あかずの間
この世にはアンビリーバボな事実が厳然と存在する。
信じられない恐怖
開かずの間
旅行計画
河上英昭は仕事の後片付けをしながらふと横にいる妻を見た。そして今日も無事一日が終わったことに安堵すると、ある計画を話す決意をして帳場に上がった。
その計画とは・・・・。
数日前のことだった。
「よう、遅くなったが待ったか?」
「いや、それほどでもないさ。俺も数分前に来たばかりだ」
高校当時の級友である浦部をレストランの駐車場で見つけ、河上は車から降りると近寄って声をかけた。
「いよいよ、俺たちの旅行話が現実的になりそうだな」
「ああ、やっとここまで漕ぎ着けた感じだ。それにしても河上、お前も大学を出てせっかく地方公務員になったのに、それを思い切って辞めて商売とはすごい決断だな。で、景気はいいのか?」
「ぼちぼちってとこかな。しょせん公務員といっても腰かけだったからな。元々俺は警察官が夢だったんだ。しかし色々な事情でそれも潰えてこのありさまだよ。まあ、いまさら何を言っても愚痴になるが、思えば無念極まりない人生さ」
浦部の車に寄りかかり、河上は自嘲気味にそう答えた。
「ところで、三平や市河は来るだろうな?」
「昨夜の内に改めて確認しておいたから大丈夫だろう。三平は地元だから時間はかからないが、市河はやはり山越えだからここまで三十分はかかるかも」
「そうか、じゃあ旅行の件はやつらが揃ってからにするか」
河上はそう言って腕時計を見たが、そのすぐ後に駐車場に入って来た市河の車を確認して笑みを浮かべた。
「市河が来たようだ」
「よう、ちょっと遅くなってしまったが、待ったか?」
「いや、俺も浦部も来たばかりだよ。ただ、三平がまだ来ないんだ」
「いいさ、とにかく中に入って待とうか。席にいれば奴だってすぐ分かるだろうし」
市河の一言で三人は店の入り口に向かった。
店内は夕食時で混雑していたが、窓側の席に進むと河上と市河が並び、対面に浦部が座る格好になる。
「そろそろ七時になるが、三平の奴まさか約束を忘れたわけじゃないだろうな」
浦部がぽつりと呟いた。
「約束では、七時までにここに来いと言っておいたから大丈夫だろうさ。それに都合悪くなったら俺の携帯に電話をよこすはずだからな」
数日前、彼と電話で話した事実を河上は二人に告げ、タバコに火を点けると美味そうに紫煙を吐き出した。
この旅行話は、河上と浦部が偶然駅前で出会ったことから始まっていた。
普段は高校当時の友人なんてその存在自体がすっかり忘れ去られ、例え記憶にあったとしても、どこか頭の片隅に追いやられているのが現実だった。
地元に就職した者、故郷を離れ都会へと旅立った仲間、それらの実態は人の数だけ生き方があって当然なのだが、ふとした偶然で何年かぶりに再会した時など、その懐かしさは大きな心のなごみを感じさせたのである。
「しかし、この話が河上と浦部の再会がきっかけとは意外だったな」
「そうなんだ、駅前で偶然出会ってな。卒業以来何年かぶりだし、実際驚いたが懐かしくも感じたよ」
市河の問いかけに河上はそう答えた。
「だけど浦部よ、観光バスの添乗員って結構楽しいんじゃないのか?」
「いやいや、それが色々あってさ。まあ、すべてがいい客ばかりじゃないからな。実際は相当に神経を使うもんだ。だから旅が終わると疲労感でがっくりくるよ」
「しかし、バスに乗って有名な観光地へのただ旅行だ。さらに上等のホテルで美味い料理に舌鼓とくりゃあ、もう言うことなしだろうに」
市河が冗談めいた表情で揶揄した。
「ああ、確かにそれは言えるな。これまでにも国内では色んな場所に行ったし、それなりにホテルの良し悪しとか旅行自体のノウハウを得たのは事実だ。そして、結構地理にも明るくなったから、あの会社に入ってのメリットはあったが」
二人の会話を河上は黙って聞き続けた。
「でも、そんなに色んな場所へ行ったら、今度の旅行でもかえって候補地と宿の選定に頭を悩まさないか?なんてったって、泊るところが見つからないと始まらんからな」
宿の話題に変わった瞬間、それまで黙っていた河上がそんな疑問を浦部にぶつけた。
「なぁに、それだけ選ぶ楽しみが増すっていうものさ。ただ、心配は時期が夏だということだから、はたしてホテルや旅館のリザーブが今から取れるかなと、そのことだけが少し懸念されるんだよ」
「やはり、夏は難しいのか?」
「そりゃあそうだ。何といっても夏は開放的だから、どこの避暑地や観光地もにぎわって当たり前だよ。恐らくは八割がた満室だと思って間違いない」
浦部は二人を見て答えたが、それを聞いた河上はきっと空室が取れてもそこは無名な温泉地か、またはキャンセルの穴埋め的なラッキーな出来事かもしれないと、気落ちしたまま横にいる市河の言葉を待った。
「まあ、色々調べてそれが不可能だったら、仕方ないから今回は潔く諦めて又の機会にしようぜ、夏がだめなら秋でもいいしな」
「だけど河上よ、夏を逃すとなかなか互いの都合もままならないだろう。実際のところ、俺にしてみれば可能な限りやっぱり夏期休暇の取れる八月がいいんだよ」
「うん、それは市河の言う通りかもしれん。確かに俺は仕事でいつでも行けるが、お前たちはそうはいかんだろうからな。三平にしたってやっぱりこの時期がいいと思うぜ」
浦部は二人の話を聞くと自信ありげにそう言い切った。
それは河上も同じであった。飲食店を自営するがゆえに、夏は常連客以外にフリー客が結構入るのも見逃せなかった。そんな理由もあって、もし可能ならば旅行は秋の方がかえって良かったのかもしれない───。
河上自身、この話が出た時は本心からそう願っていた。
「とにかく、三平が来たら改めて意見を出し合えばいいだろう。その結果、全員が納得したら浦部に一任して目的地を決定してもらう。それでいいんじゃないか?」
言い終えて河上は二人を見たが、それに対する答えは持ち越しということになり、改めて三人は入口に視線を向けながら三平の到着を待つことにした。
*
レストランに入って既に二十分が過ぎ去った。テーブルにはそれぞれがオーダーした飲み物がぽつんと置かれ、二度ほどウェイトレスがオーダーを取りに来たが、やはり料理はもう少し待ってほしいと伝えた。
しかしそれもそろそろ限界に思えると、仕方なく何か軽いものでも頼もうかとメニューに手を伸ばしたその時、市河が「おう、三平がやっと来たぞ!」と小さく叫び、河上と浦部は同時にレジの方向を見つめた。
ドア近くに立った三平は浦部の挙げた手に気付いたのか、幾分照れくさそうな表情で三人の座るテーブルへ近寄り、「悪かったな、ちょっと子供の具合が悪くて・・・」と、言い訳しながら席に着いた。
「子供の具合?」
「ああ、どうも夏風邪らしく熱があるし咳も少し出る。だから近くの内科医に連れて行ったもんで、ここに来るのが遅れてしまった」
「それは心配だな」
市河が声を掛けながらグラスに手を伸ばした。
「確か今日は旅行の話だったよな?で、ある程度は決まったのか?」
「ああ、大体のところはな。ただ浦部が言うには、夏だから果たして宿が取れるかどうかが一番の問題なんだと言って、それが当面の懸念材料になっている」
河上が答えた。
「そうか、夏はどこでも混むからな。もし旅館が取れなかったらこの話は持ち越しということになるのか?」
「その可能性もいま話していたんだよ。でも三平、お前は本当に今年の夏でいいのか?仕事の方の段取りは大丈夫なのかよ」
「ああ、それは何とかなると思う。まあ、河上のところみたいに食べ物商売とは違うから、在庫云々の心配はない分だけ気が休まる。それに従業員にとっても夏休みならばいい休養になるだろうし」
「そうか、そういえばお前のところは二人使っていたっけな」
浦部が三平を見て言ったが、実行は二ヶ月も先のことゆえ、バスの添乗経験のある浦部に全プランを一任することで話は終わった。
その後は夕食を楽しみ、一時間後に二人と別れて家へ戻った河上は、いつになく心が満たされている喜びに浸り、数日経ったある夕食時にその旅行計画を妻に話そうと口を開いたのである。
「実は今度、と言っても夏になってからの話だが、友人三人と泊りがけの旅行を計画しているんだ」
「あら、旅行ですって?それっていつ決まったんですか?」
「大分前だが、浦部とばったり駅前で再会してな・・・。立ち話しだったが昔の仲間と旅行しないかという話になったんだよ」
「浦部さんと二人で行くの?」
「いや、市河と三平が加わる予定だ。場所は未定だが三平の車で行くことになる。経費は当然すべて割り勘ということに決まったし、楽しみにしているんだ」
「そうなの、まあたまには息抜きもいいじゃない。思い切って行ってらっしゃいよ。お店は当然二、三日お休みでしょうけどね。でも予定は何日くらいなの?」
「計画では二泊して予算は一人五万程度、経費は当然ながら割り勘だ。実施は八月の盆過ぎで、出発は八月の十六日の夜にした。十七、十八と泊まって戻るのは十九日の午後になるだろうな」
河上は妻を前にしてそんな計画内容を淡々と語った。
高校卒業以来、それぞれ違う道を進んだ仲間ではあったが、やはりどこか波長が合うのだろう、再会すれば昔のように意気投合し、学生当時の喜びに話が弾むのは自然の成り行きであった。
「肝心の場所は未定っていうけど、希望はあるの?」
「まあ、特別ここに行きたいという訳ではない。さいわい浦部は関南バスの観光添乗員だし、安くていいホテルか旅館を知っていると思うんだよ。要するに男四人で息抜きが出来ればいいんだからな」
普段は仕事に追われる毎日である。ましてや田舎での娯楽なんてたかが知れており、男盛りの人生において年に一度位は命の洗濯をするのも悪くないはずだ。そんなプラス思考が河上の人生哲学でもあった。
「なんだか話しだけ聞くといい加減な旅行みたいね。でも、男同士なんてやはりそんなファジィな生き方がいいのかもね。ふふふ」
「確かにそう思われても仕方ないな、それでも先日四人で食事しながら真面目に相談したんだよ、その結果として一つだけある問題が起こってしまった」
「何なの問題って?」
「うん、浦部によれば旅行の時期が夏だから、下手すると泊まれないかもしれないって言うんだ。観光地は大体が避暑客で満室状態らしい。もし色々調べてだめなら秋にずらすしかないって、そんな話に一応はなった。まあ、それだけが唯一不安として残っている」
「そうねぇ、確かに夏休み中はどこも混雑するでしょうから、宿の問題は必然的に生じて当たり前かもね。日本中の大多数の人達があちこち移動するんですもの」
「まあいいさ、仮にだめなら秋に変更してもいいよ。行楽の秋って言うし、それも違った意味で楽しいかもしれない。要するに実現すれば良しと言うことだからな」
「でもあなた、もし浦部さんの言う通り予約が取れなかったら、思い切って叔父さんのホテルを借りたらどう?」
「えっ、叔父さんホテルを借りる?」
妻の突然の提案に思わず河上は驚いて聞き返した。
叔父というのは母の妹の旦那であり、河上には血縁がなかった。
現在は還暦を過ぎ、幾ばくかの年金を貰いながら暇つぶしで雑貨店を営むという、まさに悠々自適の日々を過ごしているらしいと、そんな話を河上は思い出した。
それでも数年前には伊豆山中でリゾートホテルを経営し、当時としては珍しいアスレチック施設を作ってかなり繁盛したらしい。しかし元々が放漫経営だったのか、それとも叔母の事故が原因になったのか、ホテルは数年前に廃業してしまったとも聞いた。
「しかし、あのホテルに泊まれるかなんてまったく分からないぞ。それにいま現在建物自体が残っているかどうかも疑問だからな」
「あら、建物はまだそっくりしているって、いつだか叔父さんから聞いたわ。だって壊すのに何千万も掛かるからそのままにしてあるって、電話でぼやいてたもの」
「それは知らなかったな。まあ、その話は浦部からNGだって連絡があったら真剣に再考するよ。まして俺一人じゃ決められないからな。とはいえ候補案としては悪くないが」
「でも、その前に閑を見て叔父さんに電話したらどう?そして、現状を詳しく訊いてみたらいいのよ。まずは現実をしっかり認識しなけりゃ始まらないもの」
「そうだな、叔母さんが事故で亡くなってから数年は経ってるし、ホテルを閉めたという話を聞いてからも三年近くなるはずだ。長い期間未使用状態ということならきっと中は荒れ放題かもしれないが、突然行って使えるかどうか聞くだけでもいいかも・・・」
友人との旅行プランを妻に話したことで、思いもかけない案が飛び出したが、河上は内心それも悪くはない話だと思った。そして妻との会話を終えると残ったお茶を飲み干して立ち上がり、日課にしているウォーキングの支度へと取り掛かった。
目的地の決定
数日後、妻から母が法事の件で叔父に電話するらしいと聞いた河上は、早速洗面を済ますと母の部屋を訪れた。
「母さん、叔父さんに電話するんだって?」
「ええ、静子があんな死に方をしてもうこの秋には三回忌なのよ。肉親だった妹の供養だけは残された者の義務と使命だもの、ちゃんとしてやらないとね」
「そうだな、確かに崖から車ごと落ちるなんて、ちょっと叔母さんらしくないし、あんな死に方すれば死者はなかなか成仏出来ないらしいよ」
「あら、お前ってそんな事を信じているのかい?成仏だなんてわたしは信じないけどね」
「じゃあなぜ法事なんてやるのさ、死んだ者の冥福を祈るからするんだろ?それなら霊を信じている証拠じゃないか」
「そうかしら?ただ、仏の供養はやはり生きてる人間としての務めだし、霊魂云々とは別の意味合いがあるのよ。わたしの考えは人間なんて死ねば全て灰と化して終わり、そう思っているわ」
「それはおかしいよ、やっぱり霊って存在するんじゃない?著名人が幽霊に遭遇したとかよくテレビでやっているじゃないか。俺は目に見えない世界をやっぱり信じるし、科学では絶対解明不可能なモノといくらだってこの世にあるもの」
母は息子のそんな口調に反論する気勢を失ったのか、黙って見返すだけだった。
「まあいいわ、人にはそれぞれ考えはあるものよ。親子だって夫婦だってそれは侵せない人間だけの神聖な思考だからね」
「そういうことだろうね、信念は人によって違うから仕方ないか。まっ、とにかく叔父さんへの電話は俺からするよ、ちょっと他に訊きたいこともあるし」
「そうかい、じゃあ頼もうかね。まだいつ行うかは未定だけど、秋頃にはするからと伝えといておくれ」
「ああ、分かった」
母の部屋を出た河上は一旦帳場に戻り仕込みの下調べに入った。そして買う物をメモするとポケットにしまい、目の前の電話を掴んで叔父の家の番号を押した。
コール音を聞きながら、ふと河上は母との話に出た叔母の死を脳裏に過ぎらせたが、それは言葉にするのもはばかれる無残な事故だった。
ゆるい左カーブを曲がりきれず、勢いよくガードレールを突き破った叔母の車は、三十メーター下の岩場へと落下した。恐らく岩に叩きつけられると同時に出火したのだろう、車で通りかかった目撃者は、崖下から激しく燃え上がる火柱を見て、初めて車の転落事故だと知り、慌てて警察を呼んだと証言したのである。
引き上げられた車中から叔母は真っ黒な焼死体で発見されたが、車内に日は本酒の五合瓶が転がっており、その事実から酒酔い運転によるハンドルミスでの落下事故と警察は結論付けた。
叔父から連絡を受けた河上は母と妻を乗せて急ぎ伊豆へと向かった。真っ先に現場に着き、車のパーツらしきものが散乱しているのを見て背筋を凍らせたが、その場で合掌し、叔母の冥福を祈って葬儀を済ませ帰路に着いた。しかし、その時の悲惨な記憶は数年経った今でも、まるで昨日の事のように河上の脳裏に留まっていた。
「松江川だ」
「叔父さん、しばらくでした。わたしです英昭です」
「おう英昭か、元気かい?」
「ええ、まあまあです。叔父さんも声から察するに元気そうですね」
「なぁに、いつものから元気だよ。最近はめっきりあちこちが老化してな、医者通いも多くなったのが現実だ。歳には勝てんな、あははは」
言葉では否定していたが、口調は元気な様子を窺わせた。
「ところで今日のこの電話ですけど、叔母さんの三回忌の件なんです。確か命日は八月の十八日でしたね、でも法事は住職の都合で秋口まで待ってほしいとのことですから、多分九月の中頃になると思います。それに、母がやはり菩提寺がこっちにあるので、是非ご足労願いたいと言ってますので」
「そうか、もう三回忌なのか。いやすっかり忘れていたよ。静子のことは一日たりとも忘れるわしではないが、歳月の経つのは早いものだな。色々面倒をかけて申し訳ない」
「いいえ、そんなことはありませんよ」
「本来ならこっちでするべきなんだろうが、わしにはその気力もないからなあ」
「母が心配しないでと言ってますので、安心して任せてください」
「ああ、よろしく頼むよ」
河上は一番先に大事な用件を伝え、それが済むと改めて自分の用事を口にした。
「ところで話は変わりますけど、以前叔父さんの経営していた伊豆のホテル、あれって今はどうなってます?」
「ホテル?あのホテルが何か気になることでもあるのか?」
「いえね、今度友人達と旅行しようと計画しているんですが、もし前のように使えるようなら二泊程度なんですけど、是非貸してもらえないかと思って・・・。ダメですか?」
「あれはもう閉めてから三年近く経つからな。だがそれ程中は荒れてはいないと思う。ついこの春先にわたし自身が行き、あちこち見て回ったから、使いたいなら自由に使っていいさ。でもいつ頃なんだねその旅行って?」
「それが八月のお盆過ぎで、具体的には十七日から二泊三日の計画です。つまり十九日の午後には帰って来る予定なんですよ」
「と言うことは、泊まるのは十七日と十八日の二日間ということか。いいだろう、好きに使って構わんよ」
「そうですか、それは助かります。でも、電気や水道なんてどうなってます?まだ使えるんですか?いや、そんな訳はないですよね、三年間近くも未使用なのに基本料金を払うのは無意味でしょうから」
「いや、時々わしや昔の知り合いに貸すこともあるから、ライフラインは今も使えるようにしてあるんだ。それに温泉も出るしな」
「それはすごいですね、じゃあいつでも利用は可能ってことですね」
「ああ、常時使えるから心配はいらんさ。だが、ホテルが嫌なら別の施設って手もある」
「別の施設って言うと?」
「なんだ、もう忘れたのか。ホテルから僅か数キロの所にこしらえた、わしと静子の自宅を兼ねた別荘だよ」
「ああ、そういえば確かにありましたね」
「そこなら完璧に使える。わしは今でも気が向くとのんびり休養を兼ねて泊まりに行ってるからな、まず何の問題はないはずだ」
「じゃあそこを借りようかな、でも本当にいいんですか?」
「うん、自由に使っていいさ、お前の頼みだからな。あははは」
河上の申し出に叔父の健三は快く承諾してくれたが、詳しい話は具体化した時改めて連絡するからと電話を切った。
それもまだこの時点では本心から借りるなんて真剣に思わず、河上はスペア的な意味で心しておけばいいくらいの認識に留めておいた。
*
「あら、もう話は終わったの?」
突然背中から声を掛けられ、驚いて振り向くと母が立ったまま見つめていた。
「ああ、ちょうどいま終わったよ」
「で、どうなの健三さん、出てくれるんでしょうね?」
「うん、快く了解してくれたよ。それにもう三回忌かって、何だか感慨深そうだった」
「そうね、静子は健三さんと大恋愛の末に結婚したんですもの。それがあんなことになってしまうなんて人生って本当に皮肉なものね。でも、今にして思えばつくづく子供が一緒に乗ってなくて良かったと思うわ」
「うん、確か健二は塾に行き、真理子は風邪で寝込んでいたらしかったからね。でも叔母さんはどうしてあんな時間にあの場所を車で通ったのだろうか。方向からいってもホテルへ帰るところだったのは間違いないみたいだけど。叔父さんも不思議がっていたもの」
「そうねぇ、それが謎って言えば確かにそう思えるわよね。ただ、あの子は時々健三さんに内緒で出かけることは何度かあったみたいよ、それは使用人からちょっと耳に挟んだ話だけどね」
母は一瞬叔母のことを思って顔を曇らせたが、そのまま黙って帳場から立ち去った。
その様子を目で追った河上は仕込みに行こうと帳場から出て厨房に降りた。そして妻に用事があれば携帯へ電話してくれと言い残して車に乗り込んだ。
市内を快適に走りながらも、思うのは旅行への期待ばかりであった。
豪華なホテルで温泉に浸かり、宴席ではコンパニオンを横に座らせて美酒に酔う。そして世俗の煩わしさを忘れるべく過ぎゆく時間に身をまかせ、ひと時の安らぎと憩いに浸りきる。そんな楽しさをイメージしては、ハンドルを握りながら笑みを浮かべた。
(来月に入ったら早速にもコースや経費を具体化し、はっきりした数字を出してプリントしよう。だが、その前に浦部が最高の目的地と、宿泊可能な旅館かホテルを早急に見つけてくれればいいんだが───)
やがてスーパーに着くとメモした食材を吟味し手早く買い込み、戻っていつものように開店すると、昼の慌しい時間を乗り切って闇の訪れと共に一日の終わりを迎えた。
それから数日が過ぎ去った。
河上は店の前に立ち、日が沈んでも一向に涼しくならない蒸し暑さに辟易しつつ、シャッターを降ろす用意を始めたが、そのとき携帯からのコール音に気付いた。
「もしもし・・・」
「おう俺だよ、この電話は宿の事だけど、結論から言えば会社で利用する主だった旅館は全てが満室状態だ。平日なのにさすが夏だよ、たいしたものだと呆れるばかりさ」
「そうか、やっぱり読みが当たったか。だが、旅館がだめならホテルはどうなんだ?」
「ホテルもNGよ」
「NG?それはいよいよ困ったもんだな。せっかく企画した今回のイベントは持ち越しの可能性大か、残念だが仕方ないと諦めムードかな?」
「よし、わかった。実は俺の方でそれに対する代替案があるんだ。これからそっちを当たってみるし、結果が出たらすぐに連絡するから」
「ほう、それは初耳だ。何かいい案がありそうな口ぶりだな」
「とにかく、数日待ってくれよ」
「分かった、じゃあいずれまた」
浦部との話を終えた河上は早速叔父に電話し、現状を説明して当初の思惑通り別荘を借りる事を了解してもらった。
出発
旅行計画はすべてが順調に進み、実行日は八月の十七日から十九日までの三日間に決定すると、いよいよ待ちに待った出発日の八月十六日がやってきた。
目の前には妻が入れてくれたコーヒーが湯気立てている。それを手にしてそっと口に運んだその時、「こんばんは!」と、聞き覚えのある声が玄関から届いた。
「市河みたいだな、お前ちょっと出てくれないか」
河上は妻に出迎えを頼み、カップをテーブルに戻して市河が顔を出すのを待った。
「よう、いよいよだな」
「やっと来たな、待ちかねたぞ」
「あれ?みんなはまだかよ。もう揃っていると思ったぜ」
「いや、お前が一番だよ。でもすぐに来るだろうから、ここで待っていればいいさ」
「確か今夜中にここを出るとか言っていたよな、時間稼ぎのために夜走りするんだろ?」
「ああ、それも浦部の発案で夜の内に都内を抜けたいと言っていた。だから奴がそこまでは運転する気でいるよ。まあ俺たちはのんびり構えてあいつに任せようかと」
「そうだな、ところで河上よ目的地までのルートはどうなんだ、俺はまだよく聞いてないけど、大体のコースを教えてくれ」
「そうだったか?まあ行く所が伊豆だから距離的にはたいしたことはないんだ。まず東京回りでのんびり行くコースになってる。これから出れば朝は東名で迎えられるはずだし、多分いい夜明けがどこかのSAで迎えられるだろうと思っているよ」
「なるほどな、それならそれでOKだ。だけどお前の叔父さんって気前がいいんだな、大切にしている別荘を三日も貸してくれるなんて、俺たちにとっては大助かりだ。まだ建物は新しいんだろ?」
「確かいま現在は使ってないようだが、それでもたまには叔父自身が気晴らしを兼ねて伊豆まで行くらしい。ホテルに関してはかれこれ三年近くも閉めっぱなしだから、それなりに結構荒れていると思うが別荘は大丈夫だろう。ホテルは今回無視してもいいさ、関係ないからな」
河上の言うことに一々頷きながら市河はタバコを取り出し、火を点けて美味そうに紫煙を吐き出した。
「ところで市河よ、お前夕飯はどうする?」
「飯か・・・、まだ食べてないが、腹が減ったら海老名辺りのSAで摂ればいいさ。仲間だけの気楽な旅行だから臨機応変でいこう。ああいう場所での食事もなかなか美味いものだからな、あははは」
「あなた、表に車が止まったみたいよ」
妻は市河へのコーヒーをテーブルに置きながらそう言ったが、聞いた河上は一人で表に出て道路に止まっている一台のワゴン車に近付いた。
「おう浦部か、三平はどうした?」
「ああ、ここに来る前に立ち寄ったんだが、ちょっと変なことが起きたとかで遅れるらしい。だから車だけ借りて一足先にここに来たんだ。市河とお前を乗せたら改めて三平を迎えに行こうと思ってな。用意はいいのか?」
「こっちはいつでも出られるが。変なことってなんだな、詳しい話しを聞いたのか?」
「いや分からん。ただ、俺が表で待ってたらやつが青ざめた顔で出て来たし、悪いがもう少し経ってから迎えに来てくれというんだ。だから仕方なくこっちに先回りしたってわけだよ」
浦部は平然と答えた。
「そうか、じゃあとにかく行くか!」
特別気にかけず軽く受け止めた河上は、数分後には妻に見送られて自宅を出たが、走り出すとすぐに市河が三平のことを口にした。
「よう浦部、三平はどうしたんだ」
「ああ、今からやつを迎えに行くんだよ」
「なんだ、一緒じゃなかったのか。何かあったのか?」
「それが、なんでも家の中で変なことが起こったらしいんだ」
浦部に代わって河上が答えた。
「変なこと?何が変なんだよ、浦部は内容を聞いたのか?」
「いや、知らんな。まあこれから行けば分かるだろうし、三平本人から詳しく聞けばいいだろさ」
市河を見て浦部は憮然とした口調で答えたが、河上はどんな事情にしろ、旅行に影響がないならそれほど気にすることもないはずだと自分に言い聞かせた。
「ところで浦部よ、コースは分かっているよな?」
「それは任せろよ、河上から聞いた大体のルートを頭に叩き込んだからな。都内さえ抜ければあとは楽勝だし、夜走りは空いてて運転し易いから予定通り行けると思う」
「でも河上、さっきの話だけど、三平が急に行けないなんて言い出さないかな?」
「まあ大丈夫だろうよ、行けない事情になっているならとっくに電話してくるはずだ。浦部が俺の家に来てからかれこれ十分以上は経っているし、その間に連絡がないということは行けると思っていいんじゃないのか?」
市河の不安を含んだ問い掛けに対し、河上は気楽にそう答えた。
やがて車を三平の家の前に着けた浦部は、エンジンを切って家の様子を窺い始めた。
「静かだけど、やつは出てくるかな?」
「よし、俺が行ってくるよ」
言った河上は車から出て玄関に近寄り、躊躇いなくチャイムを押した。
*
数秒後、ガチャッと言う音でドアから顔を出したのは三平の妻だった。その表情は沈んで強張っており、視線さえもが定まっていないように思えた。
「あっ、こんばんは河上です」
「どうも、ちょっとお待ち下さい、いま主人を呼んで来ますから。ああ、それから今夜の旅行ですけど宜しくお願いしますね」
「ええこちらこそ。この話が出た時から皆が楽しみにしてましたから。まあ、昔の仲間同士ですからきっといい思い出を作れる旅行になると期待してるんです」
「そうですね、じゃあちょっと・・・・」
笑みこそ浮かべていたが表情は明らかに硬く、その事実が三平の家に生じた変事を再認識させたが、それでもまだ河上の気持は高揚したままであった。
熱帯夜特有の蒸し暑さに不快感を覚えたまま待ち続けていると、すぐに憔悴した面持ちの三平がバッグ片手に現れた。
「河上か、悪いな」
「大丈夫なのか?」
「何が?」
「何がって、さっき浦部からお前の家で変なことが起きたらしいと聞いたからな。奥さんも何となく沈んで顔色が悪かったし、もし無理なら旅行は中止してもいいんだが」
河上は三平を見つめてそう言った。
「いや、もう大丈夫だ。それに気にすればきりのない、まあいわば偶然の出来事だろうからな」
「そうなのか、でも何が起きたんだ?」
「そのことは追々車の中で話すよ」
「じゃあ、とにかく計画通り行くことにするか。奥さんに挨拶しなくていいか?」
「いいさ、あいつは子供の世話で二階へ上がったはずだ。もうお前と顔を合わせているからそれでいい。よし、とにかく気にせずに行こうぜ、ここまで待ち望んだ仲間同士の楽しい旅行だ、そう簡単に中止は出来んよ」
言った三平は笑みを浮かべ、足早に車まで進むと助手席に乗り込んだ。
八時を過ぎた商店街は殆どがシャッターを下ろし、街灯だけが淋しく目立っている。そんなさびれた様相を呈する市道を走りつつも四人はしばらく無言であった。
閑散とした駅前通りを抜け、浦部の運転する車は郊外へ向かってスピードを上げたが、やがて田園が広がる田舎道に差し掛かると、車内の重い空気を破るかのように三平が突然口を開いた。
「お前たち、霊の存在ってどう思う?」
「おいおい三平よ、突然変なことを言い出したな」
隣でハンドルを握る浦部がすぐに反応した。
「何でそんなことを聞くんだ。無神論者のお前にしては珍しい質問だが、何かそれに関係することでもあったのか?」
「ああ、ちょっとばかりな。まあ、俺には到底信じられない出来事だが、どうも家の中で何かが変なんだよ。思い出しても鳥肌が立つし・・・」
三平が問い掛けた市河を見ながら答えた。
「それってやっぱりお前の家で起こったことか?詳しく話してみろよ」
今度は後席から乗り出すような格好で河上が言った。
「実はな、俺が女房と食事していた時だが、娘が突然自分の箸でおかずを掴み、『おばちゃんも食べて・・・』と妙な事を口走ったんだよ。俺はきっとママゴトでふざけているのだと思い特に気にもしなかったが、それから少し経つとまた娘が立ち上がり、自分の茶碗を持ったまま壁の前に進み、またしても、『わたしのごはんを上げるから、おばちゃんも一緒に食べようよ』と、再びそんなことを喋ったから、あ然として女房と顔を見合わせてしまったんだ」
そう言い終えて三平はゴクッと唾を呑み込んだ。
「ふ~ん、そいつは不思議な話だな」
市河が真面目な表情で後席から言葉を挟んだ。
「だが不思議な現象はそれだけではないんだよ、俺は何か娘に言おうとしたその瞬間、今度は隣の部屋から『カタン』とモノが倒れるような音が聞こえたし、ドキッとしてすぐに覗いてみたんだ。そしたら・・・」
「そしたらどうなんだよ」
運転している浦部が後ろを振り返って問い掛けた。
「思い出してもゾッとするよ。そこは仏間なんだが、見るといつの間にか閉じられていた仏壇の扉が開いてたし、真ん中に安置されている位牌が線香立ての中に頭から倒れて埋もれていたんだ。そんな事って信じられるか?だけど事実なんだ、女房も一緒にその場にいて鳥肌が立ったと青ざめたし、俺も竦んだまま動けなくなっていたからな」
三平はその時の状況を揺れる車の中で淡々と仲間に語った。
「しかし、そんなことって本当にありかな、ちょっと信じられねぇぞ」
「俺なんか生まれついての無神論者だから、その話は悪いが頭から信じないんだ。大体真夏の怪談話としては出来すぎだよ」
市河に続き浦部がタバコに火を点けながら言った。
「俺が作り話をしたと云うのかよ!」
「いや、そうは言わんが・・・」
三平の剣幕に浦部が弁解した。
「河上はどう思う」
「俺か・・・。うん、この世には科学だけでは到底理解出来ない現象ってのは結構あるからな。ただ、そういう現象そのものが何を啓示しているのかというのは分かりかねるが」
「ああ、確かに不思議なことが世間にごまんとあるのは認めるさ。でも、俺は霊的なことは信じない性分だ。俺の家だって元々は余り信仰なんてしていなかったが、五年前にばあさんが死んでから親父が人に勧められ、言われるまま宗教に入ったらしい。仏壇もその時に新品に買い換えたとは聞いていたけどな」
「だけど、その仏壇の位牌が突然倒れるなんて、やっぱり気味は悪いよな。しかも出かけにだろ?あの世からの危険を知らせる暗示じゃないのか?」
「なんだ、信じないと言ってるお前がそんなことを云うのかよ」
市河に対する三平の皮肉であったが、河上は言葉には出さずとも、そう言う類の話はありふれた世俗的なものだと感じていた。
「で、それからはどうなったんだ、何か別な現象はそのあとで新たに起きたのか?」
続いて浦部が尋ねた。
「いや、それだけだったよ。でも何だかこれから旅行に行くっていうのに、家の中の空気全体が重苦しく感じてな。どう言ったらいいのか分からんが、妙な気配にまでちょっとしたことで怯えるようになったんだ。まあ多分に気のせいとは思うが、やっぱ気分がいいわけでないのは事実だ」
「ああ、分かるよ。娘のそんな奇妙な行動や、仏壇の位牌が勝手に動くなんてことが実際に目の前で起きたら、誰だってゾッとするし気分は落ち込んで当然だからな」
「うん、河上の言う通りだ。お前にも娘や息子もいるから分かるだろうが、一瞬俺は子供の気が狂ったのか?そう思ったくらいだから、自分の子でもさすがに気味悪かったよ」
「それに昔から良く言うじゃないか、子供って元々純真無垢だから、大人には見えない霊が見えることがあるって。確か俺も何かの本で読んだことがあるし、ばあさんに聞いたことも覚えているからな」
市河のその一言で、現実に生じた三平家での奇妙な出来事を各自が再認識したが、その影響もあってかそれからの数分間は再び重苦しい空気が車内に漂いつづけた。
*
車はいつしか市外を抜け山間へと入った。田園の続く夜の郊外でも、どの辺りを走っているかは全員が理解出来たが、それは地元での生活が長い証であり、故郷への愛着そのものだった。
男同士の泊りがけ旅行なんて思えば実に味気ないものだが、それを承知で計画し実行に移した事実は、やはり旅先で味わう非日常的な開放感であり、培われた友情の再認識が楽しいに違いないとの期待があった。だがそれも三平の家の変事が起こるまでの話であり、現代の怪談じみた話は全員の意気を消沈させるには十分だった。
「ところで喉が渇かないか?何か冷たいものが飲みたいな」
重苦しい車内の沈黙を知ったのか、三平が真っ先に口を開いた。
「そうだな・・・、よし浦部、どこか自販機を見つけたら止めろよ」
河上の言葉に頷いた浦部は、暫く走ると明るい販売機の前に車を止めたが、そこは古びた田舎のドライブインの敷地であり、建物の後には灯りの消えた駅舎と線路があった。
「なんだか寂しそうな所だな」
浦部が呟いた。
「ああ、さすがにこんな山中でこの時間だと、男四人でもちょっとばかり心細いもんだ」
市河がさらにそんな言葉を口走った。
「まあ、さっきの三平の話が大分ホラー的だったからな。思うに、あながち頭から否定も肯定も出来ない面もあるだろうし、ましてやこんな人気のない寂しい場所にいると、信じられない変事が起こったっておかしくはないと思えるよ」
「へぇ~、河上はその類の現象を信じ切っている口ぶりみたいだな」
「正直どちらとも言えんさ、どう思うかは人それぞれだから。そう言う市河は霊的な出来事は信じないのか?」
「まぁな、俺はどうもその手の話に対しては常に懐疑的なんだ。実際自分が体験すればちょっと考えも変わるかもしれないけど。大体が偶然か本人の思い違いによるものか勘違いというケースが多いらしい。それは良くテレビで学者や知識人が得意満面に強調してるじゃないか、聞いた俺もそう思うんだよ」
「まあ、百歩譲って仏壇の位牌が何かの拍子に倒れたとしてもだ、まだ三歳の子供がそんな芝居じみたことを口走るかな、そっちの方が俺には怖いぜ。子供は正直だろうし、意識してそんなことは言わんだろう」
今度は横にいた浦部が飲み終えたコーヒー缶を捨てながら口を挟んだ。しかし当事者である三平だけは販売機から離れ、一人ぽつんと夜の闇を見つめていた。恐らくは子供や奥さんのことを心配しているのだろう。そう感じた河上は彼の所へ近寄り、自分の携帯電話を無造作に差し出した。
「えっ、なんだよ」
「お前が浮かない顔をしてるからな、まあちょっと家に電話してみろよ」
「いいよ別に、俺は大丈夫だよ」
「いいからかけてみろよ、気にしているならお前の声を聞かせた方がいいから」
「そうだよ三平、話をすれば気が休まるし、奥さんだって声を聞けばやはり安心するだろうからな」
河上と市河に言われてその気になったのか、三平は携帯を受け取ると数メーター先に移動して耳に当てたが、一分程度で話を終えると車まで戻り河上に携帯を返した。
「どうだった、やっぱり心配していただろ」
「子供はまだ起きていたのか?」
「あれから変わったことはなかったのか?」
河上につづいて市河と浦部が次々に質問したが、三平は特別変わったことはないと答えるだけだった。
旅行話
優子は寝苦しさから夜中に何度も目を覚ました。隣のベッドでは親友の真弓が気持ちよさそうに軽い寝息をかいている。その様子を暫く見つめていたが、やがてトイレに行こうと思い、枕元に置いた時計に視線を送った。
「二時過ぎか、さっきは確か十一時頃起きたし、これで二度目だわ・・・」
そんなぼやきにも似た呟きを口にすると、仕方なく起き出してスリッパを履き部屋から出て洗面所に向かった。
八月に入ったとはいえ、ここ数日は暑さも一休みの感があり、比較的クーラーもドライモードで熟睡出来ていた。しかし昨日辺りから理由もなく夜中に何度となく目が覚め、不快感で気分を落ち込ませたのである。
今夜も昨日と同じことが繰り返されて気が重かったが、生理現象だけは我慢する訳にも行かず、眠気を押さえてドアノブに手を掛けたその時、ふと闇の中で自分の背中を射るかの冷たい視線を感じた優子は、ゾクッとしたまま硬い表情で立ち竦んだ。
(なんなの、この冷たい気配は?見えない物体がこの部屋の中にいるみたいだわ、空気に伝わる波動と息遣いが感じられるし、じっと息を潜めている無気味さがある・・・)
震えながら自分に言い聞かせたが、さすがにすぐ後ろを振り返る勇気は湧かなかった。時間にすれば僅か数秒足らずでも、優子にとっては分単位の長さに感じる恐怖であった。
脇の下からはジトッと汗が滲み出た。その不快感を嫌いながらも、とにかくこの不気味な状態から逃げねばと思った瞬間、それまでの冷気がうそのようにスーッと消失し、いつもと同じ状態に戻っていた。
「ふぅー、なんとか助かったみたいね。でも、何なのかしらあの空気の淀みは。あの冷たさはこの世のものとは思えないくらいの恐ろしさを感じたわ。これまで起きた現象とは絶対的に異質だから、彷徨える怨念を持つ地縛霊かもしれない」
額からの汗を手の甲で拭いながら素早くトイレを済ませ、再びベッド潜り込むと深い眠りへと誘われていった。
やがて六時半過ぎに目覚まし時計が軽快なメロディーを奏でたが、それを止めたのは真弓であり、優子は二度寝をした為か連続音を聞いても起きる気力が湧かなかった。
「優子起きて、時間よ!」
「うう~ん、もうそんな時間なの?」
「そうよ、まごまごしてると七時になってしまうわ。今日の朝食当番はあなたでしょ?」
「悪いけど、代わってくれないかな?」
「だめよ、月曜から水曜はあなたって約束だもん。さあ起きて!」
容赦ない真弓の言葉だった。優子は仕方なく蒲団から顔を出して渋々起きる態勢を取ったが、その時ツキンとした痛みを側頭部に感じて思わず顔をしかめた。
「どうしたの?体調悪いの?」
「うん、ちょっと頭痛がするの」
「風邪?夏風邪はなかなか治らないし、困ったわね」
「ううん、風邪じゃないと思うわ。きっとあれかもしれない」
「ああ、あれね・・・、じゃあしょうがないわね、まだ女だもん。あははは」
甲高い真弓の笑いは一段と頭に響き、耐えられない痛みで優子は顔をしかめたが、そんな様子を尻目に真弓はパジャマを脱ぎ捨てると通勤用のスーツに着替え、タオルを持ってそそくさと洗面所へと消えた。
「ねえ優子、わたしたち夏期休暇ってまだ取ってなかったよね?」
数分後にはさっぱりした顔で姿を現した真弓は、優子を見るなりそんなことを口にしたのである。
「えっ、なんでそんなこと突然言うの?」
「別に思いつきで言ったんじゃないのよ。だって、わたし達あの会社に入ってもう三年以上になるし、これまで休暇らしい休暇は取ったことなかったなって、前から思っていたからちょっと言っただけなの。確か三年目からは年に二十日ほど有給休暇がもらえたし、去年の冬もこの春も、とにかく全然使ってないから結構たまっているんじゃない?」
「う~ん、そう言われれば確かにそうよね。ただ与えられた仕事を懸命にやるだけの毎日だから、これまでまとまった休暇なんて考えもしなかったし」
「でしょう?だから、たまには何もかも忘れて思い切り息抜きしたいと思わない?」
真弓からそう問いかけられた優子は、改めて日々の変化なき生活と仕事のリズムを思い浮かべ、数日でもいいからどこかに旅行し、ゆっくり羽を伸ばしてもいいかなと迷わず賛同した。
「そうね、改めて真弓から言われると確かに実感できるわ」
「だから、ちょっとそのことでわたしから優子に提案があるの。来月に入ったら思い切って二人一緒に休暇を取らない?そしてどこかに気晴らし旅行に行こうよ」
「旅行かぁ、でもどこへ行くっていうの?」
「まあ、海外へはちょっと予算的に無理かもね。でも社内預金を使えば行けないこともないけど、そうすると今度は日程的にきついかもしれない。だから国内でいいのよ、温泉があって美味しい食べ物に恵まれ、更に欲を言えば素敵な男性と出会える旅行がいいかな?なんちゃって、そんな上手い話は今どきないか!あははは」
そう言いつつも真弓の目はいつも以上にきらきらと輝いていた。
「ということは、あなたには何か腹案がありそうな言い方ね。で、具体的にどうしようっての?」
「ザッツライト!ピンポーン。やっぱ分かった?だから本当はね、一昨日あたりから具体的に考えていたのよ。まずとりあえずは休暇願を総務部に出し、それにOKが出たら二泊の予定で伊豆一周の旅行に行く。これがわたしの考えたプランなの」
「ええ!あの伊豆なの?随分小さなプランなのね」
「あら、何だか気乗りしない言い方ね、伊豆じゃ嫌なの?」
「ううん、別に嫌っていうわけじゃないけど、目的地が余りに近かったから驚いたのよ。それに、電車やバスを利用しての旅行なんて、それこそ当たり前過ぎて面白みがないと思うわ、だからたとえば・・・」
そこまで言い終えると優子は暫く考える様子を見せたが、時計の針が七時を回ったことに気付いた真弓は慌てて鏡の前に座り、優子を無視して化粧に取り掛かった。
毎日ここから徒歩で五分ほどの私鉄駅まで行き、数分の待ち合わせで一時間の通勤ラッシュを強いられる。そして更に地下鉄で十五分掛けて都心の会社に到達するのだが、始業時間が外資系の為か十時からであり、八時前にはこのアパートを出る必要があった。
「じゃあ優子、あなたに何かグッドアイデアでもあるの?」
イヤリングを付けながら真弓は改めて話のつづきを切り出した。
「ええ、実はあるのよ。まず休暇だけど二日ではなくこの際三日取ってしまわない?つまり八月の十七日から十九日まで取るのよ。そして旅行にはアドベンチャーヒッチハイクで行くの」
「アドベンチャーヒッチハイク?それっていわゆるあのヒッチハイクってこと?」
「そうなの、そんな旅をいつかしたいなって、わたしは学生の頃から思っていたのよ。アドベンチャー、つまり冒険を兼ねた無銭旅行ってことだし、ありきたりの旅行より数段楽しいと思うわ」
真弓は優子の言う奇抜なプランに驚きを隠せなかった。もしそれが実現できれば、確かに従来の旅行とは比較にならないスリルがあっていい経験になるだろう。だがそこに潜むリスクも決して忘れてはならず、どんな暴漢や変質者に遭遇するやもしれないのである。最悪のケースではそれ以上の命に関わる危険もあるに違いない。
スーツのボタンを嵌めながら真弓はそこまで考えたし、それを伝えようと振り返った時には、頭痛を訴えた優子はすでに着替えを済まし、完璧に出勤の支度を整えていた。
「あれ?あなた頭痛治ったの?」
「ううん、ちょっとまだ痛いわ。でも、今取り掛かってる仕事は大切だから突然は休めないのよ。旅行の話は今夜にでもゆっくりしましょう」
「もちろんそれでいいわ、すぐに決められる話じゃないからじっくり相談しましょう。まあ、よく考えればそんな旅行も意外に面白いかもね。ドキドキワクワクしそうだし」
「そう思うでしょう?決まったパターンの旅なんていつだって出来るもの。やっぱり若いうちは大人の刺激を求めてアバンチュールにチャレンジしなけりゃ」
「優子ったら、フランス語と英語をごっちゃにしてよく言うわね。あはは」
「まあね、実現すれば結構楽しいかもよ、ふふふ」
「さらに欲を言えば、わたしと優子を拾ってくれるドライバーが良識ある人で、お金持ちの安心感のある中年男性なら最高だけどね。あはははは」
二人はそれぞれ勝手なことを言い合い、互いを見つめて笑った。
*
数日経ったある日の朝、いつものように出社した二人はエレベータを降りると、軽く手を挙げてそれぞれの部署に向かった。
入社が同期であり、研修を終えると一緒に会社の寮に入ったが、数ヶ月も経ずしてその窮屈な生活リズムに辟易した真弓は、優子にルームメイトの話を持ちかけた。そして二人同時に2DKマンションで生活を始めたが、これまでの二年間にわたって喧嘩一つせず、まるで姉妹の様に暮らしつづけたのである。
その日もつつがなく終業時間を迎えた。
「ねぇ真弓、あなたこれからどうする?」
優子は珍しく携帯を取り出すと、自分から真弓に電話した。
「わたしちょっと寄る所があるのよ、悪いけど今日の夕食はパスするわ」
「そう、分かったわ。じゃあ先に帰ってるから」
「悪いわね、いつもの野暮用なの。ふふふ」
「はいはい分かってます。同じルームメイトで親友でも、ことプライベートに関しては互いに不干渉という暗黙の了解ですからね。ごゆっくり楽しんでいらっしゃい」
そう言って電話を切った優子は、会社を出るとまっすぐ帰るつもりで駅へ向かった。しかし五時を過ぎても初夏のこの時期はまだ明るく、ふとこのまま部屋に帰るのはもったいないかな?そんな思いを持ちながらふと歩道上に立ち止まった。
「わたしもどこかで簡単な夕食を摂ってしまおうかしら、そうすれば面倒な支度をしないで済むし時間の節約にもなる・・・」
独り言のように呟き、行き交う人の群れを避けて再び歩き始めたが、なにげなく視線を変えて斜め前方を見た時だった、
「えっ!ああ~いやだわ、またなの?あのビルの前に見えるのは霊にちがいないわ。どうして突然わたしの前に現れるのかしら?」
優子が目にしたのは明らかにこの世の者達ではなかった。ある霊は街灯の陰に隠れるようにひっそりと佇み、また別の女の霊は数人の仲間を作り、車が往来する道路の真ん中に立ち止まった。それと同時に数台の車がスピードを上げて通過したが、霊達は何ら衝撃を感じる気配も見せず、ぼんやりとその場に佇みつづけた。
ある男の霊は空中に浮遊したまま恨めしそうな視線を優子に投げ掛けたし、ビルの屋上に姿を見せた若い女性は、アッと言う間に地面めがけて飛び降りた。
(みんな自分の死を自覚していないから、自殺した場所に何年も居つづけ、同じ行動を繰り返してはまた死のうとしている。すべての霊たちが死の世界に足を踏み入れながらも、認識できずに戸惑っているのね。この現実は以前とまったく同じ現象だわ。わたしはとっくにそんな霊的能力は失ったと思っていたのに、知らないうちに復活したっていうことなの?もういい加減にしてほしいのに・・・・)
己に問いかけた優子は、改めて生まれながらの霊媒体質を心底から呪った。
自分の意思に関係なく霊を見るとか、突然耳元で囁く声を聴いた時など、思わず恐怖のあまりその場所で硬直してしまうのが常だった。
そんな尋常でない霊感に気付いたのは中学生になった頃であり、何気なく部屋の模様替えをしようと、重い整理タンスから少しずつ動かし始めた時、ふと異様な気配を感じた優子は天井を見て自分を凝視する若い女と目を合わせた。
女は数秒間瞬きもせずじっと視線を送っていたが、今度は一転してニャッと笑みを浮かべると、その顔を勢いよく鼻先まで近付けて来た。そんな予想外の行動に優子は絶叫し、意識を失ったまま床の上に倒れ込んでしまった。
下にいた母親がドスンという音に気付き、急いで駆け上がると失神している優子を抱きかかえ、知りうる限りの経文を唱えて意識を回復させたが、それでも優子は恐怖に震えたまま母の胸でいつまでも泣きつづけた。
その時以来だった、自分の意思などないがごとく、あらゆる場所で霊と関わる状況に追い込まれていったのである。
ただ自分の波動で働きかけなれければ、向こうから無理やり優子の心に侵入してくることはなく、霊が目に映っても無視すれば何事も起きないのが幸いであった。そして年を追うごとに遭遇する間隔も次第に開き始め、いつしか優子の記憶からはその忌まわしき事実も消え去っていた。
霊感が強いという境遇下でも、優子は日々の生活リズムを崩すことなく過ごし、高校では陸上の長距離ランナーとして期待されると、大学に進んでからはさらに潜在的な能力を一気に開花させ、数々のマラソンや駅伝に出て名前を知られるまで成長した。
しかし生まれついての霊感体質は歳月を経ても完全に失われる事はなかった。嫌でもそれを認識させる出来事がある日再び優子に襲い掛かり、その事実が優子を徐々に憂鬱な気分に陥れると、長期間に渡って精神を病む引き金へと変化していった。
恒例の駅伝に大学選抜選手として参加した時など、前の走者を必死に追いながら沿道からの声援に顔を向けたが、その瞬間目にしたものは明らかに一目で亡霊と分かる異様な集団であった。
ある髪の長い男は顔の右半分がなく、残った左の眼窩からは眼球が飛び出していた。街路樹の前に佇む女の霊は頭から血を流し、開けた口をだらしなく歪め、無気味な笑みを浮かべては、周りの霊たちと言い争いを楽しんでいるように見えた。
そこかしこに多くの未成仏霊が浮遊しており、現世に未練を残す想念を送りつつ、感情の消えた表情で肉体を持った人間に恨めしい視線を投げかけている。そんな浄化されない憐れな魂を強い波動で感じた優子は、全身いっぱいに鳥肌を立てて戦いたが、弱い心を見透かされて侵入されてはならぬと気丈な精神で反発した。
(見たくないのに向こうから現れる・・・。もう完全に何年も前にそんな霊媒体質は私の中から消え去ったものと信じ切っていたのに、なぜいまさらって感じね。それにしてもこの現象はいつまでつづくのかしら?)
走りながら自問し、母から教わった経文を心で唱えながら何とか襷を渡したが、責任を果たせた安堵感からか優子はその場に崩れ落ちたまま意識を失っていた。
計画実行
そんな出来事を回想したとき、優子は憂鬱な気分を感じて歩調を緩めた。しかし足を止めたところで霊が消え去るわけではない。そう思い直すと改めて意思を強く持ち直し、肉体に憑依するチャンスを狙う霊たちを無視して一定の歩調で雑踏の中を進んだ。
しばらく行ってからふと立ち止まり、まだいるのだろうかと周囲を見回したが、あれほどいた霊集団は不思議なことに全てが消え失せており、いつもの見慣れた都会のビル街と雑踏の景色が目に飛び込んで来た。
「消えたわ・・・。だけど、なぜ今頃になってまた霊なんて見てしまうのかしら?いくら見たくない気持ちを強く持っても、向こうから勝手に現われるから本当に始末が悪いわ。これってやっぱり母の言うように、わたしは生まれつき霊感が強いから一生避けられないのかな?」
中学生の時から突然始まったこの霊能力は次第に冴え渡り、いつしか生きてる人の未来まで分かってしまうほどであった。
それは家の近所でいつ誰の葬式があるとか、または母と一緒に買い物の途中、なにげなくすれ違った人を指差し、『あのタバコ屋の小父さん、あそこの角を曲がると車にぶつかるよ!』と言っては母から叱られた。
だが、現実にその人は数分後老人の運転する車と接触し、転倒骨折する重傷で入院したのだから聞いた母の驚きは尋常ではなかった。そういう経過を辿りながら優子は大人へと成長していったが、いつの間にか予言的な霊能力だけは次第に薄れ、ごくふつうの霊視による透視能力だけが残った。
「人の未来は見えなくなったけど、霊だけは相変わらず場所を選ばず目に映るわ。それは仕方ないのかな?でも、それだっていつかは知らないうちに消滅するかもしれないし、霊を見たからって特別わたし自身に害がある訳じゃないもの。ただ少し気分的に憂鬱になるだけなら我慢すればいいのよ。それに、思いついたら心身のリフレッシュを計り、気分を変えることも大切だわ」
そう呟いて自分を励まし、とにかく銀座に出て一度だけ真弓と入ったパスタ専門店に行こうとさらに歩調を速めた。
(その店に着いて六時頃か・・・。食後に少し銀ブラし、マンションに帰り着く時は八時過ぎね。まあその程度ならいい線かも)
テーブルに置かれた茹でたてのパスタをイメージした優子は、空腹感を覚えながら思わずゴクッと生唾を飲み、行き交う人の流れを巧みに避けながら交差点の歩道で立ち止まると、激しい車の流れをぼんやり眺めて信号が変わるのを待っていたが、その時ポケットから鳴り響くコール音に気付きいつになく驚いた。
「はい、西島です」
「優子?わたしよ、今どこなの?」
「あら真弓ね、誰かと思って驚いたわ。でも、あなたどうしたのデートは?」
「それがね、彼の都合が急に悪くなって待ちぼうけだったの。結局今日は行けないって電話よこしたけど、まったく頭にきちゃったわ!」
真弓は電話の向こうでカリカリした声を発した。
「そう、それは残念ね。で、何か用なの?」
「それより、今どこなのよ?」
「わたし?ああ、ぼんやりと銀座に向かっていたのよ。ほら、真弓といつだったか入ったパスタ専門店、あそこで一人侘しく食事してから帰ろうと思ってね」
「なぁに、一人侘しくだなんて嫌味な言い方して。でも、まっいいか。ねえ優子、あなたグッタイミングよ、実はわたしもその近くにいるの。三越の前で待つからやっぱり一緒に食事しない?すぐ来られる?」
有無を言わせない真弓の一方的な誘いだった。しかし優子にしてみれば願ってもない電話に思え、一人で食べる姿を想像していくぶんメランコリーな気分になりかけていただけに、嬉々として待ち合わせの場所へ向かうことを了解したのである。
携帯をしまうと再び雑踏の中を足早に進んだが、真弓からの電話でふと忘れていた旅行話を思い出した。
こんな殺伐とした現代に、時代錯誤的なヒッチハイクなんて無理かもしれない。二人連れの旅行とはいっても所詮は女だし、気楽な気持ちで車に乗るとそこは動く密室と化す車内なのだ、不測の事態が生じればどこにも逃げる術はなく、下手すれば命の危険さえある事実は否めないだろう。
世間の人間全てを良い人だと前提すること自体が甘い考えではないのか?約束の場所を目の前に捉えながら、優子は改めて自分の提案を反省し始めた。
(あの話が出てからかれこれ一週間になるし、来週はもうお盆がやって来るわ。いつもこの時期には帰省するけど、今回は真弓からの旅行話を優先して、お盆後に実行しようと一旦は決まりかけた。だけどなんとなくいつの間にか立ち消えた感じ・・・。でもこれから会えばきっとその話が再燃するかも知れないわね。果たしてどうなっちゃうのかな?)
初めは嬉々として二人で乗り気になったが、その後は優子も真弓もなぜか一切その話題には触れずに、淡々とした日々を過ごして来た。それゆえ真弓の本心を知ることも出来ないまま、優子はヒッチハイクを主張した自分をずっと悔やんでいたのである。
「真弓は一応言葉上では賛成してくれたけど、本音はやっぱり豪華なロマンスカーあたりで行きたいんじゃないのかな?わたしに遠慮してそれを言えないまま口をつぐんでいるのかもしれない。いいわ、これから食事の時にその話を蒸し返してみよう。もし本気でそんな旅行がしたいなら、わたしが譲歩すればいいんだから」
約束の場所はもうすぐ目の前だった。
*
交差点の信号は一分も経たずして青に変わり、人々は一斉に向こう側へ歩き始めた。優子も煌々と輝くデパートの入口へ向かい、数秒で渡り切って建物の前で足を止めたが真弓の姿はそこにはなかった。
「あれ?いないわ。どうしたのかしら?」
戸惑いながらも辺りを見回し、店内に入って探そうかと思った矢先、「ごめんね、待った?」と笑顔の真弓が後ろから現われた。
「どうしたの?待たしちゃ悪いと思って早足で来たのに」
「ごめんね、ちょっとあそこで彼に電話してたのよ。携帯の電池が切れてしまったから仕方なく・・・。全くついてないわ」
そう言って数メーター先の電話ボックスを指差す真弓だった。
「とにかく早くお店に行こう、わたしお腹がぺこぺこよ。結構ここまで歩いたもの」
「でも、優子と一緒の外食は久しぶりね。そうだ、今日は違った所にしない?そこは最近オープンした洒落た店なの。課内の女の子達に聞いたけど、本場のピザがすごく美味しいんだって。それにすぐこの近くなのよ」
「ええ、いいわよどこでも」
優子は真弓の誘いに快く了解し、しばらく歩いてからその店へ入った。
店内は夕食時のせいか、若い女性やカップルで賑わい、クーラーも効かない位の熱気さえ感じられた。
暫く待つとボーイの案内で窓際の二人用の席に座ったが、真弓はすぐにバッグからタバコを取り出し、彼氏からのプレゼントなのと自慢しながら、ブランド物のライターで火を点けると紫煙を吐き出した。
「やっと落ち着いたわね。でも良かった、思いがけず優子と連絡が取れて」
「そうね、でもどうして急に彼からキャンセルされたの?またいつものことが原因で喧嘩したの?」
「あははは、そんなんじゃないわ。彼ったら英会話に行くのをすっかり忘れていて、わたしとのデートしか頭になかったみたいなの。それで約束の場所と時間を決めた瞬間、今日はその受講の日だと気付き、慌ててわたしにキャンセルの電話をよこした。と、まあそんな訳よ。いつもながらドジな奴なの、ふふふ」
「英会話ねえ、まあ確かに今はテレビで色々CMを流しているし、ブームなのは否定しないけど、でもどうして勉強する気になったの?何か仕事上の必要に迫られたとか」
「ううん、単なる自分の趣味みたい。今の時代に英会話くらい話せなければ男としてちょっと恥ずかしい、そんな思いからじゃないかしら」
真弓はそう言って視線を外し、半分ほどになったタバコを灰皿に揉み消した。するとそのタイミングを見計らったかのように、オーダーしたイタリアピザがチーズの匂いを漂わせてテーブルに置かれ、トロピカルな飲み物も一緒に二人の前に並べられた。
「さあ、優子食べよう!」
「ええ、美味しそう。焼いたチーズがいい匂いね」
どちらからともなく湯気の立つピザに手を伸ばし、小皿に取って口に頬張った。そして暫くは二人とも食べることに集中していたが、「ところで優子、前々から気になっていた
旅行の話なんだけど・・・」と、真弓が突然その話を切り出して来た。
「ああそうね、わたしもあのままになってしまい、いささか気に掛かってはいたのよ。でも、何となく自分から言い出しにくかったし」
「あら、どうして?」
「確かにその話を先に出したのはあなたよ。でも、わたしがありきたりの旅行ではつまらないから、思い切ってヒッチハイクにしないって言ったでしょ。それで真弓が行く気をなくしてしまい、その話がそれっきりになってしまったのかなって考えたの」
この際だからと本心を曝し、同時に相手からも正直な考えを聞き出そう・・・。そんな思惑で真弓を見ながら優子は自分の思いを正直に吐き出した。
「なんだ、そんなことだったの。わたしは全然気にしてないわよ。まあ、確かに初めはエッ!と思ったし、女二人のやじきた道中じゃないのにって呆れたわ。それにもし変な車に乗ってしまったらどうしようと不安に思ったのも事実ね。でも、冒険なんて若いうちじゃないと出来ないし、そうそう危険なことなんて起こるものじゃないって考えを変えたの。だから本当は優子からいつその話が出るかなと密かに思っていたのよ」
「そうだったの、じゃあわたしの思い過ごしだったのね、良かったわ」
「でも、話が出たついでにここで改めて具体化しない?」
ピザを食べ終えた手をグラスに移し、真弓は笑みを浮かべてそう言った。
「そうね、とはいえ実際に行動を起こすとなるとやはり不安は否めないわね。言い出しっぺのくせにわたしは臆病なのかな?あははは。それでも真弓の考えを尊重し、思い切って実現させたい気持ちは今でも十分あるのよ」
「じゃあ決まりよ。早速だけどいつにしようか、まあお盆の時期は当然だめね。大体車だって大渋滞は必至だし、旅館自体も満室だと思うの。だから・・・うん、やっぱりそれ以降がいいわ」
「確かお盆は十三日から三日間だし、それが終わった翌日の十六日からにしましょう。十六日、十七日と泊まって十八日に戻ればいいのよ。会社には余裕を持って十九日からの出勤にしておけばいいわ。従って四日間の休暇届を明日にでも出して、それからぼちぼちと準備を整えましょうよ」
「OK!これで完璧に決定ね。あとはすてきな車といい男、それも絶対真面目でお金持ちの紳士にうまく当たりますようにかな?うふふふ」
そう言って屈託なく笑う真弓だった。その笑顔につられて優子も笑みを返し、半分ほど入っているグラスを手に取るとゆっくりと口に運んだ。
夜明け
四人を乗せた車は高速道路に入った。
「浦部、この先のSAで小休止しようぜ」
「なんだ市河、トイレでも行きたくなったのか?」
「ああそれもあるけど、夕食もろくに食ってないから腹が減ったんだ。軽くソバでも食いたいと思ってな。三平や河上も一緒に付き合わないか?」
「よし、じゃあ俺も食うか」
市河の問いかけにまず三平が答えたし、それを聞いた浦部は暫く走ってSAに乗り入れ迷わず建物近くに車を止めた。
「意外に空いてるもんだな・・・」
「まずはトイレを先に済ましそれから食事だ、浦部も一緒に行かないか?」
「俺はいいや、腹もすいてないしここで待っているよ」
「そうか、じゃあ俺たちだけで行って来る」
河上は三平と市河の後に続いて中に入り、そばを胃の中に収めると十五分ほどで浦部の待つ車へと戻った。
「浦部、運転交代しようぜ」
「ああ、そうだな。少し眠くなったからちょうどいいや」
「これから首都高を通って東名に入るから、海老名SAまで行ったら市河に変わるよ」
「俺ならいつでもいいぜ」
後席に乗り込んだ市河の返事を聞き、河上はライト頼りの高速運転を快調につづけ、今後の予定を頭の中で計算し始めた。
「このペースで行けば首都高を抜けて東名に入り、海老名SAに着くのは夜が明ける頃になりそうだ」
「そうか、そいつは最高だ。旅先での夜明けなんて滅多に経験出来んし、モチベーションも一気に上昇するな。とはいうものの男だけの旅行ってやっぱどこか殺風景なんだよな。第一色気がないのは正直言って寂しい限りだ、お前らだってそう思うだろ?」
「三平よ、もうかみさんが恋しくなったのか?」
浦部が後席から冷やかした。
「いやいやまったくちがうぜ、久々に女房から解放されたんだから、何か別の期待以上の刺激が起こらないかという思惑と希望なんだ。こんな楽しいことは一年を通してもまず実現しないからな」
「ああ、確かにそれは言えるな。幸いまだこの車には空席が二つある。座席は七人乗りだし、途中でちょっとかわいい女性を見つけ、『よかったら楽しい旅をご一緒に!』なんて案外いいかもな?とは言っても、それは所詮無理な話かもしれん。どう見てもこんなくたびれた中年野郎の集まりじゃ、女が気分良く乗って来るはずもないからな。ところで、もうそろそろ首都高じゃないのか?」
後席の市河がそんなことを言いながら顔を覗かせた。
「まだだ、これから京葉道路に入るがしばらくはこんなペースがつづくよ」
「そうか、じゃあもう十一時過ぎたから、やっぱり海老名辺りで夜明けになるのか」
「いや、お前のその読みは甘いな。このペースなら都内は十二時前に抜けるし、海老名までは一時間もかからんよ。だから真夜中に着いてそのまま車中泊の可能性大だな」
浦部が観光添乗員らしく得意げに言った。
「となると少しばかり早いペースだったな。だけど河上よ、その叔父さんの別荘って大体伊豆のどの辺なんだ。詳しい場所は知ってるのか?」
「それが、俺にもはっきりした記憶はないんだ。というのも車で行くのは初めてだし、これまでは電車を乗り継いでバスかタクシーで行ったらしいからな」
「行ったらしいって、お前はその別荘には一回も行ってないのか?」
市河が驚いた様な口調で聞き返した。
「ああ、実を言えばそうなんだ。ホテルには何回か泊まったが、別荘は正直言って記憶がない。子供の頃に母と一度くらいは行ったかもしれないが。それすら覚えてないからな」
「なんだよ心細い限りだな、そんなことで本当にそこまで辿り着けるのか?途中で迷ったりしたら、中年男性四人が伊豆の山中で道に迷い遭難だなんて、全国版第一面の大仰な見出しになるぞ。あははは」
隣に座る三平がそんな冗談を言って笑った。
和気藹々ととした仲間同士の会話は時間が経つのを忘れさせ、眠気を感じないまま首都高に入ったのは日付が変わる午前零時前だった。思った以上のハイペースに浮かれながらも、河上は箱根に着いたら観光気分を味わうため数時間は休憩を取らないかと、仲間に提案することを思い付いた。
「予定では海老名SAには三十分程度で着くから、そこで夜明けまで車の中で仮眠し、その後は小田原厚木道路経由で芦ノ湖には八時頃を予定している。このペースではいかにも早いし、箱根に着いたら時間調整を兼ねてゆっくり小休止しようぜ」
「それもいいだろうな、箱根で仮眠するより海老名SAでたっぷり寝ればいい。どうせ真夜中はすることもないし、五、六時間以上は寝られる計算だからな」
「三平の言う通りだ。なんだかここまで来てやっぱり眠くなったよ。夜走りなんて観光バスは余りやらんし、河上がそんな話を持ち出すから本当に眠くなってきた」
そう言って大あくびする浦部だった。それを見た河上は、仲間が仮眠を希望していることを考慮して、予定通り海老名SAで車中泊をしようと幾分ぺースダウンし、慎重な運転を続けて三十分後には煌々と輝く深夜のサービスエリアに乗り入れた。
「よ~し着いた、じゃあそれぞれが自由にして、後はここで朝まで仮眠を取るだけだ」
「まず、俺は食い物とトイレだ」
三平に続いて浦部が車から降りたが、河上も中に入ってパン数個とアイスコーヒーを買い求めるとそのまま車へ戻った。
「あれ?二人はまだか・・・」
「ああ、きっとトイレでも入っているんじゃないのか」
「そうか。ところで河上、お前の叔父さんのホテルだけど今はやっぱり使えないのか?どうせならホテルの方が良かったけどな」
「なぜ?」
「だって温泉風呂に入れただろうに、伊豆と言えばやっぱり温泉だからな」
「まあな、だが別荘だけでもよしとしようぜ。なんてったって宿泊費がロハだし、その分コンパニオンでも呼べば楽しい酒盛りが出来るだろう。それに交渉次第では彼女らといい線いくかもしれんからな、あっははは」
「そうか、そう言えばコンパニオンを呼ぶって話もあったよな」
市河はその話に真顔で乗り気を示したが、別荘の周囲なんて雑木林が生い茂る寂しい所だろう、果たしてそんな場所にコンパニオンを呼べるのかと、河上は市河の嬉々とした横顔を見て素朴なる疑問を抱いた。
*
フロントガラスから輝く太陽が目に眩しかった。
夏の夜明けが早いのは知っていたが、こんな場所で朝を迎えたことが嬉しくもあり、旅に来ている実感に心を震わせた河上は思わず心の中で合掌した。
「さてと、これからが本番だな。しかし家を離れて、気の置けない仲間との旅行はやはりいいもんだ。気分が乗ってきたし、二日間は充実した時間にしなければな」
「よう、もう起きたのか。おっ、いい天気じゃないか!」
これからの予定を思い描いていると、浦部から目覚めの第一声が届いた。
「最高の天気だぜ。さて、いよいよこれから箱根越えだが運転は誰がやるんだ?」
「多分市河だろう、三平は運転が嫌いだと言ってたし、これから伊豆まではあいつに任せようぜ。飽きたら俺がやるから」
「そうか、じゃあ今度は俺がナビ役だから、三平と席を変わって助手席に行くよ」
浦部とそんな会話をしている内には、やがて後席から三平と市河が起き出した。
(出る前にここまで来た連絡と、これからのことを妻に電話するか・・・)
ポケットの中の携帯電話を確認した河上は、車から降りるとまずは大きく背伸びして建物へと歩き出した。そしてトイレの前にベンチを見つけると腰を落とし、携帯を開いて番号を押し妻が出るのを待ちつづけた。
「はい、河上です」
「ああ俺だよ、おはよう!」
「あら随分早いのですね、今どこなんです?」
「早いのはお前だって同じじゃないか、まだ六時前だろ?」
「だって、電話の音で目が醒めましたよ」
「ああそうか、ははは」
機嫌よい妻の声を聞き、河上も妙な安堵感で思わず笑った。
「まだ別荘には着いていないんでしょ?今どこなんです?」
「ここは海老名SAだよ、昨日の深夜に着いてそのまま皆で車中泊っていうわけだよ。今ちょっと前に目覚めたんだ」
「じゃあ、これからいよいよ本来の目的地に向かうのですね。ああそうだ、忘れるところだったわ。昨日の夜遅く、確か十時過ぎだったかしら叔父さんから電話が入ったの。もう英昭達は出かけたのかって確認の電話みたかったけど」
「叔父さんから電話があった、どんな用件だったんだ?」
意外なことを聞き河上はちょっと驚いた。しかし話の内容は単純であり、何人で行き何時頃別荘に着くかを訊ねたらしく、質問そのものは極めてありきたりだった。ただ、何か一つだけ言い忘れたことがあるらしいとも言ったそうだが、河上にとってはそっちの方が気になった。
別荘を借りる以上、持ち主の叔父の条件に従うのが礼儀なのは言うまでもなかったが、一体何を言いたかったのか?早速にでもここを発つ前に電話して確かめようと考え、時計を見て掛けるタイミングを計った。
「叔父さんとはお義母さんが話したから、わたしには分からないわよ」
「そうか分かった、あとで俺から叔父さんに掛けてみる。まだ時間的に寝ているかもしれんからもう少ししたら掛けてみる。じゃあそろそろ出発するからこれで切るぞ」
「気をつけてね、また別荘に着いたら電話して」
話を終えた河上は建物に入り冷たい缶コーヒーを買い求め、そのまま窓際のテーブルに座って飲み始めた。とその時、ポケットの中から携帯がコール音を発したことで、素早く手に取るとディスプレイに目をやった。
「はい・・・・」
「ああ、英昭か」
「その声は叔父さんですね?」
「そうだ、わしだ。お前もう別荘に着いたのか?」
「いやまだです。今は東名の海老名SAにいます、もちろん仲間と一緒ですが」
「そうか、まだ着かんか。いや、実は昨日の夜お前の家に電話したんだよ、そしたら八時前に仲間と出たとの話だったし、とっとくに着いたかなと思ってな」
「ええ、さっき亜矢子から聞きましたけど、結構スローペース出来たもので、まだ東名高速上なんです」
「うん、それならいいんだよ。いやな、ちょっと言っておきたいことを思い出したものだから、別荘に着く前に伝えようと思って電話したんだ」
叔父はそう言って一旦言葉を切った。
「何ですか?」
「いや、別荘の使用に関しては特にこれといって言うべきこともないんだが、もしホテルに行くようなら少しばかり注意してもらいたいことがあるんだよ」
「ホテル?せっかくですけどホテルには行きませんよ」
河上は意外なことを言い出した叔父に対し、それは有り得ない行動だと率直に答えた。
「そうか、ならいいんだが」
「何か気になる事でもあるんですか?」
「いやいや、特になにもない。気にせんでくれ。じゃあ、気を付けてな」
健三は言い終えるとすぐに自分から電話を切った。
箱根路
市河の運転で海老名を発ち、小田原厚木道路に入って三十分程の快適なドライブが続くと、いよいよ待ちに待った箱根の山が迫って来た。
「さてと、この先の予定だが・・・、湖畔に一旦車を止めて数時間ほど観光するか、それともどこか行きたい場所を決めてそっちを優先するか。まあいろいろの選択肢があるが、なにか別にいい考えがあれば言ってくれ」
「よし浦部よ、ちょっと早いけどまずは昼飯にして腹ごしらえだ」
湖畔レストランで空腹を満たし、四人で箱根神社の参拝を終えて境内に戻ったが、誰一人として車に乗り込むことなく、木々の間から見える真夏の芦ノ湖を静かに見つづけた。
そんな仲間の様子を見ながら、河上は数メーター先にある自販機へ向かい、コインを入れてコーラーを手にしたが、その時『あのう、すいません・・・』と、突然後ろから声を掛けられ、目の前に佇むジーンズにTシャツという若い女と目を合わせた。
「何か?」
「ちょっと失礼なことをお聞きしますが、ご旅行なんですか?」
「ああそうだが、それがどうかしたの?」
「もしかしてあちらの方もお仲間とか?」
「うん、そう言うことだ。男四人の伊豆への旅行なんだよ。まあ何年かぶりの同窓会みたいなもんだけどね。あははは」
質問を投げかけたのはショートヘアの方だったが、河上は年甲斐もなく若い女を目の前にして、いくぶん照れを覚えながらそう答えた。
「そうなんですか・・・」
「なに?困ったことでも起きたのかい?」
「あっ、すいません。実は二人でこの箱根までやっと辿り着いたのはいんですけど、ここから先への移動手段がなくなってしまい、ちょっと途方に暮れているんです」
「移動手段?たどり着いた?」
「あっ、いえ。つまりあの~、もし良かったらどこでもいいんですけど、迷惑でなかったら車に同乗させて頂ければと思ってのお願いなんですが・・・」
「わたしたち、二人でヒッチハイク旅行しているんです」
今度はロングヘアーの女がそう補足した。
突然思いもよらぬ相談を持ち掛けられた河上は呆気に取られ、返事に窮したまま二人を交互に見つめ直した。
事情は理解したが、とりあえずは仲間と相談するからここで待つように───。そう言い置くと、缶コーヒーを買うのは後回しにして皆の所へ戻った。
「なんだ河上、あの女達は?」
市河が近寄って興味深そうな顔で訊いた。
「ああ、あの二人はヒッチハイクで旅行しているらしいんだ。だから俺たちの車に乗せてくれないかって頼まれたんだよ」
「あんな若いのにヒッチハイク?このご時世にちょっと変わってるぞ。で、なんて言ったんだお前は」
「とりあえず仲間と相談するからと言って返事は保留した。しばらくあそこで待つように言ったから相談しようぜ」
市河にそう言いながら、河上は浦部と三平にも視線を向けた。
「いいじゃないか、どこか途中まででも乗せてやれば」
「そうだな、賑やかになっていいし、大体男四人じゃまるっきり色気がない。願ってもないチャンスだから、若いギャルに混じって色んな話で盛り上がろうぜ」
三平と浦部が即座に答え、市河も頷いたのを見た河上は再び二人の所へ歩み寄った。
「良かったね、仲間がOKだって。うまい具合に車は七人定員だから大丈夫だし、我々はこれから今夜の泊まり予定の伊豆にある別荘へ向かうところなんだ。でも、君たちはどこで降ろせばいいのかな?」
「あっ、それはわたしたちが適当な所に着いたら言いますので・・・」
「なるほど分かった。それじゃあ早速車に乗りなさい。そろそろ出発するから」
河上は二人を連れて車へ戻ったが、女たちは三人の前で立ち止まると、「すいません、お世話になります」と礼を述べ、嬉しそうな笑みを浮かべて後席に乗り込んだ。
*
その後は予定通り四人だけで関所や大涌谷を見物し、午後三時を回る頃には箱根を出て別荘へ向かった。
浦部の運転で伊豆半島を縦走し、車窓から見える久々の伊豆の山並みに感動した河上だったが、最後部に座った二人の女性の長い沈黙が気になり、車内の重苦しい雰囲気を払拭しようと、あえて二人に声を掛けることにした。
「ねえ君たち、この先どこで降りるかは知らないとしてもだ、やっぱりこうして我々の車に乗ることになったのは何かの縁があったと思うんだよ。お互いにこのまま黙っていても仕方ないし、ちょっと簡単な自己紹介でもしないかね」
「ええそうですね、気が付かなくてすいませんでした」
そう答えたのは初めに声を掛けてきたロングヘアの女だった。
「じゃあ、まずわたしからしようか」
言った河上は簡単に自己紹介を済ませたが、それを皮切りに隣の市河、助手席の三平、そして最後はハンドルを握る浦部が思いつくままを口にした。
「わたしは西島優子と言いまして、外資系金融会社のOLをしています。歳は二十四で出身は秋田なんです。旅行が好きで今回のヒッチハイクもわたしから隣の彼女に提案しました。どうかよろしくお願いします」
「石田真弓と言います。優子とは同じ会社に勤めていますが課が違います。でも公私共に仲良しでマンションにルームメイトとして一緒に暮らしているんです。歳は同じで出身は四国の松山です。今日は本当に助かりました。降りるまでよろしくお願いします」
二人の挨拶が終わるとすかさず市河が拍手した。それによってこれまでの重い雰囲気は一変し、和やかな会話が飛び交うドライブが始まっていった。
「ところで、皆さんは伊豆のどこへ旅行なんですか?」
真弓がそんな質問を真っ先に発した。
「わたしの叔父が伊豆に別荘を持っているんだよ。そこを我々が二泊の予定で借り切り、男だけの色気ない旅をしようと計画したってわけなんだ。まあ、今にして思うとなんとも冴えない話だと反省しているよ、あははは」
「そうそう、男同士の泊りがけ旅行なんて考えただけでぞっとするからな。あっはっは」
市河が河上の言葉に同調して声高に笑った。
「そうなんですか、でも別荘なんてすごいわ、ねぇ優子?」
「そうね、でも皆さんどんな関係なんですか?わたしたちのような会社の同僚とか」
「いやいや、それは大分違うかな。良かったら当ててみてよ」
助手席から振り向いた三平が微笑しながら二人に言った。
「う~ん、じゃあ町内の仲良し同士とか・・・。それとも趣味の仲間かなんかですか?」
「それもまるっきり見当違いだ、実は高校時代のクラスメートなんだよ。それも悪友と呼べるほどの付き合いでこの歳まで続いてるからね。そうだよな、浦部」
三平が真弓の問いに答える格好で隣の浦部に同意を求めた。
「ああ、確かに三平の言うとおりだ。三年間を通して同じクラスだったし、色々悪いこともした仲間だからな。それより君たちは今夜どこに泊まる予定なの?まだ時間的には早い話だけどちょっと気になったからね。この先どこで降ろせばいいのかなと思って」
浦部は運転しながらそう聞き返したが、真弓が特別決めてないのでもう少し走ってから考えたいと答えた。
その後も市河や三平がプライベートに立ち入らない範囲で会話を続けたが、彼女達は嫌な顔もせず淡々とそれに応えてくれた。
「もうそろそろ終点の天城高原だな。河上よ、ここからどう行けばいいんだ?」
浦部が呟いた。
「え~と、確か料金所から出て遠笠山に向かい、途中から右折してしばらく走れば分かるらしいが、とにかくもう少し先に行ってくれ」
「そうか、このペースならあと十五分程度で着くだろう」
「ところで君たち、さっき適当な場所で降りるって言ってたけど、このまま行ってもいいのかな。そもそも、予定ってあるのかい?」
河上は二人を見て答えを待った。
「実はそのことなんですけど、さっき優子とも話し合って、良かったら小父さま達の別荘に今日だけ泊めて貰えないかなって。図々しいのは充分わかっているんですが、ここからだと東も西も進むには遠すぎて困っているんです」
真弓が突然そんなことを言い出して河上と目を合わせた。
「ええっ!我々と一緒の別荘に泊まるっていうのかい?」
「はい・・・。あっ、でも一緒とは言ってももちろん優子と二人で一つの部屋を使わせて頂ければいいんです。ここから国道まで引き返すのは大変でしょうし、小父さまたちの時間のロスもあります。わたしたちの我儘でここまで乗せてもらった上に、そんな勝手なお願いで本当に恐縮してるんです。もっと早くに降りる意思を告げれば良かったのに、なんだか楽しい時間を過ごしてなかなか言い出せませんでした。申し訳ありません」
今度は優子がすまなそうに言い訳した。
「そうか、確かにそうだよな。ここからだと引き返すにしても大変な時間的ロスがある。いいでしょう、叔父の別荘だからわたしの一存で決めましょう。まあ、大したもてなしは出来ないと思うけど、食事して寝られればそれでいいかな?」
「ありがとうございます、本当に助かります。ねぇ優子?」
「すいません、最後までわがまま言って。明日にはまた別の車を拾って先に行くようにしますから・・・」
「我々は紳士だから、安心して今夜は熟睡しなさい」
三平がそう締めくくると二人はホッとした笑顔を見せた。
別荘にて
それからさらに十分近く走ると伊豆スカイラインの終点が見えてきた。料金を支払ってそのまま南下し、天城高原ロッジの案内板を右折した浦部は再び山道へと入った。
「ここらはキャンプ場なのかな?」
「どうやらそうみたいだな。さっきその手の看板があった様な気がするし、別荘地としてもかなり開発された所だろう」
浦部と三平の会話だった。
道幅は対向車と十分に交わせる広さがあったが、周囲には広大な雑木林が生い茂り、目を凝らせば別荘の建物以外何もない殺風景な光景は、まるで異次元世界へ迷い込んだかの印象を全員に抱かせた。
こんな僻地とも言える場所では、車がなければ不便極まりないのは明白であり、避暑地としての利用価値は十分にしても、別荘を持って維持管理するのは結構大変だろうと河上は想像した。
とはいえ、そのこと自体が自分達のライフスタイルを誇示する手段だし、時間を作ってわざわざやって来る傲慢な輩たちの、優雅で恵まれた憩いの場になっているんだろうと、河上はある意味羨望的な想いと嫉妬を持って左右に目をやりつづけた。
(その意味では叔父さんも結構恵まれていたんだな。少なくともホテル経営が順調だった頃は間違いなくそうであったはずだ。しかし、今は叔母さんも亡くなり別荘だけが侘しく残っているだけだから、心の内では寂しさと虚しさが入り混じっているのかも?)
そんな憐憫の情が河上の脳裏を過ぎり、同時に事故当時の悲惨な情景も頭に浮かんだ。
叔父によれば叔母は自分の車で夕方近く友人の所に出かけたらしい。いつもは帰る前に必ず電話を寄越すのだが、その日に限って九時を回っても連絡がなかった。不審に思ってその友人の家へ電話したが既に二十分前には帰ったと聞き、ホテルから友人の家までは僅か八キロ程ゆえに、普通に走っても十分位で着くはずだからおかしいと感じた。
心配になった叔父は従業員に後を頼みその友人の家へ赴いたが、叔母が間違いなくその家から帰った事実を認識すると、来た道を戻る途中で事故を発見しすぐ警察に通報した。そして数分後に駆けつけたレスキュー隊によって引き上げ作業が行われたが、すでに車の中で叔母は焼死体になっており、現場検証の結果ハンドルミスによる転落事故という警察の判断が下された。
後から悲報を聞いた河上は、叔母が車ごとガードレールを突き破り、その勢いで崖下から転落し、落ちた衝撃で爆発炎上したに違いないと思った。
(愛妻家だった叔父が、あまりのショックで暫らくは魂が抜けた様な状態になったのも分かる気がする。だからそれが原因でホテル経営にも身が入らなくなり、結果として廃業に繋がった?そういう見方も出来るし十分にありえることだ)
葬儀には相当な人数が集まり叔母の人柄を偲ばせた。しかしそのことが逆に、より叔父の叔母へ対する未練と恋慕の情を強くしたのも確かであった。
「もう、そろそろじゃないのか?」
浦部の声を聞いた河上は回想から我に返り車窓へと目を転じた。そして林の中に凝った建物が点在するのを知ると浦部にスピードを落とすよう指示し、やがて左手前方に薄い記憶に残るログハウスを目に止めるとそこに行くように指示した。
「多分あれかもしれない、ゆっくり家の前に車を近づけてくれ」
道路から数メーター入った芝生の前で車が止まると、河上は確認のため降り立って玄関まで歩み寄った。
「ここだ、ログハウスの玄関灯がドアの両サイドにあるし、テラスも横に見えている。表札はかかってないがここに間違いない」
「そうか、やっと着いたか。やれやれだな」
三平の疲労感こめた独り言が全員の気持ちを代弁していた。
車を敷地内へ乗り入れ、各自が荷物を抱えて玄関の前に佇んだが、河上は叔父から聞いた別荘のスペアキーを手にしようと、皆を待たしたまま一人で裏庭へと向かった。
建物自体は丸太剥き出しの作りゆえ、建坪がどの位あるのか外見から知ることは無理だったが、歩きながら大体の見当で一階と二階を合わせて五十坪程度ではないだろうかと、そんな思惑を抱きつつ周囲を見回した。
河上がこの中に足を踏み入れたのは四十年近い昔であり、その歳月は記憶に留められなくて当然だったが、それでも何となく母に連れられてここに来た断片的な思い出はぼんやりと蘇ったのである。
(電話では確か十年前にリフォームしたとか言ってたな?そう言われれば建物の外観もまだまだきれいに思える。とはいえ長い年月には傷みも激しいものなんだろうが・・・)
立ち止まった河上はコンプレッサーの裏側に手を入れ、薄い箱状の物を取り出した。
「これは車のサブキー入れだ。なるほど叔父も考えたな、これなら安全かつ安心に保管できるはず、グッドアイデアものだ」
箱の中には普通のシリンダーキーが一個入っており、そのキーだけを取り出すと箱は元の位置に置き、踵を返して河上は仲間の待つ玄関へと戻った。
*
その頃、優子は車から出て皆の最後部に立ち止まり、無意識に右肩のバッグを左に架け替えようと体勢を変えたが、その時ふと斜め後方から感じる異様な気配に思わずゾクッとして振り返った。
(凍りつく様な鋭い視線だわ、じっと何かがわたしを見つめている・・・)
目には見えずとも心で捉えられる確かな波動だった。あの銀座での忌まわしき霊たちの恨めしい表情にも似ており、思わず全身に悪寒が走った。
真夏ゆえ外気温は三十五度もある、なのに次第に強くなる霊気に肌が感応し、小刻みな震えさえ押さえられなくなった優子は、この場から逃げ出したい衝動で立つ位置を変えようとしたが、金縛りにあったように両足は地面から一歩も動かなかった。
「よう、待たせたな!」
河上は鍵を手にして玄関へ近づいた。とその時、怯えたような表情で立ち竦む優子を見て訝しげな面持ちで足を止めた。
「西島さん、どうかしたのか?」
思わずそんな言葉が口を衝いて出たが、彼女は無反応だった。
「・・・・」
「優子、あなたどうしたの?」
真弓の声を聞いた市河と三平、それに浦部までも一斉に彼女へ視線を向けた。
「えっ、ああ何でもないわ。ただ、ちょっと疲れを覚えて・・・」
「大丈夫か?中で少し休むといいよ」
市河が優子に近寄り、いたわるように言った。
「そうよ優子、なんだかあなた顔色が悪いわ。ここまで結構長いドライブだったし、わたしだって正直疲れたもの。せっかくだから部屋で休ませてもらいましょうよ」
「ええ・・・」
真弓に腕を抱えられ、そろそろと優子が歩き出したのを見た河上は、いくらかホッとしてドアに近寄り開錠したが、分厚い木の扉が開かれた瞬間、中から淀んだ熱気とカビ臭い匂いが放たれ、思わず顔を背けてその場から離れた。
「なんだこの臭いはたまらんぞ、叔父さんはまだ今年は一度も来ていないようだな。人の手が入った様子がないし、中は相当に暑いだろうからすぐエアコンを入れよう」
「河上ちょっと待てよ、まずは全ての窓を開けて空気を入れ替えた方がいい。それから優子さん部屋に案内して寝かせることだ」
浦部が言い終えるや中に入り、一階の窓をすべて開け放った。
「さあこれでいい、すぐに中の空気が入れ替わるからな。そうだ河上よ、二階に優子さん達の休む部屋はあるのか?」
「ああ、確か階段を上がった左手に洋間があったはずだ。そこにはベッドもあったと思うから、お前が先に行って見てやってくれ」
「よし分かった」
階段に向かう浦部の後を優子と真弓がゆっくり追ったが、それを見た河上は三平と市河に目で合図し、リビングのテーブルに座るとタバコに火を点けてくつろぎ始めた。
「だけど、彼女大丈夫かな?かなり気分が悪そうだったが」
二階から戻った浦部の報告だった。
「やっぱり長いドライブで疲れたんじゃないのか?」
「市河、お前は結構後ろを向いて彼女たちに話しかけていたが、様子はどうだったんだ。何か分からなかったか?それとも余りそんなことは気にしてなかったか」
「いや、車の中じゃ特別な変化はなかったな。ケラケラと笑いながら話がもてたのはお前だって知ってるだろ。ここに着いても普通に車から降りたんだよ。ただ、河上が鍵を探しに行ってる間に気分が悪くなったみたいだが」
「そう言えばそうだよな。皆でお前の戻って来るのを待っていたが、その時ちょっと二人の方を見たんだ。まあ、真弓って子はあちこち物珍しそうに見ていたけど、優子さんはある一点をじっと見ているようだった。そのうち次第に顔が強張ってきたように見えたのも確かだが、きっとその時何かが起こったのかもしれん」
三平が河上を見てそんな事を言った。
「何かってなんだ?昼間から変なこと言いっこなしだぜ。単なる疲れだよ、疲れ!このまま少し休めば回復するさ。若いし元々健康だろうからな、それより彼女たちの食事をどうするかだよ」
「ああそうだな、俺たちの分は予め用意して来たけど二人の分はないからな。今からじゃ買出しも時間的に無理だろうし」
市河と浦部の会話だった。
「いいさ、俺の分を少し分けるよ。それがレディに対する男としての礼儀だ。足りない分は我慢すればいいし、明日になったら何か買い出しに行けば事は足りる」
「OK!じゃあ三平のレディ発言が出たところで、俺が腕を振るうことにするよ。従って予定通り今夜は俺がカレーを作るし、味はプロの保証つきだ。あははは」
河上がそう言い切ると三人は頷いて賛同した。
一方その頃、二階の部屋では優子が真弓によってベッドに寝かされ、焦点の定まらないうつろな目でじっと天井を見つめていた。
エアコンの冷房効果で真弓は爽やかな気分になりつつあったが、自分の脇でぐったりと横たわる親友の浮かぬ顔が気掛かりだった。
「ねぇ優子、あなた一体どうしたの?急に気分が悪くなるなんて、やっぱり長いドライブで疲れたの?それともなにか別の原因でもあるの?」
「・・・・」
「話す気分にもなれないか、じゃあ少しこのまま眠りなさい。わたしちょっと下に行ってくるから」
真弓は優子を気遣い、諦めの表情でベッドから離れようとした。
「真弓ちょっと待って!実はわたし、あの時自分の斜め後ろから言いようもない程の不気味な視線と気配を感じたの。それは絶対にこの世のものとは思えない強烈な恐ろしさとパワーだったわ。改めて思えばやはり霊的なもの、それも邪悪な霊って気がするのよ」
「霊的なものって言われても、わたしには全然分からない話だけど、そんなものが本当にこの世にあるの?」
「ええ、真弓には黙っていたけどわたしは元々霊媒体質で、子供のとき・・、いえ正確には中学生になった頃からだけど突然霊を見るようになったの。霊ってわたしの意思に関係なく向こうから勝手に現われるから、それはもう子供心にすごく怖く、突然遭遇したりすると心臓が止まるほどの恐怖で震えがしばらく止まらなかったのを今でもはっきり覚えているわ。だからさっきもそんな気配を感じて気分が悪くなり、立ち止まったまま呆然となってしまったのよ」
それを聞いた真弓はいつになく心配そうな表情で優子を見つめた。
「そうか、あなたって霊媒体質だったの。じゃあ、これまでにも色々な霊的経験をしたってわけね」
「ええ、普通の人にはこの辛く切ない経験はまず分からないでしょうね。とにかく気持いいものじゃないし、それこそ寿命が縮む思いなのよ」
「で、それって普通にしていても見えるの?」
「ううん、まったく予告なしに現われることが多いわ。これまではただ自分の行く先々に見えただけで害なんてほとんどなかったの。だからこんなにひどく体調を崩すなんて有り得なかった。その意味から言えば、今日わたしの前に現れた霊はこれまでとは違い、すごく強い怨念を持っていたんじゃないかって気がするのね。ましてや肉眼で見えない波長だけに恐怖は倍増するのよ」
「そうか・・・。でも、やっぱりわたしにはそういう話はいまいち解らないな。優子が嘘を言わないことは良く分かっているから、あなたがそう言うならそうなのかもね。それにしても霊なんてこの世にいるのかしら?経験しないとなかなか信じられないもの」
「確かに恐怖や不気味な思いは、実際に体験した者しか理解出来ないと思っている。人智を超越したすごいパワーを持っているのが霊だし、特定の人に対して強い恨みや憎しみの念を残したまま死んだ場合など、生きている相手に執拗に付きまとい、これでもかと災いをもたらしたりすることがあるの。それが世間で霊障といわれているものなのよ」
優子は言い終えると静かに目を閉じ、これまでの悪夢を思い出したのかブルッと小さくベッドの上で震えた。
そんな話を真弓は半信半疑のまま聞いていたが、優子の言い回しが余りにも真実味があっただけに、咄嗟に返す言葉も頭に浮かばず呆然と佇むだけだった。そして、「とにかく
少しやすんで・・・」と言いかけた時、優子の視線が部屋のある一点に向けられていることに気付き、その真剣で強張った表情に愕然となって、真弓はそこから一歩も動けなくなっていた。
*
「河上、うまいカレーは出来たか」
鍋をかき回している河上の後ろに立った市河が、そう言いながら近寄った。
「ああ、こいつは絶品だよ。カレーってやつは一番栄養があって、作るのも手っ取り早い料理なんだ。俺というプロが提供する同じ味とはいかんが、まあ市販のルーでもスパイス次第で何とか食べられると思うよ」
「そうか、そういえばさっきからいい匂いが漂ってな、それでちょっと様子を見に来たってわけだよ。日本人の好物の一つだし、きっと二階の彼女たちも喜ぶだろうよ」
「その優子さんだが、あれからどうしたか何か状況を聞いてないか?」
河上は市河に訊いた。
「う~ん、そう言えばさっき真弓さんが一度下に顔を出したが、また部屋に戻ったみたいだな。何だか慌てていたし、捉まえて聞く暇もなかったが」
「そうか、だけど何か変化があれば我々に言うだろうからな、まあ心配ないだろう」
「じゃあ、カレーが出来たら彼女たちを呼びに行くことにするよ」
市河はそのままキッチンから立ち去ったが、河上も最後の仕上げの味見をし、一旦ガスを止めて皆のところに顔を出した。
ダイニングでは浦部が酒を楽しみ、市河はテレビを観ていた。
「三平がいないな・・・」
「あいつは車を洗うとか言ってたから多分外にいるはずだ」
「そうか。よう浦部、お前あんまり食事の前から出来上がるなよ。大丈夫か?」
赤ら顔の浦部にそんな冗談を言った河上は、三平に会おうと表へ向かった。
ドアから一歩外に出ると、夕方に近いとはいえまだ暑さはその勢力を保持しており、冷房に慣れていた身体は再び外気に素早く反応し、顔から大粒の汗を噴出し始めた。そのまま階段を降りて勢い良く水を噴射する上半身裸の三平を目に止めた河上は、汗を手の甲で拭いながら声を掛けた。
「洗車か?」
「おうお前か、夜になる前にきれいにしておこうと思ってな。ああそうだ、優子さんあれからどうしたか聞いてるか?」
「いや、俺も気にしていたんだ。ただ、市河が言うにはさっき真弓さんだけが一度下に顔を出したらしい。でも、当の優子さんの様子は俺には分からん。だからちょっとばかり心配はしているんだ、大分疲れているようだったからな」
「ああ、そう言えば真弓って彼女は確かに表に来たし、俺が洗車の支度をしている時に車の後席に入ったようだった。俺はホースを繋いだりして気に留めなかったから、あえて言葉を交わさなかったが」
それを聞いた河上は、真弓は何のために車に戻ったのかが気に掛かった。
(よし、ちょっと彼女たちの所に行ってみるか?)
「そうか、じゃあもうすぐ夕飯だからな」
三平にそう言い残し、踵を返すと別荘に戻って二人の部屋へ向かった。
「はい!」
「河上だけど、いいかな?」
「どうぞ!」
部屋の中から届いた声の主は真弓だった。そっとドアを開けて中に入ると、左手にシングルベッドが二つ並んで置かれ、その壁際のベッドに優子が横たわっていた。
「優子さんの具合はどうかなと思ってね、少しは気分が良くなったかい?」
「はい、すいませんご迷惑をかけまして」
「いや、そんなことはいいけど。まあこの暑さだし長時間の車の移動だったからね、誰だって体力を消耗して当然かもしれないよ」
「あのう、実は・・・」
「真弓いいのよ、言わないでいいわ」
「でもこの際だし、やはり河上さんには話しておいた方がいいわ」
「・・・・・」
「どうした、何か変わったことでもあったのかい?気になることがあったら遠慮なく我々に言ってよ」
真弓と優子を見た河上はベッド脇に置かれた椅子を手前に引き寄せ、腰を落として話を聞く体勢を取った。それを見て真弓が話しを始めたが、聞き終えた河上はあまりの内容に返事も出来ず、そのまま暫し押し黙るしかなかった。
「どう思います?」
真弓が訊いた。
「うん、なんだか一概には信じられない話だけど、その手の話は良く耳にするし、メディアでも時々取り上げてはいるのは確かだ。わたし自身は全てを否定することはしないよ。なぜなら多少はそういう世界を信じているし興味もあるからね。ただ、経験したことはまだないのが残念なんだがね。とは言っても、本人にしてみれば思った以上に辛いものもあるだろうから、察して余りあるし同情もするけど」
「正直言って、わたしも優子がそんな霊感を持っているなんて、今日まで全然知らなかったんです。一緒に住んでいても本当に分からなかった。考えれば不思議なことです」
「そうね、真弓にはもっと早くに言うべきだったわ。でも信じてもらえないと思ったし、それを言ったことでこれまでのいい関係が壊れたらって、不安にかられたのも事実なの」
優子は伏し目がちにそう弁解した。
「そんなことはないけど、正直驚いたのは事実よ。河上さん、実はさっきも彼女変な現象を見たらしいんです、ねえ優子?」
「ええ、まあ・・・」
「変な現象?」
「わたしがここから下に行こうとした時、また彼女の顔が強張ってきました。どうしたのかとじっと様子を窺っていると、天井から自分を見る冷たい目をした女の顔が現れたなんて言い出したんです」
「それはちょっと見過ごせない現象だね、一体どういうことなの?」
真弓の話では優子をベッドに寝かせ、ほっとして部屋を出ようとしたその時、彼女が天井のある一点をじっと見ているのに気付いて思わず足を止めた。すると次第にその顔は引きつるような硬い表情になり、蒼白に変わると同時に身体が震え出した。そして恨めしそうな目で悲しい表情をした女がじっとわたしを見下ろしている。そう言い終えた瞬間、優子は目を瞑って五分程失神状態に陥った。と、そんな内容であった。
「真弓さんも見たの?」
「いいえ、わたしにはそんな霊感のような力はありませんから」
「じゃあ、それは優子さんの意思に関係なく、勝手に霊の方からこの世に現れた。まあ、そういうことになるな」
「そんな感じみたいです。それでわたしが優子に頼まれて車へ戻り、彼女が大切にしているお守りを急いで取って来たんです」
「そうか、それが一旦部屋を出た理由か。でもどうして車の中に置いておいたのかね?大事なお守りなら普通は肌身離さず持っているべきだろうに」
「それは、別荘にあと少しの所まで来た時でした。突然胸が圧迫されて気分が悪くなったので、わたしはそのお守りを急いでバッグから取り出し必死に祈りました。その結果気分が回復したので、安心してそのまま座席の上に置き忘れてしまったのだと思います。でも、あのお守りがないとわたしは絶対にダメなんです」
それまで黙っていた優子だが、話がお守りに及ぶと顔を上げて訴えるような目で説明した。河上はそれ以上自分の考えは口に出来ないと悟り、とりあえず夕食の時間を告げて部屋を去ったが、階段を降りながらも霊現象の未知なる恐怖に戦き、思わず部屋を振り返ると生唾を飲み込んだ。
怪奇現象へのプロローグ
夕食までちょっと間があったことで、河上は居間を横切って再びキッチンに入った。そして作りかけのカレーの鍋を覗き、完全に味が出来上がった事を確認してそこを出たが、妻に電話しなければと、まだ暑さの残る外に出て携帯を開いた。
「もしもし、俺だけど」
「あら、もう着きました?」
「ああ、ここに着いてかれこれ一時間程経つが、こっちも結構暑くて正直疲れたよ」
「そうですか、それで別荘はどんな感じなの、素敵なのかしら?」
妻の亜矢子はそんなことを訊いて来た。
「まあな、ログハウスってやつでなかなか凝った作りだ。これから夕食だけど、中はエアコンがあるから快適で助かる。ただちょっとしたハプニングが途中であってな」
箱根神社での出来事を河上は詳しく伝えた。
「へえ~、いま時そんな人がいるのなんて驚きだわ。まして若い女の子でしょ?じゃあ総勢六人になったってわけね。でも結構楽しいってのが本音じゃない?特に市河さんはまだ独身だし内心うきうきしたりして」
「その通りだ、彼はあれこれ気を引こうと車の中で盛んに話し掛けていたよ。だけど相手は若い女性だし、まだ歳も二十四とか言ってたからな。まあ、やつの風貌からしてお呼びじゃないって言う感じだ。笑っちゃいかんが無駄な努力がおかしくてな、ははは」
「あらそんなこと言っちゃ悪いわよ。市河さんだって男ですもの結婚願望があって当然でしょう?まあ、いささか風采は上がらないのは確かだけど、人はいいから好かれるわよ」
「うん、それは言えてるな。とはいえここだけの話だが、彼女たちとは絶対釣り合わないのは事実だよ。まず歳から言っても無理だろうし、あいつが若い二人の女性から好かれるとは到底思えんからな。あははは」
河上は悪意を持って言ったのではなく、あくまで妻との会話上で、常日頃から抱いている市河への思いを正直に述べたに過ぎなかった。
「ところで、家では変わったことはないか?」
「ええ、別にこれということはないけど・・・。あっそうそう、あなた叔父さんに電話したんでしょ、何か言ってた?」
「電話?ああ、海老名SAでかけたけど普通だったよ。ただホテルを使うなら勝手にあちこちいじらないでくれって言うことや、さらにしつこく部屋も開けないようにって、確かそんなことをくどくどと言ってたがね」
「そうなの?変なことを言うのね、別荘を借りたからホテルなんて関係ないのにね」
「ああ、俺もそう言ったんだ。ただホテルは別荘からも近いし、温泉ならまだ出るらしいから風呂くらいなら入ってもいいぞって。まあ、そんな軽い気持ちで言ったのかもしれないけどな。いずれにしてもそんなボロホテルなんて行く気はないし、ここの風呂で十分だもの。わざわざ廃業したホテルの温泉に入る程俺たちは酔狂じゃないからな。それに結構あちこち汚れていると思うよ」
「それはそうね」
「じゃあ、とにかく今はそれだけだ。また明日にでも電話する」
数分の電話を終え、携帯をしまうと河上は額の汗を手で触りながら中へ戻った。
「河上、めしは何時頃にする?」
「そうだな、今日はカレーだから五時半か六時、そのくらいにしようか」
浦部に答えた河上が椅子に座り掛けたその時だった、「キャアァァ――!」と、静寂を破る甲高い悲鳴が二階から届き、三人は顔を見合して立ち上がった。そして同時に駆け出すと一気に階段を上がり切って二人の部屋に踏み込んだ。
「どうした?」
「なにがあったんだ、一体どうしたんだよ!」
河上に続いて三平が声を張り上げた。
「あそこに、あの窓の外に人の顔が見えたんです」
真弓が震える声で南側の出窓を指差した。それを見た四人は一斉にその方向に視線を向けたが、窓からは薄暗くなった外の様子が窺えただけで人の顔など見えなかった。
「本当なの?何も見えないぜ。大体ここは二階だし、木にでも登らなけりゃこの窓から中は覗けないだろう。それに人って言ったけど、それは男それとも女?」
河上は訊ねた。
「間違いなく女の人です。年配の顔でしたから年は中年位です」
「目の錯覚とか見間違いじゃないのか?疲れたときによく見る幻覚はあるらしいけど、そんな現象じゃなかったのかい?」
「いいえ間違いありません、本当に見たんです。だってわたしだけならそう取られても仕方ないけど、優子も一緒に見たし、もの悲しく恨めしそうな表情の老けた顔はまだはっきり覚えていますから」
市河の問いかけに対し、真弓は心外だと言うような口調で言い返した。
浦部と三平は怪訝な表情で佇むだけであり、河上もそれ以上言うべき言葉もなく、ただ黙って二人を見つめるだけだった。
「そうか、だけどまあ真偽は別として、とりあえずは何事もなくてよかったよ。これから夕食だから君たちも下で一緒に食べようや」
「そんな、皆さん信じてくれないのですね」
「そう言われても実際にわたし自身が見たなら信じるけど、こればっかりは確かめようもないしね、なんとも答えようもないんだから」
「でも、河上さん本当なんです、分かってください!」
「真弓、もういいの」
「だって・・・」
「お騒がせしてすいませんでした、お食事は後で遠慮なく頂きます」
優子の一言でその場は収まったが、男たち四人は強いてそれ以上の詮索もせず、部屋を出ると互いに無言のまま階段へ向かった。
*
数分後、二人は焦燥し切った表情でリビングに現われた。それを見た河上は立ち上がると彼女たちの座るスペースを作り、それぞれの皿を手に取ってカレーを掛け始めた。
「じゃあ僭越ながら、わたしが代表して今回の旅行を祝して挨拶いたします。旅の途中で思いがけず若くてきれいな二人の女性も加わり、短い間ですが本当にいい旅行になりそうな気分で満足してます。我々と彼女たちの旅の無事を祈って、乾杯!」
「乾杯!」
そんな三平の挨拶で全員がグラスを掲げて口を付けると、次には空腹を満たすべく香り漂うカレーを黙々と口の中に運んだ。
「ところで優子さんと真弓さん、さっきの話をぶり返すようで心苦しいが、ちょっと俺なりに思っている話をしてもいいかな?」
「えっ?」
何を思ったか、一番関心のなさそうに思える浦部が突然そんな話を切り出した。それを聞いた真弓と優子は思わず食べる手を止めたし、顔を上げたまま訝しげな面持ちで浦部に視線を送った。
「確か君たち、窓から女の人を見たって言ったよね?」
「ええ、女の人でした。それは間違いありません」
真弓が答えた。
「そうか、いや実は俺もバスの添乗でこれまで色々な観光地へ旅をしているが、それなりに不思議な経験も数回はしてるんだ。だから、その手の怪談話には多少興味があるし、実際に起こりえる現象だと信じている」
「じゃあ、浦部さん自身も怖い体験したってことですか?」
「いやいや、本当言うと体験したのは俺じゃなく、たまに一緒になる会社のベテラン運転手の方だけどね。話そのものは何度聞いても実に怖いものなんだよ」
浦部は真弓と優子を見てそう答えた。
「それはどんな話なんだ、マジで信じられる話なのか?それとも結構面白おかしく運転手同士で脚色した作り話とかじゃないのか?」
「違うさ、眉唾じゃなく完全な事実の裏付けがあったからこそ、まことしやかに語り継がれている話らしい。それに、この伊豆には結構地元で評判になる、いわゆる怪奇現象と呼ばれる不思議な出来事は多く、噂だけではなくて実際に体験した者が話すから、その信憑性は高いということだよ」
三平の皮肉めいた言い回しに対し浦部は真剣な顔で答えた。河上はその話を聞きながらもそれとなく優子を観察したが、時折見せる驚きと納得したような表情は意外であった。
おそらくはその怪奇話を自分の経験にオーバーラップし、リアリティを帯びた話として素直に受け取って納得したのでは?そう感じたのである。
そんな状況下でも実話に基づく浦部の話は、次第に熱を帯びるものになっていった。
「伊豆って、この俺たちのいる伊豆か?」
三平が訊いた。
「ああ、まさにここだよ。だけどその範囲は実際広いし、はっきり言って俺自身詳しい場所は知らないんだ。ただ、噂は怪奇話だけに留まらず、現実に各地で色々な現象の目撃者や体験者が多いという事実は確かにあるようだ。だからこそ恐怖がいつまでも語り継がれているんだと俺は見ているんだが」
「でも、それって具体的にはどんなことなんだよ?お前の聞いた知ってる範囲の内容だけでも話してみろよ」
「例えば深夜だが、ある廃墟になった民家に若者数人が肝試しに訪れると、どこからともなく温かい風が頬を撫で、突然女のすすり泣きが真っ暗な闇の中に響き渡って、それが一瞬止まったかなと思った瞬間、男たちの目の前には数体の亡霊が姿を現し、恨みを篭めた表情でジワッジワッと若者に近寄って来たとか」
「なんだ、その程度の話ならテレビドラマと変わらんじゃないか」
「いや、ところがある一人の男に死者の霊が憑衣してだな、日々意味不明な言動を繰り返してとうとう鬱になり、何日間も部屋に閉じこもったきり出てこなくなった。そしてやせ細って骨と皮だけに変わり果てると、その男は台所から包丁を取り出して自分の身体をメチャメチャに傷つけ、血だらけになりながら飼っている犬や猫にまで凶行に及んだ。そして最後には仏壇に向かって罵詈雑言を放ち、先祖の位牌を足で踏みつけると、いきなり腹に深々と包丁を突き刺したまま駆け出して、断崖から海へ身を投じたらしい」
「それが霊の仕業ってことになるのか?ちょっと俄かには信じ難いな」
市河が怪訝な面持ちで浦部に言いかけた時、「すいません、わたしたちそろそろ部屋に戻ってもいいでしょうか?」と、真弓が話の腰を折って言葉を挟んで来た。
「そうだね、こんなつまらん話は君たちも聞きたくないだろうからな、早く部屋に戻ってゆっくりした方がいい」
河上の言葉を聞いた二人は、立ち上がると軽く頭を下げてリビングから立ち去った。
*
部屋のドアを閉めるとすぐ、優子は真弓を見て言った。
「ねぇ真弓、あの話って本当なのかしら?」
「あの話って?」
「ほら、さっき浦部さんが言ってた伊豆での怪奇現象の話よ」
「ああ、あれね・・・。嘘に決まってるじゃない。わたしたちのことがあったからきっと面白おかしくからかうつもりであんな作り話をしたのよ、そうに決まってるわ」
「そうかなぁ?でも、浦部さん結構真顔で喋っていたし、わたしにはまるっきり作り話とも思えないけど」
優子は真弓に対してそう自分の感想を述べた。
「う~ん、確かにそう言われればすべてが作り話とも思えないけど、でも何だかすんなり信じる気になれないな、話のタイミングが良すぎるもの」
「ただ、わたしのこれまでの体験から言えることは、人間は持って生まれた霊感みたいなものを誰でも備えているし、シックスセンスという六感のような不思議な感覚も備えていると思うの。それが自然に働くと肉眼では見えないものを敏感に感知するし、同時に身体がその波長に反応するらしいのよ」
「そう?理屈は分かるけど意味は良く分からないわ」
「思うに、この世にはまだまだ科学では割り切れない、不思議な現象や霊的な話は沢山あるものね。その一部分としてわたし自身が霊を見たり感じたりするんじゃないかしら」
「確かに優子の経験に基づいた話は説得力があるから、まるっきり否定は出来ない部分は認めるけど・・・。正直言うと、わたしも本当はさっきの話のつづきを聞きたかったの、でもあなた自身が嫌じゃないかなと思い、それで話の腰を折ったのよ」
「ええ、それは何となく分かっていたわ。真弓のその優しさは嬉しいし、いつも心遣いを感謝しているもの。ありがとうね」
優子は先ほどの真弓の態度で自分に対する思いやりを理解していた。だからこそ話の途中で一緒に去ることにしたし、あえて無意味と取られる自分の体験的主張をしなかったのである。それに霊的な話をすることでかえって未成仏霊が集まり、生きてる者へ必死にすがるべく新たな霊障を誘発するかも知れない。そんな危惧を感じたのも事実だった。
「真弓は信じないかもしれないけど、霊的な話をすると霊たちが寄ってくるケースが往々にしてあるのよ。そして自分に肉体がないのを嘆き悲しみ、生きてる私たちの身体に入るべくあらゆる手を使って憑依しようと試みるわ。それはもう本当に恐怖そのものよ」
「そんなことって本当にあるの?いやだなぁ怖いわ、信じたくない」
「よく、何でもないのに突然背中にゾクッゾクッとした寒気を覚えるとか、ふと後ろとかに視線を感じる時ってあるでしょ?それは霊が既に近寄っている証拠なの」
「・・・・」
「だから、この部屋に来た時わたしは考えたわ。浦部さんの話はこれからの自分を強くするための試練かもしれない。その為にはやはり続きを明日には改めて聞こうかなって」
優子は真弓をじっと見つめ、悲壮な顔つきでそう言い切った。
「よく分かったわ、そんな理由ならわたしも是非聞きたい。霊的な話をあなたから打ち明けられた時、正直特別な人だけに起きる現象だから、優子に当てはまってもわたしには一切関係ないと思ったの。でも、さっきあの窓に現れた死霊みたいな顔のことを思うと、やっぱり他人事じゃないと感じたわ。何か科学では理解出来ないことって確かにこの世にはあるかもしれない、そう思うようになったのよ。とは言っても、あれは本当に霊だったのかしらって疑念もまだいくらかはあるけどね。ああもう嫌だな、思い出すと恐怖で体が硬直しそうよ」
「たぶんあれは霊に違いないでしょうね。わたしも初めて体験した時は凄くショックだったもの。でも、自分の意思で避けられない運命のような現実を悟ったとき、色々その手の文献や雑誌で必死に勉強したのよ。その結果、霊を見る人もいれば見ない人も当然いるってことが分かったの。理由のひとつとして人間には目には見えない波長のようなものがあって、それが霊の放つ波長とたまたま一致すると肉眼で見えてしまう。それが霊との遭遇だと言い切れるし、俗に言う幽霊を見たということになるのよ」
真弓は感心した様な顔つきで優子の言葉に聞き入っていた。
「そうか、波長ねぇ。うん、確かにその説明なら納得出来るわ。幽霊ってのはまさにそういう現象を言うのかもね。でも凄いわ、優子はいつの間にそんな知識を身に付けたの?わたしなんて本当にさっきの体験をするまで霊なんて全然信じてなかったもの」
「大多数の人間って自分の目で見ないと信じないのは事実よね。でも、そういった類例がこの世には厳然と実在する真理のようなものが、今になってやっと理解出来るようになったの。それは世界中の国々で霊の世界の研究が行われていることでも納得出来るし」
優子の言い方は自信に溢れていた。完全な霊能力とまではいかなかったが、浮遊する霊たちとの接触が多くなると、自然に彼らの悲痛で恨めしい魂の叫びのようなものが、理解出来るようになったのである。
「肉体を失った彷徨える霊は、自分の死をなかなか自覚できずに現世に留まるし、人間の意思に関係なく突然思いもよらぬ超自然的な現象を引き起こし、自分の残したこの世への恨みや未練とか、または怒り憎しみを想念のまま不条理に表わすのが普通なの。それが一般に言われる霊障の類と言われているものよ」
「なるほどね、思えば理解不能な気味の悪い世界なのかもしれないわね」
「真弓、話のつづきを是非聞きたいって、明日になったら浦部さんに頼みましょうよ」
「ええそうね、聞いてから内容の真偽をわたしなりに吟味したいわ」
「でも、わたし達あんな態度で席を立ったし、他の人達が快く賛成してくれるかしら?」
「大丈夫よ、だってあの時は仕方なかったもん。まあ、わたしの独断で話を中止させたようで今になってちょっと悪い気はしてるけど。でもあんなことがあった後だから、河上さんや三平さんも分かってくれるわ」
真弓はそう言いながら笑みを浮かべ、そろそろ寝ようかとベッドに入った。そして部屋の照明を消そうと優子が壁のスイッチに近寄ったその時である、『カタン・・・』と、乾いた音がどこからともなく聞こえ、二人は反射的に音がしたと思える天井へ視線を移して顔を見合わせた。
「ねぇ優子、いまの聞いた?なんの音かしら」
「ええ聞いたわ。なんだか乾いた感じの音だったわよね。何かが天井裏に落ちたか倒れたような音に思えるけど」
つい今まで霊的な類の話題を交わしていただけに、再び怪奇な現象がこの部屋で起こったのかと、見えない恐怖で二人は表情を強張らせた。
「大丈夫みたいね、きっと何か自然の音かも」
真弓が先にそう言い切ったことで、優子も同調して納得した笑みを浮かべかけたその瞬間、『ガタガタ、ガタン!』と、更に大きな音が部屋全体に響き渡った。それを聞いた二人はベッド上でビクッと飛び跳ね、「キャァァァ―――」と絶叫して抱き合った。
それでも優子は気丈にも真弓から離れると床の上に仁王立ちし、そのまま音の発生した方へ視線を向けながら、耳を澄ましてある一点を凝視した。
「優子どうしよう、わたし怖いわ・・・」
「大丈夫よ、落ち着いて真弓。どうやらこれはラップ音みたいよ」
「ラップ音?」
「霊が何かを訴えたくて肉体を持つ人間にサインを送るとか、ったり、または逆に怖がる様子を楽しんだり面白がったりするという、霊的な意味での超常現象なの」
「よく分かんないけど、とにかくここにいるのは怖いわ。わたしには何がなんだかさっぱり理解出来ないことだらけだもの。どうしよう、河上さんたちのいる所に行くのがいいと思うから、すぐここから出ようよ」
ベッドから降りるとすかさず優子の腕を抱きかかえ、青ざめた顔で声を震わせる真弓だった。優子自身もラップ音だという事実を理解したものの、ここにいつまでも留まっていれば更なる強い霊現象に襲われるかもしれない。そう過去の経験から咄嗟に判断すると、真弓と逃げるようにして部屋から出て一気に階段を駆け下りた。
*
二階からの悲鳴を聞くと同時に河上と市河は声のする方に視線を向けたし、それを見た三平も浦部も不安な面持ちでソファーから立ち上がった。だが四人はすぐには動かず、じっと耳を澄ませて次の行動への態勢を取って身構えた。
「なんだろうな?悲鳴みたいなものが聞こえたが」
「ああ、二人の部屋からだと思う。ちょっと様子を見に行くか?」
河上の呼び掛けに市河が答え、横にいる三平と浦部にも同意を求めて階段に向かおうとしたその時、優子と真弓が青ざめた表情で階段から降りて駆け寄って来た。
「どうした?悲鳴が聞こえたから行こうと思っていたんだ。何かあったのか?」
市河が立ち止まった優子に聞いた。
「それが、今度はわけのわからない音が部屋の中で突然聞こえたんです。初めは一回だったのに、暫らくすると立てつづけに何度も激しく大きく聞こえました。でもそれは多分霊の仕業でラップ音だと思います」
「ラップ音?それって二人同時に聞いたの?」
「はい、そろそろベッドに入って横になろうかなと思った、ちょうどその時なんです」
まだ青ざめた表情が抜け切れない真弓が震え声で答えた。
「でも、見たところ無事で良かったよ。ラップ音とか言ったけど聞き違えじゃないの?ひょっとして何か天井裏で倒れたとか、そんな音じゃないのかな」
「いいえ、初めは確かに天井の方からカタンと小さな音が聞こえました。だから優子やわたしもさして気にしなかったんですけど、その後は確かにはっきりと別の音が大きく数回聞こえたのです。あれは物が倒れたなんて音じゃありません」
「わたしもそう思います。あの音の出方はとても不自然で人間の仕業とは思えないし、霊現象の一つであるラップ音に間違いありません」
河上の質問に真弓と優子は真剣な眼差しでそう答えた。その確信を持った言い方に思わず四人は顔を見合わせたが、とりあえず部屋に行き中の様子を見ることにした。
「よし、じゃあまずは我々が行ってみるよ。君らは下で休んでいるといい」
「おい三平よ、本当に大丈夫か?怖くないのかよ」
「なんだ市河、お前は怖いのかよ。男だろうが、気を強く持てよ」
「まあ、俺はその手の話は苦手だからな、彼女達をガードする役目は引き受けるから、すまんがお前ら三人で調べてくれよ」
そう主張する市河は仲間の返事も聞かずに、二人の背中を押すようにしてテーブルへと戻り始めた。
「しょうがねえな、まったく。男のくせに極め付きの臆病なんだから、まあいいさ、俺たちだけで見に行くことにしようか」
「そうするか・・・」
浦部と河上は諦め顔で二階へと向かったが、階段を上がりながらも、河上は彼女たちから過去の経緯を聞いていたで、やはりそういう現象は必然的に起こって然るべきだろうと感じていた。あの二人が口を揃えて嘘を言うはずもないし、仮にそうしたところで何ら得るものはないのである。
見えない世界からの呼びかけや警鐘とも思える数々の超常現象は、科学万能を声高に主張する者への反発なんだ。そう河上は否定する者たちの前に立ちはだかりたかった。
その根底には、(肉眼で見えるもの全てがこの世の真実とは限らない!)との持論が根底に渦巻いていたからでもあり、揺るぎなきその思考を脳裡に過ぎらせながらも、河上は階段を上るとドアが半開きになった部屋の前に立ち止まった。
「なんだよ、ドアが半分以上も開いているじゃないか」
「きっと慌てて閉め忘れたんだろうさ、あの二人の怖さは半端じゃなかったからな」
浦部に続いて三平が言葉を繋いだ。
「とにかく入ってみようぜ」
三人同時に足を踏み入れ、壁側に置かれた二つのベッドをじっと見つめたが、シーツの乱れは多少あったものの特別変わった様子は見られなかった。
もっともベッド自体がどうこうとの話ではなく、二人が仰臥していた時に奇妙な音が発生した事実が問題なんだろう、ならば同じ様にベッドに横たわればはたしてどうなのか?そんな思考を閃かせた時、河上は迷わずベッドに上がって横になった。
「おい河上、なんの真似だよ。眠くなったのか?」
浦部が驚いた顔で言った。
「いや、特別な意味はないんだ。ただ、あの二人がここに横になっていた時に音が聞こえたと言ったから、それならまず俺自身が同じ状況下に身を置いたらどうかな、とまあそれだけの発想なんだよ」
「何か根拠があってのことか?」
今度は三平からの質問だった。
「根拠なんてそんなものはないさ。だけど、ただ漠然とここにいても音が起きるかどうかは分からないし、それなら彼女たちと同じ状況を作ったらどうかと、その程度の思いつきだからな。この状態でいる間に果たして問題の音が発生するかどうか知りたいと、それだけのことだ」
呆然と佇み、怪訝な顔をする二人に対し河上はあえてそう言うしかなかった。そしてそのまま天井を見つめたり、横向きになって出窓に顔を近づけたりしたが、浦部と三平はまるで呆れたような表情で床に腰を落とすと、その行動をじっと見つづけた。
奥深い伊豆山中の別荘で過ごす夏の夜は、実に静かで快適な環境だと思わせた。しかしここまでのプロセスを振り返った時、河上にはいい意味も悪い意味も含めて、来た時からなんとなく素直な気持ちで馴染めなかったのも事実だった。
もし一人でここに泊まるとすればやはり怖気づくであろうし、ラップ音が目の前で実際に発生したならば自分自身はむろんだが、部屋にいる三平や浦部もその事実に驚いてここから逃げ出すに違いない。そんな思いを持ちながら河上は二人に視線を送った。
「しかし何も起きそうにないな。まあ、音自体は聞いたかもしれないけど、それがすぐ怪現象に結びつくとは限らないから、当然といえば当然のことだが」
「ああ、確かに三平の言うとおりだ。その程度の音なら自然発生したか、又は外部から入った可能性も十分に考えられるからな。大体この科学優先の現代にそんな怪談話なんて流行らんだろうさ。あははは」
浦部はそう言って一笑に付した。
三人が部屋に入って十分近くが経過したが、怪奇な音はおろか奇妙な現象は何一つ起こらず、もうこれ以上ここにいる意味がないと感じた河上は、仕方なく二人に出る意思を告げてベッドから降り立った。
「なんとか大丈夫のようだから下に戻るか。多分音が本当だとしてもこれ以上は起きないんじゃないかな。彼女たちが不安に感じるようなら部屋を交換してやろうと思うが、どうかな?」
「そうだな、隣には壁一つ隔てて広い和室もあるし、蒲団も二組あるのをさっき確認したんだ。まあ、言うだけ言ってみて後は二人の判断に任せようぜ」
河上の提案に三平も賛成し、とにかく一旦下に戻り彼女たちと今後の相談をすることにした。
*
「よう、どうだった?」
市河は二階から戻った仲間を見るなりそう言って近寄った。テーブルでは優子と真弓が不安げな眼差しで見つめている。
「何にも変化はなかったよ」
「俺たちのような男じゃ、そんな現象は起きないんだろうさ。あはは」
三平が笑った。
「まあ、とにかく君たちの話が事実だとしても、今夜はもう起きないと思うよ。特別な根拠があって言うんじゃないが、強いて言えばわたしのカンみたいなものだ。それと我々三人で相談したけど、もしあの部屋が嫌なら隣の和室に寝たらどうかね」
河上は二人に近寄りながら訊いた。
「本当に何の音もしなかったのですか?」
「ああ、三人で十分近くいたけど、外からの風の音さえ聞こえなかったよ。君たちの気のせいとは言わないけど、何かがそんな風に聞こえたのかもしれないな」
「そんな・・・。でも、わたしたち決して嘘なんてついてません。それにわたし一人ならともかく、優子と一緒にはっきり聞いたのですから間違いないんです。ガタガタって音が何回も部屋でしましたから」
必死に河上を見て事実を訴える真弓の形相は、いつもの柔和な表情とは打って変わり怒りに近いものだった。
優子は?と視線を変えると、同じように河上や浦部を見つめていたが、その目は真弓とは違い穏やかで冷静な観察力を感じさせた。
「それにしても君たちはよっぽど慌てたんだな、ドアが開けっ放しだったよ。あれじゃあエアコンの冷気が逃げてしまうぞ、あははは」
その場の雰囲気を変えようとでも思ったのか、三平がそんな事実まで晒して笑った。
「いいえ、ドアなんて開けっ放しにしてません。慌ててはいましたけど、ちゃんとわたしは優子が出たのを見てから閉めました、それだけは確信を持って言えます。だってカチャっていう音を聞いたし、もう一度確認の為ノブを引いたくらいですから」
「だけど、結構逃げるのに慌てたんじゃないのかい?そんなに冷静に出来たのかな、思い違いということだってあるしね」
「いいえ絶対間違いないんです。ねえ、優子も見たわよね?」
「ええ、ちらっとでしたけどドアは確かに閉まりました」
「そうか、でも我々が階段を上がって行くと半分程は開いていたし、三人の目で確認したからそれも間違いないと言い切れるがね」
浦部はそう言って怪訝な表情で河上と三平を見た。
「ああ、それは間違いなく見たな。半分かどうかはちょっと微妙だが、開いていたのは事実だ、この目でしっかり確認したからな」
三平もすかさず同調した。
それでも二人は一層真剣な眼差しで三人を見つめ、あくまで閉めたと言い張った。互いの言い分と現実の出来事のギャップを思慮した時、河上は突然理由もなく背中に冷たいものを感じ、思わずゾクッとしながら全身に鳥肌を立て小さく震えた。
恐らく浦部も三平も彼女たちの頑なな主張を聞き、解せないながらも背筋に走る何かを感じたに違いない。とすれば何故ドアは開け放たれていたのか?自然現象かそれともエアコンの風による物理的な作動なのか?いや、そのどっちでもないということは、漠然とではあったが河上は分かる気がした。
それは多分に不思議な作用であり、人智を超越した見えぬ世界からの、傲慢な我々に対する警鐘ではないのか?何を意味するかは分からずとも、河上自身は心から素直にそう感じざるを得なかった。
「なんだよ、いよいよこいつは変な話になって来たな。よしてくれよ、夏の夜の怪談話はもうお断りだぜ」
「市河、お前はその場にいなかったからいいさ、我々は二階でその事実をしっかり目撃したんだからな。まあ、ドアが開いていた事実は覆せないとしてもだ、それがどうしてそうなったかは誰も説明出来ないだろう。とすれば、やはり何か不思議な物理的作用が偶然そこに働いたと考えるしかないんだ」
三平はそう言いながら市河の隣へ座った。河上もどうやってその現象を説明すればいいのかと悩んだが、見えない世界を信じる信念を持ってしてでも、全員を納得させるだけの論理は頭に浮かばなかった。
「いくら考えても分からないものは分からないな。確かに世の中には理屈では説明できない不思議な現象はいくらもあるからな、気にしないほうがいいよ。あはは」
怪訝な表情をする優子と真弓を見ながら市川はそんなことを平然と言い、タバコに火を点けると憮然とした表情で煙を吐き出した。
なんとなく詭弁とも思える言い分を聞いた二人は、強いて反論することもなく表情も変えずに無言を押し通したが、冴えない顔つきから判断するに、恐らくはこの別荘に来たことを改めて後悔しているに違いない。河上はそんな風に感じたのである。
それでもやはりあの部屋で寝ることは憚られたらしく、
「あのう、やっぱりわたしたちはご好意に甘えて隣の部屋で寝かせてもらいます」
と、真弓が申し訳なさそうな声で言い、優子も同時に立ち上がると軽く一礼してその場から静かに立ち去った。
河上はそんな二人の辛そうな様子をただ黙って目で追うしかなかった。
*
失踪騒ぎ
別荘で二日目の朝を迎えた河上は、カーテンの隙間から朝日が差し込むのを知り、爽快な気分で横を向いた。隣のベッドでは市河が熟睡している。
(今日は十八日か、そうだ彼女たちは和室に寝たんだっけ、それで俺と市河がこの部屋を使うことにしたんだ・・・)
昨夜の出来事を思い出すと同時に、朝食の献立を思い浮かべた。
家では殆ど朝はコーヒーだけで済ましていたが、別荘には二人の女性もおり、仲間たちとの朝食も摂る必要があるのだ。何がいいかと考えた末、まずは定番のパンとドリンク、さらにはサラダ類がベターだと決断して予算を決めた。
しかしこんな山中でそれらの物を揃えるのは困難であり、仕方なく近くの町まで車で買出しに行かねばとベッドから起き出した。
「おい市河、そろそろ起きないか」
河上は彼を同行させるつもりで声を掛けた。
「おう、もう朝かよ」
「そうだ、七時を回ったしこれから町まで食料調達に行く。だからお前も一緒に付き合えよ、朝だから軽くパンと飲み物やサラダがいいだろう」
「パンだって?」
「ああ、俺たちと彼女らの朝食だから、やっぱり菓子パンか食パンにしよう。とにかくここじゃ何もないから買い出しに行くしか術がないんだ」
「そうか朝飯の支度か。まあいいけど、でも何時頃にするんだ飯は?」
「そうだな、まずは町に出て色々買い込んでからだから、一時間後くらいになるかな」
そんな会話の後、洗面所へ行く為に河上はそのまま一階へと向かった。
リビングにはまだ仲間の姿はなく、シーンと静まり返った早朝の空気は、昨夜起きた出来事などまるでうその様に清々しさを感じさせていた。
まずは高原で爽やかなる朝の空気を吸ってみるか・・・。そう思って河上がドアに近付いた時、おはようございます!」と、突然洗面所から現れた優子に声を掛けられ、目を合わせてその場に立ち止まった。
「おう、おはようさん。誰かと思えば君だったか、どう良く寝られたかい?」
「はい、お陰様で。あっ、でも真弓はまだ寝ているんです。何だか頭痛がするとかで」
「頭痛?夏風邪でもひいたのかな?」
「ええ、わたしもそう思って額に手を当てて熱を調べましたが、特別熱くもないから心配ないようですが、本人がもう少し寝たいと言うものですから・・・・」
「そうか、多分旅の疲れかもしれないな。まあいいさ、気分が良くなるまで休ませて上げなさい」
「すいません、予定では今日の午後にはここを出てヒッチハイクの旅を続ける計画でしたけど、この分ではちょっと遅れてしまうかもしれません。彼女一人置いて行くなんてことは出来ませんから」
「そうだよな、まあ我々は構わないからゆっくり休んで、体調を万全に戻してから出発すればいいよ。何しろ旅なんてのは健康で体力がないとつづけられないからな」
河上は優子にそれだけ言うと、表に出るのをやめてバスルームへ入った。
洗面とトイレを済まし再びリビングに戻ると、すでに市河と浦部がテーブルを挟んで談笑しており、三平はテーブルに数個のコーヒーカップを並べ、粉末コーヒーを器用にスプーンでカップに入れ始めていた。
「三平よ、コーヒーを持参したとは気が利いてるな。だけどパンが欲しいから、俺と市河はこれから買い出しに行ってくるよ。コーヒーは後でもらうわ」
「おうそうか、じゃあ俺たちだけでも目覚めのモーニングコーヒーを飲んでるよ、大変だけど頼むわ。適当に買いそろえて持ち帰ってくれ」
そう言って彼は早速ポットのお湯をカップに注いだが、それを見ながら河上は市河に声を掛けて車に乗り込んだ。
(確か国道135号まで出ればいいはずだ。うんなるほど、ここからは伊豆高原が一番近いのか。よし、その辺りまで行けばスーパーかコンビニの一つくらいはあるだろう)
河上は走り出す前から地図を見てルートを頭に叩き込んだ。距離にすれば僅か十キロ程でも山道は意外に長く感じるものであり、市河と雑談に興じつつ二十分程かけてやっと国道に面したスーパーを見つけ中へ入った。
食材を買い終えて来た道を戻り始めると、突然市河の携帯がコール音を発して来た、
「河上よ、俺はちょっと都合悪くなったよ。このまま皆と行動を共にするのは不可能になったみたいだ。近所からの電話でさっきおふくろが救急車で運ばれたらしいんだ」
「ええっ!どうしたんだよ、急病なのか?」
「ああ、おふくろは元々心臓が悪いし、どうもいつもの発作が起きたらしい。救急隊員が見て、多分心筋梗塞の疑いがあると言ったらしいからな」
電話を閉じた市河はそう言って表情を曇らせた。
「そうか、じゃあすぐにでも帰った方がいいな。このまま駅にUターンしようか?」
「いや、荷物もあるから一旦別荘に戻ってくれ」
「そうだよな、このまま帰れるはずもないか・・・。よし分かった」
「すまんな、なんだか迷惑を掛けたようで心苦しいが」
「場合が場合だし、そんなこと気にするな」
それ以後の市河は寡黙になり、うつろな視線でただ呆然と前を見つめるだけだった。
別荘に着くと早速荷物をまとめ、十分後には浦部の運転で彼は帰って行ったが、三平も河上も寂しさを隠せないまま車が視界から消えるまで市河を見送った。
*
「帰ったか・・・」
ポツリと三平が呟いた。
「ああ、何とか軽く済めばいいんだがな」
言った河上はふと後ろを振り返り、開けたままのドアにもたれかかる優子と目を合わせたが、その表情も沈んだように悲しく、視界から消え去る車をいつまでも追っているようだった。
「まあ、おふくろさんが急病じゃ仕方ないか、あとは電車の連絡がうまくつけばいいが」
「心筋梗塞の疑いとか言ってたし、助かることを祈るよ。しかし何か悪いことをした感じだな、この旅行に誘って良かったのかなって、そんな責任を感じちゃうぜ」
「不測の出来事だからお前が責任を感じることはないだろうさ。それより腹が減ったし、先に朝食にしようぜ、彼女たちも空腹だろうからな」
三平の言葉につられ河上も踵を返して別荘へ足を向けた。本来なら今夜こそ山を下り、近場の温泉街にでも乗り込み宴会の真似事でもしようか、とそんなささやかな楽しみもあったが、それは予想もしないハプニングで潰えたのだ。いや、それ以上に浦部が市河を送ってここに戻ったら、今後の予定を三人で話し合わねばなるまい。河上はそう考えて善後策を思案し始めた。
「三平よ、今日も昨日みたいに暑くなりそうだな」
「まあ、いまは夏だから仕方ないだろうさ。さて、腹は減ったがやはり浦部の帰りを待とうか。俺たちだけで先に済ますのも奴に悪いしな」
「ああそうしよう、一時間ほどで戻るだろうからな。あれ?ドアが閉められているぞ」
「彼女が閉めたんだろう、何しろこの暑さだからな」
三平はそう言いながらドアを開けたし、河上もその後に続いて別荘の中に入ったが、リビングにはさっきまでいた優子の姿はなくガランとした空間だけが目立っていた。
「あれ?優子さんどこに行ったんだろう?さっきまでドアの側に立っていたんだが」
「ああ、そう言えば彼女もドアに寄り掛かって市河を見送っていたな。多分部屋に行ったんじゃないのか?真弓って彼女も体調がいまいちらしいから、きっと心配で様子を見に戻ったんだろうよ、浦部が帰ったら食事に呼べばいいさ」
その言葉に河上も納得したが、とりあえずは二人の様子を見ながら朝食の件を伝えようと、階段を上がって部屋の前でドアを数回ノックした。
「はい!」
「入るね・・・」
足を踏み入れると、目の前にいたのはベッド上で上半身を起こし、やや青ざめた顔の真弓だけであった。
「真弓さん、具合はどうなの?」
「ええ、まだちょっと身体がふらつくのです。でも、もうすぐ起きますから」
「いいよ無理しないで。ところで優子さんは一緒じゃなかったのかな?」
「彼女ですか?朝ここから出たっきり帰ってきませんけど」
「そうか、変だな。さっきは下にいて我々と一緒に市河を見送ったんだ。でもドア付近に立ったままだから表に出た様子はなかったがね」
思いもかけない事実に戸惑う河上だった。
「何かあったのですか?何だか下から慌しい様子がここまで聞こえましたから、優子に事情を聞こうと思ってましたけど、彼女は朝ここから出たきり一度も戻って来ないもので、わたしも気に掛けていたんです」
「ああ、ちょっとね。市河に急用が出来て急遽帰ったんだよ」
「市河さんがどうかしたのですか?」
そう訊ねる真弓に対し、河上は正直にこれまでの経緯を説明した。
「そうですか、それは大変ですね」
「だからというわけでもないけど、残った三人で今後の予定を今から話し合おうと思ってね。このままもう一泊するか、それとも今日限りで旅行を終わりにするかって」
「今日で終わっちゃうのですか?やっぱり三人では続けるのは無理なんでしょうか」
「さあ、それは三平や浦部の考えを聞かねば何とも言えないな。わたしも彼らの意見次第で決めようと思っている。そんなことよりお腹空かない?朝食を食べられる元気が出ればいいけど、気分良くなったら下に来て食べなさい。パンとコーヒーはさっき町で買ってきたからいつでもいいよ」
河上はそれだけ言うとひとまず部屋を出て、三平のいる階下へ向かった。
*
階段を下りながらも優子が真弓のところにいなかった事実が解せず、胸のつかえが取れないままリビングの椅子に腰を落とした。
彼女は一体どこにいるだろうか?トイレかキッチンか、それともあまりの暑さでシャワーでも浴びてるのか?いや、案外と別の部屋でくつろいでいるのかも・・・?
そんなことを想像しながらキッチンを覗いたが、そこにもいないことを確認すると、仕方なく冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、コップに注いで飲み干した。
(やっぱりシャワーでも浴びているんだろう、女性だし汗ばんだ身体は気持ち悪いのかもしれないし、清潔感を保つのはある種の身だしなみだからな)
結局はそんな考えで落ち着いた。
「よう、どうだった彼女たちの具合は?」
そんなとき三平がドアを開けて入って来たが、河上を見ると二人の様子を訊ねながら反対側の椅子に座った。
「ん?ああ彼女たちか。それがな、実は彼女たちではなくて彼女だけなんだよ」
「えっ、それってどういう意味だよ」
怪訝な顔つきで聞き返す三平だった。
「真弓さんの体調はいまいちらしく、まだ食欲もないみたいだ。だけどそれより優子さんは部屋にいなかったんだ。彼女は朝部屋を出たきり一度も帰って来ないらしいが、思うにたぶんシャワーでも浴びているんじゃないかと・・・」
「シャワーか、だったら心配ないしすぐ顔を出すだろう」
納得したのか、三平もキッチンに入るとすぐにコーラー缶を手にして戻った。それからさらに十分ほど経過したが、優子は一向に姿を見せることがなかった。
「河上よ、ちょっと変じゃないか?いくらシャワーを浴びるたっていかにも遅すぎるぞ」
「ああ、俺もいまそのことを思っていたんだ。ドアの外から声を掛けてみるよ」
立ち上がった河上はバスルームに行きドア越しに呼び掛けたが、優子本人はおろか脱いだ衣服も当たらない事実に愕然として三平の所に戻った。
「いないぞ、服もないしバスルームに入った形跡すらないんだ」
「いない?そんなことってあるのかよ」
「しかし変だ、さっき市河を送る時には確かドアの側に立っているのを俺ははっきり見ているんからな。ちょうど三平、お前の後ろくらいに立っていたよな」
「ああ、俺もそれは知っていたよ。でもすぐドアは閉められたから、きっとトイレでも行ったんじゃないかと思ったんだ。心配ないさ、いずれにしても今に顔を出すだろうさ」
「そうだな、それじゃあもう少し待ってみるか。女性はデリケートだからな。ははは」
軽い笑いを放った河上は三平を見ながら再びテーブルに座り、コーヒーカップや数種類のパンを皿の上に並べた。
(もう少し経てば浦部も戻るだろうし、真弓さんはまだ先になるだろうが、とりあえずは我々だけで簡単な朝食を摂ることにするか)
そう思いながらタバコを口に咥えて火を点けたが、やはり本来いるはずの女性が忽然と姿を消した事実は普通ではなく、簡単に気持ちを切り替えることは出来なかった。
(最後に見た時からすでに二十分以上は経過しているから、やっぱりなにか変だぞ。あの時確かに俺は彼女と視線を合わせ、市河を見送ってから三平と家の中に入ろうとした。しかしその時は既にドアが閉まっていたんだ。と言うことは、やはり彼女が自分の意思で閉めたのは間違いなく、確実にまだ別荘の中にいたことになる。俺たちが入るまで僅か数十秒程度だから、その間に姿を消すなんてのは常識では考えられない。じゃあ一体どこにその身を置くというのだろうか?)
あの知的な優子の笑顔を思い浮かべ、河上はそんな経緯を冷静に振り返った。
限られた空間で、大人一人が忽然と消えるなんて常識ではありえないことだろう。ならばこの別荘のどこかに必ずいるはず・・・。そんな軽い気持ちの憶測を抱きながら気にかけていたが、更に数十分経過しても優子は姿を見せることはなかった。
そんな時、表で車の止まる音が届くと浦部が汗を拭きながら顔を出した。
「やっと行って来たよ、市河は相当気持が落ち込んでたし、しきりにおふくろさんの病状を気に掛けてたよ」
「そりゃあそうだろう、母一人子一人だもんな。まあとにかくごくろうさん、コーヒーとパンだけはとりあえず用意したから食べてくれ」
彼を見て河上は言葉で労をねぎらった。
「ああ、いまもらうわ。それにしても駅まで結構あるもんだな、大体が山道は長く感じるものだけど、いささか疲れたよ」
「電車の連絡はどうだった、上手い具合だったか?」
「さあ、それは分からんな。とりあえずは伊豆高原駅で降ろして別れたが、伊東でJRに乗り換えだろからな。あれ、ところで三平はどうした?」
「ああ、やつは多分二階かもしれん」
河上が言い終えると同時に三平が階段から姿を現した。
「おう、浦部よ戻ったか」
「お前どこにいたの?」
「俺か、部屋にいたし車の音を聞いたから下に来たんだ。じゃあそろそろ三人で飯にしようよ、もう完全にはらぺこだぜ」
そう言って三平は率先してカップにポットの湯を注いだが、それを見た河上と浦部は椅子に座り、目の前に置かれた菓子パンとサラダに手を伸ばして黙々と口に入れ始めた。
食べながらの話題といえばやはり市河のことだった。だがそれも一段落する頃、「ところで、この先の予定をどうしようか?」と、河上は懸念していた思いを二人に向けた。
「どうするって、それは旅行をつづけるかどうかってことか?」
浦部が答えた。
「そうなんだ。市河がリタイアしたし、このまま明日一杯ここにいても仕方ないだろうと思ってな。お前たちの率直な考えを聞きたいんだ。俺は今日の午後にでも帰っていいと思っているが」
「まあ、河上の気持ちも分かるがな。で、どうする三平は?」
「そうか、今日でこの旅行を終わりとするか、それとも予定通り明日いっぱいつづけてから帰るか、さてどうしたものかな」
「いずれにしろ、まずは彼女たちを今日か明日にはどこかで降ろしてやらねばいかんだろうしな」
なにげなくそんなことを口にした河上は、
「おい、こんな話をしている場合じゃないぞ、優子さんがさっきからこの建物の中に見えないんだ。かれこれ一時間近くなるし、ちょっとばかり様子が変だと思わないか?すぐに手分けして捜そうぜ!」
と、二人に問いかけた。それを聞いた浦部と三平は顔を見合わせ、動かしていた手を止めて立ち上がった。
捜索
浦部は表の道路沿い、三平は左右の雑木林、そして河上は裏手の捜索へと素早く分担を決めたが、その前に真弓さんに事実を伝えるべく、河上だけが階段を駆け上がって部屋をノックした。
「どうぞ!」
「入るね・・・」
「どうかしたのですか?何だかすごく慌てている様子ですけど」
真弓は不安な面持ちで訊ねた。
「ああ、実は優子さんのことなんだよ。彼女、あれから我々の前に全然姿を見せないから少しばかり心配になってね。さいわい浦部もさっき帰って来たし、今から三人で手分けして捜すことにしたんだ。しかしどう考えても変なんだな、確かに市河を送る時にはドアに佇む彼女を見たのに、それからまったく姿が見えないんだから」
「優子が消えたってことですか?そんなこと信じられないわ。黙って姿を隠すなんて、絶対彼女に限ってそんなはずはないし、きっと何かが突発的に起こったんだと思います。でも、本当に優子に何かあったらわたしどうしよう・・・」
「とにかく君はここにいた方がいい。最悪の場合は警察に捜索依頼を出すことになるかもしれないが、その前に考えられる所は我々で徹底的に捜すからね」
「よろしくお願いします」
彼女の目は哀願するように潤み始めた。
河上は何かあったら自分の携帯へ連絡するように念を押し、すぐに一階へ降りて別荘の裏へと回った。
裏庭には隣地との境を示すブロック塀があったが、数メーターほど奥に入ると雑草が青々と生い茂り、背の高い潅木が場所を選ばす行く手を大きく遮っていた。
高原でも歩き続けるうちには汗が噴き出し、地面からの草いきれと、頭上から照射される太陽の熱量が凄まじく、数分で体力の消耗をもたらせる不安を掻き立てた。
(しかし一体どうなってるんだ。ドア付近にいたのは間違いなくはっきりしているのに、市河を乗せた車が見えなくなり、振り返った時にはもう彼女はそこにいなかった。三平も見てないし、あの広いリビングには隠れるような場所はないんだからな。優子さんはどこに消えたというんだろうか。もちろん真弓さんの所にも戻ってないのは明らかで、トイレや全ての部屋を捜したけど、どこにも見当たらない。ということはやはり神隠しなのか?まさか、この現代にそんなことがあるはずもない。だがもしこのままなら本当に困ったことになるな・・・)
彼女たちを箱根神社で気軽に乗せたことの責任が河上を憂鬱にさせたが、自分たちの知らないところで誘拐などという事件が発生していたとすれば、それこそ取り返しのつかない大事に発展すると、さすがに身震いするような恐怖で顔が引きつった。
時折、表の方からも彼女の名前を呼ぶ声が届き、まだ発見に至らない現実を認識させてはいたが、なぜこんな事態を招いたのか?いくら自問しても明確な答えなど導けない苛立ちと、言葉に出せない焦りが徐々に気持を萎えさせた。
思わずため息を漏らして天を仰いだが、気を取り直すと何かに急き立てられるように河上は叢の奥へと入って行った。
ここからじゃ下の様子は良く分からん。まずは降りて調べる必要があるな・・・」
恐々と近寄って下を覗いたが、高所が苦手な河上にはそれ以上の接近は無理であり、仕方なく一旦引き返して三平や浦部に相談することにした。
*
真夏の太陽から容赦なき熱量を浴びせられ、別荘への道を辿る河上の疲労はもはやピークに達していた。足取りは重く、次第に落ち込む気持を何とか奮い立たせたが、最悪の事態を思うと糸が絡まるような焦りと苛立ちで戦いた。それでも優子の発見に可能な限りの努力はせねばと自戒し、自棄になりかかる気持ちに鞭打って歩きつづけた。
噴き出る額からの汗を手の甲で拭い、数分かかってやっと別荘まで帰り着くと、まず裏の出入口を一瞥して表へと回った。そこでは既に戻った三平と浦部が真弓を加えて話をしており、三人が同時に不安げな表情で河上に視線を送ってきた。
「河上、何か分かったか?」
浦部が言った。
「いやだめだな、さっぱり手掛かりがない。どうやらそっちもだめだったようだな」
「ああ、俺も三平も彼女の発見には至らなかったよ。でも考えると実に不思議だし、まるで神隠しにあったみたいな話だ。まあ、ちょっとふつうでは考えられないことだろう。それに俺は市河を送ってその場にいなかったから、詳しい状況は良く分からんしな」
「そうだよな、それでも俺はお前と市河を見送った時には、確かにドア近くに立つ優子さんを見たんだ。そして三平と中に入ろうとしたら既にドアは閉まっていたし、入ったらもう彼女はいなかった。それが真実なんだから実に奇怪な話としか言いようがない」
「うん、まず彼女が閉めたのは間違いないと思うよ。他には誰もいなかったからな」
河上の言葉に三平が補足した。
「優子は生まれつき霊感みたいなものを持っていて、過去に何度となく不思議な経験をしたらしいのです。そしてここに着いた時も、何か見えない霊に少しずつ導かれているみたいだから、気味が悪いってわたしに言いました。もちろんわたしは信じられなかったのですけど、今にして思えばそれが今度のことへの予兆みたいにも思えるのです」
三人の会話を黙って聞いていた真弓は、話の切れ間を見てそんなことを打ち明けた。
「そう言われれば、ここに来てから二人に対して変な現象が起きたのは事実だったな。でもそれが今度のことに関係するかは疑問だし、結びつけるのは無理があるかもしれんな」
「それは確かにそうですけど、ただ優子が突然理由もなく姿を消すなんてあり得ないし、まったく信じられません。きっとそこにはそれなりの理由があるはずです。何か変なことに巻き込まれたのか、それとも本当に霊的な現象に関わる変事が起こったのか、そのどっちかだとわたしは思います」
浦部を見据えるように真弓は答えた。
「とにかくここに立っていても体力を消耗するだけだ。一旦中に入って今後の対処法を考えよう。まず冷静に現況を分析しなければ先に進めないからな」
喉の渇きを知った河上は三人に提案し、別荘のドアを開けて足を踏み入れた。
疲労感を滲ませてリビングのテーブルに座った四人だが、誰一人として目の前の理解不能な出来事に対する的確な言葉も出せず、押し黙ったまま時間だけを無意味に過ごすしかなかった。
人間一人の消息が突然絶たれるというハプニングは、余りにも衝撃で残酷過ぎた。そんな状況下では誰もが軽々しく言葉を発する気にならなくて当然だったが、時だけが無情に過ぎ去ってゆく焦りと、なす術もない無力な己への苛立ちは、残った者たちそれぞれが否定出来ない、耐え難き苦痛に変わろうとしていたのである。
まったく予想外の奇怪なる出来事だった。それゆえ、先の見えない霧中のような不安が全員の気持ちを萎えさせ、憂鬱な気分による長い沈黙が場の空気をより重くしていた。
「とにかく、もう少し休んだら捜索を再開しよう。今はそれしかないし、日没まで捜しても優子さんが見つからないようなら、最後の手段として警察に依頼するしかないと思う」
河上は顔を上げるとそう言い切った。
「そうだな、我々に出来ることはそれしかないだろうな。もうじき昼だが、ひょっこり姿を現してくれればいいんだが・・・」
三平も天を仰ぎながら呟いた。
「もう一度冷静に状況を整理しようぜ。良く考えれば彼女がこの家から黙って出ると仮定しても、玄関の他にはキッチンの裏口しかないんだ。と、言うことは何かの理由があってあそこから出たと考えるのが自然じゃないかな」
「そうだよ浦部、俺も今それを考えていた。だって二階からは表に出られないし、出ようとすれば窓から飛び降りるしかない。まさかそんなことは彼女に出来るはずもない」
「じゃあ、やっぱり裏口から出た可能性が高いってことですね。優子が一人でこっそりこの家から姿を消したなんてまだ信じられないけど、なにかよほどの訳があったのかしら?でも河上さん、その裏口はどうなっているのですか?」
浦部と河上の会話を聞いた真弓は、納得出来ない表情のままそんな質問を投げかけた。
それを聞いた河上は裏口から表へ至る状況を詳細に説明し、まだ優子さんの発見の可能性があることも忘れず付け加えた。
「河上の話だとここからその場所までは結構距離があるみたいだ。それに先が崖なら誤って落ちた可能性も考えられる。だけど、その下へは簡単に降りられるのか?」
「分からんな、だから三平とお前に手伝ってもらい、何とか下まで降りられるルートを探そうと思ったんだ。この別荘を中心にこれだけ捜しても見つからないとすれば、ひょっとしてあの崖から落ちた可能性がないとも言えん。そうなると怪我をしていることも十分考えられるし、少しでも早く発見しなければ命に関わる問題だ」
「よし、そうと決まれば早速行ってみるか!」
三平の一言で河上は立ち上がり、浦部を目で促すと再び裏口からの調査態勢に入った。
「真弓さん、あんたはここに残っていてくれ。もしかして優子さんがひょっこり戻らないとも限らないからね」
「分かりました、気を付けてくださいね」
「ああ、充分気を付けて捜索するよ、もし何か分かったらその時点で我々の誰かがすぐ連絡に戻るか、または携帯に電話する。だからそのつもりで待機していてほしい」
不安そうな目で見送る真弓を見て、河上はそう言い残すと別荘から出た。
*
「おい、まずは腰にしっかりとロープを巻けよ。そしたらゆっくりと降ろすからな」
三平が浦部に言い、河上もロープを解いてその支度に入った。
十メーターというその高さは、下から見るより遥かに恐怖心を覚えるものだった。
『人間が一番恐怖心を持つ高さが十メーターくらいですね・・・』そう言い切った落下傘部隊の隊長の言葉を河上はふと思い出したが、恐々と下を覗き改めてそれを実感した。
「浦部よ、ロープの元はあの太い幹に結ぶし、お前が降り切るまでは俺たちがしっかり持っているから大丈夫だ。安心していいからな」
「分かった。下に着いたら早速周囲を捜して見るよ、もし何か分かったらすぐ声を掛けるからな。だけど河上、もし優子さんを発見出来てもこの状況では上に引き上げることは不可能だぞ。そのことに対しても何か策を考えねばいかんだろう」
「そうだな、確かにその通りだ。梯子はないし、まさかロープだけでここまで引っ張り上げるなんてのはちょっと無理だからな。三平どうしようか?」
河上は改めて現実の難題を突きつけられた気がした。しかしそれを考えるのはあくまで良い結果を得てからの話である。
「とにかく今は彼女を発見するのが優先課題だ、見つかったら改めて警察か消防に連絡すればいいんじゃないか?」
戸惑う二人に向かって河上はそう自分の考えを述べた。
「まあそうだな、それしかないだろう。よしとにかくやることだけはやってみよう。じゃあ浦部、用意はいいか?」
「ああいいぞ、ゆっくり降りるからな。二人でしっかりロープを掴んでいてくれ」
三平の言葉を合図に浦部は崖を下り始めたが、二人はそのまま引きずられない様に足を踏ん張り、腰を落として少しずつロープを緩めていった
「もう少しだ、あと三メーターくらいで下に着くぞ」
「様子はどうだ、雑草が結構深いみたいだけど確実に降り切ったら教えてくれ」
「分かった、三平も降りるか?」
「いや、まずはお前だけで捜索してくれ。あとにつづくかは結果次第だ」
「おい浦部、余り無理するなよ。初めての場所だし何があるか分からないからな。穴でもあったら大変なことになる、くれぐれも注意してくれよ」
河上も頭上からそう声を張り上げた。
やがて彼は地面に足を着けたが、すぐに腰に巻かれたロープを外すとその場に立ち止まった。そして持参した長めの棒で草むらを薙ぎ払うように進み始めたが、いみじくもそれはよくテレビで見る警察官などによる捜索場面に酷似していた。
河上は崖から少し離れた場所に立ち、浦部の動きを注意深く目で追い続けた。そこは上から見ただけでも広大な原野であり、とても一人では隅々までの捜索は無理だろうと思えたが、といってすぐに三平と降りることも適わず、仕方なく待つだけしか術はないと自分に言い聞かせた。
とにかく何か手掛かりとなるような収穫が欲しいと願い、生きたまま優子さんを無事保護することを誰よりも河上自身が切望していたのである。
浦部が降りてから十分近くが経過した。
上から見ていても未だ何の反応もないままの動きが繰り返され、頭上からはジリジリと真夏の太陽が照りつける厳しさがあった。その上、地上ではその反射熱が膝の高さまで伸びた雑草から蒸れ上がるという、そんな悪状況の中での捜索は困難を極めたのだ。
「どうだ、まだ何も見つからないか?何か彼女の持ち物でも落ちてないのか?」
河上は見るに見かねて思い切り叫んだ。
「だめだ!ここは草が思った以上に深くて多いからな、それに広すぎて一人じゃ捜すにも限度がある。暑さでのどがカラカラだから脱水症状になりそうだ」」
「そうか、一人じゃやっぱり無理か・・・。よし、あとで水分補給の準備をするよ」
「ああそうしてくれ。まあ、もう少し探してみるが」
「三平よどうする、浦部一人じゃ時間ばかり経つだけで一向に埒があかないぞ、やはり警察と消防に頼むか?」
「う~ん、そうだなあ、ここが思案のしどころかもしれんが、もう少し待ってみよう」
河上と目を合わせながら表情を曇らせた三平は、出来ることなら問題を大きくせず自分たちだけで解決したいという、戸惑いと迷いの思いを顔に出した。
しかし人間が一人、それも若い女性が消息を絶っている現実は、そんな身勝手な考えを優先させる状況ではなく、もし最悪の結果だったらどうなってしまうのかと、良い結果よりも悪い方向への考えが二人の胸中で激しく渦巻き始めたのである。
そんな身震いするような不安を払拭すべく、河上は自分も降りて捜索しようと覚悟を決めたその時、「お~い、ここに何かあるぞ!」と、突然浦部が下から叫び声を上げた。
「なんだ!何かあったのか?」
「河上でも三平でもどっちでもいいから、ちょっと降りて来られないかな?」
「よし、じゃあ俺が行くよ」
じっとしていられなくなった河上は、遅々とした動きに苛立ちながらもしっかりロープを握り、慎重に十メーター下の地面目指して降下を開始した。
*
「ちょっと怖かったな。やはり自分で降りると結構高いし、目がくらむわ」
「そうか、河上は高所が苦手だったな。まあそれよりとにかくこれを見てくれ」
「これはお守りじゃないか。これって優子さんのか?」
「いや、それは分からない。だけど真弓さんに見せれば彼女の物かどうかはっきりするだろう、そう思って拾ったんだ」
「結構新しいな、古いものならもっと汚れているはずだ。確か別荘で怪奇現象を見たって言った時にお守りの話が出たよな?もしこれが彼女のなら間違いなくここに来たことになるが・・・。しかし、あの高さの崖を降りたとは考えにくいぞ」
河上は浦部にそう言った。
「お~い、何かあったのか?」
二人の様子を見た三平が大声で上から叫んだ。
「ああ、何かのお守りを見つけたんだ。だけど優子さんの物かどうかは分からない、だから真弓さんに見せてみようと思ってな」
浦部がそれを上に掲げた。
「しかし浦部よ、さっき三平とどうやって上に戻るかって話をしたんだ。まあ、もう少し捜そうとは思うが、このまま彼女が見つからなかったら、俺たちも一旦別荘に戻らねばならない。だがどう見たってここから十メーターも上にロープ一本で、しかも三平一人の力で引き上げるのは無理だと思うんだよ」
「なるほど確かにそうだ。それに改めてここから見るとやはり高いし、ビルの三階に匹敵する程だもの不可能だろう。だがどっか上に繋がる道はないのかな?なんとなくありそうな気もするんだが・・・」
「まあ、どうしてもダメなら、俺たちがしばらくここにいて助けを呼びに行ってもらうしかないが、困ったぞこれは」
「三平にか?」
「それしかないだろう」
河上は浦部を見つめてそう言ったが、助けを求めるにしてもこんな山の中だし、果たして思惑通りにことが進むのかと不安になった。それでも三平が別荘に帰り着き、急いで消防か警察に救出の電話をすれば十分に自分たちの救助は可能だろう。または別荘近くの家に助けを求めても、ここから出るのはそれほど困難なことではないかもしれない。そう楽観的な見方をした時、河上はいくらか気持が安らぐのを知った。
「おーい、どうするんだ、捜索はこれで一旦終わるかそれともまだつづけるのか?」
崖の上から三平が怒鳴った。
「浦部よどうする?せっかく彼女の失踪手掛かりが見つかったし、まだ三時過ぎだ。このままもう少し捜してみるか、それとも一旦ここで切り上げるか?」
「そうだな、その前にこのお守りが優子さんのだと分かればいくらか希望も持てるが、まるっきり見当違いだったらちょっとばかり虚しくなってしまうぞ」
「よし、じゃあ俺たちはこのままここに残って、お守りだけを三平に渡して真弓さんに見てもらおう。ここからなら別荘まで僅かな距離だし、奴に帰ってもらいまずは確認を急いだ方がいいだろう」
「ああ、それしかないだろうな、後のことはその結果にすればいい」
意見の一致をみた河上と浦部は早速そのことを三平に伝えた。そしてロープにお守りを縛り引き上げてもらい、それを真弓に見せて確認を頼んだのである。
やがて三平がそれを手に取って二人の前から消えると、それまで張り詰めていた気持ちが急に緩んだのか、河上は精神的な疲労感で思わずその場にしゃがみ込んでしまった。
*
その頃別荘に一人残った真弓は、まだ完全とはいえぬ体調でリビングの椅子に腰掛け、うつろな目で考え事をしていた。
「だけど、わたしの身体は一体どうなってしまったのかしら?昨夜蒲団に横になった時には特別これって変化はなかったのに、朝になって目が醒めたらなんだか急に倦怠感を覚えて、身体全体がしっかりしなかったわ」
ぼんやりと頬杖をつき、独り言のように呟くと今度はふと優子のことを考えた。
(優子は普通に起きたし、確か『おはよう!』って、言葉を交わしてから洗面所へ向かったはず。そして数分後に戻ると、わたしのベッドに近寄って今日の予定などを嬉々として話し始めたわ。ただ、その時わたしが体調不良を訴えたものだから仕方なく部屋を出たけど、それ以後は一度もここに戻って来なかった。下では市河さんの話の真っ最中だったとか河上さんから聞いた。そして市河さんが浦部さんの運転で急遽帰ることになり、河上さんと三平さんが見送ったらしい。それを優子も見ていたって話だけど、その後に突然姿を消したなんてどう考えても信じられないわ。いくら霊感が強くても、煙の様に突然消え去るなんてことがあり得るのかしら?でも優子の霊感体質と今回の失踪は、やっぱりどこかで関係あるのかもしれないわね、理由は分からないけどそんな気がする)
あれこれ思考をつづけたが、それに対する一切の証拠も裏付けもなく、明確に納得できるものは得られないままだった。
「真弓さん、ちょっとこれを見てくれないかな」
そんな時、三平が裏口から戻って真弓の傍らに近付き、手にしたお守りをテーブルの上に置いた。
「あっ、これは優子のお守りです!」
「そうか、やっばりな」
「これをどこで、誰が見つけたのですか?」
「浦部がこの裏手の崖下で見つけたんだよ」
「じゃあ、優子はそこに?」
「いや、彼女の姿はまた見つかってない」
「そうですか、でもこれが落ちていたなんて不思議です。きっとその付近にいるんじゃないかしら・・・」
真弓は驚いた顔で手に取るとじっと見入った。そして裏返すと納得顔で頷き、
「この神社は優子の実家の近くにあるらしく、彼女は今回の旅行が決まる前に、自分の霊媒体質から旅先が実現したら何か怖いことが起きるかもしれない。そう思ってこのお守りを母親に買ってもらい、郵便で送ってもらったとわたしに見せました」
「そうか、じゃあ確実だな。となると、やはりあの場所に優子さんがいたのは間違いないだろうな」
「そこはどんな所なんですか?」
「この別荘の裏から歩いて数分の所だけど、ただ先に行って直角な崖になっている。高さは十メーター以上あるが、下に降りる階段や梯子みたいな物は一切ない。だから、果たしてどうやってあそこに降りたのか全然見当もつかないし分からないんだ。仮に落ちたとしても優子さんがそこにいないのがそもそも変なんだよ」
三平はゆっくりと言葉を選びつつ、真弓の前に座ってこれまでの状況を説明した。
「でも、本当に優子はそこにいたのかしら?」
「さあ、それも正直言って分からないな。このお守りが落ちていたから彼女もその場所にいた。そう短絡な結論は早計過ぎるし、うがった見方をすればそう思わせる為に誰かが意図的にお守りだけをそこに置いた、もしくは投げ捨てたとも考えられる」
「ええっ、そんなことってあるんですか?でも、仮にそうだとしても、そうする理由って一体何なのかしら?」
「いやいや、それはあくまで一つの仮定話で可能性だからね。実際は優子さん自身がそこにいたのかもしれないから断定は出来ない。まあ、いずれにしてもこれが彼女の物だと分かっただけでも手掛かりにはなったんだ。とにかく河上や浦部が待っているから、その事実を早速にも知らせてくるよ」
三平は真弓にもう少し捜索を続けるかもしれないとも言いたすと、再び裏口から慌しく出て行った。
失踪の謎
河上と浦部は放心した思いで草むらに腰を落とし、三平からの連絡を待った。相変わらずジリジリと照りつける太陽は、まだその威力を誇示するかのようにしつこく二人に降り注いでいた。
「しかし暑いな、今年は特に猛暑だぜ。おっ浦部よ、どうやら三平が戻ったみたいだぞ」
「そうか、じゃあ崖下まで行ってみよう」
河上の言葉に素早く反応した浦部は、立ち上がって崖下へと歩き出した。
「三平、どうだった?」
「やっぱりあのお守りは優子さんの物だったよ。この旅行に発つ前に実家近くの神社で母親に買ってもらったらしい。真弓さんが確認してそう証言したから間違いないだろう」
「そうか、じゃあ彼女やっぱりここに来たんだ。でもそうなるとどうやってここに降りたかが問題になるが」
「いや河上よ、必ずしもここに降りたとは限らないぞ。誰かが意図的にお守りを投げ捨てたのかもしれない。または本人が捨てたとも考えられる」
浦部が言った。
「本人が捨てた?そうかなあ・・・?じゃあ、仮にそうだとしても理由はなんなんだ」
「さあ、そこまでは俺にも分からんが」
「大体、彼女自身の居所が分からんというのが気に入らん。もし誘拐した人物がいたとしても、犯人がここに投げ捨てた訳は理解不能だからな」
「誘拐?そんなことをする奴がいたのかな?その目的はなんだろうか」
河上は浦部の突拍子もない考えに驚きながら言い返したが、それぞれの見方は色々であり、誘拐という可能性も捨て難いのは確かであった。
「とにかくまだ左半分は捜してないし、時間の許す限りは続けるしかないだろう」
「ああそうだ。お~い三平、真弓さんの具合はどうだったんだ?」
浦部が思い出したように大声で上にいる三平に訊いた。
「えっ、ああ真弓さんか。俺が裏口から入った時は一人リビングでポツンとしていたよ。余り元気そうには見えなかったな。まあ、親友が突然姿を消したから無理もないが」
「そうか、じゃあとりあえずは心配ないってことだな。とにかく河上と一緒にもう少しここを捜してみるから、お前は一旦別荘に戻ってくれ。そうだな、あと一時間位したら又ここに来てほしいんだ。それまで出来れば梯子などを手に入れてくれれば助かるが、ちょっと無理とは思うけど何とか探してみてほしい」
「梯子だって?そいつはどうかな、だってこの高さの梯子なんて一般的じゃないだろう。消防車並だぜ十メーターなんて」
三平にそう言い返され、河上は改めて目の前の現実を理解した。
ビルの三階に匹敵する梯子など普通の民家にあるはずもない。あってもせいぜい五メーター程度だろう。その事実を悟ったとき、河上は日没前に第三者の手で救出される姿を想像し、諦めの境地で覚悟せざるを得なかった。
だが、自分たちのことよりやはり失踪した優子さんの方が心配だった。朝の僅かな時間に忽然と姿を消し、一切の手掛かりもないまま一日が過ぎようとしている。その理解し難いむごさになす術もない虚しさが口惜しく、思わずため息混じりに天を仰いだ。それでも拾ったお守りが彼女の物と分かったことは収穫だと考え、いくらかは報われた思いで胸を撫で下ろしたのである。
「浦部よ、そろそろ再開するか!」
「ああ、時間が惜しいからな」
河上は浦部と顔を見合わせ、重い足取りで再び歩き出した。
既に調べ終えた右側は、地形的に見ると先に行くにしたがって狭くなっていた。崖に沿って五十メーターも進むと、そのまま高い岩肌が露出して行き止まりになったが、それでも二人で半径百メーター位は丹念に調べ上げたし、遠くに見える小屋らしき所まで行き、中に入ったりもしたが手掛かりは得られなかった。
残るスペースはさらに奥まった半分のエリアに限られたが、そこは面積が前半分の三倍近くもある雑草地ゆえ、とても残りの時間内での捜索は無理だろうと河上は感じていた。
それでも気を取り直して浦部と手分けして歩き出したその時である、「お~い!お~い!」と、崖の上から叫ぶ三平の大きな声が背中越しに届いて来た。
*
浦部も一瞬足を止め、怪訝な顔で振り返った。
「三平だな、どうかしたのかな?」
「とにかく戻ろうか・・・」
足を止めた場所から崖下まで戻ると、三平が大声で二人に怒鳴った。
「おう大変だぞ!優子さんが別荘にいたんだよ。まったく一体どうなっているのか俺にはさっぱり分からん。ミステリーじみてなんだか寒気がするよ」
「ええっ!彼女が別荘に戻っていた?じゃあ無事だったんだな。で、優子さんはどんな様子だった」
河上は彼女の状態を知ろうと急くような口調で三平に訊いた。
「ああ、見たところ怪我もなさそうだ。ただ・・・」
「ただ?ただ何だよ、何があったんだ」
「幸い怪我をしてる様子はないけど、なんだか魂が抜けたみたいな感じでな、しばしボゥーッとしたままなんだ。それにまだ詳しく聞き出してはいないが、わけの分からないことを口走ってな」
三平はそう答えた。
「そうか、とにかく俺たちもすぐ別荘に戻る。といってもこのままじゃどうしようもないし、どうしたら上に出られるかが問題なんだが」
「そうそう、実はそのことだけどな、俺は別荘に戻ってふとこの場所を地図で見たんだ。するとここから東南方向に県道があるのが分かったんだよ。おまえのその位置から左に一キロ程進めばぶつかるだろう。二回も確認したからまず間違いない。だから県道に出て道なりに戻れば数十分足らずで別荘に着けるはずだ」
「ここから東南に一キロもか?結構な距離だな」
浦部が呆れた様にぼやいたが、河上はとにかくその道まで歩かねばと決意した。
「浦部よ、とにかくここからじゃ上に出られない。三平が調べてくれたからそれを信じて行くしかないぞ。俺も早く彼女と話がしたいし、ここにいても時間のロスだからな」
「一キロか。まあ普通に歩いて十分位かかるが、仕方ないそうするより他に出られる方法もないからな」
「じゃあ三平よ、とにかく浦部とその県道目指して行くことにするから、お前は別荘に戻って優子さんと真弓さんを見ていてくれ」
「よし分かった。県道から別荘までは大体二十分程度の距離だ。何にしてもその道に出るのが先決だからな、気を付けて来いよ」
言い終えると同時に彼は走り去った。
「なあ浦部よ、一体これってどういうことなのかな?」
「分からんなぁ、彼女はどこで何をしていたのか、どうやって別荘に突然戻ったのか全て謎だらけだ。まあ、本人にじっくり聞くしかないだろうな」
「そうだよな。神隠しにあったみたいだし、失踪事件として大騒ぎになるところだったからそれだけでも幸いだ。とにかく無事が確認されただけでも正直ホッとするぜ」
「ああ確かに、このままもし最悪のケースにでもなっていたら、俺たちの責任だもんな。それが避けられただけでも良しとしなければいかんぞ、なあ河上よ」
「まさにその通りだ」
日没が迫ってもなぜか暑さだけは一向に緩む気配がなかった。それでも河上は安堵感に気持ちを和ませ、少しでも早く彼女の顔を見ようと歩調を速めた。そして額の汗を拭いつつ浦部と十分以上歩き続けたし、木々の間から疾走する一台の車を視認しながらもなんとか県道に達したのである。
信じられない話
頭上から注ぐ真夏の太陽照射と道路の反射熱を受けた為か、汗ばんだ身体がまことに気持ち悪く、河上は別荘に入ったらすぐにでもシャワーを浴びたかった。しかしそんなことは後回しだと、足を踏み入れるとすぐに室内を見渡した。
さすがに別荘の中は別世界だった。大粒の汗は一気に引っ込むかの涼しさを頬に感じ、生き返ったような快適さに思わず浦部と顔を見合わせて頷いた。
「やっぱり涼しいな、外とはえらい違いだぜ」
「やっと戻ったか、お疲れさんだったな」
三平がキッチンの方から近寄った。
「ああ、さすがに疲れたね。なにしろとにかく暑いし、一キロも延々と歩き続けてもうクタクタだよ。でも三平、お前のお陰で大騒ぎにならなくて済んだ。しかしよく地図を見ることを思いついたな、たいしたものだぜ」
「たしかに三平の機転で大げさにならずに済んだから、助かったなと河上と話しながら来たんだ。梯子の用意だ救出作戦だって、地元の人たちに声を掛けたら、結局は大騒ぎになるのは必至だったろうからな」
「正直いって消防や警察は別としても、それなりに人を集めねばなるまいと悩んだのは事実だったよ。だけどここに戻る途中、ふと地図を見たら何か分からないかなと思い、車に戻って道路マップであの場所を確認したんだ。そして真弓さんにそれを言い残してお前たちの所へ戻ろうと中に入った瞬間、そこに呆然とした顔で立っている優子さんとバッタリという訳だからな。さすがに心臓が止まりそうだったぞ」
そう言って三平はドア付近を指差した。
「そうか、で彼女は今どこに?」
「ああ、確か真弓さんと一緒の部屋にいるはずだ」
「分かった、浦部お前も来るか?」
会話を終えた河上は足早に階段へと向かい、二人がついて来るのを知りながらも、何から聞こうかと焦る気持を抑えてノックした。
「はい・・・」
「河上だけど、入っていいかな?」
「どうぞ!」
声は優子ではなく真弓だった。
中に入ると二人は向かい合うようにして畳の上に座っていたが、河上はすぐに優子の傍らに近寄った。
「優子さん大丈夫かい?」
「・・・・ええ、皆さんにご心配かけて申し訳ないと思ってます」
小さい声だが優子はしっかりと答えた。
「見たところ怪我などしてないようだが、とにかくこれまでの事情を我々に教えてくれないか?すごく心配したし、言葉では言えないくらい神経が参ったからね」
「でも、まあ結果としては良かった。無事でここに戻れたことがなによりだからな」
浦部もそう言葉を添えた。
二人を囲むように座ると、今度は三平が口を開いた。
「だけど、よく考えるとなんだかさっぱり分からんことばかりだ。幾ら考えても経緯が掴めんし、確かに俺の記憶では市河を送る時に君の姿を見たんだがね」
「そうだな、それは俺も見たから間違いない。だが、その後に突然優子さんはこの別荘から姿を消した。だから君の覚えている範囲の事情を詳しく我々に聞かせてほしいんだ」
河上はそう言って彼女を見つめた。それを聞いた優子はゆっくり顔を上げて三人を交互に見回し、「実は、わたしにも本当はよく分からないのです・・・」と言い、すまなそうに顔を曇らせて目を逸らしてしまった。
「優子さん、君の覚えていることだけでいいんだ。別に咎める気などさらさらないし、ただ突然我々の前から姿を消したからその真相を知りたいと思っているんだよ。ゆっくり考えて思い出してくれないか?」
「はい、わたしは確かにあの時市河さんをドア近くで見送ってました。そこに河上さんと三平さんが一緒にいたのも知ってます」
「そうそうその通りだ。で、それからどうした?」
「車が走り去ったし、真弓のことも心配だったのでそろそろ部屋に戻ろうかなと思ったその時でした、わたしの耳元で『ねぇあなた、お願いだからこっちに来て・・・』と、囁くような女の声が突然聞こえたのです」
「声だって!本当かね?」
河上はゾッとしながら驚愕の面持ちで聞き返した。
「ええ、間違いなく女の声でした、だからすぐ声のする方へ振り向いたけど誰もいなかったんです。空耳とは思わなかったんですけど、又いつもの現象かと思い、一人でいることが気味悪く感じたので真弓のところへ行こうとしたその瞬間、わたしの目の前で入口のドアが勝手に閉まり、足が自然にキッチンの方へと歩き始めました。もう何が何だか分からなくて、慌てながらも懸命に足を踏ん張ろうとしましたが無駄でした。だから必死で河上さんか三平さんに助けを求めようとしたのです」
「うん、それで?」
「でも、それもダメでした。口を開けたのですけど喉が焼けたように痛み、次第にひきつれたみたいになると一言も言葉が出なかったんです。その内わたしはキッチンに入って立ち止まりました。するといきなり目の前が暗くなり、自分の中の意識が薄れていくのを知ったのです。そして、再び気が付くと真っ暗な穴倉のような中にわたしは座り、ジメッとした地面からの冷気を気味悪く感じながら一人戦いてました」
言い終えた優子は目の前のペットボトルに手を伸ばした。
*
一口飲んだボトルをテーブルに戻した優子は、姿勢を正して話を再開した。
「その穴倉みたいな場所ですが、単に暗いだけでなく凄く奥が深いように感じました。目が慣れるにつれて奥が深く続いているような印象を持ちましたけど、四つん這いになって先に進み、あっという間に通り抜けたみたいに思えます。時間にすれば一分もかかっていない、そんな状況でしたから意外に簡単にそこから出たと思えるのです」
「それで、通り抜けた先は一体どこだったの?」
「遥か遠くに外の明かりが見えたので急いで出口に向かい、青々とした雑草が膝まで生い茂っている、そんな見知らぬ所で出ました」
「膝まで伸びた青々とした雑草だって?それってあのお守りが落ちてた場所かな?」
「えっ、お守りって何の話ですか?」
浦部を見ながら優子はそう訊き返したが、その瞬間驚いた顔で自分の腰に手をやった。それを見て河上は、「これかな?」と、そのお守りを目の前に差し出した。
「あっ!それはわたしのお守りです。でも、どうしてそれがここに?」
「実はね、君が突然いなくなったことで我々は手分けして色んな場所を捜索したんだ。その結果、別荘の裏口からまっすぐ南に進んだ所で十メータ位の崖を発見し、何とか下に降りた時に、雑草の生い茂る真ん中辺りでこのお守りを浦部が発見したんだよ」
河上はそれを彼女に手渡しながら説明した。
「───そうなんですか。じゃあ、わたしが知らないうちにその場所で落としたんだと思います」
「うん、今の話から察すると穴倉と言うよりトンネルみたいに思えるね。まあ、どっちにしてもお守りが落ちてた場所は、君が出たという所に酷似しているようだ。でもキッチンから穴倉に入った話は大体分かったけど、その過程がいまいち良く理解出来ないな。大体トンネルのような穴倉なんてここにはないし、キッチンから裏口へのドアはあるけど、外は単なる雑木林だからね。優子さんの言う雑草の場所にはほど遠いからなあ」
それまで黙っていた三平が初めて口を挟んだ。
「でも本当なんです。意識そのものが朦朧としていたのは否定しませんけど、夢とか幻覚じゃないのというのは、わたしの頭の中ではっきりと覚えているんです」
「そうか、じゃあとにかく後でキッチンを調べてみよう。そうすれば何か話の信憑性を裏付ける事実が出るかもしれない。だけど、耳元で囁いた声というのも事実だとすれば、何だか薄気味悪い話だね。本当にそんなことってあるのかな、それはもしかして君の妄想から発した幻聴とかじゃなかったの?」
「わたしが何の妄想をしたというのでしょうか・・・」
「だってそれしか説明がつかないだろうよ。女の声だとかトンネルだとか、俺には俄かに信じられんし、思い違いと言うことだってあるだろう?」
「まあ、三平の言いたいことは分かるが、このさい彼女の言葉を信じようよ。そうしないとこの不思議な出来事の解明はこれ以上先に進まないし、この旅行自体もただの怪奇話で終わってしまうんだ。何としても納得行くまで調べた方がいいと思うな」
三平の疑惑を含んだ発言で一瞬座がしらけ始めたが、河上は咄嗟に雰囲気を変えようとそうフォローし、一応の話を聞き終えた後でまずキッチンから調べることを提案した。
「そうか、まあいいさ。そこまで言うならお前らで調べてくれ、悪いが俺は抜けさせてもらうよ。大体怪奇話自体が性に合わんし、そんなものは頭から信じていないからな。ここまでは話の成り行きで我慢も出来たが、これ以上はごめんだ」
「確かにお前はその手の話は興味も関心もなかったな。だけど、この旅行に来る時にもお前の家で気味悪いことが起きたじゃないか、それだってある意味怪奇な話だろう。でも気持ちは分かるよ、いいさ俺たちだけでとりあえずは調べてみる。浦部、お前はどうする?」
「俺か、どうするかなぁ・・・」
「無理ならいいぞ、俺と彼女たちでやるから」
「まあ、とりあえずは手伝うよ。結果的に何もなければそれはそれで幸いだし、優子さんの言ったことが計らずも証明されれば、俺自身納得することも出来るからな」
浦部は戸惑いの表情だがそう言って優子と真弓を見た。
河上はここまでの話を聞き終えると一つの疑問を抱き、本人に訊ねようと改めて優子を見て口を開いた。
「優子さん、君がトンネルを抜けて表に出た後のことだけどね、数時間も姿を消した後に再びこの別荘に戻った事実と、その間どこで何をしていたのか、それとどうやってここに帰れたのか、まあ覚えている範囲でいいから是非聞かせてほしいんだ」
「でも、わたしの記憶は所々が寸断されてます。ですからそれを予め承知の上で話そうと思いますが、それでもいいでしょうか」
「ああ、結構だよ」
「確かキッチンに入った時、再び囁くような耳元での指示がありました。その内容はよく覚えていないのですけど、無意識に梯子の様な物を伝わって下に降りたような感覚があります。そして、ふと気付いたら周りは真っ暗でした。だからわたしは恐怖を覚え、腰を屈めた窮屈な姿勢で暫くうずくまったと思います。すると又同じ声がどこからか聞こえ、逆らうことも出来ないまま真っ直ぐに進んだのです。中は狭かったけど、這う様にしてどこにもぶつからずに進むことが出来ました。そのうちには恐怖感も薄れたから、今にして思えば実に不思議なんですが」
淡々と語る優子の目は話し始めた時より輝きを増しており、口調も穏やかで冷静さを滲ませていた。
内容そのものは自分の理解力の範囲を超えてると感じたが、それが決して作り話ではなく正直に事実だけを語っている。そう素直に河上は受け取ることが出来たのである。
「そうか、まあそれが事実とすればやはりキッチンの中に謎を解く鍵があると言えるだろうな。もっとも素人探偵の推理だから、果たしてどうなるかは責任持てないけど」
「やっと表に出るとそこはすごく広くて、さっきも言ったように膝までの雑草が一面に生い茂っていました。遠くには幾つもの山並みが見えましたから、多分どこか高い台地か何かだろうなとは感じたんです」
優子が河上を見て答えた。
「うん、だからそこがお守りを落とした場所だと思う。多分歩いている内に、真ん中辺りまで来て自然に落としたのだろう」
「ええ、そうだと思います。わたしも呆然としながらも広い草むらを前へ進みました。すると遥か先に今度は林と思えるたくさんの木々が見えたのです。ただ、それがどの方角かは分かりませんでしたが」
「たくさんの木だって?浦部よ、あそこで木がある所と言えば・・・」
河上はそれを聞いた瞬間、さっきまで浦部と捜索を続けた場所を記憶から取り出した。
「ああそうだな、俺は初めの内はあの場所の中心を調べていたんだ。そしてお前が来てからは左右に分かれて捜しつづけたが───。待てよ?そう言えば林のような多くの木を見た覚えがあるな」
「そんな場所があったのか?あそこからどっち方面にそんな木々が見えたんだ、俺にはちょっと覚えがないけどな」
「そうか、河上は知らないのか。あれは、確か立ち止まって小屋の方をなにげなく見た時だった。結構遠くだなと思ったけど、その周囲に森らしき光景を見たんだ。優子さんが言っているのは恐らくそこに違いないと思う。なっ、そうだろ優子さん?」
優子の顔を見て浦部は興奮気味に訊いた。
「でも、そう聞かれてもはっきりとは思い出せません。とにかく頭が混乱していたし、そこは初めて見る場所ですから」
「確かにそれはそうだ。で、それからはどうした?」
「ぼんやりと不安な思いで歩きながらも、耳元で優しく囁く言葉に導かれ、その生い茂る木々の真ん中くらいまで入って立ち止まったことは覚えてます。さらに暫らく行くと今度は何か大きな建物が目に止まりました、そうですね、何と言えばいいのかしら、建物は三階か四階で全体が四角く画一化された建物だったように思いますが、時間にすれば二十分以上は歩いたような気がしてます」
戸惑いながらも優子は河上にそう証言した。
「そんなに歩いたのか、それはかなりの距離だな。で、囁くって言ったけど、一体どんな風に聞こえたの?」
「それが、ただ真っ直ぐ進みなさい、わたしの言うとおりに行動すればいいのよって、そんな優しい口調でしたから」
「それっていわゆる催眠状態だったのかもしれんな。それと、その建物が画一化されたものって言ったけど、同じ階が重なっているって意味なのかい?」
河上はさらにその先が聞きたくて優子に質問した。
「ええ、横に長い建物だったと思います。窓が各階に均一的に配置されてましたが、その数はちょっと覚えていません。でも、見方によれば何か会社の寮のようにも見えますし、普通のアパートにも思えますが」
「そうか、会社の寮ね。その可能性は充分にあるし、又はマンションかアパートかもしれないな。しかし、それだけでは建物を確定出来ないのも事実だ」
「すいません、わたしの記憶そのものがはっきりしませんから。あっ、でもちょっと待ってください、ただ・・・え~と、確か大きな字が木陰から見えたんです。何だったかなぁ?すいません、すぐには思い出せません」
優子はそう言って目を閉じたが、その疲れたような表情を見た河上は、少し休もうかと言ってふと後ろを振り返った。
「あれ?三平がいないぞ、いつの間に消えたんだ?」
「本当だ、三平の奴黙って出て行ったのか」
浦部がぶ然とした顔で呟いた。
「まあいいさ、奴だって興味がなくて信じられない話など聞きたくないんだろうし、強要は出来んからな」
「しかし、だからといって出た後はドアくらいちゃんと閉めればいいのになぁ、半開きだぜ、エアコンの冷気が逃げてしまう」
言った浦部はすぐにドアを閉めたが、河上も立ち上がると部屋の隅に置かれた小型の冷蔵庫からジュースのボトルを取り出し、一旦会話を中止して四人で喉の渇きを潤した。
「じゃあ、話の続きに入ろうか」
気を取り直した河上の発言で優子の証言が再開されたが、それによると分厚いガラス戸の前に立って中をそっと覗いたが、その建物は何年も使用されずに放置された廃墟のようであり、もちろん人の気配など一切感じ取れず、昼間はともかくとして闇が訪れたときには、魑魅魍魎が跋扈するかの恐怖を感じさせたと優子は言い切った。
見続けていたのは時間にしてわずか一分足らずだったらしいが、ふと屋上らしき所からカラスが飛び立ったことを知ると、その瞬間またしても意識が遠のき、気を失ってその場所に倒れこんでしまった。そして再度目を開けた時は茫然自失のまま県道に佇んでおり、不安に戦きながらも道なりに歩き続けて何とか別荘まで辿り着いた。と、それが優子の体験内容の全てであった。
保険契約
健三は部屋を出ると再び下に降り、まだ宵の口というのに店を閉めにかかった。そして全ての戸締りを確認すると二階の寝室に戻り、窓の縁に腰掛けて沈みゆく夕日に目を向けたが、その澱んだ目はどこかうつろであり、人生に疲れ切ったかの翳を漂わせていた。
「今日は十八日か、今夜はもうこのまま休むことにするか。まあそれ程急ぐ事もないだろうし、英昭たちも明日十九日には別荘から帰路につくはずだ」
独り言のように呟き、納得顔で窓から離れて畳の上にあぐらをかいたが、吸殻で汚れた灰皿を目に止めるとタバコを吸いたい気持を抑え切れず、這うようにして小箪笥へと近寄った。
「禁煙していたが、三日も経つともうダメだ。そもそもわしにタバコを止めろと言うのが無理なんだ。あれ?タバコがないじゃないか。そうか、禁煙を誓ってから補充しておかなかったんだ。何とお粗末な・・・、わしとしたことが迂闊だったな」
健三はぼやきながらテーブルに戻ろうとしたが、その時ふと机の隅に置かれた書類に気付き、それを手に取ってじっと見つめた。
「これは?ああそうか、静子の生命保険受領の写しだったな。早いものだ、あいつがこの世を去ってから三年近くになるんだ。それにしても無残な死に方だった。人間って生き物は果たして死ぬと一体どうなるのだろう?死後の世界って本当にあるのか?」
書類を裏返してみたが、もちろん内容なんて詳細に読むつもりはなく、その時受け取った妻の代償とも言うべき多額の金を思い浮かべるだけであった。そして非業の死を遂げた者の無念さを心から憐れみ、一緒に過ごした時間を懐かしんで哀悼の気持ちを抱いた。
定年など一切無縁な自営業ゆえに、『どうだ、七十位になったら二人で世界旅行でも行くか!』などと笑みを浮かべて真剣にプランを練り、時には『将来は子供たちの世話にならず、ペンション風に規模を縮小して老夫婦でのんびりとホテル業を営もうや・・・』と、老後の夢を嬉々として語り合った日々を、まるで昨日のことの様に思い出して感慨に耽る健三だった。
だが、人生はそうそう思い通りには行かないのが常であり、描いた夢は一つとして成就するどころか、数年後には全く思いもかけぬ地獄の様相を呈する出来事に襲われた。
「思うに、なんと人の命のはかないものか。まあ、いずれわしにもあちらからお迎えが来るだろうが、きっと行く先は地獄だろうな。天国なんてまず無理に決まってる」
虚しさからなのか自虐的な言葉を吐いた後は大あくびをし、襲い来る突然の睡魔に抗うことなく横になったが、すぐに鼾をかいていつも以上に深い眠りへと入っていった。
「ん?ここは一体どこだ・・・、なんだか全然見知らぬ場所だぞ。それにやけにシーンとして静かだし気味が悪いな。どうしたんだ、わしに何か起こったんだ?」
健三は自分が置かれている状況を知ると、咄嗟に理解できずに戸惑ったまま戦いた。
そこはかつて見たこともない赤茶けた荒野の様な場所だった。周囲には樹木一本も生えておらず、見方によっては殺風景な広漠にも思えた。それでも遥か先には小高い山並みが薄く色付き、地平線から延々と丘陵を延ばしたその頂上には冠雪が見て取れた。
ただあまりにも現実とかけ離れた目前の光景は、健三の思考力では受け入れることが出来ないものだった。
人はおろか、虫一匹の存在すら認められない極限とも呼べる別世界である。数キロ先から落とした針の音さえ聞こえるのではないか・・・。そんな静寂に支配された地は、命あるものにとって死に値するくらいの恐怖でしかない。
(いつの間にわしはこんな所に来たんだ。誰かに連れて来られたのか、それともこれは夢か?いや、どうも夢じゃないようだな、それはわし自身が一番分かっている。それよりここはどこなんだ、そっちの方が気になるし、誰もいないこんな静かな場所は、まるで何かの本で聞きかじった死後の世界みたいだ。まさか・・・?)
パニックに陥りそうな気持を必死に堪え、現実の状況だけはしっかりと判断せねばと焦ったが、やはり元来の気弱な性格が災いしてか、不安から変わった恐怖心でぼう然とその場に立ち尽くした。
「わし自身の考えでこんな所へ来た覚えはないぞ。ということは誰かが無理にでもここに連れて来たに違いない。しかしやはりこれは現実ではなく夢に決まってる。だがまてよ?確かわしは二階の部屋でうとうとし、気持良いまま横になったところまでは覚えているんだ。だがそのあとは・・・」
そこまでの記憶ははっきりと思い出したが、この不思議な現象に対しての戸惑いは隠せず、現実か幻かの区別も理解できない恐怖でまた震えを発した。
いつまでこんな状態でいればいいのか?自分の意思でどこかへ移動すべきなのか?それとも誰かが現れるのをじっと待ち続けるべきなのか?パニック寸前の怯えにじっと耐えながらも、健三はただうろたえるだけであった。
それから何分経ったろうか、これ以上はもう無理だ。そう己の極限と精神の破綻を覚えると、動悸の高まりを知りながらも何かを叫ぼうとしたその時、『あなた・・・』と、小さな囁くような声を耳にし、健三はハッとして周囲に目を向けた。
「だ、だれだ!」
声は紛れもなく人間の肉声だった。思いもよらぬ出来事に驚きながらも表情を強張らせて身構えし、ゾクッとした悪寒のまま次の言葉を待つつもりで耳を欹てた。
「あなた・・・」
「その声は、もしかして?」
「わたしです、静子ですよ。もうお忘れですか?」
「わたしって、本当にお前なのか?」
「そう、わたしです。暫らくでしたね」
「し、しばらくって、なにを言うんだいきなり。それにどうして姿を見せないんだ」
「わたしはここにいますよ、あなたには見えないのですか?」
女の声は健三を取り囲むようにして全体に響き渡った。
「知らん、何も見えないぞ。それよりわしのいるこの場所は一体どこなんだ、知ってたら教えてくれ!」
「ここはあなたの知らない世界なのです。暗くて寒くて誰一人声を掛ける人もいない、そんな寂しくも孤独で過ごすしかない、まさにこの世の果てに等しい所なのです」
妻と名乗った女は姿を現さないままそう答えた。
「そっ、そ、そんなことすぐに信じられるか!それにどうして今頃になってわしの前に現われるんだ。あの事故で死んだはずなのにまだ成仏していないのか、それともこのわしに何か言い残したことでもあると言うのか!」
「あなた、悲しいことを言わないでください。わたしは愛しい旦那様に会いに来たのですから。どうか後生です、わたしを少しでも哀れとお思いでしたら、つれなくしないで欲しいのです。元はと言えば愛し合って一緒になった仲じゃありませんか、だからこのままこちらの世界でこれまでと同じように夫婦仲良く暮らしましょうよ」
女のトーンは哀愁を帯びたものへと変わった。そんな恨めしい言葉を聞いた健三は、全身の血が逆流するのを知りながら、この世界から逃げ出せない恐怖に戦いた。
何か言おうとしても唇は小刻みに震えるだけで言葉にならなかった。膝の痙攣が体重を支え切れずに折れ曲がろうとしている。それを必死に堪えて立ち続けてはいたが、次第に全身の力が抜けたようにガクッと前かがみになると、両手を地に付けた四つん這いの形を取って口から泡を吹き始めた。
「ばっ、ばかなことを言うな!お前は死んだはずなのにまだあの世で彷徨っているのか!わしはそんな誘いには乗らんぞ、まだまだやりたい事はいっぱいあるんだ・・・。なんと言われても絶対行かんぞ!」
静子と名乗る女の声がどこから聞こえて来るのか?健三は静寂の中で懸命に探り続けたが、この地に目覚めた時からなんら状況は変わらず、パニックに陥った思考が空回りする恐怖が延々と続く現実に怯え、身体全体から発する震えを必死に堪えていた。
それでも心の中では女の誘いに抗いつづけた。だが、それを見透かしたかのように遠くの山の頂きから突然閃光が放たれ、辺りを真昼のように明るく照らし始めると、今度は耳をつんざく雷鳴が天空から鳴り響き、この世の終わりを思わせる大きな地響きを発生させたのである。
それはまさに現世から迷い込んだ、未浄化魂に対する警鐘に等しかった。想像を絶する恐怖に建三は思わず失禁して白目をむいて逃げ出したが、さらに追い討ちをかけるべく、赤黒く焼け爛れた醜い顔の静子が突如闇の中から姿を現し、健三の背中に張り付くようにして覆いかぶさった。
歪んだ両目は真っ赤に充血し、首から上を左右にユラユラと振りながら凄まじい形相で健三の顔面へと回った。そして鼻先まで近寄るとグワッと大きく口を開き、人間とは思えない長い舌を差し出して頬の汗を舐めるという奇行に入ったのだ。
「ウワッ!・・・や、止めてくれ!たすけてくれー!」
これほどの恐怖がどこにあるだろうか・・・。健三は目を瞑ったまま地面に転がると、舐められた顔を手で押さえながら気を失っていった。
*
「健三さんしっかりしてよ!一体どうしたっていうの?」
「うっ、うーん・・・」
どこからか自分を呼ぶ声に健三はゆっくり瞼を開いた。そしてじっと自分を覗き込む顔と目を合わせると、思わず「ウワッ!」叫び、体を捻って横向きに転がった。
「なによ、一体どうしたっていうの。もう、すごくうなされていたわよ。何か怖い夢でも見たんですか?」
「ああ、お前だったのか・・・。いや、たいしたことはないんだ」
「たいしたことはないなんて、ううん絶対そんな状態じゃなかったわ、どう見ても」
「そうか?そんなにひどくうなされていたのか?」
「そうよ、やめろっ!とか、助けてくれーとか・・・、まるで何かに襲われて逃げるみたいな感じだった」
「・・・・」
じっと自分を見つめる懐疑的な目に臆したのか、健三は事実を言うだけの勇気が湧かず黙り込んでしまった。
「ねえ、よかったらなんでも話して。わたしで役に立つことだってあるから」
「ああ分かった、ありがとう。もう大丈夫だよ。だがそんなことよりお前いつ来たんだ、まるで忍者みたいだな。そうか、いつものように勝手口から入ったのか」
「あらいけなかったかしら、だって健三さんその為に合鍵を作ってくれたんでしょ?」
「まあそれはそうだが。で、何か用でもあるのか?」
美紀はそんな健三の言葉に立腹したが、それでも怒りを呑み込むと笑顔で言い返した。
「用事というほどのことじゃないけど、朝の話で確か健三さんいつか旅行でも行こうって誘ってくれたわよね、すごく嬉しかったわ。でも本当は亡くなった奥さんに対して迷いもあったのよ。ただ、わたしもここ数年旅行なんて行ってないし、やっぱり連れて行って欲しいなぁって考え直したから、夕方だけどその話で来たの」
「・・・・」
「ねぇ、いいでしょ?」
「ああ確かにそうは言ったが、今すぐってわけにはいかんぞ」
「もちろんすぐじゃなくてもいいの。それに今は夏で最高に暑いもの、旅行なんて気にならないし、やっぱり旅行は秋が最高よ。ねえそうしましょうよ、期待して待ってるから」
「わかったわかった、どこでも連れていってやるさ。あははは」
「本当に?うれしいわぁ!だから健三さん大好き、うふふ」
美紀は言い終えると最高の笑顔を見せた。それはまるで子猫が飼い主に媚びて甘える態度に似ていた。
健三も愛人の満足げな喜びに笑みを返しつつ身体を起こしたが、ふと時計を見てこれから外出する意思を口にした。
(もう六時半を過ぎたのか、あの時うたた寝をしなければ店にあるカップ麺で夕食を摂ろうと思っていたが、迂闊にも二時間以上は寝ちまったようだ。そのせいなか見たくもない妻の夢を見てしまい、食欲は完全に失せてしまった。仕方ない、こいつも連れて行くか)
「さあ、それじゃあぼちぼち行こうか」
「行くって、もう外は暗いし一体どこに行くの?」
「すぐそこのラーメン屋だ。腹が減ったし、お前も一緒に食べればいい。あの店は結構美味いからな、わしがおごってやる」
「いいの一緒に行っても?わたしは邪魔じゃないの?」
「ああ、別にかまわんさ。世間がどう思うがわしは今では独り者だ、だから誰と道を歩こうが大威張りのコンコンチキさ、あっははは」
そんなことを言って笑った健三は、財布をポケットに押し込むとそそそくさと下へ向かった。美紀も慌てながらもすぐに後に続き、二人は勝手口から外へ出て歩き始めた。
裏通りを通ってその店に着いたが、生憎夕食時と言うことで立て込んでいた。カウンターもほぼ満席だったが、奥のテーブルが空いているのを見るとそのまま中へ進んだ。
「おやじ、しばらくだな。今日は二人だけど、この席でいいかな?」
「ああ、どうぞどうぞ。松江川さんならどこでも結構ですよ、あははは」
「そうかい、じゃあお言葉に甘えてと───」
美紀と対面する格好で健三はベンチシートに座った。
「どうだ、結構ここは繁盛しているだろう。お前のアパートからもそう遠くないし、来たことがあるんじゃないのか?」
「ううん、お店そのものは前から知っていたけど、なかなか一人で入る勇気もチャンスもなくて、今日が初めてよ」
「そうか、じゃあいい機会だったな。これからは何度でも来たくなるよ、何しろここは味がいいからな。あははは」
笑いながら健三は美紀を見た。
「ところで、何にする?」
「ここって何がお薦めなの、あなたはいつも何を食べるの?」
「わしか、わしはいつも定番の味噌ラーメンに餃子だな」
「そう、じゃあわたしもそれでいい」
オーダーを店員に告げると二人は無意識に正面から見つめ合った。
美紀は照れた表情ながらも熱い視線を向け微笑んだが、建三は意識的にそれを避けてぼんやりと国道に目を移した。
「しかし、こうして見るとこんな時間でも結構車が多いものだ。トラックなんて競争するみたいに飛ばしている。まあ奴らも時間に追われる仕事だから、食うためには仕方ないかもしれんがな」
「ねえ健三さん、さっきの旅行の件だけど、やっぱりあなたが運転して行くんでしょ?」
「ああもちろんさ。この歳になってまで電車やバスの乗り換えは嫌だし、第一肉体的にも辛いものがあるからな」
「じゃあ提案があるの。確か別荘がある伊豆方面へ行くって聞いたけど、もし出来れば別の所へ変更して欲しいのよ」
「別の所?なんでだい」
「だって、伊豆はあなたの奥さんが車の事故でなくなっている場所だし、別荘に泊まるのも何となく気が引けるわ。わたしも奥さんのことまんざら知らない間柄じゃないし」
「なんだ、そんな理由でか。まあ、お前の言いたいことは良く分かるが、あいつが死んでから二年以上も経つし、それ程気にしなくてもいいんじゃないのか。あいつだってあの世で成仏しているだろうさ。余計な気配り自体がおかしいとわしは思うがな」
不安そうに見つめる美紀に対し、健三はそう言って再び窓の外へと視線を向けた。
*
やがて店員が餃子を運んで来た。二人が箸を入れかけるとすぐにラーメンも並び、しばらくは互いに黙ってそれらを食べつづけたが、健三の頭の中では別の思案が忙しなく繰り返されていた。
(さて、この場で言うかそれとも別の日にするか。美紀は何と思うかな、変に受け取りはしないだろうか。いや、わし自身に怪しまれるところがなければ堂々していればいい、そして更に今後のことを強調すれば決して嫌とは言わないはずだ)
ちらっと上目遣いに美紀を見た健三は、やはりその話は家に戻ってからにしよう考えを改めた。
「あら早い、もう食べ終わったの?わたしなんてまだ半分よ」
「いいさ、終わるまで待ってるから。どうだ、食べたらまた家に来ないか?」
「どうしたの急に?いつもそんなこと言わないのに」
「たまにはいいだろう。どうせお前も閑なんだし、わし自身もこれからの時間をどう過ごそうか考えていたんだよ。まだ寝るにはいささか早すぎると思ってな。それに正直言えばお前に少し込み入った話もあるんだ。まあ、それは家に帰ってから話すが」
「そうなの?」
怪訝な目で見上げる美紀の視線を避け、健三は思い出したように途中で買ったタバコに火を点けると紫煙を吐き出した。
「いいわ、付き合ってあげる。どうせアパートに帰ってもすることないし、その込み入った話って何だか興味あるから是非聞きたいもの」
「まあ、お前にとっては大したことじゃないかもしれんが。良く考えれば、わしとお前の為になる話だと思って間違いない」
「そう?なにかしら、聞くまで楽しみだわ。じゃあ今日は久しぶりにいい人の所に泊まっちゃおうかな?」
そう言いながら美紀はいたずらっぽい流し目をしたが、その仕草はいつになくどこか媚びた色っぽさを漂わせていた。
やがて店を出た二人は来た道を戻って二階の部屋へ入り、開け放してあった窓を締め切るとエアコンを稼動させて座り込んだ。
「やっぱり日が落ちてもいっこうに涼しくならないわね。このべたっとする湿っぽい感じが嫌いだし、ついついクーラーにすがってしまうもの」
「そうだな、だけどあまり寒くするなよ。わしは冷房そのものが苦手だからな。まあ、こいつも駅前の電器屋からうまいこと言われて買わされたんだ、今年は猛暑だから絶対必要になるってな。あははは」
「でも、いまどきエアコンくらいは家庭の必需品でしょ?特別贅沢品とも思えないわよ。あっ、だんだん涼しくなってきたわ。そうそう、ところでさっきの話ってなに?」
美紀はリモコンで温度設定を済ませると、ほっとした表情で健三の前に座り直した。
「ああそうだったな。実はお前に生命保険を掛けようと思うんだ、それも完全な入院保障つきだ。どうだいい考えだろ!」
「生命保険?どうしてなの?」
「どうしてって、この先わしの女房になるんだろ?だったらお互いが困らない様に一つくらいは生命保険に入っておいた方がいいに決まってる。もちろん、わしに万一の事態が起こればお前が受取人だし、その逆も然りだよ」
「それは確かにそうだけど、なんか複雑な気持ちね」
戸惑いの表情で答える美紀だった。
「そう複雑に物事を考える必要はないだろうさ。共に人生を歩むにおいて、必然的にお互いを思いやる、それがつまりは保険に入って将来に備えると言う意味だからな。どちらかが一人なっても困らないようにするんだ。人生一寸先は闇って言うだろう?だからこそ万一の場合の保障が大事なんだよ」
「確かにそう言われれば否定は出来ないわよね。分かったわ、健三さんは理論家で弁も立つし、わたしがどうこう言うべきことじゃないかもね。全てあなたにお任せいたします。うふふふ」
「そうか。まあ、わしだって正直お前が可愛いし、それに大体この世は男が先に行くと相場が決まっておる。だから、いわば老婆心から出たお前への精一杯の思いやりと思って欲しいんだ」
真剣な目つきで言い終えた健三は、己の言葉に酔いしれるかのように何度も頷き、目の前の美紀を見ながら薄笑いを浮かべた。
謎のホテル
優子の言った一文字だけ見えた建物とは一体どういうものなのか?河上は浦部と目を合わせると彼女の記憶が蘇るのを待つことにした。
「ねえ優子、本当にそれって文字だったの?もしかして文字に見えた絵とか又は記号だったとかじゃないの?」
「ううん文字よ、絶対に間違いない。だからそれがはっきりすれば、その建物が何であるか分かると思うの。例えばアパートとか、またはマンションかそれともホテルなのか」
「確かにそれはあり得そうだけど。でもちょっと待って、仮にそれが分かったとしても優子の失踪とどんな関係があるのかしら、別にこれという意味はないんじゃないの?」
「それが違うの。いま新たに思い出したけど、実はその建物にどうしても行って欲しいって囁かれたのよ。それも最初と違ってその時はすごく悲しい声のトーンだったわ」
それを聞いた河上は思わず全身に鳥肌が立つのを知った。彼女は本当にそこまではっきりと覚えているものだろうかと、そんな疑念も一瞬沸き起こったが表情から嘘は言ってないと感じ取っていた。
それでも何かの幻聴ではないのか?思い違いということだってあり得るだろう。確か彼女は夢遊病者のようにしばらくあちこちと彷徨っていたと言ったはず・・・。それが時間の経過と共に記憶の中から肝心な部分を取り出し、思いも寄らないことを平然と語り出したのだから、聞いた河上や浦部の驚きは尋常ではなかった。
「でも、それって一体どういうことなんだ。君に対してその囁きの主は何を言おうとしたのかね?まあ元々霊感が強いっていうから、それら一連の現象が全て嘘とは思わないが、ちょっと信じられんな」
「浦部の言いたいことは分かるよ。普通の人で特に霊なんて信じない者には、優子さんの言ってる内容はすべて作り物と一蹴されるのがおちだからな。だが、この世にはまだまだ科学では解明出来ない出来事は山ほどあるのも現実なんだ。俺は彼女の今回の不可思議なる体験を素直に信じようと思う。そういう事実があっても特別変じゃないからな」
「確かに、優子のその手の経験は過去に何回かはあったみたいけど・・・」
真弓は優子の方をちらっと見てそう言った。
「ちょっと待てよ、確かここに着いたその夜、俺が皆に話をしたよな。ほら、バスの運転手が色々怖い体験したって話だけど」
「ええ覚えているわ、カレーを食べた日のことですね」
真弓が答えた。
「もし、優子さんが見た建物がこの伊豆に現存するホテルだとすればどうだ、その話と今度のことが一致しないか?」
「浦部よ、それってどういう意味だ」
「まあ、元々地元では噂があったらしいが、その運転手も噂になったホテルに客と一泊した時の話で、夜遅くふと目が覚めてタバコがないのに気付くと、一階ロビーの自販機まで階段を降りて買いに行ったらしい。ところが生憎自分が吸う銘柄がなく、どうしようかと迷っていたら、後ろを通りかかった着物姿の女の人が、『どうかしましたか?』と声を掛けて来たというんだ」
「うん、それで・・・」
河上は思わず身を乗り出した。
「年格好や落ち着いた態度から見て、多分ホテルの女将だろうと察した彼はタバコのことを話した。すると女はちょっと待って下さいと言い終えてフロントの奥に消えたが、いつまで待っても出て来ないものだから、時間も既に午前一時を回っていることもあって、運転手は仕方なくカウンターの上のベルを鳴らしたそうだ。すると顔を出したのは女将ではなく、どうも雑用掛かりみたいな老人だったから驚いたし、二の句が継げなかったという話なんだよ」
「それって話が良く分からないわ。別に不思議なことじゃないと思いますけど?」
真弓は半ば呆れ顔で浦部に言ったが、優子も戸惑いの表情で河上と浦部を見つめた。
「いやいや、ところがこれからが本番なのさ。その運転手がわけを話すと、突然男は顔色を変えて唇を震わせ、青ざめた顔で再び中に入ったきり二度と出て来なかった。そして代わりに今度は恰幅のいい中年の男がのっそりと顔を出したが、自分はこのホテルの社長だと言い、その女性の容姿を色々と訊ねたらしい。その結果、消えた女は数ヶ月前にある事故で死んだ自分の妻で、ここの女将だったと断言したそうなんだ。すると今度はそれを打ち明けられた運転手の方がガタガタと震え出し、そこから逃げ出すように部屋に戻ると、俺は幽霊を見たんだと何度も呟き続け、電気を点けっ放しにしたまま朝まで一睡もしなかった。とそんな話を俺は別のドライバーから聞かされたんだよ」
「それってまるっきり真夏の怪談だな、でも本当なのかな?」
「もちろん嘘で固めた話じゃないと思う。だからあっと言う間にその話はバスの運転手仲間に広まり、他にも体験した人も数人出て来ると、しまいには観光会社もそのホテルとの契約を切ったと聞かされたよ。そんな噂が広まったからなのか、そのホテルは一年も経たないうちに閉めてしまったらしく、今では廃墟同然になっているみたいだからな。その経緯を冷静に考えると、彼女が建物に行けと囁かれたのはそこを指していたのかもしれないぞ。さらに言えば優子さんを導いたのは、ひょっとして女将の亡霊とも考えられるが」
「確かにそんな噂が出ちゃあ、まず泊まる客は来ないだろうな。そうなると潰れて当然かもしれん。だが仮にそうだとして、なんでその女は優子さんにそのホテルに行けなんて言ったのだろうか?」
「いや、それは俺にも分からんな。ただその幽霊ホテルの名前は、確か緑風館とか言ったよ、うん間違いない」
(緑風館?それって叔父が経営していたホテルじゃないか!)
河上は浦部の言った言葉に激しい衝撃を受けた。この伊豆に確かに多くのホテルや旅館はあるだろう、しかし同業で同じ名前があるとは普通なら考え難いものだ。もしかしてその女将らしき霊は叔母なのか?そうだとすれば無念の事故死を遂げ、まだこの世に未練を残していつまでも女将としての念で館内を歩き回る?果たしてそんなことが現実に起こり得るのか?)
河上は生前の叔母の風貌を脳裏に過ぎらせながらそう思った。
「緑風?・・・緑?そうよ緑って字だわ!わたしが見たのは緑の字に間違いない、糸偏だけは思い出していたけど、それに繋がる文字がどうしても浮かばなかったの。も今はっきり思い出したわ」
それまで黙っていた優子は、突然自信に満ちた顔で声を張り上げた。
*
「緑の字がつくホテルというと、この辺りでは確か緑風館しかないと思う。伊豆には結構添乗で来ているが、まず間違いなくそのホテルだろうな」
「それで、そのホテルって全体が長方形の形で、高さは四階か三階程度ですか?」
「ああその通り、何の変哲もない平凡な形をした横長の建物だ。そうか、優子さんは思い出したのか。じゃあ、やっぱりそのホテルを実際に見たってわけだな」
「でも、ぼんやりとしか見えなかったのも確かですけど、肉眼で見たわけではなくて、なんて言うか、頭の中に映像が勝手に現れる。そんな感じなんです」
「浦部よ、実はそれは叔父のホテルなんだ。本当は言いたくなかったけど、お前と優子さんの話を聞いて間違いないって確信したよ」
「えっ、まじかよ!」
浦部は驚きの表情で河上を見た。だが、事実は毅然として認めなければならず、ここにいる二人の女性は紛れもな怪奇な事件に巻き込まれた被害者なのだ。ゆえにその現実も踏まえた上で河上は改めて三人を正視した。
「よし、ここまで事実が判明した以上、これから我々でキッチンを調べてみよう。今度の件でもっと何か分かるかもしれないからな」
浦部がそう言い切ったその時だった、『カタン・・・!』と、妙に乾いた音が突然部屋の中に響き、全員がビクッとした表情で一斉にその音のする方に視線を送った。それは南側にある出窓の方から聞こえた様な気がしたが、目を凝らしてその辺りをじっと見た時、ある物が不自然な形に変わっているのに浦部が気付いた。
「今の音はこれじゃないか?」
近寄った浦部が指差して言った。
それは小さな額縁に納められたスナップ写真であり、河上が掴んでガラス面を表にしながら元の位置に戻したが、そこに写っていたのは叔父夫婦と見覚えある二人の子供たちであった。
「これは叔父さんの家族だよ。この叔母が事故死したんだ。もう二年以上も前になるし、確かあの時も今頃の暑い時期だと思ったな。だけどここに写真があったなんて、来た時には分からなかったな」
「そうか、この家族が別荘の住人なのか。でも子供たちっていえば英昭とは従兄弟になるんだろ?今は皆どうしてるんだ、まだ付き合いはあるのか?」
「いや、従兄弟には違いないが歳からいっても俺よりは下だ。確か上の健二はサラリーマンと聞いたが、こいつがちょっと変わっていてまだ独身らしい。何でも結婚して女房子供に縛られるのは嫌だとかで独身貴族を謳歌していると聞いたことがある。まあ、それはそれなりに信念を持って生きているから立派だが、俺には何となく理解出来ない面があるから普段の付き合いは殆どないんだよ」
「その隣の綺麗な女の人は誰なんですか?」
真弓が訊いて来た。
「彼女は真理子っていって、健二と三つ違いの妹になる。見ての通り凄い美人でね、学生当時は三年連続でミス学園になったと聞いているよ。それに在学中から女性雑誌のモデルをしていたらしいからな」
「へぇ~すごいわ、同姓として憧れちゃうな。じゃあ、今でもモデルの仕事をつづけているんですか?」
「その辺のことはちょっと分からないね。歳も三十を出ているらしいが、結婚したって話もまだ聞かないんだ。大体、叔父とは離れて暮らしているらしいから、多分キャリアウーマンかなにかで仕事一筋に頑張っているんじゃないのかな。彼女は叔母にとって自慢の娘だったよ。まあ、才色兼備だから一人でも充分生きられるだろうけどね」
河上がそこまで話し終えた時、突然リビングの照明がチカチカと点滅を始めた。不審な面持ちで皆が一斉に天井に目を向けたが、その瞬間に煌々とした明かりは完全に途絶え、完全なる闇に部屋全体が包まれた。
「停電ですか?」
「突然真っ暗になって、どうしたのかしら?」
真弓と優子が怯えた声で呟き、河上はとりあえずライターかマッチを探さねばと立ち上がったその瞬間、「キャアァァ――!」と、闇を引き裂く悲鳴が部屋中に響き渡った。
真っ暗な状態の中で一体何が起こったというのか?声の主が二人のどちらかは河上にも判別出来なかったが、その叫びは新たな戦きと緊張の空気を闇の中に呼び込んだ。
不安から起こる動揺の中、それぞれが目をこらして必死に状況を掴もうと浮き足立ったとき、突然「なんだあれは!」と浦部が声を張り上げて叫び、全員がある一点を凝視したまま凍り付いてしまった。
天井の隅からは一筋の青白い光が畳の上に落ちている。その光を後ろから浴びるような形で、髪を垂らした血の気のない女の顔が浮かび出ると、輝きを失った寂しそうな目で四人を見つめ始めたが、それはこの世の者とは思えない迷える霊の眼差しであった。
「あなたは一体だれなんですか!」
気丈にも優子が毅然とした口調で問い掛けた。しかし女は無言のまま言葉を発することなく、何かを訴えるかの表情で見返すだけであった。
「お願い答えて、あなたは誰なんですか?何の為にここに現われたのですか?」
その問い掛けにも女は悲しい視線を投げかけるだけだったが、ふっと笑みを浮かべて数回瞬きをすると、まるで煙が消えるが如く再び光の中に吸い込まれたし、完全にその姿が消滅すると同時に元の明るさが部屋に戻ってきた。
「なんだよあれは・・・、さすがに寒気が全身に走ったぞ。まず間違いなくあれが本物の幽霊なんだろうな。生まれて初めての体験だがブルッたよ」
「そうですね。ただ、どうしてここに現われたか確かな理由は分かりませんけど、恐らく未成仏霊だと思います」
河上の問いに優子が答えた。
「そうよね、突然現れてその理由が分からないなんていうのが一番困るわ。確かに優子は霊媒体質かもしれないけど、わたしまで幽霊を目の当たりにするなんて、何だかまだ信じられない気持よ。でもマジで怖かった、あのままでいたらどうなっちゃうのって、鼓動が速まって不安になったもの。自分の知らない出来事って本当に恐怖よね」
「俺も幽霊ホテルの話を持ち出しただろ?だからてっきり俺自身に恨みを持って現れたのかなんて思ったんだ。逃げたくてもまるで足が動かなかったものな」
「まあ、霊を目の当たりにするってやっぱり気味悪いものだよ。見なくてもいいものに遭遇したという恐怖感は心の中にいつまでも残るし、このまま一人で寝るのは男でもやっぱり怖さが拭えないからな。でも優子さん、よく世間では霊に憑依されるなんてことを聞くけど、我々は大丈夫かね?このまま霊障なんてことにならないかって心配だが・・・」
恐怖の余韻が抜けない河上は優子にそんな質問をした。
「わたしは霊能者じゃないから霊の本音までは理解出来ませんけど。ただ、世間ではそういう事実もあり、特定の人たちから信じられていることは間違いありません。それでも霊も元を正せば人間ですし、死んでからも行くべき所へ行けずこの世で迷いつづけているのです。それがいわゆる浮遊霊というもので、一番始末が悪い霊と言われてます。大抵の霊は自分の死を理解出来ずにこの世に留まりたがるそうで、その執念が肉体を持って生きてる者にすがろうとする。それが憑依現象と呼ばれている一つのパターンですけど」
「そうなの?じゃあ、さっきの女の霊もその類かもしれないのね。何か曰くありそうな恨みを込めた目付きだったし、初経験の恐怖で霊への認識が改まった思いだわ。それにしてもわたし的には絶対歓迎出来ない存在だけど」
真弓は真顔でそう言って河上と浦部を見つめた。その後しばらくは全員が沈黙を守ったが、「さて、問題のキッチンをまずは丹念に調べようじゃないか!」と、河上が話を再開させると、夕食は後回しにして四人は立ち上がりキッチンへ移動した。
美紀と健三
健三はその夜いつになく妙に生暖かい風を頬に感じていた。美紀とラーメンで夕食を済ますとそのまま家に戻り、 ひと風呂浴びてさっぱりしたが、部屋に入るなりヒヤッとした冷気を感じ、リモコンを操作して嫌いなクーラーの電源を切った。
「あら止めちゃうの?まだ暑いわ」
「いや、わしは冷房が嫌いでな、まして汗を流してさっぱりしたから、今夜はもうこれでいいんだ」
「そう?じゃあいいわ。でも、健三さんっていつもこんな状態で朝まで寝るの?」
「ああ、大体がそうだが、今夜はいつもより生暖かい空気を感じるんだ。お前もそう感じないか?ちょっといつもと違うだろう」
先に風呂から上がり、胸にバスタオルという格好でいる美紀を一瞥すると、舐めるような視線で健三はそう訊いた。
「いつもと違うだろうって、わたしは常にここにいるわけじゃないからなんとも言えないけど、エアコンを止めたからじゃないんですか?まあ、今は夏だものこれが普通なんでしょうけどね。わたしなんてクーラーなしじゃとても寝られないたちだもの、こうして網戸だけで寝るなんて考えられないんですよ」
「そうか、じゃあそれ程気にすることでもないか。ああそうだ、お前もそんな格好じゃ困るだろう、よしいいものを貸してやろう」
そう言って健三は隣の部屋に行き、すぐに戻ると美紀の前にポンとそれを置いた。
「なぁに、これ?」
「パジャマさ、夏物だから涼しく寝られるぞ」
「これってわたしの為に買っておいてくれたの?健三さんってやっぱり優しいのね、嬉しいわありがとう」
「いや、ちがうちがう。それは女房のだ、と言っても一度も着ないまま亡くなってしまったが、まあ悪く取らないでよかったら着てくれ」
「えっ、なんだかいやだなぁ・・・」
「なんだその顔は、気にしないでいいんだよ。そもそも買ってから腕一本通してない新品だからな」
「そんな意味じゃないわ。静子さんに買ったのに、いくらもういないからって、わたしがこれを着るなんてちょっと抵抗あるもの」
美紀はそう言って訝しげに健三を見た。面と向かってそう言われると健三は咄嗟に言葉も返せず、ふっと良心の呵責に似た思いに襲われかけたが、それでもそんな自分の心の脆さを打ち消すかのように、
「なんだ、わしの女房になろうとしている奴が、そんな取るに足らないことに拘るなんておかしいぞ。もっと気持を大きく持ったらどうだ」
と、美紀を睨んで言い返した。
「そうね、わたしはあなたの新しい奥さんになるんですもの。いつまでも亡くなった人のことを思っても仕方ないわね。じゃあお言葉に甘えて今日から使わせてもらいます」
「よしよし、それでいいんだ。美紀は素直でいい子だよ。うん、互いの気持がのったところで、そろそろ今夜もいいことをするか?」
「ふふふ、健三さんたらバカなこと言って」
二人は互いに見つめ合うと声を出して笑った。それは欲望に裏付けされたオスとメスの傷の舐め合いに等しい劣情であり、ただの獣のまぐあいへのアプローチそのものだった。
「よし、そうと決まればもう一度シャワーを浴びるか!さっき風呂から出たばかりだがもう汗でべたべただ。ついでに戸締りを確認して来るよ」
言ってから健三は立ち上がると再び一階へ向かったが、それを見送った美紀は臆することなくパジャマに着替えて蒲団を敷き始めた。
すでに時刻は午後十時半を回っていた。それでも網戸から入る外気は相変わらず肌に生暖かく、ふと蒲団を敷く手を止めると外の景色を眺めようと窓辺に近寄った。
「夜になってもちっとも涼しくならないわね。わたしはやっぱりクーラーがないと寝られないわ。少しの間だけ入れさせてもらおうかしら」
独り言の様にぽつりと呟いたその時である、「ふふふ、ふふふふ」と、小さく笑う声がどこからともなく部屋の中に響き、美紀は思わず後ろを振り返って声の出所を訝しげに目で追った。
「なに、誰がいるの?いえそんなはずないわよね。あっ、でもその声はもしかして健三さん?もう~止めてよ変な声色使うのは。悪趣味なんだから」
(いつものいたずらかしら?)
美紀はそう思って窓から離れ隣の部屋を覗いた。さらに階段や踊り場にまで行ったが健三の姿は確認で出来なかった。腑に落ちないまま窓を閉め、エアコンのスイッチを入れて再び蒲団を敷き始めたが、その様子をじっと天井から見つめる二つの目があるとは、夢にも思わない美紀であった。
*
健三が部屋に戻ったら、男物のパジャマを手渡そうと美紀は階段から届く足音に耳を傾けていた。
一階に降りてから数分後、健三は足音を響かせながら姿を見せたが、汗ばんだ顔はすっかり爽快さを取り戻しており、手にした缶ビールを机の上に置いて美紀を見た。
「ああ、さっぱりしたよ。シャワーを浴びるだけでこんなに気持が良くなるものとはな」
「それはよかったですね。はいパジャマ」
「いや、まだ暑くて着る気にはならん。それよりコップを二つ出してくれ」
「コップですか。このサイドボードにあるのでいいんですね。あっそうそう、健三さんさっきここに上がって来ました?」
「なに言ってんだ、来るわけないだろう。下で戸締りをしてからシャワーを浴びたし、今さっき風呂場から出てここに戻ったんだから」
「そうよねぇ、じゃあやっぱりわたしの空耳だったのかしら」
「なんだ、何かあったのか?」
「ううん別に・・・」
「変な奴だなまったく。とにかく喉が乾いたんだ、先にビールを飲もうや」
健三はそう言ってテーブルの前に腰を落とし、リモコンでテレビのスイッチを入れた。画面に映し出されたのは夏になると決まって放映される、いわゆる心霊怪奇特番だった。
霊能者を自称する年配の女が心霊スポットに赴き、まことしやかに見えない霊を呼び出してはあることないことを語り、時には自分自身に霊を引き入れて代弁すると云う、極めて眉つば的なエンターテーメント番組であった。
「なんだ、またこんなのをやってるのか。毎年のこととはいえ、実にくだらん番組だ」
健三は眉を寄せながら渋面でそう吐き捨てたが、ちょうどそこにコップとつまみを運んで来た美紀は画面を見るなり、「わぁ!わたしこの手の番組って大好きなの」と言いながら膝を崩して座り込んだ。
「わしは嫌いだ、変えるぞ!」
「待ってよ、わたしは見たいわ。ねぇいいでしょ見ても」
「ちぇっ、好きにしろ・・・」
「ねぇ健三さん、あなた幽霊って信じる?」
「なんだよ藪から棒に、そんなものこの世にいるわけないだろう。人類が火星に移住しようかという時代だぞ、幽霊なんか元々存在しないし、人間が勝手に作り上げた想像上のものなんだよ」
「あらそうかしら、わたしは霊の存在は信じるわ。だって現に見たんだもの」
美紀はテレビを見ながら平然とそんなことを言った。
「見た?幽霊を見たっていうのか、本当なのか?」
「ええもちろんよ。金縛りだって何度か経験しているし、これでも結構霊感が強いのよわたしって」
「ほう、それは初耳だな。しかし、人間は時として思い違いってことも往々にしてあるからな、一概に肉眼で見えたものが幽霊だと決めつけることは出来んものだぞ」
「まあ、確かにそれは言えるけど・・・。あれ、健三さんちょっと見て!このホテルってもしかしてあなたのホテルじゃない?」
突然そんなことを言われた健三は、ビールを手にしたまま素早く画面に目を転じた。見るとなるほどそこに映し出された建物は紛れもなく緑風館だった。その思いもよらぬ事実にあ然となるや、言葉を失ったまま画面を凝視しつづけたた。
「な、なんでわしのホテルが───」
改めて目の前の状況に驚愕し、一二歩テレビへと近寄った時、『この某ホテルは以前から幽霊が出るとの噂がありまして、今日は特別に霊能者をお招きして調べて頂こうと思います。それではご紹介いたします、こちらにおりますのは・・・』と、歯切れ良いリポーターの口調が始まり、画面にはライトに照らされたホテルの全景がアップで映し出された。
つづいてカメラはホテルの玄関前に立つ、細身で清楚な感じの三十代半ばくらいの美形の女性が、数珠を片手に佇んでいる光景を映し出した。
それを美紀は興味深そうな目で食い入るように見つめていたが、後ろに立った健三だけは激しい動揺を覚えてうろたえた。
(くそっ!わしという持ち主に無断で撮影するとはどういうことなんだ。確かに今は廃墟化しているかもしれんが、幽霊ホテルと決め付けて霊能者まで誘い入れるなんて暴挙に等しいぞ。ましてや中に入って勝手に調べようだなんて許し難い問題だ。このまま黙って見過ごすことは絶対出来んし、何とか抗議しなくては腹の虫が収まらん)
見続ける内に湧き上がる怒りで両の拳を握る建三だった。
「あら、わたしこの人知ってるわ。凄い霊能力があって色んな所で除霊しているのよ。だけどなぜ健三さんのホテルなんて選んだのかしら?ねぇ、テレビ局から何か話を聞いているの?」
「なんだって?バカ者、そんな話はまったく聞いたこともないし、ここで初めて知ったくらいだ。それにこれじゃあ営業妨害だからな、わしは絶対許さんぞ!」
「あら、だって今は営業してないからそれは当てはまらないじゃない?。おかしなことを言うのねあなたって、あはは」
「なに言ってんだ!わしにとっては笑い事じゃないぞ」
その怒りは頂点に達したが、美紀はそれでも食い入るようにテレビを見つづけた。そしてテーブルの前に座り込んだまま、ついには健三が一番聞きたくない言葉まで口にした。
「あっ、そういえば大分前だけどわたし誰かに聞いたことがあるわ。この緑風館というホテルは夜になると何だかわけの分からない色んな怪奇現象が起こるらしいって。そうよ、間違いなくこのホテルよ!ねえ、あなたも聞いたことあるでしょ?」
健三はそれを聞いた瞬間、胸の奥で一気に心臓の鼓動が高まるのを知り、美紀に悟られぬように強張った表情で静かに部屋から立ち去った。
秘密の抜け穴
部屋から出た四人はそのまま問題のキッチンへ移動した。近づくにつれて全員の顔に緊張の色が走ったが、それでも優子の体験した現象解明には興味があり、その場所に行けば何か解るのではないかと、そんな期待をそれぞれが抱いていた。
キッチンに入り、改めて中をじっくり観察したが特別変わった印象はなく、こんな狭い空間に優子が立ち止まり、その後に一体何が起こったというのか?河上は周囲に視線を移しながらも一人で考えつづけたた。
「特別変わったところもないようだな」
浦部が言った。
「優子さん、ここに立ってみて何かその時のことを思い出さない?」
怪訝な面持ちで佇む彼女に河上は訊ねた。
「そうですね、確かここに立ったまでは記憶してますけど、それからどうしたかはいまいちはっきり思い出せないんです」
「ここに来てしゃがみ込み、それからすぐに何かを持ち上げたって優子さんは言ったが、ぼくの聞き違いだったかな?」
「・・・・」
「ええ、優子は確かにそう言った。それはわたしもはっきり聞いたから確かよ」
真弓が質問した河上と目を合わせて補った。それを聞いた優子は突然腰を落とすと、床の上に何かを探すような動作に入ったが、すぐに「そうだわ、これよ!やっと思い出したの、間違いない!」と、興奮気味に声を張り上げた。
河上は彼女が指差す場所を見たが、そこは床の中央に設けられた床下収納庫であり、一般的にはどこにでも見られる何の変哲もないスペースだった。
「ここ?これはただの床下収納庫だけどね」
「おい河上、ちょっと開けてみたらどうだ」
「ここを開ける?そうか、じゃあやってみよう」
浦部に言われた河上は埋め込まれている取っ手を押し出し、それをゆっくり上へと引いてみた。するとその五十センチ四方の蓋はいとも簡単に開き、そこに見た事実に全員が驚いて言葉を失った。
普通に考えれば中には保存食やそれに類する食料や調味料、または酒類が置かれているくらいのイメージがあったが、現実には真っ暗な穴と呼べる空間が出現し、深さは分からないものの、底に向かってアルミ製の梯子が掛けられていたのである。
「これは・・・」
河上と浦部は顔を見合わせながら優子に視線を送った。
「じゃあ、優子はこの梯子を降りたってことになるの?」
「でも、それだって確かな記憶ではなく、夢うつつな感じだったからはっきり断定出来ないの。ただ感覚的には身体が覚えているから、多分間違いないとは思うけど」
「何かに導かれたということは、やっぱり催眠状態に近かったんじゃないのかな。でも変だよな、霊が催眠術を使うなんて考えられんし。それにこんな秘密の空間を叔父が作っていたなんて全く知らないことでまさに驚きだ。何の意味があるのだろうか?」
「よし河上、とにかくこの底まで降りてこれがどこに続いているか調べようぜ。そうすればきっとこれまでの謎が一気に解けるんじゃないかな?」
気色ばんで浦部はそう言ったが、むろん河上も反対はしなかった。
「よし、だが万一を考えて懐中電灯とロープだけは用意する必要があるな。俺が裏の物置にロープを探しに行くから、ここで戻るまで待っていてくれ」
皆を待たせたままキッチンから裏庭へ出ると、表は既に漆黒の闇が別荘の周囲を支配しており、月明かりを頼りにそろそろと進んで庭の隅にある物置に近付いた。
鉄製の扉に手をスライドさせて中に入れる隙間を確保したが、その瞬間水滴が右頬に落ちたのを知った河上は、ドキッとしてその場に立ち竦んでしまった。
奇妙なことにその雫は肌を刺すような痛みと冷たさがあった。訝しく感じながらも強引に物置の中に入ろうとしたが、その瞬間下半身に妙な変調を覚え思わず自分の太ももに手を当てる河上だった。
(どうしたんだ、足が硬くなっているし、前に出ないどころか身体も動かない・・・。そんなばかな、これは自己意識下での暗示なんだ。しっかりしろ、自分に負けるな。だらしないぞ!)
そんな気力も空回りするだけで、両足はまるでボルトで固定したみたいに完全に動きを止められていた。そのパワーは見えない所からの作用なのかと怯え、闇の中での孤独な存在そのものが己の死を彷彿させ始めたのである。
恐怖は心臓の高まりを一気に増幅させた。顔面からは血の気が失せ、ドキドキと胸部の皮膚を通して圧力を上げつづける肉体の反応は、嫌でも河上の精神の焦りを生み、最後は破滅を招くかのような痛みを発生していった。
(なんだ、何が起こったんだ。このまま俺はどうなってしまうんだ。誰かにに助けを求めねば・・・。誰か気が付いてくれないのか!)
再び自分の死というものを脳裏に過らせたし、抗うことは意味がない、それより目を閉じて流れに身を任せる方がに楽になれる・・・。そんな思いに襲われた。
霊を信じるがゆえに自分の知らない世界からの警鐘であり、このまま寿命が尽きるのかもしれないと覚悟し、闇の中の孤独感と拘束された恐怖から脱するには、これも仕方あるまいと、諦めの思いが河上の意識を麻痺させた。
それでも別の河上は生きんがために必死に闘っていた。湿気を含む淀み切ったこの空気を取り払い、何とか早くここから脱出しないと本当に死の世界に入って戻れなくなる。ならば力尽きるま魔界の霊から逃げる努力をつづけるしかない。
そんなイメージを湧き起こしてはみたがなす術もなく、フッと全身から力が抜けるのを知ると同時に、意識を遠のかせながら転倒し気を失ってしまった。
それからどの位時間が経過したのだろうか、名前を呼ぶ声が遥か遠くから聞こえて来るのを知ったが、それが地上なのかそれとも空からなのか?錯乱しかかった思考に戸惑いながらも、ぼんやりと目を開ける河上だった。
「おい河上!どうしたんだ、しっかりしろよ!」
「河上さん、大丈夫ですか・・・」
「しっかりしてください、起きられますか?」
「おう、気がついたかよ。良かった・・・」
「河上さん分かります?優子です」
「真弓です、大丈夫ですか?けがしてませんか?」
意識を戻した河上は三人の顔を下からゆっくりと見比べた。
「君たちか。もしかして俺って気を失っていたのか?その間際までの記憶はあるが、その後は全く分からないんだ」
「お前があまり遅いからちょっと様子を見に来たんだ。そしたら真っ暗な中で倒れているじゃないか、それはもうびっくりしたよ」
「そうか、じゃあやっぱり失神したってわけか」
河上は浦部に言われ、瞬間的に僅か数分前の記憶を辿った。そして改めて状況を振り返ると、座ったままブルッと震えて目を瞑った。
「一体何があったんだよ?」
「えっ、ああそれは・・・」
「何か怖いことでも起きたのですか?もしかしてわたしが経験したのと同じ様なことが河上さんの身に襲いかかったとか」
優子が心配そうな目で河上を見た。
「確かにそのようだな。あんな怖い思いは生まれてこのかた初めてだよ、もう二度と絶対経験したくないな。しらない内に失神したらしいが、夢とも幻とも言えない世界に引き込まれたし、おぞましい霊たちに囲まれて身動き出来なかった。もう完全に死の世界にはいったと思い、無意識のままこの世に別れを告げていたね。でもこうやって生還すると、これまでの生き方や人生観が一変してしまったとの印象が強いんだ」
「やはり何か起こったんだな、何があったのか説明してくれよ」
「まあ、その話は後でするよ。とにかくここにはもう一瞬たりともいたくない。さっさと中に入って調べを終わらせよう。あっそうだ、ロープはどうなったかな、探す前にこうなってしまったからな」
「ロープならわたしがさっき物置から取って来ました」
そう言って真弓が手にしたロープを河上に見せた。
「そうか、じゃあとにかく一旦別荘に戻ろうか、そしてキッチンの捜索は明日の朝からにしよう。もう今夜はそんな気はなくしたし、大体こんなに暗くちゃ無理かもしれない」
「そうだな、そうしよう。とりあえず今夜はこれで終わることにして、明日の朝食を食べてから再開だ。三平にも話して手伝ってもらいたいからな」
浦部の言葉を聞きながら河上はズボンの土を払い落とし、少しふらつき気味の足でキッチンを抜けリビングへと戻った。
*
中に入るといつの間に来たのか、三平が怪訝な面持ちで立っていた。
「よう、何かあったのか。ここに来たら誰もいないし、二階にもいないからどうかしたのかと心配したぜ」
「ああ、ちょっとした事があってな。だがもう大丈夫だ」
「なんだ、ちょっとした事って・・・。また例の話のつづきか?もういい加減にしたらどうだよ、そんな幻みたいな妄想を追いかけたって仕方ないだろうに」
「いや三平、それが違うんだ。どうやら優子さんの失踪の原因がやっと分かりかけてきたんだ。この別荘から姿を消し、どうやって再びここに戻ったかってことだが。まあ多分にミステリーじみているけど、事実はもうすぐ解明しそうなんだよ」
「そうか、だが俺はもういいよ。元々無神論者だし、興味ないことに無駄な神経をすり減らしたくないからな」
「だけどほら、この旅行に来る時お前の家で起こった出来事があるだろう、あれだってある意味では不思議な出来事だし、お前だって気味が悪いと言ってたじゃないか」
浦部が三平の前に座りそう言葉をつづけた。
「ああ、子供が言ってたことか。あれは単なるたわごとだろうし、位牌が倒れたのも何かの偶然だと俺は思ってる。この時代にそんな迷信めいたことがあるはずがないし、それをは説明する気になればいくらも科学的に解明できるだろう。実際のところ取るに足らない話だよ」
「そうか、まあどう受け取るかは個人の自由だからな。他人があれこれ言えることじゃない以上は、それはそれでいいと思うが」
「大体が今にして思えばこの旅行は初めから変だったぜ」
「変って何が変なんだ、はっきり言ってみろよ」
河上は三平に向かってそう気色ばんだ。
「だって思い出してみろよ、最初の話では豪華なホテルか旅館に泊まり、若いコンパニオンを呼んで日頃の垢を落とそうって、そんないいことづくめが目的だったはずだろう。それがいつの間にこんな山中の別荘になるなんて、今にして思えばちょっとがっかりだ。そもそもここに泊まったことが今度の発端になっているとしか思えないぜ」
「確かにそれを言われると俺も心苦しいが、今回は泊まる場所が取れなかったから仕方なくこの別荘になったんだ。弁解すれば背に腹は変えられないってことだよ」
言い訳じみていたがあえて河上は答えた。
「どうもすいません、わたしたちが車に乗せてほしいと言ったためにこんな事態になってしまって・・・・」
突然優子がそう言って三平を見ながら深々と頭を下げた。
「いや、別にあんたのせいじゃないさ」
「でも、わたしがここから急にいなくなったり、わけの分からないおかしな行動を取ったりして、結果として皆さんにご迷惑をかけたのは事実ですから本当に申し訳ないと思ってます」
「まあそれは事実だから否定はしないが、といっていまさら結果を論じても仕方ない。それより君たちもそうだが、我々もこの先どうするかを考えないと先に進まないんだ」
「ああ、河上の言う通りだ。俺もそう思うし、まず明日からの行動をどうするかを決めないといかんだろう。当初の予定では明日には帰るはずにはなっていたが、どうしたものかと悩むところだな」
言い終えた浦部の表情は強張っていた。
「君たちはどうする、また別の車を拾いこの先も旅をつづけるかい?」
「どうする優子?」
「・・・・どうすると聞かれても、真弓はどうしたいの?」
「わたしも即答は出来ないわ」
二人はそう言い合って顔を見合わせた。
結局この時出た結論は男たちだけであり、浦部も三平もこれ以上は仕事を休めないとの理由で明日中には帰りたいと主張したが、それを聞いた二人はこれから相談しますと言い終えて部屋へ戻って行った。
*
「ねえ優子、どうしようか?」
「そうね、もうこれで旅行を中止しない?わたしはそれでもいいと思っているけど」
「会社は心配ないとして・・・。でもね、わたしは何だかこのまま本当に終わっていいのかなって気がしないでもないのよ」
意外な真弓の言葉だった。
「えっ、どうして?だって、あなたはこんな気味悪いのはもう嫌だって、この部屋に来るとき言ったじゃない。だからわたしも真弓の考えを尊重してこのまま東京に帰ろうと思ったのよ。意外だわ真弓からそんなこと聞くの、でも本当にどうしてなの?」
「うん、本心はわたしも帰りたいの。でも、もしこのまま帰って優子に憑依しかかった、ごめんね変な言い方して、その霊がいつまでも私たちを追いかけて離れなかったらどうする?そうなったらそれこそ毎日が恐怖の連続で、怯えながら生きることになるって考えたの。それって十分有り得るとは思わない?」
「そうか、確かにそれは言えるわね。良く観光地や霊スポットで、知らないうちに地縛霊を連れたまま帰って来る人はいると聞くし、さっき現われた霊や、わたしを導いた女の霊も何かを訴えたくて現れたんじゃないかしら?だからこのまま無視することは難しいし、かえって身の危険を招くことは避けられないでしょうね」
「やっぱりそう思うでしょ?たぶんこのままだと、霊媒体質の優子を頼ってずっと東京までついてくることは十分考えられるわ。だからこの際徹底的に原因を解明して、ここの場所だけですっきり解決させた方がいいと思うの。きっと霊の側から見れば優子に何かして欲しいことがあるのかもしれないし、黙って見過ごせば今以上に怖いことが起こるような気がするもの」
「そうね、それが何なのかよく分からないだけに気味悪いし、仮にあなたの言う通りだとしたら凄く怖い結果になりそうな予感がする。それにわたしの霊感も普通の人よりは強いから、すがってきたという事実も確かにあり得るわね」
「正直言えばわたしも怖いわよ。でも、仮に結果的にそうじゃないとしても、結論を出せばわだかまりなくここから帰れるし、この先の毎日が安心だと思うの。東京に帰ってまでも何か霊的な現象に襲われつづけたら、毎日がきっと苦しみの繰り返しよ。事実そう考えただけでぞっとするもの、この問題はやっぱりここで解消させるべきだわ絶対に」
「確かにそれは正論ね。でも、このわたしたちの考えを証明して納得するには、果たしてどうしたらいいのかしら?」
「緑風館よ!優子がおぼろげに見たと言うそのホテル、そこに行けばきっと何か分かるはずだわ。いま直感的にそう感じたの、そのことをこれから皆に話してみない?」
真弓の切迫した言い方に優子も心から同意した。
「ねえ真弓、それって確か浦部さんが話したホテルで、河上さんの叔父さんが経営していたともさっき聞いたわ。でも、いまも女将と思われる女の幽霊は出るのかしら?」
「さあ、それはわたしにも分からないけど。でも、どっちにしろそこに行かなければ謎は解けないでしょうから。ううん、行ったからって必ず全てがすっきり解決するとは限らないにしても、とにかく優子が夢遊病者のように見えない何かに導かれたことは間違いなく関係があると思うわ」
「恐らくそうでしょうね。わたしも同じ様に感じてきたし、やっぱりそのホテルに行くしかないと思う。いいわ、こうなったら覚悟して全ての謎を解くことにしましょうよ。真弓も一緒に力を貸してね」
「OK!じゃあ、早速河上さんたちに今から知らせましょうよ」
互いに軽く頷き、部屋を出ようとドアに近寄ったその瞬間、突然優子は真弓を制するように手を出して立ち止まった。
「優子、どうしたの?」
「・・・・・」
「ねぇ、一体どうしたっていうのよ?」
「シッー!ドアの外に誰かいるし、なんだか異様な気配を感じるの」
小声で囁いた優子はドアノブに視線を注ぎつつゆっくり後ろに下がった。そして怪訝な顔をする真弓の横に立ち止まり、大きく深呼吸して険しい表情でドアを見つめたが、その時二人の前に信じられない現象が起き始めた。
板張りのドアがまるで飴の如くゆらゆらとしなぎ、突然そこから太くて長い二本の手がニューと突き出されると、節くれだった十本の指が何かを掴もうと二人の顔面へと伸びて来たのである。
「ウワッ―――!」
優子と真弓は信じられない目の前の恐怖に悲鳴を上げた。とその声に反応したのか、その手はいきなり鼻先まで伸びて優子を掴みにかかった。間一髪でその魔手を避けて後ろに逃げたが、今度は全身が金縛りにあったように硬直してしまい、優子はその場から一歩も動けなくなっていた。
空中を彷徨い蠢く十本の指は、見るだけで悪寒が走りおぞましさに鳥肌が立った。血管は皮膚から浮き出て途中から枝分かれし、それを包む太い二の腕と筋肉は間違いなく男のものであり、一旦掴まったら瞬時に向こうの世界へ引き込まれ、有無を言わせず死の世界へ連れ去られる。そんな恐怖に二人は顔面蒼白のまま全身の血を逆流させ、唇を小刻みに震わせつつ膝から下の痙攣に耐え戦いた。
おそらくは扉の向こうには、見たこともない想像を超えた世界があるに違いなく、そこに掴み入れようとしている手は、異次元から遣わされた使者のものに違いない。優子はそう確信して自分がここでなすべきことを考え始めた。
しばらくするとその巨大な手は捕えるのを諦めたのか、次第に動きを緩慢にさせると最後はだらんと両手を下げたままの不自然な形で停止した。それら一連の動きはもはや疑うべきもない怪奇現象であり、人知の理解を超越した地獄からの挑戦であった。
(ここで負けたらダメだわ・・・。この鬼のような太い手は間違いなく魔界からのものよ。わたしたちの行動を阻害する目的で、向こう側の世界に連れ去ろうとして出現したのかもしれない。そうだわ、とにかく母から教わった真言を唱えて退散消滅させるのよ!)
優子は改めて冷静に目前の現実を見つめ、焦りながらも脳裏に過ぎらせたのは古くから伝承されている、小乗仏教の真髄に等しい魔に対抗する経文だった。
「のろまく さんまんだば ざうだん せんたまかろしきだ そわたや かんたら たかんまん」
空中に停止したまま一切の動きを止めた手を凝視し、目を閉じた姿勢で合掌すると、優子は精一杯の声を張り上げて朗々と経文を唱え始めた。するとその声に手はビクッと反応し、次第に悶え苦しむかの様相を示して徐々にドアから抜け出る動きに入った。それでも最後のあがきなのか、再びぐっと掌を広げて優子の顔めがけて掴む動作を取ったが、すぐに諦めたのか数秒後にはドアの外へと消え去った。
「どうやら去ったみたいね。でも正直すごく怖かったわ、掴まったら最後だし、あの鬼のような太い手はやっぱり悪魔かもしれないもの」
優子は言い終えると、真弓を見つめながら安堵感で笑みを零した。
「本当に怖かったわね、人間として恐怖の極限を味わった感じよ。そのせいか何だかまだ頭がボウッーとして現実のことじゃないみたい。でも優子のさっきの言葉だけど、あれって何なの?わたし本音で驚いたし、その力であの気味悪い手が消えたんでしょ?」
「あの経文は母から教わったの。もし悪霊や物の怪に取りつかれそうになったら一心不乱に唱えなさいってね。わたしは子供の頃から霊感が働いたし、将来を心配してどこかの行者さんに頼んで教わったと言ってたわ。確か真言密教の呪文らしいけど、わたしには真偽の程は分からない」
「そうだったの、優子の偉大さを改めて見直したわ」
「そんなことないけど、身の危険を感じさせる悪霊などには絶大な効果があるみたい。でもそれより、この事実を河上さんたちに知らせましょうよ」
頷き合った二人はそっとドアを開けて廊下を覗き、怯えながらも部屋を出てリビングへ走った。
*
その頃一階では、三人が顔をつき合わせて明日からの行動を相談していた。
「河上はどうするんだ、叔父さんの別荘とはいえ、いつまでも使わせてもらうわけにもいかんだろう」
「ああ、確かにな。当初の約束は二泊三日だったし、今日は十八日だから明日の午後には帰る予定になっている。だけど・・・・」
「だけどなんだ?」
「このまま帰ってはまずいような気がするんだ。まず俺が経験したことがそうだし」
「そうか、その話があったな。大体あの物置で何があったんだ、俺と彼女たちはお前がなかなか戻って来ないから心配していたんだ」
「なんだ、やっぱり何かあったのか?」
黙って二人の会話を聞いていた三平は、その内容に興味を覚えたのか話に加わった。
「実はな、キッチンの床下に秘密の穴があって、そこから優子さんが表に出たらしい。じゃあどこに出るのか調べようという話になり、河上がロープと懐中電灯を探しに裏の物置に行ったんだよ。だけど幾ら待っても戻ってこないし、仕方なく俺たちが様子を見に行ったら、なんと暗闇の中で失神していたというわけなんだ」
浦部は三平にそう説明した。
「失神?なんでそうなったんだ、何かそこで起こったのか?」
「それそれ、それを聞きたいと思っていたんだ。河上もっと詳しく説明してくれよ」
言われた河上は思わずゾクッとしながらも姿勢を正し、その時の状況をありのまま話し始めた。
「あの時、俺は物置小屋を前にしてふと足を止めたんだ。確かに辺りは暗かったけど、少しは目が慣れたせいもあって小屋の扉は分かったんだよ。そしてその扉に手を掛けようとした瞬間、右頬にヒヤッと冷たいものを感じて、その場で足が固まり一歩も動けなくなってしまった。さすがに今思い出しても怖いけどな」
「そりゃあそうだろう、暗闇だけでも恐怖感はあるのに、自分の顔に突然冷たい感触を覚えれば、どんな気丈の者だって心臓が止まる思いさ」
「それで失神したのか?」
三平が浦部につづいた。
「いやいや、それだけじゃ失神まではいかないさ。立ち止まったものの、いつまでもその状態でいるわけにもいかず思い切って横を向いたんだ。その時だったよ、改めて思い出しても恐らく一生涯忘れられないくらい、おぞましさと身の毛のよだつものをこの目でしっかり見ちまったんだからな」
河上は言い終えると目を瞑り、遭遇した時の光景を瞼の裏に蘇らせた。と同時にそれが再び現れて自分を襲うのではないか?そんな恐怖心のまま身震いし、両手で顔を押さえると大きくため息を漏らし生唾を飲み込んだ。
「そうだよ、俺が何気なく横を向いた時、目の前には見覚えのない男の顔があったんだ。文字通り目と鼻がつく距離だし、それを見た俺はとにかく驚愕の一言でドキッとしたきり言葉が出せなかった。なんせ、見知らぬ男と目が合ったんだからな。しかも周りは真っ暗な闇の状態だ。全身に悪寒が走ると頭から冷水を浴びたような寒気に襲われ、いつ心臓が止まってもおかしくない状況に陥っていたと思う。まさかあんな所から顔だけが現れるなんて想像の域を超えた現象だからな」
「そうか、確かに闇の中から見知らぬ人間の顔が突然出てくれば、まず誰だってびっくりするだろう。しかも自分の鼻面に顔があるなんて、恐怖なんて生易しい言葉じゃ表現出来ないだろうな。そりゃあ失神しても不思議じゃないよ」
「いや浦部よ、実はそうじゃないんだ。それは確かに人には違いないけど、ただの顔だけなんだよ。俺だって一瞬は驚くがその程度じゃ失神まではいかん。顔を見た時はドキッとしたが、それでもじっとそいつを見つづけたんだ。そして何か言わなければと思い、改めて男の周囲を見回したその瞬間、フッーと意識が遠のいたと、まあそれが事実なんだ」
それは河上が遭遇した出来事の詳細だったが、まだ失神に至る肝心な部分を彼らに話していなかった。
「顔だけだって?そんなことってありなのか、信じられんな」
「いや事実だ、男には顔から下がなかったんだよ」
「じゃあこういうことか、暗闇で突然見知らぬ男の顔が目の前に出てきた、そしてそいつが冷たい手でお前の頬を触った。だから余りの恐怖で意識を失ったと、そうなんだな?」
浦部は怪訝な顔をしながらもそう決め付けた。
「そうだよ、事実その男は顔だけしかなかったからな。まあ、幻覚とは思わなかったが、やはり霊的な現象が俺を襲ったのかと思ったんだ。だけど話にはまだその後があって、そいつが一番の問題だった。ふと俺がその顔の後ろに視線を移した時だ、なんと男の背後には何十人、いや何百人かもしれないが、暗闇の中から目だけを異様に輝かせた、明らかに亡霊らしきものがこっちをジッーと見つめているんだ。その不気味さと言ったらもう戦慄以外のなにものでもなかったな。だから話が前後するけど、俺が失神したのはその異様な霊集団を見たからなんだよ。いまさらながら思い出しても鳥肌ものだが・・・」
「それって本当か?なんだか信じられない話だが、聞いただけでも気味悪くて身の毛のよだつ怖い現象だぜ、なぁ三平よ」
「確かに本当ならそうだろうな。何百という目で暗闇の中から一斉に見つめられたら、霊なんて信じない俺だって失神してるだろうさ」
「そうか、霊的なことを信じない三平もそう思うか。思い返すのも嫌だが、まずあれはこの世の者たちじゃないと思っている。あの恨めしそうで怨念に満ちた目つきは、忘れようとしても忘れられないくらい恐ろしいものだし、亡霊の目ってあんな風に生気を失しているものなんだということが良く分かったよ」
「でも、それだけで他にはなにも起きなかったのか?」
浦部が河上に訊いた。
「ああそれだけだ。でもここには何か絶対あるな。彼女たちの見た女の霊や俺の経験した怪奇現象。これは笑い話では済まされない、隠された何かの呪いを意味しているんじゃないのかな?」
「何かの呪い?」
「お前が言ってたじゃないか、この伊豆にはその手の噂話がごまんとあるって。土地にまつわる因縁かもしれん、または多くの人間がこの地で処刑され、成仏出来ずにいまもって彷徨い続けているとか───」
河上は浦部と三平の表情を見比べながら言った。
「うん、まあそれは地元の者に聞くか、郷土史でも紐解かねば分からんことだが」
「もうやめとけよ、ともかくお前らはどう思うがしらないが、俺はそんな話は絶対信じないからな。全部迷信だよ迷信。科学万能の時代に霊なんているわけないさ、あははは」
そんな三平の論に対し、あえて河上は言葉を返さなかった。
(信じない奴とは話が噛み合わんからこれ以上喋っても無駄だろう。しかし、なぜ俺があんな怖い目に遭わなければならないんだろうか?)
それが河上の偽らざる本音だった。幾ら考えてもその理由なんて一つも思い浮かばず、逆にこの別荘を借りてからろくなことがない、とそんなことまで考えて落ち込んだ。そしてやはり明日は思い切ってここから帰るべきだと自分に言い聞かせた。
健三の行動
健三は明日にでも早速テレビ局へ抗議の電話をせねばなるまいと思っていた。横では美紀が相変わらずその番組に夢中だったが、そんな様子を横目で見つめ、苦々しく感じながらビール缶を手にしたまま立ち上がった。
「あら、あなたどこ行くの?」
「こんな番組はへどが出るからな、わしは隣で静かにビールでも飲むよ。ああそうだ、気が散るからイヤホンで聞いてくれ」
「はいはい、分かりました」
美紀は苦笑すると言われた通りイヤホンを取り出して耳に当てた。それを見た健三は隣室へと移り、壁に寄りかかったままビールを喉に流し込んだ。
襖は開け放たれていたが、エアコンの涼風はこの部屋には殆ど届かなかった。しかし健三にはそれで十分だった。
「くそっ!何て言おうか・・・。勝手にわしのホテルなど撮影しやがって、それも幽霊が出るとか頭から決め付けている。これは絶対に許せない問題だ。ある意味では営業妨害だし損害賠償だって請求出来るだろう。いや、営業は停止しているからそれはちょっと無理かもしれんが、慰謝料くらいは取れるかもしれんな」
ビールを一口飲んでそんな怒りを口にしていたその時、
「ねえ健三さんちょっと見てみない!霊能者とカメラがホテルの中に入って行くわ。すごい光景よ、でも思った程荒れてないじゃないの?意外にきれいな状態みたい」
と、美紀が襖越しに声を掛けてきた。
「なんだって、何が荒れてないって?」
「いいからちょっとここに来て一緒に見ましょうよ。あなたのホテルでしょ、見ておいたほうがいいと思うわ」
「いや、わしは見たくない。それより頭にきているんだ」
美紀のそんな誘いにも頑なに動こうとしない健三だった。
「あっ、いまフロントを過ぎて一階の厨房に入ったわ、へぇ~まだ冷蔵庫なんてそっくり残っているんだ。でもこれだけ暗いとやっぱり怖いわね」
「まったく、ごちゃごちゃうるさいな!もっと静かに見られないのか。わしは気分悪いからちょっと出て来るぞ」
「あら、こんな時間にどこへ行くの?」
「どこだっていいだろ、その番組が終わる頃には帰る」
健三は怒りの形相で立ち上がると、ポケットの財布を確認して階段を降りた。そして裏口から表に出たが、熱帯夜特有のムッとした空気に思わず顔をしかめ、やっぱり止めようかとその場に立ち止まって逡巡した。しかし、一旦怒った腹の虫はそう簡単に収まるはずもないんだと自分に言い聞かせ、気を取り直すと街灯の続く寂れた商店街から駅方面へと歩き出して行った。
(あの男、今日はまだ何の連絡もないが、何か変わったことはなかっただろうな。まあ、何かあればすぐに電話をよこすはずだが、何もなければそれでいいんだ。明日には全て終わるからな)
連絡がない事実は今の自分には吉報であり、すべてが杞憂に終わって無事に明日という日を迎えられる。そう信じながら健は市の中心となる商店街の入り口に達した。
周りを見渡せば大多数の店のシャッターは閉まっており、人通りもなくうらぶれた昨今の経済状況を如実に物語っていたが、それでもメインストリートに等間隔で設置された街灯だけは鈍い明かりを灯しており、幾らかでも気持を和ませてくれたのが健三には嬉しかった。
暫く行くと駅舎の眩いばかりの蛍光灯が目に入って来た。それを見た健三はふと立ち止まり、(駅に行くのはいい、だがそれからどうすんだ?)と、いつになく自分の行動に迷いを覚えて自問し始めた。
(駅裏の居酒屋で軽く一杯引っ掛けるか?いや、パチンコで時間を潰そうか?確かあの手の番組は二時間位だ、とすればあと一時間弱を何とか過ごせばいいはずだろう)
そんな思惑のまま仕方なく駅構内に足を踏み入れた。
ロータリーには数台の空車タクシーが客待ちをしている。それを横目で見ながら待合室に入ると、ふと正面に座る一人の女が目に止まった。
ベンチにいるのはその女だけで他には誰もおらず、ガランとした待合室がいかにも寒々しかったが、それでも特別不思議な思いも抱かず健三は女の様子を伺おうかと、少し離れた所から座ったまま視線を送りつづけた。
見たところ歳は四十半ばか五十に手が届くかに思え、七分袖の白のサマーセーターとベージュ色のスカートが細身の身体によく似合っていた。
手には籐製のバッグをしっかりと握り、身体全体から醸し出される雰囲気でセンスの良さが感じられたが、なぜか頭は下げたままであり、見ようによっては居眠りでもしている・・・。そう見えたのである。
(なんだこの女は、下を向いたまま寝てるのか?まあ、見たところ旅行者ではなさそうだが、かといってこんな時間にここに一人でいること自体が妙な話だ。いや、きっと誰かを待っているのかもしれんな。まだ終電には間があるからな、そうだそうに決まってる)
勝手な憶測を楽しんだが、それ以上は関心も抱かずその場を立ち去ろうとしたまさにその時だった、「すいません、いま何時になるでしょうか?」と、突然女が顔を上げて時間を訊ねながらベンチから腰を浮かした。その予想もしない女の行動に健三は一瞬驚いたが、咄嗟に腕時計に目をやり、八時半前だと伝えてベンチから腰を浮かし始めた女の反応を醒めた目で窺った。
「そうですか、八時半前ですか。どうもありがとうございます。ところでつかぬことをお聞きしますが、この近くにどこか泊まる所はないでしょうか?いえ、ホテルでも簡易旅館でもなんでもいいんです、夜露が凌げれば思って」
「泊まる所か・・・、そうだ、確かここから真っ直ぐ下に行った所にビジネスマン相手の旅館があるが、泊まれるかどうかは当たってみなけりゃなんとも言えんね」
「本当ですか?でもわたしはこの町の地理に不案内ですし、もし良かったらそこまでご一緒願えないでしょうか?女一人で心細い思いもいたします。すいません勝手なお願いまでしてしまって、引き受けて頂けますか?」
「えっ、ああいいですよ。わし、いやわたしもちょうどそっちへ帰るところでしたから、同行しましょう。なあに、すぐ着きますから大丈夫ですよ。たぶん泊れるでしょう」
「ありがとうございます、本当に助かりますわ。親切な殿方に送って頂き、かよわき女性としては心強い思いです。うふふ」
「いやいや、でもよかった、偶然帰る方向が一緒だったから」
咄嗟に出た嘘だった。家とは逆方向にも関わらず、健三は思わず女の頼みにそんな出まかせを言ったが、言葉をかけられ顔を見た時から、『おっ、わしのタイプだぞ!』と感じたし、一緒に行くことで思わぬ収穫を期待したのが、同行を厭わない最大の理由であった。
その言葉を聞いた女は、嬉しさの笑みを浮かべて立ち上がった。そして肩を並べて待合室から出ると健三の後に続くようにしてそろそろ歩き始めた。
*
「まったく、あの人ったらどこまで行ったのかしら?もうかれこれ一時間近く経つというのに、いい加減にもどらないかなぁ」
美紀は少し前に終わった番組に薄気味悪さを覚えながらもテレビを消し、健三を案じて窓から外を見つめた。
心霊ドキュメントと銘打った二時間番組であり、途中から見たことで内容の全ては把握できなかったが、それでも映し出された建物が紛れもない健三のホテルだと知ると、さすがに終わった後は複雑な思いを感じていた。
結果的には、やはりこの手の番組の殆どがそうであるように、幽霊と思われる映像はどんな高性能のカメラや機材を駆使しても、その形を完璧に捉えることは不可能だった。
「やっぱり、幽霊なんてカメラに撮ること自体が無理なのよ。まあ、わたし自身は見た経験はあるけど、それだって本心を言えば半信半疑だもの。幻覚って言われれば反論する自信はないからねえ。でも、そんなことより本当にあの人ったらどうしたのかしら?」
美紀は心配な顔つきで再びテーブルの前に座り、ぼんやりと帰りを待つことを決めて仕方なく新聞を広げた。
その頃、健三は見知らぬ女と駅舎から出て南へ歩きつづけ、数分後には市道と県道が交わる大通りに達していた。
歩行者用の信号が黄色から赤に変わったことで、二人一緒に立ち止まって切り替わるのを待つことになったが、足を止めると同時に健三は一歩下がり、澄ました横顔と細く白いうなじに視線を這わした。
(なんて色っぽいんだ、美紀とは大違いだ。このまま何か口実を設けて、その旅館に一緒に泊まれたら最高なんだがな。いや、ここで下手な誘い文句を言うより、ここはいっそのことズバッと男の本音をぶつけた方がいいんじゃないのかな?だが、もしそんな類の女でなければ大恥をかくことになる。よし、まだここから旅館まで数分はかかるし、もう少し女の様子を伺ってからにするか・・・)
そんな下心十分の思惑を抱き、もし相手が同じようにその気を見せたら誘いをかけて連れ込めばいい───。そう心を決めて女の背中をしげしげと眺めた。
やがて信号は青に変わり、健三は数人の歩行者たちに混じって渡り切った。そして後ろに続く女の動きをそれとなく観察しながら目的の旅館へ通じる裏道に入ったが、それから数歩進んだ時だった、道路上にいるのが自分と女の二人だけだと知ると、ふと怪訝な思いを抱いて足を止め辺りを見回した。
(ん?いつの間に二人だけになったんだ。さっきまでいた数人の奴らはどこに消えたんだろうか。まあいいか、とくに気にすることもあるまい。かえってわしには好都合だ)
心の中でそう呟き、何事もなかったかように再び前を見て歩き始めた。
その道は普段あまり利用することが少ない健三でも、この辺りの地理は庭のようなものであり、目を瞑っても旅館やその周辺に辿り着ける自信はあった。
(このブロック塀を過ぎれば、やがて丁字路になって左手に富士見館が見えるはずだ。この塀はちょいとばかり距離が長いし、ここなら女と話してもいいだろう。その結果据え膳ということになれば後は食うだけだからな。よし、いよいよだぞ!)
気持を高ぶらせ、期待に心震わせながらゆっくり後ろを振り返った。しかしそこに起きた出来事に健三は一瞬呆然となり我が目を疑ってしまった。
てっきり自分の後ろにいると思った女がいないのである。煙の如く忽然と闇の中に姿を消してしまったその事実に、ただポカンと口を開けて信じられないという面持ちで周囲を見回すだけだった。
一体何か起こったのか・・・?
腑に落ちない表情でその場に佇んだ。
「どういうことだ、何がどうなってんだ?一体どこに消えたんだあの女は。変だぞ、何かが変だ。そもそもここには横道もなければ隠れる場所なんて一つもないからな。こっちはブロック塀だし、向こう側は工場のフェンスが延々とつづいている。まさかこのフェンスを飛び越えた訳でもあるまいに。高さだってゆうに二メーターはあるんだ。いくらなんでもそんなことは絶対あり得ない。俺は夢を見ていたのか?」
霊的なことを一切信じない健三は、夢でも見たのかと一応は自問したが、それが愚問であることは十分に承知していた。
そんな心の動揺と畏怖に似た観念を持ちかけた時である、『フフフ、フフフフ・・・』と、闇の中から女の含み笑いが届き、健三はドキッとして声のする方に視線を走らせた。
「だれだ、だれかいるのか?」
震え声で叫んだが返事はなく、静寂だけが辺りを支配しつづけている。それでも人の声らしきものを耳にしたことで健三は幾らか安堵したのか、冷静を装いながらも声の出所を知ろうと周囲に神経を配った。
十メーターも行けば旅館にぶつかるし、電気の点いた看板も見えていることで気持ちは高ぶりながらも冷静だったが、暗い脇道には女が身を隠すようなスペースはあり得ない事実に戸惑い首を捻った。
「やっぱりわしの空耳だったのか?しかしどう考えてもおかしいぞ。何がどうなったのかさっぱり分からんし、まるで狐につままれたみたいな感じだ。この道に入ったまではわしははっきり記憶しているんだが・・・」
奇怪な現象とはいえそれが自分に起こった理由など微塵も思いつかず、腑に落ちないまま家へ帰ろうと来た道を戻り始めた。
好みの女という獲物を取り逃がした悔しさより、目の前で起こった出来事をじっくりと思い返し、何とか納得出来る答えを出そうとしたがそれも無駄だった。歩きながら駅舎が近付くと同時に家に残した美紀の顔が頭に浮かんだが、不思議なことにそれはすぐに見慣れた妻の背中へと変わった。
「こうしてと自分だけがのうのうと生き長らえている、はたしてこれからのわしの人生はどうなって行くのだろうか?空耳とは思うが、あの笑い方はどこか静子に似ていたな。いつもあいつは意味深な笑いをしては、わしに人なつこい笑顔を投げかけたものだ。だが、やはりあれは空耳には違いないだろう。死んだ人間が生き返って笑うはずなど絶対にない事だからな」
家路を辿りつつふとそんなことまで口にし、憂鬱な表情と重い足取りで暗い市道を歩きつづけたが、その根底にはどうしても自分を納得させたい理由があった。
(健三よ、そうは言うけどお前はあの声を本心から空耳だったと思っているのか?)
強いて自問すると簡単に自信は揺らいでしまう。だからこそ『むろん思っているさ!』と声高に言い切れないのがやはり辛かった。
しかし改めてそれを確かめる術もなく、空耳だと思い込むことで仕方なく自分を納得させたし、見知らぬ女への下心を恥じ入ると同時に、美紀と静子の顔を脳裡に過ぎらせてはいつものように意味もなく見比べていた。
探求へ
三平、浦部そして河上の三人で話し合った結果、やはり当初の予定通り明日には家路に付こうという結論が導き出された。
「そうだな、今回の旅行は結果として大変な目に遭ったと思うし、もうこれ以上わけの分からぬハプニングはごめんだからな。ここから去ってすべて忘れ去りたいよ」
「ああ、河上の言う通りだし、三平も俺も明後日からは又仕事が待っている。だからこれ以上は休めないんだ。でも、何にしろ無事に終わりそうで良かったと思う」
「まあ、お前らには悪いが俺は元々神仏なんてこの世に存在しないと思っている。だからというわけでもないが、今回起こった現象だって素直に納得し、信じたりすることは出来ないんだよ。人間は思い違いなんて往々にして有り得るし、世間で良く言うじゃないか、幽霊の正体見たら枯れ尾花って。とにかく幻聴や幻覚なんて言葉もあるくらいだからな」
二人は率直な考えを述べた。特に三平は怪奇現象を頭から否定したが、無論それについてどうこう言うこともなく、明日には全てを忘れて家に戻り、またいつもの日々を頑張らねばと、河上は自分に言い聞かせて気持ちをすっきりさせた。
「よし、じゃあ今夜はこれで終わりだ。明日は朝飯を食ったら早々に帰ることにしよう」
言い終えた河上がゆっくり椅子から立ち上がったその時、
「あの~ちょっといいでしょうか?」
「すいませんお話中に・・・」
と、真弓と優子が姿を見せたし、遠慮がちな面持ちで三人の傍らに近寄って来た。
「おう君たちか、用事でもあるのかい?まあ座んなさい」
浦部が彼女たちを椅子に座らせた。
「実は、明日のことなんですけど」
「明日のこと?ああ、それは我々も今決めたところだよ。朝にはここから帰ることが決まったし、叔父にも今夜中にその旨電話することにしたからね」
「えっ、そうなんですか?」
「うん、浦部や三平も仕事を持ってるし、第一には生活がかかっている。まあ、それはわたしも君たちも同じだけどね。しかし、思えばこの別荘に来てからは色んなことがあり過ぎて、いささか心身も疲弊し切った感ありだからな。もちろんそれは君や優子さんも同じだろうが、明日にはきれいさっぱり忘れて懐かしの我が家に帰ることにしたんだ」
「そうですか、もう決まったんですか・・・・」
真弓は優子と顔を見合わせると落胆したような表情をした。
「なんだい、随分がっかりした言い方だね」
「いえ、それならそれでいいんです」
「どうしたの?何か考えがあるならはっきり言ったらどうだい」
浦部が真弓を見て訊いた。
「実は、わたしと優子でさっきまで色々考えました。そして出した結論が、このままうやむやで終わってはいけないということだったんです」
それを聞いた河上は、咄嗟にどういう意味か理解できなかった。同じように浦部も三平も呆気に取られた顔で二人を見つめた。
「君たちの言ってる意味が良く分かんないが、良かったら説明して欲しいな。是非その結論を聞きたいし、これまでの怪奇現象、と言っても信じているのはわたしだけかもしれないけど、それに関する話なのかな?」
「ええ、そうなんです。これまで起きた現象をそのままにして東京に戻っても、また優子やわたしに怖い出来事が起きるような気がします。ですからこの際わたしたちだけでこれまでの謎をすべて解明し、すっきりした気持ちで今後の生活を続けようって、そんな結論を導いたのです」
「わたしもちょっとそれについて補足します、実はここに来る前に・・・・」
今度は優子が真弓に代わって話し始めた。その内容は数分前彼女たちの部屋で起こった恐ろしい現象であり、聞き終えた三人はそんなことが本当にあったのかと、俄かには信じられない表情で訝しげに二人を見返した。
「それで良く君たちは無事に部屋を出て来られたね。でもそれって霊現象なのかい?それとも何か別のものかな」
「浦部よ、それは彼女たちにも分からんだろう。ただ現実に二人の人間が恐怖体験したんだし、いくら何でも同時に幻覚なんて見るはずもないだろうから、まあ霊的な怪奇現象かもしれん」
「確かにそう言われれば納得せざるをえないが」
「でも信じられますか?ドアを突き抜けた両手が、グッとわたしたちに向かって掴まんばかりに突き出されたんです。あれは絶対この世の出来事じゃないと断言できます。だって物理的に不可能なんですから」
「わたしも真弓の考えと同じです。常識的にも理解し難い現象ですし、多分わたしたちが今回の出来事を解明しようなんて相談したから、それを阻止しようとする魔か、それとも別の何かだと思います」
優子は全員を見渡して自信ありげにそう言い切った。しかし同時にその言葉で皆が黙ってしまうという、実に重苦しい雰囲気もその場に出来上がってしまった。
一度はこのまま帰ろう決心した河上だったが、数度の怪奇現象がもたらした後味の悪さがどうにも我慢ならず、叔父のホテルも今度の一件に関係している疑念もあって、その絡まった糸をほぐして解明したいとの思いは捨て切れなかったのである。
この旅行の初日に三平家で生じた不思議な出来事、そして箱根で彼女たちを同乗させたことで引き起こされた霊的な恐怖。それらは決して偶然の産物ではないと思えた。
霊感の強い優子が仲間に加わった事実から、自分たちに対する何か意味ある警鐘と牽制かもしれない。それとも単に彼女を通して恐怖に戦く人間を面白がる、霊たちのいたずらによるものなのか────。
いずれにしても知らない世界に日頃から興味があった河上は、二人と行動を共にしなければ、その真実は解明できないだろうとの意思を持ち始めていた。
「君たちの話は分かった。しかし俺はこれ以上関わることはごめんこうむりたい。そもそも怪奇現象なんて科学万能のこの時代にそぐわない話しだし、勝手を言うようで悪いが俺はやはり明日帰ることにするよ。十九日の夕方までに部品の納入も控えているしな」
三平は立ち上がって自分の考えを述べたが、それを見た浦部も仕事を理由に一緒に帰ると主張した。
「そうか、じゃあ俺も自分の考えを言おう。初めはお前たちと予定通り旅行を終えて帰るつもりだった。しかしこの瞬間に気が変わったよ。幸い俺は自営業、従って好きなだけとは言えんがまだ数日は休める余裕もある。だから明日も彼女たちと行動を共にするよ」
「河上さん無理しないで下さい。わたしたちも絶対の自信があるわけではないんです。ただ優子の見た緑風館と言うホテルに行けば、何か今度の現象解明の糸口が掴めるのではと思ったものですから」
「ああ、だからいいんだよ。だってそのホテルはこの前言ったように、わたしの叔父が経営していたホテルだからね。乗りかかった船の心境で、一度幽霊騒ぎの真相に迫りたいと思っていたからいいチャンスだ」
「だけど、それって危険過ぎないか?」
「いや、別に真夜中に訪れるわけでもないし、昼間ちょっと入ってホテル内を色々見て回るだけだからな。場合によっては何か分かるかもしれないだろう。本来はそれだけで充分だが、出来ればこれまでの怪奇現象解明の手掛かりを得て、すべて円満に終ればと願うところなんだ」
怪訝な目で見つめる浦部を見て河上はそう言い切った。
バスの運転手がホテル内で遭遇した女将らしき女性の幽霊話や、優子が見えない何かに導かれ叔父のホテルを見たという謎に興味を持ち、この別荘内で起こった不可思議な現象そのものが本当に彼女と関わりがあるのか否か?それが河上には最大の関心事だった。
*
事態は思いがけない方向へ進んだ。河上の考えを聞いた三平と浦部は、戸惑いの表情をしつつも反論はせず黙って頷いてくれた。
「じゃあ、悪いがそういうことにする、すまんな」
「いいさ、河上の好きにすればいい。なあ三平よ」
「それと車だけど、まだ暫くは借りといてもいいかな?これから三人でホテルに行ったりするのに必要だし」
「ああいいさ、俺と浦部は電車で帰るから。まあ、気にしないで好きなだけ探索でもなんでもやってくれや」
三平のそんな言い方はどこか投げやり的で皮肉にも聞こえた。しかし河上はそれに対する言葉は継がず、この旅行が苦々しい結果で終わりそうな現実を思い煩っていた。
「じゃあ、ぼつぼつ俺たちは部屋に戻るとするか」
「あの~ちょっといいでしょうか?」
河上と浦部が三平の呼び掛けで立ち上がり、階段へ向かおうとしたその時、背中越しに優子が再び声を掛けて来た。
「なんだ、まだ話があるのかい?」
「はい、実は明日からのわたしたちの行動についてもう少し河上さんと具体的にお話ししたいと思って」
そう言ってから優子は了解を得るかのように真弓を見た。
「ええ、そうなんです。河上さんのお友達は明日お帰りになるし、残ったのはわたしたち三人です。だからこの先どんな事態が起こるやもしれないとの不安は否めません。そういう理由でやはり今から対策を練った方がいいと相談したのです、もしご迷惑でなかったらですけど」
「そうか、まあそれは確かに必要かもしれないな。しかし対策といってもまだ何も分かってないし、問題のホテルに行ったから必ず何かが起こるとは言い切れないからね」
「確かにそれも正論ですけど、わたしはまず優子が入ったというキッチンの抜け穴から調べたいんです。それと、緑風館がこのミステリーな事件にどう繋がって行くのかも知りたいし。そういう理由で河上さんの協力がほしいのです」
「なるほど良く分った。よし、じゃあとにかく座って話そうか」
三人の様子を一瞥した浦部と三平はそのまま静かに立ち去った。
「まずキッチンの件ですけど、明日わたしたちで思い切って中に入り、優子の証言の検証をしませんか?」
「うん、まあ昼間なら安全だろうしな。それにロープと懐中電灯があればなお調べ易いだろう。行動に移すのは二人がここから気持ち良く去った後がいいだろうな。わたしが車で駅まで送らねばいかんだろうから、それからにしよう」
「それとこの別荘なんですけど、まだ借りていても大丈夫なんですか?確か河上さん、叔父さんに了解の電話をかけるとかさっき言ってましたけど」
「ああ、それは明日するし、妻にも詳しく電話するもりだ。まあ、思うにここは叔父も現在使ってないから、二日くらい延びても文句言わないと思うよ」
それを聞き、黙って頷く真弓と優子だった。
「ところで河上さんはこれまでの出来事をどう思います?」
優子が訊いた。
「う~ん、さっきもふと思ったけど、奇怪な現象が起き始めたのはこの別荘を借りることになってからだろうなと、わたし自身はそう感じている。そもそも出かけに三平の家で不思議なことがあったからね」
河上はその経緯を二人に聞かせた。
「それは、きっと三平家の先祖霊の仕業だと思います」
自信に満ちた顔で優子が言った。
「おそらくは三平さんが今度の旅行で信じられない体験をするだろうし、危険な出来事にも遭遇することへの警告かもしれません。またはそれを契機として霊的な思考を深め、未成仏の先祖霊を子孫として供養する。そんな気持を持ってほしいとの願いから起こした現象だと思うのです」
「そうなのかい?わたしも霊的なことは全然信じないわけではないが、その見解は初めて耳にするな。要するに供養を求めている先祖霊がいるってことかな?」
「はい、それは確かだと思います。何となくわたしには分かりますし、きっと子供が見たのも純真無垢な心が霊を素直に捉えた結果でしょう。大人に見えなくても子供には霊が見えるという話はいくらでもありますから、あながち全てが作り上げられた話とは言い切れません」
「でも優子、先祖を供養するってのは分かるけど、危険な恐怖は三平さんに起きなかったじゃない。それはどう説明するの?」
「さあ、そこまではわたしにも分からないわ。でも子孫を守る守護霊の力が強いと、思わぬ危機回避がごく自然になされるらしいとの話は聞いたことがあるの。たとえば、高層マンションから落下したのに奇跡的に軽傷で済んだとか、何となく気が進まず次の飛行機に変更したら墜落の危機を免れたとかは、強い守護霊が引き留めたお陰だと言うの」
「そう言えば、そんな話はたまに聞くわね」
「もちろん本人には分からないことらしいけど、なぜあの時自分は危機一髪で助かったのか、ということなどは守護霊の霊的パワーが働いた証拠らしいのよ」
「ふ~ん、やっぱり不思議なパワーが働くってことありなのね」
真弓は怪訝な表情ながらもそう言って頷いた。
「それらの力って、母によると持って生まれた本人の秘めたる霊力らしいのです。わたしにはそんな霊能者みたいな力はないけど、三平さん自身の守護霊の力はかなりのものだという証かもしれないわ。眼には見えなくてもいつもきっちりと子孫を守護してくれる。それが先祖霊の役目だし、神仏を尊ぶ心に繋がるんでしょう」
「でもそれって皮肉ね、だって三平さん自身が神仏なんて信じないって言い切っているんですもの。それでも守護してくれるの?」
「そうね、先祖は不満かも知れないけど、いつかは分かってくれるとの思いがあるんでしょう。元々人には仏性が備わっているのよ、だから口ではあれこれ神仏を否定しても、そんな人に限って墓参りは必ずするし、神社仏閣に行けば柏手を打ち一礼して願いごとをする。それが何よりの証拠だとわたしは思っているもの」
河上は優子の話を黙って聞き続けたが、そういうことは確かにこの世では十分有り得ると思う反面、逆に荒唐無稽な戯言とも感じていた。なぜならこの手の話は絶対的な証明が不可能であり、幾らでも取りようでは好きな解釈が出来たからである。
実際に自分が体験し、恐怖を感じてこそはじめて納得出来る類のものであり、その意味から河上はあえて私見は挟まず聞き手に回ることにしたのであった。
「とにかく、二人には無事家まで帰り着いて欲しいし、正直にそう願っているよ。残された我々三人は協力し合い、これまでに起きた謎解きにチャレンジだ。じゃあそういうことで今日はこれでお開きにしようか」
「そうですね、今夜はゆっくり寝て明日に備えましょ。わたしも真弓と部屋に戻ります」
優子の言葉で河上も立ち上がり、リビングの照明をしてニ階へ向かった。
悪夢
時間にして一時間なんて経ってないと兼三は思っていた。美紀がテレビに夢中になっているので辟易したし、思いつきでふらっと家を出たものの、その辺を歩いてすぐに戻るつもりだった。それがいつの間にか足は駅の方へ向き、思いがけず見知らぬ女との出会いとなり行動を共にした。
しかし数分後にはその女が突然自分の前から煙の如く消えるという、まさに常識では考えられない体験をしたのである。
(何だか、わしの日々の動きが誰かに監視されているような気がしてならないんだ、家の中でもすごく気味悪いが、それは気のせいなのかな?いや大丈夫だ、何をびくびくしているんだ、部屋に帰れば美紀がいるしあいつの顔を見れば気分も変わるはずだ。大の男が臆病風に吹かれて気にすることでもあるまい)
弱気になりかかっている自分の心を鼓舞し、健三は家に戻ると裏口に立ち止まってふとニ階を見上げた。
「うん?なんだ、電気が消えているじゃないか。美紀の奴もう寝てしまったのか?あまりわしの帰りが遅いので先に蒲団に入ったのかもしれんな」
訝しく思いながらも足音を忍ばせて階段を登り、そっと部屋に入って暗闇の中で声を掛けたが、寝ているはずの美紀からは返事がなかった。
「いないか・・・。あいつこんな時間に一体どこに行ったんだ。わしに黙ってここから出て行く奴じゃないんだがな」
仕方なく照明の紐を引き明かりを点けたが、蒲団には寝た形跡がなくテレビのリモコンだけが、無造作に枕の横に置かれていた。
愛人である女の性格や行動パターンはある程度熟知していたはずだった。だから普段と違う行動を起こすことはないと確信していたが、目の前に美紀の姿はない現実を見た時、一気に不審感を募らせてしまった。
ぼう然としながらもあれこれ思考を巡らせかけたその時、ふと何か部屋の中に漂う異様な雰囲気を肌で感じ、ゾッする寒気を覚えた健三は恐怖に戦いたままその場に佇んだ。
(何か家の中が変な感じだ。あいつが突然消えた事も確かにおかしいが、それ以上にこの部屋には妙な空気が漂っているように感じる。それが何かは分からんが、奇妙な気配だけは少しずつ肌に伝わってくるんだ。これはもしかして・・・)
忽然と闇に消えた見知らぬ女や、美紀が突然家からいなくなった奇怪な事実。さらには転寝した時に見た亡き妻と交わした会話の奇妙な内容など、それらを改めて冷静に思い返した時、健三は自分の死というものへの戦きと恐れを抱き始めた。
一番初めに心で感じたのは家の中に滞る妙な空気の流れだった。何かがじっと息を潜めて自分の一挙手一投足を監視している。健三はそういう類は信じなかったが、それでも五感を超えた人間の持つ能力は見えない空気の流れを感知したのであった。
荒い息遣いを物陰から発するのは魔なのか?魔なんて想像を超えた空想の産物だと己に言い聞かせながらも、その微かな蠢きは言葉に出せないくらい無気味であり、肉眼では捉えられずとも肌に受ける波長だけは感じる健三だった。
壁の向こうの箪笥の陰か、それとも押入の中からか?いや、ひょっとして天井裏かもしれない。いずれにしても、何かが虎視眈々と自分の動きを静かに監視している。そんな無気味で凍り付くような恐怖の視線だけは分かっていた。
正体不明な何かへの怯えは、嫌でも健三をパニックへと導いたが,それでも愛すべき女の存在は頭から消せず、おぼつかない足取りながらも懸命に家の中を探しつづけた。
「しかしどこにも見当たらんな。帳場にもいないと言うことは、やはりもう家の中にはおらず、どこかフラッと気分まかせに出て行ったのかもしれん・・・」
ぼやきとも後悔とも取れる言葉が自然と口から洩れ始める。思い当たるところはすべて見て回ったし、もうこれ以上はどうすることも出来ない。落胆した健三は戸惑いながら帳場に佇んでいたが、自分にとって一番大切な宝を失った虚脱感と焦燥感からか、なにげなく窓辺に近寄ると夜の闇に目を転じた。とその時だった、国道の方から救急車のサイレンが風に乗って届くと数秒後に突然止まったのだ。
「どうやら近くのようだな。また事故か急病人が出たのか・・・、あのサイレンの音はいつ聞いても気持ちいいものじゃない。静子の時もそうだった、パトカーやレスキュー車やらで、耳をつんざくけたたましい音は今でも思い出すとぞっとする」
聞きたくもない音で妻の事故を思い出し、ゾッとするような凄惨な事故現場の光景を記憶から蘇らせた兼三は、思わずブルブルッと震えて静かに窓を閉めた。
忘れたくても決して忘れられないおぞましい出来事だった。愛すべき妻の死は自分の人生設計を根本から狂わせてしまったんだと嘆いた。
(わしの人生で最大の悲しい出来事だった。愛する者が突然この世を去ってしまう惨めさと辛さは、経験した者でなければ絶対にその心痛は理解出来ないだろう───)
過ぎ去った時間を恨めしく思いながら、健三は自分の未来を憂いつつ表情を歪めた。
「まあ、静子のことはいまさら悔やんでも仕方ない。そんなことより美紀が心配だ。はたしてこれからどうしたものかな。まさか捜索願でもあるまいが。まだいなくなってから数時間ほどだし、案外に明日の朝くらいにはふらっと顔を出すかもしれん。自分のアパートに戻ったという可能性がないとも限らんからな」
さすがにこれ以上はどうすることも出来ないと諦め、仕方なく今夜はこのまま寝ることにした。
帳場のテーブルを隅に移動し、座布団を枕にして横になったがすぐに寝つけるはずもなく、天井をぼんやり見つめては一人で外出したことを悔やんだ。
美紀のことは心配だったが、冷静に考えれば何かの用事でアパートに帰ったかもしれないと良い方に解釈し、確かめる気になれば電話すれば容易いんだと、都合よく自分に言い聞かせた。
それでも強いて掛けなかったのは、彼女は母親と二人暮らしであり、自分の存在が母親には知られていないことが大きな理由であった。
「まあ、家に戻ったらそれはそれでいいことだ。明日にはまたいつもの調子でやって来るに違いない。その時こそ二人で行く旅行の話でも具体的にもち掛けてやるか。いつまでも絵に描いた餅では可哀想だからな」
我ながらいい考えだと笑みを漏らし、体の向きを変えて瞼を閉じた。そしてうとうとし始めたその時である、「トルルル───トルルル───」と、金庫の脇にある電話がコール音を発したことで、健三は飛び起きると慌てて受話器に手を伸ばした。
「松江川だ」
「もしもし?こちら高野警察署ですが」
「警察?」
「松江川健三さんですね」
「はあ、そうですが」
「実は、池田美紀さん件でお知らせしたいことがありましてご連絡しました。そのお名前の女性はご存知ですか?」
「ええ、知ってますが・・・。美紀の件って、一体何でしょうか?」
電話は近くの警察署からだった。しかも美紀について話があると聞いた健三は、話し易いように体勢を変えて受話器を持ち替えた。
「交通事故に遭われたご連絡なんです。実は先ほど池田美紀さんが国道で暴走車に撥ねられ、救急車で近くの病院に搬送されました。しかし依然危篤状態のまま意識不明がつづいてまして、予断を許さない状況になってます」
「事故、美紀がですか?」
まったくもって信じられない話を耳にし、聞いた途端に鼓動が一気に高まった。受話器を持つ手が小刻みに震え、額から油汗が噴き出すと胸苦しさで表情を歪めた。
「池田さんは救急隊員の呼びかけに対し、あなたの名前を必死に伝えたそうです、わたしは松江川健三の妻ですと訴えたそうですから」
「・・・・」
「電話帳から松江川という方を探し、現場近くであなたの家が見つかったので連絡した次第です。とにかくすぐに病院に行って下さい、病院は高野総合病院ですので」
「わ、わかりました。これからすぐに行きます」
「それでは・・・」
警察からの電話はそれで終わった。健三は受話器を戻しながらもゆっくり立ち上がり、
震えが止まらない足を必死に踏ん張りながら、仁王立ちになって歯を食い縛った。
「ちくしょう!なにがどうなっているんだ。事故だって?あいつが国道で車に撥ねられた?なんで国道なんかに行ったんだ。轢いた奴は一体どこの誰なんだ。とにかくこうしちゃいられない、すぐに病院に行かねば。だがあそこまではちょっと距離がある、そうだタクシーを呼ぼう」
高野総合病院は家から二キロも先にあり、そこまで自分の車を使うのは激しく動揺しているだけにさすがに不安だった。仕方なく焦る思いでタクシー会社に電話すると、二階へ駆け上がってポロシャツに着替え、やって来たタクシーに急くようにして乗り込んだ。
行き先を聞いて走り出したタクシーの中で、まだ収まらない胸痛に顔を歪めた始めた健三は、財布の中に入れてある狭心症薬のニトロベンを握り締めたが、自分のことより美紀の容体を懸念し、封は切らずに車窓から見える夜の街並みに目を向けながら、大きく深呼吸して発作が鎮まるのを願った。
*
夜の十一時を過ぎた国道は車も少なく、病院には三分程度で到着した。健三は運転手に千円札一枚を渡すと早足に入口へ向かったが、数メーター先に赤色灯を回したまま停止している救急車を見ると、もしかしてあの車が美紀を搬送したのだろうか?ふとそんなことを思って眉を潜めた。
待合室に入るとそこは診察待ちしている多種多様の人で混雑しており、その様子に圧倒されながらも健三は正面窓口に顔を近付け、美紀の名前と交通事故で搬送された事実を告げて相手からの返事を待った。
「ああ、先程の女性の方ですね、ちょっとお待ちください」
女の事務員は答えると席を立って奥の方へ歩いて行ったが、その様子を見た建三は一番隅のベンチに腰を落としてそれとなく周りを見渡した。十数台あるベンチは診察を待つ患者やその付き添い者で殆どが埋まっており、静かな中にもひそひそした会話が途切れることはなかった。
待っている間にも心臓は早鐘を打ちつづけている。それを自覚してさらに軽い痛みの感覚に戦くと、自分はもしかしてこのまま死んでしまうのではとの不安に襲われ、健三は顔色を失くしてうろたえた。
(ちくしょう!こんなに速く心臓が脈打っているし、わし自身がどうにかなってしまいそうだ。早くしてくれ、何をもたもたしてるんだ。あいつの安否はどうなんだ、とにかく早くしろ!美紀に会わせてくれ!)
心の叫びに苛立ち、引っ込んだまま姿を現さない事務員に怒りの矛先を向けると、腰を浮かしては何度も事務室の中を覗き込んだ。
そんな時、「松江川さんどうぞ!」とドアが開かれたし、呼ばれた健三は立ち上がると唇を噛みしめながら先を行く若い男の後に従った。
長い通路を数十メーターほど歩き、やがて二つ程壁を曲がって異様な雰囲気が漂う部屋の中に入ったが、そこには数名の看護師と医師が佇んでおり、周りの機械や状況から察して手術室に違いないと健三は確信して立ち止まった。
「池田美紀さんのお知り合いですか?」
年配の医師による第一声だった。
「ええ、そうですが・・・」
「この度は大変なことでした」
「えっ?それよりあいつはどうなんです、どこにいます?」
「実は数分前に息を引き取られました。我々も懸命に手を尽くしたのですが、残念です」
「今なんて言いました、亡くなった?まさか冗て談でしょ?」
健三は神妙な面持ちで医師に聞き返した。
「いいえ、お気の毒ですが事実です」
「・・・・」
「ご遺体はまだこちらにございます。どうか良かったらお顔をご確認ください」
医師のその口調が嘘でないことはすぐ理解したが、あまりのショックに返事も出来ずただ呆然と立ち竦んだ。
目は焦点が定まらないまま宙を舞い、何か言おうとしたが言葉は出なかった。そのうち膝の震えが始まり、それを打ち消そうと下肢に力を入れて踏ん張ったが、激しい動揺から混乱した心は身体の機能まで狂わせたのか、容易に収まることなく一段と激しさを増していった。
顔からは血の気が失せ、唇の端が微かに震えている。それを自覚しながらもぼう然自失のまま医師を見返すと、見かねた別の医師が横から健三に声を掛けて、隣室まで案内してある台の前で立ち止まった。
「ご遺体です」
「───これが美紀ですか!?」
「はい、ここに運ばれた時にはまだ微かに希望はありました。心肺停止状態ではなく脈も微かですが感じられたので、我々は懸命に蘇生の為の努力をつづけたのです」
「じゃあ、なぜ助からなかったんですか?あんた達なら専門家だし、幾らも美紀の命を救えたはずでしょう」
健三はぐっと怒りを堪えてそう言い返した。
「それがちょっとばかり変だったんです。我々が処置をしている時のことですが、突然瞑っていた目をカッと開きまして、『イヤッー!どうしてわたしをそっちに連れて行こうと
するのよ!わたしが何を悪いことしたと言うの、お願いだから助けて健三さん!怖いわ、助けてよ―――』と、そんなことを大声でわめいたんです」
「そっ、そんなばかな・・・」
「いえ、それはここにいる者たち全員が見ていますし、間違いない事実です」
「だからといって、わしにはどう理解していいのやらさっぱり分からんことだ。一体あいつに何があったというのか、全然理解出来んのだよ」
「その少し後です、叫びが終わった途端に今度は微かに動いていた心臓が停止し、同時に呼吸も止まりました。もちろんそれからも蘇生処置は我々としても懸命に施しましたが、再び息を吹き返すことはありませんでした。今となっては本当に残念です」
医師はそう言って頭を下げた。
健三は説明を聞き終えると表情を強張らせながらも、恐々と顔に掛かるシーツの端を掴んだ。そして震える手でそっと数センチほど持ち上げたが、その瞬間、「ウワッー」と、部屋中に響き渡る様な奇声を発し床に尻持ちをついてしまった。
それでも唇をわなわな震わせつつ必死の思いで立ち上がったが、ふらついた身体はバランスを保てず、倒れそうな体勢で周りの機械に寄りかかると、足を絡ませたまま大きな音を立てて床に倒れ込んだ。
その場にいた数名の医師や看護師は一斉に遺体に視線を向けたが、見ると同時に全員が顔を引きつらせ、あまりのおぞましさに表情を歪めて視線を背けた。
「こ、これはなんだ・・・!さっきはこんな状態ではなかったのに、なぜ死体の顔がこうなるんだ!」
「先生!」
「とにかく手で瞼を閉じてあげなさい」
「わたしがやります」
眼鏡をかけた若い医師が答えると遺体に近付き、カッと見開いた美紀の瞳を見ながら瞼に手を添えたが、一旦閉じても再びすぐ開くという、医学の常識を覆す不可思議な動きを見せたのである。
それは誰もが信じられない出来事だった。死亡を確認した医師の話では、目を閉じた美紀の顔は実に穏やかできれいであり、車に全身を強打されてはいたが、顔には擦過傷一つなく、直接の死亡原因は内臓破裂によるものである。そう結論付けらた。
しかし健三やそこにいた全員が見たものは、現実的な解釈では何とも理由付けの不可能な状態を表していたのだ。
それまで閉じていた両目はカッと見開かれ、何かを探すかのように宙の一点を凝視していた。その表情は笑みを浮かべているように不気味であり、口はだらしなく半開き状態でよだれを垂らし、印象としてはまさに死人の笑顔とも言うべきものだった。
医学常識では考えられない死後硬直の状態だが、気味悪いという言葉だけで表現出来る生易しいものでなく、これまでの理解を超えた変化を居合わせた全員に見せ付けた。
ましてやベッドからじっと見上げる死者の笑顔など、生ある側の人間としてはまともに正視出来ないものであり、奇怪な状況に遭遇した医師や看護師達は全員が言葉を失い、呆然と立ち尽くして固まると微動だにしなかった。
それでもある一人の研修医らしき若い医師がスーッと近寄り、美紀の目を何とか閉じさせようと懸命な処置を取り始めた。しかし何度やっても硬直した筋肉はその修正を容易には許さず、寒気さえ覚える状況に居合わせた全員が固唾を飲んで戦き始めた。
落ち着きを取り戻した健三は、改めてそんな美紀の形相を恐々と見つめ直したが、そこにいるのはかつて自分が愛した女に違いなかったものの、あまりの変わり様に怯えながら竦んだ表情で見つめていたその時、突然上を向き続けていた美紀の目が動いてジロッと健三を睨んだのである。
「ウワァァァァァ――――ッ!・・」
絶叫した健三はどこをどう走ったかも分からないまま、脱兎の如く病院から外へ駆け出して闇の中へと消えて行った。
別れ
河上は別荘で八月十九日を迎えた。本来なら今日の午後には我が家へ帰る予定であったが、優子と真弓の考えに共感したことで、更にもう二日間ここに留まることにした。
それにしても彼女たちの探究心には正直驚きを隠せなかった。もっとも怪奇現象を未解決にしたまま東京に戻っても不安は続くだろうし、再び霊的障害が起こらないとは言い切れないのだ。ゆえに謎を解明しその対策を練るべく少しでも調べたいという、その当たり前の考えは十分に理解出来たのである。
「よう、やっぱりお前は残るのか?」
階段の踊り場まで来た時、洗面所から出てきた浦部が河上を見るなり、懐疑そうな顔つきでそう言った。
「ああ、これから女房と叔父に電話するつもりだ。ただ、今回の現象について云々とは言わんよ、特に叔父にはそれは言えんからな」
「それはそうだが、でも奥さんにはなんて理由をつけるんだ。女性が二人一緒だというのは知っているんだろ?」
「確かにその話はしてある。大丈夫だよ、俺は全幅の信頼を得ているし、女房には全ての経緯を理解して分かってもらっているからな」
それだけ言うと河上は洗面所へ向かい、食事の支度を思いながら同時に叔父への理由を考え始めた。
当初の約束ではこの別荘を借りるのは昨日までであり、今日は掃除してここを去る予定だった。だが河上は自分の恐怖体験と優子の不思議な行動に魅せられると、やはり日頃から密かに抱いている未知なる世界への興味を押さえ切れず、謎の解明を諦めることは性格的に出来なかった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう!」
洗面を済ましてリビングに戻った時、河上は二階から降りて来た真弓と顔を合わし挨拶を交わした。
「河上さん、いつから調べます?」
「えっ、ああキッチンの穴のことか。そうだな、とにかく食事したら十時発の電車に二人を乗れるように送るから、調べはそれからにしよう」
「わたしと優子も解決への期待と不安が入り混じって、昨夜は本当になかなか寝付けませんでした」
真弓は遅れて現れた優子を見て微笑んだ。
それぞれの思惑を抱いての二日間は、見えない世界への新たな探訪と挑戦だけに、三人の行動の先に果たしてどんな危険が待ち受けているか、その予測は一切立たなくて当たり前だったが、河上だけは何かしら得るものはあるに違いないと、自分の予感を素直に信じていた。
やがて朝食の時がやって来た。
「ここから最寄りの駅までは、車で二十分もかからないからな。今九時ちょっと前だし、もう少し経ったら送るよ」
「やっぱりお前も俺たちと帰った方がいいんじゃないのか?」
三平がコーヒーカップを手にしたまま、河上を見てそう言った。
「いや、このままじゃ気が済まないし、彼女たちにも協力したいからな。まあ、お前たちには悪いと思っているが、自営業の夏休みと割り切ってもう二日ばかり店は休むよ」
「そうか、俺は元々そんな出来事は信じていないが、そこまで言うならお前の気の済むようにやればいい。とにかく無事に帰って来ることを祈っているよ」
「俺も明日からまた北陸方面へ添乗なんだ、それも今度は三泊四日で黒部ダムだからな、ちょっときついが、これ以上休むわけにはいかんのだよ」
「わたしたちのためにご迷惑をおかけして本当にすいませんでした」
「心から申し訳なく思います」
正面に座った優子と真弓は、二人に対してそう言いながら深々と頭を下げた。
「いやいや、別に君たちがどうこうというんじゃないんだ。ただ、わたし自身そんなオカルト的でミステリー仕立ての現象は信じてないということだからね。もともとが単純な理由だから気にしないでいいよ」
「まあ、俺は三平と少し違うし、どっちかと言えば信じる面が無きにしもあらずなんだ。その理由は君たちの不思議な体験や河上の失神だろうな。特に彼の現場には俺自身が立ち会ったし、そういった類の怪奇現象はこの世でいつ起きても不思議じゃないとは常々思っているからな」
浦部は真面目な顔つきで優子と河上を見て言い切った。
「まあいいさ、この世の中人それぞれってわけだ。とにかく俺はこれから帰るけど、充分気をつけて調査してくれよ」
「ありがと、じゃあそろそろ駅まで送るから荷物をまとめてくれ」
立ち上がった三平にタイミングを合わせるように、浦部もコーヒーを飲み干すと席を離れた。それを見た河上は車を始動すべく表へ向かったが、外は既に夏の陽射しが強く照りつけており、思わず天を仰ぎ辟易する思いでため息をついた。そしてエンジンを掛けてエアコンを作動させると、まずは叔父へ電話することにして携帯を取り出した。
「松江川だ・・・」
「あ、叔父さんですか。わたしです英昭です」
「ああ、なんだお前か」
その張りのないトーンに河上は一瞬耳を疑った。
「あのぅ、叔父さんでしょ?」
「わたしだよ、聞こえているから大丈夫だ」
「すいません、なんだかいつもと声の調子が違うみたいに聞こえたから、何かあったのかなと思って」
「いや、別になにもないさ。それより何か用事でも出来たのか、ああそうだ、確か今日には別荘から帰るはずだったよな?」
「ええ、実はそのことで電話したんです。ちょっと事情が変わってしまい、勝手な頼みなんですけど、今日と明日のもう二日間だけ別荘を使わせて貰えないかと思って」
「なんだ、どうかしたのか?」
「いえ、別にどうもしないんですが、ただここがとても気に入ったし、日ごろの休養を兼ねて出来ればもう少しのんびりしたいと思って───。友人も心身のリフレッシュが出来るってマジに喜んでますから」
河上は予め考えておいた理由をそれらしく述べた。
「そうか、確かにいまのこの時期は暑いからなぁ。いいだろう、あと二日位なら使ってもいいよ」
「そうですか、それはありがたいです」
「それはそうと、わたしのホテルには行ったかね?」
「いえ三日間はずっとこの別荘でした。だからホテルの敷地にさえ入ってませんよ、でもそれがなにか?」
「ああ、いや別にいいんだ。なぁに、あそこらで温泉が出るのはわしのホテルだけだし、お前にもそのことを言っておいたからな。ひょっとして皆で入ったかと思って訊いただけだ。あははは、いやいや使わなければそれでいいんだよ」
「無理に温泉に入らなくても今はシャワーで充分ですからね」
「そうだよな、温泉は熱いから無理に入ることもない。まあ、とにかく火だけを注意してくれればいいから好きなだけ使いなさい、帰る前にはまたこっちに連絡してくれ」
「分かりました。じゃあ、遠慮なく今日と明日の二日間使わせてもらいます」
「いいだろう、了解した」
叔父はいつもの口調に戻ると機嫌よく自分から電話を切った。そして妻へも掛けようと番号を押し始めた時、別荘から姿を見せた浦部と三平に気付き、河上は一旦携帯をポケットにしまうと足早に車へ乗り込んだ。
*
時間は九時二十分を少し回った頃だった。
「さようなら、気をつけて!」
「お世話になりました、お元気で・・・」
二人がドアを閉めると、真弓と優子はそう言いながら手を振り笑顔で見送った。ゆっくり車を庭先で回し雑木林の中を東海岸目指して走り続けたが、浦部と三平は押し黙ったままであり、何となく重苦しい雰囲気が車内を支配していた。
外は真夏の太陽が強烈な熱量を地上に照射しつづけている。午後にかけてより強くなる暑さを憂いながらも、別荘から離れた車はやがて緩やか坂を慎重に降り切り、家並みがつづく場所へと入って行った。
「そろそろだな・・・」
浦部が呟いた。
「浦部よ、電車だと東京まで二時間くらいかかるのか?」
「いや良く分からんが、河上は知ってるか?」
「すまんな、俺も知らないんだ。時刻表もないし、とにかく駅に入ったら聞いてくれよ」
短い会話だったが、それだけで重苦しいムードは一変し、河上はホッとした安堵感で気持をなごませた。
シャッターの上がり切らない商店街を抜け、前方に伊豆急の駅舎を目に止めると構内で二人を下ろした。そして軽くクラクションを鳴らして走り去ったが、しばらく行って広くなった路肩を見つけた河上は、妻へかけるべく再び携帯を取り出して車を止めた。
「はい、河上です」
「俺だよ・・・」
「あら、あなたですか。今どこなの?もう帰路なんですか?」
「いや、それがちょっとばかり事情が変わってな。今日と明日のもう二日間だけここに泊まることにしたんだ。もちろん叔父さんの許可は貰ったけどな」
「事情って一体どうしたの?何か変わったことでもあったの?」
妻の口調はいたって穏やかだった。
「別にたいしたことじゃないんだ。お前は信じるかどうか分からんが、実は別荘で又我々に怪奇現象が起こってな」
「怪奇現象?それ本当なの?いくら夏だからといっても、朝からちょっと冗談が過ぎるんじゃないの?あはは」
「いや、マジな話なんだ。ほら、箱根で乗せた女二人連れがいただろ、もしかして彼女たちを拾ったことがその原因じゃないかって思ってるからな」
「そんな・・・、一体何があったの?」
「実は別荘に着いたその晩だが、彼女たちが部屋で筆舌に尽くし難い恐怖を経験したんだよ。さらに俺自身も昨夜かつてない怖い思いを体験して震え上がってしまった。それはもう全身の毛がすべて逆立つほどの恐怖で、知らないうちに気を失ってしまったからな」
「へえ~そうだったの。まあ、そんな事情ならお店は休むしかないでしょうけど、でも今日と明日って言ったけど、その二日間で一体何をどうしようって言うの?」
その件について河上は正直に今後の予定を妻に説明し、叔父のホテルについての噂や、優子のこれまでの不思議な体験を詳しく聞かせた。
「そうだったの。でも、叔父さんのホテルを勝手に調べて大丈夫なの?」
「もちろん内緒だよ。まあ、可能なら地元の人たちにも話を聞くつもりだし、幽霊話の真相も知りたいからな」
「分かったわ、でも無茶しないでね。女の人たちにも何かあっても困るし」
「うん、それは充分心得ているさ。とにかく骨休めと思って商売のことは忘れ、のんびりおふくろと自由に過ごしてくれ。何かあったら携帯に電話してよ、じゃあそういうことで悪いが留守は頼むぞ」
数分間で話は終わった。河上は気を取り直して再び車をスタートさせたが、途中で伊豆急の長い車両を眼下に捉え、多分二人はあの中だろうなと、そんなことを思いつつ別荘へ急いだ。
帰路はなぜか来る時以上にその距離が長く感じられた。それでもエアコンの涼風に気分良くハンドルを捌き、迫りくる坂道の前まで来た時、ふと河上は何かに誘われるように坂の数メーター手前でスピードダウンし車を左の路肩に停止した。
「天候の具合が変わりそうだな・・・・」
エンジンを掛けたまま窓を下げ、ムッとする熱気に顔をしかめながら遠くの山に目を向けて呟いた。するとその予感が当たったかのように、数秒前までは青々と澄み渡っていた夏空が、まるで湖水に薄墨を流した様に一変し、遠くからは黒雲の塊が入道雲を押しのけて近付いて来た。
「やっぱり降りそうだな、こいつは急がないと面倒なことになるぞ」
雨が降ることによって外光が遮断されれば、ホテルに照明が点かない以上、内部の捜索はより困難になるのは分かっていた。
タイムリミットは今日の半日と明日一日だけである。それを認識した時、自然と河上の表情は曇りがちになり、背中から押されるような焦燥感に戦きを禁じ得なかった。
(キッチン床下に人工的に作られた穴を通り、その先がどこに繋がっているのかが問題だな。多分、優子さんがその中に導かれたことは間違いないとして、彼女はどんな理由でトンネルの様な暗い場所へと誘導されたのか?)
まさかそれら全てが幽霊の仕業でもあるまいにと、河上は思わず失笑した。
ホテル内部の調査に掛けられる時間的余裕はないのだから、とにかく可能な限り急がねばならない。そう思った瞬間には気を取り直してハンドルを戻し、自然にアクセルを踏み込んでいた。
走りながら、緑が生い茂る山の景色に心が癒されるのを素直に喜んだが、一方では優子の不可思議な行動だけはいくら考えても解けないのが癪のタネであった。それでもこれまでの様々な現象を振り返る時、そこには必ずそうなるべき何かによる意図的な働きがあったはずだと確信し、目に見えないものの存在は肯定も否定もせず、ただ事実だけを見つめればいい。そう自分に言い聞かせたのである。
「とにかく、叔父のホテルが今度の一件に何かしら関係しているのは事実だろうな。優子さんが辿ったと思われるルートを、今日と明日にかけてとりあえずは三人で徹底的に調査することだ」
高まる期待に比例するかの不安・・・。それでも揺れる心を鼓舞し、蛮勇を奮ってやり遂げねばと強い決意を抱いたその時だった、
『おまえはそのホテルに行ってはならない。行けば魔界の掟によりて命を絶たれることになる!これはけっして脅しではないことを肝に銘じろ、きつくここに警告しておくぞ』
と、どこからともなく低く唸る声が突然耳元に届き、ハッとして周囲に目を配った河上は、咄嗟にブレーキを踏み込み左の路肩ぎりぎりに停止した。
不思議なことに周りからは鳥の鳴き声一つ聞こえて来ない。だが、そんな静寂の中で聞いた言葉は間違いなく悪魔の囁きだと確信し全身に鳥肌を立てた。
背中が一気に汗ばんだ、それにつれて心臓の鼓動が速さを増していく・・・。ポンプから送り出される血流が血管を押し広げ、それに耐えられなくなった時、破裂か停止かで俺はここで死ぬかもしれない。
高まる恐怖で河上は顔を強張らせたが、その数秒後にはハンドルにもたれかかり目を閉じたまま気を失っていた。
悪魔の呪法
健三は英昭からの電話を切り、「なんだあいつめ、初めの時と話が違うじゃないか。まったく勝手なことを言いおって、しょうのない奴だ」と、渋い表情で吐き捨てた。
何か適当な理由をつけて断ればよかったと後悔したが、咄嗟に言い訳も思いつかず、さらには一緒に別荘に行くはずだった美紀もいないことで、仕方なく二日間だけ使用を認めてしまった。
「まあいい、ホテルの温泉は使用しないらしいから大丈夫だろう。しかし何だかもっともらしい理由をつけていたのが少しばかり気になるな。ここがとても気に入ったし、休養を兼ねてもう少しのんびりしたいと思う・・・。確かそんなことを言ってたが、果たしてそれは本当なんだろうか?一応調べる必要があるぞ」
承諾してしまったことは仕方ないと諦めたが、少しばかり英昭の言った理由が気にかかった。それでも気を取り直すと時計を一瞥し、昼飯でも摂ろうかと台所へ行きかけたその時、「すいません!」と店から声が届き、健三は立ち止まったまま後ろを振り向いた。
「はい・・・」
「あっ、こんにちは。すいませんけど、これを頂けます?」
そこにいたのは顔見知りの主婦であり、視線を合わすと棚の上の品物を指差した。普段は会えば挨拶を交わす程度の知り合いだったが、健三は自分のタイプだということもあってか、時々こうして店で会えることを楽しみの一つとしていた。
「いらっしゃい、誰かと思えば奥さんでしたか、いゃあ今日も暑いですな!」
「本当に暑いですわね。まあ夏だから仕方ないのですけど、こう毎日うだるような暑さでは身体も持ちませんもの、秋が恋しいですわね。ふふふ」
「確かにそうですな。わしも暑さが大の苦手でしてね、夏なんてこの日本からなくなればいいなんて真面目に思っているんですよ、あははは・・・。まあ、そんなことは絶対あり得ないですがな。あっ、さてどれでしたっけ?」
「えっ、ああこれです」
そう言って女が手にしたのはポリ容器に入った洗剤だった。
「一個でいいんですか?」
「はい、とりあえず今すぐに使いたいし、生憎切らしてしまって。洗剤がないとお昼の後片付けが困るんですよ。わたしにはこのメーカーの物が一番手に合うし、手荒れが少なくて好きなんです。ほほほ」
「そうですか、女の人はやはり手荒れを気にしますからね。じゃあ袋に入れますよ」
「すいません・・・」
女は一個しか買わないことで気まずそうな態度をしたが、財布から小銭を取り出すと手の中で数えながら健三が袋に入れ終えるのを待ちつづけた。
「はい、じゃあ二百円になります」
「すいません。ああそうそう松江川さん、先日の国道で起こった事故は知ってます?」
「えっ、事故って言いますと?」
「ほら、確か夜遅く若い女性がひき逃げに遭って死亡した事故ですわ。気の毒にまだ三十をちょっと出たくらいですって、それに轢いた車は勿論そのまま逃げたのでしょうけど、目撃者がはっきりその時の状況を見たそうですもの」
女は釣り銭と品物を受け取ってもすぐに立ち去る様子を見せず、その話題に興味を持った表情で健三に話しかけて来た。
「ああ、確かそう言えばあの晩救急車のサイレンを聞きましたが、やはり事故でしたか。しかし、ひき逃げするなんて卑劣な者は絶対に許せませんな」
「本当にそうですね。でも、なんで轢かれた女はあの時間に国道なんて歩いていたんでしょうかね?しかも車に轢いてくれって言わんばかりに、わざわざ道路の真ん中にいたらしいんですって」
「ほう、道の真ん中を歩いていたんですか」
「ええ、それを見たっていう確かな目撃者がいるらしいですもの」
「そうですか、それはまことに奇妙な話ですな」
「その女の様子は、まるで何かに導かれる様なフラフラした歩きだったようですわ。えーと何と言ったかしら、ほら、む・・・なんとか言うでしょ?」
「夢遊病者ですか?」
「ああそうそう、その夢遊病患者のようにぼうっとして、道路の真ん中をふらふらと歩いていたらしいの。その時、後ろから来た白っぽい乗用車がスピードを緩めることなく、そのまま激しく跳ね飛ばしすごい勢いで逃げ去ったとか。その事故の瞬間を、逃げた車のすぐ後ろを走っていたタクシーの運転手が目撃したって話なんですよ」
「なるほど・・・」
「しかも車を運転していたのは女らしく、それも着物を着ていたんですって!あんな時間に着物を着たまま車を運転し、前方に人がいたのにスピードを落とさないなんて、一体どんな仕事に就いている人なんでしょうかね?想像もつかないわ、わたしなんて」
「着物ですか?」
健三はその話を聞いて不思議な思いは隠せなかった。
「まあ、夢うつつの様な状態で道の真ん中を歩いていれば、誰かに轢いて欲しいと言わんばかりでしょうけど」「ええ、確かにそうも言えますな」
「大体が人の命なんて儚いけど、明日はわが身ともいいますからね。あっ、どうも長話してしまって、じゃあごめんください」
言いたいことを言い終えた満足感からなのか、女は軽く会釈すると店から出て行った。だが事故についての詳細な話は健三にとっては初耳であり、警察でも病院でも一切聞かされていなかったのである。それ以上に心の中の蟠りとして残っていたのは、自分のいない間に美紀がこの家から出て国道に達し、見知らぬ車に轢かれて死んだという忌まわしい事実であった。
「あいつはなんで国道なんかに行ったのだろうか?何か急な用足しということも考えられなくはないが、わざわざ車の激しい道路中央をふらふらと歩くなんて、どう考えても極めて不自然きわまる話だ。それにまだあるぞ、あいつが死の間際に病院で言ったの意味不明な言葉が理解出来ん。わたしをそっちに連れて行こうとするだと?なにを言いたいのかさっぱり分からん。一体どう解釈しろっていうんだ、まったくもって薄気味悪い話だ。思い出しただけで寒気がするぞ」
金をレジにしまいながらそんなことを口にし、再びキッチンへ行くとカップ麺に熱湯を注いで蓋をした。そして椅子に座り壁の時計を見て時間を計りはじめたが、ふと健三は立ち上がると二階へ駆け上がり、和机の引き出しから《禁書・悪魔の呪法》と書かれた一冊の本を取り出した。それを手にして栞を挟んだページを開き、胡坐をかいてそこに書かれている文章をじっくり黙読し始めた。
〔臓針の呪い〕
『汝、呪う相手の等身大の像を作り、その心臓にX印をえがき、針をつきさしながら次の呪文をとなえよ。
【呪いは汝に作用する。あたかも悪霊が作用するがごとく】
相手は心臓に痛みを感じ、ついにそれが原因で死に至るであろう』
その部分を数回に渡り、じっと暗記するかの様に真剣な面持ちで読み終えた。
(美紀の死はわしにとっては衝撃だったが、この悪魔の呪法と果たして何か関係があるのだろうか?あの時一度だけわしはこれを試したが、その反動として常識では考えられない何か別の力が作用し、それが結果として美紀を死に至らしめたのか?)
健三はその文章を読み終えると同時に妻の死を頭に浮かべた。
(静子も車の事故死、そして美紀も同じ様に車で轢死か───。この事実は偶然の産物なのか?それとも何かそこに目に見えない因縁めいたものが介在するのだろうか?)
迷信めいた考えを持つなんておよそ自分らしくない。そう思って即座に否定しようとしたが、それでも頭の片隅にある残像の様なわだかまりと不安は、自分に都合よく解釈を曲げても完全に覆すことは不可能であった。
ホテルへ
河上はふと気が付くと、路肩にエンジンをかけたまま止まっている事実に驚愕した。あの奇妙な声を聞いた時から実に一時間以上も経過していたのである。
「確か二人と駅で別れたのは九時五十分過ぎだった。そのままこの坂に入り、あの木々の切れ間に電車を見た時は既に十時を回っていたはず・・・。なのに、十一時十五分ということは、やはり一時間以上もここにいたことになるのか」
なぜこんな状態に陥ったかなど分かるはずもなかったが、それでも少しずつ記憶が戻ると、その時の状況を鮮明に思い出して戦いた。
(あの時、突然前方に現れた黒雲・・・、それを見つめているうちに奇妙な囁きが耳元で聞こえ、驚きのあまりの急停止だった。その後すぐに強烈な睡魔に襲われ一時間も眠ってしまった。この事実はどうにも理解し難いが、これも霊的な現象と言えるのだろうか?)
腑に落ちないまま気を取り直して別荘へ急ぎ、中に入って二人を捜した。
「お帰りなさい!」
「お疲れさまでした、浦部さんと三平さんは元気に帰りました?」
リビングのソファーに座っていた優子と真弓は、顔を向けると立ち上がって河上に近寄って来た。
「ああ、十時発の電車で帰って行ったよ。まあそれはいいんだが、実はここに帰る途中でちょっとしたハプニングが起こってね」
「何かあったのですか?」
真弓の質問だった。
「うん、またしても奇怪な現象に襲われ、突然意識朦朧として眠気を感じたんだ。その結果一時間以上も路肩に車を止めて寝てしまったからね」
「どうりでちょっと遅いなぁとは思ってました。でも、何ですか奇怪な現象って?」
今度は優子が怪訝な表情で訊いてきた。
河上は二人を見比べながら、つい数分前に起こった事実を話したが、終えた時には優子が強い関心を持ったのか表情を次第に強張らせ始めた。
「で、どうかね優子さん。君は霊感が強いから何か感じるところはあるかな?」
「そうですね、多分河上さんが聞いた声はもちろん空耳なんかじゃないと思います。恐らく悪霊の囁きか生霊だと思います」
「悪霊の囁きか生霊?何だねそれは?」
「生霊って文字通り生きている人の念ですし、悪霊は肉体を持たない死霊のことです。相手が見えないだけにちょっと不気味ですし、凄まじい想念を放って自分の思いを遂げようとするから、なかなか怖くて厄介なものだと言えます」
「生きてる人間の想念ってなんとなく恐ろしく感じるし、送られた方は大迷惑よね」
「確かにそれは言えるわ。ただし霊でも色々あって、善霊もいれば悪霊の類も沢山いるから、一概に相手からメッセージを意味なく否定するとかは無理なの。かと言って逆に鵜呑みにすることも出来ないけど、その辺が難しいのね」
優子はそう言って大きくため息をついた。
「じゃあ、わたしに囁いたのが霊だとして、我々がこれから叔父のホテルに行く事実を知っての警告なのかな?確かに霊側から見ればこっちの出来事なんて手に取る様に分かるのは当然らしいからね。それはわたしなりに本で得た知識だけど、でもあの現象は単なる脅しとは思えないんだ」
「河上さん、死んだ霊は別にホテルを調べられてもどうということはないと思います。それより同じ霊でもさっき言った生霊というのもありますから、もしかしてそっちの類かも知れません」
「ちょっと待って優子さん、生霊ってのは生きてる人間が発する想念だよな、じゃあ我々にその念を送る誰かがいるってことなのかね?」
「さあ、それはわたしには分かりません。ただ死んで霊になるとそう簡単にこの世へコンタクトは取れないらしく、それをするにはかなりのパワーがいるらしいのです。例えば恨み辛みを残してこの世を去ったとか、特定の人に憑依しよう付け狙い続ける霊などは、実に執念深くチャンスを狙うし、思いを遂げるまで付きまとうだけのパワーを持っている霊なんです。なかでも現世に執着を抱き続ける霊とかが、一番成仏出来にくいという説もあるくらいですから」
優子は真弓と河上を見て顔を曇らせた。
「そうか、一口に霊といっても実に多彩なんだな。しかし、だからといってこのままホテルの調査をしないで逃げ出すのも考えものだ。だってそうなるとここに残る意味がないように思えるからね。どうかね君たちの考えは?」
あの不気味な囁きが幻聴でないことは、体験した河上自身が一番知っていた。それゆえ今後の行動に一抹の不安は感じたが中止する気は起きなかった。
「まあ、とにかく結論を急がず、とりあえず午後には叔父のホテルに行ってみようや。まずはそれから始めるより今のところ方法がないし、現場に足を踏み入れることが謎を解く第一歩だろうからね」
「そうですね、正直言えば少しは怖い気はありますけど、昼間なので多分大丈夫だと思います」
「優子がそう言うならわたしもホッとするわ。でも河上さん、そのホテルって叔父さんが経営していたものですよね、確か浦部さんの話にあった運転手が見たという幽霊話、それが事実だとすればそのホテルで過去に何かそれに関係する出来事があったとは考えられないですか?」
「う~ん、だけど別にわたしは何も聞いてないからな。特別騒ぎ立てる程の事件はこれまでなかったとは思うがね。それに、そんな事実があれば世間にはいつまでも隠し通せないだろうし」
「いいわ、とにかくこれからすぐに行きましょうよ。ホテルまでの地理は河上さんにお願いします。時間がもったいないし、少しでも何か分かればいいんですけど」
優子のその一言で決まりだった。決心を新たにした三人は別荘の戸締りを終えると、いよいよ問題の緑風館へと向かうべく車に乗り込んだ。
*
健三は読み終えた本を再び机の中へしまい込んだ。内容は人を呪い殺す術をまことしやかに書き綴ったものであり、心のどこかでその古代から伝承された呪法を信じ、過去一度だけ興味半分で行った事実を改めて振り返った。
「あの日、密かに試した呪いの術。それが果たして本当に効果があったか否かは、いまとなっては分かるはずもなく確かめるすべもない。だが、わしはそれでも試したかった。古くから密かに伝わる秘術ともいえる悪魔の呪法だから、あの時以外それを実行するチャンスはないと信じ切っていたんだ」
忌まわしき過去を回想したのか、思いつめた表情でそう呟く建三だった。そして気を取り直すと帳場に戻りカップ麺を食べ始めたが、しばらくすると電話が鳴り出したことで仕方なく受話器を取り上げた。
「松江川だが・・・」
「わたしです、連絡が遅れて申し訳ありません」
聞きなれた調査員の声だった。
「おうあんたか、あれからだいぶ時間が経ったが、何かめぼしい収穫はあったのかね?」
「実はですね、彼らにちょっとした動きがありまして」
「ちょっした動き?それはどういうことだ」
健三は調査員からの詳細な内容を聞き漏らすまいと、カップ麺をテーブルに置くと意識を電話に傾注した。
「これはもう間違いなく不審な行動につながりますよ。第一、何があったか詳しい事情はは分かりませんが、仲間二人を駅まで送り届けると、今度は女と三人であなたのホテルへ向かったんです。きっと中に入って何かを調べるつもりかもしれません」
「ホテルへ向かった?」
「ええ、わたしも車で尾行し、見つからないように近づいて確認しましたからね。それは絶対間違いありません」
「そうか、あいつやっぱりホテルへ行ったのか」
健三は男の話を聞きながらショックを隠せず唇を噛んだ。
「ですから、今後の動きはより以上に把握すべく最大の努力をしますよ。それともう一人会社から応援を頼もうと思ってます。そうなれば彼らの行動に関する詳細報告がさらに可能になりますし、きっと目的を今以上にはっきり掴めると思うのです」
「そうかよく分かった、ご苦労だった。ただ勝手なんだが調査は一応これで終わりにしたいんだ」
「終わり?それはまたどうしてですか?まだ最後まで見極めていませんし、それに初めの契約では別荘を出て家に帰り着くまでということでしたが」
「うん、まあ確かに初めはそういう話だった。しかし、それはまだ数日先になりそうだからな。今後の行動は君らの調査のお陰で多少分かりつつあるから助かった。まあ、これから先はわし自身が追跡しようかと思っている。調査費用は当初の五割増で後日銀行から振り込んでおく。どうだ、それで納得できるだろう」
「そうですか、まあ社長がそう言うなら仕方ないです。分かりました、ではそういうことで今回の調査はこれで終了とします」
調査員との話はそれで終わった。
(さて、この先わし自身がどういう理由で彼等の前に出て行くかが問題になるな。何か自然に受け取られるような理由を早急に考えねばなるまい。ホテルを調査したわけをそれとなく聞き出す為にも、疑惑を持たれない態度と言動をしなければいかんだろうし・・・)
受話器を手にしたまま三人の目的を探る方法をあれこれ思考し始めると、英昭が別荘を借りたいと言って来た時、安易に承諾せねば良かったと改めて自分の短絡さを責めた。
(一体どんな理由で予定を変更し二日も借りたいと言ったのか?ホテルに向かったことと何か関連があるのだろうか?電話では確たる理由を言わないままだったが、それ以上問題なのはやはりホテルを調べようとしている事実なんだ。しかも旅行に同行した仲間の男たちは去り、現在は英昭と途中から拾った二人の女が一緒に行動しているらしい。これら一連の動きに関する詳細な目的調査は、さすがのベテラン探偵たちも不可能だったのか、ならばわしが突き止めるしかないだろう)
不安から起こる懸念と焦りを覚えた健三は、どうしても三人の今後の行動が気になって仕方なかった。目の前にはのびきったカップ麺の容器があったが、それには手をつけず腕組みをしたまま瞼を閉じ、暫くはそこから動かず思考をつづけた。
「とにかく、これ以上の動きはどうしても封じなければなるまい。と言って実力行使というわけにもいかんし、ここはやはり無理してでもあれを使うしかないだろうな・・・」
数分経つと健三は目を開け、もはやこれしかないというある一つの方法を導き出して、実行するタイミングを計り始めた。
恐怖
緑風館は別荘から僅か二キロの所にあり、普通に走れば五分ほどで着く距離だった。
走り始めてすぐに後席から真弓が話し掛けて来た。
「河上さん、キッチンの抜け穴ですけど、あの穴の先って本当に優子を捜索した場所に繋がっているのですか?」
「ああ、間違いないね。お守りが落ちていたのがそれを証明しているからな。でもなぜ叔父があんなものを作ったのか、それだけはわたしにもやっぱり理解出来ないよ」
「あの時、皆さんで別荘裏手の場所を丹念に捜索してもその穴は見つからなかったみたいですし、出るとすればどの辺りに出るのかしら、それを知りたいですね」
「うん、だけどあの時はただ優子さんを見つけることだけに集中していたからな。まして十メーターも崖下に降りての行動だったし、穴なんて頭になかったのも事実なんだ」
「わたしは気付いたらトンネルみたいな暗闇を抜けていつの間にか表にいたの。だから正直言ってどこをどう歩いたのか記憶にないわ。それでも自分の意思で抜けたとは思えないのよ。きっと何かに導かれたと今でも思っているのは確かだし、わたしの勘がそう囁いているもの」
優子の言い分だった。
「まあ、本当はじっくり調べればいいんだけど、いまは時間がもったいないからな。とにかくあの秘密の穴より優子さんが見た緑風館の方が肝心だろう。そこに行くことでこれまでの怪奇な現象を解くカギがあるように思えるし、意外に隠された何かが発見できるかもしれない期待もある。まあ、なんとなくだがね」
「そうですね、だからそれを解明する役目を負って、わたしたちが見えない何かに導かれている。そんな気さえします。やはり全ての謎めいた現象を解くカギはそのホテルだと思えますね。きっとそこには思いもよらない事実が隠されていて、見えなかったものの存在が次第に全貌を表わすようにも感じられますから」
「凄いわ、優子の霊感が冴え始めたようね」
「ううん、そんな大それたものじゃないけど、何となく感じるの。こうしていても、わたしは背中越しに誰かにじっと見つめられている気がするし、夏だっていうのにゾクッとする感覚に時々襲われるわ。多分それは霊の仕業でしょうけど」
優子は真面目な顔でそう述べた。
「マジなの?ちょっと怖いな」
「大丈夫よ、感じるのはわたしだけだし、これも生まれつきの霊媒体質だから仕方ないと思っているわ。それにここまで来た以上うやむや状態で東京に帰っても、やっぱり何かしこりが残るでしょ?だからすっきりした結果をこの目で確かめ、納得した上で戻りたいとの思いは本音なのよ」
「それはわたしも優子と同じよ、でも果たしてそんなうまい具合にことが運ぶか、それが唯一心配なの。とてつもない恐怖がまっていたらどうしようって・・・」
真弓は不安げにそう答えた。
不安と期待の交錯する会話を続けている内にも、車は次第にホテルに接近していた。やがて県道から大きく右にカーブして緩やかな坂に入り、そこを登り切ると駐車場に使用していた敷地内に到達した。背後には緑豊かな山の斜面が迫っていたが、むろん廃業していることもあって一台の車もそこにはなかった。
ホテル正面に回ると分厚いガラス戸の入口が見えてきた。それは遠目にもきっちりと閉じられているのが分かり、左右の植え込みと垣根は手入れが行き届かない状態で荒れ放題だったが、それを見た河上は落ちぶれ果てた惨めさを痛感に顔をしかめた。
ホテル内部は昼間でも暗く、照明の消えている建物には人の気配どころか動物一匹さえいないように思われた。背後には鬱蒼とした大きな山が聳えており、夜ともなれば周囲に人家もないことで幽霊屋敷のような印象は否めない現実があった。
「夏だというのにこの異様な静寂さも不気味だし、やはり結構荒れ果てている感じだな。まあ、周囲に山以外なにもないからかもしれんが、それにしてもひどいや」
「ここが問題のホテルですか。でも本当に静かですし、建物を覆うような小高い山が後ろにあるだけで、民家なんてどこを見ても一軒もないんですね。立地的にも不気味な印象は嫌でも感じます」
「そうね、大抵ホテルなんてその周りにあれこれ派手な施設がつきものなのに、ここには何にもないもの。想像していた以上に寂しい場所だわ。これじゃ地元の人は誰も寄り付かないでしょうね」
河上につづいて優子と真弓が感じたままの印象を口にした。
「数年前だが、まだ盛大に営業していた時一度だけ母たちと泊まりに来たことがある。しかし人間の手が入らなくなると、歳月を経てこれだけ見た目を一変させてしまうものなんだな。まあ、廃業すればこんなものかもしれないが。よし、とにかく降りてみようか」
そう言って河上は駐車場の隅に車を付けてエンジンを切った。
外はじりじりと灼熱の太陽が容赦なく照りつけている。ドアを開けた途端その熱気をまともに感じ、思わず顔を見合わせる三人だった。
車の傍らに立ってホテル全景を見ると、無人の建物独特の威圧感と息苦しさ覚え、河上は大きく深呼吸して委縮しがちな心を奮い立たせた。
「なんだか我々を睨んでいるかの印象を見せるホテルだし、生き物みたいだ・・・」
「外壁もかなり色褪せてます。何年も風雨に曝されるとこここまで荒廃してしまうものなんですね。河上さん、中はどうなっているんですか?」
「さあな、わたしもここには相当の期間来てないし、確か閉め切ってから二年以上は経過していると思う。だからそれなりに荒れている状態じゃないのかな?外からでは想像つかないだろうが」
「ねえ優子、あなたの霊感で何か感じ取れるものってある?」
「そうね、これといって悪い波長は特に感じないわ。あっ、でもちょっと待って・・・」
「えっ?やっぱり何か感じるの?」
優子がそう言いかけたことで、思わず河上と真弓は緊張して顔を見合わせた。
「やっぱりね、間違いないわ。あの姿はこの世のものじゃないし、恨めしそうな目付きは何か曰くありそうな印象だもの」
「ちょっと優子、どうしたっていうの?」
「河上さん、三階の窓からじっとこっちを見ている三人の霊がいます。わたしたちの方をじっと監視するように見下ろしているのです」
「ええっ!それって本当なの?」
「優子さん本当かね、わたしには何も見えないが、やはり霊感の強い君にはそれが見えるんだな」
「真弓はどう、何か見える?」
「ううん、わたしにも見えないわ。ただ、カーテンが風に揺れている様子だけは分かるけど。それは自然の動きでしょうから」
「そのカーテンの陰から、三人が悲しそうな目でこっちをじっと覗いているの。ここが幽霊ホテルと言われるのも分かる気がします。恐らく多くの人にその姿を目撃されているんでしょうし、その噂はすぐに広まってしまいますから」
優子は言いながら静かにその方向を見つづけた。
河上は改めて三階へと視線を転じたが、やはりそこに見えたのは閉め切られた窓だけであった。と、その時である、優子は突然強張った顔をすると目を瞑り、立ったまま小さい声でなにやら聞きなれない経文を唱え始めた。
*
午後の太陽はさらに熱量を増し、膨大なエネルギーを三人の頭上に延々と放射しつづけていた。
大粒の汗が噴出し始めた中、優子のすることを静かに見守るしかない河上と真弓だったが、やがて数分経つとその経文は終わりを告げた。
「優子、あなた何を唱えたの?」
不安な口調で真弓が訊いた。
「真言密教の九字護身法を唱えていたの」
「真言密教?それって空海の教えで有名なあの真言なのかい?すごいな、よくそんなものを若いのに知っていたね」
河上は素直に驚きを表し、尊敬の念を覚えて優子を見つめた。
「以前、真弓にも言いましたが、霊的な体験を頻繁にするようになった頃、偶然ある人から有り難い指導を頂いたのです。その方は正統派の霊能者で、いまも色々活躍している方なんです」
「そうか、でもいいことだよ。自分を守る法を知っていると確かに心強いからな。わたし自身も多少宗教には関心があるし、そういう昔からの術には興味を覚えるからね」
そう言って改めて三階の窓に目を向けたが、当然凡人の河上には何かが見えるとか感じられる現象は起きなかった。
しかし優子によれば男女の区別こそはっきりしなかったが、少なくとも三人の顔がぼんやりと見え、理由は一才分からないものの、未練の想念を抱いたままこの世を去った未成仏霊ではないか──。自分の心がそう感応したと断言したのである。それは彼女の数多い霊的な経験と天性の霊能力に基づく信憑性ある話だった。
「さて、それじゃあどこから調べようか」
「でも、中にはどうやって入ります?入口は全て施錠されているんじゃないかしら」
真弓がホテルの入口に近づき、そっとドアに手を当てた。
「あれぇ、ここ開きますよ!」
「開いてる?じゃあ鍵は掛かってないってことか。もっとも廃業したホテルではこれといって取られる物がないということかもしれないが、それにしても正面入口に鍵もかけないなんて無用心だな」
「河上さん、とりあえずここから入ってみましょうよ。まずはホテルのフロントが第一歩ですし、一階から見て行けば何か感じるものが出てくると思いますから」
「そうか、じゃあとにかく気を付けて行くことにするか」
二人は優子の決断に従った。
近寄った河上は自動ドアの分厚いガラス戸を掌で横に強く押し広げ、中に入れる隙間を確保してから静かに身体を滑り込ませた。正面にはカウンターがあり、そこがフロント受付なのはすぐに理解出来たが、その上には長い期間の休業を物語る細かい砂や埃が堆積していた。
静まり返った館内はカビ臭い湿気を含んだ独特な異臭を放っている。優子と真弓はハンカチで口と鼻を塞ぎながら、河上に付いて注意深く辺りを見回していった。
「ここがフロントで、左のこのスペースはどうやらバーというかロビーみたいだな。裏側には通路があって部屋らしきものがあるぞ。よし、まずはそっちに行ってみようか」
「河上さん、その前にカウンターの奥がどうなっているか入って見ましょうよ」
「ちょっと優子、あなたそんな簡単に言うけど、本当に入っても大丈夫なの?」
眉間に皺を寄せた真弓が不安そうに言った。
「ええ、今のところは多分大丈夫よ、何も感じるものがないから。それにこの中は事務所として使っていたみたいだから、入って調べるだけの価値はあると思うの」
「それはそうかもしれないけど、ただあなたが見た人影というのががどうも気になるし、この暗さじゃちよっと不気味だわ」
「うん、わたしも真弓さんと同じ意見だ。ただ、三階にいたという霊がやはり気になるんだが、このまま中に入っても心配はないのかな?」
「大丈夫です、霊の動きでしたらわたしはすぐ分かります。それが見えた時とか危険を感じたら言いますから、その時は指示に従って下さい」
「頼むよ、正直言ってあまり好ましくない対象だからね」
河上は優子の顔を見て本音を吐いた。
「でも、これだけ広いホテルの内部を調べるなんて、とても半日位じゃ無理ですね」
「ああ、それは真弓さんの言う通りだろうな。だからこそ明日一日の余裕も取ったつもりだけど、結果として何もなかったらそれはそれで潔く諦めるしかない。そしてすべて良しとすればいいことだろう」
そう言って互いに頷き、いよいよ事務所と思われる中へ足を踏み入れた。
*
中は思っていた以上に狭かった。壁の前にはスチール製デスクが二つ並んでおり、その上には可動しないのだろうか、手垢で汚れ切った明らかに旧式と思われるパソコンが一台ぽつんと置かれていた。
「こんな光景一つ見ても長い年月を感じさせるな。ところでいま何時かな?」
河上は腕時計を見て午後十二時半過ぎを確認した。
「このホテルに来てからもう三十分が経ったか」
「河上さん、こんな物が・・・・」
横にいる優子が手にしたのは、一枚の薄汚れた紙片だった。
「これはタイムカードみたいだな、多分このホテルの従業員のだろう。ここにもあるが全部で四枚か。ということは四人?いやそんな少ない人数じゃないはずだ、確かもっと大勢いたと思うが、わたしの記憶違いかな?」
「そうですよね、これだけの規模でしたら四人ということは考えにくいです。あっ、ここにタイムレコーダが残ってます。え~と全部で十五人ですね。字が薄くて良く分からないけど、名簿らしきものが貼ってありました」
「うん、確かその位の人数はいて当然だろう。わたしの記憶でも最低でも当時は十人以上の従業員がいたと思うからな」
「河上さん、どうして叔父さんはホテル経営を止めてしまったんですか?」
真弓がそんな質問を唐突に投げ掛けた。
「わたしもよくは知らないけど、叔母が事故死したのがやはり一番の原因かもしれないな。それまでは結構繁盛していたらしいし、特に止める理由なんてなかったみたいだからね。やはり愛すべき伴侶に先立たれれば、男ならがっくり来て当然だ。まして女将はホテルの顔だもの、その看板とも言うべき女将がいなくなれば、経営自体が成り立たなくなるのは素人でもわかる理屈だろう。まあ、その辺が廃業への最大の理由になったんじゃないかと推察されるけど、叔父の心理までは分からんね」
「そうですね、確かにこのような中身が和風の建物は女将が主役でしょうから」
「ああその通りだ。聞いた話しでは叔母はまことに接客に長けていたらしいからな」
優子に返事をしながらも河上は叔母の笑顔を思い出していた。
大分昔だったが一度だけ叔母の挨拶を直に聞いたことがあった。場慣れしているとはいえ、百五十人にも及ぶ宴席での堂々とした挨拶は、全員から驚嘆と賞賛の混じった割れんばかりの拍手を受けたのである。
美人で誰からも好かれた人があんな酷い死に方をするなんて・・・。と、悲報を聞いた母は茫然自失のまま膝を崩して泣き崩れた。
叔父も叔母を良き伴侶として心から愛し、共に老後を見据えてホテル経営に勤しんでいた矢先の事故だった。
自分の運転ミスで崖から転落し焼死するという酷さは、本人にとってこれ以上なき憤死であり、愛する伴侶を失ったことで叔父が経営放棄に走ったと考えても、何ら不思議ではないと河上は心から同情した。
「河上さん、このカードの名前を読もうと思いましたがやはり無理ですね。字が薄くて読めません」
「そうか、だけど残りのカードは一体どこに消えてしまったのかな?この事務所内にこの四枚だけ残っているのも、冷静に考えればおかしな話だが」
「ちょっと見せて?」
そう言うと真弓は優子からカードを取った。
「これって、江戸の江に見えませんか?」
「どれ?う~ん、そう言えば確かに江に見えないことはないが」
「江の上にも字があるわ、それは何て書いてあるの?」
「これはちょっと判別つかないわ。でも、これも雪と言う字じゃないかしら?下のヨと言う字が殆ど消えかかっているけど、わたしにはそう見えるわ」
手垢で汚れたタイムカードを暫く見た真弓は、それを河上に差し出した。
「うん、おぼろげなからも雪という字に見えなくもないな。ということは、名前は雪江と思っていいのかな?」
「従業員名簿でもあれば、よりはっきりするのに・・・」
「まあいいさ、これ自体はそれ程重要じゃないだろう。それより次に行こうか」
「そうですね、ここはこれ以上何もないと思います」
言い終えた優子は先に事務所から出たが、その後に続くように河上と真弓は再びロビーへと戻り、今度は左手にある大広間へ移動し始めた。
進みながらふと足元を見た河上は、敷き詰めた当時はさぞ艶やかな真紅の絨毯で、高級品だったろうと想像し、多くの宿泊客が往き来する賑やかなロビーの光景を思い浮かべたが、現実には汚れた土色に変色して所々が擦り切れ、継ぎ目も醜く剥がれてめくれるという、目を覆いたくなる事実が気持ちを萎えさせた。
それだけを取ってもホテルの全盛期を知っているがゆえに、言いようのない虚しさと寂しさは隠し切れなかったのだ。
大広間は二百畳ほどの広さがあり、正面には一段高い壇が設けらていたが、中間に間仕切りを付ければ三分割も可能という旅館独特の宴会場としての工夫がなされていた。
「ここも結構畳や壁が傷んでますね」
「ああ、かれこれ二年以上はこの状態だろうから、実にもったいないな」
「すごく広いし、あの壇上で女将が挨拶したんでしょうね」
真弓はそう言って感慨深げに前へ歩き出したが、数メーターも行かずに突然その足をピタッと止め、「優子、何かあの緞帳の陰になにか見えなかった?」と、突然そんなことを言い放った。
「えっ?いいえ気が付かなかったけど、あなた何か見たの?」
「うーん、よく分からないけど、何かがちらっと動いたように見えたの、わたしの目の錯覚かな?でも・・・・」
「真弓、ちょっと待って!」
言いかけた真弓の言葉を優子が遮った。河上も咄嗟に前を見て身構えたが、彼女は立ち止まったまま固い表情でじっとある一点を見つづけ、そこから動こうとはしなかった。
一体何がこの広間に起こったというのか?河上と真弓は戦きながらも優子を見たが、しだいに彼女の表情が険しく変化し始めたことを知ると、いつもと違うただならぬ状況が起こりつつあるのを悟って戦いた。
「魔です!何か得体の知れない強い力を持った魔の波長が感じられます。あそこの壇上からじっとわたしたちを射るような眼つきで監視していますから」
「魔?魔ってどういうことなんだ優子さん」
「わたしにもその正体は分かりません。ただ、強大なパワーの波長を感じるのです。その邪悪な悪の波長はわたしたちをこの先に行かせまいとして、大きな壁を形成して仲間の悪霊までも呼び寄せているようです」
河上は彼女の言ってる意味が良く飲み込めなかった。魔という表現は明らかに霊とは違う対象を言ったのだろうが、見えない世界に対する畏怖の念から、ただ表情を強張らせて狼狽するしかなかった。
恐らく実体は見えずとも強力な波動が彼女の体質に反応したのだろう。しかしそれは優子だからこそ受信可能な霊波であり、人間の肉体を支配しようとする魔界からの攻撃と誘いではないかと想像した。
そんな見えない恐怖に戸惑いながらも、少しだけ身体を動かそうとした河上は、ふと両足が微動だにしない事実に驚愕し、顔色を変えてうろたえた。
*
(本当にこれは現実の出来事なんだろうか・・・・?)
不安に駆られて横にいる二人に声を掛けようとしたが、真弓と優子も同じように身体の動きを止められ、その場から一歩も足を出せずに困惑の表情を浮かべていた。
「優子さんこれって一体どういうことなんだ!わたしの足がまるで吸盤で固定されたように動かなくなっている。ここまで来て何か変な呪いを掛けられたのかい?」
「わたしにも分かりません、でも見えない魔の力が確実にわたしたちに働いていることだけは事実なんです。突然わたしの足も動かなくなってしまいました」
「わたしもそうよ、優子なんとかして!」
「魔の力って、それって何なんだ!」
「ねえ優子、わたし怖いわ。これからどうなっちゃうの?」
泣き声で訴える真弓だった。
「とにかくこの場所で確実に足止めさせられたみたいわ。でもこれは霊的な現象とは思えないの、だからもしかして呪法の一種じゃないのかしら?」
「呪法だって?それは例えばヴードゥ教とか魔法陣とかいう類の呪法なのかね?」
「恐らくそうでしょうね。きっとこのホテルの中に入られては困る者がいて、その人が現代にも通じる悪魔の呪法をわたしたちにかけたんだと思います」
「しかし、そんなことをする奴って誰なんだろう?もし仮にそれが事実だとすれば、我々の行動は全てそいつにお見通しだったということになるが」
「確かにそれもあると思います、でも別の見方としてこの場所に呪いをかけ、予め結界を作っておくことも出来るのです。呪法を特定の場所にかけることでその場所に踏み込んだ者を足止めする。そういう呪縛法が現実にあるし、実行は可能なんです」
「・・・・・」
優子の言葉を頭から信じるか否かは別として、自分の置かれている状況に何とも言いようのない焦りと怯えを感じた河上は、一切の動きを封じられた事実を憂いながらも、ただ呆然と立ち竦みこの場からの解放を願うだけだった。
「とにかくこのままじゃダメだ。何とかここから抜け出すことは出来ないのかね?」
「優子、こうなったらあなただけが頼りよ。お願い、なんでもいいからとにかくこの状態を打ち破ってよ!これじゃあどうすることも出来ないわ」
「ええ、とにかくやってみるわ」
そう言った優子はそのまま静かに合掌の体勢に入った。
「オン アミリタ テイセン ウンカラウン、 オン アミリタ・・・・」
河上にとってそれは聞いたこともない経文であり、数十回ほど続けた優子は両手を胸の前で合わせ、再び別の言葉を口から発した。
「臨 兵 闘 者 皆 陣 列 在 前」 エイッ!」
二人は驚きの表情で見守り、これまでとは別人と思える優子のそんな凛とした姿に、何かが乗り移ったかのオーラを感じて畏怖の念を抱いた。
必死に唱える新たな言霊とも言える気合いを聴いたとき、河上はそれが九字護身法とかいう古代から伝わる秘法に違いないと悟ったが、行者以外の者がそれを駆使する現場を見たのは初めてであり、深奥に響く人間の秘めたるパワーを感じ取って肌を震わせた。
唱え始めてから五分が経過した。額から汗は大粒の汗が噴き出していたが、優子は大きく深呼吸すると体をゆっくり動かして右足を前に踏み出した。
「もう大丈夫です、河上さんも真弓も動けるわ。ゆっくり足を出してみて」
その力強い言葉を聞いた二人は戸惑いながらも足を前に出したし、恐怖から逃げ出せたことに安堵の笑みを浮かべて優子に近寄った。
「動けたよ、しかし改めて大したものだと感心するな。君がこんな九字護身法に長けていたとは本当に驚きだ」
「そうよ、わたしだって正直いって驚いたわ。だって優子がいつの間にそんな凄い術を覚えたのか、毎日一緒に生活していてもぜんぜん知らなかったもの。さすが優子よ!」
「これは、いざという時の為に母から教わったの。もっとも、母も家の前で托鉢に来たお坊さんから授けられたと言ってたから。何でも陰陽道からの流れらしく、現代までずっと伝わるものらしいわ。でも、魔の封印が解けて良かったですね、やはり不思議な力って心から信じる人には授かるものなのね、うふふふ」
そう言って微笑む表情は実に魅力的だった。
河上はあらためて優子の魅力と霊的能力を素直に評価し、人間の持つ不思議な力が謎の解明に更なる威力を発揮するに違いない。そう確信して大広間から早々に立ち去りロビーに戻ることにした。
ホテル内にエレベータは一基だけあったが、すでにそれは壊れており可動しなかった。
元々この建物は会社の独身寮として建てられたのを叔父が買い取り、ホテルへ改造したと河上は母から聞いていたが、その事実を二人に伝えると二階と三階の調査のため、フロント右手の階段へ向かい一段目のステップに足を掛けた。
*
静寂が支配するかの館内は昼間でも不気味だった。数段上った時、河上は一瞬足を止めて周囲の汚れた壁や天井を見つめた。
「しかし静かだな・・・。壁は黒ずんでいるし、天井には蜘蛛の巣が見られる」
「本当に人気がないって、こんなに不気味で恐怖心を掻き立てるとは思いませんでした」
「優子がそう感じるなんてよっぽどのことなのなのね。わたし一人だったら絶対こんな状況は耐えられないわ」
「じゃあ、とにかく先に進むか」
「優子、あなたが最後部ね。しっかりバックからのフォローを頼むわね」
「ええ、それはまかせといて、何か感じたらすぐに言うわ」
二人の会話を聞いた河上は正面を向き、腹を決めて再び階段を登り始めたが、足を乗せる箇所はほとんどが地肌剥き出しの状態であり、長い期間に渡って放置された現実の惨さを嫌でも三人に印象付けた。
二階は真ん中が通路で右側がすべて客室という、旅館としては極めて当たり前のレイアウトだった。通路幅は三メートルほどで、それが建物の奥まで真っすぐ続いている。しかしすべての部屋のドアがきっちり閉じられていることで、物音一つしない館内は昼間でも耐え難い無気味さを漂わせていた。
河上は上がり切った正面の部屋のドア前に立ち止まった。そしておよそ三十メーターはあると思える建物の端まで目をやると、明かりもない薄暗い通路に佇んで次に取るべき行動を思考し始めたが、籠った熱気とかび臭さで息苦しさを覚え、思わず手で鼻と口を塞いだまま顔をしかめた。
「しかし、このすえたような臭いはたまらんな。上に行くにしたがって実に耐え難きものになってくる」
「そうですね、それに静寂ってすごく怖いから、この中に居ること自体がわたしには拷問なんです」
真弓が後ろでそんなことを口にした。
各階が八部屋構成で、二階以上が客室とすれば部屋数は十六ということだな。ふとそんなことまで考えた河上は、通路に立ったままでは何一つ始まらない。そう自分に言い聞かせて、とにかく端から調べようと最初の部屋のドア前に立った。
「ここから見ようか・・・」
「そうですね、でもこれだけの部屋を一つ一つ調べていたら大変な時間を要します。わたしが各部屋のドア前を横切り、何かを感じたらその部屋だけ調べることにしましょう、それで充分だと思います」
「そうか、なるほどね」
「ねえ優子、あなたがいつも不意に見てしまうという霊だけど、ここには見えないの?」
「ええ、いまのところは大丈夫みたい。でもここに着いた時、三階の窓からこっちを見ている霊がいると言ったわよね。それが果たしてこの先いつ現われるのか、そしてわたしたち対してどういうアクションを起こすのか、それが不安なの」
「そうか、確かに優子さんはそんなことを言ったな。わたしだって正直言えば、やはりここにいる現実そのものが耐えられない思いだよ。でも乗りかかった船だと自分を叱咤しているし、何とかなるさと鼓舞している。まあ、優子さんがすごい霊的パワーを持っていることが、なによりの支えであり信頼だと言い切れるからな」
「そうですか、その期待に応えられるように、わたしも精一杯気持ちを維持します。魔や悪霊に負けないように強い心をキープしますから」
(男のくせにそんな弱音を吐くなんて・・・)
ふと河上はそう思ったものの、取るに足らない羞恥心などここでは無用だった。とにかく今夜はまた別荘に戻らねばならないのだ。それまで残された時間は僅かゆえに、せっかくこのホテルまで来た以上は可能な限り内部の調べを進めるしかない。改めて自戒すると二人の背中を見て謎の解明に期待を抱いた。
当然ながら三人以外に人の気配はまったくなく、静寂から生じる霊への怯えは払拭出来ずにいたが、優子の見た事実を裏づける証拠が必ず見つかるはずだと河上は信じて疑わなかった。
館内の通路はむろんだが、部屋の中もかなりの蒸し暑さで汚れ切った空気が充満しているだろうと推察された。だから足を踏み入れるには相当の勇気が必要だろう察したが、それでも三番目の部屋の前に来た時には妙な予感を覚え、河上は優子の助言を無視してドアを開けようとノブに手を掛けた。
「河上さん、入るのですか?」
「ああ、ちょっと覗いてみようか思うが、どうかな?」
「そうですね、特別悪い予感はないようですが、気をつけてください」
「ねえ優子、あなたも一緒に入ってみたらどう?」
真弓の言葉に優子が頷いたのを見た河上は思い切ってドアを開けた。とその瞬間、吐気を催すかの異臭が鼻を突き、すぐにドアを閉じると口を押さえたまま通路に戻り、不快な面持ちで顔面を歪めた。
「まいった!耐え難き臭いが部屋の中から襲って来たようだ。これじゃ調べたくても足を入れる気がしない」
「長い期間締め切りになっていたから、自然に汚れた空気が溜まったんでしょうね。でもこの部屋にはなにもないようですから」
「そうか、優子さんが言うなら間違いないだろう」
優子の助言に河上は従い、気を取り直して再び別の部屋の調査に取り掛かった。そしてゆっくり進んで通路の中程に来た時である、突然優子が「河上さん待って!」と声を張り上げ、その場に立ち止まったまま正面を見て両手を広げ始めた。
「どうした?」
「・・・この通路の奥に何かを感じます」
「えっ!また何か起きるの?わたし怖いわ」
真弓が震える声で小さく言った。
「ううん、まだ大丈夫と思うわ。真弓も河上さんも相手から送られる邪念は見えないでしょうけど、それを跳ね返すくらいの強い想念をしっかり持ってくださいね」
「でも、それだけで大丈夫なの?」
「ええ、自分の心の弱さを悟られないのが大事なの、それ以上の危険を感じたらわたしがすぐ合図しますから」
「よし、わかった」
「優子、あなたがここで感じるのは霊なの?それともさっきみたいな魔なの?」
「それが、わたしにもまだよく分からないの。でも、ここでも邪な波長みたいなものをひしひしと感じるし、この建物の中に得体の知れない何かが存在していることだけは確かみたい。それはまるでわたしたちが来るのを予め予測し、息を潜めて待ち伏せしているように受け取れるわ。だから相手はいつ行動を起こそうかとそのチャンスを狙っているの」
「何だか怖いわ、大丈夫なの?」
「とにかく気持ちをしっかり持ち、まず自分の心に隙をつくらず、必要以上にびくびくしないことが大切よ。霊は人間の考えていることなんて瞬時に分かるし、入り込む隙間を見つけると突如として侵入してくるものなの。だからこそ自分の弱い部分を知られないようにしなければ完全には防げないの」
「そうだな、魔と一口に言うけど、その類は実にたくさんあるようだ。それだけに別の世界からの恐怖を感じてしまうんだろうが、霊に関して言えば生身の人間が肉体を失っただけの魂だから、魔とは全く別物だとの思っているよ。とはいえ、理屈で理解していてもやっぱり気持ちいいものじゃないけどね」
「河上さん、霊がこっちに向かってます」
優子のその一言が河上と真弓により強い緊張感を抱かせた。
錯乱
カップ麺を食べ終えた時、テレビはちょうど昼のニュースが終わり普通の番組へと切り替わったが、底に溜まったスープを全部すすり終えた健三は、そのままゴロッと大の字になり、天井を見つめて満足感に浸り始めた。
満腹にはほど遠かったものの、暑い時に強いて熱い物を食す逆療法は、意外に美味しさを実感出来て日ごろから好んだのである。
「汗が吹き出るまではいかないがやっぱり熱いな。だが美味かったのも事実だ。さてそんなことはいいとして、英昭たちの今後の行動をどうして阻止するかが問題だな。恐らくあの呪法はその効果が持続しているとは思うが安心は出来ん。さらに何か別の方法を考えねばならんだろうからな」
寝転びながらこれから為すべきことをじっくり思考し続けたが、満腹感から起こる心地良さと眠気は脳の動きゆっくり停止へと向かわせた。
(まあ、別段急ぐこともない、もう少し彼らの様子を見てからでもいいだろう・・・)
そう思った途端に瞼は否応なく強烈な睡魔で塞がれていった。
それからどれほど時間が経過しただろうか、健三は自分を呼ぶ声でふと目を開けた。
「健三さん、転寝は風邪の元ですよ!」
「おお、その声は美紀じゃないか!一体どうしたんだ?そうだ、お前は確か事故に遭って死んだんじゃなかったっけ?」
「死んだ?あははは、いいえわたしはちゃんとここにいますわ」
「いや、そんなはずはない。わしははっきりとお前の死体を病院で確認したぞ、だから生きてるなんてことはありえないんだ」
「あははは、まだそんなバカなことを・・・。げんにわたしは今こうしてあなたのそばにこうして座っているじゃありませんか。きっと疲れて夢でも見ていたんですよ」
「夢だって?」
「信じられないなら、わたしを触って生きていることを実感して下さいよ」
美紀はそう言って健三の右手を掴んで自分の胸に当てがった。その柔らかな乳房の感触はブラウスの上からもはっきり感じ取れたし、ブラジャーもしていない肌の温もりは、それだけで男の機能を一気に奮い立たせた。
「なんだ、そうだったのか。じゃあやっぱりあれは夢だったんだ。そうかぁ、よかったよかった。これで安心したよ」
「まったく、そんな簡単にわたしを殺さないで下さいな、ふふふ」
「ああ、確かにそうだよな、わしとしたことが少しばかりもうろくしたかな?あっはっはっは。しかし夢って不思議なものだな」
健三は大声で笑い、横で微笑む愛すべき者の顔をまじまじと見つめた。
「だけどお前、俺にだまって今までどこに行っていたんだ、すごく心配したぞ。普段のお前らしくない行動だからな」
「どうもすいませんでした。いえね、ちょっと用足しに行って偶然知り合いにばったり会ったの、それで話が弾んでそのままその人の家に泊まってしまったってわけ。すぐにあなたに電話と思ったけど、ついうっかりしてしまって。本当に心配掛けてごめんなさいね」
「そうか、そうだったのか。いや、わしもあの時すぐに帰れば良かったが、ちょっと散歩が長くなってしまってな。とにかく無事でよかったよ、お前が死んだと思った時には何だか一気に落ち込んでしまったし、正直言ってわしも死にたかったくらいだ」
健三は改めて美紀の顔を見つめ、そのままぐっと自分の方へ引き寄せた。そして唇を近付けて強引に重ねたが、触れ合った瞬間ふといつもとは違う妙な感覚に気付き、訝しげに唇を離すと目を瞑っている美紀の顔をじっと見つめた。
(うん?なんだこの感覚は、いつものあいつの唇じゃないみたいだが・・・)
これまでの長い付き合いから、お互いの細部まで知り尽くした者同士である。相手の体に染み付いた微妙な感触は僅かな変化をも敏感に察して当然だった。だが今日の唇の感触は何故か違っていた。そこに血の通った温かみや、しっとりとした柔らかさが感じられないことが解せなかった。
(これは唇なんてもんじゃない、カサカサに乾き切った水分のない皮膚としか言いようがないぞ。こいつは本当に美紀なのか?)
離した自分の唇をもう一度舌舐めずりした健三は、疑惑の目で再び唇を見つめたが、その変化に気付いた美紀も下から妖しげな目付きで見返した。
「ねえ、どうしたの?」
「えっ、ああいや別になんでもない・・・」
「それならどうして途中で止めるの?いつものように優しくキスしてちょうだいよ」
「ん?あっそうだ、ちょっと待ってくれ。わしはいま大事な用を思い出したんだ。上の部屋ですることを忘れていたからすぐに取り掛からねばならん。そうだお前もたまには実家に帰ったらどうだ?お袋さんも心配しているだろうから、わしに遠慮せず今夜はこのまま行きなさい。明日にでもわしからまた連絡するから」
冷たく射るような視線で見上げる美紀から目を逸らした健三は、おもむろに立ち上がると逃げる様にして階段へ向かった。そして登りながらも何かが違う思いを抱きつづけ、果たして美紀に対しどう接すべきかを逡巡しつつ表情を曇らせた。
(なんだろう?あいつがわしを見る目はいつになく冷たい目だし、まるで別人のようだ。わしは本当に美紀の死という夢を見ていたのだろうか?これからどうやってあいつと話をして行けばいいのか?なんだかいまひとつしっくりこないのが気に入らんが・・・)
部屋に入ると障子を閉めて和机の前に座った。その瞬間やはり止めたほうがいいのではないかとの思いが脳裏を掠めたが、建三はその迷いを振り払って抽斗から呪法の本を取り出し、折り目をつけてあるページを開いて老眼鏡を掛けると読み始めた。
そこにはやや大きめな活字で《黒六指の呪い》と題字が書かれあった。この術を実行することで対象相手を自分の意のままに操れると、そんな内容が詳細に記術されていたのである。
暫く施術方法に見入っていた健三だが、覚悟を決めたのか静かに目を閉じるとそれを実行に移した。そして数分後には「フウッ!」と一つ大きくため息をつき、後頭部を押さえたまま畳の上に仰臥して睡魔に身を任せた。
*
ウトウトと一時間程度寝込んだ健三はふと目を覚まし、朦朧とした意識のまま辺りを見回した。
窓からは午後の強い陽射しが差し込み、寝転んでいる場所にその光が当たっている。
「そうか、わしは寝てしまったんだな。確か呪法をした後、突然首筋辺りに鈍痛を感じてそのまま意識を失ったが、どうやら大丈夫のようだ」
呟きながら首を押さえ、筋肉をほぐすようにゆっくりと揉みほぐした。
頭には軽く振るだけでツキンと突き刺すような痛みが幾らか残っていたが、顔を歪めつつもけだるそうにく立ち上がり、壁の時計で時間を確認してから階段へ向かった。
下にまだ美紀がいるのだろうか・・。そんな思いを抱いて帳場に入ったし、「美紀、いるのか?」と問い掛けたが、シーンと静まり返った家の中からは物音一つ聞こえず、姿さえ目にすることは出来なかった。
「そうか、やっぱり家に帰ったのかもな。しかし黙って出て行く奴じゃないのに、書き置き一つ残してないなんてあいつらしくない。それとさっきの唇の感覚だが、どう考えても美紀のものとは思えん。なぜこんな変なことばかりわしの回りに起きるのだろう?」
どうにも解せないという面持ちで帳場に座り込み、必死にこれまでの出来事を思い返して、なんとか自分なりに理解しようと思考を続けたが、心に芽生え始めた見えないものへの怯えで思わず表情を曇らせて小さく震えた。
その最たるものは事故死した妻の存在だった。
数日前、思わず失禁するほどの恐怖を味わった事実を記憶から蘇らせ、健三はあらためて全身に冷水を浴びたような悪寒を感じて動悸を速めた。
(いまにして思えば、あれは静子だったのか?まさかわしを恨んであの世から出てきたんじゃないだろうが・・・。いや、そんな筈はないし、霊なんてこの世に存在すること自体があり得ないからな。じゃあなんだ?あれは何だったんだ、なんであんな恨めしそうな姿をわしに見せたんだ)
日頃から無神論者を嘯きながら物欲への執着が人一倍強いと自認し、この世はすべからく金と名誉だと公言して憚らないその生き様は当然のように敵が多かった。しかしそれでも妻の静子だけは自分にとって唯一の良き理解者だった。
数年前、ホテルの大風呂改修工事が終わった時、契約期日が一日超過したことを理由に健三はその支払いを遅らせた。当然ながら契約は書面をもって取り交わされたが、期日までに工事が終わらない場合は営業実績から判断して、相応の損害賠償をするとの内容であり、これ幸いとばかりに契約書を盾に業者に賠償を言い寄った。その根底にはあわよくば工事代金を一銭も支払わずに相殺しようとの邪な考えもあったらしい。そう関係者は後になって健三の無謀とも言える要求を公表した。
業者はこれまでの長い付き合いゆえ、せめて一日分の賠償だけで済ませて欲しいと謝罪して懇願もしたが、健三はどうしても首を縦に振らず、挙句には契約不履行で全損害賠償を請求すると息巻いたのだ。
数日経ったある日、業者は血相を変えて日本刀を携えホテルに乗り込んで来た。そして激高したまま健三を出せと怒鳴って威嚇し、対応に出た従業員に刃が向けられたその時だった、女将の静子が現われると毅然と立ちはだかって男を冷静に説得した。その落ち着いた静子の迫力に押されたのか、男は自分の非を認めた上で謝罪し、問題を円満に解決することをその場で約束したのである。
あわや修羅場という出来事を契機に、健三は己のこれまでの行動を深く反省した。それ以降は物事への斟酌をいくらか図るようになったが、世間の目はむしろ妻である静子に向けられ、女将としての器量と度量が一躍地元で評判になると、緑風館は一層の隆盛を極めて知名度を上げていった。
だが皮肉なことに、旅館業が多忙になればその反動として静子は建三と接触する機会を次第に失うことになり、便利ゆえにホテルに寝泊まりすることが多くなると、自然と別荘で待つ健三と生活上のすれ違いが生じるのは避けられなかった。
「そうだったな、確かにあの当時はそんな日々が本当に長くつづいたものだ。だからわしは静子がホテルに詰めっぱなしなると心から淋しかった。一人で別荘にいてもなんとなく落ち着かず気持は満たされなかったんだ。そんなこともあって、ついあの日も魔がさしたのかもしれん。いや、それはわしの自己弁護に過ぎんだろう。だが、あいつに対し疑心暗鬼の思いを抱いていったのは、夫としてわしの我がままだったと言えるだろう。それもこれも今となってはわしのあいつへの懺悔に過ぎないのだが・・・・
目の前にいるはずの美紀もいない、さらにこれまでの出来事が夢なのか、それとも現実に起こったものなのか、そのすべてが一切分からないという苛立ちがあった。
考えまいとしても、記憶の中からは次々に耐え難い恐怖が蘇って来る。ゆえに健三の思考は巨大な迷路の中から抜け出られずに、終わりの見えない時間の流れに変わっていた。
*
頭の中がもやもやした気分で充満しているように感じた。特に首筋から後頭部にかけて言葉では表現出来ない妙な感覚に恐れを感じ、健三は持っていた呪法の本を無造作に投げ出すと目を瞑って頭を振った。
「ちくしょう!なんだこの頭の感じは・・・。まるで後頭部に何かが入り込んだみたいにイライラする。どうしたらいい、こんなことは初めてだぞ。わしの頭はこのままどうにかなってしまいそうだ」
唇をグッと噛み締め、こめかみに両手を当てるとやみくもにその部分を掻き毟った。すると痛みを感じる間もなく爪を立てた皮膚は破け、そこから鮮血が瞼へと流れ出たが、ヌメッとした感触に健三は思わず目を開けて指先を見た。しかし同時に血が目の中に侵入したのか、染みるような痛みで畳の上に転がった。
片目だけでティシュペーパーのある場所に移動し、必死の思いで数枚抜き取ると痛みのある方に当てて血を拭きかけたが、その最中に今度は帳場からコール音が届いて来た。
「はい・・・」
「あっ、社長ですか?わたしです、帝都リサーチの杉田です」
「ああ、声ですぐ分かったよ」
「それはどうも、いま大丈夫ですか電話していても?」
「何か用なのか?」
「それが、先日社長から調査打ち切りと言われましたが、実はわたしの独断で調査を続けたんです。いえ、だからといって別にその分の費用をどうこうとは言いません。もう充分に頂いてますし、おつりが出るくらいですから」
「じゃあ、どういうつもりなんだ。余計なことをしてさらに電話までよこすなんて」
「ええ、調査は確かに別荘を出るまでとの契約でした。しかしわたしもこれで一応は探偵の端くれです、どうしても最後まで調べたいという職業病が起こりましてね。それでつい彼らを尾行したんです」
杉田はそんなもっともらしい理由を述べた。
「そうか、それでどうだったんだ、何か君なりに納得いく結果を得られたのか?」
「はい、わたしの読みがピタリと当たりましてね。結局は社長のホテルに三人で入りましたよ。どうです驚きましたか」
「ホテルに入った?そのことならわしも知っていたよ」
健三は別段驚く様子もなくそう答えた。
「知っていた?本当ですか!最初の話ではホテルに近づいてもらっては困るからしっかり行動を見張ってほしいって、確かそんな依頼でしたが」
「ああ、確かにそういう話だった。だが、甥が電話で温泉に入りたいと言うから仕方なく承知したんだ。きっとあんたが見た時はホテルの大浴場にでも行ったところじゃなかったのかな?多分そうさ、そうに決まってる。あははは」
「・・・・」
「まあ、とにかくご苦労さんだった。そういう訳だから無駄骨を折ったことになるが、本当にもういいんだから手を引いてくれ」
「しかし・・・・」
「いいと言ったらいいんだよ!」
健三は語気を強めて電話を切った。そして気を取り直して目に入った血を洗う為に台所へ向かったが、痛みを堪えながらやっと小さな金ボールに水を満たし、片手でゆっくりと洗い流す動作に入ったその時だった、首筋に人の吐息のようなものを感じて思わず手を止めると、顔を上げてそっと後ろを振り返った。
「あなた、そろそろ決心がつきましたか?」
目に飛び込んで来たのは顔の半分が醜く焼け爛れ、黒ずんだ皮膚から流れ出る血で染まった静子の顔だった。
「うわっ!お、お前か。どど、どうしてここにいるんだ!」
言いながら健三は後ろに飛びのくと、その勢いで激しく冷蔵庫に背中を打ち付けた。
「わたしはいつでもあなたのそばにいて、あなたのすべての行動をじっと見つづけているのです。それが夫婦というものじゃありませんか、ねえそうでしょ?そろそろ決心がつきましたか?」
「な、なにをバカなことを言うんだ。それに決心とはどういう意味なんだ」
「ですからこの間も言ったじゃありませんか、一日も早くわたしのいる世界へ来て欲しいのです。あなたが恋しくてたまらないんです。だってわたしは暗くて友達もいない世界で
一人で寂しい日々を送っていますから、どうしても話し相手が欲しいのです。それをどうか分かって下さいな」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!どうして今になってそんな世迷い事を言うんだ。わしはまだ死にたくない、それにお前とはもう夫婦じゃないし、死人のいる世界に行けるはずもないだろう。頼む、後生だから迷わず成仏してくれ。わしに出来ることは何でもするから」
恨めしそうな目で見つめる妻に対し、健三は震える声で哀願した。
「わたしをこんな目に遭わせておいて、あなただけがこの世で生き長らえるなんて、本当に恨めしいわ・・・。体中が熱くて、それはもう辛くて苦しいし、この苦しみは死んでもなくならないのよ。それに、確か美紀さんでしたっけ・・・」
「うわっぁぁぁ!もう、やめてくれぇ。頼むからこれ以上わしを苦しめないでくれ――」
静子が口にしたのは、恨みの篭もった未練の言葉と美紀の名前だった。それを聞いた健三は絶叫しながら床にひれ伏し、頭の上で両手を合わせてガタガタと身体を震わせたが、失禁したために股間から下がぐっしょりと濡れていた。
三体の霊
通路の端までは僅か三十メーター程で、客室と思われるドアは完全に閉じられていた。
「あの突き当たりにやはりドアが見えるな、だがあれは非常口ではないのかな?」
「そうみたいですね」
優子が答えた。
「左側は客室じゃないし、たぶん納戸か備品などを入れておく部屋かもしれないな」
「上の階に行くにはやはりここから自分の足で上がって行くしか方法はないようです」
「そうね、優子の言うとおりね。ここから先も階段だけだし、エレベーターも故障して使用不能だもの。三階へはやっぱり歩いて行くしか方法はないみたいわ」
「とにかくこの二階をもう少し調べて、それから三階へ行くことにしよう。その結果、なにもないなら一番奥まで行って引き返せばいいんだ」
意を決した河上はおもむろに一歩を踏み出した。
自分以外の人間がいるという事実は、それなりに心強い気持を抱かせたが、館内の蒸し暑さや不気味なくらいの静寂が、次第に耐え難い恐怖心を煽ったのも確かだった。
突き当たりの非常口は上半分にすりガラスが嵌っていた。そこから外光が入るのだろうか、幾らか通路に明るさが見えたが、それ以外には光が入る場所もなく、閉じられた各部屋のドアだけが人間の行動を静かに監視している。そんな不気味な事実を嫌悪しながらも三人は慎重に暗い通路を進んで行った。
半分程行った時だった、河上はふと二人を見ようと振り返ったが、真弓だけは自分の真後ろにいたものの、優子はかなり後方で立ち止まり、ある一点を見据えていることに気付き思わず声を掛けた。
「優子さんどうした?」
「優子どうしたの、なぜそんな顔しているの?」
真弓もそう言いながら戻ると、怪訝な目で優子の顔を見つめた。
「河上さん、あなたの後ろに霊がいます」
「えっ、霊だって?!」
「ちょっと前に気付きましたけど、河上さんの後ろに寄り添うようについて来る霊がいるんです。たぶんさっき見た霊だと思うし、わたしに今それがはっきり見えてますから」
聞いた河上はゾッとして思わず左右を見回したが、霊感もない者がそれを感じたり見えたりするはずもなく、ぼう然と優子に視線を返すしかなかった。
「わたしには見えないよ、もっともそれが当たり前だろうが」
「女の人ですね。それも一人じゃなく三人で、河上さんの後ろに付いたまま動こうとしません。やっぱりここに着いた時、わたしが窓に見た霊かもしれません」
「・・・・」
真剣な表情で言い切る優子だった。聞いた河上は信じられない表情で返事も出来ず、金縛りにあったようにその場からまったく動けなくなっていた。
「優子には、それがはっきり見えるのね?」
「優子さん、わたしはどうしたらいいんだ。このままじっとしているしかないのか、それとも何か行動を起こすべきなのか?」
「ちょっと待って下さい、わたしがこの人たちに訊いてみます」
河上は真弓と顔を見合わせながら壁際へ移動し成り行きを見守った。数秒ほど経つと優子の表情からはいつもの柔和さが消え、大きく見開いたその目が空中のある一点をじっと凝視し始めたが、すぐに軽く頷いて元の柔和な表情に戻ると河上に言った。
「話は終わりましたけど、わたしが訊いてもその霊たちは自分の身元は一切明かさないのです。ただ、どうやらある場所に導こうとしているのは確かみたいですが」
「ある場所って、それはこのホテルの中かね?」
「さあ、それは分かりません」
「分からないって、それじゃあこの先不安だらけじゃない。ねぇ優子、もっとはっきりしたことを聞いてよお願いだけから」
「しつこく聞いたけどだめなの、一切教えてくれないのよ。ただ、自分たちがこれから案内するからついて来て欲しいって言うだけだから、取り付く島もないのよ」
答える優子の表情も困惑し切っていた。もちろん河上もそれが嘘とは思わなかったが、見えない者が相手だけに一抹の不安は消せず、戸惑いの面持ちでその場に佇みつづけた。しかしここまで来た以上は霊感のある優子を信じて従うしかない。そう心を決めると硬い表情のまま前を向き、より気持ちを引き締めて建物の隅まで行くことにした。
*
通路の半分まで来ると河上は突然立ち止まった。表からは耳障りともいえるセミの鳴き声が建物の中にまで侵入し、その雑音にも似た耐え難い音に苛立ちながらも、河上は佇んだまま後ろを振り返り、「優子さん、どうする?」と、これからの行動を訊ねた。
「そうですね、わたしもここまで体験した奇妙で怖い出来事をあらためて思い出し、どうしてなのかしらって疑問を持ちました。だからその謎を解明したくてホテルまで来たのですけど、正直言ってどう対処して行けばいいのか迷ってます。まあ、それは河上さんも真弓も同じだと思いますが」
「ああ、確かにその通りだ。戸惑うばかりでまったく思い通りの動きが取れない」
「もちろんわたしも同じ思いだわ」
間髪入れず真弓がそう答えた。
「それに、今ふと感じたのですけど、さっきの三人の格好はどうも仲居さんらしく思えるのです。おそらくはこのホテルで働いていた方たちではないでしょうか」
「仲居だって?そんなことって本当にあるのかね、信じられんな。で、その三人はまだここにいるの?」
「いいえ、いつの間にか姿を消しました。でも、わたし達が行動すればいずれ先々で現れると思います」
「そうか、消えたのか。じゃあやっぱり成仏出来ずに、まだこの世で彷徨いつづけているということになるんだろうな」
「その方たちは着物姿で帯もしてました。それにこの場所に現れたという事実は、やはりホテルで働いていたと見るのが自然でしょうね。だから、わたしたちに接近する何かの理由があると考えてもいいと思うんです」
「うん、確かにそれは筋が通った推理だが、三人とも死んで霊になっているというのがわたしには理解し難いね。叔父からもそんな人たちの話は一切聞いてないし」
「河上さんや優子の言うことはわたしにも良く分かるわ。でも、今ここで疑問を持っても仕方ないし、とにかく腹をくくって最後まで調べるしかないと思うの。そうすれば何か絶対分かってくるはずだし、途中で投げ出すなんて意気地なしよ」
「そうだな、真弓さんの言う通りかもしれんな。とにかくこの先も優子さんの霊感を頼りに進むしかないだろう」
「ただ、わたしなりに感じたことですけど、少なくとも我々に対して邪な霊じゃないと思えるのです。その一番の理由は目なんです。恨みや憎しみに満ちたものではなく、何かを訴えたい悲哀に満ちた純粋な目だと感じました。きっと複雑な事情があると思えてなりません、ですからわたしからその霊に改めて念を送ってみます」
優子は自信に満ちた表情でそう言い切ったが、河上と真弓は黙って頷くだけだった。
結果として、その仲居と思われる霊たちが果たしてどんな事実を導こうというのか?ここまで来た以上は全て成り行きに任せてみよう。そう河上は密かに決意したのである。
じっと瞼を閉じて思考していた優子は、暫くして目を開けると自分から先頭に立って歩き出した。それを見た二人も黙ってその後につづいたが、彼女は通路をしばらく進むと突然クルッと踵を返して一階へ戻り始めた。
「優子さんどうしたんだ、奥まで行かないのか?」
「ええ、ここには何もないと霊が言ってるんです」
「だって下は既に調べたはずだが、まだ何かあるのかね?」
「ちょっと前に、三体の霊が一階へ向かいました。わたしたちは黙って付いて行くしか仕方がないと思います」
「そうか、とにかく君に任せるよ。真弓さんもそれでいいだろ?」
「はい・・・」
二人を見て頷いた優子は、迷わず一階への階段を降り始めた。
(この先に何が待っているのというのか?仲居らしき霊たちはどこへ向かい、一体我々に何を見せようとしているのか?いや、それだって迂闊には信じられないかもしれない。もしかすれば取り返しのつかない結果へ誘い込まれる危険だってあるんだ。何しろそれは彼女にしか見えない存在なのだから・・・)
いかに人間という生き物は見えないものに戦き怯え、信じることへの猜疑心と恐怖心が精神を病むのか──。そんな心の弱さを河上は自分に置き換えて度量を推し量っていた。
*
再び一階フロントまで来たとき優子は迷わず左へと進んだ。その先は大浴場という案内板が壁に掛けられており、暗くて狭い通路は蒸し暑くてまるで閉塞されたトンネルのようだった。
「ねぇ優子、本当にこっちでいいの?」
「ええ、わたし達の前を静かに歩いて行くし、今は黙ってそれに従うしかないと思うわ」
「この先は大浴場なのか、しかしここも照明はないし薄暗いね。余り進むには気持ちいい所じゃないが・・・」
やがて通路の中間まで来ると、右手に一際目立つ頑丈な鉄製のドアがあるのに三人は気付いた。それは明らかに二階の客室とは違うドアに思え、プライベートに使用している部屋をイメージさせた。
通路の奥には二階と同じように突き当たりに非常口らしきドアがあり、上半分がすりガラスで外光が入るのが見て取れた。
ここまでにある設備といえば大きな調理場と大浴場だった。それらはすべて進む方向の左側に位置し、反対側の右手には三つの部屋が並んでいた。そのすべてに鉄製のドアが嵌められている事実があったが、それは古い時代の監獄の様な暗い印象を三人に抱かせたのである。
周囲に気を配りつつ建物の端近くまで来た三人は、ふと左に管理人室のプレートが貼られたアルミ製のドアがあるのに気付き、立ち止まったまま訝しげに見つめた。
「管理人室だって?誰がこのホテルの管理人だったのかな?支配人や管理人なんていなかったはずだが。叔母が女将で叔父が名目上は社長だったし、あとはパートさんや派遣社員だと聞いていたが・・・・」
「でも、河上さんがここに来たのは大分前の話でしょ。後から管理人を雇い入れたのかもしれませんよ。それもホテルを廃業した後ならあり得るんじゃないですか?」
「うん、確かにその事実も否定は出来ないし、今となっては確認も不可能だがね」
真弓の言葉に河上はそう答えたが、優子だけは非常口のドア前に立ったまま回りに視線を這わせていた。
「どうした、優子さん?」
「三体の霊が突然ここまで来て消えてしまいました」
「えっ、消えたって?」
「ええ、この辺りまで来るとスーッと煙のように消えて見えなくなったんです」
「そうか、じゃあ案内はここまでという意味かもしれないな」
「そんな、だってこのままじゃ何も分からないし、この先どうすればいいのよ。優子、あなた何か感じないの?」
「わたしだって良く分からないわ。でもここまで連れて来られたということは、この場所がやはり霊達の訴えに関係していると考えていいんじゃないかしら、多分そうに違いないと思うし、そうじゃないと腑に落ちないもの」
二人を見て優子は自信ありげに言った。
時刻は既に午後四時を回っていた。夏の太陽はまだ沈む気配を見せず、真夏のエネルギーと輝きを十分に保ちつづけていたが、このくらいの時刻になると館内では湿気を感じ、やたら身体にまとわりつく藪蚊が気になる嫌いがあった。
ホテルの裏は庭を挟んで竹林があり昼間でも鬱蒼としていたが、玄関からは伊豆連峰の山並みも微かに見えるロケーションが叔父の自慢でもあった。だがそれも日没が近付くと
ホテルの近くに一軒の人家もないこともあって、数時間後には再び深い闇に閉ざされる現実を河上は密かに恐れ始めていた。
それでもこんな場所で全くの他人である二人の女性と、素人探偵めいた行動をしている自分の存在がおかしかった。しかし元々旅行をスタートした時点から、これらの怪奇現象が起こる兆候はあったんじゃないのかと、改めてそう思い返したのである。
まずは三平家での出来事がそれであり、箱根神社で計らずも二人の女性を拾ったということも当てはまった。ましてや優子という女性は霊感を持ち、幾度となく不思議な体験をしている事実が揺るがず、それがすべて偶然とは思えなかったが、結果としてこういう運命を辿ることへの予兆だったに違いないとの確信を抱き始めた。
「河上さんどうします?思い切ってこのドアの中を見ます?」
「そうだな、だけどもうすぐ日没がやってくる。このドアの中がどうなっているかはもちろん不明だが、とりあえず今日はこれで一旦引き上げようや。そして明日はもっと早い時間に来て調べることにすればいい」
「そうですね、それが賢明だと思います。真弓もそれでいい?」
「ええ、もちろん異論はないわ。夜になるとこのホテルの雰囲気だけは怖いもの。でも、ここって電気は点くんですか?」
「さてどうだろうか、わたしは叔父から詳しく聞いてないけど、そうだこのスイッチを押してみよう」
言ってから河上は目の前にある壁のスイッチを押した。だが廃業した建物に電気を引いておく必要がないのは当然であり、周囲に明かりが点った様子はなかった。
「やはりな、営業しないホテルに電気が必要ないのは当たり前だろう。じゃあ、とにかく帰ることにしよう。別荘に戻ってゆっくり明日のことを検討し、叔父にも一応は電話しておこうと思うからね」
「そうですね、いくら身内の建物とはいえ、無断で入って調べるのですから持ち主の許可がいります。それにこの際叔父さんに事情を説明したらどうでしょうか」
「ああ、そうするつもりだ」
頷く二人を見た河上は表に出ると車に乗り込み、早々にそこから走り去った。
相談
その夜はなぜか異常な暑さだった。
ホテルから別荘までは行った時と同じくらいの時間を要したが、庭先に車を止めて中に入った三人は、理由など良く分からないまま疲労感だけを覚えていた。
「しかし、今夜はとくに暑いね・・・。いつもの熱帯夜というやつだな」
「エアコンがなければわたしなんてとても熟睡出来ないわ」
「真弓はマンションでもとにかく暑がりの寒がりだものね。でも、エアコンって冷え性には酷なものよ」
真弓を見て優子は微笑んだ。
「ところであの緑風館だが、今日の調べで計らずも地元での噂話と、その信憑性の一端が立証されたようだね」
「ええ、でも浦部さんの話では確かその霊は女将みたいだったと聞きましたが、わたしが見た限りでは女将には見えませんでした。その辺がちょっと理解できませんね」
「そうか、まあわたしは実際霊なんて見えないから何とも言えないが、真弓さんはどんな風に感じたかね」
「わたしですか?う~ん、そうですね。わたしも河上さんと同じように霊が見えるわけじゃないから、正直言えば分からない部分が多いのですが、不気味な印象を受けたのは確かです。何かあのホテルでは過去にそれにまつわる出来事があったんじゃないのかって、まあ自分なりのカンでそう感じましたけど」
「そうね、それは言えるかもね。あの悲しい目をした三体の霊は何かを訴えたくてわたしたちを導いたのかも知れないし、隠された秘密みたいなものがやっぱりあのホテルにはある気がするんです」
真剣な表情で優子も言った。
「じゃあ、それが何かはっきりするまでやはり叔父には黙っていたほうがいいかな?」
「そうですね、今それを言ってしまうとかえって叔父さんの気持ちを害することにもなりかねませんし、場合になっては調べが出来なくなる可能性もあります。だから明日が終わるまでは言わないほうがいいと思いますね」
「わたしも賛成だわ、ここまで来たら絶対明日中には結論を出したいし、一連の怪奇現象の謎を解きたいもの。そしてすっきりした気分で東京に帰りたいんです。それは優子も同じでしょ?」
「ええ、もちろんよ」
「しかし、どうして霊を見る人といない人がいるのだろうか?わたしはそこのところが不思議なんだよ」
「それはこういう説明が出来ます。実際には肉体の眼で霊を見ているのですが、本当は霊としての眼で見ているらしいんです」
優子は真面目顔で言ったが、河上はその意味が咄嗟には理解出来ず、怪訝な表情で見返すしかなかった。
「どういうこと?優子の言ってる意味はわたしの理解力の範囲を超えているし、さっぱり分からない」
「それを詳しく説明するのは難しいわ。でも、世界的に著名なスェーデンボルグという霊能者の言によれば、その人自身も肉体的には一瞬だけど死に体となり、霊の眼で幽霊を見たり死の知らせを受けたりするから分かるのであって、肉眼で見ているようでも実はお互いが霊になって見詰め合っている。つまり肉体の波長ではなく霊体としての波長が合うから、その事柄が理解できる。そういうことになるらしいの」
「ふ~ん、分かったような分からないような・・・」
真弓は河上を見てそんな顔をした。
「これはなかなか難解だ。わたしも理解に苦しむけど、まあ色々経験した優子さんの意見だからそれなりに真実味は感じるよ。よし、とにかく今夜は夕食を食べてゆっくり身体を休めよう」
「そうですね、じゃあ夕食にしましょうか」
そう言って真弓は用意してあったレトルトカレーをテーブルに置いた。
「だけど河上さん、あのドアの管理人室という表示ですけど、改めて思うにちょっと変だとは思いませんか?」
簡易ガスコンロに乗せた鍋の中にカレーを入れながら真弓がそんな疑問を投げ掛けた。
「変?どこが変なの真弓」
「だって、管理人室なんて表示自体があのドアには似つかわしくないように思えるわ。普通はアパートとかマンションなんかで管理人室という表示は使うものじゃない?ホテルだったら支配人室とか警備員室とか、そういう表示が自然だと思うの」
「うん、確かに緑風館自体が管理される対象じゃないからな。それを思えば管理人を置く必要はどこにもないのは確かだ。だって叔母が毎日のように寝泊りしていたのは聞いていたし、叔父さんだってこの別荘から時々顔を出しに行っていたとも聞いている」
「そうねぇ、それとちょっと妙だなと感じたのは、あの管理人室というプレートだけど、廃業してから二年以上経つにしては汚れもなく新品状態に見えるの。ホテルを始めた時からの物ならもっと手垢とかで色褪せていて当たり前じゃないかしら?」
優子はそんな事を指摘した。
「そうか、そう言えば隣の調理場と書かれたプレートなんて、人の手が触れたのだろうが結構薄黒く汚れ切っていたな。それが自然な状態だとすれば、あそこだけ何か特別な理由があって後から付け替えたのか、それとも元々意味のない表示だったのか、その辺が謎とも言える」
「いいわ、そういう点も含めて明日じっくり調べてみましょうよ」
「それにしても、あのホテルはやっぱりミステリーじみている事は確かね。きっと河上さんの叔父さんも事情があって廃業したのでしょうけど、働いていた人達は突然解雇されて晴天の霹靂だったと思うわ」
「叔父は、叔母の事故死を境に経営への自信を失ったみたいだ。元々は女将が旅館の顔だし、叔父の役目はただのマネージメントだったらしい。まあ、叔母の生命保険金もかなり入ったらしいが、愛する人を失って一気に人生観も変わってしまい、それでホテル業を続けていく情熱が失せたんじゃないかって、それが母から聞いた話だがね。まあ、真相は叔父にしか分からないから迂闊な推測は出来んが」
「河上さんのお母様って、女将の実の姉なんですよね」
「そう、だから叔父は母には義弟ということになる」
「でも、多額の保険金が入ったなら無理してまでホテルをつづける事もなかったのでしょうから、思い切って見切りをつけて結果的に良かったのかもしれませんね」
真弓の言葉を最後にしてホテルの話題は終わり、その後は別の話で座を持たせると、食事を終えた三人は明日の為に部屋へ戻ることにした。
*
翌朝はどんよりとした曇り空だった。昨夜の予報では午後から雷雨が発生するらしく、それを知っていた河上は窓から外を見ていささか憂鬱な気分に陥った。
(夏でもこんな曇天の日もあるんだな。だが、今日中にはあのホテルの謎を調べ上げねばならない。そもそも優子さんがどういう理由でホテルを見せられたのか?彼女は霊感が強いし、やはりあそこには何か秘密が隠されていて、それを彼女に知らせる為に波長の合う霊が不思議な体験をさせたのか?)
ベッドの上でぼんやりそんな思考を続けた河上は、気を取り直して起き出すと支度に取り掛かった。数分後にはすっきりした面持ちで一階へ下り、既に用意された朝食を見ながらテーブルに付き、キッチンから届く二人の会話に耳を傾けた。
「あっ、おはようございます」
「おはようございます!」
顔を出した真弓と優子から気持ち良い朝の挨拶が届いた。
「君たち早いんだね、もう朝食の支度も出来てるし」
「はい、いつもこのくらいには起きますし、マンションでは交代制なんです」
優子が笑顔でそう答えた。
「交代制か、なるほどそれはいいシステムだ。ところで昨夜はぐっすり寝られたのかな、真弓さんはどう?」
「大丈夫でした。でも、本当はホテルに行った日の夜ですし、また何か怖いことが起きるんじゃないかって、いつもより気持が高ぶったのは事実です。河上さんはどうでした?」
「わたしか・・・うん、まあ良く寝た方だと思う。本音を言えば今日の調べで何が起こるかちょっとばかり恐怖心もあるけど、ここまできたら後へは引けないからな」
「実はわたし、ちょっと変な夢を見たんです」
笑顔だった優子が突然そんなことを言い出した。
「夢?」
「ええ、それも妙にリアルな夢で、元々わたしは結構夢をよく見るほうですけど、大抵がこま切れの様に所々が繋がらないで終わってしまうのが多いんです。でも、それが夢の特徴だと思ってますから別段気にも留めないのですけど、昨夜の夢は本当にリアルそのもので、あまりの恐怖で息苦しさから夜中に目を覚ましてしまいました。確か時間は三時過ぎでしたけど」
「ねえ優子、それってどんな夢なの?」
「その夢はね、わたしがある山道を一人で歩いていると、突然向こうから来た見知らぬ男に道を訊かれたの。でも分かりませんと答えると、その男は怒りを込めた目でわたしに襲い掛かり、無理やり草むらに隠してあった車へ押し込んだわ。そしてしばらく走った後、見たこともない薄暗い建物の中に監禁し、今度は魔方陣の中心に座らせて何か呪いの術を掛け始めたのよ」
「魔方陣か・・・」
河上は意外な言葉を聞いて驚きを隠せなかった。
「それは古代から伝わる呪縛法らしく、相手の行動をすべて制約し自分の意のままにする呪法らしかったの。数秒も経たない内にわたしは意識を失い、ふと気付くと今度はいつの間にか緑風館の玄関に立っていたわ。目の前にはその男も一緒にいたし、左手に本らしき物を持ち、右手には見ただけで凍りつく様なサバイバルナイフを握りしめていたのよ」
「確かに随分怖い夢ね」
「そうなの、それで男はナイフをちらつかせ、わたしの前に来ると何やら呪文のような言葉を唱えて立ち止まったわ、そしてカッと見開いた目で睨むと、大きく振り上げたそのナイフをわたしの首筋めがけて振り下ろしたの。その瞬間、わたしは死の恐怖に戦いて飛び起きたけど、すぐに夢だと知ってホッとしたってわけ」
「殺される夢か、だけどどうしてそれがリアルなのかな?」
「それは、まず建物が緑風館ということですし、男の顔がはっきりとわたしの記憶に残っているんです。普通は夢に現われた人なんて、目が覚めると同時に忘れてしまうものなんですが、その男は壮年というよりは初老に近く、がっちりした体系でした。頭髪は薄くて目が異様に鋭かったのが印象的でしたね」
「なるほどね、じゃあ今ここでその男を見ればすぐに判別出来るとというわけか」
「ええ、それは自信を持って断言できます。ただ、その人が実在するかどうかは別です」
「それはそうだ、夢に出たからといって必ず現存する人間とは限らないからな」
「でもそれって、もしかして昨日わたしたちをあの広間で止めた、魔とかいうものに関係しているんじゃないのかしら」
「真弓さん、どうしてそう思うのかね」
河上は素朴な疑問をぶつけてみた。
「これっていう確信はないのですけど、ホテルの広間で足止めされた事実や、優子を殺そうとした夢の内容から、やはりこのホテルをわたし達が調べては困る何者かがいて、以前から災いを仕掛けている。そんな風に感じたんです」
「実はわたしも薄々だけどそう感じていたのよ。仮に夢に出た男が実在するなら、何らかの呪法で予めホテルへの侵入者を阻止しようとするのは十分可能だし、バリアを仕掛けたとも考えられるわ。だから調べられては困ることがあそこには絶対あると思うの」
優子は真弓と河上を見てそう言い切った。
「なるほどね。だがそれはあくまで仮説に過ぎないな。とはいえ、そうなると今度はそいつが本当に生きてる人間なのか知りたくなる。もし実在しない者なら、一連の出来事はやはり霊の仕業なのかと疑いを向けたくなるし、その辺の境目がいまいち良く分からないのが実に不気味だからな。そうなると、これからの調べに対しての不安は否めないけど、ここまできたら引き下がれないだろう」
河上は正直な気持ちを二人に吐露した。
「とにかく食事を済ませたらこれから早速行きましょう。今日一日しか時間はないし、何としてもこのミステリーでホラー的な現象を解かなくては気が済みませんから」
その強い優子の言葉に河上と真弓は黙って頷き、数分後には別荘から出て再び緑風館へ向かうべく車に乗り込んだ。
*
三人揃って荷物を持ち、表に出た時は既に午前八時を回っていた。天気予報では午後から雨ということだったが、すでに小雨が降り始めており、エンジンを回しながら河上は天候の変化に気持ちの落ち込みを覚えて顔を曇らせた。
「やはり一階の部屋から調べた方がいいだろうな」
「そうですね、はっきりは分からなかったのですけど、あの辺りで三体の霊が消えたのは確かです。だからその周辺の部屋や施設は全て調べた方がいいと思います」
「あの通路にある部屋や施設といえば、調理場ともう一つ右側にある部屋だけだったな。確か鉄製ドア以外の部屋は全て木製の引き戸だったように記憶しているが」
「そうですね、わたしもそれは見ました。鉄のドアなんてあのホテルになんか不釣合いに見えたし、一体内部はどんな目的に使用されているのかなって思ったんです。それに普通一階には客室なんて作らないでしょ?」
真弓が後ろから身を乗り出すようにしてそう言った。
「ああ、大抵は売店とか宴会場または風呂場とか、要するにホテルの機能と設備があるのが一階だからね。客室はまず二階以上が常識だろう」
(今日は朝から雨とはな。こんな雨の中の調べは気が進まんが・・・・)
思っただけで気が滅入りそうになったが、彼女たちや自分の為にも何とか謎を解明せねばと、河上は無理にでも己を叱咤してハンドルを握り直した。
「調理場の先にある大浴場はどうだろうか?まあ、調べるといっても風呂なんて調べようもないが、とりあえずは覗いてみるか」
「そう言えばまだ温泉は出るって、確か河上さんが別荘に着いた夜に仲間の人たちと話しているのを覚えてますけど、本当なんですか?」
「そうなんだ、叔父がもし温泉に入りたかったら、別荘は出ないがホテルなら源泉が出るから自由に使っていいとは言ってくれた。だけど、今回は我々の仲間も君たちも使うことはなかったよ」
「ところで真弓、わたしたちの有給休暇は確か今日までよね?」
「そうだけど、でもどうしてこんな時にそんなこと聞くの?」
「ううん別に、ただ今日中に無事二人して東京へ帰れるのかなってふと思ったから」
「いやだ優子ったら、変なこと言わないでよ」
二人のやりとりを耳にしながら、ふと河上もその話を自分に置き換えていた。確かにこれから数時間後に、結果が良ければそれぞれが自分の家に帰れるはず。だが、もし何か予測外のハプニングが発生し、我々がホテルの中に閉じ込められようなことが生じたら、果たして誰が発見してくれるだろうか?可能性としては充分起こりえる恐怖をふと脳裡に過ぎらせた瞬間、思わずゾッとして震えた。
幽霊が現れて目撃されたとの噂話で、誰一人寄りつかない廃墟化したホテルは、毎年のようにテレビ局の格好のミステリースポットとして放映されている。そんな情報さえ耳にしたこともあった。
(しかし、それが叔父のホテルだったとはなあ、親戚として口惜しい限りだが・・・)
複雑な思いで運転を続ける河上だった。
「大丈夫だよ、わたしと君たちは今日の夕方にはこの伊豆からすっきりした気分でサヨナラ出来ると思う。もちろんあんなホテルに長居は無用だし、おそらくはあの管理人室の中に入れば、きっとこれまでの謎も一気に解ける様な気がしているんだ」
「それって河上さんのカンなんですか?でも、あの部屋の中に一体何があるのかすごく気になりますね。とにかく今は無事に終わって欲しいだけです、祈っちゃいますマジで」
真弓は真剣な表情でそんな本音を口にした。
雨足は次第に強くなり、悪天候のためかホテルに着くまでの十分間で対向車とすれ違ったのは数える程だった。
「なんだか車もあまり見ないし、昨日と同じ道なのになんとなく違う所を走っているような感覚だが、間違いじゃないよな?」
「えっ、そうなんですか?河上さん、こんな雨だから余計にそう感じるんじゃないんですか?変なこと言って脅かさないでくださいよ」
「ああすまん、真弓さんの言うとおりかもしれないな。天候って人の気分を大きく変えるのは確かだからね。でも、時々ふっと変な感じを受けるのも事実なんだよ、まあ気にしないのが一番だが」
「でも、こんな雨の日にあのホテルに入るなんて、ちょっと気分的に嫌な感じを受けるのは否めないです。人間ってそういうことにはすごく敏感な感性を持ってますから」
「やめてよ、優子がそんな気弱なこと言うなんて・・・。それにしても雨脚も強くなって空も暗くなって来たわね。ホテル内は確か電気が点かなかったから、恐怖心がないと言えば嘘になるけど、やっぱり怖いわ」
「大丈夫よ真弓、まだ外は明るいし管理人室を調べるだけだもの、それが済めば結果はどうあれ気分的にもすっきりするから」
「そうだとも、暗いといっても懐中電灯もあるからね。時間だってそれほど要しないと思う。まあ優子さんの言うように、結果として何一つ解明出来なかったとしても、それはそれで諦めるしかないだろうな。そう思って気楽に行くことにしよう」
確たる自信もないまま未知なる世界を垣間見ようとする、そんな大それた行動を戒める意味を込めて、河上は乗り込む気力を奮い立たせた。
侵入者
やがてホテルの近くまで来た時、河上は車を止めてじっと下から建物を見上げた。
「なんだかここから見るホテルはやっぱり異様な感じだな。我々の侵入を拒むかの印象を受けるが、それってわたしだけかな?」
人間の持つ自己防衛本能とでも言うべきなのか、霊感など一切持ってない河上でも何となく違和感を覚えて感情を素直に言葉にした。
「そうですね、確かに何かが蠢いている気配は受けます。そしてわたしたちがこの中に入るのを拒絶するようにも感じられますが、その念はあの三人の霊じゃないような気がします。別のもっと強い邪霊が静かにこっちの動きを、息を潜めながら監視している。そんな波動が伝わって来るのです」
「やだぁ優子、ここまで来ておどかさないでよ。外は雨だし周りが暗いから余計そう感じるんじゃないの?それともいつもの霊感が働いたの?」
真弓は車の窓からホテルを見上げると震え声で言った。
「ううん、脅かすわけじゃないけど何かがいるのは事実よ。わたしの霊感がそれをキャッチしているもの。ただ、わたしたちがこのまま帰れば何もしないでしょうけど、一歩でも中に入れば・・・・」
「入ればどうなの?」
「多分、昨日以上に恐ろしいことか、まったく想像を絶する未曾有の出来事に遭遇する。と、そんな様な気がするの」
「マジなの?いやだな、そんなことは願い下げしたいわ」
「もしそれが事実なら、やはり君の呪文と言うか真言密教の経文で何とか入る前に防げないものかな?」
じっと車の中から見つめる優子の真剣な表情を見て、河上は少しでも危険を回避すべく藁にもすがる思いでそう言った。
「相手にどれ程のパワーがあるのかは計り知れないのですが、まず悪霊に間違いないと思います。自分たちのいる場所に人間が勝手に入り込む事を極端に彼らは嫌いますから」
「じゃあ、やはり調べを中止してこのまま帰ることにするかね?」
「いいえ、それじゃ何のためにここに来たのか分かりません。わたしの出来る限りの力を相手にぶつけてみますし、もしそれでもだめならタイミングを計ってこのホテルから脱出しましょう」
その力強い言葉に河上と真弓は顔を見合わせた。
二人の真剣な表情を見た優子は、姿勢を正し目を閉じて精神を集中し始めたが、やがて三分近く経過した頃にはさらに神経を集中して経文を口にした。
しかし何かがその時を待っていたのか、それまでの雨脚が一段と激しく変わると、車の外で白い閃光が山の上から地上目指して走り落ちた。すると間髪入れずに今度は天空から「ドドーン!」という大音響が響いて地面を揺るがせ、大地震のように下から突き上げる衝撃が起こると車を大きく左右に揺さぶった。
「雷だ!それもこの近くに落ちた感じだぞ」
「いやあぁぁ―――!わたし雷はダメなんです。怖いわ!」
「大丈夫だよ真弓さん、車の中は安全だから。それにすぐに通り過ぎて行くと思うよ」
河上がそんな慰めの言葉を掛けたが、次の瞬間にはそれを嘲笑うかのようなさらに強い音と振動を伴った閃光が、三人の乗る車目めがけて放たれた。
雨雲で暗くなった中での轟音は耐え難いほど凄まじかった。一瞬だが光と音の速さからこのホテル近くに落雷したのではないか?そう思わせる程の規模だと河上は感じていた。
だが優子だけは目を開じて一心不乱に経文を唱え続ける姿勢を崩すことはなかった。その迫力は見方によってはまさに神がかり的であり、見えない空間で悪と善の攻防が必死に繰り返されている。そんな熾烈なる戦いに思えたのである。
黒い雷雲の出現がさらなる雨を呼び込み、叩き付けるような雨滴が車のフロントガラスに激しく襲う。その自然のパワーはまさにこの世の地獄を髣髴させ、三人の魂を激しく揺さぶって動きを封じようとする、まさに悪の想念を感じさせるものであった。
それでも狭い車の中でいつ終わるともしれない優子の経文は延々と流れていた。河上と真弓はそんな真剣な優子の戦いをじっと見守っていたが、それから数分後にその声は突然止まった。
「なんとか悪霊の動きは封じました。でも恐らくこれはわたしだけの力ではないと思います。なんと言えばいいのか、手を差し伸べてくれる善霊がいるようでしたから」
「動きを封じた?それが本当だとすればすごいことだ。いや、別に優子さんの力を疑ったわけじゃないんだ。でも、君だけの力じゃないってそれは一体どういうことなのかね?手を差し伸べてくれたとはどういう意味かと思って」
「それが、わたしにも良く分らないのです。自分の守護神と諸大菩薩に必死に祈願し続けましたが、それ以外にもわたしの心の波動に別の霊を感じましたから不思議なんです」
「それって、もしかするとホテルの三階にいた霊かい?」
「わたしも初めはそう思いました、でもちょっと違うようなんです。その理由は着ている物があの時見た霊たちとは違っていたし、わたしへの波長がまるで別のもので、邪悪な想念は少しも感じませんでした」
「別のもの?何だか全く分からないことだらけだな」
河上は困惑顔で二人を交互に見つめた。
「思うに、その霊は浦部さんの話に出てくるここの女将ではないのかと思われます」
「そうか、あの話に出た霊か?じゃあ、やっぱり叔母なのかな?」
「確か運転手さんがタバコ云々って語った話でしたよね?」
真弓も訝しげな表情で河上に問い掛けた。
「いずれにしても、わたしの呪文だけではどうやっても太刀打ちできない強いパワーを備えた悪霊もいます。そういう場合は、より力のある善霊や守護力のパラーが必要なんです。その役割をわたしは日頃から信仰している菩薩にすがったし、それを知って女将と思われる霊が助力してくれたのではないか・・・。そう思ってます」
ホッとした表情で語る優子だった。
「でも優子、あなた雷って怖くないの?」
「それはわたしだって怖いわ。でも、悪霊封じの祈念を続けていたし、そっちの方に全神経とパワーを使っていたから雷まで気持が回らなかったの。それにしても良かったわ、これで何とか中に入って調べが出来そうだから」
その言葉に促されるように真弓と河上は軽く頷いた。
*
車からホテル玄関までは十メーター程の僅かな距離だった。エンジンを切るとまず河上が先に立ち、昨日と同じようにガラスのドアを開けようとしたが、ふと異変に気付いてその手を止めた。
「変だな?ドアが開いてるぞ・・・」
「えっ?でも、昨日来た時も確か鍵は掛かってなく、開いてましたよ」
真弓が怪訝な顔で言った。
「いや、それは分かっているが、帰る時にはきっちり隙間なく閉めたつもりだ。それはこの目でしっかり確認し、それから車に戻って三人で乗ったから間違いない。なのに今日はこの状態だからね」
そう言って河上はその隙間を指差した。
「本当だわ、確かにドアに隙間がある」
「そうだろ?昨日はしっかりと閉じていたのが、今日はこれだけ僅かだが隙間が出来ている。しかも、この部分に薄いけど人の手形みたいなものが残っているんだ」
「そう言えば表面に手の跡のようなものが付いてますね、ねぇ優子もちょっと見てみて!何か変よこのガラスドアは」
「河上さん、これって一体どういうことでしょうか?」
優子も不安げに呟いた。
「わたしにも分からん。人為的に開けられたと見ればそうも言えるが、別の見方として何かの現象で開いたとも考えられる」
「でもこんなにぶ厚いドアですから、自然にこれだけ開くのはちょっと考え難いですね。だとすれば、この手形のような跡からして、誰かわたしたち以外にこの建物に入ったと考えるのが普通で、その推理が正しいと思うのですけど」
「ああ、優子さんの言う通りかもしれないな。でも一体誰がという謎がそこに残るし、冷静に考えれば実に気味悪い話だよ」
「ちょっと待って下さい、いまはこんなひどい雨ですけど、よく見ると中の絨毯は濡れてないように思えます。その事実は仮に侵入者がいるとすれば、昨夜から今朝にかけて忍び込んだと可能性が高いと言えるんじゃないでしょうか」
「なるほどそうか、いいところを突くね真弓さん。確かに言われれば納得だよ。もしこの状態で入れば泥や水分が絨毯に染みとして残って当然だからな。ひょっとしてまだこの中にいるかもしれないから油断は出来ないぞ」
河上は警告の意味で二人に言ったが、とにかくこのままでは埒があかないからと、勇気を出して中に入り一番気になっている管理人室の調べを進めようと提案した。
「じゃあ行こうか、君たちも充分気を付けてな。誰か潜んでいるかもしれないから物音にも注意して」
「はい、ではまず初めに管理人室から調べることにします?」
「そうだね、あそこが一番怪しそうだからな」
優子を見て頷いた河上は、ドアを開いて中に入ると右手へ向かった。
静寂を保ったままの館内は外の雨音さえも届かず、ひょっとして三人以外の不審者がじっと息を潜めているんじゃないのかと、そんな恐怖に戦きながらも河上が先になって暗い通路を静かに進んだ。
「ここが調理場で隣が大浴場か、さらにこの隣が問題の・・・」
「シッー!何か音がしたわ」
最後部にいる優子が突然小さく叫んだ。
〔ボーン・・・ボーン・・・〕
微かに聞こえてきたその音が静かな館内に響き渡った。
「それってもしかして時計が時を刻む音じゃない?」
真弓が言った。
「そうだな、確かにそんな感じの音だ。よく映画などで見る大きな壁に掛けられた時計とかに違いない。きっとこのホテルのどこかにあるんだよ」
「でも、ひと気のない建物の中であんな音が聞こえるとすごく不気味ですし、さすがに怖いですね」
「ねぇ優子、あなたあの音を聞いて何か感じない?」
「ううん別に、ただの時刻を知らせる音としか思えないわ。でもちょっと待って、いま上の階から足音のようなものが聞こえなかった?」
「足音って、人のかい?」
「そうです、コツコツと靴で歩く音です。わたしにはそう聞こえましたけど」
「やめてよ、まだこんな時間なのに。もう幽霊が出たっていうの?わたし怖いわ」
「待って真弓、まだ霊と決まったわけじゃないわ。もしかしてさっき話した侵入者かも知れないし」
「そうだ、そうかもしれないから確かめる必要はあるな。だけど音のした場所が二階なのかそれとも三階なのか」
河上はその場に立ち止まり息を殺して全神経を集中した。するとその足音は次第に大きくなり三人の真上でピタッと停止した。
あかずの間
足音は数秒間止まったままだった。その事実は一気に緊張感を抱いた河上の鼓動を速めたが、音が止まった場所が二階なのかそれとも三階なのか?無機質なコンクリートの建物ゆえに余計な反響が災いし、高ぶる神経が冷静な判断の邪魔をした。
「二階だろうか?」
「そうですね、音の大きさからいえば二階に思えますが、意識して大きく踏み込めば三階でもはっきりここまで響くかもしれません」
「優子さん、どうやら人間の足音には違わないようだよ」
「でも、こんな廃墟化した建物に無断で入り込むなんて、一体誰なのでしょうか?」
「そうよ、すき好んでこんな気味悪いホテルに来る人なんていないと思うわ。でも本当に人間なのかしら」
「真弓、それってどういう意味?」
「だって、必ずしも人間とは限らないでしょ?わたしたちの誰一人が見て確認したわけじゃないし。もしかして霊現象ってこともありえるわ」
「あの音は霊の仕業とでも言うの?そうね、もしそうだとしたらこのままここにいてはまずいわ。霊と正面から対峙した時、それがすごい悪霊ならそのパワーに負けてしまうし、あっという間に命を奪われるリスクだってあるから。わたしの呪文だけでは到底太刀打ち出来ないわ、どうしよう・・・」
「優子さんとにかくここにいてはだめだ、奥まで進んでどこかに隠れよう」
河上は優子と真弓を見つめ、とにかく管理人室の前まで行くことにした。非常口からは時折閃光が見えたし、雷の音も時折鳴り響いてきたが、そんなことよりとにかくここから逃げ出すことを優先させ問題のドアの前に来て立ち止まった。そして懐中電灯で照らしながらそのドアを開けようとしたその瞬間、ノブが付いてない事実を知り河上は出しかけた手を止めた。
「えっ!なんだ、このドアにはノブがないぞ。これじゃあ中に入ることは無理だ。暗くて全然分からなかったな」
「本当だわ、どこにも取っ手がないし、ただのアルミ板が貼り付けてあるだけだもの」
真弓も驚きの顔でじっと見つめた。
「でも変よね、これじゃ故意に中に入れないようにしたとしか思えない。どうしてこんな無意味なドアがここにあるの?確かにこの中は部屋だと思うのに────。もしかしてここは開かずの間ということかもしれないわね」
凝視していた優子は突然そう叫んだ。
「ねぇ優子、開かずの間ってどういう意味なの?」
「言葉通りよ、いわゆる開かずの間なのよこの部屋は。何人たりもこの部屋に入ることかなわずって意味で、決してあけてはいけない部屋という意味なの。推測だけど恐らく過去に何かそれに値する事情があってこの部屋を封鎖したんだと思うわ」
「そんなことをしたのはもしかして叔父かな?少なくとも叔母が生きていた時はこのホテルは営業していたんだし、ここだけ使用出来ない部屋にするなんてことはまず有り得ないだろう」
「色々な事実が分かって来ると、やっぱりここには恐ろしい秘密が隠されている予感がします。だから初めの計画通り絶対に調べた方がいいのでしょうけど、たださっきも言いましたが、人の怨念のような波長がどうしても気になるのです」
「河上さんも優子も簡単に物事を決め付けるけど、正直怖くないの?この部屋の中から何が飛び出すか分からないのに、わたしはいやよ」
怯えた表情でそう訴える真弓だった。だがここまで不可解な謎が出始めた以上、その事実に目を背けて看過することは出来ず、少なくとも中に入って調べるだけの価値はあるはずだ。そう河上は意思を固めて再びドアを見つめた。
「あれ?さっきの足音が聞こえなくなったみたい」
「本当ね、どうしたのかしら?」
そんな時、真弓と優子が足音の話を口にした。
二人の言葉を耳にした河上は、このチャンスを逃さず部屋に入ろうとしたが、そうするにはやはりそれなりの道具が必要だった。
鍵穴はもちろんドアを開けるためのノブがないのだ。それでも内側からロックされているのは間違いないと思えたし、ドアの隙間にバールを差し込んでこじ開けるしか方法はないと考えた。
「このままじゃどうしようもない。何か無理にでもこじ開ける道具がいるな・・・」
「道具ですか?」
「ああ・・・。そうだ、車の中に工具箱があったな、何かそこから探し出そう」
言い終えると同時に河上はフロントへと戻り始めたが、その時、「アッ!」と、小さく叫んだ優子は突然その場に立ち止まった。
*
「優子さんどうした?」
「いま、わたし見ました。髪をきりっと後ろに束ね、華やかな着物姿の女性がわたしの前を通ってこの通路を奥へと歩いて行ったんです。その顔もしっかりと見ましたから」
「着物姿?」
「優子はまた霊を見たのね、それでその女の霊はどこに行ったの?」
「それが、あの管理人室に煙のようにスーッと入ったし、それきり出て来ないわ」
「もういやだぁ~、全身に寒気がして来たわ」
優子の脇に佇んだ真弓はそう言って顔を強張らせた。
「あの部屋に入ったということは、やはり何か曰く因縁があると思っていいだろうな」
「あの楚々と落ち着いた態度は、もしかしてこのホテルの女将で、河上さんの叔母さんじゃないかしら?なんだか凄く寂しそうな目でわたしを見たのが印象的でした」
「叔母だって?それが本当なら霊になってわたしの前に現れたということか。よし、とにかく早く道具を取ってきてあのドアを開けよう」
河上自身が叔母を見たわけではなかったが、優子の霊感に対してもはや疑いを抱くことはなかった。さらにその事実を聞いた時、ふと叔母の生前の姿が脳裡を過ぎり、憤死した無念さを思い出しながら胸を熱くして懐かしんだ。
「とにかく急ごう、時間がないからね」
気を取り直して車に戻り、トランクを開けて工具を探したが使用出来そうな道具の発見には至らなかった。
「だめだな、何もないよこの車は・・・・」
河上は落胆した表情で呟いた。
「だって、車には普通色んな工具があるはずじゃないんですか?」
「ああ、確かに真弓さんの言う通りだよ、普通はあって然るべきだろうけど、この車にはそれがないんだ。多分三平は普段使用しないと考えて積んでないのかもしれない。こうなったらホテルの中でそれを見つけるしか方法はないな」
「何かあてがあるのですか?」
優子が心配そうに問いかけた。
「二階だったっけ、確か左手に納戸の様な部屋があったよな。あの中に何かバールとか鉄の棒はないだろうか?」
「そうですね、早速探して見ましょうか?」
「うまく見つかって欲しいわ、そして早くあの部屋を調べてすっきりしたいし、全ての謎を解いて気持ち良く東京に帰りたいもの。ねぇ優子もそう思うでしょ?」
「ええそうね、それが一番だわ。今後の生活のためにも」
互いに頷き合った三人は再び建物へ戻って二階へ向かった。だが階段を一段ずつ登りながらも先ほどの足音が蘇り、見えない恐怖に歩くペースが遅々として捗らなかった。
「ここだな、この部屋に何か道具があればいいんだが」
「今度はさっきのような足音は聞こえませんね。でも、マジで静かなホテルの中って意外に怖いものですし、一人では絶対こんな所にいられないと思います」
「いまふと思ったのですけど、あの足音ってもしかして生きてる人間のものだとは言い切れませんか?」
真弓に続き優子が言った。
「うん、十分考えられることだ。仮にそれが事実だとすれば、やはり我々以外の侵入者がこの中にいたということになる。いや、いま現在もじっと息を潜めて隠れている可能性もあるだろうな。しかし、それなら何の為にこんな廃業したホテルに入ったのかが疑問だ。まさか泥棒でもないだろうに」
「そうですね、確かにここまで見て来てもこれといって取られるような物はないみたいですから・・・」
「もし本当に人間だとしたら、わたし達をつけて来たのかしら」
「真弓、それってどういう意味?」
「べつに大した根拠なんてないわ、ただふとそう思っただけなの」
「いずれにしても余り気分のいいものじゃない。とにかく早く道具を見つけてあの部屋に行くことだ」
言いながら河上は納戸らしき部屋の前に立ち色褪せた引き戸に手を掛けた。そしてそのままゆっくり右へ引くと古ぼけた木製の戸はすんなりと開き、六畳程の広さの和室が顔を出したが、中にはホテルの浴衣や座布団の類、さらにカビが生えて湿気を含んだお客用の蒲団などが積んであった。
「ここはホテルの備品室だな、あらゆる物がしまってある。といってもすぐ使用出来る物はほとんどないみたいだが」
「河上さん、早く道具を見つけてください!」
「ああそうだった、それが先だ。とにかく探してみよう」
優子に促された河上は周囲を見回した。雑然とした衣類や蒲団が圧倒的に多かったが、ふと見上げた棚に視線を止めると、積み上げられていた数個のダンボール箱の一つを手に取って床に降ろした。
「なんだ、いやに軽いと思ったら灰皿とトイレペーパーか。こんな物じゃ何の役に立たないし、困ったな」
「残りの箱もみんなこんな物なのでしょうか」
「多分ね、大体道具を入れる箱じゃないからな」
「河上さん、あそこにも何か色の付いた箱がありますけど」
そう言って真弓が指差した先にあったのは、錆び付いた鉄製の二段式工具箱だった。近寄って蓋を開けると求めていたバールこそなかったが、かなり太くて長いマイナスドライバーが一本あるのが分かった。
「うん、これなら何とかなりそうだ。ロック部分をこじって壊せるかもしれないな、よし早速管理人室へ戻ろうか」
河上は右手でドライバーを握りしめ、そのまま急くようにして階段を降り始めた。
残された日記
フロントまで来たとき、河上はふと立ち止まって外を見た。あれほどの雨がいつの間にかやみ、晴れ間こそ見えなかったが天候が回復の兆しを見せている事実に驚きを禁じ得なかった。
「さて、ここからが正念場だ。何としてもあそこのドアを開けるしかないが、果たしてその先には何が待っているか?」
「河上さん脅かさないでください。でも、あの見るからに頑丈そうなドアをそんな物一本で壊せるのですか?」
不安そうな顔で優子が訊ねた。
「まあ、ドアなんて鍵がかかってなければただの板だからね。例えそれが鉄でもアルミでも、特別手がかかるというほどのものじゃないと思う。だから枠の部分と穴に差し込まれている出っ張りの所を外せばいいだけのことだ。とにかくやってみよう」
「でも河上さん、壊したら元に戻さなくてもいんですか?」
「うん、そのことならわたしが後から叔父に説明しておくよ。何かなければそれでいいだろうし、例えあったとしても叔父は霊なんて信じない人だからね。まあ、適当な理由をつけて鍵を破損したことにするから、多分それでいいと思う」
「そうですか・・・」
真弓の納得した顔を見て、河上は通路を進み問題のドアの前に立った。
まずマイナスドライバーの先端をドアの隙間に差し込んだ。そしてロックされている凸部分を押し戻すことにしたが、ことはそう容易くは運ばなかった。その理由は差し込む隙間も狭く、そのメインロックだけでなく別の鍵が内側から取り付けられているのが分かったからである。
「ん?内側からも鍵をかけてあるぞ。それ自体は簡単なスライド式みたいだからすぐ解除できそうだが、考えると意外と頑丈な方法でこの部屋を封鎖しているな。ここを完璧に閉め切ったってことは、よっぽどの理由ががあると思えるよ」
「内側の鍵って、簡単に解除出来るんですか?」
優子が訊いた。
「それはやってみないと何とも言えん。ただ、内側は上と下とで二箇所も鍵が付けられている状態だ。まあメイン以外の内鍵は恐らく後から用心の為に取り付けたんだろうが、とにかくまずはこの本体部分から外さねばいかんからな」
「じゃあ、中の鍵は簡単に外せるんですね?」
「たぶんね、いま言ったように中側の鍵は後から付けたものだろう。それ自体は左右にスライドさせるかんぬき式みたいだから、初めにこれを壊せば、残る二つはすぐに外せると思うよ」
後ろに位置する真弓を振り返り、河上はそう答えて自信ありげに笑みを浮かべた。
*
作業に入ってからあっと言う間に十分が経過した。無理にこじられたドアの縁は飴の様にめくれたが、その結果差し込まれている部分が露になっていた。
「よし、これだけになれば後はここを押し込むだけだ」
壁側に喰い込まれてい凸部分をドライバーで押さえ、そのまま一気にドア側へと押し戻すと、カチッという音で収まった。
「まずはメインロックの解除に成功か」
河上はホッとした表情で手を緩めたし、残る二つは簡単に外れることで、問題の『開かずの間』がいよいよ何年かぶりに日の目を見ることになるだろうと期待した。さらにめくれた部分から内側に付いているドアノブを確認すると、表側のノブだけが故意に外されている現実を再認識し、何人もこの部屋に入られては困る事由があってのことだろうと推察して二人を見た。
「どうやら、何かいわくありそうな部屋のようだね」
「内側だけドアノブが付いているみたいですね。なぜ外だけ外してあるのかしら?」
優子も隙間から中を覗き込みそんなことを言った。
その事実は通路側からの侵入を完全に阻止しようとの意図が読み取れ、さらに注意深く調べた結果、取り外した部分をアルミ板で完璧に塞いだ事実まで分かったのだ。
「やっぱりこのドアは表のノブだけを外し、裏の部分は残したままなんですね。ということはどうあっても通路側からは侵入出来ないようにした。そう考えていいでしょうか?」
「たぶんね。実はわたしも優子さんと同じことを考えていたんだ。とにかく裏からの出入りは自由だが表側からは完全に入れなくしておく。それがこういう細工をした狙いなんだろう。しかしその理由がまだ分からない」
「考えられるのはこの部屋を半永久的に開かずの間にしておく。それがこんな面倒なことをし、中に入らなくさせる最大の理由でしょうね」
「間違いないと思うね。そう言えば叔父はこの部屋に随分拘っていたし、旅行に行く前からホテルには近寄らないようにと言われていたんだ。だから余計にこの中が気になる。まあ、それより今度の怪奇現象の謎を解くヒントがこの中から発見出来ればいいんだが」
「それにしてもその目的とやらを知りたいわ・・・」
誰に訊くともない真弓の独り言だった。
「わたしも別荘の裏庭で身も凍る恐怖体験をしたけど、あれとは関係ないのだろうか?」
「さあ、直接は関係ないと思いますが、正直なんとも言えません」
「そうか、河上さんも恐怖体験したんでしたっけ」
「そうだよ、あんなに不気味で怖い思いは生まれてこのかた初めてだったからな」
半分程開いたドアの前で、河上は本音を二人に告げた。
「じゃあ、そろそろ入って見ようか」
内側の鍵を外し奥へとドアを開くと、暗くて窓もないこの部屋からはムッとする空気が流れ出たし、カビと熱気の入り混じった異臭に思わず顔をしかめる河上だった。
「広さは六畳程で和室だから、どうもここは仲居さんが使用していた部屋みたいだな。しかし窓一つないなんていかにも不衛生だし、これじゃ牢獄のようで気味悪いな」
「そうですね、こんな窓も換気設備もない部屋を使わせていたのが事実なら、あまりにも待遇が悪すぎます。とはいえ、ここなら三人位は部屋としては共有出来そうですし、隅には古い整理タンスも置いてありますから、仲居さんたちが使用していたと考えて間違いないと思いますね」
「あそこに出入り口があるみたい」
真弓がそう言って右手にある小さな引き戸を指差した。それはタンスの陰に隠れていたが木製の戸がはまっており、裏口として使用していたのは間違いないと思われた。
部屋に充満する異臭に耐えながらも押し入れの中の蒲団に手を入れ、さらにタンスの抽斗も一つずつ開けて調べを進めたが、納得できる物の発見には至らなかった。
「何もないのか・・・。ということはやはりここは無関係だったのかもしれないな」
「そうですね、調べようにも古いタンスや蒲団だけでは何も出て来ないでしょうし。でもそれならどうしてドアにあれ程頑丈な細工を施したのか、その辺がちょっと理解に苦しみますよね」
「そうよ、優子の言う通り何か絶対あると思うわ。だって必要以上に鍵を付けてあることが不自然そのものでしょう?ねえ優子、ここに入ってからは何も感じないの?」
「そうね、今はなにも感じ・・・」と言いかけた時、優子は突然目を閉じると両手で頭を抑え、その場にしゃがみ込んでしまった。
「どうしたの優子?大丈夫?」
「優子さんは何か異変を感じたのかもしれないな。暫く様子を見た方がいいだろう」
両手でこめかみを押さえ、長い髪を垂らしたままじっとうずくまる優子だったが、一分ほどするとゆっくり顔を上げて立ち上がった。
「大丈夫かい?何が起きたのかね」
「突然わたしの心に霊が語りかけて来たんです。かってない程の波長だから、思わず立っていられずしゃがんでしまったのですけど、すごく強くて恨みのこもった怨念でした。恐らくこの部屋に消えた女将の霊じゃないかと思うのです」
「女将の霊?だとすればやはり叔母なのか・・・。それで君に何て言ったのかね?」
「整理タンスの一番下の引き出しを抜きなさい、そこに隠された日記がある。そうはっきり言いました」
「日記?それは誰の物なのかね?」
「さあ~、そこまでは言いませんでした。ただとにかくそれを読んで欲しいとわたしに伝えると、悲しい眼をしたまま静かに消えたのです」
いつになく青ざめた顔で優子は言った。
(無念の死を遂げた叔母が、彼女の霊媒体質を利用して我々にメッセージを送ったのかも知れない。しかし果たしてそんな事が現実に可能なのだろうか?)
河上は巷間の霊能者がそういうことを売り物にする話は知っていた。しかし彼女はまるっきりの素人であり、口にした話を頭から信じていいものか迷い悩んだ。それでも叔母が何かを言いたくて現われたとすれば、一抹の不安と疑惑は覚えたものの、とにかく言われた通りにするべきじゃないのか。そう素直に考え直してタンスに近寄った。
*
時計の針は正午に迫っていた。空腹感など忘れ去り、河上は言われた通りタンスから最下部を引き出したが、中にはなにもなかった。だが抽斗を出し切ったとき、畳の上に現れたのは一冊の分厚い本で、それは薄手のビニールに包まれていたのである。
「本か、一体何の本なんだ?いや待てよ、本じゃないなこれは、日記だよ!」
「本当です、確かにこれは日記帳になってます。装丁が立派だからてっきり本かと思いましたが、間違いないですね」
優子が頷きながら言った。
「河上さん、早速ここで読みましょうよ。何が書かれているかすごく興味あるし、きっとこの日記を読めばでホテルの秘密が分かると思います」
「そうね、真弓の言う通りだわ。わたしにこれを教えたということは、ここに書かれている内容を読めという意味でしょうし、それによって何か分かる事実が出てくる。きっとそうだと思います」
「そうか、やはり叔母は我々に教えたいことがあったのかもしれないな。だから、これを読んでこのホテルに隠された秘密を知って欲しい。そう思ったんだろう」
ふと生前のはつらつと仕事する叔母の姿が目に浮かび、特徴あるその人なつこい笑顔が記憶に蘇ったが、日記をパラパラとめくり続け、最後のページを見た時にはこの持ち主が叔母でないことに河上は気が付いた。
「ちょっと待てよ、これを書いたのは叔母じゃないな。ここにこの日記の持ち主らしき名前が書かれているし、多分この人が書き綴ったものじゃないのかな?」
「本当ですか?じゃあ、これを書いた人は誰なのかしら」
真弓がそう言って日記を手にした時、「あら、野口雪江って書かれてます」と聞き慣れない女の名前を口にした。
「野口だって?うーん確かにそう読めるな。まあ、名前からして女の人に間違いないだろうが」
「あっ、わたしこの名前に覚えがあるわ」
そう言って改めて日記をじっと見入る真弓だった。
「覚えがあるって一体どういうことだね?」
「ほら、昨日このホテルの事務所を調べた時、確かタイムカードを発見しましたよね。そのとき雪江と言う文字を微かに読んだはずです」
「ああ思い出したよ、事務所内のタイムレコーダーの脇にあったカード入れ、そこで一枚のカードを手にして三人で見たことだろ?」
「そうか、真弓が確か江戸の江とか言ったし、雪という字も読めて雪江と分かったあのカードのことね」
優子も納得して頷いた。
「野口雪江という仲居さんがこれを書き綴ったのか。しかし、一体どうしてあんな場所に隠してあったのかそれが不思議だが」
「恐らく意識的に普段から隠しておいたのだと思います。この部屋では一人一人のプライバシーが守れないようですからね」
「そうだな、せめて個人用のロッカーでもあればいいのだろうが、こんな部屋の状態じゃ無理だったかも」
日記こそ手に入れたものの、やはりこの薄暗い部屋で読むには抵抗があった。そこで河上は車の中で読もうと二人に提案し、一旦部屋を出てホテルの玄関へ戻った。
表に出ると既に雨は止み、西の空が明るく変ったのを知りいくらか心が和んだが、改めて今後の行動をどうするか?河上は優子と真弓を見て相談を持ちかけた。
「さて、我々のこれからの行動だけど、君たちはどうしたいのかな?何か考えがあれば言って欲しいが」
「どうしたいって・・・、じゃあ、これで打ち切りなんですか?」
「いや、別にそういう意味じゃないが、この日記が見つかったことでこれ以上何をどう調べたらいいか、正直わたしも分からないからね」
「そうですね、女将と思える霊があの部屋に消えた事実は、この隠された日記を我々に発見させ読ませる為だったと思えます。ですからとりあえず一応は目的を達したと言えるでしょうし、これ以上の調べは必要ないかもしれません」
「じゃあ、これで全て解決ってことになるの?」
「おそらくそうなると思うの。別荘やここに着いてからの不思議な行動は全て女将の誘導だと思うし、わたしの霊媒体質を利用してこの日記を発見させることが目的だったんじゃないかしら。だからこれまでの怪奇な出来事は、全てそれに繋がる謎の解明をわたし達に託したのかもしれません。そして日記を読めば女将さんの意図が分かるはずです」
「でも、その叔母の意図だが一体どんな思惑があるというのかな?わたしにはそれがいまいち良く分からんが」
「ですから、それはこの日記に隠されていると思うのです。その意味でも今後の行動を決めるのはこれを読んでからにしませんか?」
「しかし、叔父はどうしてこの部屋を開かずの間にしたのだろうか?」
「それはおそらく三人が共同で使用する仲居さんの部屋を、他人に見られたくないと考えたのかもしれませんね」
「と言うと?」
「さあ、理由はわたしにも分からないのですけど、何かしらその三人と関わりがあり、それを他人に知られたくなかった。または、日記そのものがあった事実は知らないと思いますけど、あのような狭くて暗い部屋を使用人に与えていた事実を、叔父さん自身が負い目として日ごろから気にしていた?そう思えば納得出来ると思うのです」
「そうか、良心の呵責つてやつか。確かに福利厚生の面からもあの部屋はちょっとひどいからな。使用人だって不満の毎日だったろう」
「わたしもあの部屋で三人が毎日過ごしたなんて、考えただけでも可哀そうに思えます」
「だが、叔母さんは何も言わなかったのかな?いくらも叔父さんに対して待遇の改善を主張出来たと思うのに・・・」
「そうですよね。まあその辺のことは夫婦の問題ですし、こればかりは他人が口を挟むことは出来ないでしょうから」
筋の通った優子の推論を聞いた河上は、異論を挟む気もなく車に入ってじっくり日記を読み、それから次の行動へ移ろうとしたが、その時、「あれ、あの煙は何なの?」と、真弓が訝しげにホテルの後ろを指差した。
怨念
その声に河上と優子は後ろを振り返った。そこに見たのは確かに上空に向かって立ち上がる煙であり、建物の裏から出ているのは歴然であった。
まるで誰かが先回りし、隠れながら自分たちの動きを始監視し続けている。そんな不気味な想像を抱くと河上は新たに発生した見えない恐怖に戦いた。
「やはりここには誰かが潜んでいたのかもしれないな。よしこうなったら腹を決めて行ってみるか」
「大丈夫ですか?もし変な人だったらどうします、ちょっと怖い感じですけど・・・」
「でも、逆に誰もいなかったらそっちの方がもっと怖いです」
真弓の放った言葉は別の真理を突いており、なお一層の戦慄を覚える三人だった。
「だけど現に煙があれだけ出ているし、これは見過ごすわけにはいかんだろう。こんなホテルでも火事になったら大変だからな、とにかく様子だけでも見なければ」
二人の返事待つまでもなく河上は意を決すると歩き出し、ゆっくりした歩調で建物の左手から裏へと回った。だが、次第に近づくにつれて何とも言えない異臭を感じ、思わず顔をしかめて咄嗟に手で鼻を塞いだ。
(なんだこの臭いは、すごく嫌な感じだぞ。普段あまり嗅がない類のものだし、一体どんな奴が何を燃しているのだろうか?)
不審に思いつつ裏側に回りこんだその時、目に入った光景に河上はあ然となってその場に立ち竦んだ。
「叔父さん・・・、どうしてここに?」
数メーター先には小型の焼却炉があり、そこに背を向けて佇む一人の男がいた。そしてその河上の声に振り向いた初老の男は、間違いなく叔父の松江川健三であった。
「おおっ、なんだ英昭か。突然後ろから声を掛けられてびっくりしたよ。わしのことよりお前こそホテルで何をしてるんだね?」
「わたしですか、いえ別に大したことじゃないんですよ。なんだかちょっとここが懐かしく思えたし、帰り際にふらっと立ち寄ってみただけですから。でも、これからすぐに帰路に着くつもりなんです」
「そうか、いやわしも暫くここに来てなかったからな、ふと思いついて裏庭でも掃除しようかとわざわざやって来たんだ。それも昨夜の内に車で来たんだが、この歳でここまでの運転はやっぱり結構疲れるもんだな。何しろ家からはかなりの距離があるし、目も最近は極端に悪くなって来たからなあ、あははは」
「そうでしたか、それでゴミを燃していたんですね。でも、何かゴミにしては変な臭いですね」
「ああこの臭いか、これは長いこと地面に堆積した色んな物を一度に燃したから、仕方なくこんな臭いになるんだろう。さてと、わしもぼちぼち終わりにせねばならんが・・・」
その時、河上は自分の背後に優子と真弓が歩み寄ったのを知り、二人を叔父に紹介することにした。
「叔父さん、この人たちが箱根で知り合った女性で、彼女は西島優子さん、そしてもう一人の方は石田真弓さんと言います。二人とも外資系一流企業のOLなんですよ」
「はじめまして、西島です」
「石田真弓と言います」
「ああどうも、英昭の叔父で松江川健三と言います。どうです、旅は楽しかったかな?」
「はい、河上さんのお陰で充実した旅行になりました」
「そうか、それは良かった」
真弓の言葉に笑みを浮かべた健三は、そのままクルッと背中を向けると焼却炉から離れて立ち去ろうとした。それを見た河上は別れの言葉を掛けねばと足を踏み出した瞬間、後ろにいた優子が素早く近寄って耳元で囁いた。
「河上さん、ちょっといいですか?」
「うん、なに?」
「実は、松江川さんの横に女将の霊が来ているんです」
「えっ?」
それを聞いた河上は一瞬驚いて優子を見返した。だが、彼女の目はじっとある一点に向けられており、その視線の先にはゆっくりと歩く叔父の背中があった。
「女将の霊って、叔母が叔父のところにいるってことなのか?」
「ええそうです。凄く悲しそうな眼でじっと叔父さんの後に続いてます。ただ・・・」
「ただ、ただ何だね?」
「そこにいるのは女将の霊だけじゃなく、ホテルの中で見た三人の女の霊もいるのです。でも、その人たちの叔父さんを見る目は女将とは正反対で、数倍も強い恨みと憎悪が感じられるんです。それが無気味で怖いくらいですから、何かいわくがありそうで・・・」
「・・・・・」
「どうしてなのか、わたしにはその理由は全く分からないのですけど、そこには絶対的な理由があるはずです、でなければあんな憎しみを込めた目で人間を見ないでしょうし、ここに姿を現すなんてことは霊的に見た場合極めて稀なんですから」
「稀?それはどういうことなのかね」
「霊は常にわたしたちと一緒の世界にいます。それはコインの表裏と同じで、目には見えなくてもこの世に厳然と存在しているのです。でも大抵の霊は現世への執着を捨てていつかは霊界へ帰るのですけど、何かの理由でそれが出来ないとか、又はしたくないとの念を抱く霊はいつまでもこの世に留まるのです」
「なるほど、だがそれがどうして稀になるのかな?」
「そういう強い怨念を持った霊は、その因を作った対象に付きまとい、いつかは自分の恨みや憎しみを晴らそうとします。それ自体があの世側から見れば稀なことで、普通は時の経過と共に忘れるか諦めるなりして、最後は人間への怨念を捨ててしまうのです。でもこうして姿を現して恨みを晴らさんとすること自体が霊にとっては、すごいパワーを必要としますから、彼女たちの根底には計り知れない健三さんへの憎悪があると思います。生きている人間には計り知れない恐怖があの方に起こる予感は否めません」
聞いた河上は改めて叔父を見たが、当然霊たちが抱く憎しみの原因は何一つ分からずじまいだった。ただ優子の言を信じるならば、心中に生じた複雑な思いはあながち否定する気になれず、叔母と使用人である三人の霊たちの心情は理解出来たのである。
*
霊感のある彼女だからこそ見えた事実なのだろう・・・。そう思いながらも、河上は返す言葉もなく黙したまま叔父の背中を見つめだけであった。
「そうだ英昭、わしはまだここですることがあるが、お前はこの人たちを乗せてこれから帰るんだろ?でも、良かったらどこかでお茶でも飲むか?そのくらいの時間的余裕はあるだろうし、もうすぐ終わりだから待っていなさい、わしが馴染みとしているいい店に案内するよ。ははは」
叔父は突然立ち止まると振り返りざまそう言って笑った。
「ええ、それは有り難いのですけど彼女たちは東京なんです。だから今から出ないと遅くなるし、わたしも陸回りで帰る予定ですから、そろそろ失礼しますよ」
「そうか、それは残念だな。わしも夕方までにはここを出るつもりだが。また近い内に顔見せに行くからと皆によろしく言っといてくれ」
「分かりました、じゃあこれで。ああそうだ、今回はわがまま言って大切な別荘を使わせてもらい、本当にすいませんでした。お陰で楽しい仲間内の旅行が出来ましたから、ありがとうございます」
「それは良かったな。どうせ普段は使ってないし、お前が使うことで静子もあの世で喜んでいるだろう」
健三は言い終えてから、ふっと悲しそうな顔になり片手で両方の瞼を押さえた。
「ええそうですね、叔母さんはあの別荘が大層お気に入りでしたからね。お陰でわたしの仲間も快適に過ごせたと本当に喜んでました」
「仲間?だけど仲間といっても、ここには誰一人お前の男仲間はいないじゃないか、一体どうしたんだね?」
「彼等はそれぞれ用事が出来て一足先に帰ったんですよ」
「そうなのか・・・」
「それじゃあ叔父さん、これで失礼します。またいずれお会いしましょう。お元気で」
河上はそれだけ言うと優子と真弓にそっと目配せしてそこから離れた。だが、叔母の霊が叔父の傍らにいるという指摘に対しどう答えて良いかも分からず、戸惑いながらも車に戻ろうと歩きつづけたが、それを察した優子が再び河上に話し掛けて来た。
「河上さん、叔母さんの霊は何か健三さんに言いたそうな感じでした。でも何を訴えたかったのか分かりますか?」
「さあ、そんなことまでわたしには分からないな。元々仲の良い夫婦だし、多分言い残した事でもあったのかもしれないが・・・」
「そうですね、女将の霊は穏やかに見えましたけど、どこか寂しそうでした。それに霊の訴えは人間にはなかなか伝わりません。ですから霊媒のような人が必要なんです。ただ問題なのは別の仲居さんらしき霊で、恨みの想念が益々増して行くように思えます」
「と言うと?」
「健三さんを見る目は三体が憎悪の塊でしたからね。明らかに叔母さんとは違うもので、強い怨念を長く引きずってますから簡単には離れないと思えるのです」
優子はそう言って憂慮に満ちた表情をした。
「そうか、怨念か。だがそこには何の恨みがあるって言うんだろう?」
「それと健三さんが燃していたのは何でしょうね?すごく嫌な臭いでしたし、普段は余り嗅がないものに感じたのですが」
「そうね、それはわたしも思ったわ。なんて言うか肉の焦げたような、それでいてムカッとくる感じだった。ちょっと表現のしようもない臭いだったことは確かね」
同調した真弓の言葉だった。
「うん、まあわたしがあそこに行った時はもう大分煙も出なくなっていたから、あの時点で完全に燃え尽きたのだろうけど、確かに何とも言えない臭いだとは思ったよ。でも叔父に言わせれば色々そこいらに堆積した物を燃したからとは言っていたけどね」
「しつこいようですけど、わたしは三体の霊がどうも気になります。あんな目付きで健三さんを凝視するからには、やはり何かそれなりのはっきりした理由があると思うのです。河上さんはその理由を知りませんか?」
「いや、それは全然わたしの関知するところじゃないからね。仮にあるとしてもそれはホテル内での話だろうから、わたしや母は蚊帳の外ということになる」
優子の鋭い指摘に応えはしたが、
(事情など一切分からないことではあるが、何か叔母の事故死と仲居さんは関係があるのではないのか?それが結果的に叔父へ繋がるのかもしれないし、これまでの怪奇現象はその謎の解明を我々に託す為に霊たち、あるいはが叔母が起こした!?そう考えるのはちょっと飛躍し過ぎだろうか───)
河上は車に近寄りながらそんなことを思い浮かべた。
「とにかくあの日記を読もうじゃないか。それだけの価値はあると思うし、何かここまでの一連の出来事に繋がる記述が書き残されているかもしれん、それから結論を導けばいいだろう」
「そうですね、これで終わっては何の為にこのホテルを調べたか分かりませんもの」
「優子の言う通りよ、中途半端な終わりは東京に帰ってからも又恐怖に怯える毎日が繰り返されるわ。だから絶対最後まで解決しなければ意味がないのよ」
そんな二人の言葉に勇気づけられ、車のドアを開けて中に乗り込んだ河上は、グローブボックスを開錠してその日記を取り出した。
書き出しは今から約二年前程前の夏頃であり、日付を見た時「おやっ?」と思った。それは奇しくも叔母が事故死した十八日から記されており、パラパラとめくっていくと、日記が終わったのは半年後の二月の初めとなっていたのである。
(これは間違いなく雪江とかいう仲居さんが書いた物だな。叔母が亡くなった日が書き始めとは偶然にしては出来すぎの感もあるけど、まあとにかく読んでみよう)
優子と真弓を前にして、河上はゆっくりと初めのページを開いた。
八月十八日
やっと忙しい一日が終わり自分の時間になった。
今日はとんでもなく信じられない衝撃がこのホテルを襲った。社長初め私たち仲居連中や板場さん、それに他の数名の従業員もただただ驚愕しておろおろと戸惑うだけだった。
それは女将さんがこの先の岬ケ原の崖から車ごと転落し、その結果惨くも焼死した事なのだ。
高さ二十メーターもある崖のガードレールを突き破って落ち、その衝撃で火災が発生しそのまま帰らぬ人になったらしい。それを聞いた私はここに働く者として深い悲しみでいっぱいになる。ご冥福を心から祈りたい。
八月二十一日
女将さんの葬儀が終わった。全従業員はもちろんのこと、葬儀に参列した人の数は多分千人近くなったのではと思う。これもすべて女将さんの人柄だろう。ただちょっと気になることが今日はあった。それは仲居のSさんから折り入って話があると言われ、葬儀が終わって彼女の家に行ったが、そこで聞いた話はまさに驚天動地ものだった。だがまだそれは憶測の段階だし、迂闊なことで口外は絶対できない事なのだ。
河上はここまで読み、「なんだろうな、Sさんから聞いた話って?」と、二人を交互に見て訊いた。
「さあ~それは・・・」
「よし、もう少し読んでみようか」
そう言って再び日記を読み始めたが、どういうわけかその年の暮れまでに、Sさんから聞いたという内容の記述は何一つ書かれておらず途切れたままであった。
腑に落ちないまま翌年のページに進んだが、暫く読み続けて意外な名詞を目にした河上は、思わず「ええっ!」と声を出し、読むのを止めた。
「これは・・・!」
「どうしたのですか?」
優子が怪訝な顔で私を見つめた。
「叔父がここに出て来たんだ」
「叔父さんが?でもホテルの社長ですし、別におかしいとは思えませんけど」
「ああ、ちょっと待ってよ!」
河上は優子にそう言うと再び黙って先を読むことにした。
「これは大変だよ、もしこの内容が事実だとすれば、我々はとんでもない事件に遭遇した事になる」
「どうしたんです河上さん、詳しく聞かせてください!」
後ろから真弓がそう急かし、優子も心配そうな顔で河上を見つめた。
二月十日
今夜、約束の場所でSさんから聞いた話を思い切って社長に話してみた。もちろん私一人だったし、もし社長が承諾してくれればその金を持ってこのホテルを去る決意で臨んだのだ。
社長は予想した通り初めは頑強に否定した。でも、私があの夜社長のクルマを見たと警察に言うとかまをかけたら、あっさりと事実を認めた。
松江川社長には数年前から若い愛人がいるらしく、隣町のアパートに囲って月々お金をあげていたらしい。でも女将さんを崖から車ごと落としたのはどうもそれだけの理由じゃないみたい。詳しくは語らなかったけど、どうも保険金が目当てらしい事をほのめかしたから、多分その金で愛人と逃避行でもする気だったのかも知れない。まあ、確かに緑風館には多額の借入金があるとは女将さんから聞いていたけど、事実なら恐ろしい事だ。
そう言えばいつだか慰安旅行の時、女将さんが冗談めいて宴席で皆に言ったことがあった。私には数億の生命保険が掛けられているって・・・。その時は冗談半分に聞いたし他人事と思っていたけど、まさかこんな結果を迎えるとは驚きだった。
恐ろしいものねお金の魔力って。でも私は口止め料をたっぷりもらえばそれでいいんだし、こんなホテルとは早々におさらばして好きな人生を歩むわ。
それにしても偶然Sさんが車で通りかかり、一旦は通過したものの見慣れた社長の車を脇道に見つけたことで、不審に思いその先で車から降りると隠れながら様子を見たとか言ってた。そしたらカーブの所にもう一台ライトを消した車が止まっており、それが突然エンジンをかけて一旦バックし、今度は凄い勢いで崖に向かって走り出したそうだ。そしてあわやガードーレーにぶつかる寸前で男が咄嗟に飛び降りたが、それが社長だと知りSさんも腰を抜かすほど驚いたと・・・。
事実ならあの社長も大したものね、自分の妻を保険金目当てで殺すなんて。でも、私はお金さえ取れればいいの、だって仲居の仕事なんてそう長くも出来ないし、同じ人間に生まれたら少しはあぶく銭でも手にして、残りの人生はもっと楽く送りたいもの。まあ情報源のSさんには悪いけど、私が抜け駆けしてそれなりのお金を社長から頂くわ。それが本音かな?うふふ、タナボタってわけね!
河上は読み終えた時、一気に全身の力が抜ける思いに襲われた。まさかあの叔父が愛する叔母を殺したなんて、俄かには信じられなかったのである。
「ここで日記は終わっているわ。じゃあこの後になってこれを書いた雪江さんは殺されたかもしれないし、Sさんも同じ目に遭っている可能性は高いと思えますね」
「あの叔父が殺人とはなあ、しかも自分の妻を手に掛けるなんて。どうしてそんなバカな事をしたのだろうか、金なんて手にしたからって何になるんだ」
「叔父さんってさっきの方ですね。初対面では凄くいい人って印象だったのに、なんだか信じ難い話です」
「そうね、わたしも真弓と同じ印象を持ったわ。でも、酷なようですけど日記は事実を綴ってあると思いますし、読んだ限りでは嘘はないと言えるんじゃないかしら」
二人は申し訳なさそうに言った。
「そうだろうけど、哀れなのは叔母さんだよ。まあ二人の間にどんなトラブルがあったかは知る由もないけど、殺人は絶対許せるものではない。ただこれだけでは単なる容疑者に過ぎないだろうから、わたしが叔父を告発することで警察が動き、新たな捜査が始まることを願うだけだ。時間はかかるが、いずれ全容は明らかになると思うよ」
河上は日記を閉じながら虚しさと複雑な気持ちになったが、強いてそう自分に言い聞かせた。
真相解明へ
それにしても仲居の雪江とS、そして叔母以外にあと一人の霊は一体誰なのか?我々はそのことについても意見を出し合った。
「わたしの憶測ですけど、恐らく雪江さんとSさんは同僚でしょうね。もう一人の方も同じ様な格好をしてました。ということはやはりあのホテルの仲居さんで、同じ仲間だと思います」
「じゃあ、叔父は叔母を殺したように、三人の社員にも手を掛けたということかな?」
「さあ、そこまではわたしにも分かりません。ただ、いつもあの方たちがわたしの前に現れる時は三人一緒でした。だから、雪江さんはSさんともう一人の方と相談して、健三さんからお金を取ろうとしたのではないのかしら?」
「だって、それじゃあ雪江さんは取り分が少なくなってしまうわ。本当にそれでよかったのかしら?」
「でも真弓、よく考えてみて、仮にあなたがその立場だったら一人で大の男を相手に交渉する自信ある?」
「そうね、例え取り分は三分の一としても、三人同時に相手に向かえば心強いし、話はスムースに運ぶ可能性は高いわよね」
「しかし結果的には、雪江さんが二人を出し抜いて叔父と交渉したのは事実みたいだな」
「そうですね、それははっきり日記に書かれていましたから」
聞いた真弓も納得したようだった。恐らく真相は優子の推理通りかもしれない、だが雪江さん達は叔父を少し甘く見すぎたんじゃないのだろうか?その読みの甘さが三人の死を招く結果になったのだろうと容易に想像出来た。叔父が殺した方法は分かるはずもなかったが、多分毒殺かそれとも絞殺か・・・。普通なら三人一緒に殺すには比較的毒殺が簡単だろうと河上は推理した。
脅迫話に乗るふりをして、飲み物に農薬でも混入すればすぐ済むだろう。彼女たちは三人ということで気が大きくなる、そして油断もあって何の疑いも抱かず叔父の差し出した飲み物に手をつけ、その結果悶絶して息絶える───。
その考えを河上は二人にぶつけてみた。
「それは充分あり得ますし、恐らくはあの部屋で殺したのではないでしょうか。あそこには入った時から、三人の地縛霊としての波長がそれとなく感じられましたから」
優子が答えた。
「でも、死体はどこに隠したのかしら?三人ともなると、いくら男でも遺棄するのは大変な作業だと思うわ・」
真弓の考えは現実的だった。
「う~ん、そこまではさすがに分からんな。だが、警察がいずれしっかりと調べてくれるだろうし、証拠があれば叔父も観念して自白するかもしれないからね」
「河上さんこれからどうするつもりですか、やはりこのまま警察に告発しますか?」
優子に言われるまでもなく河上の心は決まっていた。叔母の無念を晴らすのはもちろんだったが、殺人を見逃すなんていくら身内でも出来なかったのだ。
告発するにはこの日記だけが頼りに思えたが、果たしてこれを元に警察が新たに捜査に乗り出してくれるのか心配だった。それでも気を取り直すと一縷の希望を持ち、帰る途中近くの警察署に立ち寄ることにした。
「じゃあ行くかね?ここからの帰りに地元の警察に立ち寄り、この日記を刑事に見せることにしよう」
「そうですね、それが死んだ方たちの真の供養になると思います」
「きっと女将さんも三人の仲居さんも、こういう結果を求めていたのかもしれませんね。その為に優子に不思議な経験をさせ、わたしや河上さんにもちょっと怖い体験をさせたと思うんです。でも動機はどうあれ、死ぬってことは凄く無念で悔しかったでしょうね」
「真弓の言うとおりね、わたしもそう思うわ。誰だって殺されると思って生きてなんかいないし、その人たちもちょっと人の道に外れたとをしようとして、心に魔が侵入したのでしょうけど、まさかそれで死ぬとは考えないでしょうから」
「そうだよな、叔母だって必死にホテルを守っていたと思うんだ。その苦労は叔父も共に背負っていくべきなのに、自分の勝手な欲望を優先させた結果がこれだもの。まあ、いまとなっては取り返しがつかないが。それと雪江さんと二人の仲居さんも本当に可哀相だなって改めて同情するよ」
話を終えるとエンジンをかけ、河上は叔母と三人の女性の冥福を祈って合掌した。そして、数分後には近くの警察署に立ち寄り、その日記をしっかりと刑事に手渡した。
それから数日経ったある朝、河上はなにげなくテレビのニュースを観て、突然緑風館の建物と叔父の顔がアップで映し出されたのに驚愕した。そのまま淡々とニュースを伝えるアナウンサーの語りに聞き入っていたが、その結果新たな恐怖に襲われることになった。
〔伊豆に建つホテル緑風館の女将こと、松江川静子さん(当時六十才)が殺された事件の犯人は夫の健三であることが判明した。これは二年前、静子さんが運転ミスで崖から転落死した事故の再捜査によって明らかにされたものであるが、その発端となった経緯を警察は明かさなかったものの、任意同行を求めた松江川健三の自供により事件として立件されることになった。ただ、この事件は静子さん以外にも三人のホテル従業員の失踪も当時から噂され、そのことについても松江川は殺人を認めたのである。本人立会いの元で死体の捜索に着手したが、三人はホテル裏の焼却炉に投げ込まれた事実が分かり、既に白骨化していた。警察ではそれらを科学捜査研究所に持ち込み、DNA鑑定での詳しい身元の照合に入ったが、その焼却炉には比較的新しい男性と思われる焼死体も発見され、厳しく追求したところ、東京に事務所を持つリサーチ会社の社員であることが新たに判明した。男性は数日前から調査に出たきり消息不明だったと同僚の証言もあり、松江川の一連の殺人についてこの男性が何らかの事情を探り出して脅迫し、それが原因で殺害されたのではないかとの見方を捜査関係者はしている〕
河上はニュースを聞きながら思わず鳥肌を立てたが、同時にきっと優子や真弓もこれを見ていたら、同じ様な感情を抱いて震えているに違いないと思った。
叔母を事故死に見せかけ保険金詐取を計画し、その事実を知って脅迫した従業員三人の口も封じてしまう。さらにそれだけでなく、今度は連続殺人の真相を調べ上げた探偵も抹殺してしまう残忍さ・・・。
言いようもないやるせなさと虚しさを覚え、河上は静かにテレビを消した。そんな時妻の亜矢子が麦茶を持参したが、このニュースはまだ話さないでおこう。そう思った河上は姿勢を正し、乾いた喉を潤すべくグラスに手を伸ばすと一気に飲み干した。
完
あかずの間
人の怨念は命まで奪うと聞く・・・。生霊は死霊より怖いものである
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