なら、この先の文章はひどく曖昧なものだろう。

執筆時期は学生時代なので今の僕からすると読むのはちょっと恥ずかしい。いつか書き直せたらなぁ……

000

この僕、黄葉(こうよう)は、常々考えていた。もし、体を淘汰するなら、と。

 人間が進化の最新型であり、長い歴史がある地球ブランドの新機種(というとSFのようだ)にあたるものだとしても、はたして最新型はもう改良の余地がないのかというと、答えは未知だ。
 そういえば、どこかの電化製品の会社は、新機種が出来上がるとそれをライバルのように扱い、次の製品を製作すると聞いたことがある。……まぁ、人間が製品やコンテンツのような目まぐるしい早さで改良されてしまうのは、一種、おぞましいと思うし、なりより製品扱いするのもお門違いだ。……しかし話は先程の『最新型はもう改良の余地がないのか?』という疑問に戻らせてもらう。 この先の人類はもう改良されないのか?
 その疑問には答えられない。というのがやはり正直な所で、まさに未知。というより、神のみぞ知るというニュアンスではないだろうか?
 人間が自身の改良点を挙げることは無理ではないだろうか(整形のような個人的なものはこの際話しの論点が違うので、ノーカウントだ)。そのような考えを持つに至る脳を、まず人間は持ち合わせていないと思うのだ。というのはほかでもない、僕が無知であるというのも深く関係しているだろう。
 そんな考えに至る道。
 僕の左腕が無くなっていた。

001

 実は先程までの壮大な考えは、実のところまるで関係がない。SFじみた話しをしてしまったが、あれは拡張された独りごちだと思っていい。
 いろいろ思考を巡らせては結局、深い意味、あるいは答えなんてない。記憶のフラッシュバックに目眩がする。僕は膝の上の本から目を離し休める。

 最初に意識を取り戻した時。

 衰えた筋肉、内臓が重苦しくのしかかるのを感じ取れるほどに衰弱した体。
 秒針よりやや遅い機械(心電図)の電子音。清潔な部屋の匂い。刺激の少ない間接照明。鼻から侵入する経管点滴の栄養剤が胃をふやかしているのがわかる。
 僕は漠然と状況を理解し、ナースコールのボタンを苦労して押した。

 何が起きたのか。
 つまり、事故が、おきたのだ。
 交通事故。
 豪雪地隊の僕の町もようやく雪が溶け、自転車を見かけるのが増えた春先、さらに言えば春休みを控えたある日、仕事が休みの姉が僕をこき使う前に折り畳み自転車に跨り家を出て、気紛れに書店に向かう。

 事故。

 大型トラックに轢かれて自転車は近代アートよろしく捻曲がり、大型トラックの運転手は古代アート(?)のように、まさしく埴輪みたいに目も口も丸くしていた。轢かれた自転車の運転手はトラックのガラス片と共に空中を切りもみしながら飛んで行き、ガードレールに全身を強打した後、道路の上を転がった。
 白昼の大惨事。アスファルトや固く凍った雪は赤黒く濡れ、硝子の破片が散りばめられて陽射しに反射して、野次馬たちはただただこの惨状を被写体にしてより美しくフレームに収める作業をしていた。
 確かにその光景は醜悪で、それでも確かに、白い雪が鮮かな赤色に染まり溶けて行く様は奇跡的に美しく見えた。

『かっこ悪い』と思った。何故なら左腕が轢き剥がされていたんだから。
 あんな千切り方はない。骨は砕けて肉はつぶれてる。あの捻切れた左腕ではきっと元通りには接合出来ないかもしれない。いや、普通に考えてそのまま『左腕がないまま傷口を塞ぐ』のが常識か。でも、もしドナーなんかがあればどうなるんだろうか、身体の部品なんてどうこう出来たっけかな?
 内臓なんかは身体の部品だけど他人のを使用するなんてこともあるんだっけ?
 ほら、移植とかなんとか。
 意識が遠くなるような感覚。引き伸ばされて剥がれそうな意識は世界をスローモーションにする。『あぁ、かっこ悪い』僕はトラックに轢かれそうな人を助けようとして仲良く血まみれだ。
 横になるとよく分かる。そうか、あそこはアイスバーンになっていたのか。
 いよいよ消えそうな意識であれやこれやを考える。僕の自転車は走り出した時に投げ捨てたまま、転がっているのが視界の端に見える。
 自転車に乗っていた本人は少女だった。ズボンを履いていたから何となく『男性かな?』なんて思っていたが(スカートかズボンかで性別を見分けるのかと言われればどうしようもないジェンダーヴェスタイトに反感を買う発言だが、そういった意思はないので理解してほしい)、よく見ると華奢で、防寒着の服装だって派手さはないが、女性らしいファッションセンスだ。そして何より、顔を見ればそれが少女であるとわかった。
 僕はもう意識を失った。
 暫くして、この十字路の交差点に救急車とパトカーが到着し、路の脇に停車した。救急車から降りてきた救急隊員たちは迅速で、かなり手慣れたように、現場を一瞥し、担架を用意する。その間も別の救急隊員は意識のない僕と左腕がない人間と左腕を乗せて、些か雑に、病院へと拐っていく。

002

 ここからは回想が終わり、回診も終わったところから始まる。
 埴輪みたいな加害者のそのあとはよく知らない。警察がなんとかしてくたのだろう。なんとかこうとかしてくれて、僕の家族や少女の家族、運送屋の責任者が謝罪と賠償金をくれたのだろう。でなければ僕はこんな生活していない。
 本当はここから僕の回復に向けたリハビリやらがあるのだが、特に何かあった訳ではないので割愛させてもらう。特筆したいのは、尿道に入れられたカテーテルをとってから今も尿意がなく痛みだけがモールス信号のように体の中を満たしている現状と、あとは、例の少女、僕の左腕を持つ女の子と同じ部屋に移ることになった。
 それくらい。
 再び場面は事故当時に向けられる。

「男性の被害者、十代半ば、意識不明で脈拍が弱まっています。左腕が上腕から切断されています。男性の方、切断面上腕骨三分の一、粉砕骨折もあり。状態からみるに縫合は困難。切断面の状態が酷く、その他、ガラス片による裂傷を確認。……えぇ、現在意識不明の重体……」救急隊員は無線機に向かって報告している。無線機の音声はまるでチューンが合っていないラヂオのようで、ノイズが酷いように思えるが、救急隊員は苦でもなく、無線のノイズから言葉を掬い上げる。
 「女性被害者の外傷、同じく左腕。肘から先は擦傷がひどく、骨が露出して……」
 
応急処置を施された後、『僕』と反対側の窓辺で酸素マスクをしている人間は少女だ。轢かれたときに頭を打ったのか、ボサボサに乱れて、血で固まっている。痛々しい細かな生傷は雪溶けの氷やアスファルトによるものであろう。

003

 大型トラックの割れた硝子の破片と一緒に地面に投げだされた瞬間を、僕は思いだして、身体が硬直した。衝撃だった。という感想しか出てこないが、脳内では鮮明に事故の瞬間を思い出せる。
 雪解け、まだ冷たい風に光るアスファルト。日が暖かくなり、増え始める自転車。春先に油断し始める車。まだ残る雪の山の目隠し。豪雪地隊の僕の町、栞守市。曲がり角でのトラックとの鉢合わせ。ブレーキを掛けるも路面凍結により、横に曲るとともに道を塞ぎ、その際に僕の前にトラックの荷台が迫る。僕は咄嗟に少女を包むように庇い、鈍い衝撃とその重さに吹き飛ばされる。
 その際少女は身体の左側を地面に擦られ、僕はタイヤに左腕を持って行かれた。……らしい。
 まるで捻切られたように左腕を切断。身体はガードレールに跳ね返され、転がり、十字路の交差点の中心付近でガラスの上を滑る。これが、事故の顛末である。

 手術は、八時間に及ぶ長いものだったらしい。
 術後、そこには足りない僕と、腕をもて余す少女がいた。簡潔に言ってしまえば、僕の左腕は僕に付けることが出来ない程に、僕の左肩、つまり上腕骨の根元が開放骨折していて、やむなくこの腕を少女の腕として整形移植手術を行なった…というのだ。親族には説明して、同意を得たらしいが、当時僕自身が左肩以外にも肋骨骨折、意識不明とかなりの峠を越えていたらしく、昏睡状態であり、僕本人の同意はない。いや、まだ実感がない分、別段気にしていないけど。冒頭の独り言はつまり、今現在の僕の思考である。
 かたや少女は対したショックを受けることもなく、いや、ショックを受けても取り乱すには至らず(それはある意味病院の人間達を不安にさせた)、バランスの悪い天秤のような自身の体を受け入れていた。
 一方、僕の右手は、当たり前だが、丸くなった。包帯で隠されたそこはまだ縫合が完璧に繋がってないので、デリケートに扱わなければなので、一応、安静のためにベッドから出ることは出来ない。
 暇をもて余した右腕は……。
 包帯で隠れた左腕跡地(あと)を訪れた。

 銀の神経。鋭敏に包帯の中の僕は包帯の外側の僕を感じ、輪郭を認識する。
 触れるのは僕で、触れられるのも僕という、何か永久機関に近い何かを感じた。
 抜けたばかりの奥歯のあった歯肉を舌で舐めるような、神経回路がショートしてしまいそうで、それでいて癖になる、左腕跡地。縫合部分は触れるとじくじくと痛みを感じるが、真皮の部分で作られた皮膚は包帯の感触を好いてしまって、ついつい撫でてしまう。
 あんまり撫でているとクセになってしまいそう。それ以外考えられなくようなそれはまるで性感帯のようだな。半ば冗談のつもりでそう考える。考えられるということは、脳が回復しているということ。若さというのはずばり回復力なのだ。まだまだ子供で、だからこそこの先の未来が想像できない。腕の一本、利き腕ならまだしも、左腕くらい。と、カーテンで隔てられた病室、少女のシルエットがカーテンを右手で掴んでゆっくりと開いた。カーテンレールの軽快な音が耳に届くと、僕は右腕の動きを止めて、そういえばすっかり忘れていた膝の上に開いていたまま本の頁を閉じ、視線を上げた。やはり本を片手で読むのは慣れないが、しんどいだけで、不可能ということではなかった。左腕くらい、要らない。

 少女は歪な左腕を肩口から垂らしていた。今はあんまり動かないがリハビリを続ければ動くようになるそうだ。逆に言えば、それまでは左腕はただの飾りで、ただの木偶の坊だ。
 普通に考えてみれば移植した部位は神経は直ぐに繋がるなんてないわけで、少女からしてみれば『ゴミを貰った』ようなものだろう。そう考えると、自分の身勝手さが身に染みる(世間体でみれば、僕の行い自体は勇気ある行動で、誰も責めてこないが)。
 髪の毛は事故当時とは違い、痛め付けられた毛先はいっそ切り落として、ボサボサだったのも整えて、事故当時と比べれば大分短い。僕と同じくらいの長さか?
 ちなみに僕はちょうど髪を切ろうと考えていた頃なので比較的長めだ。耳にかかるくらい。
「……」
 少女は無言でこっちを見ている。話せない訳ではないのは知っている。『事故のショックで言葉を失った』とか、そんなドラマ成分はないのだ。が、奇妙な関わり、関連性の副作用か、お互いに距離を測れずに試行錯誤しているところだ。僕が腕をあげた恩人であり、腕を押し付けた他人だ。
 少女が僕の左腕を押し付けられた不運な少女であり。腕を失う危機を回避することに成功した幸運な少女だ。
 それでなくても僕に『え、誰?この人』と思うのは想像に難くない。赤の他人がトラックから身を守ってくれたり移植やらという奉仕をしてくれたのだ、怪しいだろう。裏を疑うのは当然だった。腕は歪だが、医師曰く、『ホルモンバランスが整えば腕も女性らしい形になる』そうだ。まぁ、色違い、骨のサイズ違いというのは避けられないが。
 とりあえず、先に口を開いたのは僕だった。
 あんまり少女の身体を見つめていては誤解が生まれる。というか正解がバレる。……一応、ここで言った身体とは少女の腕だ。もしくは僕の腕だったものだ。間接視野で胸を見ていたとか、そんなことはない。
 今更腕を返すこともできないのだから、返せという気持ちもいまいち湧いてはこないし未練はないが、興味がある。“少女が僕の左腕を動かす姿”を、見たくないと言えば嘘になる。今はまだ神経がつながっていないけれど。
「腕、動くといいですね」
「!……はい」
「なんか、すいませんでした、眠ってる間に色々あったみたいで、その……押し付けちゃって……」
 お互いの距離を測るどころか、食い込んだ話題を転がしている気がする……というか、本人は左腕が欲しかったのだろうか?

「いえ……いえ、今はあまり動かないんですが、リハビリは順調ですし、あなたがいなければ、今頃は私があなたみたいになっていましたし…………あっ、すいません、そういう意味ではなくて、あの」失言に気付きしどろもどろ、敬語で謝る少女。恐らく、僕みたいになる。という言葉の意味は、トラックにぶつかる際に僕がいなければ昏睡…または死亡する可能性があったのは自分かもしれなかった可能性を含めていっているのだろう。

「いやいや、事実だから。悪気がないのもわかってる。それに、実感がないです」
 どうでもいいけど、他人同士とはいえ、高校生が敬語で会話をするのは、なんとも変な感じである。社会的には必要なステイタスだが、高校生と言えばタメで話し合うグループを組んで生きているから、見慣れない感じだ。

「……なんで……ですか?義手もつけないで」
「高いですよ義手は。それに、一口に義手と言っても、種類も多くてさ」
「……そうですか」
「えぇと、義手には装飾用と機能を目的にした能動用と作業用があるらしいです」
 まぁ、膝上の本、パンフレットの受け売りだけど。

「……まず前腕義手には差込式前腕義手があって、中断端~長断端の人に適応。僕はこれのタイプに近いけど、根本から切り離したから、動かせないし、実際、ここには合う長さがないんだって」と言って、頭に浮かぶ言葉が漏れる。「それに、無いほうが……」案外僕のイメージにピッタリなのだ。
「……?」
「いや、僕はマネキンのとか、球体間接の腕でも貰いますよ」貰えばタダだし。頼めば一本くらいくれそうな人がいるからな。
「それに、あなたは良かったんですか?他人の腕。気持ち悪くないですか?僕なんかの左腕」
「ああ、……最初は、混乱しました、色が違うし、動かなくて、でも、無いよりはマシです」
 そういって少女はだらんと垂れているやや濃いめの肌色をした、不釣り合いな長い腕を、右手でさする。体毛……つまり腕の毛は剃り落とされていて、ホルモンの影響か、それとも栄養やらの巡りがまだ万全ではないのか、肌は毛が伸びてはいない。 と、ほんの少し僕の移植片に気を取られていたが、なんだろうこの会話。
「それはよかった。『要らなかった』なんて言われたら、どうしょうもないからね」
 足りない位で都合がいいという人とどれだけあっても足りないという人がいるからね。ついでに僕は前者だと思っている。こういう言い方は正直、後付けの設定というか、美化しているような感じだが、「僕には腕2本は多すぎた」とか、そんな事を言ってはぐらかす。そんな事を言って片付ける。
「それって重症じゃないですか」
 あはは。
 少女は僕の言葉を冗談と受け取り(実際冗談のトーンで言っていたのでそれで正解だ)、そんな風に笑って見せた。
 笑顔だ。事故の前の性格は知らないが、特に問題もないくらい、明るい性格だと思う。普通なら事故やら左腕やらで、ヒステリックになったっていいのだが、この“動じなさ”は何だ?
 少女に対して、見舞いにくる客も少ない。
 こんなに明るいのに……?

 違和感。

「いやいや、なんて言うんだろう……ほら、もっと幻想的な願望というかさ」
 そんな事を考えながらも、別のタブでは会話文を作成していた。が、頭がいっぱいで、やや逸れた話しを振ってしまった。
 1拍くらいの間。

「羽が欲しい……とか?」
 暫くの思案の末、取り出した答えだろう。少女はまったりとした明るい口調で。そんな返答をした。
「うん……?鳥のように空を飛びたがる、魚のように海を泳ぎたがる…そんな風に人間らしくない体に憧れる人はいっぱいいるよね」 取り繕って、逸れた話しの方向を修正に掛かる。
「逆に、足りないという事に、欠損している体に魅了される人だっているんだよ。世間体を気にして、口外はあまりしないだろうけど」

 たとえばミロのビーナスなんかは腕がない。昔、様々な彫刻家が『ミロのビーナスの腕はこんなポーズをしていたんじゃないか?』って、両腕を創ってみたらしい。しかし、どれも美しくなかった。ミロのビーナスが美しくあり続けたのは、腕がないという事実の上で成り立っていたんだよ。
 この話しは、欠損に憧れる人の心理を説明するのに分かりやすいと言えるかもね。と、続けた。そして、そのきらいがあるらしい今の僕の感情を少しばかり話してみようと思うのであった。

「これもまたどうしようもない例え話なんだけど。たらればの話だけど。僕が鍵だとして、鍵穴を通るとき、とうしても左腕がつっかえて通れないことがあったとする。でも、鍵穴には嵌まりたい。いや、嵌まらなければならない。だって鍵なんだからね。そういう時、左腕は要らないんだ。……取捨選択というやつだね。まぁ、左腕に限った話しじゃないけどね、脚だったり、時には全身だったり。扉を開くための条件のような、あるいは門をくぐるための交通費みたいな」
 広く言えば、情報料みたいなもの。
「向こう世界に入る時、扉を開けるとき、門をくぐるとき。人間は淘汰される必要に迫られる。新たな鍵になるために。あるいは淘汰された部分を鍵にするために。そしてそれを引き換えにして新たな世界を覗き見ることが出来るのだ。全身を引き換えにしたら、覗くどころか、その世界の住人だ。どちらが鍵か。とか、そんな事はどうでもいいことなんだ。だから先に言った、『僕が鍵だとした場合』の他に、もちろん『犠牲になった右腕を鍵にする場合』もある。本当に、どちらでもいいんだよ。現金かクレジットかの違いと思ってくれれば。船か飛行機でも。とにかく」
「何かを失った人間は、『失った』という過程を通じて、垣間見る世界があるんだよ」
 僕にも確かな事を伝えることは出来ない。だって、少なくともこれからの事だからね。予想に過ぎない。なにかの絵本の話かもしれない。僕はその覗き見ることができる世界を、今の所楽園と呼ぶことにする。……そういう観点から見ると、もしかしたら僕は君の楽園への道を、奪った事になるかも。君のを奪ってしまったかも。
 現実では僕が君にあげたのだけれど。そういう所は反比例しているのかも知れない。
 でも、君は君の左腕を失って僕の左腕を得た。思い上がりみたいな話しだけれど、僕はおごっているのかも知れないけど。君は僕の左腕という、楽園への鍵を、それはそれで、きちんと手に入れているんじゃないかな。なんてフォローを入れてみる。……そんな大層なものには見えないけどね。なんてフォローを入れてみる。
 歪な形をした、二人の歪な春休み、それこそが、あるいは僕が覗くべき世界の一辺なのかもしれない。

004

 そう言えば名前を聞いてない。
「あのさ……」と僕は言った。「押し付けがましいかもしれないけど…」実際、腕を押し付けたのは事実でしかないけれど。
「……赤の他人っていうままではいれないし、自己紹介とか」しようか。
 これ以上なく押し付けがましい自己紹介の催促をしてしまった。自分なりに丁寧な言葉をチョイスしたら、むしろいやらしいくらいに自己紹介を強要する形になった。「えぇと……」
「あぁ、そうですね。えっと、私は(ゆう)樋野(ひの)夕です。樋口一葉の樋に野山の野、夕日の夕」
 せめて先に自分から自己紹介をしようと言葉を選んでいたら、先に少女、つまりは樋野夕が自己紹介をしてくれた。いよいよ救いようのない人間だ。段取りの悪さに自己嫌悪すること容易い。さておき、ふぅん、夕か……。
 そうやって頭の中に少女の名前を刷り込む。
「僕は貝木(かいき)黄葉(こうよう)。イチョウのほうの黄葉だ。うん。まぁこれからもいろいろあるけれど、仲良くしてくれると嬉しいよ」

「黄葉……ですね。はい、これからもよろしくね」と、少女…いや夕は軽く微笑んだ。

 数日後。

「その本……なんですか?」
 同じ病室での生活はいたずらに過ぎていて、三日の月日を浪費した、らしい。
 らしいというのは意識回復後も検査に検診にと、自分の時間が無く、体感では一日程度なのに三日経っているというのを納得できてないからだ。
 不服である。というか、よく出来たよな。移植手術。状況が状況、とはいえ本人の同意とか後回しで先に手術とか、病院の対応に問題を感じるが、まぁ、そういうものか。
 いや、願ったり叶ったりだけどね。腕についても、少女、もとい夕についても、我が生涯に一片の悔いなしってところだが、ベッドにつけられた机の上に散乱した移植の事後承諾の手続きの書類には、それは逃げたくもなる。ので、本を読んでいた。本を読んでいたら、夕が話しかけてきたという次第である。

 少なくとも僕らの関係は赤の他人ではなくなっていた。

「あぁ、これ、カバンに入れてた本だよ、家に帰れなかったから、入ったままで」
「そう……というより、書類はいいの?私が言うのもなんだろうけど」
「小休憩だから、今日中に出せばいいらしいし、ゆっくりやるよ」
「へぇ」と夕は言った。

 まだ少し素っ気ないやりとり、相手の肩を肩で撫で合うような、奇妙にスルスルした会話。もっと食い込んだ話をしたいな。まぁ、朝もまだ早いし、頭が働かない。ついでに時間は午前7時前。夕はリハビリの時間が迫っている。
「私、そろっとリハビリなんで」
「あ、うん。頑張って、一応大事に育てた腕だ。動くはずだよ」 そう言って僕は右手をひらひらと振る。

「……なんとなくだけど、黄葉さんって面白いですね」
「そうか?」
 ちょっと以外な指摘。そう言われたことはあまりない。
 ほくほく。

「はい、素っ気ない感じなのに言ってることが可笑しくて」
 と、夕ははにかんで、「あぁっ、時間ないや、それじゃ」そう言って慌てて扉の向こうに消えた。
 ……可愛いのう可愛いのう。
 これは我が世の春が来たな。と感じずにはいられない春休み。
 ところでリハビリって、痛いのかな…
 夕が病室を出てから数分、なんとなくそんな事を考える。僕のリハビリはボケた頭の回路を繋ぎ直すストレッチみたいなものだが、夕のはもっと大掛かりなリハビリだろう。
 「身体の自由が利かないのはもどかしいし、ストレスだ」というのは知っているが、腕を拒否した僕はまるでそのリハビリを逃げたかのように見える。なにより、夕は他人の腕を押し付けられて、左右非対称の両腕になって、本当にそれでも『無いよりはマシ』と思っているのだろうか。

……まぁ、いいや。

 こればっかりは、どうでもいい。ほんとは気にかけるべきでもあるけれど、うん、どうでもいいことにしよう。

≪回想≫

 ユートピアとは人々がこの世界に満足がいかない、不満があるときに夢みる妄想である。妄想の中のユートピアを歴史の画家たちはカンバスに写し取ったことが幾度となくあるが、それらはどれも、緻密で細かいところまで神経は行き届いている。
 それは妄想を鍛え上げた画家が伝えたい世界であり、ユートピアという世界そのものをより明確に模写しているからだ。
 その緻密でどこを見てもピントの合う、ユートピアという世界は、ただただ世界としての『風景画』として『スケッチ』されており、ユートピア世界にも曖昧な輪郭がない、はっきりとした存在を表現している……。
 世界を表現するにはどこまでもピントがあっていないと……。

 ポリゴンじみた裸の男女が、青空の下で麻薬の花の香りを吸っている絵を見ていた。
 牧歌的で、破滅的で。
 衝撃を受ける。

 ユートピアとは、世界の終わりと共に、新たな世界の始まりを表現している。
 左腕のあった世界が終わり、新たな世界になった……のだろうか?もっと根底のなにかが崩れ、新しい何かを構築していく…のだろうか?

 これは誰かによってもたらされた伏線?わからない。

≪回想・あるいは読書の終わり≫

 本を読むのもほどほどに、病室を出て、病的なまでに清潔な廊下を歩く。そういえば術後、起きたら病室だったし、リハビリ以外で歩くのは初めてか。…というか、一応安静にしてなきゃいけないもんな、まだ脳挫傷の経過が気になるとか、そんなところだろう。

 今日初の二足歩行はお尻がくすぐったい。どうやら読書の間に座りすぎていたらしい。
 いままでの経験(つまりは生きてきた17年程の経験則)だけで、脚を進めると、あれ……?
 世界が傾く。

「な?な…?」

 右側に傾く。傾く。……急な転倒に身構えるが、左腕がなくて床に倒れた。左腕跡地(あと)と頭を打った、痛い。縫合が崩れたりしたら……と想像してゾッとする。
 そーっ。と確認してみたが左腕跡地の縫合は無事らしい。包帯が守ってくれた。めちゃめちゃ痛かったが。無事らしい。少なくとも無事じゃなくても大事ないようだ。
「……~っ!」
 しかし痛い。頭の痛みが後から来る。その痛みが一種の気付けとなって、冷静に頭が働いた。奇妙なものである。あぁ、重心が合わないのか。
 今の僕……と言うか、これからの僕は言ってしまえば夕よりも左右対象ではないのだ。左側が無いぶん右側が重い。……というかリハビリで教えられたただ一つのことである。寝ぼけているのか。挙げ句には頭の痛みが消えるまで立ち上がる気力がないまま、通りかかった看護婦にベッドまで引っ張ってもらった。だから床はツルツルなのか……(看護婦の笑みは終始ひきつっていた)そういうことも含めての安静だったらしい。振り出し(病室のベッド)にもどされる。賽の目が悪かったようだ。
 ベッドの上に一人。
 どうやら僕ももう少しリハビリが必要なようだ。頭のじゃないぞ。……うぅむ、しかし、リハビリもタダじゃない。きっと親は金額をみてリハビリは最小限にしたのだろう。姉は今頃ほくそ笑んでいるに違いない。そういえばその姉も、実はちゃんと見舞いに来てくれたのだそうだ。僕はそのとき意識不明だけど。それに、あの姉のことだ。心配はされなかったが、「腕無いじゃん」と、幾分引いていたらしい。引きまくりだった。引きすぎて後退りで病室を出ていったと言う。ムーンウォーク。

「……守銭奴め」
 まぁ、まぁまぁ……確かに。
 放任的な親だけれど、それを無しにしても歩くだけなのに金なんて払いたくない。…ん?これってなんの問題もないように納得してるけど、親の教育の性で自分も守銭奴に成っているんじゃないか?
 うぅ~ん……教育とは洗脳だな。恐ろしい。
 苦労してベッドから降りると右手で手すりを掴みゆっくりと歩く。
 賽は投げられたのだ。振りだしに戻されたからといって、そこで終ったわけではない。また始まっただけだ。
 ついでにゴールは、トイレかな。とりあえずトイレまで行こう。早く気付いてよかった、尿意を感じてから歩けないことに気付いても遅いのだ。カテーテルの痛みが引いてからも今だ尿意が薄いが、それなりに水分は補給している。
「尿瓶……か……微妙だなぁ」
 看護師でも看護婦でも気まずい。しかも場合によってその間向かいのベッドの夕の視線を含めて気まずすぎる……いや、夕の視線はいいな。ゾクゾクする。が、やはり尿瓶なんてとてもじゃない。
 確固たる意志で歩く。尿瓶は駄目だ。うん。夕の視線は一時の快楽であって、後には春が終わる。僕は桜を散らせるわけにはいけないのだ!
 バランスを取れないだけで歩くスピードはいつもと変わらない。なかなか好調だ。やはりリハビリなんて要らなかったな。

 今思えば、この余裕から間違いなのだが。

「うわぁ……」

 どうでもいいことだが、僕には重要な事だ。このトイレ、左側である。しかも僕からみて左側で、女性用・男性用という並び。どういうことかと言うと、僕は車線変更のために手放し運転をしなければならない。今まで上手く歩けていたのは、壁という恩恵を受けていたからでこそなのだ。そう。今まで僕は壁に体重を支えてもらいながら歩いていたのだ。
 病的なまでに白い、清潔な壁によって“あんよ”が出来ていたのだ。
それがどうだ。手放し運転だと?
それはため息の一つくらい出る。しかし同時に僕は燃えていた。
 ため息を出している僕ではあるが、燃えていた。矛盾しているとは思う。天の邪鬼なのだ。
 僕はもう手放し運転だろうと酒気帯び運転だろうと舐めてかかれる。好調な出だしに味をしめていた。
 人間とは常に愚かで、恩恵を受けている間は、それが恩恵であることを忘れてしまうのだ。壁という恩寵を自ら離れて、愚かにも僕は二足歩行を始めた。

005

 その後の僕は、一言でいうなら『舐めていた』。いや、いろいろと、この手放し運転を中心に。 恩寵を舐めていた。
舐めていた。女性用トイレの床を。
 最悪だ……後一歩前に進めさえいれば男性用トイレの床を舐めることが出来たのに…っ!…と、自分でいうのもなんだが、自分は愚かな人間だったと言えよう。恩恵、恩寵を忘れる奢った人間だったのだ。
「!?」
視界上方から見えるものに僕は絶句した。
 煙硝子で隔てられた(トイレの入り口の壁は煙硝子を嵌めているという造りで、通路はコの字に折れている)女性用トイレの向こうに誰かいる……!
 このままでは最悪だ。男性用トイレの床を舐めたがっていた時点でアウトだが。いや、実際は表現だ。『まるで舐めるように……』的な文だから。
 さておき。やばい。
 ジャーという水音、手を洗っているのだろう。水道水が排水口に流れる籠った音が、僕はタイル張りの床に耳を当てているのでよく聞こえる。『そんなことをしている暇があるなら今のうちに逃げろ』と言われそうだが、この状況で不用意に動くと、相手に気づかれてしまうようで、なかなか動けずにいるのだ。今の僕の脳内では、このまま倒れて体調が悪いと嘘を通せば、相手も理解してくれるかしらん。と策をこうじているのだ。
 すぐ後にキュッキュッという金属の擦れる音、これはおそらく蛇口を閉める音……。
 煙硝子の向こうのシルエットがこちら(出入り口)に向かってくる。
「……あ」
「……あは」
 (ゆう)だった。やった!助かった!見ず知らずの他人だったら今頃どうなっていたか。状況から考えて、今の僕を他人が見た場合、トイレにいく途中で倒れた患者とかに見える(のか?)。しかし、偶然にも他人ではなく夕から見た場合、僕が健康体である事を知っているので女性トイレに忍び込む変質者と言ったところか……。
 …ん?夕の見下ろす瞳がいやにひやりとしている。きっと床のタイルが冷たいから、何もかもを冷たく感じるのだろう。
「……貝木(かいき)君。覗きはよくないです。引きました」
助かってなかった。というか他人の方がまだ助かったであろう。
「え?……ぁいや……違うんです」両手(のイメージだったが片手しかなかった)を前に出して掌をブンブンする。かなりシュールな光景だ。未だに僕は起き上がってないのだ。
「あなたには恩を感じていたけど、今は不信感を感じる」 その顔は『気持ち悪い』と書いてある。頬に。でかでかと。
 おいおい……ということは、目の前に転がっているのはとてもとても、それはそれは気持ち悪いものということだぞ……?
 例えば、トイレのタイル張りの床になんの抵抗もなく頬やら全身やらを擦り付け寝転がり、煙硝子が嵌められた女性用トイレとの壁の下、僅かな隙間から覗きをする可哀想な人がいたとか、そんなレベルでの『気持ち悪い』だぞ?
 僕か?……いや、さすがに違うだろう。そう願いたいが無理だった。
「僕も危機感なら感じています。ビンビンです」
「ビンビン!?……最低だね。『今までの世界の終わりと共に新たな世界の始まりを表現している』って、こーゆー事だったの」
「その話し君にしてないよね!?」なんで人の回想をあたかも会話したかの様な記憶に改竄している!「だとしたら最悪だぞ僕。違うんだって、左右のバランスが取れなくてさ」
「でも、私と目があった瞬間『……あはっ(変な笑顔)』はないと思うよ。引くよ」
「笑ってねぇよ!」僕は言った。笑ってねぇよ!
 いや、助かったと思って安堵の笑みを自分でも気付かぬうちに浮かべたかも知れないが、普通の微笑みだ!変な笑顔じゃない筈だ。
「まって……僕このキャラで行くの?」
 勘弁してくれ。っていうか、夕も敬語じゃない素の口調だし。まぁ、それに関してはいい傾向だと言うことにして甘んじて受け入れるけど。しかし頭痛がしてきた。頭を打ったからか。床が冷たく硬いからか。
「リハビリのため患者の服で、ズボンだよ。残念でした。それともナースのが見たかった?」
 私服もズボンの癖にぬけぬけと…僕は夕をひきつった笑みで睨んでみた。
 ちなみに僕はまだ床に這いつくばっている。勝負は決した。
夕は床のマットを軽く踏んで微笑んだ。

006

「スミマセーン。起コシテ下サーイ。」
 普通に自力でも起き上がれるけど、なんとなく信用がた落ちの株価大暴落なのでコミュニケーションを続けるべく、そんな冗談を言ってみた。相手、つまり…(ゆう)だって、あろうことか僕の跡地(あと)を踏んだのだ。言いたいことは2つ。まず、いくらスリッパを脱いだ裸足だからって、踏むのはどうかと思う。そして、跡地を踏んだのだ。軽く踏んでいたとしても、ひどく神経がざわつく。傷口を踏むな!

 ……まぁでも、章を跨いでしまったので、“そういういざこざが解決しました”という体で、次に続く夕の言葉は『しょうがないなぁ、早く立って』とか『自力で立てるでしょうが』とか、とにかく仲違いが多少収まっている体なのだ。いざこざは省略して、やや仲直りできたとこからスタートしている。もっと罵られても構わなかったのだが、長くやってもグダグタするし、中略ということで。
「嫌ですよ。ばっちい」

 中略不可能。

「嘘だよね!?『006』出てたよね?さっきまでのいざこざは一旦解決した体で話し進んでくれるよね!?」これ以上の変態属性の定着は阻止せねば・・・!

「あぁ……すいません。もう一回下さい。」
「……。」と僕は口パクで、台本読んどけ。と、言った。台本なんてもちろんありはしないが、夕が読唇術を心得ていたら僕は今頃殺されているかもしれない。少なくとも暫くは床のマット扱いだ。

006

 異例だよ……いっそ『007』にしようかと思ったが、世間では節約が流行っているらしい。そして『ダンシャリ』とかいうやつも流行っていた。いつまで続くかは知らないが、その流れに従い無闇な無駄遣いはすまい。

「すいません。起こして下さい。たとえばっちくても(ゆう)様は徳のある人だと信じてます。」
 マルグリット・マリーみたいにとまではいかなくても良いから。せめて善人であってほしい。切に願う。

「……手を貸すだけですからね」
「ありがとう。左腰と右肩を……」
「ピンポイントだね、こうかな?……と言っても左腕は動かないから、全然持ち上がらないけど」
「うん。まぁ、話を途切れさせないための間繋ぎみたいなもんだったし、自力で立てるけど……!?……っ!!」
 !!?
 何が起こったか、ぞわっと、ぞわぞわびりびりと全身に電流が走る。説明させてもらうと、なんとあろうことか、左腰ではなく右腰、とはいえ夕の左腕は動かないのでそれは問題ない。本題は、問題なのは右肩ではなく左肩に…左右逆に手を貸してきたことだ。今、僕を後ろから手を回して起き上がらせる時、夕の薄い胸板にか体が当たり、やきもきしていて油断していた。胸板に触れているのはまさしく左腕跡地(あと)だ!

「……!」
「どうしたの?痛い?」

 本当に悪気はないのだろうか。でも包帯ぐるぐるの場所を触るか普通……。マット扱いに味を占めて縫合跡だと言うことを忘れたのか?
 触るな危険!

「いや、痛ったくは……ないけどっ……ッ!」いや、厳密に言えば痛みもある。って言うかめちゃめちゃ痛い。が、なにか甘い電流のようなものが包帯の下、真皮の表面を駆け巡っている。 痛みを包み隠す程の強さで。
 綺麗に丸められた傷口は桃色の真皮の膜に覆われているらしい、医者の説明だから知らないが、皮膚を深く抉ると残る傷痕のようなものが広がっていると言えば納得もいく。だって切り離したんだから、それは深い傷痕だろう。他人の皮膚を移植して張り合わせるにも、新鮮な皮膚がない。だから薄い桃色の真皮で包帯の下は構成されている。用は神経が半裸状態みたいなものなので、過敏になっている。
 神経過敏。伏線回収ではないが、僕にとって最早そこは、左腕跡地はある意味では性感帯なのだ。
 粘膜と同じくらいデリケートだ。触れるだけで、なんか身体が反応する……電流がはしるみたいだ。
「あっ!ごめん。そうか、傷口に触っちゃってた」『悪いことをしたね』という意思表示。傷口を詫びるように撫でる。
「絶対わざとだ……痛ぇ!」自力で立ち上がって見たものの、左腕跡地が帯電したかのようにもやもやとした感覚が覆う。というか冗談抜きで手術跡を弄るなよ…。
 右腕を夕の肩に乗せて体をくねらせる僕。それにより二人は対面している形となる。しかも割りと至近距離。
 歪な関係だ……(聞こえはいいがこれまたシュールだ)。さすがにこれ以上はいけないと。
 僕は夕からベイルアウトした。

007

 ふぅ……なんとかトイレで用を足すことができた。
 足すって言うと『さらに水を飲み込む』みたいだな。この場合用を流すじゃないのか?日本語は難しいなぁ。

 一人、三つ並んだ小便器の一つ手すり付き小便器に、ピサの斜塔のような体勢で用を流す。一時はどうなるかと思ったがまぁ、理解のある少女のようだ。説明の末、左腕跡地(あと)が大変デリケートであることをご理解頂けた。
 しかしあの目は引いていたね。不可抗力とはいえ、呼吸が熱っぽくなっていたから。対面で至近距離で喘ぐとか……しかししかしあれこそまさに呻くと言った方が正しい筈なのだ!

 溜め息。

 黒歴史だな。
「理不尽だな」
「まったく……まったくまったく……」
 引き轢かれと、忙しいなぁ。と不謹慎な悪態をついてみた。
 そしてまたあの廊下を、来た道を戻り病室へ。
 病室のネームプレートには僕と(ゆう)の名前しか表示されていない。病室のナンバーは特に割り当てられていないようだ。ネームプレートだけで識別するのか?珍しいと言うか、非効率的なローカルシステムだと言える。……まぁ、過疎気味な地域だしな。

 病室内にて。
 今、病室にいるのは僕と夕だけだ。なんとなく、気まずい。いや、別に今思い返せば僕は転んで、たまたまトイレでようを済ませて手を洗っているリハビリから帰る途中の夕を、見ただけだ。気まずいのはそう考えているからで、気のせいだ。案外話し掛ければ普通に返事もくれるだろう。ねちねち引きずるタイプとは思えないし。
「あのさ……」と僕は言った。
「はい?」
「悪気は無かったんだ、本当に」僕は頭を下げたまま、壊れて倒れ続ける鹿威しのような体勢で話しかける。「もう反省の鬼であります」とか、後半は感情のこもってない台詞だが、よりいっそう深く腰を折り、宣言通り反省の鬼を演じてみせるべく、土下座をしてみようかと中座して、止まった。
「すとっぷすとっぷ」どうどう。と夕が手で空間を撫でるゼスチャーで、僕を静止させたからだ。「あぁ~、べ、別に怒ってないですよ?冷静に考えてみれば確かに、腕が無ければバランス崩しちゃいますし」と夕はやや慌てて僕の土下座を中断させてくれていた。勿体ないことをしたな夕は、僕の土下座の希少価値を知らないのだ!
 こうして僕の初土下座は免れた。
 それより、なんだ……気にしてないのか、肩透かしだな。肩無いけど。
 僕は最初に見つけてくれたのが夕で助かったという嘘を伝えて、「あとさ、」と続けた。
「はい?」
「一つ提案があるんだけど、僕は素でこの口調だけど、夕も敬語とか、しなくていいからね?」と言ってみる。流石に他人行儀を続けるのはよくない。
「あぁ、はいはい」夕の声音は気が抜けたような、少し笑ってるようだった。

008

 次の日。カーテンに囲われたベッドの中心で僕は目が覚める。

  病院の生活は規則正しい。夢現で意識の少し剥離した、早い朝だった。夢の残照を頭のなかでかき集めようにも、水溶性の夢だったらしく、触れるたびにすり抜けて、溶け消えた。それは昔見たウォッカが氷の表面を滑る冷えたコロナを思い出させた。が、そんな記憶は何時のものか、わからなかった。
 斜め右、向かい側のベッドに傾いた天秤少女こと(ゆう)は寝ている。薄い緑色のカーテンで遮られ様子は見れないが、覗いてみようという気にはなれなかった。
 たとえ布団を剥いだ向こうの、無防備に括れや臍の柔らかなうねりや曲線を晒していても誰が見るか。患者服の緩いゴムのズボン、外気に晒される下腹部や股関節の根本の浅い溝など、ナンセンスだ。寝汗で貼り付いた髪の毛や、息をする度に微かに震える、小さく膨らんだコケティッシュな唇など、まるで興味はない。
「……」ナンセンスとハイセンスは紙一重。寝顔が見てみたい……!
 ほら、これはあれだよ、あれ。鍵を得たことによって覗く事のできる新たな世界ってやつだ。とにかくお腹フェチな僕は、股関節付け根と腹筋の丘の間の緩やかな谷や、程よく肉の付いた腹筋を反らせたときにでる、逆U字の浮かび上がるラインが好きだ。マジでご飯三杯とは行かなくても、おかずが要らない。いや、それがおかずか。
 ベッドから降りて摺り足で近付く、摺り足だとなんとなくバランス取りやすい。
 ここはあれだ、頭脳戦だ。あえて「朝ですよー」と言いながらカーテンを開ければなんら問題はないのだ。下心ではありませんというアピール。もしあられもない姿をまじまじと見ても、「しょうがないだろう?不可抗力だもん」とか言いながら進んで叩かれにいけば、後腐れは防止できる。『不可抗力作戦』だ。
 僕は生唾を呑み込み、忍者よろしく摺り足で。ずいっ、ずずいっ。と。カーテンを、掴み。
「ほら、朝だぞ~」平静を装いながら、僕の目には全神経が注がれていた。眼球には毛細血管くらいしかないはずなのに、大動脈でもあるんじゃないかというくらい、血走っていると思う。

 そこには、あどけない寝顔の夕が、無防備に括れや臍の柔らかなうねりや曲線を晒す。寝汗で貼り付いた髪の毛、息をする度に微かに震える、小さく膨らんだ唇。まるで。白雪姫のように眠る夕がそこにいなかった。
 あれ?
 もぬけの殻だ。布団はヤドカリが捨てた貝殻のように、あるいは飽きられて溶けるのを待つ雪の鎌倉のように。脱ぎ捨てられている。お腹はどこいった!?……と思った瞬間に、病室の扉が開いた。 目があった。そして僕は固まった。……どうやら夕はメドゥーサだったのか。
貝木(かいき)くん?」
「……朝?」
「朝じゃなくて夕だよ?」なにしてるのかな~?と笑いながら首を斜めに傾いで(ここらへんも傾いた天秤少女たる由縁か)。

 苦笑い。
 僕は黙秘をしていた。するしかなかった。
「何してるのかな?」改めて問い詰める夕は笑っている。何が面白いのだろう。
「お、起こそうと思ってさ。ははは……なんだ。先に起きてたんだ」ははは。
 少女が近付く。表情は微笑んでいるが、なんだろう。例えるならそれは、最早微笑みではなく切れ込みだ。一体なぜだろう。もはや口とも目とも認識できないような凄惨さ、末恐ろしさがある。
「何、してるのかな?」仏の顔も三度まで。次がないぞ。なんとか弁明をしなければ。この人、阿修羅にでもなりそうだ。こわいこわい。
「誤解だよ。寝顔を見ようとかそんなのはないない……」
跡地(あと)に手を伸ばす夕。それを見て言葉を詰まらせるが遅い。僕は凄みに気圧され動けなかった。中指だけで包帯の外側からトントンと叩く。じんじんする。
「あうっ……っ!」
「そのまま動かないでね」
 僕の呻きを遮るように夕は命令をしてみせた。そして不適に、フフン。と笑い。手を離した。……手を離した?
「?」僕は疑問に思い夕を見つめた。決して触ってほしいというおねだりではない。これは本当だ。
 表情は、というより、纏っている雰囲気やら、眼差しやらが、真剣だった。何故か、あんな所作でも真剣だと感じた。『ベッドを覗こうが、寝顔を覗こうが、どうでもいい。そんなことよりこれを見ていてくれ』そんな感じ。
 少なくとも、これからやることは真面目なのだろう。どうやらお仕置きはトントンだけで終了したようだ。
「ちょっとリハビリの成果をみてもらいたくてね、左肩……だして」
 大方の予想はできていたが、好奇心だけで僕は服を緩め、左肩(包帯は巻かれているまま)を見せた。夕も左腕を右腕で器用にはだけさせ(桜吹雪でも見せてきそうなはだけようだ。それは僕もだが)、縫合した僕と少女の境界線がありありと観察できた。
 僕は跡地で。
 夕は境界線。

 普段はまったく動かない、ただ垂れ下がっているだけの腕。
「……んぅ……っ」指先がひくひくと動き、まるで血が通い始めたような、そう。それはまるでいま生き返ったかのようだ。
 夕は右手で少しずつ腕を持ち上げる……前までは僕が自由に扱っていた腕…それが今、僕以外の意識の下、夕の意志の下、指先が動いていた。肩のほうは左腕の筋力で持ち上げることはまだ出来そうにない。
 認識はしていたが、いざまじまじ観察するとなると不思議だ。 旅立った左腕が、新たな宿主と共に、失いかけた記憶の欠片としての僕に訪れ、恐れながら、怯えながら、あるいは慈しみながら、触れようとしている。
「んん……っ!」
 夕は眉間に皺を寄せ、下唇を噛み、苦悶の表情を浮かべていたが、僕は何も助けなかった。言われた通り、動かずに夕を見届けている。
 少しずつ……少しずつ。
 近付いていく左腕。
 それが、いよいよ包帯に触れた。
「……っ」
 左腕は僕の肩に、不器用に、加減無しに手を置き、くしゃくしゃと撫でる。その度に僕の中で絡まっている神経たちが過敏に反応する。感想を言うとするなら。指と言うより鉄のような、ひんやりして、冷たい感じがした。
「前から触ってみたかった……、今はまだ感触を捉えきれてない気がするけど、リハビリでなんとかなるかな」
 ふぅ。
 だらん。と、少し色素の濃い左腕が垂れ下がった。こうやって見ると左腕がやはり長い気がする。筋肉が延びているのを計算して、肘間接までは左右対象なのに、肘から下の長さがやはり違う。骨の長さから違うらしい。爪の形、皮膚の質感、微細な違いが違和感を浮かべている。ディテールの醸し出す雰囲気が、左右の腕で違う。
 なんか、歪だ……。そんな思いと共に、言い様のないほど儚げな、愛おしい気分に襲われた。

009


 病院のシャワー室から出ると、廊下で看護師が待っていた。
『包帯替えますよ』
 僕はいつもどおり包帯を替えるだけだと思ったら、その場で医者は経過を見て、新しい包帯を巻くことは無かった。右腕だけでは外すことも出来なかった包帯を、今日で外すことになったのだ。
 唐突だ、まだ心の準備が付いてないのに。というか、もう外しちゃっていいのか?早い気がするが、『絆創膏は貼らないほうが早く治る』みたいな感覚か?
 傷口は普通に触っていたから大体の感触から、骨やら肉が出ているはずはないだろうど何となく分かっているが、包帯の下は初めて見ることになる。ちなみに、包帯を替えるのは毎回、シャワーの後に行われるが、敢えて見ないようにしていた。
 お楽しみにしていた。だから今日からは包帯という目隠しも無くなるので、事実上初めて見ることになる。僕らの病室に戻り、(ゆう)が黙って見ているなか(ちょっと興奮してないか……?)。上半身裸になり、看護師が包帯を外していく。包帯の留め具を外すと、後は簡単。スルスルと林檎の皮のように包帯がほどけていく。
 跡地(あと)は、一言で言うなら、いや、形容するならこうとしか言えない。ただ、粘土を、丸めたかのようだった。
 分かっていた。それに、望んだ姿だったけど。かといって驚かない訳でもないし、正直少しショックだった。
 自分でもわけわかんないくらいだ。面倒な性格だと自嘲してしまう。ショックである意味や理由なんてわからない。ただなんとなく『あ~ぁ』って。しかし内面とは裏腹に、医師はやはりこの様子ならもう包帯は要らないとのこと、診断によれば膿んだりもする心配はないという。本当かよ、結構荒治療だったぞ?外気に触れた左腕跡地はスースーする。
 真皮特有のやや突っ張った薄桃色のそこは、艶々していて、僕の体の一部という実感が、これでもまだ湧いてこない。まるでプラスティネーションのようだ。
 とはいえ、腕も解決(?)したし、あとは体力の回復とかして、そのあとは退院して普段の生活にもどる。夕を置いて?
 僕はその疑問と共に夕を見つめたが、珍しく傷口を見ずに窓越しの外界を見ていた。視線は合わなかった。
 間。
 看護師たちが病室から出ていったあと、少女と僕の二人だけが、病室に存在していた。ちなみにちなみに、夕は包帯を取る一部始終を見ている。さらに言えば、毎日包帯を替えるときに夕は僕を視姦してくるのだ。敢えて見ないようにしていた僕より見ている…きっと傷跡フェチかな?上半身裸で包帯を取られていくのを見られているのは、普通に恥ずかしい。只でさえ看護師に半身を晒けだしているのに。
 しかし今回、僕の回復を確認した後、夕はおそらく始めて傷口を、つまりは跡地を見なかったのだ。
 まるで音叉のように重苦しい沈黙は拡がっていく。いつもは僕から「恥ずかしいから見るな」とか言って何時もの雰囲気に戻っていくのだが、僕は何となく『あ~ぁ』ってテンションになってしまったし、実際夕は見ていなかったので沈黙してしまった。
「やっぱり、退院するのかな?」と唐突に夕はそんな事を呟いた。重苦しい沈黙というのは、案外僕の中だけの事象だったらしい。とは言えず、沈黙によって生じた言葉だと言える。
「たぶんね。腕が無い以外は何も問題ないし、患者じゃないのに入院は出来ないだろ」
「これからは……一人、かな?」
「…?」
 なぜだろう、その声は、その声だけは嫌に心に刺さった。僕が弱まっていたからか、あるいは僕を弱くする言葉だったからか。
 そういえば、少女の親がお見舞いに来た所を見たことがない。察するに、何か理由があるのか。かなりの放任的な親か、放棄的な親か。
「隣いいかな」
 僕は返事をする変わりに右側に詰めてベルトの上で胡座を掻く。ベッドの上で座っている僕の左側に、僕に背を向けて座っている夕。
「別に明日退院とかではないし、だいたい。この前まで面識のない他人同士……」その関係を断ち切ったのは誰か。僕は言葉を詰まらせる。
「うん……」
「だけど、今では僕の身体の一部が君にある。関わりとか、そんな次元じゃないというか」
「……」夕は目を合わせてくれない。
「……ラウンジ、行こうか」

010


 他の病院にはラウンジというものがあるかどうかは知らないが、この病院、ラウンジがあるのだ。逆に中庭とか、そういったものはないのだけれど。僕の通う学校にはラウンジがあったので、病院より高校なんかの方が多いのだろうか?
 まぁ、どちらも机とパイプ椅子がある程度で、高級感なんかは求めるだけ無駄である。清潔感があるだけ病院の方がマシか。

 ラウンジにて。
「楽園の鍵、代償を払った僕たちは、どこへ向かうべきだと思う?」
 僕は思い付いた言葉を、ただ吐き出した。冗談じみた顔で、声音で、おちょくるように言ってしまえば、そのうち話題も移り変わると思ったのだ。
「いきなりそんなの、わかんないよ」
 (ゆう)は向かい合って、丸い机を挟んだ反対側で腕を組んだ。動かない左腕を右腕で絡めていると言った方が正しい。
「楽園っていうのはね、どこにもない場所なんだ」
 絵本の言葉みたいに、そんな語りかけで、話を続ける。
「……じゃあどこにあるの?」
 夕も至極真面目に聞いてくれた。僕は得意気になって話を続ける。
「今、ここではない場所、そこが楽園である可能性もあるけど、それって無理だよ。今ここではない場所は、次に現れる今の場所なんだ、」
「……?」
「つまりどこかに行く必要は無いかも知れないんだ。頭の中で、そうだな…たとえばあの自動販売機の前に立つ自分を想像してみて」僕はラウンジの中にある自動販売機を視線で示す。
「??」
「まぁ、簡単に言うと、その自動販売機の前に立つ想像上の自分は今ここではない場所にいるんだ。ようは思想だよ。楽園、ユートピアは頭の中に存在する。空想家や夢想家はユートピアンと呼ばれていたりするしね」
「なんか、不思議な話だね」
「うん。不思議だよね。何故かみんなユートピアを見失うんだ。子供の頃とか、今は覚えていないだろうけど、その時には誰しもユートピアを知っていたんだ」

≪以下回想≫

 夕は、僕のおとぎ話じみた、うわ言じみた、それこそとりとめもない。どうしようもない思想を。妄想を。
 ただただ、聞いていた。
病室での重苦しい話はなんとか終わり、話題は変わったのだ。

 『ユートピア』などと言うと世の人間は、『馬鹿馬鹿しい』だの、『聴いてるこっちが恥ずかしい』だのと、批判というか、大人ぶった態度でたしなめようとするけれど、それってどうなのだろう。社会でのユートピア像というのは、百歩譲って芸術性を持つもの程度の存在で、子供の頃や現状に不満を持つものが思いを馳せるユートピア像には踏み込まずにいる。自分から不可侵としてのユートピアを位置付けて、二度とは近づかない。
 大人の振る舞いをする。と、言ってしまおう。
 まるでそうすることで、大人ぶることで、思い出すことを諦めている気がするんだ。だって、そうしなきゃ自分保てないというか、こう、何て言うんだろう。せっかく自分を洗脳できたのに、元に戻すなんて。みたいな。

 戻ることへの怖さだけでは無いと思う。大人になることを強いられているんだ。選択肢が無いのなら。きっと有無なんてないし。強いられているなら、耐えられるんだよ。それに、ほら、選択肢が無いのなら、きっと諦めるでしょ?さらに言えば諦めるか諦めないかさえも、選択肢は用意されていない。
 諦めるしかないんだと思う。
 ユートピアについて、大人たちはもう諦めているんだ。いつかは誰だってユートピアから離れる。
 犠牲だろうか。成長の上での分岐点を選べるなら、犠牲ではなかったかもしれない。ユートピアを捨てる人間から大人になる。……と言うと、僕はピーターパンの話でもしている気分になるが、まぁ、大人と子供はそういった違いかと思うのだ。まぁ、犠牲だと考えることを諦めているから、自覚せずに済むんだとも思う。
 誤解を招いているかもしれないから、言っておくけれど、僕は大人を嫌っているわけでも、哀れんでいるわけでもないんだ。ましては、できることなら救いたかったなどという妄念めいた妄想をしているわけでもない。それについては僕も諦めている。
 鍵になるには要らないものは捨てるのだ。何を捨てるかでユートピアへのルートは変わってゆくのだろうから。
 ただ、僕がまだユートピアという世界の旗を手放していないことを理解して欲しいんだ。手探りなルート選択でも、まだ僕はユートピアを捨てていないまま。育んでいる。でも、大人、いわゆる諦めた人たちにそれを言っても無意味なんだと知ったんだ。
 長くなってしまった。長すぎて妥協しようかと思ったが、これで最後だ。
「君は、もう大人?」
 そう言って、僕ははっとした。
 ラウンジは静かで、人の入りは少なかったが、残響として、僕の独白めいたさっきまでの妄言が、かなりはっきりと響いていたからだ。きっと漏れ聞こえていた僕の言葉に、大人たちは恥ずかしい人を見る目をしていただろう。僕を見て、そんな目を向けていたかも知れない。しかし、夕は、嘆かわしいほどに、それこそ、僕の方が余計に恥ずかしくなるほどに。真っ直ぐに僕を見ていてくれたのだ。

 僕の独白は、告白だったようだ。夕は返事を返すのだから、まぁ、尋ねたのだからそれもそうか。ならなおさら、告白だったのだ。返事を待たない告白なんてない。
「熱に浮かされてたみたいに話してたね。それに、なんか…そういう話をするのは楽しいし、嬉しい」
そういう話ができる人ってまわりにいないから。と夕は言った。

≪以下、少女回想≫

 私、樋野(ひの)夕は要らないと言われて親に捨てられた。らしい。らしいって言うのはね、ただ覚えてないからで。
 生まれたばかりの私は保護施設に預けられたところから始まった。もっと前から私は始まっていたのだろうけれど、それは空白の歴史としかいえなくて、だから、私は保護施設から始まるの。
 ずっとずっと前、とある保護施設のところに、一組の、今の私くらいの年かな?まだ高校生くらいの、若い男女がきたんだってさ。
 それは、残念ながら、私を産んだ人にあたるんでしょうけど……。
 産んだからって、産んだだけで『親』だって、私には言えない。むしろ、産んだだけじゃない?『それでも私の親なの』なんて、言えるほど徳のある人間でもないからね。えっと話しがズレちゃった。かな?最初からズレてるよ。だから気にしない。
 私は話すのが苦手だからよくズレちゃって…そういえば、ズレるで思い出したけど閏年ってさ。って、今もまさにだね。ん、でもまぁ、かいつまんで話すとか、要約とかしたくないし、愚痴愚痴して、ぐちゃぐちゃしてるけど、全部聞いてよ。
 保護施設に来た……からだよね?そう。その男女。
 赤ちゃんの私を施設の人に押し付けて、黙って帰ろうとしたの。黙して、語らず。
 施設の人は『せめて、経緯だけでも』って、問い詰めたら、イライラしてたんだろうね。まだ未来がある男女なんだろうね。私が居なければ未来があるんだろうね。
 『たった一回で、産まれるなんて嘘だろ!』って、男が叫び散らして、女は泣き喚いて。……という有り様だったらしい。

 ……敬意もないね。

 呆れた施設の人もさ、『こんなのに親は務まらない』って、赤ちゃんを女の腕から奪ったんだって。赤ちゃん奪われて、普通喜ばないでしょ?
 今度は女が『ありがとうございます』って泣いて喜んだんだってさ。意味わかんないよね。施設の人は何をしても虚しいから、せめて、私を保護しようって。言ってくれたんだって。
 捨てる神在れば拾う神在り、ってところかな。神……ね、今は何しているのかとか、そんなことも考えられないけど、年齢を逆算してみると三十路は越えてるのかな、その捨てる神は果たしてどういう鍵穴を持って私を捨てたんだろう。あらら、またズレちゃった。とにかく、私参上!……そうでもない?そっか。
 なら、たった一回で悪戯に産み落とされた私参上!ってところかな。
 呼ばれてないのに参上ー。ってね。えへへ、冗談だから。そんな苦い顔しないでよ。
 だから、入院中にお見舞いに来てくれるのはいるにはいるけど、気持ちだけ受け取って、殆どは断ってる。有りがたいけど、私にとっては何か大きすぎて、受けきれない気がして。
 着替えとかは持ってきてもらうけど、いつまでも大人の保護を受けてはいられないから、学校の信頼できる友達に頼んでる。
 要らない子だって、友達くらい作れるよ。
 親がいないこと、もしかしたら気づいてたんじゃない?でも、あなたの親が一回だけお見舞いにきてたのを、影で見てたことは知らなかったでしょ?寝てたもんね黄葉(こうよう)
 今さら、親っていわれても、概念そのものが私にはないから、うらやましいとかはないの。なんてゆーか未知との遭遇みたいな。そのまま病室に近づけなくて、見てるしか無かったよ。

 黄葉の言葉を使っちゃえば、『鍵によって覗くことのできる世界』の一つとして、挙げられるんじゃないかな?意外と真面目に。
 本当に。
 私とって。

 把握できない異世界だったの。

 施設でやることがないから、いつも本を読んでた。たくさん読んでた。幸い施設の本はたくさんあったから。困ることと言えば、どれを読もうか迷うくらいかな。なんて。で、大体の本には物語があるでしょ?主人公の設定とかも背景として、その中に、当たり前のように存在する家族の陰があるの。
 家族のことについて書かれている文章だけは。なにか別の国の言語見たいで……って、話が合ってきた。
 えっと、何の話だっけ?そう、ユートピア。多分ね、多分だけど、私も持ってる。諦めてない。諦めたくない。

「黄葉が言うところのユートピアの旗なら、きっと持ってる。正直……馬鹿馬鹿しいなんて思ってる部分がないわけではないけど…持ってる。」

≪回想終了≫

 知らなかった。夕の過去。要らないと言われた少女の、家族に対しての価値観や、それに関わる言葉に対しての意味の違い。腕をもて余した少女、傾いた天秤の、夕の独白は正直今の僕には手に余るものがあったのだ。だから僕はただ夕の瞳から何か情報がないかを探ることしか出来なかった。
 夕はそんな僕を見つめ返す。
 誰もいないラウンジには、見つめ合う僕らしかいなかった。どんな意味を持っているかは別として、しかし、そう遠くない内に、本当に視線が繋がるときがくること、それだけはなんとなく、感じた気がした。
 ラウンジから病室へ戻り。僕らは眠った。ベッドに横になり、カーテンを挟んで、話し疲れるくらい話していた。

 早朝。夕はまだ眠っているのだ。僕としてはかなり早い起床と言える。
 洗面台の前、もう僕はこの身体のバランスに順応して、ふらつくことなく歩いていた。本当に問題なのはバランス云々ではなく、左腕がないことを自覚することだそうだ。
 それこそ細胞レベルで。
 たまに、それこそ日常の端々に見受けられる、どうしようもない偶然が、僕に訪れる時。それは例えば、歯磨きをしながらコップを手に取ろうとしたり、蛇口を捻ろうとしたり、在り来たりな生活のシーン。『もう一方の手でなにかをしようとした時』僕にはもう一方がないことをやっと自覚する。
 やる前から、『あぁ、左腕ないんだ』ではなく、面白いくらい気付かないのだ。『あれ?左腕どこいった?』くらいの感覚。認識。後遺症というか、過去の記憶の残照…と言うと、少し装飾過多な気がする。用は、感覚だけは未だに左腕を操作しているつもりでいるのだ。

≪敏感な神経のみる夢≫

 透明になった左腕が、それでも今までどおりにコップを掴み、持ち上げようとした瞬間。コップをもっていないことに気付く。それまでは掴んでいたのだ。いや、掴んだと脳が錯覚したまま認識しただけだが。まぁ、経験で話すとそんな感じで、この錯覚から脱出するために、自力でリハビリをしなければならない。『左腕は無いんだぞ』と体に教え込まなければ。それでも、最悪日常生活に支障はないので、大丈夫だ。

 うーむ。しかしそう言う考えはどうなんだろうか。自分でも滑稽とすら思える。あれだけ左腕を要らないと言っておいて、無くなってやっと不便さを思い知らされるとは。左腕にどれだけ依存していたんだろうか。たとえ無意識だとしても…。
 昔の僕に言いたいことがあるとするなら『腕が2本ある方がいい。淘汰する対象じゃなかったぞ』ということくらいか。
 歯ブラシをくわえ、空いた右腕で蛇口を捻る。全て右腕でやる生活。
「……。」
 こんなに淡白な朝だが、僕はニヤニヤして仕方がなかった。早起きは三文の徳というが、なかなかいいものを見せてもらった。
 まぁ、ごちそうさまといったところだ。
 リハビリ云々いっていた割に、いきなりニヤニヤしている僕を、いよいよ終わってるとか思うだろうけど、これはまったく関係ない。脈絡のないただの思いだし笑いだ。思いだしニヤニヤ。というのも、それは少し前のところから話さなくてはならないが。

思考・姉妹・脳内(前編)

 私は、双子の妹の立場を、お母さんの胎の中で知りました。
 それは自覚なのだそうです。自我とはまた違うものだと言います。「そもそも自我とは何です?」と、お姉さんに訊ねます。
私は頭のなかにお姉さんがいます。
 私は今から十四年前に、それは裕福な家の一人娘として産まれたのです。頭は少しだけ、病気になっていましたが、裕福な家の一人娘なら、そんなことは些細なことです。とのことです。

 ――一人娘かぁ、双子なのにね――

 難産でした。お母さんはあまり若くはありませんでしたし、それでなくても双子を産むというのは母体に負担がかかります。いえ、双子ではないですね。一人娘なのですから。
 あの……

 ――はい。何でしょうか?――

 ……いえ、私は十年と少しの間は不安定でしたので、上手に言葉が出来ないのです。

 ――知っているよ。私だって同じようなものですから――

 頭がおかしくて、私は身体を動かすことがあまりできませんでした。寝たきりです。でも、起きていました。頭はしっかりと起きていて、言葉を聴いているくらいは出来ます。覚えた言葉は頭の中でお姉さんと今のように話していましたし、外からは大人の声が届きます。だから、口から上手く声が出るようになると私はそれなりに言葉が出来ました。

 ――言葉じゃなくて、会話。だよ――

 すみません。私は会話ができました。あまり上手くないですけど、会話ができました。
 私は会話ができて、身体も動きます。脚はもうずっとおかしいけど、脚以外は眠っていました十年と少しの私より、すごくよくなったのです。十年と少し眠っていただけの眠り姫だとお父さんも言っていました。

 ――まだあんまり上手に話せないみたいだけど、すぐに良くなるよ。それで、手術で脚以外の機能は良くなっているんだよね。でも、未だに私と会話が出来る――

 そうなのです。誰も信じてくれませんですが、私にはお姉さんの居ることが分かるのに、お母さんもお父さんも白い大人の人たちも、誰一人としてお姉さんを見つけられないんです。

――……ふぅん。ねぇ?ちょっとそこどいて。私がそこに行くから――

そこってドコですか?お姉さんはどこにいきたいんですか?

――感覚の話。どこにもいかないけど、そこに行く感覚を働かせるの。あなたは私がいるところに向かうように意識して――

011

 遡ること一時間前。

 (ゆう)の魘(うな)されている声で僕は目が覚める。窓から射す光は夜明け前独特の不思議な深みのある藍色で、それを数秒間見届け再び寝ようとした僕に、夕の、なんとも言いがたい、魘され声が聞こえるのだった。
 というより。喘ぎ声だと、最初は思った。押し殺した喘ぎ声って、ね?
 言い訳として、少なくとも健全不健全に関わらず男性はそうだ。断言する。これはあれだ。夜中に喘ぎ声なんて連想することは決まっているだろう。そう考えるに至って、僕はベッドの上で、おっかなびっくり、起きたと悟られないように硬直していた。でも、だからといって、硬直しすぎるとかえって不自然なので、より睡眠中の動作に忠実(?)に寝返りを打ってみた。もちろんカーテンは閉まっているから、寝返りは意味を持たないけれど。
 異常に活性化してしまった僕の脳を、無理にでも睡眠状態にまで運ばなければ!
 目を閉じる。時計の秒針が聞こえる。静かだ。
「……いっ、ぅん……」

 呻き声(喘ぎ声?というより、呻きと喘ぎの違いが分からない)が響く。一気に眠気が消えてしまう。
 すぐ近くで、向かいのベッドで。頼りない布一枚だけで隠された、扇情的な情景が広がっていると思うと……ダメだ!眠らなければ!

「ぃた…ぃ……」
 ……?……痛い?
 痛いってそれじゃ自慰ではなく自傷じゃないか?というより、様子がおかしい。
 確かに痛みに悶えている声に聞こえなくもない。起きていいよね?これ、様子見ていいよね!?
 音をたてないように、パントマイム然としたぬるぬるした動きで、ベッドから降り、踵からぬるりぬるりと夕の眠るベッドに近づく。多少、音が鳴ってしまうがしょうがない。
 ここにきて僕は、どうやら夕は痛みに耐えているという認識に至った。
 閉めきったカーテンに隙間があるではないか。僕は前に向かっておじきをするような感じで腰を折り、隙間から様子を窺う。そこから見えるのは夕の背中だった。
 左腕を下にして寝返りをうって、時折声が聞こえるが、どうやら魘されているらしい。僕はカーテンをくぐり、夕の目の前に移動した。
 夕は左腕を股の間に挟み、しゃがむような体勢で眠っている。股に挟まれた手は、布団で目隠しをされていて、否応なく妄想を掻き立てる(一応言っておくが、患者のズボンの中に左腕が突っ込まれているわけでは無い筈)。うらやましいぞ我が左腕!変われ!僕が挟まれるから!……ではなくて、ふむ、どうやら挟まれた左腕が痛みの原因。もっと言えば、境界線が引っ張られて苦しいのかもしれない。見た限りではそうとしか考えられない。
 もしかしたらあの事故がフラッシュバックして、悪夢としてそれを見て魘されているかもしれない。
 とりあえず僕にできるのは左腕を救出する事だ。そのためにはまず股を開かなければ、いや、決してやましい気持ちでこんなことをやるんじゃなくて、こんなことをしなければならないから、副作用としてやましい気持ちが生じるんだ。結果としてやましい変態になってしまうけれど、誰かに見られるわけはない。
 深夜と早朝の繋ぎ目に、夕と左腕の縫い目を。誰にも見られなければ、変態ではない。むしろ善良な行いだ。
 ヒーロー的な行いなのに、誰かにみられてはならないなんて、ヒーローって孤独なんだなぁ……誰かに見られたら、ヒーローどころか悪役に一変してしまう。ヒーローじゃなくてヒール。
 こんがらがった関係図が出来ている。
「いたぃ……ぅん……」ギシッ。
 と、苦痛の色を滲ませ、ベッドを軋ませ夕は寝返りを打った。それにより毛布がめくれる。なるほど。自由に動かない左腕が、なかなか股から離れないようだ。そういえばこの左腕、他人からもらい受けたとか聞いたな。しかも男。どうやらこの左腕の主はよっぽど変態だったんだな。執拗に股に潜り込むなんて、下衆の極みだと言わせてもらおう。健全男子の風上にも置けない男の醜い執着が宿っているんだな。まったく、夕も大変だな、こんな左腕貰って、僕だったら『こんな腕いらない!切っちゃって!』って言うかもな。って、実際問題、僕はそうなったんだっけ。……ん?じゃあこの少女の左腕……。

 僕の腕でした。いやぁ、世界って狭い。でもまぁ、醜い執着が宿っているのかもしれないというのは否定できそうにないな。まったく姉の性だな……。
 さておき、さてさて、股を開かなければ。
 右腕で上の方の片足に手を添え、開きにかかる。…あれ?
「……ふっ!……おらっ!」小声で勢いをつけ、膝を持って開きにかかるが、開かない。そんなに力なかったっけ?
 脱力した足を片腕で持ち上げるのは意外に骨が折れる。単純計算で両手の全力の半分。さらに付け加えて言うなら一点だけを持ち上げるのは力学的に考えて力が伝わらない。二点から支えて持ち上げてこそ、効率良く力が伝わるのだ。つまり手が足りない。
 脚の間は頭一つ分の隙間が開いたが、夕の左腕は脱力を決め込む、ましては寝てる間に動くわけない。
 僕の心は早くも根を上げる。またここまで持ち上げる体力は恐らくない。つまり一回勝負で行かなければなのだが、右腕はふるふると痙攣しながら限界を知らせる。持ち上げてできた隙間も狭くなる…。待ってくれ!その前に左腕を股から救出しなくては!
 夕の腕に向かって左腕を伸ばす。…あっ。
 一体何回同じことを言えばいいのか。僕は、もう左腕ないのだ。つまり、持ち上げるために右腕を使ったら、夕の左腕を救うための僕の左腕がないことになる。
 股の間につっかえ棒的な何かを挟めば右腕はフリーになり、左腕を救出できるが、そんなものが有るとは思えない。
 何かを、挟む。枕は柔らかすぎて意味がない。もっと頭を使え、何かある筈だ。ん?……頭を使う?

 間。

 僕の頭部は少女の細いながらも柔らかい太もも挟まれた。頭を使うってそういう意味ではないのに。あるよね、こんなボケ。いや、頭を使って正解か。ちなみに割と真面目である。ついでに誤解はないように重ねて言っておくが、夕はズボンを着用しているので、今のように僕が頭を挟んでも下着などはちゃんと見えないのだ。しかし、女の子とはどうしてこうもいい匂いなのだろう。

 大丈夫だ。誰にも見られなければ、僕は変態ではないし。むしろ善良な行いとして、僕は記憶し続けるだろう。ヒーロー的な行いなのに、誰かにみられてはならないなんて。ヒーローどころか悪役に一変してしまうなんて。改めてそう思う。夕の左腕はその境界線が引きつっていて確かに痛そうだ。
 もし、夕が起きたらどうなるのだろう。就寝前にあれだけ仲良くなっておいて、夜中にこんな蛮行、いや、夕にしてみれば愚行としか言えないが、そんなことをされたら夕は僕の跡地(あと)に噛みついたりするんじゃなかろうか。そう考えるとゾッとしない。すぐに左腕を救い出す作業にうつる。

「ぅ……」
 右腕が夕の左腕を掴んで、股の間から引っこ抜く。どうでもいいが、幸せだ!女の子のいい匂いが毛布の中で籠って、かなりはっきりと匂いを感じる。
「……んぅ……」
「!!」僕は驚いた。
 まずい!起きる!?救出は終わったので僕は脱兎のごとく(ヒーロー的行いが神に伝わったのか、夕は起きなかった)恐ろしい手際で自分のベッドに戻り、狸寝入りを決めた。夕の苦しそうな喘ぎ声も無くなり、一件落着といった所だ。

 ……で、今に至る。
 歯ブラシを口にくわえたまま、右手を離し、その流れで蛇口を捻り水を出す。そして歯ブラシを掴み水で洗い、口をすすぎ、歯ブラシを歯ブラシ立て(?)に立て掛け、蛇口を締める。右腕が大忙しだ。マッチョになってしまう。
 さておき、まだかなり早い時間だ。どうしたものだろう。病室にはテレビがある。魅惑的だが、病室のテレビはカードを買わないと見れない。逆に言えば、カードがないので見ない。見れない。カードを買いに行くのはしんどいし、周りの好奇の視線は嫌なのだ。必要以上に浴びたくはない。片腕がないだけなのに。看護師にお使いをたのむほどテレビに依存してもないので、結果的にテレビは見ない。

「んっ……ん~」夕がカーテンの向こうで背伸びをしているのだろう。やっと起きたか。いや、時間は7時前なので寝坊というわけではないか。
「おはやう」僕は言った。おはやう。なんとなく自分の中で流行っているのだ。
 僕はカーテンで隠された、向こう側の夕に挨拶をする。すると夕はカーテンをシャーッと滑らせ、『おはよ』と、はにかんだ。ニマーッ。
 寝癖がついた髪の毛も、なかなか様になっている。
「寝癖ついてるぞ、中々様」
「誰が中々様よ、寝惚けてる?って、準備早くない?」
 中々様にはなっていなかった。それより。
「いや、準備とは無関係で、珍しく早起きできただけだよ」まぁ本当は夕の性だけど。
「珍しく早起きって、遠足前日の小学生みたいね。そんなに二人で出掛けるの楽しみだった?」ニマーッ。
夕は悪戯に笑う。

 準備。
 二人で出掛ける。
 そうなのだ。……わざわざその話題は避けて進んで来た。実は、さらっと言ってしまうと昨日の就寝前、かなり会話は弾んだのだ。自分でもビックリするくらい小粋なジョークも挟みながら、会話は盛り上がった。その際に、一緒に外出する約束をしたのだ。それだけ。しかし、まぁ、だからとは言わないが、こう言う背景もあり、僕は早起きしたのだろうと、考えなくもない。太ももの感触で興奮して徹夜とかではない。違うぞ!
「遠足前日の小学生は、むしろ眠れなくて遅刻するもんだ」僕は夕の冷やかしに対抗するため、そんな悪態を付く。
「じゃあ、初デート前日の夜?」
「そんな日の夜に早寝早起きって」冷めてるだろ。むしろドキドキして眠れないくらいがマナーだろうに。
「じゃあ、なんの前日の小学生さ」
「小学生前提か!?……そうだな、夏休みの、小学生。」
「じゃあやっぱり遊びに行くの楽しみってこと?」ニヤーッ。
「違う。これはもはや義務だ、嫌々やっているにすぎない」
「?」
「ラジオ体操の前日の小学生だっ!」
「何?」キシャーッ。夕が牙を剥く。眠そうな目とは不釣り合いかと思ったが、これはこれでいい感じだ。なんというか、冗談と理解している表情と言うか。

「じゃあ、私と出掛けるの嫌々ってわけ?」しかし夕は今度は急に元気をなくして見せた。
「ぐっ……!」途端にしおらしくなってしなったのを見て、僕の紳士たる部分が罪意識に苛まれてしまう。そんな顔するなよ……ズルいぞ。
「僕は楽しみにしていても、それゆえに生じる遅刻という問題を回避するために、むしろ早起きをする主義なんだ」
「土下座のわりに回りくどいよね、自分からお出掛け提案しといて…今なら裸足でその頭を踏んでしまおうかな?」
「ぐぬぬ」
 そうなのだ。そもそも提案者は僕であるのだから、こうなるとますます立場がない。自分の矮小なプライドはいよいよ救えないやつだ。大体。提案者が嫌がる訳がないだろうに。
 夕の一連の動作は全て演技だったらしい。
「一言言えば済むことでしょ?ほら」仁王立ちである。左腕は糸がきれているような感じで、右手に支えられている。
「ふんでくださいっ!」
「違うでしょ!?ほかの言葉があるはずだよ?」
「その御御脚(おみあし)を舐めます!」
「レベル上がったよ!?いいから謝って!割りと引いてるから」
「うぅー……ごめんなさいっ!!」
「ごめんなさい?もっと目上に対しての言葉を選びなさい」
「そ、その御御脚を舐めますから、是非御許しを!」
「お出かけっていうか、もうお手上げだよ……」
 お手上げ。
 ひらひら。

 土下座をする僕とお手上げする夕が、そこにはいた。訳がわからない。なんだ?漢字の成り立ちか?しかも結局踏んでるし。
 朝から元気なのも、きっとこの日を楽しみにしていたからだろう。

012

 昼下がり、僕は私服に着替えて病院の出入口の自動ドアをくぐり、外へ出る。外に出るのは例の事故以来初めてで、そういうのも、楽しみのひとつだった。
 僕が入院した病院は、僕の知らない街の大きな病院だった。救急車で、大分遠くまで運ばれたらしい。だからこの周辺地域も知らない。人通りも車の行き交いもすこし少なめのこの街。
「お待たせ。待った?」と、(ゆう)が少しばかり遅れて病院の自動ドアから外へ出てきた。
「いや、そこまで待ってないけど、何してたんだ?」決まり文句ではあるが、本当に待つ程の時間はなかった。せいぜい感覚にして5分くらいだ。化粧は見る限り薄いし、中途半端な5分の空白は素直に気になった。
「いろいろ。服だってほら、事故の時の服はダメになったから、新しいのを捜してたの」
「ふうん。確かに、事故の時の血塗れの服は使えないしな、たしかカバンに服を入れて持ってきて貰ったんだっけ?」
「うん」
「ところで誰に持ってきて貰ったんだ?施設の人か?」
「そんなわけないでしょ。友達だって」
「友達って、鍵とかは?」
「信頼できる友達だから、そのときは貸したの」
「……。」
 男か女か、かなり気になる。
「それより、どう?」と、夕は話題を変えた。いきなりの切り替えにどの話題を掘り下げているのかわからない。
「どう?って何が?」
「服だよ。そういえば外出用の私服は久しぶりだし」
 あぁ、服か。と僕は思い、「うん。似合ってると思う。個人的にはそのポンチョみたいなのが好みだ」と感想をわりかし素直に述べた。うん。好きだ。ポンチョは冬のマフラーに変わる新たな定番になればいい。
「へぇ」
「そしてゆったりしたショートパンツを見るに夕はやはりスカート派ではなくズボン派だと予想した」
「当たってるけど、そんな予想しなくていいよ」
「まえに僕を踏みつけながら『今日はたまたまズボンでした。残念だったね。ナースのスカートでも見れたらいいね』という感じの罵倒を浴びせた夕は、まるて自分はスカート派であるような口振りだったが、詐欺たったんだな!」
「そんな言い方してないよ!」
 さておき。
「ところで僕の私服はどうだろうか。事故の時に僕も服をダメにしているから、これでも新しい服なのだが」とは言っても、事故の時と同じ服を買ったから、これといって違いはないが。
「うん。暖かそうだね」と夕は笑った。
「それだけ!?」
「とくに首回りが暖かそう」
 暖かそう以外の感想はないのか?それなりには、少なくともダサくはないような服だと思うが」
「いやダサくはないよ。可もなく不可もなくというか、無難だよ」
「こだわりはないけど無難と言われた!大体そんな夕は服に自信ありげたが、こだわりはあるのか?」
「そんなものはないよ。ブランドなんて私を鈍らせるし、服に着られたら負けだよ。着たい服を着てなにか悪いの?」
「一流だ!」殊勝な顔しやがって。「しかし腕がないというのもある意味真似できないファッションだぞ」
「ファッションに格好つけて、ただ腕がないだけじゃない。それでいて無難な服なんて、没個性だねぇ」
「なっ!?」踏んだり蹴ったりか!言葉の暴力さえ脚技か。
「遅刻しておいて…大体、僕だって新しい服だ、それに左腕の性で服を着るのに手間取ったなんて言い訳はなしだぞ、僕は左腕そのものがないんだからな」
「何が言いたいのかな?左腕…もといファッションがないって言いたいの?」夕はにこやかに言葉の針で僕をつついた。
「ぐっ!……つまりだ」形勢を立て直し続ける「この空白の5分間、自分のさみしい胸を見ては困っていたのだろう!」
「ねぇもういじめないからはしたない話題まで武器にしなくていいよ」
「同情された!?…左腕に関しては夕も大概だろうが、同情されたくない」
「ちなみに成長中よ」
「回答しなくていいから!!」
「手伝う?」
「いいの?」
「冗談だよ。で、どこ行くのさ?」

 どこに行こうという目的もなく、手持ち無沙汰にふらふらする予定だ。それでも、退屈しなさそうだし。
 アーケードの商店街は様々な店が軒を連ねる。まれにすれ違う人たちに対しては夕は少し萎縮して、左腕を隠すようにしていたが、僕は堂々とは行かないまでも、平然と、薄っぺらい左側の袖をマフラーのように風になびかせていた。
「やっぱりいざ外に出ると、なんかドキドキする」
「そうかな?僕は対してそうでもないかも」
「なんでそんなに人に見られて平気なの?」
「平気も何も、こういうファッションなんだから」

≪ファッション【fashion】:はやり。流行。特に、服装・髪型などについていう。また転じて、服装。≫

「ファッションって、左腕ないの、人に見られて恥ずかしくないの?」
「そんな、恥ずかしがっても左腕は生えないし、いまさら要らない」
「やっぱり変わってるね。ついていけない」

 お手上げ。
 ひらひら。

「じゃあこう考えよう。自分の性でこうなったんじゃない(実際、事故のせいだし)。こうすれば、無理はあるけど、他人に責められる謂れはないだろう?まぁ、他人がどう思うが勝手でしかないけれど。なら、僕らがどう思うが勝手でもいいじゃないか。僕は寝てる間にこうなったんだから、恥ずかしがる必要はないし、嫌な言い方してしまうかもしれないけど、僕の左腕を、恥ずかしがってくれないでほしいな」
「あっ、そうだね……ごめん」
「いやいや、ほら、折角お出かけに誘ったんだ。楽しもう」
「うん」
「……僕が言うのも筋じゃないけど、綺麗だよ。」
「ぅえ!?」
「汚れてなんかないんだから、大丈夫」
「うんっ、わかった。もう大丈夫」と、言って夕ははにかんだ。ニマーッ。
「ついでにどのくらい綺麗かと言うと舐めてもしても問題ないくらい」
「な、舐めないでよ?」
 あれ?引いてる?
「嘘だよ、いや綺麗なのは嘘じゃないけど…」あははは。
「まぁ別に、元は黄葉(こうよう)の腕だし舐めてもいいんだろうけど」
 あはははは。え?いいのかよ。じゃあ本当に舐めちゃおうかな?いや、冗談だけど。
 いや、まて!冗談なんて言葉で片付けていいのか!?それはもはや思考探求の限界を決めつけて、理解が及ばないものに神の名を付けて、むやみに詮索することを自重するのと同じではないか!?…いやいや、冗談。もうあれは僕のではなく夕の、少女の腕だ。今さら所有権を主張して、好き勝手する気はない。
 いや、まてよ…?ここは大いに悩むべき所ではないか?というのはまず、所有権を使えば腕は案外、境界線の向こうまで舐めても、この際いいのでは?…というのは嘘。冗だ……。
「ね、」と、夕は言い、僕の思考に絶縁体を差し込んだ。
「うん?」次章に行く前に何か言いたいことがあるらしい。
「一応言うけど、今は私の腕なんだからね?気安く触ったり舐めたりしないよね?」
「あはは」
 夕の目は冷やかだった。
「冗談だろう……?」

013


 とりあえず、僕が運ばれた病院があるこの街の名前は灰田井市という地域だそうだ。申し訳程度の人口密度で、年々若者が減っている。というより年齢層は関係なくこの街を出ていくらしい。若者も老人も。
 その現状は、過疎地と言うより、廃れている。

 廃退的な雰囲気が、香りが、漏れているように感じる。埃っぽさはないが、なぜかそんな感じなのだ。何より、アーケードに並ぶ商店街も閉塞した状態で、外からの客を狙うというより、そこに住む人のみに向けた商売を細々とやっているような、自給自足というか、外側を必要としない感じ。
 こんなに公共施設が豊富なのに。大きな病院などの設備もあるのに。廃れている。
 そんな街。灰田井市。
 ……そんな紹介をしてみたが、僕はこの雰囲気は嫌いじゃない。こんな落ち着いた空気の中で生活がおくれたら、読書でも出来たら、どんなにいいだろう。それに驚くことに、国道の看板(国道は普通にある。しかし車は別にバイパスを使うらしく、滅多に通らない)を見上げて見れば、僕の済む町の、電車の駅で数え、二つ隣りぐらいの地域だとわかった。電車は僕にとって、日常的に使っている移動手段だったので、背伸びして都会みたいに発達した街へ脚を運ぶに至っては、電車以外に脚はないくらいだ。というか、各駅停車の電車に乗っているとき、止まる駅の一つだった。
 降りたことはないけれど、なるほど。こんな街なのか。
 なんかここまで人が少ないと曰く付きの何かを疑ってしまうが、僕は例えそういう場所でも、人を差別することは避けたいと心に誓う。まぁ、そんな心配は杞憂だが。

「不思議な街だよねぇ。それはそうと相変わらず何にもない街だね。どこに行くと言うより、どこにも行けない」
 横断歩道がある十字路の真ん中、午前だというのに車は一台もない。時折、この道路の向こうに車の影を確認できるが、通りすぎて視界から消えていき、あとには遠くなるエンジン音が空しく響いていく。
「事故にあったって言うのに、よくもまぁ車道の十字路のど真ん中に立てるな、トラウマとかはないのか?」
「たとえあったとしてもそれはトラックで、道路じゃないと思う」
「そういえばトラックの運転手、あの後どうなったんだ」
「業務上過失致死傷罪とかなんとか。私はそれなりに大金を稼いだよ?」
「当たり屋かよ、(ゆう)は」
「私だってわざとじゃないよ。厄日だっただけ。その後はトラックの運転手は見てない」
「ふぅん」僕は話し半分な生返事をして、「なぁ、夕さ」と続けた。
「何よ」
「例えば今からここにトラックが来たら、怖い?」
「わからない」夕は言った。「わからないよ、実際にそうならなきゃ。まぁ、ちょっと肩が強張るくらいかな」
「ふぅん……あ、自転車屋さんだ」
 話ながらブラブラと歩いていたら、個人経営らしき小さな自転車屋さんがあった。そこでふと、近代的アートになった夕の自転車を思い出す。
「そういえば夕は自転車はどうした?」
「知らない。置いてっちゃったから」
「まぁそんなもんか、……新しいの買わないの?」
「いきなり衝動買いなんてしないよ。でも、買うなら折り畳み式にしようかな、なんて考えてる」
「ふぅん。なぁ、夕」
「なにかな?」
「図書館探さないか、行く道もないし、目的もないんだしさ」僕は急に読書がしたくなったのでそんな提案をした。本のような天気をした午前はすこし寒さを感じた。
「あぁ、図書館ね、なら向こうの横断歩道を左に曲がれば近いよ」
「あれ?道知ってるの」
「知ってるもなにも、私はここの生まれだしね」
「……。」
 なんだと。
 例の事故現場はむしろ僕の町付近だし、自転車に乗っていたことも踏まえ、なんとなくの予想で夕も僕の町あたりに住んでいると思っていたが。まさかここの生まれだとは。おそらく夕の始まりは産まれたとこからのスタートではないから…『この街にはありとあらゆる施設が集中して建ってるの』…なるほど、保護施設もここにあるのか。
 「公民館に図書館に、体育館から病院、ほかいろいろ。でもデパートとかは少し遠いんだよ」夕は簡潔に言った。
「だから隣りの町に人が集まるのか」
「うん。頼りたい時だけここに人は来て、気が済んだらまた離れていく。都合がいいのか悪いのか」
「でも君はずっとここにいる」都合がいいからか、悪いからか。
「今はね」夕は少し眠たげに微笑んで「都合が悪い事が、私にとって都合がいいんだろうね」とつぶやく。
 そんな事を言われても……ばつが悪い。

014

 図書館にて。

 図書館は検索機もあり、まさに『利用したい人が利用できる』落ち着いた図書館だった。
「来ては見たものの、二人で出掛けるってときに図書館じゃ、空気を読めてないな」僕は今さら少し後悔する。ちらりと本棚の側面に目をやると横長な張り紙はシンプルに注意書きが載っていた。

≪図書館ではお静かに≫

「まぁいいんじゃない?しばらくはここにいようか」疲れたしね。と(ゆう)。僕だってそれなりに、というか同じ距離を散歩したのだ、左右のバランスも未だ完璧とは言えず、変に背筋と腎臓付近が締め付けられるように痛んだ。膝も軋む。人間は自分が思っているよりも脆く繊細なようである。
 手に取った本の頁をパラパラ捲ってみると、ナメクジの交尾について書かれていた。『ナメクジは互いに体を密着させ、まるでに気泡一つ残さないくらい、隙間なく。そして互いに解け合いながら、ゆっくりと何時間もねっとりねっとり舌でお互いを舐めあう。その舌、というのも、実は生殖器で、後には互いに受精するのだ』僕はそのような事が書かれている文章を読みながら、夕と僕を勝手気ままに。わがままに。ナメクジに置き換えて、性行為に励む姿を妄想してしまった。
 夕の脚先からゆっくりと何時間もねっとりねっとり舐めながら這いより、侵していく姿……。

 僕は急激に顔が燃えるように熱くなり素早く本を閉じて本棚に挿し込み、粘ついた想像を振り払って夕が座っている壁に接している図書館のソファーに腰を降ろした。

「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「耳赤いよ?」
「嘘」
「ほら、触ると熱い」
 夕が耳に触れる。さっきの妄想がフラッシュバックしてない交ぜになって、柄になく、シドロモドロになってしまった。
「なんか可愛いね」
「はい!?」
「声が大きい、静かに」夕は囁き声で注意した。
「はい……」

 愛玩人形:シドロモドロ貝木(かいき)くん
 定価:未定
 特徴:左腕がない特殊な人形

 そんな僕を想像した。
 小声で会話。図書館内には図書館員、ないし司書が一人だけ。確か本棚の向こう側で本を読んでいる筈。つまり、本棚が目隠しになっていて確認できない位置にいることになる。

 ゑ?なにこのムード、もしかして。
 図書館で?
 二人で出掛けるなんて、今さらだけど、これってデートだよね?、き、キスくらいは……。
「……結構いい時間だし、戻ろうか」
「ゑ!?あ、うん。」
 危ない。本にすぐ影響されてしまう。しかし不思議と魅力的だ。手も足もない彼らナメクジは、人間よりもずっと蠱惑的に感じる。…なんとなく、欲求が溜まっている。慣れない空間、知らない町。知らぬ間に塞ぎ込んでいたのだろうと思う。ふと、夕をそれとなく横目で見つめると、窓から射す曇り空の切れ間からの逆光に淡い後光のようなものを見ている気分だ。
 それにしても。
 曇り空が似合う天秤である。生まれも育ちも灰田井市なだけあって、夕はこの空間で柔らかな輪郭を保っていた。図書館はしばらくの間、頁をめくる音と秒針の音に満たされていた。

015

 病院に戻った僕らは、そのまま病室に入って患者の服に着替えた。隙を見てトイレで用を足そうと思ったが上手くいかない。自由な時間はあれど、廊下にあるトイレはいつ人が来るかもわからない。……抜け出せないまま。まぁ、まだ正午だし焦らなくてもいいだろうと、そんなこんなでもう(ゆう)方である。

「ふう、なんか最近、患者の服着てるほうが落ち着くなぁ」夕は病院の服に着替えてそんなことを言っている。
「そうか?薄いから寒いよ」
「大体夕は布団持ってきすぎ、何枚あるのさ?」
「6枚」僕は寒がりなので布団は多くないと気がすまないのだ。
「多すぎだよ。暑くないの?」
「いや、このずっしり感と温かさは安心するから、試しに入ってみなよ」
「……」
「ほらほら」
「うぅむ……」もぞもぞ。

 布団の中に夕が入ってくる。僕が先に入っているので、もう定員オーバーだ。少し狭い。
「うわ。気持ちいい……」なんだろう。ここまで無防備だとその分こちらの罪悪感が大きいというか、性欲が身を潜めてしまう。もっとも、これ以上の度胸はない。
「な。わかったならもういいだろ。狭いから出て」
「待って、もうちょいとこのまま」はぁ~この重さ。安心する。と、ここまま寝てしまうのではないかといわんばかりに脱力している。
「おいおい、狭いから。出てけ」中腰になり夕の肩を揺する。
「腕一本のくせに生意気な!うりうり!」
「おゎっ!!」ぞぞぞっ。
 夕の右腕が僕のペラペラの袖を逆走して、跡地(あと)をなで回す。
「大体リハビリで格段に動くようになったんだから、手数では負けないよ!」
「って、まずその腕は僕からの賜り物だろ!」恩を仇で返すのか!?
「粗品だよっ!」
「失礼だぁ!?」

016

 狭くて暑苦しいベッドの中、(ゆう)に背後から右腕を背中に回され、間接をキメられた。刑事ドラマとかでよく見る『現行犯逮捕』のポーズだ。身動き出来ない。唯一の右腕が後ろ手に回され悲鳴をあげている。そして、夕は何故か勝ち誇ったかのように跡地(あと)を頬擦りしている。…なんとマイナーなフェチだろう。やはり傷口に興奮するらしい。しかし、厄介なことに不快ではない。僕の右腕さえ、上から体重を掛けている夕の胸に当たっているし、無理やり振りほどくことが出来たとしても、しばらくは立てない。『腫れが収まるまでは』……。
 それよか、何だかんだで『大体リハビリで格段に動くようになったんだから、手数では負けないよ!』と言いながら左腕使ってないし。

 すりすり。
「うああ…ッ!やめろ。ピリピリする」夕の頬の皮膚さえも神経は鋭敏に捉えて脳に伝達する。
「本当に敏感なんだね」口元が吊り上がり三日月のように笑う。夕はことの重大さに気付いていないのだ。
「古傷というか、デリケートなんだからやめ、うっ!」
 !?
なんだ今のは、柔らかくて温かくて、濡れている。
 舐めた!?
 細く小さく。程よく締まった苺みたいな夕の舌は温かく、否、熱く。そして弾力があり、僕の跡地の上を滑っていく。
 あぁ駄目だ。本当に。いろいろと。
 助かったことに間接は放してくれていた。が。残念な事に僕は夕に欲情してしまっている。なにかカモフラージュを!
 カモフラを求めるというのは、つまり、何度も言うが残念ながら…そういうことである。察してほし…くもないな。
 般若心経とか、素数とか、そんなのを考えたら収まるとか聞いたとこあるけど、僕の脳みそは般若心経も素数もいままで聞いたことがない。知らないのだ。数学に至っては壊滅的で、因数分解も怪しい。
 取り合えず股に布団を挟もうと脚を伸ばして布団を掻き集める。
 もぞもぞ。
「!!」
「うわ、何これ」
 もぞもぞ。……したら夕の片足、正確にいうと程好い肉付き(僕としてはジャスト。否、ジャスティス)の太股が僕の股に差し込まれた。
 互いに膠着状態。
 何これじゃねぇ……!

「…ぅわ、」勘弁してくれ。
「え?ナニコレ……」すりすり。
差し込まれた夕の太股が擦り付けられる。
「ぺ、ペンライトだよ、ポケットに入れたままだったんだ」
「にしては、なんか、ラバー質というか…ねぇ?」すりすり。
 夕はそれが本当にペンライトかどうかを吟味するべく、暫く太股で布団のなかのブラックボックスをまさぐっていたが、やがて、表情が変わり、目を軽く見開いた。
 僕に抗議の視線を向けている。……どうやら、夕の太股の刺激に、ペンライトは勝手に怒張してしまったらしい。
「事故なんです…」
「もしかして、やっぱり、これが…?」

 僕は黙って、頷くしか出来なかった。
 ……。
「事故だ…」と、言うしかなかった。
「うわぁ」すりすり。
 夕はどこか嬉しそうな、あるいは何かを得たかのような、初めての感覚を楽しんでいる。
 そんな顔をしていた。
 なんて顔をしているんだ。これ以上、事も、欲情も、大きくさせないでほしい。
「ごめん、脚どけてくれないと」
 布団からはみ出した背中から外の空気を感じる。すっかり熱くなってしまった僕には嬉しかった。そうだ。冷静にならないと。夕の反応からして今ならまだ救いがある筈。
「両足で挟み込んでるのはそっちでしょ?」
 うわぁ、熱い。耳がジンジンする。僕は苦い顔で両足を少し開くと夕は挟まれていた脚を、どかすどころか体ごと挿し込んできた。
「ちょっとした恩返しと言ってみる」もぞもぞ。
「……??」
「なんで無言?お礼くらい言ってみたら、ふふ、『ありがとうございます』って、なんて、恩返しにお礼なんて図々しいね」
 それには同感。そして、僕の上に乗り体を預ける。柔らかな夕のお腹に、僕は埋もれる。僕の胸に頭をゆっくりと(僕の反応を伺いながら)ぎこちなく乗せる。その時には僕はもう理性が薄れていた。と同時に多幸感もあって。手に終えない。もうこのまま死んでもいいとか、そんな気分に陥ってしまった。脳裏にあるのは、『お礼ってなんだろう?』という疑問だった。
 夕の腑が詰まっている曲線だけで構成された胴体に僕は僕を押し付けて、いや、押し付けられているのだが。薄膜に包まれたかのような理性はそれでも唇で『ダメだ』と訴える。
 確かに。盛っているだけの存在だと思われたら、嫌だな。
 なんとかしないと。なんとかこうとかしないと。
「駄目だ。ほら、離れて」僅かな理性で、言葉を。残された語彙で、制止を促す。
貝木(かいき)くんの、熱いし、なんか心臓みたい」と言って夕ははにかんだ。ニマーッ。はにかむだけだった。
「う、ほら、恥ずかしいから離れ……」
「私なら大丈夫だから、気にしない」
 夕の右腕は僕の左側を服の上から撫でて、肩に添えられる。どうしようもない僕の分身は過敏に反応をしめし、収拾がつきそうにない。
夕は服の上から触れるのをやめたが、どいてはくれない。近すぎて息がかかったらどうしようと、考えてしまい、呼吸さえ満足には出来ない。
 もどかしい。
 そんな反応をお腹に感じたらしく、夕は我が意を得たりと微笑んだのがわかる。
 僕はこんな時に、こんな時だからこそナメクジを思い出してしまう。手も足も使わない。僕の視界ではそれがダブって見えた。
「ごめん」
「いいよいいよ、それより、こうしてると落ち着く」
「そう、か?」僕はそわそわしてしまう。が、言うまい。
「大丈夫?さっきから心臓みたいに跳ねてて、苦しそうだよ?」
「正直、ちょっときついかも」楽になりたい。と、ストレートに言えるわけがない。
「じゃあ頑張って耐えてね」
「……」

 夕の巧みな誘惑に折れかけてしまった、否、折れてしまった僕に対して、弄ぶかのように、今度は冷たくあしらう。もうなんか満身創痍だ。甘く痺れて、力が出ない。夕の微笑みも嗜虐的で今度ばかりは美しいとは言えそうにない。
 厳(いつく)しい。
 なんというか、僕は夕の五指の上で足掻くことさえもままならない。そんな感じだ。
 容赦ないな、せめて足掻かせてほしい。が、それは厳しそうだ。

 ふにふに。

 程好く柔らかなお腹が…筋肉が引き締まり、女性らし肉付きの柔らかなお腹が……僕には刺激が強すぎる……! さながらそれは岩に下敷きにされ、封印された孫悟空のような。

017

「さっきから段々強くなってない?お腹が痛いくらいだよ?」
(ゆう)が、撫でるからだろうが…っ」

 そうなのだ。夕が追い討ちで『跡地(あと)』を撫でるたびに押し寄せるくすぐったさに愚か者が反応してしまい、徐々に、そして今では脈々と怒張してしまっていた。
「ズボンの中本当に苦しそうだね」
「……」助けてほしい。心配そうな表情で上に乗っている夕がまるで三蔵法師のように見えるが、助けを求めてはならない。こいつは元凶であるお釈迦様なのだ。
「ねぇ、」
「なに?」
 心臓が囃し立てる。鼓動が僕の内側から理性を押し出す。柔らかに、小さく膨らんだ、濡れた唇が次の言葉を作り出すのを、愚かにも待ってしまうのだ。
「触ってみても、いいかな?」
 官能的に、扇情的に、そして残酷に響く。夕の言葉がまるで裁判の判決のように耳朶にふれる。近い。
 まるで拒否する手段を失ってしまうかのような錯角に陥る。しかし、なんとか僕は首を振る。いくら触って欲しいと思っても。『いいよ』なんて言ったら、後に何があるかわからない。ユートピア?そのさきにあるなんて認めない。この破廉恥な三蔵法師の行く末にあるのはガンダーラだ!!
「駄目なんだ」
 うんうん。
 首を縦に振る、もう言葉もでない。
「見ないから、触るだけ…」と言って、僕を見つめながら右腕をさながら別の生き物のような動きでズボンの中に滑り込ませる。
 嘘!? 待って!と、言葉を絞り出す前には、患者用のズボンのゴムが緩いのもあり、やすやすと侵入を許してしまっていた。それこそ、あっと言う前に。細い指としっとりとした掌の中に分身は握られていた。

 終った……。

 …という絶望感と幸福感。曖昧な感情がない交ぜになり、人形のように僕は動くことができない。目を疑うとかじゃなく、夕を疑った。こいつは実は色魔ではないか?

「こんなに硬くなってる…痛くないの?」そんな夕の発言や、手つきから、なんとなく男慣れしていない可能性を見て、愚かしくもすこし救われた気分だが、それでも少なからずのショックを与えられた。
 信頼できる友達が男か女か、そんな心配をしていた。
「痛くないけど…痺れて……」
「気持ちよさそうにしてる」
「!」僕も僕で大概だった。
「どうすればいいの?」
「え!?」
「どうすればいいの?」
「な、なにもしなくていいから……」
「それは、やだなぁ」すりすり。
「えぇっ!?」
 細くて小さな……それこそ壊れそうな、海岸の砂浜に眠る白い細枝のように脆そうな夕の手が、しっかりと分身を包み込むように握り、すりすりと、とりあえず無難に。という感じに撫で回す。
「私よくわからないけど、どう?痛くない?」
「ん」
 夕は僕の(羞恥でほとんど声がでない)返事を聞くと、首に唇を近付け、舐めたり吸ったりした。いとおしそうな顔で。まさに純粋に愛撫を繰り返していた。
 僕はそんな夕にどうしていいかわからなかった。ただ、首筋の神経が夕に触れた所から、夕に侵されているのを感じるだけだった。
 キスだってまだなのに…なんて、少女のような思いをまぶたの裏に浮かべていた。
 僕はもう限界である。
 もう駄目だ!いや、寧ろイイ!
 舐められると思考が麻痺して……もし、夕の唇が……。そんな想像がちらついてしまう、跡地に唇を這わせる夕の姿は今の僕にはどうしようもないほど扇情的でコケティッシュだ。
 さすがに病院だし、いや、でもここはもう密室なのでは?そんな危険な思考にまで陥っている。
「ズボン…邪魔だよ……」
「脱がすなって!ま、待てって!!」全身全霊を込めて体を暴れさせる。反撃しなければ!
「暴れないでよ、ズボン脱がせにくい…っなぁわわ…!」
 僕の上でバランスを崩した夕はそのままうしろに倒れる。僕は一つしかない腕を夕の背中に回してそっと抱き止め、衝撃を緩和させるとそのまま流れるように首に顔を近付ける。
 鼻先に触れるほどの距離で止まってみる。…どうやら嫌な素振りはない。そのまま首を甘噛みする。「あっ……」小さく声が漏れる。甘噛みを繰り返す。様々な所に、首筋を執拗に責め、ときには舐めたり、吸ったりを交えた。もうどうにでもなれと言わんばかりに。自分が責められ、籠絡されて仕舞うのはまだ恥ずかしいので、攻めに転じる事にした。夕の手をさりげなくズボンから抜く。別人格のもうひとりの僕は抗議していたけど、無視だ。僕はまだ無視できる程の理性が残ってくれていた。

 背水の陣。
 窮鼠ネコを噛む。

 ……どうか理解してほしい。これでも理性があっての行動なのだ。自分の情けない姿を晒すよりは、少女を侵してしまった方がマシと判断したのだ。……それって理性消し飛んでるんじゃないか?まあ、まあまあまあ。いいのだ。そんなことは。
 夕を責めながら、やはり消し飛んでいた理性とやらが戻ってくるのがわかった。興奮は覚めないが、こうして責めているほうが、冷静になれる。
「ふ……」れろれろ。
「ぃ……やっ……」なんだろう、こうしてると堪らなく夕が可愛いと感じてしまう。思えてしまう。
 ちょっと気になることがあるんだが、理性の定義を教えてくれないか。

018

「ぅあ…キスマーク黄葉(こうよう)に付けられた」(ゆう)は鏡の前で首回りを確認している。ちょっと強く吸いすぎたかもしれない。反省はしていない。後悔もしていない。
「僕にもつけただろ。それ」そうなのだ。夕だって僕にキスマークを付けまくっている。しかも跡地(あと)に散々。明日は医師が経過を見るのに、跡地にはキスマーク、もとい内出血が。
 ともあれ、なんとか最悪の事態は回避した。ズボン脱がされたらアウトだ。アウトすぎる。

 こんな不祥事が姉に知られたりしたら、何が起こるか分からない。おろし金でおろし殺されるんじゃないか?それか跡地にシャープペンシルを突き立てられるとか。
 冗談じゃない。
 まぁ、この流れならもう大丈夫だろう。
「ほら、布団熱いだろ?出ようか」僕は促す。
「確かに、熱いかも……」と、布団をめくりあげる夕、乱れた患者服を気にせず右手でつまみ、パタパタと扇いでいる。だが降りない!もうどうしたらいいのだろう。いや、僕が夕のベッドを使えばいいか。
 そんな思考に至り、僕はおもむろに夕のベッドに脚を進める。閉めきったカーテンを開く。
 そこには、夕のベッドには外出したときの服が無造作に置かれていた。しかも薄い水色の、レースの刺繍があしらわれた下着セットも。…まてよ、僕は一緒に病室に戻り、着替えた。その間に夕は外に出た記憶はない。下着を新しいのに着替えているのか?シャワーはまだこれからなのに、それは変だ。

 まさか、穿いてないのか?
 ブラジャーも?
 つけてないというのか!
「あぁ!見ないでよ!」と今ごろになって気付いた夕がやや慌てて注意する。遅いだろ。全てが演技に思えてくる。ここまですべて夕の計画どおりに進んでいたらどうしよう。あざといというか、それこそお釈迦様かよ。
 それもすこぶる邪なお釈迦様。
 あざとーす。
 改めて夕の着崩れした患者服に目を走らせる。ブラジャーらしきもの、確認できず。…ということは、ベッドに置いてあるのがそれか。暑かったんだろう。きっとそうだ。いや、それなら下も穿いてない可能性が浮上。暑かったのか?疑惑が浮上。遂に浮上したか、もう正気値たりないかも。夕の二つの狂気山脈(丘)が見えそうでみえない。

「あのさ、」僕はポツリと言った。
「ん?」
「下着穿いてる?」
「あっはっは」感情の伴っていない笑い声をあげた。渇いた笑みだ。
……なるほど。
「あざとーす」
「よぐそとーす」

019

 なんやかやでもう朝である。(ゆう)黄葉(こうよう)とかいう人間の影響で変態になってしまったかもしれないとか、そんなことは憚られてしまったのだ。元からそうだったかもしれないし。鶏か卵か、今さら言及すまい。全ては昨夜の出来事である。
 そう、もう朝である。
 昨夜の事を伝えるならば、結局発散するどころか余計に溜め込んでしまった僕は……いや、それもいまさら言うことでもないか。その後は軽くシャワーで汗を流し、夕に布団を三枚徴収され、仕返しのために夕の右腕、そう、唯一自由に動く右腕の関節を背中に回して組伏せてうつぶせにベッドに押し倒した挙げ句くすぐり倒し、喘ぎたいだけ喘がせてやった。普段眠そうでトローンとしている夕がひぃひぃと必死になって解放を求める姿は溜飲が下がるものだった。……どうやってくすぐったか?顎を使ったのである。シャワー後だし舐めるのはやめてあげたのだ。誉められるべきである。何より顎は限りなく口に近い。それだけで視覚的にも破壊力は増すのだ。
 そして力尽き、僕と夕は倒れるように眠っていたのだ。
 とりあえず、僕と夕の仲はよく、心も割と開いている。病室という狭い空間で一緒に過ごしているから、関係性も急成長、急接近してしまった。さて、こうやっている間にも時間は流れる。病室の天井を見つめながら、僕は状況を察する。

 夕の気配がない。これはリハビリに出ているということだ。恐らく8時半前後。
 寝坊した。まぁ、なにもすることがないので問題はない。昨日は疲れたから。
 夕、リハビリ頑張ってるといいが……。
リハビリなんてよく知らないが、最初がいくら順調でも、きっと行き詰まることの一つくらい、ないわけではあるまい。停滞していたって、珍しくもないと思うし。しかし心配。
……なら、見に行けばいい。快活な少女で、健気だし、生い立ちだって決して恵まれた環境ではないのに。……いや、昨日の一件以来、僕は変に意識しているきらいがある。

「頑張ってるよなぁ……」と、誰に言うでもなく呟き、伸びをして、僕はベッドから降りる。身だしなみを最低限片手でできる範囲で整えて、病室を出る。
 確か、リハビリのために設けられた場所・リハビリステーションとか言うんだっけ?名称がわからないが、兎に角それは三階だったっけかな?ここは四階(何気に高い)だから、階段を降りてみないと始まらない。分かりやすいフロアー案内の掲示板も、わざわざ見なくてもすぐ見つかるだろう。床にある矢印を辿ればいいだろうし。

 階段に向かい歩き出す。エスカレーターを通りすぎようとすると、表示がふと目に留まる。矢印が上を指している。すなわち上昇中。こちらに向かっているということだ。そしてここ、四階で停止するようだ。
 ならばエスカレーターに乗ってしまおうと、この偶然にあやからせてもらおう。と、そこまで考えて。そういえば、これはエスカレーターだ、誰かが乗っている。それはわかっている。乗っていなければエスカレーターは動かない。当たり前だ。
 四階は入院患者専用フロアーだから、それは十中八九患者だろうし、または、それでなくとも看護師か見舞いだ。あまり四階で患者とすれ違ったり、看護師とすれ違ったりしないから、緊張してしまう。まぁ左腕を好奇の目で見られても、もう動じない自信はあるが。エスカレーターという扉ごしの対面はなんとなく恥ずかしくなってしまう。…どうせご老体だろうとしてもそうなのだ。
 気持ちの落ち着かないまま、エスカレーターが四階へ到着、停止。ドアが開く。

「……?」
「……?」

 目の前で疑問符を浮かべたこの女の子。
 車椅子。
 ……誰だ、この子は。
 車椅子の、女の子は、なんとなく引っ掛かるところがある、気がして。
「……」
「……」
 しかしなんの会話もなく、次の瞬間にはまるでお互いが見えていないかのように入れ替わりに僕はエスカレーターに乗り込み、車椅子の女の子は降りていった。別に運命的な出会いでもないのだから。会話は交わすこともない。
 でも、可愛かったのは特記しておこう。贔屓目に見ても夕と並ぶかも知れない。そして非常に小さい。
 夕。負けず劣らず、というか、互いに違うジャンルで可愛い(出来ることなら外見で評価したくはないが、今持っている情報量だと、これしかないのだ。あしからず)
「おっと」
 夕の頑張っている姿を見に行くとしよう。僕は三階のボタンを押した。そういえば、夕はなぜあの時、つまりは昨日、あんな蛮行に及んだのだろうか……?

020


 エスカレーターの厚い扉が開き、僕は三階に降りると自動販売機と少し前にお世話になったラウンジが廊下のこちらからみて右側の奥にある。反対の左側には廊下が伸びてさらに左に折れる。どうやらそこを曲がればリハビリ用の空間があるらしい。床のカラーテープで作られた矢印はそこに続いていた。
 ツルツルした廊下を左に曲がる。曲がった先には煙硝子でできた簡素な扉があった。どうやら間違いないようだ。扉を引いて、隙間を作り、軽く覗き、目線を隅々まで泳がせる……。
 ……いた!
 かなり奥の方に(ゆう)はいた。椅子に座り、左腕で机の上の物を持ったり、クレヨンペンシルで何かを書いている。僕のだった、と言うとなんとなく恩着せがましいが、夕の左腕はもともと利き手でもないだろうが、利き手ではないにしろよく動いている。他人の腕、ピクリとも動かない事のほうがまだまだ当たり前の22世紀、ブリキ人形のようでも動いている事はおても大切な事実だ。もうだいぶ要領を得ているようだが、しかし、口元を、んっ、と結んでいるのを見ていると、なるほど、かなり集中しているのか。楽々、とはいかないんだなぁ。
 しかし前述どおり、作業ができているというのは、もう充分なのではないだろうか、少なくとも動いているのだ。
 夕はかなり集中してリハビリに励んでいる。
 いい加減、覗くのはやめて、ちょっと入ってみるか。扉をさらに引き開けて僕は夕のもとへ向かった。

「え?なんで来てるの?」夕は僕が来たことに対して余り嬉しさを感じないらしく、言葉は素っ気ないものだった。
 集中の邪魔であることに、今さら気付くが、後に引くのも悔しい。
「いやいや、暇をもて余しててさ」
「病室にいたほうがいいと思うよ。たぶん今ごろ困ってるんじゃない?」
「ん?だれが」誰が困るというのか。むしろ暇で困っていたのは僕なのだが?いや、集中の邪魔で困っていると言うことをかなりオブラートに包んでいるのではないだろうか?
 だとしても引かない。今日は邪魔してやる。
「今日、新しい患者が私たちの病室に転院するっていってた」と、夕の一言で僕は夕の邪魔ではないことを知る。夕の言葉がでっち上げの嘘ではないことを知る。
 今更ながら僕は理解する。
「あぁ、もしかして」あの子か。車椅子の女の子を思い出す。
「あ、もう対面したの?なら問題ないかな」
「いや、エスカレーターですれ違ったと思う」
「挨拶とかは?何か言われてないの?」
「うわぁ…無言だった、気まずい」これから仲良くして行くのなら、あんな態度なんてするんじゃなかった。僕はガックリと頭を抱える。
「タイミング悪いね」そんな僕をみて嘲(あざけ)ながら慰めにもならない言葉をかける。
「もっと、『なんとかなるさ』とかないのか?っていうか人の小さな不幸を笑ってるだろ、その顔」
 夕はもう口の中でチョコレートを舐め溶かしているような笑みをこぼしている。
「ざまあみなよ」
「本心が漏れた!?」
「これから気まずいよ、黄葉(こうよう)は気まずい入院生活を送るんだよ。楽しみだね」
「これから立て直す!」その車椅子の女の子可愛いしな!
「第一印象の大切さを思い知ることになるよ。黄葉はもう、その子の中ではコミュニケーション障害を持っていると思い込んでいるだろうね」
 そこまでかよ!?
「…でもなんか、僕より年下っぽかったな」
「私たちの病室はどうやら、身体に欠損やらがある子ども達で括っているみたいだね、仲間がいると心強いって言いたいのかも。病院側の善意、あるいは思いやりみたいだけど、そういうジャンル分けって、差別的な感じがしないでもないよ」
「確かに。有難いけど、迷惑な気がしないでもない」病院側のその配慮は正直間違っていると言いたい。

≪無自覚にして名前のない悪意・善意=印象≫

「私はまだ見てないけど、脚が悪いのは噂で聞いた。松葉杖?車椅子?」
 その質問から察するに、やはりあの女の子らしい。なんかもう…挨拶とは言わないまでも、お辞儀とか会釈くらいしておけばよかったと、ただただ悔やむしかない。日頃の挨拶を怠惰にやることは、この場合まさしく、無自覚にして名前のない悪意になったわけだ。
 悪印象。
「えぇと…見たときは車椅子の女の子だったな」そうだ、車椅子に乗った小さい女の子だ。かなり印象に残っている。良くもなく悪くもなく、ただ強く印象に残っている。
「あぁ、両足か」夕は呟くように短く言った。
「?」
 あぁ、両足が動かないのか。車椅子の女の子。片足なら松葉杖を使うだろうという夕の読みか。
「リハビリはもういいかな。今日はこれくらいで」
「ん?もういいのか?」
「これ以上は邪魔がいるし、集中なんてできないよ」横目で僕を見る目はそこまで本気ではない。僕は冗談だと理解する。
「そうかい、つまんないヤツ」
「そんな事より、会いに行きたいな」

思考・姉妹・脳内(後編)

 イマージナル・フレンドって言う言葉はしってますか?
 手鏡の前に映るお姉さんは口を開けずにそう言います。ときどき入れ替わって遊ぶことがあるのです。私の体をお姉さんに貸してあげることは、簡単な事です。しかし、お姉さんの言うことは私には難しい言葉です。いつも一緒なのに、お姉さんは私が知らないいろいろを知っています。

 ――いまーじなるふれんどですか、私には分からないです。それは病気の名前です?薬の名前です?――

 うーん、他人から見てそれは病気に近くて、でも、自分自身は案外それを薬のように思っているから、ちょっと決められない。ただ何の名前かと言えば、現象の名前で。名称って言うんでしょうが。

 ――お姉さんの言っていること、全く分かりませんです。いまーじなるふれんどってなんです?――

 イマージナル・フレンドって言うのはですね、私。つまりお姉さんに近い人のことを言います。あれ?この場合は妹ちゃんに近いのか。えっと、簡単に言うと、幼い子供が一人あそびをするとき、頭の中で作られる本当はいない友達のことを言うんです。イマージナルは空想とか、そんな意味の言葉で、フレンドは友達、私とはちょっと違うかな。私は空想じゃなく、私の肉体が無くなる前に、妹の脳内に隠れたお姉さんの脳細胞ですから。
 と、お姉さんはたぶん簡単に言ってくれたけど、私には難しい言葉です。クーソーとは何でしょう?お姉さんじゃない何かだと言っていましたが。

 ――トモダチって何です?――

 え?あぁ、それは私もよくわからなくて。たしか自分に似ている人とか。でも、自分に似ていない人だって聞いたこともあるし。

 ――お姉さんはトモダチです?――

 どうなんでしょうね?お姉さんはお姉さんです。…あ、そういえばこの体のままでした。また元に戻るのでこっちに来てください。私はそっちに行きますので。

 ――そっち?こっち?お姉さんの言うことがあまり分からないです。どこかに出掛けたいです?車椅子は大人に乗せてもらわないとお庭にも行けませんよ?――

 いいえ。車椅子に乗りたいわけではないです。いつものように気持ちを内側から外側へ向けるようにして下さい。私はまた頭の中に戻りますので。

 ――それなら分かります。はい。わかりました。――

 私はなにか明るい糸が掴めないくらいの早さで泳いでいくような光景の、暗くて分からない部屋から外に出るのをいつものように意識して、いつのまにか私は病室のベットの上で手鏡を持っていました。元に戻ったのです。先程まで感じなかった様々な感覚が私の元にあります。
 そういえば、なぜお姉さんはお姉さんなのでしょう?

 ――そんなの、妹ちゃんが出来る前に私がいたからよ。妹ちゃんが産まれる前に、私がもう産まれていたの。大人たちには見えませんが、頭のなかにお姉さんは生きているの。そのせいで、体と頭が上手く繋がらなかったらしいよ――

 妹ちゃんの自我ができる前に、私の自我はもう在ったの、とお姉さんは呟きました。よく分からないですが、今は別の質問を聞きます。
 その…私にはトモダチと言うのが出来ますでしょうか?

 ――きっと出来る。お父さんも話していました『もうすぐ向こうで友達ができるから、上手に話せるように頑張ろう』って、堂々としましょう――

 ドウドウとは、たしか脚を組んだり、腕を組んだりしてじっと待つことですよね?前にお姉さんから聞きました。

 ――そうだよ。向こうで友達を作るために、今から練習しよう?妹ちゃん――

 はい。
 私は頭の中で言葉を作りお姉さんに向けて返事をしました。言葉はテレビや白い服の大人の人たちや、お母さんお父さんにたくさん教えてもらったから大丈夫です。あとは堂々とすることが出来れば、三日後には向こうで友達が出来ると思います。

021

 今度はエレベーターを使わず階段を利用して四階に上がる。出来るだけエレベーターは使わない主義なのだ。エスカレーターはたいして抵抗なく利用する。何でだろう?まぁいいや。
 そんなこんなしてるうちに僕らの病室の前、ネームプレートには三人目の名前が入れられていた。

峰島(みねしま)光美(みつよし)

 だそうだ。ほほぅ。でもなんでネームプレートしか記入しないんだろう。僕も(ゆう)も。何号室が分からない。まぁ、いまさら聞かなくてもいいか。なんて考える。

 病室の扉の向こう、峰島ちゃんは居るのか……。
 峰島は僕にアイコンタクト一つ、僕は頷き、夕も頷き返す。
 そして扉を開く。夕が病室のスライド式扉を少し開けて止める。どうやら緊張しているらしい。別に僕は初お目見えではないのだが、最悪エスカレーターのときの車椅子の女の子は、この病室に入ることになった峰島ちゃんとは別の人とかであっても、大丈夫なように、そこまで想定して腹をくくる。別の人…お婆さんだったら正直なぁ。いや、例の病院側の善意を踏まえてそれは無いと思うが。案外、子供は子供同士で集めているだけかもしれないし。悪意もまた裏を返せば善意なのだ。というか病院側からしてみればすべて善意のつもりなのだ。こっちが勝手にねじ曲げた解釈をしているだけで。
 つまり、ご老体がいる可能性は低い。
 さて、夕も腹をくくったのだろう。病室の扉を、今度は止まることなく一気に開けた。

 そこには、車椅子の上で優雅に脚を組む、おそらく峰島光美ちゃん本人と思われるエレベーターの前ですれ違った女の子が、腕まで組んでこちらを睨んでいた。思うに扉が開く前から睨んでいた。さらにはエスカレーターですれ違う間も睨んでいた。
「……遅いです。」
 僕がすれ違った後、誰も居ない病室で睨み続けていたわけではないだろうな……。そんな冗談はさておき峰島ちゃん。やはりあの子で、やはり可愛い。やや幼い顔立ちは年相応ではなく、どうやら童顔……いや、実年齢を知らない以上、比較は出来ないが、もしかしなくとも身体を見るに、実年齢より幼い顔立ちかもしれない。可愛い女の子だなぁ。光美ちゃん。睨む顔も全然怖くない。脚なんか組んで。……脚動くのか?
「ごめんごめん。今日来るってこと、さっき聞いて。」
「む?あなたは先程すれ違った片腕さんですか」峰島ちゃんは片眉を吊り上げて小首を傾いだ。
 片腕さんってなんだよ。
「あ、あぁ、そうだよ。改めて初めまして」
「初めてではないです。と、そちらのお姉さんは誰さんです?」
「同じ病室の樋野(ひの)夕です。よろしくね」
と、夕。なぜかいつもよりテンションが高い気がする。可愛い峰島ちゃんに対して、それはもう自然な反応なのだ。
「こちらは初めまして、ですね。夕さんですか。申し遅れました私は車椅子美少女光美です」ふふん、と得意気に、勝ち誇るように笑った。何に勝ったんだろう。
 車椅子美少女光美て、最終兵器かな?
 そんなことは露知らず、またもや偉そうに車椅子でふんぞり返る。スーパーマンのように腰に手を当てている。なんでそこまで堂々としているのだろう。

「病室の横のネームプレートで名前はもう知ってるかも知れないけど、僕は貝木(かいき)黄葉(こうよう)です。好きなように呼んでください」
「はい、分かりました片腕さん」
「……まぁ、いいかな」
 それはやめてくれ。と言いたかったが、二回目にしてあれ?ちょっといいかもと思ってしまった。悔しい!
「ちなみにですが、高いところにあるネームプレート、私には見えないです」
「それもそうだね」と夕は微笑んでいた。なんで慈愛顔なんだろう。
「ん?つかぬことをお聞きしますが、夕お姉さんの左腕、片腕さんのです?」
「ううん、違うよ。そんなわけないじゃない」と即答する夕。先程までの慈愛顔は綺麗に消えて、心底とぼけた顔に変わる。
「なんで?僕のだよ!?片腕さんの片腕だよ!」
「……だって恥ずかしい」と、はにかんだ。ニマーッ。
 ニマーッ。ということは軽い冗談のつもりだな!?そのはにかみが嘘ではないことを祈るしかない!ニマーッがなかったら大分重く受け止める自信がある。いやしかし、夕だって女の子だ。傾いた天秤少女。男の腕を生やしているなんて、冷静に考えても見ろ、恥ずかしいのは当たり前だ。そんなの男なのにスカートを穿くとか、そういった羞恥があってもしょうがない事だ。ジェンダー・ヴェスタイトを差別するような発言になってしまったが、悪意ではないので、悪しからず。 

 ともあれ閑話休題。

「それは面白いです、形が右と左で違うなんてすごいです」と光美ちゃん。なんだか変な敬語。見た目が幼いところから見て、言葉使いもまだ熟達していないように思える。
 ちなみにすごいのはは僕も該当するのにな。
 そんなことは置いてけぼりで会話は進んでゆく。夕は違和感に気付き初めてから苦笑いだ。僕だって苦笑いしかできない。
「あはは…あのさ、峰島ちゃん?つかぬことをお聞きしますが、なんでふんぞり返るの?」
「あぁ、これはですね…」と夕の質問にたいして光美ちゃんは自分の身体をアピールする。身体というか脚を指差す。 組まれた脚。
 光美ちゃんはゼスチャーで伝える。
 これです、これ。
 これを。
 こうしまして。
 んしょ。
 ……っと。

 光美ちゃんはだらんとした脚の根元を両手で持ち上げ組んでいた脚を直して見せた。
「…というように、わざわざこうして待ってたからです」光美ちゃんは得意気に言った。
「あぁ、そーゆーこと」夕はこの短時間で妙に疲れている。と言うより元気を吸いとられている。僕だってそうだ、この子のテンションは異様に高い。まぁ、なんやかんやで、気まずい入院生活とやらは避けられそうだが。第一印象で言うところかどうかは不明だが、光美ちゃんに対しての僕と、おそらく夕の考えは恐らく同じ。
 可愛いけど残念な子。と言ったところだ。
「…動かないのか?」一応僕は確認をとる。聞くまでもないが、逆にこの質問をしないというのも、要らない気遣いに感じるし、そこはきちんと把握しておこう。そう思った。ある種のマナーなのだ。
「はい。脚とは別の病気を患っていまして、先天性の脳の病気を治す手術で、それまでは歩くこともなにもできなかったんですけど、脚はそのまま動かないで、下半身不随です「えへへ。と照れる光美ちゃん。意味が分からない。この常識はずれな感じは何なんだろう。
「医療ミスじゃないか?」まず、そう思う。術後に様々な身体機能は回復したが、脚と言葉がおかしいのだから、脳に下手なショックを与えたのでは、と。
「もしかしたらそれも要因の一つですね、もちろん、もしかしたらに過ぎないです。そもそもこの異常はかなり治っているとか、せじゅつ前に成功りつとかリスクは聞かされたです…何より、前よりマシですから」
「前よりマシ…ねぇ、」
似たような言葉を聞いた気がする。
「前は寝たきりで、発育も遅く、呼吸器がないときびしかったですから、こうしてお話ができる今は、十分きせきに近いんですよ」
「ちなみに、足のそれはリハビリとかでも?」
「頑張ってはいましたが感覚もないですし、頑張り方自体、寝たきりだった私にはトンチンカンなわけです」
「なるほど」僕はそう言った。なるほど。
 どうでもいいが、光美ちゃんが話す難しい言葉は、光美ちゃん自身が理解できていないままに使っているような、漢字変換していないように聞こえる。
「ちなみに光美ちゃん。触ってもいいかな?」夕は藪から棒にそんな事を言った。右手が蠢いている。つまりはそういうことか。どうでもいいが、夕の身体的なハンデにたいする興味はなんなんだろう、やはりフェチ?……いいなぁ……太もも触りたいなぁ。
「はい。いいですよ夕お姉さん」
 光美ちゃんもなんか『夕お姉さん』と呼んでるし、あんな堂々とした態度のわりに、言動は常に敬語で、しかもナチュラルでそれなので、イメージの固定が難しい。
 光美ちゃんはなぜか両腕で脚を抱え上げ、それはそれはセクシーなポーズで爪先を差し出した。
「じゃあ遠慮なく」夕は太股に手をつけると、そのまま揉み始めた。
「うわ…」
 ガッツリいったな!揉むか普通!?
 撫でる感じをイメージしてたから、不覚にも引いてしまった。
「この通り何も感じません」光美ちゃん。それは得意顔で言うことでもないと思う。
「ん、片腕さんもどうですか」
 マジで!僕も揉みたい!
「え?僕が触ったら痴漢扱いとかする気だろ?」
「感覚がないなら不快も快もないです」
「不快も快もって、どこまで感覚が無いんだ?」とか言いながら、僕の手は太股に恐る恐る触れる。好奇心には勝てないというか、素直に女の子に触れたかっただけだ。欲には勝てないと言っておこう。……うわ、細い。これじゃ細ももじゃないか?
 ちなみにちなみに、こうして正面から見てみると、車椅子に凭れ、膝裏から持ち上げた足を前に垂らしているその座り方は、なかなか蠱惑的でニンフェットである。
 エロスと美のイデアの不完全な投影のようで、知らず知らずの内に僕の思考に靄がかかる。いや、単に興奮している。
「安心して下さい。肝心なトコは神経がちゃんとあって、感じます」
「あ、ごめん」光美ちゃんの冷静な声によって僕の靄はさっぱり消えていった。
 どうやら今触れている辺りから神経は生きているラインらしい。というかかなり光美ちゃんの臀部に近づいていた。
「その発言は安心出来ないかな、あと黄葉にも安心は出来ないよ。女の子の太股なんて撫で回しちゃって」と、夕は僕に冷ややかな視線を送る。
「夕も光美ちゃんの太股わしづかみしてるだろうに」女の子同士ならセーフか、世知辛い。男女平等とは何だろうか?
「ここからは感覚があるのかぁ」
「うわぁっ!?そこはダメです!感じます!」
「でも抵抗しないんだ」ニマーッ。
 太ももの間に手を滑らせ、内腿をなで回す際どさ。光美ちゃんは脚を降ろし両手で夕の右手を引っこ抜こうと抵抗しているが、両足はノーガード。雑に着地したせいで、挑発的に開かれている。当たり前だ、動かないのだから。神経があっても筋肉に信号を送れないのだろう。こうしてみると、上半身と下半身が別人みたいだ。
「脚が動かないからです!夕お姉さんそこは!危険ゾーンです!」
「ふぅ、これくらいで。次はいつか両手を縛って意地悪したいよ」
「イキイキしてるな夕姉さん」半眼苦笑で冷やかす。
「あっはっは」夕は笑い声を響かせた。
 敬語使いの峰島光美ちゃんと僕の腕を持つ樋野夕。そしてその夕に、密かに膨らみ始めた恋心。……まぁ、仲良くは過ごせそうだから、心配はない。
 僕にとってそれは都合がいいのか悪いのかと言えば、きっといいのだろう。好都合だ。いつか都合が悪くなれば、例に漏れず僕もこの街を出ていくことになる。

『廃墟となった遊園地』

 この灰田井市なら、それでもいいのかも知れない。

 廃退的で、今まで見つけられなかった世界。
 様々な境遇によって、鍵を手に入れた僕たちが、覗くことの出来た世界。大人たちに棄てられた、それゆえに廃れた。ここは、言うなればユートピアなのかも知れない。と、僕は一人思案して、ふと笑う。
 僕はありふれた様々なものを、改めて覗くことができ、そして認識していくのだろう。みんながそれぞれ持っていたチケットを切って、楽園へ入る。辛いことも苦しいことも、ここで癒すのだ。

 そう、この楽園で。

落ちる黄葉の楽園

 どこへも行かなくても人生で、どこの末も結わずに終わったこの物語も、ちゃんと物語なのだ。と、思う。

 この『落下物語』は、しかし『落ち』を用意していません。
 命を『落とす』のか
 恋に『落ちる』のか
 腑に『落ちた』のか分からないのがこの物語です。

 次は、廻る物語。

落ちる黄葉の楽園

交通事故に巻き込まれた二人。貝木 黄葉と樋野 夕。 事故で切断された左腕。移植できたのは一人だけ。 片腕しかない男と、男の腕が生えた少女。閑散とした病院内で起こるチグハグでツギハギだらけの日々。 『落下物語』が今、落ち始める。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-02-26

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  13. 思考・姉妹・脳内(前編)
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  24. 思考・姉妹・脳内(後編)
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