親切な人
1
目の前を猫が通った。毛並みのいいロシアンブルーだ。数メートル先で僕を訝しめな目で覗きながら、音も立てずに物陰に隠れた。
周りは何が入ってるかわからない背の高いビルが立ち並び、路地裏に置かれたゴミ箱からは野菜が腐った匂いが鼻の奥を不快にさせる。
時折建物内から聞こえる声は、えらくでかい怒鳴り声であったり、丁寧な接客の声であったり様々だが、関心を引かれるようなものはない。
夜の街は昼間に比べればそれはもう静かになりつつあるが、それでもまだ街に慣れない僕にとってはうるさいものに違いはなかった。
田舎から引っ越してきて、ようやく落ち着いたのが今日だったので、街へと繰り出したものはいいが、地理もわからなければ知り合いもいないこの街は、賑やかではあっても僕に安心を与えてくれるものはないように思える。
唯一の友人は用事があると言って取り行ってもらえなかったので、仕方なく一人で夜の街を散策してる次第である。
ふと目の前に妙な建物が目に入った。平らな地面に建てられているのに、何故か斜めに傾いているのだ。建築者がどんな意図があってこのような出で立ちにしたのかは検討もつかないが、確かに目を引くものはある。
建物の前には派手な装飾を施した看板が立っている。紫色やピンクや黄色などを使った電飾が散りばめられ、いかにもソッチ系の店にありそうな看板だ。立地もビル群に囲まれて方向を見失いそうな路地にあるので、より一層そう感じてしまう。
-二度目のご来店はご遠慮ください-
なんだこれは。素直にそう思ってしまった。
こんなことを堂々と看板に書かれては気にならずにはいられないじゃないか。
どうやらこの建物は店のようだが、何をやっている店なのだろうか。
まず頭に浮かぶのは風俗店。だが二度目のご来店はご遠慮くださいってのは理解が出来ない。
風俗と言ったら気に入った女の子がいれば、その子に会うために足繁く通い、金を落としていくような所ではないだろうか。
だとしたらこの看板は営業をプラスに変えるような効果はないはずだ。
しかしそれは他の店をやっている場合も同じことを言えるのではないだろうか。
どんな店でも固定客が付けば嬉しいものだし、売上も上がる。
それを拒むというのはどういう了見なのだ。
気になる。
気にならずにはいられない。
周りには人影は見えない。
目に入るのは、奇妙な建物とその看板、吹き溜めのようなゴミの山。それを漁る猫やカラス。
今僕を見てる人はいない。
一歩。
足を踏み出す。
扉には馬の蹄鉄が掛けられており、物々しい雰囲気が漂っている。
見た目はこのご時世に珍しく木造建築のようだ。いたるところに苔が生えていたり、木が腐って変色している部分もある。
築何十年は経っているだろうこの建物に入ることは普通の人ならば躊躇するが、僕は違う。
昔から好奇心旺盛で、よく親に叱られたものだ。
気になったものはそこに近寄らずにはいられない。
押すなと書かれたスイッチは押してしまうし、水たまりの前で立っている友人を突き飛ばしたり、人がセーブせずに進めているRPGをリセットボタンを押してこっぴどく怒られるなんてことは日常茶飯事だった。
扉を手前に引く。日本は他人を招くために扉は内開きが多いそうだが、外国では不審者を家に入れさせないために外開きらしい。
とするとこの店は後者になるが、おそらくそんな事を気にして店に入る人はそうそういないだろう。
中に入ると、まずお香の匂いが鼻をつく。若干きつめの香りなので、鼻で息をするのが億劫になる。
中は暗く、窓も遮光カーテンで閉められているようだ。唯一の明かりは僕が明けた扉から入ってくる夜の街の明かりだけだ。
室内はそれほど広くはなく、十帖くらい。商売をするには狭い。
部屋の真ん中にテーブルがあるのが分かるが、何が置いてあるのかまでは分からない。
扉をゆっくり閉めると、部屋は当然暗くなる。真っ暗だ。
自分が存在しているかも疑わしくなるほどの暗闇になった。
ポツリと明かりが灯る。
部屋の真ん中にあったテーブルの上には一本の大きなロウソクがあった。
金色の台座に立てられ、自らを炎で溶かしながら燃え続けるロウソクの周りには、小洒落たアンティークな置物がいくつか置いてある。
目が慣れてきたので周りを見渡すと、壁にもアンティークな時計やら写真やらが掛けられている。
「こんばんは」
唐突に聞こえてきた声。声色だと老婆の声だ。しゃがれた声で、一気に心に不安が突き刺さる。
そういえば僕はこの店に入って一言も喋っていなかった。もっと言えば家を出てから喋ってなかったのだが。
さすがにこれは失礼だと思い、一言返す。
「こんばんは」
久しぶりに声を発したからか、少し震え気味だが気にせずに部屋を見渡す。
するとロウソクの先にさっきまでは何もなかった空間に、誰かがいるのがわかった。おそらくその人が声の主であろうことは容易に想像できる。
「お初にお目にかかります。この店は始めてですか? 初めてですよね。二度目はないですからね。それにしてもよく見つけましたねえ。どうやら見たところ若いようですが、歳はいくつですか? 普段は何をなさっておいでで? ああそうだ、久しぶりのお客さんですからお茶を淹れなければねえ。なにがいいですか? 紅茶? コーヒー? ホットミルクなんていかがでしょうかねえ?」
僕の言葉を待たずして、どんどん話が進んでいく。全く会話にはなっていないのだが、僕は目の前に出されたホットミルクから出る湯気を見ながら、再び最初の疑問に戻る。
結局はなんの店なのだろうか。少なくとも客の意見を聞かずに飲み物を出してくる喫茶店に出会ったことはない。そのホットミルクに値段がつくのかなんてことはどうでもいいことだが、とにかく疑問ばかりが増えていく。
「どうぞ良かったらこの椅子に座ってください。あ、ホコリが溜まっているかもしれないから拭きますねえ。少々お待ちください。大丈夫、立ったままミルクを飲んでもお行儀が悪いなんて思いませんからねえ。」
それにしてもよく喋る老婆だ。服は薄汚れて、魔女のような格好をしている。杖こそ持っていないが、シワの寄った顔や手の甲、頭のてっぺんからつま先までを隠す大きなローブを着ているその姿は、現代に蘇った魔女そのものだ。
サッサッ、と椅子の上を乾いた雑巾で拭いた跡に、どうぞと椅子を引かれ、言われたとおりにおとなしく座る。
目の前のホットミルクの入ったマグカップに目を落とすと、それもまた汚れているのは言うまでもない。
「ところでお婆さん。このお店はなんのお店なんですか? 店の前には不思議な看板がありましたし、こうやって中に入ってみても特別な道具があるわけでもないし、何かを経営している気配が感じられません。強いて言うなら周りに置かれているアンティーク雑貨を見せ物とする美術館のようなものなんでしょうか?」
僕は老婆に習い、矢継ぎ早に質問をする。老婆は気にしたような様子はない。
「それはすぐに分かります。このお店は二度と来ることが出来ないお店なのです。一期一会、私を二度見た人はいないんです。何故ならば・・・いや、これは説明しても意味のないことなのです」
少し悲しそうな表情をした老婆だが、そんな事を言われると気になるにきまっているじゃないか。
「いえいえ、本当に意味のないことなのでねえ。そんなことよりお客様。この店の役割というのはですねえ、聞きたいですか? 聞きたいですよね?」
今一番気になっている疑問だ。そうだ、それが一番聞きたい。さっきの事を忘れ、老婆の声に耳を傾ける。
「ここは、そうですねえ、これから変革を求める人が立ち寄る場所なんですよ。とは言いましても、これまでに来店されたお客様は両手両足の指で数えられるくらいしかおりませんけどねえ」
老婆はさらに続ける。
「とにかく今からあなたの世界は一変します。それはあなただけが気づくでしょう。もしかしたら二度と普通に生活できることができなくなるかもしれませんねえ」
下卑た嗤いを浮かべ老婆は自分用に淹れた紅茶をズズズとすする。
さて、僕は変革を求めているのだろうか。変革と言っても様々だが、ここで言う変革とはつまり、僕に何らかの事象が起きることだろう。老婆の言葉を信用するならそれで間違いないはずだ。
だが僕は明確な変革を求めてこの店に立ち寄ったつもりはない。それとも心の何処かでは、どう思っているところがあるのだろうか。僕自身それは分からない。
老婆はテーブルの下から埃の被った球体を取り出す。それをまた乾いた雑巾で磨き、ロウソクの隣に置いた。どうやら水晶体のようだ。磨かれた水晶はロウソクのゆらゆら揺れる炎を写しだし、僕と老婆の顔を歪ませている。
老婆の風体、そして水晶。なにやら怪しい店に入ってしまったというのは最初から思っていたが、いよいよ胡散臭くなってくる。これでは時代錯誤も甚だしいただの占いババアのようではないか。
「よおくこの水晶を見ていてくださいねえ。あなたは気づいたらここにはいません。おそらくこの店も二度と見つけられないでしょう。もし見つけたとしても、二度目のご来店はご遠慮くださいねえ。私はきっとそのときあなたに何もしてあげられませんからねえ」
水晶に両手をかざし、目をつぶる老婆。僕は怪しみつつもこれから何が起きるのだろうと、内心期待を隠しきれずに水晶を見つめる。
水晶に映るロウソクの火が僕の心を揺さぶっていく。なんとも言えない不安が胸をよぎった。
瞬間、僕の目の前がブラックアウトした。一体何だ。僕は深い海に沈んでいくような感覚に陥る。
周りを見ても暗闇ばかり。もちろん老婆の姿などもう見えはしない。聞こえる音も何もない。どういうことだ。僕はどうなってしまったんだ。
どんどん沈んでいく体を自由に動かせない。もがけもしないこの体に苛つきと大きな絶望感が襲ってくる。
ただただどうすることも出来ず深い海に潜る最中、視線の先を小さな光が見えた。小さくか細い光だが、それだけでも僕は安心した。
やがてどんどん光は増えていった。真っ白な光、緑色の安らぐ光、青い落ち着いた光、黄色の活発な光、暴走しそうな赤の光、そして暗闇の中で更に黒く光る光。
大きさや色は様々だが、その光たちはどんどん僕の視界を埋めていく。白い光を目で追いかけていく。旋回しながら近づいてくる白い光が僕の目の前にたどり着いた時、一瞬にしてその光は消えてしまった。
周りを観察する。どうやら黒い光が他の光を飲み込むように消してしまっているのだ。消えていく光を何もせずに眺めるだけだが、なぜだか無性にやるせない気持ちが沸々と湧き上がる。
黒い光は他の光をあっという間にすべて飲み込んでしまった。標的をなくしたように佇む黒い光が、ようやく次の標的を見つけたのがわかった。僕だ。
ものすごいスピードで僕の方に近づいてくる。新幹線を真正面から見たらこのように感じるのだろうか。圧倒的な存在感と、明確な敵意を放っているのがわかってしまう。
すぐに距離を縮めた黒球が眼前に迫ると、僕の体を飲み込んだ。暗闇の更に深い暗闇に飲まれる。
僕は考えることをやめた
2
気づいたら、僕が引っ越してきた狭いアパートに寝転がっていた。
六帖ほどのリビング兼寝室と、申し訳程度のキッチン、そしてユニットバスと、最低限のものしかないアパートだ。
電気家具は冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機と、必要な物はある程度揃えておいたので問題はないだろう。冷蔵庫の中身は空のままだが。
体を起こす。気怠い感覚と立ちくらみで、少し気分が悪くなる。少し換気しよう。
なんの変哲もない窓を開け、外の空気を目一杯吸い込む。綺麗な空だった。
時刻は正午手前くらい。窓から見える空は雲ひとつない青に染まっていた。日差しも強いが、そよ風が吹いているので過ごしやすい天気だろう。
さて、僕は昨日のことを忘れてはいない。
あの後どうやって自宅に辿り着いたのか全く覚えていない。黒球に飲まれてからの記憶がないのだ。
考えられるのは、昨日のことがまるっきり夢だったということだ。家を出て街の散策という名目で、斜めに立てられた奇妙な家に入り、老婆の言葉に耳を傾け、深い海のような場所でもがき苦しんだことまでの全てが夢だったんじゃないだろうか。
しかし僕の体はあの異質な空間の感覚を全て覚えている。どうやっても抜けれないあの深い海や、そこに群がるきれいな光の数々、そして黒球。
普通に考えればあんなものは全て夢としか考えられない。だがなんだろう、心の何処かでそれを受け入れられない僕がいる。
昨日のことは全て本当で、老婆の言ったことも全て本当だったとしたら・・・。
-ここは、そうですねえ、これから変革を求める人が立ち寄る場所なんですよ。とは言いましても、これまでに来店されたお客様は両手両足の指で数えられるくらいしかおりませんけどねえ-
-とにかく今からあなたの世界は一変します。それはあなただけが気づくでしょう。もしかしたら二度と普通に生活できることができなくなるかもしれませんねえ-
ふむ、思い出してみても僕の世界が変わったようには感じられない。目に見えるものは、最近越してきたばかりなので目新しい物ばかりだが、それでも僕の世界は変わっていない。
やはりあの言葉は嘘だったのか?
ピンポーン
僕の部屋のインターホンが鳴った。
そうだ、昨日友人と連絡をとった時に、明日案内してやるって言われていたことを忘れていた。結局待ちきれずに家を飛び出していたわけだが。おそらくインターホンを鳴らした主は友人だろう。
僕は急ぐ素振りも見せずにゆっくりと玄関まで歩き、扉を開けた。
「昨日はすまんね、どうしても外せない用事ができちゃってさ」
扉を開けた先には、予想通り友人が立っていた。申し訳無さそうな表情を浮かべ、頭を搔きながら謝っている。
「いや、いいよ別に、とりあえず中に入りなよ」
なおも謝り続ける友人を制し、中へと招き入れる。
「しっかしなんもねえなこの部屋。生活していけるのかお前」
さっきまでの態度は何だったのか。僕の部屋を見るなり悪態をついてみせる。
僕と友人は小学生の頃からの知り合いで、まあ、言ってみれば腐れ縁というやつなのだろうが。僕が大学に通っている間に彼は上京し、一人働いていたので、こうして顔を合わせるのは一年ぶりくらいだ。
髪の毛は短く、清潔感が見て取れる。服もジーンズにTシャツとラフな感じだが、彼は昔からファッションだとかそういうものには興味がなかったように思える。
僕と話すときの友人はとにかく適当なのだ。知らない人から見れば不真面目そうな印象を受けるくらい適当だ。
「そういえば聞くのを忘れていたが、どうして悟はこっちに引っ越してきたんだ?」
今更になるが、僕の略歴を説明しよう。
名前は遠野悟。年齢は22歳の大学卒。就職先が見つからず、今年の春から都会へと引っ越してきたはいいが、やりたい仕事も無い為、とりあえず友人に頼ろうと思ったわけである。
通っていた大学は、地方都市の地元では有名な大学ではあったが、就活が上手く行かず、結局こうして途方にくれているわけである。そういう意味では老婆の言う変革を求めているという部分に関係するのかもしれない。今の僕は所謂ニートなのだから。
現状を友人に説明すると、少し悩んだ素振りを見せたが、一変して明るい顔を僕に向けた。
「なんとかなる。大学出てるんだからそれなりのとこには入れるっしょ。高卒で仕事出来てるんだから、お前に出来ないはずはない! この樹が保証する!」
声を大にして発言する樹。フルネーム今野樹。
高校時代には他の人達に、お前ら遠いのか近いのかはっきりさせろよとからかわれたものだが、それも今となってはいい思い出だ。
親切な人