忘却
沢山の感情を忘却している。
地球に適応する為に、肝心な事を忘れている。
いつも忘れないでいると、地球の環境は辛過ぎるから、時々ふと思い出し、何かに残して、また忘れる。
その何かを誰かが見て、また何かを思い出し、悲しみを感じたり、幸福を感じたりする。
その深度は人それぞれで、1人で100人分を抱えている人もいる。
その立場もそれぞれで、出してもいい環境と、出してはいけない環境があり、後者にいる間は、何を言ってもダメだが、前者に行くと、何を言っても許される。その数によるバリア、数による信仰を取り去ってなお、理解があるとしたら、そこの時空は歪む。
個性なんて物は案外本当に人それぞれで、本当に色んな人がいると思う。個性とは違う、もう一つ内側の、コアの部分がある。それが異なっていると、その違いは薬では治らない。今の所。
例えば昨夜、危うく地球から剥がされそうになったとして、誰が同情してくれるだろう。
例えば今朝、無事だったとして、誰が一緒に喜んでくれるだろう。
どうかこれを個性などと笑わないで欲しい。
どうかこれを病気などとカルテを書き終わらないで欲しい。
時間がありすぎる事にしたい。夢中になれるものが無い事にしたい。自分探しをしている事にしたい。忙しくて暇がない事にしたい。
みんな。
どんなに違うと証明しても、理解以外の理由を探す。必死に。
何故そこまで必死になるのかと思うくらい。
それはこの感情が危険だからだろう。
この感情を理解したら、この世にしがみついていられなくなる事を、実はみんな知っている。
知っている。
きれいに揃って否定する。まるで100%の投票率だ。
とても厄介なのは、自分だけではなく、他人の深淵もその目の中に見える事。ここはかなり触れてはいけない部分だ。だれもが知りたくないことを、私が知っている。もっと悪い事に、知った事がバレる。
実際高い所から見ると、それは何の変哲も無い、よくある茶色。でも、同じ目線で見ると、それに抗う自我がこちらを睨みつける。
みんな必死なのだ。記憶をたどっては生きて行けない。でも、記憶を忘却した哀れな姿を見られたくない。
都合のいい方を選ぶというのは、当たり前の事。気にする事は無い。
僕も今日は朝日と共に忘れている。
忘れているこの感覚にホッとしている。これで今日も生きて行ける。
無駄の様で無駄という言葉どころではないあの感覚は、心臓に悪い。
忘れている事を知っている人は、あとどれくらいいるのだろう。
忘却