practice(52)




五十二







 絨毯に転がるプラスチックのボールは,その先に立つ十本のピンに向かっている。数本の大きな花を挿した陶器の瓶が置かれていた机からテーブルに移されて,カレンダーは何事かを書き込まれてそのまま覚えている。ただし承ったそのご用件は分からない。片付けられていない布巾は放置され,白い靴下を履いたような飼い猫がキッチンシンクのふちを歩き,ピーナッツの缶は原色のラベルを見せて,そこに書かれた原材料の細かさに関心を払うようにして,犬は待ての状態でいる。中型犬で従順,その毛にブラシは今朝方済ませた。ベランダにもともに出た。同じく原材料の内容よりフォントに興味を示しているのは私だ。その表示の,よりベターを求めている。
 暗いというわけではない。十階にあるマンションの,ひと部屋であるリビングのカーテンは対で開かれて,絨毯の上のスペアのチャンスには,無事に向かえた二人目の息子とともにレースの刺繍が影として施されている。照明だって点いている。何だって見えないことはない。ただ角度によっては見えないだけ,疚しい用事を堂々と書き込む妻ではない。飼い猫も水栓ハンドルを叩いて,キッチンシンクに水を流した。そしてそのまま向こうに消えていく。私は腕組みを解いてハンドルを下ろし,シンクを叩く音を止めながらカレンダーに向き終わったらしい(ペンのキャップを閉めていた)妻を見て,犬を見て,ピーナッツ缶のフォントを見た。手に取らなくてもよく読める。しかしパーセンテージのところが特に引っかかる。これはこのままでいいのだろうか,その前の文字か余白に何かあるように思える。
「黒電話がある部屋は鈍重である,そうよ。」
「え?」
 放りぱなしの布巾を用いて,花を挿した陶器の瓶が置かれたところ以外の,円を描くようにテーブルを拭く妻は私を見ずままにそんなことを言ったようだった。テーブルは丁度キッチンと対面する形にある。だから私は振り返ってまで見つけた妻のその姿に対して,もう一度聞かなければいけなかった。
「黒電話がある部屋は鈍重である。そうらしいわよ。」
 妻はやはりそう言った。私はもっと詳しく聞かなければいけなかった。
「誰に聞いたんだい,そんなこと。」
 あら,という素ぶりを背中でみせる妻はテーブルの半分を拭き終わった。
「あなたのお婆ちゃんよ。」
「いつ?」
「ここに移り住む前。引っ越す際の荷造り中よ。手を動かすには口も動かした方がいいって言うからね,ずっとお喋りしてたの。」
 そう言って妻は布巾から手を離し,花を挿す陶器の瓶を持って,私から見て左端に置いた。
「どういう意味だい,それ?」
「そうよね,気になるわよね,やっぱり。」とそこの拭き掃除を始めようとした手を止めて,振り返る妻はしかし結局分からないと言って,続きを始めた。
「私もね,その場ですぐにお婆ちゃんにどういう意味ですか?って聞き返したんだけど,お婆ちゃんも旦那さんの方のお婆ちゃんから聞いたんだって。黒電話は家に置くとそうなるわよ,知っておきなさいって。」
「悪いことっていう意味で?」
 そう聞いたことに,妻は首を振った。
「私もそう思ったし,お婆ちゃんもそう思ったみたいだけど,置くなとは言われなかったらしいわ。ただ置くなら知っておきなさい,っていう忠告というかアドバイスみたいなものかしらね。」
「私は一度も聞いたことがない。」
「あら,そう。」
 と素っ気ない妻はそこも拭き終わって,テーブルの上を元に戻した。
「なんで君に?」
 スペアをとり,続いてストライクをとった息子に栄誉を与える笑みを私も妻も見せながら,私は対面した妻にもう一度同じことを聞いた。
「なんで君に?」
「知らないわ。」
 簡潔明瞭な答えを残して,妻はリビングからキッチンに向かう。 視線で追いつつ,私は待てをする犬に合図をして自由にした。犬は中型犬らしい喜びで尻尾を振り,キッチンの方に向かった。
「ただの話題の一つだったんじゃない?必ずしておかなくてもいい類(たぐい)の。」
 水栓ハンドルを浅く下げて,布巾を水で洗う妻は私の横顔に向けてそう言った。一応の気づかいが窺えた。
「まあ,いいや。それは。そのことは。でも君はどうして?」
「どうしてって?」
 妻は首を捻った。だから私は聞き直した。
「いや,なんで君は今そんなことを言ったのかということだよ。」
 水栓ハンドルを上げて,水に止まったことが聞こえない音で強調されてから妻は布巾を絞って,残りを流した。絞った形,目に見えて小さくなった布巾はコロンとタイルに転がされて,妻は濡れた手をそこに掛けたタオルで拭いている。
「思い出したからよ,ただ。掃除の途中だったし,片付けってところがあの時と同じ雰囲気というか状況だったんじゃない?だからついで。掃除のついでよ。」
 妻は私の顔をそう言って見終わってから布巾を広げ,いつもの位置に戻した。それから足下を気にして,やはりそこに居たか,あるいはそこに戻って来たか飼い猫を抱き上げた。鼻と鼻とを合わせる,その様子はいつもと変わらない。
「しかし私たちの家にはその黒電話があるじゃないか。」
 と,私ははっきりと言った。
「そうなのよね。それは,問題なのかしら,ね?」
 と応じて,妻と飼い猫は私を見た。
 黒電話はまだまだ使える。現に今も鳴るのだ。
 キッチンを挟んで立っていた私たちの位置から,私の方が黒電話をとるには近かったのだが飼い猫を抱きかかえたままの妻がキッチンから先に出て来て,飼い猫を片手にその電話をとった。ちりん,はその音だけ切れたようにも思えただろう。「はい,◯◯です。」と言って,電話をしている妻の姿を見なければ。聞き耳を立てるつもりでなくても聞こえる。なんせ私たちはともに家に居るのだから,息子が後ろでピンを何本か倒して,ボールを壁にどんっとぶつける。妻は「はい,」と言い,「違いますよ。」と言い,「ええ,こちらは◯◯◯…,」と私たちの家の住所を相手に伝えていた。
 それから沈黙,「いいえ,いいえ」を二回繰り返して妻は黒電話の電話を切った。
「なんだったんだ?」
 私は聞いた。
「宅配ピザの間違い電話。電話番号が違ってたみたい。」
 妻は私を見てそう言って,飼い猫を両手で抱き直してからそのまま奥の,玄関とリビングとの間に一部屋挟んだ自室に入っていった。
 宅配ピザ。デリバリー。
 私の背後でボールを転がす,息子が何度目かのストライクを出す。私は黒電話を手にとって宅配ピザ屋に電話をかけようと思ったが,電話番号すら知らないことに気付いた。普段ピザを食べないからだ。ツーツー音は耳元でどうすることも出来ない。
 受話器を置き,黒電話から離れて,私は妻がカレンダーに書いたことを見た。
『花屋,三時』
 それ以外にない。
 私は再び黒電話の前に戻ってきて,黒電話の受話器を取った。覚えているその番号が表示されている数字の窪みに指を引っ掛けて,回し,引っ掛けて,回す。回し終えて黒電話が繋げた先は祖母の家だったが,電話口に出たのは祖父であった。
「久しぶりです。◯◯です。」
 おーおーおー,っと久しぶりな気持ちを祖父は存分に表して,私は祖父の近況と私たちの近況,息子が元気であることを伝えて,最後に祖母は居るかと聞いた。
 あいにくと出掛けているとのことだった。
 それで私は祖父に黒電話の話を聞いた。さっき妻から聞いたことだ。『黒電話を持つ部屋は鈍重になる。』。祖母が妻に話した,そういうことだ。祖父は「あれがそう言ったのか」と応じて,「うーむ」とも言えない唸りを聞かせて,思い当たることがないということを私に言った。「深い意味はないだろう,あれは『遊び』が好きなもんだ。」とも言い,私は「そうですか,では今度は私たちが本当に遊びに行きます。」と伝えて,さよならの挨拶とともに受話器を置いた。
 電話は切れた。黒電話だった。
 スペアを交えても,私たちの息子がコツを掴んで繰り返しストライクを出し,転がしたボールの勢いが止まらずに壁にぶつかって戻って来たところを見届けてから,私は犬を探した。待てを止める合図を示してからまだ見ていない,中型犬だから隠れて見えないことはないはずだけれども,居ない。リビング以外のところ,と考えるのが普通だろう。球技に夢中になって周りが見えていない息子を除いて,ここに居た私が気付かなかった機会といえば黒電話を使って祖父と話していたときだ。しかしその時だと断言できない。黒電話を使って話している,私の背後を通って出ていく犬の姿を想像はしても。
 腕組みを戻して,私はピーナッツの缶を見た。フォントが伝えるのは原色の色で目立たせたラベルの中の,それは原材料に関する記載だった。





 








 

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-25

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