短編小説 『森の回廊館』
Loop.1
ビュウウウ……。
「うっ……」
…………
………………
……
……何だろう……。
私は今、何を……している?
頭が……クラクラするような、しないような……。
とにかく、頭の中が真っ白で不透明だ……。
目の前が、何も見えない。
頭の中はただ白い世界が広がるばかりでそこに他のものを感じない。
ただただ、白いだけの世界……。
その場所に私は立ち尽くしている。
何だろう、私は何故こんな……。
何もない世界に立っているのだろう。
……
まず、私は……。
誰なのだろう…………。
此処は……何処……。
…………
……
…
……
…………
「っ……」
私は朦朧とする意識の中で静かに目を覚ました。
サアァ……サアァ……。
耳に流れ込む葉が揺れる音。
そして、体に触れる冷たい風。
体の芯まで、そして神経の隅々まで
凍えるような感覚が私を襲った。
私は……一体……。
「どういうことなんだ……」
何かを考えたかったが頭が働かなかった。
考えたかったことすら分からない。
思い出せない。
つまり……まだ頭が何一つ働いていない……。
分かることは、無い……。
しかし、肌に触れるものの感触はかろうじて分かる。
右の頬に冷たい感触がある……頭が痛む……。
それに、指先が冷たくて重い……。
一体どうなっているんだ……。
私はしばらくその場で冷たい風に当たっていた。
頭も体もしばらく動く気配が無かった。
何故なのか、そんなことも分からないまま、
私はただただその場で人形のように固まっている。
しかし、時間が経つにつれ麻痺していた体の感覚も
徐々に戻ってくるのが分かった。
虚空を見つめていた私の灰色の瞳も少しずつ光を取り戻しつつある。
脳も、”何故私はここに居るのだろう”ぐらいは考えられるまでに目覚めていた。
「一体……」
私はそう呟き、頬に触れている冷たい感触が何なのかを考えた。
気付いてみれば、私の右半身全てにも頬と同じ感触があるようだ。
体を芯から冷やしてしまえるような底のない冷たさが私の右半身を常時襲っている。
これはまるで、冬の冷気に触れた土壌のような……。
「……」
そうか、これは土だ。
私の体を冷やしているのはこの冷気と土。
つまり私は今……。
「倒れている……」
きっとそうなのだろう。
空の下、冷たい風で冷却された土という名の自然に
私が抱き付いている形なのだろう。
私は静かに目を閉じた。
冷え切ってうまく動かない腕を必死に使い立ち上がろうとする。
手のひらに冷たい土の感触が伝わった。
そして、それと同時に自分が外で倒れていたという現実を改めて実感した。
立ち上がった私は静かに目を開けて、空を見つめる。
何故、私がこの場所で倒れていたのかは分からない。
しかしこの状況が何処かおかしい、ということは理解できた。
どうして、私は森の奥深くで倒れていたのだろうか。
そして、何故私の頭の中には真っ白な世界が広がっているのだろうか。
私は誰だ?
何故この場で倒れ、そして記憶を失っている?
謎と謎とが、頭の中で交差していた。
何も思い出せない。
何も……何もかもだ。
分かるのは、自分が朽ち果てる寸前の老人だということだけ。
目に映る自分の腕は今にも枯れてしまいそうな程細くてボロボロ。
まるで朽ちた老樹のような……。
「はぁ……」
私はこれからどうすれば良いのだろう。
周りに広がるのは空を覆う程の大きな木々のみ。
当ても無くこの森を彷徨うしかないのだろうか。
それとも、他に道はあるのか?
正直、途方に暮れるしかなかった。
「空は薄暗いな……」
もう夕方ぐらい、なのだろうか。
このまま森を彷徨って何も見つけられなかったら、
私は暗い森の中で何も見えないまま孤独と恐怖に
苛まれながら生涯を終えてしまいそうだ。
自分が誰かも分からないまま、この世から消滅する。
何という拷問だろう。
私にはあまりにも重すぎる罪ではないだろうか。
「ふぅ、お前は一体前世で何をやらかしたんだい?」
自分にそう問いかけて、私は渋々後ろへ振り返った。
「やっぱり、あそこに行くしか道は無いのかねぇ……」
そう呟く私の視線の先には、とある建物がそびえ立っていた。
赤レンガで建築された古い洋館である。
大きさはかなりのもので、おおよそ一般の三階建ての一軒家
五、六個分に相当するのではないだろうか。
それは、この私を待っていましたと言わんばかりの立ち位置で
綺麗に私の正面に位置する場所で建っていた。
「お前はあの家の主か何かかな?どうも他人とは
思えないんだよなぁ、妙に……親近感が湧くというか」
私は森の中にそびえるその洋館をしばらく見つめ続けた。
見つめる理由は無い、ただ……。
何だか自分があの洋館を知っているような気がしたから見つめていた。
しかし、知っているような気がした……、
という感覚が決して良いものとは感じられなかった。
何か、嫌な予感がしたのである。
あいつは、あの建物は私を待っている。
何だかそんな感じがする。
私も、何だかあいつに心惹かれているところがある。
しかし、果たしてあいつは良い意味で私を待っているのだろうか。
これは何故そう思ったのかが分からないが、
何か心の奥深くで感じ取ることができる。
あの建物は私を食らおうとしているのではないだろうか、と。
記憶の深層、底知れない心の奥深くで
私の感覚が、体が、あの建物へ入ることを拒絶している。
何故だろう。
その理由は、自分でも分からない。
何も思い出せない。
しかし、私の体は何かを恐れている。
「…………」
だが、私に他の選択肢があるのだろうか。
結局森を彷徨ったところで、町や他の人を
見つけられなければあっという間にこの老いた体は
自然へと還元されてしまうだろう。
道は沢山あるようで、無いに等しい。
結局選ぶ道は一つ限り。
「やれやれ……」
私は一つ、大きなため息をついた。
「お邪魔するしかない、か……。誰かが住んでいたら吉、
尚且つそれが天使や悪魔じゃなければ大吉ってところかね……」
私はそう呟いて再度重いため息をついた。
そして、目の前にそびえる洋館へと渋々足を進めたのだった……。
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「……」
私は洋館の正面玄関の前に立っていた。
目の前に立ち塞がる重々しい扉を見つめて、息を飲む。
先程ここへ来る前に洋館の周りを一通り観察して、
他に入り口が無いかを確認してみた。
とりあえず、この正面玄関にしか入り口は無いようだ。
念入りに探したが裏口や抜け道のようなものは無かった。
また、洋館を観察して分かったことなのだが、
この建物は非常に年月が経っているものと推測できる。
壁はヒビだらけでボロボロ、玄関の扉も大きくて立派だが
木製の為、ところどころ腐りかけている。
少なくとも建築から三十年は経過しているだろう。
他に分かったことといえば、洋館が三階建ての建物だということ。
多数あった窓から中の様子を覗けないか調べたが、
全ての部屋に白いカーテンがしっかりと掛けられていた為、
残念ながら中は覗けなかった。
しかし、カーテンがかなり汚れていたことを考えると、
しばらく掃除や手入れがされていないことが分かる。
果たしてこんなボロ屋敷に人が住んでいるのだろうか。
私は一息置いて、館の扉に手を置いた。
とりあえず誰か居ないか呼んでみよう。
コンコン。
私は扉をノックして、反応を伺った。
……しかし、中からの反応は無い。
正直言って、予想していた結果だ。
「すいません、誰か居ませんかね」
私は扉に向かって大声でそう言い放ったが、
結局中からの反応は一切無かった。
やはり、もう此処に人は住んでいないのだろうか。
私は扉に手を掛けて、錆び付いたノブを回した。
ギリギリと、錆が擦れる音が鳴り響く。
「……失礼しますよ」
私は恐縮した声でそう言って、恐る恐る扉を開けた……。
その時だった!
右耳の近くで何かが勢いよく空を切った。
私はその通り過ぎた気配を全身で感じ取り、
思わずその場に屈む。
何だろう、この悪寒は。
嫌な気配が私を横切った……!
一瞬時間が止まったような感覚が私を襲った。
それと同時に額から大量の冷汗が滲み出た。
そして私はその場にゆっくりと立ち上がり、
横切った気配の正体を横目で見つめ続けたのだった。
何でこんなものが上から降ってきた……!?
「お、大斧……!」
私はそう呟いて自分を襲った正体に息を飲む。
自分の視線の先、自分の背後には錆びた大斧が
鎖に吊るされて不気味に揺れていた。
扉を開けると、その扉を開けた人物に向かって、
飛んでいくように細工してあったようだ。
しかし、何でこんな細工が……。
奇跡的に当たりはしなかったが、もし直撃していたら
私の頭はこの大斧に潰されていただろう。
「やっぱり此処ってあの世の入り口なんじゃ……」
私は苦笑いを浮かべて深いため息をついた。
この館の扉を開ける前から嫌な予感はしていたが、
早速その予感は的中してしまったようだ。
「……」
しかし、ここで引き下がる訳にはいかないのが厳しいところである。
先程も考えたが、やはりこの館で風を凌いで助けを呼ぶしか私に生きる道は無い。
この先どんなことがあるか分からないが、私はこの館に入るしかないようだ。
「まともな人、いる訳無いが……行くしかないか」
私は湧き出る不安を押しのけて、静かに館へ足を進めた。
館に入った私は館の内装を観察する。
外側もボロボロだったが、中もかなりボロボロだ。
この館の内部も木で建築されているようだが、
天井や壁が所々腐りかけている。
もういつ倒れてもおかしくないのではないか。
中の様子はというと、やはり人が居る気配はない。
荒々しい風の音と、葉が風で揺れる音が交わる屋外と違って、
妙に静まり返っている。
道は左手と右手に細長い通路、
そして正面に上へと続く階段があるという感じ。
今のところ行ける場所はこの3ヵ所というわけだな。
さて、どうしよう……。
上へ行くのもありだが、階段が少々老朽化していて怖い。
まぁ、今いる場所も所々床に穴が空いていたりと、
結局危ないのは変わりないのだが。
とりあえず、左手の道を行くことにしよう。
何の根拠も無いが、左は安全な気がする。
私は屋内に入って、左側の道を進むことにした。
通路は細くて長い。
そして奥には2つの扉がある、といった感じ。
天井や床にはこれといった仕掛けは無さそうだけど、
念の為慎重に歩くことにしよう。
ギギギ……。
床が老朽化している為、ウグイス張りのような鈍い音が館内に響く。
私は一歩一歩、床が抜けないかを確認しながら進んだ。
その間にも背後は注意。
殺意満点の罠が入り口にあるぐらいだ。
何があってもおかしくはない。
ギギギッ……キッ。
「ん……」
その時、一瞬床の軋む音が変わった気がした。
今までは鈍い音が鳴っていたが、今回は少し音が高い気がしたのである。
体を硬直させながら足元を見つめた私は一層罠に警戒する。
……そして、私は背後から聞こえた物音に反応し、素早く後ろへ振り向いた。
バサッ!
目の前に突如、針で串刺しにされた黒くて大きな人形が舞い降り、立ち塞がった!
私はいきなりの出来事に思わず後ずさる。
その瞬間、先程私が踏んだ床が抜けて、
私はそのまま足を取られて倒れてしまった。
「なっ……!」
足が穴にはまって動けない……!
私は目の前の人形に警戒しながら、
穴にはまった足を何とか抜こうとする。
そして、何とか足を穴から抜いた……。
さらにその時だった!
私の頭上から突如、巨大な箪笥が猛スピードで落ちてきたのである。
私は足を穴から抜いた勢いで後ろに後退したので何とか潰されずに済んだ。
「はぁ、はぁ……!」
私は目の前の箪笥を信じられないような目で見つめていた。
あ、危なかった……!
足を穴から抜くのがあと少しでも遅かったら、
私はこの巨大な箪笥に潰されていた……。
斧の時もそうだが今回も運に助けられた……。
私はその場によろめきながら立ち上がり、
落ちてきた箪笥に手を置いた。
これも何者かが仕掛けた罠のようだ。
床を踏んだのがスイッチとなり、まず人形が背後に降りてくる。
後ずさりした私は第2のトラップである床の穴に足を取られ、動けなくなる。
後は動けなくなった鼠を箪笥で押し潰す、という流れか……。
なんて手の込んだ罠なんだ。
入り口の斧が既にこの罠の始まり。
わざと館の罠に警戒を促し、背後に落ちてきた人形に意識を集中させる。
後は人形に意識を取られている間に上から箪笥で押し潰す……。
人の心理を計算し、巧みに利用した嫌らしいトラップだな……。
しかも、この巨大な箪笥で通路を塞がれた。
箪笥は脆い床に完全にはまってしまっているため、
動かすことも出来ない。
つまり、入口へ戻ることが出来ない。
恐らく、この罠で死ななかった者を逃がさない為に仕掛けれた二つ目のトラップだろう……。
私は完璧に罠を作った人間の思いのままに動いてしまったわけだ。
「ははは……困ったね……何て言ってられないか」
とりあえず箪笥が動かせないとなると、
ここから出ることは不可能になった訳だ。
外に居るより危険なことを知った今、いち早くここから出たいのだが……。
やはり、窓を割って逃げるのが妥当か。
私はすぐ近くにあった窓に手を掛けようとした。
……しかし。
「いや待て……」
私は手を掛ける前に、窓をよく目を凝らして見てみた。
すると、カーテンの陰に小さな突起物を発見した。
これは……針。
カーテンの陰に隠れて大量の針が窓の取っ手部分、
そしてガラス部分に取り付けられていたのだ。
さらによく見ると窓は釘でしっかりと打ち付けられている。
おまけにガラスの部分は鉄格子で固定されているという徹底ぶり。
「なるほど……」
私は思わず笑ってしまった。
「捕えた鼠は決して逃さない……というわけね。
釘も妙に変色している所を見ると毒が塗られているな」
ただただ立ち尽くす私は自分が、
逃げることの出来ない鼠捕りの中に、
完全に閉じ込めれたということを悟った。
これは一体何の試練なのだろう。
それとも、単なる神様のイタズラ?
私は、憎悪と悪意が渦巻く古びたトラップハウスの中で
一人、閉じ込められたのだった。
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私は長い長い廊下を見渡して頭を掻き毟った。
もう降参したい程スリルは味わった。
これ以上この老体にどれ程の負荷を掛ければこの家の主は満足なのか。
それを罠の製作者へ子一時間問い詰めたいくらいだ。
「はぁ、どうしたもんか」
状況を考えろと自分の脳に鞭打つが、
考えなくとも最悪な状況なのは明白。
後ろは箪笥、窓には毒針……逃げ場は無し。
とすれば前へ進むしかない。
私はため息を吐き目の前の光景を見つめた。
私から見て右側の壁には扉が一つ。
扉は半開きの状態で簡単に開きそうである。
そして廊下の奥にも扉が一つ。
こちらは開けてみろと言わんばかりの大きな南京錠が掛かっている。
老人の力じゃ到底壊せそうも無い堅牢な鍵だ。
ということは自ずと道は一つに限られる。
右側の扉。
こちらに入るしかないが、当然何らかの罠があるだろう。
扉に、天井に、床に、ドアノブに……。
正直何処にデストラップが仕掛けてあっても不思議ではない。
私は扉の前に立ち、まじまじと壁やドアノブを見つめる。
扉やドアノブに怪しげな突起物や罠の始動になるような仕掛けは無い。
どうやら普通に開けることはできるようだ。
しかし扉の隙間から部屋の様子は確認することができない。
何とももどかしい。
「ん……」
その時私はふと不思議なことに気がついた。
この扉は入り口の扉と同じように鍵穴があるが、
ガムテープで念入りに封じられている。
それに扉のあらゆる隙間を縫うようにガムテープが張り巡らされているのである。
私は周りに注意しながら廊下奥の南京錠が掛かった扉に迫る。
こちらの扉はガムテープの加工などはされていない。
鍵穴も同様に存在するがガムテープなどは張られていない。
「ふふふ、やはり何かあるな」
私はニヤリと笑みを浮かべ元の扉へ戻ってきた。
想像してみるんだ。
何故このような加工を扉に……。
念入りに穴という穴を封鎖するということは
誰かに見られたくないものがこの扉の先にあるのか。
いや、それなら扉を半開きにする筈が無い。
それなら私以外の人間が先にこの扉へ入った可能性は。
いや、それも無い。
何故なら私より先にこの扉に入ったということは
その先客が先に箪笥の罠に掛かっているはずだから。
私がこの屋敷に入った時、床は壊れてなどいなかった。
仮に誰かが先に此処へやってきて箪笥の罠に掛かったとしよう。
そして何者かが箪笥で壊れた床を直したとする。
だとしても少なからず床に修復した痕跡が残るはずだ。
此処は誰が見ても古いと分かる程の老朽化が進んだ洋館。
新しい材質で床を張り直せば違和感が残るのは必然。
ならば……。
「答えは一つだろう……。
扉の先に何らかの罠が張ってある。
そしてこの扉の細工は罠の複線」
言い換えれば合わせ業。
きっと罠の作動に必要不可欠な要素なのだろう。
しかしこんな考察を繰り返しても何ら解決策は見出せない。
何故なら罠が張っていると分かっていても私は進むことしかできないのだから。
私にできることは最後までできることをするまで。
慎重になれば少しは生存率も上がるだろう。
まずは耳を立ててみよう。
音を聞き取れば何かが分かるかもしれない。
私は扉に耳を近づけ精神を集中させる。
すると扉の先から規則的に何かを叩く音が聞こえてきた。
それにこれは呻き声か。
甲高い小さな声が扉の先から不規則に聞こえてくる。
まさか誰かが閉じ込められているのか。
もしそうなら早々に助けに入らなければ……。
いやだがそれが扉の中に人を誘う罠だとすれば迂闊に入ることはできない。
「…………」
私は無言のままその呻き声と何かを叩く音を聞いていた。
最初は戸惑った。
扉を開けることを躊躇した。
しかし私はそんな状況でもドアノブを強く握り締めたのである。
「やれやれ、まるで漫画の世界だな……!
状況も、私自身も!」
私はそんな言葉と同時に扉を思い切り開けた。
扉を開けた理由、それは本当に些細なことだった。
ただ時間が経つごとに自分が先へ進むことしかできない、
という現実に直面し現実から逃げ出したくなるからである。
私は扉の先へ目を凝らした。
部屋は薄暗く良く見えないが部屋の奥に誰かが倒れている。
「大丈夫ー?聞こえるー?」
私はその人物に対して声を掛けるが応答は無い。
動く気配も無い。
部屋に踏み込むべきか、いや。
そんなことを考えている暇があったら助けに行くべきだ。
私は息を飲み一歩また一歩と部屋の中へ踏み進めた。
ビィン!
「何っ!?」
しかしその時、私の足に何かが引っかかった。
それと同時に背後の扉が勢いよく閉まり、鍵の掛かる音が辺りに響いた。
私は急いで扉を開けようとドアノブを回そうとしたがドアノブを握る直前に踏み止まる。
ドアノブをよく見ると突起物のようなものが設置されていたのである。
突起物は廊下の窓に設置された針と同じように変色していた。
「……罠、か」
私は扉から後ずさりをして遠ざかり、
倒れていた人物に駆け寄った。
しかしその人物に近寄り私は驚愕する。
何と倒れていたのは古びたマネキンだったのである。
よく見れば辺りにも同じように古びたマネキンが散乱している。
足元には鋏にクシ、棚には様々な髪型をしたマネキンが並んでいる。
部屋の様子から連想すると床屋である。
私が入った扉以外に出口は無し、か。
窓も無く、本当に密閉空間のようだ。
先程扉から耳を澄ました時定期的に聞こえていた
何かを叩くような音は剥き出しになった扇風機の羽が
近くの布を叩いていた音のようだ。
呻き声は此処に人がいないとなると誰の声だったのだろう。
少なくとも近くに、そしてこの屋敷に人がいる証拠ではないだろうか。
何にせよ、この部屋の扉が閉まったということは罠の可能性が高い。
「警戒したいところだが……さて」
私は辺りを警戒しながら足元に落ちていた鋏を手に取り懐に入れた。
シュー……。
その時、部屋の中から妙な音が聞こえてきた。
空気が抜ける音のようである。
「嫌な予感がするな……ははは」
私は乾いた笑いを放ちため息をついた。
精神を集中させ音の出所を辿る。
部屋の隅へ恐る恐る近づきそして
そこにガスホースがあることに気付いた。
ガスホースからは勢い良く白いガスが流れ出ている。
私は素早く口元を隠し辺りを再度見渡した。
しまった、これは毒ガスかもしれない。
毒ガスではないとしてもここは密閉空間。
時間が経てばガスが充満し一酸化中毒死する可能性がある。
「ぐっ……そうか……」
扉の穴が念入りに塞がれていたのは充満したガスが逃げないようにする為。
やはりこの罠への複線だったか。
私は扉に近寄り扉回りを念入りに確認した。
ドアノブは先程確認した通り毒針が設置してある。
扉の表面にも同じく毒針が大量に張られている。
毒針に注意してドアノブを回してみたが当然のように鍵が掛かっているようだ。
「ふむ、私の考えを先回りするように設置された罠……最悪だ、こりゃ」
力任せに扉を開けようとすると表面に設置された毒針が牙を剥く。
かといって部屋の中に扉を破壊できるような家具や道具は無い。
この扉から出ることは不可能だ。
「ゴホッ……!煙が充満してきた」
息が苦しい……思うように息を吸うことが出来ない、どうしよう。
私は部屋を見渡しながら眉をしかめた。
「どうにもならんな、こりゃあ。
年貢の納め時か……」
私は再度息を飲み嗚咽を繰り返す。
思ってみれば長いようで短い人生だった。
気づいてみれば森の中、一人孤独に倒れていた私。
記憶も無いまま、生きた実感も無いまま自身が老人である、
という重く切ない現実だけが背中にのしかかった。
恐らくこの体は長い間いろんな人生を経験し、
辛い時そして楽しい時を過ごして生き抜いてきたのだろう。
しかしその体に記憶は無い。
私、という人格そして脳内の私という存在には
そのような経験はまるで無かったのである。
空っぽのような私に生きた感覚そして
人生をやりきった感覚などまるで無い。
「ははは……空しく、そして悲しい人生よ……。
今のわしにしたら……」
私はその場に膝をつき静かに座り込んだ。
頭の中には未練ばかりが流れ着く。
せめて……。
せめてこの体がそして私が何者なのかを知りたかった。
死ぬ前に自分が生きた意味、そして此処にいる意味を知りたかった。
死ぬなら疑問一つ残さず死にたかった……。
「ゴホッ、ゴホッゴホッ!
疑問も考える余地も無い状況で……死にたかった」
ぎ……疑問?
その時、私の中にたった一つの疑問が浮かび上がった。
薄れゆく意識の中でこの部屋に入る前の記憶が頭の中に蘇る。
私がこの部屋に耳を澄ました時、
聞こえてきた音は二つ。
一つは何かが何かを叩く音。
これは剥きだしになった扇風機の羽が近くの布を叩く音だった。
もう一つは誰かの呻き声。
甲高いその声は不規則に私の耳に流れ込んでいた。
音を思い出した私は今一度耳を澄ます。
ガスが吹き出る音に集中し過ぎて忘れていた音が
頭の中に再び舞い戻ってくる。
先程、あの呻き声は誰かの声なんだ、
人の声なんだと自分の中で決め付けていた。
何故人の声だと錯覚した?
単純に考えれば声ではなくただの音なのでは?
「そうか……グフッ!ゴホッ!
……今も聞こえるこの呻き声は声ではない……」
単なる物音だ。
そして甲高く不規則に鳴り響く音が何なのか、を
考えれば予想範囲はかなり狭まる。
私は力を振り絞ってその場に立ち上がった。
そして辺りをもう一度見渡し呻き声という名の物音に耳を済ませた。
この音は何処から鳴っている。
何処から聞こえてくる……。
「っ!……そこか!」
私は音の方目掛けて思い切り突撃した。
その瞬間扉と反対側の壁が崩れ、
私の体は廊下に飛び出た。
「いてて……こちら側にも廊下があったのか……」
私は痛めた腕をもう片方の腕で庇う。
予想が当たって良かった。
私が聞いた呻き声は隙間から風が通る音だったのだ。
最初あの部屋は完全なる密室空間だと勘違いしていたがそうではなかった。
風が通る音が聞こえた、ということはつまり、
壁の向こう側に空間があるということを示していたのである。
正直壁が破れるかは一か八かの賭けであった。
何故なら向こう側に空間があると分かっていたとしても
壁の厚さや強度が不明確であったからである。
「まぁ、結果良しという訳だ……良かった良かった」
私はよろめきながら近くの壁によしかかった。
老体にこれだけの運動量はさすがにガタがくる。
酸欠気味になったのもあるが頭と体が既にボロボロだ。
「……ふふっ」
しかし、何故か笑う自分がそこにいた。
何故だろう、これだけ危険な目に遭って
何度も死に掛けているのに何故か頬が緩む。
残念だったね、また次に期待しているよ。
そんな言葉を罠の製作者に対して言いたい。
そんな気持ちが不思議と浮かび上がってくる。
これはまさか……。
「私はこの状況を楽しんでいる……?ははは……」
それこそ思わず笑ってしまう予測であった。
楽しんでいる?そんな馬鹿な……。
私は、私の本心はただ助かりたい。
此処から逃げ出したいという気持ちだけなのに。
だから頑張っている、筈なのに。
「…………」
私は頭を抱えた。
いや違う、私はそんな生半可な考えなどしていない。
私が此処まで頑張っている理由は何処か狂っている。
そもそも私が先程のガス部屋で諦めずに思考を巡らせることが出来たのは
この屋敷の謎を解き明かしたい、
疑問も何もかも解き明かしたいと考えていたからこそだ。
だからこそ諦めずに考えることが出来たし、今生きている。
そう、助かりたいという気持ちだけで収まるはずの感情に
欲求がプラスされて私は動いている。
「ふっ……探究心が人一倍強い」
そう考えるのが一番妥当か。
そもそもこんな屋敷に入って冷静でいられる人間などいない。
いたらそれこそ異常者だ。
私は至って正常だ。
自分に対して変な詮索はやめよう。
それこそ気がおかしくなる。
それより、此処から脱出することを考えるんだ。
プラスで助かることも考えると尚良し。
まず周りを確認しよう。
どうやら此処は先程居た廊下とは反対側の廊下らしい。
この建物の構造は良く分からないが
今居る廊下奥に二階へと続く階段が存在する。
確か屋敷入り口にも二階へと続く階段が存在したな。
あれは崩れかけていて上る事はほぼ不可能だったが此処は問題なさそうだ。
そして部屋の奥にもまた扉が存在する。
これは私の予想だが最初の廊下の奥に存在した南京錠が掛かった扉と
現在私がいる廊下の奥にある扉は繋がっているのではないだろうか。
何故ならあの扉の上には怪しげな罠が設置されているからである。
大きく長い針が取り付けられた板。
この罠は扉を開けた途端に落ちてくるもののようだが、明らかに扉の向こう側から開ける想定になっている。
私は廊下の奥へ歩みを進め、扉に手を掛けた。
そして罠に触れない位置に立ち、扉を勢い良く開けた。
すると待機していた針板は勢い良く部屋の中に突っ込んだのである。
「ふむ、完全に部屋の中から開ける想定の罠……」
私は部屋の中を恐る恐る眺めた。
部屋は細長く広い。
目を凝らすと部屋の向こう側にも扉が存在する。
恐らくあの扉は最初私がいた廊下の南京錠が掛かっていた扉のようだ。
その扉の前にはこれまた怪しげな針板が存在する。
これは単なる憶測に過ぎないが、
南京錠を無理やり壊そうとするとあの針板が動くのだろう。
大きな針板は勢い良く扉を破壊し、
突き抜けた先に居る鼠を針のむしろに仕立て上げる。
「私も一歩間違えばあの針板の一部になっていたのか……」
どうやらどちらの扉を選んでも罠の洗礼を受けていたようだ。
「やれやれ……」
私は首を横に振り、針地獄のような罠郡を後にした。
やはり気になるのは二階へ続く階段である。
見る限り罠を敷いているようには見えないが慎重に進まねば。
私は二階へ続く階段を上った。
恐る恐るゆっくりと上り、
結局罠も無いまま二階へ辿り着いた。
二階には扉が一つ。
まるで私を待っていたかのように立ちはだかっている。
私は扉を念入りに確認し罠が無いことを確認、慎重に開いた。
部屋の中はまるで書斎のように棚が立ち並び、
その棚には沢山の本が立ち並んでいる。
部屋は決して狭いという訳では無かったが
その本達の威圧感が部屋を異様に狭く見せた。
部屋の中央には小さな机と椅子が一つずつ、姿を見せている。
私はまず扉が閉まらないよう木の板で固定した。
この木の板は先程壁を破壊した時に
出現した壁の破片の一部である。
そして複数ある木の破片を部屋の中にばら撒いた。
これは部屋の中の罠を確認する為に行った行動。
特に何も起こらなかった。
私は首を傾げながら恐る恐る部屋の中に忍び込む。
そして不思議なことに何事も無く机の前まで歩くことが出来た。
机には古びた一冊の本が置かれている。
私は椅子に座りその本を開いた。
ノートに人の字で日付と文章が書かれている。
どうやら誰かの日記のようだ。
~~~1986年7月8日~~~
暑い、私はただそう思う。
何故太陽は私たちにこう牙を剥くのだ。
皮膚が焼ける、焼け爛れてしまう。
これは冷却が必要だ、必要不可欠だ。
氷をくれ、皮膚に氷を刷りたい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
「ふむ」
私はさらにページをめくった。
~~~1986年10月31日~~~
今日はハロウィンだよ。
お化け達が街中を歩き回る。
陽気に歩き回るねメアリー。
可愛いな君は、食べてしまいたいくらいだ。
それほど君が憎らしい。
私は欲しい、あぁ欲しいよ。
可愛いよ、可愛い、可愛いぃぃぃ。
私は待ち焦がれて自身をも食べてしまう勢いだ。
あぁ、美味しく頂きたい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~1986年11月1日~~~
もう待てないよ。
君を食べたい。
あぁ、目の前に君が居る。
なのに待ちぼうけなんて嫌だ。
君を私におくれ、君という存在を私に頂戴。
消し去ってあげよう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~1986年11月3日~~~
食べた。
喰った。
甘いくて苦いのはあとえもなんがろう。
ふえしぎだなぁ。
でもこんなとろえてしまいとうになるなんて。
はひえてのあんあくなんだおおう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私は数ページ眺めて日記の異常さに体を震わせた。
これを書いていたのはこの館の家主だろうか。
メアリー?一体誰のことだろう。
そして食べた、というのは一体。
ますます謎が謎を呼ぶ……。
私はまたページをめくった。
~~~1986年12月4日~~~
私は気付く。
私はこの世を歩く一つの肉塊に過ぎないのだと。
どんな生き物も私の目にはただの肉の塊にしか見えない。
メアリーもアレンもコニーも全て肉だよ、肉なんだ。
そして肉は食べる為に存在するだろう。
食べて、初めて違いが分かる。
食べることが人間の本能だ、そうだろうジョシュ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~1986年12月5日~~~
ジョシュ、君は一体何処のジョシュなんだい?
私がジョシュであって君は誰だ?
ジョシュは肉であって私も肉だ。
それは変わらない。
だけど旨味は変わるかもね。
私は君自身にも興味を見出したよ。
あぁ、私はジョシュを食べたい、私によこせ!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~7624年24月85日~~~
ははは、此処まで丁寧に読んでくれてありがとう。
2分47秒。
驚きと理解を想定して大体これくらいだ。
私の主観計算だがね。
ほら!左を見てみたまえ!
ピエロが顔を出しているだろう!?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私は額を伝う汗を拭いながら左へ向いた。
その瞬間、ピエロ人形の赤い目と鉢合わせる。
「……!や、やぁ……」
私は思わずピエロ人形に挨拶してしまったが
その瞬間ピエロ人形の腹部から飛び出た鉄球に吹き飛ばされ、
そのまま窓から勢い良く投げ飛ばされてしまったのである。
腹部に伴う激痛に意識が一瞬で吹き飛んだ。
何かが弾け飛ぶ感覚が体を襲う。
しかし何が弾け飛んだかは分からない。
自身が感じる、見る世界が、真っ白になっていく。
「…………」
私は訳も分からぬまま空を滑空し、そのまま目を瞑った……。
続く。
Loop.2
ビュウウウ……。
「うっ……」
…………
………………
……
……何だろう……。
私は今、何を……している?
頭が……クラクラするような、しないような……。
とにかく、頭の中が真っ白で不透明だ……。
目の前が、何も見えない。
頭の中はただ白い世界が広がるばかりでそこに他のものを感じない。
ただただ、白いだけの世界……。
その場所に私は立ち尽くしている。
何だろう、私は何故こんな……。
何もない世界に立っているのだろう。
……
まず、私は……。
誰なのだろう…………。
此処は……何処……。
…………
……
…
……
…………
「っ……」
私は朦朧とする意識の中で静かに目を覚ました。
サアァ……サアァ……。
耳に流れ込む葉が揺れる音。
そして、体に触れる冷たい風。
体の芯まで、そして神経の隅々まで
凍えるような感覚が私を襲った。
私は……一体……。
「どういうことなんだ……」
何かを考えたかったが頭が働かなかった。
考えたかったことすら分からない。
思い出せない。
つまり……まだ頭が何一つ働いていない……。
分かることは、無い……。
しかし、肌に触れるものの感触はかろうじて分かる。
右の頬に冷たい感触がある……頭が痛む……。
それに、指先が冷たくて重い……。
一体どうなっているんだ……。
私はしばらくその場で冷たい風に当たっていた。
頭も体もしばらく動く気配が無かった。
何故なのか、そんなことも分からないまま、
私はただただその場で人形のように固まっている。
しかし、時間が経つにつれ麻痺していた体の感覚も
徐々に戻ってくるのが分かった。
虚空を見つめていた私の灰色の瞳も少しずつ光を取り戻しつつある。
脳も、”何故私はここに居るのだろう”ぐらいは考えられるまでに目覚めていた。
「一体……」
私はそう呟き、頬に触れている冷たい感触が何なのかを考えた。
気付いてみれば、私の右半身全てにも頬と同じ感触があるようだ。
体を芯から冷やしてしまえるような底のない冷たさが私の右半身を常時襲っている。
これはまるで、冬の冷気に触れた土壌のような……。
「……」
そうか、これは土だ。
私の体を冷やしているのはこの冷気と土。
つまり私は今……。
「倒れている……」
きっとそうなのだろう。
空の下、冷たい風で冷却された土という名の自然に
私が抱き付いている形なのだろう。
私は静かに目を閉じた。
冷え切ってうまく動かない腕を必死に使い立ち上がろうとする。
手のひらに冷たい土の感触が伝わった。
そして、それと同時に自分が外で倒れていたという現実を改めて実感した。
立ち上がった私は静かに目を開けて、空を見つめる。
何故、私がこの場所で倒れていたのかは分からない。
しかしこの状況が何処かおかしい、ということは理解できる。
どうして、私は森の奥深くで倒れていたのだろうか。
そして、何故私の頭の中には真っ白な世界が広がっているのだろうか。
私は誰だ?
何故この場で倒れ、そして記憶を失っている?
謎と謎とが、頭の中で交差していた。
何も思い出せない。
何も……何もかもだ。
分かるのは、自分が朽ち果てる寸前の老人だということだけ。
目に映る自分の腕は今にも枯れてしまいそうな程細くてボロボロ。
まるで朽ちた老樹のような……。
「はぁ……」
私はこれからどうすれば良いのだろう。
周りに広がるのは空を覆う程の大きな木々のみ。
当ても無くこの森を彷徨うしかないのだろうか。
それとも、他に道はあるのか?
正直、途方に暮れるしかなかった。
「謎のヒントはこの手記だけ……か」
私は足元に落ちていた日記を手に取る。
日記はとても薄く、そして使い古されているようだ。
この日記に見覚えは無いが、足元に落ちていることを考えると私の日記なのだろうか。
とにかく見てみよう。
私はその場に座り込み日記をおもむろに開いた。
「ふむ……ん?これはこれは……」
日記は古いが幸い鉛筆で書かれている文字はハッキリしており読みやすい。
そして日記の感想を町民に尋ねれば読んだ誰もが異常だ、と答えるだろう。
この日記がもし記憶を失う前の私が書いていたものだとすれば、
自身がこんな境遇に置かれていても不思議ではない、と考えることすら出来る。
それは記憶を失う前の自分が異常な行動をしていると考えた想定である。
だがこの日記に体を震わせる自分がこの日記の作成者であるはずが無い。
そうで無いと信じたい……。
「はぁ……」
まずこの日記の日付、一体どれだけ前のものなのだろう。
今何年かも分からないこの状況ではそれさえも
憶測で考えるしかないのが辛い所である。
日記の老朽化を考えれば相当古い日記であることは分かる。
この日記に書かれた人物達、
メアリーやコニーはもしかしてこの異常者に食べられてしまったのか?
そしてジョシュ。
こいつは日記を書いた人物本人なのか?
何より最後が不思議でならない。
2分47秒というのは想像するに
この日記を読み終える時間を示しているに違いないだろう。
ということはこの日記の内容自体が空想、そして悪質な悪戯なのかもしれない。
「ううん……これは謎解きゲームか何かなのだろうか。
少なくとも私はとんでもない状況に置かれてしまっているようだ」
私はため息をついて日記をポケットにしまった。
とにかく夜も近い。
このまま森の中に立ち往生していては凍え死ぬだけだ。
とすれば、道は一つ。
目の前の洋館に入ることが一番懸命な判断に違いない。
私は洋館へ足を進めた。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「……」
何だろう、これは。
私は洋館の入り口の前に立って、
目の前にぶら下がる大斧をまじまじと見つめていた。
扉は開きっ放し。
そして扉の前には殺意に溢れた大斧が私にこんばんはと夜のご挨拶をしている。
状況を考えるのは簡単。
扉を開けるとこの大斧が降ってくる仕掛けなのだろう。
ぶら下がっているということは私より先に誰かが此処へ来たということ。
「ふっ……先客は賢いようだ。
この斧をかわして軽快に屋敷へ侵入したということか」
つまり誰かがこの屋敷内に居るということだ。
建物も古いし人が居る気配も無かったので
期待は持てなかったが、これは心強い。
私はぶら下がる大斧を横目で見つめながら屋敷へと侵入した。
「誰かいませんかー!
……反応はない、か……」
私は屋敷に入るなりいきなり叫んでみたが
屋敷内に声が反響するだけで何の反応も無い。
「ふぅ……気味が悪い」
外観もそうだが中も相当古いと見える。
正面には二階へと続く階段があるが老朽化しているようだ。
あまり上りたくは無いな。
それより気になるのは左手に見える通路だ。
大きな人形がぶら下がっており、さらに
箪笥が廊下を阻むように床へめり込んでいる。
誰かが通路を遮断する為に箪笥を配置したのだろうか。
まさか先客の誰かが?
いや、それならこの人形は何だ。
進入してきた人物を威嚇をする意味でもあるのだろうか。
「うわっ」
私は人形を凝視した途端、思わず叫んでしまった。
この人形よく見ると全身に夥しい量の針が突き刺さっている。
目にも口にも鼻にも……。
この人形を見て一言感想を言うならまさに気味が悪い、だ。
それにこの針妙に変色しているし、汚い。
「元は銀色の金属……だったのだろうか。
だとすれば針が変色するのは毒の可能性が高い」
銀は非常に不安定な金属だ。
昔、金属いわば銀を毒味に使用した例があると小耳に挟んだことがある、気がする。
銀は変色しやすいので毒が仕込まれたスープなどにスプーンを浸すと
見る見るうちに変色するそうだ。
この針も同じように毒で変色したとなれば……。
「ううん……」
この人形や箪笥にはあまり触れない方が良いだろう。
家の口を開ければすぐさま命を刈り取るように大斧が降ってくるくらいだ。
何があってもおかしくはない。
では自ずと進むべき道は決まっている。
私から見て右手の道……。
私は右の道を眺め静かにそして慎重に前へ進んだ。
目の前の廊下は非常に長い。
奥に扉が見えるだけで他に扉らしきものは見当たらない。
とにかく行ってみよう。
体も痛いし妙に疲れている。
予想だがその内この体は動かなくなるだろう。
その前に進まねば謎が謎のまま全てが終わってしまう。
「こほっ……何故こんなに体がだるいのだろう……歳か……」
私はため息をついて一歩、また一歩踏み出した。
キリッ……!
「うっ……」
その時、私の首元に妙な感触が触れた。
糸、であろうか。
よく目を凝らすと首元にピアノ線のようなものが当たっている。
危ない、そう思ったのも束の間!
ピアノ線は突如グニャリと曲がり、
一気に私の首に巻きついた。
「ぐうっ!」
私は息を飲む暇も無くただピアノ線に首を吊られる。
「かっ!……っ!」
何だこれは!
突然のことに頭が追いついていない。
とにかく首に細いピアノ線が巻きついている。
それもかなり深く。
このままでは息が出来ずに窒息死してしまう……!
私は苦悶の表情を浮かべながら横目で辺りを見渡した。
両壁からピアノ線が伸びているのが微かに見える。
どうやら飛び出ていたピアノ線に何か物体が当たると
新たなピアノ線が出現しその場の物体を締め上げる仕掛けのようだ。
「うっ……ぐう……」
まずい、一気に血が頭に上ってきた。
頭が熱く、そして意識が遠のいていく。
何とかしなくては……!
私は震える両手でピアノ線を引っ掻いた。
しかしピアノ線は案外丈夫で私の爪では切れる様子が無い。
"くそっ!何でお前は深爪なんだ!"
次に私は自身の服の中を触り始めた。
何かピアノ線を切れるものがあれば……!
その時、手に硬い何かが当たる。
取り出したのは古びた鋏であった。
「っ!」
私は占めたと思い既に感覚が無くなった腕でピアノ線を鋏で切ろうとした。
「っ!っ!」
しかし手に力が入らない!
意識が薄れて腕が上がらない!
"あっ!"
その時、私は手から鋏が抜け落ちる光景を目の当たりにした。
カランという鋏が落ちた虚しい音が微かに耳に届く。
しまった!折角の頼みが絶たれてしまった!
ギリギリッ!
「んぐうっ!」
その瞬間、ピアノ線がさらに首を絞めた。
追い討ちと言わんばかりにピアノ線が首を擦り始める。
もうどうしようもないのか……。
そう思ったその時、ふと私は最後の力を振り絞って背後に手を伸ばした。
横目で微かに見えるは箪笥の横にぶら下がっていた大きな人形。
私はその人形に刺さる針目掛けてめいいっぱい腕を伸ばしていた。
「っ!……っっ!」
伸ばした腕が人形に刺さった針を掠め取り、
もう片方の手がピアノ線にその針を当てていた。
ピンッ!
「かはぁ!……はぁ、はぁ!」
紐が切れたような軽い音が耳元に響き、
その瞬間私の体は地面に崩れ落ちた。
頭と首が焼けるように熱く、そして痛い。
私は徐々に体中の神経が繋がっていくような感覚に陥った。
冷たく青ざめていた腕にも熱が戻ってくる。
危なかった!
もう少しであの世に召される所だった……。
なんて恐ろしい罠を張るんだこの家主は……。
私は落ち着いた所でその場によろよろと立ち上がる。
そして首を擦りながら入ってきた入り口を見つめた。
今ならまだ此処から出れるが……出た所で結局状況は変わらない。
つまり、私は進むしかないのか。
「悪魔の仕業か……それとも何かの罰か。
どちらにせよ最悪な試練ってことには変わりないか……」
私は大きくため息をついて先へ進むことを決意した。
よく目を凝らせば廊下にピアノ線が大量に設置されているではないか。
どれもこれも恐らく私が掛かった罠のように
触れた物体を締め上げるような細工がしてあるに違いない。
私は線に引っかからない様、鋏でピアノ線を切りながら前へ進んだ。
そしてようやく私は廊下奥の扉に辿り着いた。
扉に鍵は掛かっていない。
だが油断は禁物。
入り口の大斧のように扉を開けることで作動する罠があるかもしれない。
私は一息吸って扉を開いた。
「……」
どうやら扉に罠は無いようだ。
開いても静寂が平行するだけで何も起こらない。
「ふぅ、一安心……」
とは行かないな……。
むしろ何か作動してくれた方がホッとするまである。
ここで罠が作動しないということはこの先に
他の罠が待ち構えている可能性が大いにあるからである。
私は少し扉から離れた位置で部屋の中を確認した。
部屋は縦に広いようだ。
テーブルと椅子が沢山置かれている。
そして部屋の端には焜炉や食器棚。
まるで食堂のようだ。
ギッ。
「ん……」
足元はだいぶ脆いようだ。
床は木の板で一度補強しているようだが
その板も既に腐りかけている。
私は天井や足元に注意しながら部屋の中に進入した。
しかしその瞬間、右足付近の木の板が突然割れ私はよろめいた。
「うわっ!」
私は倒れないよう左足で体制を整えようとしたが
左足付近の床も崩れ始める。
額を伝い、地面へと落ちるはずの汗の雫が
私の遥か彼方下へ落ちていくのが分かった。
なんということだ。
この部屋の床は非常に脆い構造になっているが、
単純に脆い訳ではないようだ。
故意に崩れやすいよう細工してある。
私は崩れた床のさらに下を慎重に覗き込む。
暗くて良く見えないが割れた食器が大量に散乱している様だ。
それに穴の高さもそれなりにある。
この落とし穴に落ちれば食器の破片が全身に襲い掛かるのだろう。
梯子等も無いし落ちたら最後、上ることもできないはずだ。
私は動けないまま辺りを見渡すしかなかった。
一歩、いや少しでも足を動かせば床は崩れてしまうだろう。
廊下に戻りたいが廊下へ飛びつこうとすれば
飛ぶ前に床が崩れて私が落ちてしまう。
「参ったな……」
私は薄暗い落とし穴部屋の中で立ち往生してしまった。
今度こそ策は無いのか、いやそんなはずは無い。
ちゃんと思考すれば打開策は何かしらあるはずだ。
今私は此処に立って生きている。
もう体も心も老いぼれだが生きる時間はまだまだあると信じたい。
「むう……」
しかしどうしよう。
選択肢は二つ。
廊下に戻るか、先へ進むか。
廊下に戻る場合、私が後ろへ振り向き
大きく開いた穴を跳び越さねばならない。
だがそうすれば私が振り向き、飛ぶ反動で床は崩れてしまうだろう。
飛ぶことに失敗した場合私は二度と外の景色を目にすることは出来なくなる。
先へ進む場合、可能性は一つのみだ。
恐らく普通に歩けば床が抜けて私が落ちる。
つまり先へ進む場合はテーブルの上、もしくは
椅子の上に登らなければならない。
テーブルは私より重いはずだ。
なのにテーブルの真下にある床が崩れていない。
つまりテーブルが乗っている場所は床が抜けない。
「はず……」
私はどちらの選択肢に未来を託すか迷った。
現実的に考えれば戻ることが正解だ。
しかし考えてもみろ。
今戻ってしまったらもうこの部屋から先へ進むことは出来ないだろう。
「はぁ……何ということだ」
先程死に掛けた時もそうだった。
窮地に陥った時、最後には一つの答えに辿り着いてしまう。
それは私には先へ進むしか道は無いということ。
窮地を脱した時、何度もこの恐怖から逃げようとした。
しかしこの老人に残された時間は限りなく少ない。
食料も無い、人もいないこの館で生き残る方法はたった一つ。
限りなく低い生存の可能性に賭けることだけ。
その為にはこの罠郡を掻い潜り、食料を見つける。
もしくは助けを呼ぶ方法を見つけることしかできない。
あまりにも可能性の低い賭け。
いや、賭けにも満たない。
まるで賭け金が無い状態でハイリスクノーリターンの
大博打を打っているようなものだ。
「なんてこった、まったく、本当に……」
こんな時でも私は重いため息を吐いていた。
この短時間で何度思ったことか。
"神は何故このような試練を私に与えるのですか"
と……。
「ふぅ……」
とにかく、決心はついた。
結局私は先へ進むしかない。
行ってやろうじゃないか、出来るところまで。
私は部屋の中のテーブルを見つめた。
無論、先へ進むということは部屋の向こう側にある扉を目指すということ。
しかしその為にはこの落とし穴群をどうにかして攻略しなければならない。
ならばテーブルに飛び乗る他無い。
私は精神を集中して足に力を込めた。
右足で思い切り地面を蹴り上げる。
床は音を立てて崩れ始めた。
それと同時に私の体は宙に浮き、近くのテーブル目掛けて飛翔した。
私はテーブルに飛び乗ることに成功。
しかし!
ガラッ!
「なっ!?」
なんと私がテーブルに乗った瞬間、テーブル自体が崩れ始めたのだ!
私の体はテーブルの残骸と共に脆い床を突き抜けて
落とし穴へ真っ逆さまに落ちた。
しまった!
床が崩れることは考えていたがまさかテーブル自体が崩れるなんて!
一瞬、私の視界が停滞した気がした。
スロー映像とでも言うのだろうか。
今目に映るのは天井と床の残骸。
私は今落ちている、確実に死へ急降下している。
それだけは落ちゆく最中で理解できた。
これはまさか走馬燈というやつか。
ついに死神が迎えに来たのか……。
「…………」
ははは、どうにも短く無意味な時間だった……。
私はつくづくそう思った。
悪運もそうそううまくは続かない。
もうここまでか……。
…………。
……。
ギイッ!
「えっ!?」
私は死を覚悟した。
潔い死、である。
しかしその時、私は不思議な音と共に自分の体が吊られる感覚に陥ることとなる。
少し時間が経過し、自分の体が地面に激突しないことに疑問を覚えた。
私は恐る恐る目を開け、辺りを確認した。
なんと、私の体が宙に浮いているのだ。
その原因は自身の腕に巻かれた手錠。
「大丈夫ですか!?今引き上げます……!」
誰かの声が聞こえる。
私は訳も分からぬまま、なすがままに引き上げられた。
廊下へと戻った私は目の前の青年に頭を下げる。
「あ、ありがとう……助かったよ」
「いえ、町の安全を守る一警官として人を助けることは当たり前のことです」
目の前に立っていたのはとても背の高い青年。
年は二十前半といったところか。
警官の服装で、右手には手錠を握り締めている。
私の背は大体165センチだとしてそこから5センチ程背が高く見える。
スラリとした体格で顔は凛と整っていた。
「しかし落ちる人間の手に手錠をかけるとは機転が利くじゃないか。
頭の回転がとても速いのだな、見た目から察するに君は警察だろうが優秀だな」
「そんな優秀だなんて。
先程の件は僕も焦っていまして……助けたい、
その気持ちだけで体が動きました。
ちなみに私はあなたの想像通り近くの町で警察官をしています。
ところであなたは何故このような屋敷に?」
「あぁ、実はここらで記憶を失って倒れていたんだ。
目を覚ましたら自分が何者かも分からないし、森の中だし何がなにやらという感じさ。
で、渋々この屋敷を尋ねたらこの通り、酷い目にあっているという訳」
「それはお気の毒に……」
「まぁ私に対して募る疑問は山ほどあるだろう。
しかし私も君のことが気になっていてね。
何でこんな森の奥深く、廃墟のような建物に足を運んでいる?
もうすぐ夜も更けるがまさか廃墟マニアか何かかね」
「ははは、趣味でこんな場所へ来た訳じゃありませんよ。
此処へ来た理由はちゃんとあります。
それは……最近起こった不可解な事件に
この館が関わっているのではないかと考えたからです」
「事件?」
私は目の前の青年から事件のこと、そしてこの屋敷のことを事細かに聞いた。
最近、近くの町で一人の女性が消失する事件が起きたという。
消えた少女の名はメアリー。
年齢19歳、服屋で仕事をしていた平凡な女性である。
無遅刻無欠勤の彼女はある日から連絡もなしに店へ来なくなった。
心配した店の店主は市民警官である目の前の青年に相談。
彼がメアリー探索に乗り出したという訳だ。
しかし町の人達からメアリーのことを聞いても一向にまともな手掛かりは見つからない。
捜査に手詰まった警官はふと森の中にそびえる怪しい洋館に焦点を当てる。
少女が一人、森の中へ入っていくという住人の証言が存在したからである。
調べると、この館には一人の男性が住んでいるという情報が手に入った。
しかし男性の素性は誰も知らない。
そのため、さらなる詳細を調べるべく此処へ来た、という訳だ。
「謎の男……か。
きっと何の情報も無いんだろうな。
年齢、家族の有無、そんなことも分からない状態なんだろう?」
「ええ、残念ながら……。
しかし一つだけ分かっていることがあります。
それはここ数年、この屋敷には町民が誰一人近寄っていないということ。
どうやらこの洋館は昔から呪われているという噂があるようで、
誰も不気味がって近寄らないようです。
しかし少女が一人森の中へ入っていったという証言がある。
……どう聞いても怪しいです」
「まぁ……誰も好き好んでこんな洋館に近寄りたいとは思うまい。
いろいろと妙な話もあるもんだ」
「……ところであなたは記憶を失っているんですよね。
ということはこの屋敷のことは何も知らない、
手掛かりなどは何も持っていない、ということで宜しいですか?
今は少しでも消えた少女の手掛かりが欲しいのですが……」
「確かに記憶は無い。
あ、でも妙なものを外で拾っていたよ。
ほれ、古びた日記だ。
私が目を覚ました時、足元に転がっていた。
読んでみるかい?」
「え、ええ……」
私は警官に日記を手渡した。
警官は日記を開き、すぐに顔を歪ませた。
口元に右手を添えて神妙な顔で日記に集中している。
「これは……どういうことだ……」
「ん、どうかしたかね」
「この日記に書かれた名前……。
メアリー、アレン、コニーとありますが、僕は三人とも知っている」
「……何?」
「昔、とても昔の話です。
約10年前、僕がまだ子供の頃、村で10歳もいかない三兄弟が消失する事件がありました。
消えた三兄弟の名前はメアリー、アレン、コニー……。
この日記に書かれた名前と一致する。
そして1986年、これも三兄弟消失事件の日付と一致する。
ちなみに三人は未だに見つかっておらず、事件の真相も闇の中です」
「それはつまり……。
この日記を書いた者がその三兄弟消失事件に関わっていると言いたいのか?」
「ええ、恐らくそうでしょう。
そして今回もメアリーという名の女性が行方不明になっている。
……何かあると思いませんか?」
「……偶然、かもしれない。
しかし関係性が無いかと言われれば口を濁してしまうな。
……はは、まさか、な」
「……どうかしましたか?」
「いや、ちょっと嫌な憶測を立ててしまってな。
君は疑問に思わないかね、私の存在に」
「あなたの……存在?」
「良いか、私はこの屋敷の近くで目を覚ました。
誰も近寄らないと言われているこの屋敷の近くで。
そしてその私の足元にはその怪しげな日記」
「……まさか!」
「あぁ、そのまさかじゃよ。
私はその三兄弟消失事件に何かしら関わっているかもしれん。
そしてその日記を書いた人物が私かもしれん。
そしてさらに私はこの屋敷の主かもしれん」
「それは……!」
警官は私の言葉と同時に後ずさりをする。
正直無理も無かった。
自分でも信じたくないが自分が
この恐ろしい屋敷を作り上げた張本人の可能性は大いにある。
警官の手には手錠。
その手錠を握り締める手は微かながら震えていた。
私はその手を見て静かに目を閉じる。
「私を拘束するかね。
それでも構わんよ、私はもう疲れた」
「……い、いえ……。
僕の独断であなたを拘束することは出来ません。
そういうことは……やめます」
「……君は私を信じるというのかね。
記憶を失くした、という話……私の嘘かもしれんぞ」
「そうかもしれませんね。
しかしこの館の罠に掛かりあなたは何度も命を落としかけている。
それがあなたが無実だということを指し示していませんか?
あなたが記憶を失っていなければ、
一人で死に掛けることなんて有り得ない、そうでしょう?
記憶を失っていたとして、それなら尚更あなたを拘束することはできない。
今の僕にはあなたが凶悪な人間には見えないですから」
「……そうかい、それはどうも。
では動くとするかい、話ばかりしていても日が暮れるだけだ。
私は先へ進もうと思うが……君はどうしたいのかね」
「えっ、先へ進むって……この罠の中に自ら突っ込んでいくのですか?」
「えっ!て……。
君はこの屋敷の謎を解きに来たのだろう。
では進むしかないだろう。
煩わしいかもしれないが私も協力するよ。
自分が誰かを知らない不思議な老人だが勘だけは冴えているんだ」
「は、はい!捜査のご協力感謝します!
私はゴードンと申します。
えーと……あなたは……」
「あぁ、そうだなぁ。
じゃあ名前が無い、ノーネームだから……。
ノーマンと呼んでくれ」
「はい、分かりました。
ノーマンさん宜しくお願いします」
警官ゴードンと不思議な出会いをした私は、
改めてこの怪しげな洋館に挑戦しようとしていた。
私が誰なのか、それはまだ分からない。
しかし少しずつ、謎のピースが集まりつつある。
私は微かな希望を抱え、見えぬ未来を見つめ始めた。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
私と警官のゴードンは一度入り口に戻りこれからの作戦を立て直すことにした。
先程の部屋は入り口付近の床が大きく損壊している為、
先へ進むのが困難な状態となっている。
つまり一番安全なのは階段がある中央の道。
「この階段……ですか。
だいぶ古いようですが崩れないでしょうか」
「それは私も懸念しておったよ。
だから最初右の通路を選んだがこれが大失敗だった。
この屋敷に広がる道に正解は無い、全てに罠が張ってあるはずだから。
……気を付けねば」
「な、何だか凄いですね……」
「ん、何が?」
「いや……ノーマンさんはとても冷静で頭が切れるなと……。
僕もどちらかというと頭が切れる方だと自負していたのですが
ノーマンさんと自分を比べてしまうと自信が無くなってきます、はははは……」
「何、そんな恐縮するな。
きっと私も君くらいの歳の時は何も知らない青二才だったに違いない。
私に目を覚ます前の記憶は無いが……知恵、機転やらが体に染み付いている感覚はあるんだ。
きっと長年生きてきた経験、思考が私の体に否応にも染み付いているのだろう。
嫌という程長く生きてきた人間だからこそ分かる感覚。
君もきっとこれから強くなっていくに違いない……。
と、何か変なことを言ってしまったな……すまない」
「いえ……凄く心に染みる言葉です」
「…………時、か……。
そういえば今は何年なのだ?
肝心なことを聞いていなかった」
「えっと、今は……1996年12月1日です。
あの日記が書かれたのは1986年……。
丁度10年後ってところでしょうか」
「10年後……か。
10年にしては……」
「どうかしましたか?」
「いやなんでもない……」
何だろう、この違和感は……。
「とにかく進みましょう。
ノーマンさんは離れていてください、僕が先に行きます」
ゴードンはそう言って真正面の古びた階段へ一歩、また一歩近づいていく。
私はゴードンのあまりに軽率な行動に思わず彼の肩を掴んで
強引に歩みを止めようとしたが彼は大丈夫と言わんばかりの笑顔で私の気持ちを鎮めた。
私はゴードンの笑顔に抑えられるように黙り込む。
ゴードンは心配する私を尻目に無言で階段を上っていった。
彼の後姿をポカンとした表情で眺めていた私はふと、
何故ゴードンの歩みを止めなかったのか、と後悔する。
しかし彼は何事もなく無事階段を渡り切ったのである。
階段を登り切ったゴードンはこちらへ振り向き笑顔で私にガッツポーズを送った。
私はそのゴードンの元気な姿を見て胸を撫で下ろした。
本当に良かった。
正直ゴードンがズカズカと階段を上って行った時は心臓が凍り付いた。
何故なら階段に罠が仕掛けられていた可能性が大いにあったからである。
しかし幸運にも階段には罠が仕掛けられていなかったのだ。
「はぁ……老いぼれの心臓にあまり衝撃を与えないでくれ……。
君が階段を何の警戒も無しに上り始めた時、心臓が止まるかと思ったよ……」
「そうか……!す、すいませんノーマンさん!
ついその、ご老人に無理はさせまいと思いこんな行動を……。
確かに階段に罠が仕掛けてあった可能性は大いにありましたね……」
彼は自分の行動がいかに危険だったのかを理解していなかったのか。
どうやら強運が彼を助けたようだ。
私はため息をつきながらゴードンの後に続いた。
階段を上りきり確かに罠が無い事を確認する。
しかし不思議だ。
何故この階段には罠が張っていなかったのか。
左の通路、そして右の通路にも罠が仕掛けられていた。
そうなるとこの正面の道にも罠が張られていてもおかしくはない。
私は後ろへ振り返り、上ってきた階段を念入りに確認した。
階段の淵、天井、床、何処かに怪しげな点は無いだろうか。
「どうしましたノーマンさん?
日も落ちかけています、早く先に進んだ方が賢明かもしれませんよ」
「あぁ、そうだな。
しかし何だか変な違和感を感じていてね。
君は何も思わなかった?何故階段に罠が仕掛けられていなかったのかを」
「罠ですか?
確かに言われてみれば罠が仕掛けられていてもおかしくなかったと感じますが、
結果仕掛けられていなかったのでしょう?
それが真実ですよ」
「……そうか、ふむ……。
そういえば君はいつこの屋敷に来た?
まさか私より先にこの屋敷へ入っていたということはないよね」
「僕がこの屋敷に入ったのはあなたを見つける直前ですよ。
そのタイミングで屋敷へ入ったのです。
勿論入ったのは初めてですよ」
「まぁそうだろうな。
いや……ふと君がこの階段を一度上ったことがあるのではないかと考えたのさ。
だから罠が無い事を知っていて平気で上ることが出来たと。
しかし君の反応からするにこの階段を上ったのは初めてなのだろう」
「そうですね……初めてです。
正直罠のことは考えておらず、幸運に助けられたことは神に感謝せねばなりません……」
「…………」
「どうかしましたか?」
「いや何でも……」
私は頭を掻いて首を傾げた。
変な違和感に悩み、思考が交差する。
そんな時、ふと私は階段に不審な傷跡を見つけた。
「うん……?」
これは階段を刃物のような鋭いもので切った跡だ。
傷跡は目を凝らさなければ分からぬ程薄い。
何故このような場所に切り傷が……。
よく見れば階段一段一段に同じ傷が存在する。
形は不規則だがどれも同じ薄さである。
私は階段の切り傷を思い切り蹴ってみた。
その瞬間、背後に佇むゴードンは慌てふためいて私を食い止める。
「あ、危ないですよ!
あまり衝撃を与えると階段が崩れるかもしれません!」
「ん、あぁそうだな……」
気のせいか……。
「とにかく進みましょう。
この家は異常です。
だからこそ少女が消えた不可解な事件にこの家の主が関わっている可能性が高い。
これは偏見ではありますが可能性がゼロではないと思いますし……。
とにかくこの屋敷をとことん調べてみるのが一番です」
「あぁ君の言う通りだ。
しかしこの家は異常だ。
だからこそ……その……気になる」
私とゴードンは先へと進むことにした。
拭いきれぬ違和感を残して……。
階段を上り切った先にはこれまた長い廊下が広がっていた。
通路奥には一つの扉。
それ以外に気になる点は無く、妙に寂しげな光景であった。
強いて廊下の特徴を言うのならば朽ちた木の板が
辺りに散乱している、ぐらいだろうか。
「一つ世間話を良いかな」
「えっ?何でしょうか」
「ゴードン君。
君はこの屋敷が何故このような鼠捕りのような罠屋敷になったのか……。
それを考えたことはあるかね。
屋敷に捕らわれなくていい。
例えば三人の兄弟が失踪した事件について。
何故三人は失踪したのか、もし故意の失踪だったら兄弟は何を考えていたのか。
犯人がいると仮定した場合は犯人は何故三人を狙い、襲ったのか。
そんなことを考えたことはあるかい?」
「む、難しいですね……。
あまりそのようなことを考えたことはありません。
その……考えても相手の気持ちを完璧に読み取ることなんて出来ないですから……」
「何も完璧に考えろとは言っていないさ。
ただ私は無意識に考えてしまうんだ。
そのものの意味を。
この屋敷に対してはかなり考えたよ。
何故この屋敷の主はこの家に罠を大量に張り巡らせたのかをね。
私の予想だが、この屋敷の主はこの屋敷に
誰にも見せたくないものを隠しているのではないだろうか」
これは私のただの憶測だ。
屋敷に罠を仕掛けたことに意味は無いかもしれない。
しかしそうとも言い切れない。
「隠している!?
た、例えば何をですか!?」
「簡単な憶測さ。
もしこの屋敷の主がメアリー失踪事件に関わっているのなら、
その少女を屋敷に連れ入れている可能性がある。
そしてその少女が何らかの状態で外に出せない状態になってしまったら、
隠すしかないだろう?此処に」
「そうか……確かにその考えなら少しだけ線と線が繋がる気がします。
メアリー失踪事件の犯人はこの屋敷の主だった……。
犯人はメアリーをこの屋敷に誘い、監禁、もしくは殺害した……。
犯人はその誰にも見られてはいけないメアリーを隠さなければいけなかった。
だから屋敷に罠を張り巡らせ、誰も入れないようにした……。
つまりはこういうことですか?」
「ははは、中々良い妄想と推理だよ。
確かにそう考えればこの屋敷の不可解な罠の説明がつく。
今は想像の範囲内でしかないが、この先屋敷を探索し、
何か手掛かりが見つかれば想像が確信に変わるだろう」
しかし分からない。
何故だ。
何故私は此処まで思考を巡らせる。
正直今一番疑問な存在は自分だ。
記憶が無い故に、記憶を失う以前の自分がどんな人間かも分からない状態。
だからこそ自然と不思議な発想と考えばかりが浮かび上がる自分自身が不思議でしょうがない。
一体私は何者なんだ。
やはり私が考える通り、この屋敷の主だった人物なのか。
はたまたこの屋敷とはまったくの無関係、
たまたま記憶を失い森の中に倒れた村人Aなのか。
確証が持てないと不安になる。
「ゴードン君。
もし私がこの屋敷の主だったとして、
記憶を取り戻し君を襲うような真似をしたら容赦なくコテンパンにしてくれ」
「な、何を言っているのですか!?
あなたはきっと犯人何かではありません!
この屋敷、狂気に満ち溢れていて罠を作成した人間は狂っていると容易に想像できる。
しかし今あなたという人間を見ていても、
到底この屋敷の主の人物像とあなたは照らし合わないんです。
だからその……断言はできませんが僕はあなたがこの屋敷の主ではないと思います」
「……そうか……いや、無意味なことを言ってしまった。
許してくれ……では先へと進もうか……」
私はそう言って胸を撫で下ろすがが内心、やはり自分自身を信用できなかった。
状況を考えればわかること。
私がこの屋敷の主である可能性はかなり高い。
その可能性が完全に拭えない限り、私は自分自身に絶対の安心を置くことが出来ない。
「やれやれ……面倒なことになった……」
一体この謎は何処まで深いのだろう。
この屋敷に入ってから約一時間。
先は見えないままだ。
しかし先へ進めば何かが見えるはず。
今は先へ進む事だけを考えるんだ。
「さて、本番はここからだ。
先程私は廊下で様々な罠を見つけている。
この廊下も何か罠が張られている可能性がある。
気を付けたまえ、ゴードン君」
「はい、しかしどうにも罠らしきものは見えませんね。
僕、先へ進んでみます」
「待て!もっと慎重になった方が良い。
先程私は罠に掛かり死に掛けた。
天国への入り口は意外にも早く私に迫ってきた。
油断すれば気付かぬうちに死んでいる可能性がある」
二度同じ手は食わない。
この廊下、先程ピアノ線が張り巡らされた廊下と形状が似ている。
先が長く、廊下の終点には扉が一つ。
殺風景で、何処にでもあるような廊下だ。
しかしついつい先へ進みたくなる貪欲な魔力が存在する。
あの扉の先がどうしても気になる。
だから無意識に先へ進みたくなる。
そしてそんなことを考えているうちに警戒心が薄れる。
足が進む。
先程ピアノ線の罠に掛かった時の私の心理状況だ。
今度は気を付けねば。
まずピアノ線のようなものは設置されていない。
天井や床にも罠らしき仕掛けは見当たらないし、怪しい部分も見当たらない。
憎たらしいほど正常な光景だ。
だからこそ嫌になる、また自分が騙されるのではないかと。
「ノーマンさん、大丈夫ですか?
顔色が悪いですが……」
「ん、ああ……大丈夫だ。
ただ考えていたんだ。
私は罠に掛かることを恐れている。
罠に掛かることが悔しいんだ」
「誰しも死ぬのは怖いですよ」
「確かにそうだ。
しかし私は怖がり過ぎている。
罠に掛かった経験がトラウマになっているのかもしれない。
しかし、それにしてもこの怖がり方はおかしい。
記憶が……私が何かを覚えているのか?
この廊下に嫌な経験でも……」
経験?
その時、私は考えた。
ある一つの可能性が脳裏を過ぎる。
私がこの廊下に対して既視感を感じるのは決して偶然ではない。
先程通ったピアノ線の廊下と似ているから、という可能性はあるがこの感覚、そうではない。
私はこの廊下を知っている。
この廊下を一度通っている?
そしてこの廊下で嫌な経験をしている?
「ゴードン君、私の勘だが……この廊下には罠が張ってある」
「えっ、罠ですか?
でも目をいくら凝らしても罠らしき仕掛けはありませんよ……」
確かに、仕掛けなど見えない。
だが普通、見えないのが罠である。
これは本当に単なる勘だ。
直感のままに推測するとこの廊下の罠は、刃だ。
そう、刃。
「ゴードン君、君には見えるか?
この廊下の殺意」
「さ、殺意ですか?」
「あぁ、私は感じるよ。
自分の中に残る微かな記憶の断片と恐怖の感情が
この廊下に張り巡らされた罠を私に連想させる。
仕掛けられた罠は恐らく刃だ。
見てくれ、あの壁、一見何の変哲も無い壁だが微かに切れ目がある」
「た、確かに壁に切れ目が……かなり薄いですが……」
私は壁に近付き、近くに落ちていた木の残骸を拾った。
そして残骸で思い切り壁を殴った。
繰り返し殴り続けた、ひたすら殴り続けた。
その内、壁は損壊しその奥にある殺意を目覚めさせた。
「ノーマンさんこれは!」
「ああ、これが殺意の正体だよ」
何と壁の中には大量の刃物が隠されていたのだ。
刃物は綺麗に整頓され、歯車のような仕掛けに取り付けられている。
恐らく床の振動などで作動する罠だろう。
罠が発動すると刃が壁の中から現れてその場にいる生き物を切断する。
壁の至る所に小さな切れ目があることから、此処にも大量の刃が隠されているに違いない。
「す、凄い……何で壁の中に罠があると分かったのですか!?」
「多分一番驚いているのは私自身だよ。
なんたって罠の場所を当てたのは単なる勘だからね。
自分が感じるままに行動した、それだけなんだ」
そうだ、今思えば先程上った階段にも同じような切れ目があった。
となると階段にも同じ罠が設置されていたのではないだろうか。
私は階段の近くへと戻りまた木の残骸を使って階段の一部を破壊する。
すると案の定階段の下からも同じような刃が現れた。
「やはり刃が……」
しかしそうなると話がおかしくなる。
この刃を見るに階段へ罠が設置されていたのは確実。
ならば何故この罠は発動しなかった。
何故ゴードンと私の足を切り裂かなかった。
私は心の中に引っかかる疑問を抱えながら廊下へと戻る。
「ゴードン君、私達は本当に運が良かったのかもしれない。
階段には罠が仕掛けてあった。
しかし罠は発動しなかった。
となると罠は壊れていた可能性が高い」
「罠が……あったんですね。
今思うと本当に背筋が凍りますよ……」
「あぁそうだな、神に助けられたと言っても過言ではない。
しかしこの廊下の罠は作動する可能性がある。
気を付けねばならない」
「と言っても道は此処しかないし先へ進むにはここを通るしか……」
「その通り。
だから罠が作動するかを確かめる。
恐らくこの罠は床の振動などを感知して動くタイプだ。
ならば話は簡単、地面に物を投げて何か動きがあるか確認すればいい」
私は持っていた木の残骸を廊下に放り投げた。
残骸は大きな音を立てて床に転がる。
しかし刃が壁から出現し残骸を切り刻む光景は見られなかった。
「この廊下の罠も壊れているのか……」
私は疑問を抱きつつさらに木の残骸を廊下へ放り投げる。
しかしいくら試しても刃の罠が作動することは無かった。
「もしかしたら廊下の罠も壊れているのかもしれない。
少し怖いが進んでみようじゃないか」
「そうですね、先陣は僕が切りましょう」
ゴードンはそう言って私の前に立つ。
正直不安であったが、彼の目は真剣そのもの。
集中しているということはよく分かった。
ゴードンは少しずつ前へ進む。
刃の切れ目が彼の横を通り過ぎ、そして私の横も通り過ぎていく。
嫌な静寂が流れ続け、額にも汗が滲む。
しかし結局廊下の罠は作動しなかったのである。
廊下奥へ辿り着いた私達は胸を撫で下ろしため息を吐いた。
「良かった、どうやら罠は壊れていたようだ」
「そうですね……ふぅ、ひやひやします……」
「それにしても君は本当に勇気があるな。
死の危険性すらあるあの状況で先陣を切るとは」
「警察は市民を守ることが仕事です。
僕の行動は当たり前のことですよ」
「ふっ……そうか。
それはとても頼もしい言葉だな」
私とゴードンはハイタッチを行いお互いに微笑みを浮かべる。
何がともあれ無事に此処まで辿り着けたのは紛れもない事実。
では早速この扉の先に何があるのか、それを確かめようじゃないか。
「……ふむ」
私は扉に手を掛けた。
しかし足元に広がる違和感に思わず首を傾げる。
それにしてもこの廊下はよく荒れている。
向こう側からだとあまり気にならなかったが、
扉近くは木の残骸があまりに多い。
「ん、これは……」
私は木の残骸の中に何か別のものが紛れ込んでいることに気が付いた。
それは綺麗に刻まれた布切れ。
衣服のようだが何故こんなものがあるのだろう。
刻まれていることから推測するにこの廊下の刃にやられたのだろうか。
今までこのような手掛かりらしい手掛かりが無かったので興味が惹かれる。
「ゴードンさんどうかしましたか?
扉の先に行きましょう」
「あぁ、すまない。
では進もうか」
気を取り直して私は扉に手を掛けた。
もう扉の奥に罠が仕掛けてあることは承知の上である。
ゴードン君も警戒しているがやはり館入り口にぶら下がっていた大斧の存在感は大きかったようだ。
無理もない、あんなもの見れば無意識にでも扉に神経が冴え渡る。
私はゴードン君とアイコンタクトを行い扉を開けるタイミングを見計らった。
息を飲み、そして扉を勢いよく開ける。
一瞬扉を開ける音にゴードン君が体を震わせるが罠が作動した様子は無かった。
恐る恐る扉を奥を見渡した私はその光景に思わず驚愕する。
何とそこにはまるで図書館を連想させる程の大量の本が天上一杯に山積みになっていたのである。
そして部屋の中央には小さな机が一つ置かれている。
机の上にはたった一冊、これまた小さな日記帳が置かれていた。
私は入念に辺りを見渡して罠を警戒する。
「凄い本の量だ……。
壁一面、そして天上一杯に本が敷き詰められている。
これは興味深いな」
「そうですね……本がありすぎて部屋がどれだけ広いかも分からない……。
しかし気になるのはあの机に置かれた本ですね。
これだけしっかりと本が整理されているのにあれだけ整理されないで放置されている」
「とりあえず慎重に入ってみよう。
そしてあの日記帳を見てみるんだ、何か手掛かりがあるかもしれない」
「そうですね、ではまず私が此処へ入りましょう。
ノーマンさんはその後に続いて……う、うわあああああ!」
「ゴードン君!どうした!」
部屋に足を踏み入れたゴードンは扉の裏を見て顔を蒼白に染めていた。
私は彼の肩を掴みその光景を見つめる。
その瞬間、私も一歩後ずさり、口元を抑えた。
何と、そこには三体のミイラが肩を揃えて倒れていたのだ。
「あ、何と言う事だ……これはまさか……」
「ノーマンさん!まさかこのミイラって10年前に行方不明になった3人の子供たちじゃ……!」
「あぁ、ミイラは皆背が低い。
つまり子供のミイラであることが分かる。
と言う事は、あの事件と辻褄が合うな……」
ゴードン君から聞いた10年前の3兄弟失踪事件。
その被害者がこのミイラに違いない。
そして私達の予想通り、3人を誘拐し殺害したのはこの屋敷の主、
もしくはこの屋敷に関わる何者かなのだろう。
「やはり此処には異常者が住み着いている。
最近起きたメアリー失踪事件もその異常者が一枚噛んでいるに違いない」
「その可能性はかなり高くなりました。
とにかく、証拠を集めて此処を早々に出ましょう。
外もだいぶ暗くなっています。
このままいると危険だと思います」
「うむ、そうしよう」
私達は3体のミイラを気にしつつ、机に置いてある日記帳を読んでみることにした。
机の前に来たがこの部屋に罠らしきものは無いようだ。
妙に静まり返っているのが逆に怖いが下手な行動さえしなければ何も起こらないだろう。
「ううむ、気味が悪いな」
部屋に入って改めて分かったことは部屋に敷き詰められた本の数々が全て肉に関する参考書であったこと。
私が目覚めた時に拾った日記にも肉に関する記述があったのを覚えている。
察するにあの日記もやはりこの屋敷の主が書いたものか。
肉に対して異常な性癖があるようだ。
私は悪寒を背筋に感じながらも机に置いてある日記帳に集中を移す。
黒くて小さな日記だ。
こいつは比較的新しそうな日記だな。
私はその日記を手に取りページを開いた。
その時である、私が今日一番驚いたのは。
「こ、これは……!」
何とそこには私自身の顔写真が張ってあったのである。
履歴書、のようなものだ。
名はジョシュ。
職業は肉の解体屋。
豚や牛を育成し捌いて町に売り出していた。
趣味は工作。
豚や牛を様々な道具を用いて解体することに喜びを感じていた。
そして最後に一言こう書き綴られている。
何故俺の気持ちを分かってくれる奴が一人も居ないんだ。
誰も俺を雇ってくれない、むしろ離れていく。
世の中くそばっかりだ。
理不尽だ、何が悪い、何がおかしい。
消えてしまえ、こんな世の中など消えてなくなればいい。
「…………」
私はその日記を見て唖然とした。
「ノ、ノーマンさん?どうしたんですか?
日記には何が書いてあったのですか?」
「全てが……真実が書き綴られていたよ。
ゴードン君、やはり私はノーマンでは無かった。
君が思うノーマンでは無かったのだ……」
「ノーマンさん……どうしたんですか?
か、顔色が悪いです……」
「ゴードン君よく聞いてくれ。
この館の主は、恐らく私だ」
「な、何ですって!?」
「この日記に私の顔写真と名が書かれていた。
名はジョシュ、職業は肉の解体屋。
この日記に私の顔写真と言う事は……私はこの館の主だ。
そしてそうなれば必然とそこの3兄弟を殺害したのも私という結論になる」
「ジョシュ……ノーマンさんが持っていた日記に出てきた登場人物ですね。
恐らく日記を書いたであろう張本人。
それがあなただと言うのですか?」
「その通りだ、この顔写真は確かに私のもの、間違いない。
私は記憶を失っていただけで殺人鬼だったのだ……」
「な、なんてことだ……」
私は自分の正体に驚きを隠せない。
いや、むしろ驚きすぎて驚くことすら出来ない。
まさかこの老いぼれの正体が殺人鬼だったなんて。
恐らくこの日記を書いたものがこの屋敷の主なのだろう。
そう考えればこの屋敷の罠を作ったのも私……。
全ての元凶が私……。
「ノ、ノーマンさん……僕はどうすれば……」
「君は……私を一刻も早く拘束するんだ。
私の記憶が戻らないうちに……君へ牙を向かないうちに……」
「しかし……僕にはにわかに信じられません!
あなたが殺人鬼だなんて!」
「その気持ちだけで嬉しいよ。
少なくとも今の私は殺人鬼ではないだろう。
しかし記憶が無くともこの体には重く償いきれない罪が染み付いている。
いつ殺人鬼の本性が出るか分からないんだ。
そう考えれば君のやることは一つだろう。
私を拘束し、留置所に隔離する。
それが最善の一手だ」
「ノーマンさん……うう、そんな……」
ゴードンは複雑な表情を浮かべながらも私の気持ちを察したのか手錠を手に取った。
私の両手に彼の手錠が近づいてくる。
その瞬間、全ての謎が解けたと共に、全てが終わったという喪失感が私を襲った。
しかしこの喪失感も私が過去に行った罪の償いだと思えばまた軽い。
きっと償いきれないことをしたからこそ神が私自らに重く辛い試練を与えたのだろう。
自分で作ったデストラップを自身に仕掛けさせる。
それこそが神の罰だったのだ。
私は静かに目を閉じて現実を受け止めた。
「…………」
その時、ふと私の懐から何かが零れ落ちる。
私はその光景を見て首を傾げた。
これは先程廊下で拾った布きれ。
恐らく廊下の罠で切れたであろう何者かの服。
私はふとその布きれを拾い、眉をしかめた。
この布きれ、よくよく見れば色が何かに似ている。
青色か……この深い青はここ最近目にしたような。
私はふと記憶を頼りに辺りを見渡す。
そして、最後に一点、ゴードンの方を見つめた。
手錠を持つゴードンは私の目線に思わず不安げな表情を浮かべる。
私はゴードンを見つめ続け、そしてある一つの疑問を心の中に抱えることとなった。
「あの……ノーマンさん?どうかしましたか?」
「……ゴードン君、いくつか聞いていいかな。
君は、この屋敷に来るのは初めてと言っていたよね」
「……そうですけど……」
「では屋敷のことは何も知らないんだね。
罠のことも、私のことも」
「……はい、此処に来るまでは……」
「ではこれはどう説明する?」
私は手に持っていた布きれをゴードンの服に張り付けた。
そして服を辿り、布きれを手錠を掴んでいる右手に移動させた。
その瞬間、布きれはゴードンの腕の裾にすっぽりとハマったのである。
「この布きれはどう説明する?」
「ノーマンさん、何を言っているんですか?
この布きれは何ですか?」
「これは先程廊下で拾ったものだ、綺麗に切れているだろ。
恐らく私達より先にこの部屋に来たものが廊下の罠に掛かりそして服を切られたのだろう」
「その布きれが……どうかしましたか?」
「おかしいとは思わないかね。
何故この布きれが君の腕の裾にピッタリハマるのか」
「…………」
「君は此処へ初めて訪れたと語った。
しかしこの布きれが廊下にあった以上、その言葉は矛盾となるんだよ。
初めて来たのなら何故君の腕の裾がこんな所に落ちているのか」
「…………」
「あと、私は君と会ってからずっと心の中で引っかかっていたことがあるんだ。
それが何か、それをずっと考えていた。
しかし、その悩みの種にやっと気が付いたんだ。
私が感じていた疑問、心に引っかかっていたことは君の発言だ。
初対面の時、君は私にこう言ったのを覚えているかな。
"この館の罠に掛かりあなたは何度も命を落としかけている"
この言葉はよくよく考えればおかしいんだよ。
何故君は私が罠に掛かったことを知っているのだろうか。
そして何故私が何度も命を落としかけたことを知っているのだろうか。
私は君が罠という言葉を発するまでに一度も罠のことを口にしていない。
何故なのか」
「それは……!
あんな場所、そしてあんな状況で死に掛けているんですから罠に掛かったと思うのは自然ですよ!
まさかノーマンさんは私のことをもう一人の犯人だと思っているのですか!?」
「いや、これは単なる疑問の答え合わせだよ。
君がちゃんとした応対を行えば何の疑問も残らない。
しかし君の答えで疑問が晴れなかったその時は……。
全てがひっくり返る、私はそう考えている」
「…………」
「百歩譲って君の言葉を正答として捉えることにしよう。
しかしまだ疑問は残っている。
答えてもらおうか。
何故君は私が何度も命を落としかけていることを知っていたのか。
まさか私が苦しんでいる所を黙って後ろで見ていたのかい?」
「…………じ、実はその通りなんです。
あなたのことを少し後ろから眺めていました……。
屋敷に初めて入ってその時、あなたは何か知らないが苦しんでいた。
その光景を見て思わず竦んでしまったのです。
しかししばらくしてあなたは苦しみから解放された。
そこでやっと冷静になれたのです」
苦しんでいた……。
ピアノ線の罠に掛かっていた時だろうか。
その件を知っていると言う事は確かにあの時点でゴードンが私の近くに居たことは間違いない。
「成程、ではその後冷静になって私を助けたと」
「その通りです。
正直あの時力をお貸しできなかったのは警察として失格です。
下手すればあなたは死んでいたのですから……。
しかしこれで私の疑いは晴れたでしょう……?」
「あぁ、そうだな。
どうやら私が間違っていたようだ、申し訳ない。
真実は私がこの屋敷の主で殺人鬼だった。
君はただ単にこの屋敷を訪れた警察官Aだったという訳だ」
「…………」
「では最後に一つだけ。
君の警察手帳を見せてくれ。
それで全てが解決する」
「…………警察手帳ですか?」
「あぁ、そうだ。
それさえ見せてくれれば全て終わる、何もかも。
ちなみに言っておくが今手元に無い場合は町に戻ってでも見せてもらう、いいね?」
「……どうしても……見せなくては駄目ですか?」
「あぁ、私の予想では君の警察手帳には顔写真が無い。
理由は私が持っている古い日記帳に張られた顔写真が
君の警察手帳に張ってあったものだと予想するからだ。
訳は分からないが、この屋敷の主、ジョシュを私に見せかける為にそうしたのではないだろうか。
つまり、私自身が君だった、と考えるのだよ。
そして君は私なのだ、違うかな?」
「…………」
「…………」
その瞬間、部屋に長い長い静寂が訪れた。
私は日記に映る自分自身の顔写真を見つめていた。
ゴードンは一点に私の方を向いている。
しかし決して私を見る訳ではなく、その眼は何処か虚ろで焦点がまるで合っていなかった。
そう、まるで蛇を前に絶望する蛙のような光景である。
そして、時は流れる。
「あなたは……いつもそうだ」
「ん?」
ゴードンは久々に口を開いたかと思うとふいに手錠を懐にしまい、額に右手を押し当てた。
「あなたはいつも僕の邪魔ばかり。
何でそこまで執念深いんですか……?
何故あなたは……」
「ゴードン君、それは一体何のことだね」
「やはり、記憶を失っているんですね。
それでもあなたは変わらない、むしろ前より冴え渡っている」
「……それはつまり、君は認めるのだね。
君自身が、全ての元凶であると」
「……ええ、認めてあげましょうか。
今回は、ね」
ゴードンはそう口にすると静かに目を閉じて顔を天に向ける。
そのゴードンの表情は悲しげ、はたまた笑っているようにも見えた。
「君はこの屋敷の主にして殺人鬼、ジョシュであった。
その認識で間違いないね?」
「ええ、その通りですよ。
全てを話すと長くなります。
しかし不幸にもあなたは記憶を失ってしまった。
そんなあなたに全て一つ一つお話ししてあげましょうか。
時は戻り3日前、警察であるあなたはこの館に訪れた。
勿論、3兄弟失踪事件の件でね」
ゴードンは懐から警察手帳を取り出し開き、私に中身を見せる。
警察手帳の顔写真部分が綺麗に切り取られていた。
やはり私が持っている日記に張られていた顔写真は警察手帳から抜き取ったものだったのか。
警察手帳を出せば顔写真が警察手帳のものであるとバレてしまう。
だからこそゴードン、いやジョシュは警察手帳を私に見せられなかった。
「もう10年前の事件だった。
しかしあなたは僕を離さなかった。
当時証拠が何一つなく迷宮入りと言われたこの事件をあなたは追い続けていた。
そして今に至るのです。
あなたが此処へ来るまで僕はあなたと一度も顔を合わせていない。
しかしここ10年、一度たりとも心が休まることは無かった。
後ろで自分を嗅ぎまわっている奴がいる、一歩間違えば死刑台に直行。
そう考えるだけで夜もまともに眠れなかった。
だからただただ真実を表向きにされることを恐れて死体を隠した屋敷に罠を張り続けた。
そうして全ての真相を守り続けてきた。
しかしあなたはその壁さえも乗り越えてきた」
「成程ね、私は生涯をささげて君を逮捕する決意をしていた訳だ。
殺人鬼ジョシュを死刑台に送るべく。
そして10年の歳月を経てこの屋敷に辿り着いた」
「本当迷惑ですよね……。
こっちは10年前に殺人が一段落してやっとのことで落ち着こうとしていたのに……。
それを全て妨害してきた……。
あなたが憎いですよ、心底ね。
だから僕はあなたをこの屋敷で抹殺しようとした。
罠に掛かり、あなたは死ぬはずだったんだ、あっさりとね。
しかしあなたは死ぬどころか真実にあっさり辿り着いてしまった。
刃の罠を掻い潜り、僕の部屋にやってきた。
僕と対面したあなたは3人のミイラを目にして僕が犯人だと確信していた。
あなたは手錠を両手に僕へ滲み寄る。
しかし僕は最後の抵抗を行った。
この部屋に配置された最後の罠、脱出装置をあなたに使い、外へ吹き飛ばしたんだ。
外で倒れているあなたを見て終わった、全てが終わった、そう思った。
しかし念には念をと思いあなたと僕の服を交換した。
あなたの死体がもし誰かに見つかり警察と分かればこの一帯が怪しまれると踏んだから。
だからあえて服を交換して警察である事実を隠蔽しようとした。
しかし、死んだはずのあなたは何故かもう一度この館へやってきた。
記憶を失ってね……。
ちゃんと脈を調べて始末しておくべきだった……」
「そういうことか……。
私は一旦君をこの部屋で追い詰めたが君の罠で一旦意識を失った。
そして再び目を覚ましたのか……。
それが今という訳だね」
「いや、正確にはあなたは3週目のゴードンなんですよ。
僕を最初に追い詰めたのが1週目のあなた。
そして最初に目を覚ましたのが2週目のあなた。
そう、今のあなたは2度記憶を失って今に至るのです」
「何!?ということは私はこの屋敷を3回訪問しているというのか」
「そうです、あなたが目を覚ました時に所持していた日記と鋏は2週目のあなたが手にしたものだった。
しかしあなたはまた私の罠に掛かり外へ放り出され記憶を失う」
「1週目、私は階段を上り、刃の罠を潜り抜け、真実に辿り着いた。
しかし罠に掛かり意識と記憶を失う。
目を覚ました私は再度館に舞い戻り、今度は左の道に進む。
しかしそこでまた外に吹き飛ばされ記憶を失う。
そして最後に私は再度目覚め、今に至る……まとめるとこういうことか」
「そうですね、何処までも執念深い、嫌な性格ですよ。
しかし2週目の時にある計画を思いついた。
今、ゴードンは記憶を失っている。
自分が警察であることも覚えていない。
つまり、ゴードンを全ての元凶として錯覚させれば全てがうまくいく……そう思ったんです。
だから3週目の時、僕はわざとあなたの前に顔を出してあなたを罠に嵌めようとした。
警察手帳からあなたの顔写真をくりぬいて僕がつけていた日記にその写真を貼った。
そうすることで貴方自身が自分をこの館の主であると錯覚するように仕向けた。
勿論、最近起こった19歳の女性メアリーの失踪事件は僕の作り話です」
「……そういう……ことだったのか……。
じゃあ最初私が持っていた日記は本物なのかね」
「いえ、それも私が作った偽物ですよ」
「ああ、だから違和感があったのか。
日記自体は古いのに文字は新しかった。
私が感じていた疑問はそれだったのか。
恐らく日記にあんなことを書いたのも最近なのだろう。
無論、私を混乱させる為の罠だった……」
ジョシュから全てを聞いた私は思わずため息をついた。
今度こそ全てが……全てが終わったのだ。
そして最後にこのジョシュを捕まえれば全てが終わる。
「君は、自首してくれるね。
そこまで自白しているんだ、もう十分だろう」
「自白……確かにもう十分だ。
しかし、僕はもう生きるのに疲れました。
疲れて疲れて、今にも死にたいくらいだ」
「……ま、まさか君……」
その瞬間、ジョシュが懐から小さなライターを取り出して火を点ける。
私が近づこうとしたのも束の間、ジョシュはそのライターを足元に落とし、
その小さな火は瞬く間に地面へ広がった。
「っ!な、何でこんな火の回りが早いんだ……!」
「この部屋は入った人間を蒸し焼きにする罠が仕掛けてあるんですよ。
本と床には灯油が塗られています。
だから少しでも引火すれば瞬く間に火が広がり、地獄絵図です。
無論、かまどのような壁に加工していますから、屋敷全体は燃えないんですけどね」
「くっ……!私と一緒に心中するつもりか!?」
「いえ違います、あなたには僕が苦しんだ分、苦しんでもらわないと気が済まない。
だってそうでしょう?あなたは僕を散々苦しめた。
だから、あなたにも苦しんでもらう、ははは!」
「くっ!君はいつもそうやって自分の事ばかり考えてきたのか!?
それじゃあ他人が分かってくれないのも無理はないだろう……。
他人の気持ちを考えられない人間が苦しむのは必然だ」
「…………知りませんよ、そんなこと。
僕は小さい頃から親に、友達に虐げられてきた。
他人を分かってやる?そもそも周りが僕を分かってくれなかったじゃないですか!
なのに他人を分かれだなんて!そんなこと分かりませんよ!
分かる訳が無い!」
「……ジョシュ、君は愛を知らないんだね」
「…………今更ですよ、あの3兄弟だって僕を虐めて笑っていた。
僕がいくら助けを求めても親は何もしてくれない。
むしろ3兄弟を擁護するんです。
お金持ちの3兄弟は絶対正義なんだそうですよ。
狂ってると思いませんか?あいつらも……僕も」
「ジョシュ……」
「ゴードンさん、今までありがとう。
今度も虚無の世界へ旅立つことを祈っています。
僕の居ない世界でありもしない答えを生涯探し続けてくださいね」
ジョシュはそう言って手元にあったスイッチのようなものを押下した。
その瞬間私の体は空いた天上を突き抜けて外へ放り出される。
炎に塗れたジョシュの顔は何処か清々しい程穏やかに見えた。
やっとこの狂った世界から脱出できると言わんばかりに……。
私は、そこから記憶が無い。
しかし茜色の空を目にして、本当に全てが終わったのだと悟った。
刹那に消えゆくその景色を脳裏に記憶し、私は地に堕ちる……。
…………
……。
「うっ……ここは……」
私は冷たい地面の下で目を覚ました。
此処は何処だろう。
周りに見えるのは森と暗い暗い星空。
そして目の前に見えるのは大きな館。
「…………」
私は誰だ、そして何故私は此処に倒れている。
何も分からない、何もかも……。
しかし何故私の瞳からは涙が溢れ、そして止まらないのだろうか。
理由は分からない。
そして、私が此処に居る理由も分からない。
しかし、探すしかない。
私が誰であるのか、そして私が何故この場所にいるのかを……。
「…………」
私は空に手を上げて何かを掴み取る仕草をした。
しかし当たり前のように手に残るのは虚無。
残るものは何もない。
「私は何か……何か本当に大切なことを忘れているような気がする。
しかしそれが何か、思い出せない……」
何もない虚無の下。
私はただただ立ち尽くすしかなかった。
吹き荒ぶ冷気を直に感じながら、何処か空っぽな自分の心を掴み続けていたのだ……。
森の回廊館 終わり
短編小説 『森の回廊館』
お爺ちゃんがやけに頑丈なのは気にしないで下さいな。