薄桜鬼(改想録≠メモワール) 藤堂平助編9
さだめの雪夜
平助が西本願寺の新選組屯所を去ってから三ヶ月後、平助だけでなく新選組それ自体がここからすっかり出ていってしまいました。
変若水と羅刹の一件で、寺側が新選組の駐留に、強い懸念を示したからです。
寺の方から新しい屯所を与えることを条件に、ここからの退去を要請したのです。
寺は、以前の静けさを取り戻しました。
境内には、若い隊士達の賑やかな話声や笑い声に代わって、坊主達が経を読む厳かな重低音だけが響きます。
ですが、新選組の動向は、町から流れてくる噂でうかがい知ることができました。そして、新選組を出た平助が所属する御陵衛士という組織のことも…
ふたつに割れた組織は、互いに猜疑心を抱き、次第に敵対していきました。
それもそうでしょう。あの薬と化け物の秘密を握っている伊東を野放しにしておくというのは、近藤や土方達にとっては驚異でしかありません。当然、それを分かっている伊東達も警戒を強めていました。
またそれだけでなく、幕府の力が衰えゆくなか、様々な思想の者達が入り乱れた京においては、誰が、どの勢力が、何時討たれるか知れず、町では毎晩、誰かの命を賭した駆け引きが繰り広げられていたのです。
平助はどうしているでしょうか。
あの青年はまだ年若く、剣技は優れていても、状況判断や洞察力に欠ける。こんな緊迫した心理戦にはきっと向いていない。
罠とわかっていても、真っ正面から突っ込んでいく。そんな性格の持ち主に見えました。
しかし、私には忠告も警告もできない。こんな歯がゆさは慣れっこでしたが、心がざわついてなりません。
どうか彼には、この動乱を乗り越えて、この先の時代を生きてほしい…
私はそんなことを考えながら、日に日に増す寒さのなかに意識を埋めていきました。春はいまだ遠く、うっとおしいまでに厚い雲が空を覆っています。
この寒さ緩むまで、私はしばし浅い眠りにつくことにしました。
******
御陵衛士として活動する俺たちを待ち受けていたのは、近藤さんや土方さんによる無言の追討だった。
土方さんは、斎藤一をこちらへ派遣してきた。恐らくは内部を探らせるためだ。
一くんが来たのは俺のすぐあと。どう考えても不自然だったが、もともと無口でなにを考えているかわからない彼は、顔色ひとつ変えず伊東さんの方針に従う意思表示をし、伊東さんは何も言わず彼を受け入れてしまった。
ところがこの間、一くんが御陵衛士を抜け、新選組の元へ戻ってしまった。そしてそのあとすぐにこんな噂がたった。
御陵衛士の伊東甲子太郎が、新選組局長近藤勇の暗殺を企てている
ついにこのときが来たか、と俺は思った。
覚悟はしていたけど、緊張と共に脇腹を生ぬるい汗がつたう。
「いかがいたしますか、伊東先生…
向こうが仕掛けてくる前にこちらから仕掛けますか…」
一人の隊士が伊東さんに意見を求めた。
伊東さんは冷静な表情で黙している。
実は、俺たちはそんな暗殺計画なんて練ってちゃいない。でも、伊東派のなかには過激な人間もいて、誰かが独断でそういう計画をしていないとは言い切れなかった。
一くんは、それを見逃さず、この組織の真実として新選組に持ち帰ったのかもしれない。あるいは、俺たちを始末する口実か。
そのとき、誰かが屯所の門の前で叫ぶのが聞こえた。
「頼もう!!誰かあるか、伝令である!!」
…………
…………
出迎えの者が向かって寸刻、文を預かり戻ってきた。
「……」
伊東さんは文を受け取り、険しい表情ですばやくそれに目を通した。
「今月の四日、わたくしを酒宴に招きたいとのことですわ。場所は、近藤さんの別宅。」
「…!?」
「…なんと、こんな時機にかような…!!
先生、行ってはなりません。きっと罠です。」
俺もそう思った。
土方さんのことだ、絶対に無意味にこんな宴会の場なんて設けるはずがない。
「伊東さん…」
「…参りましょう。」
「!!」
「先生!?なりません!!」
「ここで断れば、かえって必要以上に疑われてしまいます。なにもやましいことなどないことを釈明するためにも、ここはわたくしが腹を割って話をしに行って参りますわ。」
「し、しかし……」
俺は黙ってられなくて口をはさんだ。
「…伊東さん。俺が、こんなこというのもおかしいかもしんねぇけど、その…行かない方がいいと思います。土方さんは……」
「藤堂くん。」
それ以上言うなとばかりに凛とした声音で制された。
「藤堂くん、貴方には色々と心労をかけますね。我々についてきてくれたことには感謝しています。ですが、わたくしはあなたよりも彼ら…新選組を理解しているつもりです。
たしかに客観的に考えても、今回は行くべきではありません。ただ、行かなければ状況はもっと悪くなるでしょう。」
その言葉で、伊東さんがあえて危険な賭けに出るつもりであることに気がついた。
「伊東さん、俺は……!!」
貴方には死んでほしくありません、そう告げようとしたとき、
「わたくしになにがあっても、」
今まで聞いたこともないような、伊東さんの低い声が部屋に響いた。
「決して、感情的になってはいけません。
わたくしはあなたの道標でもなんでもありません。
自分の信ずる道を、過ってはなりませんよ。」
そして、いつもの少し気取ったような笑みを浮かべ、
「…いいですね。」
と言った。
*******
懐かしい匂いがした気がして、私は少し目を覚ましました。
それは雪の夜でした。あたりは雪明かりに包まれた薄闇で、なにも聞こえませんでした。
私は、やや寝ぼけながら、体に積もった冷たいものをひとかけら振るい落とし、境内の方を見ました。
すると、いつかのあの女の子が立っていました。
私が眠ってから、どのくらい経ったでしょうか。玉砂利の上を真っ白い雪がしんしんと覆っていきます。
こんな寒い日に、いったいあの子はたったひとり、ここで何をしているのでしょうか。
彼女の、まるで雪に紛れてしまいそうなその姿に、私は心配になってじっと様子をうかがいます。
そのときでした。
ざくり、と雪を踏みしめる音がしてひとりの異様な風体の男がふらりと現れました。
そして、千鶴と呼ばれていたあの少女にゆったりと近づいていきます。
「……!」
千鶴が男の気配に気づいて振り返ると、怯えたように身構えました。
「あ、あなたは…!!」
「……ふん…さすがに覚えていたか。」
どうやら知り合いのようです。しかし、それにしては千鶴がひどく鋭い眼で男を睨み付けています。
その男は、柳のようにすらりとした身体に刀をひと振り携えており、端正な造りの顔に、狐を思わせる涼しげで狡猾そうな目を千鶴に向けていました。
「あなたたちは一体何者なんですか!?
どうして…私を狙うんですかっ!!」
…どういうことでしょう。狙うとは穏やかではありません。
「…そういう貴様こそ、自分が何者なのか分かっていないのではないか?」
「……!」
「…名を名乗れ。」
「…ゆ……こ、近藤蒼鶴…です。」
「嘘を吐くな。」
不愉快と言わんばかりに目を細めると、腰に手をやり刀の柄を握った。
それを見て千鶴も、自分の腰の小振りな刀に手をかけます。
シャリン…
小気味のよい音とともに男の刀が引き抜かれると、身を刺すような殺気が放たれました。
それを感じ取った私は瞬間的に悟りました。
この者は人ではない、と。私は彼のような生き物を知っていました、そう、彼は…
「以前も名乗ったが…俺は西の鬼を統べる風間家の頭領、風間千景。
そしてお前は、東の鬼の一族の生き残り…雪村家の者。しかも、」
彼はおもむろに千鶴に近づくと、抜き身の刀を彼女に突きつけました。
「……な、なにを!!
…きゃっ!!」
そして雪の上に鋭い光が閃いたその刹那、
彼女の黒髪がふわりとほどかれて、薄闇に揺れたのが見えました。
「……あ…」
「なにも知らぬのなら教えてやろう…お前もこの俺と同じ鬼だ。しかも女…
なぜ女鬼が、そんな格好で人間共とつるんでいるのか知らんが、見つけたからには見逃しはせん…俺とともに来い…」
「わ…私は鬼なんかじゃありません!!」
「認めたくない…か。まぁ今はそれでも構わん…だが、すぐに分かることだ。」
「……」
千鶴は一瞬苦しげに瞳を伏せ、でもすぐに再び風間と名乗る男を睨み付けます。
「ふん…俺の言っていることを否定したがっている目だな…だが、俺はあいにくお前の欲しがる答えを与えてはやれん…
お前は人ではない。そして、人と鬼は相容れぬものだ…それを思い知らされたいのか…?」
彼は苛立たしげに顔をしかめながら、彼女へと腕を伸ばします。
「さぁ、来い…」
「…っ、嫌です!!」
言うが早いか、千鶴は後退りながら、転げ出すようにその場から逃げ出しました。
ざく、ざく、ざく、ざく、
音の失せた世界に彼女が雪を踏む音だけが響きます。私は、すっかり冴えた意識でふたりの動きを追います。
「くく…俺から逃げられると本気で思ってるのか…?」
風間は、薄ら笑みを浮かべ、まるで散歩するような足取りで、しかし確実に千鶴を追い詰めていきます。
しかし、あと少しで追い付かれる、というところで、私はもう一人の人間の意識が現れたことに気がつきました。
「あ……!」
それは、間違いなくあの青年でした。
「…千鶴!?」
「へい…すけ…くん。どうしてここに…」
「千鶴。お前も…なんでこんなとこに…。
……!?」
平助は千鶴の背後に迫る人影に気づくと、すぐに鋭い眼を闇に凝らしました。
「てめぇは…あのときの…!!」
「誰かと思えば貴様…元、新選組の仔犬か。」
「千鶴、話は後だ。…下がってろ。」
平助は千鶴を背にかばうと、腰の刀を抜き払います。
「たしか藤堂…とかいったか。
お前はもう新選組ではないのだろう…。なぜその女を庇いだてする?」
「…うるせぇ!!こいつが嫌がってんのに無理矢理連れてくってんなら、ここで俺がお前をぶった斬る!!
俺が、どこの誰かなんて関係ねぇだろ!!」
凍った空気にぶつかり合う殺気が痛い。
雪はいつしか止んでいました。
永(とこしえ)を思わせる静けさのなか、銀の地表に二つの影がのびていました。
動乱の渦中にある都の裏で、誰も知ることのない争いが始まろうとしていました。
薄桜鬼(改想録≠メモワール) 藤堂平助編9