戸田さんの一つ星

第一話

花の香りと、風。
雲一つない抜けるような青天井が広がる、それは静かで穏やかな日常。

「…最後のお別れになります。皆々様、合掌ののち黙祷を…」

本日、晴天。
今日この佳き日、おばあちゃんは立ち上る煙とともに、空へと旅立っていきました。

「―――豊子さんには本当よくして頂いて…」
「この間まで元気だったのにね…」
「よく気のつくいい人で…」

響く足音。ささめき合う声。黒だらけの光景。
お葬式が終わった後、続々と帰っていく参列者に挨拶をする。つい先日まで健在だった人間の突然の訃報というものは、人を言い知れぬ感情へと突き動かすのだろうか。涙を見せている人は少数で、ほとんどの人は何かを諦めざるをえないような複雑な表情をしていた。

なんだか不思議。
おばあちゃんが死んだあの日から、地に足がついていないような浮遊感が体を包んで離れない。

「由貴子ちゃん」
「…上田さん」
「ご苦労さま。担任の先生、今帰られたわよ」
「すいません、ありがとうございます」
「いいのよ、疲れたでしょう。…安らかなお顔だったわね、豊子さん」
「…そうですね…」

お隣に住む上田さんはあたしがまだ不慣れだろうと、一家でお葬式の手伝いをしてくれた。準備も、挨拶も、一人じゃ絶対にこなせなかったと思う。
知らないことが多かった。あたしはまだ子供なんだと、思い知らされた気がする。

「…由貴子ちゃんは、これからどうするの?」
「…まだ何も。学校は…考えます」
「そう…力になれることがあったら、何でも言ってちょうだいね」
「ありがとうございます」

最後に優しく微笑んで、上田さんは帰っていった。見慣れた街が夕暮れから夜に染まる。インディゴが光る綺麗な空を見上げれば、所々に灰色の雲が浮かんでいた。


そこは純和風のちいさな家。床板は古く、壁もだいぶ色褪せてところどころ変色してしまっている。
それでもどこか優しく温かかったこの家に、今は誰の気配も声もない。

戸田由貴子、17歳、高校二年生。
親も親戚もなく、身寄りのないあたしを拾ってくれたおばあちゃんと、二人で静かに暮らしていました。
幸せでした。

「……」

飾り立てられた仏壇が広がるおばあちゃんの部屋へ行き、そっと腰を下ろす。こぼれるような笑顔であたしを見つめているおばあちゃんは、今や仏壇の上に置かれた写真の中。
あれはたしか、高校に合格したときにとったものだ。あの時、合格したあたしよりも喜んでたな、おばあちゃん。
まだまだ記憶は新しいのに、脳の芯はやけに冷えて痺れていた。灯りをつけていない部屋に、揺らめくのは外灯とたてられたロウソクの火。燃え尽きない線香の香りが、ふわりと鼻をかすめていく。

「…ひとりに、なっちゃった」

ぽつり、出てきた言葉。誰に話すわけでもなく、部屋に響くあたしの声。

「あたし、ひとりになっちゃったよ、おばあちゃん」

“元々 ひとりだったのにね”
なるべく明るくそう言ったつもりだったのに、出てきた言葉はなんだか少し震えていた。その後に続く言葉なんて見つかるはずもなく、ただ途方にくれたように俯くあたし。

おばあちゃん。おばあちゃん。おばあ、ちゃ…

『 ピンポーン 』
「っ!」

不意に響き渡るインターホン。びっくりして戸惑うあたしを急かすかのように呼び鈴がもう一度鳴らされて小走りで玄関へと赴けば、すりガラスの引き戸に呼び鈴を鳴らしたのであろう人物のシルエットが浮かんでいた。

「はい…」

ゆっくりと引き戸を開けて、おそるおそる顔を出す。そっとのぞき見るように上を向いた先にいたのは、あたしには縁もゆかりもなさそうな人たちだった。

「こんばんは」

見上げたままのあたしの耳に、凛とした声がそう届く。
すらりとした身体。整った顔立ち。漂う気品。素人目にも見て分かる上質のスーツ。それらを纏い、おだやかな笑顔を浮かべた二人の男の人が、玄関先に立っていた。

「……」
「待って待って、閉めないで」
「上田さんは隣ですよ」
「ここは戸田さんでしょ?」
「一字違いの山田です」
「圭介、表札みた?」
「確かに『戸田』とあったかと」
「……何のご用でしょうか」
「お線香あげに…」
「ありがとうございます、お気持ちだけ受け取っておきますね。さようなら」
「ちょ、待って待って!」

怪しい、怪しすぎる!
なんとか引き戸を閉めようとするあたしとそれを許さない彼とで壮絶な我慢比べを繰り広げた結果、体力負けしたあたしは敗者として彼らを家にあげることになってしまった。ぜえぜえと息切れしているあたしをよそに、その細い体のどこにそんな体力があるのか余裕たっぷりな表情でにこにこ家へと上がっていく謎の二人組。
体力には自信があったのに。負けた…。


「どうぞ」

おばあちゃんの部屋へと案内して、電気をつける。さっきまで暗くしていたせいで白の灯りが少し眩しい。あたしがあげたお線香は、まだ燃え尽きることなくくすぶっている。
仏壇の前に置かれた座布団の上に座っておばあちゃんの遺影をしばらくじっと見つめた後、謎のイケメンはおもむろに線香に火をつけて手を合わせた。付き添いらしいもう一人は彼の斜め後ろに控え、同じように手を合わせている。
ふと、仏壇の前に座る彼が切なそうに眉をひそめているのが見えて。

「どうぞ」
「え…」
「いいですよ。我慢は体に良くないですから」
「……」

そばにいって、そっとハンカチを手渡す。不意打ちだったらしくその人は驚いてあたしを見つめてきたけれど、不意にやわらかく笑って、それをゆっくりと受け取った。

「……ありがとう」

ぽたり、雫がこぼれる。 潤んだ瞳でもう一度、彼は切なげに笑ってみせた。


どうやらあたしに話があるらしい彼らを茶の間に案内し、こぽこぽとお茶を入れる。
話って何だろう。そもそも誰だろう、見覚えがないから初対面のはずだし会ったこともないはずだ。こんな何もない家に何の用があるというのだろうか。

「あの…お茶でいいですか」
「ありがとう。ごめんね、いきなりお邪魔して」
「いえ…その、話って…」
「あぁ、うん」

人数分のお茶をだし、そろそろと彼らの向かいへ座る。
何だろう、よくは分からないけれど。もし自分の勘が間違っていないのならば、この人たちはどうも普通の人のようではない、気がする。
洗練されたオーラ、そこはかとなく漂う気品、見るからに仕立てが良いと分かる高そうな服。そもそも彼らの間に主従関係のようなものが見え隠れしてる時点で、何か大きな力が働いているんじゃないのだろうか。何だ、一体何なんだ、この状況。

「俺、一条章人っていいます。こっちは執事の秋元圭介」
「……。ひ、つじ…?」
「『し』つじでございます。章人様のお世話をさせて頂いております」
「………」

W h a t ' s ?

「…ご…ご職業は…」
「一応社長。なりたてだけどね」
「しゃ…所長?」
「いや、途中まで合ってたよ」
「ごめんなさいすいません。そんな社長さんがこんな一般人に何のご用でしょうか、二条さん」
「一条です」
「執事の秋山さんまで連れてこられてもうちには何もないんですが」
「秋元です」
「……。お話をどうぞ」
「あ、うん」

そろそろ現実を見ないといけないらしい。
諦めて一条さんへ話の内容を促せば、彼はにこにこと笑顔を浮かべたままで湯呑を置いた。

「妹になってほしいんだ」

―――膝元で、飼い猫が、鳴いて。
彼はまるで道端で会ったご近所さんと天気の話をするかのような気軽さで、こう言い放ったのだった。

……。
……。
……え…っと…

「誰が?」
「君が」
「誰の?」
「俺の」
「…なんて…?」
「いーもーうーと」

……。
……。
……え…っと…

「カレンダーカレンダー…」
「大丈夫、エイプリルフールじゃないから」
「あっそうですか安心しました。待ってくださいね、いま救急車よびますから…」
「…俺嫌われてる?」
「気が動転されているだけかと」

落ち着くべきなのはあたしであって彼らではないことくらい分かっているけれど、それすらひっくり返るくらいの衝撃発言にただただ固まるばかりのあたし。
今日初めて会ったばかりのこの一条さんは、確かに今、「妹」と言った。そもそも妹とは何だ。同じ父母から生まれた下の家族のことを言うのが本来ではなかっただろうか。当然のことながら彼とあたしに血の繋がりは全くない。あたしが、この人の、妹に?
……。

「意味が分からないのでお引き取りください」
「わ、思った以上にストレート」
「あ、そろそろ猫のご飯の時間なんで!ね!帰りましょう!さあさあさあ!」
「え~?仕方ないなぁ、じゃあここに名前書いといてね」
「これ養子縁組届ですよね!何ナチュラルに置いて帰る気でいるんですか持って帰ってください!」

さっと手際よく秋元さんが卓上に置いた用紙に書かれた『養子縁組届』の文字に思わずクラクラと目眩を覚えるあたし。すでに用紙のある程度は埋められているそれは、いまだ半信半疑なあたしに容赦なく現実を突き付けてくる。
何、うそ、冗談じゃないの。本気なの…?

「まぁ、繋がりが見えないと理解のしようもないよね。この縁組に関して君を養子にと頼んできたのは豊子さんだ」
「え…おばあちゃんが…?」
「期間は短いけれど豊子さんとは前からの付き合いでね。物や形では残していない口約束だけど、それを彼女の遺言として俺は了承した。約束したのは一昨年の春だ」
「ちょ、ちょっと待っ…え!?」

寝耳に水すぎるその話に、あたしの理解は完全に追いつけていない状態だった。
何それ、あたしが知らないところでそんな…いやそれよりもこのブルジョワ社長とおばあちゃんが知り合いという時点でそもそもの繋がりがまったく見えてこない。うちはお金持ちでもなんでもない普通の一般家庭、いたって平凡で慎ましやかな暮らしをしてきたのだ。
どこでどうやったら知り合うのよ!何繋がりなの、お祖母ちゃん…!

「…といってもまだ説明が足りないし、急には決められないよね。今日のところはお暇するよ、ゆっくり考えてみて」
「……」
「また来るね。見送らなくていいよ」

言うだけ言って彼らはさっさと立ち上がり、玄関へと歩いていってしまった。まだまだ聞きたいことが山積みのあたしはあまりにも急で強引なその展開についていけず、ただ茫然とその背中を見つめることしかできなくて。はっと我にかえった頃にはすでに二人の姿はなく、冷たい茶の間にはあたしだけがぽつねんと残されていた。
途端、一条さんが入口からひょこりと顔だけを出してこちらを見る。

「そうそう忘れてた、猶予は明日までね!」
「は!?ちょっと、全然ゆっくりじゃないんですけど!」
「戸締まりちゃんとして寝るんだよ~」
「……!!」

人の話、全然聞いてない。はちゃめちゃなブルジョワ社長とその執事は今度こそ本当に帰っていったらしく、引き戸の閉まる音を合図に嵐が去ったような静けさが再びこの家を覆っていく。
向ける矛先を失った感情だけが取り残されて、少しの間の後、あたしはばたりと畳へ倒れ込んだ。その周りにとことこと歩み寄ってきたさくらとゆずが、座ったままで鳴き声を上げ、ただじっとあたしを見下ろしている。

そうだ、ごはん、あげなくちゃ。頭ではそう思っているけれど、身体が動かない。離れることのない浮遊感がついにピークに達したらしく、不気味な吐き気と頭痛が不安定なあたしを途端襲う。

「ゆず…さくら…」

手を伸ばせば擦り寄ってくる、可愛い可愛いあたしの家族。
家族といえる存在が、今では猫しかいない現実。

―――この感情は 何?
渦巻いている。音を立てて、何かがゆっくりと壊れている。どうすればいいのか、何をすべきなのか分からない。
ただ頭の中がごちゃごちゃとして。ぐちゃぐちゃしてて。

「気持ち悪いよ…」

押し殺した声しか、出なかった。


「はぁ…」

結局、一日経っちゃった。
いやってほど快晴な次の日のお昼時。買い物帰りの道をとぼとぼと歩きながらもため息が止まらないのは、やっぱり昨日のことが原因だった。
今にもへたり込みそうになりながらもなんとか歩いていると、曲がり角の向こうから誰かが走ってくるのが見えて。

「由貴子ちゃん!よかった、いま警察よんでるから…!」
「上田さん?どうしたんですか?」
「あなたの家に誰かいるのよ!いきなり大人数でやってきたとおもったら、家の中を物色し始めて…!」
「!?」

くわしく聞く前にいいから早くと急かされて、あたしは上田さんとともに自宅へと走る。誰か、と聞いて頭に浮かんだのは昨日のあの人たちだったけれど、荒らしているのはどうやら中年のおじさんばかりらしい。

家の前についた途端目に入った、開け放たれた玄関にぞくりと鳥肌がたつ。はじかれたように家の中へ入り、ごちゃごちゃと誰かの靴が散乱している玄関をかきわけて茶の間にいくと、上田さんの言ったとおり中にはスーツを着た中年のおじさんが数人でタンスや引き出しの中を物色していた。

「何して…っやめてください!」
「あ?お前がユキコか?」
「そうですけど…」
「とっとと荷物まとめて出ていきな!邪魔だ、邪魔!」
「は!?意味わかんないんですけど!」
「この家と土地は昨日付けで売りに出されてんだよ!」
「!?」

おじさんたちの口から出た言葉に思わず耳を疑うあたし。

ここが、売りに?
嘘だ、そんな話聞いてないし知らないし誰にも言われてない。絶対インチキだ!

「そんなの聞いてない!早く出てってください!」
「そりゃあこっちの台詞だぞ!ここの契約者が死んで昨日で土地の契約期間が過ぎたんだ、売却すんのは当然だろ!」
「おい、印鑑みつけたぞ~」
「!?ちょっと、なに勝手に…!」
「合意の上で契約終了っと…おい、紙だせ紙!」

まともに話を取り合おうともしないのはあたしを見下しているからなのか、てきとうにあしらいながら部屋の物色を続けるおじさんたち。印鑑を見つけたらしいガラの悪いおじさんに急かされた一人が、無造作にカバンをあさりちゃぶ台においた薄めの紙。それに書かれた文字に、さっと血の気が引いていく。

契約解除…同意書…!?

「っあ、てめえ、何しやがる!」
「離して!印鑑返してよ!」
「おい、こいつ押さえとけ!」
「ほらほら、そんな怒んなって姉ちゃん」
「お前だって身を寄せられる知り合いが一人もいねえわけじゃねえだろ?」
「そういう問題じゃない!何が合意の上よ、あんたたちが勝手に押そうとしてるんじゃん!!」
「こっちもガキ一人の意見にいちいち頷いてられねえんだよ。分かったらさっさと出ていきな」
「それはこっちの台詞よ!出てくのはあんたたちでしょ!!」

途端、響く破裂音。体に走る電流のような衝撃。その衝撃に堪えきれず吹っ飛んだあたしを、戸棚が派手な音を立てて受け取めた。
一瞬遅れて、殴られたのだと気付く。熱くジンジンする頬の痛みと背中に走る衝撃に、動けなくなるあたし。

それは久しく忘れていた、灰色の思い出だった。
錆びついたブランコ。綿の飛び出たぬいぐるみ。泣き喚く子供たち。傷だらけの体。有刺鉄線の向こうの曇り空に、過去がフラッシュバックする。

「少し黙れよ。ぎゃーぎゃー喚くな」
「……」
「住民登録簿みたぞ。ただの養子かと思ってたが、お前捨て子だったらしいじゃねえか」
「!!」
「かわいそうに、天涯孤独か。この家から出たくないのもしょうがねえな、それじゃ」

あたしを殴った男の人が、あたしの目の前でしゃがみ込み、にやにや笑いながら煙草をふかす。
見下すような目。見下すような口元。見下すようなオーラ。

『捨て子だったらしいじゃねえか』

―――耳に残るのは、この世で一番嫌いな言葉。

「へえ、捨て子か」
「この時勢に大変だな。苦労したろうに」
「ばあさんが残した遺産にすがるしかねえってわけだな」
「その上住むところも追われちまうってか?ひどいもんだな、おい」
「ははは」

笑い声。嘲り。冷笑。
かわいそうなんて感情を、少しも持ち合わせていない会話。

「…い…」
「あ?」
「うるさい…っ」
「…あ?」

捨て子だの
孤独だの
親がいないだの
身寄りがないだの

誰が一番 分かってると思ってるんだろう

「出てって…」
「あ?それはこっちの台詞だって…」
「早く出てってよ!!日本語わかんないわけ!?」
「…んだと?おい」
「一発じゃ足りねえみたいだな!?」

吐き捨てるように言葉を紡げば、乱暴に胸倉をつかまれ上へと持ち上げられる。途端目の前に殴ろうと腕をひいた状態の相手がみえて、反射的に目をつむるあたし。再び走る痛みを予期して、本能的に体が強張っていく。
―――だけど、いつまでたっても痛みがくることはなかった。

「…あ…」

なんで、いるの。
おそるおそる目を開けた途端視界に入った人物に対して、あたしはそれしか思い浮かばなかった。

「な…なんだ、お前」
「申し訳ございませんが、これ以上危害を加えるのはお止めください」
「あぁ!?お前、どこから…!!」
「お止め、ください」

至極優雅に微笑む、秋元さん。あたしを殴ろうとした相手の手は、引いたところで秋元さんにがっちりと掴まれていた。
昨日と同じ燕尾服に、誰が聞いても嫌な思いなんてしないであろう穏やかな口調。音も立てないいきなりの登場に、周りのおじさんたちも呆気にとられた表情をしている。「離しやがれ!」とその手を振り払おうとして力をこめた相手の表情と動きが強張るのをみて、あたしはまた目を見開いた。

びくともしていない。おじさんが振り払おうと何度も押し引きしてるのに、秋元さんの手はぴくりとも動かず、ぎりぎりと相手の手を締め上げる。
笑顔を絶やさない秋元さんの異様な雰囲気に気圧されたのか、つかまれていた胸倉の手はおそるおそる、ゆっくりと離された。力が抜けてずるずると畳にへたり込んだあたしをみて、秋元さんもようやく相手の手を解放し、そっと静かに膝をつく。

「あ、きもと、さ…」
「私が間に合えば、お怪我をさせることもありませんでした。申し訳ございません」
「いや、ていうかなんで…」
「くわしいことは後ほどお話いたします。こちらへ」

そっと差し出された手に体を起こされ、おじさんたちの輪を抜ける。
さっきのあの異様な強さなんて微塵も感じない、あくまでおだやかで優しい手つき。同じ手とは思えなくて思わず身震いすると、秋元さんは穏やかに微笑んで、あやすようにそっと肩に手を回した。
開け放たれた茶の間の向こう、おじさんたちの一番後ろで、放心状態のあたしを迎えてくれたのは。

「ごめんね、由貴子ちゃん」

本当、どうして、ここにいるの。
何も言えず見上げたままのあたしに微笑んだ後、にこにこと笑顔の絶えないその端整な顔からすっと笑みが消える。
まるであたしを庇うかのようにおじさんたちの前へ出て、一条さんはその口を開いた。

「借地借家法第36条。この職業についていらっしゃるのなら、内容はもちろんお分かりですよね?」
「な…っ」
「契約期間の更新について連絡をしていなかったのではありませんか?期間が満了したからと、住んでいる住人がいるにも関わらず印を押させるなんて話は聞いたことがありません。客観的立場から見ても、これは何らかのミスを隠蔽してるようにしか思えませんが」
「な、なんだと!?黙って聞いてりゃ好き放題言いやがって…!!」
「いきなり横から出てきやがって、何なんだてめえ!!」
「私ですか?彼女の兄です」
「は!?ちょっと、まだあなたのこと兄だなんて…っふが!」
「わがままで困ってるんですよ~、照れちゃって私のことお兄ちゃんって呼んでくれないんです」
「んー!んー!」

突然何を言い出すやら、と突っかかるあたしに何も言うなと言わんばかりに口を塞いできた一条さん。その手を引きはがそうと必死に暴れてもびくともせず、まんまと押さえこまれてしまうあたし。
何なの、何なのこの展開は!どこにそんな力があるのよ、びくともしないんですけど!

「ああ、今さらですがこれはあくまで私個人の憶測でしかありません。取り違えているようでしたらもちろん謝罪させていただきます」
「……」
「まあまあ、それは置いておきましょう。この家の借地期間が過ぎていることに関しては事実なのですか?」
「…あぁ。そうだよ」
「新しい賃借人は?」
「まだいねえ。昨日売りに出されたばかりだからな」
「…!!だからまだあたしがっ」
「……では」

「私が買い取りましょう」

―――水を打ったように、静まり返る茶の間。
一斉にしゃべるのを止め、みんなが一条さんに注目している。当の本人は気にも留めずに、にこにこと笑みを浮かべたままだ。

買い取る…って…
は!?

「いずれにせよ誰かが相続人になる必要があるのでしょう。建物買取請求権も造作買取請求権も発生するはずだ」
「お、おい、兄ちゃん…」
「秋元」
「かしこまりました」

一条さんに何かを促された秋元さんはうやうやしく頭を下げて、スーツの胸元からペンと紙を取り出した。
秋元さんからそれを受け取り、ちゃぶ台の上でさらさらとペンを走らせる一条さんを、訝しげな表情で見つめるおじさんたち。
…一条さん、いま秋元さんのこと名字で呼んだ。圭介って呼んでたのに…

「お待たせいたしました。正式な諸契約は後ほどそちらに伺わせていただきますので、その時にでも話しましょう。こちらは控えとしてお持ちください」
「!?い、一条商事…!?」
「ああ、申し遅れました。私『一条商事株式会社』代表取締役社長、一条章人と申します」
「!?代表取締役!?」
「あ、あなたが一条グループの…!!」
「ああ、やはりハシモト物産の皆様でしたか。我が一条物産にもよく来て頂いておりますよね、いつもお世話になっております。うちの者が粗相をしておりませんか?」
「あ、ああ、滅相もない!滅相もございません、一条社長…っ」
「私の方も仕事がありますが日程を組み直しましょう。国際会議なんて出席している場合ではないようだ、そちらはお忙しいようですしね」
「あ、い、いや、そんな…!」
「買取り値のご希望金額は?すべてそちらにお任せします、ご希望なら千でも一億でも出しましょう。そのかわり」

「彼女には、二度と近づかないでください」

一言言い放った最後の言葉に、冗談めいた雰囲気はなかった。目も口元も笑っていない真剣な表情に、あたしもおじさんたちも何も言えずに呑まれてしまう。
あとに残されたのは静寂と、荒らされた室内と、何かが目の前で弾けたような感覚だけだった。


気がつくと家はしんと静まりかえっていて、あの迷惑なおじさんたちもいつの間にか姿を消していた。
嵐が去ったかのような穏やかな静けさには、いまだ現実味を帯びないあたしと、一条さんと、秋元さんだけが残っている。

「由貴子ちゃん」

名前を呼ばれて、はっと我にかえる。途端、体中から力が抜けて、足だけでは支えきれずにがくりと膝が畳へ落ちた。
目の前まできた一条さんも膝をついてあたしと同じ目線になると、その手をそっと打たれた頬にすべらせる。

「遅れて、ごめん」
「…別に頼んでません」
「少し腫れてる…まだ痛む?」
「痛くない!」

熱をもって脈打つ頬。ずきずき痛む背中。いまだに残る、おじさんの平手打つ感触。
でもそんなの関係ない。この人たちに心配される義理なんてそもそもないのだ。思わず乱暴に伸ばされた手を振り払うと、一条さんは眉をひそめて口を開いた。

「何で我慢するの」
「…っ我慢なんか」
「してないなら、そんな顔しないで」
「あなたに言われる筋合いなんてっ」
「ないと思うの?君は俺の妹だ」
「だから、あたしはまだ…っ」
「何で、強がるんだよ!」

荒げられた声に、びくりと体が強張る。
見上げた一条さんの目は真剣で、でもどこか苦しそうな表情をしていた。

なんで。
なんで、そんなこと言われなきゃいけないの。
なんで、この人が、泣きそうなの。

「…上田さんに聞いたよ。豊子さんの最期も、葬儀中も、由貴子ちゃんはすがりも泣きもしなかったって。ずっと笑顔で、誰かに頼りもしなくって、ほんとにしっかりしてるんだって」
「……」
「強がりだってすぐに分かった。泣ける相手がいないことも、すがる相手がいないことも、我慢してるんだってことも」
「…う、るさい」
「泣きたい時は泣けよ、辛い時は辛いって言えよ!何で我慢するんだよ、一人で抱えきれるほど由貴子ちゃんは強くないだろ!?」
「うるさい!!」

俯いたまま、声だけがだんだん荒くなる。
だめ、おねがい、やめて。口を開かせないで。これ以上、喋らせようとしないで。
壊れてしまう。崩れてしまう。高く高く積み上げてきた、弱くて脆い砂の城―――…

「だから何なのよ、素直になれってこと!?見苦しく我慢してないで素直に泣けば何でも解決するわけ!?」
「由貴子ちゃ…」
「そうよ我慢してたわよ、全部あんたの言う通り!強くなんかない、ほんとは泣きたいし叫びたいしつらいし悲しいしっ、」

はた、と止まった唇。先の言葉がのどまで出かかっているのを、無意識に自分自身が止めた。

だめ。これ以上は、だめ。言ってはだめ、結んではだめ。そう思うのに、あたし自身が止められない。歯止めが、利かない。
言ってしまったら、あたしは…

「寂、しいよ…」

―――もう、一人じゃいられない。

「こわい、苦しい、どうしたらいいかなんて分かるわけない…っ」
「……」
「でも言わない、そんなこと絶対言わない、言いたくない!泣き言なんて大っ嫌い、どうせ元々一人だったんだよ、また一人に戻っただけなの、それだけなのに!!なのに何でこんなこと言わせるのよ、何で今さら泣かなきゃいけないの!!何で…っ」

息も何もつかぬうちに、一条さんの手があたしの頭を力強く引き寄せた。涙でぼやける視界には、彼のスーツの黒しか映らない。力の入らない冷えた体を、一条さんのぬくもりが温めていく。

「分かったから」

頭上から聞こえる、一条さんの声。
のどから絞り出したようなそれは弱く、小さく、掠れていて、どこか泣いているみたいだった。

「…分かったから…もう、大丈夫だから」
「……」
「…一人で生きていこうとなんてしないで…」

ああ、もう、だから。
どうして この人まで泣くの―――…

「…養子のことを豊子さんと約束したとき、俺、由貴子ちゃんとも会ってるんだよ。きっと覚えていないだろうけど」
「……」
「お葬式のときそっくりの、きれいな青と白。空がすごく高い日だった」


―――…

「うま!豊子さん、美味しいよこれ」
「ありがとうございます。これは孫が作ったんですよ」
「ああ、お孫さんって…」
「ただいま~」
「ふふ、噂をすれば。お帰りなさい、由貴子」
「お客さん来てたんだ。こんにちは」
「こんにちは」

心地よい風が抜ける、よく晴れた日だった。
ひょんなことから知り合った豊子さんと色々な話をするようになった俺は、その日もいつものように豊子さんの家にお邪魔していた。
会話の途中で帰宅してきた由貴子ちゃんはその時中学生で、まだどこかあどけなさが残っていたのを覚えている。

「由貴子の甘露煮、美味しいと評判ですよ」
「もう、おばあちゃんったらすぐ勧めるんだから…ゆずとさくらは?」
「縁側で寝ています」
「はーい。ゆっくりしてってくださいね」
「ありがとう」

由貴子ちゃんとはその日が初めての対面だった。いつもお邪魔するときは平日の昼間だったし、お邪魔していても夕方まで長居することはなかったから会う機会はなかったのだ。
飼い猫を探しに行った由貴子ちゃんが庭に出たのが中から見えたとき、豊子さんはそっと口を開いた。

「あの子を、よろしくお願いします」
「え?」
「由貴子を頼みたいのです。私が、いなくなった後」
「いやだな、何を言い出すのかと思えば。冗談はやめてくださいよ」
「遺言と思ってくれてかまいませんよ」
「……」

唐突だった。
落ち着いた態度で相手を煙に巻くのが得意だった豊子さんだから、最初はいつもの冗談かとも思ったけれど、最後の言葉に嘘偽りを感じることはできなくて。
緑茶の入った湯呑に手をそえながら、豊子さんはぽつりぽつりと由貴子ちゃんのことを話し始めた。

「あの子が養女だということはお話しましたね」
「ええ、だいぶ前に」
「…無責任な母親だったようです。望まない妊娠だからと、生まれたばかりのあの子に食事を与えず衰弱させた後、ダンボールに入れてゴミ捨て場に…という話でした。孤児院に預けられた時に右腕に火傷の痕があったことから、捨てる前に焼死を狙ったのでは、と…」
「……」
「世の不条理というものを、あの子はよりによってまだ年端もいかぬ幼いうちに知ってしまった。自立する術のない頃は、目に見える周囲の環境だけが世界の全てだと思ってしまうでしょう。生きていれば、楽しいことや幸せなことだってたくさんあるのに…」

思いもよらぬ彼女の裏に、言葉を発することもできず、ただただ豊子さんの顔をじっと見つめる俺。豊子さんの穏やかな口調と話の内容があまりにもかけ離れすぎていて、俺は何の反応もできなかった。

「…預けられていた孤児院も、あまり良い噂は聞きませんでした。教員の暴力が酷く、日常的に子供たちが被害にあっていたようです。引き取った後に一度大きな病院で診てもらいましたが、当時の古傷はもう消えないそうです」
「……」
「今はとても幸せです。あの子の家族になれたかどうかはわかりません…それでも、あのように笑った顔を見れる今がとても幸せです。いつまでもそばにいたい、生きることの楽しさを教えてあげたい…あの子を、うんと幸せにしてあげたいのです」

豊子さんの皺のよった手が、きゅっと湯呑みを握りしめる。まだ湯気の立ち込めるお茶は温かく、ゆらゆらと茶柱が立っているのが見えた。
それを見て微笑みを浮かべた後、視線をそっと庭へとうつす彼女につられてそちらを見ると、由貴子ちゃんは無邪気な笑みを浮かべて猫を撫でていた。

「急な話なのは分かっております…ですが、時間がないのも事実です。時間も命も、永遠ではありません」
「…、豊子さん」
「どうかお願いします。もうこれ以上、あの子は一人になるべきではありません。…家族に、なってあげてくださいませんか」

本来、『家族』とは他人が頼んで成立するものではない。『なってあげる』ものでもない。
それでも、誰かが手を繋がないと一人になってしまう子が、世の中にごまんと溢れかえっている事実―――…

「…顔を上げてください。あなたが頭を下げる必要はありません」
「……」
「豊子さんは大丈夫。まだまだ彼女と一緒に笑えます。でも、もしいつか、そんな日がきたら…その時は、約束させていただきます」

いまだ頭を下げたままの豊子さんのそばまでいき、そっと肩を上げさせる。いつも優しい笑みを浮かべていた表情は崩れ、その目はうっすらと濡れていた。

「彼女を、一人にはさせません」

安心させるように。
もうすぐ迎えがくるだなんて、そんな悲しいことを思わせないように。
豊子さんと由貴子ちゃんが、どうか幸せであるように。

力強く断言すると、豊子さんは眉間を寄せたまま笑みを浮かべて、また深々と頭を下げた。

「ありがとう、ございます…」

振り絞ったような、細い声。
涙で震える言葉を紡いで、豊子さんはもう一度、濡れた瞳で微笑んだ。


―――…

「…豊子さんは由貴子ちゃんを大切にしてた。大切だから、君を俺に託したんだ。もう一人で泣かなくても済むように、寂しい思いをしないように」
「…おばあちゃ…」
「でも由貴子ちゃんは我慢する癖がついちゃっているんだね。我慢して、誰にも言わないで、ずっと一人で笑ってる。それじゃあ君はいつ泣くの?相手はよくて自分はダメだなんて、それも一種のエゴイズムだよ」
「う、るさい…っうるさい、うるさい」
「我慢は体に良くないって言ったのは誰?そんなのやめろってハンカチを渡してくれたのは誰?由貴子ちゃんだよ。由貴子ちゃんが言ってくれたんだ、なのに自分はどうでもいいの?」
「やだ、いや、もう嫌だ…!聞きたくない、もう何も聞きたくない!」
「君が聞かなくても俺は言うよ、拒絶されたって何度だって言ってやる!どんな無茶でもわがままでも、君が望むなら俺が何だってしてあげるから…っ」

分からない、もう何も分からない。何に嫌だと言っているのか、何を恐れているのかすらも分からない。
でももう、遅い。遅すぎた。元になんか、戻れない。

「もう、我慢しなくていいんだよ」

―――誰かがそばにいるぬくもりを、知ってしまったから。

意地でも流すまいと、目頭にためていた雫が落ちる。一度溢れてしまったら、自分の意思ではもう止まらない。頬を伝う涙が熱く、とめどなく流れていく。

その日、あたしは初めて、おばあちゃん以外の人の前で泣いた。
回された腕と目の前のぬくもりに耐え切れず、ぎゅっとスーツを握りしめて。我慢して、我慢して、我慢し続けた今までの分を全部解放するかのように、声を上げて、すがり泣く。
そんなあたしに一条さんは何も言わず、長い間ただずっと、抱きしめ返してくれていた。



「…落ち着いた?」
「……」
「無視しないでよ~、寂しいじゃん」
「うるさいです。…はぁ、人前で泣くなんて最悪…」
「そんなこと言って、俺に抱き着いてたくせに」
「う…っるさい、このすっとこどっこい!」
「古い!罵り方が古い!」

ひとしきり泣きじゃくって、落ち着いた頃合い。再び言い合いながら、あたしはなんとか涙腺をしめて落ち着こうとしていた。
あんなに泣いたのなんて、初めてかもしれない。晴れていようが雨だろうが、明日はサングラス必須だ。知り合いになんか絶対に見られたくないくらいひどい顔をしているに違いない。

「…もう大丈夫です。大丈夫なんで、一人にしてください」
「へ」
「何きょとんとしてるんですか、当たり前でしょ…帰ってください」
「!由貴子ちゃん、俺は」
「帰って、ください」
「…」

ただそれだけを、言い放つ。
あわてて何かを言いかけた一条さんは、遮られた言葉をそのままに悲しげな表情で俯いた。後ろでずっと控えてくれていた秋元さんも、同じような瞳をしてじっとあたしを見つめている。

助けてくれたことも、不本意ながら我慢を解いてくれたことも、感謝はしている。しているけれど、でももう、帰ってもらわなくては困るのだ。

「…荷造りなんてすぐできるものじゃないし…遺品整理すらまともに終わってないし」
「……え」
「片付けも掃除も、ご近所さんへの挨拶も終わってないんです」
「………それ…って…」

人が変わったかのように饒舌だったさっきとは打って変わり、きょとんとした表情で目を見開く一条さん。
さっきの頭の回転の早さはどこにいったというのだろう。穴があったら入りたいくらい恥ずかしいのに、どうしてこういうことには疎いのよ!

「だから…っ、引っ越しの準備まだできてないから、今日はもう帰ってください!突然一緒に住もうって言われても、すぐにそっちに行けるわけないじゃないですか!」
「…!!」
「言っときますけど、あたしテーブルマナーとか全っ然分かりませんからね。お金持ちの暮らしなんて考えたこともなかったんですから」

そう言って、一条さんの顔の前にぴらりと一枚の紙を突き出す。
それはあたしが書いたことで虫食い状態だった空欄が全部埋まった、『養子縁組届』。

「ちゃんと、教えてくださいね。兄さん」

きっとたぶん、この瞬間が人生最大のターニングポイント。
なんだか気恥ずかしくて思わず少し俯くと、一条さんは目を輝かせ、ぷるぷると打ち震えながら「由貴子ちゃん!!」と抱き着いてきた。


―――…

「もしもーし?大丈夫~?」
「……」

次の日。
新しく兄になる人に「荷造りなんていいよ!」と強引に手を引かれたため、家具や荷物をそのままに現在新しい住居へと移動している…のだけれど。

広々とした空間。ふかふかの絨毯。Lの字型にそったソファ。真ん中に置かれたぴかぴかのテーブル。
何もかもがキラキラと眩しいくらいに輝くそれは、だがしかし明らかに、あたしの知っている物体の中ではなかった。

「リリリリムジンって、リムジンってどういうことですか…!」
「うちの車だよ?あ、そうだ、今年も千疋屋の新作ジュースもらったから由貴子ちゃんにもあげる~」
「こ、今年もっていうか何で車に冷蔵庫なんてついてるんですか!」
「あはは、慣れる慣れる。由貴子ちゃんチェスできる?ダーツもあるよ?」

新しい住居に向かう車内には、段違いの広い空間にビビりまくるあたしとそれを見て呑気に笑う一条さんのみ。緊張しすぎて挙動不審なあたしとは裏腹に、一条さんはショットグラスで軽いお酒を飲んでいる。

慣れない。慣れるもんじゃない。慣れるってレベルの代物じゃない。そもそも真っ白なリムジンで迎えに来られた瞬間に、自分なりに作っていたある程度の覚悟が崩れたのだ。
このリムジンだって公道の街中を走っているはずなのに、騒音なんて驚くほど聞こえないうえに振動も全く感じない。莫大なお金の力を感じるとともに、今日からお世話になるお家が「単なるお金持ち」ではないことだけが確実に、びりびりと伝わっていた。
まずい、本当にまずい。これはあたしが思っている以上にレベルの高い家柄なんじゃないだろうか。緊張で吐きそうになるなんて初めてなんですけど。小学校の学芸会でもここまで緊張することはなかったはずだ。

「ところで由貴子ちゃん、何でさっき章人さんって呼んだの?」
「え?だめですか?」
「昨日兄さんって言ってくれたじゃん!」
「…忘れてください」
「え~っ」

年上とは思えないきらきらとした純粋な目で懇願するように見られているけれど、耳をふさいであさっての方向を向くあたし。シラフで兄さんなんて呼べるわけない、だって恥ずかしすぎるもん。お金つまれたって嫌なものは嫌だ。

そんなくだらない話をしながらリムジンに揺られることおよそ30分、章人さんは備え付けのカーテンから外をのぞいて「そろそろだよ」と笑った。途端、車内のカーテンというカーテンが一斉に音をたててゆっくりと開いていく。
自動オープンに冷や汗が吹き出しそうなあたしとは裏腹に、開けた窓の外では、あたたかな太陽が木漏れ日となって降り注ぐ並木道が広がっていた。

「もうここから家だから」
「!?この並木道からですか!?」
「季節ごとに色が変わって綺麗なんだよ~。ほら、あれが正門ね」
「わぁ、正も…」

…ん?

「…マーライオンってシンガポールにあるんじゃなかったでしたっけ…」
「似てるけど少し違うんだ。エントランスにも同じものがあるから後でゆっくり見てみて」
「……あの…正門、通ったんですよね?家が少しも見えてこないんですけど…」
「正門から屋敷まで少し距離があるからね。徒歩だと30分くらいかかるから…って言っても実際に歩いたことはないけど」
「……」

呆気にとられて、あたしはそれ以来無言になった。豪華な噴水やら庭園やらが目に入るたびに、今見ているものすべてが信じられないような気持ちになる。

待って。本当にちょっと待って。さっきから圧倒されまくりなんですがぶつけるところのないこの気持ちはどうしたらいいのでしょう。そもそも家を屋敷と呼ぶ時点であたしが想像しているような家じゃないことは分かってる、分かってはいるけれど!
お家の庭がこれだけ広くてすごいんじゃ、大本の本家って…

正門を通り10分後、車はようやくお屋敷前に到着したらしい。リムジンはぐるりと円を描いて、ゆっくりと停車した。
音を立てて重厚なドアが開く。章人さんに「どうぞ」と微笑まれたのを見てゆっくりとドアへ近づいて出ようとした途端、不意に外から誰かの手が差しのべられた。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

伸びやかで鈴のような声が、あたしの耳の中に響く。
差しのべられた手の先を辿ると、そこにはにっこりと笑ってあたしを見つめる少年がいた。
………………お、じょう、さま?

「………」
「……あれ?お嬢様ですよね?」
「ごめん雄太、由貴子ちゃんまだ慣れてないみたいで。お疲れさま」
「お帰りなさいませ、章人様!そうでしたか、申し訳ありません…降りられますか、お嬢様」
「、あ、ごめんなさい!」
「お手をどうぞ」
「あ、ありがとう、ございます…」

どうやら差しのべられている彼の手をとって車を降りろということらしい。そっと手を重ねると、少年はにこにこしながらあたしが降りるのに合わせて手を引いてくれた。
おお、ちょっとした優越感…違う、そうじゃない。問題はそこじゃない!

「どういう趣味してるんですか章人さん!!」
「待って!思ってる以上に誤解が大きい!俺は至ってノーマルだしこれが普通だよ!」
「特別待遇は章人さんだけで十分だと思います!ノーマル待遇を要求します!」
「だって俺の妹だもん!これがノーマル待遇だよ!」
「…うそでしょ…」

まずい。本当に不安になってきた。こんな広いお屋敷で、年齢の上下関係なくお嬢様と呼ばれるなんて想定外だ。ここまでのスケールだなんて聞いてない、帰りたい、今すぐ畳に横になりたい。
ふと視線を感じると、手を引いてくれた少年がにこにこと言い合いを続けるあたしと章人さんを見ていた。

「えっと…」
「あ、初めまして!僕、赤坂雄太と申します。このお屋敷でフットマンをさせて頂いております」
「ふっとまん?」
「使用人の一種だよ。うちでは執事見習いってところかな」

初めて聞く単語については章人さんに説明を受けたけれど、色々とすごすぎて何も言えなかったあたし。ドラマや映画だけの存在かと思っていたけれど、そういう人たちは現実の世界にもどうやら実在するようだ。言われてみれば秋元さんが存在する時点でありえる話だと気付く。
背もあたしとたいして変わらないくらいの雄太くんは、女の子のような顔立ちのとてもかわいい男の子だった。

「じゃあ行こうか。圭介は中?」
「はい、エントランスホールに」
「ありがとう。行くよ、由貴子ちゃん」
「あ…はい」

章人さんに促されて、おずおずと彼の後に続く。ようやく目にすることのできたお屋敷は、家というよりはお城のような外観の、それはそれは豪華すぎる建物だった。不安と緊張でいっぱいいっぱいのあたしの前で、玄関のドアにしては大きすぎる大扉の両脇に立つドアマンさんがゆっくりと扉を開く。

ギィ、と音を立てて開かれた重厚な扉の向こうの世界は、まさに「宮殿」そのものだった。

高い天井。吊されたシャンデリア。磨かれた彫刻にたくさんの絵画。光る大理石の床。繊細で細やかな装飾に、赤絨毯のひかれた中央階段。
きっと、豪華絢爛とはこういうことをいうのだろう。あまりに衝撃が大きくて、逆にすとんと落ち着いてしまったあたし。思わず生気のない笑いが込み上げてきたところで、こつこつという足音とともに秋元さんがこちらへゆっくりと歩いてきた。

「お帰りなさいませ。お待ちいたしておりました」
「ただいま、圭介。わざわざ出なくてもよかったのに」
「務めでございますから。おはようございます、お嬢様」
「お、おはようございます」

にこやかに挨拶をしてくれる彼にあたしもぺこりと頭をさげる。会った時もスマートだったけれど、秋元さんはこういう場所に立ってこそ初めて「執事」になるんだろう。向こうでは非現実すぎて浮いていた燕尾服も、このお屋敷ではまるでそれが当たり前かのような存在感を放っていた。

「本来ならば全使用人がお帰りを迎えるべきなのですが、当家では執事職に就いている者のみが代表してその務めを負っております。ご了承くださいませ」
「い、いいですそんな、出迎えだなんて…!」
「みんな揃ったらすごいだろうね。ここじゃ入りきらないんじゃない?」
「そんなにたくさんいるんですか…?」
「上級・下級合わせ500名ほどかと」
「!?」

大家族にも程がある。そもそも上級下級って何だろう、ランク付けする必要があるのかもわからない。お金持ちの世界は謎で溢れている。

「当家の使用人はその職種によって上級と下級に分けられております。くわしいことは後ほどお話いたしましょう」
「!?エスパー…!?」
「勘が良いんだよ、圭介は」
「恐れ入ります」

…どうやら秋元さんに隠し事はできないようだ。
スケールの大きさ、今までの世界との違いに不安を感じて思わずため息をつくと、不意に章人さんが人差し指でつんつんと頬をつついてきた。

「幸せが逃げちゃうよ。ほら、スマイルスマイル!」
「…そんなこと言われても…」
「誰だって慣れないうちは不安だよ、心配に思うのもよく分かる。でもそれじゃあいつまでも前を向くことなんてできないでしょ?」
「……」
「こういうことは、時間がちゃんと解決してくれるよ」

それはまるで子供のような笑顔。キラキラ輝く純粋な瞳をたたえてそう話す章人さんにつられて、思わず口元がゆるんでしまうあたし。
本当、あてになるのか分からない。けれどそんなあてにならない彼の言葉をどこか信じている自分がいるあたり、あたしもだいぶこの「兄」にほだされてしまっているようだ。

(あたし、大丈夫だよ、おばあちゃん)

おばあちゃんが章人さんを選んだ理由が、なんとなく分かってきてるの。
先行きはまだ不安。今までとは何もかもが違いすぎる上に、右も左も分からない状態なのに変わりはない。この先いくら頑張ったって、埋められない差や見えない壁のようなものがいくらでも立ちふさがってくることくらい、馬鹿なあたしにも想像はつくけれど。
それでも。それでも、この人がいて、この家にお世話になる限りは、あたしなりに頑張ろうと思うんだ。


「失礼いたします。秋元さん」

ふと、割って入ってきた誰かの声。
こつこつと靴の音がする方を向けば、誰かがこっちに向かって歩いてきているのが見えた。

「おはよう、優。朝は会わなかったね」
「お帰りなさいませ、章人様。朝は私用が立て込んでおりまして」
「何かあったのか?」
「コーチマンが先日の件について…」

どうやらユウさんという人がきたようだ。章人さんの背中で顔がかぶっているためこちらからはよく見えないけれど、話の内容を聞く限り、きっと彼もここで働く使用人なのだろう。
…コーチマンって何だろう。馬の名前かなにかだろうか。

「由貴子ちゃん?」
「あ、はい!」
「紹介しとくね、こいつも執事。名前は優」
「初めまして、お嬢様」
「は、初めまし…」

……て?
………あれ?

「小木?」

ぽつり、出てきた言葉。
会釈をしたままの「ユウさん」は少しの間をおいて顔を上げた後、その目をゆっくりと見開いた。

「……戸田?」

ああ、嘘、ありえない。
いまだ放心状態のあたしの脳に、徐々に現実が入り込んでくる。

待って、待って、落ち着こう。何事もまずは落ち着いてからだ、深呼吸をしてから熟考しよう。これはきっと見間違いだ。他人の空似に決まってる。きっとそうに違いない、はずなのに。
髪、顔、声、雰囲気、佇まい。どれもこれも、嫌なくらい見覚えがある。

「…、あれ、え…?小木?」
「……」
「…?どうしたの、二人とも」
「ちょ、え、なに?何で?何でいんの…?」
「……お前、こそ」
「え、なになに?もしかして知り合い?」
「し…知り合いも、なにも」

「「クラスメイト…」」

同時に言って、同時に顔を見合わせる。
疑問、焦燥、放心状態。それらから完全に現実に引き戻された拍子に、いまだかつてない震えと汗が、あたしを襲った。

「!?!?」

…天国のおばあちゃん。
努力しようと意気込んだ、今日からのお嬢様生活は…
頑張れそうに、ないようです。

(続く)

第二話

おばあちゃんが亡くなったのをきっかけに、天涯孤独の身となった女子高生のあたし。
そんなあたしを引き取ってくれたのは、明るく能天気な若社長の一条章人さん。
そんな章人さんのそばにいて、常に穏やかな笑みを浮かべているのは執事の秋元圭介さん。
そしてそんな秋元さんに用があるらしくついさっきやってきたのは、同じく執事で、クラスメイトの、小木優でした。


「そっか、そういえば二人とも西高だっけ。何も聞いてなかったの?」
「……同じ高校かもしれないという話は、秋元さんから」
「まさか同じクラスだとは思っておりませんでしたので」
「あはは、だよね」

穏やかな日の光が差し込む、縦にも横にもだだっ広い空間。新生活が始まる初日から新居にて衝撃の出会いを果たしたあたしは、とりあえず話をしようという章人さんの提案でお屋敷のサロンへと移動していた。
目の前には章人さん、その傍らに秋元さん、そしてあたしの傍らに小木。 豪華なソファーに座るあたしと章人さんに対して、執事の二人は立って話を聞いていた。

ありえない。意味がわからない。帰りたい。顔見知りが執事とは一体どういう偶然だろう、どう反応すればいいのだろう。そもそもにして小木優という人間はあたしの中では本当に同じクラスに存在しているだけの認識でしかない男子であり、たしかにクラスメイトではあるけれど残念なことに彼と話したことは一度もない。おまけに無口で誰ともつるむことはなく、いつも一人でいるくせにどこか独特な存在感を放つため、クラスでは浮いた存在なのだ。嫌われているわけではないけれど、近寄りがたい雰囲気で男子からもなんとなく疎遠されているような、少し一匹狼めいた小木。そんな小木がいま、この状況で、秋元さんと同じ燕尾服を着て立っている。いくら考えてもやはり意味がわからない。帰りたい。切実に今、帰りたい。
いたたまれない気まずさから小木となるべく目を合わせないようあちこちに視線を漂わせていると、秋元さんが淡い飴色をたたえたティーカップをそっとテーブルに置いてくれた。

「熱くなっておりますので、お気をつけてお飲みください」
「あ…ありがとうございます。りんごの香り…」
「カモミールを中心にペパーミントとレモンバームを合わせたハーブティーでございます。りんごの香りにはリラックス効果があるそうです」
「………」

緊張がバレている。そういえば勘の鋭い秋元さんに隠し事はできないんだった。気恥ずかしさに何も言えず、ごまかすように紅茶を口へと運ぶ。カモミールの香りとともに立ち込める湯気が、まるでホテルかのような高い天井へと立ち上っていった。

「あとはいいよ、小木。コーチマンには夕方頃に行くと伝えて」
「かしこまりました」
「またね、優」
「失礼いたします」

秋元さんとともに紅茶をいれていた小木にはどうやらまだ仕事が残っているようだった。うやうやしく章人さんにお辞儀をして、ティーセットの片づけを任せドアへと向かう小木。
ふと、交わる視線。でもすぐに逸らして、小木はいよいよサロンから出ていった。

「~っ」

気まずい。気まずすぎる。思わず盛大なため息をついてしまったあたしの様子をみても、章人さんは変わらずにこにこと笑顔を浮かべたままだ。

「知り合いがいてよかったね~」
「…どこをどうみてそう思うんですか…」
「クラスメイトなんでしょ?話したことないの?」
「クラスの男子となんて業務連絡以外にしゃべらないですよ」
「ふうん」

そういうもんなんだ、と感心したような声をだす章人さん。別に話す子は男女問わず話すけれど、単にあたしがそういうタイプじゃないだけだ。話題も用もないのにわざわざ話す必要性がどこにあるというのか。

「でも困ったな。部屋隣にしちゃったし」
「………耳が遠くなったみたいです。もう一回お願いします」
「へや、となりにしちゃったし。由貴子ちゃんと優」
「は!?何でですか!?」
「執事が隣の方が色々効率いいんだよ、何かあったときにもすぐ対応できるしね」
「ちょ、もう嫌、あ、泣きそう」
「や、俺もクラスメイトだなんて予想外だったし。まあでも、いずれ話さなきゃいけない相手なんだしさ!ね?」
「……!!」

笑えない。全くもって笑えない。悪気があったわけではないのは分かっているから、のんきに笑顔を浮かべる章人さんに対して怒る気なんてはなから持ち合わせてはいないけれど。泣きたい気持ちと逃げたい気持ちが入り混じった複雑な心境は、例えるならクラス替えで仲良しの子たちは一緒なのに自分だけ離されたときのあれととてもよく似ている。どうして良いことは連続して起こらないのに、悪いことは続くのだろう。泣きたい。昨日泣いたばかりだけれど、今、とても泣きたい。

その後会社への出勤時間となった章人さんは秋元さんに窘められて渋々と出かけていった。気付けばすでに午後一時、窓からのぞくバラ園のような広い庭園にはさんさんと太陽が降り注ぐ。世の中の喧噪なんて一切聞こえてこない、ただ鳥や風のおだやかなささめきが通り抜けている非日常的な空間だ。ここは本当に日本なのだろうか。フランスにでも空間移動しちゃったんじゃないかな、あたし。

「少々よろしいですか、お嬢様」
「あ、はい」
「恐れ入ります。午後からはこの場を別の執事に任せる予定なのですがよろしいでしょうか」
「大丈夫です。別にほっといてもいいんですよ」
「とんでもないことでございます。まだまだ説明が不十分ですし、お一人ではなにかとご不安でしょう」

そう言ってにこりと微笑みあたしを気遣ってくれる秋元さん。言わないだけで仕事はたくさんあるんだろうし、あたしのことなんて気にしなくてもかまわないのに。お部屋さえ与えてくれれば借りてきた猫のようにおとなしくしているつもりだ。
そんな中、不意にこんこんとサロンのドアがノックされる。 失礼しますという声とともに、ドアの向こうから秋元さんと同じ燕尾服を着た若い男の人が入ってきた。

「遅れて申し訳ありません。ご説明の方は…?」
「ちょうど今話していたよ。お嬢様、執事の中村でございます」
「中村玲志と申します。よろしくお願いいたします」
「は、初めまして!」

ソファから慌てて立ってお辞儀をする。別の執事とはどうやらこの人のことのようだ。仕事の引継ぎを少しの間してから、秋元さんは「失礼します」と言ってサロンを後にした。

「屋敷の説明はまだだと伺いました」
「はい、まだ…」
「では中からご案内いたします。少々歩きますが、その前に何か飲まれますか?」
「大丈夫です」

では、と微笑んでゆっくりと歩きだした中村さんの少し後ろをついていく。申し訳程度にえりあし付近で結ばれたさらさらの髪が印象的な、なんとも人の良さそうな好青年だ。近所の優しいお兄さん像を体現したかのような柔和な雰囲気にだんだんと緊張がほぐれていく。初めてのお屋敷見学に期待と好奇心を抱きながら、あたしはサロンを後にした。

「―――当屋敷は地下一階、地上三階の四階建て構造となっております。地下一階ならびに地上一階はキッチンスペースやランドリー室、主に使用人が行き来する空間です。二階は先ほどのサロンや客室がある公共スペース、そして三階が章人様やお嬢様のお部屋、書斎などのプライベートルームゾーンとなっております」
「………」
「その他にも遊戯室やシアタールーム、バンケットホールなどが各階にございます。……もう少し遅く歩きますか?」
「…ひ…広すぎます…!」

だだっ広いお屋敷を一通り見学した後、お屋敷の豪華さに対する感想よりも真っ先に口をついて出たのはそれだった。
意味が分からない、ゆっくり歩いていたはずなのに息切れするなんて初めての経験だ。広い。広すぎる。部屋の数も多い。多すぎる。覚えきれる自信がない。廊下の時点ですでに学校のそれよりも広いなんて一体どういうことなんだろう。ぜえぜえと肩で息をするあたしとは裏腹に、中村さんは少しも息を乱さず汗ひとつかいていないようだ。どんな体力してるんだろう、ここの人たち。いいダイエットにはなりそうだけれど、個人的には嬉しくない。

「少し休憩にいたしましょう。お嬢様のお部屋はこちらになっております」
「わ、すごい…」

息切れながらも歩いているうちに、いつの間にかあたしの部屋まできていたようだ。中村さんが開けてくれたドアの向こうの空間に息切れを忘れ見惚れていると、どこからともなくニャーという鳴き声が耳に届く。その声にきょろきょろと辺りを見渡せば、部屋の奥からこちらに向かって駆け寄ってくる子猫が二匹。

「ゆず!さくら!」
「お嬢様のお荷物と一緒に先ほど到着したようですよ」
「あ、そういえば荷物……」
「お嬢様がまとめてくださっていたものから先に運ばせていただいております。残っている家財なども近いうちに全てこちらの屋敷へ移す予定でございますのでご安心ください」
「…ありがとうございます…」

まったくもって至れり尽くせりだ。ここがこれからの住まいになることを改めて実感しながら、足元にすり寄るゆずとさくらを抱き上げる。見知った腕の中のちいさな温もりに、あたしはお屋敷にきてからようやく心からの安心感を覚えた。

ホテルのスイートルームのごとく部屋が分かれている自室は、リビングスペース、寝室、バスルームと大きく三つに分かれているらしい。学校の教室よりも広いウォークインクローゼットなるものもあったけれど、正直そこまで服を持っていない事実は伏せておこう。部屋にバスルーム付きってだけで、貧相なあたしの頭の中ではもう完全に高級ホテルのもてなしを受けている感覚だ。これで個人部屋だなんてお金持ちほんと怖い。想像を超える自室の構成に云々うなりながらゆずとさくらをソファーに寝かせ、再びお屋敷見学にでるあたし。次はどこへ行くんだろう。

「屋敷の外をご案内いたします。すべて回るには数日ほどかかってしまうのですが…」
「!?夢の国…!?」
「ああ、敷地面積だけですと同じくらいだそうですよ。テーマパークではありませんので、あのような大型の遊戯施設はございませんが」
「!?」

あたし、イン、夢の国。まずい、本当に何もかもが想像以上だ。そもそも家の中を土足で歩ける時点であたしにとっては十分すごいけれど、負けず劣らず外もすごい。庭園の向こうの景色が地平線だなんてどれだけ広いんだろう。

「君が由貴子ちゃん?」

自然公園かのような庭園の景色に見とれているときに、ふと耳に入ってきた中性的な声音。声の先を辿って振り返ると、そこには声音と同じく中性的な顔立ちをした、綺麗な男の人が立っていた。

「准様。大学へお出かけになられたはずでは?」
「章人から連絡もらってね。講義あったけど帰ってきちゃった」
「そうでございましたか。……そうするようにお約束なさっていたのですね」
「秋元に怒られたって不満そうだったよ」

艶やかな黒髪。背も声も高すぎず、身に付けている衣服やその振る舞いからは育ちの良さがにじみ出ている。女の子の格好をしたら、相当な美人に化けるタイプの男の人だ。章人さんや秋元さんを呼び捨てにしてるところを見ると、この家の人なのだろうか。会話を聞いてるかぎりでは大学生のようだけれど…。

「僕のことが知りたい?」
「!」
「二条准。章人とはいとこで今日から君とも親戚同士。ここにいるのは大学に通うため、要するに立場は居候」
「あ、あの…」
「同居人と思ってくれればそれでいいよ。難しいこと考えるの苦手でしょ、君」
「………」

すごく、はっきり、してらっしゃる。 いやたしかにその通りではあるけれど、勉強に関しては下から数えた方が早いけど。友達同士で茶化し合うのとはまるで違う、初対面で知り合ったばかりの人間にそんなはっきり言われるなんて初めてだ。綺麗な薔薇には毒があるとでもいうのだろうか。思わずぽかんとしてしまったあたしに、そばに控えていた中村さんが苦笑しながらフォローをいれる。

「気になさらないでください。悪気はございませんので」
「おや、僕の口が悪いとでも言うの。ジキルの君に言われたくないね」
「ハイドほど悪くありませんよ。誤解はされる前にとくのが一番かと」
「ありがとうなんて言わないからね。まったく、やっかいな使用人ばかりだ」

由貴子ちゃんも気をつけるんだよ、なんて笑う二条さんに返事をしながらやり取りを眺めるあたし。教養高い高度な皮肉を交えながらも会話を続ける二人の空気はいたっておだやかで、仲が悪い印象を受ける感じはない。きっと気を許した関係だからこそのつつき合いなのだろう。二条さんの口が悪い事実はどうやら確定したけれど。

「外の案内?」
「ええ。今日は天気もよいですし」
「中は終わったんだね。どう?休憩しない?」
「え?」
「アフタヌーンティーさ、由貴子ちゃんも疲れたでしょ。ガゼボは空いてる?」
「ええ、おそらく」
「じゃあ決まりだ。おいで、由貴子ちゃん」
「えっ?あ、あの…」
「では私は準備の方を」
「中村さん!?」

強引な流れに何も言えないままのあたしをずるずると引きずり移動する二条さん。陽の当たる緑の中を少し歩いて見えてきたのは、天使の彫刻や噴水に囲まれた豪華な白亜の建物だ。日よけ代わりの屋根の下にはアンティークチックなテーブルとイスが置いてあって、壁はなく外の空間に開けている。少し小高い丘になっているところにあるらしく、振り返れば遠くにお屋敷やバラ園を望むことができた。
似たようなものを近所の公園でみた記憶がある。雨よけの屋根と、真ん中に簡素なテーブルとイスがおかれた休憩所みたいなものだ。当然ながらこちらの方がはるかに立派だけれど、なんていうんだっけ、あれはたしか…

「あずまや?」
「そう言った方が分かりやすかった?西洋風あずまや、英語でガゼボっていうんだよ。ところで由貴子ちゃん、一応聞くけどレディとしての教養はある?」
「は?」
「淑女ってこと、一条家当主の妹になったんだからある程度の教養と品格は必要だよ。社交界に出るのに恥ずかしい思いなんてしたくないでしょ?」
「しゃ、社交界…?」
「あまり分かってないみたいだけどこっちの世界じゃ有名だからね、この家。ただでさえ注目されるのに新しい家族が増えたんだから君がスルーされるわけがないでしょ、近々お披露目だってあるんだし」
「え?お、お披露目って…」
「君以外誰がいるの」

………。
…………。

「は!?」
「今の反応で君に教養がないことは分かった、ありがとう。女の子が必要以上に大声なんて出さないの、その品の無い言い方もやめること」
「うっ……はい……」
「……聞き分けはいいみたいだね。大丈夫さ、僕や章人もサポートするしそのうち慣れるよ。躾のしがいもありそうだしね」

そう言ってにこりと微笑む二条さん。見惚れてしまうほどの綺麗な笑顔なのに、発言は肝が冷えるほど綺麗じゃない。なんか今恐ろしい単語が聞こえた気がするけれど気のせいだろうか。疲れてるのかな、たぶんそうかな。そう自分に言い聞かせながらひきつった笑みを返すあたし。だめだ、本気でやっていける気がしなくなってきた。怖い。

「その発言は少々驕傲かと存じます、准様。お手柔らかにと申しましたのに」
「あ…中村さん」
「これでもフェミニストのつもりだけど。遠藤もきたんだね」
「ちょうど食器を磨いておりましたので。初めましてお嬢様、遠藤と申します」
「あ、初めましてっ」

ガゼボの入り口前についたときに後ろから飛んできた声に振り返る。そこには中村さんと、遠藤さんという別の執事さんが立っていた。さらさらの黒髪に眼鏡、表情の変化の少ないクールな雰囲気。振る舞いも喋り方もどことなくインテリっぽさを感じさせる人だ。いかにも完璧主義者であろう性格がにじみ出ている。

「準備はできてるみたいだね。先にどうぞ、由貴子ちゃん」
「は、はい」

二条さんに促され、中村さんのエスコートでガゼボの中におそるおそる入るあたし。女性に前を歩いてもらうようエスコートするのは男性の役目だという歩き方のマナーから、女性が先に席についてから男性が座るという着席時のマナーまで、どうやらすでに教育は始まっているようだ。おもわず盛大にため息をついてしまったあたしに、二条さんは頬杖をついて口を開く。

「慣れれば体が覚えるさ。座るときは使用人が椅子を引くから間に入って静かに座って、振り返らずにね」
「どうぞ、お嬢様」
「あ、ありがとうございます…」
「背もたれには寄りかからないで浅く座ること。前屈みにならないの、背筋はちゃんと伸ばして。かっこ悪いよ」
「こ、こうですか…?」
「そう、できてる。細かいテーブルマナーは実践じゃないと身につかないからディナーのときに教えるね」

何これ、何これ、ほんとに本格的なマナー教室みたいになってるんですけど何なのこれ。二条さんがいやに楽しそうなんですけど何これ!ディナーって夕飯のことだろうか、そんな風に言う人なんて初めて見た。小さくため息をつきながら改めて見たテーブルの上では、華やかなお茶会のセッティングがされている。すごい、こんなセットも映画の中でしか見たことがない。

「アフタヌーンティー自体に厳しいマナーはないんだよ。楽しく語らうことが目的だから、個々の仕草や常識がものを言うんだ」
「はぁ……」
「あるとしたらデザートの食べる順番くらいかな。ティースタンドの下の段から順に食べていくんだけど、これも特に守らなきゃいけないわけではないし」

そう言いながら二条さんは優雅な仕草で紅茶を飲んだ。あたしのそばに置いてあったティーカップにもいつの間にかお茶が入っていて、ほかほかと湯気がたっている。いつの間にいれたのだろう、気配なんてまったくしなかったのに。淡いオレンジ色がほのかに光る綺麗な紅茶だ。

「お嬢様、デザートをお取りいたします。苦手なものはございますか」
「いえ、ないです!……あの、デザートって…」
「下から順にサンドイッチ、スコーン、プチフールでございます。ケーキスタンドの基本的な構成はこの三つとなっておりまして、語らいの時間をゆっくりと楽しんでいただけるよう体に優しい甘さで作られているのが特徴です」

では、と言って遠藤さんはそれぞれひとつずつ取り分けてあたしの前においてくれた。たくさんのフルーツにきらきらと輝くゼリー、色合いの可愛らしいマカロンに磨かれた食器たち。女の子の好きなものがすべて詰め込まれたような空間と一口サイズのケーキやタルトに思わず見入ってしまったあたしを見て、頬杖をついていた二条さんや給仕を続ける中村さんが微笑む。

「僕も食べようかな。中村、スコーンを二つ」
「珍しいですね、クリームティー。クロテッドクリームはいかがなさいますか」
「コーンウォールの方にして。ああ由貴子ちゃん、紅茶を飲むときは右手だよ」
「あ…はい」
「カップの持ち手を右にするときは手前に回すんじゃなくて向こう側に回すこと。ソーサーはテーブルに置いたままでいいけど、立食のときはタブーだから気をつけてね」
「は、はい」

言われたとおりに改めてカップを持ち直すと、「合格」と微笑んで二条さんは紅茶を飲んだ。姿勢、振る舞い、どれをとっても二条さんのそれはいたって優雅で所作の一つ一つに品がある。育ちが良いというより、そういう環境で育ってきたからそれが彼にとって当たり前のことなのだろう。一口頬張ったショコラの甘さが、そっと体に沁み渡る。お茶会に厳しいマナーはないと言っていたけれど、個人的には紅茶を飲むひとつの動作でこんなにも縛られる時点ですでに心が音を上げていた。

―――…

「………」

月が輝く夜の九時。人生でこんな経験をするなんてと思うほどの豪勢な夕食を食べ、夕食後の習慣だというアフターディナーティーに参加した後、一人自分の部屋へと向かうあたし。今日は色んな意味でへとへとだ。早く部屋へ戻りたい、ゆずとさくらに会いたい、あわよくばそのまま眠ってしまいたい。あたしの願いはただそれだけなのに。

「………ここどこ」

完璧に、迷った。
待って、まずは落ち着こう。このお屋敷が地上三階建てで自分の部屋はその三階にあるのは覚えている。だから二階にあるサロンを出たあと階段を昇って三階にきた、ここまではきっと正しいはず。中村さんに案内されたとおりの道を進んでいる…はずなのに、どうして今部屋どころか扉すらない壁のみの廊下を歩いているのだろう。昼間きたときにこんなところは歩かなかったはずだ。明かりはついているけれど、こうも人の気配がしないと心細くて仕方ない。どうしよう、どこ歩いてるんだろあたし。そもそもどうして家の中で迷子になるような事案が発生するのよ、どんだけ広いのよこのお屋敷!

「おい」
「ひゃ!?」

誰もいないとばかり思っていたため、静かな空間に響いた突然の呼びかけに思わず奇声をあげてしまったあたし。バクバクとうるさい心臓をおさえながらゆっくり振り向けば、そこには見知った顔の男がたっていた。

「お、小木…?」
「………うるさい」
「あ、あんたが急に話しかけるからでしょ!」
「迷子?」
「………」
「……だっさ」
「!!あんたねぇっ、」
「こっち」

ずばずばものを言ったかと思えば、ため息をついて小木はさっさと歩きだしてしまった。やっぱり見間違いなんかじゃない、秋元さんや中村さんと同じ服を着て今この瞬間ここにいる。たいして話したこともないのに淡々と失礼なことを言ってのける顔見知りのクラスメイトにかける言葉もなく、黙ってついていくしかないあたし。なにこの沈黙、気まずい以外の何物でもないんですけど。どうすりゃいいのよ。

「………ねぇ、小木」
「………」
「小木ってば」
「………」
「おーぎーゆーうー!」
「せぇな…何だよ」
「………執事…なの?」
「………」

何をどう返されるかなんてまったく見当がつかないけれど、単刀直入に聞いてみるあたし。言いたいことは色々あれど、とりあえず今現在一番の疑問はそれだ。どうして、執事なんかやってるんだろう。どうして、何の縁で、クラスメイトがこのお屋敷にいるの。

「……だから何」
「…なんでここにいるのかなって」
「お前に関係ねぇだろ」
「………」
「……お前の部屋」

そう言われて顔を上げれば、そこはたしかに昼間みたあたしの部屋の前だった。どうやらさっきは逆方向に進んでいたようだ。ふと何気なく隣に視線をうつせば、豪華な装飾が施された扉とは対照的なシンプルな扉が少し離れたところにひとつ。昼間案内されたときには気付かなかったけれど、きっとあれが小木の部屋なのだろう。何はともあれようやく部屋に辿りつけた安堵感にほっとしていると、一匹狼はまた何も言わずにさっさと歩き出してしまった。

「小木っ」
「………」

呼びかけても返事はないけれど、代わりに歩くのをやめてこちらを振り返る。さらさらの黒髪、よく見ればなかなかに整った顔立ちはこのお屋敷にはぴたりとハマっているけれど、あたしからすればそれでもただのクラスメイトだ。隣の部屋ということは少なくとも小木はここに住んでいて、これから毎日顔を合わせることになるんだろう。家にも学校にもクラスメイトが同じ空間にいるなんて漫画のような展開だ、想像しただけで苦虫を噛み潰したような気分になる。嫌だけど、すごくすごく憂鬱だけど。

「…ありがと」

筋通すとこで通さないのは、あたしが許せない。現実なのだから仕方がないし、向こうだってきっと望んだ展開ではないだろう。小木だけに不満をぶつけるのは筋違いだし、たぶんそれは間違っていることなのだ。少しだけぶっきらぼうに出てしまったあたしの言葉に小木は少し目を見開いて、でもすぐいつもの表情に戻ってくるりと背を向けて。

「……明日は迷うなよ」

ただ一言、淡々とそう告げて小木は今度こそ去っていった。角を曲がって見えなくなったその背中を見やってから、あたしもようやく部屋へと入る。途端かわいい鳴き声をあげながら、ゆずとさくらが駆け寄ってきた。

「ゆず、さくら」

求められるがまま、ごろごろと喉を鳴らす二匹の顎を撫でさする。気持ちよさげに目を細める可愛い家族に、思わず口元がゆるむあたし。一通り撫でまわして寝室へと繋がるドアを開ければ、静謐で広い空間に置かれた真っ白な天蓋付きのベッドを、月明かりが静かに照らしていた。電気つけなくても月明かりで明るいなんて、なんだか少し幻想的だ。本当に、おとぎ話の風景に思える。眠気に誘われるようにぼすんとベッドに倒れこめば、真っ白な上質のシーツがなめらかに肌へとなじんで沈んだ。

無理だと思っていた。 生活様式もルールも常識も、今までとは180℃違う世界。慣れるのだって時間がかかるだろうし、おまけに執事の一人がクラスメイトという嬉しくもないオプション付きだ。誰もそんなの望んでないし、覚えていかなくてはならないことだってこれからたくさん出てくるのだろう。
だけど今日、お屋敷にきて。お屋敷の人たちと話をして。不安要素はまだまだたくさんあるけれど、心のどこかでぐるぐると渦巻いていた心配の種は少しずつ減っていっている。色々あると思うけれど、だけど、頑張れないほどじゃない。それが分かって、少し、安心した。

「おやすみ……」

寝ころんだあたしのそばに飛び乗って毛づくろいを始めた二匹の家族に口元をゆるめながら、ゆっくりと目を閉じるあたし。雲間からのぞく真っ白な月が、大きな窓とレースカーテンからこちらを見下ろす。緊張と気苦労の連続であろう新生活の初日に、あたしはようやく幕をおろしたのでした。

(続く)

戸田さんの一つ星

戸田さんの一つ星

新しい家、新しい家族、新しい生活。天涯孤独の女子高生の新たな家族は、お人好しな若社長と、500人の使用人がかしずく豪華絢爛なお屋敷だった!セレブな青年と庶民な少女、その他愉快な仲間たちのゆるいお話。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-19

Copyrighted
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  1. 第一話
  2. 第二話