1000人のための林檎
1000人のためのリンゴ
誰もが喜ぶ休日だというのに、誰も使って無いような公園のベンチに一人座っている青年がいた。
別に誰かと遊ぶ約束をしていて、急に無理になったということでもなく、デート中に恋人にフラれたというわけでもない、ただ家にいるのも飽きて外に出てきたというだけの話である。
「はあ……」
しかし青年は気持ちいい木漏れ日の下にいるというのに、口から出たのは欠伸ではなく溜息。
「暇だなあ……」
やることもなくぼーっとしていたが、何故か視線を感じ横を見た。
「うお!」
いつのまにか真横に杖を両手に携え、どこかのんびりした顔で青年のほうを見て微笑んでいる老人が座っていた。
青年は驚きのせいで少しドキドキしながら、そっと老人から目を逸らす。
落ち着いてからもう一度横をみると、鼻が当たる距離にまで老人は近づいていた。
「暇ならワシの相手をしてくれんか」
にっこりしているのに、有無を言わせない気迫を感じ、思わず青年は頷く。それを見た老人は満足そうな笑みを浮かべ、真っ直ぐ前を向いた。
「ワシの若いころの夢の話なんじゃがな。……一人の、そうお前さんみたいな青年がおった」
「はあ……」
沢山の人がすれ違いながらも一本しかない大きな道を歩いていく、その光景を青年は立ち止まってただ見送っていた。行く当てなどない、戻るべき場所もない、何故かそんな心境の中
ぼとり……ころころころ
音がした。そちらをみると、どこからともなく真っ赤な赤いリンゴが足元まで転がってきた。
青年は不思議に思った。
なぜなら空から落ちてきたというのに、周りにはリンゴの木などなければ、高い建物も高い塀も、木々すらもなかったからだ。
さて、そのリンゴを不思議そうに眺めていた青年に、天から声が聞こえてきた。
『そのリンゴを食べなさい。食べれば高確率で死んでしまうリンゴを、貴方は食べなさい』
青年は天から聞こえてきた声よりも、内容に驚いてしまった。高確率で死んでしまうというリンゴ……何故そんなものを食べなければいけないというのか、馬鹿げていると……
投げ捨てようとした青年の心中を察したように、さらに天から声がした。
『食べなければ、1000人は死んでしまうでしょう』
手の中のリンゴを眺めた。
どこからどうみても普通の赤いリンゴ。
「……」
食べなければ『1000人は死ぬ』……食べれば『高確率で死ぬ』
疑問は尽きない。
何故自分? 何故1000人 何故リンゴ
リンゴを手に悩んでいると、一人の少年が目の前に立っていた。
目が合うと、にっこりに笑って、その小さな手をリンゴのほうに向けた。何を望むのかとみていると、少年はリンゴが欲しいと口にする。
「ずっと見つめてるだけなら、僕に頂戴。僕はその赤いリンゴが欲しいんだ」
天から声が聞こえた。
『リンゴを食べなければ、人は死ぬ。貴方は選ぶことができる。食べるか、食べないか』
それとも、誰かにやってしまうか……目の前にいるこの小さな少年に
「……本当に、欲しいのか」
「欲しい。くれるの?」
満面の笑みで両手を差し出す少年。
欲しいというならあげてもいいだろう。自分は食べなくともいいんだ、強制じゃない。誰かが食べればいいんだ。問題ない。もしかしたらこの少年なら食べても平気かもしれない。
そもそも1000人死のうと自分には関係ない。知りもしない他人のために何故自分が命を捧げるような賭けをしなければいけないというのか、ばかばかしい。
「ほ、ほらよ……」
渡そうとした手を止めてしまった。
彼は見てしまった。
たくさんいる人の中に、自分と同じように空からリンゴは落ちてきて、拾う青年の姿を。
ほかにもいた。
自分だけじゃなかった。その人数は決して多くはないが、この劣悪な条件を強いられている人間がちらほら見て取れた。
「……」
汗が流れた。あげると決めたのに、手が止まってしまった。
―――なあ、お前ならどうする? 食べるのか? 捨てるのか? それとも……
他の人間は自分と同じように悩んでいるというのに、最初に目についたそいつだけは
「嘘だろ」
迷わず食べた。
腹を空かせていたのかのように、その様子を見た他の奴も……後に続くように食べ始めた。
「俺は……俺は」
「ねえ」
子どもは服を引っ張った。
「頂戴よ。赤い赤いリンゴ」
青年はリンゴを見つめた。赤い不思議な空から落ちてきたリンゴ。彼はそれを―――
夕方を知らせる音楽が流れた。
「……それで、あげたんですか?」
「さあの」
横に座る老人は空を見上げながら、立ち上がった。
「この夢の中の青年が、もしお前さんだったらどうする?」
「ええ?」
微笑んで誤魔化そうとした青年だったが、老人がこちらを見つめているのを見て、笑うのをやめて、ベンチに座ったまま青年は、立ち上がった老人を見ながらハッキリ言い切った。
「僕なら食べません。捨てます」
「そうか」
青年は立ち上がり、ポケットから携帯を取り出した。
「はい、もしもし? ……あぁ、ごめん! 忘れてた……うん、うん! すぐ帰るって」
老人のほうを振り向くことなく、携帯電話片手で走り出した青年。その背が見えなくなるまで見送り、老人は青年とは逆方向へと歩き出した。
「ふむ、そうか。捨てるか……」
そう呟いて、やがて夕日に溶け込んだ。
1000人のための林檎