影追い

R-18用に書いた小説なので、多少、性描写がありますのでご了承を。

私はあなたの影を追う。

外は情熱的な朱色に染まった建物が連なって、陽がもうすぐでふたつのビルの谷間に滑り落ちようとしていた。その完全に落ちる前の、西日の名残惜しく放つ熱を額や頬、首筋に感じながら、私は電車の手摺に背をもたれかけ、昨夜読み始めたミステリー小説の続きの文を目で追っていた。車内には仕事に疲れた様子の会社員が何人もいたと思う。そして、部活帰りの大きなスポーツバッグを斜めにかけた女子高生の姿も。私はいつも通りに彼らの気配を感じながら、この日も彼らを見過ごそうとしていた。彼らは私の世界には入りこめない。私も彼らの世界には入りこもうなどとは思わない。ただ、彼らの落とした影に触れてみるだけ。
 耳の中に注がれる会話、何気なく吐かれた息、体から放たれるその人独特の匂い、つり革や手摺に触れた体液の跡、そして、床に落とす偽りのない影。無関心な素振りをして、私はそれらにそっと触れてみる。人と境目をつけたがる、距離をとりたがる、私の唯一の彼らとの疎通手段だ。
 それだけで、私は満足していた。それだけで、私は精一杯だった。
 自分の最寄りより二駅前の停車駅で、どっと多くの人が雪崩れ込むように入ってきた。次々と車内にしまい込まれていく人混みの中で私は、知らない人の無数の腕に押されて電車の窓に激しく顔をぶつけた。手に持っていた小説は鞄にしまう事もできずに、私の腹の中で押しつぶされて数ページが折れ曲がった状態になっていた。心の中で吐息をつくと、私は目の前の窓に視線をやった。眼鏡の縁が、窓ガラスにあたってかちかちと耳触りな音を鳴らしていた。
流れていく橙色の景色の中に、薄暗い大きな影が映った。影はずっと硬直し、一ミリさえも揺れずに私の影の後ろに貼りついたかのようにあった。それに気付いたのと同じ時に熱い息を感じた。ゆっくりと、静かな、それでも五感を震わすような深い息だ。
 それは私のつむじあたりに吹きかけられていた。微動だにしない影は、鼻と口で丁寧に人口密度の高いこの空間の気を吸いこんだり吐きだしたりしていた。舐められているようだ、と私は思った。見えない舌が、私のつむじから首筋にかけて、確かな熱と湿り気を帯びて這っていくようだった。咄嗟に私は不快に思った。そして、息の温もりに反応して体の内部に籠っていた熱がもうすぐで外に出てしまうのではないかと、不安に襲われ、その予感に怯えた。普段人に触れていない私の皮膚の感度は鋭く、そして脆弱だった。
 ちょっとした事故が起きて、電車が急停止をした。その反動で車内は大きく揺れた。その瞬間、小説を持っている方の手の甲と、眼鏡のフレームがあたらないようにと俯かせた頭を、窓ガラスに押し付けられた。それがきっかけで、後ろの影から手が伸びてきた。筋肉質というよりもどちらかと言えば肉付きの悪い骨ばった腕が、私の左頬を掠めるようにして、すっと伸びてきて、私の前にあるドアに手をついた。影の差しだした腕の幅が私の空間となった。
私はそっと深呼吸をした。
そして、背中におろした髪が少しだけ軽くなるのを感じた。
影が私の髪の束を触っている。そう気付いたのは、影のごつごつした指の関節が背中に時折あたっていたからだ。感じたのは恐怖ではなかった。不思議と、私は影に一度も染めた事のない健康な自分の髪を触られることに何か遊戯の最中にいるような甘い愉悦を覚えた。耳の側で、影の指の腹で擦り合わさった毛先の乾いた音がした。その音を聞いた途端、私の子宮の奥が熱くなり、じんわりと快感に似た痛みが広がった。私の短く切られた呼吸を脅かすように、影の呼吸音は深みを増していった。
私は思い出していた。
自分の体に覆い被さった大悟の瑞々しい肉体を、耳の裏に感じるかすれた声交じりの吐息を、探るようにではなく迷いもせずに私の髪の間に滑りこむ器用な指達を、そして頭を包みこんでくれる優しい手の平を。
「明子さんは、肌が綺麗。きっと体を流れている血や水が綺麗だからだね」
あらかじめ決められていたかのような淀みのない手順を踏んで全ての行為を終えた後、眠たげな瞼に細められた目で、私を優しく見つめながら大悟はそう言った。瞳は恍惚と濡れていて、だからか、私はその言葉を未だに嘘だとは信じていない。
電車が動き始めて、影は私の髪から手を放した。夢から解き放たれたように、酩酊状態から覚めた私は頭を上げ、窓の奥にある紫紺色の景色の中に立ち並んでいるビルに目をやった。そこに映る私の背後に張り付いた影の色が薄らいでいた。

薄青暗い空に、滴がしたたり落ちてきそうなくらい丸く肥えた月が浮かんでいた。その月明かりで、白く濡れた狭い歩道を私達は歩いていた。私達は、歩いていた。
背後に迫ってくるのは、先程の影であるということを私は知りながら、普通ならば怯えるはずのところを悠然とした態度で構え、足を前へ前へと運んで行った。遅れたり速まったりしながら、影の足音は私の跡を踏むようについてきた。私は交番の前を通り過ぎた。すがるはずの所を、わざと見過ごした。
影は、私をいつ捕らえるのだろうか。私は影に捕らえられるために、突き放すように走り始めた方が良いのだろうか。自分の出方を逡巡しながら、私は足音を速めていく。
煌々と輝いているコンビニの角を曲がった所で、忽然と影の足音は消えた。え、と不意に口先から声がこぼれ落ちた。私は、もう一度、自分の来た道を戻ろうとした。私についてきた影を探しに。
コンビニの前を通ると、そこには高校生くらいの若い男の子と女の子が、駐車場に止めた自転車の前で、真っ青な着色料で染められている棒アイスを口に運んでいた。背の高い影らしき姿はどこにもなかった。私は影の姿を求めに、白く発光するコンビニの中へと入って行った。
中に入ってすぐ左隣の雑誌コーナーに、私の方を鋭く一瞥する気配を感じた。私はそちらの方を見た。果たして影がいた。影は黒いキャップを深く被り、真夏なのにも関わらず黒い長袖の綿のシャツを着ていた。下は、濃紺色の細身のジーンズを履いていて、背負っているリュックも同じ濃紺色。影は、私の事を知らないふりをして、漫画雑誌に読み耽っている態度を見せていた。私は、ゆっくりと影の方へと近寄った。私が近寄ると、影は、身を少しだけ逸らして、横顔を向けたままもう一度私に一瞥をくれた。私は、影の方をじっと見据えていたので、影の視線と重なりあった。静かな暗い瞳の中に燃えるような鮮紅色のひかりを見たような気がした。そしてそれは、私の視線に唆されて灯った明かりだと瞬時に私はそう解釈をした。
喉の奥で音を鳴らした。この場が気詰まりのような、くぐもった咳を、影はした。
自分の前に置かれている、女性用ファッション雑誌を私は手に取り、影のすぐ隣で読んでいるふりをしながら私は低い声で影に言った。
「あなたが、さっきの人ね」
すぐさま影は、持っていた雑誌を元に戻し、早足でコンビニから出て行こうとした。私はその影の後を追った。コンビニの外に出ると、さっきの高校生達が私をじろりと見ていた。私はその高校生の女の子の方の剥き出しになった細く長いフラミンゴのような桃色の脚に一瞬、目を奪われて、そして影の背に向けた。影は、びっこを引きながら、歩いていた。右足が、不自由のようだった。
どうして、つけられていた時にこの事に気付かなかったのだろう。もしかしたら、影はこの人ではないかもしれない。そう私は狼狽しながら、それでも影を追う足を止めなかった。
公園の茂みの中へ、影は消えた。いや、消えたのではない。影はその暗闇の景色と同化してしまっただけなのだ。私は影を探した。公園にぽつぽつと佇んでいる街灯に、蜂が集ってバチバチと羽根で叩く耳触りな音が聞こえた。今まで悠々としていたのに、急に不穏な気配が立ちこめ、私はこの暗闇に初めて恐怖を覚えた。
あの、と掠れた声が聞こえるのと、陶器のような冷たく硬質な手が私の腕を遠慮がちに掴むのが同時だった。私は息を詰めて、体を強張らせた。それは、昏い中でも影に伝わっていたと思う。
「怖がらないでください」
煙草と酒にやられたような、少し渋味のある声だった。
「あなたは、やっぱり電車の中の」
体を強張らせたまま、私は言った。
「そうです」
「私の髪を」
「すみません」
「どうして」
「その理由は僕にもわかりません。近くで甘い香りがして、それが君の髪で。つい、触りたくなった」
「ついてきたのは?」
「その理由も上手く説明できません。足が自然とそちらへ赴いた。本能のようなものでしょうか」
私は、自分の腕を掴む影の手から腕へ、更に肩から首へと、目を順々に上に向けていった。最後に辿り着いた顔に、思わず息を呑んだ。影の顔に、大悟の顔が重なり合っていた。
 先程、コンビニの中で見た影は横顔しか分からなかったが、真正面から見ると、大きくて吊り上がった目じり、細い鼻の筋、女性のような肉厚で整った唇、そして寛容そうな丸い顔が、薄昏いなかで判然とわかった。そしてその全てが大悟の特徴と同じであった。
 暫く放心して、影の面を見ていると、
「すみません」
と、重ねて影は謝る。
「なにが」
と、惚けて尋ねると、
「君を怖がらせるような事をしてしまって…僕はそんなつもりじゃなかった。言い訳にしか聞こえないかもしれないが、僕は君に束の間心を奪われたんだ。本当に、無意識にやったことだった」
月並みな弁解にしか聞こえないことを影は言った。私は影の腕を掴んで引っ張った。影は、私の顔のすぐ近くに来て、戸惑ったような顔をして唇をきゅっと絞めた。
「田崎明子」
「え」
「私の名前を知らないでしょ。教えてあげる。田崎明子」
「明子…」
「あなたの名前は」
自分の名前を言おうと口を開いた影を制して、
「篠田大悟。あなたの名前は、篠田大悟よ」

 篠田大悟は、私の部屋に上がると緊張した様子で、端坐していた。
「帽子くらい取ったら」
そう、冷たい紅茶を淹れながら言うと、大悟は私の提案に素直に従って、被っていたキャップを取った。初めは、軽く染めているのかなと思ったが、つむじの辺りに伸びた黒い髪もなく、人工的ではない自然な色だったので、茶色く見える髪は、ただ単に色素が薄いだけなのだと知った。
 テーブルに、カップを置くと、おずおずと手を差しだし、大悟は両手でカップを大事に抱えこむように持ち、その小さな口に紅茶を運んだ。ごくりと飲み干す音が、小さな部屋に大きく響いた。
「私、この部屋に人を入れるの初めてなの」
大悟は、長く伸びた前髪から覗くように私の瞳を見た。
「だから、大悟は特別だね」
僕で、と大悟は言いかけて、咳払いをしてもう一度言いなおした。
「僕で、僕なんかで良いんですか」
私は大悟を見据えてから、そっと微笑んだ。笑みを向けられて、大悟は恥ずかしそうに肩を竦めて俯いた。俯いた時に上から見えるすっと伸びた鼻筋の形は大悟そのものだと、私は大悟になった影を恍惚と見つめた。
「大悟はもしかして兄弟いる?」
本当の繋がりがあるのかもしれないと心の底で期待して、そう聞くと、
「いません。僕は一人っ子ですから」
遠慮がちにボリュームを落とした声でそう答えた。
「今実家暮らしなの?」
「いえ、会社の寮に住んでいます」
「寮?」
「はい。高校を出てすぐに、工場に就職して、寮に」
「門限は?」
「門限はないんです」
じゃあ、と言いかけて私は、口を噤んだ。大悟は、なぜ止めたのか怪訝そうな面持ちで私のことを見てくる。その瞳を簾のように覆うまつ毛が長い。
「今、私は何を考えていると思う?」
大悟は、え、と口を開いて、そして何かを察したのか視線を床に落とした。私は、テーブルの上に無造作に組まれている大悟の針がねのような指を見た。爪は綺麗に切りそろえてあり、表面はトップコートを塗ったように滑らかな光で輝いていた。自然と私はその指に指を触れてみた。初めは、突然触れられた事に驚いた自然の反射で、大悟は手をひっこめたが、やがておずおずと私の方に差しだした。私は、大悟の手を取って、指を絡ませた。
「大悟、私は怖がってなんかいないよ。被害者だとも思っていない」
なぜなら、とその理由を語るように私は大悟の手の甲に、そっと唇をつけた。
私と大悟は、共犯者だ。
「綺麗な手」
「明子さん、正直僕は君の考えていることがわからない」
「わからなくてもいいの。私は人と理解し合うことなんか望んではない」
「怖くはないのか。もしかしたら僕は君をもう少しで…」
「怖いなんて。安心するの。だってあなたは、大悟だから」
「僕は」
そう言いかけて、大悟は立ちあがった。私は大悟を仰ぎ見た。
「帰ります」
頭から、さっと熱が冷めていくのを感じた。またあの時のように、私の手から大悟の手が離れていく。その事が、何より怖くて、もう一度味わう底しれない悲しみが待ち受けている事が怖くて、私は幼子のように声をあげてみだらに泣き始めた。
「大丈夫か」
泣きじゃくる私を見下ろす格好で大悟は聞いた。
「行かないで欲しいの。また、一人にさせるの?」
「何かあったようだけれど、君の言っている大悟は僕ではありません」
「いいえ。あなたは大悟なの」
「君は少しおかしい」
「ならあなたは」
大悟は、困ったように眉を下げて、ふたたび床にしゃがみこんだ。そしてリュックから取り出したタオルハンカチで私の頬に軽くあてるように涙を拭いてくれる。
「眼鏡が汚れている」
眼鏡を外されて、私は大悟から顔を背けた。そして、大悟の肩をとんっと軽く突き飛ばした。大悟はバランスを崩し、その場に尻をついてそして驚いた顔をした。
「どうしたの」
「嫌だ。私の素顔を、大悟は嫌う」
「僕は嫌わない。見せて」
甘く誘うような低い声で、大悟は私に近寄り、私の小さな顎に指先を触れさせて、そっと持ち上げた。すぐそこに、大悟の顔があるというのに、自分のこの目には、薄紙を幾重にもずらして合わしたように膨張してしまい、その形が判然と見えない。いつか、大悟に眼鏡を取った姿が、まるで白痴の女のようだと言われたことを思い出し、私はまた大悟から顔を背けた。
「全然見えないのか」
「早く返して」
私は、闇雲に伸ばした手で、大悟から眼鏡を奪い取り、素早くそれを自分の耳にかけた。
「私の瞳、死んでるの。怖かったでしょ」
自嘲を含んだ口調で言った。
「僕は全然気になりません」
「嘘」
「もう一度、見たい」
冗談だとは、受けとれない真剣な眼差しを向けて、大悟は言った。私は目の前の大悟を怖くも感じ、素直に嬉しくも感じ、そして愛しくも感じた。私は、大悟の首に自分の腕を絡ませて、頭をこちらに引き寄せ、唇に唇を重ね合わせた。大悟は初め怯んだように、唇を離そうとしたが、やがて私が唇を開け熱い息をかけると、それに官能したように深い息を洩らして舌先を中に入れ始めた。 
私の腹部の奥で、薄い殻に籠った熱が、漸く裂け目を見つけ、中から逃れるように外部に洩れていくのを感じた。
 唇を離さないまま大悟は、私の腋に腕を入れて、強く抱きしめられた。155cmしかなく痩せ形な私の体は、大悟に悠々と持ち上げられた。そのまま、大悟は私をベッドの方へと運んで行き、優しく押し倒した。首筋に大悟の舌が這っていくのを感じながら、私は、本当の大悟が行った手順や技巧を思い出していた。当然だが大悟になった影は、それとは違う。息があがっていくのは、上に乗った仮の大悟だけで、私は次第に目の前の大悟から、興味を失っていった。上着を脱がされて、下着の中に手を入れられた時に、突如恐怖が襲いかかり、初めて行為を受ける女の子のように、首を大きく横に振り、何度も嫌だ、と強く拒んだ。大悟の顔を見ると酷く傷つけられたような表情をしていた。私は、共犯者を装いながら、結局、その実体は被害者であった。
 
「すみませんでした」
そう、小さく大悟は呟いた。上着を身につける私の隣で、体育座りで壁に寄り掛かりながら、陰影のある横顔を見せていた。
「私から誘ったの」
「でも、君は怖がっていた」
「ごめんなさい。思い出してしまって」
「彼の事ですか。なんだか皮肉だな。彼に似ているから僕は君と近付けられたのに」
「やっぱりあなたはあなたよ。大悟ではないの」
もう既に私の中で、大悟は影になっていた。私の後ろをついてくる静かな影に。
 身なりを整えた後、影はそっと寄り添うように私に近づいてきた。そして後ろから私を、そっと包み込むように抱きしめ、私の髪の毛に鼻先を近付けた。私は、びくりと体を震わして、自分の身から影の体を離そうとした。だけど私を包む影の二本の腕は、より強くなり、簡単に私を離そうとしない。
「僕は君の前なら誰であっても構わない」
「あなたでなくとも?」
「それが側にいられる手段であるなら」
「あなたはいつもそうなの?」
「ん?」
「他人と重ねあわされることに腹を立てたりせず、自分を犠牲にしている」
「犠牲になんかしていない。僕は利用しているだけさ」
「あなたの本当の名前を教えて」
首をねじって影の顔を見た。重なり合っていた大悟の顔が、そこから落剥していた。目も鼻も口も、もう私にとっては何の意味を成さなかった。
「言わないよ」
影は、口を閉ざして、私の髪の中に顔を埋めた。


私は影の名前を知らないまま、休みの日に影と街を出歩くようになった。
「今日は夕方から雨が降るって」
影は私に会うと最初に、挨拶の代わりとしてその日の天気のことを言う。私は、鞄から雨晴れ兼用の日傘を取り出し影に見せた。影は安心したような、少しがっかりしたようなどちらともとれない曖昧な表情を作って薄桃色のカーディガンに隠れた私の手をそっと取り歩き出す。同じくらいの歩幅でびっこをひきながら歩きだす。いつも影は私と同じ横線の位置にいる。
 どこに行きたい?なんて野暮な事は聞かない。影も私と同じ種類の人間のようで、二人を囲む風景には関心を示さない。私と影はただ、いつでも互いの体の温度を確認し合えるように、手のひらを合わせて、お互いに敬意を払わない街を歩く。今日は曇りで空が白く塗られている。
「大悟、今日はお弁当を作ってきたの」
大悟と呼ばれた影は、驚きと嬉しさを合わせた顔でこちらを向く。最初、再び影を大悟と呼ぶことを躊躇ったが、影は彼の名前を読んでくれた方が、僕が君の側にいることを許されるようで気が楽だと言ったので、私はまた影を大悟と呼ぶようになった。
「嬉しい」
そうひとことだけ言って大悟は、笑う。慣れない、不器用な表情で。
 公園の芝生の上に水色のチェック柄のビニールシートを敷いて、その上に影と私は座った。大悟は小さな膝を合わせて、その上に手を礼儀正しくちょこんと乗せて、正座をしている。
「足を崩して」
私に指摘された大悟は、足を崩して、ぎこちなく胡坐を掻いた。私がお弁当箱の蓋を開けると、顔を近付けて、普段は一粒の光さえ見えない瞳を輝かせた。よくその瞳を覗けば、綺麗な透度の高い薄茶色であることがわかる。
「これは何?」
「厚揚げの照り焼き」
「これは?」
「ハンペンの海老カツ」
「うまいな」
「食べてから言って」
箸を渡すと、大悟は首を鶏のように上下に何回か動かして、親指と人差し指の間に箸を入れ、合掌をした。自分の手作り弁当を拝まれた私は、なんだか恐縮をしてしまって、正座をした。紅玉のように健康そうな血の色で輝く唇を歪ませて、大悟は海老カツを舌の上に乗せるように口に運ぶ。一口、ふた口、食べた後、ゆっくり咀嚼をしながら大悟は唇に手をあてて、美味しいと小さく呟いた。私の顔はほころび、思わず大悟の頭を撫でた。細い毛の大悟の髪は、私の手のひらの中で、さらさらと乱れることなく擦り合わされた。
 何層にも堆積された雲は、高層マンションの屋上すれすれを漂うかのように、低く垂れこめている。私の太ももの上で、瞼を閉じて寝ていた大悟が、突然、「あ」と声を洩らした。
「どうしたの」
「雷」
「うそ。鳴った?」
「うん」
大悟はむくりと起き上がった。私も同時に起きあがった。空を仰ぐと額に冷たいものを感じ、今度は私が、あ、と声を洩らした。雨だ。
 突然降り出してきた雨は、強さを増し、一気に芝生の上を濡らしていくのがわかった。近くの方で強い稲光を感じた私達は、急いでビニールシートを片付けて、公園の中にある東屋に避難した。雨は無数の鋲のように鋭角に地表を突いていく。
「明子さん、髪が濡れてる」
鞄からタオルを取り出して、大悟は、私の髪を拭いた。私は大悟に拭かれながら蜘蛛の子を散らすように去って行く先程まで公園に居た人達の姿をぼんやりと目で追っていた。
「眼鏡も」
外そうとした大悟の手を制して、私は彼に背を向き、ポケットから取り出したハンカチで拭いた。大悟は、その私の後ろ髪を触り、自分の鼻先に持っていった。既視感のようなものを感じ、振り向くと、大悟に装った影は口に私の髪の毛を咥えていた。
 怯えた表情でそれを見ていたのか、私の顔を見た途端、咄嗟に影は口から咥えていた私の髪の毛を出し、手を離した。そして誰かから叱られる予感を感じた子供のように視線を自分の足元へと逸らした。そんな影を私は不憫に思った。
「咥えてても、良いよ」
別に後ろめたい関係ではない。私達は合意の上で側にいる。
 何も言わない俯いたままの影は、自分のコンバースのつま先をじっと見ていた。前髪の奥で雨滴に濡れたまつ毛が震えている。私は足を前に運び、影に近づく。影は頭を背けて、僅かに後ずさりをする。
「不安なの?」
何が不安なのかはわからない。けれど、影の作る表情には不安の色が確かにあった。私は、わかるような気がしていた。
「はい」
雨音に遮られそうになりながらも、影の声は小さく響いてその波動が私の鼓膜に触れた。何が不安なのか、私が問う前に影は俯いたままで話し始めた。
「高校の時、好きな女の子に似たようなことをやってしまって、気持ち悪いと言われたことがあります」
「僕、気持ち悪い人間なんです。屑だし」
「好きな女の子ができても、話しどころか挨拶すらすることもできない。だけど、女の子と手をつなぎたい、キスをしてみたい、願わくば、それ以上のことも」
「結局、僕は明子さんにやったようにその子の後をつけることしか行動できなかった。その子の部活がいつも5時半に終わる帰り、いつも僕は彼女の後を、自転車を押しながらついていった。当時はその事が、軽い犯罪の領域に達しているなんて思いませんでした。純粋に彼女を求めて、体が動いてしまった事だけなんです。彼女の踏んだ後の地面を踏みたい。彼女の髪が通り過ぎた風を肺の中に永遠にしまいこみたい。彼女の後ろ姿を、ずっとこの目に留めておきたい。だけど、ある日その行為が完全に禁じられてしまいました。つけていた事がばれて、彼女は僕に、警察の電話番号が表示されているケータイ画面を突きだし、これ以上付き纏うような事をするなら通報すると脅しました。僕は悲しかった、と同時に腹が立ち、彼女の手首を強く掴みました。とても細い手首をしていました。今この場でへし折ることだって可能なんだと気付いた瞬間、僕の心は優位に立った。彼女は汚らわしい獣を見るような厭わしくそして怯えた瞳を僕に向けました。その事が逆に刺激剤となって僕の性的興奮を掻きたてさせられた。僕は、彼女のうなじを掴み、自分の方へ引き寄せ、無理やり唇を覆ったけれど、噛まれて僕の唇の端から血が出ました。多少腹が立ちましたが、僕の欲望は収まることはありませんでした。嫌がり抵抗する彼女の首筋に舌を這わせて、耳を噛み、彼女の髪の毛に自分の唾液をつけました。彼女は僕の腕の中で泣きじゃくる、ただのか弱い女の子となった。それが、今まで学校や家庭で虐げられてきた僕の優越となりました。彼女の髪を口に含み耳の傍で音を立ててそれを咀嚼し、彼女を更に脅かそうとした。それに誘発されたように彼女の目からは涙が溢れでてきて、悪寒に必死に耐えるように体が震えた。悲鳴すらあげることができない彼女の小さな肩を、僕はそっと優しく包みこもうとした時、通りすがりの人に見つかって、僕は」
そこまで一気に喋り上げたあと、影は頭を上げた。一緒にお昼ご飯を食べた時に、見たあの輝きはない、元通りの光のない昏いふたつの瞳が私を虚ろに捉えていた。私は曇ったガラスを隔てて覗くように、影のその瞳の瞳孔と虹彩の曖昧になった境目を探す。
「すみません。こんな話し、聞きたくなかったですよね」
どこかで雷の強い音が、鳴り響いたのを濡れた肌に感じた。

 雨粒は小さくなり、弱まりながらも、まだ降り続いていた。帰り道の途中で、ネオンの輝く隠れ家を見つけた私達は、霧となって街に降り注ぐ雨の気配を自分達のいる建物の向こう側に感じた。そして、私達は何にも脅かされない安全な居場所にいることを感じた。ベッドの上で体育座りになって、テレビを見ていると、クローゼットの側で影は濡れた上着を脱ぎ始めた。そして私の方を一瞥し、
「明子さんも。風邪ひくよ」
と、バスローブを投げた。私は、そのバスローブに顔を埋め、目の前で陽炎のように朧げに動く影の白い背中を見つめた。屈みこんだ時に、少し歪に曲がった背骨が浮き上がり、骨の節が見える程はっきりと見えた。影は思うように動かない右足を庇うようにして器用にズボンを脱いでいき、トランクスだけの姿になり、上に白いバスローブを羽織り、前を合わせた。その過程を全て見ていた私に、後ろ姿を見せたまま影は、
「明子さんが、僕のことをどう思っているのかわからないけれど、多分想像しているよりも卑劣で歪んだ醜い男だよ」
と、自嘲を含む声色で言った。
「あなたも私のこと、何も知らないわ」
影は虚無的な微笑を浮かべてこちらを見た。重たい前髪の向こうにある瞳が濡れているような気がした。
「理解し合うことなんて望んでいないと、前に言ったじゃない」
目の前に提示された科白をなぞるように、感情を込めずに私は言う。影は右足を引きずりながら、ベッドの方に近寄り、私の側に座った。
「知らないままで、いいんだよ」
知らないままで。今の私と影がここにいる。その事実だけで充分だ。
「だけど、僕は欲が出る。知りたい。知ってもらいたい。それでいて愛して欲しい」
私の目の前が暗くなり、影の息の匂いを感じた。唇が触れ合う。舌が絡み合う。腹部がぎゅっと締めつけられたように苦しみ痛み初めて、体中から熱が回る。下着が濡れている。
 濡れたカーディガンが張り付いた肩に、影の冷たく平たい手が置かれ、強く押された。私は、ベッドの上に沈み込むように倒れ、嘘っぽい蛍光色に光る青い天井を仰いだ。しかし、それを影の顔が遮る。影は私の顔を両手で包みこむようにして挟み、僕の顔を見て欲しいと請うように言った。影の顔を私は直視した。そこには、出会った最初の頃と同じく、大悟の顔が重なりあっていた。
「好きだ」
目の前が眩むような艶のある吐息交じりの声で大悟は囁く。私はこのまま、大悟の影に溺れてしまうだろう。それはこの隠れ家の中でひっそりと味わうひとつの快楽なのかもしれないが、傍から見た私達はいじましくも見えるだろうと、あらゆる感情が心の内で糾いながらも、冷静に思う自分がいる。惨めだと、そんな私達を憐れむ自分がいる。
 綺麗に切られた爪先が伸びて、私の髪の毛の中を彷徨う。撫で回された後、それを口に咥えながら、大悟は、私の衣類を肌から剥がすように除いていく。熱くなる耳の側で、大悟の粘り気のある唾液の音がする。小さく嫌、と声をあげると、大悟は更に興奮した様子で私の耳朶を甘く噛んだ。もう一度、嫌、と抵抗の音をあげることも考えたが、それは大悟の影に対して、ただ性的興奮を誘発するだけなのだと気付き、私は声を喉の奥にしまいこみ殺した。
 利害が一致している。私は、今目の前に上に乗っている男に、あの時の女の子の影を渡し、私は、大悟の影をもらう。双方とも、お互いの欲望を目の前の相手に心に名残ある影を写して満たそうとしている。
 下着姿となった私の太ももに、熱いものを感じた。大悟は、咀嚼を止めて、私の鎖骨に唇を持っていき、やがて臍の窪みに舌をつけた。それまで太股を撫でていた左手が、私の下着に移り、股のその境目を指先でじらすように、なぞっていく。性器に届いてない筈なのに、私は子宮の内側を引っ掻き回される感覚に襲われ甘い苦痛を感じた。そして下着の中に入ろうとする大悟の手首を掴んだ。
「知ってほしいと言っていたけれど、聞いてもいい?あなたの右足のこと」
「僕の右足は、交通事故で」
「そうなの。全然動かないの」
「麻痺しているからね」
「家庭や学校で虐げられてきたとさっき言ったけど。そのことと、それは関係あるの」
大悟は、黙った。そして。
「僕の親は精神に疾患を持っているんだ。両方とも。特に母の方が酷かった。子供の時から僕は、親にとって敵のような存在でしかなかった。子供の僕が食べられそうな食事は出されなかったし、裸にされて一晩中ベランダの外に出される事なんてしょっちゅうあった。衣服は使い古した薄汚いものしか与えられず、その事でクラスの子達から冷やかされたりした。ま、もともと内向的な性格だったし、どんなに良い服を着たとしても、いじめられていたのだけどね。中学の時、そのことで学校のカウンセラー室に通っていた。僕は話を聞いてもらうだけだと思い、全てを洗いざらい打ち明けたんだ。だけど、カウンセラーの人は、僕の親が僕に対してやる行為の全てを児童虐待だとみなし、担任の先生に話した。僕の担任は、家庭訪問と称して、探りにきた。隠すこともしない先生の猜疑心が光る眼で、母は、僕が家の事情をばらしたことを咄嗟に察した。母はそれでなくとも、被害妄想が強かった。先生が帰り終わった後、僕は何度も頬をぶたれた。金属バットで意識がなくなるくらい体中を叩かれた。僕は外に引きずりだされて、地面に寝かされた。起き上がる気力もなかった、少しずつ近づいてくる母の車のエンジンの振動が伝わっても。いや、気力がなかったんじゃない。弱い僕は、母に逆らう権利などなかったから」
長く続いた言葉が終わると、部屋の中に静寂が宿った。例えようもない深い寂寞が、すぐそこで口を開いて待っているような気がした。今私は、足を入れた。影を造る闇の表層を突き、私はそこに足を踏み入れた。このままずるずると、引き摺りこまれればいい。知ることによって味わう痛みや苦も、私は受け入れるつもりでいた。だから、その代わりに。
「私の話しも聞いてほしい」
影は私を見て、小さく頷いた。そして、影の手に自分の手を重ねた。
 大悟に初めて会った時のこと。
会社でのパワハラにより精神を傷つけられ、強い人間不信に陥っていた私は心療内科に通っていた。そこで、出会ったのが大悟だった。大悟は、新米の臨床心理士で私の担当ではなかったが、受付の時にいつも優しい笑顔で接してくれた。初めに恋に落ちたのは、私の方だった。禁忌だとは知りながらも、会計を済ました後、大悟に自分の電話番号を書いたメモを渡した。当然、連絡は来ないだろうと思っていた。だけど、数日経った後、いつもは静かなケータイが鳴った。
胸がどきどきした。異性からもらうメールは、初めて、だった。
慣れないお洒落をして、私は大悟に会うために苦手な人混みの多い街に出た。彼のためなら、どんな無理もできた。どんなに苦痛を感じても彼の笑顔で、私の心は癒され救われたから。
だから、あまり自分の話をしない大悟を少しも不審に感じたりしなかったし、不満にも思わなかった。後から、彼にとって私はただの退屈しのぎでしかなかったと知っても、傷ついたりしなかった。傷ついても知らない振りをして、私はごまかし笑う事を覚えた。
目的が性交だけのデートが続いても、私は大悟の側で笑っていられた。
大悟が私の前から、去って行くのは早かった。突然連絡が途絶え、私が通院していた病院にも現れなくなった。退屈しのぎは、退屈しのぎでしかなく、そこから深化して純度の高い愛に辿り着くのは、物語の世界だけなのだと知った。
大悟によって開かれていった私の世界は、大悟によって閉じられていった。元々人と深い関わり合いを避ける私ではあったけれど、大悟と別れた後は益々、内に籠るようになった。大悟が辞めた病院も変えた。行為のための優しさだけが体に染みつき、いつまでも浸りたくなるような甘い悲しみだけが心に留まった。それは、2年経った今でも消えることはない。
話しを始めてからいつの間にか、影の手の甲を撫でていた私の手のひらは、影の手のひらの中に隠れていた。影の手のひらの中は、水の中にいるように潤っていて冷たい。その手のひらの中で私は自分の手が宝物のようになった気がした。そのような優しい包み方をしていた。今、影は私を慰めようとしているのかもしれない。瞳を合わせると、そこには茶色いビー玉のような瞳が光を持っている。やがてその光が揺れ始めて、目の縁を濡らし、下瞼の上を転がり落ちた。青白く発光しているシーツに、その滴が垂れ、淡く滲んだ。
「どうして泣いてるの」
影は指先で自分の目の下を拭い、不思議そうに指を濡らす涙を見た。そして、僕にもわからない、と呟いた。
「ただ、哀しくなった」
そう言う声が、枯れている。泣いている影は、とても幼くて弱そうだ。だからか、守りたくなる。この腕の中で、守りたくなる。
「ね、あなたの本当の名前を、教えて」
私の瞳の中で、影は揺らめき、形状が歪む。私の瞼からも、冷たい滴がこぼれ落ちていく。涙を湛えた目が熱く、瞬きをしようと、ゆっくりつむった瞼に影の息がかかる。私と影は額をつきあわせて、誰にも気づかれないように声を押し殺して涙を流しだす。私の唇に、影の涙が触れ、ゆっくり開いてその味を確かめる。影は嗚咽をこらえながら、小さく自分の名前を言った。私は、影の名前をおまじないのように複唱し、影の唇を探し出し、キスをする。もう、溺れる準備はできている。
明子さん、と、耳の傍で影の声が聞こえる。いや、あれは大悟なのかもしれない。声の持ち主が判然としないまま、私は目の前の影に、溺れようとしている。

影追い

影追い

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2014-02-15

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