林の海

林の海

 カーテンを開け、ベッドからぼんやり空を眺めていた。幾重にも重なる雨雲がものすごい速さで北に流れていく。時おり、雲間から日が差したかと思えば、あっという間に暗くなり豪雨が窓を打つ。台風が近づいている。激しい風に、近くの公園の雑木林が大きな音を立てている。

――風邪かな。以前から頭痛持ちではあったけど、今日はいつもに増してずきずきする。でも熱はなさそうだし、生理もまだだし、きっと気圧が関係しているかもしれない。一葉(カズハ)は、そう思った。
 以前、病院で検査を受けたことがある。頭痛は緊張性のもので、原因は疲れとストレスだろうから、無理し過ぎないようにと言われた。
 鎖骨や両腕、肩甲骨から、何本もの太い針金が首筋を通って、奥歯からこめかみを、鼻の奥から眼底を目指して伸びていく。それらはやがて頭全体を覆って縛りつけてくるようだ。思考までもが固まって、頭が白く濁ってぼんやりしてくる。考えるのが億劫。でも何も考えなくてすむ、そう思った。
 のそのそと枕の先に手を伸ばし、携帯を取る。日曜の朝十時。
――休みでよかった。
 重い体を起こし、市販の感冒薬を取り出して、水道水で飲み込んだ。部屋に戻り、カーテンを閉じて、もう一度毛布にもぐった。温かい毛布の中で小さく丸まっていると、このままずっとこうしていたい気持ちになる。 
 林のうなる音を聴いていると、実家のある葉山の海を思い出す。夜、街が寝静まる頃には、波音が心臓の鼓動のように聴こえて、心が安らいだものだ。雑木林の音は、どこかそれに似ている響きをしていた。
 痛みはたいして変わらなかったが、しばらくすると再びまどろみから眠りに落ちていった。

 *****

 一昨日の金曜、夕食の準備が始まる前、ほっと溜息をついたら、主任の高田さんに机を挟んで椅子二脚あるだけの狭い相談室に呼ばれた。
「初めてなのに、どうして一人でやろうとしたのよ。自信がないのなら、周りのスタッフに声かけするように言ったじゃない。ここの仕事ってさ、一人でやっているわけじゃないんだから。今回、誰も怪我しなくてよかったけど、ここは、高齢者の施設なの。だから、利用者さんたちみんな、骨がすっかり脆くなっているの。ちょっとした転倒でも骨折しかねないの。そんなの常識でしょ……」
 こんこんと叱られながら、一葉はうつむいたまま、「すみません」としか応えられなかった。

 その日の昼食後のことだ。利用者さんたちが、食堂からそれぞれの居室に帰る時だった。一葉は千代さんの車いすを押した。金子さんと水谷さんの二人のスタッフも、同じ居室へ向かって車いすを押していた。二人は、なんなく利用者さんをベッドに寝かせると、次の仕事に向かって部屋から出て行った。スタッフは一葉だけが残された。
 千代さんは、脳梗塞の後遺症で左半身に麻痺がある。右足にまだなんとか立てる力が残っているから、支えれば片足を軸にベッドに移れるのを知っている。ベッドの横に車いすを寄せて、ブレーキをかけた。彼女のトランスは初めてなので少し不安があった。とりあえず、足台を折りたたんで右足が床に着くようにした。車いすの前にしゃがんで、誰か来るのを待つ。
「お昼ご飯の時に、おはぎが出ましたね。千代さんが作るのと、どっちが美味しいですか?」
 彼女を見上げて尋ねた。彼女は、顔をくしゃくしゃにして嬉しそうに笑った。右手の指で自分の鼻をさすっている。発症してこの特養に入る前は、お彼岸には必ずおはぎを作っていたそうだ。近所で評判もよく、あちこちに配っていたという話も聞いていた。
「千代さんのおはぎ、……」と、そう言いかけた時、金子さんがもう一人の利用者さんを連れて戻ってきた。慣れた手つきでベッドに寝かせ、タオルケットをかける。からの車いすをたたんで、そのまま廊下に出ようとしたので、名前を呼んだ。
 彼女は振り返り、腰に手を当てた。
「ねぇ、ここでゆっくりおしゃべりをしている時間はないのよ。今日は女性の入浴日なんだから、そっちの準備をしなきゃいけないの。もう、あなたもここに勤めて半年でしょ。千代さんなら一人で大丈夫よね。早く終えて、浴室に来てね」
 そう言葉を残して出ていくのを、黙って見送った。呼び止めようとして口を開けたが、声が出なかった。その時、千代さんが車いすの肘掛けに右手をついて、一人で立ち上がろうとしていた。あわてて支えようとしたが、こちらも体勢がとれていない。彼女の右ひざが曲がったままで体重を支えきれず、身体が前に崩れ落ちる。それを抱えて一緒に後ろに倒れながら、自分がクッションになるしかなかった。

*****

 ぼんやり、浅い眠りから目が覚めた。雨がさっきより一層激しく窓を叩いている。カーテンを開けると横殴りに吹いていた。立ち上がって外を見たが、町の風景は雨に白く霞んでいる。
 携帯を開くと、もう一時を過ぎていた。いくぶん頭痛が引いたみたいだ。のどが渇いたので、冷蔵庫から牛乳を出して、コップに二杯飲んだ。
 薄暗い部屋の中でテレビをつけると、台風の実況を伝えていた。強い台風は十二時過ぎに紀伊半島に上陸し、そのまま日本を縦断するように北東に進んでいる。今、浜松の辺り。東京を夕方四時頃に直撃するようだ。
 西伊豆の漁港に立つ中継のリポーターの後ろで、波が防波堤を越えてしぶきをあげている。海も空も白黒画面のようでいて、リポーターの服装だけがカラフルに見えた。
――わざわざ、そんなところに黄色いヘルメットをかぶって合羽を着て出ることもないのに……。
 そのぎこちない姿はどこか自分に似ていると、思った。
 中学の頃から何をやってもトロいくせに、わざわざ福祉の現場を仕事に選ぶなんて、どうかしていると思った。あうわけがない。
 失敗は一昨日ばかりではない。今年新卒で勤めてからドジばかり。何かもが遅くて、周りに迷惑ばかりかけている。先輩たちが自分にうんざりしているのが、態度で伝わってくる。お荷物もいいところだ。
 急ごう、上手くやろう、きちんとやろうとすればするほど、空回りをした。自分だけ浮いているような気がしていた。
 台風の中のリポーターは、今にも風に吹き飛ばされそうで、立っているのがやっとだと、マイクを片手にびらびらする原稿を読み上げている。
――馬鹿馬鹿しい。嘘に決まっている。カメラの前で実際に風に飛ばされ、それで海に墜ちるなんてことはありえない。当人もそれを映すカメラマンも、安全なところにいるはずだ。いっそのこと防波堤まで行って、波にのまれてしまえばいい。
 そんな八つ当たりをする自分に、一葉は情けなく悲しくなって、テレビを消してベッドにもぐって泣いた。

*****

 去年の秋。四年生のクラスは就職戦線の中にあってざわついていた。午前中の講義の後、教室の後ろの席から同じサークルの由美が肩を叩いて声をかけてきた。
「あそこの特養に決まったんだって。おめでとう。でも夜勤もあるんでしょ。一葉、大丈夫? やっていけそう?」
 十月のはじめに、今勤めている特別養護老人ホームから採用通知が来た。サークルでボランティアをしていたので、面接はスムーズだった。周りの友人と比べて、福祉関連で就職が決まったのは早い方だ。福祉系の大学で、卒業と同時に社会福祉士国家試験の受験資格が得られる。たいていは見込みで受験する。一葉もその一人だった。ただ、福祉施設などでは、社会福祉士の資格を生かした相談員の募集は少なく、ハードな介護職が主で、敬遠されがちだった。クラスの半数は、夏休み明けまでに一般企業の内定を取りつけていた。
 友人に大丈夫? と訊かれても、体は小さい方だし、体力に自信があるわけでもなかった。トロくて何の取りえもないのに、採用されたのが嘘のようだった。それでも、自分を認めてもらえたようで、少しは誰かの役に立てそうで、嬉しかった。当時は、それにできるだけ応えたいという思いでいっぱいだった。
 就職を機に、親から自立しようと思った。両親は不安そうだったが、それほど遠くに行くわけではない。葉山から職場まで、電車で片道二時間。通勤を考えたら、その方が楽だと説得した。
 今年の三月の上旬に大学の卒表通知をもらい、半ばには国家試験の合格通知が届いた。それから都内の職場近くでアパートを探している頃が、一番うきうきしていた。

*****

 枕元に置いていた携帯の電話音で目が覚めた。実家からの電話だ。
「台風がすごいでしょう。そっちは大丈夫? 都心の電車も止まったみたいね。ちょっと前まであなたの携帯も繋がらなかったのよ」
 母親が気にかけて、繰り返し電話をかけてきていたようだ。
――私は、これまで幾度、人から大丈夫って言われてきたのだろう。周りに心配ばかりかけている。
「今日は休みでどこにも出かけないから、大丈夫だよ」と、応えた。海に比較的近い実家の方も問題なさそうだと聞いて、そそくさと電話を切った。あまり突っ込まれて、仕事のことに触れられたくなかった。
 カーテンを閉じた部屋の中は夜のように暗く、電話の後しんとしていた。携帯の時計を見ると、まだ四時過ぎだった。今日は、結局一日中寝ていた。頭痛もおさまってきたようだ。カーテンの隙間から光が射す。外を覗くと、いくぶん雨が弱まって、風だけが大きな音を立てて強く吹いている。相変わらず、公園の雑木林がうなっているのが聞こえる。

 急に外に出たい衝動に駆られた。
――林が呼んでいる? うん少し違う。うなる音に、海の波の音のように懐かしさを感じているのかな。
 でも、そこに行けば、自分を待っている大事なものがあるような気がしたというのが、しっくりするような気がした。
 パジャマをさっと脱いで、Tシャツを着てジーパンをはいた。その上からレインコートをはおり、長靴を履いて、フードを被り、二階の玄関を出た。濡れた手すりを両手で掴みながら、アパートの階段をそろりそろりと降りる。そこからまっすぐ細い路地を公園に向かって歩いた。この道の行き止まりが公園の入り口だから、走ってくる車はない。それに歩いている人も、右側三軒目のよく吠える犬も、普段は塀の上で寝そべっている猫の姿も見かけなかった。
――本当にすごい風。
 途中、突風によろめいて、思わず電信柱にしがみついた。誰かが飛ばしたビニール傘が折れてめくれて、家の門柱に引っかかって今にもちぎれそうになっていた。
 普段ならほんの短い道のりを、家の塀をつたいながらようやく公園にたどり着いた。入り口付近は、風にもぎ取られた緑の葉が地面に散らばっている。公園の泥水が入り口の脇から路地の側溝に向けて一筋の流れを作っている。水をよけて入り口の自転車よけの柵に掴まりながら、前方を見上げた。
 目の前の大きな雑木林がうなっている。生い茂った緑の葉をばたばたとはためかせ、太い枝がしなっている。雑木林全体が波打つように揺れていた。
 一葉はさらに奥へと進んだ。薄暗い林の中は不思議と風がなく海の底のようだった。見上げると、枝が激しく揺れている。濡れた木々の幹が、黒や灰色に濡れて艶やかだ。地面には、まだ青いシイの実がいくつも落ちていた。シダの葉や苔が水玉をのせている。クモの巣がレースのようにきらめいている。時折、ばさっと雨粒が落ちてくる。
 ふと、子供の頃の懐かしい思い出が込み上げてきた。穏やかな地元の海に潜り、初めて海底に足をついた時のこと。指先がつかんだ柔らかい砂の感触、海草と水の揺らめき、海中の静けさ。今、その海の中にいるような感じがした。
 眠りを覚ます雷のようなものすごい音が、すぐ近くで轟いた。公園の入り口付近だ。濡れた土に足を取られないように気をつけながら、できるだけ速足で入り口に戻った。 柵の脇にある桜の木の太い枝が折れて、下に転がっていた。枝の裂け目が真っ白で傷口のように痛々しい。側にあった木にしがみついて雨風をよけ、じっと見ていた。
――幹を守るために枝が折れたのかもしれない。もう少しで、自分も風に飛ばされるところだったかもしれない。でも、こうしてひっしになって木にしがみついている。そう、わたしは一葉だっけ。
  自分が、まさに、風に飛ばされないように懸命に枝にしがみつく一枚の葉っぱのようで、おかしくて、笑えた。
 久しぶりにこんな風に笑ったら、今まで地面から浮いていた心が、ふんわりと地に足が着いた気がした。

――お腹がすいたな。そういえば、今朝からまだ何も食べていなかったっけ。千代さんのおはぎ、きっと美味しいんだろうな。食べたいなぁ。
 心の中の止まっていた時計が、再び動き出した。

(了)

林の海

林の海

特別養護老人ホームに勤める女性の話(5000字程度)。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-11-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted