中州に咲く彼岸花(仮)
プロローグ
最近、飲み会にいくと毎回深酒だった。
いばらが混じった真綿で、頭を締め付けられているような感覚を覚えながら、男は電車に乗り込んだ。
目覚めたばかりの四肢では足取りは覚束なく、それでいて頼りない。
ただ、それでいても空腹には勝てず、冷蔵庫には見たくもないビールと炭酸飲料しか入っていなかった。
「あー・・・頭いてぇ」
不定期に電車の振動で揺られる彼の口から、思わず呟きが漏れた。
それと同時に、昨日の記憶が途切れ途切れに思い返される。
飲み放題の居酒屋で、会社の部署の連中とたった2時間、ジョッキグラスを口に運んだだけだったのに。
最後には玄関のドアを開けた記憶しか残っていない。
冷蔵庫の中の、買った覚えがない炭酸飲料が頭をよぎって、背筋が薄ら寒くなった。
流れる風景から視線を戻した、祝日の電車の中は、年齢も服装もバラバラな人間で混み合っている。
秋晴れの陽気に背広を手にし、携帯と向かい合っているサラリーマンから、補講の帰りなのか肩を寄せて雑誌を前に雑談に興じる女子高生。
テンションの低さが原因なのだろうか、その中での自分の立ち位置が、彼の中で妙にひっかかった。
好きだった曲が、TVで懐かしのメロディとして紹介されていた。
学生の頃に連れと話しに上げた若手女優が、2時間ドラマの端役に出演していた。
そんな単純なことが、最近彼にそれを気づかせたきっかけだった。
やがてその経験したことのない感覚は、ジワジワとシミが広がるように彼の生活を満たしていく。
今回の深酒だってそうだ、ここ1年程で急激に酔いが回る量が少なくなって、寝酒なら缶ビール1本で足りる。
食べる量を増やした訳でもないのに、気を抜いてジョギングを怠ればすぐに、だらしのない肉が腹回りに現れる。
気になるのは、体の変化だけではない。
コネも学力もないのに、何故か大手企業に合格した時は幸運だと思った。
そして、営業として今の部署に配属されてから、持ち前の負けん気とワーカーホリックと思われる程の打ち込みぶりで、そこそこの成功は収めた。
生活にも不便せず、欲しい物も極端でなければ手に入る。時折誘われるコンパでも、評判はおおむね上々だ。
だけど、最近になってふと頭をよぎる言葉がある。
それだけ?と。
結局、彼は首元にナイフをあてられてようやく目覚めたのだった。
届かなかった鉄棒に手が触れた。
寿司がワサビ入りで食べられるようになった。
寄せ書きの将来の夢に、サッカー選手と書いた。
最新のファッションや音楽に詳しくなった。
貯めたバイト代で、車の免許と安い中古車を手に入れた。
そういった類のものは、もはや終わったんだと。
何も考えずに居眠りをしていたら、いつの間にか寝首をかかれる寸前だったのだ。
「老い」というものがゆっくりと、しかし正確に彼の背後に忍び寄っていた。
彼は生気のない眼で、もう一度電車の中を見渡す。
確実に自分は、下り坂を迎えた世代だった。
車掌がくぐもった独特の声で、目的地のアナウンスを告げる。
だらしなくずり落ちていた腰を戻すと、電車が止まる調子に合わせて立ち上がった。
背中にシワが寄りかけているであろうジャケットの裾を2、3度払ってから、整然とドアの前に並ぶ人の列に混じる。
やがて完全に電車は停車する。直前の揺り返して軽いめまいを感じつつ、嫌がる足取りを前へと進める。
電車内とは比較にならない程の人の波が、彼の大柄な体を避けてすり抜けていく。
うっそうとした気分を振り払うため、彼は最後にこう呟いてから、馴染みの食堂のあっさりとしたメニューを思い浮かべた。
寸前で気づけた、だけど。
それに抗ったとして、どうなんだ?
その自問が今は、ナイフを払い除けようとする力を奪っていた。
くぐもった色のコンクリートの階段を上って左に折れると、突如開けた光が差し込む空間に、人の頭が並ぶ。
タイルを基調にした構内は、プラットホームとは打って変わって空気が軽くなった気がした。
彼は、少しだけ軽くなった双肩のしこりを感じながら、改札口をすり抜けて今度は右に折れる。
エスカレーターで下って5分も線路沿いに歩けば、愛しのさんま定食にありつける予定だ。
その後には、少し会社に立ち寄って書類の確認でもしようか。
懇親会に参加するため、放ってきた契約書の内容を反芻する。
巡り巡って彼に身についた一本気な性格は、休日だろうが出勤を苦にしない。
やるべきことがあるなら、それを成して当たり前だろう、仕事なんだし。
真顔で思わず口にして同僚に苦笑されてからは、余計な発言は控えるように気をつけている。
ただ、口に出さないだけで、顔には出ていない保証はなかった。
軽くうわの空のまま、彼はエスカレータを跨いで放射状に広がった駅前広場に降り立つ。
中途半端な時間帯のせいか、飲食街が並ぶ南口は夜の喧騒に比べると、まだ寝ぼけているようだった。
それぞれの足音が、右のバス乗り場、左のタクシー乗り場へと散っていく中、彼は真っ直ぐ閑散としたアーケード街を目指す。
そして、それを見つけたのだ。
不思議で、それでいて明らかな違和感だった。
事実としては、男がティッシュを配っている。それだけで表現にはこと足りる。
しかし、割と自身のある彼の直感が、異質であることを脊髄反射で訴えている。
細身で長身の男は、ボリュームのあるキャスケットを目深に被り、するりと伸びた腕でティッシュを差し出す。
それが受け取られると、右手にある束からまた1つ左手に持ち替え、次の通行人へ振り返る。
別に、ほとんど口元しか見えない表情に愛想がなかったとかが、言いたい訳ではなかった。
その動作が、あまりにも完成されていた事が、彼の興味を引いたのだ。
さんま定食を目指していた足取りは、ふいに歩みを止めていた。
傍目から見た男は、まるで踊っているようだった。
ほんの少しだけ唇を揺らす男は、何かをずっと口ずさんでいる。
ステップを踏んでいるでも、リズムを体が取っているでもない。
ただ、洗練された無駄のない動作が、彼にそう判断させていた。
距離にして20メートル程の場所で、観察を続ける彼に男は視線すら合わせない。
彼自身も、立ち止まってまでその様子を見守る自分に、軽い困惑を覚えていた。
そうした戸惑いは、背後から聞こえた足音のせいで一気に増幅することとなった。
こつり、ずる。こつり、ずる。
硬質な革靴のゴムがタイルを叩き、引きずられる感触が、直に背中に触れたようだった。
連続する異質な感覚に、彼は鳥肌が立つのを覚えながらその靴音の軌道から身を逸らす。
振り返った彼の双眸に映ったのは、身なりの整ったサラリーマンだった。
彼も仕事着であるスーツにはこだわりを持っていたため、その服装がしっかりとしたものだと理解した。
恐らく同じ職種の人間だろう、清潔感溢れるその姿は、得意先に好印象を与えるだろう。
感情を感じない、その動物のような眼差しを除けば。
変則的な足音が、流れるようにワルツを踊る男に近づく。
そして、彼は見た。
男が左手に持っていたポケットティッシュを別の1つに持ち替え。
そのサラリーマンがちょうどいいタイミングで通りかかったのごとく。
絶妙なタイミングでお互いの歩幅を合わせたのを。
その証拠に。
疎らに行き交う人々は誰一人として、彼のようにこの光景に釘付けになることはなかった。
目の前で行われた交錯は偶然であった体を装ったまま、違和感が一気に彼の眼前から霧散する。
残されたのは、変わらずティッシュを確実に通行人の前に届けるキャスケットの男のみだった。
すでに彼の中で、さんま定食はすっかり優先順位が落ちてしまっていた。
勘の鋭さよりも余計な事が気になる性格と、それに首をすぐに突っ込みたくなる性分が、今の現象を見逃すはずがない。
僅かに口角を上げてから、彼は颯爽とした足取りでワルツを踊る男に近づいた。
しかし、先ほどのサラリーマンと違い、意図的に合わせようとしたタイミングは、相手に見事に外される。
男はくるりと彼に背を向けると、ヘッドホンをつけた若い女にポケットティッシュを差し出す。
ただ、それ引き下がる程、彼も素直な性格はしていなかった。
「なぁ、さっきの奴と同じティッシュ、くれないか?」
動きに合わせて揺れていた、首元まで伸びた黒髪が止まる。
「さっきのサラリーマンに渡したものと、一緒のティッシュが欲しいんだ」
営業マンらしく、彼は男からどんな返しがあるのか探りを入れていた。
近づいても体のラインに力強さは見られない、むしろネックラインから覗いた真っ白な肌は、ジョギング焼けした彼と対照的だった。
だが、しばらくの躊躇があると踏んでいたはずが、男はあっさりと振り返る。
そうして、他の通りすがりにするように、ティッシュの持った左手を差し出してきた。
ほぼ変わらない身長のせいか、その表情は真一文字に結ばれた口元しか確認できなかった。
「ご利用下さい」
彼がそれを受け取ると、男は抑揚のない涼やかな声でそう告げると、また流れるような動作を続ける。
確かに、妙にいちゃもんつけられるよりも、こうした方が話が早いか。
彼は、何の変哲もない消費者金融のチラシ付きのそれを見やって、苦虫を噛み潰した。
そうなると、今度は持ち前の行動力を発揮する番だった。
数分後、右手に握られたチラシを頼りに、彼は重たい擦りガラスの扉を潜る。
狭苦しい店内には、ATMに似たタッチパネル式の機械が1台と、安っぽい丸椅子が置かれていた。
この空間に不釣合いな体を斜めにして、黒い人工皮の上に腰を降ろすと、彼は薄暗い液晶画面を覗き込んだ。
ヒントはチラシの中に存在していた。
彼は蛍光色のケバケバしい文字が躍る中に、今月のラッキー店舗と太文字で書かれたそれを見つけた。
まったくもって謎のラッキーだ、どこにもその説明は見当たらなかった。
ちょうどそれが、目の鼻の先にあるビルの1階だとわかれば、みすみす見逃すわけにはいかない。
『ご融資を受けられる方へ』と、上っ面だけ清廉そうな文字が浮かぶそれを、まじまじと見つめる。
何度かパネルに触れて画面を前後させるうちに、彼はまた妙な違和感に辿り着いた。
『ご融資を受けられる方へ』の後に流れる、緻密な文字が並ぶガイダンスの中に、下線が引かれた文字がある。
ネットでリンクが貼ってあるものと同じだ。それは並ぶ掲題の中で『その他注意事項』の文字だった。
彼は一度画面を元に戻してから、ガイダンスを呼び出すと迷うことなく人差し指でタップした。
そうして、変化は程なくして現れた。
ATMを正面にした彼の左側、店内の奥にあった非常扉と思わしきそれが、油圧式の滑らかな動作で開く。
その後すぐに、彼は振り向かなくても理解した。
「・・・・・・ご融資をご希望ですか?」
抑揚のない、一切の感情を感じさせない声。
彼は一通りポケットをごそごそとまさぐる仕草を見せる、もちろん小言も交えながら。
そうしてその声の主に振り返って、苦笑いを浮かべた。
「そのつもりだったんだけど、免許忘れちまったみたいで。申し訳ない、また来ます」
言い終わるが早いか、軽く腰を上げて歩幅も広く店舗から飛び出した。
そのまま近くの赤い看板が目立つカラオケボックスの自動ドアに滑り込む。
店員が訝しげに首を傾げていることなど彼の目には映っていなかった。
そっちのスジの方がまだ話が通じるだろう、彼が見たものはまさに異形だった。
非常扉から出てきたのは、黒いスーツに身を包んだ、一見パーティ会場のボーイをしていそうな優男。
しかし、数多くの人物と顔を合わせてきた彼の営業人生の中でも、絶対に触れてはいけないオーラを発していた。
踊るティッシュ配りの男に動物の目をしたサラリーマン、おまけに消費者金融に潜むとんでもない怪物。
それらが彼の空腹を満たすのは、さんま定食とは比べ物にならなかった。
「面白くなってきたじゃないか、なぁ?」
おどける彼に、受付のバイトの女が、これでもかと言わんばかりに愛想笑いを返した。
ポケットティッシュ
閑散としていた空間は、チャイムの音色でガラリと雑踏の地響きが鳴り止まない場所へと変わる。
作業着にスーツ、私服姿の人々が入り口のトレイを片手にそれぞれの目当ての窓口へ向かう。
そして整然と並べられていたメニューを掴むと、人の流れは3台しかないレジで渋滞を起こす。
それでも徐々に、清潔に保たれた木目調のテーブルと椅子は、続々埋まりつつあった。
工場が隣にあることを配慮してか、本社の1階に設けられた食堂は、ほぼガラス張りの開放的な空間がウリだ。
メニューの豊富さに、最近ではほぼ出来たての状態を格安で食べられるとあって、社員の半分以上が利用しているとの統計が出ている。
もちろん、外回りが主体の営業にとってはほとんど関係ない話だったが、今日は違った。
チャイムが鳴る10数分前に、ガラス窓近くの端席になった6人がけテーブルに腰を降ろし、静寂の空間に声を響かせている。
話の内容はもちろん、午前中に行われた営業会議のやり取りから始まっていた。
「このご時勢に国内で注文取ってこいってのが無理なんだって。事業部も、自分達は海外にどんどん製品移管してるくせによく言うよ」
「シェアのない担当付けられたからって愚痴るなって、でかい相手でクレームの嵐に会いたいのか?」
2人ずつ向かい合った4人が、各自の言いたいことを単発的に飛ばし合う。
「しかし、株もどんどん下がってるし、ボーナスも今期の決算からじゃ期待できない。何を目標にすりゃいいんだ」
「お前またクラブ買い換えたんだろ?見切り発車で出た赤字、営業責で品証から請求されるんじゃないか」
内輪の会話らしく、隠語も交えながらやり取りは華々しく続く。
ただ、その中で。
1人だけ食べ終わったかきあげうどんのつゆを、じいっと見つめて動かない男が居た。
自己主張の強い営業で集まっているせいか、誰も彼のことを気に止めはしない。
それよりも、話題は仕事がらみのやっかみ事から、休日の過ごし方へとシフトしていた。
「お前、この前LHDの受付でアドレスもらったらしいじゃないか」
「そうゆう情報だけは早いな。今週お食事会でうまくいけば、フルリゾートに戻れる」
「知らねぇぞ、近場で4人も相手してたらいつか炎上だ」
「沿線外してあるし、スケジュール管理バッチリだからご心配なく。できる男には春夏秋冬のバカンスが必要だろ?」
彼はその間も、呆けているのか考え込んでいるのかわからない顔つきのまま、ダシを瞳に映していた。
同僚達の話題はサッカーのロングパスが連続するように、次から次へとジャンルを変える。
どこの服が今キテいて、どれぐらいの値段だから手が届くとか。
最新のスマートフォンのラインナップと性能を比較するとどれが買いだとか。
遠い知り合いが今度クラブでパーティーを主催するからVIP席で招待されたとか。
今度の大型連休には、海外への渡航を計画していて、どこの美術館を候補に挙げているとか。
そのどれもが、彼の琴線に触れることはなかった。
彼は落胆していた。
唯一、営業会議の席では、目標の達成で悦楽感を得られることもあった。
しかし、今日は、その場に出席することすら面倒になっていたのだ。
おまけにそれが終われば、とても聞いていられない会話が頭の上を飛び交っている。
別に馬鹿にしている訳ではない。
彼の抵抗は、どうやら他の人とは違った素材で出来ていて、そういった類の持つ電流ではとても針を触れさせないだけ。
それを昨日、まざまざとティッシュ配りの男に突きつけられた。
本当はとっくに分かっていた。
最近その電流が流されるたび、彼はいつも感じていた。
そんな『生きてる感』が欲しいんじゃねぇ、と。
「そういや康介聞いたか?何ヶ月かお前より成績良かった加藤、今入院中らしいぞ」
「悪い、部長に今日顧客のところから直帰するって伝えておいてくれ」
彼はすっくと立ち上がり、椅子にかけていたスーツとビジネスバックを手に取る。
アルコールのすっかり抜けた四肢は、しっかりと目的地に向けて1歩を踏み出す。
「おい、週末の予定だけでも後で送ってくれよ、ナイスアシスト期待してるから」
よく事情が飲み込めないままの同僚が発した言葉を背中で受けて、彼はこう呟いた。
「お前のリゾート話全部ぶちまければ、ちょっとは盛り上がるかもな」
あちらこちらに伸びたビルに阻まれ、夕日がその存在を赤光でしか伝えられない時間帯。
放射上に広がった駅前広場は、そのタイル地を人波によって埋め尽くされてゆく。
帰路につく者、出勤する者、1日の疲れを癒すため盛り場に向かう者。
同じ方向に向かうにしろ、決して交わらない足並みが白い肌を侵食する。
そんな中に、一人。
次々に押し寄せる雑踏を、するりするりとやり過ごしながら、ティッシュを差し出す男が1人。
擦れ違う誰にも、その存在を意識させないまま。
その唇に、なにやらメロディを携えて。
しかしただ1人その様子を、駅から降りる長いスロープの中ほどにある踊り場から、眺める男が居た。
構内にあるカフェで買った、キャラメルフラペチーノのストローを咥えて、眼下で踊るその姿を静観している。
その顔には、彼が悩んでいるサインである、眉間にシワがしっかりと寄っていた。
ここ数日、彼は毎日この場所で張り込みを行っていた。
もちろん、誰に頼まれたわけでもなく、仕事とも無関係だ。おかげで何度か商談の機会を逃しそうになっている。
おまけにいつも購入したこの甘ったるい飲み物のせいで、心なしかまた腹が厚みを増した気がする。
それでも彼は、ここを離れることはなかった。
ただ、覚悟の上で得た事実は、残念ながら彼の眉をひそめる程度の力しかない。
男が姿を見せるのは、完全に不定期だった。
昼過ぎにふらりとやってきて、ダンボール1箱分のティッシュを配り終えて消える時もあれば、夜の帳が降りてから酔っ払の相手をすることもあった。
その日によってタイトなシルエットの服装は変わったが、目深に被ったキャスケットがその表情をいつも隠している。
ただ、その顔かたちが分かったからといって、ポケットティッシュの中身に迫れることは恐らくないと、彼も理解していた。
本命は、彼にその行為をさせている大元だった。
しかし、数度監視する機会に恵まれたものの、男は作業を終えると、誰とも接触することなく雑踏へと紛れてしまう。
その華奢な肩先を追う選択肢も頭をよぎった。しかし、彼は勘の良さは自分だけの特技ではないときちんと把握している。
そうして結論から言えば、彼はここでフラペチーノをすすっている以外できなかったのだ。
といえども、彼はページがなかなかめくられない時のもやもやはあるにせよ、焦りの感情は持ち合わせていない。
ノセて相手を納得させても、逆に後々遺恨を残す結果になるのは仕事も一緒だった。
情報を集めて、正しく自分も相手も理解する、浪花節は二の次。待つのは日常茶飯事。
彼が見つめる眼下、完全に夕日が地平線に沈んでから、いっそう輝きを増した街灯が白磁のタイルのステージを照らす。
ごちゃごちゃと雑然としたグループが入り混じるその場所は、明らかに定員オーバーだ。
ひしめく肩と肩の距離はとてもじゃないが、ステップを踏めるものではない。
だけども、彼は目の当たりにしていた。
男が刻む滑らかなリズムと、よどみなく動く四肢が生み出す、顔も知らない者との共演を。
なぜなのだろう、疑問符が彼の頭に浮かぶ。
物を売る仕事を選択した自分が、ずっとひっかかっている事があった。
男の風貌を想像すると、認めたくないが自分は駄馬の1つに数えられるはず。
繊細な肢体が作るイメージとあいまって、浮ついた心持ちで振り返る人間が居たっていいのに。
一瞬の交わりが終えれば、誰も男の姿など見ようともしない。
自分の電流計は、これ程までに強く針を振るというのに------。
喉に引っかかる飲み物を運ぶストローが、ずずずと音を立てると、男の演目も終了しそうだった。
彼は何となく悪態よりも、チップでも払いたい気分になって手に持っていたカップを掲げる。
明日はさすがに顧客に顔を出さないと、席がなくなる都市伝説が現実になりそうだ。
そう考えてもたれていた欄干から体を起こした時だった。
「一利ぃ!そいつ捕まえろ!」
聞いただけで、神経質で関わりたくない類の人間だと分かる怒号が響き渡った。
無秩序に脈動を繰り返していた人の波の興味が、一斉にバス停近くに降り注がれる。
玉が弾かれる様に、そこから広場の中央部に男が躍り出ていた。
そしてやはり声色通り、全身を真っ黒な革つなぎに身を包んだ金髪の髪の短い男が、その脱兎を追う。
さらには、あのポケットティッシュの男、恐らく一利の言う名前の青年が、人の間を縫っているとは思えないスピードでそこに合流する。
しかし、柄の悪い男の号令が遅く、意外にも逃げ出す男の脚力が良かったせいか、追走は真っ直ぐ彼の元へと向かってきていた。
彼------康介という名のサラリーマンは、我が身が震えるのを感じながらプラスティックのカップを投げ捨てた。
その場に居た全ての人間が、逃走線上から一歩でも離れようと身をよじっていたのに対し、彼は両足を開かんばかりだった。
ついにその時がきた、と心臓が早鐘を打つ。
一直線に向かってくる逃走犯は、幸いなことにパーカーにジーンズを着た、あどけなさが残るひょろりとした男。
いくら老いを感じているからといって、日々走り込んだこちらの体と比較しようもない。
不規則に段差を飛ばしながら階段を登ってくるそいつを、康介は僅かに低く身構えて迎え撃とうとした。
かと思うと、その獲物がうつむき加減だった顔をこちらに向ける。
その瞬間康介に、体験したことのない寒気が襲った。
その少年の雰囲気が残された容姿に背筋は震えない。
ただ、その見開かれた眼は、今まで全く覚えのない色をしていた。
高校時代の部活で、全国大会への切符を賭けた残り10秒の相手チームの視線。
酔っ払って飲み屋の隣の席に居た連中と口論になり、表で大立ち回りを演じた時。
その時浴びせられたものが、とてつもなく陳腐に思える。
関わる事が、死に直結すると連想させるそれに、康介は完全に虚を突かれていた。
目だけで形相が表現できるものだと、止まった思考が関係ない認識をした。
「うお」
彼は一声唸ってから、思わず体を捻る。
男は構内を見やる一直線な視線のまま、その隙間をすり抜けて駆け上がっていった。
しかし、その異形の眼差しですら、彼の意気を完全に沈ませることはできなかった。
仰け反った体をくるりと1回転させ、後の2人よりも先に脱兎を追う。
「ちくしょう、やっちまった……」
ここ数年味わったことのない完全敗北に舌打ちしながら、サドルシューズのつま先を鳴らす。
普段履きに使っていたが、念のためと足に馴染んでいたこれの起用が当たったらしい。
スーツ姿でもなんとか引き離されずに、ターゲットの頼りない背中を追う。
そんな康介の隣を、もう1つ早いテンポの足音が併走したかと思うと前へ出た。
一利と呼ばれた男だった。
康介がすれ違い様に覗いた、キャスケットの奥にあった切れ長の視線は、ついさっき見た戦慄とは違った、感情を読み取れない恐ろしさがあった。
「お前、バランス崩せるかっ?」
ぐんぐんと少年の背中に迫る、押し出しのない細身の体の主からは何の返答もなかった。
3人の追走劇は、ついに改札口付近まで迫ろうとしていた。
逃げる男はやはりホームには左折せず、真っ直ぐ北口へ向かっていた。
追い詰められた人間の成せる業なのだろうか、そのスピードは1キロ近く過ぎようとしても落ちない。
後ろに居たのが康介だけならば、持久戦に持ち込めばもしくは逃げ切れたかも知れない。
だが、ゆるいパーマがかかった髪を揺らす男は、逃げおおすことを許してくれそうになった。
影のようにその背後に迫ったかと思うと、ためらいもなく足を伸ばす。
人間の運動として、走るという行為を分解した時に、踏み切りを終え力を解放した足が中空で静止し、再び地面を蹴るため前方へと踏み出す。
その最も脆弱な針の穴に、その右足は当然と言わんばかりに割り込んだ。
前に意識を集中していた男は、宙に浮いたような感覚を味わった後に、急激にリズムを崩した四肢のバランスを取り戻そうと、たたらを踏む。
かろうじてもんどりを打つ自体は逃れたかと思いきや、その急激な減速は見逃されるはずもなかった。
地面を向いた顔を上げようとするやいなや、背中に激しい衝撃を感じた体は今度こそタイルの上を転がる。
気合の唸り声を上げた康介が渾身の力で、そのバランスを崩した背後にタックルをしかけていた。
中州に咲く彼岸花(仮)