《白》

1.

 太陽がまぶしいある日の陽気な昼下がり、エリはとてもうきうきしていた。その日、小学校(エレメンタリスクール)は、振り替え日により午前中で終わりだった。友達のメグやリリィに、昼から中央の公園に遊びにいこうよと誘われたが、エリは行けるかどうかわからないとお茶を濁して帰路についた。
勿論メグ達とは一緒にいて楽しいし、大好きな仲間だったけれど、今日のエリにはある人と一緒にご飯を食べるっていう先約があった。先約といっても、向こうはまさか約束しただなんて思ってはいないだろうけれども。
 今日は、ママもお仕事で留守の日だった。平日だからパパももちろんお仕事に行っている。だから、本当は一人でお家でご飯を食べなければいけない、ちょっとさみしい日なはずなんだけれど、ちょっと大きくなったエリにとってはちょっと嬉しい日になっていた。だって、パパやママがお留守の日は、お隣のアルヴィお兄ちゃんの家にいっても怒られないから。
 そう、エリにとってお隣のアルヴィお兄ちゃんはちょっと特別な感じの人だった。
 それが、おませな少女コミックで話題になる「恋愛」ってものなのかはエリにはまだよくわからなかったけれど、でも、学校でメグやリリィと一緒にいて楽しい・好きって思う感情とはちょっと違うってのは、何となくわかっていた。
 多分お兄ちゃんはエリをただの子供だとしか思っていなくて、むしろただの子供だからこそ安心して招き入れてくれてるってのも、よく知っている。
 でも、エリはそれでもアルヴィお兄ちゃんのことが好きだった。ううん、好きって言うのが適切な言葉かは分からないけれど。

 エリは帰宅するなり、すぐさま通学鞄をリビングのソファに勢いよく放り出して、すぐにキッチンに行き、お湯を沸かした。今日はどのハーブティーがいいかしらとママの真似をして棚を覗いてみたけれども、よくわからない。結局普段の慣れた紅茶(ダージリン)を淹れ、それを、お気に入りの水筒に注ぐ。  
 リビングのテーブルの上にはラップにくるまれたサンドイッチの乗ったお皿がちょこんと乗っていた。その脇には、小さなメッセージカードが添えてある。そこには、ママの少し小さくてきれいな文字で、「これたべてね。好き嫌いしちゃ駄目よ」って書いてあった。わかってるよママ、私、もうセロリ食べれるから、こうみえてもお姉ちゃんなのよ、と、思いながらランチボックスにサンドイッチを詰める。(でも、なんで私の嫌いな野菜を入れるんだろう。だったらかわりにトマトとかクランベリーを入れてほしいな、ママの意地悪、とちょっと思ったのは内緒。)
 水筒とランチの用意を終えると、エリはお気に入りの鞄にそれらを詰め込み、電気を消し、戸締りをして、意気揚々と表へ出る。
道を少し挟んだお隣が、アルヴィお兄ちゃんの家だ。エリは、その家を「大きな角砂糖」と呼んでいた。というのも、本当に角砂糖にそっくりの、白い不思議な建物だったからだ。

 この街の建物には、そんな奇妙な建物は他にはない。
 道路のこちら側にあるエリの家は、ごくごく普通の、ありふれた一軒家だ。かわいらしい庭もついており、ママはこの庭が、そしてパパはガレージが大のお気に入りポイントだった。この街ではこのタイプの建物に住んでいるのが普通だし、緑の庭があるのはとりわけ贅沢っていうわけでもない。
皆の家や学校も大体こんな感じで、ピンクの塗装だったり、屋根の煙突が二本だったり、壁が漆喰か煉瓦かとか、外に時計塔がついていたりとかそういう違いはあるけれど、基本のつくりは、おおむねこんな感じ。漆喰の壁に三角屋根でかわいらしい窓と煙突。そしてお手入れされた庭。
 だから、この街では、エリのお隣の家はとりわけ目立っていた。
 それは、他の家なら必ずあるはずの、三角屋根のない、四角い形をした建物で、真っ白い塗装の平面的な壁に、窓は数個だけ、申し訳程度のようにほんの小さな覗き穴のようにぽつんぽつんと開いているだけだった。勿論、煉瓦の煙突もないし、庭もない。
 敷地いっぱいのつるんとしたただの白い箱体。それが、あまり高くない腰ほどの高さの塀に囲まれている。
 それはこの街の住人にはとりわけ奇異に映っていた。人々は5年前に建てられたその建物に怯え、そしてそこに暮らす一人の人物にも、無関心を装いながら誰もがひそかに怯えていた。
 ただ一人、エリをのぞいて。

 エリはひょいひょいとあまり役に立っていなさそうな低い門によじ登り、ちょっとした探検気分で覗き穴の一つから家の中を覗きこむ。
「一番目の部屋、リビング、人気なし」
 エリが小さく呟いて隣の垣根へ飛び移ろうとすると、後ろから声が聞こえた。
「来る時は、インターホン、押しなさいって言ったでしょ」
 それは聞き慣れた声だった。
 振り返るとバケツと箒をもったラフな格好の青年が立っていた。アルヴィお兄ちゃんだ。
「お帰りなさい、お兄ちゃん!」
「はいはいただいまただいま……まあ、今日は敷地内から一歩も出てないけどね」
 お兄ちゃんは、エリに対してはいつもちょっと呆れたような声で話す。でも、その割には口数は決して少なくない。エリは、そんなお兄ちゃんが好きだった。
「ところでエリ、学校は?」
 エリは、わざとらしく頬を膨らませてみる。やっぱり、お兄ちゃん、一緒にご飯食べるって約束してたの忘れてた。
「今日、午前までなの。言ったじゃーん」
「ああ、そうだったそうだった」
 アルヴィは髪を掻き上げようとするかのようなそぶりをしかけたが、自分の擦れたビニール手袋の音にはっとして触るのを辞める。
「お兄ちゃん、今日も暇?」
「暇じゃない暇じゃない。みればわかるでしょ。お掃除。ったくもー俺んちはゴミ箱じゃありませんってば」
「まだ『投げ入れ寺』続いているの?」
「続いてる続いてる。まー一時期よりはだいぶ落ち着いたけれどもね」
 以前お兄ちゃんはエリに笑って言っていた。この建物の塀の中はまるでゴミ捨て場のようになっていると。お兄ちゃんが来たばかりの頃はもっとひどかったと言っていた。近隣の児童がトマトを投げつけてきたり、生ごみを投げ入れてきたり。ひどい時には犬の糞をわざと塀の中にふりまいてきたりする人までいたとか。
 エリはアルヴィが足元に置いたバケツの中を覗きこむ。中にはガラクタやごみが集められていた。生ごみもあったし、死んだカエルの骨みたいなものまであった。
「うわっ……」
「あははっ」
 エリはぎょっとして一歩後ずさった。アルヴィはそんな様子を見て笑う。
「たくもー、いつの時代も悪ガキは考えることが可愛いよなあ。こんなんで嫌がらせになってると思っちゃうあたり」
 お兄ちゃんはエロティックな雑誌に汚い暴言をマジックで書きなぐった切り抜きをつまみあげながら、ニコニコ嬉しそうに言う。
「お兄ちゃん、こんなことされて嬉しいの」
「いや、別に嬉しかないけどさ」
けど、口でそう言っても、全然怒っているように見えないとエリは思った。
「ま、といっても、そんなにいやでもない。よく言うじゃない。好きの反対は嫌いって」
「……お兄ちゃんまさか、少女コミックの読みすぎ?」
「読んでないよー。勝手に俺をそんなキャラにしないでくださいってば」
「わー、お兄ちゃんの変な趣味、みーつけた」
 エリは、オーバーにリアクションした。クラスメイトの前ではそんな事絶対しないのに、お兄ちゃんに対しては、無意識に必要以上に子供らしくはしゃいでみてしまう。
「ちがうちがう……まあ、てなわけで俺、今ちょっと手とかきたないから、あとまた1時間ぐらい経ったら遊びにおいで」
「あたしも手伝う!」
 一瞬、アルヴィお兄ちゃんはどうしようかといった風に、微かに上に首をひねったが、
「そ?じゃあ、お願いしようか。鞄、玄関においておいで。他の手袋あるから」
と言ってくれた。
 お昼、OKだ。

 建物と塀の間を一通り掃除し終えたころには、一時半を過ぎていた。
「今週は、思ったよりも量が多かったなあ」
 アルヴィはひょうひょうという。
「いつもこうなの?」
「まあ、大体こんなもんだね」
 エリが思っていたより、塀の中はゴミ塗れだった。手袋をしているとはいえ、ねちねちして気持ち悪かった。エリは、こんなに掃除って汚くて手が臭くなるものなんだと、ちょっとだけお兄ちゃんの言う通りにしなかった自分に後悔した。学校の昼休み前にやる掃除とかと全然違う、と思った。
「あはは、そんなに掃除、嫌だった?」
 エリは無言でうなずく。すると、アルヴィは
「さっすが、育ちのいいお嬢さんだなあ」
 と褒めるような口調で言ったが、流石に小学生のエリにも、それが文字通りの褒め言葉ではないのはわかる。……というか、
「やっぱり、お兄ちゃん、こんなことされても怒らないの、変だよ。どうしてニコニコしていられるの」
「うーん、どうしてって。いい運動になるじゃない。ゴミ掃除。ほらほら俺は義務教育じゃないからねえ。身体動かさないとなまっちゃうんだよ」
「えー……」
 エリは体育の代わりにこんなに汚い掃除をするのは嫌だと思った。
「ま、暇だしね」
「あ、やっぱり暇なんだ……」
 おっと余計な事を言ってしまったみたいな顔をしてから、アルヴィは話題を逸らす。
「あ、手洗ってから中入ろうね」
 アルヴィが言いながら壁のタイルを肘で触ると、そこから蛇口が出てきた。
 アルヴィは、先にエリにそこで手を洗うように促す。
 エリが手をかざすと、最初に不思議な白い泡が降り注いで、次いで水が流れ出てきた。エリはこんなものを見るのは初めてだった。
「わあ、この白いの、何?」
「液体石鹸だよ。そっか、エリは見た事ないか」
「パパやママだって見た事ないよ」
「そうか……」
 アルヴィは上を見上げる。また余計な事を言ってしまったなあ、という表情で。
 エリは、多分、アルヴィが思っているよりも、エリはアルヴィの行動パターンが掴めている、とひそかに自負していた。アルヴィお兄ちゃんは、エリに言っていいこととよくない事っていうのを自分の中で分けているようで、うっかり言ってよくない事を言ってしまった時だけ、上を見上げる癖がある。
だから、エリはアルヴィがエリに言ってよくない事を言ってしまった、っていう時は、すぐに見分けがつくのだけれど、肝心の、「言ってよくないことがなんでエリには言ってよくない」ことなのかは、エリにはわからなかった。
 きっとそれは、人を見下してるってのとは違うだろうけれども、でもお兄ちゃんは自分と他の街の人の間に明確に線引きをしている様子だった。
エリは、今のアルヴィは好きだけど、たまにその線の内側には入れてもらえないことに気付いて、少し切なくなることがあった。
 ふと、アルヴィは思い出したようにいう。
「まー、街の人達と、今の関係性でもいいけど……、まあ、せっかくならもうちょっと仲良くなってみたいとは思うよね」
 喋り方は相変わらずの感じで、軽やかだった。むしろ、エリには、お兄ちゃんにも、街の他の人と仲良くなってみたいとか、そういう気持ちがあったんだとちょっと意外に思えた。
「君も、たまには友達とか連れてきてよ」
「え」エリはちょっと驚いた。そしてとっさに、「皆、この家怖いから近づきたくないって」と返した。
 言いながらエリは、あたし、半分嘘をついてる、と思った。ずっと昔、低学年(キンダガーデン)のころ、メグやリリィに一緒に角砂糖の家を探検しにいこう、と誘ったことはあり、確かにその時は二人はいい顔をしなかった。けれども、お兄ちゃんと仲良くなって以来、彼女達にはこの家のことは何も言ってない。もちろん、アルヴィのことも。
「そうかー。子供なら、誰でも好奇心旺盛で怖がらないってわけでもないんだなあ」
 ふと、何かに気づいたようにポカンとするアルヴィ。こういう時のお兄ちゃんは不思議と、途方もなく子供っぽい。
 アルヴィは言った。
「じゃあ、なんで君は怖がらないの?」
「だって、住んでるの、お兄ちゃんだもん」
「そういうもんか」
 いやそういう話をしたんじゃないんだけれど、とちょっと腑に落ちなそうな顔をして、アルヴィは首をひねりながら頷いた。

 その後、エリは白い角砂糖の家の中に入ってアルヴィと一緒にご飯を食べた。
 エリが用意したサンドイッチのほかに、お兄ちゃんは別のサンドイッチも作ってくれた。こちらはジャムとマーガリンのものだ。そして二人でそのサンドイッチを半分ずつ交換こする。
これは、エリにとって至福の時間だった。
 机の上の角砂糖をティーカップに注いだ紅茶につまんで入れる。
「あーっお兄ちゃん角砂糖3つも入れてる!ママ太るからダメっていうのに」
「いいんだよ、きみんちじゃないんだから」
 アルヴィお兄ちゃんはこう見えても甘党である。
「あんまり甘い物採りすぎると、若くしてセイジンビョーなっちゃうってパパも言ってたよ」
「いいんだよ俺は病気にかかんないから。ほら、家だって角砂糖みたいだろう?」
「それ、言いだしたのあたし」
「そうだったっけな」
 そう、この家の事を角砂糖の家、って呼びだしたのはエリだった。エリは、素敵なフレーズだと自分でも気にいっていたものが、アルヴィンお兄ちゃんにもなじんでいたみたいで嬉しかった。
昔は、四角くて無機質なこの建物の外観はお兄ちゃんも好きじゃないって言っていた。
だったら、大工さんに頼んで建て変えればいいのに、と思ったけれど、そうもいかないらしい。だから、あたしが命名してあげたんだ。
 今では、お兄ちゃん、そのことすら忘れてるみたいだけれども。
お兄ちゃんの家は、外観こそ奇抜だけれど、玄関やその先のリビングルームはごく普通の家と変わらない。布製のソファーに大きすぎないテーブル、シックな色の木製の本棚、そして派手すぎない緑色の観葉植物。
「お兄ちゃんって一人で住んでるんだよね」
 エリは以前から思っていた疑問をぶつけてみた。
「うん、一人だけど?どうしたの急に」
「一人で暮らすには、広すぎるよね」
「ああ、そうかもね」
 上へ視線を逸らして、そっけなくいうアルヴィ。
「その植木鉢の植物とかもさ、お兄ちゃんにガーデニングみたいな趣味があるとは思えない」
「……ん、何が言いたいんだ?」
「実は、奥さんとかいるんじゃないの」
 ぷはっとお兄ちゃんはお茶を吹き出した。
「奥さんて……!いないよ、第一、俺の事いくつだと思ってるの」
 エリの名推理は外れたらしい。
アルヴィは、そうかそうか君の歳からだと俺そんなにおっさんにみえるのか、とぶつくさ独り言をつぶやきながら、観葉植物の方へ向かった。
「これは、俺がこの街に来る前、ここに住んでいた老婦人の残してたものでね、庭に植えられていたものなんだ。この家を建てる際、庭を埋め立てなければいけなかったんだけど、その際、わざわざ植物を殺すまでもないと思って、全部は無理だったけどいくつか立派そうなのをこの植木鉢に避難させたんだ。最初は外に出してあげてたんだけどね、やっぱり外に置いておくとゴミ被っちゃうからさ」
「ゴミ……」
「だから、ちょっと手狭だけれど、リビングに置いてみたんだ」
 そういって、アルヴィは植物の枝についてあるタグを触る。そこにはミス・ブラウンって書いてあった。ママの口から聞いたことのある名前だ。
「……お兄ちゃん、優しい」
「そうかな、普通じゃない?生きているものをそのまま、守ってあげたいってのはさ」
「そう……なの」
「そうさ」
 エリは口をつぐんだ。生きているものはそのまま守ってあげたいって思うのは、普通かな。エリは自分を顧みた。今まで、自分のわがままで無下にしてしまったハムスターや学校で飼っている文鳥を思い出した。
 そういうの、普通って言えちゃうお兄ちゃん、やっぱり格好いい。

 昼ご飯を食べ終わって一息ついたら、エリはこの家の中を探検したいと言った。
すると、アルヴィは例の通り、少し上を見上げて考えてから、いいよ、但し俺も一緒ね、と念押ししながら許可を出す。もっとも、エリにとって家の中を「探検」させてもらうのは初めてのことではないので、もはやこれは形式的な儀礼にすぎないのだけれど。
 今日はニ階を探検させてもらうことになった。お兄ちゃんの家は三階以上有るみたいだから、これでもまだ半分も見せてもらってないことになる。
 エリは、廊下を案内されながら、やっぱり一人で住んでいるとしたら広すぎる建物だと思った。一体お兄ちゃんはここで何をやっているんだろう。
 もう一つ、不思議に思う点があった。この建物は、一階の、リビングと客間(お兄ちゃんに枠ほとんど使った事ないらしい)、そしてベッドルーム、バスルームはごくごく普通なのだけれども、階段を上ったニ階はガラッと様相が様変わりすることだった。
階段を上った先にあるのは、白くてつるんとした壁に囲まれた、不思議な空間だった。まるで外壁と同じような感じの、一面の白の中、ドアの部分だけ切れ目がうっすら見える。壁は一見真っ白に見えたけれど、近づいて良く見ると、ちかちか何かを反射して、七色に輝くのが見える。そして、そっと壁に手を近づけると、自動的に手すりや、何か不思議なタイルみたいなものが壁から浮かび出てくるのだ。
 初めて階段を上った時は、あまりの異質な世界に、エリは仰天し、足を踏み入れることすら躊躇したものだけれども、何回も入れてもらっている今となっては、流石にそこまでビビったりはしなくなった。
 まさに、「探検」という言葉がぴったりな建物。
 この家を歩き回っている時間もエリにとっては、最高に楽しいひと時だった。
 探検と言っても、もちろん、お兄ちゃんの監視付きの、だけれども。
 今日は、シャボン玉のような物が出てくるところを教えてもらった。
「お兄ちゃんは、一体、何をしているの?」
 エリは、いつもの疑問をぶつけてみる。
「さあね」
 エリが来るたびに必ず聞く質問だから、もはや二人の間ではこれも、社交辞令のような扱いになっている。
「はぐらかさないで!」
「おやおや、随分難しい言葉を覚えたじゃない」
 少しだけ驚いたという風に身をかがめてリアクションするアルヴィ。
 アルヴィお兄ちゃんはいつだってそうだ。いつだってあたしを五年前の小さかったころのあたしと同じように赤ん坊扱いする。
「あたし、もう赤ちゃんじゃないの」
「あはは、真っ赤で可愛い」
 お兄ちゃんはいつもニコニコしている。でもって、肝心なことは教えてくれない。
「でもねえ、お兄ちゃんがやっているのはとーっても難しいことなんだ」
 大きな身ぶり手ぶりのアルヴィ。
「難しくない!あたし、もう大きくなったから、わかる!」
「ほんとお?」
「本当!」
「わからないよ。だって多分君の学校の先生とか、この街の大人が聞いてもわからないと思うもの」
「じゃあ、わからなくていい!でも、知りたい!」
 アルヴィに乗せられている時の、エリの言葉は半分ぐらい口から出まかせだが、アルヴィが何ものか知りたかったのだけは本心だ。
束の間、アルヴィは思案顔して、そしてふっと試してみるかという風な顔をして言った。
「そうかそうか。じゃあ、少しだけ教えてあげよう。……といっても、本当に秘密の話だからね。秘密だよ?」
「うん、秘密にする!」
「じゃあね」
 アルヴィンは一呼吸をおいて言った。
「お兄ちゃんは世界を守っているんだ」
 エリナは一瞬ポカンとしてから、吹き出した。
「あはは。なにそれ。子供でももうちょっと気のきいた冗談言うよ」
「言うだろうね。……だから言ったろ?「とっても難しい事」だって」
 まーた、お兄ちゃん私の事を煙に巻いてる、とエリナは思った。
「難しくないじゃん!簡単!お兄ちゃんの嘘はき」
「嘘は言ってないよ」
「嘘だぁ」
「ふふっ、ま、そう思ってくれたほうが、いっかな」
 アルヴィは少し上の方へ眼をやってから、視線を戻して笑った。
 それ以降のエリとアルヴィの会話はたわいもないことだった。

 この階の、クリアな質感の壁には不思議な仕掛けが施されていて、いろんな部分を触ると、様々なものが出てくる。目印は有るようだけれど、一見つるんとしていて、エリにはよくわからない。
「その青いタイルを触ってごらん」
 アルヴィが、エリの手の届くぐらいの高さのタイルを指し示す。促されてエリがおそるおそる触ると、そこがずんずん窪んでゆき、やがてその孔は、小さな窓へつながった。
「これ、窓!」
 エリは、お兄ちゃんの家の秘密をまた一つ知ったことを誇らしく思った。
窓から外を覗きこむと、世界は夕焼けに包まれていた。
「わあ、きれい」
 エリは思わずつぶやいた。呟いてから、なんてボキャブラリの少ない、子供らしくて人並みの感想なんだろうと、少しだけ恥ずかしくなった。
「うん、きれいだね……そうか、もうそんな時間か」
 ふと、アルヴィが壁を触る。すると、隣の壁に、また、珍しい、お兄ちゃんちにだけある特別な時計が表れた。針や文字盤がなくて、時刻だけが壁に数字で書かれる不思議な時計だ。
エリが壁を見上げると、時刻は17:18をさしていた。もう夕刻だ。
ランプをつけていないのに、アルヴィの家の中はなぜかとても明るいので、時間をついつい忘れてしまう。
 ママが帰っているかもしれない、と慌ててエリはその角砂糖の家をあとにした。

 エリが家に帰ると、玄関にランプが点いてていた。
 ママはもうお仕事から帰宅していた。
「どこいってたの、エリ」
「メグとリリィと公園でピクニックしてた」
「そう、楽しかった?」
 ママは、あんまり疑わない様子で優しく言う。
「うん、とっても楽しかった!」
 とびきり子供らしく言うエリ。すると、ママはにこりと頷いて、
「あんまり外行っちゃ駄目よ」
とだけ付け足した。
 彼女含む大人達が、子供たちに対してする心配事といえば、もっぱら、子供が好奇心に負けて街の境界の外へ向かってしまうこと、だった。
エリを含めて、子供たちはこの街の外側の世界を知らない。ごく稀に好奇心旺盛さが理性を上回って、素足で飛び出ていってしまう少年達がいるらしいけれども、そうした少年達が帰ってきたことは一度もない。
 その経緯をよく知っているから、この街の子供たちは子供のころから、基本的にこの街の外の世界へ興味を示すことはないし、そして、大人もそれについて最低限の知識以上は教えてこない。
例えば、学校の先生は必ずこう教える。「街の外には四方に白い平坦な世界が広がっている。街と白い世界の間に境界らしい境界は無いが、そこを踏み越えて土や植物が広がることは出来ないので、自ずとその境界は誰の目にもわかる状態になっている」と。
 
 エリは、夕食を食べながら、ふと考えた。今まで、大人達が境界の外のことを何も言わなかったのはとりわけ不思議に思って来なかったけれども、(それに、外は怖いし)、そういえばお兄ちゃんはどこから来たんだろうと思った。
 今までは当然、この街の中のどこか遠くの場所からやってきたのだろうと思っていたけれど、さっき、一瞬、妙な事を言っていたような気がする。記憶をたどっていくと、ああ、そうだ、お兄ちゃんは確か、「多分君の学校の先生とか、この街の大人が聞いても」って言っていたのを思い出した。
 ということは、この街の大人以外に誰がいるの……?
 エリはそこで思考をやめた。なんだか怖い話につながってしまいそうな予感がしたからだ。
うん、それより、今晩の、ママの作ってくれたスープはとびきり美味しいな。

2.

それから数日経ったある日、エリが朝、通学路に出ると、たまたまアルヴィお兄ちゃんに出くわした。
お兄ちゃんを外で見かけることはエリにとって珍しい出来事だった。ましてや早朝なんて。本人の言うことを信用するなら、アルヴィは一日のほとんどの時間を自宅の敷地内で過ごすと言っていたし、実際、半径300mの外に彼の存在を知っている人はあまりいないらしい。多分、本人よりも角砂糖の家の方が、有名なぐらい、彼の外出は少ないらしい。
「あ、お兄ちゃん!」
 エリが嬉しげにかけよると、彼は少々困惑した風であった。
「今日はどうしたの」
「どうしたんだろう……お仕事というか……」
「お仕事、やってたんだ」
 エリはアルヴィの服を不思議そうに見やった。いつもラフな格好のアルヴィには似つかわしくなくて、堅苦しい色調の、まるで、駅員さんのような格好に見えた。
「お兄ちゃん、元気ないね。お仕事、そんなに嫌なの?」
「ああ、嬉しくはないね」
この前と違って、今度は本気で嬉しくなさそうだった。
ふうん、とエリは、アルヴィお兄ちゃんでさえこういう表情をするんだ、と不思議な気持ちになった。そして、陰鬱なお兄ちゃんは見ているこっちもさびしい気持ちになるからあんまり見ていたくないな、とすぐにバイバイと手を振り、エリはすぐさま学校の方へ駆けだした。

 学校に行くと、先生から、ホームルームの後、エリと通学路が同じ子供たち数人が呼び出された。なんでも、エリたちの通学路で通る商店街の、花屋のおばさんが急に倒れて、駅から街の外へ送りださなくてはならなくなったらしい。エリはびっくりした。
 今日が最後のあいさつになるからと、見送りに参加をしたい人は、隣のクラスの先生と一緒に、これから駅へ行きなさいと、担任の先生はエリたちにそう告げた。
 そのおばさんとは、エリは二言三言だけれど、毎朝のように挨拶していた相手だったから、駅で送りだされてしまう、即ちもう会えなくなってしまうと聞いて、淋しくなった。
だから、当然エリは駅に来る組として参加した。
その日の駅には、商店街の皆と、通学路が同じメグ達と、仕事を抜け出してきたパパと、あと、なぜかアルヴィお兄ちゃんも来ていた。さっきの堅苦しい服のままだった。
花屋のおばさんは一両の「電車(トロッコ)」の中に座っていた。表情はこちらから見れない。
数え切れないほどの大切なもの。布団とか、思い出のアルバムとか、を同じ電車の後方座席に詰め込んで、その電車(トロッコ)は一瞬だけあけ放たれた外の世界へ、レールを走っていく。
エリは最後までその光景に目を離さなかった。みんなも同じようにみていた。涙に目を溜めて。レールとプラットホームの間に立てられた柵を乗り越えそうになっている人もいた。
4年前、ひいおばあちゃんが同じように倒れたとき以来、初めて見た光景だった。

アルヴィは他の人とちょっと違って、プラットホームの端の方に立っていた。何故だか知らないけれど、壁に手をかけている。
それはまるで、角砂糖の自宅でそっと壁を触って何かを取り出す時の様子に似ているとエリは思った。この駅にもそういった仕掛けが張り巡らされているのだろうかとも思った。アルヴィお兄ちゃんの本業は駅員さんなのかと思ったけれども、その割には彼の服のデザインは、本職の駅員さんのユニフォームとは違っていた。
エリがふと、そちらを眺めていると、横に立っていたパパから、あの人を見るな、という風に行動でたしなめられた。
本職の駅員さん達が、皆の方へ一瞥するなり、車両の前の方に燃料を投じる。すると、車両がゆっくりと前方へ動き出し、線路に沿って前へ流れ出した。
お別れの時間だ。

みんな必死で車両の中の思い出の詰まった窓を見る。そしておばさんの顔を一目見ようとする。
おばさんはエリの前を過ぎ去った。
そして、鎖された駅の線路の切れ端に車両の先端がついた瞬間、その仕切りが一瞬だけ、ほんの一瞬だけ開いたのをエリは見逃さなかった。
一瞬だけ見えるその先の白い世界。
そして、次に瞬きした時には、もうその扉はいつものように、閉じていて、そしておばさんを乗せた車はいなくなっていた。

みしみしと、淋しげな音が響き渡った。

 エリたち子供達は皆泣いて、大人達も多くが泣いていた。駅員さんやアルヴィの目に涙は無かったけれども、それでも陰鬱な表情であることには変わりはなかった。
エリは、どうして大人達がそんな悲しいことをおばさんに対してするのか、わからなかった。「倒れた」ら、外に行かなくちゃならないの? 車(トロッコ)の中に座っていたおばさんは、いつものおばさんのように見えた。ずっと昔のおばあちゃんのときもそうだった。大人達はそれを「亡くなった」っていう。エリにはその亡くなった、という状態がどういうことかわからなかった。だって、そこにいるじゃない。
そう、エリは、その幼さ故に、そこにいる人が、二度と動かない存在だということを理解できなかった。
だから、本当に、「なくなって」しまうのは、駅から街の外へ送り出されてしまった瞬間なのだと信じ込んだ。だって、送り出された人達は、もう二度と帰ってこないのだから。

葬儀が終わると、集まった人は一人一人、駅から日常の街の中へ戻っていく。
商店街の人達も自分達のお店へ帰っていく。
エリのパパも仕事をしているオフィスに戻っていった。
小学校の児童達は、先生とともに学校に戻ることになっていたが、エリは、もうちょっと残っていたいと駄々をこねた。挙句、とうとう先生の方が音を先にあげて、「仕方ない子ね、他の子には内緒よ午後から早退扱いにしてあげるわ」、と言い残しさせて他の生徒を連れていって帰って行った。

アルヴィだけは帰らず、ただ線路の方を向いて、そこにずっと佇んでいた。

エリは、ずっと残っていたアルヴィのもとへ歩いてゆく。
「君は本当にわがままだなあ。先生相当困ってたぞ」
アルヴィは隣にたったエリに対してやれやれというようにオーバーリアクションでかましてくる。
「知ってる」
「そんなに、名残惜しいの」
本当は、そうじゃなくて、ただお兄ちゃんと話したかっただけなんだけど、エリは、そんなことは言わない。言うわけがない。
 エリが黙っていると、アルヴィがぽつりと話しだす。
「駅、淋しいところだよね」
「うん」
と、エリは頷いてみたものの、その、エリにとっての感情が、アルヴィの言う淋しいという感傷と同じ気持ちだという確証はなかった。
 エリにとっては、駅というのは別れの象徴だった。そして、得体のしれない知らない世界とつながっている、怖い場所だった。
あるとき、人はふっと具合が悪くなくなったと思ったら、次の瞬間には、その人は車(トロッコ)に乗せられて、思い出の品とともにエリの知らない街の外へいってしまうんだって。
エリは、車(トロッコ)の乗っているレールがどこへ続く物か、或いはそもそもどこかへ続いているのかどうか、知らない。それはエリに限らず、この街の大人達もきっとそうなんだろうとエリは思う。かつて、エリのおばあちゃんが駅から外へ送り出された時、エリはママに必死でおばあちゃんの行き先を尋ねた。けれど、その時ママの口からは「いいところよ」とか「幸せに暮らしているわ」とか抽象的な答えしか返ってこなかった。それは、エリがまだ幼いから意図的に隠しているというより、ママ自身があまり知らないから答えられないといった風だった。
しかし、アルヴィは知っているように、エリは思えた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「……何?」
「おばさんの車(トロッコ)は、一体どこへ行ったの?」
「どこへ、行ったんだろうな」
 言いながら、アルヴィは例のごとく、首をひねりながら上を向く。エリはそれ以上なにも聞けなかった。

3.

3.

それからどれぐらい経っただろうか。ふと、アルヴィは、思い出したように「俺は後片付けがあるから。エリ、なるべく早く学校に戻るんだよ」とエリに言い残して、駅員達と静かに話をしながら駅舎内に入って行った。
 時計を見ると、学校や街の皆が駅からいなくなってから、十分ぐらい針が進んでいた。
 とても長い十分だった。

 学校に戻れと言われても、エリには学校へ戻る気は起きなかった。かといって、家に帰りたいわけでもない。エリはアルヴィが触っていた壁のあたりへ手を伸ばしてみるが、ふと、急に怖くなって止めた。
 そうこうしているうちに、アルヴィが駅舎から出てきた。今度は一人だ。
 彼は壁の近くのエリの存在に気付くと、少し驚いた顔をして、そしてやれやれと言った風に息を吐いてから歩いてきた。
「学校行きなっていったでしょ……」
「だって……」
 エリが俯くと、アルヴィはしょうがないなあという風に、ふっと微笑んで身をかがめた。
「たくもお、繊細な子なんだから」
アルヴィはエリの頭をそっと撫でた。
「先生、今日おやすみしていいって……」
「そうね」
「ねえ、お兄ちゃん」
 エリはやはり、知りたかった。街の外へ行ったら
 アルヴィは、またか、と言った風に肩をすくめた。
「おばさんは、どこ行っちゃったの」
「街の外へ行くのさ」
「……」
お兄ちゃんまたはぐらかしてる、でも、さっきよりは大分近づいた、とエリは思った。
「何?そんなに知りたいの?」
「怖い……街の外、怖いから」
「エリ……」
「あたしも、いつか……いつか倒れてこうやって車(トロッコ)に乗せられちゃうの?知らない、街の外へ追い出されて……帰ってこれなくなっちゃうのかなって考えると…」
「大丈夫」
アルヴィが話を遮った。
「エリはまだそんなこと考えなくて大丈夫だよ」
 エリは、聞き洩らさなかった。お兄ちゃんは今、まだ、って言った……。
「まだ……って」
 はっと余計な事を言ってしまったという風に微かにアルヴィの肩が揺れる。
「いつか、あたしも、街の外へ行くの?」
「……」
 アルヴィはエリのまっすぐな視線をそっと受け止めてから、答えあぐねたように目を逸らし、そして、大げさなリアクションで考え込んだふりをしてから、やれやれと肩をすくめて立ちあがる。
「はあ、……ったくいつから、街の外って言う言葉が夢も希望もない言葉になってしまったんだかねえ」
大げさにため息をつくアルヴィ。
「お兄……ちゃ……?」
エリは、アルヴィを見上げると、アルヴィは観念したという風に、話し始めた。
「知っているかい?そもそも駅ってのはね、街と街を結ぶ交流の場所なんだ。本当のお昔は、まず、旅人の馬を停める所から始まって、そして幾分か経った後は、自動で走る鉄道が開通するようになった。そして、周辺には他の街から来た人を泊める宿とかだってあったんだ。とても賑やかで、いろんな人の交流の地だったんだよ」
エリにはわけのわからない言葉ばかりだった。それは、幼いから知らないのだといったことだけではないのは、エリにはわかった。そもそも、エリの住む街の他に、当たり前のように街が存在して人が住んでいるだなんて話、エリは聞いたことがない。
「ああ、それは、言うなら街と街の窓みたいな役割さ。閉塞的な街と街を結ぶような、異文化との交流の地、だったんだ。この駅だって、例外ではないよ?きっとこの辺を掘れば、当時の人達の投げ捨てた食べカスとかそういった賑やかな痕跡が出てくるはずさ」
トントンと足踏みして喋るアルヴィ。いつも以上に饒舌だ。
多分、自分の話す言葉が、エリには全部は伝わらないことは承知の上で、あえてアルヴィは喋っているのだろうとエリは理解した。むしろ、エリが理解できないと踏んでいるからこそ、ぶちまけても大丈夫だと判断したのかもしれない。
しかし、エリには何から何まで分からなかったわけではなかった。エリはアルヴィの言葉の端々から、そして時折見せる切なそうな表情から、エリは読みとった。大昔は街の外にも世界は広がっていて、人間が住んでいて、そしてそこは決して怖いところではなかったこと、そして、そんな活気あふれる外の世界との交流は失われ、今となってはもう、街の外というのはとても怖いところになってしまったのだ、と。
学校の先生達が、街の外は怖いところだから決して行ってはいけないと注意するのには慣れっこだったけれども、アルヴィお兄ちゃんでさえ、そういう風に考える場所なんだと、エリは一層外の世界への恐怖心を募らせた。
そして、そんな怖い街の外へ、ひょんなことからエリが大好きだった人達を車(トロッコ)で送ってしまう大人達に不信感を抱いた。
「お兄ちゃん、どうして、大人の人達は、そんな怖いところに、おばさんを連れていっちゃうの」
エリから話しかけると、アルヴィはふっと我に返ったように、話すのをやめた。そして、少し考えてから、「どうしてだろうなあ」と言った。もう、いつもの口調に戻っていた。
「……俺にもわからない」
「え」
 お兄ちゃんに分からないこともあるんだ、とエリはびっくりした。
「ギリギリだから……かなあ。この街も」
 アルヴィは一人で納得したように呟いた。勿論、エリにその意味はわからなかった。

4.


夏が過ぎようとしている。
エリは陰鬱だった。エリは今9歳で、だから通っているのは家から通える小学校(エレメンタリスクール)だ。でも、10歳になったら、この街の決まりで次の中学校(ミドルスクール)に行かなければならない。
エリの家は街の周縁部に近い所に位置していた。中学校(ミドルスクール)はエレメンタリスクールに比べて、数が少なく、その多くはずっと街の中心部に位置していた。エリの学区の生徒は、一番近い中学校(ミドルスクール)でも、歩いて3時間はかかるところにあり、実家から通うことができなかった。
この街では使える交通手段らしい交通手段は自転車だけだった。たまに馬車を使う気取った大人の人はいるけれど、まさか子供に馬で学校に通わせるほどの贅沢は出来ない。
だから、街の周縁部にすむ子供たちは10歳になったらほとんどが親元を離れて、半ば義務的に寮生活に入るのだ。
勿論、彼ら彼女らはまだまだ幼いから、親元を離れる嫌がる生徒も大勢もいる。
エリも、そんな中の一人だった。
ただし、その理由は他の子たちとはちょっと違ったが。

その日は、中学校の寮の部屋決めの話し合いのあるはずだったその日、エリは学校を休んだ。
エリは、朝目が覚めても、具合が悪いといって、部屋から一歩も出なかった。エリのママが遅刻するわよと起こしに来たけれど、エリの顔色と体温を診て、今日は休んでいなさいねと言い残して出て行った。少し熱が出ていた。
そのぐらい、エリは中学校のことを考えるのが嫌だった。

街の向こう側の中学校に行ってしまったら、寮生活に入ってしまったら、アルヴィと会えなくなってしまう。
今でこそ、周囲の目を盗んで、角砂糖の家に忍び込んでいられるけれども、もう、寮生活になったらいろんなことに生活を規定されて、そんな余裕はなくなってしまうだろう。
歩けば半日もかからないで帰って来れる距離だから、永遠の分かれではないというのは頭では理解していたけれども、それでも、エリには、これからのアルヴィとの距離は途方もなく疎遠になってしまうように感じられた。
それは、まるで、街の外へ行ってしまった人達と同じような、とても淋しい別れと同じように、幼いエリは感じた。
エリは、まるで今生の終わりみたいな気分だった。学校では比較的しっかりものの印象があったし、エリもそのつもりだったから、勝手に学校を休んでしまった負い目が拍車をかけたのかもしれない。
ともかく、その日のエリは、ちょっとおかしかった。いや、本当におかしくはなってはいない。ただこのままじっとしていたらおかしくなってしまいそうな気分だった。
ふと、無性に淋しくなって、ベッドの中にうずくまっているのにも耐えられなくなり、エリは外へ出て学校と逆の方を目指し、ふらふらと歩いて行った。

前へ前へとさまようように進んでゆくエリの周囲の景色はしだいに移り変わっていった。通り慣れた閑静な住宅街の景色が閑散としゆき、とうとう周りは畑になった。それでも細い通路をエリは重い足取りで、ただまっすぐ歩いてゆく。もっとも、エリ自身はそう言った周りの様子に関心を払う余裕はなかった。ただただ、今日を忘れてどこかに行ってしまいたかった。何も考えていたくなかった。そうやってひたすら足を動かした。
正午はすぎた頃だろうか。もうだいぶ高くなった太陽に照らされながら、少女は目の前の景色の異変に気付いて立ち止まった。
そこは、白と緑の境界だった。これまでずっと大人達が危険だから行くなと注意していた、街の外側の白い平原との境界だ。
エリはふっと後ろを振り返る。そちらは、さっきまでの一面の畑だった。
前後であまりに違う世界。それは、想像を絶する、という言葉で表現するにはあまりにも忍びない程の、異次元じみた境地であった。
エリの行く先には何もない。
本当に、「何もない」。
白い地平線の上に乗っている空が、かろうじて現実とその異世界が連続的につながったものであることを示してくれているけれども、それですら、心もとない。
 エリは足元を見渡す。
 白と緑の草の境界は、左右一直線にどこまでも世界を分断する。よく見ると、その境界は完全な静止状態ではなかった。緑の境界は、小刻みに震えて、押しては押しかえされていた。まるで緑の小人たちが、外から迫りくる白い何かとせめぎ合って、闘っているように見えた。
 エリは、街の外がこんなふうになっているなんて、知らなかった。
 ふと、アルヴィが駅で言っていたことを思い出す。彼はこの街を抽象的に表現するのに、「ぎりぎり」という言葉を使っていた。
 そして、エリは今、目の前の白と、足元の低い牧草との境界をみて、まさに「ぎりぎり」のバランスで保たれているように感じた。
エリは、物事を深刻に考えたことのなかった自分を恥じた。世界は、今日も、明日も、連綿として続いていくものだと信じていたのに。

少女が茫然と立たずいていると、近くの小屋から農作業用の服を着た初老の男性が出てきて声をかけた。
「お嬢さん、どうしたの」
エリはとっさに嘘をついた。
「外の世界を……境界を、見に来ました」
「物好きだねえ。そんないいもんでもないだろうに」
 不思議そうに言う男性。もちろん、エリだってこんなものを見たかったわけではない。
「はい……こんなところだとは知りませんでしあ」
 エリは精いっぱいの丁寧語で喋る。
「昔からこうだったわけではないんだよ、10年前は、あのずーっと向こうまで、一面の畑だったからね」
 日に焼けたおじさんは、地平線のずっと向こうを指し示しながらいう。むろん、今は一面の白になっていて、その面影は何もない。
「10年……」
 そんな昔のことじゃない、あたしが生まれた頃だ、とエリは思った。その頃にはまだ、こんな無機質な白は広がっていなくて、畑が広がっていたなんて。
 たった10年で、世界はこんなにも変わってしまうものなの。
 おじさんは思い出にふけるように続ける。
「5年ぐらい、前だなあ。突然、ここまで白い境界、がやってきたのは」
「5年……前」
 エリはその響きにピンときた。お兄ちゃんが角砂糖の家にやって来た頃だ。
 もちろん、その話とお兄ちゃんが繋がっているという確証は何もない、けど……。はっとしてから前を見渡すと、その地面に広がるつるんとした白は、あの見慣れた角砂糖の家の外壁と同じ輝きのように眼に映った。
ふと、そう思ってしまったとたん、アルヴィに関する、思いあたる節々が矢継ぎ早にエリの脳内に思い浮かんだ。駅で、お兄ちゃんが触っていた壁と、おばさんの車(トロッコ)を見送った先の白。街の外について妙に博学なこと。もしかして、……アルヴィお兄ちゃんは、この、境界の外側の白い平原を、もたらした張本人なのかもしれないとエリは思った。
そんな事、決して信じたくない、けれど。
「……」
 エリは無言で考えた。
でも、そう考えたら、お兄ちゃんがあんなに嫌われていることに対するつじつまが合う。……合ってしまう。
それまでずっと外に広がっていた街の外の世界を、無にしてしまったのが、お兄ちゃんだったとしたら。
エリは、大人の人が、アルヴィを嫌っている理由がわかった気がした。

 けれど、お兄ちゃんがとってもそんなことをする人のようには思えない。確かに、お兄ちゃんは言いたくないことが山のようにある人のように見える。
けれど、それと同時に。
この街を、そしてエリをとても愛情深く見守ってくれてる人のようにも。

先月、お兄ちゃんは「これは秘密だよ」と冗談めかして言っていた。「俺はこの街を守っているんだよ」って。
まさか……。
次の瞬間、エリはくるりと踵を返して、元来た道へと駆けだして行った。

5.


日差しがだいぶ柔らかくなった頃、ようやくエリは四角い角砂糖の家の前に着いた。
低くて役に立たなそうな塀に取り囲まれた門の脇にある、四角いスペースをタッチし、ワンテンポ遅れて、はあはあと大きく肩を震わせながらしゃがみこむ。

「どおしたの。そんなに慌てて」
ドアを開けて出てきたのは、いつものお兄ちゃんだ。
「今日学校は?」
「休んだ」
 真剣な目できっと見すえるエリの様子に、アルヴィはいつもと違うものを察したのか、いつものように冗談を言ってあしらうことはしなかった。逆に、彼は静かに「何かあったの」とエリに尋ねた。
「何もない……」
 エリは包み隠さず言おうと思った。
「街の外の境界を見て来たの」
 はっと、息をのむアルヴィ。
「真っ白だった」
エリは続ける。
「お兄ちゃん、街の外に、何をしたの?」
 アルヴィはすぐには答えなかった。驚きの表情を隠しもせず、目を見開いた彼は、身体ごと逸らすように上を向いて、一瞬だけ考え込む。そして何かにひらめいたように、ああ流石、エリは賢いなあと、うんうんと満足げに呟いて、ニコニコの笑顔になって「そのことは中で話そう」と、エリを玄関に通した。
 エリは正直、不意をつかれて戸惑った。なんで笑顔になるの?もっと、聞かれたらまずいことじゃないの。
 本当は知っているだけで何もしていないのかもしれないし、でも、逆にもっともっと悪いことをして開き直っているのかもしれないとエリは思い、ますます彼のことが分からなくなった。

アルヴィは、いつものリビングへエリを通す。
「ったく君はなー、本当に困った子供だ。学校をさぼって境界に一人遠足とはな。……ところで、紅茶とココアどっちがいい?」
「……ココア」
 アルヴィはいつもの様子でキッチンへ消え、飲み物を用意してエリに渡す。いつも通りで落ち着いた様子に、困惑しつつもエリはココアを受け取り、促された椅子に座る。
 彼もテーブルの向い側の座った。
「さーて、君の名推理を聞かせてもらおうか?」
 そういうアルヴィの顔は優しげだった。もちろん、目が笑っていないだなんてこともない。しかし、エリは戸惑った。アルヴィの態度はなんら普段と変わらないのだけれども、こんなふうにエリに対して、正面切って意見を聞いてきたことなんてなかったから。
「……名推理……なんて……」
 エリは下を向いて口ごもった。今日の自分の無自覚にとった行動を無性に後悔した。お兄ちゃんには知られたくないことがいっぱいある人なんだし、そんなのはわかっていた。お兄ちゃんは顔でこそ笑っているけど、多分内心では今、すごく怒っているのだと思うと、怖くて何も喋れなかった。
そして、流れる沈黙。
突如、アルヴィが口を開いた。
「わーったわーった。そうだよな、こんなの誘導尋問みたいだよね。じゃあ、俺が推理する番にしようか」
「……え?」
「その1、この前駅で会った時に怪しいことをしていた。 その2、この建物の外壁と境界の向こうの輝きが似ていた。 その3、この家のニ階から……」
 エリは、やっぱりすでに見透かされている、と痛感した。
「……1も2も3も」
 小声で言うエリ。きっといまにも怒られるんだろうと、エリはわずかに震えていた。
しかし、聞こえた言葉は意外なものだった。
「やるじゃん。大当たり」
「え」
「どうしたの。きつねにつまれたような顔をして」
「……え、だって、……お兄ちゃん怒ると思ったから」
「怒る?俺が?」
「知られちゃいけない秘密、知っちゃったかなって」
 一瞬の沈黙。しかしすぐに、アルヴィが、あははと声をあげて笑う。
「秘密、ねえ。そりゃあ誰にだって秘密はあるさ。だけど、エリが考えてるようなことが、本当に知られたらまずいことだったら、そもそも駅で人の見える所で作業しないし、ましてや家の中なんて探検させないよ」
「そ……そうなの……隠してたんじゃなかったの……」
確かに、言われてみれば、アルヴィはエリにいろいろ見せすぎている。しかし、隠してないというその割には、不可解な行動が多すぎるとエリは思った。
「隠しているように見えてた?」
 うん、と頷くエリ。すると、まあそうだろうな、とアルヴィがため息をつく。
「正直、隠したくて、うやむやにしているわけじゃないんだ。でも、この街の人には――この街から出たことのない人には、仕方なく、何も言わないでおいているんだ」
「それって、秘密を隠しているっていうのと同じじゃない?」
「同じかな……仕方なくなんだ。仕方なくなんだけど」
「どうして隠すの」
「理解できないからさ。いや、理解されないだけなら構わない。けれど、どこの世界でもそうだけれど、大人ってのはなかなか頭が固くてさ、「自分に解らないことがある」っていうのを極端に恐れるんだよねえ。俺にはむやみに人々の恐怖心をあおる趣味はないから」
 エリは、アルヴィの言葉使いがいつもと違って堅苦しいなと思った。仕草や表情はいつもと変わらないのだけれども。
「お兄ちゃん、それって、頭が悪くてどうせ理解できないと思っているから、隠すってこと……」
「そんな極端な事じゃ……、頭のいい悪いじゃない。想像力の問題なんだ」
「想像力……?」
「俺のやっていることってのは、おそらく、この街の人の想像の範疇を超えてしまっている。だから、奇異で、そして薄気味悪く映ってしまう……」
 ふと、エリは塀の中に投げ捨てられるごみや、街の人達のアルヴィに対する冷たい視線を思い出した。それでも、アルヴィはずっと笑っていた。エリはそのへらへらした態度が不思議に思えたが、それは、はなから相手かに理解されるのを諦めていたからこその笑顔だったのだとようやく気付いた。
確かにアルヴィが言うのは、もっともなことなんだろうとエリは思ったが、同時にその態度が、どうもむずがゆく感じた。
 まるでその態度は、学校の先生がエリたちに時折取るもの同じだ、とエリは感じた。学校行事開催に関する先生同士のもめごとを、生徒が不安げに訊ねると、先生達は決まって「あなた達はまだ子供だから判らなくていいのよ」と、丁寧に回答拒否をする。アルヴィお兄ちゃんのしていることはまさにそれと同じだ。
 でも、とエリは思った。今のアルヴィなら、エリに対して真摯に話をしてくれそうだ、とも。
「お兄ちゃんはそうやってきめつけるけど、……私は……私は、そんな風に思わない。だから、隠さないで、教えて」
 エリは、小さい声で、しかしはっきりと言った。大人に意見を伝えるなんてあまりしないものだから、こういうだけで精いっぱいだった。聞き終えたアルヴィは、「エリならそう言ってくれると思ったよ」と微笑んでから、言葉を切って、ふと思い出したようにうーんと首をひねる。
「でも、面白いことじゃあないだろうし、それにエリにとっては知っても知らなくても、別に何も変わらないような事柄だよ」
「何も変わらない……?」
「うん、いいことも悪いこともない、今後の何の役にも立たない事、ってこと」
 それは、嘘だ。とエリは直感的に思った。たしかにアルヴィにとって考えているエリのイメージでは、そうなのかもしれない。
 でも、アルヴィは見落としている事があると思った。エリには彼に知られるはずのない一面があった。
「それが、お兄ちゃんに関係してるなら、全部知りたい」
「そう」
 アルヴィは意外そうに首を傾けた。でも、やっぱり君が興味もてるよう話とは到底思えないけどなあ、と小さく付け足してから、彼はマグカップを手に取った。
 コーヒーはとうに冷めている。
「何から聞きたい」
 彼の目はいつになく真剣だった。エリは息を吸う。そして勇気を振り絞って、小声で言う。
「お兄ちゃんは、何者なの?」
「俺は、街の外、この街とは別の文化を持った都市から来た」
 それは、エリがうすぼんやり考えていたことだった。だから、その発言にはとりわけ違和感は感じなかった。しかし、その後の彼の発言は、エリの予想とは大きく違うものだった。
「この街を《白》の侵攻から食い止めている、監視員をやっている」
 エリは、驚いた。お兄ちゃんは、この街の外の、あの淋しい白い景色をもたらした張本人などではなくて、……むしろ逆だったのだ。

 それは、エリの想像を絶するような話だった。
この前、駅で話していた話よりも、遥かにスケールが大きくて、複雑怪奇で、頓珍漢でキテレツな話だ。
 要約すると、こうだ。
 この地球上の、世界の様々な街が、《白》に呑まれている。この街も例外でなく、5年前に《白》が迫りくることとなった。
 彼は、《白》の侵攻を食い止めるために、遠隔装置でバリアを張ることをまかされて街の外から派遣された監視員なのだそうだ。
 彼の役割は、この建物の中の装置によって、遠隔的にバリアを制御すること。そして、必要な時だけ、その《白》へ通じる、街に設置された、いくつかの扉(ゲート)を開ける。
 駅でみた、車(トロッコ)の向かうさきの門も、そういった扉(ゲート)の一つだったそうだ。
「信じられないよね、こんな話」
アルヴィは自嘲気味に言う。
 もちろん、エリも最初は信じられなかったし、彼が言っている話があまりにも突拍子もないので、そもそも内容自体もほとんどよくわからなかった。
でも、エリは先程直に見てしまった。彼の言う、街の外側に迫っている、《白》を。
「ううん、信じられる……」
「おや。それは頼もしい」
「だって、あたし、今日、見たんだよ、街の外……」
「ふうん……どうだった」
「怖かった」
 それは、エリの率直な感想だった。
 アルヴィはふむ、と頷いた。エリは、今まではぐらかされてきた、根本的な疑問を聞けると思った。
「ねえ、その《白》って、何」
「一番、答えにくいところを、聞いてくるね」
「駄目……?」
「駄目ではないけれど……これこそ、エリには知らなくていい話かもしれない」
 エリは、アルヴィは曖昧な言葉をわざと使っている、と思った。きっとそれは、知らなくていい、とか影響がない、とかそういう話じゃなくて、それを知った後のエリの変化を恐れているような言い方だと思った。
 でも、逆に彼のそういう態度が、エリの興味をそそってしまう。
「お兄ちゃん、なにもかも、知っていること一人占めして、ずるい」
「ずるい……かあ」
 彼は、エリが言った言葉を、反芻した。
そして、唐突に、
「エリ、人類の歴史って、どれぐらいの長さか知っているかい」
と言った。
エリは、唐突な話題の変化に戸惑いながら、
「五千年ぐらい……かな……?」
と答えた。
「そうだなあ、五、だけはあってるな。でも、正解は52兆年でした」
「えっ、……兆?」
それは、エリの日常では接することのない、聞いたことのないような数字だった。そんな膨大な年月を、さも当たり前のような調子で話すアルヴィに、エリはとことん拍子抜けする。
「でも、歴史の教科書には、そのぐらいって……」
「まあ、この街は、『近世ヨーロッパ』という太古の世界を、堅牢に維持してきた地域だからな、歴史の年代紀もそのままになっているんだろうね」
「えっ……」
 エリは戸惑いが隠せなかった。エリの知っていることと、お兄ちゃんの持っている知識は、そもそものベースが全然違うのだと、その溝を改めて感じた。その異質さは、恐怖に近い感触すら伴うものだった。
 そして、エリのその様子はアルヴィにはすぐ伝わったらしい。
「まだ、ついてくる?」
「うん」
 エリは、反射的に頷く。
「そうか、君の好奇心はやっぱり凄いな」
アルヴィは、少し嬉しそうにそう言った。
 そして、エリを、三階にある、ある部屋へ促した。
 そこは、エリがよく探検させてもらうニ階と違って、一見、普通のオフィスのような場所だった。先ほどまでいたリビングと同じようなテーブルとイス、そして瀟洒なソファ。
 エリは、不思議そうに部屋をぐるりと見渡したが、とりわけ不思議なものは見わたらなかった。だが、同時に、ふつうのオフィスにあるはずの、本棚や書類置きのような物も見当たらなかった。
 ふと、エリは壁際の黒と白のタイルを見つけた。何故だかそこだけ異様につるつるとした異質な質感だったので、エリが気になって近づくと、アルヴィが、そこは触ってはいけないよ、と静止した。
 エリは、もう一度黒と白のタイルをみやった。どこかで見覚えがあると思ったら、そういえば以前駅でアルヴィが触れていたものと同じ材質のようだった。しかし、駅で観たものとは違ってその黒い四角いタイルの上には半透明なプレートのカバーがかかっていた。
 アルヴィはエリをソファの一つに座るように促すと、彼は、ポケットから小さな板のような物を取り出した。そして、それにそっと触れると、ぱっとテーブルの上に大きな半透明のモニターが表示された。
それは、エリの知らない世界の姿の映像だった。
エリはそのモニターに映し出された情報の洪水、まばゆいばかりの色や音、刺激と興奮に満ち溢れた世界に、ただただ圧倒された。エリは、アルヴィの少しいたずらげな笑顔が見えなかったら、自分が変な幻覚に取りつかれたのではないかと思っただろう。
「まあ、そういうことさ」
十分程の映像が終わると、アルヴィはモニターを脇にやり、満足げな笑顔でコーヒーをすする。子供のエリがいうのも変な話だが、その時のアルヴィの様子は本当に無邪気な少年のようだった。
「……」
 エリが絶句していると、アルヴィが話しだす。
「といっても、今見せたのは大分過去の話。今は大分世界も落ち着いてしまってね。自然はどこまでも残酷だったが、人類はそれに抗うべく英知を養った。まあ、科学技術を発展させたわけだね。
 最初の頃でこそ地球は人類にとって大分住みやすい環境だったけれど、そのきれいな海と空のある自然のままの地球は十億年と保たなかった。
 だから、人類はいろいろなことをやってきたんだね。地球自体の軌道を変えたりだってしたんだぜ」
「その頃の人類は、正直、ちょっと調子に乗りすぎていたように思うね。何でも出来るかのように錯覚していた。確かに、科学技術の及ぶ範囲内だったら、かなりの事をすることができた。ただ――」
アルヴィはふと、そこで言葉を切った。そして、ふと上を見上げた。
「時間は、止められない」
「時間……?」
 アルヴィの話の中でやっと出てきた、エリに理解できるフレーズは、それはそれ自体では意図の掴めないものだった。
「そう、この宇宙は、誕生してから50億年以上たってしまった。今は、夜空を見上げても、星なんて見えないだろう?」
そういってから彼は、モニターぞ操作し、室内全体へある映像を投影した。
それはまばゆいほどにきらきらと輝く星空の姿だった。
「今じゃ、こうなんだよ」
アルヴィはモニターのスイッチを切り替えた。
壁に投影される映像は、今の夜空、となった。
かすかに星が瞬くだけの、漆黒の宇宙。
「……さっきの星達はどこへ行っちゃったの」
「寿命が尽きて、なくなってしまった」
「寿命……」
 エリは、小さくその単語を反芻した。実は、エリはその単語の意味が良くわかっていなかった。
「だけれど、これは本当の宇宙の姿ではないんだ」
アルヴィは、手元のスイッチを触ると、今度は、先ほどの暗い宇宙に、いくつかの裂け目が生じた。そして、その裂け目の向こう側に覗くのは、空白地帯だ。
「これが、今の宇宙の本当の姿だよ」
 エリは息を呑んだ。
「あれ、見覚えあるでしょう」
アルヴィは、空白の一つを指さす。そののっぺりとした質感は、今朝、エリが見て来たものそのものだった。
 アルヴィは静かに言う。
「この宇宙が物理法則にしたがって成り立っている限り、宇宙は最後に熱的死を迎えるんだ」
「熱的……死――」
「まったくなにもない、平坦にな世界。それを、俺の文化では、《白》って呼んでいる」
 エリは息を呑んだ。アルヴィの言っていることはほとんどよくわからなかったし、見せられた映像も、くらくらして、ほとんど頭が付いていけなかった。
 けれど、一つだけ分かったものがある。
 それは、彼の抱える、いや、彼だけじゃない、本当はこの世界自体が抱えている、途方もない絶望だ。
「《白》は時間が経てば必ずやってくると、ずっと昔から、予知されていたものなんだ。でも、それは人類が築いてきた文化では、本質的に防げないことも同時にわかっていたことなんだ」
「防げない……」
「時間は、止められないから」
 エリは、はっとした。さっきもアルヴィは同じことを言った。全然考えている事柄は違うといえ、時間が経って欲しくないと思っていたのは、エリだけじゃなかったんだ、と不思議な気がした。
「時間……お兄ちゃんは、時間を止めてるの」
「止められるもんなら止めてるな……」
「でも、お兄ちゃんのやっているのは、《白》から街を守ることだって」
「……俺がやってるのはただの悪あがきだよ。《白》を吸い取って、別の空間に――まあ、ゴミ箱みたいなところだな――集めて捨てているだけで、《白》の量を減らしているわけじゃない。だから、いずれ、宇宙が《白》で満ち溢れてぱんぱんになってしまったら、その時はこの街だって例外じゃなく、《白》に侵される運命なのはわかりきっているんだ」
「ねえ、《白》がくると、世界はどうなるの」
「観測されている限りでは――、いきなりなくなってしまったりは、しない」
 アルヴィは《白》に侵された数々の街の様子を語った。《白》がくると、あの独特の光沢をまとった白に一面が塗りかえられてゆき、そして、建物や人々がそのままのオブジェのように固まって、動かなくなってしまう。そして、全く動かない、死んだ町になってしまうんだよ、としんみりと語った。
 その語り方は、まるで彼がその様子を間近に見たことがあるかのようだった。
「死んだ……」
 エリは、死んだという言葉の意味がわからなかった。
「その人の時間が、そこで止まってしまうんだ」
「……」
 エリは、アルヴィの言っていることがさっきと違う、と思った。さっき彼は、確かに時間を止めたい、と言った。しかし今は、時間を止めたくないと言っているように聞こえた。
 このとき、エリは大きな間違いを犯していた。そして、アルヴィも、同様に大きな間違いをしていた。エリの幼さ故の間違いに気付かないまま、彼女を大人扱いしすぎていた。
 エリは、宇宙の終焉、世界の終焉がある、ということを先に知ってしまったけれども、そもそも、普通の人に当たり前のように訪れる、ごく普通の死ぬということ=生命の終焉について、そもそも知らなかった。
 そして、エリは呟いた。
「あたしも、時間、止めたい」
アルヴィは妙なことを聞いたような顔をしたが、それ以上何も言わなかった。
アルヴィはモニターの投影を消し、エリたちの周りの様子は、一面の暗い宇宙から、すっきりした普通の部屋へ戻った。

6.


夕方、エリが家に帰ると、誰もいなかった。
 エリは、今朝のままのように、玄関にきれいに靴を並べなおす。そして、これで、今日こっそり外出していたことは知られなくて済むとほっと安堵する。
 それから、しばらくエリは今日のことに惚けていた。
あらためて考えれば、お兄ちゃんの言っていたこと、見せてくれた世界はよくわからないものばかりだった。しかし、わかってしまったことも多かった。街の外まで迫っている、《白》のこと。時間のこと。そして、淋しい未来の事。
エリは昨日のエリとは全然違うエリになってしまったのだと思った。
遠くに行くのが怖いっていう、駅が怖いって言う、エリの直感はその通りだったんだな、とエリは確信した。
そして、幼い少女は、その直感を、来年からの街の中心部で始まる、中学校の様子に重ね合わせて想起した。
もちろん、エリにとっては中学校は遠いとは言っても、同じ街の中の場所であり、そこは知らない所じゃないし、一度だけ食べに行った寮の食堂も美味しかったから、そういうんじゃなくて大丈夫だっていうのは、頭では十分わかってる。
けれども。
それでも。
やっぱり、遠くには行きたくなかった。ずっとここに、お兄ちゃんのそばにいたかった。
 動かなくなってしまうのは、淋しい。
けれど。
遅かれ早かれ時は進んでいくのだとしたら。
愛していた人とはいずれはなれて、皆見えないところへ消え去ってしまうとしたら。時を、人々を、そのまま固めてしまって、永久に留めておけるなら、それは次善策のように、若干9歳の少女は思ってしまった。

ずっとずっと、今日が続いて欲しかった。
未来になんて、なって欲しくなかった。
遠くに行ってしまって、お兄ちゃんとあえなくなったりしたくなった。

大人の言葉でいえば、それは、少女のエゴ、というものだろう。
しかし、少女の気持ちでいえば、それは「夢」だった。
ずっと一緒にいたい。それだけ。

 すこし後に帰宅したママの手には、大きな紙袋があった。
ママが新着のミドルスクールの、スクールウェアが届いたのよ、とその紙袋から新品の服を取り出して、嬉しそうに見せてくれた。とっても可愛いでしょう、とママはまるで自分のことであるかのように自慢げに言う。エリは、ため息をついてから、着るのはママじゃないよとだけ言い残して、そそくさと自室へ部屋へ戻って行った。
あと1カ月で、小学校(エレメンタリ・スクール)は終わってしまう。頭ではわかっていたけれど、もう、時間はないんだ、と少女は確信した。
その日の夜、少女は家を抜け出した。


エリは、角砂糖の家の入口の前に立った。すう、と大きく深呼吸してから、インターホンを押す。
アルヴィが驚いた顔をして玄関に出てきた。
「どうしたの……」
エリは、何も言わなかった。極力アルヴィに目を合わせないように下を向いた。
「……」
「夜は遅いんだから、今日は帰りなさ……」
アルヴィの脇の下に開いたスペースをエリは見逃さなかった。エリはアルヴィの左手を押しのけて中へ入っていく。そして、全速力で階段を上っていく。
「お……おい」
エリの背後から、アルヴィの動揺した声が微かに聞こえた。

 幸か不幸か、エリは場所に関する記憶力には自信があった。
エリはすぐさま目的の場所――白くて四角い家の中でひときわ目立つ、黒くて四角いタイルのある場所――へ辿り着いた。
昨日アルヴィが離していたことをエリは思い出す。この黒いタイルの部分を触ると、この街の扉が開いて、外の《白》が入ってきてしまうんだと、お兄ちゃんは言っていた。
アルヴィがまだ来ないのを見計らって、エリは、壁の、黒い部分をそっと撫でた。
その直後には、何も起こらなかった。
しんと静まり返る部屋の中、息の上がったアルヴィが飛び込んでくる。
彼は青ざめた顔で、何か言おうとして、しかし上手く言葉に出来ずに、エリに覆いかぶさった。
アルヴィは壁の方に手を伸ばず。
エリはなぜかその手を払いのけた。
よくわからないけれど、何が何でもこのまま、エリの大好きな街を、このままの状態で「固めて」しまいたかった。

突如。
遠くで爆風がせきこむような音が聞こえた。

エリは驚いて、覚えていた青色のパネルを触った。壁に窓が出来て、エリが底を覗きこむと、その小さな窓の外に、驚くべき光景が見えた。
街の四方から白という白が、街の境界を侵食してやってくる。
エリはかつて、街の境界に行った時の景色を思い出した。あの、境界が、どんどん中に迫って来ているのかもしれないと感じた。だが、よく見ると、かつて見た境界の向こうとは、違うことに気付いた。白く塗りつくされた世界は、あの境界の外側のように、決して平坦で何もない世界になったわけではなかった。
街の建物は、植物は、そのままの形で上からペンキをかけられたように白くなっただけだった。
風になびいていた樹木が白くなるにつれ、静止する。
時間が止まったのだと、エリは理解した。

確かに、見慣れた景色が白く塗りかえられていく様は、怖かった。
けれど、これがエリにとって、今望む世界そのものなんだと、固唾をのんで見守った。
それほど、エリは、変化を恐れていた。そして、中学の寮生活、アルヴィと離れ離れになることを。
白くなった世界は、異様だったけれど、今のエリには魅力的で美しいように見えた。だって、そこには、そのままの形で街が保存されるから。
 遠くてよく見えないけれど、人々や犬なんかも、木と同じように止まっているんだろうということも想像できた。
 進んでしまう、今、というこの瞬間を止めて、保存できるなら。
 何だって、構わない。エリは心底そう思っていた。

アルヴィはもはやエリの様子に構うことはなく、真剣な表情で何か壁のパネルを触って懸命に操作をしている。彼の指の動きに伴って、様々な文字記号が壁に表示されては消え、表示されては消えを繰り返している間、エリは呆けて外を眺めていた。
 様々な淡い色にあふれる平穏な午後の町が、遠くの方から、徐々に徐々に白一色に塗りかえられていく。
 エリの背後から、
「……だめだ」
という呟きが聞こえた。
エリが振り向くと、
「どうしてこんなことをしたんだ」
と、アルヴィが強い口調で言った。これまで聞いたことのないような真剣な喋り方だった。それは、彼が他の大人に対してすら見せたことのないような表情だった。
「ずっと、一緒が、良かったから」
アルヴィの目が見開いた。
「遠くの中学校(ミドルエイジスクール)、行きたくない。遠い寮なんか、行きたくない。世界が、ずっとそのままになるなら、ずっとお兄ちゃんと一緒にいられるって……」
それは少女に喋れる精いっぱいの切実な願いだった。それ以上の理屈は無いし、それに少女は「死」を知らない。
「死んだら、意味がないだろう!」
 アルヴィの声は痛切な叫びのようにも聞こえた。でも、エリはその「死」がわからなかった。
「死って、なに」
「……おばか、さん」
アルヴィはふっと笑い、目を細めてから、少女をぎゅっと抱きしめた。それは今までのような、でもその幾倍も愛情がつまったような感じで。
「君はもう少し大人にならなきゃならない」
お兄ちゃんの体温を感じた。
そして。
この建物にも《白》が侵入してきた。
それはまず壁の割れ目から、そして窓枠の隙間、エアコンの通気口から部屋に染み入った。

アルヴィは一瞬後ろを振り向いて状況を確認し、すぐさまエリの口元へ顔を近づけた。あまりに急だったのでエリは何が起こったかわからなかった。
彼の口からドロップのような、かすかに甘い、不思議な輝きの滴のような物が流れ込んだ。それはエリの喉へ流れ、すぐに身体へ収まった。
「これで、君は死なないよ」
白は、もうエリたちの足元まで来ている。
「まだこの街の外側、白い砂漠の向こう側には、オアシスのような、ここみたいな、「生き残った街」が何個か、あるから、駅から線路を伝ってそこへ行くんだ、そして……」
そうこうしているうちに、白がアルヴィの足元からはいあがり、そして背中を覆ってゆく。アルヴィの口は懸命に動いていたが、エリに、その一言一句を聞きとる余裕はなかった。
しかし、最後に彼が言った言葉だけは、はっきり聞こえた。
青年は強い声で言った。
「エリ、君は生きろ」

その直後、アルヴィは少女のもとへ崩れ落ちた。

そして、そこからエリは彼(ひと)が静止して(しんで)いくまでの一連の様子をつぶさに感じとった。
呼吸が、急激に粗く、そして、その後(のち)だんだん静まって行くさまを。
温かい血流のぬくもりが、消えていくさまを。
そして―――《白》に侵されていくさまを。
全てを目の当たりにし、そして肌で感じ取った少女は、これが「死」なのかと、ようやく理解した。
少女はその短い人生で、初めて後悔した。自分の知らなさを恥じ、そして、本当に心底謝りたいと思った。

 しかし、時間というものはすでに残酷だった。

街を《白》が殉じに侵していくなか、アルヴィの肉体へも、同じように《白》が侵食していった。さっきまで生きていた、彼だったはずのものは忍び寄る《白》に背中から侵食され、その形のままの彫刻のようになっていく。それは、例えて言うならば足元から石膏像を制作していく様子を早回しのビデオで見ているようだった。

でも、少女だけは白の餌食にならなかった。
アルヴィが口写しでくれた、その透き通った水色の滴が、少女の身体を守ってくれたから。
そして、とうとう、少女以外の街の全ては、《白》に侵食されてしまった。

 かなり長い間、少女はその場で呆けていた。

 そして、ふっと何かに憑かれたように、立ちあがり、歩きだした。
 少女は角砂糖の家の外に踏み出した。
目にしたものは、真っ白に様変わりしてしまった景色だったが、その中で、生きているもの、かつてのままのもの、何か、誰かがいるかもしれないと一抹の乾いた希望を信じ、探す。
 
少女が歩いていたのは、不思議な空間だった。
周りは見慣れた景色。でも、皆動かない、固まっている。そして、どれもが、そして誰もが真っ白だった。

パパのオフィスに行った。
ママのマーケットに行った。
メグやリリィのいるはずの公園に行った。
 大好きなあの人やこの人達が、皆、そのままの姿で、固まっていた。
 エリは、途方もなく切なくなった。
 もちろん、途中で何度も泣いた。わんわん泣いた。そして、泣きじゃくりながら、目をはらしたまま少女は街を歩き回る。
 けれど、誰も、その少女の様子を咎める人はいない。勿論、風船やアイスキャンデーでなだめたり、そっと慰めてくれるような人も、どこにもいない。

エリは、この街の状況を把握した。
エリはようやくわかった。「死んでいる」とは、生きていない、ということなのだと。それは、そのままの形で保存できて素晴らしい、だなんてことでは、決してない、ということなのだと。
ふと、かつて、アルヴィが言っていたことを思い出した。
まだ、この世界には《白》に侵されていないオアシスのような場所がぽつぽつと存在しているという。駅から線路を伝っていけば、そちらへ行くことができる、と。
少女は駅へ向かった。
駅も例外でなく、そこも真っ白だった。白に侵されていた。しかしプラットフォームから車(トロッコ)を覗きこむと、向こうに線路が見えた。
門が、開いていた。
エリは、しばらくそこへ佇んだ。
アルヴィがエリに最後に何を託しただろうか、と少女は考えた。
「外へ行って、生きろ」と。彼は私に青い滴を託すとともに、そう言った。
きっと、と少女は考える。その青い滴が有れば、おそらく彼のように、外の白にまみれた世界を一人で旅することが出来ることだろう。
しかし、少女はそこに行く気にはなれなかった。
少女にとっては、この見知った街の中で、大好きな人達、犬猫、鳥達、学校、時計塔、公園、商店街……等などの見知った場所、が世界のすべてであった。
それ以外には、どんな世界へも行きたくない。

けれど、アルヴィの託してくれたこの思いも、無駄にしたくない。

そうして、少女は、この白の世界の、そして例にもれず白に染まりきった狭い6畳の自室に、引きこもった。

7.


《白》がこの街を覆い尽くしてからというもの、少女は懐かしいものに対して、怖くてあえなくなった。

少女は心を鎖し、真っ白な自室に閉じこもった。何を見聴きもせず、ただひたすら、思い出の中に生きた。どんなに動かなくとも、何も食べなくとも、少女は死ぬことはなかった。それどころか、身体は健全な成長を伴い、身長はぐんぐんと伸びた。

 少女の心は周りの白と同じく停止従っているのに、身体はどんどん健康的な輝きに満ちて成長していく。なんと皮肉的な光景だろうと思った。

そして、十年ほどたったのちのことである。
ふと、少女は今まで拒絶してきた、「懐かしい物たち」に会いたくなった。

少女は十年ぶりに扉を開けた。世界は白にまみれていて、埃一つ立たなかった。
コツコツという不器用な足音を響かせながら、少女は懐かしかったはずのあの街に踏み出した。

世界は真っ白だったが、少女がかつて外への境界にて見たような「平坦」なものではなかった。それまでの構造物がそのまま、色だけが真っ白になって、保存されていた。少し歩くと道を行き交う人々の生活の瞬間が、そのままの形で保存されていた。まるでジオラマのようだった。
少女は、もっと何もなくて、平坦で、人々の面影すらもうこの世界には残されていないものかもしれないと、覚悟していた。その予想はいい方に裏切られたので、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ、少女は安堵した。

パパのオフィスに行った。
ママのマーケットに行った。
メグやリリィのいるはずの公園に行った。
いろんな懐かしい人達の、生活の一場面が、ありありと思い浮かぶような、その瞬間を切りだしたような光景がそのままの形で保存されるのを眺めていくにつれ、だんだん、なんだか悪くないじゃない、と少し嬉しさすらも感じるようになってきた。
それほど、少女の心は「生」からも「感情」からも隔離されていた。

そして、少女は、あの、「白い角砂糖」へも向かった。もともと白かったその建物は、まったく昔と同じままいるように見えた。
妙齢になったはずの少女は、一瞬だけ、その建物の戸口からアルヴィが出てくる光景を夢想した。
勿論そんなはずはない。
だが、そんな奇跡が起きうるんじゃないかと思えるぐらい、その建物は、その建物だけはありし日の通りのままだった。

エリは、建物に踏み入れるのに一瞬躊躇した。
わかっている。彼は、他の人と同じように、止まっていて動かない。二度と喋ることはない。きっとあの時の姿のままだってことは。
でも、それでも、エリはアルヴィに会いたかった。
彼を一目見て、もう曖昧になりつつある記憶を、再び鮮明に思い出したかった。

そして、エリは、あの時の部屋に向かう。エリが過ちを犯したはずのその部屋へ。
エリは思い切って扉を開けた。
アルヴィがそのままの姿でそこにいた。

彼は思っていたよりずっと若くて、今のエリとあまり年齢が変わらないことに驚いた。
エリは彼の顔を眺めた。
勿論悲しかったけれど、多分、今のエリの心はそういったものを感じるにはあまりにも鈍感で、彼女はそれよりもかつての記憶を、温もりを感じたいという気持ちでいっぱいだった。
彼女は、そっとアルヴィに近づく。
そして。
エリがアルヴィに触れた瞬間、彼の「石像」がさらさらと崩れ落ちる。
彼だったものは床に白い砂となって散った。

―――彼が、本当になくなってしまった。

少女はそれに気付いた途端、涙した、とめどなく涙があふれ、そしてわんわん泣いた。一生分の涙を使いきるかのように、床に膝をついて、声をあげて泣き喚いた。
まるで世界を涸らすかのように。
絞りきって枯れてしまえばいい。そう少女は心から願った。本心で希った。

だが、世界はそうさせなかった。

彼女はその場で、放心したまま座り続けていた。太陽が幾度も登って沈み、そして同じ分だけ月や星が輝いた。
しかし、やはりエリは死ななかった。
ふっと、エリは行くあてもなく立ちあがる。

彼女の身体(なか)にある、彼から受け継いだあの青い滴がある限り、少女はこの世界の行く末を見届けなければならないから。

《白》

《白》

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-15

Copyrighted
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