羽のない人

 学校が終わって、帰り道。校門前のバス停には、僕と同じでバス通学をしている生徒たちが長蛇の列を作っていた。僕もその列の最後尾に並ぶ。耳に挿したイヤホンからは、冬らしい透明感のある音が聞こえてくる。
 今日でやっと、二学期末のテストが終わったのだけれど、僕にとってはそんな事どうでもいいように思えた。テストの結果はまるで興味も無いし、問題なんて全部忘れてしまった。それは僕が、僕自身に期待をしていないからだ。
 僕の日々は味気ないものだった。分かりやすく言うと、僕には生きている実感が無かった。夢も目標も、趣味も特技も何もない僕は、決められたカリキュラムをただこなすだけの木偶の坊だからだ。いつからか、自分は何者にもなれないと悟り、未来の自分は普通の会社に勤めて、普通の暮らしをして、まだ味気ない日々を送っているのだと確信できるようになった。だから僕が今転んでも、見える未来の自分になれるように、少し先の未来の自分が努力をしてくれるだろうと思えた。
ふと、空を見上げる。冬の空は雲が少なく、少し前まで見せていた青色は澄んだ白さを帯びていて、ガラスのような冷たさを感じた。
 空はとても遠くて、何も無い空っぽで、僕らの事なんて見向きもしていないんだと思う。空は何者にも縛られず、何者にも関係せず、ただ漂っているだけだからだ。小さい頃には気付かなかったそれに気付いてから、僕は空に憧れるようになった。今の僕にとってあの純粋な空は、決して届くはずのない理想だった。
(僕らの思う自由なんて、本当の自由じゃない。自由とは空そのものだ。)    
 そんなことを考えている内に、バスが到着した。大勢の人と共に、バスに乗る。ただ目的の停留所に着くのを待つだけの僕は、空について思考を巡らせ続けた。
もし僕が空を飛べたなら。もし僕に羽があったなら。僕はこの味気ない日々から抜け出す事が出来るのだろうか。いや、空は僕が飛べたからと言って、表情を変えたりはしない。それどころか、気にも留めないだろう。僕は社会の輪から逃れるという形で、自由を手にすることが出来るかもしれない。自分の羽で空を飛ぶ。そのことで生きている実感も湧いてくるだろう。でも、それだけだ。僕にもし羽があっても、僕は空と同じになる事は出来ない。それが出来ないのならば、本当の自由は手に入らないのだ。空を飛べたって、行き場はない。空には僕以外の人は誰もいない。空を飛ぶ事は、なによりも孤独で、なによりも虚しい……そんな気がする。
 空の大きさと、自分のちっぽけさ、自分の弱さに改めて気づかされる。吊革を握る手に力が籠った。

「ただいま。」
 高校を卒業して五年。僕はあの頃と変わらず、味気ない日々を送っていた。自分一人しか帰らない部屋には、僕の声と、つけっぱなしのテレビの音だけが寂しげに積もる。大人になった僕は、現実に追いつくのが精一杯で、高校の頃から感じていた虚しさは、年々増すばかりだった。
(消えてしまいそうだ……)
 僕の心は確かに錆びついてきていて、働く意味すら見失いそうになっていた。
 空を見上げる事も、空に憧れる事も、意味の無い事のような気がして、僕はただ時間を浪費していくだけだった。
どうしてもやるせない気持ちが拭いきれない時は、詩を書く事によって抑え込むようにした。なんとなく始めたブログに作品を載せていたものの、元からアクセス数の少ない僕のブログに、コメントを残してくれる人は居なかった。
 高校時代に抱いていた、空への憧れや、将来への不安。どうしようもない虚脱感と寂しさ。それらと今の自分を比較するような詩を書いてみると、今の自分は過去の自分に憧れているのだと、分かった。あの頃は自分の事なんてどうでもいいと思っていたのに、今の自分はあの頃に憧れている。何ともおかしな話だと思って、苦笑を浮かべた。
(僕はいつ間違ってしまったのだろうか……。僕は何を間違えてしまったのだろうか……。僕はまだ、やり直せるのだろうか……。)
 明日も早い朝を迎えなければならないので、漂う虚しさを胸に押し込んで、しかたなくベッドに入った。
翌日。すっかり夜も深くなって、家に帰り自分のブログを覗いてみると、昨日書いた詩に対してのコメントが来ていた。
『作品、読ませて頂きました。どうしようもない虚しさや、寂しさ。それを抱えながら空に憧れる気持ちが、人間らしくて素敵だと思います。』
短い文だったが、なにより自分の作ったものが誰かに認められた事が嬉しくて、何度もコメントを読み返して、出来るだけ丁寧に返信を書いた。
 それからもその人は僕の書いた詩に感想をくれた。どうやら高校生らしく、僕の書いた詩にとても共感してくれた。けれど、それは昔の自分を見ているようで、僕はこの人に僕と同じようになって欲しくないと思った。そこで、僕は尋ねてみた。
『もし自分に羽があったなら、どうしたいですか。』

 僕にとって、もう一人の過去の自分だったその人の答えは意外なもので、僕はその眩しさに心を撃たれた。過去の僕がそう言えるならば、僕もまだ、やり直す事が出来るだろう。こんな小さな光で救われる僕が、またおかしくて、苦笑を浮かべた。
 僕らは本当の自由を手に入れられない。だって人は人と共に生きる限り、本当に自由ではないのだから。僕らの求める自由なんて全部、ただの身勝手な現実逃避のために作った逃げ道に過ぎないんだ。決して届かない空に憧れるなんて、空っぽに憧れるなんて、どうしようもなく哀しい。羽のない僕らは、地上に居場所を求める事しか出来ない。誰かに自分を認めてもらって、誰かを僕が認めて。そうやって人の価値は、意味は、居場所は、生まれていくのだと思う。
 僕が過去の自分に憧れていたのは、理想が無かったからだ。夢を見ていたかったから。そこに自由が在る気がしたから。けれど、違った。過去でもない。空でもない。僕が今居る場所に、自由は在ったんだ。初めから、羽が無くとも、僕はずっと自由だった。
 一人の部屋で、静かに泣いた。ようやく自分を認めてあげる事が出来たから。ようやく前を向く事が出来たから。ようやく求めるべきものが分かったから。ようやく、救われたから――。

 

羽のない人

「羽」をテーマに書きました。

ありがとうございました。

羽のない人

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-16

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