記念日
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念
~俵万智『サラダ記念日』より~
道子は職場を出て、停留所近くの木陰に入り、バスを待っていた。バッグから携帯取り出し、彼にメールで訊ねた。
「今度の七夕の土曜日、逢えないかな?」
――だって、イブも大晦日の夜もあなたの誕生日も、一緒に過ごせないんだよ。それに婚約記念日も結婚記念日だってないんだから。
すぐに返事がきた。彼も仕事を終えたようだ。
「七日の土曜日、娘にせがまれて、家族とホタル狩りに出かける約束をしている。君の気持ちに添えなくて、ごめんな」
彼の言い訳が、飾り気も遠慮もない文字で送られてきた。七夕をそっと七日と言い換えている。
「そんな風に謝らないでよ。何だか自分がわがまま言っているみたいで、かえってみじめな気分になるよ」
「そうかぁ、悪かった」
「だからさぁ、それそれ……(-.-;) じゃあ次は、いつだったら逢える?」
彼は六日の金曜日、仕事を定時に上がれるとのこと。その日、アパートの部屋で、道子が夕食をごちそうすることになった。ただし、彼にはその日は泊れないと、念押しされた。
バスが来たので携帯をバックに入れ、乗り込んだ。六月末の金曜の午後六時。梅雨の合間の夏を思わせる青い空。窓の外は、もうすぐ夕焼け。暖かいセピア色の西日が民家や田んぼ、川のせせらぎを照らしている。
――太陽の日射しって、誰にでも平等にそそぐものなのね。
道子は座席に腰掛け、しだいに暮れていく空をぼんやり眺めていた。
――まぁ、いいか。もともと、織姫と彦星は、恋人じゃないしね。二人は夫婦だったのよ。来る日も来る日もべたべたして、すっかり仕事をしなくなった二人を、神様が分けてしまったの。そう、仲の良すぎた夫婦の物語。私には関係なかったね。彼は覚えているかな。初めてメールを交わした日。GWの前だった。私は異動したばかりの職場であたふたしてたから、優しい言葉が嬉しかった。デートで、初めて手をつないだのは、海辺の古いお寺に行った日だよ。石段を登る時、蝉の声に紛れて、そっと手を貸してくれたんだ。あれは初めからそれを狙ってのかな。映画を観にいって遅くなって送ってくれた日。木枯らしの吹く凍える夜も好きになれた気がした。あなたのポケット中で繋いだ手が温かかったから。その日、アパートの近くの公園でキスしたんだよ。砂時計のようにひっくり返して、もう一度二人の時間が戻ればいいのにね。
窓から入る夕暮れの風が道子の心にも吹き込んだ。やるせない苛立ちを、さらさらと流していくようだった。すると、きらきらしたいくつもの宝石が現れた。道子が一つずつ拾い上げては掌に乗せると、風が黄金の空へ、涙と一緒に光りながら飛んでいった。
一週間が過ぎ、六日の金曜日がきた。この日も晴れて、暑い日だった。
――明日も晴れるといいね。ホタル狩りだものね。
帰宅すると、シャワーを浴びて脇を剃った。タオルで頭を包み、ディナーの準備。炊飯器のスイッチを入れる。前日の夜に作った薄めのビシソワーズが冷蔵庫で冷えている。メインはキーマカレー。出勤前にひき肉と玉葱を大蒜と生姜の香りをつけて炒めて、ボールに移して冷蔵庫に入れておいた。
――さてと、肉をスパイスを効かせて煮込こむぞぉ。
今日は本格キーマカレー。サラダは、トマトとモッツアレチーズ。それぞれ薄く切って重ねて並べる。ソースはさっぱりと、オリーブオイルとバジルソースで。味つけはクレイジーソルトとブラックペッパー。スーパーで買ったスイートバジルの先をそっと飾った。
――うん、これ、いいかも。彼が来るまでちょっとの間、冷蔵庫で寝て待っててね。白ワインとビールも冷えているよと、よし。そうだビールのグラスも冷凍庫で冷やしておこう。
――ディナーの準備が整ったら、今度は私の最後のデコレーション。仕上げは、リップグロスでぷるるんぬるるん。
――サラダを起こして、レタスを敷いたサラダボールに移さなきゃ。あら、ちょうど、ぴったりの時間。うわ!
彼のチャイムも時間通りだった。
「いらっしゃい。夕食、用意できてるよ。ビールでいいかな。ワインも……、えっ、何それ?」
彼は、どこかで用意した、短冊のついた笹を持ってきた。
「道子、大好き!」なんて書いてある短冊を見つけて、今さらだけど、やっぱり照れくさかった。
彼は、トマトを摘まんで、口に入れた。彼もきっと照れ隠し。
道子はそっと彼の胸に入っていった。心臓の音が聞こえる。お互いにぎゅっとしたら、彼の持ってた笹の葉が首の後ろでチクチクする。
「私にもあとで、短冊書かせてね」顔を上げ、呟いた。
「うん」と頷ずく彼の動きで、そのまま唇を重ねた。
「いいね、この味」彼はそう言った。
「ぷるるんぬるるんのグリスだよ。あなたこれ、好きだったよね」
「違うよ。いや、キスも素敵だけど、このトマトさ。バジルが合うんだね」
「うん、ピザと一緒で、トマトとバジルは昔から相性がいいんだよ」
道子は唇を離して、もう一度彼の胸に戻った。キスは確かにトマトの味がした。ぴりりとブラックペッパーの苦味が涙を誘う。今日だけは泣きたくなかった。彼にばれないように、そっと涙をぬぐった。両手を突出し彼から離れ、キッチンに向かう。
「お腹すいたよね。ご飯にしよう!」
(了)
記念日