the Deathwing
彼の背後に気配が降り立つ。
その禍々しさに、全身に鳥肌が立った。「お前、誰だ?」
「私か」気配は声を発すると同時に、その姿を彼の前に晒す。
眉目秀麗、だがその顔色には生気がない。
まるで人形だな、と彼は思った。
「私は、貴様ら人間が言う所の『死神』という類のものだ」
生気のない薄い唇が、更に言葉を吐き出す。
「私は、貴様を迎えに来たのだよ」
序
…死神だ。
今、俺の後ろにいる。
ただならぬ悪寒と並ならぬ倦怠感。
彼には記憶があった。前にも一度、同じ経験をしているからだ。
忘れもしない、あのどしゃ降りの雨の夜。
あの瞬間間違いなく、選ばれたのは彼だったはずだ。
死神に選ばれし尊い魂。
横転したバイク。スズキの名車〝隼〟が見るも無残に雨に打たれていた。
愛機から漏れるガソリンと共に
その脇に倒れる彼の体内からも、おびただしい量の血液が流れ出して雨と溶け合う。
ああ…俺はこうして死んでいくのか。
薄れていく意識の中で、何処か他人事の様にそう思う。かすむ視線。
失われていきつつある聴覚が最後に捉えたのは、
一つの足音。
気が付くと、一人の男が彼を見下ろしていた。
このどしゃ降りの中、何故か男の姿は全く濡れているように見えなかった。
◆
「…いるんだろう、〝京紫〟」
隼杜はうんざりした様に声を掛ける。
後ろの正面など振り返らなくとも判る。しんと静まり返った当直室にただ独り、彼の声だけが響く。
頼りない照明は、机の上だけを照らしている。周りは徐々に闇へのグラデーションを織りなす。
その一番暗いエリアから、返事が返って来た。
「―よく気がついたな」
声を確かめると、隼杜はゆっくり椅子を後ろに向ける。
視線の先に、『通常見えるはずのない姿』を認めた。
「気づいて欲しくて、そんな濃ゆ~い殺気を発したんだろうが」
すると相手は、皮肉な笑みを浮かべた。異世界のモノらしい、生気のない笑顔だ。
「お前さんにいい事を教えてやろうと思ってな」
『京紫』という名を、彼は何処で見つけてきたのだろう。優美な色の名前など、およそ似つかわしくもない。
死神であるこいつが。
だが、その出で立ちは悔しいくらいに秀麗で
そういう意味では、確かに名前に相応しい。
勿論、見た目だけの話だ。
「また、誰か捕まえにきたのか」
自分が苦い表情をしているのがよく解る。
こいつが姿を現したってのは、そういうことだ。
「今日中に、一人」
京紫が告げる。
「今日は珍しく静かな夜だったのになぁ…」
隼杜はやるせなく天井を仰ぐ。
今の今まで、読みかけの本に没頭できるほど急患のコールがなかったのだ。
死神の宣告は、あまりにも非情だ。
この静かな夜に、死を迎える誰かがいるというのか…。
報復
死神はその時初めて、人間の純粋な『怒り』というものを見た。
理不尽にその命を奪われた、事実を目の前にして。
一報が入ったのは、夕方。
街は帰宅ラッシュだったはずの時間だ。
「隼杜先生、急患です!」
当直を前に昼から出勤していた隼杜に報せがきた。
飲みかけていたコーヒーカップを無造作に置き去り、部屋を出る。
「どうしたの」
「駅前で、腹部を刺されたそうです」
「―! …そう」
報告を聞く間、隼杜は自分の腹部にも鈍痛を感じたような気がして顔をしかめた。
◆
いつもと変わらない駅前の賑わい。
駅へ入る人の流れと、駅から出ていく人の流れ。
彼もまた、その流れに乗って帰宅するところだった。
「ん。じゃぁ今から帰るから」
この所残業続きで、こんな時間に帰宅できるのは久しぶりだ。
通話を終えた携帯に映る妻と娘の写真を見つめ、彼はしばらく寝顔しか見ていなかった娘を想う。
何か土産でも買って行ってやろう。彼は足取り軽く歩き出す。
駅中のデパートの地下が、食品売り場になっている。
彼はデパ地下の夕方のラッシュに気圧されながら、愛娘の為に土産を物色した。
ケーキの箱を大事そうに抱えてデパートを出る時、
そういえば今の時間帯は電車も夕方のラッシュだったと思い至り、ケーキが潰されるかも知れないなぁ…と多少不安になった。
それでも、彼は幸せな気持ちだったのだ。
◆
手術室のランプが点る。
駆けつけてきた彼の家族が両手に力を込め、ただただ祈りを捧げる。
慌ただしい病院内に緊張の糸が張りつめた。
現行犯で、刺した相手はその場で取り押さえられた。
彼が刺されて倒れ込むと、そこら一体が見る間に血の海になり、一瞬にして駅構内がパニックに陥った。
辺りは一気に規制がしかれ、物々しい警察の制服が増えていく。喧騒が拡散していくのに、そう時間はかからない。
いつも通りの街の中が、忌まわしい空気に包まれた。
やがて、手術室のランプが消え
水を打ったような静寂の中
白い布を頭から被せられた被害者の寝台が
遺族と悲しみの対面を果たす。
犯人の供述は淡々と、さも面倒臭そうに言葉を吐き出す。
取り調べた刑事は目の前の人間に対し、何度殴りたい衝動にかられたか知れない。
無気力な目が、そんな刑事をせせら笑い
とどめにこう言い放った。
「別に、誰でも良かったんですよ。僕は世の中に制裁を与えたかったんだ」
◆
「―ちきしょぉっ! 何でだ…っ!」
キャップを脱ぎ、マスクを外し手袋を投げ捨てて
隼杜は全てに怒りをぶつけた。
悔しくてたまらない。彼を救えなかった自分が情けなくて仕方ない。
どうして
どうして、彼は死ななければならなかったのか。
死神はその時初めて、
その人間の純粋な怒りを目にした。
「…あれ」
彼が次に気がついた時、隣に見知らぬ顔を認めた。
「―目が覚めたかい」
黒髪の下の秀麗な相貌には何の感情もなく、ただ彼を見つめていた。
「ココは…?」
目は開いたが、身体が動かない。と言うより、『感覚がないような』気がする。
「お前さんが搬送された病院の霊安室だ」
「病院…?」
彼はしばらく考えたようだったが
「ああ、俺…確か刺されたんだよね?」
思い出したらしかった。
「そうだな」
「俺…死んじゃったの?」
死神は少し間をおいて、答えた。
「そうだな」
そうして
彼はしばらく、流れない涙を省みずに泣いた。
涙の流れない嗚咽は、虚しく京紫の耳朶を振動させた。
やがて気が済んだのか、隣が大人しくなったのを見て死神は声をかける。
「少しは落ち着いたか?」
「…」
何の縁もない彼の生命を断ち切ってしまった刃を思い出し、
彼の表情が悲嘆から怒りに色を変えるのに気付いたところで、京紫は言葉をつなぐ。
「お前さんを刺した犯人は既に捕まっている」
「…そう」
「私は、お前さんを迎えに来たものだ」
「…もしかして、死神ってヤツ?」
「まぁ、そんなところだな」
「俺は、何処かに連れて行かれるんだ…」
観念した、という素振りで一言つぶやいた彼に死神は
「いや」
と、低く否定した。
「理不尽な事由で命を絶たれたお前さんには、ひとつの選択肢が与えられる」
「―え?」
予想外の言葉を聞いて驚いた表情をする相手を確認すると、死神は何処か底意地の悪い笑みを浮かべた。
「お前さんには『報復』する権利が与えられる。
選ぶかどうかは、お前さん次第だが」
「何それ、どういう事?」
彼が抱えていた怒りの炎が、消えかかろうかと言う矢先の一言。それまで力無かった彼の声に、不思議と張りが戻っていた。
「なに、簡単な話さ。お前さんを刺した輩に、『仕返し』してやれると言う事だ」
「仕返し…」
「―ただし」
京紫は、彼の眼に何か光めいたものを見たような気がして、眉をひそめる。
「ただし、『報復』を選択した場合
お前さんは二度と、人間としては現世に還れん」
「―何それ?
仕返しをしなかったら、俺はまた生きられるの?」
「魂は浄化され、新しい生命に宿される。ここが本来の私の仕事だ。
今までのお前さんの恨みつらみをすべて消し去り、次の人生を踏み出す〝施し〟をしてやる」
「―…へぇ…」
彼はしばらく考えた。
『次の人生』ということは、今の自分で戻れる訳ではないということだ。
生まれ変わっても、元の家族に逢える訳じゃない。
愛する妻にも、可愛い娘にも逢えない。
どの道、『俺としての』人生はもう終わってるんだ。
京紫は、隣の魂が様々な思惑を飛び交わしている様を見ていた。
そして、答えが出るのをじっと待っている。
「『報復』するよ」
「…それでいいのか?」
「ああ、構わないさ。俺を刺したヤツ…
そいつを俺と同じ目に遭わせてくれよ」
―予想通り、か…
死神は、その人間の選択にほくそ笑み、また一方で憐れんでもいた。
「…承知した」
口にしたのは、ただ無機質な一言だけだったが。
◆
彼を刺した人間は、与えられた罰に従い刑務所で何年かをテキトウに過ごした後、大した反省も更生もせずに出所した。
前歴を隠し、テキトウに就職し結婚し、家庭を設けた。
やがて自らが起こした事件の事など、遠い夢の記憶のように薄れてきた頃。
「じゃ、これから帰るよ」
久しぶりに定刻で退社して帰宅の電車に乗れる。
駅は夕方のラッシュで賑わう
その改札付近で、見知らぬ誰かに刺される事になる。
瞬間、何が起きたのか
その場にいた周囲の人間も
刺された当人さえ認識できなかった中、後ろで刃物を握り締めたままの人間が、言っていた。
「…ま、別に誰でも良かったんだ。俺は、社会に制裁を与えたかっただけだからね」
『報復』を選択した魂は、小さな羽虫に転生した。
人間に見つかれば潰されてしまい一度は命を絶たれるが、気がつくとやがてまた羽虫として姿を現す。
感情は無い。ただ、生と死を繰り返しそこにある。
もっとも彼の前世の記憶も
ましてや今、『己が何であるのか』と言う認識さえ持っていないので
自分がどうしてこんな時間を繰り返しているのか、理解の範疇ではないだろう。
◆
「―何だ、まだそんな気落ちした顔をしているのか」
病院の屋上でぼんやりと街の流れを眺めていた。
京紫の肩に、常盤色の羽を持つ美しい鳥が降り立った。
京紫はちらと見やり、すぐにまた視線を戻すと、少しずつ言葉を吐き出した。
「人間と言うのは本当に面白い。何故、何の意味もない感情を大事にするのだろうな」
常盤色が、意外そうに眼を見開いて言った。
「ほう、貴様にも理解出来ん人間の一面があるというのか」
「元より理解なんざしていないさ。
―特に、憎悪という感情は他の何をも生みださん。誰かが連鎖の糸を断ち切らねば、報復は次の報復を呼ぶだけだ。
自らの魂を賭してまで、奴らは一体何をしたかったのであろうな」
死神たちの会話は即座に風に溶けていく。
常盤色は、ふんとひとつ鼻で笑った。
「くだらん。人間どもの浅はかな感情も
貴様のその好奇心もな」
京紫は、浅はかな人間たちの中に取り残されている
純粋な感情を持つ青年のことを思い出していた。
迎風
彼女は、彼が来るのを待っている。
私はそれを知りながら、やりきれない気持ちのやり場に困っている。
まったく、何て因果な生き物だ。…彼女がか?
いや、違う。
因果なのは、この私だ。
私が彼女を迎えに行けるのは、
彼女が死を迎える、その時だけ。
◆
「ご気分は如何ですか?」
看護師に適当な愛想を投げられ、彼女もテキトウに相槌を打つ。
「ええ、今日はいつもより調子が良さそう」
カーテンが開けられる。日差しが眩しくて思わず目を逸らす。
太陽の光を忌々しく思うようになったのは、この病室に来てからだ。
よりにもよって、この窓際。
漫画のヒロインよろしく、落ちてゆく枯葉に自分の寿命を投影しろと言うのか。
もう、皮肉しか浮かばない。彼女はそんな自分を嘲った。
空気が動くのを感じて、彼女は薄く眼を開いた。
誰もいない四人部屋の病室に、足音が近づく。
誰が来たのかすぐに気がついて、彼女は起き上がる素振りをする。
「―あ、悪い。起しちゃったか」
顔を出した相手が申し訳なさそうに言うと、空気がふっと和らいだ。
「ううん。平気よ」
彼の笑顔のせいだ。張り詰めた空気が一気に緩む。
薄暗い空間に、柔らかな春の香が迷い込む。彼が来ると、いつもそんな安心感を覚える。
「少し顔色がいいな。何かいいことあった?」
尋ねる彼に、彼女は微笑んで
「隼杜が来てくれた」
と、おどけて答えた。隼杜も笑って、彼女の頭を撫でる。
「嬉しい?」
「嬉しいよ」
そうやって、少し子供扱いする所も
心地好い声音で、気を遣って話しかけてくれる所も
どんな不安さえ笑顔で包み込んでくれる所も、彼の全てが大好きだった。
その優しさに触れられる事が、幸せだった。
「葵」
「うん?」
「…元気になって、早く海に行こうな」
例えばそれが、叶わぬ夢だとしても。
「うん 約束ね」
人は、そんな約束にすがらなければ
生きていく事は、とても難しいから。
「その時は、〝ハヤブサ〟も一緒だよ」
ハヤブサは、主人が帰ってくるのをじっと待っている。
陽光がホイールに反射してキラキラと輝く。
傍らに佇む男が一人。
彼の周りだけ、何もないかのように光が素通りして行く。
普通なら、誰にも認められない存在。常人では見えるはずのない彼の姿。
―彼は、彼女を迎えに来たのだ。
駐輪場に着くとすぐさま、隼杜はただならぬ冷気を感じて身ぶるいした。
「…」
何だろう、この嫌な感じは。
エンジンもすっかり冷え切って待ち惚けていた愛機を見やる。
「何か、居たのか?」
よくは判らない。だが、何かが居たような気配がした。
もちろん、ハヤブサは黙って待っているばかり。
諦めてキーを回す。少しだけ駄々をこねたが、愛機はすぐに火を噴いた。
アクセルを回し、少し回転を上げていつもより念入りに暖機する。
病院の脇は比較的大きな国道で、多少のエンジン音ならばさほど目立たなかった。
夕刻、通りは帰宅の車両で少しずつ混み出していた。
少し慎重に走った方がよさそうだな。
隼杜はゆっくりと発進し、混雑した道路へ滑り込んだ。
果たして彼の感じた気配と予感は、概ね正解だったと言える。
死神は走り去る彼を見送ると、病院の方へ踵を返した。
見てはいけないのだ。
人間たちの生温い感情など、自分たちの『仕事』には何の役にも立たない。
なのに何故、彼は見てしまうのだろう。
最期を迎える生命(いのち)が、最後に誰を呼びたいのか。
それは『死神』と呼ばれる彼の、唯一の悪い癖だった。
◆
葵は、少し前からその存在に気が付いていた。
闇の中に感じる冷たい存在に。
認めるのは、やはり怖い。全身がざわつきながらも、彼女は寝返りを打つ事をしなかった。
気配が少し近づいてきた。冷や汗が背中を伝う。もう、まどろみさえ感じない。
夢ではない感覚が彼女を支配した。
「怖がらなくていい」
死神は努めて穏やかに、言葉を発した。
それが彼女に聞こえているのかは定かでないが、
一瞬、その背中が引きつった。
「私は、お前さんを迎えに来たものだ」
冷たい指先が葵の頬に触れると、全身が強張った。これ以上ない緊張感の中で、風も無いのに髪が揺れる。
違う。何かが私の髪に触れているのだ…
そうか
私はもうすぐ、連れて行かれるのね。
そう悟ってしまうと、今まで感じていた恐怖や緊張が嘘のように引いていった。次第に呼吸が楽になる。
「―隼杜(あいつ)に逢いたいか?」
きっと、死神の声ははっきりと聞こえてはいない。
しかし彼女は、肯定の意味とも取れる涙を流した。
「少しだけ、待ってやる」
多分、もうすぐ。
彼女は、彼を待っていた。
もちろん、こんな夜更けに黙って待っていても
彼が来るはずはないけれど。
解っている。
それでも…もしかしたら。
窓の外に音がしたのはその時だ。ほんのわずかな音がした。
「…隼杜」葵は起き上がる。
気ばかり焦って、身体は思うように動かない。
でも、隼杜の『音』がする。いつも身につけている愛機のキーの音。
「―隼杜…!」
窓を開ける。真っ暗な中庭に、居るはずのない影を探した。
少しずつ眼が慣れてくる。葵は祈りながら、小さく声に出して呼んでみた。
「隼杜」
「―葵…?」
待っていた温かさがそこにあった。
「隼杜!」彼女はベランダから身を乗り出す。
「馬鹿!よせ、危ない!」
二階とは言え、落ちたらただでは済まない。
隼杜は駆け寄ると、暗闇に少し注意を払って、何処からか昇れないか探し出した。
幸い、地階のベランダを足がかりにして少し頑張ればいけそうな気がする。
「中で待ってな」
そう言って、なるべく音を立てないように動き出す。
二階のベランダの柵を越え、ようやく彼は彼女の元へとたどり着いた。
「隼杜…!」
白くやせ細った腕は
それでも精一杯、彼の身体にしがみつく。
生きたい
そう言っているような気もした。
「…ごめんな。何か…嫌な予感がして」
言う事を一瞬ためらったが、隼杜は自分の気持ちを口にする。
「―お前にもう、逢えなくなるような気がして」
二人の空間に水を差さない様に、死神は病室から外に出た。予定の時間はとうに過ぎている。
少し焦りを感じながらも、馬鹿馬鹿しさを感じながらも、死神は二人に最期の時間を与えてやった。
それは彼自身が、彼女に寄せる想いからとも言える。
彼はそれに気付かないふりをしていた。
彼女の気持ちは、死神には向かない。
当たり前だ。彼女は、その存在すら認めることはなかったのだから。
「ハヤブサの音がしなかったよ」
葵が問うと、隼杜は少し困ったような顔をした。
「さすがにうるさいからね。少し離れた場所に停めて来たんだ」
暗がりの中で交わす会話はあまりにも日常的で
明日でも明後日でも、続きそうな気さえする。
でも、きっと、もう。
「ハヤブサと、早く海に行きたいな…」
葵が深く息を吐く。
「横になれ。もう休んだ方がいい」
隼杜は彼女をゆっくりとベッドへ横たえる。
無理をさせてしまった申し訳なさや、来てみたところで何も出来ない自分の不甲斐なさ、いろんなものが彼の中で渦巻いていた。
でも、彼はすべてを押し殺して笑う。
「その時は、俺も一緒に行っていいのかな?」
おどけるような隼杜を見て、苦しそうだった葵の顔に笑みが浮かぶ。
「当たり前じゃない。ハヤブサは隼杜がいなかったら走れないよ」
「―そうだな」
隼杜が答えると、葵は安心したように目を閉じた。
隼杜は、彼女の穏やかな寝顔にそっと唇を寄せ、
「またな」
別離ではない、
再会の期待を込めた一言を彼女に捧げた。
来た道を再びこっそり戻り、空が白ける少し前に
彼は病院を後にした。
死神が彼女を連れて病室を出たのは、それから少し後。
◆
「朝焼けがキレイだね」
葵が呟いた。「隼杜も見てくれてるかな」
これから先も、彼女は彼を想いながら『旅』を続けることだろう。
その心の隙間に入り込めない、悔しさとも言える複雑な感情を抑え、死神は努めて平静に応える。
「見ているさ。愛機と走りながら」
「そうだね」
葵の柔らかい表情を見て、言いようもない気恥ずかしさに襲われる。
死神にとって、この上ない無意味な会話をしているにも関わらず、何だか満たされる感覚を覚えたからだ。
―『満たされる』。
この気持ちは確か、そういう表現だったはずだ。
「…ね。
〝京紫〟さんが、隼杜を連れてきてくれたの?」
彼女はきちんと名前で呼んだ。
死神は予想外の呼びかけと想定内の質問にしばらく沈黙を守り、やがて口を開いた。
「…心置きなく成仏してくれないと、こちらの仕事が難儀になるものでな。
…言ってみれば、効率のいい方法を選んだだけだ」
続けざまに言葉をつなぐ。
動揺を悟られていそうな気もして、ばつが悪い。
「ただ、本当に来るかどうかは…
あいつの気持ち次第だったと思うが」
「うん、…そうだよね」
そんな彼の不器用さを包み込むように微笑み、
彼女は
「―ありがとう」
彼と、地上に遺してきた最愛の人へ
そう、一言だけ贈った。
邂逅
暑かった夏がそろそろ終わりを迎え、蝉の声よりも
鈴虫やこおろぎあたりがこぞって唄い出す頃。
週末の休日を利用して、久々に峠にでも出てみようかと隼杜は思い立つ。
葵との約束が果たせなかった海へは
まだ、どうしても走り出す事が出来ないでいた。
彼女と〝別れ〟てから、三年が経とうとしている。
早朝。
彼の愛機・ハヤブサを見つめてふっと息をついた。
あの日も、確かこんな
心地好い風が吹く朝だった。
「―来たぜ、葵。海だ」
昇りかけた太陽が水面に穏やかな色を滲ませる。
何て、優しい朝なのだろう。
早朝の東名高速は比較的順調に流れ、小田原まで着くのにもさほど時間はかからなかった。
隼杜はそこから、敢えて山側の道を選んで走る。
箱根新道から湯河原と熱海の峠を抜けて伊豆スカイラインに乗った。片方に山、もう一方に海を眺めつつ走れる快走路だ。
標高が上がるにつれ、やがて見えてくる相模湾。
「―待ってな。もう少し近くまで連れて行ってやるから」
その反対側を向くと、富士山が臨める。
海も山も一度に楽しめる、隼杜のお気に入りの道のひとつだ。
葵を連れてくる初めの場所も、伊豆にしようと考えていた。
「元気になって、ハヤブサと走ろうな」
隼杜は常にそう言い聞かせ、彼女を励ましていた。
「海に行きたい」
葵はそう答え、彼と窓の外に停まるハヤブサを見つめていた。
タンデムでこの道を走るシーンを、何度夢に見たろうか。
朝陽を浴び始める富士山を背にキラキラと輝く海に向かい、隼杜は再び走り出す。
天城高原の出口から一般道に降り、伊豆高原を下って国道135号線に出る。
此処からは海岸線をなぞるように走る。
確証は無かったが、彼女はきっと一緒にいる
そう、信じてゆっくりと流していく。
東伊豆から下田までひたすら走り、帰りは海沿いの道へ別れを告げ
天城街道を沼津へ向かい、上っていく。
その頃から
少しずつ空に雲が増えてきていた。
◆
「…この辺りか?」
暗い峠道に降り立つ気配があった。
降りしきる雨の粒が、何故だかその一角だけを避けるように落ちる。
そこには、一人の男の姿があった。『彼』を避けるように雨が降っている。
雨粒が当たる訳では決してないようだが、その眉目秀麗な顔をしかめ、天を仰いだ。
眼に映る雨がノイズのように鬱陶しいのだろう。
彼は、この世のものではない。
彼の仕事は、死を迎える魂を見つけ導いていくこと。
一般的に『死神』と呼ばれる類のものであった。
「急な雨だったからな。車の事故でもあるのだろう」
長年、人間の社会を眺めて仕事をしてきた。
死を迎える気配を察知したのち、その経緯を類推するような癖が身についていた。
雨は幾筋もの流れをつくり、下方へ向かっていく。
その雨に混じって、どす黒い液体が流れているのが見えた。
「―あれか」
彼が、流れの元をたどる。
そこには
横転したバイクと一人の青年の姿が見受けられた。
◆
自らに当たっては流れていく雨の滴を隼杜はぼんやりと感じ
共に流れている血液の赤色も認めていた。
少し離れた先に、ハヤブサがいた。愛機からも雨と共に黒い液体が少しずつ確実に流れ出ていた。
ああ
俺、ココで死ぬのかな。
不思議と痛みも寒さも感じない。
現況を淡々と見つめ、静かに『その時』が来るのを待っている。
これ以上、何をする気にもならなかった。
倒れていたその顔を見つめ、死神は
何処かで見たような顔だと思った。
どういう事だ?
基本的に彼ら死神は『忘れる』事をしない。
一度対面した事象は一つ一つ、ハッキリとした『記録』として自らの内に残されている。
が、彼だけは『特別な罰』を与えられた身により
『忘れる』という概念を与えられていた。
彼は旧い『記憶』を辿って、何かを『思い出そう』としていた。
そんな死神の鼻腔から、先まではり付いていた『死の匂い』が、ふっと消えた。
「―?」おかしいな…。
そう思った次の瞬間に入り込んできた匂いが、あのバイクから流れ出たガソリンの匂いだと思い到る。
まるで
青年を取り巻いていたはずの『死の匂い』が、取って代わられたようだった。
「お前さんは…
〝まだ〟『私の客』ではないと言う事か?」
彼の独り言が、その耳に届いた訳ではないだろうが
固まったままだった右手の指先が、ぴくりと反応したかに見えた。
「どのみち、このままでは生き延びる事も難しいか」
彼は何故だかこの青年の事が気にかかり、少しだけどうにかしてやろうと思ってしまう。
勿論、それは死神の仕事ではない。
むしろ、してはいけない人間への干渉だ。
だから、周囲からはいつも嘲られる。彼は人間に肩入れし過ぎてしまうのだ。
けれど、どうしても気になって仕方なかった。
雨に打たれるこの人間の顔が、遠い記憶を呼び覚ます。
一台の車がその峠にさしかかったのは、死神が姿を消してから数分後の事であった。
◆
『隼杜』
誰かが呼んでいる。…葵か?
『隼杜。お前は、まだ眠っちゃいけないよ』
―…ばぁちゃん?
『京紫は、私の〝お願い〟を忘れないでいてくれたんだねぇ』
―何?…誰の事?
懐かしい祖母の声を聞いたと思った。
そして、隼杜は目を覚ました。
ぼんやりとした視界がまず捉えたのは病院の白い天井と
意識を取り戻した彼に気付き、涙を流して喜ぶ両親の姿だった。
回顧
遠い記憶の中にいる。
ああ 私はまた、思い出している。
彼が一体何処から発生したものか
一体いつから、この『役目』を負っているのか
生息するのは暗い闇。
いや、もとい
彼らは『生きて』いる訳ではない。
あらゆる生命の統制を司る
彼らは俗に言う『死神』という類のものである。
彼に授けられた唯一の能力は、
最期を迎えんとする魂の匂いをかぎわける事だ。
ある時、彼はひとつの魂を見つける。
だいぶ弱っている、小さな命の灯りが見えた。
一軒の屋敷の奥に設けられた広い子供部屋。
相応の資産が無ければこんな暮らしは出来なかろうな…などと、当時の彼は思っていた。
どうやらその辺り、人間社会の事情は理解していたらしい。
広い部屋の真ん中で布団を敷き、少女は寝込んでいた。
すっと、その脇に降り立つ。
―今回は、子供か。
彼は眼の前の事実を一つひとつ、認識していった。
見つめるのは、ただひたすら冷たい漆黒の瞳。射るように、横たわる姿を捉えている。
彼女は薄眼を開けて、隣に居た『誰か』を見つけた。
立ち尽くし、じっとこちらを見ている。
睨んでいる風でなく、慈愛に満ちている訳もない。
それはただ、『見つめていた』。
生気のない青白い顔に乗るのは切れ長の双眼、筋の通った鼻と薄い唇。
瞳と同じく髪は漆黒。流れるような美しさだ。
お人形さんみたい。彼女は思った。
「…だぁれ?」
「…」
「そこにいるの、だぁれ?」
子供はもう一度問うた。仕方ないので、彼も答える。
「お前たちが『死神』と呼ぶ類のものだ」
薄い、紅い唇が冷たい言葉を吐き出した。
「『死神』ってお名前?」
子供は横になったまま質問を続ける。
「名前ではない。そうだな…『死神』というのは、役割とでも言えばいいのだろうか」
「やく…?」
子供はほとんど理解してはいなかったが、彼もこれ以上説明するつもりはなかった。
「じゃぁ、お名前はなんていうの?」
「名前など、無い」
「じゃぁ、何て呼んだらいいのか分かんない」
子供はたいそう困った顔をした。
「呼ぶ必要はないだろう」彼が答える。
「どうして?」
「それほど長く、私と共にいる訳ではない。
貴様はもうすぐ、死を迎えるのだからな」
そう言った所で、子供に理解出来るはずもなかった。
しかし。
困った事に、彼女はすぐに臨終を迎えなかった。
患っていた大病に回復の兆しが見え、起き上がれるようになったのだ。奇跡と言って良かったかも知れない。
『死神』としては大きな見当違いだった。
死を迎える匂いは、その魂が「いつ、時が来るのか」まで報せてくれる訳ではなかったようだ。
期せずして彼は、しばらく彼女に付きまとうことになる。
彼らには『記憶』という概念がない。忘れる事が無い故に、『思い出す』ことも無い。
経験は全て事実として事象として、ただそこに並べられていくだけだ。
しかし、私はまた思い出している。あの頃の『記憶』を。
私という『個性』が生まれたのは、あの少女のせいなのだ。
「ねぇ、いつになったら私を連れて行くの?」
「さぁな。どういった訳か、お前はしばらく連れて行く事が出来ないようだ」
「じゃぁまだ、貴方と一緒にいられるのね?」
「ん?」
そもそも死期がずれたのなら、本当ならこの魂に関わる必要は無いのだ。
そう思い至ったが
何故だか、彼はその場を離れる気になれなかった。
「それなのに、貴方にお名前が無いのはやっぱりおかしいわ」
起き上がれるようになっても、やはり床に伏す時間は長い。
少女には相変わらず彼が見えていて、語りかけてくる。若干うんざりしながら、彼は投げやりに言い放った。
「…ならば、お前がつければいい」
「本当?」
少女はぱっと顔を輝かせ、よいしょと起き上がる。
そんなに嬉しいことなのだろうか。彼には、子供の気持ちが理解出来なかった。
「じゃぁねぇ、私の名前を貸してあげる」
「お前の?」
そう言えば、この子はひとの名前にこだわる割には自分の名前を明かしていない。
彼女は枕元に置いてあった筆記具を引いてきた。
「私は〝しの〟っていうの。漢字を覚えたのよ。〝紫〟に〝乃〟って書くの」
言いながら、書き記す。彼は黙ってその様を見つめていた。
「貴方に、〝紫〟を貸してあげる」
「…紫とは、どんなものだ?」
「知らない?」
「ああ」
今度は布団から出て、部屋の隅にある机の上から千代紙を何枚か持ってきた。
「これが、紫」
少しずつ違う色の何枚かをじっと眺め、彼は問うた。
「こんなにあるのか?みんな違うぞ」
「紫だけど、みんなそれぞれちょっとずつ違うの。名前も違うのよ」
彼は興味深そうに眺めると、やがて小さな手の中を彩る一枚を指差して、訊ねた。
「これは?」
「京紫色」
「綺麗だな」
「じゃぁ、それをお名前にしたらいいわ!京紫!素敵ね!」
少女は心底嬉しそうに笑ってみせた。
まるで関心の無かった話だが、何だか悪い気はしなかった。
◆
「貴様は何故、あの子供のそばを離れないのだ」
ある時、〝同業者〟から問い詰められた。そう言えば何故だろうと『京紫』は考えた。
「死の匂いを感じた以上、近いうちに迎えが必要になるだろう」
「だからと言って、暇を見つけて入り浸るなんて行為は認められていない。
貴様は何故、あの子供に執着している?」
―執着している。
そうか。私はあの子に執着しているのか。
「いいか。無駄な事はするな。馬鹿な事はするな。おかしな行動はいずれ露呈する。
そうなれば貴様は、罰を受ける事になるぞ」
「…」
もしかしたら、相手は自分の身を案じているのだろうか。
我々にそんな感情のようなものなど無かったはずだが。何処か他人事のように京紫は思っていた。
そして、ふと思い立つ。
「おい」
「何だ」
「お前の身体の色は本当に美しいな」
「―…何だと?」
「知っているか?
その色は〝常盤色〟と言うらしい」
―ついに気でも触れたのか。相手は京紫の戯言を、驚きの様相で聞いた。
「お前の名は、『常盤色』だな」
半ば呆れ、ある種の空恐ろしさすら覚え(一応、彼らにも恐怖心のようなものはあるようだ)
鮮やかな緑色をした一羽の鳥が、京紫の元を飛び立っていく。
「愚かになり下がったものだな、貴様は」
彼は彼女に出逢ったことで、『感情』を持ってしまった。
彼女は彼に『個性』を与えてしまった。
死神と分類されるものにとって不必要なそれらを見咎められ、『京紫』には罰を与えられた。
『忘れる』こと
それに伴い、『思い出す』こと。
遠い記憶に呼び戻され、悔恨や悲哀の感情を噛みしめることになった。
もっとも、彼にはその罰さえ『楽しむ』感情も芽生え
相変わらず〝風変わりな〟死神として、役割をまっとうしている。
件の少女はその後、『だいぶ長い期間』を迎えの必要なく生き続ける。
こればかりは京紫の見当違いと言わざるを得ないが、
それは後の様々な魂との出逢いの為に、必然的な要素だったのではないか…
死神は、感傷的にもそんな事を考えていた。
縁
人には、『縁(えにし)』というものがあるらしい。
それはすなわち〝我々〟の所業によるものの可能性もあるのだが、
『魂同士のつながり』というか
『出会うべくして生まれる生命同士』というか…
『運命』とか『因縁』とか、
彼らの言葉を借りて言うとするならば、そんな所か。
「私は、貴様たち家族に
出逢うべくして、出逢ったのであろうか」
「…はぁ?」
一体何処でそんな言い回しを覚えてきたのだろう
またおかしな事を言い出したなと隼杜は思ったが、傍らの死神には言わないことにした。
相変わらず、病院の屋上は風が強い。
秋晴れの昼下がり。隼杜は夜勤を前に休息を取っていた。そこへ、例によって〝冷やかし〟にくる影があった。
かわいい女の子ならまだしも、何で死神に気に入られるかなぁ俺は…。
人の好い隼杜の元には様々な人間が訪れるのだが
今、遊びに来ているのは死神と呼ばれる類のものだ。
そんな所にまで影響を与えてしまうのならば
お人好しも、少し考え直した方がいいのかも知れない。
『死神が見えると、当人に近々死が訪れる』とは、昔からの通説だ。
命を救わんとする現場に勤務する隼杜にとったら余計に縁起でもない存在なのだが…
この通説、どうやら本当の所は少し違うらしい。
「お前さん、歳はいくつになった」
困惑する隼杜をよそに、京紫は次の話題を振った。
それは死神というより親戚のおじさんのような何気ない、何処か間の抜けた質問だった。
「…あと半月もすれば、二十八になるよ」
そんな会話が出来る状況も異常だが、今ではすっかり慣れっこだ。
何より、コイツとのこういった会話には違和感がない。死神のくせに妙に人間くさい雰囲気があるのだ。
恋人の葵と死別して、弔いのツーリングをした際に自分も事故に遭い死の淵を見た。
幸いにして、通りがかった車の運転手に助けられ生還したが、
その後から何となく、この死神の影を認めるようになった。
―もしかしたら、本来俺は生きているべき人間ではないのか?
そう思って悩んだ時期もあったが、どうやらそうではないらしい。
勤務中、休息を取る時間を見計らって現れるこの死神-京紫-が
「気にする事は無い。これは私にとっても『休息』の時間だから」
と言っているので、気にしないことにした。
『時間外』であるということは、この来訪は『お迎え』ではない、とでも言いたかったのだろう。
本当におかしな話だが、彼はこの死神に気に入られているようだ。
〝京紫(しにがみ)〟が現れたからと言って、彼の病院での仕事に影響が表れている訳ではない(と、思う)。
隼杜の職業と立場を理解しているのか、彼の仕事中に京紫が姿を見せることはほとんど無い。
(たとえあったとしても、それは死神の方でも『仕事中だった』と言うので仕方ない)
まぁ、あとは隼杜自身の気持ちの問題だが、現状特に不快に思うことも無いので(それはそれで問題かも知れないが)
とりあえずは、この状況を黙認している。
そもそも信じるも信じないもないのだが
何処か、この死神には『誠意』のようなものを感じ
何があったとしても、いたずらに人の命をもてあそぶことはしないだろうと思っていた。
もちろん、まったく根拠はない。
「そうか。もうそんなに月日は経つのだな」
そこで京紫がふわりとした笑みのようなものを浮かべたので、隼杜は少し戸惑った。
確認しようともう一度彼の顔を見ると、既にいつもの無表情に戻っていた。
およそ死の匂いをまとわない表情を瞬間的にでもするからこそ、彼は京紫を信じているのかもしれない。
京紫は、屋上の隅ではたはたとたなびく洗濯物を眺めながら視線を細めた。
彼自身、肌で感じることのない風を視覚で認識しているのだ。
隼杜には、その姿が
遠い過去の記憶を呼び起こしているようにも見えた。
◆
「私の娘に子供が生まれるの。
京紫、私ねぇ、おばあちゃんになるのよ」
小児結核という病を抱え、瀕死の状態に陥っていた小さな娘
彼はその娘を迎えに行き、姿を認められる。
死を迎えるその時まで、と共に居たのが
言うなれば、『運のつき』というやつだったのだろうか。
その娘-紫乃-の病状は、中学に上がる頃にはすっかり良くなっていた。彼女の迎えに行ったことは、
死神・京紫の見当違いと言わざるを得ない。(そういう事も、往々にしてあったりするのだ)
紫乃は病床で学んでいたあれこれが幸いして、学校へ上がっても成績は上々、家柄も気立ても良く、
まさに非の打ち所がない『お嬢様』に成長していた。
彼女が頻繁に外に出られるようになってから少し経って、『京紫』は彼女の前から姿を消した。
彼女にはそう思えたが、正確には
京紫が、紫乃の前で姿を見せないようにしていたのだ。
本当のところ、元気に学校へ通う彼女の後姿を死神は何度となく見送っていた。
その行為を『同業者』である常盤は何度も咎めていたが、京紫はすぐに戻るからと言い伏せて飛び立っていく。
「何故、それほどまであの娘に執着するのだ」
呆れ顔で尋ねる常盤の疑問に、京紫自身も答えかねていた。
何故なのかは解らない
何故だか、私は彼女を『見届けなければ』いけない気がしていた
だが彼女は、もう死の匂いをまとってはいない
私が関わる理由はなくなっていたはずだった
けれど
見えない糸が
私と彼女を結んでいるような
そんな表現が合うのだろうか
もちろん、彼女の方は気付いていない
気付かせてもいけない
私のような存在とつながる糸など、彼女にとっては
忌まわしいもの以外の何ものでもないのだから
彼女が気付くべき糸の先の相手は
もっと、別にいるのだから
見合いで知り合った無口な青年と交際を始め、やがて結婚した紫乃はとても幸せそうだった。
朴訥だが優しい夫との間に、一人娘も生まれた。(ここに京紫は関与していない)
世の中は激動で、辛いことも多かったが
彼らが築いた温かい家庭のお陰で、彼女は常に笑っていることが出来た。
かつて、病床の布団の中で千代紙を折って見せていた
あの小さな少女の笑顔とは、もう別物だった。
ほら、見て京紫。あなたの色で鶴を折ったの
そう言って、紫乃は誇らしげに笑い
彼の手のひらに、小さな折り鶴を乗せようとした。
「あ」
折り鶴は、すとんと空しく床に落ちた。
この世のものではない彼に、世のものを手にすることは出来ない。
紫乃との間に、何とも言えない沈黙が流れる。
子供なりに気を遣ったのか、その後彼女は何も言わず
代わりに再び死神へ笑みを向けた。
彼の『記憶』の中で唯一、〝悲しかった思い出〟だ。
それでも、笑顔は彼に向けられていた。
今、目の前で見ている彼女は
忌まわしい存在の影すら見えない
私が関わる必要はとっくになくなっている
これは、喜ぶべきことなのだ
彼女が〝貸し与えて〟くれたこの名前
私に与えてくれたこの名を呼んでくれる彼女は
もう、いない。
そう悟った死神は
ようやく、彼女を見に行くことをやめた。
◆
死の匂いを嗅ぎ取り、京紫は感覚を研ぎ澄ませた。
そこは病院の一室だった。
大往生とも言うべき老人の魂が、既に体外へ出て彼を待っていた。
躯の周りには神妙な面持ちをした主治医や看護師、家族たちがすすり泣く。
しかし、この人間の死はだいぶ前から予測されていた。
家人も理解して、既に覚悟は決めていた様子だった。
「思い残すことはございません」
老人の魂はそう言って、京紫を出迎えた。京紫も了解の意味を込めてゆっくりと頷く。
前の生命として寿命を全うし肉体を離れた魂は、死神に導かれる間に浄化され、前の記憶を封印される。
新しい生命の魂として送り出されるまでに『忘れさせ』るのだ。
浄化された魂を連れ、今度は別の気配を探す。
この魂が送られる、新たな生命の場所を突き止める。
その場所へたどり着いて、京紫ははっとした。
この家屋…
死神の『記憶』は事実の羅列であり、言わば『記録』として刻み込まれる。
故に『忘れる』ということはないのだが、京紫に関しては別だ。
特別な『罰』を与えられた体により、人間と同じ『記憶』の構造をもつ。
それでも、『忘れる』はずがない。
恋焦がれ、通い詰めた場所だったからだ。
求める気配は間違いなくこの家屋から発せられている。
瞬間的に入ることをためらったが、思い直し
無事に魂を送り届ける役目を果たした。
帰り際、ふと目に留まった仏壇に
京紫色の折り鶴があったような気がして
鳴らないはずの鼓動が高鳴る思いがした。
◆
「運命というのは、時にいたずらなものだ」
風になびく洗濯物から視線を外し、またもやおかしな言葉を吐いた。
「どうしちゃったの、死神さん?」
今更ながら奇異なものを眺めるように、目を細めて隼杜が言った。今日のこいつは、やけに感傷的だ。
隼杜の言葉と視線がさすがに気に障ったのか、京紫が語気を強めた。
「どうもしていない」
そう?と疑いの目を向けたまま、隼杜は二本目の煙草に火をつけた。
「それは、体に悪いものではないのか」
気が付いた京紫が問う。煙草のことは、他ならぬ隼杜に以前聞いたことがあった。
「んー、まぁ、良くはないね」
煙をくゆらせ、隼杜が答える。
「でもねぇ、これがないと精神に悪い」
その意味が解らず、京紫が首をかしげた。
「確かに…体にいいもんじゃないんだけど、少し気分が変わるんだ。気分転換ってやつだな。
気持ちが元気にならないと、仕事に身が入らんのよ」
死神は、そうか…と曖昧に返事をした。
結局はあまり理解できていないのだろう。隼杜は苦笑して付け加える。
「人間ってのは、難儀に出来ているんだよ」
◆
紫乃の娘は元気な男の子を生み
子供は〝隼杜〟と名づけられた。
紫乃は孫の隼杜をたいそう可愛がっていた。
京紫が再び、紫乃に会うことになるのは
彼女がまとった〝二度目の〟死の匂いを嗅ぎ取ってからだった。
今度はおそらく『見当違い』ではないだろう。
「来てくれたのねぇ。―『京紫』」
開口一番 紫乃の言葉を聞いて驚いた。
彼のことなどもう、忘れていると思っていた。
子供の時分、熱に浮かされて見た夢だと考えていてもおかしくはない
というより、それが妥当ではないか。
「私が何者だか分かるのか」
努めて事務的に問いかける。
何十年ぶりかの彼女の笑みは、年老いた上にだいぶ弱々しくなっていた。
「何言ってるの。当たり前じゃない」
だが、それは確かに
久しぶりに彼へと向けられた笑顔だ。
「今度は間違いなく、私を連れていきなさいよ」
縁というものは、何も人と人の間にだけあるものではない
時にはこんな、おかしな縁があったって
いいのではないか
「あなたと私の間にはきっと、切っても切れない縁があると思うわ」
ふと、彼女が言ったのを聞いて
「えん、とは?」
死神は聞きなれない言葉の意味を尋ねた。
「見えない糸で繋がっているってことよ。
人と人の間、人と物の間… たくさんの世界の出来事との間に」
「それは、…良いものだけではないのだろうな?」
「どうして?」
「私とお前さんの間にも『えん』があるのだとすれば
…私は、お前さんたちの世界でいう死神だ。言わば凶兆だろう。…私と繋がる糸など」
「ねぇ」
京紫の言葉を強く遮り、紫乃は言う。
「あなたが凶兆だって、誰が言ったの?」
驚いたように目を見張り、京紫は紫乃を見つめた。
瞬間、彼女の姿が
あの頃の幼い少女に見えたような気がした。
「死神を凶兆って言うのは、片側からしかあなたが見えないからよ。
少なくとも、私はあなたに逢えた事を悪く思ったことなんて一度もないわ。
自分の役割とは関係なく、独りぼっちだった私の遊び相手になってくれたのは、一体誰?
私はあなたがいてくれたからこそ
こんなにも長く、幸せに生きることが出来たのよ」
言われ慣れていない言葉の波を浴び、死神は困惑した。
それは、間違いなく彼へと向けられた感謝と愛情の言葉だった。
京紫の反応を見て、紫乃は優しく包み込むように笑み
噛んで含めるように、ゆっくりと言い聞かせた。
「今だってそう。あなたが迎えに来てくれたから、私はもう何も怖くないわ
京紫。…あなたは、『神様』じゃないの」
◆
「隼杜」
珍しく名前で呼ばれたので、隼杜は思いっきり煙にむせた。
「…なんだよ、急に」
隼杜の様子を見つめて、京紫は次の句を継げずにいたが、やがて改めて尋ねる。
「私が、此処に来るのは
お前さんにとって、やはり迷惑だろうか」
「…」
この感傷的な死神に、はてどう答えたものかと思案する。しばらくの間、彼らの間に沈黙が流れた。
それが答えか…と京紫が察し、姿を消そうとする直前
「まったく…。今更迷惑とか、そんなこと考えるような間柄じゃないだろ」
煙と共に吐き出すように隼杜は言った。
背中を向けたままで呟く彼の声は小さかったが、その言葉は京紫にハッキリと届いた。
見れば、煙がこちらに向いている。
ならば、風向きのせいか
「…会いたかったら、また来りゃいいさ」
声音が紫乃のものと重なり
じんわりと京紫の中に浸透していく。
「…そうか」
死神の口元に、緩やかな笑みがこぼれた。
死神
「…あれ」
隼杜が目を覚ますと、辺りは薄暗く
照明のついていない室内より、窓の外からの夕陽の明るさの方が眩しかった。
部屋の真ん中で、大の字になって寝ていたようだ。
ここんとこ忙しかったからな…
ようやく取れた非番日に、あと一日有休を足してもらった。
連休出来るなんて何カ月…いや、うっすら一年ぶりになるかな。
それにしても、一体いつから寝こけてしまったのか
だいぶ、長い夢を見ていたような気がした。
立ち上がり、外を眺めた。開け放ったままの窓からひんやりとした夕方の風が吹き込んでくる。
真っ赤な夕焼けと共に、街に本格的な秋の到来を悟らせるようだった。
この季節になると、隼杜はいつも
潰されそうな程の寂寥感を抱えながら過ごさなければならない。
テーブルに放りっぱなしの煙草の箱を確かめる。二本残っていた。一本をくわえ、火をつけた。
ゆっくりと煙を吸い込み、更にゆっくりと吐き出す。
体内に澱む気持ちを一緒に吐き出そうと試みた。
よほどの事がなければ、隼杜は毎年一日だけ
必ず休みを取る日がある。
葵の、命日だ。今年は明日。
明日は朝から出掛ける予定だったから、今日のうちに家の事をいろいろと済ませておこうと思っていたのだが。
結局、朝イチで洗濯したくらいだったなぁ
刻々と変わっていく空の色を眺めながら、そう呟いて苦笑した。
翌日、墓参りを済ませて時計を見ると まだ昼を少し過ぎた所だった。
隼杜はふと思い立って、帰路とは違う電車に乗った。
葵がいつも行きたがっていた、海を再び目指す事にした。
新宿で私鉄に乗り換えれば、後は一本で海まで行けたハズだ。
平日昼下がりの車内は、嬉しくなるほど空いている。
隼杜は乗り込んだ車輌の真ん中に陣取るように、席に座ってやった。
あくせくとした時間に縛られないであろう、老人や母子連れがぽつぽつと乗り合っている。
まったりとした空気が隼杜を包み込んだ。
バイクに乗らなくなって、まる一年くらいは経ったろうか。
こうして、公共の交通機関を利用する事にも慣れてきた。
常に周囲に気を配って走り続ける必要も無く
ただぼんやりと揺られ、目的地を目指す。
慣れてしまえば、これほど便利な移動手段はない。
都心部を抜ける前に猛烈な眠気に襲われ、隼杜はいつのまにか眠りに落ちていた。
初秋の海風はさすがに冷たい。ジャケットの前を閉めて、気持ち程度に防寒をする。
波は比較的穏やかで、波打ち際で遊ぶ子供には持って来いだったが
せっかく仕事をオフにして来たであろうサーファー達には、若干の期待はずれ感が否めない様子だ。
ぷかぷかと浮かんで波待ちをしている姿が黒く点々として、隼杜の眼にも届いている。
その背筋に、急激な寒気を感じた。
はっとして振り返る。同時に不思議な感覚にとらわれた。
「―波乗りにも興味があるのか」
振り返った先に、まず声が聴こえた。
「…」
隼杜は返事をせず、黙ったまま声のした方を睨む。
少しの沈黙。海風が通り抜けた。
「―やはり、お前さんの耳には私の声が聴こえるようだな」
そうしてようやく、声の主が姿を現した。
「…聞くつもりはないんだけどね」
漆黒の髪は中途半端な長さだったが
敢えて図っているのか、表情が読めない程度にうまく男の顔を隠していた。
顔色が恐ろしい程、白い。まるで生気がなかった。
隼杜はそこまで観察してから、そりゃおよそ生きているものの現れ方ではないよな…と一人納得した。
しかし 何故だろうか
非現実的な何かが起ころうとしているのに、隼杜の精神は驚くほど落ち着いていた。
それは『当り前の事象』として、彼の頭で捉えられているようだった。
あろうことかこの視線を、何処かで知っていたような気さえするのだ。
「恋人の墓参りに行っただろう」
「…ああ」
「その後、電車に乗ってココまで来た」
「…まさかとは思うけど、つけて来たの?」
隼杜はいぶかしんで聞いた。
一体、こいつは何が言いたいんだ?
―いや、そもそも
こいつは一体 何なんだ…?
「私は〝京紫〟。お前さんたちの世界では『死神』などと呼ばれている類のものだ」
生気のない薄い唇が、そう動いた。
「死神…?」
死神に関する伝説やら何やら雑多にではあるが、一応の情報は隼杜の頭の中にも記憶されていたハズだ。
やみくもに引っ張り出してみて、まず掴んだのが
「姿を見た人間には、近々死が訪れるとか言う―…アレ?」
そんな話だった。
京紫と名乗った男は、瞬間眉をひそめたようだった。黒髪が邪魔して、はっきりとは見えないが。
そして、小さく笑った。低い笑い声は、やはり薄気味悪さを感じさせる。
「そうか。お前さんたちの世界では、そんな噂もあるのか」
「違うの?」
「あながち間違いではない。正確に言えば…
原則的に、我々は近々死を迎えるものにしか〝認識されない〟のだ」
「…はぁ」
解ったような、解らないような…。いや待てよ、じゃぁ今『認識している』俺の立場は…?
隼杜の思考を読み透かしたように、京紫は付け加えた。
「―ああ、今はお前さんが認識しやすいように私の方で〝施して〟いる。
…波長を合わせている、とでも言えば解るか」
「…あ、そうなの…」
丁寧に説明してくれたので、ひとまず了解することにした。
死神は、尚も続ける。
「姿を現さなくとも、我々は常にこの世界に存在しているのだ。
姿形など、いくらでも変えられる。
今はお前さんが認識しやすいように人の形を借りているだけだ」
「ふーん…」
そこで何処か興味がなさそうに相槌を打つ隼杜に、死神は少し気分を害したらしい。
「私の説明は、つまらんか?」むっとしたような調子で言った。
「は?…いや、そういう訳じゃなくて…」
慌てて否定しながらも、隼杜はどうして俺がフォローしなきゃならないんだ…と思った。
何となく、おかしなヤツだな…
「まぁいい。そういう訳で、今はお前さんを迎えに来た訳ではないから」
安心しろ、と言われた隼杜に改めてひとつの疑問が浮かんだ。それは、当たり前と言える類のものだ。
「えと…じゃぁ、何でアンタ、俺の前に姿を現してるの?」
指摘を受けて、京紫は答えに詰まったようだ。ばつが悪そうに視線をそらし、それをしばらく泳がせていた。
言い訳を考えているようだったが、やがて諦めたようにため息をつく。
そんな様子が隼杜には無性に可笑しかった。
「…どういう訳だか、私は今までの『仕事』の先々で お前さんの〝影〟を見ていたのだ。
お前さん自身に死の影は見当たらないのだが、私が行く先々で何故だか関わってしまう」
例えば、彼の恋人だったり 彼の祖母だったり。〝未遂〟には終わったものの、彼自身にも一度対峙している。
ただそんな事を言われても、隼杜自身にはまったく心当たりのない話だ。
何しろ、この死神の存在は 今初めて知ったのだから。
「今日も、『仕事』の後でたまたまお前さんが居たのでな。何と言うか…、つい」
「つい?」
予想外のフレーズを耳にして、隼杜は間髪入れずに聞き返してしまった。
死神は、相手の勢いに瞬間的に驚いたようだったが
「…波長を合わせてしまったようだ」
そこまで言って、さも心外だと言わんばかりの深いため息をついた。
いや、ため息をつきたいのは俺の方なんだけどな…
自らでも、何をやってるんだ…などと思ったのだろうか。隼杜は死神の様子を見て、思わず苦笑いした。
「アンタ、呆れた死神(ヤツ)だなぁ」
それでも、何故だろうか
隼杜はこの奇妙な死神に何処かで好感を抱いていた。
少し見ているだけでも
この死神は 所作や言動がどうにも人間臭い。
確かにこいつとは、初めて逢ったような気がしない。
それどころか
探していた旧い友人に逢えたような、懐かしさに似た感情が湧いている。
そのおかしな状況と感情に伴い
この季節にいつも感じていた凍える程の寂しさが
いつの間にか薄らいでいる事に、隼杜はまだ気づいていない。
the Deathwing
以前公開していた内容を加筆修正し、同シリーズの中から小話を改めて選出・再編成したものです。