くたびれた悪
魔界の未来を話し合う、手前のお話。
辺りは薄い霧に覆われていた。
枯れ果てた木々に囲まれた道はひたすらにまっすぐだ。
ただれた枝の隙間を冷たい風が通り抜け、おおかみの銀色の毛をなでた。
赤い目をしばたいて、見えてきた建物を確かめた。
ぬかるんだ道がおおかみの靴に絡め、歩みを遅くさせていた。
ズボンをはいてきて正解だったが、シャツだけではなく上着も着てくるべきだったと後悔した。
長く伸びた爪同士がカチカチと音を立てる。
震えているのは、寒いわけではない事もおおかみはわかっていた。
茨の森を抜けてここまでたどり着いたおおかみは、鉄の門を前に立ち止まっていた。
門の奥には、黒い城が見えた。
ここ魔界のランドマークタワーである、魔王城。
細く黒い塔のてっぺんは天を目指すあまり、雲に消されて見えなくなっていた。
消えた先を眺めながら、今から自らが進んでいく状況を想像した。
(どのくらいの数の者達が集まっているだろうか。)
(意見とか求められたら嫌だな。)
見かけよりも小さな心臓はいつもよりも細かく波打っていた。
落ち着かせようと一つ深呼吸をした。
よし。と気合を入れて門を押す手に力を入れた。
門から見えた城は近くにあるように感じていたが、実際はかなり歩く距離にあった。
近づくにつれ、城の大きさとおどろおどろしい雰囲気に圧倒された。
これが全ての悪を束ねる、魔界の大魔王が住む家だという事が納得できた。
恐怖を感じる裏でおおかみは、こんな家に一人で住むのは嫌だなと、ちょっとだけ魔王を哀れに思った。
城の入り口扉の前に誰かが立っているのが見えた。
長テーブルも設置されており、そこには誰かが座っていた。
霧から現れた姿をみて、おおかみは悲鳴を上げそうになった。
「こんにちは。こちらが受付になっておりますので、名前をご記入ください。」
そう笑顔で言う女の口から鮮血が噴出していた。
頭からも、露出していた腕や足からも血はしたたり落ちていた。
おおかみはうなづくだけで声が出せなかった。
促された受付の女も笑顔で話しかけてきた。
「こんにちは。」
「一番乗りですよ。」
「こちらにお名前をご記入ください。」
「差し支えなければ、お住まいもお願いします。」
一つしかない体から二つの顔が、交互に案内をしてくれた。
おおかみは今度はうなづく事も出来ずに俯いてペンを持った。
急いで書きなぐって扉に向かうおおかみの腕をどちらかの手が掴んだ。
「ひゃあ!」
思わず叫んでしまった。血みどろの女も二つ頭の女達も、驚きの表情でおおかみを見てきた。
「あ、し、失礼しました。」
「あ、今日の内容と案内です。」
冊子を手渡すと、彼女たちは慌てて手を引いた。
「す、すいません。」
それだけ小声で言うとすぐに背中を向けて扉に手をかけた。
扉は予想以上に重く、力を入れてもなかなか開いてくれない。
やっと開いた隙間にねじ込むように中へと入った。
ゆっくりと閉まる扉の向こうから、なにあれー。きもいー。と。女たちの非難の声が聞こえた。
中に入って扉が鈍い音で閉まると、真っ暗闇になってしまった。
「うわああ。」
口元だけのつもりの声が、どこまでも響いた。
おおかみはもう一度外へ出ようと扉を引いた。だがびくとも動かない。
(まさか!閉じ込められた!)
自分が喰われてしまうと思い込んだおおかみは、恐怖で思わず叫んでいた。
「だして!ちょっと!ここあけてくれ!」
夢中で扉を叩いた。しかし、さっきの失礼な態度のせいなのか
恐ろしい女たちの声すら聞こえなかった。
思い切り扉を叩いたせいで拳の腹が痛かったが、かまわず叩いては叫んだ。
「ごめんなさい!出してください!お願い!」
「お静かに。」
耳元で響いた低く暗い声に、おおかみの動きは止まった。
扉を背に張り付かせ、暗闇の中へおそるおそる腕を伸ばしたが何にも触れられなかった。
「どうなさいました?」
声は他にも何か、そんな大きな声でとか何とか言っていたような気がするが
聞き取れたのはこれだけだった。
それでも、声は確かに耳でささやかれているような感覚ではあったが、近くに実態はなかった。
おおかみは口の中で鳴る奥歯をぐっと噛んで、声に応えた。
「すみません。真っ暗だったもので。あの、ど、どこにいけば。」
声は、ああ。と笑ったようだった。
「失礼しました。シンポジウムの参加者の方でしたか。」
声色が明るくなったのを感じてたおおかみは、むしろ警戒を強めた。
「ずいぶんとお早いお着きですね。まだ開始まで時間がございましたので
準備がととのっておりませんでした。申し訳ございません。
只今、案内の者を向かわせます。お待ちくださいませ。」
やわらかい声でおおかみにそう言うと、声の主は本当にその場から離れたようだった。
と、突然炎の塊が現れた。かと思うと、瞬時に炎はぶわっと視界一面を覆った
(丸焼きに・・・。焼いて喰う気だ!)
おおかみは悲鳴を上げた。
身を縮めるおおかみの前で、炎は細かく分裂し、動き出した。
炎達は跳ね上がったり沈んだりと、踊っているようだった。
その明かりで照らされた光景を見て、おおかみの悲鳴は感嘆の溜め息へと変わっていった。
どこまでも高い天井は、白と淡いブルーのいくつもの波が逆さまに連なり
その波毎に吊るされているシャンデリアの結晶が、七色に反射して輝いていた。
大理石の床は白く輝き、深紅と黄金で編まれた壁掛けの色を映していた。
そうして暗闇から姿を見せた広間の先に、二つの階段が左右に弧を描いていた。
その階段の手すりを炎が滑りあがると、定間隔で壁にはめ込まれたろうそくに灯りが灯り
瞬く間におおかみの見る世界は、闇から光の世界へと変貌を遂げた。
ぼうっと光の世界を眺めていると、後ろから声をかけられた。
「お待たせいたしました。」
振り返ったおおかみは、再び声を失った
美しいもので満たされたおおかみの瞳には、見た事もない位大きな瞳に見つめられ、閉じる事も出来ずにいた。
「会場までご案内いたします。」
クラシカルな服装に身を包んだ男の体は、おおかみの倍はあった。
顔の半分を占める大きな一つ目が、おおかみの全てを見透かすように見開かれていた。
怯えるおおかみの様子には頓着せずに、くるりと背を向けエスコートを始めた。
かさついた緑色の皮膚から放つ不気味さとは対照的な物腰の柔らかさに、おおかみは戸惑いつつ
大人しく後ろについて歩きだした。
階段には登らずに、そのまま広間の真ん中へと進んでいった。
一つ目はまるでモーゼだった。彼が歩き出す先に、暗闇が裂けて光の道が作られていった。
その光に照らされた大理石の廊下を、巨大な体が揺れることなく滑るように歩く。
おおかみは、姿を見失わないように、ほとんど走って追いかけた。
ずいぶんと走った先で一つ目は止まった。おおかみの息は上がっていた。
金色の細かい装飾が施された白く大きな扉を背に、一つ目はおおかみに向き直った。
「おや?どうされました?息が荒いようですが。」
顔を覗き込まれたおおかみは、体をこわばらせた。
「いえ。いえ。そんな事はありませんよ。ちょっと喉が渇いただけです。」
「さようでございますか。よほどの長旅だったのですね。」
おおかみに笑顔らしきものを見せながら、右腕で扉を開いた。
「会場はこちらになります。」
足元に白いモヤが床を這って広がっていく。
おおかみは、咳き込みそうになるのを堪えた。
部屋の中を除くと、暗闇しか見えなかった。
一つ目は左手でどうぞ、とおおかみに中に入るように合図を送った。
また入った瞬間閉じ込められたらどうしよう、と躊躇したが
入らないわけにもいかず、おそるおそるモヤ中を進んだ。
さっきまでの光達は背後に、うすぼんやりとした淡いの玉が浮いているのが見えた。
一つ目が、ぱんぱんと二つ手を鳴らした。
すると淡い玉から、水漏れしたかの様な雫が零れ落ちていった。
淡く揺れる雫は床へと落ち、四方へと分散して流れていく。
みるみるうちに、高速で流れる光の線が環状に上へ上へと広がっていった。
どこまで上がっていくのか。先まで向かった光は、点にも見えないほど小さくなっていた。
一つ目が、今度は、ぱんと一回だけ手を鳴らした。
それを合図に光の粒が膨れ上がり、一気に辺りが照らされた。
おおかみが立つ場所を中心として、段々に白い壁が広がっていた。
段には座席が設けられていた。
(まるでコロッセオだ。ここで今からオペラでも始まるのだろうか。)
一面に観客がいる事を想像して、一瞬だけおおかみは自分が主役になり喝采をあびた気がした。
「失礼ですが、招待状をお見せいただけませんか?」
一つ目から声をかけられ、現実に戻ったおおかみは、はたと固まった。
(招待状?招待状?)
おおかみには何を言われているのかわからなかった。
(そんな事。あの人言ってたか?)
「受付で改めさせていただいたかと思いますが・・。」
受付の血みどろとツーフェイスは、おおかみを馬鹿にした以外特に仕事はしていなかったと記憶していた。
おおかみの様子に、一つ目は怪訝な表情を、おそらくしていた。
「入り口で確かめる決まりだったのですが、失礼いたしました。ご確認させて頂いていないようですね。」
おおかみは、声もなくうなづいた。
「ですが・・・。まさかお持ちでない。・・という事はございませんよね?」
一つ目の声色に、鈍さが増した。表情が消えたように感じた。
おおかみは耐えられず、一つ目から床へ眼を落とした。
「ちょ、ちょっとまってくださいね。おかおか、おかしいな。」
おおかみの体から汗が吹き出た。
(落ち着け。あの人の荷物は全部預かってきたのだから。大丈夫。きっとこの中に入っている。)
おおかみは背負っていたカバンを床に降ろし、中に手を突っ込んだ。
一つ一つ取り出して見ていくおおかみの上に、一つ目が大きな影を作った。
おおかみの手が震えた。
食べかけのりんご。小石。骨。食べかけの肉。古ぼけた本。はね飾り。小さなどくろ。目玉の入ったビン。食べかけの何か。
招待状は見当たらなかった。
上を見ずとも、影が徐々に大きく迫っている事を、おおかみは感じていた。
「おや?」
低い地の底から響く声に、おおかみの動きは止まった。
「おかしいですね。」
喉元まで出たごめんなさいが、自分の体が宙に浮いた事で、ひっこんでしまった。
代わりに、腹の底からの悲鳴が飛び出た。
一つ目はおおかみの襟首を掴み引き上げた。顔の高さまで持ち上げると、じっくりとおおかみを見始めた。
おおかみは、観念して目を硬く閉じた。食べないように懇願する事もあきらめてしまった。
(おわった。こんな事なら親切にするんじゃなかった。)
おおかみは最後の時を、じたばたせずに迎えるつもりで体を硬くしていた。
が、いつまでも宙に浮いたままで、何も起こらなかった。
おおかみはそおっと目を開けてみた。
と、一つ目がしきりに鼻をひくつかせている様子見えた。
「あ、あの。」
「おかしいですね。微かに臭いがしますので、お持ちのはずなのですが。」
(におい?)
おおかみは、はっとして、ズボンの後ろポケットから白い包みを取り出した。
「こ、これ。」
一つ目は再び笑顔になったよう見え、ゆっくりとおおかみを床へ降ろした。
「あなたの種族は嗅覚が鋭いですから、ぼかし布で包んでおられたのですね。」
おおかみは何の話かわかっていなかったが、はいと、とりあえず返事をした。
一つ目が白い布をめくり中身を改めた。包まれていたのは黒い塊だった。
柔らかくなったバターみたいな物のようで、めくられた布にも黒くへばりついていた。
「では、お預かりいたします。」
満足した様子で、一つ目はそれを右の手のひらで優しく包んだ。
その泥のような物体が招待状だったようだ。おおかみは食われずに済んだことが本当に嬉しかった。
恐怖から萎えた足にはまだ力が入らず、まだ震える手で床に散らかしたカバンの中身をしまっていった。
「確認しました所、お客様のお席は132の58でした。開始までそちらでお待ちください。」
そう言うと、一つ目が声をかけてきた瞬間、おおかみのお尻が床から浮き上がった。
気がつくと、丸い透明なカプセルの中に入れられていた。
(いつの間に!)
内側からカプセルの壁に手をついた。壁は硬く、ガラスのように冷たかった。
カプセルはゆっくりと上昇していった。どうやら指定の席へ運んでくれるらしい。
一つ目から徐々に離されていき、おおかみは安堵のため息を腹から吐いた。
(ここまでくれば安心だ。)
おおかみに軽く会釈をして、立ち去ろうとした一つ目が、何かを思い出したのか、ふと振り返った。
「あ、お飲み物をご用意いたしますが、何がよろしいですか?」
「え、じゃあ。ビールを。」
ここまで続いた緊張で喉があまりにも渇いていたせいで、咄嗟にでてきてしまった。
しまったと思ったが遅かった。
一つ目は大きな目をさらに大きくして、驚いた様子でおおかみを見つめた。
(もう、本当に終わりだ。)
きっとカプセルは叩き割られ、自分の体は引き裂かれるんだ。
もしかしたら、見せしめに首だけ晒されるかもしれない。
おおかみは、また絶望感に落ちた。今度こそ、もうばれてしまったと。
「これはこれは。」
うなだれたおおかみの耳に、一つ目の笑い声が聞こえた。
「ずいぶんと上手に溶け込んでいらっしゃる。」
一つ目の顔をみても、その表情が何を現しているのか、おおかみには読み取れなかった。
(やっぱりばれてしまった・・・。)
むしろ、この無謀な計画が、ここまで成功した事の方が奇跡だったと。おおかみは自分を慰めた。
「みごとな人間仕様に、できあがってございますよ。」
一つ目は、口角をかすかに上げたまま、また会釈をして部屋を後にした。
その背中を見送りながら、おおかみは小さく拳を握り締めてた。
どのぐらいの時間が経ったのかはわからない。
今、おおかみはほろ酔いの良い塩梅で、開始時間を待っていた。
カプセルは目的地へ着くと弾けて消えた。
程なくして、小さなカプセルがビールを運んできてくれた。
ビールは完璧に冷えており、おまけにつまみに枝豆までついていた。
一つ目が、出来る魔物であることは間違いなかった。
当初、始まってしまえば後は大人しくやりすごせばいいと考えていたが
はたしてうまくいくのか、不安になってきた。
ちらほらと席につく影が増えてきているが、まだまだ全然埋まっていない。
見渡す限りの座席全てに、あの魔物達が座る事を思うと、吐きそうになった。
これから始まるシンポジウムは魔界で定期的に開催されている。
大体いつも人間との関係性が議題になり、その歴史はおよそ五千年前からだと言われている。
いわば、魔界の未来を話し合う場だ。
今回のテーマは「ネット社会においてこれからの悪役の在り方について考えよう」だった。
電子の波及によって、実態を持たない恐怖が生まれ、世界を飲み込んでいった。
「悪い事をしていると、こんな悪い奴がでてくるよ。」といった教訓的な昔話は通用しなくなっている。
それに伴い、魔界の住人達は次第に怖がられなくなり、存在を忘れ去られつつあった。
悪役である魔物達も、みんな生きる意味を探しているのだ。
(ここに人間が混じっているなんて。みんな思いもしないだろうな。)
大神は、枝豆を爪で取り出しては、見かけだけの狼の口の隙間へほおりこんだ。
もう何回か失敗していて、マスクの中に豆が転がっていた。
優秀な人材の用意したビールにはストローが付いていたおかげで快適に飲む事が出来る。
ひょんな事から魔界へと足を踏み入れたのは一昨日の事だったはず。
さらに狼人間の頼みで、こんな大規模なシンポジウムへ参加せざるを得なくなり
狼と別れた日が、大神にとってはもう何ヶ月も前の出来事に思えた。
(さて、これからどうしようか。)
大神は自分が生きて帰れるかどうかを不安に思いつつも
思っていた以上に美味い魔界製のビールが、疲れた頭をほぐしていく感覚を楽しんでいた。
人は見かけではないな。と一つ目の細やかな気配りに感謝した。
くたびれた悪