のらねこ組曲Ⅲ「モモ」

組曲最後のお話です。
楽しんで書いていこうと思います。よろしくお願いします。

幸せの空間

「ねえ、あんたんとこの馬鹿飼い主、いい加減に何とかしなさいよ」
「そう言うなよ。試験に失敗してんだ。少しくらい落ち込ませてやれ」
 太陽が気持ちよく照る昼下がり、長閑なはずの公園で、一人号泣しながらブランコをこぎまくる男。連日こんな調子だから、子どもたちは怖がって来なくなってしまった。
 私をはじめ、この公園に住む猫たちもさすがにうんざりしてきている。ただでさえ黒縁眼鏡にボサボサの髪、古ぼけたジャージというさえない格好なのに、不幸オーラまで振りまかれちゃあこっちの気も滅入るってものよ。
「そんなに難しいものなの? 『しけん』って」
「さあな。人間様の事情は分からんよ。試験が難しいのかもしれんし、征司が馬鹿なだけかもしれん」
「そんなにできないのなら、止めてしまえば良いのに」
「そうもいかんだろう。人間は何かに認められなければ生きてはゆかれん」
「……大変ね、人間って」
 つくづく思うわ、と言うと、シノは同意するように尻尾をくるりと巻いてみせた。
 と、不意に泣き声が止んだ。あたりがしんと静まり返る。見ると、征司はブランコから降り、じっとこちらを見つめていた。
 何、と疑問に思うのも束の間、征司はいきなりこちらに向かって走り出した。私とシノは驚いてその場を飛び退く。
 シノは少し、私はかなりの距離をとって。
 征司は立ち止まると、
「決めた」
 と一言。そして私の方に向き直り、さらにこう言った。
「次の試験に合格したら、モモ、俺はお前を飼う!」
(……は?)
「よし! そうと決まればさっそく勉強だ! 待ってろよ、必ずお前を俺の家に迎えるからな!」
(え……ちょ、待ちなさい!)
 私の叫びも虚しく、征司は風のように走り去り、姿は見えなくなってしまった。
 呆気にとられている私を、ヒューヒュー、とシノが冷やかす。
「ふざけてないで、今すぐあの馬鹿どうにかしてきて」
「いいじゃないか、もともと征司はお前を飼いたくて猛アタックしていたんだ。これを機に受け入れてしまえ」
「冗談。私はもう誰の物にもなりたくないわ」
 もう二度とね。と吐き捨てるように言う。
 そう、私は元々の野良じゃない。捨て猫だ。もう一度人間の物になるなんて、考えられない。
 まあ良いわ。『しけん』は征司にとってはとても難しいものらしいし、どうせ今度も失敗するに決まってるわ。
 くるりと踵を返して、私はその場を立ち去った。

 夜になると、この公園にはたくさんの野良猫が集まりはじめる。若い猫たちは街中を駆け回り、自分で食べ物を見つけることができるが、子どもや年寄りにはそうはいかない。そんな猫たちのために、若者たちは毎晩ここに食べ物を持ってきてくれるのだ。
 ここの猫たちはみんな優しい。私が初めてここに来た日も、暖かく出迎えてくれた。
 特に……
「モモ、ちゃんと食ってるか」
「ヨル」
 猫たちの中でも、一際体の大きな黒猫が近づいてきた。
 私は口周りに付いたツナを急いで舐めとり、ヨルに笑いかける。
 捨て猫の私を、この公園に連れてきたのはこの黒猫だった。まだ幼かった私を、ヨルはとても可愛がってくれた。ヨルがいなかったら私はこの世にいなかった、まさに育ての親だ。
「あなたも食べる? カキネが持ってきたのよ、このツナ缶」
 そう言うと、横にいたトラ模様の猫が照れくさそうに笑った。
「ほお、やるじゃないか。この間まではモモにべったり、ついて回っていたくせに」
 カキネはつい最近、街に出るようになった。普通の猫より体が小さいので、私も随分心配したけれど、こうして毎晩食料調達の役目を果たしてくれている。
「うっさい黒猫野郎、これはモモちゃんのだ。お前にやるツナ缶なんかねえ! そんでもって、あたしを子ども扱いすんなばーか!」
 ただ、何が気に入らないのか、カキネは私以外の誰にもなつこうとしない。野良猫のリーダー的存在のヨルにでさえこうだ。
 そんなカキネの態度を、ヨルは鷹揚に笑って受け流す。カキネはますますムキになって噛み付くのだけれど、結局は適わずに私の後ろで不貞腐れるのだった。
 その様子がおかしくて、私はくすくすと笑った。
「征司は、今日も来たらしいな」
 シノに聞いたよ、とヨルが言ったので、私はぎくりとした。
 ならば、征司が私に言ったことも、もう知っているのだろう。
「何!? 征司! あたしがいない間にモモちゃんに言い寄るなんて……今度会ったら噛み付いてやる」
 背後のカキネがフシューっといきり立った。
 勝手に喋ったシノのことを心の中で恨みながら、曖昧に返事をする。が、ヨルは話題を変えようとはしなかった。
「どうだ、賭けには勝てそうか?」
「……どうでも良いわ。征司が『しけん』に成功しようが失敗しようが、私はもう人間のものにはならないの」
 そっぽを向くと、ヨルはんふふ、と笑った。
 私が何かわがままを言ったとき、ヨルは決まってこんな笑い方をする。野良猫のリーダーとして、いつも堂々と、威厳たっぷりの顔をしている彼の、目尻を下げ「やれやれ」というように優しく笑うその姿がとても好きだった。
 そう、私だけが知っている。何か、とっても素敵で絶対に誰にも秘密なものを見つけた時のような得意な気持ちになって、わがままな気持ちはどこかに行ってしまうのだけれど、ヨルは結局私のわがままを聞き入れてくれるのだった。
「なあ、モモ。私たちに遠慮してそう言っているのなら、止めてくれよ? 私たちはいつだってお前の幸せを願っているのだから」
 お前もそう思うだろう? とヨルがカキネに振ると、カキネはとても傷ついた顔をした。けれど、
「モモちゃんが良いなら……あたしも良い」
 絞り出すようにそう言った。
 その様子がとても可愛らしくて、またくすりと笑う。
「どうして遠慮なんか。私は、ヨルやカキネや、ここにいるみんなと一緒にいたいの。私はそれがいいのよ」
「ほんと?」
「ええ」
 嬉しそうに擦り寄るカキネに顔を寄せて、二人で笑い合う。
 ああ、こんなに幸せな空間が、一体どこにあるというの? 飼い猫だった頃に未練なんてあるものですか。なのに、どうしてヨルはそんなことを言うのか、私には分からなかった。

やさしい夜に

「モモ」
 懐かしい声が私を呼んでいる。私の大好きな、よく通るかわいらしい声。
「モモ」
 振り向くと、柔らかそうな栗色の髪の毛が眼前で揺れた。視線をさらに上に向けると、くりくりとした目が、こちらを見つめて微笑んでいる。
 学校から帰ってくると真っ先に私を抱き上げて、やさしく頬ずりをしてくれた。お母さんが夕食に呼びに来るまで遊んでくれた……ちょっと煩わしくなるほどにね。でもとても幸せだった。
 この子には私が必要で、私にとってはこの子が全てだった。別れなんて言葉は知らず、幸福は永遠だと信じきっていた。
 それなのに、
「ごめんね」
 それは今まで聞いたこともないような、悲しい声色をしていた。お日様を浴びてつやつやと輝く栗色の髪も、長い睫に縁どられた大きな瞳も、その時はずいぶんとくすんでいるように見えた。
「じゃあ、お願いします」
「ええ、モモちゃんのことは任せてください」
 あの子の両親が、知らない男女と何か話している。
 内容は聞こえないけれど、何となく気づいた。お別れするんだと。
理由が知りたくて必死に鳴いた。
 にゃあ。
 どうして?
 にゃあ。
 ずっと一緒だったのに?
 にゃあ。
 もう遊んでくれないの?
 にゃあ……
 私はもう、
――いらない子?
 彼女が立ち上がった。長い時間アスファルトの上に膝をついていたから、膝小僧がでこぼこしている。少し血も滲んでいた。
舐めてあげなきゃ、と思ったときには、彼女はもう駆け出していて。
 私はそれを、彼女の背が見えなくなるまで見つめていた。
 「モモ」の名札がついた首輪が、いつまでも息苦しかった。

 ゴオッという車の通過音で目が覚めた。夜明けはまだ遠く、頭上では星が瞬いている。
 寝なおそうかとも思ったけれど、すっかり目がさえてしまった。
 隣ではカキネがすやすやと寝息をたてている。猫は夜行性だけど、私とカキネは元飼い猫だったからか、夜はぐっすり寝てしまう。
(カキネは、元飼い主のことをどう思っているのかしら)
 小さな段ボール箱に入れられて、住宅の垣根に隠すように捨てられていた子猫。まだ鳴くこともままならなかったけど、その瞳で必死に不安を訴えていた。
(もしかしたら、もう覚えてないかもね)
 そっちの方が幸せなのかもしれない。
 私には記憶がある。幸せだった昔の記憶が。だからこそ、どうしてあの子が私を捨てたのか、今でも分からない。
「何だ、起きているのか」
 夜闇よりもなお濃い影が、のっそりと現れ出た。そこに浮かぶ二つの緑色が、爛々と輝いている。
「ヨル……」
「眠れないのか?」
 私の隣に腰を下ろしながら、ヨルはそう聞いてきた。月明かりに照らされたヨルの顔は、とても優しかった。
 きっと心配してくれているのね。
「大したことじゃないわ。ただ月を見ていたい気分なだけ」
「そうか」
 それっきり、ヨルは何も聞かなかった。私が喋りたくなるときまで待っていてくれるのだろう。ヨルはいつだって私のことを考えてくれる。
 それからは二匹黙って空を見上げた。月光は柔らかく降り注ぎ、星々は静かに瞬きを繰り返す。ときおり、夜風がどこからか吹いてきて、私とヨルの背中を撫ぜていった。
 昼間は賑やかな公園の遊具たちも、今は寝静まっているようだった。
「征司は」
 ぽつりと、私は言葉を吐きだした。
「征司は、良い奴だと思うわ。ダサいし、要領悪いし、うっざいけど、嘘がつけないもの」
 ヨルは何も言わない。だたじっと、私の言葉を待ってくれてる。 
 ジャージ姿の男が頭に浮かぶ。自分にとことん無頓着で、事をすぐ大げさにしてしまう人だけれど、誰よりも素直で、誰よりも正直者だ。
征司なら、きっと私を大事にしてくれるのだろう。
 けれど。
「昔の夢を見たわ。飼い猫だったころの夢を」
『ごめんね』
 ずっと頭から離れない最後の言葉。どうしてもわだかまる疑問。
 謝るのならどうして、私を捨てたのか。
 正確に言えば、あの子は私を捨ててはいない。彼女の両親と話をしていた男女。あのあと私は、その二人に飼われ始めた。その後のことをちゃんと考えてくれていたのだろう。
 けれど、当時の私にはそんなのは関係なかった。
 記憶がフラッシュバックする。くすんで見えた髪と瞳、血の滲んだ膝小僧、必死に鳴く自分の声、遠ざかる背中、息苦しい首輪……。
「あんな思いはもう、二度とごめんよ」
 あの時の喪失感、絶望感が、今でも体にこびりついて離れない。
 あのとき確かに、私は捨てられたのだ。
 征司とあの子は違うと分かっていても、また誰かに飼われるのは恐ろしい。
 ヨルはやっぱり何も言わなかった。月を見つめながら、私の言葉に耳を傾けてくれていた。
 辺りはまだ暗く、風が草花を撫ぜる音が聞こえてくる。月と星は相変わらず穏やかに照っていた。
 月も星も風も、ヨルも。今夜の何もかもが私に優しかった。
 と、ここにきてようやく瞼が重くなってきた。私はヨルのそばへ行き、そのお腹に頭をうずめた。ゆっくりとした呼吸に合わせて、体が上下する。そのリズムが心地よくて、さっきまでの不安やわだかまりが溶けていくようだった。
「ねえヨル。私幸せだわ。カキネがいて、みんながいて、そしてあなたがいるから」
「そうか」
「征司には悪いけれど、賭けには乗れないわ。明日シノにも言う」
「そうか」
「うん……じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
 捨てられた心の傷は癒えないけれど、今の私にはこの場所がある。それだけで十分だわ。
 優しい夜の静寂に身任せて、私はそっと瞼を閉じた。

のらねこ組曲Ⅲ「モモ」

のらねこ組曲Ⅲ「モモ」

公園に住むメス猫、モモは、受験生の征司に飼い猫になるよう誘いを受けていた。 もう二度と人間のものにならないと決めているモモはその誘いに乗り気ではなく……。 「幸せは、きっとここにあるから」

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-22

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 幸せの空間
  2. やさしい夜に