冬枯れのヴォカリーズ vol.6
都内の女子大に通う、理美の、大学生活の日常を描く、恋愛小説。
楽しい連休が終わり、また平凡な日常が戻ってきた。
デンマーク体操部は、体育会系の部活としては不真面目な方で、目白祭が終わってから一月の試験が終わるまでは週二、月曜と木曜だけの活動になっていた。活動内容は夕方五時から六時までは「アップ」と言って、学生だけで準備体操のようなものをする。そして六時から後半の一時間は、コーチが来て、コーチの指導のもと、音楽をかけながら体を動かす。コーチは私の大学出身で、デンマークに体操留学したことのある中村コーチ、それに佐々木コーチの二人が交替で来てくれる。中村コーチはバレエ的な動きが得意で、音楽もリラクゼーション的なものが多く、かたや佐々木コーチはパワフルで、音楽も躍動的なものを多く取り入れている。お二方とも、立派な子どもさんのいるお母さんだ。
デンマーク体操は、勝負や記録を目的としない。万人の健康・体力づくりに焦点を合わせた体操で、動きが上手か下手かということよりも、身体機能のバランスづくりに重点を置き、音楽を取り入れ楽しく動きを消化できるようにしたもので、今、特に中高年の人の間で静かなブームになり始めているらしい。とは言ってもやはり私の部活には、元バレエや新体操などをしていた子が半分以上を占める。
今日は中村コーチの日だった。中村コーチはプラダのバッグを何種類も持っている。今日はベージュのトートバッグだ。
坂本龍一の音楽で、ゆっくり首や肩、足首などを回すところから始まる。デンマーク体操の基本は『脱力』だ。いかに大胆に脱力できるかがポイントで、それは一年の時からじっくり繰り返し教わってきた。これをすると、言い様もない快感に浸れる。今日は目白祭の後最初の部活だったので、中村コーチも新しいことは特にやらずに、今まで習ったものの中から優しい動きのものを選んでゆっくりと指導してくれた。
部活が終わり、目白駅で奈歩や後輩たちと別れる。
山手線に揺られながら、私は、 (高村優くんに、りんごをあげたいなぁ…) などとぼんやり考えていた。この間銭湯で会った時、家の場所を聞けばよかったと後悔したが、彼女さんがいたんだから無理もない。
松崎からは、旅行以来、また連絡なしだった。だからって許されることじゃない、それはわかってる。でも…。波長が合わないことは、今に始まったことじゃない。それなのに、最近は、自分を抑えられなくなってしまった。あの旅行は、せっかく、いい時間だったのに…。
東中野に着いて改札を出て歩き出す。ギンザ商店街はもう八時だというのに人通りが多かった。私は、今日は何を食べようか、またいつものように豚肉と豆腐の塩コショー炒めでいいか…などと考えながら前方をボーッと見て歩いていると、向こうからやってくる、缶コーヒー片手に優雅に歩くかっこいい人が目に入った…それはまぎれもなく、あの、高村優くんだったのだ。こんなにバッタリ会えるなんて…。私は、目白駅のトイレで化粧を直してきて良かったと心底思った。
「あれっ、偶然ですね。これからどちらへ?」
私は急に笑顔になって、そう尋ねる。
「いやぁ、夕めし食おうと思って、どっかないかなぁと歩いていたところです。あ、もし良かったら、夕めしまだだったら一緒にどうですか?」
思わぬ誘いだった。夕食はまだだったから、いや、もし食べた後だったとしても間違いなくこう答えたはずだ。
「ええ、私もこれからなんです。じゃあ、この間のファミレスにでも行きましょうか?」
私が提案すると、高村くんもそれがいいということで、二人で歩き出した。私は、内心興奮していたが、極力お姉さん面を装い、彼の左側の半歩後ろあたりを、歩く。松崎にこの界隈で会うことはまずないだろう。そんなことをとっさに考える自分もいた。もし、電話がかかってきたらどうしよう、メールきたら返事しないと…など頭をよぎったが、それは、心配なかった。連絡をあまり取らない松崎が、今は有難く思えた。
「あの、この間名前をお聞きしなかったんですが…」 と高村くんが言ったので、
「私、夏木理美って言います。福島出身で、七才上の兄と五才上の姉がいます。高村くんはどちらの出身ですか?ご兄弟は、たぶん、妹さんいらっしゃるでしょう?」 なぜか、まだ他人同様なのに、スラスラと言葉が出てくる。
「オレは広島出身です。兄弟は、夏木さんのご察知のとおり、妹が二人います。あ、偶然ですがオレのおばあちゃんちも福島なんですよ」
「へぇー、福島のどこですか?中通り?」
「いや、浜通りです。双葉郡の小良ヶ浜っていう所で、車で二十分ぐらいのところに原発があるんですけどね。灯台があって、そこからの景色が最高なんです。いつだったか初日の出を見たこともありましたよ」
高村くんはきわめて明るく、爽やかで礼儀正しい話し方だった。やはり第一印象は外れていなかったのだ。その後は、確か差し障りのない世間話をしたはずだが、心が浮ついていて、何を話したのかも忘れてしまうほどだった。しかし、これだけは言える。見事な程会話が弾んだって言うこと。まだ他人同様なのに…。 彼は途中、コーヒーの空き缶を、自販機の脇に置いてあった空き缶入れに、スルっ、と投げ入れた。その仕草はこれ以上ないほどスマートだった。それに、びっくりしたのは、すごく紳士的だということで、まだ大学一年生には思えない落ち着きがあった。しかしそれは老けていると言うのとは全然違くて、むしろ瑞々しいボイス、表情、話し方、仕草、何もかもが静かな活気に満ちあふれていて、まるで貴公子のよう。
そうこうするうちにファミレスに着く。
「おたばこお吸いになられますか?」 と店員に聞かれ、二人で顔を見合わせて、
「禁煙でお願いします」 と高村くんが笑顔で言う。
実は私は、アパートのベランダでは、たまーに、ごくたまに煙草を吸う。メンソールの1mgだ。このことは松崎も知らない。誰にも言ったことがない…秘密だ。フォションのラズベリージャムの空き瓶を灰皿代わりにしている。
店員は、店の一番奥の窓際の席へ通してくれた。高村くんは一旦家に戻り普段着に着替えたのだろう。フレッドペリーの白いジャージにブルージーンズというラフな格好だった。あの銀色のアクセサリーを今日も身に付けている。
まるで夢のような時間だった。話題は面白いほど出てきた。銭湯藤の湯のこと、スーパートヨクニのこと、コーヒーが大好きだということ、好きな音楽や映画のこと、意外にも二人共小さい頃うさぎを飼っていたこと、実家は瀬戸内海に浮かぶ島で、中・高バレー部だったということ、お父さんは建築家だということ、大学の講義のこと、お互いのサークルのこと、最近公示になった選挙のこと……。
「コーヒーにはちょっとしたこだわりがあるんです。こっちに来て一人暮らしを始めて、家具とかを買う前にまず真っ先に買ったのが、注ぎ口の長い銅製のポットで…。豆は色々試したんですけど、グァテマラのやや深煎りがオレは一番好きです。コーヒーはオレの生活の中で、かなりのウェートを占めています」
高村くんとの会話は本当に面白かった。彼は外面だけでも充分かっこいいのに、考え方やセンス、ウィットに飛ぶ話し方といった、ルックス以外のところも本当に魅力的だった。
「それにしても、この間銭湯で会ってからまだ間もないのに、又こうしてお会いするなんて、行動パターンが似ているんでしょうかね」
などと言ってひとしきり笑い合ったりしたのは、これ以上ない幸福だった。 つい二週間前にあんなに憧れ、望んだ、この人と向かい合うこと、目を合わせること、会話していること、信じられなかった。会話に集中するあまり、何を食べたかもわからないくらいだった。
ファミレスを出たのは、なんと11時を過ぎていた。ファミレスからの帰り道、私は、そう言えばりんごをあげたいと思っていたことを思い出し、
「この間の連休に実家へ行き、りんごをたくさんもらってきたんです。よかったら少しいかがですか?」 と言うと、高村くんは、
「いいんですか?果物は大好きなんです。広島は温州みかんが美味しいですよ」
それで、まず私のアパートに寄った。
「ここが私のアパートです。ちょっと待ってて下さいね」
高村くんを下に待たせて急いで階段を上り、アパートの鍵を開け、りんごを、なるべく大ぶりの色や形のよいものを三個、ランコムの白い小さな紙袋に入れる。
「お待たせしました」 ここで別れても良かったんだが、私は、どうしても名残惜しかったので、
「あ、私、ちょっとコンビニに買い物あるから」
と嘘をついて、高村くんと歩き出した。
「夏木さんのご実家って、りんご園なさっているんですか?こんなに素晴らしいりんごを見たのは初めてですよ」
と高村くんが言う。話の振り方とか誉め方がとてもうまいなと思った。私は、自分の実家ではなく父の実家だということや、この間のりんご狩りのことなどを楽しく話しながら、あっと言う間に坂の上まで来てしまった。
「僕のアパートはここ、すみれ荘って言うんです。古いでしょ。でも結構落ち着いてていいですよ。通りにも面してないし。ここの二階のいちばん奥です」
「へぇー、本当に静かでよさそうですね。銭湯にも近いし。今日は遅くまでありがとう。それでは、また」
さよなら、とは言わなかった。私は高村くんと別れ、満たされた気分でいっぱいになってアパートに戻った。いつもの寂しい銭湯からの道のりが、まるで違って見えて、早々とイルミネーションを飾っている家の横を通ったときなんか、無性にウキウキして、これから始まるこの恋に、躊躇がある反面、もうこの気持ちを止める事なんてできないような気がしていた。
冬枯れのヴォカリーズ vol.6
ご拝読、ありがとうございました。