窓

 冬の午後の暖かい日差しが、小さな窓を通して、食堂のリノリウムの床に長い影を落としていた。お茶の時刻。三々五々、患者たちが自分のカップや湯飲みを持って集まってきた。

 時子は、今しがた屋上の物干し台で見てきたという不思議な光景を佐智子に話していた。
「洗濯物を取り込んでいるとね、ビワ色をした太陽からゴムボールみたいな丸い玉が、ふんわりといくつも飛び出してきたの。それが地上に落ちてきて、街の屋根の上を地平線に向かってぽんぽんと跳ねていったのよ」
 時子は、美しい白髪をした年配の女性だ。まだ寒そうに紫色の上品なブラウスの襟を両手でおさえていた。
 彼女の話をうんうんと隣で聞いていた佐智子は、背筋のすらっとした40代の女性。長い髪を後ろできちんと結んでいる清楚な姿は、知的な印象を見る者に与えた。彼女は、テーブルの脇に聖書を置いている。彼女はいつも聖書を持ち歩いていた。誰彼に宗教を勧めるというのではなく、ただ手元に置いていると、神様が側にいてくれるような安心感を持つことできた。

 時子は幻覚や幻聴症状を主とした統合失調症、佐智子は、希死念慮を持つうつ病の診断を受け、ここに入院している。どちらも急性期を過ぎて閉鎖病棟からこちらの開放病棟に移ったものの、帰るべき身寄りがないため、長いことこの病院で暮らしていた。そこは、窓は小さく、しかも鉄格子がいまだにはまっている、地方の古い病院だった。

 食堂が満席になる頃、数人の看護師が患者たちの用意したカップや湯飲みにお茶を注いで廻った。お茶が来て、時子の話もそれで途切れた。
 時子は、眉間に皺を寄せ、しばらく黙って、注がれたばかりの湯気の立つお茶を覗きこんでいた。佐智子が間をおいて、「いただきましょうか」と、時子に声をかけ、彼女の様子を見守っていた。
「私のお茶に毒が入っているみたいなの」
時子が不安を言葉にした。すかさず、佐智子が応えた。
「私が毒見をいたしましょうか?」
「ああ、そんなことをしたらあなたが危険だわ」と、時子がそれを制した。
 佐智子は微笑んで、不安気な時子のカップを取り、少しだけ自分のカップに注ぎ、静かにそれに口をつけた。
「ねぇ、大丈夫でしょ」と、佐智子が落ち着いた声で、言葉に出す。

 すると、遠くのナースステーションから小太りの看護師が、勢いよく歩み寄ってきて、食堂中に響き渡るような大きな声を上げた。
「佐智子さん、あなたは今何をしたの? それは、時子さんのお茶でしょう。他人の分を勝手に飲んではいけないでしょうが、まったくもう」と、声を荒げた。
 佐智子は席を立ち、深々とお辞儀をして、すみませんと、看護師に謝った。

 看護師が立ち去ったあと、佐智子は聖書に手を置いて、ふぅとため息をついた。
「ごめんなさいね。私のせいで怒られてしまって」と、時子はすまなさそうに手をそっと合わせ、佐智子に詫びた。
「いいえ、勝手なことをした私が悪いのです」と、肩をすくめて応えた。
「それより、先ほどの空から落ちてくる玉の話を聞かせてくださらない?」と、尋ねると、時子は安心した様子でお茶を飲み、続きを語り出した。
「そうそう、屋上で見た玉はね、赤や黄色や緑、様々な色をして、たいそうきれいだったのよ。でも、何の玉だったのかしら? 玉が屋根に弾けるたびに、そこの家やビル不思議に輝きだしていたわ。子供たちがその家に帰ってきたようにね」
「この病院の屋上には、その玉は落ちてこなかったのですか?」と、佐智子が尋ねた。
「そうね、ここには落ちてこなかったわ。だって、ここは帰るべき場所じゃないでしょ」
 時子が当たり前のように言った。佐智子も、その言葉の意味を理解し、胸に針が刺さったように心が痛く感じ、顔を落とした。
 ふと、足元に広がる西日が、部屋を杏色に染めているのに気がつき、顔を上げた。時子は、うっとりと窓を見つめていた。
「夕日は、悲しい心にはいいみたいね。ほら、暖炉にあたっているようよ」時子がつぶやいた。

 遠くのナースステーションでは、先ほどの看護師が、その平和そうな様子を自分の手柄とばかりに、満足そうに眺めていた。

(了) 

精神科病院での一コマ(1700字程度)。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-11-05

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