窓辺のキセキ
1
きっかけは窓辺のテーブル
噛み合った二つの歯車
互いの道が交わった
悠馬はその日もいつものように、大学近くの喫茶店「ラドリオ」で読書に没頭するつもりでいた。
店の一角にある窓に向かって作られた一人掛け用のテーブルがお気に入り。目の前が窓なので視界の端から入ってくる余計な情報が少なく、心置きなく読書を楽しむことができる。壁が近いことで圧迫感があり、それがなんとなく安心感を与えてくれるので気に入っているのだが、他の客にはどうも人気がないらしい。そこはいつも空席で、いつの間にか悠馬の指定席になっていた。
昼下がりの店内は閑散としていて、他に客はいなかった。すっかり顔なじみになった店員に注文をしてから大きく伸びをして椅子に腰かけた。
鞄から異世界へのパスポートを取り出して入国手続きをしようと思ったとき、テーブルにぶつかった光が反射して鉛筆で記されていた文字を浮かび上がらせた。「机に落書きなんてマナーの悪い客もいるものだ」と思いながらそれを消そうとして手を止める。こんなところに一体何を書いたのか。
ちょっとした好奇心。
年を重ねたことで深みを帯びた茶のテーブルは、鉛筆で書かれた文字をなかなかうまく読ませてはくれない。それでも目を凝らして何度か見る角度を変えると、はっきりと文字が読めるところを見つけることが出来た。
ふわり
ふわり
舞う粉雪が
静かに
静かに
降り積もる
その中に一人佇む私
あなたの帰りを待ちながら
「うわぁ……」
悠馬は思わず声を漏らす。
今は徐々に暑さが増してきた7月初旬。
前回ここに来たのが十日ほど前で、そのときにはまだ何も書かれていなかったので、これは少なくともその後に書かれたことになる。まだ梅雨明けこそしていないものの、外は既に太陽がギラギラと照りつけていて、夏がすぐそこまで来ていることを教えてくれる。
こんな暑い時期に真冬のことが書けるなんて、ある意味で尊敬に値する。
そんなことを考えていると注文していたアイスミルクティーが運ばれてきた。ここの店員なら何か知っているのではないかと思い、悠馬はその詩を指差して言った。
「あの、これ書いた人知ってます?」
「え? あっ……いぇ、私は何も……」
ならば、と少し声量をあげてカウンターにいる人物に言葉を投げる。
「店長は何か知ってますか?」
「何が?」
「テーブルに何か書いてあるんです」
「さぁ? 俺は知らん」
「そっか……」
思ったような収穫はなく、再びテーブルに目を戻す。
悠馬はシャープペンを取り出して詩の横に文字を書き始めた。
特に感動したわけじゃないし、なにがすごいというわけでもない。だが、この詩にほんの少しだけ興味を持った。
いや、正確にはこれを書いた人物に。理由は特にない。ただ、なんとなく。それだけだった。
これを書いた人が再び店に来るかはわからないし、まして、またこの席に座る保証もない。しかし、今はそんなことはどうでもよくて。可能性は限りなくゼロに近くとも、それはそれでいいわけで。もしも気づいてくれたら、そんな程度。
「おい、書いてもいいが、机に傷つけるなよ」
「わかってますって」
店主の声に顔をあげることなく答え、書き終えてペンを置いた。
『あなたのお名前は?』
多くは語らず、聞きたいことだけ直球で。
名前を尋ねるからにはこちらも名乗らなくてはならないだろうと思い、自分の名前を書こうとして手を止めた。この場で本名を名乗るのはなんとなく気が引けたので、どうしたものかと思案する。椅子にもたれて考えを巡らせていると、先ほど運ばれてきたミルクティーが視界の端をかすめ、思いついた。
『私は紅(こう)といいます。』
安直な気はしたが、即興で考えればこの程度だ。とりあえずこの名を名乗ることにした。自ら書いた文字をしばらく見つめ、納得して横に置いていた本を手に取る。相手が気づくように、と、少しの期待を胸に異世界へ旅立った。
2
それから数日後。
悠馬がまたいつもの席に座ると、詩は既に消されていて、かわりに一言。
『結加と申します。』
とだけ記されていた。
それを見た悠馬は思わず目を見張る。まさか本当に相手からメッセージが返ってくるとは思わなかった。なんだか楽しくなってきて、先日自分が書いたメッセージを消し、そこに再びメッセージを書く。
『素敵な詩ですね。
よく詩を書くんですか?』
自分が書いた文字を見直して、読みにくい部分がないかどうか確かめる。そして納得するとペンを本に持ち替えて、またいつものように読書に耽るのだった。
そしてまた次の時も、テーブルの上には〝紅〟宛ての新しいメッセージが記されていた。
『自分の気持ちを文章にすることが好きでよく書いています。
まだまだ未熟ではありますが……』
そして悠馬もその横にコメントを書き記す。
『いや、すごく素敵でしたよ。
それに、目の前にないものをイメージしながら書けることはすごいと思います。
私には真似できないことです。』
まるでチャットをしているような気分だった。チャットと言うにはあまりにも原始的で、
かなりの時間を要するが。これほど通信手段が発達した現代でなかなか出来る体験ではないだろう。
コメントを書き終えてから、運ばれてきたミルクティーを一口飲んで、そして相変わらず読書に没頭するのであった。
*****
それからも“結加”と“巧”のやり取りは続いていく。
ある日、いつものようにテーブルに視線を落とすと、今日も書き込みがされている。文字を目で追って、思わず眉間に皺が寄る。
『最近思うように書けないんです。
自分の伝えたいことがうまく言葉にならなくて……』
文字をを眺めながら思わずうなってしまう。
こんなときどう答えるべきか。
腕を組んで考え込んでいるとミルクティーが運ばれてきた。一口飲めばやさしい甘さが広がっていく。同時に一つ思いついて机に筆を走らせる。
書いては消し、消しては書いて。
その繰り返しで、やっと納得のいく返事を書けたときには、消しゴムのカスが小さな山を作っていた。
『そういうのって誰にでもあることですよ。
私もあります。
なら無理に書こうとせずお休みしてみてはどうでしょうか?
またすぐに書けるようになりますよ。
きっと大丈夫。』
そして数日後。
いつも通り席に座るだけなのに、なんとなく緊張してしまう。
自分の言葉は彼女に届いただろうか。彼女を励ますことが出来たのか、自分の言葉に自信がなかった。
恐る恐るテーブルを見つめると、いつもと変わらない達筆な文字で
『優しいお言葉ありがとうございます。
なんだか元気になれました。
少しゆっくりしようと思います。』
とある。
特に彼女を不快にするよう事はなかったらしい。ホッと胸をなで下ろしていつものように返事を書き始める。テーブルに向かう悠馬の表情は、とても穏やかなものだった。
3
*****
気がつけば店のテーブルを通じての会話が始まって数ヶ月が過ぎた。会話をするようになって、店に通う回数は確実に増えている。悠馬が行くとほとんど確実に新しいメッセージがあって、数ヶ月かけて交わした言葉は相当な数である。会話を続けるうちに二人は確実に打ち解けていった。
彼女は悠馬のどんな話にも丁寧に返事をしてくれた。どんな言葉も全て受け入れ、そこにある思いを汲み取ってくれる。もちろん彼女の意見も返ってきたが、批判や否定は決してしなかった。あくまでも悠馬に別の見方があることを伝えるために、彼女なりの意見が述べられる。
この関係が心地よくて、ずっと続くように願う自分がいた。
顔こそ見えないものの、文面から人柄がにじみ出て〝結加〟のイメージが悠馬の中でゆっくり膨らんでいく。そうするうちに詩人としてではなく、人としての彼女に興味を持つようになり、もっと彼女を知りたくなった。
相手を知りたいと思うなら、会ってみたいと考えるのは当然で。その思いは日増しに強くなっていった。彼女がくれるメッセージが嬉しくて、今ではラドリオに通うのが楽しくて仕方がない。出費はだいぶ嵩んだが、それでも通い続けるのは、少しでも彼女を知りたいから。
強くなる思いを抑えきれず、意を決してメッセージを綴る。
『もしよろしければ今度直接お会いして話しませんか?
あなたともっといろんな事を話してみたいです』
書き終えて思い切り息を吐く。たったこれだけの文章なのに、書くだけでひどく嫌な汗をかいた。この日は読んでいる小説の内容がちっとも頭に入らなかった。
*****
もしも返事が来ていなかったら、と思うと怖くてなかなか店には行けなかった。いつもより日を空けて、期待と不安が入り混じって不協和音を奏でる心に鞭打って店の扉を開けた。席に着いて、わざとテーブルを見ないようにしながらいつもと同じ注文をする。一度深く深呼吸をして、テーブルの文字に目を走らせた。
『そうですね。
いつか機会があったらぜひお会いしましょう』
悠馬はため息をついて頭をうなだれた。結局のところ、遠回しに断られたのだ。半分は予想していたことだが、それでも実際に断られるとショックは大きい。もう一度大きなため息をついてがっくりと肩を落とし、話の流れを変えようと何か別の話題を探した。
それからはもう会いたいとは書かなかった。しかしあの日以来、彼女の様子は変わってしまった。何となくよそよそしく、悠馬と距離を置こうとしているのを感じる。自分の発言は物理的距離を埋めるどころか、新たに心の距離を生み出してしまった。
それでも悠馬は諦めない。
相変わらず彼女の書く詩は儚げで美しく、紡ぐ言葉は穏やかで優しい……
彼女を知りたい。
彼女に会いたい。
いっそう強く願うようになっていた。
4
*****
悠馬はいつものようにラドリオでの時間を満喫して店を後にした。しかし店を出てから少し行ったところで、すぐに忘れ物に気づいて店に引き返すことにした。
店の前まで戻ってきて窓からチラリと店内をのぞくと、今まで悠馬が座っていた一人掛け用のテーブルに座っている人影が見える。目を凝らすとテーブルになにやら書きこみをしているようでハッとした。
高鳴る胸を抑えて、そっとドアノブに手をかけた。
音をたてないように静かに扉を開くと店主がこちらに気づき、彼の口から言葉が発せられそうになって、慌ててそれを手で制した。それで悠馬の言わんとするところを察してくれたようで、店主は小さくため息をついて仕事に戻った。勘のいい彼に感謝しつつ、例の席に目を移すと相手はこちらに気づいていない。テーブルに向かうその人は柔らかな笑みを浮かべ、テーブルに軽やかなタッチで文字を記している。
テーブルを走る筆はまるで踊るようだ。
悠馬は足音を消してテーブルに歩み寄る。集中しているのか、こちらには全く気付く様子はない。必死に文字を記している背中にできるだけ平静を装って声をかけた。
「こんにちは。〝結加〟さんですよね?」
彼女がビクッと肩を震わせて、ゆっくりこちらを振り返る。髪をおろしていたためにわかりにくかったが、そこに座っていたのはいつも接客をしてくれている女性の店員であった。
いつもの営業スマイルは見る影もなく、こわばった表情で答えた。
「えっと……何のこと、ですか?」
そして言葉と共に向けられる無理やり作った引きつった笑顔。悠馬はにっこりと微笑んで、彼女の言葉を一蹴した。
「もうバレてますよ」
「……ですよね?」
「少しお話する時間をいただけないでしょうか?」
そのまま笑顔で尋ねると、彼女は視線を泳がせる。逃げる口実でも考えているのかもしれないが、念願叶って彼女に会えたのだから、例え何を言われても逃がすつもりはない。もっと多くを語りたい。もっと彼女を知りたい。彼女の声を、言葉を、聞きたくて仕方がない。
彼女も悠馬の気持ちを察したのか、諦めたようで小さく頷いた。
悠馬は隣にある4人掛けになっているテーブルに座り、自分の正面の席を勧める。そして彼女はためらいながらそっと椅子を引いて静かに腰掛けた。
〝結加〟は上原さつきと名乗り、悠馬の通う大学の1年生ということがわかった。
さつきは店主に淹れてもらったコーヒーを飲んで大きく息を吐くと、意を決したようにゆっくりと話し始めた。
「私、あのテーブルが何となく好きで、バイト終わった後はいつもあの席で一休みしてから帰るんです」
そのまま呟くように続ける。
「あのとき書いてあった詩は、いつも思いついた時に書き留めるメモ帳が手元になくて、後で書き写して消すつもりで書いて。そうしたら……」
「俺がその前に気づいたってことか」
「はい」
彼女がそこまで話し終えたところで、カウンターから独り言のような言葉が聞こえてきた。
「本当のこと言えばいいのに……」
「え……?」
「店長!」
聞き返そうとしたそれは、さつきの声に遮られた。
「……上原さん?」
「っ、あ、いえ、気にしないでください!」
見ると彼女は俯いて耳まで真っ赤にして俯いていた。その姿がなんだか可愛らしく、思わず口元が緩む。もう少しその姿を見たい気持ちもあったが、あまりにも必死なので話題を変えて助け舟を出す。
「あのさ、会うの嫌がってたのに、声かけてごめん。だけど、どうしても君と会って話してみたかったんだ。だから……」
「いえ、そのことなら気にしないでください」
やわらかく微笑んだ表情が、言葉に偽りのないことを教えてくれる。
「そっか……よかった」
安堵のため息をつくと、突然さつきはぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、会いたいと言ってくださっていたのにあの時はお断りしてしまってごめんなさい」
「あぁ。気にしなくていいんだ。今はこうやって会えたんだし」
「はい。私も、お会いできてよかったです」
返事と共に向けられる、はにかむような笑顔に胸が高鳴るのを感じた。ごまかすように一つ息を吐いて、静かに心を落ち着ける。
「あ、あのさ、もしよかったら、これからもいろんな話しようよ。今度はあのテーブルじゃなくて、お互いの顔を見て。どうかな?」
それを聞いたさつきは驚いたように目を見開いて、それから嬉しそうに微笑んだ。
「はい。喜んで!」
きっかけは窓辺のテーブル
ゆっくりと回りだした運命の歯車
交わった二つの道が寄り添って進むのはもう少し先の話
<了>
窓辺のキセキ
実体験をいくつかつなぎ合わせて作品にしたいと思い、書きました。
「作家でごはん」の鍛錬場にも同じ作品を掲載しております。
よろしくお願いいたします。