希望と絶望のエクスプローダー
「死に至る病」とは、絶望のことである。 ――セーレン・キルケゴール
1.
じめじめした気持ちの悪い空気が体を取り巻いている。
部屋のくすんだ窓から差し込む紅い夕日が、シミの付いた畳を照らしている。
朝倉沙織は、電気の消えた薄暗い部屋の中で、どこか遠くを見つめていた。あるいは、何も見ていないのか。
部屋の中央には一つの小さな木製の椅子と天井から垂れ下がる一本のロープがあった。それはしっかりと天井の梁に括り付けられ、先端には輪が作られていた。
「……」
沙織は何か言いたそうにリビングをのぞいた。だらしない格好で飲みかけのビールをそのままに眠りこけている母親の姿があった。
沙織の母親は風俗店に勤めている。昼間はこのようにずっと寝ていることがほとんどである。父親は沙織が物心着く前に蒸発した。
いったい何のために自分はいるのか? 沙織はその自問を幾度となくしてきたが、答えを得たことは一度もなかった。
沙織は小さくため息をつくと、再びロープに目をやった。そして決意したようにロープを両手で握り、輪に頭を通した。
「……」
しかし足下の椅子を蹴ることは無かった。否、できなかった。自身でも気が付かぬうちに涙を流しながら、沙織はロープから頭を引き抜いていた。
「……できない」
沙織のすすり泣く声は、部屋の外まで聞こえることはなかった。
日曜日、沙織は駅のホームにいた。
どこかに旅行に行くのだろうか、お洒落な服を着た子供連れの家族が、楽しそうに談笑していた。あまり大きく無い駅ではあり、大都市と大都市の間に位置するため、快速や特急が駅を素通りしてゆく。目の前を高速で過ぎてゆく電車を眺めながら、沙織は足の震えを必死に押さえていた。
『ホームに列車が参ります。危ないですので、黄色い線の内側までお下がりください』
駅員の放送と同時に耳障りなアラームが構内に響きわたった。
「特急……」
遙か遠くに見える列車はみるみるうちに近付いてきた。眩しいヘッドライトに沙織が目を細めた途端、目にも留まらぬ速度でホームを通り過ぎていった。沙織の足はいまだに震えていた。
思い詰めたようにくるりときびすを返した沙織は、電車に乗ることはなく、駅の改札に向かった。改札で真新しいままの切符を駅員に渡すと駅員は怪訝な顔をしたが、何も言わなかった。
駅の外に備え付けられていた、木製のベンチに腰を下ろした沙織は深いため息をついた。
――やはり、怖い。
膝の震えは収まったものの、頭の中のモヤモヤが晴れることはなかった。
突然、沙織の隣に男が座ってきた。びっくりして思わず男の顔を見た沙織は、その顔に見覚えがあった。
「えっと、神尾君?」
「どうも、こんな日に会うなんて奇遇だね。」
「う、うん……」
沙織のクラスメイトの神尾雅彦である。くたびれたジャケットを羽織った雅彦は買ったばかりなのであろう、まだほんのり暖かい缶コーヒーを沙織に手渡した。
「……自殺しようとしていたのか?」
「えっ……」
思わずコーヒーを吹き出しそうになった沙織は、雅彦を驚いたような目で見つめていた。なぜ分かったのだろう? 端から見ても分かるぐらい挙動不審だったのだろうか?
「ホームに立ったまま、電車に乗ることなく、来る電車を悲しそうに見つめてれば自殺しようとしていることぐらい分かるよ」
「……やっぱり、ダメだよね。自殺なんて」
「……さあ、僕には分からないよ。自殺自体が良いか悪いかで片づけられるものじゃないし、そもそも他人の僕がいろいろ言えることじゃない」
「そう、だね」
それからしばらく、沙織は自殺しようとした経緯を、雅彦に話した。よくない家庭環境に積み重なるストレス、またそれを発散できずにため込む性格など、様々な要因が積み重なることで沙織の自ら命を絶つことへの道を加速させていたことを雅彦は知った。しかし、その要因は誰しもが起こりうるものであったことも事実である。雅彦はしばらく考えるように腕を組んだまま、足下を見つめていた。
それから沙織の顔を見ると優しく笑った。
「確かに悪い条件が重なってしまったっていうのは不幸なことだと思う。……でも今死ぬことに、どれだけ価値がある? 死ぬなとは言わないけど、死んで損しちゃ意味ないだろう?」
沙織は黙ってコーヒーの缶を見つめた。死ぬことの価値? そんなことは考えたこと無かった。いままで生きているのがイヤだから死ぬ、という漠然とした考えしか持ち合わせていなかった沙織は、雅彦の問いに答えることはできなかった。
雅彦は立ち上がると、沙織の顔を見て言った。
「君はまだ死ぬ怖さも知らないし、生きる怖さも知らない。まだ時間なら腐るほどあるんだし、死ぬことばかり考えなくてもいいんじゃない? それじゃ、またね」
「あ……、うん。ありがとう」
沙織の礼は雅彦に届いたのだろうか? 雅彦は振り向くことなく歩いていった。
2.
風が冷たくなってきた。
沙織は駅で雅彦と別れた後、あたりが暗くなってからも、街中を宛もなく歩いていた。しかしながら駅にいたときとは違い、体が軽くなったような感覚に、沙織は喜びを隠せなかった。話を聞いてもらったことで、ため込んでいたマイナスの因子が多少なりとも軽減したのであろう。お洒落な服を眺め、楽しむ余裕が出てきたことはかなりの進展だろうと沙織は自分を元気づけた。
「そこのお嬢さん、ちょいといいかね?」
「えっ?」
沙織の背後から突然、しわがれた声がかかった。少し驚きながらも振り返ると、そこには一人の老人が杖を突いて立っていた。ほとんど閉じた目は笑っているようにも見える。
「あの、なんでしょうか?」
「ちょいと荷物を運ぶのを手伝ってもらいたいんじゃ。わしじゃちょっと無理そうでな……」
「私でよければ良いですよ」
「そうか! そいつはありがたいのぉ!」
老人は嬉しそうに沙織の手を握った。正直なところ、沙織は体力に自信はなかった。しかしむげに断ることもできずに、老人について行くことになった。老人も華奢な体の沙織に声をかけたぐらいだから大丈夫だろうと沙織は思った。
老人は自分の店まで来て欲しいと言って路地裏に入った。人が一人通れるかといったような狭い通路を縫うように進むが、通路には錆び付いたエアコンの室外機や散乱したゴミなどが散らばっており、不快な臭いも漂っていた。
「あの、どこまで行くんですか?」
「なに、もうすぐじゃよ」
振り向くことなく言う老人はさっさと路地を進んでゆく。かなり奥まで進んだところで老人はぴたりと止まった。
「あ、あの……」
「嬢ちゃん。ちょいと耳貸してくれるか?」
「え?何ですか?」
そういって老人に近付いた沙織は突然振り返った老人に口を掴まれた。正確にはハンカチのようなもので無理やり口を押さえられたのだ。老人の見かけからは想像できない力強さで、押さえられる沙織は抵抗しようとしたが、突如として立ちくらみのような症状が襲った。そして視界がぼやけたかと思うと足の力が抜け、地面に崩れ落ちた。視界がブラックアウトする直前、見えたのは複数の男がタイミング良く現れ、沙織を取り囲んだ光景だった。
3.
沙織は両手の痛みで目を覚ました。何事かと思い、手を目の前に持ってこようとしたが、真上に吊されている手は僅かに揺らせるだけであった。周りを見渡してみると、どうやら薄暗いホールのような場所である。片側の窓には数枚の窓があり、月明かりが差し込んでいた。ホールには何やらいろいろなものがあるようだが、暗くてよく分からなかった。
「起きたか」
突然暗闇で声がした。聞き覚えのある声に沙織は怒りが沸いた。
「いったい何なんですか! ここはどこですか! 私に何をしたんですか!」
「そうわめき立てるな。小娘が」
声の主は座っていたらしい椅子から立ち上がると二、三歩、沙織の方に歩いてきた。月明かりが照らし出したのはしわの刻まれた老人の顔、やはりあの時沙織に「荷物を運ぶのを手伝ってくれ」と言った老人の顔だった。
「お嬢ちゃんみたいな若いもんが夜にあんな場所うろついてちゃいかん。……まあ、もう遅いがな」
「何をするつもりですか」
「心配せんでいい。わしらがあんたを傷つけるようなことはせんよ」
そういったと同時に、ホールのドアが開いて電気がついた。数人の男が女子高生と見られるぐったりとした少女を引きずるようにして連れてきた。そしてそのまま沙織の隣の壁に、沙織と同じように縄で繋いだ。
「お前らバカか! あれほど電気はつけるなと言ったろうが!」
「でもこんな山奥に誰も来やしねぇっすよ。それに真っ暗じゃ何も見えませんよ?」
「ふん!」
苛立ったように腕を組んだ老人に、大きなビニールの袋を担いだ男が話しかけた。ビニールは真っ黒で重そうである。
「ああ、それと……ちょっと突っかかってきた奴が居たんでシメたんスけど、どうしたらいいっすかね?」
「シメた? ……まさか、殺したってことか?」
老人が怪訝な顔をして問い返すと、男はビニールの袋を床におろした。ぐちょり、と粘着質の音が気持ち悪くホールに響く。老人は声を荒げた。
「貴様ら……! よけいな手間を増やしやがって、このクズどもが! 依頼者が要求したのは女であって死体じゃないんじゃぞ!」
「んなこと分かってますって」
どうやら見た限り老人がリーダーで、後から入ってきた男達が部下のようである。にしてもあの袋の中にはまさか本当に死体が入っているのであろうか? だとすれば大変なことだし、非現実的である。
「ったく仕方ねぇからバラして捨ててくるっす」
「……足が着かんように気をつけるんじゃぞ。日本の警察は鋭いからな」
「はいはい……っと!ヤベッ」
袋を担ぎ上げようとした男はバランスを失ったのか、よろけた。拍子に袋のつなぎ目が少しだけ破れ、中の死体が転がり出てきた。血塗れになってひしゃげた中年の男の顔が沙織を見上げた。
「きゃあああああああああぁぁぁぁっ!」
「うるさいわ! 死体一つ見たぐらいで叫ぶんじゃない! ……ったく、さっさと持って行け!」
男は素早く袋に死体を押し込むと沙織の顔を見た。
「テメェもこんなになりたくなけりゃおとなしくしとけや? 俺らうるせー奴嫌いだからよぉ」
「おい、さっさと……」
老人が再び男を叱り飛ばそうと口を開いた瞬間、沙織は男の背後の窓に小さい光を感じた。フラッシュのような一瞬の輝きの後、ガラスの割れる音と共に、目の前の男の頭が吹き飛んだ。飛び散った肉片が沙織にも飛んできた。
「ひっ!」
「な、なんじゃぁ……?」
あまりにも恐怖が大きいと声すらでなくなるものだと沙織は思った。叫ぼうと息を吸うものの、うまく息が吸えない。老人はというと、目の前の出来事に呆気にとられていた。
「組長! ご無事ですか!」
ドタドタと騒がしくホールに入ってきた男達はみな、手に拳銃やら短機関銃やらを持っていた。その誰もが屈強と言い表せるほどに肉体を鍛え上げていた。
「い、いかん! 来るんじゃない!」
しかし老人のその言葉をかき消すかのように再び銃声と悲鳴が上がった。それは絶叫と言うべきか。見れば、スキンヘッドの男の二の腕から先が、まるで千切れたように吹き飛んでいた。スキンヘッドの男が上げる絶叫を無視するように、連続して轟く銃声は的確に男達を撃ち抜いていった。サングラスをかけた男は密輸品の短機関銃を握りながら、歯をかみしめて叫ぶ。
「畜生!こいつぁ爆裂弾頭弾(エクスプローダー)だ! 気をつけ……」
しかし、男が言い終わる前に銃弾がコンクリートの壁を貫通して男の首を撃ち抜いた。
4.
ものの数分でホールは静まり返った。床に転がる男達は皆、息絶えていた。
「いや、いや、いやだぁ……」
やっと言葉を絞り出せるようになってきた沙織は、首を左右に振りながら吊された腕を何とかほどこうと必死だった。このままでは自分も撃たれるかもしれない。目の前に転がる肉塊と同じようになるかもしれない。流れ出る血液の生臭さと焦げたような臭いで、涙を流しながら無我夢中で腕を振り回した。
――ヒュッ、カシャンッ!
金属がぶつかり合うような、耳慣れない音が聞こえて沙織はぴたりと動きを止めた。壁をたたくようなコツコツという音が、僅かに部屋に響く。
「……なに?」
だんだんと近づいてくる音に、沙織の心臓は破けそうなくらい高鳴っていた。恐怖で体全体に震えが来る。
そして、それは現れた。
突如として窓から飛び込んできた真っ黒な人影に、沙織は有らん限りの悲鳴を上げた。屋上から伝ってきたのか、紐が窓の外に伸びていた。黒い人は長い棒のようなものを背中に背負っていた。もしこの黒い人が先ほどの惨劇を起こした人物であるならば、きっとそれはライフルか何かであろう。
「いや!いや!来ないで!……お願いだから殺さないで……」
「……いったい何を勘違いしているやら」
黒い人は呆れたように言った。その場違いすぎる軽い言い方と声に沙織は聞き覚えがあった。というよりすぐに誰だか見当がついた。しかしそうだと信じるのには多少の時間を要したのだが。
「え、……神尾、君?」
「驚いた?」
「なんで……?」
全身を特殊部隊のようなバトルスーツで固めた黒い人影、雅彦は腰のホルスターから減音器(サプレッサー)付きの拳銃を取り出しながら沙織に説明をした。
「驚いただろうね、まさかクラスメイトが銃を撃って人を殺してるんだから。でもこれが僕の仕事。お金をもらってお願い事を聞くフリーの暗殺者(アサシン)だよ」
「そんなの、フィクションだと思ってた……」
「まあね。僕はある人の依頼で君をずっと監視していた。君が自殺するのを止めさせるためにね」
沙織は言葉がでなかった。あの時駅でタイミング良く現れたのは自分が監視されていたからだというのか。
「それで自殺は何とかくい止めたけど、今度はさらわれてるじゃないか。だから助けに来たんだよ。依頼は君の存命が前提だから」
「でも!なにも全員殺さなくても……っ!」
「……それはまた別の依頼。さあ一緒に来てくれ。その依頼を終わらせる」
そういった雅彦は、沙織が繋がれている縄を切ると、真っ暗な施設の中をまるで知っているかのように歩き出した。沙織はホールから出た時、ここが西洋風のホテルであることに気がついた。錆び付いたランプや埃の積もったカーペットが、長い間放置されていたことを物語っている。
雅彦は階段を下りると、通路の先へと急いだ。突き当たりにはほかの部屋とは違う、少し豪華な木製の扉があった。
「偉そうに……。最高級スイートルームだ」
「ここ……?」
「鍵がかかってるな。今更鍵をかけても無駄だということが分からないか……ちょっと下がって耳をふさいでいて」
「な、何するの?」
「鍵を開けるのさ」
そういうと雅彦は別の拳銃のようなものを取り出した。真ん中から二つに折れるようになっているそれは、一発だけだが強力な弾丸を発射できるものだった。その名も「ドアノッカー」という。
「吹っ飛ばすものだけどね」
「え?なに?」
「耳をふさいで!」
沙織が手のひらを耳に押しつけた途端、爆発音が振動となって体を振るわせた。ドアノッカーは閃光とともにドアの鍵の部分を周りの木ごと吹き飛ばした。とっさにドアを蹴破って雅彦が部屋の中に飛び込んだ。沙織も慌てて中に駆け込むと、高そうなソファの上にびっくりしてひっくり返っているあの老人がいた。目の前に銃を突きつけられてぶるぶる振るえていた。
「近藤源次郎だな? 中国、中東、韓国方面のマフィアに少女を誘拐しては売りさばいていただろう。間違いないな?」
「な、なんだ貴様は! 警察か?」
「お掃除屋さんだよ。中世ヨーロッパで滅びた訳じゃないんだぜ?
……俺はある組織の依頼でお前を殺しに来た」
老人はあわてた様子で携帯電話を取り出した。一瞬取り押さえようとした雅彦は、携帯電話のディスプレイに表示された中国語をみてニヤリと笑いながら銃を下ろした。
「なぜだっ! なぜ誰も出らん!」
「中国人(チャイニーズ)マフィアだろ? 俺が依頼を受けたのもそこだ。……あんたはそろそろお払い箱だそうだ」
「なん……だと……っ!」
「最近部下が言うこと聞かなくなってきたんだって? 警察にも勘ぐられだしたみたいだし、向こうも手を切るってさ」
淡々と話す雅彦は拳銃の引き金に指をかけた。長々と話すのは暗殺者としてはあまり良くない行動である。そんなものは映画やマンガの中だけの話なのである。何か言おうとした老人が沙織と目を合わせた直後、雅彦は引き金を引いた。沙織は老人がソファごと倒れるまで怒りの眼差しを向け続けた。
5.
廃墟のホテルから抜け出した沙織と雅彦は、雅彦の仲間の車に乗り込んだ。仲間も気を使ったのか、沙織のことは何も言わなかった。
「死ぬ価値って何なの?」
沙織は独り言のように呟いた。
「自己満足だよ。ただそれに尽きる」
「……神尾君って冷酷なんだね。最初は優しい人かと思ってたけど、こんなに簡単に人を殺すなんて……」
「憎い?」
「……分かんない」
沙織は俯いたまま、消え入りそうな声でつぶやいた。そんな沙織に小さな拳銃を渡した。女の子の沙織ですら手のひらに納められるくらい小さなものだったが、一緒に雅彦が渡した銃弾は、紛れもない本物だった。
「もし、僕を殺したいほど憎んでいるなら、僕を撃ってもかまわない。僕はそんな世界に生きている」
「……」
「人の命が軽いか重いかなんて比べようがない。結局、何を言ったってその人の価値で決まってしまう。なら、自らの価値を示さずに死ぬのは勿体無いだろう? ……でも、本当に死にたいって時もある。生きるのが地獄のようにつらくて、悲しくて、虚しいものだと感じて、死ぬのが苦痛から逃れる最高の方法だとしたら……」
「引き金を引けってことね」
「多分……僕が知る限り、一番楽な死に方だ」
沙織は家の前で車から降ろしてもらうと、雅彦に小さく手を振った。すると雅彦は車から降りてきて言った。
「僕はもう、学校には行けない。別の場所に移る。だけど、君はがんばって欲しい。死ぬその日までね」
「うん……ありがとう」
「希望を持て。 『死に至る病とは、絶望のことである』……キルケゴールの言葉通り、君は絶望によって死に至りかけたわけだしな」
そういうと、雅彦は車に乗り込んだ。雅彦をのせた車が去ってゆくのを、沙織はいつまでも見つめていた。肌寒い外でも沙織の心臓は高鳴り、体温は上がっていた。
沙織が家に入ると、案の定母親は居なかった。おそらく今日も夜のお相手をしに行っているのだろう。だが、いつもと違う事もあった。
「なんか……きれい? 片づけたのかな?」
部屋の中に散らばっていたゴミは無くなり、汚れも拭き取られていた。ものはきちんと仕舞われ、ぐちゃぐちゃだった洗濯物はきちんと畳まれていた。何より沙織が驚いたのは、部屋に吊しっぱなしだったあのロープがきれいさっぱり無くなっていたことだった。そしてその下に置いてあったままの木の椅子の上には手紙があった。
「……お母さん?」
『沙織へ―――いままで私はだらしない人間でした。お父さんが蒸発してから生きる気力もなくなって、いつも死ぬことばかり考えていました。でも沙織まで死のうとしていたことに気付いたら、母親がこんなんじゃいけないと思いました。今日は遅くなるけど、また一緒にご飯を食べよう―――お母さんより』
沙織は手紙を読み終わると、とめどなく涙を流した。自分と同じように母親が悩んでいたことに全く気づけず、まるで自分だけが不幸のように思い込んでいたことに悔しさと悲しさがこみ上げてきた。
「お母さん……」
6.
雅彦は、深夜のファミレスの四人掛けの席に座っていた。二十四時間営業のファミレスであるが、日付が変わってからは客がほとんど居なかった。
「待たせてしまったかしら?」
「いえ、大丈夫ですよ」
雅彦はいったい何が大丈夫なのかと自問したが、答えが出る前には別のことを考えていた。雅彦と反対側の席に座った女性は、年齢を三十過ぎだと言っていたが、メイクテクニックとおしゃれな服装でまだ二十代に見えた。女性はウェイトレスにコーヒーを頼むと、雅彦をじっと見つめた。
「結果を聞かせて欲しいわ」
「すべて上手く行ったと思います。朝倉沙織さんは自殺に関しての見方を変えつつあるようです。それと、今回の事件を経験してか、精神的にも成長した点が見られました」
「そう、あなたに頼んだ甲斐があったということね。私じゃあの子の心のケアまで出来ない。……もう私はいらないかしらね」
ウェイトレスが運んできたコーヒーに口をつけると、女性は自虐的に笑った。その笑顔には悲しみも混じっているように見えた。
「あとはあなた次第です。まあ、荒療治でしたが、効果的だったとは思いますよ。……親であるあなたが、どれだけ沙織さんに接していけるかですよ。朝倉美世子さん」
雅彦を見つめながら小さく笑った美世子は軽く瞼を閉じると、何度も頷いた。
「分かってるわ。そろそろ水商売から足を洗おうと思うの。……娘のためにもね」
「それはいい。……それでは失礼しますよ」
「あなたは……これからどうするの?」
雅彦はすこし考えるような仕草をすると、笑いながら答えた。子供のように無邪気な、しかし悲しみを湛えているような笑顔だった。
「とりあえず星に願いでもしますかね。丁度、今夜は七夕ですし……まあ、『今日』になったばかりですが」
美世子はクスリと笑いながら、去り行く雅彦の背中を見つめ続けていた。小さくありがとうと言いながら。
七夕
「今日は七夕よ」
美世子のその一言で、朝倉家は今まで見たこともないくらい豪華で家庭的な食卓を囲んだ。ふつうの家庭から見れば一般的な食事でも、沙織から見れば最高の食卓だった。実際のところ、七夕と食事は何のつながりもないものだった。しかしそんなことはどうでもよかった。
「ねえ、沙織は七夕、何お願いするの?」
「そうだなぁ……」
沙織はふと雅彦の顔を思い浮かべた。もしこの願いが叶うとしたならば、「貰った銃を突き返したい」と願うつもりだった。しかし嬉しそうな母親の顔を見ていると、別の願いも思いついた。
「明日もお母さんとご飯が食べられますように、って」
美世子は少し驚いたように箸を止めると、一筋の涙を流しながら笑った。
「それなら叶いそうね」
希望と絶望のエクスプローダー
どうも、優羽です。今年の冬はびっくりするくらいの寒さでした。さて、最近はなかなか更新がうまいように進みませんでした。ぜんぶ期末考査のせいだ、なんて。今回の「希望と絶望のエクスプローダー」は、私が文芸部に入って初期の頃に書いた作品です。今になって見直してみたら、推敲はしてないわ文章の書き方はおかしいわ三点リーダーの使い方はなってないわで、自分がいかに未熟だったかがよく分かりました。若干手直しした今回の作品はいかがでしたでしょうか。ここまで読んでくださった方々に、無上の感謝を。それでは。