トールとテテー
プロローグ~あの時の記憶~
あの一人だけの世界。
僕以外に誰ひとりとして、この世界には存在しないのではないかと、大きくどこまで広がる、僕に向かって落ちてきそうに思える蒼い空を見ながら思った。
見渡す限り誰もいない。
誰もいない。
誰もいない。
「それは錯覚だ」
君は言う。
そう、錯覚だ。
錯覚なのだ。
そこに誰もいないから、僕ひとりだけしか存在しないのではないかという錯覚をしていたに過ぎない。
「この広い世界で、自分一人だけが生きてるなんて、そんなのただの錯覚だろ」
「そうだよ」
僕は安易に頷く。
君は僕を見つめた。
「……でも、僕の世界は狭かったから。知らなかったんだ。ひとりではない、そんな世界があるなんて」
Ⅰ:テテール・ド・ルンファーレル
彼は突然現れたと、町の人々は言った。
どこからどうやってこの町に来たのか。そんな事情は誰も知り得なかった。
たった一人を、除いては。
♪
噂が一つ、あった。噂というには小さな事であったかもしれないし、気にしなければそれまでの事でもあったのだが、同じ町で育った者として彼女の事を気にする人々は多かった。
「あの子、えーとテテーだったわよね? 大丈夫かしら。もう何日も姿を見ていない」
「ええ。いつもなら商店街で買い物をする姿を見るのにここ最近は本当に一度もなかったわよね」
テテー。そう呼ばれる少女が、噂の「元」だった。
この町はそう大きくもない所で、ある程度住民の殆どがお互いに顔を知っているほどだった。
その中でもテテーは有名だった。彼女が特別目立ってしまった理由は正直良い方向の意味でではない。
現在彼女には両親が亡く、一人暮らしをしている。彼女が小さい時に実の両親は他界し、そして十三歳になる頃には、両親を失って代わりに育ててくれた親代わりといった存在の人物も死んでしまった。
不運だと、周りは謳った。
彼女自身自分をそう思っていたところは少なからずあっただろう。中には彼女と関わると早死をすると言い出す者もいた。
それは運良く長い間の噂にはならず、むしろ町の人々で彼女の生活を手助けする方針さえあった。
けれど彼女が十五歳になった頃。これからは町の人達に迷惑をかける事なく生きていきたいと言い出した。
彼女はもう十分に働ける年齢だったし、町の大人達はそういうお年頃、として過剰に手助けをするのをやめた。
そして今。
あれからうまく生活をしているように見えたテテーがここ最近急に姿を見せなくなった。
彼女の私生活を把握していなければならない義務が町の者達にある訳ではないので、干渉しないようにする人々が殆どではあったが、中にはやはり気にかける大人もいた。
「まさか病気になったりなんかしてないわよね?」
「彼女、自立したい気持ちが強くてあまり私達の手を借りようとはしなかったから、もしそうだったら引きこもっているのかもしれないわね」
町の人々はそう噂した。
実際そうだという確証はないし、もしそうだったとしてもどこか人を拒絶していた彼女に深く関わろうとする者は確実に減っていた。
噂は噂。
解決方法からどうしてそう至ったかまでは説明などしてくれない。
彼女のそう言った噂は数日で広がるに広まって、月日が経つに連れて徐々に消えていった。
そんな時。
「テテー?」
彼女の存在を記憶の隅に押しやって、忘れていたと言っても過言ではない状態に町の住人がなっていた時だ。
彼女の姿を見た者がいた。
見知らぬ少年を目にし始めたのも、それからの事だった。
「テテー? 随分と久しぶりじゃないか。何をしてたん……って、見かけない奴だな? 友達か?」
テテーが町に姿を表すようになって、人々は口を揃えて言った。隣にいる少年は誰だ? と。
テテーは決まって笑顔で答える。
「私の家族」
その笑顔は今まで住人達が一度も見た事がないような彼女の満面の笑みだった。
「家族って、生き別れになってた姉弟でもいたのか?」
「んー、そんなところ。彼がこっちに来ていろいろやる事がったから最近は町に顔をだせないでいたの」
俄かには信じられない話だった。生き別れになっていた家族がいたのならば、どうしてもっと早く出会う事ができなかったのだろう?
それとも最近までテテーは生き別れの姉弟がいるという事を知らなかったのだろうか。
なら、何を切欠に知ったというのだろう。彼が現れて数日はそんな疑問が住人達に植えつけられたが、
「君の名前は?」
「え、っと。僕の名前はトール。トール・ド・ルンファーレルです」
トールと名乗った少年が悪い人間ではないと理解していく頃、そんな疑問は最初からなかったかのように消え去った。
「テテー、トール! 今日は果物が安いんだけど買っていかない?」
トールが町に馴染むのに時間はかからなかった。すこし表情が薄い少年ではあったが、いつもテテーと買い物に商店街に来る事からすっかり仲がいいのだと人々は認識した。
彼女はよく笑っていたし、町の住人がそう思うのは無理もなかった。
だが実際は……。
「テテー、また部屋にこもったんですか?」
テテーとトールの間には、とても大きな壁があった。その壁がどうしてできてしまったものなのか、正直トールは分からなかった。
ただただ自分を拒絶しているように思えるテテー。彼女が何を思っているのか分からない。
元々自分は人間じゃない。彼女に作られた人形だ。人の心など、そう分からない。
「テテー、後で夕飯持ってきますね」
それだけを言い残してトールは彼女の部屋の前から消えた。
足音が遠くに去っていくのが聞こえ、テテーは伏せていた顔をあげる。
――私はなんて事をしてしまったのだろう。
人間じゃない何かを作るなんて。人形なのに、ただの玩具ではない、異形の物を造ってしまうなんて。
どうしたらいいの。どうしたらいいの。
寂しい思いをしたくなかった。
悲しい思いをしたくなかった。
一人に、なりたくなかった。
そんな思いから造ってしまった。
生きた人形。
人でもただの人形でもない何か。
自分の心が分からなくなる。
彼と一緒に過ごしている一人じゃない生活は幸せだと思うのに、同時に何故こんな異形な物を造ってしまったのだろうという罪悪感に苛まれる。
愛しているのに愛せない。
愛したいのに愛せない。
「私は、どうすればいいの……」
私の生涯を簡単に説明すると、私が両親を亡くしたのは六歳の時だった。物心はついていたので両親の事は覚えていない訳ではない。
でもたった六年間の記憶。薄らとした断片だけの記憶が大半で、正直二人の声や仕草をもう覚えていない。
その後身寄りのなくなった私を育ててくれたのは親切な家族だった。自分の家だと思っていいのよ、と私を家族の輪に入れてくれた。
でも私はその行為に感謝する反面吐き気がしていた。
毎日毎日考えた。私はここの子じゃない。本当はいてはいけない子。よそ者。輪には入れていない。
私の居場所なんて、どこにもない。
十三歳になる時。その家族は旅行に行くと家を出た。私も一緒に行かないかと言われたけれど頑なに断った。
遠慮しなくていいのに、と言われたけれど遠慮とかではなくて、居心地の悪い場所にいたくなかった。
それだけだった。
家族が旅行に出かけた夜、家に連絡が入った。
目的地に向かう途中で、彼女達が事故にあったと。
私は唖然とも呆然とも驚愕すらしなかった。無心だった。
何も思わなかった。
どこかで、「そっか」と誰かに返事を返していた。
白状だと自分でも思った。あれだけ親切にしてくれていた人達を、こんな簡単にどうでもよく思えるなんて。
なんて白状なんだろう。
それでもどうしようもない。
悲しくなかったんだから。
こんな私を呪ってくれてもいい。
どうせ、私はこれから録な場所にいけやしないのだろうから。
それからは町の人達から助けもあり、無事働き始めた。
自分の事は自分でする。
もう誰かの手を煩わせる事なく、静かに暮らしていきたい。
そう思っていた。
それなのに。
気づけば、私は異形の物に手を伸ばそうとしていた。
毎日毎日会話をするように話しかけながら「彼」を造りだした。
完成した時は歓びで泣いた。
自分がこんなに涙を流せる人間だったなんて、始めて知った。
彼は特に感情のない表情で私を見ていた。
なんでもいい。
良かった。
これで私は一人じゃない。一人じゃない。
いつでも矛盾している私の思い。
いつからだろう。ずっと前から。
私は私の気持ちが一番分からなくなっていた。
Ⅱ:彼女の求めたもの
声が聞こえていた。
心細そうな、寂しそうで悲しそうな声だった。
――もう、これで私は一人じゃないわ。
彼女はずっと言っていた。
――あなたが生まれれば、私はもう一人じゃないの。
僕が生まれれば?
そうすればあなたは、その寂しそうな顔をやめるの?
その悲しい声をやめるの?
その涙を、止めるの?
♪
目覚めた時僕が始めて目にしたものは、泣きながら微笑んでいる綺麗な少女の姿だった。
彼女はどうするでもなく呆然とそこにいる僕に膝をついて抱きついた。僕は驚くでもなく彼女を抱きしめ返すでもなく、ただそこに座っていた。
「良かった。良かった」
彼女は言った。
何が良かったのか僕には全く分からなかったけれど、あれだけ泣いていた彼女が笑っている。
それだけでいいと思った。
「トール。あなたの名前はトール・ド・ルンファーレルよ」
生まれたばかりの僕に、彼女は直ぐに名前をつけてくれた。
「トール……」
自分の名前という実感はわかなかったが、貰ったものは素直にいただいた。
その日、彼女はとてもよく笑っていた。僕が今まで見てきたあの悲しい表情はどこにもなかった。
どこかで、ホッとしていた。
「テテー、僕はあなたの弟なんですか?」
僕がテテーと暮らし始めて早数日が経った頃。僕は町の人達に僕を姉弟みたいなものだと紹介するテテーを見て、思わず尋ねた。
「弟っていうか、家族。別に恋人でもいいけど、町の人達は弟だと思っているみたい」
彼女の僕の認識は「家族」だった。家族であるならば弟でも恋人でも父親でも母親でもいいらしい。とは言っても町の人達は「弟」ととった。
テテーと同い年ぐらいの外見を見れば、そう思うのも無理はない。
なら、その逆は?
テテーが妹でも恋人でも父親でも母親でもいいんじゃないのか?
「テテー。僕はあなたを姉と見ればいいんですか? 妹と見ればいいんですか? 恋人と見ればいいんですか? 父親と見ればいいんですか? 母親と見ればいいんですか?」
僕が少し早口でそう述べると、テテーは不機嫌そうな顔を向けてきた。その真意はなんとなく分かった。
「好きに見ればいいわ。でも、世間では弟で通ってるっていうのは忘れないで」
テテーはそれだけを忠告すると僕に背を向けて自分の部屋へと去って行った。僕は扉が閉まるまでその後ろ姿を見つめていた。
テテーは町の外では笑っていた。僕は世に言う無口らしく、テテーとの会話も町の人との会話もあまりない。
けれど二人で並んで歩いていると「仲がいいわね」とよく言われた。
テテーはひとりを嫌った。家にいる時も外にいる時も。けれど一人になりたいという時は一人でにふらっと自分の部屋に行ったりする。
僕は彼女の求めているものが分からなかった。
彼女は何を求めて僕を生み出したのか。
いや、求めているものは分かっていた。
「家族」
彼女はいつだって家族を探していた。求めていた。
彼女は僕が生まれる前に何度も僕に話しかけていた。
「私、町の人達が優しいっていうのは分かってるの。でもあの人達には自分の人生があって友人がいて家族がいて。私はその輪には入っていない。一人になった時ふと恐怖を感じるの。結局私は一人なんだって」
彼女はその恐怖を紛らわす為に僕を造った。
そして「偽りの家族」とした。
彼女が欲しているのは偽りの家族ではない。「本当の家族」なんだ。
だから僕では役不足。それを分かっているからこそ、テテーはたまに寂しげな表情を見せるのだろう。
「嘘つきだ」
僕が生まれれば、そんな顔はしないと言ったのに。
「テテー」
朝食と夕食を作るのは僕の担当になっていた。その日、あれから部屋にこもって出てこないテテーを夕食だと部屋まで呼びに行った。
テテーからの返事はなかった。
――僕に、どうしろっていうんだろう。
ふいに壁に背中をついた。そのまま力を抜けば、ずるずると下がって床に座ってしまいそうだった。
それから数秒後、長い髪で若干顔を隠したテテーが部屋から出てきた。僕は壁から背中を剥がして彼女に向き合う。
「夕食ですよ」
「……分かったわ」
彼女は一人で階段を下りていき、僕はその数歩あとからそれに続いた。
食事中に会話はなかった。いつもの事だった。
話す事もない。たまに質問はしたけれど、彼女はそのたびに僕を「異形の者」として再確認しているようだった。
普通の人間ならそんな質問はしないというのが痛感するのだろう。
そして何より。
「……ごちそうさま」
僕は食事がいらなかった。
彼女は僕と向かい合って、食事をしない僕と向かい合って自分だけ何かを食べるのが嫌だったんだと思う。
本来家族というものは全員揃った時に一緒に食事をするもの。だけど僕は食事ができない。する必要がない。
僕を異形だと確認すればするほど、彼女が僕に向ける目は冷たくなっていくのが分かった。
それからそんな生活のまま、関係のまま一年ぐらいが経った。
成長しない僕とは裏腹に十八歳になったテテーはさらに大人びた。運良く町の人達は「テテーは大人になったなぁ」「トールは弟だからな。でもこれから背も伸びるさ」と変わった彼女と変わらない僕を不思議がる事はなかった。
でも、それはまだ「一年」だからだ。
二年三年と経っていけば僕が成長していない事は確実に気づかれる。そうなれば隠し様がない。
それについてテテーも悩んでいるようだった。
だから僕は言ってしまった。
これがいけなかったのかもしれない。
「旅を理由に、そろそろ僕はここを去った方がいいのではないでしょうか?」
その時のテテーの顔は、今までに見た事がないほどの形相で、忘れるに忘れられない表情だった。
「なによ、それ」
「これからここに居続ければ、僕が「人ではない」と気づかれてしまいます。そうなればじゃああれはなんだ? テテーの弟ではなかったのか? と町の人々が不審がります。そうなればあなたのした事が知られてしまうかもしれません」
僕はそれが最善策だと思って言った。一番平和的な可決方法だと。だが彼女は違った。
「あんた、私がどうしてあなたを造ったか分かってるの?」
「……それはあたなの口から伺った事はありません」
僕は人形だ。
きっとこうなのだろう、という憶測は間違っていてもおかしくない。もちろん、テテーに関しても同じだ。
「っ……これを私に言わせるのね? やっぱり、あなたは人間じゃない。人間じゃないわ」
「最初から、そうです」
僕は自分の表情が分からなかった。ただ周りにはよく無表情だと言われた。この時もそうだったのだろうか。
「……好きにすればいいわよ。出ていきたいなら出て行きなさい」
「分かりました」
僕は頷き、玄関へと歩いた。
彼女は何かを言いかけて、そして声にならない声をあげた。それは僕に向けたどんな言葉だったのか。
僕がドアノブに手をかける。
回す。
彼女の言葉にならない言葉が聞こえた。
――ああ。
なんなんだろう、この人は。
「テテー。あなたはどうしたいんですか? 僕は、僕がいなくなるのが最善策だと思うんです。そうしなければ、あなたはここで平穏には暮らしていけない」
テテーの傍に戻り、泣き崩れている彼女の肩に手を起きながら僕は言う。
彼女の涙は既に床にぽたぽたと小さな水たまりを作っていて、それを拭ってはまた涙を流し、また拭っては涙を流しを繰り返していた。
彼女の服の袖が完璧に水分を吸うだけ吸っている。
「僕を造ったのはあなたです。あなたが言うなら今直ぐにだって出ていきますし、あなたが言うならいつまでもここにいます」
涙を拭う顔を、彼女はいつまでたっても上げなかった。
――声が出ないほど泣くのに……。
「テテー。僕は人間ではありません。人間の感情というものに少なからず疑問を持つ事もあります。でも、人も人の心を全て理解できる訳ではありません。あなたがどうしたいのか、なにをしたいのか。それを言ってくれないと、誰もあなたの気持ちは分からないんです。何かあるなら言ってください。そうでないと、分かりません」
テテーの呼吸が、少しだけ落ち着てきた。彼女はゆっくりと顔を上げ、僕を見た。
「……私は、あなたに行って欲しくない。ずっといて欲しい。もう一人は嫌なの……嫌なの……」
始めて聞いた、彼女の本音だったと思う。
「最初から、そう言ってください。僕は意地悪で出ていこうとしたんじゃありません。僕の最善策を述べて、その上であなたが出て行っても良いと言ったから出ていこうとしたんです」
「なによ! 出て行って欲しいなんて言ってわ! あれは怒ったのよ。あなたは簡単に私を捨てて出ていこうとするんだもの」
「捨てようなんて思っていません。何度も言ってるじゃないですか、最善策だと思ったと」
「それがムカツクのよ。最善策だろうとなんだろうと、出て行って欲しい訳ないじゃない……!」
「態度が分かりにくいです。もっとちゃんとものを言ってください」
「私がそういう性格だって知ってるでしょ……!」
「ならその性格をなおす努力をして欲しいです」
お互い言いたい放題言い合った。
僕にしては珍しく声を張り上げたかもしれない。
彼女にしては珍しく心の底からの言葉を素直に出したかもしれない。
「……落ち着きましたか?」
「……うん」
どれぐらいの時間が経っただろう。大分時が止まって感じた。
彼女はやっと泣き止んだ。でも顔を見ると涙が流れていた後が残っている。
「僕は、あなたのところにいろって事でいいんですよね」
「何度も言わせないでよバカ」
「僕は人間ではないですけど、バカと言われると良い気はしません」
「そう、なら何度も言うわよ、バカバカバカ」
彼女はまた泣きそうになって言った。僕は少し呆れつつも、彼女の頭を撫でた。
すると彼女は珍しくも自分の気持ちに素直であり、それが行動にも出てきて僕の腰へと腕を回して抱きついてきた。
「テテー。動きにくいのですが」
「じゃあ動かないで」
さすがに返す言葉がなかった。
こうなったら頑固なテテーの事だ。本当に腕を離さないだろう。
今回の事で少し分かった。
彼女は本当に甘えるのが下手で、素直に思いを言葉にできなくて。そして何より、ひとりが嫌い。
寂しいのや悲しいのが嫌い。
僕が何をすればいいかなど、生まれた時から決まっていたんだ。
「もうあんな事言いませんから。何があっても僕はあなたの傍にいます」
そう告げた瞬間、僕を抱きしめている彼女の腕に力が入った。僕もゆっくりと、彼女の体を抱きしめ返した。
「――それで、どうしましょうか。僕が出ていかないとなると、成長しない僕を誤魔化すのは難しいですよ」
「……簡単な事よ」
小難しく悩んでいた僕に、彼女はあっさりと呟いた。
「二人でこの町を出ればいいのよ」
こうして、僕達の二人旅が始まろうとしていた。
町の人々は当然驚いた。
僕達が荷造りを始めたからだ。
商店街になるよく行くお店の店主にはもちろん驚愕され、「どこに行くんだ?」と尋ねられた。
テテーは僕を見て、「まだ未定なんですけど、二人でどこへでも行くつもりです」と答えた。
彼女は少し素直になった。
今まで感情を表に出さなかったのは、誰かを求める反面誰かと繋がる事を恐れていたからなのではないかと、僕は思っている。
家の中を片付けていらないものは集めて売った。必要なものだけをそれぞれ自分の鞄に入れて、それが数日間続いた。
「さすがに二、三日じゃ終わらないわね」
休憩中、汗を拭きながらテテーが呟き、
「そうですね。でも後少しですよ」
僕達が住む前の姿に戻っていく部屋の中を見渡して僕が言った。
「……なんだかんだ、この家にはお世話になったんだわ」
「僕ももう少しいたかった気もします」
二人で名残惜しそうにした。
作業を再開した。
僕が人間ではない、という事もあるのかもしれないけれど作業は五日ほどで終了した。
最後の別れが来た。
荷物を持って、家を出る。
前日、町の人達とのお別れは済ませた。
テテーが一度家に振り向いて、次に僕を見た。
「行きましょう」
手を差し出して、彼女はそれを迷いなく掴んだ。
「トール」
彼女が僕の名前を呼ぶのは、僕が生まれたあの日以来の事だった。
「何ですか?」
振り向いて答えて、彼女の言葉を待つ。
「……その、話し方の事なんだけど」
「話し方? 僕のですか?」
今まで何も言われなかったが、急にどうしたのだろう?
「……うんん。やっぱりいいわ」
「何ですか?」
「あなたに自ら気づいて欲しいの」
「またあなたは我が儘を言う……」
「これぐらいの我が儘きいて」
仕方ない、と僕はため息を付きつつも小さく笑った。
いつか僕が今彼女が言おうとした事に気づけたら、その時の僕に判断を任せよう。
「ねぇトール。あなた前聞いたわよね。私をどう見ればいいのか、って」
「聞きましたね。でも好きに見ろって言われました」
少し意地悪をした。
彼女は少しむすくれて僕に体当たりをする。
「~~! テテー、勘弁してください。人間じゃないから怪我はしませんが壊れるかもしれないんですよ」
「そんなにやわに造ってない」
「ああ言えばこう言う」
半眼になって口をへの字に曲げる僕に、彼女は改めて話を始めた。
「で、私を好きに見ろって言ったけど、前言撤回」
「どう撤回されるんですか? あなたに限って他人として見ろっては言いませんよね」
僕が言うと、間違いでもないと彼女は言った。
僕は面食らって立ち止まる。
「でも、あなたが認めてくれればある意味家族」
「それは……?」
僕が尋ねると同時に、彼女は僕に駆け寄ってきて――キスをした。
「恋人。恋人はある意味他人だけど、相手の了解を得れば家族みたいなものだわ」
「――……まぁ、婚約者というのが正式かもしれませんけど、適当に認識する分にはそれでも間違いではなさそうですね」
適当ってなによ、と彼女は頬を膨らませる。
「その、テテー? 急にどうしたんですか」
「急じゃないわ。私はずっと、あなたに恋いしてたのよ」
思いもしない告白だ。
ずっと?
それはいつから?
「あなたが私を孤独から救ってくれた時から。私は自分の思いを素直に言葉にするのが下手で、自分でも自分の気持ちがよく分からなくて。でも最近は分かってきたの。私の事、あなたの事」
彼女は真剣な声と眼差しで言った。それは今までのような彼女の中で固まっていない思いでも曖昧な思いでもなく、はっきりとした思いだった。
それが揺らぐ事はないと、彼女の強い瞳が告げているようだ。
「この場合、僕は返事というものをするべきなんですか?」
「そんなのイエスに決まってるでしょ?」
「それはまた随分身勝手な自己完結ですね」
「私の傍にいるって言ったのは誰?」
彼女の意地悪な笑顔。
彼女は本当によく笑うようになった。
正直それだけで僕は満足で。
彼女の事は今でも少しどう見ればいいか迷ってはいたけれど、それでも彼女が幸せなら。
「分かりました」
「ふふ」
それだけで良かった。
♪
それから、テテーと旅をした月日は、あの町で過ごした何倍にもなった。
彼女は十八・十九と歳をとり、僕だけが変わらなかった。
「うーん、トールの身長はまだ抜かせないのね。私は成長してるのに」
「この身長にしたのは誰ですか。でも顔の形は変わりませんからね。あなたの方が大人に見えるでしょう」
テテーがそれを気にしたかは分からなかった。彼女は自分の感情のコントロールを完全に覚え、旅をして出会う人々とも短い間ではあるが親しく関われるようになった。
それと。
「テテー、髪伸びましたね」
「え? ああ、言われて見ればそう。町を出た時は肩下ぐらいだったのに」
今では腰上ほどだ。
「前の方が良かった?」
「どちらも似合ってますよ」
僕は本心でそう言ったのだが、急に彼女は顔を赤くして恥ずかしそうにした。
「トール。一応言っておくわ」
「はい?」
「もし私以外の女にこんな事言ったらただじゃおかないわよ」
「……身の危険を感じるので絶対に言わないと思いますよ」
彼女の場合どこまでが本気でどこまでが冗談なのか分からない時がある。
今回は、果たしてどっちだろう……。
「……ねぇ、トール。私、今凄く幸せなの。あなたと旅ができて、本当に良かった」
「急になんですか。テテーが素直だと空から槍が降ってきそうです」
「失礼ね! 私最近はずっと素直でしょ!」
「槍より酷いものが降ってきそうです」
僕は笑っていた。
昔は無表情だとよく言われ、人形だからだと思っていた。
でもそうじゃなかった。
そうじゃなかったんだ。
その日はいつもより遅い時間に宿に帰ろうとしていた。
数時間前、彼女が言ったのだ。
「ところで、今日は何の日か知ってる?」
「え? いえ……」
「トール、ホント日にち感覚ないのね……毎年祝ってたじゃない。あなたの誕生日よ」
「――ああ。もうそんな時季でした?」
「言ってみなさい。今の季節はなんなのか」
テテーは僕の誕生日だけは絶対に忘れなかった。その代わりと言ってはなんだけど、僕もテテーの誕生日を忘れる事はなかった。
その日滞在している場所によっては、一緒に祝ってくれる人達もいた。
本当にいろんな人と出会った。
僕に脳味噌というものはないのかもしれないけど、こんなに収まりきるのだろうかというほどの記憶ができたと思う。
二人でお店に酔ってお祝いをした。
楽しい時間だった。
彼女は言った。
今とても幸せだと。
僕もきっとそうだった。この気持ちを「幸せ」と言うのだと、そう思った。
宿への帰り道、彼女は僕の手を掴んで小さな子供のように足を動かしながら進む。
「次は私の誕生日よ」
「分かってますよ。絶対忘れませんから」
僕が小さく笑ってそう返すと、満足そうに彼女は笑った。
いつからか笑顔を絶やさなくなった彼女。
彼女のこの笑顔を咲かす為に造られというのなら、本望だ。
「テテー、これ着てください。もう寒いですよ」
「ありがとう。こうしてると、やっぱり恋人みたいじゃない?」
「みたい、じゃなくて恋人じゃないんですか?」
僕が真顔で尋ねると、テテーは目を丸くした後、僕に抱きついてきた。
この人はよく抱きつてくる。
振り払おうとは思わないんだけど。
「トールって、ずるいわよね」
「あなたには負けると思っていたんですけど」
なによそれ、といつかのように彼女は頬を膨らます。
変わったところはあるけれど、変わらないところもあって。
それを全部含めてテテーなのだと。
「テテー。僕は、あなたに造って貰えて良かったと思っています。今こうして二人で旅をして、それがとても幸せです」
僕は夜の空を見上げ、星を見つめた。
テテーは、僕の横顔を見ていた。
「急にどうしたのよ」
「急じゃないですよ。ずっと思ってました」
そう言うと、彼女は返事を言葉ではなく僕の腰に回した腕に力を入れて返してきた。
僕はゆっくりと彼女を抱きしめ返した。
「僕の体に密着しすぎて窒息死しないでくださいね」
「もしそんな理由で死んだらトールも巻き込んでから死ぬわ」
「最後まで嫌な人ですね……」
たわいもない会話。
いつからだろう。
それがこんなに楽しいと感じるようになったのは。
「ねぇトール。明日はこの町を超えた先にある草原に行きましょう。ちょっとだけなら寄り道してもいいでしょう?」
「僕に拒否権なんてないじゃないですか。――それに、あなたの傍にいるって言ったでしょう」
僕が生まれたあの日。
僕は自分がこんなにも人間臭い人形になるとは思っていなかった。
テテーに抱いていた思いは恋人や姉よりも父や母の方に似ていて、恋人同士になる日が来るなんて、予想もしていなかった。
宿についてお互い寝る体勢に入って思った。
――朝起きたら、夢でしたなんて事、ないはずなんだけど。
妙にそんな起こるはずもない事を気にしてしまっていた。けれど気にしていた時間は短かった。
テテーが寝息をたて初めて、僕も目を瞑った。人形に睡眠はいらない。
だけど今なら、テテーのように眠れる気がした。
翌朝。
僕達は町を出てその先にある草原に来ていた。
「綺麗」
テテーは一言そう呟き、草原に寝転がる。僕はその隣に座った。
そよ風が気持ちよかった。
「トール」
「はい?」
テテーは僕に手を伸ばしてきて、僕はそれを握った。
違和感を感じる。
妙に、手が冷たいような――。
「前に私が倒れたの覚えてる? 前の町で」
「――覚えてます。医者に見てもらって、軽い寝不足だと言われて、数日感滞在しましたよね」
彼女の体力が回復するまで町を出ず、医者に大丈夫だと言われ町を出た。
その話が何故、今?
「あれね、嘘よ」
「――? うそ?」
そう、うそ。
静かな声が言う。
「私ね、本当は医者に長くないって言われたの。どうにかあなたの誕生日まではってお願いして薬を貰って、なんとかやってきたの。い……まも、なんだかだんだん心臓の鼓動が弱まっているのが分かるの」
「何を、言っているんですか? あなたは言ったじゃないですか、もう大丈夫だって」
「だから、それは嘘なのよ。私はもう、死ぬんだわ」
うそ?
しぬ?
彼女が?
テテーが?
昨日、あんなに元気そうだったのに。
何が、どうして。
「意味が、分かりませんよ……そんな急に死ぬなんて意味が……」
「急じゃないわよ。旅をして、無理した事もあった。もちろん後悔してないし、凄く楽しかった。ちょっと早めのお別れだけど、楽しかった。本当に。これで、良かったんだわ」
彼女が目を瞑る。
その瞬間、僕のあるはずもない心臓が高鳴った。
「だ、ダメです! 目を閉じたら、もう次は――」
言いかけて、最後まで言うのが怖くなった。
次は?
次は、何だというのだろう。
答えは、知っている。
「トール、私あなたと出逢えて本当によかった。最初はなんてものを造ってしまったのだろうと悩んだ事もあったけど、そんなのはもうどうでもいい。私はあなたを好きになって、本当によかった」
「ぼ、僕もあなたを好きになって、本当に……本当に……」
声が震えた。
こんな風に、伝えるべき思いではないはずなのに。
「ひとつ……言っておこう……かしら。私がいなくなても、泣いちゃ、ダメよ?」
「テテ――」
その瞬間、風が吹いた。
空に突き抜けるような突風で、僕の鼓動は一瞬止まった。
そして。
テテーの名前を呼び終える前に、彼女の呼吸は止まっていた。
「なん、で……」
胸が苦しくなった。
心臓なんて、ないのに。
――泣いちゃダメよ?
「本当に、あなたは……最後まで……」
風が抜ける。
まるで、彼女の魂をさらって行ってしまったかのように。
「人形は、涙なんて流せないんですよ……」
その時確かに、僕の時間は止まったのだろう。
Ⅲ:ひとり
其処は草原の真ん中だった。
遠くに小さく町が見え、後は何もない草原だった。
上を見れば空。近くを見つめれば何処までも草原が広がっている。
そこに、一人の少年がぽつり、存在していた。
着ている服はボロボロで、お世辞にも綺麗とは言えない。何をする為にそこにいるのか、ただ呆然とそこに座っているだけだった。
そんな彼に、近づく者が一人。
「おい」
当分聞いていない「人」の声に、少年は顔を向ける。その顔は無表情だった。
「こんな草原のど真ん中で何やってんだ、お前?」
「……何も」
短くシンプルな答えに、彼は首を傾げる。
「お前そっちに見える町の住人? なんで帰らない訳?」
「……どうなんでしょう。僕はあそこの住人なんでしょうか」
何も映していないような眼とその言動に、彼は少年の前でしゃがみこむ。
「お前、記憶喪失ってやつ?」
「……記憶喪失……。そうかもしれないですね」
まるで他人事のように呟く少年に、彼は頭をぼりぼりと搔く。
「あのさ、だったらあの町に行こうとは思わなかったのか? 自分が誰なのか知りたいとは思わなかったのか?」
「特に……。どうしてか、ここから離れてはいけないような気がして」
彼は同じ目線の先に少年を見ていたが、やがて首を振る。
「大丈夫か、あんた。どれぐらいこうしてる? よく生きていられたな」
「どれぐらいでしょう……覚えていられないくらい、ですかね」
彼はとうとう立ち上がって、少年を見下ろす。
そして少年が口を開いた。
「そういう君は、どうしてこんな所に?」
「あ? ああ、俺はあの町から旅に出たんだ。これから遠くの場所に行って、いろいろなものを見ようと」
旅……。
誰かの声で、その単語が再生されたような気がした。
「お前、何も思い出せないにしても、あの町に行った方がいいと思うぜ。ここでこうしててもいつか死ぬだけだろ」
「……さっきも言いましたけど、どうしてか、ここを動きたくないんです。どうしてか、動いてはいけない気がしているんです」
彼は困り果てた様子だった。このまま無視して旅に戻ってもいいのだが、どうしたものか。
考えたすえ、彼は少年の隣に腰を下ろした。少年は彼に顔を向けて、少々怪訝そうにして彼を見た。
「あー、なんだ。少しでも何か手伝える事があったら言ってくれ。少しくらいの寄り道は想定内だ」
「僕に付き合ってたら、きっと日が沈んでしまいますよ」
冗談抜きに少年が言っているであろう事はなんとなく分かった。それでも、放って置けなかった。
その理由の一つとして、歳かもしれない。この少年は自分とそう変わらない歳に見える。自分の方が少し上くらいだろう。
そんな少年が何故こんな所で一人で誰かを待つようにここにいるのか。
「お前、ここにいなかきゃいけない気がするって言ったよな? 誰かと待ち合わせしてたとか?」
言った後、考えにくいけど、と付け足した。
草原の中心で待ち合わせなど、普通はしない。確実に。
「待ち合わせ……。そうかもしれませんね。僕は、ここで誰かを待っているのかもしれません」
「なんかあれだな。お前俺がこうなんじゃね? って言えばなんでも「そうかもしれませんね」って頷きそうだな」
「そうですか?」と少年は首を傾げた。
――素なのか?
この何事もどうでもよさそうな無表情。それでいてここを離れたくないという意思は硬い。
「もし本当に待ち合わせしてるなら、ここで誰かと会ったりしたんじゃないのか?」
何を付き合っているのだろう、自分は。
旅に出ると決意して故郷を出てきたはずなのに、この少年がもしあの町に行きたいから付き合って欲しいと言ってきたら、どうするんだ。
「……会ったのは、君だけです」
「本当にか? だったら、待ち合わせって可能性は低いだろ」
待ち合わせているならいくら遠い場所にいたとしても直ぐに会いに来るだろう。こいつはずっとここで待っていたというのだから。
「……ああ、て言うか、その敬語やめてくんない? 俺他人事行事みたいであんま好きじゃねんだ」
「え」
少年は驚いて口をぽかんと開けた。
「他人事……」
「あくまで俺の主観だけどよ。別に身分の違いがある訳でもねーし、敬語って落ち着かねんだよ。親しい間柄には敬語で話す奴そうそういないだろ? まぁ俺とお前は出会ったばかりだけどさ」
彼の言葉が、くすぶっていた胸の奥に深く刺さった。
「だから……だったのかな」
ぽつり呟く。
心の中で今まで分からなかった答えに気づけた気がした。
けど、
「何が?」
言われ、ハッとする。
何がだろう?
固まっている少年に、彼は首をかしげつつ質問をしてくる。
「お前記憶ないんだよな?」
「は……うん」
はいと返しそうになって咄嗟に気づいて言い直した。彼はまだ少し眉を寄せて少年を見てきたが、途中で直す努力をしたので何を言う事はしなかった。
「全く思い出せないのか? これっぽっちも?」
「……うん。全く」
「名前も?」
「名前も」
彼は腰に手を当てて状態を少し逸らして「ううーん」と唸った。
「せめて名前だけでも分かればいいのにな」
「……はい。あの、ところで君の名前は?」
本日二度目の質問がやっと名前というところで、彼は苦笑いをしそうになりながらもしっかりと答えた。
「俺はテテー。……似合わない名前だろ?」
テテーははにかんでそう言って、後頭部を軽く指で掻いた。
「テテー……?」
少年は目を見開き、それだけ呟いてまた黙り込む。
「何だ? 何か思い出したのか?」
期待を向けてそう尋ねるテテーであったが、少年は直ぐに首を振った。
「そうか。まぁ、これから思い出すかもしれないしな」
前向きなテテーに、「そうだね」と少年は頷いた。
それを合図にしたように少年は寝転がり、空を見上げる。
それと同時に、風が吹いた。
空に向かって突き抜けて行くような突風で、少年やテテーの服が靡いた。
その時だ。
「おい、お前それ」
「え?」
テテーは少年の服を掴むと、思いっきり捲った。
少年はされるがままに固まっていて、何がどうなっているか若干飲み込めていないようだった。
「……お前、これ名前じゃないか?」
「名前? そんなもの、どこに――」
テテーの視線の先に自分も目を向けると、そこには確かに名前のような何かが見えた。
「何? 腹に描いてあるけど刺青か何かか? えーと……トール?」
「……トール」
ドクン。
心臓が高鳴る。
懐かしい。
誰かにずっと、呼ばれていた名前。
「これお前の名前なんじゃないか? 良かったじゃん。自分の名前腹に刺青するってあんまないけどこれのおかげで思い出せ――」
テテーが笑顔を向けようとして、彼はトールを見てぎょっとした。
トールは、涙を流していた。
「お、おい? 自分の名前思い出せたのがそんなに嬉しかったのか?」
「……う、ん。多分、そうなんだと思う……」
はっきりしない返事だった。無理もない。トールは袖で涙を拭い始めた。だが拭っても拭っても涙は溢れ出てきて、彼の袖は水分を吸うに吸っていた。
「お、おい大丈夫かよ?」
「大丈夫……。悲しいんだけど、嬉しいんだ」
懐かしい。
自分の名前。
誰かの声が、聞こえた。
「な、何にせよ手がかりを見つけた訳だ。良かったな」
「ありがとう。えっと、テテー」
名前を呼んで、トールは立ち上がった。
「お前どうするんだ? やっぱりここで誰かを待つのか?」
「――いや、なんだか、その人はもういない気がするんだ。僕の時間は大分前から止まってて、きっと、もう……」
記憶を思い出した訳ではない。どちらかというとはそれは悟りに近いものであると分かった。
寂しげに言うトールに、テテーはぼりぼりと首を搔く。
「あー、……じゃぁ、その、なんだ。町に行くか? それとも――」
テテーは軽く体を捻ったり下を見たりしながら、トールよりも高い身長をピンと伸ばし、言った。
「俺と来るか? 行くとこないんだったら。よかったら、だけどよ」
恥ずかしげにしているテテーに、トールはくすりと笑った。
なんだよ、とテテーは叫び、トールは小さく微笑みを見せる。
「君はいい人だ。こんなよく知らない僕を旅のお供に誘うなんて」
「こ、これでも勇気振り絞って言ったんだぞ! 来るのか来ないのか、どっちなんだ!?」
赤面して思いを叫ぶがまま吐き出すテテーに、トールは笑う。
「是非ついていきたい」
「――お、おう」
テテーははっきりとした返事に少しの驚きを見せたが、直ぐに真面目な顔に戻る。
「よろしく、テテー」
「あ、ああ。よろしく」
奇妙な広いものをしたと、テテーは思ったかもしれない。
物好きな人間と出会ったと、トールは思ったかもしれない。
記憶は戻らない。
今分かっているのは「トール」という自分の名前と「テテー」という、親切な旅の相棒の存在だけ。
「テテー」
「なんだよ」
草原を歩きながら、テテーはトールに振り返る。
「ありがとう」
「は!? なんでだよ? なんでお礼言う訳?」
「テテーって、直ぐに調子を乱すね」
「う、うるさい!」
――テテー。
その名前を呼ぶと、どこか悲しくて、でも懐かしくて。
とても、愛おしい気持ちになった。
それを僕が誰に向けていたのかは、さっぱり覚えていない。
それを思い出した時、果たして僕は何を思うだろう。
何をしようとするだろう。
それは、その時の僕に任せよう。
エピローグ:これからの記憶
「……でも、僕の世界は狭かったから。知らなかったんだ。ひとりではない、そんな世界があるなんて」
「…………」
こいつは本当、寂しさをどっかに隠してるような奴だと思っていた。
出会った時からずっと。
「なぁ、お前さ、甘えるの下手だよな」
「へ? そう?」
「そうだ」
記憶喪失の所為はもちろんある。こいつの記憶は一緒に旅を始めて早二年、未だ戻ってはいない。
そのおかげで、きっとこいつは自分の思いがよく分かっていないんだろう。もしくは、それをどうやって表に出せばいいのか分からないんだ。
「大体考えは後ろ向きなんだよ。確かにあの草原にいたお前は知らなかったかもしれない。でも今はどうだ? 俺と旅して、それでもお前は一人なのか?」
「――――……」
本当、奇妙な広いものをしたもんだ。
俺が半眼で見つめると、こいつは小さく笑った。
「テテーはやっぱり、良い人だ。あと凄い」
「はぁ? もう二年も一緒にいるけどさ、お前ホントなんなんだ?」
わっけ分かんね、と俺は後頭部を搔く。
するとあいつは、
「僕はトール。テテーと一緒に旅をしてる。記憶は探し中。でも、思い出は増量中」
「……ホントお前って、なんなんだかな」
気づけば笑っていた。
あの時あいつと出会ってなかったら、今頃俺はどうしてただろうか。
まぁそれは、気にする意味もない、存在するはずがない未来だけどよ。
END
トールとテテー
大分前に書いた作品です。アットノベルスの方にも載せたものですので、少しだけ修正している部分以外は同じです。
つたない文章ですが楽しんでもらえれば幸いです。