彷徨える人/物語編
わたしをそんな奇異な眼で見ないで
ただ忘れかけようとしている遠い記憶の中を
あちこちと彷徨っているだけなんだ
訳もなく歩いたり 泣いたり 笑ったり 怒ったり
しているように見えるかもしれないけど
そうじゃあないんだよ
あのときの あの人が 呼ぶんだよ
早くこっちにおいでよって 遠くでわたしを
その声をたよりに 歩いて行こうとしている
わたしの邪魔をしないで欲しいんだ
もう時間が ないんだよ わたしには残された時間が
もう一度あの人に 逢いたいだけなんだ
だから わたしを自由にしておいて もう少しの あいだだけ
「お爺さん、もう幾つになったの?」スーパーの手提げ袋に入った大根を左手に持ち替え乍ら、山上さんは尋ねた。
「九十六。」「へえ~それにしちゃあ元気だね。今朝も杖も付かないでさ、新聞取りに玄関先まで歩いて来るの見たよ。」
「でも、認知症がすすんでいて、調子の悪い時は、なんにもわからなくなって服も着れなくなるのよ。」芳江はそう言って、
隣の駐車場との間のフェンスに掛けておいた絨毯を裏返した。
そっと襖の間から除くと、老いた父茂三郎はトーストをかじりながらテレビを見ている。「今日は、意識がはっきりしてる
みたいね。今日は・・2月の16日日曜か。早く温ったかくなってくんないかなあ・・。」炬燵に手を入れながら芳江はふ~っ
とため息をついた。父より三つ年下の母、梨絵は4年前に脳梗塞で倒れ自宅で介護していたが、老衰で臓器も弱まった
のか体調を崩し入院している。そのためいくらか身体は介護疲れから楽になったが、今度は父がいきなり真夜中に起き
出して、わけのわからないことを怒鳴りだし、近くに住む兄に相談して、症状が治まるまでこれも精神病院に入院させ
、先週退院したばかりであった。母親の梨絵は身体のほとんどが麻痺し動けなかったが、茂三郎は歩けるため、眼を
離すと何処に行ってしまうかわからない。帰れなくなった時の為に、住所氏名連絡先を書いたものを持たせるにも、
頑固で自己中心的な父親の性格から難しかった。茂三郎は金銭に関する執着がつよく、常に財布に金を入れて持ち
歩いているため、交通機関やタクシーにも乗れる。どんな遠い処にも行けるし何処にも泊まれるので始末が悪い。それ
に全く普通に戻ることがあるので、他人にも気付かれにくいときている。 窓から差し込む小春陽に、芳江はつい
うとうとし、いつの間にか寝入ってしまっていた。
父の失踪
玄関の郵便受けがカタリと音を立て、夕刊を配達するバイクの音に目が覚めた芳江は、ふと目覚め時計を見ると
午後4時を回っている、慌てて起ちあがり父の部屋を見ると裏側の引き戸が開いている。いつものように玄関に回って
夕刊を取りに行ったのだろうと思って、窓を開けて外の道を見回したがいない。「ああ!大変だあ・・。」慌てて外に跳び
出しちかくの路地を見回したが、何処にも茂三郎の姿は見当たらなかった。「もしもし!兄さん!大変なのよ。お父さ
んが私が眠り込んでる間に外に出ちゃって。そう。財布もないし着替えて出かけたらしく、箪笥の引き出しは開けっ放
しで、私も車で近くを探してみるけど兄さんも心当たりを探してみて。弟にはもう電話したから、じゃあなんかあったら
携帯に電話して、切るね。」 その日は夜遅くまで探し回ったが、茂三郎は見つからなかった。鉄道の駅に車を止め、
改札口に駆け込み聞いてみると「ああ、ベレー帽に蝶ネクタイのお爺さんねえ。確か2:13分の昇りの快速にお乗りに
なった方が、そんな風体だったような気がするなあ。」 芳江は去年の秋の事が頭をよぎった。「あの時は、二週間ほど
して平気な顔で、九州のお土産を山ほどタクシーに積んで帰ってきたっけ。お父さんったら・・人の気も知らないで。
もう・・いい加減にしてよ!」
「ティナ、今度は何処に連れて行ってくれるんだい?」「それは、見てのお楽しみ。ほら見て。きょうは髪にあなたの
好きな白いハイビスカス付けて来たの。」「とっても素敵だよ。あの頃のままだ。」「ありがとう、そういってくれて、とても
嬉しい。」そう言ってティナは、長い黒髪を茂三郎の胸に預けた。
「お客様、お飲み物、何をお持ちいたしましょうか?」「僕には、コーヒー。そして、きみは何にする?彼女には
グァバジュース。」「あの、お客様隣りは空席で誰もおりませんが・・。それに、グァバジュースはあいにく。」「そう
じゃあ、オレンジジュースで。」「はい畏まりました。」スチワーデスは、怪訝な表情を隠しながら席を離れた。
「ほら、下を見て。島が見えてきたわ。早く降りたい。」「ああ、後15分くらいで到着するらしいよ。」
父の消息
芳江は、捜索願いを出しあぐねていた。このまえの九州の時は10日経ってから何食わぬ顔で帰ってきたし、
今回だっていつ帰ってくるかわからない状況なので、又、人々に迷惑をかけるのではと考えたからである。
居なくなって、十二日目の夕方、郵便受けに夕刊とともに入っていた絵葉書を見て、芳江は言葉を失った。
それには明るい南の国の陽射しの中、椰子の木の下で片手を宙に浮かしながら首を傾け、嬉しそうに笑う父、
茂三郎の姿が写っていたからである。そして文字欄には、= ひと月ほどしたら帰る、父 = と一言だけ
書かれていた。「そうなのよ兄さん。マレーシアの何処かだと思うんだけど航空会社に問い合わせてみたら、
居なくなったあくる日の乗客名簿に、お父さんの名前が確かに記入されてるの。間違いなく飛行機でマレーシア
に行ってるわ。それに不思議な事があるのよ。お父さん航空券二枚買ってるの、そして乗客名簿のお父さんの
次ににティナという名前があったので、娘さんかと思い、いくら待っても来ないのでそのまま離陸したらしいの。
これって兄さんどういうことなのかしら。お父さん、確か戦争中にあのあたりに居たのよねえ。だからふと、昔の事
思い出して行く気になったんじゃあないかと思うんだけれど、そのティナとかいう女の人らしい名前、以前お父さん
から聞いたことなあい?私にはなんの心当たりもないんだけど・・・。」
芳江は、病院のベッドで中空をぼんやり眺めている母、梨絵に話しかけた。「ねえ、お母さん言ってたよね。あの人
戦争中に受けた迫撃弾の破片が頭に残ってて、それが原因で時々変になるって。お父さん今、その弾を受けて
死にそうになった、場所に行ってるのよ。」
娘の村
「ティナ、まだかい?」「このジャングル抜けて、ほらあそこに見えるあの山の向うよ。」飛行場の脇道に入って
2時間余りが経ったが、先を行くティナの歩みはまだ止まらなかった。山を降り、小さな川を渡ると、椰子の葉陰
の向うに数件の村の屋根が見えた。「ほら、あそこ、やっと着いたわ。」
あの絵葉書以来、茂三郎の消息はぷっつりと絶ったまますでに一か月が過ぎようとしていた。「絵葉書には、
ひと月ほどしたら帰るって書いてたけどほんとにひと月で帰って来るのかなあ。」テレビを消した芳江はそんなこと
を呟きながら、ピーナッツをかじっていた。すると、隣の駐車場に車のドアの閉まる音が響いて、「お客さんここで
いいのかね?」という声がした。それに続いて、「ああここでいいよ、ご苦労さんでした。」その声に芳江は思わず
起ちあがって窓を開け、外をみた。そこには一台の黒塗りのタクシーが止まっており、運転手の差し出す旅行バッグ
を受け取っているのは紛れもなく、我が父、宮里茂三郎本人に間違いなかった。「お父さん・・。」口をぽかんと開い
たままの芳江の傍を、「ただいま。」とひとこと言いながら通り過ぎた茂三郎は、自分の部屋に入ると、何事も無かった
かのように、ぴしゃりと襖を閉めた。芳江はまだ夢を見ているようで、今見た光景が信じられなかった。
― まさか、これってなんかの間違いよねえ。今の人、眼の前を通り過ぎた人、私のお父さんだけど。でも、でも私の
お父さんって、確か今年で九十六歳になったはずだよね。だって去年の五月十六日に御誕生パーティして、皆んなで
お父さんの好きな焼肉食べに行ったもん。でも今私の眼の前を通り過ぎたあの人、あのお父さん、何で・・・あんなに
、あんなに・・・・・。―
取材攻勢
「兄さん。本当なんだって!何で信じてくれないの!?私、確かにお母さんの世話で疲れちゃったりしているかも知れ
ないけど、まだ頭がおかしくなったりしてないんだから~!嘘だと思うんなら家に来て、確かめてごらんなさいよ。
とにかく私このままじゃあ、本当に頭がおかしなりそう。だからお願いすぐに来て!。」そう言って芳江は電話を切った。
そして、又そうっと襖の隙間から、父の顔を覗いてみた。「やっぱり、同じだわ。」夢かと思って、思いっきり頬っぺたを
指でつねってみたけれど、それは現実に起こっていることに間違いなかった。白髪でほとんど抜け落ちていた茂三郎
の頭には、黒々とした髪の毛が生え揃い、顔に皺もほとんどなくなり、曲がっていた腰は真っ直ぐに伸びていた。
帰って来た父茂三郎の身体は、明らかに若返っていたのである。
「これは一体、どうしたことなんだ。九十六だった親爺は、今、七十ぐらいに若返っている・・。」「ほら、私の言った通り
でしょう。」「ああ、悪かった。俺はお前が介護疲れから、どうかなっちゃったんじゃあないかと、心配してきたんだが、
それどころか、俺まで混乱してきた。これは夢じゃあないよな。現実だよな芳江。」「そうよ、夢なんかじゃあないわ兄さん。
帰って来たお父さん、以前より二十歳くらい、若返っているのよ。」二人は顔を見合わせて、再び襖の隙間から、何事も
無かったようにミカンを食べながら夕刊を読む父の姿を、茫然と眺め続けた。
隣近所の住民に知れるのは時間の問題だった。評判を聞いて、マスコミ関係者がわんさと押し掛け、忽ちテレビや
ラジオのニュースに取り上げられ、芳江も兄の達也も取材を求める連中に追い回されて、買い物にも行けなくなって、
家から一歩も出られなくなった。テレビやラジオ、ネットの動画サイトが連日ニュースで宮里家に起きた前代未聞の事件
を事細かに報道している。アメリカやイギリスの名のあるテレビ局も特派員を派遣して来て、SIGESABUROUの名は
今や世界中の人々の知るところとなったのである。
訪問者
人の噂も七十五日とか言うが、あんなに押し寄せた玄関先の取材人達も、一人また一人と数を減らして今では
日に二、三人程度になり、遂に昨日から誰も居なくなった。「ああ、今日も誰もいないようね。これでゆっくり買い物
に出れるわ。」チャイムの映像を確かめながら芳江が呟いた。当の茂三郎と言えば呑気なもので、好物のチョコ
ドーナッツを美味そうに食べている。しかし外見に比べて、アルツハイマー病のすすんでいる脳の老化は改善の
兆しが一向に見られず、自分が出した絵葉書には覚えがなく、写っている自分の姿を指さして、この爺さんは誰だ
という始末であった。そんなある日のこと、片言の日本語を話すジェイムス・スイトナーと名乗るイギリス人が、ぜひ
茂三郎と会って確かめたい事があるので、と尋ねてきた。芳江は、父の症状を説明して、「せっかく遠くからいらした
のに、お気の毒ですが、多分あなたと話したとしても、父は話の内容を理解できないし、あなたの期待に応えるのは
無理でしょう。」そう言うと相手は、「実は、私は長年、あなたのお父様の経験したような事件を追い続けていて、はや
二十年近くなります。たとえ話が通じなくても得ることのできる情報は沢山あるのです。ですから決してご迷惑はお掛け
しませんので、茂三郎さんに合わせてください。」
「で、そのスウィートナーさんでしたっけ、あなたはうちの父が経験したようなことを調べているとおっしゃいましたが、一体
何のために、そんなことをなさってらっしゃるのですか。」「ただ知りたいのです。」「知りたいって、何を?」「場所を。」
「場所?!」「ええ、あなたのお父様が、行ったであろう場所、あなたのお父様を、僅か一月の間に二十歳も若返りさせた、
若返りの泉が存在する場所を、私はどうしても知りたいのです。」「若返りの・・泉!?」
ジャングルへの道
マレー半島の山奥の村を訪ね歩く、ひとりの白人の姿があった。胸のポケットから取り出した一枚の写真を見せ、行き
当たる人ごとに何かを聞いてまわっているが、ほとんどの人は顔を横に振り、通り過ぎていった。ジャングルの一角にある
動物保護区のレンジャーの事務所を訪れたその男は「私はイギリスから来た、ジェイムス・スイトナーですが、一か月ほど
前に、この写真の人物を見かけませんでしたか?バスに乗ってこの近くの町で降りたことまでは分かっているのですが、
それから先の足取りがつかめないのです。」事務所にいた三人のうちの一人が、言った。「ああ、この人ねえ。」「御存じなんで
すか!?、この人。」「ええ、確かあれは一月前ぐらいの夕方、見廻りを終えて事務所に戻ろうとしたところ、向うからきた
変な帽子に変わったネクタイを締めたよぼよぼのこの写真のお爺さんが、楽しそうに笑いながらジャングルの奥に入って
行こうとしていたんですよ。」「それでどうしたんですか?」「呼び止めて、今頃、何処にいくのかね。夜になると虎などの
猛獣がうろつくので危険だから、というと、この奥に昔居た村があり、知り合いが途中まで向かいに来てくれるんだ。今夜は、
そこに泊まることになっているから大丈夫だ、と片言のマレー語でしゃべったし、確かに奥に村があったので、それじゃあ、
気を付けてと言って別れましたよ。」「その、この写真のお爺さんは、たったひとりでしたか?」「ええ、そうでした。ただ。」
「ただ?何か変わった様子でも?」「私の気のせいかも知れないんですが、片言のマレー語をしゃべる度に、誰か横に
ガイドでも居るかのように横を見るんですよ。まるでその見えないガイドに通訳してもらってるみたいにね。」「なるほど・・。
で、その奥地にある村まで歩いてどのぐらいかかりますか?」「そうですね。ジャングルを歩きなれたひとなら五時間くらい
でしょうか。」「ありがとう。非常に参考になりました。では失礼、お邪魔しました。」そう言って、スイトナーは、再びジャングル
への細い道を辿り始めた。
長老の話
すっかり日が暮れた真っ暗なジャングルの中を、手作りの松明を手に歩くスイトナーは、やっとのことで森を抜け、
開けた道の向こうに村らしい灯りを見て胸を撫で下ろした。村長は何処で習ったのか流暢な英語で彼を迎え、細やかな
歓迎の宴を開いてくれた。そしてその席に年老いた長老を呼び、この人なら昔のことをよく覚えているので、と紹介して
くれた。スイトナーは胸のポケットから一枚の写真を取り出して、長老に見せこの人を知っているかと尋ねた。長老は
焚火の灯りに照らして眼を細めじっと見ていたがやがて、大きく頷き、「これは、歳をとっているようだが、昔ここにいた
日本軍の宮里小尉によく似ている。」と答えた。「その通り、この人は元日本兵の宮里少尉本人の写真だ。」というと、
やはりそうかと満足げに頷いた。そしてこう話し始めた。
「日本兵たちの中には、我々に乱暴を働く者も居たが、宮里少尉は違っていた、生真面目な人で村人にも優しく接し
、彼を嫌う者は居なかった。ある時兵隊に乱暴されかかっていた、ティナという娘を助けてから、二人は恋仲となり、
いずれは国に連れて帰って妻に迎える、と人にも語っていたらしいが、次第に戦争が激しくなり、激戦のさなか二人は
離れ離れになってしまった。その戦いで宮里少尉は瀕死の重傷を負い、死人の山に積み上げられていたのを見たそ
のティナという娘は、彼が死んでしまったと思い、悲しみの余り傍に落ちていた銃剣で喉を突き後を追って死んでしまった
。しかし幸運にも宮里少尉は息を吹き返したところを村人に発見されて匿われ、九死に一生を得た。ティナの死を聞いた
宮里少尉は深く悲しみ、よく二人で登った丘の上にティナを葬り、遺骨の一部を国に持ち帰ったと聞いている。」と語った。
しかし、スイトナーが「最近この宮里少尉が、この村を訪れたと思われるのだが、誰かこの人を、見かけなかったか。」
そう言って、写真を回したが、誰一人として首を縦に振るものは居なかった。
二人の隠れ家
「村には、寄らないのかい?ティナ。」「ええ、村の人たちには、私は見えないし、年老いたあなたに気付かないかも
知れないもの・・。あなたが私の為に作ってくれた小屋、覚えてる?」「うん、あの高いイチジクの木の上に作った小さな
隠れ家だろう?忘れたりするもんか、はっきりと覚えているよ。」「そう、良かった。あそこに 行くのよ。あそこなら誰にも
見つからないで、二人だけで暮らせるわ。ただ、もう壊れちゃってるから作り直さなくっちゃあ、大丈夫よ前みたいに二人で
力を合わせれば、直ぐに出来るわ。」「ああ、でも僕はこんなに老いぼれちゃって、昔みたいに出来るか心配だよ。」「そうね、
それだけじゃあなくって、このままじゃ、あなたが年老いて先に死んじゃっても困るし。だから、あなたを、元の、あの時の
あなたに戻してあげる。」
「若返りの泉かどうか分からんが。」スイトナーの質問に長老は答えて言った。「これは、私のひいお爺さんから、子供の頃に
聞いた話だが、ある五十くらいの村の女が、母親の病気に効くという薬草を探しに森に入って行ったきり、行方がわからなく
なり十五日経ったある日、村に戻ってきた。ところが不思議な事に、その女の身体は、十九か二十歳位に若くなっており、
どうしたのかと聞くと、薬草を探している間に道に迷い、帰れなくなってしまった。どうしょうかと途方にくれていると、近くに
水の流れる音がする、咽喉も乾いていたのでその音を辿っていくと、流れ落ちる小さな滝があった。その水を飲むと思わ
ず元気が出て、そのあと何日も夢中で森の中をさ迷い歩き、やっとのことでもと来た道に出て、村に帰れたのだという。
本人も自分が若返っていた事などには全く気付いておらず、人に言われ鏡を見て初めて知ったらしい。 これを聞いた
村人の何人かは、自分も若くなりたいからその滝に案内してくれないか、と聞いたところ、その娘になった女は、無我夢中で
彷徨っていたため何処にあったのか覚えていない、と答えるだけで、いくら食べ物や金を与えるからと言っても頼んでも、
首を縦に振らず、村人たちは、これはどうも本当に分からないらしいと、諦めたという。」「その女の人は、どの方向から戻ったの
か言ってたんでしょうか?」「ただ、ほら、あの南に聳える山の遥か彼方に広がるジャングルの何処かだ。と言ったそうだ。」
帰り道
「わあああ!今日もいい天気!さあ洗濯しょうっと。」芳江はそう言って溜まっていた衣類を洗濯機に放り込み、いつもの
ように玄関に回って、郵便受けを開けると一通の国際郵便が届いていた。「ジェイムス・スイートナー・・。ああ、この間の
イギリスの方ね、ええっと・・・。」芳江は学生時代の古い辞書とにらめっこしながら、その英語の手紙を読みだした。
― 親愛なる、宮里芳江様、スイトナーです。この前はお世話になりました。あれから早速現地に飛び、お父様の足跡をたどって
ジャングルに入り、そこに住む人々の話を聞いて分かったことを報告いたします。ただ、目的の場所は現地の人々も入っ
たことが無いような深い森の奥だと言うことで、ガイドしてくれる人もなく、フル装備の探検隊でも組織して長期間調査しない
限り発見は難しいとおもわれます。以下に私の見聞したことを書きましたので、お読みください。・・・・・― 「ふううん?
お父さんそんなとこに、よく一人でいけたわねえ。」
「まだかい?ティナ、もうくたびれて、足腰が痛くて歩けなくなって来た・・・。」「もう少しよ、頑張って。ほら、水音がきこえる
でしょう?あの水を飲むのよ。そうしたら、また元気になるわ。周りに果物も沢山実ってるし、お腹も空いたでしょう?早く
行って食べましょう!」
「ほら、この道を真っ直ぐに歩いて行くのよ。そしたらもと来た道に出るわ。」「君も一緒に来るんだろう?」「だめなの、私は
これ以上いけないの。でもまたしばらくしてから、あなたを呼びに行くから今日は一人で帰って。 今度会ったときは、ずっと
永遠にあなたの傍にいて、一緒に暮らしてあげる。さあ悲しくなるから、泣かないうちに早く行って、後を振り返ってはだめ、
真っ直ぐ前を向いて歩いて行くのよ・・・。」茂三郎は言われるがままに、ジャングルの細い道を、来た時とは違うしっかりと
した足取りで歩いて行った。
教授の話
「どうしょうかなあ・・。そうだ兄さんに電話してみようっと。」芳江は茂三郎の戦友から届いた手紙を片手にスマホをタ
ップした。「・・・あ、もしもし、兄さんわたし。実はお父さんの戦友の一人の方から手紙が届いて、来月の二十五日に
マレーシアで亡くなった戦友達の慰霊祭をするんですって、それでお父さんも参加するのかどうか連絡してくれって。
そうそう、現地で。それでね、お父さんにこの手紙見せようか、どうしょうか迷ってるのよ。お父さんのことだから
見せたら行くって言い出すに決まってるわ。そうそう・・・うん、だから私も行かせてあげたいんだけど、一人で行かす
のも心配だしどうしょうかと思って電話したのよ。わたしも兄さんも仕事がいそがしくなる時期だし、え?スイトナーさんに、
まあ、あの方は退職なさっておられるし、この前現地を訪れていらっしゃるし・・うん、そうね。分かったわ、一度訊いてみる、
うん、あの人のメールアドレスこの前メモっておいたから、また連絡する、ありがとう。じゃあね・・。」
「はい。宮里でございますが・・。ああ、スイトナーさん。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。今、?大丈夫です。
まだ起きていましたので。で父の様子はどうですか?え!?何ですって、もう一度お願いします、電話が少し遠いん
ですが、はあ?ええ!!、父がまた居なくなったんですか!それはいつのことです!?昨日の夜から。それでまだ
見つからないんですか?わあああ、どうしょう・・・とにかく、兄に連絡してまた、お電話さしあげます。本当に
ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。そうですか、すみまがせんがよろしくお願いいたします。はい、では後ほど・・・。」
「ティナ、お蔭でだいぶ元気になれたよ。」「そう、よかった。私も嬉しいわ。ほらまた逢えたでしょう。起きて。あなたを
迎えに来たのよ。さあ行きましょうみんな寝ちゃってるから、静かにね・・・。」「ああ、分かったよ。こんどは何処にいくん
だい?」「誰にも邪魔されないで、あなたと二人だけで暮らせる場所よ。ずっと、永遠に・・・。」
「やあ久しぶり、元気そうでよかったです。メアリーさん。こちらが、イギリスからいらした、スイトナーさんです。」一人
のレンジャーの案内で、単身ジャングルの奥地にテントを張り、虎の生態調査をしているアメリカの大学の教授に会った
スイトナーは、事情を話し、茂三郎の行方に心当たりはないかと聞いてみた。「私は、ほとんど毎年このジャングルに入り、
虎の生態調査を行ってきましたが、そんな老人が、たった一人で彷徨って帰ることが出来たなんてとても信じられません。
ガイドなしでは、とても無理です、ただ、もしあなたのおっしゃることが、事実だとすれば、実は私も一度だけ接触した
ことがあるのですが、まだ一般に知られていない未開の部族がこのジャングルの奥深くに暮らして居るのです。かれらの
詳しい生活ぶりはまだわかっておらず、私もジャングルで逃げて行く彼ら数人の後姿を見ただけにすぎません。もし、その
宮里とかいう老人が、彼らと何らかの接点を持っていたとしたらその人達の案内でこのジャングルを自由に行き来できた
可能性が、考えられるかも知れませんが。」メアリー教授はそう言って、いぶかしげにスイトナーを見た。
川岸の彼方
「ほら、あの川の対岸にいま白い水鳥が止まってる木の根元に、茂みが有るでしょう?あの辺りで腰の辺りを毛皮か
何かで覆った小さな子供くらいの数人の人影が、弓矢を手に、私の気配に気付いて逃げ去るのを目撃したのです。
夕方近くだったのでよく見えなかったのですが、猿ではなく人に間違いありませんでした。この川の対岸はまだ私も入った
ことはなく、彼らが何者でどんな暮らしをしているのかは、まったくわかりません。それに彼らが、我々に有効的であるか
も分からないまま近付くのは危険です。ましてや、あなた一人で彼らの土地に侵入するのはあまりにも無謀な行為で、
考え直したほうがよいのではありませんか?」メアリーの忠告も耳に入らないかのように、スイトナーはリュックの中から
双眼鏡を取り出すと、眼を輝かせながら対岸の景色を見続けた。「彼らが友好的なのは宮里さんが、行って戻れたことから
明らかです。この川を渡るための、カヌーか何かお持ちでしたら、ぜひ貸して頂きたいのですが。」「ええ、手漕ぎのカヌーで
よろしければ手配できますが、本当に向う岸に渡るおつもりですか?」「ああ、勿論渡りますとも。そのために遥々イギリスから
やって来たのですから。私の尊敬するリビングストンのアフリカ探検の過酷さに比べたら、こんなのは簡単なものですよ。」
小さな影
幅およそ25メートルほどのゆっくりと流れる緑色の河を渡ると、スイトナーはカヌーを水辺の木に繋ぎ止め、レンジャーに
借りた山刀を片手に、行く手を阻む草や木々の枝を払いながら、道なき道をジャングルの奥へと入って行った。珍しい花や
果実、驚いて飛び去る鮮やかな羽毛を纏う鳥たちに眼を見張りながらしばらく進むと、獣道のような小さな道筋にでた。
スイトナーはそれを辿ってさらに奥に分け入るとやがて視界が開け、明らかに人が切り開いたかのように見える広場の
ような場所に出た。空を遮る樹木はなく太陽の光が燦々と降り注いでいる。その空間の周りには高さ20メートルを超す太い
大木がまるで植えられたかのように等間隔に聳えており、各々地上から10メートルぐらいの高さのところに、椰子の葉で
屋根を葺いた小さな小屋らしきものが掛けられている。その窓を見たスイトナーは、ゆっくりとひざを折り曲げて、手に持って
いた山刀を地面に置き、背負っていたリュックも背中から下ろすと両手を上に高々と上げ体の動きを止めた。広場に向けて
開いている数か所の窓から、明らかに自分に向けられている矢に気付いたからである。今まで数々の経験を積んでいる
スイトナーは、この様な場合の対処の仕方を心得ており、自分に敵意のないことを相手に示せば相手も警戒心を緩めやがて
は打ち解け、心を開いてくることを知っていた。しばらくすると窓の矢は引っ込み、好奇心に満ちた眼がこちらを観察して
いるのを察知すると、スイトナーはリュックの中からポップコーンを取り出すと、その場に座り、袋を開けてそれを食べて
見せ、君たちも食べないかとばかりにその袋を差し出して見せた。やがて彼らは安心したのか、掛けられた梯子を伝って
次々と広場に降りてきて、スイトナーの周りを取り囲んだ。スイトナーはその一人一人を見て余りの可愛さに、抱きしめ
たくなった。なんと彼らは10さい前後の子供たちばかりだったのである。大人たちは一人も見当たらない。きっと狩りにでも
出ているのだろうと思ったが、子供たちの手には弓矢が握られており、中には槍のようなものを持った者も居る。
さらにスイトナーを戸惑わせたのはひとりの12、3歳に見える女の子が小さな赤ちゃんを抱いており、その赤ちゃんが
その少女の乳房を吸い続けているではないか。その時スイトナーの脳裏に何かが閃いた。 ー まさか!そんなことが
あり得ようか!?いやあるはずがない。しかし現実に眼の前にいるこの子たちの姿は一体・・・。―
平等な暮らし
スイトナーは、今まで世界各地の様々な民族と接触した経験から、言葉の通じない場合に共通する身振り手振りに
よる意志の伝達法を習得していたので、それを駆使しながら、何とかこの可愛い人々との心の絆を作ることに成功し、
その生活ぶりをつぶさに観察することが出来た。彼らにもリーダーらしき者は居るが、狩猟採集した食べ物を、すべて
平等に分け与え、生活のあらゆる分野においてもこの事は徹底されていて、階級や貧富の差などは一切存在しなかった。
しかし肝心な、スイトナーが最も知りたい、彼らの中になぜ成長した大人が一人も居ないのか、なぜ君たちは大きくなら
ないのかとの質問には、ただ皆笑い転げるだけで、誰一人として真剣に答えようとするものは居なかったのである。
それは意図的に隠そうとしているのか、或はかれら自身それに気付いていないのか、スイトナーにも確信が持てなかった。
彼らが日常、或は儀式用に口にするあらゆる種類の食べ物をみても特別なものは見つからなかったし、彼らの狩りの遠征
に同行してもそのことは同じで、特別なことは何も起こらなかった。スイトナーが彼らと生活を共にするようになってから既に
一か月半が過ぎようとしていた。そんなある日の事、スイトナーが眼を覚ますと広場の真ん中に彼らが集まり騒ぎたて
ている、その声にほかの者達も集まり始めていた。いつものように朝早くから狩りに出かけた者達が,大きな獲物でも
捕まえてきたのだろうと思っていたスイトナーは、突然あることに気付き、慌てて飛び起きて広場に向かって走りだした。
かれらの話す言葉のなかに、聞き慣れた、いや忘れかけていたものが混じっていたからである。
その言葉とは、「ミイウズーット・・・メズーット・・・・・ミヤズート・・・ミヤザート、ミヤザト!?宮里だ!」
いたいけな母親
スイトナーは広場の真ん中に集まっている彼らの中心に分け入り、彼らの一人が手にしているものを見て思わず胸の
ポケットを触った。そこに入っているはずのもの、宮里茂三郎の三枚の写真、尋常小学校入学時の一枚、結婚式の一枚、
そして最近の年老いたカラーの一枚、それを順番に繰りながら彼らはまるでアイドルの写真を食い入るように何度も見ては
、喚声を上げているではないか!しかも「ミイウズーット!ミイウズーット!」と何度も、何度も言い続けながら。スイトナーは
「ミヤザト。ミヤザトだ!君たちはこの人を知っているのか!見たことがあるのか!?」思わず興奮してそう叫んだが、言葉
が彼らに通じるはずもない。「ミヤザトだ!」と言ってその写真を指さすと、頷く様な素振りを見せて笑顔を見せるが、
「知っているのか!?彼にあったのか!」といくら聞いてもポカンとした顔で訝しげにスイトナーを見るだけで、やがて
ガヤガヤ何かをお互いに呟きながら一人二人と解散し始め、スイトナーは三枚の写真を手にしたまま、広場の真ん中に
ぽつんとただ一人残されてしまった。失意の余り身体の力が抜け、へなへなとその場に座り込み頭を抱えたスイトナーの
背中を指で押すものがいた。振り返ると乳飲み子を抱えた、あの十二、三歳くらいに見える少女だった。彼女はスイトナーが
手にしている三枚の写真のうち、小学校入学時の幼い茂三郎の写真を指さすとニッコリ笑って、自分の抱いている子の顔を
見せるような動作をした。「ああ、その子もこの写真の子のように大きくなるんだよ。まだ五、六年はかかるだろうけどねえ・・・。
君たちの言葉が理解できれば、今、君がその子を抱いている理由も聞くことができるのに、残念だよ。」少女は黙って抱いて
いた子を重そうに抱え直した。写真に眼を戻そうとしたスイトナーは、思わず振り返り、その抱いている乳飲み子の背なかを
見て目を見張った。「蒙古斑!?まさか!」そう言ってスイトナーは、確かめるようにもう一度その部分を手で触って、何かが
塗られてないかを見た。「間違いない、背なかから尻にかけて残るこの青いアザのような模様、これは明らかにモンゴロイド系
の赤ちゃんのみにみられる、蒙古斑だ!でもここは、マレーシアの熱帯の森・・。それなのになぜこの赤ちゃんの背中に蒙古斑が?!
ああ、そうだった。きみに聞いても、解るはずないよな。なんせ言葉が通じないんだもの・・。」そう言って、微笑む少女に微笑返し、
その子の額にキスをして、スイトナーは何度も首を横に振りながら自分の小屋に、帰っていった。その場に、黙って見送る一人
のいたいけな母親、いや少女を残して。
「我々インドシナ人にも、蒙古斑はありますよ。」事務所のレンジャーの一人が言った。「そうですか、私は熱帯にすむあなた方
には無い、と思っていたのですが。それで彼らの言葉が話せるガイドは居ないんでしょうか?」「あの川から向うは、我々も行った
ことがないんですよ。あなたは本当にあの川を渡って、彼らに接触したんですか?信じられない。」そう言ってレンジャーたちは
顔を見合わせた。
濁流の中で
雨は何日も降り続き、一向に止む気配をみせなかった。雨季にはまだ早すぎるのに滝のような雨がもう一週間以上も
降り続き、レンジャーたちも、こんな時期に、こんなに降る雨はかつて経験したことはない、これも地球温暖化による異常気象
ではないだろうかと話していた。十日目の朝にやっと陽の光が射して降りやんだが、あちこちの川が氾濫して洪水が起こり、
スイトナーが避難していたレンジャーの建物の周りにも濁流が押し寄せ、辺り一面腰位まで水位があがり、まるで池のような
有り様になっていた。「あの子供達は、大丈夫だろうか・・。」確かに彼らの住居は地上五、六メートルの高さの樹上にあったが
、一時暴風雨のようになり、風もかなり吹き荒れたため、スイトナーは心配でならなかった。三、四日経つと周りの水位も
膝程に下がったため、スイトナーは、レンジャー達の完全に水がひいてからにしてはどうか、という忠告を無視して、まだ水浸
しのままのジャングルに入って行った。
その後一週間が過ぎても彼は戻ってこなかった。やがてまたたく間に一か月が過ぎた。レンジャーたちは次第に彼の
安否が気になり始め、川岸まで様子を見に行くと、向う岸にスイトナーが使ったであろうカヌーが繋がれていたが、ほとんど
水没状態でオールは流されたのか見当たらなかった。「だから、止めとけと言ったんだ・・・。」レンジャーの一人がそう呟いた
。「きっと、彼が渡った時はまだ流れは激しかったはずだ、多分流され命を落としたに違いない。あれから一月、遺体はもう
動物たちの餌食になっていて見つけることは不可能だろう。」ほかのレンジャーたちも納得したように頷くと、川向うの捜索は
せず帰って行った。
― ねえ、ティナ、ほら!うちの子見て・・・この綺麗な澄んだ青い瞳。
それに白い透き通ったような肌、髪の毛だって金色に輝いてる。
こんな子、今まで誰も見たことないでしょう?
ほんと、まるで神様の子みたい!
うちの子もほら、もう歯が生えてるでしょう?
ほんとだ、ちっちゃな歯だこと。可愛い・・・!
ウフフフフフ・・・。 ハハハハハハ・・・・・・。 —
〔 完 〕
*この物語は完全なるフィクション であり、実際に存在する人名、地名ほか一切の事物とは、全く関係がありません。(筆者敬白)
彷徨える人/物語編